ローマ典礼における「サンクトゥス」の意義
The Meaning of Sanctus in Roman Liturgy
市 瀬 英 昭
Hideaki I
CHISEはじめに
ローマ・カトリック教会がその源泉への立ち返りと現代社会への適応(aggiornamento)を目指 した第二バチカン公会議(1962年~1965年)の最初の実りとして,第二会期の最終日である
1963
年12
月4
日,『典礼憲章』(Sacrosanctum Concilium=SC)が発布され,ローマ典礼の刷新が開 始された。典礼祭儀の簡素化が行われ,聖書の宝庫が豊かに開かれ,また,各国のそれぞれの母 語による祭儀が可能となって,当公会議が目指した会衆の祭儀への「行動的参加」」(Participatioactuosa)が現実となったことは特筆に値する。一方で,典礼祭儀における神秘性と超越性の希薄
化あるいは喪失という側面も指摘されている。行動主義(Aktionismus)の傾向が前景に出ること によって宇宙的―終末論的な次元が後退しているとの指摘もある1)。また近年の教会公文書におい ても典礼の「人間化」に対して警鐘を鳴らす指摘がある2)。もっとも,当公会議が教会刷新の方向 性を次のように明言しているのも事実である。「この教会は人間的であると同時に神的であり,見 えるものでありながら見えないものを備え,活動に熱心でありながら感想に専念し,世の中にあり ながら旅することを特性としている。しかも,教会においては,人間的なものは神的なものに,見 えるものは見えないものに,活動は観想に,そして現在はわれわれが探し求める来るべき都に向け られ,従属している」(SC2)。必要なことはこの方向性について再考することであろう。文中の「教 会」は「典礼」と置換することができる。教会刷新は典礼刷新なしにはあり得ないからである。ところで,典礼祭儀の存在意義については,SC 10で「人間の聖化と神に栄光を帰すること」
(hominum sanctificatio et Dei glorificatio)と言われており,その他の箇所にも典礼一般に関して
(SC 5,7),感謝の祭儀(以下,ミサ)以外の諸秘跡と準秘跡について(SC 61),教会音楽につい て(SC 112)同様の表現が見られる3)。絶えず問い返されるべきは,例えば,「現行のミサ」がその
1) A. Gerhards, Die Engel in der Liturgie bei Erik Peterson. Rezeptions geschichitliche Anmerkungen zur Karl Barth, dem Zweiten Vitikanum und der Erneuerung des Gottesdienstes in der Oekume, Gottesdienst und Engel im antiken Judentum und fruehen Christentum (Her. von J. Frey/M. R. Jost), Tuebingen, 2017, s. 408.
2)教皇庁典礼秘跡省指針『あがないの秘跡』(Redemtionis Sacramentm),カトリック中央協議会,2007年,18項等。
3) Index verborum cum documentis Concilii Vaticani Secundi(para. X. Ochoa), Roma, 1967参照。
ような超越的かつ内在的である神への向きなおりと人間の聖化つまり救いの体験となっているか否 か,であろう。典礼祭儀の意義はその内部の留まることはできない。K. W. イルヴィンが印象的に 述べるように,典礼祭儀は「結論的に言うなら,その最終的な目的の一つは祭儀を正しく遂行する ことではなく,日常生活を正しく生きること」(In the end, one of the ultimate purposes is not to get
the ritual right, but to get life right)
4)だからである。しかし,正しく生きる,善く生きるとは何か。このテーマは,個人的内面的な次元に限定される訳ではない。われわれは種々のつながりの中に置 かれているが,それは人間同士の次元に留まらない。それ以前にあるのは「生態環境」という場で ある。だから,典礼祭儀はこの課題にも取り組む責任を持っている5)。どのような視点で取り組む のか。ユダヤ教宗教哲学者
A. ヘーシェルは「人間が物理化学的および心的な実在性を備えている
ことについては議論の余地はない。だが,人間の意味,その霊的意義こそは答えを求めてやまない 問なのである。そして礼拝こそがその答えなのだ。なぜなら礼拝は,人間が究極的意味とかかわる 行為だからである。もし人間が究極的な意味とのかかわりに参入することができないとすれば,礼 拝は幻想だということになる。そしてもし礼拝が無意味だとすれば,人間的実存は不条理となる」と述べ6),世界における人間の位置づけの自覚を促している。東方教会を代表する一人である
A. シュ
メーマンは人間を「人間・礼拝する者」(homo adorans)と呼んでおり7),同じく東方教会の神学者P. エフドキモフも,人間はその起源からして「典礼的存在」であると述べている
8)。これらの発言はすべて人間存在が例外なく「超越に貫かれた存在」9)であることを表現するものであると言えよう。
多様な東西キリスト教典礼様式の中で「誠実で飾り気がなく壮麗な」10)と評されるローマ典礼に おいては,この超越性はどのように表現されているであろうか。H. I. ダルメは東方典礼の多様性 を紹介する概説書の中で「東方の召命は神秘への感受性が徐々に薄れていく西方との違いを明らか にすることである」と述べており11),この指摘は上に述べられた典礼刷新への批判と呼応している ようにも思われる。もっとも,西方教会といっても一様ではなくその中には「軽やかで詩的なガ リア人の典礼と,幻想的で熱情的なアイルランド人の典礼と,味わい深く瞑想的なゲルマン人の典 礼」12)など異なった味わいを持つ典礼様式が存在することを見過ごすことはできない。しかしなが
4) K. W. Irwin, Models of the Eucharist, New York, 2000, p. 330.
5) L. E. Mick, Liturgy and Ecology in Dialogue. Minnesota, 1999. D. C. Mcdougall, The Cosmos as the Primary Sacrament. The Horizon for an Ecological Sacramental Theology, New York, 2003等を参照。
6) A. J. ヘッシェル『人間を探し求める神―ユダヤ教の哲学』(森泉弘次訳),教文館,1998年,155頁。
7) A. シュメーマン『世のいのちのために―正教会のサクラメントと信仰』(松島雄一訳),新教出版社,2003年。
原文は同じであるが訳語については「賛美する者」(16頁),「礼拝者」(163頁)とされている。
8) P. エフドキモフ『神の狂おしいほどの愛―東方キリスト教の霊性をめぐって―』(谷隆一郎・秋山知子訳),新世社,
1999年,25頁。
9)K. リーゼンフーバー『超越に貫かれた人間―宗教哲学の基礎づけ』,創文社,2004年,特に254―265頁参照。
10) O.ガーゼル『秘儀と秘義―古代の儀礼とキリスト教典礼』(小柳義夫訳),みすず書房,2001年[4刷],84―85頁。
なお,ローマ典礼の特徴については,E. Bishop, The Genius of the Roman Rite, 1918。これは次の論文のAppendix として記載されている。C. Johnson/A. Ward, Edmund Bishop’s “The Genius of the Roman Rite”: Its Context, Import and Promotion, in; EL 110 (1996), pp. 401―444. そこではローマ典礼の特徴が,simplicity, practicality, garavityにある と表記されており(p. 437),その後の共通理解となった。
11) H. I. ダルメ『秘義と象徴―東方典礼への招き』(市瀬英昭訳),新世社,2002年,71頁。
12) O. ガーゼル,前掲書,84頁。さらに,阿部善彦「東西キリスト教における神化思想」『テオーシス―東方・西
ら,いずれにしても超越的契機を欠いた典礼はキリスト教典礼ではあり得ず,この点に関する限り ローマ典礼も同様である。なお,超越的次元を示す「天」(caelum)という語については,P. エフ ドキモフの表現に倣い,「絶対が相対の中に一瞬,顕れる場」と理解しておきたい13)。
以下,現行のローマ・ミサ典礼書の「サンクトゥス」を取り上げる。それは,通常式文(キリエ,
グロリア,クレド,サンクトゥス,アニュス・デイ)の中でも「サンクトゥスは通常式文の最も古い,
また重要な歌である」と見なされている14)からであり,サンクトゥスを検討することで,見過ごさ れがちな典礼祭儀の「超越的次元」―それはキリスト教典礼の生命線である―の重要性が浮き彫り になると思われるからである。後に見るように,サンクトゥスの由来等は非常に複雑であり定説は 存在しない。しかし,現在,カトリックのミサをはじめ多くの典礼様式の中に構成要素としてこの 賛歌が位置を占め,司式者と会衆によって実際に歌唱あるいは朗誦されている(lex orandi)こと は事実である。ゆえに,サンクトゥスについてわずかでも理解することができれば,第二バチカン 公会議が推奨する典礼への「行動的参加」がより充実した次元で体感されると思われる。本小論で は,この賛歌の由来について一瞥し(1),キリスト教のその受容を簡潔に提示し(2),ローマ典礼 のミサにおけるこの賛歌の位置づけの考察を経て(3),サンクトゥスの典礼的機能とその実践を検 討し(4),最後にサンクトゥスの霊性について短く言及したい(5)。
1.サンクトゥスの由来をめぐる歴史的一瞥15)
現行のミサ式次第が歴史の中で徐々に形成されてきたことについては論を俟たない。その原型を
方教会における人間神化思想の伝統』(田島照久・阿部善彦編),教友社,2018年,18―37頁参照。
13)「『天から降った』とは相対の中への絶対の降下のことである」(『ロシア思想におけるキリスト』古谷功訳,あ かし書房,1987年,132頁)。
14) J.ユングマン『聖体祭儀―ミサ典文の中心思想』(土屋吉正監修),南窓社,1968年,76頁。J. A. Jungmann,
The Mass of the Roman Rite. Its Origins and Development, vol. II. (tran. by F. A. Brunner), Maryland, 1992, pp. 128―
138, esp. p. 128.
15)基本的な研究書として次のものを参考にした。B. D. Spinks, The Sanctus in the Eucharistic Prayer, Cambridge University Press, 1991. R. Taft, The Interpolation of the Sanctus into the Anaphora: When and Where? A Review of the Dossier, Part I, in; OCP 57 (1991), pp. 281―308. Part II. In; OCP 58 (1992), pp. 83―121. R, Taft, Il Sanctus nell’anafora.
Un riesame della questione, Orientalia Christiana, Roma, 1999(これは上記英論文の本人による伊訳であるが,英 語版出版後に出たG. WinklerやC. Giraudoらの論文や著書をめぐるEpilogoが付されている)。G. Winkler, Das Sanctus. Ueber den Ursprung und die Anfaenge des Sanctus und sein Fortwirken, PIO. Roma, 2002. なお,G. Winkler のサンクトゥスとエピクレーシスに関する研究については,M. E. Johnson, The Origins of the Anaphoral Use of the Sanctus and Epiclesis Revisited; The Contribution of Gabrierl Winkler and Implications, in: Crossroad of Cultures.
Studies in Liturgy and Patristics in Honor of Gabriel Winkler (ed. by H. J. Feulner/E. Velkovska/R. Taft), Roma, 2000, pp. 405―442および以下の要約版を参照する。M. E. Johnson, Recent Research on the Anaphoral SANCTUS:
An Update and Hypothesis, in: Issues in Eucharistic Praying in East and West (M. E. Johnson), Minnesota, 2011, pp.
160―186を参照した。その他,M. J. Moreton, The Significance of the Sanctus in the Anaphoral Prayer, in: STP 10 (1970), pp. 396―400. H. Eising, Die Bedeutung des Sanctus, in: Gemeinde im Herrenmahl. Zur Praxis der Messfeier (Hg. von Th-Mass-Ewerd/K. Richiter), Freiburg/Wien, 1976 (2. Aulf.), s. 297―302. 全体的展望のためには,C. T. R.. R.
新約聖書に見つけることができるであろうか。使徒言行録にはその原型らしきものの描写は存在す る。紀元
80
年代の作と言われるこの書には次のような記述がある。「彼らは,使徒の教え,相互の交わり,パンを裂くこと,祈ることに熱心であった」(2,42)。「毎 日ひたすら心を一つにして神殿に参り,家ごとに集まってパンを裂き,喜びをと真心をもって一緒 に食事をし,神を賛美していた」(2,46)。もっとも,P. F. ブラッドショーが初期キリスト教典礼 に関する文書一般の性格を表現する語を使うなら,これらは事実の描写(describe)というよりも こうあるべきという理想像が記されている(prescribe)と見ても差し支えない16)。そこに現在の意 味でのミサ式次第が書かれているわけではないが,最も基本的な「集まる」という行為の中での「パ ン裂き」そして「神への賛美,祈り」は記されている。2世紀初頭のシリアに由来する『ディダケー』
(『十二使徒を通して諸国民に与えられた主の教訓』)には,「主の日毎に集まって,あなたがたの供 え物が清くあるように,先ずあなたがたの罪過を告白した上で,パンをさき,感謝を献げなさい」
(14章)とあり,祈りの内容についても
10
章に記述がある17)。しかし,ここにも式次第の詳細とい うものはない。その後,150年ころのユスティヌスの資料には,しかし,すでに現在のミサ式次第,その骨格がより詳細に記録されている。「太陽の日と呼ぶ曜日には,町ごと村ごとの住民すべてが,
一つ所に集い,使徒たちの回想録か予言者の書が時間のゆるす限り朗読される。朗読者がそれを終 えると,指導者が,これらの善き教えにならうべき警告と勧めの言葉を語る。それから私共一同は 起立し,祈りを献げる。そしてこの祈りがすむと,前述にように,パンとブドウ酒と水とが運ばれ,
指導者は同じく力の限り祈りと感謝を献げるのである。これに対して会衆はアーメンと言って唱和 し,一人一人が感謝された食物の分配をうけ,これに与かる。また欠席者には,執事の手で届けら れる。次に,生活にゆとりがあってしかも志のある者は,それぞれが善しとする基準に従って定め られたものを施す。こうして集まった金品は指導者のもとに保管され,指導者は自分で孤児ややも め,病気その他の理由で困っている人々,獄中につながれている人々,異教生活にある外国人のた めに扶助する。要するに彼はすべて困窮している者の世話をするのである」18)。
ところで,これらの記述には,キリエなどの通常式文も,また「主の祈り」も入っていない。「聖 体制定語」と言われる箇所も含めてまだ明記されていない。これらは典礼史の中で,徐々に挿入さ れてきたものである19)。上記のユスティヌスの箇所で「祈りと感謝を捧げる」という表現で描写さ れているのは,典礼史の初めから存在する部分で,それが現在のローマ典礼の「奉献文」でありミ
Hayward/A. Louth, art. Sanctus, in; TRE 30 (1999), s. 20―29参照。
16) P. F. Bradshaw, The Search for the Origins of Christian Worship. Sources and Methods for The Study of Early Liturgy, Oxford, 2002 (2ed.), p. 95.
17)「十二使徒の教訓」(佐竹明訳),『使徒教父文書』講談社,1980年(2刷),19―27頁。杉崎直子訳「十二使徒の 教え」『中世思想原典集成1初期ギリシア教父』上智大学中世思想研究所編,平凡社,1995年,23―45頁。
18)『キリスト教教父著作集1ユスティス 第一弁明,第二弁明 ユダヤ人トリュフォンとの対話(序論)』教文館,
1992年,85頁の柴田有訳を参照。
19)例えば,「聖体制定語」(Institution narrative)については,「4世紀挿入説」(“4th-century insertions” theory)
が一般的となっているが(P. Bradshaw, Eucharistic Origins, London, 2004他),これも修正を迫られているよう で あ る。M. Zheltov, The Anaphora and the Thanksgiving Prayer from the Barcelona Papyrus: An Underestimated Testimony to the Anaphoral History in the Fourth Century, in; VigChi 62 (2008), pp. 467―504, 496―497参照。しかし,
いずれにしても後代の挿入であることは確かであろう。
サの神学的な中心をなしている。ローマのヒッポリュトスの『使徒伝承』(Traditio Apostolica)20)は,
今回の典礼刷新においても重要な資料の一つとなったもので,その
4
章には現行の「第二奉献文」の元となった祈りが載せられているが,そこにも「サンクトゥス」は入っていない。
サンクトゥスの由来,起源,年代と場所に関しては,すでに
G. ディックスが「エジプト起源
説」を唱えてはおり21),E. C. ラトクリフは「クライマックス理論」を展開しているが22),事情は錯 綜しており,研究者間では現在まで―B. D. スピンクスの用語を借りるなら―「未決のパズル・謎」(unresolved puzzle)23)のままである。サンクトゥスは典礼史上どこで見出されるか。聖書的な由来 については,イザヤ
6,3「彼ら(セラフィム)は互いに呼び交わし,唱えた『聖なる,聖なる,
聖なる万軍の主。主の栄光は,地をすべて覆う』」が上げられる。このテキストはユダヤ教シナゴー グの典礼に取り入れられ三回繰り返される「キドッシュ」(三聖唱)として朝の祈りの一部をなし ている。紀元後
2
世紀に,「シュモーネ・エスレー」(十八祈願)の第三祈願として祈られるもので ある24)。2.サンクトゥスのキリスト教典礼への導入と展開
はじめに一般的な共通理解について一言しておくと,サンクトゥスはまず東方教会において典礼 に導入されたものとみなされている。4世紀の終わりにはこの賛歌はエルサレム,アンティオキア,
エジプトで見いだされるが,この時期の西方教会にはその痕跡は見られない。4世紀以前のローマ 典礼にはサンクトゥスはみられず,東方教会の影響によってローマ典礼に導入されたのはおそらく
5
世紀の初めだったと思われる25)。以下,典礼あるいはそれ以外の文脈でサンクトゥスが見られる資料を概観しておきたい。そ の場合,三種類の文脈が区別されるようである。それは第一に,ミサの文脈にはないもの(non-
Eucharistic),第二に,洗礼式の際の水と油の聖別の文脈にあるもの,最後に,ミサの奉献文・アナフォ
20)『聖ヒッポリュトスの使徒伝承』(土屋吉正訳),燦葉出版社,1983年。この書は従来,ローマの司祭ヒッポリュ トスによる215年頃のものとされていたが現在修正が迫られており,より後代の複数の編者によるものであろう と考えられている。P. F. Bradshaw/M, E. Johnson/L. E. Phillips, The Apostolic Tradition: A Commenary, Minnesota, 2002. M. E. Johnson, The Apostolic Tradition, in: The Oxford History of Christian Worship (ed.by G. Wainwright/K. B.
Westerfield Tucker), Oxford, 2006, pp. 32―75.
21) G. Dix, The Shape of the Liturgy, London, 1945 (rep. 1978), p. 165, 538. 次も同見解。G. Kretschmar, Studien zur fruechristlichen Trinitaetstheologie, Tuebingen, 1956, s. 164.
22) E. C. Ratcliff, The Sanctus and the Pattern of the Early Anaphora, in: JEH1 (1950), pp. 29―36, 125―134. こ れ は,
ローマのヒッポリュトゥスの『使徒伝承』4章にある「み前に立って祭司として仕える」(adstare coram te et tibi ministrare)がサンクトゥスへの導入の名残としての記述であるとの解釈による理論であり,キリスト教の感謝の 祈りの起源に遡るとする説である。
23) B. D. Spinks, The Jewish Sources for the Sanctus, in: The Heythrop Journal 21 (1989), p. 168. E. Mazza, L’anafora eucaristica, Studi, sulle origini, Roma, 1992, p. 222より引用。
24) A. Baumstark, Trishagion und Quedesch, in: JLW 3 (1932), s. 18―32.
25) P. M. Gy, Le Sanctus romain et les anaphores orientales, in: Melanges liturgiques B. Botte, Louvain, 1972, pp. 167―
174. L. Chavoutier, Un Libellus Pseude-Ambrosien sur Le Saint-Esprit, in; SE 11 (1960), pp. 136―193.
ラ26)の文脈にあるものである。さらに最後のグループについては,ベネディクトゥスを欠くサンク トゥスと,ベネディクトゥスを伴うサンクトゥスがある,という点にも留意しなければならない。
2―1
まず,典礼祭儀とは特定できない文脈で見られるサンクトゥスについては『ヨハネの黙示録』4,
8
がある。「聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな。全能者である神,主,かつておられ,今おられ,やがて来られる方」。この『黙示録』は,最初の
3
章が宛先の7
つの教会にかかわるのであるが,4 章で天の開かれた門が見られる。ユダヤ教典礼のキリスト教における典礼的使用,適応の箇所と見 られる。なお,イザヤ書6
章からの直接の引用はないが,ヨハネ福音書12,41
にイザヤ書への言 及があり,R.ブラウンは同1,14
の記述をも展望しながらユダヤ教の「三聖唱」(トリサギオン)のキリスト論的な適用を見ている27)。大枠では,典礼の文脈に―ヨハネの黙示録全体が―あるとは 言えよう28)。
紀元
95
年~96年頃の作と言われる『クレメンスの第一書簡』34,5―8にもサンクトゥスが登場 する。「聖書は言う。『彼の側には,一万の一万倍の御使いが控え,千の千倍もののものが仕えていた。そして彼らは,〈聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな,万軍の主。全被造物は彼の栄光に満てり〉
と叫んだ』と。それゆえに,私たちも思いを一つに合わせ,それと意識して,共に集り,彼の栄あ る約束に私たちも分かち与るために,あたかも一つの口からほとばしり出たように,倦まず弛まず 彼に叫ぼうではないか。なぜなら,『眼が見たことなく,耳が聞いたこともなく,また人間の胸に 浮かんだこともない,主が彼を待ち望む者らに備えられたものは如何に大いなるものかな』と言わ れているのだから」29)。ファン・ウニックによれば,上記の特に
34,7
は教会の礼拝の文脈,祈りの 文脈での聖書の単なる引用であって,必ずしもエウカリスティア(ミサ)の事を述べているわけで はない,とされている30)。紀元
200
年頃のアフリカの殉教録である『ペルぺトゥアとフェリキタスの殉教』12,1―2には,殉教の文脈における幻視の中に登場するサンクトゥスがある。「私たちはある場所のそばにやって 来た。その場所の壁は,まるで光で作られたかのようであった。その場所の戸口の前に,四人の天 使が立っていた。天使たちは,中に入ってくる人々に,純白の長衣を着せた。私たちも中に入った。
するとすぐ,〈聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな〉(hagios,
hagios, hagios)と斉唱する声(vocem
unitam)が,絶え間なく聞こえてきた」
31)。これは,殉教者自身の言葉が記録されている可能性が大であることもあって,当時のカルタゴのキリスト教会の状況を知る上で貴重な資料とされているも 26)ミサ,エウカリスティア,聖体礼儀の中核をなす部分は東方典礼ではアナフォラ,西方,ローマ典礼ではカノン(典 文)と呼ばれるが,後者を奉献文と記す。L. Bouyer, Eucharist. Theology and Spirituality of the Eucharistic Prayer (tan.
by C. U. Quinn), London, p. 2.
27) R. E. Brown, The Gospel according to John (i-xii), New York, 1966, p. 487.
28) O. Cullmann, Urchristentum und Gottesdienst, Stuttgart, 1962 (4. Aufl.), s. 11. 全 体 に つ い て は,S. Hahn, The Lamb’s Supper, The Mass as Heaven on Earth, New York, 1999.
29)「クレメンスの手紙―コリントのキリスト者へ(1)」小河陽訳『使徒教父文書』編集責任,荒井献,講談社,
1980年2刷,75頁より一部修正して引用。
30) W. C. Van Unnik, 1Clement 34 and the “Sanctus”, in: VigCh. 5 (1951), pp. 204―248.
31)「聖なるぺルぺトゥアとフェリキタスの殉教」土岐正策訳,『キリスト教教父著作集22 殉教者行伝』,土岐正策・
土岐健治訳,教文館,1990年,88頁。
のである。Ch. モールマンは,この箇所に決定的な典礼の響きが見えるとしているが,その場は教 会ではなく,教会の賛歌が歌われる天上の合唱となっている32)。なお,原文全体はラテン語であるが,
この箇所だけはギリシャ語で記されている33)。
紀元
220
年以降の作と思われるテルトゥリアーヌスの『祈祷論』3,3にもサンクトゥスの語が みられる。“Sed et hoc benedeictionibus vice fungitur. Ceterum quando non sanctum et sanctificetumest per semetipsum nomen dei, cum ceteros sanctificet ex semetipso, cui illa angelorum circumstantial non cessant dicere, Sanctus sanctus sanctus?”
(ET: Yet when is the name of God not holy andhallowed even of itself, seeing he hallows others from within himself, and those angels that stand around cease not to say to him, Holy, holy, holy?)
34)。ここは,主の祈りの解説がなされている箇所で あり,終末論的な意味はあるが,典礼祭儀の文脈ではない。『テ・デウム』の冒頭部。全
30
節からなる賛歌の中で冒頭の5,6
節にサンクトゥスの語が見ら れる。“Te deum laudamus te dominum confitemur te aeternum patorem omnis terra veneratur. Tibiomnes Angeli tibi caeli et universae potestates tibi cherubim et seraphim incessabili voce proclamant.
Sanctus sanctus sanctus dominus deus sabaoth pleni sunt caeli et terra maiestatis gloriae tuae.”「すべ
てのものの主,神よ,あなたを称えてわれらは歌う。永遠の父よ,世界はあなたをあがめ尊ぶ。神 の救い,力あるもの,ケルビムもセラフィムも絶え間なく声高らかに賛美の声をあげる。聖なる,聖なる,聖なる万軍の主,あなたの栄光は天地に満つ」。この賛歌の由来に関する詳細は不明だが,
6
世紀の初頭あるいは半ばにはすべての西方教会に浸透しており,日曜日の祭儀の終わりや聖務日 課の朝課(laudes)で歌われていたと見なされている35)。賛歌全体は,呼びかけ部分(1~13節),アナムネーシスの部分(14~19節)とエピクレーシス部分(20~30節)から成るが,サンクトゥ スは呼びかけの部分で,神を宛先として歌われる36)。
3世紀のオリゲネスの『諸原理について』。「更に,ヘブライ人の教師は,イザヤ書に,各々六つ の翼をもち,互いに『聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな,万軍の主』と呼び交わしていると言 われているふたりのセラフィム(燭天使)は,神のひとり子と聖霊のことであると語っていた」(I,
3,
4)。「即ち,万物の始原並びに終末は,主イエスス・キリストと聖霊を除いて,何人からも把握さ
れ得ないからこそ,イザヤは幻を描写して,ふたりのセラフィムだけが,『二つの翼をもって』神 の『顔を覆い,二つの翼をもって』(神の)『足をおおい,二つの翼をもって飛びかけり,互いに呼 び交わして,『聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな,万軍の主,あなたの栄光は全地に満つ』と 述べたのである」37)。紀元
270
年頃の『エチオピア語エノク書』39,12―13。「眠ることをせぬ者たちがあなたをほめま つり,あなたの栄光の前に立って,あなたをたたえ,ほめあげて言う。『霊魂の主は聖にして,聖 にして,聖なるおかた。霊を地に満ちさせたもう』。そこにわたしの目は眠りもせずに彼の前に立 32) Ch. Mohrmann, Liturgical Latin. Its Origins and Character, Washington DC. 1957, p. 16.G. Kretschmar, Die Einfuerung des Sanctus in die lateinische Messliturgie, in; JLH 7 (1962), s. 79―86, 84.
33) H. Musurillo, The Acts of the Christian Martyrs, Oxford, 1979 (rep.), p. 120.
34) E. Evans, Tertullian’s Tract on the Prayer, London, 1953, pp. 6―7.
35) A. Gerhards/F. Lurz, art. Te Deum, in: LThK 9. Herde, 2000, s. 1306―1308.
36) A. Gerhards, Te Deum Laudamus- Die Marselliase der Kirche? - Ein christliche Hymnus im Spannungsfeld von Liturgie und Politik, in: LJ 40 (1990), s. 65―79.
37)オリゲネス『諸原理ついて』(小高毅訳),創文社,1978年,79頁,309頁。
ちつくし,『あなたはほむべきおかた。主の名は永久にほむべきかな』と言ってほめまつっている 者たちを見た」38)。「眠ることをせぬ者たち」とは「天使たち」のことである。
その他,ディオニシオス・アレオパギテス『天上位階論』7,4にもサンクトゥスの語が見られ る39)。また,二世紀初頭に
Bithynia(小アジア北西部の黒海沿岸地方,後にローマ属州)のキリス
ト者の生活について記された小プリニウスの書簡の一節“stato die ante lucem convenire carmenque Christo quasi deo dicere secum invicem”(X,96,7)
40)「彼らは決まった日の夜明け前に集いあたか も神に対するようにキリストへ向かって賛歌を交唱していた」という文章の中の「賛歌」(carmen)がエウカリスティアの祝祭における感謝の祈りであり,その中にサンクトゥスが含まれていた可 能性が高い,とユングマンは述べているが41),この
carmen
の内容に関しては種々の可能性があり,明確なことは言えない42)。以上は,典礼祭儀とは限らない文脈で登場するサンクトゥスの例である が,次に,狭義の典礼の文脈においてみられるサンクトゥスを一瞥しておきたい。
2―2 洗礼式の文脈にあるサンクトゥスについて。
4世紀のアポクリファ『シリア語版ヨハネ伝』(『ゼベダイの子ヨハネの歴史』)の中に洗礼式の 文脈で水と油の聖別の際にサンクトゥスが見られる43)。「するとすぐ二位の天使が来て,水の上にと どまった。そして叫んだ。聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな。父と子と聖性なる霊……そして,
その時,油の上に火が輝き,天使たちの翼がその油を覆った。すると,全会衆は,男も女も子ども も叫んだ。聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな。全能の神。その栄光は天と地に満ちる,と」44)。 「イエスの洗礼」の文脈で見られるサンクトゥス。G. ヴィンクラーは,初期シリアの典礼書を分 析し,サンクトゥス(とエピクレーシス)の本来の起源は洗礼式にあり,それは洗礼前の水と油の 聖別の祈りの一部を成していた,と結論している45)。そしてその祈りは「イエスの洗礼」に印象的 な仕方で関連づけられていると述べている46)。彼女によれば,東シリア典礼の洗礼式の油の聖別の 中,エピファニア(公現祭)の夜の聖務日課(Leyle)の中,西シリア典礼では洗礼式の水の聖別の中,
マロン典礼でも同様に,エピファニアの際の水の聖別の中などにサンクトゥスが見られ,それらが ヨルダン河におけるイエスの洗礼の祝祭の文脈に置かれている,とされる47)。
38)「エチオピア語エノク書」村岡崇光訳,『聖書外典偽典第4巻 旧約偽典II』教文館,1975年,205頁より。
39)今義博訳『中世思想原典集成3 後期ギリシャ教父・ビザンティン思想』上智大学中世思想研究所,1994年,
340―437頁中,381頁。
40) W. Rordorf, Sabato e Domenica nella Chiesa Antica (ed. italiana a cura di G. Ramella), Torino, 1979, p. 136. 邦訳は
『プリニウス書簡集 ローマ帝国一貴紳の生活と信条』(國原吉之助訳),講談社,1999年,423頁。
41) J. A. Jungmann, The Mass of the Roman Rite. Its origins and development, vol. I. p. 18
42) R. P. Martin, The Bithynian Christiana’ CARMEN CHRISTU, in: STP 8 (1966), pp. 259―265. J. Ch. Salzmann, Pliny (ep. 10, 96) and Christian Liturgy- A Reconsideration, in: STP 20 (1989), pp. 339―395. より詳細な記述は次のもの。F. G.
Doelger, Sol Salutis.. Gebet Gesang im christlichen Altertum, Muenster, 1925 (2. Aufl.), s. 105―136.
43) A. F. J. Klijn, An Ancient Syriac Baptismal Liturgy in the Syriac Act of John, in: NT 6 (1963), pp. 216―228. 217.
44) R. Taft, Il sanctus nell’anafora, p. 32より抜粋私訳。
45) G. Winkler, Nochimals zu den Anfaengen der Epiklese und des Sanctus im Eucharischen Hochgebet, in; ThQ 174 (1994), s. 214―231.
46) Ibid, s. 226.
47) P. F. Bradshaw/M. E. Johnson, The Eucharistic Liturgies. Their Evolution and Interpretation, Minnesota, 2012. P.
ここで,サンクトゥスの奉献文・アナフォラへの導入の契機に関連するヴィンクラーの指摘を見 ておく。典礼史において注目すべきは―彼女によれば―四世紀に洗礼前の塗油の意味に決定的な変 化が起こったことである。つまり,塗油がキリスト自身との霊的一致という意味から聖霊の賜物を 受けるための準備としての悪霊からの清め(exorcistic purification)の意味へ変わった,という現 象である。西方教会において,洗礼の意義はパウロのローマ書
6
章を中心に「罪に死ぬこと」がテー マになる。一方,東方教会では,洗礼はヨハネ福音書3
章の「新たに生まれること」と理解され,それがヨルダン河の「イエスの洗礼」と密接に関連した終末論的現実への新生と理解されている。
この関連で,洗礼槽は「墓地」ではなく「母胎」としてシンボライズされているのである48)。いず れにしても,洗礼式の文脈にあったサンクトゥスが入信式の頂点となるエウカリスティアの祭儀(ミ サ)の中の奉献文・アナフォラへ導入された可能性が見られる,ということである。
同様の事情は,カッパドキアのアリステリオス・ソフィステス(337年頃)にも見られる。ユダ ヤ教からの改宗者と思われる彼の「復活祭の説教」の中でサンクトゥスが登場する。
その「説教
XVI,15」は復活の夜の説教であるが,「説教 XV,16」の復活の朝の説教の中で,ア
ステリオスは,復活,昇天そして父の右に座すイエスをのべ伝える中で,サンクトゥスに言及して いる49)。これらの資料に,サンクトゥスと洗礼式,キリスト教入信式との関連,そして,サンクトゥ スがミサの奉献文・アナフォラに導入される過程を見ることができると思われる。2―3 ミサ,奉献文・アナフォラの文脈において現れるサンクトゥス。
初めに確認すべきは,初期キリスト教の奉献文・アナフォラの中にはサンクトゥスを含まないも のがある,ということである。すでに述べられたローマのヒッポリュトゥスの『使徒伝承』にサン クトゥスはない。
7
世紀頃のガリア典礼のMissale Gothicum
の奉献文にもサンクトゥスはない50)。5
世紀の
Testamentum Domini I, 23
にも,4世紀後半から5
世紀初頭のモプスエスティアのテオドロスに帰される奉献文やその他若干の奉献文にもサンクトゥスは入っていない51)。これらは,サンク トゥスが奉献文・アナフォラに最初からある構成要素ではなく,後になって挿入されたことの証左 となっている。
以下,サンクトゥスを含む奉献文を列記するが,正確に言うなら,ベネディクトゥスを欠くサン クトゥスとベネディクトゥスを伴うサンクトゥスを含む奉献文である。
2―3―1
まず,ベネディクトゥスを欠くサンクトゥスのある奉献文は以下の通りである52)。「クレメンス典
115~121のヴィンクラー説の紹介の部分参照。
48) G. Winkler, The Original Meaning of the Prebaptismal Anointing and Its Implications, in: Living Water, Sealing Spirit. Reading on Christian Initiation, (ed.by M. E. Johnson), Minnesota, 1995, pp. 58―81.
49) H. Auf Der Maur, Die Osterhomilien des Asteriso Sofistes. Als Quelle fuer die Geschichite Der Osterfeier, Trier, 1967ms. 74―94.
50) L. C. Mohlberg (ed.), Missale Gothicum, Roma, 1972, no. 280 (p. 72).
51) R. Taft, Il sanctus nell’anafora, pp. 34―36参照。
52)基本的にA. Haenggi-I. Phal, Prex Eucharistica. Textus e variis liturgiis antiquioribus selecti, Suisse, 1968のテキス トを使用する(以下,PE)。文献学的詳細には立ち入らない。各文書の年代史等また英訳については以下を参照。R.
C. D. Jasper/G. J. Cuming, Prayers of the Eucharist: Early and reformed, New York, Early Christian Prayers (ed.by A.
Hamman), ET: W. Michell, Chicago/London, 1962 (2ed.).
礼」と称される
Constitutiones Apostolorum VIII, 12―51, 27.
“Sanctus, sanctus, sanctus Dominus sabaoth; pleni sunt caeli et terra Gloris eius; benedictus in saecla, Amen” (PE 90―91).「聖なるかな,聖なるかな,聖なる万軍の主。彼の(eius)栄光は天地に満つ。
永遠にほむべきかな,アーメン」。
Fragment Der-Balyzehm(『デル・バリゼーのアナフォラ』)。
“Snactus, sanctus, sanctus, Dominus sabaoth, plenum est caelum et terra Gloria tua” (PE125).「聖な
るかな,聖なるかな,聖なる万軍の主,あなた(tua)の栄光は天地に満つ」。Anaphora in euchologio Serapionis 4,10(『セラピオンのエウコロギオン』)
“Sanctus, sanctus, sanctus Dominus sabaoth, plenum est caelum et terra Gloria tua” (PE130―131).
「聖 なるかな,聖なるかな,聖なる万軍の主,あなたの(tua)栄光は天地に満つ」。Anaphora Marci Evangelistae(『マルコ典礼のアナフォラ』)
“Sanctus, sanctus, sanctus Dominus sabaoth. plenum est caelum et terra Gloria tua”
(PE 110―111)「聖.
なるかな,聖なるかな,聖なる万軍の主。あなたの(tua)栄光は天地に満つ」。Catecheses mystagogica Cyrilli Hierosolymitani(『エルサレムのキュリロスのカテケージス』)
5, 6。
“Sanctus, sanctus, sanctus Dominus exercituum
(sabaoth)(PE 208―209)。「聖なるかな,聖なるかな,”
聖なる万軍の主」。以上が,いずれもベネディクトゥスを欠くサンクトゥスの例であるが,最後の『エルサレムのキュ リロスのカテケージス』には,「神の栄光」の部分がなく,最初の
Constitutiones Apostolorum
では,「あなたの栄光」(Gloria tua)ではなく「彼の栄光」(Gloria eius)と言われている点が異なるだけ である。これらの「エジプト型」と称されるアナフォラには共通してベネディクトゥスが欠けてい るが,もう一つの特徴は,サンクトゥスに直ちにエピクレーシスが続き,一体をなしていることで ある(sanctus-epiclesis unit)。それは,「あなたの(彼の)栄光は天地に満つ(full)」との文章を,「わ れらをあなたの栄光で満たし(fill),この供えものをあなたの祝福で満たしたまえ(fill)」とつな げるためであると思われる。例えば,『マルコ典礼のアナフォラ』の場合,「あなたの栄光は天地に 満つ(full)」との会衆の賛歌に続けて司教は,「われらの主であり(神であり)救い主であるイエス・
キリスト(の顕れ)によって天地にあなたの栄光を満ちさせたまえ(fill)」と祈る(PE 110―113参照)。
同種の簡潔な例は『デル・バリゼーのアナフォラ』にも見ることができる。サンクトゥスの歌唱の 後,「われらをもあなたの栄光で満たし(fill),あなたの聖霊をいつくしみ深くこの供えものの上 に遣わし,このパンをわれらの(主であり)救い主イエス・キリストのからだになし給え」との司 式者の祈りが続いている(PE 124―125)53)。
ちなみに,Constitutiones Apostolorumでは,アナフォラの中にはベネディクトゥスはないが,
聖体拝領前に「sancta sanctis聖なるものは聖なる者へ」との司教の呼びかけに応えて会衆が応 唱する部分にベネディクトゥスが見られる。そこには,ベネディトゥスだけでなく,グロリアも ホ サ ン ナ も 含 ま れ て い る(VIII,13,12―13)。“Ac episcopus ita ad populum proloquatur: Sancta
sanctis. Populusque respondeat: Unus sanctus, unus Dominus, Jesus Christus, in gloriam Dei patris benedictus es in saecula, amen. Gloria in altissimis Deo, et in terra pax, in hominibus bona voluntas,
53) C. H. Robert, An Early Euchologium. The DER-BALIZEH PAPYRUS. Enlarged and reedited, Louvain, 1949, p. 24.「エジプト型」のアナフォラの研究史については,M. Zheltov, The Sanctus and the First Epiclesis in the Anaphoras of the Egyptian Type, in; STP XLV (2010), pp. 105―113参照。
Hosanna filio David; benedictus, qui venit in nomine Donimi, Deus Dominus, et apparuit in nobis;
hosanna in altissimis”(Didascaria et Constitutiones Apostolorum., F. X. Funk, Torino, 1979, s. 516―
517)。
「そして司教は会衆に言う。聖なるものは聖なる者へ(sancta sanctis),と。会衆は応える。聖なる 方はただ一人,主イエス・キリストこそ聖なり。父なる神に栄光あれ,世世に賛美されよ。アーメ ン。いと高きところに神に栄光。地には善意の人々に平和,ダヴィドの子にホサンナ,主の名によっ て来る方に祝福あれ。神なる主はわれらのうちに顕れた,いと高きところにホサンナ」。
2―3―2
一方で,「シリア型」と称される以下のものでは,サンクトゥスがベネディクトゥスを伴う形で 登場する。なお,アナフォラの中のベネディクトゥスの由来は,四世紀の『エゲリア巡礼記』25 章54)の記述からも推察できるように,エルサレムであると考えられている55)。
Anaphora Ioannis Chirisostomi(『ヨハネ・クリュソストモスのアナフォラ』)
“Sanctus, sanctus, sanctus Dominus sabaoth, plenum est caelum et terra gloria tua. Hosanna in excelsis. Benedictus qui venit (erxomenos) in nomine Domini. Hosanna in altissimis”(PE 224―225)。
「聖なるかな,聖なるかな,聖なる万軍の主,あなたの栄光は天地に満つ。いと高きところにホサンナ。
主の名によって来られる方に賛美。いと高きところにホサンナ」。
Anophora Iacobi fratris Domini(ギリシャ語版『ヤコブのアナフォラ』)
“Sanctus, sanctus, sanctus, Dominus sabaoth; plenum caelum et terra Gloria tuae; hosanna in excelsis;
benedictus qui venit (elthon) et venit (elxomenos) in nomine Domini; hosanna in excelsis”(PE 246―
247)。「聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな,万軍の主。あなたの栄光は天地に満つ。いと高き
ところにホサンナ。主の名によって来られ,来られる方に賛美。いと高きところにホサンナ」。シ リア語版では,「かつて来られ,今,来られる方に賛美」。Anaphora Basilii Caesariensis(『カイザリアのバシレイオスのアナフォラ』)。
“Sanctus, sanctus, sanctus Dominus Deus sabaoth. Plenum est caelum et terra Gloria tua. Hosanna in excelsis. Benedictus qui venit in nomine Domini. Hosanna in excelsis“(PE 232―233)。「聖なるかな,
聖なるかな,聖なる万軍の主。あなたの栄光は天地に満つ。いと高きところにホサンナ。主の名に よって来られる方に賛美。いと高きところにホサンナ」。
Anaphora Gregorii Nnzianzeni(『ナジアンズのグレゴリオスのアナフォラ』)
“Sanctus, sanctus, sanctus Dominus exercituum. Caelum plenum est et terra Gloria tua. Benedictio in altissimis. Benedictus qui venisti et iterum venturus es in nomine Domini. Hosanna in excelis”(PE 327,321)。「聖なるかな,聖なるかな,聖なる万軍の主。あなたの栄光は天地に満つ。いと高きと
ころに賛美。主の名によって来られ,また,来られる方に賛美。いと高きところにホサンナ」。Anapfora Apostolorum Addai et Mari(『アッダイとマリのアナフォラ』)。
“Sanctus, sanctus, sanctus Dominus, Deus potens. Caeli et terrae sunt laudibus et substantia essentiae
54) J. Wilkinson, Egeria’s Travels, Oxford, 2015 (rep.), p. 146. 太田強正訳注『エゲリア巡礼記』,サンパウロ,2002年,
77頁。
55) J. Day, The origin of the anaphoral benedictus, in; JTS 60 (2009), pp. 193―211. The Eucharist in Jerusalem. A Brief Survey of Some Problems and Content of the Eucharistic Prayer of the Mystagogical Catecheses, in; The Eucharist - Its Origins and Contexts, Tuebingen, 2017, s. 1143―1163,
eius et splendore lucis eius gloriosae. Hosanna in excelsis. Hosanna filio David. Benedeictus qui venit et veniet in nomine Domini. Hosanna in excelsis”(PE 376)。「聖なるかな,聖なるかな,聖なる全
能の神。天地は賛美と彼の存在の本質と彼の栄光ある輝きに満つ。いと高きところにホサンナ。ダ ヴィドの子にホサンナ;主の名によって来られ(過去形)また来られる(現在形)方に賛美。いと 高きところにホサンナ」。以上のように,キリストに向けられるベネディクトゥスの箇所には,主の名によって「来られた 方」(過去),「来られる方」(現在)そして「来られる方」(未来)という動詞の併用も見られる56)。 なお,ギリシャ語版にはなく,シリア語版とアルメニア語版の『ヤコブのアナフォラ』だけに見ら れる「かつて来られ,今,来られる方」(ho elton kai erhomenos)の句は「聖都のベネディクトゥ ス」(Hagiopolite Benedictus)と呼ばれ,エルサレム典礼に特徴的なものとなっている57)。なお,ロー マ典礼においては,後に見るように,現在形「来られる方」(qui venit)である。これらの過去形,
現在形,未来形の使用あるいは併用については,「イエス・キリストは,きのうも今日も,また永 遠に変わることがない方」というヘブライ書の神学(13,8)を歓呼という形式で表現しているも のと言うことができよう。かつて来られ,今来られ,将来来られるキリストへの歓呼である。この 場合に限らず,典礼の表現の多様性は,その指し示すいのちの豊かさを反映した結果である,と 言ってもよいであろう。一言では表現できず,多様な表現が必要とされる,ということである。L.
ブイエーは,唯一で決定的なエウカリスティアの神学(the theology of the eucharist)はあり得ず,
エウカリスティアに関する多様な神学(theologies on the eucharist)があるだけであると,正当に も述べているが58),それら多様な神学は,“diversi, sed non adversi”59)の展望をもって協力していく ときに,実り豊かな神学的,典礼学的理解に道を開くことになろう。
2―4
サンクトゥスが奉献文・アナフォラに挿入された地域と年代に関しては確実なことが言えないと しても,この賛歌の挿入の「理由」については何ほどかを言うことができるであろう。サンクトゥ スは単独では,シリア地方において洗礼前の水と油の聖別の場所に置かれていた,という事実があ り,それが
4
世紀になってエウカリスティアのアナフォラの文脈に入ってくる,という大きな変化 が起こったとされている60)。なぜ,サンクトゥスはアナフォラに入ったのか。それは端的に,キリ スト者の集い,ミサ自体が天上のキリスト(復活のキリスト)とそのからだと血による完全な出会 いのまさに第一義的な場であり,天と血がひとつに結ばれる場であり,そして,地上の教会と天上 の教会が,「ここで・今」(hic et nunc)一つとなって,セラフィムやケルビムとともに「聖なるか な,聖なるかな,聖なるかな」と共通の賛歌を歌う場となっているからである,ということがで 56) B. D. Spinks, The Sanctus in the Eucharistic Prayer, pp. 120―121.57) D. Galadza, Liturgy and Byzantinization in Jerusalem, Oxford, 2018, pp. 210―211.
58) L. Bouyer, Eucharist, p. 5.
59) P. Jeffery, Translating Tradition. A Chant Historian Reads. Liturgiam Authenticam, Minnesota, 2005, pp. 98―99. P.
ジェフリーは,おそらくラオンのアンセルモ(Anselm of Laon, ca. 1015―1117)が,カトリック伝統の研究の分野 で最初に適用したと推測している。
60) G. Winkler, Nochimals zu den Anfaengen der Epiklese und Sanctus im Eucharistichen Hochgebete, in: ThQ 174 (1994), s. 214―231.
きる61)。この地上の典礼と天上の典礼の関連については,以下に扱う現行のローマ典礼の文脈では,
SC 8
および『ローマ・ミサ典礼書の総則』(Instititio Generalis Missalis Romani=IGMR)318項に 明記されている。3.ローマ・ミサ典礼書の奉献文におけるサンクトゥス
ローマ・ミサ典礼書式次第の中で神学的な中心的位置を占める「奉献文」内には
4
か所に会衆の 参加する箇所が設定されている。1570年の『ピオ五世のローマ・ミサ典礼書』と比較すれば会衆 の参加の頻度は明らかに多い。それは,叙唱の始まる前の「対話句」,叙唱を締めくくる「サンク トゥス」,奉献文半ばの記念唱と呼ばれる部分での「応唱」,そして,奉献文全体の最後にある「アー メン」である。これらは大枠でまとめるなら「歓呼」(Akklamatio)に分類される要素であるが62), 内容的にはそれぞれのニュアンスがある。例えば,「ホサンナ」や「アーメン」はまさに歓呼であ るが,「信仰の神秘」(Mysterium fidei)との司式者の宣言に応えて会衆が唱える「主の死を思い,復活を称えよう,主が来られるまで」(Mortem tuam annuntiamus, Domine, et tuam resurrectionem
confitemur, donec venias)は歓呼というよりは内容的には信仰宣言というものでありそれが歓呼の
形式をとっている,と見るべきであろう63)。なお,この「信仰の神秘」は,刷新以前には聖体制定語,ブドウ酒の聖別の言葉に含まれていた用語であるが,今回,そこから取り出されて,現在の位置に 置かれ,こうして司式者が会衆に向けて宣言し「行動的参加」を促す働きをすることとなった言葉 である。そのような中で会衆が司式者と共に歌唱あるいは朗誦する「サンクトゥス」は,「まさに 神学的賛歌であり,より正確には一つの神学である」64)と言うことができるであろう。
3―1
ローマ典礼のミサにおけるサンクトゥスの本文65)は以下の通りである。対話句に続く部分から記 す。
(1)
Vere dignum et iustum est, aequum et salutare,
(2)
Nos tibi semper et ubique gratias agere:
(3)
Domine sancta, Pater omnipotens, aeterne Deus:
(4)
Per Christum, Dominum nostrum.
(5)
Per quem maiestatem tuam laudant Angeli,
(6)
Adorant Dominationes,
(7)
Tremunt Potestates.
61) M. E. Johnson, Recent Research. P. 18―56.
62) Th. Klause, art. Akklamation, in: RAC 1 (1950), s. 216―233.
63)奉献文における会衆の参加については以下参照。J. Dallen, The Congregation’s Share in the Eucharistic Prayer, in; Worship 52 (1978), pp. 329―341. A. Gerhards, Akklamationen im Eucharistiegebet. Funktion und Gestalt im Liturgievergleich, in: Crossroad of Cultures. s. 315―329.
64) C. Giraudo, Eucaristia per la chiesa. Prospettive teologiche sull’eucaristia a partire dalla “lex orandi”, Roma, 1989, p.
421.
65) PE. 427.
(8)
Caeli caelorumque Virtutes
(9)
Ac beate Seraphim
(10)
Social exultation concelebrant.
(11)
Cum quibus et nostras voces ut admitti jubeas deprecamur,
(12)
Supplici confessione dicentes:
(13)Sanctus, sanctus, sanctus
(14)Dominus Deus Sabaoth.
(15)Pleni sunt caeli et terra gloria tua.
(16)Hosanna in excelsis.
(17)Benedictus, qui venit in nomine Domini.
(18)Hosanna in excelsis.
「聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな,万軍の神なる主。
主の栄光は天地に満つ。天のいと高きところにホサンナ。誉むべきかな主の 名によりて来る者。天のいと高いところにホサンナ」
まず,「対話句」について。現行規範版では,①
Dominus vobiscum- Et cum Spiritu tuo ② Sursum corda-Habemus ad Dominum ③ Gratias agamus Domino Deo nostro- Dignum et iustum est
という司式者と会衆の三回のやりとりとなっている。冒頭(1)の“Vere dignum et iustum est”(ま
ことにふさわしく正しいこと)は,“Gratias agamus Domino Deo nostro(われらの神に感謝をささ げよう)という司式者の呼びかけに会衆が唱える“dignum et iustum est”(それはふさわしく正し
いこと)の同意を受ける形で,司式者が,同じ句を繰り返しており,司式者と会衆が一体となって いることが示されている。現行の邦訳版のミサ式次第では,対話句の司式者と会衆の三回のやり取 りが二回にまとめられており,この会衆の同意,承認の部分が明らかではないが,内容的には,奉 献文は司式者が会衆に支えられ会衆を代表して歌唱あるいは朗誦する祈りである,という構造が背 後にあることに留意しなければならない。『ローマ・ミサ典礼書の総則』(=IGMR)78では,司式 者が会衆を祈りへと招く(invitare)行為が強調されているが,会衆の同意(conscientia)の重要 性も忘れられてはならない66)。ちなみにこの対話句は東西両教会の典礼に古くから共通してみられ るものである。対話句に続く箇所で,神はまず「聖なる」存在として
“Domine sancta”と呼びかけられているが(3),
その感謝は,神に直接にではなく,イエス・キリストを通して(per)ささげられている(4)。そして,
その仲介者としてのキリストの位置は,サンクトゥスへの導入部分にローマ典礼ではいくつかの定 式で表現されており,ここでは“per quem maiestatem”という『ゲラジウス秘跡書』(Sancramentarium
Gelasianum=Ge.)564
や1243
に見られる句が使用されている67)(5)。その他のどのような導入句66) J. Dallen, The Congregation’s Share, p. 331.
67) L. C. Mohlberg, Sacramentarium Gelasianum (3. Aufl, verbesset und ergaenzt von L. Eizenhoefer), Roma, 1981, s.
87, 183. その他の導入句として,“cum angelis”(『ヴェローナ秘跡書』=Ve. 15, 29,285),“et ideo cum Angelis”(Ve.
161, 823, 846, 1137),“cantemus per”(Ve. 623),“Unde profusis gradiis”(Ve. 1245, 1246, 1247, 1250, 1262 ecc.),“quem laudant angeli”(Ge. 8)などが用いられている。V. Raffa, Liturgia eucaristia. Mistagogia della Messa: Dalla storia e
が使用されようとも,サンクトゥス歌唱の動機はイエス・キリストにあることがそこには示されて いる。そしてその歌唱はわれらの声が彼ら「天使たち」の声に招き入れられる(admittere)仕方で,
つまり「~に参加する」という在り方で実践される,という点が重要である(11)。これはもちろんロー マ典礼の特徴ではなく,他の典礼様式にも見られる根本構造であるが,再確認すべき点であると思 われる68)
サンクトゥスは,イザヤ書
6,3
に由来している,「キドッシュ」(三聖唱)と呼ばれるユダヤ教 の歓呼であるが,この言葉が出るのは預言者イザヤが使命を受ける召命場面で,場所は神殿の中で ある。そこでは神殿の中に「主の栄光が全地に満つ」とある。上の本文では「主の栄光」が「あな たの栄光」に,「全地」は「天地」へと典礼用に変更され使用されており(15),ここにキリスト教 の特徴があるという見解もある69)。しかし,詩編148, 13
でも「主の名を賛美せよ。御名はひとり高く,その威厳を,主の御名はひとり高く,地と天の上にある」(聖書協会共同訳)と明確に表現されており,
他の箇所にも,たとえば申命記
4,39
にも同様の記述がみられる。「そこで今日あなた方は,上は 天においても下は地においても,主こそ神であり,ほかに神はいないことを知って,心に留めてお きなさい」とある。ゆえに,「天と地」がイザヤ書6,3
に欠けていたとしても,それはとりわけキ リスト教独自の変更とは言えない70)。それより,旧約聖書で強調されている「神の聖性」が,新約 聖書,特にヨハネの黙示録4,8―「聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな,全能者である神,主。
かつておられ,今おられ,やがて来られる方」―などに受け継がれ,そして,現在,すでに見たよ うに東西両教会の典礼祭儀の中で,叙唱のクライマックスとして,様々なバリエーションを持ちな がら,実際に歌われているという継続性の方に注目すべきだと思われる。
「万軍の神なる主」(14)の「万軍」(Sabaoth)の訳については各国さまざまであるが71),日本で の従来の訳については,『ともに祈りともに歌う 詩編 現代語訳』で採用された方針に従って「す べてのものの主」という邦訳案も考えられており72),現行の『教会の祈り』に収録されている「テ・
デウム」の当該箇所も「聖なる主,聖なる主,すべてを治める神」と訳されている。このような翻 訳の実践に対して,他方では,アーメン,ホサンナやアレルヤの場合にように原語で「サバオット」
を残すという可能性も残されている73)。
ホサンナ(16)(18)は詩編
118,25a
に由来しており,もともとは「われらを救いたまえ」の意 味であるが,新約聖書におけるイエスのエルサレム入城に際して群衆が歓呼する場合には,元来のdall teologia alla patrale pratica, Roma, 1998, p. 566. n. 78. PE. 438―447参照。
68) A. Gerhards, Crossing Boderes. The Kedusha and Sanctus: A Case Study of the Convergence of Jewish and Christian Liturgy, in: Jewish and Christian Liturgy and Worship (ed.by A. Gerhards/C. Leonhard, Leiden・Boston, 2007, pp. 27―40, esp. p. 35.
69) A. Jungmann, The Mass of Roman Rite. vol. II, pp. 128―129.
70) E. Werner, The Sacred Bridge. The interdependence of Liturgy and Music in Synagogue and Church during the First Millenium, London/New York, 1960 (2. ed.), pp. 282―287. 最近ではR. M. M. Tuschling, Angels and Orthodoxy, Tuebingen, 2007, p. 205. esp. pp. 168―188.
71) “il Signore, Dio dell’universo”, “Gott, Herr aller Maechte und Gewalten”, “Lord, God of host”, “le Seigneur, Dies de l’univers”など。
72)あかし書房,1972年初版,5頁参照。
73) A. J. Chupungco, The New English Translation of the Roman Missal. A Catechetical Primer, Malaybaby City, Philippines, 2011, p. 48.
意味をほとんど失って,喜びの叫びあるいは救いの叫び声となった,キリスト教以前のユダヤ教に おいて,救いを求める叫びから歓呼の叫びへ(vom Hilfe-zum Jubelruf)意味付けが変化した,と見 られている74)。J. エレミアスも同見解である。彼は「(イエスのエルサレム)入城物語は,詩編
118,
25―29
をメシア入城の際の交代合唱の呼びかけに関連させて解釈する解釈が新約聖書以前のものであることを示している」としている75)。いずれにしても,「ホサンナ」は新約聖書ではイエスへの歓 迎の叫びになっていたと言えるであろう76)。そして,ここ典礼祭儀において,キリストのいわば「三 重の到来」(triplex adventus Christi)―つまり,歴史的受肉による過去の到来,秘跡的次元におけ る現在の到来,終末時における未来の到来―が一つのホサンナの歓呼に中で同時に表現されてい る77)とみなすことができる。
(17)ベネディクトゥス(ほむべきかな,賛美されよ)で始まる歓呼,「主の名によって来られる 方に賛美」の中の「主の名によって来られる方」は,詩編
118,26
に由来し,本来は,エルサレム 神殿に詣でる巡礼者たちへ呼びかける祭司の言葉であったが,ここでは,イエスをエルサレムに迎 える群衆の祝福の歓呼とされている。フランシスコ会聖書研究所訳では「ああ,ヤーヴェよ,われ らを救われよ(ホサンナ)。ああ,われらを栄えさせよ。ヤーヴェの名によって来る者に祝福あれ。われらはヤーヴェの家からあなた方を祝福する」と訳され,ここでも,旧約聖書,詩編の言葉が新 約聖書のイエスのエルサレム入城の場面に受け継がれ,そして,現在は典礼祭儀の中の大切な部分 で会衆によって歌われている,ということに重要な意味があると思われる。「ベネディクトゥス」は,
エゼキエル
3, 12
に由来するが,神殿に満ちていた主の栄光は,イエスのエルサレム入城の場合に,われわれの中に,人類の救いのために来られた,父なる神の栄光に満たされている「真の神殿」で ある救い主キリストに向けられているという点で「キリスト教化」されており,決定的に異なって いると思われる78)。
ちなみに,詩編
118
は教会では「復活祭の詩編」として使用されている。これは「エジプトのハ レル」と呼ばれている詩編113
から118
の中の最後に位置する詩編であるが,過越祭の折に,詩編113~114
は食前に,115~118
は食後に歌われている。イエスの最後の晩餐の後,「一同は賛歌を歌ってから,オリーブ山へ出かけて行った」(マルコ
14,26
他)との記述があるが,ゲッセマネの園へ 向かう前に,イエスと弟子たちが歌った最後の詩編は118
である。詩編118
の最後の言葉は―それ は最初の言葉の繰り返しでもあるが―「主に感謝せよ,主は恵みふかく,そのいつくしみは絶える ことがない」。これはイエスが受難の直前に弟子たちと歌った最後の詩編となった。74) E. Lohse, HOSIANNA, in; NT 6 (1963), s. 113―119. E. Werner, “Hosanna” in the Gospel, in; JBL 65 (1946), pp. 114―
122.
75)『イエスの聖餐のことば』(田辺明子訳),日本基督教団出版局974年,417―426頁。425頁注(8)。
76)ホサンナは,「神を賛美する際の単なる符牒になっていた」(田川建三『新約聖書訳と注1マルコ福音書・マタ イ福音書』,作品社,2008年,358頁,362頁)。「喜びの叫び声あるいは救いの叫びとなった」(ウーリッヒ・ルツ『EKK 新約聖書注解I/3 マタイによる福音書(18章―25章)』,小河陽訳,教文館,2004年,224頁)。「神への助けを求 める叫びからほめたたえの言葉に変化した」(C. ヴェスターマン『詩編選釈』大串肇訳,教文館,2006年,381頁)。
77) M. Jonas, Mikroliturgie. Liturgische Kleinformeln im fruehen Christentum, Tuebingen, 2015, s. 241.
78) L. Ligier, La struttura della preghiera eucharistica: diversita e unita, in: EL 82 (1968), pp. 191―215, H. Eising, Die Bedeutung des Sanctus, s. 297―302.