• 検索結果がありません。

for physical education

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "for physical education"

Copied!
11
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

T,電  50 : 403‑413, 2005 403

学 校 体 育 の存 在 意 義 に 関 す る原 理 的 考 察 木村真知子

Considerations about the fundamental reasons for school physical education

Machiko Kimura

Abstract

The current paper attempts to consider the fundamental reasons for school physical education by (1) examining the historical perspective, (2) reviewing critically the approaches adopted up to the present time, and (3) examining the future prospects for physical education in schools. The reasons for school physical education up to the present have been based on usefulness in a "closed communi- ty", which plays a dominant role outside and controls people inside. However, in the current climate ofglobalization, it is necessary for people with different cultures to understand each other and live together. Therefore the logic of the "closed community", on which modern society is mainly based, creates many problems. In the future, the reasons for school physical education should be sought in an "open community" that encourages people to grow up accepting others. This is not easy, because the logic of the "open community" runs contrary to the traditional western concept that human val- ues are found only in reason. In order to examine the aims of school physical education in an "open community", the human body needs to be understood firstly not as material, but as a place for "co-ex- istence". Thus school physical education needs to be reconstructed on the basis ofthis understanding of the human body.

Key words : community, body, Mitsein

(Japan J. Phys. Educ. Hlth. Sport Sci.50: 403-413, July,2005)

キーワー ド:共同体,身1共存在

問題 設 定

我が国では2002年か ら新学習指導要領 による 教育課程が実施 されているが,学校週5日制実施 と「総合的な学習の時間」の導入 によって,体

は年 間授 業 時 数 が105時間 か ら90時間 に削 減 さ れ た。 今期 の学習指導要領策定 に先立 って,中

教 育 審議 会 や教 育課程 審議 会で は,教科 内容 の精 選 お よび授業時数 の削減 と関連 して,既存教科 の 再編 論議 も起 こ り,学校 体育 の存 在意義 に対す る 疑義 もあ った とい う (岩,2002).

この ような体育 の授 業時数の削減 と学校 体育 の 奈良教育大学

6308528 奈良市高畑町 連絡先 木村真知子

Nara LIntL'et'sttA of EdltcatLott

Ta kabo t ttke-cl t o, Na, ra C ttA, 6:10-8 528

C on'espo ttdt rt g aut hor tnach,t ko@n arrt-edtt ac 1p

(2)

404

存在意義への疑義は,我が国だけの傾向ではない。

冷戦が終結 し1990年代初頭 か ら始 まった先進諸 国の一連の教育改革において,体育のアカウンタ ビリテ イー (教育責任)が問題 とされるようにな ,非,孤,暴,健康被害 に直面す る子 ど もに学校体育 は何 を成 し得 るか,経済不況のなか で税金 を使 う公教育 として実施 される学校体育の アカウンタビリテ イー とは何か,が強 く問われる ことになったのである (ICSSPE,2002).

そ もそ も学校体育の存在意義 はアプリオ リに認 め られて きたわけではない。我が国で も公教育 と しての学校体育の存在意義が認め られ制度化 され るのは明治時代以降のことである。筆者 も含めて 体育 を専 門 とし職業 とす る立場 にあると,学校体 育が存在することは揺 るが しがたい暗黙の前提で あ り,そこか ら出発 して物事 を考 えがちであるが, この ような思考傾向をもつか ぎり,学校体育の存 在意義 を根本か ら問 うことは難 しい。なぜ な ら, この ような思考傾向のなかでは「学校体育の存在 意義はある」 とい う結論が先 に決 まっているよう なもので,その結論へ と導いてい くのに有利 なあ りとあ らゆる理由を使お うとす るか らである。そ のなかにはご都合主義的な理由 も混 ざる可能性が あ り,そこに本質 を見誤 る危険性が潜んでいるの である.そこで本総説では敢 えてその ような思考 法 を停止 し,フランスの現代思想家ナ ンシーの共 同体論 (西,2002,pp.393‑426)に 依拠 して, 学校体育 の存在意義 につ いて考 えてみ ようと思 う。ナ ンシーの共同体論 は,端的に言 うと,ハ デガーの共存在 (Mitsein)の 思考の限界を超 え, 共存在の概念 に別の展 開をもた らそ うとす るもの である。人間が単独の存在ではない とい う事実 を 共存在 (Mitsein)の概 念で存在論 的に根拠づ け ようとしたハ イデガーは,共存在の本来性 を歴史 的形成体 としての民族 に帰着 させ,ナチズムの思 想に親和す ることになったが,ナンシーは,こ ことを再考 し,存在の「共」 は個 を超 えた集合的 実体 を構成す るものではない と主張する。つ ま り ハ イデガーの共存在が「個 を超 えた高次の実体 と して,統合 と差別 と排除 (他者否定)の体制がつ くり出 される集団」である「閉 じられた共 同体J

に帰着 していったのに対 し,ナンシーの考 える存

在の「共」は,けっ して融合や合一へ と導 くもの ではな く,むしろ互いにそれぞれの有限性へ と送 り返 され,互いがけっ して同 じではない とい う決 定的な差異の共有=分 (Partage)で あるとす る。そ して,その ような「共」の思考か らは「主 体の成立 に先立つ非 人称の<出来事>の分有 によ って『共に在る』 こと (他者肯定)が生起す る集 団」である「開かれた共同体」が想定 されるので ある.近代以降のナシ ョナ リズムや ファシズムの 論拠 となって きた共同体思想の必然 とその錯誤 を 照 らし出 し,コ ミュニケーシ ョンの時代の新 たな

「共」 の思考の展開 を促す この ようなナ ンシーの 思考は,近代の歴史に組み込 まれて きた学校体育 の存在意義 を検討す る際に,有効 な視点 を提供す るもの と筆者は考える。

よって,本総説ではナ ンシーの「共Jの思考に 依拠 して,次の ような問題設定の もとに論 を展開

しようと思 う。

1)歴史的に学校体育の存在意義 は どの ような 経緯で生 まれ,どの ように維持 されて きたのかを, 批判的に検討する (II).

2)上1)にお ける検討か ら,これ までの学 校体育の存在意義の求め方にどの ような問題点が あるのかを明 らかにす る (III).

3)̲上 記2)で明 らか に した問題点 を乗 り越 え てい くにはどの ような学校体育のあ り方が求め られるのかどの ような方向で学校体育の存在意 義が求め られるべ きなのかを展望する (IV).

  こ れ ま で の 学 校 体 育 の 存 在 意 義

これ までの学校体育 と一言で言 って も,その成 立 と展開においてはさまざまな社会的フアクター が関係 してお り,けっ して一様ではない.ここで

は高橋 (1997)に依拠 して歴史的に主要な体育概 念である「身体の教育」,「運動 による教育J,「 動の中の教育」注いをとりあげ,それ らにおいて学

校体育の存在意義が どの ようにとらえられて きた のか を検討することにする。

木本

(3)

学校体育の存在意義 に関す る原理的考察

1.「 身体 の教 育 」 :均質 な国 民 の 身体 形 成 に 寄 与 す る体 育

当該 社 会の成員 に なるすべ ての子 どもを教 育す る学校制 度は近代 国民 国家 の成立 とともに誕生す .我が 国 で い え ば 明 治 政 府 に よ る学 制 発 布 (1872年)がこれ に当た る。 それ まで は武士 の子 ど もは藩校 な どで独 自の教育 を受 けていた し,農

民 の子 ど もは村 落 共 同体の なかで親 た ちの労働 に 参 画す る こ とで次 第 に一 人前 の農民 に なってい っ た し,職人や 商人の子 どももその職業世 界での独 自の修行 によって 自立 してい った。 ところが封建 制 を廃 し,自由 と平等 を標榜す る ようになった近 代 国家 は,出自にかか わ らず誰 もが 同 じ教 育 を受 け る システ ム を導 入す る。 なぜ な らば、近代 国家 の担 い手 は「国民Jであ り,子ど もたちが「国民」

に なるための教育が必要 とされ るか らであ る. 基 本的 に 自由 と平等 を手 に した国民 は,同 時 に,

他国が攻 め て きた場 合 そ して他 国 に攻 め入 る場 合 ,自 ら武器 を もって戦 う義務 を負 う.封建 時代 な ら戦 は武士 (西洋 な ら騎 士)に任せ てお けば よ か ったが,近代 国家 に なって階級 を廃 したか らに ,元来 が 農民 や 職 人や 商 人で あ る民 衆 た ちが

「 国民 」 と して戦 いの主体 にな らな くて はい け な い。 そ こで徴兵制が しかれ,兵役 が 国民 に課せ ら れ る よ うになる.さらに近代戦争 に耐 え られ る強 い国家 を建 設す るには軍隊 だけで な く,産業 を興 す必要があ る。その結果,大量 生 産の工場,そ

て当然 なが ら大勢 の工場労働者が必要 になって く .言ってみ れ ば近代 国家が 成立 したおか げで, つ い昨 日まで は農民 として一生 を生 まれた地 で送 る はず だった人 々が,兵役 に駆 りだ され た り,都

市 に出て工場 労 働者 になった りしなけれ ば な らな くなった わけで あ る。 そ ん な彼 らを迅速 な集 団行 動 を必要 とす る近代戦争 の兵士 や工場労働者 に仕 立 て上 げ るには どう した らよいの だろ うか。 これ が生 まれたばか りの近代 国家が抱 える切実 な教育 問題 だ ったので あ る.

そ こで,この 問題 に正面 か ら取 り組 んだ のが

「 身体 の教 育Jと して の学校体 育 であ った.体 とい う名の教科 注にお い て,教師 の号 令 の もと クラス全 員が整列 し,関節 ご とに区切 られ た動 き

を一糸乱れず揃 って行 う集団体操 を遂行すること により,子どもたちは他律的に集団で動 くことを 徹底的に教 え込 まれた。脚,胴,腕,首などの部 位毎 に鋳型化 された運動 を組み合わせて行 う集団 体操 は,部品を組み立てて作 る工場の生産原理 と 同 じであ り,自らもまたこの生産原理の もとに動

く歯車であることを子 どもたちは体を通 して覚 え ていった.工場製品は どれをとって も均質である の と同様,近代の兵士や工場労働者 も均 質で交換 nT能でなければな らない (西,1995).集団体 操 は,将来の兵士や工場労働者,そして銃後 を守 る人たちも含めて,国民の均質な身体形成 に貢献 したのであった。洋の東西 を問わず,この ような 均質な身体 をもった国民 を必要 とす る近代国家の 成立が「身体の教育Jと しての学校体育 を誕生 さ せたのである (松,1994;木,1996).

た しかに近代国家の浮沈は学校体育の成果にか かっているといえるほ ど,当時の学校体育の存在 意義 は大 きかったであろう。 しか し,これはあ く まで も他者 を否定す ることで 自己を拡張 しようと す る「閉 じられた共同体Jである国家にとっての 存在意義である。近代国民国家は自国の経済 シス テム拡大のため,外に対 しては征服 を,内に対 し ては統制 を企てる。その国家的企てを身体面か ら 支えたのが体育であった。 こうして近代国民国家 の拡張運動 は,やがて地球全体 を覆い,飽和 にい きつ くことになる。それで もなお拡張運動 を続 け たため に勃 発 したのが,第一次世界大戦 (1914

‑18年)であ り,第二次世界大戦 (1939‑45年)

であった″).

2.「運動 による教育」:全人形成 に寄与す る 体育

世界中を巻き込み未曾有の ダメージを与 えた第 一次世界大戦が ようや く収 まり,人々は三度 と戦 争 を起 こす まい とい う決意の もとに復興 に取 りか かってい く。 このような時代状況のなかで生 まれ たのが ヨーロ ッパの 自然体育″ であ り,アメリ

カの新体育こいであった。両者 に共通 しているこ とは,一言でい うと「教師中心か ら子 ども中心の 体育へ」である。つ ま り,教師の号令によって子

(4)

406

どもを他律的に動かすのではな く,子どもの 自発 的で 自然な動 きを尊重 し,そのために集団体操で

はな くスポーツを中心 とす る多様 な身体運動 を教 材 に選ぶ ようになったのである。 このように欧米 では第一次世界大戦後の1918年か ら体育改革 を 経験す るのに対 して,日本では 1サ イクル遅れて, す なわち第二次世界大戦後の1945年か らアメ リ カ占領政策の もと新体育 を踏襲す るような形で体 育改革 を経験す るようになる。

ヨーロッパの 自然体育 もアメリカの新体育 もそ して 日本版新体育″°も,内容や方法 において少 しずつ違いはあるが,学校体育の存在意義 をどの ように主張 したか とい う観点か らみると,共通 し

た特徴が認め られる。それは,多様 な側面か らな る人間を トー タルにとらえ,多様 な身体運動 を通 して人間を調和的に発達 させ ることに寄与するの が体育であるとい う主張である。いわば「多様な 身体運動 による全人形成論」である。

自然体育の提唱者であるGaulhofer and Streicher (1927)は ,体育が全人形成へ 向けての総合教育 の一側面 を担 うものであること,体育は身体 を起 点 としなが らも情緒や知性 と深 くかかわ りあいな が ら全 人形成をめ ざす ものであることを再三強調 している。またアメリカの シーデ ン トップ (1981, pp.96‑148)は,新体育の担 い手たちがあげてい る体育 目標 は,「器官の発達」,「知的発達」,「 経筋の発達」,「個 人的一社会的適応」 とい う4つ の 目標 にまとめ られ,これ ら多面的な目標設定 に あわせて体育内容 は多種 目一活動 プログラム とな っていることを指摘 している。 またアメリカの占 領政策下で新体育の理念 をその まま踏襲 した 日本 の戦後の体育,すなわち 日本版新体育 も,たとえ

ιゴ「身体 の健全 な発達J,「 精神 の健全 な発達」,

「社会的性格 の育成」 の 3つ の 目標 をあげている 1947年の学習指導要綱 にみ るように,その後生 活 的 目標 (1953年要 領)や運 動 技 能 的 目標 (1958年 要領)が加 え られることがあって も,基

本的には人間を身体,精,社会性 の諸側面か ら とらえ,それ らを調和的に発達 させ るために多種 目―活動 プログラムを用意す るようになるのであ (弘,1973,pp 61‑69).

この ように,人間を身体,情,知性 の 3側 面 で とらえた り,身,運,知,社会性 の4側 ,あるいは身体,精,社会性の 3側 面で とら えた り,とバ リエーシ ョンはあるが,人間をい く つかの側面か ら成 り立つ個人 として とらえ,そ

らの諸倶1面を身体運動 を通 して調和的に発達 させ るのが体育であると規定 している点で,これ らの 改革的体育は共通 しているのである.したがって 教材 となる運動 も,各種のスポーツや遊戯,野 活動,ダンス等トータルな人間の多面性 に応え て多様 に用意 されるようになるのである。

強市1的な集団体操や高圧的な教師の号令か ら解 放 し,自由なスポーツや ダンスや野外活動 を取 り 入れ,子どもたち一人ひとりの 自然な発達,す わち精神的,情緒的,身体的,社会的に調和の と れた発達 を促す ことで,人間性 を全面開花 させ よ うとす る体育は,戦後の人々にとってはまった く 新鮮で ヒューマニズムに満 ちてお り,来るべ き時

代 に向けて希望 を抱かせ るものであったことだろ う。

しか しその反面,この ような改革的体育におい ては,全人形成 を達成す るための体育独 自の手段 である身体運動 についての分析がほとん どなされ ていないため,多種多様 なスポーツ活動 を行 えば 自動的にポジテ イヴな人間形成がで きるかの よう な楽観的な印象 を喚起 して しまう。手段 としての 身体運動 と目的 としての全人形成が どの ようにつ ながっているのかが明 らかでな く,これでは最終 的 にその 目的が達成 されたか どうかわか らない ,結果 をフイー ドバ ックして指導法の改善 に結 びつけることもで きない。 このように「多様 な身 体運動 による全人形成論」 は,理念あるいはスロ ーガンとしては理解で きて も,具体性 に欠けてお ,ずいぶん曖味 な もの に とどまってい るであ るこア.

この曖昧 さにもかかわ らず,世界的にみてこの

「多様 な身体運動 による全人形成論」 は第一次世 界大戦後か ら1960年 代 まで約半世紀 もの長い問, 学校体育の存在意義 を主張する論 として通用 して

きたわけだが,これはいったい どうしてなのだろ うか。先述 した ように,戦後の人 々に希望 を与 え

木村

(5)

学校体育の存在意義 に関す る原理的考察

る体育論であった とい うこともあるだろう。 また 体 育教 師 をは じめ とす る体育 関係者 に とって,

「身体」 だけに とどまらず,それ を越 えた 目標 を 掲げることは,教育 における体育の地位向上 とい う意味で積極的に受け入れ られた ということもあ るだろう.しか しそれだけだろうか。最大の理由 ,ほかならぬ「全人形成Jとい う概念の曖味 さ にあったのではないだろうか。要す るに「全人形 成」 とい う抽象的かつ曖味な目的は,その時々の

都合に合わせて,時には生活的 目標,時には社会

的 目標,時には体力づ くりとい うふ うに力点 を変 えて具体的な中身を埋 めることがで きる点で為政 者 にとって都合が よいのである。 またこの ような 可変性 は,体育 をその時 々の時代の要求に適応 さ せ るのに便利であ り,それゆえどんな社会にお いて も体育の存在意義 を安定 して主張で きるとい う点で,体育関係者 にとって もやは り都 合が よい のである。 この ように「多様 な身体運動 による全 人形成論」 は,為政者の側 にとって も体育関係者 の側にとって も利点があ り,このことが半世紀 も の長い間,体育の存在意義 を主張す る論 として通 用 して きた理由ではないか と思われる。

現 に1920年代 に 自然体育で謳 われた全人形成 ,1930年代半 ばになる とナチ スによって ドイ ツ民族 とい う枠がはめ られてい く。つ ま リナチス にとっての「全 人形成」 とは,健康で美 しく力強 いアー リア人種の形成なのである。そのためにス ポーツが奨励 され,大学体育が必修 に,学校での 体育授業 も週5時間にされ,軍事訓練が加 え られ たのである (成,1988,p105)。 しか し ドイ ツ民族の枠 にはまらない「全人形成」 は否定 また は抹消 の対象 だったわけでドイツ民族 とい う

「閉 じられた共同体」 の暴力的論理が ここで働 い ているにもかかわ らず,体育 はそこに目をやるこ とな く「閉 じられた共同体」のなかに安住 し,ナ

チ ス政権 による体育重視 を歓迎 し,スポーツ振興 にいそ しんだのである。「閉 じられた共同体」 は 外 に対 しては攻撃 を,内に対 しては統合 と差別 と

J卜除を企てる。スポーツ振興 はナテスにとって格 好 の統 制 手段 だ った ので あ るが (Neumann, 1977,p.495),「全人形成Jと い うヒユーマニズ

ムの響 きを もつ曖味 な 目的の もとで は体育 はそれ に対す る批判眼 を もち得 なか ったのである。

この ように「全 人形成」 とい う可変的 な体育 の 目的 は,その時 々の社 会の脈絡 のなか に置 かれて は じめ て具体′l■を帯 びて くる。 第二次世界大戦後 ア メ リカの新体育 を移入 した 日本で も,その時 々

の社 会の要請 に応 じて,民主 的 人間形成 に力 を入 れ た り (1947年要 綱,1949‑53年要 領),体 づ く りに力 を入 れ た り (1968‑70年要 領)と,

その姿 を変 えてい る。特 に冷戦構 造が はっ き りし て くる50年代 末か ら 日本 は経 済 戦 争 とい う形 で

「 閉 じられ た共 同体」 の暴力 的論理 を露 わ に しは じめ るが,その なかで体育 は人的資源政策の一環 と して体 力的 目標 を最 も重視す る ようになる (友 ,1985).ナテ ス・ ドイツにお け る体育授 業 週 5時間 とい うほ どで は ないが,この ときの 日本 で も体育 は学習指導要領 の総則 で取 りあげ られ るほ ど重視 され,全校 あ げての体育へ の取 り組 みが 強 調 され るのであ る。

体 育 の存 在意義 が広 く認 め られ,重視 され るの ,この ように内 に対 して は統市1,外に対 しては 攻 撃 とい う他者 否定 的 な「閉 じられ た共 同体」 の 論理 が 際立つ ときで あ ろ うか。

3.「 運 動 の 中の教 育 」 :スポ ー ツ享 受者 育 成 に寄与す る体育

二 度の世 界戦争 を経 たあ と,先進 国 と呼 ばれ る 国 々は次 々 と高 度経 済成長 を遂 げ,脱産業社 会が 生起す る。その なかで,これ まで は労働 とい う一 点 を中心 に して 回 って きた人 々の生活 は,労働 と レジ ャー とい う二点 を中心 に して回 り始 め る。 日 本 で い え ば高 度経 済 成 長 を経 験 す るの が1960年 ,脱産業社 会 に入 って い くのが1970年代 で あ る。

脱産業社 会 にお い て は,スポー ツ もレジャー生 活 を潤 す重 要 な文 化領域 ととらえ られ,競技 選手 だ けで な く一 般 大 衆 もスポ ー ツ を楽 しみ は じめ る。す なわち,産業社 会下 で は「全 人形成」 を謳 ,労働 に必要 な体力 や精神 力 や社 会性 を身 につ け るため に と,いわ ば大義名分 を立 て るこ とに よ って スポー ツをす るこ との正 当性 を獲 得 して きた

(6)

408

わけだが,脱産業社会になると,スポーッを他の 何にも還元す ることな く堂 々とそれ 自体 を楽 しむ ことが主張で きるようになったのである。 この よ うな社会変化 を受けて学校体育で も生涯 スポーツ の促進 を意識す るようにな り,これ までは労働 を 前提 とす る人間形成の手段 として しかスポーッを とらえていなかったのが,スポーツその ものの内 在的価値 (intrinsic value)を認め,それを中核 に した「楽 しい体育」が展開 されるようになる注助. まさにスポーツそれ 自体 を肯定的にとらえ,生 にわたってスポーツを享受で きる人間をつ くるの が体育 というわけである。

しか しなが ら,この ようにスポーツを肯定的に とらえ,その享受へ向けて子 どもたちを誘 うこと がで きるのは,経済的に豊かな,いわゆる先進国 と呼ばれる国々においての話である。殊にか ぎり な く高度化 している近代スポーツを享受で きるの ,経済的に豊かな国に限 られる。東南 アジアの 片隅の町工場でサ ッカーボールの製造 に従事す る 貧 しい子 どもたちは,自 らこのボールでプレイす ることはないわけで,このボールでプレイす るの ,このボールを購入す ることので きる先進国の 子 どもたちなのである。 この ような経済格差の問 題だけではない。 ゴルフ場 開発 による水質汚染,

夏 には外気 との温 度差が40度以上 に もなる屋 内 スキー場 の法外 なエ ネルギー消 費 といった よう ,環境やエ ネルギー問題 にもスポーツは リンク

しているのである。

こうしてみる と,スポー ツを肯定的に とらえ,

スポーツを生涯 にわたって享受で きる人間を形成 す るとい う体育 は,経済的に豊かな先進国,こ いってよければ経済戦争 とい う形 をとって遂行 さ れた冷戦の「勝 ち組」 になった国のなかでのみ有 効であることがわか る.「勝 ち組」 とい う「閉 じ られた共同体」のなかだけを見ていると,人々の 生活 に潤いをもた らす スポーツ振興 は福祉 国家た るにふ さわ しい事業 として首肯 される企てであろ うが,一歩共同体の外 に出て地球規模でこの企て を眺めてみる と,「閉 じられた共同体」 のエ ゴが 透けて見えるのである。

冷戦時代,東西 に分断 されていた ドイツの場合

もっと厳 しい形で「閉 じられた共同体」のエ ゴが現れる。 日本 と同 じ資本主義陣営に入った西 ドイツでは経済的繁栄 を背景 に60年代 にはゴー ルデ ンプランとい うスポーツの大衆化運動が進め られるが,時を同 じくして冷戦 による東西緊張が 高 ま り,国際スポーツ競技大会での メダル獲得競 争が激化 してい く,そんななかで大衆スポーツは チ ャンピオンスポーツを支える底辺 として とらえ られ,この ピラ ミッ ド図式のなかに学校体育 も組 み入れ られる。そのため学校体育では民族的なス ポーツが姿 を消 し,オリンピック種 目を中心 に技 能主義的な授業が展開 されるようになる。 またス ポーツ振興の名の もとに,学校 と地域 スポーツク ラブの連携・協力 によるスポーツに才能のある子 どもの発掘 と育成が進め られてい く(本,1995).

冷戦が終結 し90年代 になる と旧東西 ドイツ競 技 スポーツ界の ドービングの実態が次々に露呈 し

て くるが,そこで明 らかになったのは,東ドイツ だけでな く西 ドイツで も ドービングが組織的に行 われていたことである(ベッテ・ シマ ンク,2001).

冷戦は,核兵器の存在によって「熱戦」が展 開さ れ得な くなっただけで,やは り社会の総力 をあげ て遂行 される戦争 だったことにはちがいない。い わば平和 な顔 をした戦争であ り,その戦時体市1の

なかにスポーツもしっか り組み込 まれていたので ある。民主主義 を標榜 していた西 ドイツもやは り

「閉 じられた共 同体」 であ り,その内部では「ス ポーツをす ることはいいことだ,スポーツに才能 のある子 どもにそれを伸ばす機会を与 えることは いいことだ」 とあたか も善意のスポーツ振興の顔 をしなが ら,実はそのスポーツ振興 は冷戦 とい う 戦争遂行の手段 に使われていったのである。

脱産業社会は レジャー とい うゆ とりを人々にも た らした。それだけに共同体内部での統制は往 々 に して福祉 とい うベールに包 まれ,それが統制で ある とい うことを見 えに くくしている。 しか し,

内に統制,外に征服 とい う「閉 じられた共 同体」

の本質は,産業社会の時代か らまった く変わって いないのである。

木 村

(7)

学校体育 の存在意義 に関す る原理的考察

 「 閉 じられた共 同体 」 と身体 の叛乱 以上のように、近代国民国家成立期の「身体の 教育」から「運動による教育Jを経て,脱産業社 会における「運動の中の教育」に至るまで,学 体育の存在意義がいかにして生まれ,維持されて

きたかを俯瞳 して きたが,常に求め られて きたの ,他者否定によって 自己拡張 を図る,すなわち, 内には統制,外には支配 を企てる「閉 じられた共 同体Jに とっての体育の存在意義であった。第一 次・第二次世界大戦,そして冷戦 と,世界化 した 戦争 を繰 り返す なかで,個人は「閉 じられた共同 Jの脈絡のなかに置かれ,そこにおける有用性 に体育 は呼応 し,その存在意義 を主張 して きたよ

うに思われる。

しか しなが ら,世界が グローバル化 し,異なる 者 同士 の共存が ます ます求め られるなかで,「 じられた共同体」の論理がすでに臨界点に達 して いることは言 を待たないであろう.また地球環境 や地球資源の観点か らも「閉 じられた共同体」 に よる他者否定に一定の歯止めをかけない と,地 全体の存続が危ぶ まれるような時代に現代は突 入 してい るのである。 この ように現代社会は,「 じられた共同体」が外に向けて発する暴力 を何 と か コン トロール しなければ,世界の,そして,地

球 の未来 を描 けない ところ まで きているのであ る。

それでは「閉 じられた共同体」の内に向け られ た暴力についてはどうだろう。 この問題 を学校体 育の対象である子 どもたちの方 に目を向けて考 え てみ よう。

いわゆる帝 国主義時代 の産業社 会 下にあ って ,国家同士 は「喰 うか喰われるか」であ り弱肉 強食が まか り通っていた。産業 も未発達であるか ら国民の物質的生活 も非常 に貧 しい。そうい う状 況下で子 どもたちは将来の兵士や労働者 になるベ く徹底的に訓練 されるわけだが,善悪は ともあれ

「なすべ きことJの道筋が子 どもたちの 目に もは っ きり映 っていたことだろ う。「自分が しっか り 訓練 を受けて将来使い物 になる兵士や労働者 にな

らなけオ■ば国が潰れるか もしオ■ない」「 もっ と 豊かになるためにがんば らねば」 とい う気概 を子 どもたちに有無 も言わせず抱かせて しまう,そ い う必然的な力 を当時の社会はもっていた といえ る。 ここでは外 には征月,内には統制 という「閉 じられた共同体」の暴力的論理が,ス トレー トに 子 どもたちの なか に まで貫 かれてい ったのであ る。

ところが物 質的 な豊 か さを手 に した脱 産業社 会 に至 って は どうだ ろ う。「閉 じられ た共 同体Jの

論理 は,内に向けてはスポー ツ振興 とかい う福祉 的色彩 を もって統 制 を企 て る し,外に向けて はス トレー トな「熱戦Jにな りえず,経済や情報 な ど の形で征服 を企てる。 こういってよければ,豊 になった分だけ,そのや り方が巧妙で偽善的です らある。そのような状況 において子 どもたちの 目 には「なすべ きこと」の道筋が極めて見えに くく なっている。身近 なところでは,家庭や学校 とい う「閉 じられた共同体」のなかでの「いい子」は, 一歩外 に出てみれば「閉 じられた共同体」のエ ゴ を満たすためだけの「いい子」であ り、感 じやす い子 どもならその 自己欺肺をすでに鋭 く察知 して いる。演 じる以外には「いい子Jになれそ うに も な く,かといって「いい子」 に代わる像をもち得 ない,そうい う宙 吊 り状態 に子 どもたちは置かれ ているのである。 もはや飽和状態 に達 した といえ るほ どの物 質的な豊か さのなかで「出来事」のな いマ ンネリ化 した毎 日をただただ生 きねばな らな い子 どもたち.パソコンや携帯電話 を使 っての情 報のや りとりはあるが,五感 を通 しての リアルな 生活体験 は極度に少な く,ま してや体当た りの人 間関係 もな く,自己の存在 も希薄化 してい く。

2004年芥川賞 を受賞 した20歳の女性作家,金

原ひとみはその作品「蛇 にピアス」 において,こ の ような社会に漂 って生 きる若者の姿 を実 に克明 に描いている.主人公の若い女性 は蛇の ような二 股に裂けた舌 をめざして舌 にはめるビアスのサ イ ズをだんだん大 きくしていった り,背中に刺青 を いれた りするのだが,彼女が 自己の存在 を確認で きるのは,この ような身体加工 によってのみなの である。 この主人公は極端 な例ではあろうが

(8)

410

らの存在確認がで きない若者が「身体」で もって その存在 を確かめ訴えようとしている点は,現 社会に生 きる子 どもたちの間に広 く見 られる傾向 ではないだろ うか。文部科学省2002年度の調査 では小中学校でのい じめは2万 2千,暴力行為 2万 9千,不登校 は 13万 人を超 え,高校中退 9千万人 に迫 る (朝日新 聞,2004)。 子 どもが 引 き起 こす悲惨 な事件 も後 を絶たない。「不登校J

「い じめ」「暴力」「拒 食症J「ひ きこもり」等 々,

現代の子 どもたちの深刻 な問題 は,「閉 じられた 共同体」の閉塞感や偽善に息が詰 まった子 どもた ちが生身の身体で起 こしている叛乱ではなかろう か。

Hでみ て きた よ うに,これ まで学校 体育 は,

「身体 の教育」 にせ よ「運動 による教育」 にせ よ

「運動 の中の教育」 にせ よ目的の置 き方 には大 きな違いがあるものの,いずれの場合 も「閉 じら れた共同体」 における有用性 に呼応す る形でその 存在意義が主張 されて きたが,いままさにその

「閉 じられた共 同体」の論理が破綻 をきた してい るのである.特に「閉 じられた共同体」の内側で 自己の存在確認がで きないでいる子 どもたちの身 体の叛乱 は,この破綻 を象徴 しているように思わ れる。た しかに新学習指導要領では,日標の冒頭 に「心 と体 を一体 として とらえ」(文部省,1998) と記 されているように,学校体育 は1977年の改 訂以来20年以上続 いて きた「生涯 スポーツ志向」

か ら「心 と体の一体化志向」へ と基本理念を大 き く転換 させ (高,2000),こ の ような現代の子 どもたちの問題解決に寄与 しようという姿勢 を示 している。 しか し,この ような取 り組み も「閉 じ られた共同体」の論理のなかで追求 されるとすれ ,自家撞着 とな り,対処療法の域 を出ることは ないだろう。そ うならないためには,家庭 を学校 をそ して究極的には国家 を「開かれた共同体」 に してい く以外 にない し,その うえで体育 も「閉 じ られた共同体」 における有用性 に訴 えることで存 在意義 を主張するのではな く,「開かれた共同体」

における存在意義 を求めていかなければな らない だろう.

 展望 :「 共に在 る」場 としての 身体 を手がかりに

それでは「開かれた共同体」 とはどのような 共同体なのだろうか。そこにおいて体育の存在意 義が認め られるとするな らば どの ような体育 なの だろうか。

まず「開かれた共同体Jとは一言でい うと,他

者 を否定するのではな く他者 を受け入れることで 自己が豊かになれる共同体のことである。 これは 言 って しまえば簡単だが,思想的には,理性の統 御の もとに自然す なわち他者 を支配することに人 間の人間たる所以 を求めて きた西洋形而上学の伝 統 に異議 を唱える ものであ り,近代社会を成立 さ せて きたパ ラダイムを変換す ることで もある。

この ような異議 申 し立ては,早 くはニーチェや フロイ ト,そしてハ イデガーを経て,フーコーや デ リダが行って きたが,それ らの思想の系譜 を踏 まえて展 開 されてい るナ ンシーの「分割=分 (Partage)」 とい う思考 はとりわけ新 しい身体 観 を構築す るのに示唆的であろう.西谷はこの思 想 を次の ように説明 している.「光が な くすべ て が闇に沈んだ状況では,何もなければ自分 とい う ものの輪郭 もない。けれ ども,ふと間のなかで何 かが触れる。肌 に触れる。その とき肌は触れた も の を感 じるとい うよ り感 じることで肌 として, 感覚 として 目覚める。触れているのが もうひ とつ の肌 (あるいは身体)であれば,感じられるのは 他者 としての身体であ り,その感触が『私』 を目 覚め させ る。そ してこの接触の うちにはどんな支 配や所有の関係 もない。支配や所有の主体である

『私』が立 ち上がる以前 に,た<触れる>と うひ とつの出来事が,他を感 じるもの として 自分 を目覚め させている。 まさにこの ような<接>

,<分=分>とい う出来事 なのだ…」(西 , 2002, p.424)。  ここ‐C,主^ミきは, 4固

して充足 した 自己が先 にあるのではな く,接触 と い う出来事か ら他者 を意識す る自己がは じめて浮 上す るということである。 しか もそれは身体 を場 に して起 こってい る とい うこ とであ る。つ ま り

「共 に在 るJとい う原初的な人間の存在様態が身

(9)

学校体育の存在意義 に関す る原理的考察

体 を場 に生起 しているのである。 ここでは身体 は モ ノではな く,「共 に在 る」 ことが生 きられ る場

として とらえられている'9.

まさに体育 はこの ことに注 目すべ きではないだ ろうか。た とえば,大縄の両端 をもってこれか ら 回そ うとしている二人の子 どもを思い浮かべてみ よう。二人がそれぞれ 自分のや り方 を貫 こうとし た ら,ち ぐは ぐになって しまって大縄 はけっして 回 らない.一方が他方 を否定 し,自分のや り方 を 押 しつけた とした ら,他方は力 を発揮で きず,結

局この場合 も縄が回 らない。両方が力 を発揮 して 縄 を回す には,それぞれが まず互いに固随な自己 を捨 て他者 を受け入れ,その うえで一致点 を探 り 当てな くてはならない。そ してさらに回 し続 ける ためには常に身体 を場 にした他者 との対話が欠か せ ない。

この ような身体 を場 にした「共に在 る」 ことの 学びを社会性 の育成 というふ うに位置づけて しま っては,的外れであろう。 とい うの も社会性の場 合は,あらか じめ独立 した個が前提 とされてお り,

個 と個が取 り結ぶ関係性 を問題 に しているか らで ある。それに対 して「共に在 る」の場合は,前 って個 は想定 されてお らず,まず身体 を場 に接触 とい う出来事が生起 し,それを分有す ることで 自 他の存 在が浮上 して くるのであ る。 この ような

「共 に在 るJとい う考 え方 をとると,現代の子 ど もたちにみ られる身体の叛乱 は,確立 した個 と個

が取 り結ぶ関係性 の歪みか らとい うよりも,そ 以前の「共に在る」 を含み こんだ自己の存在の危 機か ら出ているように思われる。

体育 は この こ とを深 く受 け止 め るべ きであろ う。人間,すなわち,人と人の<あいだ>に接触 とい う出来事 を生起 させ,「共 に在 る」 ことを学 ばせ る。他者が存在 して くれるおかげで 自己が存 在で き,他者 を受け入れることで 自己が豊かにな れる,そんなことを観念的な道徳律ではな く,身

体 とい う場で学ばせ る…このことにこれか らの体 育の可能性が開かれているように思われる。 この 原初的 な「共 に在 る」様態 をけっ して実体 的 な

「閉 じられた共同体」 に回収す るのではな く,ま ,そこにおける有用性 に訴えて体育の存在意義

を主張す るので はな く,あくまで も身体 とい う現 場 にあ って人 間形 成 を試 み る。 そ うい う体育へ と 編 み なお してい くこ とに知恵 を絞 る こ とか ら展 望 が 開けるので はないだろ うか。

 

本研 究 の一 部 は、平 成15。 16年度科 学研 究 費 補助 金基盤研 究 (C)(2)課題番号15500414を けて実施 され た。

注 1)「 身体 の教育Jと,運動 は主 として身体へ の 発達刺激 (exercヽe)の意味 をもち,教材 もその ための最 も合理的方法である体操が中心である 体育。「運動 による教育」 とは,運動 を全 人 とし ての子 どもの「行為」や「経験」の意味で理解

,子どもの多面的な発達 に呆た し得 る運動の 役割 を重視す ることか ら,体操 よ りも遊戯や ス ポーツに高い教材価値 を与える体育。「運動の中 の教育」 とは,運動 を外在的 な価値 (extrinsic value)を達成す るための手段 ととらえるのでは な く,運 (スポー ツ)それ 自体の本質的価値 (intrindc value)を 評価 し,運動 を自己正当な もの として位置づ ける体育 と理解 される.歴 的には,「身体の教育」,「運動による教育」,「 動の中の教育Jの順 に登場するが,これ らはあ くまで も概 念 としての区別であって,実際 には 前者 の性格 を併せ もちなが ら後者 に重点 を移 し てい く形で学校体育は変遷 して きた。ただ し本 総説 では「原理 的考察」 とい う研究の性 質上, あ くまで も歴史上に登場す る「体育の概念Jと

してこれ らを個号Uに考察す ることに した。

2)正確 にい うと,「 体操科」以外の教科名が用い られた こともある。 日本では 1872年 学制発布当 ,小学校 の教科 の一つ として置かれた教科名 は「体術科Jであった。 また 1941年 国民学校令 に よって「体操科」 とい う教科名は戦力増強 を 意識 した「体錬科」 とな り,1945年敗戦 に至 る

までの約 4年 間この教科名が用い られた。

3)西谷は,「閉 じられた共同体」の外 に向けては 攻撃,内に向けては統制 とい う二重の暴力 によ って近代国民国家が世界戦争へ と至 る必然性 を 論 じている。 ここでい う世界戦争の特質 は,戦

参照

関連したドキュメント

  まず適当に道を書いてみて( guess )、それ がオイラー回路になっているかどうか確かめ る( check

ヒュームがこのような表現をとるのは当然の ことながら、「人間は理性によって感情を支配

となる。こうした動向に照準をあわせ、まずは 2020

3 ⻑は、内部統 制の目的を達成 するにあたり、適 切な人事管理及 び教育研修を行 っているか。. 3−1

しかしながら、世の中には相当情報がはんらんしておりまして、中には怪しいような情 報もあります。先ほど芳住先生からお話があったのは

Âに、%“、“、ÐなÑÒなどÓÔのÑÒにŒして、いかなるGÏもうことはできません。おÌÍは、ON

自分ではおかしいと思って も、「自分の体は汚れてい るのではないか」「ひどい ことを周りの人にしたので

のニーズを伝え、そんなにたぶんこうしてほしいねんみたいな話しを具体的にしてるわけではない し、まぁそのあとは