唐 代 越 喜 鯨 鞘 の 住 地 と そ の 移 動 に つ い て
赤羽目匡由
はしがき
およそ中国東北地方からロシア沿海州地域にかけ分布した︑ツングース族とされる鯨鞠族の一部族に︑越喜蛛輻(以
下︑越喜と略す)がある︒越喜については︑八世紀から九世紀にかけて唐に朝貢した事実が知られ︑当該地域に興った渤
海が勢力を伸ばすや︑その支配下に置かれた︒そののち渤海滅亡後も存続したとみられ︑=世紀初頭に﹁越里古﹂(古
は吉の誤り)の名で始めて遼に朝貢し︑後に五国部の一つに数えられ︑かつその中心的部族にして現在の黒竜江省依蘭
県に拠った越里吉が︑越喜にほかならないという︒越里吉はOo5語で首長・案内者を意味するΦ芭の対音とされる︒
しかし越喜に関する史料は極めて少なく断片的で︑そもそも最も基本的な唐代越喜の住地さえ史料によって︑渤海の
西︑渤海の北そして安東都護府の東と︑異なって伝えられる︒具体的な比定地としては︑渤海西方とみて現在の吉林省
公主嶺市懐徳鎮附近を中心とする地域︑渤海西北方とみて東流松花江南岸の拉林河または阿什河下流域附近︑遼代越里
吉の位置を勘案し渤海北方とみて現在の黒竜江省依蘭県を中心とする地域︑渤海の東境で上京竜泉府の東五〇〇余里︑
史料的根拠はあげず︑鳥蘇里・松花二江の下流の間の地方︑または渤海上京の東北方でロシア沿海州東部沿海地域など
にあてる説があり帰一しない︒しかも論者には自己の論旨に合わせ相齪齪する史料の一方をとり︑残りを否定或いは無
視する傾向も見られ︑考察の手続きに問題が残る︒また︑越喜は八世紀半ばに渤海の支配下に入ったとみられる︒従っ
唐代越喜蘇鵜の住地とその移動について(赤羽目)二七一
メトロポリタン史学六[ゲ
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唐代越喜秣鞠の住地とその移動について(赤羽目)
七
メトロポリタン史学六号二〇一〇年一二月二七四
てその住地の解明は︑渤海が靱輻諸族へ影響を及ぼしてゆく過程を考える上で重要である︒
さらに︑唐代越喜の住地を遼代越里吉の住地から類推することもあるが︑そう考えるには時代を経てなお両者が不変
であったことが前提となる︒しかしそれは必ずしも自明ではなく︑当該地域に興起した夫余や減の前例に鑑みて︑住地
が移動した可能性も十分想定できる︒唐代越喜の住地を越吉里のそれとは別途に考えることは︑即ち唐代と遼代との間
の差異に注目することになり︑そしてそれが認められれば︑唐代越喜の住地を考えることは︑唐代東北アジア諸種族の
地理分布の問題に止まらず︑唐〜遼代に至る越喜社会の推移を明らかにすることに繋がるのである︒
そこで本稿では︑まず関連史料の吟味を通じて唐代越喜の住地を考える︒次にその考察結果をもとに︑越喜に対する
渤海の支配の展開を考え︑それを通して渤海の異種族政策の一端︑及び越喜社会の推移を筆者なりにうかがってみよう
と思・つ︒
一越喜鯨輯渤海西方位置説について
唐代越喜の住地は先述の通り︑所伝が一致せず議論が続いている︒そこでまず︑越喜の位置を渤海の西とする史料を
検討しよう(以下︑引用史料中の︻︼は割註︑()は筆者の註︒傍点・傍線・丸数字も筆者による)︒
回﹃冊府元亀﹄巻九五九・外臣部・土風一
振國本高麗︒其地在二螢州之東二千里一︑南接二新羅一︑西接二越喜鯨鞠一︑東北至二黒水靱輻一︒地方二千里︑編戸十鯨
萬︑兵敷萬人︒風俗與三局麗及契丹一同︑頗有二文字及書記一︒
回は振国即ち渤海が西のかた越喜蘇鵜に接すると明記する︒越喜渤海西方位置説の第一の論拠である︒第二に︑後掲
するが﹃遼史﹄地理志は︑遼の信州を越喜の故地とする︒﹃遼史﹄地理志は信憲性に欠けるが︑信州は懐徳附近に比定さ
れ(以下︑地名については適宜図1を参照)︑ωの渤海西方という記述と符合する︒そこで両者相侯って︑越喜の住地を
渤海西方とみなせるというのである︒
しかしこうした見解に対する批判もある︒第﹂に︑回と類似する次の史料では︑越喜の位置が示されないことによる
ものである︒
㈲﹃旧唐書﹄巻一九九下・列伝一四九下・北秋・渤海鞍輻(大)酢榮驕勇善レ用レ兵︑鯨輻之衆及高麗鯨儘︑梢稽蹄レ之︒聖暦中︑自立爲二振國王一︑遣レ使通二子突厭一︒其地在二
螢州之東二千里一︑南與二新羅一相接︑越悪蛛鵜︑東北至二黒水鞍鵜一︒地方二千里︑編戸十鯨萬︑勝兵敷萬人︒風俗與二
高麗及契丹一同︑頗有二文字及書記一︒
㈲傍線部は﹁越憲鞍輻﹂の前に﹁西接﹂の文字を欠き︑越喜の位置を伝えない︒和田清氏は︑﹃冊府元亀﹄には誤植が多
いから㈲に従うべきで︑回から越喜の住地を比定することはできないという︒
そして批判の第二は︑唐代越喜の住地を渤海北方とする所伝の存在によるものである︒﹃新唐書﹄巻二一九・列伝
一四四・北狭・黒水靱輻には︑
¢①初︑黒水西北又有二思慕部一︑盆北行十日得二郡利部︼︑東北行十日得二窟説部一︑又號二屈設一︑梢東南行十日得二莫
曳皆部一︒②又有二彿浬・虞婁・越喜・鐵利等部一︒其地南距二渤海一︑北・東際二於海一︑西抵二室章一︑南北表二千里︑東
西千里︒③梯浬・鐵利・虞婁・越喜時時通二中國一︑而郡利・屈設・莫曳皆不レ能二自通一︒今存下其朝二京師一者上附二左方一︒
④梯浬︑亦稽二大彿浬︼︑開元・天寳間ノ來︑献二鯨晴・紹鼠・白免皮一︑鐵利︑開元中六來︑越喜︑七來︑貞元中一來︑虞婁︑
貞観間再來︑貞元一來︒⑤後渤海盛︑鯨輻皆役二属之一︑不三復與二王會一 ︒
とある︒ω②から越喜を︑払浬・虞婁・鉄利等とともに渤海北方に位置した部落と解釈することができる︒和田氏はさら
に︑遼代越里吉の位置比定を根拠に越喜は渤海北方に位置したとして︑西方とする見解を否定する︒
以上︑越喜の住地を渤海西方と伝える記録をめぐる議論をみてきた︒本稿では先述のように︑遼代越里吉の住地から
一旦離れて唐代越喜の住地を考えるので︑和田氏の批判のうち︑越里吉の住地を根拠とした批判についてはひとまず考
唐代越喜靱輻の住地とその移動について(赤羽目)二七五
メトロポリタン史学六号二〇一〇年=一月二七六
慮の外におく︒しかしその他にも批判が提出されている以上︑勧の記述にそのまま従い︑越喜が渤海西方に位置したと
即断することはできない︒とはいえ︑その批判が妥当かというと︑それには実は疑問点も存在するのである︒以下みてゆ
こう︒
第一に︑渤海四至記事が㈲傍線部のように﹁西接﹂の文字を元々欠いていたと考えると︑その文章の解釈がむずかしい︒
これを﹁(渤海領は)越悪鞍鞠の東︑北のかた黒水蘇輻に至る﹂と読む向きもあるが︑前後の南北の境界に対する説明と
の釣り合いからみて疑問である︒この他︑試みに﹁越悪鞍鞠の東北は黒水韓鞠に至る﹂と読んでも︑渤海四至の説明に突
然越喜の位置説明が割り込む唐突さは否めない︒また後句にかけ﹁越憲鯨鞠より東北のかた黒水靱鵜に至るまで地は方
ゴ千里﹂と読んでも︑﹁越悪靱輻﹂以下のみが渤海領の広さを示す﹁地方二千里﹂を修飾するのは不自然であり︑何れも
その釈読を採りがたい︒回を疑う意見では㈲傍線部に対する説得的な釈読が提示されておらず︑文脈からみて㈲傍線部
に﹁西接﹂の脱落を想定するのがやはり最も無理がない︒
第二に︑㈲②に従い越喜を渤海の北とする意見をみよう︒先述の越喜を安東都護府の東方とする史料は次章で検討す
る︒㈲②に従う論者は多いが︑これには史料的に問題がある︒﹃唐会要﹄巻九六・靱輻には︑
ω①奮説︑黒水西北有二思慕鯨掲一︑正北纏東十日程︑有二郡利秣錫一︑東北十日程︑有二窟説鞍渇一︑亦謂一乏屈説一︑東
南十日程︑有二莫曳皆鯨渇一︒②弓黒フ渇界︑南與二渤海國徳里府一︑北至二小海一︑東至二大海一︑西至二室牽一︑南北約
二千里︑東西約一千里︒其國少レ馬︑國人能二歩戦一︒土多二 鼠・皮尾骨咄角・白免・白鷹等一︒(中略)︒③其彿浬・鐵利
等諸部落︑自二國初一至二天寳末一︑亦常朝貢︑或随二渤海使一而來︑唯郡利・莫曳皆三雨部未レ至︒⑤及二渤海浸強一︑黒
水亦爲二其所一レ屡︒
とあり︑﹃太平簑宇記﹄巻一七五・勿吉国にも同様の記事がある︒ここで㈲はωによったとみてよい︒﹃唐会要﹄は建隆二(九六一)年の成立︑﹃新唐書﹄は嘉祐五(一〇六〇)年の成立で︑﹃新唐書﹄は﹃唐会要﹄を参照したとみなされ︑内容も㈲
とωとで丸数字が対応する部分は︑字句は若干相違するが全体として対応しているからである︒ただ看過できない相異
もある︒回②が明確に黒水鯨輻の四至を述べるのに対し︑ω②は一見︑払浬・虞婁・越喜.鉄利等の四至を赴べるように
みえることである︒しかし㈲②の﹁其の地﹂とは文脈からみて﹁黒水蘇輻の地﹂と解するのが妥当と思われる︒そうでな
くともここは全体的にみて︑ωの記事を㈲では﹃新唐書﹄編纂時までに得ていた材料でもって改変したものと判断され︑
㈲②に従うことはできない︒従って㈲②によって越喜の位置を渤海の北とすることはできず︑批判は根拠を失うのであ
る︒
以上︑越喜渤海西方位置説に対する二点の批判の疑問点を指摘した︒その批判が疑問であることを確認した今︑次に
越喜渤海西方位置説を積極的に支持する史料的根拠を︑回以外に求められるかどうかについて考えてみたい︒検討の対
象は︑従来も注目されてきた﹃遼史﹄の次の記事である︒
回﹃遼史﹄巻三八・志八・地理志二・東京道
信州︑彰聖軍︑下︑節度︒本越喜故城︒渤海置二懐遠府一︑今慶︒聖宗以三地鄭二高麗]︑開泰初置レ州︑以二所レ俘漢民一
實レ之︒兵事囑二黄龍府都部署司一︒統州三︑未レ詳︑縣二︒(下略)︒
ω同右
韓州︑東平軍︑下︑刺史︒①本藁離國奮地柳河縣︒②高麗置二鄭頷府一︑都二督鄭・頷二州一︒渤海因レ之︒今慶︒太宗
置二三河・楡河二州一︒聖宗併二二州一置︒隷二延昌宮一︑兵事属二北女直兵馬司一︒統縣一︒③柳河縣︒本渤海輿喜縣地︑
併二萬安縣一置︒
まず㈲は遼の信州の沿革を伝える︒信州はもと越喜故城で︑渤海時代に越喜の故地に置かれた懐遠府の地であったと
いう︒次にqのは遼の韓州の沿革を伝えるが︑その管県である柳河県はもと渤海の輿喜県であったという︒輿喜は越喜な
ので︑噂喜県を管県にもつ韓州周辺を︑渤海時代の越喜の住地とひとまず考えることができる︒そして信州は懐徳附
遍に︑韓州は遼寧省昌図県八面城附近に各々比定される︒これらの地は渤海西辺にあたるので︑回・ωにより越喜渤海
西方位置説が主張されてきたのである︒しかし周知のように﹃遼史﹄地理志はその杜撰が指摘されており︑名称の一致か
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