田辺福麻呂の長対表現―その環境と時代性―
著者
安國 宏紀
雑誌名
日本文学文化
号
10
ページ
33-42
発行年
2010
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00006330/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja田辺福麻呂の長対表現
ーーその環境と時代性││
万葉集巻六の最後尾に配列された田辺福麻呂歌集所収の長 歌 三 首 ( 巻 六 ・ 一O
四 七 、 一O
五O
、 一O
五三)には、次の ような長い対句(長対)表現がみられる。 -かぎろひの春にしなれば春日山三笠の野辺に くれ 桜 花 木 の 暗 ご も り か ほ 鳥 は 聞 な く し ば 鳴 く と ぷ ひ 露 霜 の 秋 さ り 来 れ ば 生 駒 山 飛 火 が 岡 に 萩の枝をしがらみ散らしさ雄鹿は妻呼ぴとよむ ( 巻 六 ・ 一O
四 七 ) さ雄鹿は妻呼ぴとよめ 巌 に は 花 咲 き を を り ( 一O
五O
)
や ま L た 山下光り はじめに 秋 さ れ ば 春 さ れ ば う ぐ ひ す の 錦なす さ 雄 鹿 の 山もとどろに 岡辺もしじに 来鳴く春へは 花咲きををり 妻呼ぶ秋は 巌 に は あ ま ぎ 天 霧 ら ふ しぐれをいたみ安
紀
園
宏
も み ら さ に つ ら ふ 黄 葉 散 り つ つ ( 一O
五 三 ) 万葉集では、福麻目の他に、柿本人麻目、山上憶良、高橋 虫麻呂、大伴家持といった長歌を残した歌人たちがこうした 長対表現を用いているが、一O
四七番歌のような十六句にも 及ぶ対句表現は、人麻巴の高市皇子挽歌(巻二・一九九)と 当該歌の二例にのみ見られる表現である。こうした福麻巴長 歌の長対については、既に阿蘇瑞枝氏によって、 福麻自の長対の使用は特徴的といえる(稿者・中略)福 麻巴のそれは、あまりにも多くの景物をとりこみ、しか もその各々が赤人のそれのような整然とした対比性(日 上夜、山ー河、朝│タ奪)をもたないので、華麗さと同 時に、さわがしさに近い賑やかさが感じられる と指摘されており、福麻日の独自性の一端が長対の使用にあ る こ と は 通 説 と な っ て い る 。 ただし、福麻日の長対にとられている表現や言葉そのもの がどのような環境や時代のなかで生み出されたものかについ q a qaては、これまであまり論じられてこなかった。本稿では、福 麻目の三例の長対に用いられている表現を手がかりにしなが ら 、 こ の 問 題 に つ い て 考 え て み た い 。 ﹁かほ鳥﹂と﹁さ雄庫﹂の対句 ま ず 、 一
O
四七番歌に描かれた﹁かほ鳥は聞なくしば鳴 く﹂と﹁さ雄鹿は妻呼ぴとよむ﹂とい、ヱ衣現を用いた対句 に 注 目 し て み た い 。 ﹁ か ほ 鳥 ﹂ は 、 当 該 歌 以 外 で は 、 万 葉 集 中 に 四 例 を 確 認 す ることができる。また、﹁聞なくしぱ鳴く﹂という表現は、 三 七 二 、 一O
四七、一八九八、三九七三番歌にみられ、﹁か ほ鳥﹂をうたう歌と用例が全て重なる。つまり、﹁かほ鳥﹂ は﹁聞なくしば鳴く﹂という行動に注目してうたわれる鳥で あったと考えることができるだろう。次に当該歌以外の﹁か ほ 鳥 ﹂ の 四 例 を 挙 げ て み よ う 。 山 部 宿 祢 赤 人 、 春 日 野 に 登 り て 作 る 歌 一 首 井 せ て 短 歌 ・ 春 日 を 春 日 の 山 の 高 座 の 三 笠 の 山 に 朝 去 ら ず 雲居たなびき料叫尉q
可 制 りU
叫 出 叶 雲 居 な す 心いさよひその鳥の片恋のみに昼はも日のこと ごと夜はも夜のことごと立ちて居て思ひそ我が す る 逢 は ぬ 児 故 に ( 巻 三 ・ 三 七 二 ) ( 鳥 を 詠 む ) -朝ゐでに剰噺引制凶劇制
ぺ
利
明
ハ
川
( 鳥 に 寄 す る ) ・ 州 叫 劇q
闘 剖 りu
d
樹 く 春 の 野 の 草 根 の 繁 き 恋 も す る か も ( 巻 十 ・ 一 八 九 八 ) ・ 大 君 の 命 恐 み あ し ひ き の 山 野 障 ら ず 天 離 つ 都 も 治 む る ま す ら を ゃ な に か 物 思 ふ あ を に よ し 奈 良 道 来 通 ふ 玉 梓 の 使 ひ 絶 え め や 隠 り 恋 ひ 息 づ き 渡 り 下 思 に 嘆 か ふ 我 が 背 古 ゆ 言 ひ 継 ぎ 来 ら し 世 の 中 は 数 な き も の そ 慰 む る こ と も あ ら む と 里 人 の 我 に 告 ぐ ら く 山 辺 に は 桜 花 散 り 州 叫 剥 州 岡剖りU
叫樹υ
春の野にすみれを摘むと白たへの 袖 折 り 返 し 紅 の 赤 裳 裾 引 き 思 ひ 乱 れ て 君 待 っ と うら恋すなり心ぐしいざ見に行かなことはたなゆ ひ ( 巻 十 七 ・ 三 九 七 三 ) ﹁ か ほ 鳥 の 聞 な く し ば 鳴 く ﹂ と い 、 ヱ 衣 現 が 用 い ら れ て い な い 唯 一 例 で あ る 一 人 二 三 番 歌 に も ﹁ 来 鳴 く か ほ 鳥 ﹂ 、 ﹁ 時 終 へず鳴く﹂とあって、﹁かほ鳥﹂は休み無く鳴くことに注目 さ れ る 鳥 で あ っ た と い う こ と が で き る 。 では、﹁かほ鳥﹂はなぜ休まずに鳴き続けるのだろうか e 赤人の三七二番歌は、春日山の景物を詠み込みながら恋情を 主題にした歌である。﹁かほ鳥の聞なくしぱ泣く﹂という 汝 だ に も 君 に 恋 ふ れ や 瑚 ( 巻 十 ・ 一 八 一 一 一 一 一 ) - 34表現の後に、﹁その鳥の片恋のみに昼はも日のことご と夜はも夜のことごと立ちて居て思ひそ我がする﹂ とうたわれて、片思いをして鳴きしきる﹁かほ鳥﹂と、恋を して一日中立ったり座ったりして落ち着かない﹁我﹂の様子 が重ねられている。この歌では、﹁かほ鳥﹂は片恋をして鳴 いているのだといえよう。一八二三番歌では、﹁汝だにも 君に恋ふれや﹂というように、﹁かほ鳥﹂までも我が君に恋 焦がれて休みなく鳴いているとうたわれている。この歌で も、﹁かほ鳥﹂は恋のために鳴いているのだといえる。一八 九 八 番 歌 で は 、 か ほ 鳥 が 絶 え 間 な く 鳴 い て い る ﹁ 春 の 野 の ﹂ 、 その﹁草根﹂の繁りさながらの恋を私はしているのだとうた われている。﹁春の野の草根の繁﹂る様子に恋の激しさを投 影しており、厳密にいえば﹁草﹂に寄せる歌であろうが、題 調は﹁鳥に寄する﹂歌となっている。あくまでも﹁鳥に寄す る﹂歌であるならば、その﹁鳥﹂とは﹁かほ鳥﹂のことであ り、先の二例から推して、恋情に関わって鳴きしきる鳥であ るという認識から﹁烏に寄する﹂歌としてみられたものと思 われる。三九七三番歌は、天平十八年(七四六)に越中守と なって任地に赴いた大伴家持が下僚の大伴池主と取り交わし た作品の一つで、池主から家持に宛てて送られた長歌であ る。﹁山辺には桜花散りかほ烏の聞なくしぱ鳴く春 の野に﹂というように春の景観の一つとして﹁かほ鳥﹂が詠 み込まれているが、この後には﹁春の野﹂ですみれを摘む娘 子たちが﹁思ひ乱れて君待っとうら恋す﹂るとい、ユ衣現 が続いている。ここでいう﹁君﹂とは家持のことで、池主は こうした表現を通しながら、越中赴任以来、弟書持の許報に 接し、自らも病に臥していた家持に対する励ましの気持ちを 表したのだとみられる。したがって、この歌は恋情を主題に した歌ではないのだが、﹁かほ鳥の聞なくしぱ鳴く﹂と、 ﹁ 思 ひ 乱 れ て ﹂ ﹁ う ら 恋 す ﹂ る と い う 表 現 と が 同 一 歌 中 に 存 在 していることには注目できるだろう。後の二例(一八九八、 三九七三)は﹁かほ鳥﹂が恋しい相手を呼んで鳴いている様 子を直接うたった例ではないが、先の二例(三七二、一人二 二乙からみて、﹁かほ鳥﹂が鳴き続けるのは恋しい相手を呼 ん で い る か ら で あ る と 想 定 で き よ う 。 一
O
四七番歌の長対では、春の﹁かほ鳥は聞なくしば鳴 く﹂に対して、秋には﹁さ雄鹿は妻呼ぴとよむ﹂とうたわ れている。﹁さ雄鹿﹂が鳴くのは妻を呼ぶからであり、ここ は双方に恋しい相手を呼ぶ動物をうたい込むことで対を形成 しているのではないか。一O
四七番歌中には、﹁恋﹂という 言葉も恋情表現もうたわれていない。しかし、﹁かほ鳥﹂が ﹁間なくしば鳴く﹂理由が恋情にあると知っている者にとっ ては、一方の秋の景として描かれた﹁さ雄鹿は妻呼ぴとよ む﹂と対になって、恋しく鳴く動物に注目した対句になって F 同 u q Jい る と い う こ と が わ か っ た の で は な い だ ろ う か 。 なお、﹁かほ烏﹂の用例の時代性を整理すると次のように な る 。
O
制 作 年 判 明 歌 天 平 十 九 年 ︹ 七 四 七 ︺ 大 伴 家 持 ( 巻 十 七 ・ 三 九 七 三 )O
作 者 判 明 ・ 制 作 年 不 明 歌 山 部 赤 人 ( 巻 三 ・ 三 七 二 )O
作 者 未 詳 ・ 制 作 年 不 明 歌 ( 巻 十 ・ 一 八 一 一 一 一 一 、 一 八 九 八 ) 用例数は少ないが、赤人と家持の例から、福麻呂の作詠時 期と閉じ天平期前後に用いられていた表現であるとみられ る 。 ﹁萩﹂と﹁さ雄鹿﹂の組み合わせ 一O
四七番歌に描かれた秋の景観には、﹁萩の枝をしが らみ散らしさ雄鹿は妻呼ぴとよむ﹂とある。万葉集中に 三十三例ある﹁さ雄鹿﹂という言葉のうち、十八例が﹁萩﹂ と共に詠み込まれている。万葉集の﹁鹿﹂については、近藤 信義氏や上野誠氏によって既に分類整理がされており、様々 な 鹿 の う た わ れ 方 が あ る な か で 、 ﹁ 萩 ﹂ と の 関 係 に つ い て は 、 鳴 く 鹿 を 詠 む 一 首 井 せ て 短 歌 -一 一 一 諸 の 神 奈 備 山 に 立 ち 向 か ふ み 垣 の 山 に 制 刺 州 劃をまかむと朝月夜明けまく惜しみあしひきの 山 彦 と よ め 呼 び 立 て 鳴 く も ( 巻 九 ・ 一 七 六 一 ) ( 右 の 件 の 歌 、 或 は 云 は く 、 柿 本 朝 巨 人 麻 日 の 作 な り と い ふ 。 ) ( 花 を 詠 む ) ・奥山に住むといふ鹿のタ去らず劃間判制川散ら ま く 惜 し も ( 巻 十 ・ 二O
九 八 ) な ど 、 ﹁ 萩 ﹂ を ﹁ 鹿 ﹂ の 妻 に 見 立 て る 表 現 が 見 ら れ る 。 ﹁ 萩 ﹂ の後に﹁さ雄鹿﹂が詠み込まれる一O
四七番歌の秋の表現 は、こうした﹁萩﹂と﹁鹿﹂との関連性の深さから生じたも の で あ ろ 、 っ 。 次に、妻を呼ぶ﹁鹿﹂と﹁萩﹂の結びつきの時代性を確認 し た い 。O
制 作 年 判 明 歌 大 宝 元 年 ︹ 七O
一 ︺ ( 巻 九 ・ 二 ハ 七 人 ) 神 亀 五 年 ︹ 七 二 人 ︺ 金 村 歌 集 或 云 千 年 作 ( 巻 六 ・ 九 五 コ 一 ) 天 平 二 年 ︹ 七 三O
︺麻田陽春(巻四・五七O
)
天 平 二 年 ︹ 七 三O
︺頃大伴旅人(巻八・一五四一) 天 平 五 年 ︹ 七 三 三 ︺ ( 巻 九 ・ 一 七 九O
)
天 平 十 年 ︹ 七 三 八 ︺ 文 弓 2 v 馬 養 ( 巻 八 ・ 一 五 八O
)
天平十五年︹七四三︺大伴家持(巻八・一五九八、一五 九九、一六O
二、一六O
三 ) 、 -36-石 川 広 成 ( 巻 八 ・ 一 六
O
O
)
天 平 勝 宝 五 年 ︹ 七 五 三 ︺ 大 伴 家 持 ( 巻 二 十 ・ 四 二 九 七 ) 天 平 勝 宝 六 年 ︹ 七 五 四 ︺ 大 伴 家 持 ( 巻 二 十 ・ 四 一 三 九 、 四 三 二O
)
O
作者判明・制作年不明歌 柿本人麻呂(巻四・五O
二、巻九・一七六て一七六 二)、長皇子(巻一・八四)、藤原八束(巻八・一五四 七 ) 、 湯 原 王 ( 巻 八 ・ 一 五 五O
)
、 大 伴 坂 上 郎 女 ( 巻 八 ・ 一五六こ、巨曾部津島(巻八・一五七六)、丹比真人 ( 巻 八 ・ 一 六O
九 ) 、 笠 縫 女 王 ( 巻 八 ・ 二 ハ 一 一 ) 、 賀 茂 女 王 ( 巻 八 ・ 二 ハ 一 一 一 一 )O
作 者 未 詳 ・ 制 作 年 不 明 歌 ( 巻 十 ・ 二O
九 四 ・ 二O
九 八 、 二 一 四 一i
一 二 五 六 、 二 二 七 七 ) ( 巻 十 二 ・ 三O
九 九 ) ( 巻 十 六 ・ 三 八 八 四 ) 妻を呼ぶ﹁鹿﹂と﹁萩﹂の関係が固定化する時期について は、既に中西進氏が調査をし、この取り合わせの完成は奈良 朝とされた。右に挙げた用例は、中西論の挙例について、制 作年判明歌の情報を中心として再整理したものである。若干 古いものとしては、大宝元年︹七O
ニの作である一六七八 番歌や人麻自の三例があるが、他は神亀五年︹七二八︺の九 五三番歌から天平勝宝六年︹七五四︺の家持歌まで、ほほ切 れ目なく用例が見られる。この取り合わせは、主に天平・天 平勝宝年聞を中心に用いられていた表現であると指摘できよ 、 ﹁ ノ 。 ﹁しぐれ﹂と﹁黄葉﹂の組み合わせ 次 に 、 一O
五三番歌にみられる﹁天霧らふしぐれをいた みさにつらふ黄葉散りつつ﹂という言葉の繋がりに関わ って、﹁しぐれ﹂と﹁もみち﹂の関係をおさえたい。万葉集 中に﹁しぐれ﹂という言葉は、当該例以外で二十例ある。 ﹁しぐれ﹂という言葉については、吉田崇氏が季節歌中の機 能を調査し、秋の景として﹁色付く﹂や﹁黄葉﹂との組み合 わせで用いられる場合が多いこと、﹁もみち﹂を散らすもの としてうたわれることが指摘されている。ただし、内田賢徳 氏が指摘しているように、﹁しぐれ﹂は、時代によつて意味 が 変 化 す る 昼 一 一 弓 t 吉 吉 = 一 ﹁ し ぐ れ ﹂ の 初 例 は 、 ( 和 銅 五 年 壬 子 の 夏 四 月 、 長 田 王 を 伊 勢 の 斎 宮 に 遣 は す時に、山辺の御井にして作る歌) う ら さ ぶ る 心 さ ま ね し ひ さ か た の 天 のu
q
利 の 流 れ あ ふ 見 れ ば ( 巻 一 ・ 八 一 一 ) ( 右 の 二 首 は 、 今 案 ふ る に 御 井 に し て 作 る に 似 ず 。 け だ し 、 当 時 に 諦 む 古 歌 か 。 ) 司 t q aで あ る が 、 ﹁ し ぐ れ ﹂ が 秋 の 景 物 で あ れ ば 、 題 詞 の ﹁ 夏 四 月 ﹂ の記述と合わない。この点に注目した村田正博氏は、﹁しぐ れ﹂の歌には、﹁しぐれにつけて配偶者と離れてあるわびし さをうたう﹂ものと﹁黄葉の色を深めたり散らしたりするも の﹂の二種類があるとみて、八二番歌は前者に属すると指摘 し た 。 では、﹁しぐれ﹂と﹁もみち﹂の組み合わせが見られるよ うになるのは、いつ頃のことなのだろうか。用例を整理する と 、 次 の よ う に な る 。
O
制作年判明歌 天平十年︹七三人︺久米女王(巻八・一五八三)、大伴 池主(巻八・一五九O
)
天 平 勝 宝 二 年 ︹ 七 五O
︺ 久 米 広 縄 ( 巻 十 九 ・ 四 一 一 二 三 天平勝宝三年︹七五ニ大伴家持(巻十九・四二五九)O
作者判明・制作年不明歌 山 前 王 ( 巻 三 ・ 四 二 三 ) 、 大 伴 家 持 ( 巻 八 ・ 一 五 五 四 ) 、 藤 原 八 束 ( 巻 八 ・ 一 五 七 一 )O
作者未詳・制作年不明歌 ( 巻 十 ・ 一 一 一 一 一 四 、 一 一 二 一 五 、 二 二 三 七 ) ( 巻 十 三 ・ 三 一 一 二 三 ) 右の中で、四二三番歌の用例はこの取り合わせを詠むもの としては他例よりも若干早いが、﹁九月のしぐれの時は もみち葉を折りかざさむと﹂という表現からは、秋の景物 として﹁しぐれ﹂と﹁もみち﹂が定着しつつある様子を窺う ことができる。﹁しぐれ﹂と﹁もみち﹂の取り合わせは、天 平 期 前 後 に は 秋 の 景 物 と し て 定 着 し て い た と み ら れ る 。 四 ﹁塑に対する認識 続 い て 、 一O
五三番歌の﹁錦なす花咲きををり﹂という 春の景観から、﹁錦なす﹂という言葉に注目してみたい。た だし、﹁錦なす﹂という言葉は、これが唯一の例である。そ こで、万葉集中の﹁錦﹂について確認していくことにしよ λ ノ 。 - 38 副闇銅 む 妻問ふタぞ我も偲は ( 巻 十 ・ 二O
九O
)
右のように、紐に掛かる枕調と解されている﹁高麗錦﹂の 例が七例ある。この七例について佐佐木幸綱氏は、東歌(巻 十四・三四六五)以外、すべて都およびその周辺に関わる作 に 用 い ら れ て い る と 解 し て 、 ﹁ 高 麗 錦 ﹂ は 、 非日常的かつエキゾティックな雰囲気を持つ︿歌こと ば ﹀ だ っ た の だ ろ う 。 高 麗 と い う 外 国 産 の 錦 、 だ と い う 、 品 物 と し て の ﹁ 高 麗 錦 ﹂ の 次 元 だ け で な く 、 ︿ 歌 こ と ば ﹀ としてそれが、都人には異風を感じさせるものだったの で は な か っ た か 。 紐 解 き 一 交 は し 天 人 のと述べている。錦とは、色糸で織り上げた織物のことで、正 倉院に伝存するものは、赤・緋・赤紫・紫・青・緑・黄・白 などの色糸によって、幾何学文・連珠円文・花文・唐草文な どの文様が織り出された高度な装飾品であったといい、やは り﹁非日常的﹂な品であったことは間違いないだろう。 ﹁高麗錦﹂以外で﹁錦﹂が詠まれる例は、次の二例のみで あ る 。 -:麻衣に青衿付けひたさ麻を裳には織り着て だにも掻きは椛らず沓をだにはかず行けども 樹 の 中 に 包 め る 斎 ひ 児 も 妹 に 及 か め や : ( 巻 九 ・ 一 八
O
七 ) ・山の辺の五十師の御井はおのづから成れる銅を 張 れ る 山 か も ( 巻 十 三 ・ 三 二 三 五 ) 一 八O
七番歌は、巻九挽歌部所収の虫麻呂歌集歌で、真問 娘子を詠んだ歌である。麻で織った裳を着て髪に櫛も入れず 沓も履かずいる真問娘子だけれども、錦や綾にくるまれた姫 君でもこの子にはかなわないとうたう表現から、﹁錦﹂が ﹁麻﹂に比べて上等な品であると捉えられていたことがわか る 。 一 方 、 三 二 三 五 番 歌 は 、 一O
五三番歌の﹁錦なす花咲 きををり﹂と同じように、錦が景の修飾として用いられた例 である。この歌は、三二三四番長歌の反歌で、伊勢の﹁山の 辺の五十師﹂の行宮で奉った賀歌とみられる。﹁五十師の御 錦│髪 井﹂を、錦を張りめぐらせた山に見立てており、﹁非日常的﹂ な貴重品であったとみられる﹁錦﹂に見立てることは、対象 を讃美することになっていたと考えられる。こうした用例か らみると、﹁錦なす﹂という表現は、花の咲く様を﹁錦﹂に 見立てて、久週京を讃美する表現であるといえるだろう。 なお、鈴木宏子氏は、この福麻日の表現は、﹃文選﹄の班 孟堅﹁西都賦﹂にみられる 茂 樹 蔭 蔚 、 芳 草 被 院 、 蘭 直 護 色 、 障 睡 状 何 街 、 若 摘 錦 輿 布 繍 、 燭 耀 乎 其 阪 。 (茂樹蔭蔚として、芳草隠を被ひ、蘭直色を設し、障嘩 街猪として、錦を摘ぶると繍を布くとの若く、其の阪 に 燭 耀 く c ) という一文との関係があると指摘している。狩りの後の天子 主催の宴の様子と、その会場である池の様子が描かれた箇所 であるが、池の堤をおおっている花々や葉があざやかに光っ て い る 様 子 を 、 錦 を 敷 き 広 げ 刺 繍 を の ば し た よ う だ と ヨ 一 口 う 表 現 が み ら れ る 。 また、﹁懐風藻﹄に載る山田史三方の﹁五言。三一月三日曲 水 の 宴 ﹂ の 一 節 、 銅嗣飛濃激春岨嘩桃開 ( 錦 巌 飛 湯 激 き 、 春 岨 嘩 桃 開 く ) ( 五 回 ) には、﹁錦巌﹂という語と﹁桃﹂の花の組み合わせがあり、3
9
一
O
五三番歌の﹁崩には山下光り錦なす花咲きをを り﹂の表現に近いものがある。この点に注目した太田善之氏 は 、 福 麻 呂 の 表 現 に つ い て 、 これは懐風藻漢詩に見られる山水の表現を継承するもの ではあるが、さらに具体的には山田三方の﹁三月三日曲 水の宴﹂の詩と非常に近似するところに特徴がある。殊 に﹁巌には山下光り錦なす花咲きををり﹂の表現は、 中国漢詩と対応するというよりも、三方の﹁錦巌飛濃激 春帥嘩桃開﹂を強く意識した表現ではないかと思われ る 。 と 論 じ た 。 これらには、確かに福麻目の表現に近い発想が認められ る。そもそも、﹁錦﹂は舶来のものであり、それを文学中に 取り込もうとするときの先例は、漢籍・漢文中にあったと考 えてしかるべきである。しかし、福麻邑はこの文献を見たの だというような直接的な指摘は、そうしたことを裏付ける資 料がない以上、難しいというほかはないだろう。むしろ、 ﹁錦なす花咲きををり﹂という表現からは、先に見たよう に 、 ﹁ 錦 ﹂ は 上 等 で 美 し い も の で あ っ て 、 ﹁ 錦 ﹂ に 見 立 て る こ とは対象の讃美になるのだという共通認識が福麻自の作詠時 期に存在していたことを想起するべきではないか。福麻呂が どの文献を見たということではなく、福麻呂がいた環境全体 が漢籍・漢文の影響下にあり、福麻目を含めて﹁錦﹂に対す るイメージが確立されていたと考える方が穏当ではないかと 思 わ れ る 。 おわりに 本稿では、福麻自の三例の長対に用いられている言葉の組 み合わせに注目し、﹁かほ鳥﹂と﹁さ雄鹿﹂の対が歌の享受 者に﹁かほ鳥﹂や﹁さ雄鹿﹂が鳴く理由という知識を期待す る も の で あ る こ と 、 ﹁ 萩 ﹂ と ﹁ さ 雄 鹿 ﹂ 、 ﹁ し ぐ れ ﹂ と ﹁ 黄 葉 ﹂ の組み合わせが福麻呂の作歌時期と同じ天平・天平勝宝年間 頃に多くの用例が確認できる組み合わせであることを指摘し た。また、﹁錦なす﹂という言葉について、漢籍・漢文の影 響を受ける環境に福麻巨がいたために用いられた表現である と い う 見 通 し を 立 て た 。 阿 蘇 瑞 枝 氏 は 、 福麻自の長対は、春秋の景物を多数詠み込もうとして長 くなったもので、対偶語も赤人のそれのように対比性が 明 瞭 で な い も の が 多 い と評価した。しかし、福麻呂の長句は、単に思いついた景物 を並べているわけではないだろう。それは、同時代に典型的 に用いられていた言葉の繋がりを踏まえた上に、﹁かほ鳥﹂ と﹁さ雄鹿﹂の対のような新たな言葉の組み合わせを取り込 - 40むことで構成されたものであり、その構成力と独自性は高く 評価することができる。あえて言及すれば、こうした表現を とることが許されるのは、福麻自の歌の場が、歌表現に詳し い教養人たちの集まる場であったから、だろうと思われる。 注 ( l ) 対 句 の 形 態 分 類 や 数 量 的 処 理 を 試 み た 岡 部 政 裕 氏 ﹁ 万 葉 長 歌 の 対 句 │ 数 量 的 考 域 討 を 中 心 に し て 1 ﹂ ( ﹃ 万 葉 集 長 歌 考 説 ﹄ 風 間 書 一 房 、 一 九 七 O 、 初 出 一 九 六 六 ) は 、 ﹁ 四 句 対 ・ 六 句 対 ・ 八 句 対 ﹂ を ﹁ 長 対 ﹂ と 規 定 し た 。 ﹁ 長 対 ﹂ あ る い は ﹁ 長 対 句 ﹂ という語は、早く小国重年の歌格研究書﹃長歌言葉の珠衣﹄ や橘守部の﹃長歌撰格﹄(ともに久曾神昇編﹃日本歌学大系 別 巻 九 ﹄ 風 間 書 一 房 、 一 九 九 二 ) の 中 で 用 い ら れ て い る 。 ( 2 ) 万 葉 集 の 本 文 は 、 ﹃ 新 編 日 本 古 典 文 学 全 集 万 葉 集 ﹄ ( 小 学 館 、 一 九 九 四 i 六)による。ただし、一部本文を改めた箇所があ る 。 ( 3 ) 阿 蘇 瑞 枝 氏 ﹁ 後 期 万 葉 長 歌 の 対 句 表 現 ( 二 ) 上 高 橋 虫 麻 呂 ・ 田 辺 福 麻 呂 の 対 句 │ ﹂ ( ﹁ 万 葉 集 研 究 ﹄ 一 一 一 一 、 一 九 八 五 ) ( 4 ) 作歌年代が想定できる福麻呂歌としては、天平十三年︹七四 二の久遡京選都に関わる旧都歌と新都歌が最初で、天平二 十年︹七四八︺年に家持を訪ねた際の歌が最後である。福麻 呂の作歌時期は、天平年間後半から天平勝宝年間にかかる頃 と み ら れ る 。 ( 5 ) 近 藤 信 義 氏 ﹁ 万 葉 遊 宴 ﹄ ( 若 草 書 一 房 、 二 O O 三 ) 、 上 野 誠 氏 ﹁ み や び の 鹿 と ひ な び の 鹿 ﹂ ( ﹃ 高 岡 市 万 葉 歴 史 館 論 集 一 一 一 四 季 の 万 葉 集 ﹄ ( 笠 間 書 院 、 二 OO 九 ) ( 6 ) 中 西 進 氏 ﹁ 雄 略 御 製 の 伝 涌 ﹂ ( ﹃ 万 葉 集 の 比 較 文 学 的 研 究 ﹄ 桜 楓 社 、 一 九 六 三 ) ( 7 ) 吉田崇氏﹁﹃万葉集﹄における季節歌の特性│しぐれを中心 に
l
﹂ ( ﹃ 凋 南 文 学 ﹄ 三 五 、 二 O O こ ( 8 ) 内 田 賢 徳 氏 ﹁ 蔦 葉 し ぐ れ 考 ﹂ ( ﹁ こ と ば と こ と の は ﹄ 一 O 、 一 九 九 三 ) ( 9 ) 村 田 正 博 氏 ﹁ 長 田 王 の 歌 ﹂ ( ﹃ 万 葉 集 を 学 ぶ ﹄ 一 、 有 斐 関 、 一 九 七 七 ) ( 叩 ) 巻 十 ・ 二 O 九 O 番歌、巻十一・二三五六、二四 O 五 、 二 四 O 六番歌、巻十二・二九七五番歌、巻十四・三四六五番歌、巻 十 六 ・ 三 七 九 一 番 歌 の 七 例 。 ( 日 ) 佐 佐 木 幸 綱 氏 ﹁ 万 葉 集 東 歌 論 の 一 島 平 l ﹃ 高 麗 錦 ﹄ と ﹁ か ら 衣 ﹄ │ ﹂ ( ﹃ 跡 見 学 園 女 子 大 学 国 文 学 科 報 ﹄ 一 一 一 、 一 九 八 四 ) ( ロ ) 英 蔵 氏 ・ 佐 々 木 信 三 郎 氏 ・ 西 村 兵 部 氏 ﹁ 正 倉 院 の 錦 ﹂ ( ﹃ 白 書 陵 部紀要﹄三一、一九六二) ( 日 ) 大 伴 池 主 の 書 簡 ( 巻l
七・三九六七序)や大伴家持の返答書 簡(巻十七・三九六九序)中には、﹁俗の語﹂として﹁藤を 以 て 錦 に 続 ぐ ﹂ と い う 一 言 葉 が み ら れ る 。 粗 末 な 藤 布 を 錦 に 縫 いつけるということは、自らの拙文を相手の優れた文に続け ることをいう謙遜の表現であるが、ここにも錦を上等な品と して捉える意識がみられる。この大伴池主の書簡中には、 -41-﹁ 兼 ね て 倭 詩 を 垂 れ 、 詞 林 錦 を 箭 ぶ ﹂ と い 、 ヱ 衣 現 も 見 ら れ る 。 これは、詩歌の出来ばえが錦を広げたように見事だといっ て、相手の作品を讃える表現である。こうした例からも、 ﹁錦﹂に見立てることが対象を讃えることに繋がるといえよ 、 叶 ノ 。 ( 凶 ) 鈴 木 宏 子 氏 ﹁ ︿ も み じ と 錦 の 見 立 て ﹀ の 周 辺 │ 和 歌 と 漢 詩 文 の 問 │ ﹂ ( ﹃ 古 典 和 歌 論 叢 ﹄ 明 治 書 院 、 一 九 八 八 ) な お 、 ﹃ 文 選﹄の本文および書き下し文は、﹃新釈漢文大系文選(賦 篇 ) 上 ﹄ ( 明 治 書 院 、 一 九 七 七 ) に よ る 。 (日)太白善之氏﹁恭仁京讃歌│福麻呂歌集歌と懐風藻詩との交 流 ﹂ ( ﹃ 上 代 文 学 ﹄ 八 一 、 一 九 九 八 ) な お 、 ﹃ 懐 風 藻 ﹄ の 本 文 および書き下し文は、﹃日本古典文学大系懐風藻・文華秀麗 集 ・ 本 朝 文 粋 ﹄ ( 岩 波 書 庖 、 一 九 六 四 ) に よ る 。 ( 日 ) 阿 蘇 瑞 枝 氏 ﹁ 序 調 ・ 枕 詞 ・ 対 句 ﹂ ( ﹃ 和 歌 文 学 講 座 2 万葉集 I ﹄ 勉 誠 社 、 一 九 九 二 ) 内 L a a τ