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(1)

明治初年

非人

域の

対応

はじ めに ー 春 日 山 の 野 非 人 奈良の春 日大社が蔵 す る「中臣延 栄 記 」 の宝 暦十二年 (一七六二 ) 四月二十 八日条に次の よ うな 記述 がある。 ① 一時貞卿明 日 上京ニ付、昨日申談候 意味 書付時貞 江 (中 略) 送之 、 、 、 一 山 内 ニ 往 来 非 人 入 込 候 事 以前者曽 無 御 座候処 凡 二 十ケ 年以来入 込、 当時 ハ大 勢 之 非 人 共山 内 所 々 ニ住所 ヲ 構ヘ居 申 候 、 雨天 ニ者 社辺建物 着 到殿 車舎其外軒 下 ヘ出 臥り居 申 候、此 義 度々当 所町 奉行 所ヘ 訴出申 候 得 者 、早速 被 追 払 、一 ケ 月二 ケ 月 程 者 立退 候得 共 、 間茂無 之 又立帰 り 申 候而 、無 其 詮 次第ニ 非 人住 所 与 相 成 申 候 、勿論 、 、 夏 ニ 至 候 得 者 社頭 往来之 道 筋 ヘ 罷 出 少茂不 憚 甚不浄 之 事 の ミに て 難 義 仕 候事 ニ御座候、夫故 時々 山 木 消 失 御 座 候 而 大 木 失ひ 、 殊 更 社 辺 火 用 心気遣 仕 候事ニ 御 座候 、以 後山内江 非人入込 候 事、永 々 堅ク無 之 様 ニ 当所奉 行 江被 仰付 被下 候様 ニ 奉 願候御事 上京 す る 神 官 に 持 た せ た 書 付の 内 容 を記し た もの であ るが 、そ の大要 は 、大勢の「 非 人」が「 山内」に入り込 み、住居を構えて 困っ ている 、 奈良奉行所 に も 対 策を 訴 えて は い るが効果 は一 時的で 、 失 火 も あ って 火 の 用 心 に も気を遣 っ て いる、こうした「非人 」 の 行動を抑 えるよ う奈良奉行所に命じ て ほし い、 と い うも の で あ る 。 右の 史 料 がい う「山 内 」 と は 主 峰 花 山 を 中心 に香山 、

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御蓋山などを 含む 春日山の こと で あ ると 考えて よ い だ ろ う。また 「非人 」 と は 、 生 活に困窮し て 村からの 離脱 を 余儀な く され、人別 か らも はずれて い く 野 非 人のことで ある と思 わ れ る。 これま で の研究による と 、 奈 良 町を 徘 徊 する野非人 を ② 収容するため 、延宝三年 ( 一六七五) に 東大寺の 西端に ある 緑 が 池の 周 辺 に 非 人 小 屋 が 建 て ら れ てお り 、 天 和 二 年 ( 一六八二) に こ の 小屋は油坂町に移 転した。こ の こ ろ ま で に は野非人を統括する 非人頭が奈良町に置かれて おり、油坂町 の非 人小屋の 近く には獄 舎 が 設 けられるよ うに なった。一方、大 和国内の 各村 で は 徘 徊 する野非人 を領域外 に追い払う た めに非人番 を 設けて い たが、一七 世紀 末ころ に は 、 奈良 町 の 非人頭 が 大和 国 内 の 非 人番 を 統括する体制が確立したと 考えられ て い る。そ の の ち 享 保 十 七年 (一七三二)に油 坂町 の獄 舎 と 非人小屋は芝辻 、 ( ) 「 」 町 に 移 転 し 寛保 三年 一七 四三 には非人 頭は 長吏 と称 する ことを 奈 良奉 行所から許さ れる ことに な った。 こうして 奈良奉 行 所ー 芝辻長吏ー非人 番 と い う機 構が誕 生することにな っ た。 こ のよう に一七 世 紀 後 半 か ら 一 八 世 紀 前 半 に かけて 野 非人へ の 対策が整 えられて い っ たが 、飢饉 の 続発によ っ て発 生す る 多 く の 野非 人 の す べ てを非 人 小 屋 に 収 容 す る こともで きず、各地を彷徨する野 非 人はしだいに増加 し たと 思わ れ る 。と く に 正 徳 四年 ( 一 七 一 四 ) の 二 度 に わ たる暴 風 雨 は 大和国に大 き な 被 害を も た ら し 、大 量 の 生 活困 窮者 を出す こ とに な っ た 。 冒 頭 に示した 「中臣延栄 ③ 記」が、以前 は な かった こ と だ が二〇年 前から、つ ま り 寛保 二年 一七 四二 ころ からとい うこと に な る が 非 ( ) 、 「 人」 の春 日 山 内 へ の入 り込 み が はじ ま っ たと 記して い る のも 、右 のような 状 況を背 景 に し たも の と 考えられる。 本誌前 号 で は 非人 番 に 関 す る史料 の 紹 介 と分 析 を 行 い、非人番に支払 われる給 分 と 地域の 民 俗的 な 慣 行 と の 関 係 に 注 目し てみ た 。 地 域 の 治 安 を 維 持 す る とい う 営 み ④ を非 人 番 という 村 の 外 側の 人間 にゆ だね る こ との意味 を 考え て み た い と思った か ら である。今号 で は 、非人番に 追い払 わ れ る 野非 人 を 取 り 上げ、 そ の 生 活 や 地 域 住民 と の関 係 を 明 ら か に して み た い 。 そ の 作 業 の 一 環 と して 、 小稿 で は 、 明 治四年(一八 七一)八月 に 「解放令 」が 布 告され 、 戸籍編成が進むなか で 、野非人の管理シス テ ム が新 たな 段階を迎 え る こと にな る 維 新 の 変革 期に おけ る

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状況を 追 っ て い く ことと す る。 一、 「 番 人 元 非人 」 の 経歴 明治四 年 (一八七一)十 一 月、 葛下 郡松 塚村の 戸 長が 「番 人元非人 出生書上帳 」 と 題 した文 書 を作 成して 奈 良 ⑤ 県に提出した。 そ の 内 容は、 こ の 戸 長が管轄 する「組合 村々 、 具 体的には 葛下郡内の田井・曽根 ・北花内 ・寺 」 口・ 竹内 ・當麻・ 中 ・大中・ 岡崎・有井 ・ 土庫 ・松 塚 の 一二 カ 村 の「番 人 」と 「 元 非人 」 の 名 前 や 出 生 地 、来村 の事 情 、 家 族 関 係 な ど について 記 し たも の で あ る 。 文書 の記述 内 容の詳細 について は 、 の ち ほど 紹介する とし て、 まず 松 塚 村 戸 長が こ う し た 文 書 を 作 成し た 背 景 について 確か め て おき たい 。 明治 四 年 ( 一 八 七 一 ) 九月 二 十 九 日 に奈 良 県 は 「 解放 令」を管内 に 布達した が、その なか であわせ て 次 のよ う に命 じた。 ⑥ 一今 般 戸 籍御調 ニ 付村町番人非人等是 迄 芝 辻 諜吏 之 支配ニ 候 処、已来居 住 地之村町 支配 たるべき 也、 其旨相心得厳重取締可致 事 但番 人 給 米ハ 是迄 之通町役 人江 取 集 置、追 而 規則 相立候ま で 是 迄渡来 候 通諜吏 共 相渡不申事 右のう ち 「 番 人」 と は 、但 し書 き に おいて 町村 から 、 の「給米」 に ついて 指 示し て い るこ と か ら 、 非 人 番 の こ と で ある と 考 えられる。布達の 内容は、 戸籍編成にかか 、 「 」 わ っ て これま で 奈良 町の 芝辻町に置かれ て いた 諜吏 (長 吏)によ る支配を 廃し 、非人番や 「 非人等」を 現 に 居住 し て い る 村 や 町で 管轄せ よ と い うも の で あ る 。 これに続 い て 、 明 治四 年(一八 七一) 十 月に奈 良 県は 各戸長 に 次のよう に達 した。 ⑦ 区内番 人 并ニ 元非人共名前、且生 国 郡村町名 、父母 兄弟、 其 外親族 有 無、当時 住居 之村町ニ住居 年 数 等 詳 ニ 取調、 来 ル廿五日迄ニ書附可差 出 も の也 先の 九月 二十 九日の 布達 に も とづき、戸籍編成 作 業 の 一環と し て 「 番 人」 と 「 元 非 人」 の名 前や 出生 地など 、 を調 査し て差し出 すよ う命 じた も の であ る 「非人 」 に 。 「 」 、 「 」 元 がつ い て いるのは 賤称 の廃止 を 定め た 解放 令 を踏 まえ た も の で あろう。 以上 の よ うな 経緯が あ っ て 、松塚村戸長 は「 番 人 元非 人出生書 上帳」を作 成 し て 提出し た の で ある 。 こ の 文 書

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に記された一 二カ村の 「番人 」 と「元非人」の経歴の 概 要を確 か めることが 論 を進める上で 必要 であ ると思わ れ るの で 、 その 内容を表1 と 2に ま と め て みた。 表1 「番人」 一覧 村 名 名 前 出生 地 番人とな るまで の 事情等 家族 人数 田 井 亀 次 広瀬 郡 南 郷 村 父平八死去後高市郡 醍 醐村 ヘ 引 越 住 居 致 シ 在 候 処 、諸品高値 付 十一ケ年以前番人 ニ 相成当村住居 4 曽 根 千 松 葛下郡曽根村 凡三百 年 余ニ相成申候 3 北花内 記載 なし 寺 口 卯 平 広瀬 郡 大 塚 村 弐十 ケ年 以 前 家 出 仕直 ニ 番 人 仕 候 5 竹 内 吉次 郎 葛下郡竹内村 親吉 次郎ハ 城 州 山 科 生 ニ御座 候 2 当 麻 亀太郎 十市郡新 口村 新口 村 番 人 茂 作 倅 3 中 葛下郡 当 麻 村番 人が兼 帯 大 中 葛下 郡高 田 村 番 人 が 兼 帯 岡 崎 葛下 郡池 田 村 番 人 が 兼 帯 有 井 葛下 郡 高 田 村 番 人 が 兼 帯 土 庫 岩 松 山辺郡長 柄村 3 松 塚 勇 治 紀 伊 国 牟 婁 郡 東雨 村 百姓伝三郎倅三十 ケ年以前家出、二十 ケ 年 以 前番 人ニ成 4 ( ) 「 」 。 。 注 家族 人数 蘭には 当 人を除 く 家族の 数 を示 した 表2 も同 じ 表1にみる よ うに、こ の 一 二カ村に は七 人の「番 人」 =非人番が 置 かれて い た 。 こ の うち 、 曽 根村 の千 松は同 村 の 生まれ で 「凡三百年余」と 記されて おり、そ の年数 の信 頼性 はとも か く、代々 の村 の非人番で は な か った か と思われる。しか し、田井 ・ 寺 口・当麻 ・ 松 塚 四 カ 村 の 非人番 は 当人が初 代と 考えられ 竹内 村 の 吉次 郎 も 城 、 、 「 州山科」の 生 ま れ で あ る と いう親が非人 番 で ある とすれ ば、二代目ということになり、 こ の 地域 で み るか ぎり、 曽根 村 の 千松 は稀 少の 事 例 ということ に なるだ ろ う。ま た 右四 カ村の う ち 寺口村 の 卯 平 松塚 村 の 勇 治 は 家 、 、 、 「 」 、 、 出 をし て お り 田井 村の 亀 次 も父親の死 後 に 村 を出 て 幕末 の物価 高 騰のな か で 非 人番 に就い た こ と が 記 されて おり、い ずれも 詳 細な事情 は不 明で あ る が 、 何ら かの貧 窮を 経 験 したの ち に 、 非人番 に な っ たと 考え ら れ る。

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大和 の 非 人番 につ いて は、 今西 一が 老農と し て 知 ら れ る中村 直 三に注目し 、 そ の 人物 像を 描きなが ら幕末から 明治 初期の地域 と 非人 番の 関係を明ら か にしよう とし た。直三に 関 する研究 は、そ の 後 も 深 め られ、 本 誌四号 ⑧ の谷山正道による史料紹介など 、今も新た な 史料と課題 ⑨ がみ いださ れ ている。 こ う した研究による と 、山辺郡永 原村の 直 三の家は 曾 祖 父の時 代 に 家 産 を 失 い 、 同 村 の 非 人番 とな った。文政二年 ( 一 八 一九)生 まれの 直 三も 曾 、 、 祖 父 の 代 か ら 続 く 非 人 番 と な り 武芸を鍛 え学問に励み 幕末に は 非人番組 織のな か の六役と よばれ る 重要な 地 位 に つ く と ともに、 農事改 良 に も 励ん でいく こ とに なる。 明ら かに され た研究成 果 か ら浮 か び 上がる直三 の 人物像 は、生来の才覚 を 不撓 の努力で みが きながら精 進 し て い った というも の で あろう が 、いう ま で も な く 、こ う し た 個性は 直 三自 身の 生得の 才 が、彼の 生きた地域社会 の 状 況 の なか で 伸 ば さ れること によっ て 形成 された も のであ り、 非人 番一 般 に あ て はめることは できな い 。 少 な くとも表1の葛下郡一 二カ村の非人 番 の 多くは、 「家出」をし て村を 離 れ、貧窮 の生活を送ら ざるを得 な かった 野 非人の な かか ら採用さ れていた。むろん、 村 が 任意に 人 を選べたわけで は な く 、文化元年 ( 一八〇四) 六月に葛上郡 井 戸 村の庄屋が書 き留 めた 文書に 「召 抱 、 村方 存 寄 不 相 叶候 歟悪 事等 有之節者 、 頭 と申 者 奈 良 町 長 吏ニ 御 座 候 得 共 、 万 事 葛 上 郡 御 所町 ニ 罷 在 候 非 人 番 小 頭 江引合、出 し 入等仕来取計申候 」と あるように、各地に ⑩ 置かれ て い た 非人番小頭 に 「引合」を 行 った上で 「出し 入」をし てい た 、 つま り、小 頭 の 合 意 を 得た 人 物 が 非 人 番と し て 村に置かれた と思 わ れ る。 表2 は「元非人」 に関する記述を ま と め たも の で 、一 〇カ村 の 一三人を 確かめること が で きる。こ のうち七人 には 「家出 」 をしたこ とが、 二 人には 「 徘 徊 」し ていた こと が記 されて い る。つま り 「元非人 」とは 貧 窮等の 、 理由 によっ て 村か ら離 脱し ていた 野 非人 を示すもの と 考 えられるだ ろ う。一三人 の うち 、七人 に は野番も しくは 山番という肩書きがあり、これがそれぞれの 村における 七人 の 職 務 で あり 、 こ れ に よ っ て何 ら か の 収 入 を 得 て 家 族と と も に暮 ら し て い たも の と 思わ れ る 。 他 の 六 人も 家 族と 居 住 して お り 、村 のな かで 施 し を 受 け た り 、 雑 用 を こなすことなどで暮 ら しを立 て てい たの であろう。 飢饉 や災害 な ど の たびに発生した多くの 野非人の なか

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には、各地 を 徘徊 し て 物乞 いを する なか で 行 き倒れ て 落 命す る者 も少 なく な か っ た と思われる が 、 こ の 二 つの 表 に 示 し た 「番 人」や 「 元 非 人」 の よ う に 、各 村で 非人番 とな ったり 、 野番・山番などとな っ て 日 々 の 糧 を 得、家 族と と も に 居 住で き る 場 を みつ け た 者も い た ので あ る 。 これ を村の 側 か ら み る と 、 共同体の 成員の な かから生 活 に 困 窮 し た 者を 野 非 人と して 外 部 へ追 いや る 一 方で 、 その全 て では ないにし ても野非 人の 一 部 を、 治 安 維 持 や 警固に 当 た ら せる ために、 その者 が ど の 村 の 出身か と い う こ と も 分 か りな が ら 領 内 に住 まわ せ 、 暮 ら し 向 き が 立 つように し て いた と い うことに な る 。 二、 野非人 新 蔵と 地域の 対 応 他村に出 自をもつ者 で あれ 、生活に困窮 した者 を 非人 番 や 農 番 ・ 山 番 な ど と して 領 内 に住 まわ せ る と い う 機 能 表2 「元非 人 」 一 覧 村 名 名 前 出生 地 仕事 非人と な るまで の 事情 等 家族 人数 田 井 寅 吉 河内 国 錦 部 郡 市 村 3 曽 根 清 七 十市 郡 浅 古 村 野番 七ケ 年以 前 家 出 、 三 ケ 年 以 前 よ り 野 番仕 候 1 北花 内 久 七 高市 郡下 平 田 村 野番 四十 ケ年以 前 家 出 仕 所 々徘徊仕居候 処、 去 ル 寅年 より当村ヘ野番 ニ 相抱 2 寺 口 藤 七 河内 国 石 川郡持 尾 村 山番 三十ケ 年 以前 家 出 仕 、 其後非人 仕候 7 音 吉 葛下郡竹内村 山番 山番倅 8 市 蔵 式下郡下 永 村 山番 下永 村 小 家番 倅 4 竹 内 利 吉 葛下郡北花 内村 山番 幼少 之 時 父母死去 後非人ニ相 成 申 候 4 栄 吉 葛上 郡 楢 原村 山番 十ケ 年以 前 家 出 、 七 ケ 年以前 よ り 非 人ニ相 成 1 当 麻 石 松 高市郡曽我村 四拾ケ年 以前 家出 仕直様非人 ニ 相成候 8 中 記載 な し 大 中 儀 平 広瀬 郡 大 網村 四十 ケ年 以前 家出直 様 非人 仕候 2 岡 崎 浅 吉 広瀬 郡安 部村 二十 ケ年以前 ニ家出仕、 十 七 ケ 年 間 諸 国 ヘ 徘 徊致居候 処、米石高直 ニ付無 拠 非人 仕候 1 有 井 筆 松 河内 国 古 市 郡 古 市 村 3 土 庫 善 吉 平群郡 笠 目 村 2 松 塚 記載 なし

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が村 に あ ることを 前節 で み た。で は 、こう し た人々 は 、 明治四年(一八 七 一)九月 二十 九日の 布達が 指 示したよ うに 「已 来 居 住地 之 村 町支配 」 とし て、 現 に 住ま い を 、 もつ村や町 の 戸籍 に入 ること が で き ただろうか 。村や町 はこ れを 受 け 入 れ ただろ う か 。 奈良県立図書 情報館 所 蔵 の 奈良県行政 文 書 の な か に、 ⑪ 明 治 四 年 十二 月 こ ろに記された と思われ る次のような文 書が綴り 込まれている。 十市郡田 原本 村之 由 新蔵 二十八才 とら 三十才 竹松 七才 きく 一才 一私 義 者 田原 本村之 由 両親名 前 不存、私 四才之 砌 両 親共 相果、其後式下郡唐古村 青 物渡世新兵衛 方ヘ 子ニ被 貰 候、以身上難取続ニ付 十一才之 砌養両親 ニ被召 連 出奔、所 々 徘 徊罷在候内私義 田 原 本村近 辺ニ而 被 捨候 義ニ 付、同年春日 山内江罷越 、 六ケ 年已前ニ高 畠 村領字桐畑 小 屋 ニ 罷在候 ミ ツ 娘 とら と 夫 婦ニ 相成、翌年 芝 辻村領字中之垣内野番 小屋 、 、 ヘ 罷 越 き く 出 生 竹松 義 者 私妻 とら 連 子 ニ御座候 然ニ 今般旧籍 御改ニ付而 者 私共身寄 無之、妻とら も同様非人 之 娘ニ付、 芝 辻 村江 加籍被 仰付 候ハ ヽ身 分 惣 応 之 日 雇 稼 キ ニ 而 も 可 仕 候 間 、 御 憐 愍 之 程奉願上 候、已上 右の内 容 をま とめる と 次 の ように な ろう。十市 郡 田 原 本 村 生 ま れの新蔵 は、幼いころ 両親を失い 、 式下郡唐古 村の 青物商の 家 に もら われた も のの 、 こ の 家 も貧窮 と な って 各 地 を 徘 徊 、 つ い に 養 父 母 か ら も 捨 て ら れ 、 や む な く「春日山内 」に入った 。 やが て新蔵は 春日山麓の 添 上 郡 高 畑村 の「 桐畑小屋」 に 居住 し て い た 「 非 人之 娘」で ある と ら と夫 婦 と なり 芝辻村の 野 番 となっ た 。 新 蔵は 、 戸籍編成 に あ たっ て身 寄りの な い一 家 を 芝辻 村の 戸籍に 加えて く れるよう願い出た。 この 新蔵の 願 いに関し て、 明 治 四 年 十 二 月 十 六 日 に 芝 辻村を 管 轄し て い たと 考えられ る奈良町 の市 中戸長 か ら 次の よ う な口上書が 奈 良県 に提出さ れた。 ⑫

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口上書 別紙 之通芝辻 村小屋番新蔵 義村 方 入 用 ニ 無 之 間 加 籍 難為致 申 出候 付、 同 人 家内四人 之 者 住所相定メ不申 者難渋仕 と 奉存候間、春日御山内大小屋江罷越 候様 可被 仰付 哉、此段 奉伺 候、以上 辛未 市中戸 長 , 十二月 十 六 日 千載 伝 吉 右の 内 容 は 、 芝辻 村 で は 小 屋 番 の 必 要 が な く な っ た の 、 、 で 新蔵 を戸 籍に加える こ とは でき ない と申し 出 てきた と は い っ ても新蔵 一家も住所を 決 めなく て は難渋する で あろう か ら 、 春日山 内 の「大小 屋」 へ行くよ う命じ て も らえない か、伺いを申 し 上 げる、ということで あ ろう。 事情は不明であるが、い ったんは野番と し て雇 った新蔵 を、 戸 籍 編 成 に あ たっ て 、 村 と し て は も は や 「入用 」 で はな いと して 「加 籍 」 す る こと を 拒 否 し た。新 蔵 の 切 な る 願 いは聞き入 れ られなか ったの で ある 。 右の 二つの 史 料で注 目 し て おきた い こ と は 、 生 活 に 窮 「 」 。 し た 新 蔵 が 春日山内江罷越 と述べ て いることである 冒頭に みたように 「中 臣延栄記 」は 寛 保 の こ ろか ら 野 、 非人が春 日山内に入 り込 み住居を 設けるよう に な っ た と 嘆いて い たが 、こ う し た状況 は 幕末 段階 に おいて も 変 化 はな か っ た の で あ る 。 ま た 「非 人 之 娘 」 で あ っ た 新 蔵 、 の 妻 とら が居 住し て い た と いう「桐畑小屋 」 も、 その 位 置は確定 で き な か ったが、 や は り春 日山麓に作 ら れ て い た野 非人の 住 居で あ る と み て よ い だ ろ う 。 さ ら に 、市中 戸長も住居を 失うこと にな る新蔵一家 が 「春日御 山内大 小 屋 」に行け ばよいと述べている。 こ の 「大小屋」 に つ いて も 今 のと こ ろ 規模や 位 置 な ど は 不 詳 と す る し かな い が、奈良 町の 戸長 級の人 々 にも野非人 が 春 日 山に入るこ とを当然とする見 方 が 存在し て いた といえ る だ ろ う。 春日山は、周知のように古くか ら 春 日 神 の 祀 られる山 とし て信仰の 対 象 と な っ て いた 。山 内の 香山 には 鳴雷 神 社が 鎮座し 、 旱天の際 には祈 雨 の法 会が行わ れて おり、 近代に な っ て も 雨 乞 い の願がかけられ る ことがあ った。 こ のように聖 視がな さ れる 一方 で 、 あ る い は そうで あ る が故に と いえる の か も しれないが、 そ の地 を野非人 の集 住地と する認識も生まれ て い た の で ある。 奈良町 や 周辺村落 の人 々 の 春日 山観について は、野非 人と い う 要 素 を 入 れ て 見直 して みる 必 要 があ ると 思わ れ るが、こ れについて は 稿を 改めると し て 、 と りあえず本

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節で は 、 幕 末 に 野 番 と して 雇 わ れ た 一 人 の 野 非 人 が 、 戸 籍という新た な形式の 統治がはじまる な か で 居場所 を 失 って い っ たこ と を 確 か めて おき た い 。 三、 非人番 の 処遇 野 番 の新蔵だけで はな かっ た。奈良奉行 所ー長 吏 に よ る統 制が解 体 す る な か で 、 非 人 番をつと めて い た 人々 の 居場所 も 不安定 な も の とな った。 前述 の 葛 下 郡 松塚 村 戸 長 家 の文 書 に は、前 掲 表1 に み える紀伊 国牟 婁郡東 雨 村 出 身の「 番 人」勇治 の嘆願書が ⑬ 残さ れ て いる。 こ れは明治四 年 (一 八 七 一 ) 十二月 に 松 塚村役人中に宛 て て 出 さ れ た も の で 、 そ の 内 容は、奈良 県は 「番人」 のうちでも 「 正路」 に 勤め ている者は、 、 その 村の 戸 籍 に 入 れ 「不 束 」 な者は 生 ま れ た 村 へ 戻 す 、 よう布令を出し て いるが、紀伊国の 故郷には もは や 帰 る 場所もな く、ぜひ 「番 人」と し て の 仕事を 続 け さ せて ほ しい 、と いうも の で あ る 。 添下郡 西 大寺 村と芝 村 の 役 人が明治五年(一 八七二) 七月 に奈良県 に あ てて提出した 願書 も非人 番 の 処 遇に 関 ⑭ するも の であ った 。芝村で は平 群郡立野村 出 身の非人番 長蔵が退 いたの ち 、その 三 男 末 吉が職 を 継ぎ、 長 男の 吉 蔵が隣 接 する西大寺村 の非人番を つ と め て い たが、戸籍 編成 に あ たっ て老 いた長蔵 と吉蔵家 族 に つ い て 村 の 戸 籍 に入れるこ と は承知する が 、末吉に ついて は 素行 が良く ないと し て 問 題とな っ た 。願書 によって 詳しい事 情を み ると 次のよう なことで あ っ た。 乍恐 奉再嘆願候 第二 大区添 下 郡 第 六小 区 西大寺村 役人 共 芝 村 (中略) 右吉蔵儀嘉永六丑年二 月より芝村罷 出西大寺 村 江 罷 越同村 非 人番ニ有之、吉 蔵 弟末吉ハ芝村 非人番ニ 有 之、 同人 儀番 人職 不調 法有 之故歟、右 取 締法花寺 村 非人 番藤 助より追出 ニ相成、浪 々 罷居 依而芝村非 人 番ハ 藤助兼帯致 居 候、右末吉 儀 ハ西大寺村番人父長 蔵及 吉蔵ハ親子 兄 弟ニ シテ何 之 頃歟 風与吉 蔵 方江参 居、折 柄 今 般 之御取締ニ付右長 蔵及吉蔵妻子 共〆八 人者無拠村 方 江加籍 仕 候得共 、 右 末 吉儀 ハ元 来惰弱

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不良之 者 ニ而其父 兄之意ヲ不用 、一村内手 余 リ之 者 ニ付追 々 良民之 道 ニ 難 為及 ハ勿 論、是非生活 之 目 途 難相立候 間、右末吉 壱 人丈ケ御引下ケ被成下 度、両 村連印 ヲ 以郡山 御 出張 御役 所 様 江 奉 嘆願 候所 、蒙 御利解猶亦両村打寄小前末々迄申聞 候得共 、 末吉 引 上ケ 加籍仕候儀難 相成候様 申聞候 ニ 付 御本県御役 所様 江 奉 再 嘆 願候 処 、 前 文 同様 蒙 御 利 解 候 ニ 付 再 三 小前之者 共江 申聞候得 共、 右 末 吉儀元来惰弱不良 之 上此中 別 而身 持不宜候 ニ付両村之内ヘ 加 籍 為 仕候 而 ハ前 申上候 通 村内并我 父兄 之意ヲ不用候程之者 故 行 々小前 之 者 ニ 茂夫 々 泥 ミ難 有 御 趣 意 ヲ 不用游惰安 逸ニ 相成 候而 者実ニ可 奉恐入 候 間 、 何 卒 右憐 察 被 成 下 末吉壱人 丈 ケ 御 引 上 ケ 被 成下候 様 偏ニ奉 再 嘆願 候、 右御許容 被成下候ハヽ村方一同難有仕合 ニ奉存 候、 以 上 (中略) 明治 五壬 申 年 七月 奈良 県御役 所 右によ る と 、 西大 寺・芝辻両村 は、長蔵と 長 男吉蔵一 家は「無 拠 村 方江加籍」するけ れ ど も 「惰弱不良」で 、 非人番 の 職 も 勤まら な かった「一村内手余リ 」 の 三男末 吉につい て は 受け入れることが で きない と したの で あ る。県は一度は こ の言 い分を退けた よ う だ が 、 両 村は承 知をせず 「再嘆願」に及び 「末吉壱人丈ケ」は ど うか 、 、 「引 上ケ 」てほし いと 願い出たの で ある。 ここ ま で 取 り 上げ て き た野非人新蔵や 非 人番末吉 が戸 籍 へ の編入を 拒否 され た背 景には、当 人 ら の 性行 を は じ め、 そ れ ぞれに 個 別の 事 情 が あ っ た わけ であ り 、 村内 の 人間関係に踏み込ん で 考察を深め な けれ ば、 村側が拒否 にい たった心情を 明らかにす る こと は で き な いだ ろう 。 しかし 、 だからと い っ て 、 こ の 二 人 が特 異な事例という わけ で は なかった。 明治五年 七月に奈良県庶務 課戸籍 掛 が次のような文書 を作 成し て 、 戸長に布 達 し て よ いか 許可を求めて いる。 ⑮ 先般穢多非人 平民偏籍 被 ( 編 ) 仰付候処、是迄郡村等ニ数年来居住罷 在 、 従 来仕 馴 之産業 相 稼 居 リ候 処 、 中 ニ 者 其 郡 村 戸 長 等 よ り 厳 敷 追退ケル ニ付、非人 等 指 当 リ 居 住地 ニ離れ 丕 形 迷 惑 之趣 ニ而、山 野等ニ二三拾人宛 も郡集 罷 在、此 儘 ニ ( 群 ) 差置 候 而 ハ 畢 竟 国 害 を 醸 し 候 由 監 察 掛 中 よ り 申 出 候、元来 穢多非人等 平 民偏籍 ハ 深 キ御仁恤之 御趣意

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候処、右 様戸長等 より取計ヒ候而 ハ 右 御 趣 意 ニ相反 シ候之 間 、自 今其郡 村 等従 来住 居産 業も 相 立 居候者 ハ其郡村 戸籍 ヘ偏籍 ニ 相成、他管 轄 より参 集 之 者 ハ 其 方 江送籍 申 付 、 他年 来其郡村ニ 居 馴れ旧里原 籍 も 不詳 産業 も 難 相立者ハ授産所 ニ 而法 方立 遣し 可然と ( マ マ ) 存候、依而右 之趣 戸長共 へ 厳重 申渡 可 然 哉、此段相 伺候 也 右の内 容 をま と め る と 次 の ように な るだ ろう。 各 村に 「数 年来 居住 」し 「仕 馴 之 産業 」 が あ る に も か か わ ら 、 ず、 戸長から 追 い 払 わ れ る 「非人 」 が 多 く 「山 野等ニ 、 二三拾人 宛 も 郡集 」 し て 、 こ の ま ま で は 「国 害」になる ので はな い か と 心 配 さ れ る 「穢 多非 人 」 を「 平 民 」の 。 戸籍 に編入 す るように 命じた「解放 令」 の趣旨 に も 反 す る の で 、 自活 の可 能な 者 は 、そ の村 の 戸 籍 に 編 入 するこ と 、 他管轄の者は 原 籍に戻 す こと 、 原 籍が不明 で暮 らし も立 ちゆ か な い者 は 「 授 産 所 」 で 手 立 て を 考 え る 、 と い うこ とを各戸長 に 申 し 渡し て よ いか、伺い た い 。 つまり 、 野非人 新 蔵 や 非人 番末吉だ けが と く に 冷 酷 な 運命に見 舞 わ れた わ け で は なか った。多くの新蔵 や末吉 が戸長に 追わ れ て 山野に群集し て お り、警察 行政を扱う 「監察 掛 」が「国 害」となるので は ないかと危惧するよ うな事 態 が、維新 の 変 革 の な か にある明治五 年 の 奈良県 に出現し ていたの で あ る。 おわ り に 維 新 の変革が 進む明治初年 の奈良県において 、野非 人 や非人 番 の 排 除を 進め る 村 が少 なか らずあ ら われた よ う すを 確 か めて き た 。 以前の拙稿にお い て 、 明治四 年 (一八 七 一)四月に全 国統 一の戸籍法が公 布 されると 、こ れにもと づく戸籍編 成が翌五 年 ( 一八七二 )二 月から と されて い た に も か か わらず、 確 認 できる限 り で 大 和 国内 の奈良 ・ 五條・郡山 ・高 取 ・ 柳本各県 で、四年九月 こ ろ から 戸 籍 編成が実 施 さ れ 、全国統 一の戸籍法にもとづく辛 未 戸籍が作 成 さ れ て い った ことを明らかにした。 戸籍編成が急 がれた詳 細 ⑯ な事情は不明 で あ るが、 明 治二年から同三年(一八六九 ~ 七 〇)にかけ て 飢饉が発生し て多くの 野 非 人 が 出現し た こ と を 史料から確 か めること が で き、 こう した 事情が 背景 に あ った もの と 思 われる。

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地域社 会 の排除 の ベクト ル は、ど のような 状 況で い か なる方向 に 作 用 す る の か ― このこ と を明らかにするた め の一つ の モノグラフ を 提示し得たと 考えて 、 ひと まず小 稿を 閉 じ た い 。 【注】 ①奈良市同 和 地 区 史 的 調 査 委員 会編 『奈 良の 部落史』 史 料 編(奈 良市、一九八 六年)四 〇六 頁所収 、 「 「 」 「 」 ② た と え ば 谷山 正道 大和にお け る 非人番 史料― 非人番 」 ( 『 』 、 ) 、 統 制 機 構 を 中 心 に ― 部落問題 研究 五二 号 一九七七年 「 ( ) 」 溝 口 裕 美 子 近世 大和に お け る 非人番 制 度の成立過程 上・下 ( 奈良 歴 史 通信』 三 九 号 ・四〇号 、 一 九九 四 年 、拙 稿「 大和 『 ) の「非 人 番」覚書 (奈良 県 立同和 問 題関係 史 料センター〔以 」 下史料センタ ー〕編『研究紀 要 』一号、一九九四 年 ) など。 ③正徳期の 状 況に つ い て は 、中川みゆき 「座 頭祝 銭をめぐ る地 域 」 ( 『 』 、 ) 、 社 会 の 動 向 史料 セン ター 編 研究 紀要 二号 一九九五年 史料センター編『 奈良 の被 差別 民 衆 史 (二〇〇 一年 )一一九 』 頁な ど 。 ④拙 稿「 非 人 番 へ の給 米 に 関 す る一 史料 を め ぐ っ て ( リー ジョ 」 『 ナル 』 七 号、 二 〇 〇 七 年) ⑤大和高田 市 松 塚 松田 家文書(史 料 セン タ ー 架 蔵 マイ ク ロ フィル ム) ⑥明 治四 年 「 御布 令 写 帳 (奈 良 県 立図 書 情 報館 所 蔵 文 書 、 史 料 」 センタ ー 編 奈 良県 同 和 問題 関 係 史料 第二 集『 奈良県 同 和問題 関 係公 文集( Ⅰ 』二 八頁に 翻 刻 ) ) ⑦右 同「 御 布 令 写 帳 ( 奈良県 同 和問題 関 係公文集(Ⅰ 』三 一 」 『 ) 頁に 翻刻) ⑧今西 一 「 大 和における一老 農 の生 涯― 「賤 夫善 五郎 男直 三」 に つい て― ( 部落問 題 研究 』七四、 一九 八二年) 」 『 ⑨谷 山 正 道 「 近 世 後期の 永 原村と中村 家 ―中村直 三関係史料の 紹 介(1)― ( リー ジョナ ル 』 四 号、二 〇 〇 六 年) 」 『 ⑩御 所 市 井 戸 北村 家文書 文 化元年 六 月「番 非 人 勤 方書 上 帳 (史」 料セ ンター架蔵 マ イ ク ロフ ィル ム 。な お、 こ の 史料 につ いて ) は、 注②前 掲 谷山 「大和 に おける「非 人 番」 史 料 ― 「 非人 番」 統制 機 構 を中心 に ―」 に お いて 翻 刻 と 解 説 が なさ れて い る 。 ⑪奈良県立 図 書情報 館 所 蔵 奈良県行政文 書 明 治五年「 各支庁 往 復 及諸決議 其他 願伺 届之 件 」 ⑫右 同 明 治 五 年 「 各支 庁 往 復 及 諸 決 議 其 他 願 伺届 之 件 」 ⑬注 ⑤前 掲 松 田家 文書 明 治 四年 十二 月「 松 塚 村番人身 元に付〕 〔 差入申引 請 証 文之事」 ⑭注⑪前 掲明 治五年「 各支 庁往復及諸決議 其 他 願 伺 届 之 件 」 ⑮注⑪ 前 掲明 治五年「 各支 庁往復及諸決 議其他 願 伺 届 之 件 」 ⑯拙 稿 「 明 治 初期 大 和 国に おけ る非 人番 制 度 の 改 革と 戸籍編 成 」 (史 料 セ ン タ ー 編 『 研 究 紀 要』 一 三 号 、 二〇 〇 七 年) (同和問題関係史料セ ンタ ー係長)

参照

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