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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

ことばの構造と文化

著者 頓宮 勝

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 39

号 1

ページ 203‑215

発行年 1990‑11‑26

その他のタイトル Structure of Language and Culture URL http://hdl.handle.net/10105/1965

(2)

ことばの構造と文化

頓 宮   勝 (奈良教育大学言語文化教室)

(平成2年4月28日受理)

I.文法論と文化論(序にかえて)

「恵み」と「脅威」という相反する二つの性格を持つ自然の力に対して、生物は常に受動的な 態度を取らざるをえない(1)。さらにその自然の中で、死に到るまで「食」を追い求めなければ ならない生き物は(2)、同種族に加えて他種族との相魁を余儀無くされている。一般的に「食」

の対象となるのは他種族であり、その獲得物をめぐって分配・争奪が生じるのは主として同種族 間である。すなわち、 「共食」という現象は、よほどの理由がないかぎり生じないし、その規模 も小さなものであろう。このような環境の下に地球上の生命体は種族の存続という本能の命じる ままに、変化の激しい自然に囲まれつつも、 「食」をめぐって生存境争を繰り返してきたが、あ る「種」が登場してくるまでは、各種族間の生体個体数( 「食」の自給率)の均衡が大きく崩れ ることは無かったであろう(3)。すなわち人類という種が地球上での生存競争に勝利を収めるの に必要としてきた数多くの武器(4)の中で、ヒト自身はそのように意識しなかったかもしれない が、中心的や役割を担ってきた「ことば」という武器の獲得が、 「食」の自給率の均衡を崩す端 緒になったのではないだろうか。道具、火、ことばの使用により(5)、人類は他の生物に対して 圧倒的に有利な立場におかれ、その文明(文化"¥ (6)の扉を開けたとされるが、それは反面、自 然以外の力が始めて生態系の均衡に影響を及ぼし、そこに針の穴をも同時に開けたことを意味す

るのではないだろうか(7)。

地球上のそれぞれの地域の異なった環境(風土・場)の下で個別的に(8)誕生した人類は、

「ことば」による意思の疎通が可能になり、他の生物との生存競争において強力な協同関係を打 ち立て、その過程はゆるやかであるにしても、地球の支配者への道を歩みはじめることになる。

その反面、諸刃の刃である「ことば」は仲間(9)のうちに誤解を生じさせ、より複雑な対立関係 に導くきっかけを作ったと思う(10)。

ことばが人類の生活にもたらした大きな変化は多岐にわたったであろうoその中でも対立意識 をはらんだ協力関係の強化・確立と、たとえ表面的にではあるにしても(ll)、心情吐露による死 に対する恐怖感の負担軽減は、特に大きな変化ではなかっただろうか。後者が仲間うちでの信念 の拠り所という意味での宗教を生み出したという可能性を示唆したことはあるが(12)、さらにそ こから「笑い」を発見するようになったのだと思う(13)。

このように精神的に格段の飛躍を見せた人類は、肉体的な劣性を克服し、 「万物の霊長」たる べき道を歩みはじめ、観念の内容も具体的なものを中心としつつ、次第に抽象的なものへも及び、

それとともに経験や知識の伝達により活動範囲も広がっていったであろう。そして、この人類の 精神的・肉体的な活動範囲の広がりは次にさらなる画期的な転回点を迎えることになる。それは 別な「ことば」との出会いであり、また文字の使用である。両者の先後関係は現在のところ知る 術はないが、この両者が人類の生活、とりわけ精神(言語)活動に及ぼした影響は、他の生物に

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201 頓 宮   勝

冠たる人類の地位を決定付けたといえる。

思考の表現手段であることばを可視的にした文字の発展段階は、西田によれば先段階1 (結縄 など)と先段階2 (絵文字)を踏まえ、表意から表音へ四段階に分けて考えられ、少なくとも象 形文字を考え出した民族の文字は、いずれも共通して、表意から表音への道を文字発達の一つの 大きい転換期として通っていると言われている(14)。ここでは「ことば」と「文化」の関係を文 字形成の推移の上から一瞥し、筆者なりの「ことばと文化」観の概略を提示してみるo

「ことば」あるいは「文化」を考察するには、両者をそれぞれ個別に観察するか、力点を両者 のどちらかに置くか、あるいは平衡させて観察するかにより、様々な結果が期待される。前者の 観察からは言語学の諸分野の研究、後者の観察からは文化人類学をはじめとする様々な分野の研 究、そして両者の観察からは、最近盛んになっている比較文化(15)に属す様々な研究の成果が挙 げられる。さらに言語と文化の相関関係に注目しながらも、言語は文化の一部を反映するのみで、

文化の構造分析に言語は手掛かりになるが、その逆は不可能であるとする考えも見られる(16)。

筆者は、 「精神的な文化(17)とは思考(汰)であり、その思考(汰)を支え顕在化させる手段の 一つ(18)がことばである。 」と考えている。これを文章との関連からまとめると次のようなもの

となろう。

(1)       (2)       (3)

文字     ×      ‑ 具体(表意)一  抽象(表音¥ (19) (育)    抽象     ‑ 抽象    ‑  抽象

n

像(JO)    具体>抽象  一十 具体≧抽象 ‑  具体≦抽象    具体<抽象 関心対象   (ことだま)   (ことだま)   (言語)     (文化) (1)‑4の段階は伊藤の分類(21)に重ねれば、概ね(1)人類革命(2)農業革命および都市革 命(3)精神革命(4)科学革命 に相当する。次に、ことばによって人間が捉えようとするも のは、大別すれば具体的なものと抽象的なものとに分けられると思うが、現代の視点から当時の 人のそれらが明確に窺えるのは、 (3)以降の所産であろう(22)。さらに、人はことばそのものに も関心を向け始めたのも、表意あるいは表音という形にことばが落ち着いた後に、東西にほぼ同 じ頃に花開いた精神革命頃のことではないだろうか。多くの思想家が輩出し、哲学や文法などの 形でその関心を書き留めているが、その関心には表記手段の具体性と抽象性の違いが垣間見られ

る。表意文字が安定した中国では、名実一体(23)の思想が主流となり、現実的で具体的な思想潮 流を生み出した。一方、漢民族の領域に隣接する地域に流入し、大きな社会組織を構成するに至っ たアーリア民族は、表音文字を用いて様々な抽象的考察の所産を残し(24)、漢民族の社会を通じ て間接的に列島民族as)に文化的な影響を与えるようになる。それでは、そのような影響を受け た列島での文字表記とことばへの関心はどのようなものであったのか0

列島での文字と思考(汰)との関係は次のように考えられるO

(1 )       (2)      (3)     (4)

文字     ×      ‑   ×   ‑  抽象・具体混在 抽象・具体分離 (育)    抽象     ‑ 抽象    一十  抽象

像      具体>抽象  ‑ 具体>抽象 ‑  具体≧感性   具体<感性

(4)

関心対象   (ことだま)   (ことだま)    言霊 (文化) 但し、 (2)では都市革命を省き、プレ農耕時代(26)を充当し、 (3)は農業流入期・文字流入期 から平安初期、 (4)は遣唐使廃止以降の消極的な鎖国以後となる。また、 「ことだま」というの は、剥き出しの自然の中に置かれた古代の人びとが地球上の各地域で信じたであろう、ことばの もつ「神秘的な力」(27)である。その働きは遺跡の発掘物の中にしばしば見られる、占いや呪いの ために使われたと思われる道具に移り、何かをもたらしてくれるものと信じられたのではないだ ろうか(盟)。さらに、このことだま的な信仰が表音文字体系では、 「言語」そのものへの分析へ と向かい、表意文字体系では、ことばとそれがもたらす「像」の神秘的な関係への信仰へと向か わしめたのではないか。それが漢民族においては名実一体の思想を生み、現実的には誰など語そ のものに関する習俗を生み出したのであろう。しかしその表意文字を受け入れた列島では、こと だま一事・言霊(29)‑言霊‑真言‑念仏(30)と変容し、その段階を経過するにつれ、ある意味では

「ことば」への信頼を失っていったのではないだろうか(31)。換言すれば、ことばそのものの意味 よりも、その裏側に存在する意味ないし力への信仰へと戻っていったと言えるのではないか(忠)0 17世紀の積極的な鎖国によってもたらされた、自己規制による異文化接触回避という安定の中 で、過去への回帰の搬運が熟成され、国学への道が開かれていく。ことばへの関心も高まり、富 士谷父子(33)に見られるような、どちらかといえば感性に基づく文法論が著されるようになるが、

開国の嵐のすぎたあとは、次第に西洋文法の影響が穀くなってくる。しかし、ある風土に育った 思考法が生み出したことばや文化は、異なった風土に育った思考法が生み出した体系(文法論や 歴史観など)の適用のみで考えられるのではなく、一度その風土の中で内省され、その上で異なっ

た風土に育ったことばや文化との比較・対照に導かれるべきであろう。

以下においては、筆者の考えている楕円型文化(34)社会における思考法との関連から、それぞ れの特殊性を持った風土(場‑Field)が、その下で生活する民族(Self)の国民性を育み、その 両者の関係(Relation)は、ことば(⊂文化)が反映することが多いという考察の基礎を提示し ようと思う。

II. 場 (Field)(35)

風土が人間の単なる日常生活に物理的な影響を与えるだけでなく、その精神構造にも多大な影 響を及ぼすことは、比較文化論的な考察として著名な、和辻哲郎の『風土』以来多くの議論をよ んできた。筆者が措こうとする場としての風土は、和辻が見通したいわば巨視的で類型的な風土 ではなく、またその風土に育った歴史的な人間、すなわちI.で述べた「精神革命」前後の段階

を経た人間の思考法に影響を及ぼしたという意味での風土でもない。人類革命と農業革命の結節 点を中心とする「仲間」社会の発展途上において、人類が経験した生活の場を想定しているので

ある。

この生活の場は、それぞれの特殊性においてそこに生活をする生物の種類を限定する.それは また生物相互間の食の可能性をも決定付けるものとなり、生活様式にまでその影響は及ぶことに なる。この場に「仲間」 (36)社会を構成するに至った人類も、その生活の場としての風土の制約 を免れるわけではないo食の可能性を広げる技術(経験)と協力関係をより撤密にする「ことば」

で武装した人類は、他の生物との共存関係(37)の均衡を徐々に崩し始める。しかし、食糧の幅の

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2(渇 頓 宮   勝

点では、他の生物同様自然環境の命じるままではあるにしても、食に対する興味から(38)時好の 拡大を可能にした。

一方、その地域の食環境の特殊性はそこに生活する人々の行動様式にも影響を与えたと考えら れる。すなわち、食用動植物の管理技術の未熟な社会では、自然環境に従順な生物の生活形態に 従って、安住生活、移動生活、またはその両者のどちらかが優勢な生活のいずれかの選択を余儀 無くさせられたのである。一般的には、その収穫がある程度予測できる食用植物の多彩な風土で は安住生活が、それほど期待できない風土では食の資源を主として動物に依存する移動生活が、

その中間のところでは両者混在の生活が営まれるようになったのではないであろうか(39)。さら に、後のことではあるが(40)。移動生活を主とする集団はその食糧獲得に不安を感じたとき、定 住生活者の生活を脅かす存在となったのである(叫。

さて、この列島での風土と食糧と行動様式の関係はどのようなものであったのだろうか。

柳田国男以来、 「日本文化」の基盤は稲作文化であると考えられてきたが、照葉樹林文化の提 唱以来、その見解の再考が迫られている。一方、筆者は文化を物心両面から捉え、それは形成さ れる風土の影響を受けながら、それぞれ食文化とそれ以外の文化といわれるものとして現れ、そ のいずれもが死を肉体的(Physical) 精神的(Mental)に克服しようとした人間の試みの所 産であり、前者が後者の基盤になっていると考えている。もしそうなら、主食が大きな変化を被 れば、食文化以外の要素も大きく変わるのではないだろうか。したがって、稲作の導入によって 一応区分されている、縄文と弥生の間を移行と見るか、断絶と見るかで見解の相違が生じるであ ろう(42)。そこで以下においては、 「環境」が「食資源」を規定し、 「食資源」が「行動様式」

を規定することを佐々木の研究に基づき見てみることにする(43)。

最近の考古学の示す成果によると、列島の諸地域において、同系あるいは異系の文化がそれぞ れの自然に適応し、かつ東アジア北部(ナラ林帯)や南部(照葉樹林帯)から流入した文化の影 響を受け、縄文文化が形成されたと推測されているOその縄文文化に地域差(ォ)が見られるのは、

当時の列島の自然の多様さに対応した結果であり、特に東日本のナラ林帯は東北アジア大陸部と 比べ、自然に恵まれており、より成熟した内容をもつにいたる。一方、西日本においては、採集・

狩猟‑栽培民的な生活類型が稲作以前(45)の生活の基本的な形態であったo このような地域差を もちながら、縄文文化全体として世界的な視野からみれば、それ自体非常にユニークな特色をも つといわれてきた。土器をもたない採集狩猟民の多くが、定住せず移動の生活を送るのに対して、

東日本のナラ林帯を舞缶にした採集経済に基礎を置く社会は(46) 、その生活様式や社会構造に根 本的な変革を見せることなく、少なくとも数千年以上にもわたって存続し続けた、極めて定着的 な生活を送っていた(47)からであるo

約四千年前頃から、列島の東西の森林植生の違いがきわだちはじめ、それが東には豊かな食資 源をもたらし、安定はするが停滞的な生活が続く。西は東と比較して必ずしも自然に恵まれてお らず、それが人々を自然に改変して生活を営む方向へと向けた。このように程度の差こそあれ、

豊かな植物食資源に恵まれた列島では、漁勝・狩猟で得られる食資源は副次的であり、その経済 基盤は植物食にあったといわれる。このような環境が、東では原始的農耕を生まず、西ではそれ

が徐々に発展していったのではないかと見られている(48)。

さて、このような状況の下に複雑な内容をもつ水田稲作農業が、その技術の複合体とともに西 日本に輸入された(49)。植物食として味や栽培効率の点で既に改良を重ねられており、陸稲に比 べより高度な技術と、それを栽培する人々の定着性を前提とする緊密な共同作業が要求される水

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稲の中で、ジャポニカが選択されしかもかなりの速さで東日本へ広まっていったという事実は、

次のような推測を許すのではないだろうか。

(1)既に北九州周辺ではその高度な技術を、それほど苦労することなく受け入れることができ るまでに、植物栽培技術が発展していた。

(2)その高度な栽培技術の指導をそれほど支障なく受けることができた(50)。

(3)さらにそれが東へ広がるのにも、意志疎通の困難はあまりなかった。

(4)粘性の雑穀(モチ種)を好む傾向が列島の東西に共通していた(51)。

もしこの推測が許されるなら、当時の列島の自然環境に基づく生活の場は、都市革命を必要と しない(52)程度の共同体が、それぞれの地域の特性に従いながら、他の共同体との意志疎通にそ れほど困難を感じることなく、植物資源を主とした食の糧として定住生活を可能とするものであっ

たといえる(盟)0

III. 民族(Self)

各民族はそれぞれの暮らす土壌の環境の下で、もっとも適した生活形態を求めながらその確立 を計り、その過程でそれぞれ独自の文化を形成する。主として列島の北に花を咲かせた民族は、

同系もあり異系もあった、すなわちそのことばに相違があったであろう。またそれぞれが交流や 摩擦を繰り返し、あるいは孤立を守りながらその文化が伝えられまた断絶もしたことであろう。

しかし、山民の問額をも含めて、列島の東西の諸地域で圧倒的に優勢な地位を占めたのは定住民 であると思う(55)。この定住民は、土器や土偶(56)に見られるように表面的にはそれぞれ多様な文 化(思考法)を育ててはいるが、底の深いところでは共通するようなものを、この巨視的に見た 列島のうえで創って(5mいったのではないかと推測する。その共通するものとは、仮にいえば定 住性、縄張り意識(58)、消極性、保守性、呪術性などであり、その中で育まれたのがアニミズム 的な信仰なのではないだろうか。

それほどの広がりをもたない、内を指向する定住性をもつ民族の思考法は、それ自体も広がり をもたずまた内を指向するといえないだろうか。さらにその思考法を支えることばにも(59)、程 度は別にしてそれが反映されるのではないだろうか。筆者は前に(60)文化における語順の基本的 な重要性について簡単に触れた。ここでは動的な(Dynamic)ことばと静的な(Static)ことば という観点から(61)、日本語の特徴の二、三に触れてみたい。

日本語の動詞を西欧諸語のように、自動詞と他動詞に分類するには無理がある(62)。見慣れた 山を境とし、暮らせば暮らすほど見知らぬ人がいなくなる、外への発展性がほとんどない、後に は「社」を中山とする‑村落に収束するような比較的狭い空間に生活し、さらにその社会を離れ ることが極めて不利である場合には(63) 、可能な限り摩擦を回避し協力関係を維持しようとする 力が、他の社会よりも強く働く。その結果個人と個人が桔抗して互いに主張しあう関係は生じに くく、その象徴ともいえる代名詞の概念は生まれにくいと考えられる(64)。さらにその延長上に ある、動詞を媒介とした主格と対格の力関係は表面に現れず潜在化する方向に向かうのではない だろうか(65)。そのような社会の典型であると考えられる列島で話されていたことばの核は、後 に接触したことばの影響を表面では受けつつも、その社会の形態が根本的に変革されないかぎり、

維持されてきたと思える。したがって、日本語の動詞は自・他の別ではなく、新たな性質を付与 されるべきであろう(66)。

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次に動詞の連用形の問題を考える。中島文雄は、日本語の動詞はその名詞的性格により動詞の 自・他の区別がはっきりせず、英語の動名詞にあたるという(67)。さらに動詞の全活用形の使用 度数の約6割が動詞の基本形である連用形で、その形は名詞としても使われると、 『岩波古語辞 典』の説明を参考にし、辞典の動詞の見出し語について言及する。見出し語の問題は別として、

動詞の連用形を受けるのが、助動詞「た」系列の語である事実は、ことばの重要な要素である動 詞と名詞は、本来区別がなく、 「動き」に完・未完了の区別が意識され始めたときに、その両者 が別れ始めたことを示すのではないだろうか。

日本語の文そのものにも定住性がある。日本語には移動戊則の代わりに、置換や付加規則が適 用されることが多いのは、場から個我へという求心的な思考法と関係があるのではないだろうか。

その個我は、主格であれ対格であれ一般的には言及されず、終助詞的な(68)もので間接的に示さ れるO 日本語の会話は、いわばもちつきのようなもので、相手とのキャッチボールではないとい える。場の境界から適度に離れたところで、相手と適度な距離を置き、両者の間に頃合をはかり つつ発話が置かれるようである。

静的な表現( 「られる」 、 「お〜になる」など(69)¥ が年長者の行為に使われ、動的な表現 ( 「お〜する」普通の動作を示す語)が仲間うちで使われるのは、その表現が使われる両者の時 間的距離(年齢など)と空間的距離(地位など)によって、行為そのものを静的にすることが尊 ばれることを示すと同時に、距離的に近い関係が好まれることも示すのであろう(70)。

Ⅳ. 関係(Relation) 〔まとめにかえて〕

橋本文法や時枝文法をはじめとし生成文法に至るまで、日本語は深く研究され大きな成果をあ げてきている。この小論はそのような成果を視野に入れながらも、その趣旨は別なところにある ことはいうまでもない。その目的は、各宗教に見られる人間と場の関係を基盤に、筆者が今後展 開していくつもりである、 「ことば」と「文化」の考察に向けての、基本的な問題点を整理しよ うとしたものである。したがって、その意味を含め、日本の風土における「場」と「人間」の

「関係」を略述することで、この小論のまとめにしたい。

Fi C* * N,  (N2) RJ +f+F;

Fl :場面設定語 時と場所を表す副詞で、 「〜は」で示される名詞を含めるが、人間を指す 代名詞は会話の場面では言及されないことが多い。

N, (N.) いわゆる名詞で「〜は」以外の助詞をもつものであるが、 「〜が」や「〜を」と きには「〜へ」などは落ちる傾向にある。また疑問詞の名詞相当部分や動詞の連 用形の一部を含める。

R : N, (N.)の関係を示すもので、動詞や形容詞などo r : Rに感情など話者の意向を付加するもので、多くは助動詞。

F2 :場面完成語 Flと連動しその発達場面を完成するもので、多くは終助試o

上記の式を楕円型思考との関連でとらえれば、 *のところに焦点が来ると考えられるが、それ については今後の各論で触れるつもりである。

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(1)人類の科学による「自然」に対する挑戦は、ある意味では能動的な態度のように見えるが、結局 はその場で耐えるか(植物)安全なところに避難し、その力の通り過ぎるのを待つ(動物)といっ た手段の変形に過ぎない。

(2)一時的ではあるにしても、 「食」は人間を死という恐怖から、物質的に解放するものであり、

「ことば」は精神的に解放するものであると筆者は考えている。前者の延長上に「農業」が生ま れ、後者の延長上に「宗教」が位置づけられる。 cf.頓宮勝「間合いのことばと生活」 『日本語・

日本文化』 16号pp.29‑30. 1990 大阪外国語大学。

(3)何らかの理由である種が絶滅したり、また新しい種がこの生存競争に加わることがあったとして も、循環的な食体系の秩序はそれほど大きな変化を伴わず保たれていたであろう。

(4)鈴木孝夫は日本の国際化という観点から「ことば」に言及し、文化の受信から発信の手段として

「ことば」を武器と見なしている。 『武器としてのことば‑茶の間の国際情報学‑』新潮選書 1985。筆者がここで使っている「武器」という語は、相互関係の強化または排除のために他者に 対噂する個体が所有する(使用できる)道具・手段(instrument)という意味を含んでいる。

(5)これら三者の使用の先後関係は現在のところ知る術もないと思われるが、この三者に関する筆者 の現在の見解を述べれば次のようになる。道具という概念の下に、火を初めとする料理に収束す る可視的(物質的)な手段と、心理的な歓喜・不安などを分かちあうことを可能にする不可視的 な(精神的)手段であることばの使用が足並みを揃えた時に、人類の他の生物からの遊離が始まっ たと考えられるのではないだろうか。

(6) 「文化」と「文明」というこの両語の意義は、少なくとも筆者にとっては不明確である。従って、

これらの訳語の基になった原義から、文化‑農業(耕作) 、文明‑都市(化)という仮の等式を 示すに留まっている cf.筆者前掲論文p.36註(3)

(7)この針の穴は、理性が客観的に自然に対噂することが確立(18世紀のいわゆる近代科学が台頭) するまでは、ほとんど拡大されることがなかったゆえに意識されることはなかった。それ以後急 速に拡大しはじめたにもかかわらず、 「科学」が「宗教」を無力にし、人口増加に脅かされなが らも「食糧」の増産を表面的には可能にしたがゆえに、意識する横会を失ったのではないだろう か。

(8)人類・文明(文化)の始まり(展開)に関して、筆者は個別発生と影響発生に分けて考えている。

cf 筆者前掲論文P.37註(ll) 。

(9)それぞれ特殊性を持った風土に育ち、同一言語で意思の疎通を計り「生きる」という基本的に共 通する事柄に従事する‑集団の構成員であり、かつ異なったことばを使用する他集団との接触杏 経鼓していない段階のものを、ここでは「仲間」という。

(10)ことばを使用しない生物のあいだの争いは主として「食」をめぐっての争いであり、原図がなく なれば結果も消滅する。人類の争いも根本的には同じ原因に基づくものであるが、意思疎通の額 域が飛躍的に拡大された「ことば」獲得以降は、その原因は徐々に内在化し、観念的なもの(後 に触れる思考(法)としての宗教・文化)や感情的・心情的なものに包まれ、現代に到っている と思う。

(ll)有史以来、それがあるがゆえに生をさらに意識させる「死」からの精神的な解放は(cf.註(2) ) 根本的に解決のされないまま現在に持ち越されてきた。さらに宗教がその立場を急速に失い始め、

科学の宇宙進出により、極楽や天国などの心象が薄れはじめた今,宗教、次に科学が占めてきた この位置に新たなものが必要とされているという意味では、依然表面的なところで宗教はなんら かの役割を担わされていると言える。

(12)筆者前掲論文p.30.

(13)ことばのない世界に留まっている限り「笑い」は生まれない。その世界では生に対する執着や種 族保存を指向する本能の方が、死に対する恐怖感を圧倒していると思えるからである。したがっ

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210 頓 宮   勝

て、その感じ方(考え方)は明るい方向に傾くことがあるにしても、原則的には暗くも明るくも ない中立的なものかもしれない。相手の感じ方との比較対照により、ものの見方が暗い面にも明 るい面にも広がり、その均衡の変化が感情の起伏をより強めるものとして作用するように思える。

(14)西田龍雄「世界の文字」 『講座 言語』第五巻 pp.21 ‑22.

(15)欧米の日本学研究者以外に、特に日本人研究者の間で盛んになっているように思われる。また、

いわゆる日本人論・日本文化論なども裏返せば比較文化的な研究であり、これも含めるとすれば 相当数の研究が日本人の手になるものである。筆者はその原因の一つが、前掲論文で概略を示し た仮説構円型文化(思考)傾向、すなわち自分を確認するために、常に無意識のうちに他者の存 在を要求する、中心点を自己の内部に持たない思考法にあるのではないかと考えている。

(16)梅棒忠夫「対談 民族とコトバ」 『放送朝日』第249号1975朝日放送刊; 『人生読本 外国語』

1978 河出書房新社pp.123 ‑127再収。

(17)これに対応する物質的な文化が「農業」 (‑agri‑culture)である

(18)直観やひらめきの作用により、ことば以外の手段で顕在化させられるものに、絵画や彫刻などが あるといえる。

(19)西田、前掲書(pp.18‑20)では、表意文字の表音的な運用は、地球上の主だった文字のほとん どが経験し、中国においては仮借の原理であるが、この仮借の法がそれほど進展しなかったのは、

単音節を中心とする漢語の性格と、漢人の漢字字形自体に対する精神的な執着によるものであろ うと述べている。したがって、ここでは漢字の八割以上がこれに属するといわれる、形声字を主 体とした表意文字として安定させた中国語もここに含めて考える。

(20)ここで言う「像」とは、思考法を透過して得られる「似すがた」 (⊂意味)である。

(21)筆者前掲論文では伊藤の提唱する「新しい人類史の五区分」に従ったが、ここでは「食糧革命」

を使い、新たに「科学革命」の後に、科学のもたらした「食品革命」を置くことで、伊藤の言う

「精神文化」と「物質文明」の調和への段階としての筋道を考えているが、それについては別稿 を期したい cf.筆者前掲論文p.37.註(6) 、伊藤俊太郎『比較文明』東京大学出版会1985

pp. 14‑19, pp. 51‑78.

(22)もちろん(2)の段階のことばのいくつかは、研究者の努力により解読され、あるいは解読作業がす すめられており、その成果が大いに期待されるところであるが、 (1)の段階のことばは、土器やそ

の他の考古学的な遺物の形やそこに残された図柄などの間接的な解読に頼らざるを得ない。

(23)たとえば『老子』巻1の冒頭にいう、 「無名天地之始。有名高物之母。 」 〔名無し、天地の始め には、名有り、万物の母には〕 (引用文および読み下し文は、福永光司『老子』上1978 朝日 新聞社に従う。 )にもその一端が窺える。

(24)インドではVeda聖典の解釈学から言語の哲学的考察が行われ、語の言い表すものが個物であ るか類であるか、またそれは永遠であるのか造られたものであるのかをめぐり論争が始まる。そ の伝統を受けて古典サンスクリット文法を大成したのがP百mm に始まる文法学派で、前者の 問いに対しては、語の表すものは個物での場合もあり、類の場合もあるとした。また後者に対し ては、無常かつ意味を持たない音声の集合に、特殊な基体から意味が与えられ、語と意味の関係 は永遠不変であると考えた。この説の影響のもとにさらに言語哲学の考察を深めたのは、ことば の意味が、仏教などで主張されるように、人間の協約や習慣によるものではなく、ことばと対象 の結合は本来的なもので永遠であると主張したMim云rps云学派(紀元前三世紀頃成立、根本経 典の確立は二世紀頃で、以降多くの学者を生み出す。 )である。 (インドの言語に関する基本的 な解説については、 A. L. Basham, The Wonder that was India, pp.388‑401 1971 Rupa &

Co.が参考になる。 )

(25)筆者は、国号として「日本」が最初に用いられた歴史的事実の如何にかかわらず、 「日本」を形 容詞的に用いることができるのは、最澄・空海の時代から、ひらかなが市民権を得るようになっ た時代を経て、浄土思想が定着するようになった時代までのどこか一時点を考えている。すなわ

(10)

ち、それまではこの列島の民族にしろ文化にしろ、中国大陸・朝鮮半島から流入してきたものを、

それをもたらした人々とともに吸収・消化・熟成するに至る過程で、その後ある一定期間をおい て、この列島独自のものとして開花したのが、日本文化(民族)ではないかと思うからである。

従って、この島国で生起した諸々のことに言及する時、筆者は10世紀を境として、それ以前の事 柄に対しては、列島、それ以後の事柄に対しては、日本、でもって形容したいと思っている。

(26)この用語は、中尾左助が照葉樹林文化を始めて提唱し発展させていく中で使われ、さらに佐々木 高明が列島の東西の文化との対比の中で整理している cf.佐々木高明 『縄文文化と日本人一

日本基層文化の形成と継承‑』小学館1986 pp.28‑33.

(27)豊田国夫は、古代の人々の日常の言語生活は呪術や禁忌などの錯綜した、もろもろの言霊信仰の 中にあったであろう、と推測している。豊田国夫『日本人の言霊思想』講談社学術文庫1930

p.13

(28)ことだま的な信仰は各民族(各ことば)に共通して存在し、それがアニミズムやシャーマニズム を支えたのであろう。また、現代の言語学が「言語能力」を探り、言語の科学的(心理学的)な 分析により、その深層構造を突き止めようとしているが、それは人間のこころに存在する宗教的 な心理構造の解明に繋がるのではないだろうか。

(29)豊田は「万葉集」に現れる、 「ことだま」のコト音を表す漢字の表記を分析し、言‑事の融即観 から言への固定化の時期を、柿木人膚と山上憶良との間に言霊間の一つの変化のプロセスを見て いる。豊田、前掲書pp.98‑106.

(30)念仏の本来の意味からいえば、 Buddha‑anusmrti (or manasik云ra)、すなわち精神修養の上で 仏陀を心に観るという観仏が主体であったが、日本の土壌では「称名念仏」として根づく結果と なったのも、理性的なものを感性的なものに変えてしまう本来的な列島の性質に基づくのであろ う。

(31)文字を持たない民族が文字を持った民族と文化的に接触した場合に、起こりうる状況について、

西田は前掲書で(pp33‑37)三つの可能性を示している。これによると、列島の場合は(1)と(2)、

すなわち文字を借用し、 (もとは漢字であるにしてもその原型をとどめない)独自の文字(ひら かな)を作り出したことになる。別の角度から見れば、これは漢字という具体的な論理性を伴っ たものを借用する(漢文という外国語の意識でものを考える)一方、万葉仮名で感性という抽象 性を歌う、抽象・具体混在期を経て、文字上では抽象・具体分離の時期を迎えることになる。し かし思考法はそれほどの変化を受けることはなかった。論理的な仏教に懐くことなく、真言の一 側面である呪術性や念仏の霊威が歓迎される結果に導かれていったのが、その一例であろう。

(32)すなわち、具体例に則しながらも、インドという風土のうえでは、その内容が抽象的な倫理性に 昇華さぜるを得なかった仏教が、中国語に訳され、さらに漢文として理解されるようになる過程 において、その内容そのものも大きく変容していくのである。したがって、ここでは触れること はできないが、豊田がいう(前掲書p.163) 、密教と言霊思想の相関についても、インド密教 の持つ言葉観の分析を抜きにしては語れないであろう。

(33) 18世紀後半の国学者富士谷成章は、日本人として初めて体系的な語分類を試み、日本語の品詞を

な よそひかざし あゆひ

「名・装・挿頭・脚結」に分け詳細な研究を残している。また、その子御杖は、言霊の観点から

「て・に・を・は」を研究した。

(34)筆者の前掲論文は、楕円型文化論の枠組みを示したものであり、拙稿はそれを受けて今後展開し ていく、文化の型とことばの諸問題に関する、基礎的作業に当たるものである。

(35)ここで使用している「場」という語は、いわゆる言語学史上の「場所理論」で考察されるような

「場所」を言うのではないことは、 I.での考察から明らかであろう。すなわち、人間の思考法 に影響を及ぼすと思われる具体的な風土・自然環境の意味で使っている。しかし、池上嘉彦が場 所論的延長の上で詳細に考察をしている《運動》 と ≪静止》の側面は、以下の考察で触れる特定 の風土に置かれた人間の行動に見られる、定住的傾向と移動的傾向の思考法上に現れた一側面と、

(11)

212 頓 宮   勝

関連するものではないだろうか cf.池上嘉彦『 「する」と「なる」の言語学』大修館書店19

81 pp.ll‑25.

(36)註(9)を参照。

(37)生物の一員として、他の生物と相互に食べ、食べられるという食糧関係にあったこと。

(38)興味の対象ももちろんその風土の制約を受けることになるが、その制約そのものが各民族の基本 的な噂好の決定要因の一つになったと考えられる.したがって、主食と副食の関係や、どのよう

なものを主食とするかは人類史のかなり早い時期に基本的に決定され、その変更は容易なものに ならなくなってしまったのではないだろうか。稲の選択になぜジャポニカを選んだのか、またな ぜ粘性のもの(餅や納豆など)を好むのかは、その伝搬以前の列島の地域性に基づく食史と関係 するのであろう。 cf.上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化一束アジア文化の源 流‑』中央公論社1976 pp45‑62, ibid. pp87‑88, ibid. ppl28 ‑130

(39)生の維持、裏返せば死からの限り無き逃避を、主として植物に頼る生活者(人間以外の動物を含 むとしても)の行動範囲は、動物に頼るもののそれよりも狭く、また食の絶対量の急激な変化に 遭遇したときに、後者に比べ大胆に自らの行動範囲を広げる(変える)ことができない。すなわ ち、前者の生活は安定し、静的、自然服従(依存)型であり、後者のそれは不安定で、動的、自 然攻撃型といえるのではないだろうか。肉類が食用として、世界各地で偏見やタブーにさらされ、

好まれる肉の種類に優劣の差があるというのは、人種、文化による味覚の差、あるいは料理法の 差に基づいておこったことより、むしろ動物肉に対する感情的偏見の差がおこしたことだろうと、

中尾はいっている。 cf.中尾佐助『料理の起源』 NHKブックス1972 pp.127‑129。それは また、自然依存型と自然攻撃型移行期の精神構造の差にも基づくのではないだろうか。

(40)動物飼育技術と植物栽培技術を、それぞれ独自に身につけ、自然服従から自然克服の道へ踏み出 した、遊牧民族と農耕民族の基本形が確立した時代を指す。

(41)遊牧民の生活と、その農耕民族との接触に関しては、護雅夫『古代遊牧帝国』中央公論社 を参 照。また列島との関係に関しては、江上波夫『騎馬民族国家』中央公論社 が参考になる。

(42)筆者は日本列島の文化区分の概略を次のように考えている。 1.列島文化時代(〜稲作導入) 2.

列島文化変革時代(‑10世紀) 3.日本文化形成期(〜鎖国) 4.日本文化完成期(〜明治維新) 5.日本文化忘却期。またそれぞれの時代を代表する精神的な支えは、アニミズム(後に神道と 呼ばれるもの) 、理性仏教・民間道教・儒教、感性仏教(密教) 、感性仏教(浄土各派と禅宗) 、 儒教、科学(+国家神道)となろうが、明治維新まではそれぞれの時代にそれぞれが共存できる 環境にあった。もちろん、これらの「宗教」についてはさらに考察されるべきであるが、本論の 趣旨からはずれるので、それは別稿の主題としたい。

(43)以下の叙述については、佐々木、前掲書〔註(26) 〕 pp.7‑102を参照。

(44)この地域差はことばの差をも意味するのか、また諸地域の交流はどの程度まであったのかは今後 さらに考察されねばならないであろう。

(45)佐々木は「稲作」という語を「水田稲作農業」の意味に限定しているibid. p.39.

(46)縄文遺跡の比率が東西8対2である事実やその他の研究結果に基づき、佐々木は、東日本のナラ 林帯こそ、縄文文化の伝統をはぐくみ育てた母なる森である、と考えているibid. p.51.

(47)これは巨大な木柱をもつ大型の建造物の地や、竪穴住居の集落によっても示唆されるであろう。

一方、最新の報告では黒曜石の移動の事実から、約一万年前頃、列島に住んでいた人々がすでに 日本海をこえて大陸(アムール川流域や沿海州)にまで、行動範囲を広げていたのではないかと 推測されている。森浩一「海を渡った人びと」 『図説 日本の古代1』中央公論社1989pp.2 7‑28。もしこれが事実であることがさらに裏付けられれば、定住性の問題と環境の関係につい て新たな光が投げかけられることになろう。

(48)佐々木ibid, pp.43 ‑‑44、 49‑51、 151‑152.

(12)

(49)佐々木ibid, p 39。この場合輸入であるとするなら、列島諸地域のことばの差を考慮した上で、

「異なったことば」との最初の接触であるのかどうかが問薦となろう。

(50)ここで考慮しなければならないのは、稲の伝播の道が朝鮮半島経由であれ、中国大陸江南からの 直接の伝播であれ、その技術の授受に必要であったことばの間額であろう。筆者にはその授受に 関して、意思の疎通が全く困難であったとは考えられない。文献的には中国側の『漢書』などの 断片など以外に頼るものがなく、そこにこの文化接触に関する情報がえられない以上、その授受 に関する考古学的な摩擦の事実ないしは記紀神話にその摩擦の反映が見出されるまでは、大きな 抵抗はなかったと見るべきであろう。

(51)ただ味覚の面だけが、寒冷地に適さない稲を東(北)へ広める技術上の努力を推進させる唯一の 要因であったかどうかは疑問として残る。

(52)都市革命は、移動生活を主とする社会が食資源の充足度合いに応じて、定住化した社会に侵略し てくることに対抗して、後者がなし遂げたと思われる。したがって、列島にはその段階を経る必 要がなかったといえるのではないだろうか。

(53)さらにここで佐々木のいうように山民のことも考慮しなければならないだろう。佐々木は山民の 生活様式の特徴を、広い生活空間を舞台に、各種の生業活動が並行的に営まれる多極的な複合構 造をもつ生業‑生活様式であると述べ、その文化は稲作農民のそれとは、基本的な構造において 異なるものであり、決して一方が他方から派生したというようなものではないという。筆者は今 この考えに積極的に反対する材料をもっていないが、両者の関係は派生ではなく、稲作がもたら されたときに、それに融合する集団とそれから離散する集団とに別れ、次第に別の環境を求めた

(求めざるをえなかった)のではないかと考える cf.佐々木ibid. pp.214‑231.

(54)ここでいう民族とは、人間関係の最小単位である個人(S.)対個人(S2)を要素とする、 「仲 間」集団の延長上にある、ことば(L.)対ことば(L2)の段階に達した集団をいう。

(55)歴史時代の遊牧民と農耕民の攻防に関しては、護および江上の前掲書に詳しい。

(56)山折哲雄は土偶と埴輪の顔に注目し、前者を縄文人の顔、後者を弥生人の顔と論じ、頓原和朗が 形質人類学の立場から分類した現代日本人の4類型を受け、顔のうえから日本人を、縄文タイプ、

弥生タイプ、その両者の接触から生じた古墳タイプ、それに文化的な洗練を加えた人工タイプか ら成る、といっているのは興味深い。山折哲雄『日本人の顔‑図像から文化を読む‑』 NHKブッ クス1986 pp.24‑37.

(57)筆者は「風土」の一側面である地形に注目している。本州の中央部を除いてそれはど高い山はな く、火山が著しく多く地震も多いo 河川の流れは速くまたそれほど長くない。大きな平野がなく 海にも近い。しかも大陸部とは近くもなく遠くもない。このような、一般的にいってはぼ共通す る列島の地形もそこに生活する人々の生活形態に及ぼした影響は少なくないと思える。

(58)一般的にいって人の生活形態は、移住性から定住性の過程をたどる。また、定住性に移行したの ちも外への広がりを持とうとするものであるが、列島の場合は内へ収束する傾向が見られる。

(59)中島文雄『日本語の構造』岩波書店1987 pp.8‑13や、牧野成一『ことばと空間』東海大学 出版会1978 pp.1‑24では、日本語のもつ内的な発想について述べられている。

(60)筆者前掲論文 p.32およびp.39脚注37)

(61)基本的には、移住性‑動的なことば、定住性‑静的な言葉と考えるが、定住性への移行の時期お よびその土地の風土が両者の混合比率を決めるのではないかと思う。その意味では日本語は後者 の典型的なものであるといえる。

(62)中島ibid. pp. 60‑64.

(63)内へ収束する社会がそれほどの距離も置かず共存している場合には、いわゆる一匹狼の存在はど ちらの社会にも認められないのではないか。

(64)日本語には英語でいう、 Pronounの概念はないと考えている cf.筆者前掲論文pp.35‑36.

(13)

214 頓 宮   勝

(65)この候向は現代日本語で人称代名詞と称されるものに顕著に現れ、 DativeもAccusativeも必要 のないかぎり言及されることはなく、 「もの」においては言及されるものの、他動詞に必須であ

るAccusativeに関しては「を」が省略されることは珍しくない。

(66)これに関する現在の筆者の考えの一端を示す。日本語の動詞には、 「自然に起こる」 ・ 「自ら行 う」という両義の「自発性」という素性のどちらか一方または両方が与えることができ、次のよ うな関係が想定できる。

自然に起こる・開く(明ける) 壊れる 音がする    お持ちになる 見える 作られる 自ら行う  ・開ける     壊す  仕事(杏)する お持ちする  見る  作る

そして両者のどちらに重点が置かれるかは、相手との関係により異なり、簡略していえば 親しくない老(目上を含む)には前者、親しい者には後者と考えられる。また、これは荒 木博之のいう、 「れる・られる」の第一義が「自発性」にあることにも関係してくる0 (67)中島ibid, pp.64 ‑66.

(68) 「〜けど」など、話を途中で終える場合に使われるものを含めて考えている。

(69) 「〜たい」などの表県など欲望を表すことばが年長者に使われないのもその表現が直接的、動的 と感じられるからであろう。

(70)文全体を名詞化し、 「(Aは)行く」を「 (Aは)行くのです。」と、 「AはBです。」という 形に趣を変える「の」も、静的な表現への再移行と考えており、別稿で考察するつもりである。

(14)

Structure of Language and Culture

Masaru Tonguu

(De如rttnent of Language and Culture, Nara University of Education, Nara, 630 Japan) (Received April 28, 1990)

I have already discussed the outline of my hypothetical theory named Oval Theory in my recent paper inculded in "Japanese and血panese Culture , Osaka University of Foreign Studies, March, 1990, by referring to general relationship of language and culture with the environment. Peoples on earth have been developing their own languages and cultures under different environments, when each natural circumstance, I showed, must have played one of important roles on the creation of their own patterns of life and speech.

This paper focuses on three basic points necessary for my further comparative discussion on血panese way of thinking, which I termed oval way of thinking, with other cultures under the different environment from血panese one. In such a sence,

this paper is a new aspect of my above一mentioned theory, and a step to the subject

expouned in my succeeding papers. The relationship between this paper and the

l

previous one may be regarded, as it were, as Foundation of Oval Theory and

̀Introduction of Oval Theory .I

By dividing the paper into four sections, each named I. Grammar and Culture, II. Field, III. Self and IV. Relation, the author tried to disclose its contents. He also hopes that the theory itself will be critisized by many readers.

参照

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