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朔太郎の詩的空間   指示語「こ・そ・あ」

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(1)

茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学、芸術)六十二号 (二〇一三)一︱十二  はじめに

 朔太郎の詩的空間を構成する重要な要素に、指示語いわゆる「こそ

あど」がある。ここでは、朔太郎の詩におけると発話者と聞き手、つ

まり読み手の位置の関係について考察し、同じく多用される「ああ」

との関係を視野に入れながら、朔太郎の詩的空間の形成過程を検証す

る。『月に吠える』『青猫』を対象に、とくに「こそあ」について考察

する。 まず「こそあど」についての基本的な考え方を確認する。一般には、

「これ」は発話者と対象との距離の近さを、「それ」は中間の距離、「あ

れ」は距離の遠さを示している。しかし、ここでは対象と発話者との

距離が示されているが、発話行為が成り立つための聞き手の位置は考

慮されていない。「こそあど」の問題は、対象と発話者との距離の問

題であると同時に、発話者と聞き手の関係の問題であることを確認す

る必要がある。

 ここでは、このことについて、基本的な論考を概観しつつ論じてい

る岡村和江「代名詞とは何か」(鈴木一彦・林巨樹編集『品詞別日本

文法講座2名詞・代名詞』明治書院)を参考にする。(1)もちろん、

具体的場面における問題と、書かれた文脈上における問題は区別しな

ければならないが、それは論述に沿って自ずと分明化されるはずであ

る。  「ああ」については、すでに別に考察を加えておいた(2)。朔太郎

詩において「ああ」は、イメージによる展開に、発話主体の感情をそ

の原形を持ち込むことで、とくに『月に吠える』にあっては、行ごと

の独立したイメージを包み込んでいる。当然それは詠嘆的な感情の吐

露という、イメージ以前の、あるいは形象以前の、情状性としての主

体の提示としてある。「ああ」は、自律的なおのおののイメージが胚

胎する場所であり、あるいは、「ああ」は、行ごとのイメージが姿を

解消する場所、情的帰結点であるともいえる。

 たとえば「陽春」では冒頭部に「ああ」が示される。

ああ、春は遠くからけぶつて来る、

ぽつくりとふくらんだ柳の芽のしたに、

やさしいくちびるをさしよせ、

をとめのくちづけを吸ひこみたさに、

春は遠くからごむ輪のくるまにのつて来る。

(「陽春」部分)(以下傍線は筆者)

 冒頭部以下の十一行は、この冒頭部の一行が内包する容積を展開

したものであり、さらにいえば冒頭の「ああ」の展開である。「ああ」

は以下のイメージを胚胎した母体として機能している。また、たと

えば「見しらぬ犬」では、第二連、第三連、第四連の冒頭部に「あ

あ」が出現している。第二連、第三連は、「ああ、わたしはどこへ

朔太郎の詩的空間    

指示語「こ・そ・あ」

         

       

橋  浦  洋  志

(2)

茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学、芸術)六十二号 (二〇一三)二

行くのか知らない、」、第三連は、「ああ、どこまでも、どこまでも、」

である。第二連の以下四行、第三連の以下三行、第四連の以下五

行は、それぞれの「ああ」の潜在的イメージを展開したものとい

える。

半身は砂のなかにうもれてゐて、

それで居てべろべろ舌を出して居る。

この軟体動物のあたまの上には、

砂利や潮みづが、ざら、ざら、ざら、ざら流れてゐる、

ながれてゐる、

ああ夢のやうにしづかにもながれてゐる。

(「くさつた蛤」第一連)

 「くさつた蛤」では、一連のイメージのまとまりの最後に「ああ」

が示されている。

 はじめ五行は「蛤」のイメージが語られている。このイメージは

話者からあたかも独立しているかのように、イメージは話者の存在

を振り捨てたかのように、客体化され、自律的である。しかし、六

行目は、「ああ」によって、これまでの客体化されたイメージが、いっ

きょに主情化され、発話の主体が顕現し、各行で展開されたイメー

ジが生起する場所が示される。従って、「ああ夢のやうにしづかに

もながれてゐる。」は、これまでと違い、イメージは後退して、語

り手の情状性が前面に進み出ることになる。前述したように、これ

らのイメージは、この情状性としての「ああ」がもとともと内包し

ていたものでる。  一 一人称について

 一人称は、いわば「ああ」の話者が客体化されたものであり、この

ような人称化によって、発話者と読み手との間に「わたし」を中心と

した空間が生起する。読み手は、この空間において展開される「わたし」

を、詩の全景を支配する焦点として向き合うことになる。読み手は、「わ

たし」が展開する全景に対しては、徹底して受容的である。というのは、

このとき、詩は、発話者とその客体としての「わたし」との間で閉じ

られているからである。「わたし」が全景の焦点であるとは、この「閉

じ」を仮構することを意味する。

 発話者のことばは読み手にとっては無条件に提示される世界そのも

のであり、これを読み手は受容的に経験する。そのとき「わたし」は、

無条件に提示された世界を改めて「わたし」の周囲に引きつけ、「わ

たし」を取り囲む環境として世界を意味づける。あえて順序をつけて

述べれば、発話者は、まず無条件的世界を提示し、次に「わたし」に

よる世界の環境化を果たし、読み手は、この位相の移りを、「わたし」

を焦点としながら、詩的空間の広がりとして経験するのである。この

とき「わたし」は何らかの行為を伴っている場合が一般であり、行為

を担う主体として世界を環境化し、それとの交感的関係を形成する。

われは手のうへに土を盛り、

土のうへに種をまく、

いま白きじようろもて土に水をそそぎしに、

水はせんせんとふりそそぎ、

土のつめたさはたなごころの上にぞしむ。

(掌上の種」部分)

(3)

朔太郎の詩的空間 指示代名詞「こ・そ・あ」   橋浦三  一人称「われ」は、「土を盛り」「種をまく」「そそぎしに」という

行為を起点として、「われ」の周囲に自らの環境を形成しつつ、詩的

空間を獲得する。この拡充される空間の広がりと展開を、読み手は詩

的経験そのものとしてくぐることになる。

 もちろん、一人称が常に明示されるとは限らない。前述した「ああ」

もまた、一人称の情的な顕現であるように、語り方に「わたし」が託

されていることは珍しくない。

しづかにきしれ四輪馬車、

ほのかに海はあかるみて、

麦は遠きにながれたり、

しづかにきしれ四輪馬車。

光る魚鳥の天景を、

また窓青き建築を、

しづかにきしれ四輪馬車。

(「天景」)

 「天景」を例にとれば、反復される「しづかにきしれ」という叙法に、

語り手は色濃く映し出されており、「命令叙法」による語りの表情に

前景化して映されているといえる。このことは発話者が、必ずしも「わ

たし」として、一人称に客観化されていない抒情詩一般にいえること

であり、「不在」と見える発話者は、常に叙法として反映されている。

明示されない、客観化以前の「わたし」が、「ああ」という情動の表

出として顕現していることはいうまでもない。この点からいえば、「く

さつた蛤」におけるイメージは、イメージの作り方そのものが発話者

の表情であるといえる。しかし、「しずかにきしれ」という叙法に比

べれば、イメージに表情を読みとることは難しい。それだけイメージ は自律的なのだといえよう。 二 指示語について

 一人称は必ずしも明示的に語られるものではない。一人称が用いら

れていない、いわゆる「発話者」のみによって構成されている詩の場合、

前に述べた叙法とは別に、「発話者」が顕在化する場合がある。それ

が「指示語」である。

 ∧近称∨

 「この」は発話者と対象との距離の近さを示すが、「この」が成立す

るためには、当然ながら発話者の「この」という指示を受けとる相手

が不可欠である。(「どれ」についてはきわめて曖昧になるが、この問

題は今は触れない。)「この」は、相手に向かって対象を共有しようと

する発話者の意志の発動であり、対象に向けて相手を誘導する働きを

する。「ほかでもないこの」というように、不特定多数の中から特定

の対象を限定し、そこに相手を導いてくる、強い意志と誘惑の発動で

ある。従って、読み手は「この」によって、発話者の圏内に強引に誘

導され、対象に対して話者と等距離に立ち、対象に対して正対するこ

とが要求される。「この」によってつくられる文脈を読むことは、発

話者の誘惑的要求を受け入れ、発話者と同じ位置に立つことを受け入

れることなのである。

(4)

茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学、芸術)六十二号 (二〇一三)四 ああ、瞳 にもみえざる、

このかすかな卵のかたちは楕円形にして、

それがいたるところに押しあひへしあひ、

空気中いつぱいにひろがり、

ふくらみきつたご むまりのやうに固くなつてゐるのだ、

よくよく指のさきでつついてみたまへ、

春といふものの実体がおよそこのへんにある。

(「春の実体」)

 「春の実体」を幻視するきわめて主観性の強いイメージをさらに展

開するのに先立って、「この」という指示語を用いて、読み手を発話

者の立場に強引に引き込むことで、「かすかな卵のかたち」は、共有

するイメージとして安定する。換言すれば、「この」は、発話者が前

景化し、読み手が発話者に寄り添うことを要求することばとして機能

しており、「この」は、読み手に、提示される物事への参入を促し、

発話者への共鳴を強いる、誘惑に富むことばであることが確認できる。

ここでは冒頭の「ああ」が以下のことばを内包しており、「この」は

これから展開される「ああ」の場へ、読み手を誘惑している。

どこから犯人は逃走した?

ああ、いく年もいく年もまへから、

ここに倒れた椅子がある、

ここに兇器がある、

ここに屍体がある、

ここに血がある、

さうして青ざめた五月の高窓にも、

おもひにしづんだ探偵のくらい顔と、 さびしい女の髪の毛とがふるへて居る。

(「干からびた犯罪」)

 「どこから犯人は逃走した?」におけるとくに「どこから」「?」に

発話者の表情が見てとれるが、詩の全体性に関わる情状性として「あ

あ」が語られている。

 部屋の幻視空間として具体的なイメージが与えられているが、そ

のとき「ここに」という「近称」が用いられることで、読み手はいっ

きょに幻視空間内に立たされ、「倒れた椅子」「凶器」「屍体」「血」

を承認させられることになる。この強引な幻視空間の共有化を経て、

「さうして」に続く次のイメージ、「青ざめた五月の高窓」「探偵の

暗い顔」「さびしい女の髪の毛」がはじめて円滑に受容されること

になる。

 ∧中称∨

 「それ」はいわゆる「中称」であるが、やはり重要なのは、発話者

と読み手との関係である。「それ」は、発話者と受け手との間で、指

示の対象に対する共通の認識が成立していることが前提である。すな

わち、詩行中における「それ」は、「それ」以前に展開された内容を、

読み手との間に了解的世界として意味づけ直し、発話者と読み手とが、

「それ」について、共通の地平に立つことを意味する(3)。発話者が

このことを読み手に強いるのが、「それ」という発語行為である。「そ

れ」は、発話者と読み手との間における相互了解の創出であり、読み

手は「それ」の指示内容を全面的に容認することが求められる。この

容認があって初めて、「それ」は意味をもち、指示内容を獲得できる。

(5)

朔太郎の詩的空間 指示代名詞「こ・そ・あ」   橋浦五  改めていえば、読み手における「それ」は、発話者の地平への了解

的参入であり、発話者と対等の位置で「それ」の指示内容に対面する。

近称の「これ」が動的な誘惑性を強く発揮するとすれば、中称の「そ

れ」は了解と受容を前提としている。

ながい疾患のいたみから、

その顔はくもの巣だらけとなり、

腰からしたは影のやうに消えてしまひ、

腰からうへには藪が生え、

手が腐れ、

身体いちめんがじつにめちやくちやなり、

(「ありあけ」部分)

 この場合「その」は二行目冒頭部に出現している。「その」は当然

前行の「疾患のいたみ」を受けているが、読み手にあって「その」を

受けとる条件として、「その」の指示内容すなわち「疾患のいたみ」

をすでに了解、受容していなければならない。この意味で、「その」

は指示内容についてすでに承認されていることを前提とする。

 しかし、「ながい疾患の痛み」とは何か、この冒頭部においては、

読み手は具体的に了解してはいない。しかしまた、ことばが基本的に

物事の肯定的言述をその出発点にすることを考えれば、「疾患のいた

み」もまた当然無条件に肯定されなければならない。すなわち、未だ

了解しているとはいえない狭間にあっても、了解を先行的に強いてく

るのが「その」である。

 「その」は無条件の承認を前提にして、それを具体的に了解してい

く契機をつくり、後から遅れて、改めて具体的な了解を強いてくる働

きを持つといえる。  「その顔」以下は、「くもの巣だらけとなり」「腰からしたは影のや

うに消えてしまひ」「腰からうへには藪が生え」「手が腐れ」というの

ように、「疾患」の具体的なイメージが展開される。このことが有効

に働くのは、冒頭部で無条件に差し出された「疾患」を、「その」によっ

ていったん了承し、改めて遅延的に共有することで、これらのイメー

ジが読み手の中に受容される。

 では、中称が詩の冒頭部に来ている場合がどうであろうか。

そのじつにかはゆらしい むつくりとした工合はどうだ

そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ

指なんかはまことにほつそりとしてしながよく

まるでちひさな青い魚類のやうで

やさしくそよそよとうごいてゐる様子はたまらない

(「その手は菓子である」部分)

 中称「その」が冒頭に来ているので、「その」が受けとるべき先行

の事柄が示されていない。このような文体は、一般的な散文にはあま

り出現しない。出現するとすれば、発話者「わたし」の主観性が濃厚

な文章(小説など)においてであり、「わたし」の情状性の身振りが

「その」という発語に顕れる。この作品では、冒頭部「その」は未確

定のままに詩は進行するので、読み手はそれを確定すべく詩行を追う

ことになる。与えられるイメージを統一するのが三行目の「指」であ

り、ここで「その」は「手」であることがわかる。ここまで、「その」

は読み手を未確定のままに誘導することになる。従って、このような

「その」は、「この」ほどの強さはないものの、この場合は誘惑的意味

が顕著である。このことは、散文において冒頭部に「その」が出現す

る場合、例えば「その日は雨だった」のような場合にもいえる。

(6)

茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学、芸術)六十二号 (二〇一三)六

 この作品の題名は「その手は菓子である」となっており、「その」

が題名の最初に置かれている。「その」は、不特定な対象を漠然と指

示しつつ、対象に向かって読み手を誘導するが、あえて対象の明確化

を避けているのは、この場合は「手」が性的な禁忌を含んいるからだ

といえる。

 ∧遠称∨

 「あれ」について、岡村による三上章の『現代語法新説』からの引

用を参照する。

相手と話者とは「我々」としてぐるになり、楕円は円になる。(中

略)相手自身は消えることはないが、「ソレ」の領分は没収され

てしまう。円内がコレ的で円外がアレ的である。(中略)内外自

他の対立である。(4)

 「あれ」は「これ」と対立的である。しかし、ここで用いられている「円」

の意味を考えるとき、「円内」と「円外」という静的な構図でよいか。

問題は、「円内」と「円外」との動的関係である。

 「あれ」は、発話者と対象との距離を強調するものであり、発話者

は基本的に「あれ」の指示内容から遠ざけられている。同時に、この

距離を超えて手元に「指示内容」を引き寄せる意志が働いている。「こ

れ」が、聞き手に対する強い誘惑を発揮するとすれば、「あれ」は、

発話者自身が対象との関係を結ぼうとする意欲を基本として成立して

いる。もちろん、「これ」「それ」も発話者の意志が働いているが、自 らの意志的な引き寄せが強く働いているのは、「あれ」である。「円内

がコレ的で円外がアレ的である」というときの、「円内」「円外」は、

このような発話者自身の「あれ」との関係をも含み持っている。「あ

れ」は円周を超えて「円外」に関わり、「円」内に引き寄せようとする、

発話者の意志に支えられている。

もろこしの葉は風に吹かれて

さわさわ闇に鳴つてる。

お聴き!しづかにして

道路の向こうで吠えてゐる

あれは犬の遠吠えだよ。

  のをあある とをあある やわあ

(「遺伝」部分)

 「あれ」は、「お聴き!」を受けて「円外」の「犬の遠吠え」を手元

に引き寄せた結果、「犬の遠吠えだよ」という、語り手の表情を獲得し、

次行でそれがオノマトペとして顕現する。語り手の「あれ」に対する

意志的な働きかけが、この場合は「お聴き!」として顕在化している

といえる。「のをあある とをあある やわあ」は、発話者自らが引

き寄せた、「円外」の「遠吠え」として、「円内」に侵入する。

ああ 浦!

もうぼくたちの別れをつげよう

あひびきの日の木小屋のほとりで

おまへは恐れにちぢまり 猫の子のやうにふるへてゐた。

あの灰色の空の下で

いつでも時計のやうに鳴つてゐる

(7)

朔太郎の詩的空間 指示代名詞「こ・そ・あ」   橋浦 浦!ふしぎなさびしい心臓よ浦!ふたたび去りてまた逢ふ時もないのに。

(「沼澤地方」部分)

 「あの」は、前四行を受けて、「いつでも時計のやうに鳴つてゐる/

浦!」を「灰色の空の下」とともに発話者の場所に引き寄せる。その

後の行は、引き寄せられた「浦」についての「円内」におけるさらな

る展開である。

 近称、中称、遠称を改めて比較すると、近称「これ」は、対象の圏

内に位置する発話者の場所へ、読み手強く誘導する。中称「それ」は、

発話者と読み手との共通了解の場の創出を果たす。この両者はいずれ

も、発話者と読み手とが、指示対象を契機にしてどのような関係を結

ぶかという、両者の関係の創出を意味している。対して、遠称「あれ」

は、語り手と読み手との関係の変化を中心とするのではなく、指示対

象を発話者の圏内へ引き込む機能を果たしている。

 三「ああ」と指示語

 朔太郎の詩には「ああ」が頻出する。『月に吠える』と比較して『青

猫』に至って倍増する。抒情詩の場合「ああ」が語られるのは特異な

ことではないが、朔太郎の詩の場合はとくに多用されている。一篇の

詩の中に複数回用いられることも少なくない。「ああ」が行の冒頭部

に来ることを考えると、「ああ」以下は、「ああ」が内包する情状性を

具体的に展開したものと受けとることができる。これを修飾と被修飾

の関係で捉える考えによれば、「ああ」をそれ以下の詩行が修飾し規 定しているとして、「ああ」と以下の詩行は被修飾と修飾の関係であ

るともいえる。

 問題は、詩の場合に、「ああ」の内容、「ああ」を修飾しているのは

どの行かということである。

ああわたしはしつかりとお前の乳房を抱きしめる、

お前はお前で力いつぱいに私のからだを押さへつける、

さうしてこの人気のない野原の中で、

わたしたちは蛇のやうなあそびをしよう、

ああ私は私できりきりとお前を可愛がつてやり、

おまへの美しい皮膚の上に、青い草の葉の汁をぬりつけてやる。

(「愛憐」部分)

 最初の「ああ」の内容は、「わたしはしつかりとお前の乳房を抱き

しめる」であることは確かだが、以下三行に「ああ」は及んでいるの

かどうか。留意点は二つある。一つは、主語の問題で、二つ目は動詞

の問題である。

 主語は「わたし」と「お前」と「わたしたち」というように変化する。

「ああ」が「わたし」と強く結びついているとすれば、「ああ」が及ぶ

のは一行目までである。従って、「ああ」が支配する動詞は「抱きし

める」である。しかし、「ああ」をこのように狭く限定すると、以下

の詩行の流れが中断され、一行目は孤立することも否めない。つまり、

「ああ」は、「わたし」↓「お前」↓「わたしたち」という主語の変化

と、それに伴う「抱きしめる」↓「押さへつける」↓「あそびをしよ

う」という動詞の一連の変化を誘発する、あるいはこれらをすでに内

包する容積をもった「ああ」なのである。

 二回目の「ああ」については問題はない。「ああ」は「私」を主語

(8)

茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学、芸術)六十二号 (二〇一三)

とする「可愛がつてやり」と「ぬりつけてやる」を支配している。

 このように「ああ」は基本的には以下の行全体を内包して出現して

いると考えられる。このことは主語が「わたし」に固定されている場

合に顕著となる。

ああ、わたしはどこへ行くのか知らない、

わたしのゆく道路の方角では、

長屋の屋根がべらべらと風にふかれてゐる、

道ばたの陰気な空地では、

ひからびた草の葉つぱがしなしなとほそくうごいて居る。

(「見しらぬ犬」第二連)

 「ああ」はこの場合「わたしはどこへ行くのか知らない」ばかりで

なく、それをイメージとして展開している以下の四行をも内包してい

る。そして「ああ、」として読点が打たれていることが、その働きを

より強めているといえる。換言すれば、「わたし」は、すでに「ああ」

に内包されており、「ああ」の情状性が行為主体として客観化された

ものだといえる。「ああ」が行の冒頭に出現する意味は、「ああ」の支

配は以下の行の展開がはっきり一段落するまでは機能するということ

であり、「ああ」は詩の全体性に関わろうとして、それ故に冒頭部に

出現するのである。

 前掲の「春の実体」についていえば、「ああ、瞳にもみえざる、」の

「ああ、」は、最終行「春といふものの実体がおよそこのへんにある。」

まで支配するのであり、このことを明示的に支えているのが、各行末

の読点「、」であり最終連の句点「。」である。冒頭部に顕れた「ああ」

は、読点を越えて、あるいは読点ゆえに明確に句点までその効力は持

続する。  ところで見てきたように、朔太郎の詩には指示語が頻出し、同時

に「ああ」も頻出する。従って問題は、「ああ」と指示語とがどの

ような効果を詩にもたらしているかである。このことは、おそら

く朔太郎の詩の構造上の重要な問題であり、イメージやリズムの

選択とは別なところで朔太郎の独自な詩的世界を支えている。

 「ああ」は一般に感動詞と呼ばれており、話し手の心の動きが原型

的な声として表出されたものである。その意味では情動的であり具

体性を獲得してはいない。「ああ」の後に具体的ものごとが語られる

ことによって、「ああ」ははじめて、閉じられていた情状性が開かれ、

他者に対して展開されることになる。つまり「ああ」は詠嘆的自己表

出であり、ここにはいまだ発話者の場所が存在していない。発話行為

があるだけである。発話者の場所は、具体的な展開を待ってはじめて

獲得されるのだが、このとき、指示語は発話者と読み手との関係をそ

のつど創出し、ここに読み手によるテクスト内空間としての詩的空間

が生み出される。

 確認すれば、「近称」は、読み手への強い誘惑的関係をもたらすこ

とで、指示対象を中心に求心的空間を到来させる。「中称」は、語り

手と読み手とが指示対象を承認し前提とすることで、両者の承認・了

解的空間をもたらす。また、「遠称」は、発話者及び読み手の外にあ

る対象を手元に引きつけることで、発話者自身の空間を異化しつつ、

拡張する。

 散文の場合、指示語は文脈内の限定的された語句あるいは事柄を受

けるのが基本であり、文脈内に閉じられて完結している。従って、発

話者と読み手との関係がことさらに問題になることはない。その点で、

指示語は静的に機能しているといえる。

 一方、詩の場合、指示語は文脈内の限定的された語句あるいは事柄

(9)

朔太郎の詩的空間 指示代名詞「こ・そ・あ」   橋浦 を受けるといちおう考えられるが、しかし、指示内容はきわめて曖昧である。

かずかぎりもしれぬ虫けらの卵にて、

春がみつちりふくれてしまつた、

げにげに眺めみわたせば、

どこもかしこもこの類の卵にてぎつちりだ。

桜のはなをみてみあれば、

桜のはなにもこの卵いちめんに透いてみえ、

やなぎの枝にも、もちろんなり、

たとへば蛾蝶のごときものさへ、

そのうすき羽は卵にてかたちづくられ、

それがあのやうに、ぴかぴかぴかぴか光るのだ。

ああ、瞳 にもみえざる、

このかすかな卵のかたちは楕円形にして、

それがいたるところに押しあひへしあひ、

空気中いつぱいにひろがり、

ふくらみきつたご むまりのよに固くなつてゐるのだ、

よくよく指のさきでつついてみたまへ、

春といふものの実体がおよそこのへんにある。

(「春の実体」)

 「この類」の指示内容は、あえて限定してとれば「虫けら」であるが、

そうすると「どこもかしこも∧虫けら∨の卵にてぎっちりだ」とい

うことになり、この行の詩としての意味をなさない。従って「この類」

は、少なくても「かずかぎりも知れぬ虫けらの卵にて、/春がみつ

ちりふくれてしまつた、」を受けているとすべきであり、「この類」は、 「かずかぎりもしれぬ虫けらの卵にて、春がみつちりふくれてしま

つた、」そのような「類の卵」ということになる。六行目の「この卵」

も同様である。ただし、この場合、「どこもかしこもこの類の卵に

てぎつちりだ。」をも重ねて受けている。

 十二行目「この」は、一行目から十一行目までの全体を受ける「こ

の」として捉えられなければならない。「この」は特定の語句を受

けるのではなく、展開されてきた詩行全体を引き受けている。ここ

に、「この」という「近称」の重要な役割を指摘することができる。

すなわち、「この」とは、発話者がそれまで展開してきた詩的地平

そのものを指しているのである。前に「この」は読み手を発話者の

場所へと誘惑する働きがあることを述べたが、いい換えれば、「この」

は、限定された語句ではなく、語り手によって創出されたことば全

体、すなわち発話者によって切り拓かれた地平そのものを指すので

ある。従って、最終行の「この」は当然、それ以前の詩行全体を受

けていることになる。「この」は、発話者がが創出し、住まう、詩

的空間そのものということができる。

 これに対して、「中称」は限定的である。行目の「その」は「蝶

蛾のごときもの」、十行目は「(卵にてかたちづくられた)うすき羽」、

十四行目は「(楕円形の)かすかな卵のかたち」である。もちろん

多少の揺れと幅は考慮しなければならないが、指示機能は基本的に

は限定的に働いているといえる。

つめたきもの生まれ、

その歯はみづにながれ、

その手はみづにながれ、

潮さし行方もしらにながるるものを、

(10)

浅瀬をふみてわが呼ばへば、

貝は遠音にこたふ。

(「貝」)

 「その」はいずれも「つめたきもの」であり、語句を限定的に、客

体化して捉えている。三行目の「その」が前二行全体を受けてはいない。

 「春の実体」にもどると、「この」と「その」というそれぞれに違う

動性をもつ指示語を用いて、常に発話者と読み手との関係を動的に形

成していることがわかる。このことを踏まえて、「ああ」も含めて考

えてみる。

ああ、瞳 にもみえざる、

このかすかな卵のかたちは楕円形にして、

それがいたるところに押しあひへしあひ、

空気中いつぱいにひろがり、

ふくらみきつたご むまりのよに固くなつてゐるのだ、

よくよく指のさきでつついてみたまへ、

春といふものの実体がおよそこのへんにある。

 まず、「ああ」↓「この」↓「それ」↓「この」という移動がもたらす、

詩的空間の屈折を改めて確認したい。

 「ああ」は発話者の情状性の直接的表出であり、詩的衝動そのその

ものであり、詩へ向かう情的な起点である。ここではいまだ具体的な

ことばは隠れている。このような「ああ」が容積として抱えているこ

とばが、以下に展開されていくのであるが、最も感情的な濃度を保っ

たままのことばが「瞳にもみえざる」である。感情的な濃度が薄めら

れながら具体的イメージを獲得する契機をつくるのが、次行の「この」 であり、読み手を強くイメージの場所へ、発話者の詩的空間へと誘導する。これに対して、「その」は文脈上の限定的な指示語として、先

行のイメージを客体化してとらえ、それ故に、読み手は発話者ととも

に「その」の指示することばを指示内容として承認し、一定の距離を

保って受容する。以下三行は、「その」の展開である。最終行の「この」

に至って、もういちど、詩行全体によって創出された発話者の場所、「あ

あ」によって切り拓かれた情状性を基底とした詩的空間へ読み手を再

度誘惑して終わっている。

 朔太郎の詩の特徴の一つは、以上見てきたように、ああ」の多

用とそれに伴う指示語の多用である。「ああ」という、詩の原質と

もうべき情動を表出しながらこれを展開する際に、指示語を巧みに

用いることで、読み手は常に発話者との関係を強いられることにな

り、「指示」されることによって、自ずと読み手は詩的空間内での

位置を与えられる。読み手は、詩を外側から観照的に読むのではな

く、「指示」によって詩の中に引き込まれ、発話者との関係を持つ

ことで、読み手自身が自ずから詩的空間内に位置取り、空間内を指示という動性に導かれて回遊するのである。とくに『青猫』に

おいて、指示語が多用されていることは、朔太郎の詩的空間が、発

話者と読み手との位置関係のダイナミズムによって構築されている

ことを意味している。 茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学、芸術)六十二号 (二〇一三)十

(11)

『月に吠える』における出現数『青猫』における出現数

朔太郎の詩的空間 指示代名詞「こ・そ・あ」   橋浦十一

(12)

 注

(1)鈴木一彦・林巨樹編集『品詞別 日本文法講座2名詞・代名詞』明治書

院一二年十一月 ー一二一頁。

(2)橋浦洋志「朔太郎詩の『連用中止法』と『ああ』との関係について『月 に吠える』における詩空間の問題」茨城大学教育学部紀要(人文・社会

科学、芸術)第六一号二〇一二。

(3)同(1)で、「ソのなわばりは、自分以外に相手の存在を認めることによっ

て成り立つので社会的である」と述べられている。一〇六頁。

(4)同(1)一〇五頁。

 本文引用は、『萩原朔太郎全集第一巻』(筑摩書房 一五年五月)による。

(茨城大学教育学部国語教育教室)

(二〇一二年十一月十六日受理) 茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学、芸術)六十二号 (二〇一三)十二

参照

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