ロラン・パルト:記号と倫理
‑構造主義的局面の意義と問題点‑
遠藤文彦
Roland Barthes : Signe et Ethique
‑Phase structuraliste‑
Fumihiko ENDO
I 「構造」、その方法論的本質と倫理的価値 1)ソシュールによる理論的方法論的影響
我々は既に、バルトが1956年にソシュールを読んだことによって『ミトロジー』
という書物にいかなる影響があったのか、その内容と限界を示した')。 『一般言語学 講義』は体系的に練り上げられた言語学の語嚢・概念を提供し、特に厳密な理論的概 念や方法論的道具もなしになされたイデオロギー批判の対象を「意味作用」の語を以 て定義し、形式化することを可能にした。しかし、この1957年の書物においては影 響は語嚢的なレヴェルにとどまり、何らかの実質的な理論的発見があった訳ではない。
実際、 「今日の神話」における理論的諸命題が、 『講義』が将来の学問として掲げる
「記号学」に依拠しているというには、そのモデルとなるソシュール言語学の本質的 に体系的‑更に言えば「構造主義的」‑見通しを欠いている。というより、そも そもそのような必然性はなかったのである。 『ミトロジー』で問題となっているのは、
意味作用の過程、即ちシニフイエとシニフイアンの結びつき方なのであって、記号の 本質的に体系的構成ではなかったのだから。
ところが、同時期に発表された、神話批判的テクスト以外の、いわばより学術的な
論文を読んでみると、ソシュールの真に理論的方法論的影響というべきものが存在し
ており、バルトは1956年に『講義』を読んだ際、記号の、従って記号学の体系的次
元を直ちに見出だしていたのが分かる。 1957年、即ち『ミトロジー』上梓の年、バ
ルトは衣服の研究についての論文を発表しており、そこで対象となる事象の体系的性
格を明らかにし、この研究における歴史学的アプローチの不十分を指摘しっっ、体系 的性格を説明しうるものとして「社会学的」アプローチの必要を説いている。
(…)衣服の研究はある特殊な認識論的問題を提起するが、ここではせめて その問題の指摘だけはしておこう。それは、あゆる構造体の分析につきもの であり、対象を、歴史の中で捉えつつも、構造としてのその成り立ちを失わ せてはならないという問題である。衣服とはまさに、歴史の各時点において 規範的形態の均衡でありつつ、その全体が絶えず生成する構造体なのであ
る2)。
歴史的時間の中における「構造体」の研究がはらむ複雑さを認めっっも、バルトは 衣服の研究において、歴史的生成よりも構造的秩序が方法論的に優先すると主張する。
これまでの衣服研究はシニフイアン‑衣服とシニフイエ‑歴史的あるいは心理的決定 要因を結びっけることに腐心し、まずい事には、この二つのレヴェルを混同する傾向 にあった。実際には両者は互いに相対的独立を保っているのである。さて、衣服が意 味のシステムであるとすれば、その研究は基本的にそのシステムの構造を分析するこ
とに存する。即ち記号が互いに取り持つ内的関係を対象とするのであり、一方でシニ フイ工を、他方でシニフイアンを同定し、両者を結びつけるのではない。事実、シ ステムにおいて関与的なのは「価値」の関係である。それも「何ものかに価する」
《valant‑pour‑quelque chose》という垂直的(象徴的)関係(これが『ミトロジー』
の基本的記号概念であった)ではなく、記号にまさに何ものかに価する能力を斌与す る記号間の水平的(範列的)関係としての体系内的価値である。 「衣服は本質的に価 値論的事象《un fait d'ordre axiologique》である3)」とバルトが述べるのはこのよ うな意味においてである。また、彼が衣服の「社会学4)」を語り、歴史学的または心 理学的研究の欠陥、誤謬に対してその必要性を主張するのもこのような見通しにおい
てである。要するに、問題の認識論的困難さを認めっっも、バルトが構造論的観点を 採り入れようとするのは、これまでの歴史主義的・実証主義的研究が(十分には)考 慮に入れなかった意味する事象の持つ体系的本性故のことである。
こうして理論上の問題点を指摘しつつ、バルトは衣服研究上の方法論的モデルをソ シュールの言語学に求めるように提案する。両者の問題系が類似するからである。
衣服をシステムとして扱うのが困難なのは、恐らく、時間の中で構造体の進
展変化を辿ること、その構成要素が不揃いに変化するような均衡体の継起を
連続的に追うことが困難だからである。既にこの同じ困難に出会い、それを
部分的に解決した学問が少なくとも一つある。言語学がそれである。 (中略) ここで、構造主義論争に加わろうとは思わないが、中心的問題の同一である ことは否定し難い。だからといって、同じ問題が双方の場合で同一の解決を 持つというのではない。しかし、少なくとも、現在の言語学が衣服の研究に 対して、既にここ五十年来練り上げられてきた思考の枠組み、素材そして用 語を提供してくれるだろうことは期待できる。よって、早急に、衣服研究に 及ぼすであろうソシュール言語学のモデルの方法論的影響について吟味する 必要がある。5)
言語学と記号学の関係については以下で論じるが、ここではソシュールの影響が
『ミトロジー』でそうであったように語嚢・概念の域を越えて、真に方法論的な水準 において現われているという点を強調しよう。更に言えば、 『モードの体系』におい て明らかになるように、 「方法」は単に科学的分析の手段ではなく、記号学的探求と いう「冒険」の本質的樽金なのである。
2)神話の変容
ソシュールの真に方法論的な影響によって、バルトは記号学をもはや単にイデオロ ギー批判の道具としてではなく、独立した記号の科学として捉える。同時に、彼の関 心は社会批判から社会学へと移行する6)。
しかしながら、それでバルトが神話学的企図を放棄した訳ではない。事実、 1957 年の『ミトロジー』出版後、1959年には『レットル・ヌーヴェル』誌に9編の新た な「ミトロジー」を書いている7)。このうち初めの8編はおおよそ『ミトロジー』と その批判の対象及び方法を同じくしている。様々な打嚢声報道を取り上げ、そこで伝達・
表象される一見無意味な事象を記号として捉え、その背後にイデオロギー的意味を読 み取り、欺隅的な意味作用の過程を分析・解体するのである。ところが、 「二つの見 本展示会」と題された最後の記事では、分析の手続きは別にしても、批判的パースペ
クティヴにおいてある変化が認められる8)。この論文では自動車の展示会と事務機器 の展示会が比較されている。魔術的な力を持った自動車という神話については既に
『ミトロジー』に「シトローエンの新車」がある9)。「D.S.」 (デエス‑女神)は「天 から降り立った」物体‑奇跡として展示される。製品の表象‑演出が人間による製作
の痕跡を消し去るようになされるのである。それは視線と触覚の対象であって、行為
の対象ではない。 1959年の自動車の展示会もおおよそ同じ神話に属しており、消費
財の「見世物」をなしている。 「その英雄的時代において、機械は原因から奇跡のご
とく遠ざけられた効果の見世物であった10)」。確かに、観察の視点は多少変化してお り、生産物としての自動車ではなく、機械としてのその機能が問題となっている。し かし結局のところ、同じ対象のこれら二つの相を貫いているのは、材料の魔術的変形‑
加工という神話である。魔術的物体である自動車はそれ自身魔術的に物を産出する機 械、すなわち、液体を運動に変形‑加工する機械なのである。 「非常に長いこと、神 話的に言って、機械とは歯車即ち中継の集合体であった。その行程は、象徴的に、曲 がってはいるがとにかく線的な原因・結果の関係を表わしていた11)。」要するに、以 前、生産から切り離された生産物が問題であったのが、ここでは生産それ自身が問題
とされている、すなわち生産物の観点から見て因果関係の線状性を合意する生産の神 話が問題化されるのである。
ところで、バルトは事務機器の展示会で別種の神話を見出だしているのだが、とり わけ注目に価するのはその新たな神話が神話自体のある変容を証しているということ である。 「自動車は、大衆の間でいかに成功を収めたとはいえ、既に人口に槍鼓した 機械の神話に属している。それに対して事務機器の展示会が示すのは、その神話自体 が変容するということである12)。」すなわち、この「ミトロジー」で問題となってい
るのは、ブルジョア的神話の様々な現れの‑変種ではなく、その神話自身の形式上の (従って本質的)変化である。論文中繰り返し用いられる文章構成上のアンチテーゼ
は、この形式的(構造的)変化を示すひとつの指標であるように思われる。
自動車の展示会は、一種の定期市であり、祭儀的なものである。事務機器の 展示会は小宇宙の記述であり、構造体の表象である。
機械が人間を機械化するのではなく、人間が己の頭脳の構造を機械に刻印し、
それを人間化する時代がやって来たようだ。
機械はもはや驚嘆の言語の対象ではなく、言語それ自体である。これは技術 の展示会ではなく、構造の展示会である。
これら二つの展示会、従って二つの神話の対照は、しかし、単に修辞的なものでは なく理論的な内容を持っており、人間が世界を領有するために、世界について持っ考 え方の変化に対応する。機械の神話は材料の変形加工‑入口に材料、出口に製品、
間に加工の手段としての労働‑という生産の因果論的イデオロギーに由来するのに
対し13)、事務機器の展示会は、その神話自体の変容として、労働についての新たな考
え方を導入する。それによれば、人間は現実を領有するのに、一連の「サイバネティッ
クス」的操作‑切断、分類、配列‑を以てする。
作成した数値を書込み、次いで個別的なものを処理すべく、呼び出し、分解 する、これはこれまでになかった新たな動きであり、厳密に言って、変形‑
加工ではなく、配列の動きである。練金術から原子物理学に至るまで西洋全 体に作用してきた物質の質的変形‑加工という神話に代わって、新たな想像 力が現われたのである。世界を分類すること自体が人間がその世界を領有す
る物質的行為なのだ。
確かに、問題は常に生産することなのであるが、それはもはや生産物という結果の 観点から捉えられてはいない。生産の目標・終点は生産された事物ではなく、その事 物の意味、即ち分類行為が産み出す対象世界の諸関係としての意味なのである。そこ では、人間の労働はそれ以外の他の目的の手段として疎外されてはおらず、それ自身 が世界の意味を為す(faire)のである。
結論として、バルトは変形‑加工の神話の意味を問い、それが逆説的にも自然の単 一性を信じるブルジョアの意識を安心させるアリバイとして機能していたと述べる。
これに対し、その神話の変容は労働の人類学的次元を開示し、世界の真の技術的変容 と知的領有の在り方を明らかにするのである14)。 (それは、究極的には、ブルジョア 的意識に映る「現実」の地位自体を揺るがすことになるであろう。)他方、バルトは、
当の神話はブルジョア流の反主知主義的イデオロギーを支えるものであると言う。従っ て「以後あらゆる政体、あらゆる労働に共通の価値」であるサイバネティックス的想 像力を働かせることにおいて、事務機器の展示会は「前衛的展示会」なのである。
結局のところ、事務機器の神話は厳密には『ミトロジー』でいうところの神話に相 当しないであろう。神話が本来歴史的であるイデオロギーを自然化する特殊な表象形 態であるなら、事務機器の「神話」は人間の知的活動をその人類学的真理と超歴史的 有効性において表わすのであるから。 (この記事には、神話学的言説のエトスの変化、
それがもはや単に批判的ではなくむしろ肯定的であるという傾向が認められるが、そ
れもこうした事実から理解しうるのではないだろうか。)この神話の変容が意味する
のは、ある神話が他の神話に、あるイメージが別のイメージに取って代わったという
ことではない15)。あるイマジネーションが他のイマジネーションに取って代わり、神
話が文字通り形を変えたこと、即ちそれが形式において変化したことを表わしている
のである。
3)神話学(者)の転身
「今日の神話」で定式化された記号学は、記号を等価の関係にあるシこフイアンと シニフイエの結合体であるとする原理に成り立っていた。イデオロギー的概念が自然 化されて伝達される過程を解明するのがイデオロギー批判としての『ミトロジー』の
目的であったので、記号学は事後的にではあるが、その目的の理論的根拠並びに方法 論的手段となりえたのである。
しかしながら、そのような記号観は記号の二つの構成要素とその結合の本来的「慈 恵性」を明らかにするが、記号がその周囲を取り巻く他の記号と取り持っ諸関係、そ れが属するコンテクストにおける機能、要するに記号の本質的に体系的・組織的成り 立ちを説明しはしない。ところで、 『ミトロジー』出版後、バルトがソシュールの影 響を経て、意味作用という概念において強調するようになるのは、過程(proces) ではなく体系(systbme)の観点である。バルトの関心が過程から体系へ移動したこ
とにはどのような意味が合意されているのであろうか。
i記号学的「想像力」
1962年、バルトは「記号の想像力」と題された論文で記号観の三つのタイプにつ いて語っており、記号をなす諸関係を意識、更にはイデオロギーに差し向けることに よって、あるタイプから別のタイプへの移行の意味を探ろうと試みている16)。科学の 諸分野及び芸術の諸領域を通して共通に観察しうる記号観の三つのタイプに結びつけ
られる意識はそれぞれ「象徴的」 《symbolique〉 「範列的」 《paradigmatique》 「連 辞的」 《syntagmatique≫と命名される。象徴的意識は「シニフイアンとシニフイエ
を結合する」記号の「内的関係」を表わす。範列的及び連辞的意識は二つの「外的関 係」を代表するが、 「前者は潜在的であり、記号を他の諸々の記号の貯蔵庫に結びっ
ける。記号はそこから取り出され、言連鎖の中へ挿入される。後者は記号をそれに前 後する言表中の他の記号に結びつける。」 (EC, p.206)
とりわけ、この論文の記述が、記号学という学の客観的技術的現実に関わるという よりは、その現実についてのひとっのヴィジョンに関わっていることに注目しよう。
「記号は単に特殊な知の対象であるばかりでなく、ヴィジョンの対象でもある。」
(ibid., p.210) (この記述は記号の三つの関係を見る‑生きる‑主体の観点から
なされているのであり、言ってみれば焦点が絞られている(focalis6)のである。)
三つの関係のうち一つないし二つを採用することは、真に倫理的と言いうる選択に基
づいており、逆にその選択は「イデオロギーを合意し」主体を倫理的更には政治的に
性格づけるのである。事実、バルトは「これらの意味の意識についての記述をもう一 度取り上げ、ひとつの歴史に結びっけ、 (…)記号学者についての記号学、構造主義 者についての構造分析を企てる」 (idem.)可能性を一種のイロニーとして示唆して さえいる。記号の諸関係は形式であり従って空虚なのではあるが、まさにそれ故にそ れらを支える各々固有の意識様態に差し向けられており、それぞれの選択は直ちにあ る種の倫理的意味を持ちうるというのである。更に詳しくこの記述を見てみると、バ ルトがこれら記号学的意識を単に示差的に区別しているだけでなく、それらの問にあ る種の階層づけを試みているのがわかる。それは象徴的意識から、範列的意識を経て、
連辞的意識に達する。
各々の記号意識に、あるいは少なくとも一方に一番めの意識、他方に残りの 二つと分けてみると、それぞれには、個人的であれ集団的であれ反省的思考 の何らかの段階が対応する。とりわけ構造主義は、歴史的に見て、象徴的意 識から範列的意識への移行と定義しうる。 (Ibid., p.201)
範列的意識は象徴的意識の二面的関係に代えて(少なくとも)四面的な関係 を措定する。 {Ibid., p.209)
三つの意識の中で、最もよくシニフイエに関わらないで済ますのは、連辞的 意識である。それは意味論的であるというより構造論的意識である。 (Ibid.,
p.210)
特に最後の引用文で明らかなように、この序列はそれぞれの意識がシニフィエに対 して取る距離の大小に従っている。象徴的意識にとって、シニフイエはシニフイアン に対して独立した超越的実体(entite)として定立される。 「象徴的意識は本質的に形 式の拒否である。この意識にとって、記号において重要なのはシニフイエであり、シ ニフイアンはそれによる規定を受けたものにすぎない。」 (ibid., p.208)範列的意識 にとっては、対立的関係が意味の条件と考えられ、シニフイエそれ自体は「第一次分 節」から生じた相関的項(terme)にすぎない。連辞的意識は記号の分節よりも連結 に、意味論的潜在性よりも統辞論的顕在化に関わる。故に「最もよくシニフイエなし で済ませる」。
象徴的意識から構造的意識に移行することによって、シニフイ工はいわば後退し、
シニフイ工の面でもシニフイアンの面でも意味の実体は意味の関係へ席を譲る。この
「関係」こそが唯一「意味する」ものなのであるが、といってシニフィエに満たされ
ることをアプリオリに帰結Lはない。意味の構成(構成された意味ではなく)にとっ て関与的なのは、意味の条件としての記号のシステムであり、シニフイエとシニフイ アンの結合としての意味作用の過程ではない。倫理的なレグェルで言うと、もはや記 号の慈恵性(意味作用の率直さ(franchise)ではなく、記号の体系的関係の明白さ が問題となる。その明白さばシニフイエからの記号の開放(affranchissement)杏 合意している。その際、シニフイアンの体系(体系としてのシニフイアン)は実体と
してのシニフィエ(シニフイ工という実体)から自律し、意味作用はいわば宙に吊ら れた形となる‑中断される(suspension)であろう。
他方、神話学者にとってみればこの移行は本質的であり、単に分析上の観点の移動 ではない。例えば、ある対象をある視点から分析した神話学者が、再度、同じ対象を 同じ操作をもって、但し今度は別の視点から分析するということではない。そうでは なく、意味作用がシニフイエとシェフイアンの結合からなる実体と考えられる限りに おいて、意味作用の形式自体が問題化されるのである。この移行においてはシニフィ エの実体的地位、従って神話学の拠って立つ基盤自体が揺るがされる。このことは、
言い換えれば、記号学的パ‑スペクテイヴの変化によって、神話学者が自らの対象と 言葉を変化させ、故に自分自身を転位させるということであろう。
ii神話学の神話
象徴的関係が神話学を基礎づけていた等価関係を前提としているのに対して,他の 二つの構造論的関係は記号問の相互関係を規定している。それらは象徴的関係とは異 なって、最早「深さ」や「類似性」を知らず、ただ示差的かつ相関的であるのみであ る。それらの関係こそがシニフイエとシニフイアンの結合過程を対象とする神話学者 の意識には当然のことながら(ほとんど)欠如していたのである。
記号についての三つの関係を比較検討することによって、バルトは象徴的意識に固 有の倫理的意味を明らかにし、意味作用の過程自体を、単にその特殊な顕現形態‑
例えば「神話」 ‑においてではなく、その原理において問題化するのである。
とすれば、たとえ神話学者がシニフィエをではなく、意味作用の過程、その形式を 相手にするのだと言って't/、結局、彼の意識はシェフイ工がシニフィアンに対する超 越的地位を有し、実体としての同一性を保持することを前提とするであろう。シニフイ
エとシニフイアンの間に象徴的関係を見ることはそれ自体が神話的ヴィジョンなので ある。実際のところ、神話が象徴的意識に基づいている、とではなく、象徴的意識こ そが本質的に神話的であると言わねばならないであろう。象徴的意識が開示するのは、
ブルジョア的「神話」という歴史的地理的に(比較的)小さく限定された記号実践の
特殊な‑タイプというよりも、西欧世界全般に共通する記号実践一般を支え貫く「神 学的」基盤なのである17)。そもそも神話学者はその地位からして、歴史に(参与して
いるというよりも)帰属しており、二重に決定づけられている。一方で、シニフイエ において。神話学者は形式のみを対象とするとはいえ、実際の分析では、手続き上、
常に歴史的決定を受けているシニフイエ(イデオロギー的概念)に依拠せざるをえな い。他方、より決定的な形で、固有の対象である意味作用の形式そのものにおいて。
シニフイアンとシニフイエの結合過程としての意味作用は、意味の条件としての、シ ニフイエとシニフイアンを同時に構成する諸関係にとっては二義的で必然性をもたな い事後的な現象にすぎない。その上、対象である神話ばかりでなく、それについて語 る神話学者の言葉自体も同じ意味作用の形式を共有しており、その神学的基盤に依拠 している。
それに対し、構造論的関係とともに、人間に固有の能力としての意味作用の人類学 的次元が開示される(ここでいう意味作用とはシニフイエとシニフィアンを結びつけ
る過程ではなく、意味を創出する行為の謂いである)。即ち、構造論的関係は、意味 創出活動としての意味作用がその人類学的本質において展開される地平である。この 創造的意味においてこそバルトは例えば文学の「本質」や「存在」について(最早草
にその制度をではなく)語るのであり、 「構造主義的活動」の「人類学的」性格を評 価するのである。これらの言葉を神話的概念(‑ブルジョア的イデオロギー)と見倣 すことは出来ない。それは創出された意味の普遍的真理(V色rit色)についてではなく、
人間の意味を為す能力、その諸形式の一般的有効性(validit色)について言われてい るのである。創出された意味が歴史的に決定されているということは今や二義的なこ とであり、そのことが意味創造の人類学的形式の存在を妨げる訳ではない。
iii観照から行為へ
象徴的なものから構造論的なものへと移行することにより、記号を考える際、実体 としての意味なしで済ませることができ、体系内の記号の形式的関係が前景に現われ てくる。範列的意識はシニフイ工について、 「その証明の役割18'」 (ibid.,p.209)をの み考慮し、連辞的意識は記号について、他の記号と取り持つ結合規則をのみ考慮する。
二つ合わせて、両者は意味の呪縛から開放し、命名を免除する。といっても、意味を 廃絶する訳ではなく、それを「指で示す」のである。つまり、 「意味の場所を言うが、
名指したりはしない」 {ibid.,p.219)。構造論的意識はシニフィアンの下にシニフィ
エを見つけだし、分析者以前に独立してある世界の意味を引き出すのではなく、世界
に意味を「付け加え」、それを了解可能なものと為す。この了解可能性とは、実体的
に存在するシニフイ工や充満した意味ではなく、 「模造」 《simulacre》の名をもって 呼ばれる構造の示差的関係と諸構造問の相同的連関(homologie)の謂いである(コ
ピーとしての類似(analogie)ではない)。
かくして、構造論的意識はむしろ実践、より具体的に言えば製作の観念に近いもの となる。 1963年の「構造主義的活動」と題された論文は文字通りそのことを語って いる19)。
詩的創造も反省的思考も、ここでは世界の始源的「印象‑刻印」といったも のではなく、もとからある世界に似せたひとっの世界の真の製作であり、そ れも前者を物理的に真似るのではなく、知的理解を可能にする類の類似であ る。 {EC,p.215)
更に、この製作の観念において重要なのは、製作された結果ではなく、製作の技術 およびプロセス即ち本来の意味での方法(‑道)なのである。
技術はあらゆる創造の本質そのものである。 (…)いってみれば、道が生産物 を為すのである。それ故にこそ構造主義的生産物とではなく活動と言わねば ならないのだ。 (J6id.,p.216)
バルトはここで、記号の構造論的概念を創設する範列的並びに通辞的意識を再度取 り上げ、今度は「構造主義的活動」の原理を為す二つの主要な操作として記述する。
「切り取り」 《decoupage》と「配列」 《agencement≫とがそれである。 「模造製作の 活動に素材として与えられた対象を切り取ることは即ちその対象の中に可動性を持っ た断片を見出だすことであり、それらの断片の示差的位置づけが何らかの意味を産む のである。」 {idem.) 「諸単位が定められたら、今度は構造論的人間はそれらに組み 合せの規則を発見または決定してやらねばならない。呼び出しの活動に配列の活動が 続くのである。」 (ibid.,p.2Wこれら二つの操作を携えた構造論的人間は、成る程、
レヴィ‑ストロースが秀でて構造主義的とみなす「器用仕事をする人」 《bricoleur》
を思い起こさせずにはいない。結局、バルトが批判的見地から構造主義的なもののう
ちに求めるのは、従来の記号概念に対する異化の力であり変異の可能性である。 「新
しいのは、事物に充満した意味を割り当てることではなく、いかにして意味が可能な
のか、いかなる努力を払い、いかなる道を通ってかを知ろうとする思考(あるいは詩
的創造)である。」 (ibid.,p.218)他方、構造主義的思考に本質的なものとして取り
上げられるのは、記号の解読であるよりも、意味するシステムの構築であり、解釈で
あるよりも創造的活動である。 「極言すれば、構造主義の対象は意味を豊かに所有す る人間ではなく、意味を作り出す人間である。言い換えれば、人間の意味論的目的を 汲み尽くすのは、意味の内容ではなく、歴史的で偶発的変数であるそれらの意味を産 出する行為に他ならないということであろう。」 (idem.)かくして、記号はもはや、
神話学者の下でそうであったように視線による所有の対象ではなく、構造論的人間に とってそうであるように行為‑創出(faire)の対象となる。構造論的人間は本質的 に行動‑作用する(agir)人間であり、観照する人間ではない。彼は神話学者よりも 批判的(従って多かれ少なかれ反動的)動機から(比較的)開放されており、現実に 対するペシミスムからユートピックで神学的なヴィジョンに折り重なることなく、よ り能動的に現在を生きている。いってみれば、より「ルサンチマン」を免れているの である。
iv記号学と詩的創造
上に示唆したように、神話学の言説を新たにすること、これが記号概念の変化を要 請するバルトの主要な動機(あるいはその効果)の一つである。この点の詳細を理解 するために、記号に関する考察の新たな局面に当たって、バルトが「想像力」や「活 動」を語るに際し何を念頭に置いていたのかを見極める必要がある。
実際、構造主義的思考は科学的言説の在り方、その地位に新たなものをもたらして いる。確かにバルトが構造主義に依拠するのは、それが合意する科学的厳密さ故であ り、それがイデオロギー批判に固有の告発・断罪的抑揚を言わば中和する効果を持つ からである20)。但し、この科学的性格は客観的真理や実証的事実といった観念に差し 向けられるのではなく、形式的厳密さを意味する。科学の科学性が評価されるのは、
それが発見せしめる真理や事実故ではなく、それ自身の内に再構成してみせる了解可 能性としての意味故なのである。そして、この了解可能性の基準となるのは真理でも 現実でもなく、体系的一貫性、形式的有効性である。こうして意味の再構築を可能に するものとして構造主義的科学は「虚構」という観念と結びつく21)。
構造主義の「想像力」や「活動」を語ることによってバルトが意味するのは、まさ
しく‑逆説的にも‑構造主義的言語が科学的メタ言語ではなく、それ自体対象言
語となるということ、より正確には、言語の序列・階層をいわば押し崩すということ
である。象徴的意識に少なからず合意される「うまく清算されていない決定論」 (EC,
p.208)に由来するものとして構造論的意識が問題視するのは、まさにこの言語の階
層関係である。バルトは構造主義的言語活動が本質的に(本来の意味で)詩的‑創造
的(poietique)であることを強調する。これこそ、記号学者と芸術家を「意味ヲ為
ス人」 《homo significans〉というカテゴリーに包摂するバルトの真意である。とり わけ強調しなければならないのは(この点こそが、本論の最後で改めて問題としなけ ればならない問題をなすのだが)、この語の十全に能動的なアスペクトである。記号 学者は意味を構築し創造すること(signifiant)において詩的活動に参与するのであっ て、構築され創造された意味(signifi色)によってそうなのではない。知的活動と詩 的活動の分裂は、行為の結果によってではなく、行為そのものにおいて解消されうる のであり、この限りにおいてのみ『ミトロジー』の終わりで表明された対象言語とメ タ言語の対立によるジレンマが解消され、 「現実と人間、記述と説明、事物と知の和 解」 {My,p.247)が可能になると言える。それ故にこそ、たとえ構造論的なもので
あろうとも「意識」をではなく「活動」を語らねばならないのである。
4)意味作用と体系:体系のエトス
専ら世界の了解可能性を扱う構造主義は、世界の意味内容に関わりを持っ神話学的 企図より歴史的社会的「現実」に参与する程度がより少なくて済む。といっても構造 論的意識が倫理的問いとは無縁であるということではない。既に確認したように、神 話学は形式の合意するイデオロギー的意味及び倫理的価値を問い、それなりの仕方で 形式の責任を提起していた。実際のところ、構造論的意識も「参加」の観念を持って おり、それは原則として神話学と同じ方向‑意味に対する形式の責任を明らかにす るという方向‑を向いているように思われる。事実バルトは『モードの体系』につ いて、それが「世界についての倫理的主張を含んでおり、それはそもそも『ミトロジー』
におけるものと同じものである。即ち、自らを記号の体系であると率直に認めようと しない記号体系につきものの悪、社会的イデオロギー的悪が存在するという主張であ る」 (GV,p.67)と述べている。
しかしながら、神話学が提起する形式の責任が、コノテーションの把握(「意味の 掘出し物」)を通して確証されるものであるとしたら、その意味把握の原理的基盤を 為すところの形式自体は問題視されていない。これに対し構造主義的パースペクテイ ヴでは、空虚な形式を通して触知可能な現実が把握されるというのではなく、了解可 能性が世界の意味の条件として据えられ、更には、世界と了解可能性の通常の序列・
位階が反転させられる。故にバルトは『モードの体系』の前書きでこう述べる。 「モー ドの言葉[パロール]に先立って衣服の現実を定立するのは理に適わぬことのように 思われた。正しい理屈に従えば、逆に、現実を創設する言葉から出発して創設される 現実へと赴くべきなのである。」 GSM,p.9)
「だから、構造論的人間はときに自分に対して向けられる非現実主義との非難を甘
んじて受けはしないであろう。形式は世界の中に参与していないとでもいうのだろう か。」 (EC,p.219)ここで言われる「形式」を内容を迎える空虚な器(それを満たす のが象徴的意識である)の意に解してはならない。それは意味を創設する示差的特徴 の体系(それを再構成するのが構造主義的記号学者の務めである)の謂いである。そ れらの形式に帰される責任とは意味作用の過程の性質(その「率直さ」や「二重性」、
記号の窓意性や有縁性)に直接関わるものではない。それは意味の体系の率直さ、よ り的権に言えば、既に示唆したように、その開放の度合いに関わる。実際、体系が率 直であるとは、体系が象徴的意識から、従ってシニフイ工の沈殿から解き放たれてい
るということに他ならない。形式はシニフイエから自由であるという意味で「空虚」
なのであり、一方のシニフィエは限りなく希薄化され、無に近づく。この際、シニフイ アンの体系(体系としてのシニフイアン)は自らを無のうえに支えているようなもの であり22)、意味作用の過程はいわば中断され、宙吊にされる。この中断・宙吊を記号 実践上のひとつの倫理的態度(色thique)と解することもできよう。即ち、ここで意 味に対する責任を語りうるとすれば、それは意味を引き受けることよりも、意味を中 止することに存するということである。
しかしながら、現実には、常に全ての体系がその全き率直さを以て現われる訳では ないことを認めない訳にはいかない。体系というものがその厳密な潜在性(virtu‑
alite)においては、人類学的一般性と示差的否定性故に主体的・歴史的選択に関与 するものではないとしても、現働化された(actualise)体系は必ずしも倫理的評定 を免れるとはいえない23)。というのも、先に述べたように構造主義的活動は常に象徴 的意識による疎外を受けうるからである。極言すれば、体系の純粋性、言ってみれば その字義性(lettre)は理論的に定立されるのみであり、現実には‑社会において
は‑、多かれ少なかれ「イメージ」に堕した形でしか顕現しない。即ち、現働化し た体系は多かれ少なかれ率直であるしかなく、従って多かれ少なかれ疎外されない訳
にはいかないのである。であるとすれば、絶対的に肯定的なェトスとしての体系の字 義性は現働化された体系にとって回帰不可能な地平(ユートピア)でしかないという ことになろう。しかし、まさにこのような認識から倫理的判断の可能性、その必要性 が生まれてくるのである。そしてその基準とは、いまLがた我々が精確を期そうとし
た意味での「率直さ」の程度であり、それを実践する倫理的態度として要請されるの が意味の「中断・宙吊」である。この点を詳細かつ具体的に理解するには、世界につ いての倫理的主張に貫かれているとバルト自身が証している『モードの体系』 (1967) をこの観点から読解する必要があろう。
*
記号概念のパースペクティヴが変化したことにともない、神話批判は意味する体系 の形式的記述に取って代わられるように見える。確かに、この科学的態度は人間によ る意味創造の人類学的次元の発見に対応している。ここから『ミトロジー』以降のバ ルトの諸活動の科学的足取りが説明される。しかしながら、それは実証主義的といわ れる科学、ましてや科学主義ではない。バルトが構造論的意識を以て批判するのは、
まさに実証主義が掲げる類推の原理あるいは決定論的思考、それらの形式の神話的、
更には神学的性格である24)。 「今日の神話」以後、記号学的探求の客観的見掛けのも とに、倫理的態度が、確かに固有の意味での神話学とは違った角度からではあるが、
依然として(あるいはむしろより強固になって)現前しているのである。 『モードの 体系』は構造主義的局面におけるバルトの記号学のこれら二側面を証すことになろ
う。
以上が、 1967年の著作を取り巻く理論的かつ倫理的布置である。それはまたバル トの1957年以降の文芸批評の背景でもある。いずれの場合でも、イデオロギー批判 と記号学が相互に‑弁証法的といえる仕方で‑絡み合っているということを理解
して置かねばならないであろう。
Ⅱ 「モード」、あるいはブルジョア社会における記号実践の倫理的両義性
1) 「方法の書」
衣服は神話学者に対して自動車や食物と同じく神話的対象として現われうる25)そ れは物質的レヴェルで機能を持っているとすれば、知的レヴェルでは意味作用を行な うのである。使用の対象であるとともに価値の媒体である故に、それは「機能‑記号」
《fonction‑signe茅である26)。衣服がイデオロギー的概念のアリバイとなり、動機づ けられた記号をなすとすれば、その意味と記号を分析することは神話学者の務めに属 するであろう。
バルトが『モードの体系』で行なった分析は(直接には)神話学に属するものでは ない。事実、記号学者の関心の対象はシニフイアンとシニフイエの結びっきではない。
また、たとえ体系的なものであろうとも衣服の「潜在的27)」シニフイエを明らかにす
るという意味にすぎないのなら、それは衣服の解読でもない。 『モードの体系』にお
ける記号学は衣服という事象を解釈することに存するのではなく、衣服において現わ
れた意味の条件としての記号の体系、言い換えると、人間が衣服を記号の体系として
構築することにおいて創造する世界の了解可能性を再構築することを目指す。然るに
ここで言われる「モード」とは本質的に意味作用の体系なのである。このような意味
でバルトは記号学的関心の変化について語っており、その転回点は「今日の神話」に 位置づけられる。 「『ミトロジー』の後書きを書いて以来、観念、主題といったものは、
社会がそれらを捉え、意味する体系の実質と成す仕方程には私の関心を引かなくなっ た。 (…)その体系は形式的なものなので一連の構造論的分析に取り組むことになっ たが、それらは全て言語学の対象外の言語活動を定義するという狙いを持っている。」
{EC,p.155)ここでは「体系」という語を、神話が「コミュニケーションの体系」
(My,p.193)であると言われたときのように単に便宜的表現としてではなく、その 強い意味において、すなわち構造化された組織として理解しなければならない。同様 に「言語活動」という語も、シニフイアンとシニフイエの等価関係ではなく、構造に おいて規定される記号の体系の意に解さなければならない。
かくして、 『モードの体系』の目的は、意味作用の過程の分析あるいは記号の解釈 よりも、記号体系の再構築に存する。それ故、シニフイ工を発見する事よりも、体系 の再構築を可能にする技術、即ち方法の探求がその本質的な目標となるであろう。
「何かを語ろうと思うや否や、方法というものが問題となる。ところで、本書は方法 の書である。」 GSM,p.7)これは、単に方法が未だ確立されておらず、これから練り 上げていかねばならないという意味ではない。それなら、本書は一種弁証法的な形で、
方法論的探求であると同時に探求されっっある方法の応用の試みであるということに なろう。このような見方は、技術的に未発達で不十分であるという事実上の偶然的理 由を考慮するにとどまっている28)。 「著者がこの仕事を企て、その発表形式の構想を 抱いた頃、言語学は後に特定の研究者達が考えたような規範的モデルとなってはいな かった。既にいくつか業績があがってはいたものの、記号学は未だどの点から見ても 未来の学問であった。従って、当然のことながら記号学の応用的研究は全て発見、よ り正確に言えば探険という形を取ることになったのである。実際、その成果は非常に あやふやで手段はかなり初歩的なものだったのである。」 (idem.)しかし、既に示唆
した通り一種の認識論的転回があって、人間の人類学的本質は人間が生産する結果に よってではなく、生産する手段・過程(技術・手順)によって、目的によってではな く方法によって規定される。方法は目的に従属する道具にすぎないのではなく、それ 自身が即人間の本質を成すのであり、それ故人類学的価値として肯定されるのである。
方法の問題は構造主義的活動の存在そのものに関わる本質的問題として提起されてい る。方法と存在が接するこの構造主義的パースペクテイヴにおいて『モードの体系』
は「方法の書」と宣せられるのである。そして、 「方法が問題となる」と言われると
き、そこでは来たるべき‑学問のみでなく、人間の存在そのものが賭けられているの
である。
2)超言語学的システム
「方法」の学問上及び認識論上の本質的問題を明らかにした上で、バルトは「この 研究の起源と意味について説明させてもらいたい」と言う。それについては、事実上
の動機や科学的有用性‑それらは結局のところ上に述べたような歴史的状況に従属 する偶然の理由にすぎない‑とは別に、ある根本的な選択を引き受けねばならなかっ たことが述べられる。そして、その選択こそがこの研究の方法論および倫理において 本質的な意味を持っ、と言うのである。 「当初、現実のモード(実際に身に着けられ
たか、さもなければ写真に撮られた衣服)の意味体系を再構築することを旨としたが、
じきに現実の(あるいは視覚的)システムを分析するか、書かれたシステムの分析を するか、どちらを対象とするか選ばねばならないことに気がついた。」 (ibid.,p.8) 周知の通り、ここでは書かれた衣服が選択されるのだが29)、それは言語学と記号学の 関係についてソシュールが立てた命題の理論的更には認識論的転倒を合意している。
「人間は分節言語に繋ぎ留められている。このことを記号学的研究たるもの無視して はならない。よって、恐らくソシュールの公式を引っくり返して、記号学が言語学の 一部である、と言わねばならないであろう。」 (ibid.,p.9)30)バルトが言わんとするの は、固有の意味での言語学を言語外の非言語的なシステムに文字通り(従って、多少 とも濫用するという危険を引き受けつつ) 「応用」しようということではない。そう ではなく、本来の言語学的事象を超えてはいるが、分節言語によって貫かれ、また同 時にそれを貫いているような意味体系の一般的秩序すなわち「超言語学的システム」
《syst6me translinguistique》が要請されているのである。
超言語学的秩序を要請するに際し、バルトは二系列の理由を挙げている。その一方 は事実上の状況に関わる偶然的なものであり、もう一方はことの本質に関わっている。
実際上、現実の衣服の代わりに書かれた衣服を選択することには、方法論的に見てい
くつかの利点がある。第‑に、モード雑誌は「純粋な共時態」を提供してくれる。第
二に、書かれた衣服は美的実質あるいは実際的機能といった、意味作用からみて寄生
的な内容を持たない抽象体である。然るに意味作用こそ記号学の唯一固有の関心の対
象である。要するに書かれた衣服は衣服の意味をその純粋さにおいて与えてくれるの
である。他方、件の選択は実のところ「ある真理」から帰結し、その真理とは「人間
は分節言語に繋ぎ留められている」ということである。 「神話と儀礼が合理という形
態、要するに言葉[パロール]という形を取っている我々の社会においては、人間の
言語は単に意味のモデルであるばかりでなく、その基盤でもある。」従って「モード
の言葉に先立って衣服の現実を措定するのは理に適わぬことに思えた。正しい理屈に
従えば、反対に、現実を創設する言葉《la parole instituante》から創設される現実
《le r呑el qu'elle institue》へと向かうべきなのである。」 (ibid.,p.9)分節言語はそ の意味作用の精確さ、複雑さ、豊かさにおいて他の意味作用する体系に勝り、 「あら ゆる意味する秩序の不可避の中継者」となっている。かくして「モード」がその本質 において意味作用の体系であるとすれば、書かれたモードこそがモードの存在そのも のであることが理解されよう。
形式的にみて、非言語的な意味のシステムを中継する言葉(パロール)はラングか らみれば二次的なシステムをなすことになり、最早本来の意味での言語学の扱うとこ ろではない。それは、ラングを貫き、当の言葉自身その現働態のひとつでしかないよ
うな超言語学的システムに帰属する。バルトが言語学の「第二の誕生」を語り、その 再生によって言語学が「あらゆる想像された世界の科学」 (ibid.,p.10)になりうる と述べるときの言語学とは従ってこの超言語学の謂いであって、本来の限られた意味 での言語学のことではない。もとよりバルトがソシュールの公式を引っくり返し、
「記号学が言語学の一部である」と主張してみせるのも、この意味においてである。
非言語的システムを語る言葉は超言語学的分析の対象であり、本来の言語学が対象と する言語システムからすると二次的な故に「上位コード」 《sur‑code》と言い表わさ れもする。 「フランス語のある下位コードの一部が分析の対象となっているのではな い。それは、いってみれば言葉によって衣服の現実に押しつけられた上位コードであ る。というのも、後に見るように、ここで言葉は衣服を対象として語っているが、衣 服はそれ自体既に意味作用の体系なのであるから。」 {ibid., p.19)
超言語学は、実体としてはラングに属しそこに由来するが、システムとしてはラン グを超越しそれから区別されるあらゆる意味作用のシステムを扱う。ここで一例とし て文学という事象を思い浮べることもできよう。実際、文学は秀でて超言語学的シス テムであり、バルト自身しばしば文学とモードの形式的類似性を指摘している。文学 は、ラングにとって二次的システムをなすゆえ超言語学的規定を持つが、とりわけ寄 生的ともいえる仕方でラングから派生しており、それを自らの実質としている。いず れにしても、文学もモードも言語学レヴェルでは「パロール」 (あるいは「メッセー ジ」)であるが、超言語学レグェルではそれぞれ「ラング」 (あるいは「コード」)を なしているのである31)。
3)言葉(パロール)の両義的地位
ソシュールによって構想された「記号学」は、バルトによって定式化し直されるこ
とにより方法論的に甚大な貢献を受ける。というのも、これまで言葉の持っ創始的機
能を考慮に入れなかったために、ごく単純な事物体系をしか扱い得ず、またこれといっ
た成果をあげることもできなかった記号学に、理論的にも技術的にも飛躍的発展をも たらすと期待できるからである。他方、この新たな定式は、意味作用の体系は全て必 然的に言葉による中継を受け、言葉によって構築され、その基盤の上に成立するとい
う認識論的命題と密接に関わっている。
ところで、この基本的命題は自らのうちにある両義性を胎んでいるように思われる。
それは、言葉というものが人類学的な一般性を持つと同時に歴史的な特殊性をも合意 し得るという二重の性格に由来する。事実、一方で、言葉については、それが人類学 的なスケールで有効な方法論的能力であることを認め得るであろう。了解可能性とい
う構造分析にとって唯一関与的な観点からして、言葉はそれが持つ諸機能(知覚レグェ ルの固定化、知識の供給、強調)ゆえに意味作用への入り口とみなされるのである。
とりわけ、言葉は、その非連続的存在様態と非連続化する機能によって本来その在り 方が連続的である事物対象(衣服)を切り取り(非連続化し)、組み合わせ(分節し)、
了解可能な全体(体系)として構築する(構造化する)のに大いに貢献している。
(以上《Introduction : Methode.l. Le vetement ecrit.》並びに《I.Le code vesti‑
mentaire. 7. L'assertion d'espece》を参照。)
しかしながら、他方、言葉がこのような方法論的有効性、知的構築力を持っ故に人 類学的所与とみなされるとしても、それが現働化された場合には歴史的社会的決定を 受けてしまうということも認めなければならないだろう。バルトは、人間の言葉が
「意味のモデルであるだけでなくその基盤でもある」のは「神話と儀礼が合理すなわ ち言葉という形をとる」ような社会においてであると述べていたが、その言は神話と 儀礼を‑つまり象徴の、すなわち意味作用の体系を‑言葉なしで済ます社会が存 在するということを意味してはいない。それ故、人間は分節言語に繋ぎ止められてお り、意味の基盤となるのは言葉であるというバルトの認識論的命題に反するものでも、
その人類学的射程を減ずるものでもない。ただ、言葉が人間に一般的に備わった潜在 能力だとしても、それがひとたび現働化されれば、そのたびに歴史的な決定を受け特
ノ