MHPS マラソン部の井上 大仁(MHPS 長崎プラント建設部建設課)が 2 月の東京マラソンで 5 位(日本人 2 位)に入り、2 時間 06 分 54 秒の日本歴代 4 位の好記録をマークしました。 その走りが評価され、今年 8 月にインドネシア・ジャカルタで行われるアジア大会の代表にも決 定しています。MHPS マラソン部としては、4 年前のアジア大会、昨年のロンドン世界陸上に続い て日本代表を送ることになります。 井上は「暑さの中でどれだけ自分の走りができるか。勝負をしっかりとして、勝つことをテーマに アジア大会に臨みます」と決意を述べています。現在、8 月のアジア大会に向け、日本勢として 32 年ぶりの金メダルを目標に精一杯の準備を進めています。 マラソン部主将の木滑 良(MHPS 熱エネルギー機器製造部燃料電池製造課)も東京マラソンで 7 位(日本人 3 位)に入り、 2 時間 08 分 08 秒と好記録を残しました。 また、前回アジア大会(2014 年韓国仁川大会)銀メダルの松村 康平(三菱重工業(株)総務法務部長崎総務グループ)も、 昨年 11 月のシカゴ・マラソンで 6 位と、強豪外国勢がそろった海外レースで好成績を収めました。 駅伝においても昨年 11 月の九州実業団駅伝で 2 連覇を達成し、元旦のニューイヤー駅伝(全日本実業団対抗駅伝)でも 8 位と、2 年連続入賞を果たしています。 このような MHPS マラソン部の活躍を、昨年に続き、陸上競技専門ライターの寺田 辰朗さん(元陸上競技マガジン編集部) にレポートしていただきましたので、その取材内容をその①、②、③の 3 回に分けて紹介します。
2 時間 6 分台の記録的な価値は?
井上 大仁が東京マラソンで出した 2 時間 06 分 54 秒(日本歴代 4 位)は、MHPS のみならず、日本のマラソン界にとって も素晴らしい記録である。 日本はトップレベルの選手層ではケニア、エチオピアにかなわないが、世界でも 3 番目のマラソン大国であり、2 時間 20 分以内の競技人口なら実業団チームが多数ある日本が間違いなく世界一だろう。その日本で、2 時間 6 分台を出した選手 は過去 5 人しかいないのだ。 しかし近年、五輪&世界陸上で入賞者は出していたものの、男子マラソンの記録は停滞していた。 高岡 寿成(カネボウ)が、当時の日本記録である 2 時間 06 分 16 秒を出した 2002 年を最後に、2 時間 6 分台は 15 年間も 途切れていた。東京マラソンでは設楽 悠太(Honda)が日本記録を更新(2 時間 06 分 11 秒)。井上は 2 時間 6 分台を出し て敗れた初めての日本選手となってしまったが、それも日本マラソン界の進歩を物語る出来事である。 また、MHPS にとっても意義深い記録となった。 MHPS の前身である“三菱重工長崎”の監督だった児玉 泰介氏(現愛知製鋼監督)は、2 時間 07 分 35 秒の元日本記録保 持者である。日本のマラソン界をリードしてきた旭化成で選手だった 1986 年に日本人初の 2 時間 7 分台を出した功労者だ。 九州地区の実業団チームは旭化成だけでなく、安川電機、トヨタ自動車九州、九電工、黒崎播磨などのチームが、マラソ ンの日本代表選手を輩出してきた。 それに対して MHPS は 1982 年創部の後発チーム。 2 時間 10 分突破も松村 康平の 2014 年が最初で、つい最近のことである。だが同年アジア大会の松村、2017 年ロンドン世 界陸上の井上と代表を送り出し、今年 8 月のアジア大会にも東京マラソンの成績で井上が選ばれた。 そして井上の 2 時間 6 分台は、九州地区のチームでは初めて児玉氏の記録と、2 時間 7 分の壁を破ったことになる。 今の MHPS のマラソンの強さを象徴する記録と言えるだろう。2時間6分台でも悔しがった井上
それだけ価値のある記録を出したにもかかわらず、井上からは「悔しい」という言葉しか聞 かれない。 昨年の東京マラソンは、設楽を 38km 手前で逆転して日本人1位(2 時間 08 分 22 秒)。 胸のチーム名を指さしながら笑顔でフィニッシュした。 それに対して今年は無念の表情だった。「思い出すのも嫌なくらい悔しかったです。 設楽さんに抜かれたのが、昨年自分が設楽さんを抜いた地点とほぼ同じ。後ろから設楽さ んが迫って来たときにそれを考えたら、硬くなってしまいました。 一番悔いが残るのは、30km 過ぎに優勝したチュンバ選手(ケニア)がスパートしたとき、つい て行く決断ができなかったこと。どちらも雑念があったからだと思います」 マラソンはメンタル面が大きく現れる種目である。黒木純監督も 30km で躊躇しなければ、「リズムを維持できた可能性は あった」と指摘している。 だが井上はそのとき、日本記録と同じペースで走っていた。いわば極限状態である。その中で冷静な判断、より良い選択 をするのは極めて難しい。身体能力でまさるアフリカ勢に勝つにはそのくらい、ぎりぎりのところで勝負していくしか方法はな いのである。 もう1つの理由は、力が上の選手に挑み続けてきたことが、自身が成長できたバックボーンだと認識しているからだろう。 高校では全国的な実績は残せなかったが、山梨学院大入学後はチームのエースとして1学年上の大迫 傑や設楽 啓太・ 悠太兄弟、同学年の村山 謙太・紘太兄弟らに臆せず勝負を挑んできた。 井上が積極的な走りができなかったことを悔いるのは、挑戦する気持ちをなくしたら“自身の成長する要素もなくしてしまう”、 と思っているからだろう。 ほんの少しの躊躇を“雑念”と言えるところや、2 時間 6 分台を出してなお、さらに上を目指す闘志を持ち続けられること。 「長崎から世界へ」を成し遂げようとする井上の意識の高さが見てとれる。世界陸上の失敗と井上のトレーニング観
MHPS の強化スタイルは、「地道にこつこつと積み上げて行くこと」(黒木監督)。井上も自身のマラソン練習を話すとき、 「淡々と」という言葉をよく使う。 長距離のトレーニングは、いきなり高度な技術(フォーム)ができるようになったり、スピードが上がったりするわけではな い。その一日だけで、何かを劇的に変えられるわけではないのである。 練習を思いきりやることもあるが、疲れを残して翌日以降の練習に支障を来したらいけないことも多い。 井上が「淡々と」の意味を話してくれたことがあった。 「一日一日やるべきことをしっかりとやる中でも、きつい日もあれば比較的楽な日もあります。気持ちが乗るときも、そうでな いときもある。強弱を意図的につけるのがトレーニングですが、(計画と違った)波が生じないように、淡々とやり続けていけ ば我慢が身につきます。一日にできることの上限はあっても、一日一日を積み重ねていけば、試合よりきついことを我慢し たことになる。それがマラソンで最終的な差になって現れると思っています」 昨夏のロンドン世界陸上前も、井上は淡々と練習を行った。負荷の高いポイント練習も、 設定タイムを余裕でクリアしていたように見えた。それでも本番では 26 位(2 時間 16 分 54 秒)。 日本人 3 選手の中でも3番目と、結果を残すことができなかった。 「(代表の)使命感にかられてしまったところがあったと思います。これをやってやろうではなく、 これだけはやっておかないといけない、疲れも抜かなければ走れない、というような意識です。 注目されることは良いことなのですが、注目されて気持ちが高揚したときに、体の状態を しっかりと把握できなくなった。淡々とやっていたつもりが、力が入り過ぎていました。 自分の気持ちをコントロールすることの難しさを感じました」 それに対して東京マラソン前は、速いタイムで走ることにとらわれなかった。 ポイント練習を予定していた日に雨が降ったり、強風が吹いたりすればタイムが落ちるのは当然である。タイムを良くしたい から、という理由で練習日を変更したら、気持ちの弱さに左右されたことになる。タイムは悪くなっても予定した日に、できる 範囲でやれることに立ち向かった。 それは我慢の気持ちを積み上げて行くことにもなる。言葉の印象とは反対に、「淡々と」行うマラソン練習は、強い意思や 体調管理が必要とされるのである。アジア大会で本気の勝負を
アジア大会は2つの難敵が予想される。 1つは中東諸国に帰化したアフリカ出身選手の存在だ。以前は韓国がアジア大会で連勝していたが、現在はバーレーン やカタールの黒人選手が最大のライバルとなっている。 前回代表だった松村 康平も、ケニア出身のA・H・マフブーブ(バーレーン)に残り 200m で競り負けての銀メダルだった。 当時、井上は山梨学院大の 4 年生。 大学の先輩でもある松村が、その年の東京マラソンで 2 時間 08 分 09 秒の日本人トップ となった活躍を見て MHPS 入社の意思は固めていた。 4 年前の松村の走りの感想を問われた井上は、次のように答えた。 「レース後の写真などを拝見して、すごく悔しい表情をされていたことが印象に残ってい ます。そのときの経験が MHPS にはありますから、色々と学んで金メダルにつなげたい」 もう1つは 8 月のインドネシア開催ということで、間違いなく高温多湿の悪コンディションになる。 夏のマラソンは昨年のロンドン世界陸上で経験しているが、冷涼な気候のイギリスとは比較にならない。 幸い井上に、暑さへの苦手意識はない。夏の練習でもしっかりと走れているし、学生時代は 9 月に行われた日本インカレ でも活躍した。 悪条件のレースや、逆境に置かれたときに力を発揮してきた井上にとって、アジア大会 はチャンスなのかもしれない。 「暑さ対策として水分補給や直射日光対策などはすでに考えていますし、これからは 科学的なことにも取り組みます。 ただ、すごく構えてしまっては昨年の世界陸上と同じ失敗をしないとも限りません。 毎年やって来たことを1つ1つ確実にやっていく中で、練習の中で見つけてきた自分の 暑さへの耐性を、1つ上のレベルで身につけられたらいいですね」 客観的に見れば悪条件となるアジア大会の経験は、同じように暑さの中で行われ、 記録よりも勝負が優先される 2020 年東京五輪に役に立つと誰もが考えるとこころだ。 しかし、井上のアジア大会の位置づけは「東京五輪のシミュレーションではありません」と、はっきりしている。 「1本1本のレースに全力で取り組んでいきます。今はアジア大会までをどう組み立てていくか。そこに集中しています」 井上はそのスタイルで成長してきた。 高校では全国大会に行けなかったが、トラックはインターハイの長崎県予選、北九州地区予選に全力投球し、駅伝も長崎 県大会で 2 位と敗れたが、優勝校に本気で勝つつもりで挑んだ。大学ではトラックのインカレ、駅伝は出雲・全日本・箱根の 学生三大駅伝で、スター選手たちと真っ向勝負を繰り広げた。 MHPS 入社後のニューイヤー駅伝でも、日本代表選手たちに対等の勝負をしてきた。 目の前の勝負に本気で挑むことで、トレーニングや競技に取り組む姿勢の自分に足りない点を実感できる。勝負に対して 甘さが出れば、何が足りないかの認識も甘くなる。1本1本のレースに全力で取り組むことは、1日1日の練習を確実に行う 考え方にも通じる部分だ。 井上にとって金メダルを目標にアジア大会に全力で挑むことは、地道に積み上げて行く MHPS マラソン部の取り組みその ものである。木滑 良(MHPS 熱エネルギー機器製造部燃料電池製造課)の東京マラソンでの健闘が、 MHPS の強さをより印象づけた。2 時間 6 分台を出した設楽 悠太(Honda)、井上 大仁(MHPS) に次いで日本人 3 位の 7 位。 設楽と井上はアフリカ勢中心の先頭集団でレースを進めたが、木滑は 5km を 15 分 00 秒 ペースで進んだ日本人中心の集団でレースを進め、35km 付近から 1 人で抜け出した。 タイムは 2 時間 08 分 08 秒で、松村 康平の前 MHPS 記録を 1 秒だが上回った。 故障が多くマラソン転向に苦しんだ木滑の好成績は、MHPS というチームの可能性をより広げ た走りといえるだろう。
マラソンランナーへ変貌した木滑
2017 年の別大マラソン(3 位・2 時間 10 分 30 秒)と今年の東京マラソンとの違いに、木滑のマラソンランナーとしての成長 がよく現れている。 まず、マラソン練習期間に行った 40km 走の本数が違った。 「東京前は 7 本、そのうちの 1 本は 50km 走でしたが、1 年前の別大前は 4 本でした。6 本予定していたのですが、脚に不安 があって 2 回走れなくなったのです。以前は冬だけマラソン練習をするやり方で、いきなり距離を増やして脚へ負担が来て いたのでしょう。それをトラックレースがある時期にも、マラソンに向けた練習をする取り組み方に変えてみた結果です」 動きも長い距離向きにスムーズに変わってきた。 スピード型の選手に多いことではあるが、木滑も蹴りの強い走り方だった。 トラックではそれがタイムに結びつくが、マラソンになると後半の失速の可能性や、故障の リスクが大きくなる。上半身と連動して体全体を上手く使った蹴りの仕方なら良いのだが、 木滑の場合は「脚に頼る蹴り方」(本人)で故障を繰り返した。 「気負ったり、調子が悪いときに悪い動きが出てしまいます。以前と比べたら黒木監督 から注意を受ける回数は減っていますが、ニューイヤー駅伝前は何度も指摘されました。 東京マラソン前は少なかったですね」 木滑の動きが良かったかどうかは、レース後の脚の状態でもわかる。 初マラソン時は足裏にマメを作ってしまったが、その後のマラソンでマメができたことはない。 筋肉痛は 2016 年の北海道マラソンで優勝したときはそれほど出なかったが、昨年の別大レース後は「ガチガチに固まった」 という。それが今年の東京マラソン後は「それなりにありましたが、レース翌日も軽く走ることができた」と、軽めに抑えられた。 木滑がマラソンランナーらしくなった証(あかし)に他ならない。チームの変化と木滑の成長
木滑が故障を克服したことと、それと同時に代表レベルに近づいたことは、MHPS チームの変化とも密接に関わっていた。 以前は細部まで黒木監督が指示を出していたが、4~5 年前から「選手に考えさせて、選手の行動を待てるようになった」 (黒木監督)という。 その①の記事中で、悪条件でも練習を強行する方針を紹介した。黒木監督の就任当初は良い条件の中で記録にもこだ わって練習していたが、それでは高校・大学のエリート選手たちにかなわないと判断し、比較的早い段階で変更した。 黒木監督の“こうあるべき”という思いから、監督主導の変更といえた。 それに対して“選手に考えさせる”やり方は、監督の思いもあるが、チーム全体の意識が高くなければできない変更だろう。 高校や大学のチームでは選手に考えさせるスタイルは、なかなかとれない。 MHPS では特に、故障したときに選手自身が対処法を考える。どういった治療を行うか、リハビリ・トレーニングとしてどん なメニューを組んでいくか、本格復帰までの試合の選択をどうするか、などである。マラソンをやり始めた木滑の故障が多くなった時期が、チームの方針転換のタイミングと も重なった。 「監督からこんな感じでやってみたらという話はありますが、細かい対処法で『あれをやれ、 これをやれ』という指示はありません。その方が選手は、自分の体にしっかり向き合います。 自分は腸脛靱帯(ヒザの外側)を傷めることが多かったのですが、ここまでやったら故障を する、こういう脚の張り方になってきたら発症する、というところがわかってきました。2 年間 マラソンを走れませんでしたが、自身の体に対してそういう意識を持てたから、マラソンを 走れるようになったのだと思います」 前述の蹴る動きが木滑に出るときも、黒木監督は「蹴るなよ」とか「蹴っているぞ」と、短く 言うだけだという。指摘を受けた木滑自身が、どうすれば動きを修正できるかを考える。 「強引に走れば練習の設定タイムはクリアできたりします。しかし動きが狂っていたら故障につながりますから、体全体を上 手く使えていないのかな、疲れの抜き方がダメなのかな、と自分のやっていることを見直します」 木滑のマラソンでの成長は、そういった意識の高い取り組みが、チーム全体でできるようになったことを示している。
まさに「長崎から世界へ」を地で行く選手
木滑は松村と同期で 2009 年入社だが、高校から直接実業団入りした。箱根駅伝が社会的 にも極めて大きく注目される大会になり、男子は高校生長距離選手の大半が関東の大学に 進学するようになった。木滑のようなケースは最近では珍しくなっている。 松村と木滑の 2 人が入社した前の 2 シーズン、三菱重工長崎(MHPS の前身)はニュー イヤー駅伝に出場できなかった。 九州地区予選を突破できなかったのである。 チームとしてニューイヤー駅伝に出場できなかった 2 年間は非常に苦しい時期だったが、 松村がチームのエースとなってニューイヤー駅伝に復帰した。 2 年目から木滑も、スピードの必要な 3 区と 1 区で活躍し始め(2013 年には 1 区:区間 3 位、 2014 年には 1 区:区間 2 位)、MHPS は順位を上げ始めた。 井上が入社して、松村と交替してエース区間で快走するようになると、MHPS の順位はさらに上がり、2017 年、2018 年と 2 年連続入賞(8 位以内)を続けている。 しかし、木滑の最終目標は駅伝ではなかった。 駅伝がモチベーションになり、駅伝に真剣に取り組むことで課題も明確になったが、最終目標はずっとマラソンだった。 「自分が高校の頃、チームはニューイヤー駅伝に出ていませんでしたが、マラソンで小林(誠治)さんが活躍されていました。 一緒に合宿させてもらったりして、“自分もマラソンで強くなりたい”、と思いました。 当時の三菱重工長崎(MHPS の前身)は、高卒選手が主体のチーム。自分も、大学に行かなくても強くなれると思っていま したし、実業団なら高校を卒業したときから世界を意識して競技ができます。高校時代のスター選手が箱根駅伝で活躍した り、トラックで良いタイムを出したりすると、自分も負けられないと気持ちを高めていました。 実際、1~2 年目は無理でした が、3~4 年目頃から同じレースで戦えるようになった。会社名を背負って走るので、責任感も出てきます」 4 学年上の松村と同期入社だったこともプラスに働いた。 「力の差はありましたが、松村さんが 3 年目からマラソンで結果を出し始めて、自分の中に悔しい気持ちも生じて、やる気を さらに大きくしてくれました。当時の自分には、ポイント練習ですごく追い込んで、さらにジョッグの日でも 2 時間くらい平気で 走ってしまう松村さんのスタイルは、とても真似できませんでした。ですが、それを近くで見ることができたのは、とても大き なことでした。同じことを小林さんも行っていらして、MHPS の伝統なのだと聞いて納得できましたし、やっと自分もこの 1 年 でそれに近づくことができたのかな、と思います」 木滑も入社時からマラソンで世界と戦うことを「ずっと意識してきた」が、1 年前の別大で 2 時間 10 分台を出してもまだ、 そこを現実的な目標にはできなかった。アフリカ勢とはその時点で 5 分以上の開きがあったのだ。 その状態でも世界を直視できたのは、後輩の井上がいたからだった。 「彼は練習中に限らず、日常の会話でも“世界”という言葉を当たり前に口にしています。東京マラソン前も『外国選手に勝 ちたいですね』と、さらりと言っていました。オリンピックや世界陸上で戦うには、そういう意識にならないといけないのだなと、 わかりました」 その木滑も今、2 時間 8 分台を出したことで世界を現実的な目標と考え始めた。 小林を見てマラソンを志し、入社後に同期の松村を見てマラソンへの取り組み方を知り、後輩の井上と一緒に行動すること で世界に挑むメンタルを得た。木滑の世界へのマラソン挑戦は、MHPS の環境の中で実行に移されようとしている。 次戦のマラソンは、海外の高速レースに挑戦する予定だ。
松村 康平(三菱重工業(株)総務法務部長崎総務グループ)は間違いなく、MHPS のマラソ ンを国際レベルに押し上げた功労者だ。 松村以前にも三菱重工長崎(MHPS の前身)では 2 時間 10 分台を 3 人の選手が記録してい て、小林 誠治は別大マラソンで日本人 1 位をとったこともあった。 松村は自身 2 回目のマラソンを 2 時間 10 分台で走って先輩たちに並ぶと、3 回目のマラソ ンとなった 2014 年東京マラソンで 2 時間 8 分台を一気に達成した。 アジア大会代表(サッカーで言うところのA代表に相当)に MHPS で初めて選ばれた。 先輩たちの取り組み方を参考に、さらに一段高いレベルでマラソンに向き合った結果だった。 その松村が今、井上 大仁と木滑 良の背中を追う立場になった。 31 歳となり年齢的な難しさも生じるようになったが、松村は世界の強豪がそろった昨年 10 月 のシカゴマラソンで 6 位に入るなど、世界を狙う姿勢は変わらない。 松村の頑張りが結果につながれば、MHPS のマラソンの可能性がさらに広がることになる。