論 説
哲 学 的 急 進 派 の 議 会 改 革 論
西 尾 孝 司
六 五 四 三 ニ ー
目次
はじめに
哲学的急進派の形成
﹃ウェストミソスター・レヴュー﹄と哲学的急進派
ペソサムの急進的議会改革論
哲学的急進派の議会改革論
むすびにかえて
はじめに
一八三二年六月七日に成立したコ選挙法改正法L(↓幕力臥︒ヨ︾3をめぐって十九世紀初頭のイギリスでは民衆の
(1)巨大な政治的エネルギーが爆発した︒最近では︑それが果たして"革命的危機"であったかどうかが論議されている︒
革命は起こらなかった︑ということが厳然たる歴史的事実である︒それにもかかわらず︑一八三〇年代初頭に展開を
{183)
183
みた政治的諸闘争を"革命"という視点から検証しようとする試みがなされるほどにこの期の政治的危機が深刻なも
のであったことが指摘されなければならないであろう︒少なくともこれは︑﹁議会改革をめぐる危機﹂(器ho円目oユ萄︒冨)
として位置づけることが正当なほどに深刻なものであったといわなければならないのである︒
一八三〇年代に入り︑イギリスでは民衆の改革への要求は﹁議会改革﹂へとその焦点がしぼられてゆく︒そして︑
﹁議会改革﹂の内容とそれを実現するための手段をめぐってさまざまな党派が政治の舞台に登場したのであった︒す
ヨ でに拙稿﹁近代イギリスにおける急進的議会改革論の形成﹂でみたように︑議会改革をめぐる最左翼にはウィリア
ム・コベットがいたし︑ついで哲学的急進派の急進的な議会改革要求があり︑さらにはホイッグ党改革派を代表する
ラッセル卿の最も穏健な議会改革案があった︒
しかしながら︑他方では︑議会改革をめぐっては有力な反対派が存在したことも指摘されなければならないであろ
う︒ト!リー党がいかなる議会改革案にも反対していたことはいうまでもない︒しかし︑労働者階級の最も急進的な
部分もまた議会改革には反対であった︒ヘソリ・ハソトに代表される労働者階級の過激派は︑一八三一年三月に下院
に提案された選挙法改正案では労働者階級は少しも利益をうることはありえず︑それは︑︑︑ドル・クラスの利益にしか
ならないとしてこれに反対したのであつ(4)た︒ン﹂の意肇は︑一八三二年﹁馨法改正法﹂は︑いわば左右両極からの
挾撃の中でようやくにしてこぎつけたひとつの中間的な妥協であったといわざるをえないであろう︒それは︑一方に
おける名誉革命体制を断固護持しようとするトーリー党と︑他方における既存体制の根本的な変革を求める労働者階
級の過激派との中間において妥協をみたものでしかなかったともいえる︒ここに︑その歴史的意義の解釈をめぐって
積極的な評価のみならずきわめて消極的な評価が今日においてもみられる理由があるとい・兄るように思われるのであ
る︒
(184) 184
哲学的急進派は︑結論的にいえば︑一八三二年改正法の実現に向けて中心的な役割を果たしたといえるであろう︒か毯力僑故にその中心的な役割を果たし・えたのであろうか︒のちにみるように︑かれらの議会改轟肇はきわめて急進的なものであった︒しかしながら︑かれらの急進的な議会改革要求案と天三二年改正法との間には本質的と
もいえるギャップがみられる︒かれらの主張からするならば︑それは︑あまりにも不充分なものでしかなかったであ
ろう︒それは︑かれらの挫折と敗北とさえいえるものであった︒レズリ:ステイ占ンは・次のように述べつつこ
れを確認している︒
﹁哲学的急進派は︑失敗するべく運命づけられていた︒なぜならば︑英語で〃哲学的"ということは・空想的・非現実的単純なバヵと同義であったからである︒哲学者たちは︑演壇に立つよりも書斎にこもる方が向いている
酔狂な人種とみなされていたので難﹂・
スティーヴソは︑ベンサム学派の.﹂とを哲学的急進派と表現することを好まなかったようである・かれは・ベンサムをあくまでもイギリス人の"常識〃という枠組においてとらえようとしていたのである︒また・W.トーマスも・
次のように述べつつ︑ベンサムがその同時代と後世に与えた影響力について疑問を提起している︒
﹁+九世紀初頭のイギリス社会においては︑かれらが大衆的な賛同者姦得することに失敗したことよりは・すなわち︑そのような賛同者を獲得するためにはどのような諸手段が必要であるかを会得することに失敗したことよ
りは︑多分︑かれらが教養ある同時代人たちにその諸理念を普及さ芸ことに失敗したことの方がより決定的なも
のであった︒もちろん︑ベンサ︑︑︑ズムないしは功利主嚢イずスのヴィクトリァ時代においてきわめて有力な哲
学であったという.﹂と竺般に公認されている見解ではある︒しかし︑私は︑このような見禦果たして正しいものであるかどうかについて疑問をもたざるをえないもので豪﹂・
(ray)
185さらには・c.B・ウェルチも︑次のように指摘しつつ︑哲学的急進派ξいての従来の評価に対して基本的な修
正を加えている︒
暑学的急進派はある程度の成功をかちえたけれども︑かれらの政治的プ量フム窒体としては完全に失敗で
あった・かれらは・ホイッグ党霜互にその由貝族的利華砦しA︒っているトー壷に対抗して籍集す看﹂と
を実現させることができなかったし︑かれらはイギース議会においても有力な勢力となる.﹂とができなかった︒さ
らには・ミドル●クラス出身の他の肇者たちが︑急進的ないしは根本的な体製革ではなく︑ホイッグ党の指導
の下で穏窪改革を求めつづけたことも亡心れられてはならない︒しかしながら︑哲学的急進派のプ身フムに対す
る最も深刻な痛撃は疑いもなく︑チャ←ス蓮動や反穀物法運動のような明らかに労讐を中心とする階級的
ア な行動によってもたらされたL︒(8)(9)
スティーヴソ・ト←ス・および︑ウェルチのこのような見解は︑E.アレヴィ︑M.オスト︒ゴルス†︑およ
び・A・v.ダィシ(避袋される哲学的急進派の歴史的評価をめぐるいずれも二〇世紀初頭に形成され鐘説的見
解を根本的に修芒ようとするものであることはいうまでもない︒果たして︑ウェストソ女史が指摘するように︑選
挙法改正法案の成立は・その勝利が不完全なものであったとはいえ︑ベソサムの努力が勝利したシソボルとして考.兄
られ麺Lものなのであろうか・さらには︑天三二年馨法改正の政治過程における民衆的要素ないしは労讐階
級の闘争をより高く評価する羅が現われている点にも留意しなければならないであろ義・︒
その挫折と敗北という視点から哲学的急進派をみるならば︑かれらの挫折と敗北が明らかになるのは︑むしろ︑一
八三二年以降の改正法下における下院においてであった︒この改正法の限界がかれらの下院での挫折となって現われ
たのである・それにもかかわらず︑哲学的急進派は︑天三二年の時点では︑かれらの獲得した成果に対し三定の
(186̀
186満足を示している︒そして︑かれらは︑これをもそその闘いの矛先を基本的にはおさめたのであった・かれらは・
ゆ とくに︑選挙権拡大についてはその情熱を急速に失っていったのである︒ここに︑十九世紀イギリス史の七不思議の;があるというべきであろう︒しかし︑ここにこそ︑哲学的急進派の歴史的な嚢と限界とがあるようにも思われ
るのである︒
本稿は︑一ム三年選挙法改正法をめぐる哲学的急進派の理論と実践とを藁しようとするもので轟・拙稿﹁近
代イギリスにおける急進的議会改革論の形成﹂の続編をなすものである︒
(1)艦缶鋤ヨげ目㎝q①噌し・・甘ミ馬馳籍§煽爲ミ嚇書詠ミミ昏きミ脳§・一霧曾↓}5鼠盟竃・P俸"=︒芦§着ミ物ミ尋§︑ミ臨§§しロミ馬§ミ塁‑︑Q◎廃・一り刈8鱒︒︿2望5矯旨ご馨︑bミミ暮黛§塁き曇醤軋嵐憶§点鶏斜6"ρ
(2)oり8︿o昌8P一ご§.簿曜・噸"℃・bo一c◎IbQ卜QQo・(3)拙稿﹁近代イギリスにおける急進的議会改革論の形成﹂﹃研究年報﹄葦(神奈川大学法学研究所・一九八五年)所載・
(4)臣ヨ晋σ︒P旨̀曇ミ・・唱や弔︒︒鉱苧§糟(5)ω仲Φ量pr寒爵奪§§§吻L㊤︒ρ・︒蚕"●芦(6)察︒ヨ助㎝・≦・壽ミも§ミ建蓉・壽要§§寒もミ疑㌔ミ貢§こ.・§§ら劇3(7)≦①一︒貫ρ炉ミ馬さミ§魯︑§雨ぎ§ミミ馨ζミぎぎ暮ミ§ミ寒§§.譲三葛b・Fρ(8)=暫后蓑7§鳴Oミミ魯ミき匙q§隷苛ミ§ミ蹄ミL鴇津窪島aご60斜国邸欝昌︒︒.牙罫ζ︒乱即δN︒︒︑Z署巴・LOお亀"轟勢‑︑ら藁ミ︑富謬︑慧㌘§智鰍隷導恥§帖鳴鮎ミ神O§嘗壁α︿︒﹃犀津①蓉ザ鑑︑耶お鍋穿叩欝彦ξ≦︒︒まジ国.トや豆}切'︒蒔︒﹃し紹♪
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(9)︒㎝け﹃謁︒葬甚.§§奪ミ§爵筒醤§§ミミぎ§§噂尉;窪・琶̀壽﹄郵欝銘げ葛︒}麟量§・(m;駒︒︒圃レメミ黛鳶物ミ譜昏ミ§婁§導ミミミ苛eミ§篭薯ミミ喧書§§さミ§﹄︒㎝矯N巳&̀一りぱ.
(11)妻婁︒ロ・Oρ・爵登物隷O§鴇篭ミ鮎§ミぎも礎寝ミ眺富聖紹ミhも蓉嵩騎丸§噂一〇留鴇㍗器一.(12)謬︒茗8謬・鼻汐寒さミ遭曼ミ馬爵︑葱ミ蟹ミ〜錯O§診窃①も︒.切皇P炉俸曾芝号旦葺︑慧ミ§ミ勉§栽奪§馬鳶嵩象‑︑QQへQ◎噂一㊤OQ紳
(187)
187(31)いうまでもなく・哲学的急進塗八三二年以讐存続してその活動農開したが︑本稿の目的はあくまでも天三二鐘羨改正法に翌
るまでのかれらの理論と実践を考察しようとするものである︒
二 哲 学 的 急 進 派 の 形 成
ジェレ⁝ベソサムは・しばしば︑﹁隠遁の人﹂であるといわれてきた︒確かに︑かれは︑その生涯を通して隠遁の
人であったといわざるをえない側要もっている.かれは︑公衆の亜馴で演説をする.︺と窪かったし︑政治的な集
会やデモ三占←ヨ三参加することもなかった︒その悠含適ぶりを︑ス一アイ占ソは︑次のようにスケ.チ
している・﹁かれは・午前中に仕事をし︑毎旦?蓋フ3オ・fジを塾するというタイム.テーブルにも
とつい星活していた・かれは・定期的に新聞を抽莞だが︑本はほとんど読まず︑かれ耳の著作に対する批判には
全く無頓着であった・かれの事実上の食藻六時すぎにと多食面のみで︑そ.﹂には時々ごく少数の友人が特別に
招かれるだけであつ(旭L・かれは︑あたかも時計が時刻をきざむかのよう窺則正しい生活を送っていた︒そのよう
窺則正しい生活が可能であったのは︑おそらく︑かれがその生涯おい星計のために働く必要がなく︑孝をも
つことがなかったことにもよっていると思われる︒
しかしながら・ベソサムは・芒て孤独の人ではなかった︒また︑かれは︑人嫌いでもなかった︒かれは︑その晩
年に至乏したがって・ますます多くの弟子たちに囲まれて︑ステイ占ソによれば︑かれはあたかもマホメットの
ごとくであつ(混・このような背量﹂そが︑晩年のべソサムの周辺において"哲学的急進派〃が形成される葉的な土
台となったといえるであろう・かれの最晩年ξいて︑ヴィ多ーコ三ソは︑次のように描いているのである︒
﹁ベソサムは・すばらしい弟子たちが繁する指薯であった︒かれは︑なおも︑クウィーン.スクウェア.フレイ
{188)
188スの"隠遁者の住み家〃に住んでいた︒そして︑かれは︑なおも﹃憲法典﹄の執筆に懸命にとりくんでいた︒かれの生
涯は不思議な誰に幸福であった︒なぜならば︑かれは藏というものを知らなかったし︑欠乏というものを知らな
かったからであるL︒かれは︑多くの弟子たちと共にあった︒そして︑その関係は︑﹁近代の大学教授と生徒たちとい
る うよりは︑アテナイの哲学者と聴衆たち﹂のそれであった︒かれは︑その弟子たちに対して圧倒的な精神的・思想的
な影響力をもっていたのである︒
ベンサムの周辺にこのように多くの弟子たちが集まってくる大きな契機となったのは︑かれとジェームズ・ミルと
の選遁であった︒それは︑一八〇八年のことである︒この時期のベンサムは︑パノプチコン建設運動の挫折による失
意のどん底にあった︒ミルとの蓬遁によって︑かれの改革への眼が刑法から憲法へと転換する︒それは︑かれの起死
回生をかけた転換であった︒そして︑それは︑まもなく︑︽議会改革論︾として具体化されたのである︒これによって・
かれは︑徐々に︑急進主義者へと転換してゆくのである︒このような過程においてミルが確塾に果炬レかど慰わかを
.︑とは︑ペソサ(始哲学蓮念とを多くの知識人たちにひろめつ?︑れに蕎する知識人をかれの周辺に結集していったことであろう︒ミルは︑ベンサムの使徒のごとくでもあり︑その理念のオルガナイザーのごとくでもあった︒こ
うして﹁ベンサム笹ルに学説を量︑毒はべソサムに学派を与赴﹂のである・
しかしながら︑アレヴィのこのような通説に対しては︑最近︑有力な反論が提起されていることが留意されなけれ
ばならないであろう︒それは︑ウィリアム・ト←スの所説である︒ト←スによれば︑﹁ベソサムの弟子たちの中
で最も忠実な弟子であったジェームズ.ミルでさえ︑最も重要な影響をうけたものとしてかれが公言しているように・
その着想をベンサム以外のところから摂取しており︑ベソサムの倫理学と法律学とをハ!トリの分析的心理学やリカ
ードの経済学をもって補充したのである︒哲学的急進主義という名称は︑多彩なさまざまな理念が錯綜したものに対
(xss)
189する名称としてはべソサミズムという用語よりは適切なものではあろう︒しかし︑それはむしろかなりの誤解にもと
つくものであつ(混L・ベソサムとJ・‑ルの田心想的関係について︑ト←スは︑のちにもう少し詳しくみるように︑ア
レヴィ説を真向から否定する解釈を展開しており︑それはべソサムに対する︑︑・ルの思想的独自性を強調しようとする
ものである︒トーマスは︑哲学的急進派の内部においてミルはかなりの独自的な影響力をもっていたことを強調しつ
つ︑﹁ルの弟子たちまでもがベソサマイツと呼ばれるさつになったのは間違った気まぐれな世評鰻るものであり︑
このようなべソサマイツという長い間使われてきたレッテルはたいへんな誤解によるものでしかない﹂と主張してい
る︒この点について・その長男であるジョソが父について次のように指摘していることが想起されてもよいであろう︒
﹁ベンサムがおよぼした影響というものはかれが書いたものを通してであった︒書いたものを通してかれは︑私の父
のそれよりもむろんずっと広く深い影響を人類の条件におよぼしもしたしまた現におよぼしつつもある︒歴史上から
見ればかれの名の方がずっと大きい︒しかし︑個人的な影響力ということになると私の父の方がはるかに大きな力を
(9)もっていた﹂︒
したがって・このようなトーマス説にょるならば︑﹁ベソサムはミルに学説を与・兄︑︑︑︑ルはべソサムに学派を与.兄
た﹂とするアレヴィ説は否定されざるをえないであろう︒本稿は︑これらの両説に注立日心を払いつつ︑哲学的急進派の
実体に可能な限りアプローチしようとするものである︒
ベソサムの教説に賛同し︑ジェームズ・ミルを事実上の仲介者としてベソサムの周辺に結集したグル1プは︑一般
に・﹁功利主義者﹂(薮葺鼠碧切)︑﹁哲学的急進派﹂(冒げま︒・︒音︒茜象︒騨一︒︒)︑ないしは︑﹁ベソサマイッ﹂(穿コ爵四巨梓①︒︒)など
と呼ばれてきた︒しかし︑これら三つの呼称をほとんど同義語としてとら︑兄るとす議らば︑それは明らかに誤りで
あるといわなければならないであろう︒これは︑W・トーマスも指摘するとおりである︒それでは︑これらの三つの
(190)
190呼称にはどのよう茎暴あるのであろうか︒まず︑﹁功利主義者﹂という用語は・ベソサムの教説に欝するグルーフの最も包括的な呼称である.﹂とはいうまでもない︒この用語には︑哲学的急進派やベンサマイツのすべてが婁れている︒また︑︑︑の用語は︑ベンサムの死去およびそれξつく哲学的急進派の衰退の後にも・かれの教説に共鳴した人々をも含んでいるというべきであろう︒そのような袋的な人物として・L・スティーヴンやA・V.ダィシーをあげるソ﹂とができる︒他方︑﹁ベソサマイッ﹂のほとんどは哲学的急進派であったとみなしてもよいであろうが・そ
のすべてが哲学的急進派であったと考︑兄ることは妥当隻欠くといわなければならない・ペソサマイトでありながらも哲学的急進派とはい︑羨い袋的な人物として︑エティラヌ・デュモンをあげることができるであろう・かれは・
ベソサムの教説に共鳴し︑ベンサム個人との心酔的な交際をもち︑かれの響作を璽禦して﹃妾の理論﹄(↓ミ暴魯§.ミ蛛嵐q蕊ら鰍噌暁︑.鯨鳩鳳嵩黛む・・︒︿︒一・.・・§N・)として公刊しつつ︑その母国ジュネみにおいて盗饗にたずさわった思想家ではあった︒けれども︑かれは︑哲学的急進派に属していたとはいえないのみならず・かれが自己耳を﹁ベンサマイト﹂と名乗っていたかどうかについても難しがたいものがある︒撃的急進派とは・+九世紀初頭のイギ
リスにおいて政治的.経済的.社会的.文化的な諸分野においてその根底的な肇を志向しつつ主としてそのための理論的なキャンペーンを展開した人々を意味するものにほかならないのである・
それでは︑本稿の主題である﹁哲学的急進派﹂にはどのような人々があげられるのであろうか・この論点に入る前に︑︑﹂.﹂では︑ベンサムを中心とするグ†.フに関する呈のような三つの呼禁︑いつごろから・だれによって使
われはじめたのかについて覧しイ︑お≦とにしよう.結論的にいえば・これらの三つの呼禁使われはじめた署蜘の年代を特定すう﹂とは﹁功利主馨﹂を別とすれば︑不可能なことのよう意われる・た芒・こ憶﹂に・いくつか
のヒントがあるので︑これにふれておきたい︒珊
まず篁に:ヘソサム自身は︑呈のような三つの呼称のいずれをも全‑使用しなかったと思われる.﹂とが鵜さ醜
れなければならないであろう・かれの主巽諸著作にはこれらの三つの呼称茎憂用されイ︑いないのである︒無論︑
かれ鼻が自らを﹁ベソサマイとと墜ふことはありえないことではあるが︑かれ旨らを﹁功利主馨﹂ないしは
圃
﹁哲学的急進派﹂と呼んだことはなかったように思われる︒その;の証明として︑天四三年に翁されたギリ
ソグ版﹃ベソサム癒﹄第±巻のあの膨大な藁引L(ぎ山旦には.﹂れら三つの用語が全くリストされていない.﹂
とがあげられるであろう・しかしながら︑かれが自己の教説を︽急進嚢︾として位置づけ︑自己自身を︽急進義
者︾と呼んでいたことは・かれの晩年の董珊葦らみてもあまりにも明らかな.︺とであるといわなければならないの
で輪・
第二に・﹁功型嚢﹂という呼称は︑J・S・‑ルが中心となって天三年に設立頭た﹁功利主義者協会﹂(穿婁警ω..圃①梓団)に籍をもつものであることが指摘されるべきであろう︒︑︑︑ルによれば︑.﹂の用語は︑ ミル自
身の造語によるものではなく・ジョソ・・コんあ小説﹃村の年代記﹄(天三年)の中で使われているものであり︑
ミルはこれを・倫理叢治窺準として﹁功利性﹂という葉的原理を承認している若い同志たちの﹁派閥的名称﹂
として播したのであった・この協会それ自体は︑最初は会員三名で出芒︑ベソサム邸三週間に一回の割で討論
会を開催したものであったが・その三年半後に蟹する時にも会員は+名に満たなかった︒しかしながら︑.﹂の協会
が契機となって:ヘソサムの学説に賛同する人々が自己を﹁功利主馨﹂と柔るこ乏なった.︺とのみならず︑か
れらのことを雇の人々やベソサムの学説に反対する人々すらもが﹁功利妻者﹂と呼ぶようになっていったことは
忘れられてはならない・なお・この協会が霰する一八二六年は︑︑・ルのいわゆる門精神の穰Lが始まった年でも
あったことが悪されなけれ窪らない・なぜならば︑この協会の蟹の原因が︑︑︑ルの﹁精神の穰﹂と密楚関連
しているように思われるからである︒しかし︑ここでは︑一八二二年に﹁功利主義者﹂という言葉が使われはじめた
事実が確認されれば︑それで充分であろう︒
最後に︑﹁哲学的急進派﹂と﹁ベンサマイッ﹂という用語の差異にかかわるものである︒これらの二つの用語は︑
ほぼ同年代に使われはじめたものと考えられるが︑その年代を特定することは不可能であるといわざるをえない︒さ
しあたり︑ここでは︑一八五三〜四年に執筆された﹃ミル自伝初期轟﹄にみられるその用語法についてふれるにと
どめたい︒﹃初期草稿﹄では︑﹁ペンサマイッ﹂が主として使われており︑﹁哲学的急進派﹂は一八二〇年代後半以降
にかかわる記述において四回しか使われていない︒また︑﹁哲学的急進主義﹂という用語は二回しか使われていない
のである︒その最終原稿﹃︑ミル自伝﹄では︑﹁哲学的急進派﹂が﹃初期草稿﹄よりも更に数ヵ所において多く使われ
ているが︑依然として﹁ベンサマイッ﹂の方が多く使われている︒その理由は﹁ベソサマイッ﹂という用語の方が﹁哲
学的急進派﹂という用語よりもより広義において用いられていたからである︒重要なことは︑ミルが﹃初期草稿﹄お
よび筆ル自伝﹄において百分たち自身を哲学的急進派と輩︑その友人たちからもそのように呼ばれていた人(姉)L
として︑グロート︑ロゥバック︑ブラー︑ウィリアム・モルスワース卿︑ロミリ兄弟をあげていることである︒かれ
らは︑いずれも︑一八三二年秋に行なわれた選挙法改正後の最初の総選挙において当選を果たした急進派に属する人
人であった︒さらに︑ルは︑それ以前から議員であったウォーバート費ストラッ雀哲学的急進派に加えている・
すなわち︑ミルによれば︑かれらは︑遅くとも一八三二年の時点において︑自らを﹁哲学的急進派﹂と名乗っていた︒
また︑ハリエット・グロ!ト夫人は︑一八三〇年代を回想しつつ︑﹁議会改革運動の非常に早い時期からわれわれは
﹂(17)﹃哲学的急進派﹄と呼ぼれていたLと述べて︑﹃ミル自伝﹄の内容を確認しているのである︒
それでは︑哲学的急進派とはどのようなグループだったのであろうか︒それは︑いつ︑どのようなメソバーによつ
(193)
193てつくられたグループなのであろうか︒じつは︑この点についても諸説紛紛として︑その定説はないといわなけれぽ
ならないのが今日の実状なのである︒したがって︑ここでは︑この問題に関するいくつかの主要な文献にみられる諸
説を紹介しつつ︑哲学的急進派の実像にいくらかでもアブ・←する以外にはないように田心われるのであ鮪
哲学的急進派形成の契機は一八〇八年のべソサムとジェームズ・︑ミルとの邊遁にあったとするアレヴィ説は︑今日
でも定説とされている︒この両者の思想的関係はいまだに詳らかにできない部分が多いのであるが︑ベソサムはJ.
荒との難によって︑それまでの啓華制義的な立場から急速に急進主義的な議会改革論者へと叢していった
のである︒それは・かれの長年の願望であったパノプチコソ建設運動の挫折を契機とするものでもあった︒哲学的急
進派という呼称がいつから用いられたかは別としても︑一八〇八年以降に︑ベソサムとミルの二人の周辺に集まって
きた人々を︑ここでは︑一応︑哲学的急進派と呼ぶとするならば︑哲学的急進派が活躍した期間は一八三二年の第一
次選挙法改正を頂点として約三〇年間以上にもおよぶことになるであろう︒それは︑哲学的急進派がその年代に応じ
てさまざまな顔をもっていたことを意味する︒それゆえ︑哲学的急進派の歴史はいくつかの段階に区切られて考察さ
れなければならないのである︒
それでは・哲学的急進派の歴史は︑どのように区分されるのが適切なのであろうか︒この点についてもさまざまな
諸説があるのであるが︑ここでは二つの学説にふれつつ︑その歴史的段階のアウトライソを描いてみたい︒
グレイアム.ウォーラスは︑その名著﹃フラソシス・プレイスの生涯﹄(一八九八年)において︑﹁功利主義運動にお
いては・一八二四年をもって大まかに区別できる二つの異なった時期がある︒一八二四年に至るまではベンサムがそ
のグル!プの実際的な指導者であつ(μと述べている・のちにみるように︑天二四年は﹃ウェスト多ス字・レ
ヴュー﹄が創刊された年であり︑ウォーラスはこれをもって哲学的急進派の歴史をいわば前期と後期とに区分してい
(194)
194るのである︒そして︑かれは︑その前期の主要メンバーとして︑ペソサム︑ジニームズ・ミル︑フラソシス・プレイ
ス︑エティエンヌ・デュモン︑ヘンリ・ピータi・ブルーアム卿︑ジョージ・グロートをあげている︒また︑かれは︑
その後期の主要メンバーとして︑ジョン・スチュアート・ミル︑ジョソ・オースチン︑ウィリアム・アイトン・トゥ
(21)ーク︑ジョージ・ジョソ・グレィアムをあげている︒﹃ウェストミンスター・レヴュー﹄の創刊を契機として︑いわ
ば若い世代がその運動の中核を形成していったことをウォーラスは指摘しているのである︒
ヴィクター.コーエンは︑一九二七年︑﹃フェビアソ・トラクト﹄第二二一号に﹁ジェレミ・ペソサム﹂という小篇
ながらも好論文を寄稿している︒かれは︑この中で︑哲学的急進派の歴史を三つの時代に区分しているといえるようで
ある︒かれは︑たしかに︑明確にその区分すぺき年代を示してはいない︒ウォーラスがその歴史を前期と後期に区分
しつつ前.後期間の"断絶"にむしろその注意を向けているのに対して︑コーエソは哲学的急進派の運動の歴史を連続
性においてとらえているのがその特徴となっている︒すなわち︑ウォ1ラスは哲学的急進派のメソバーがその前期と
後期とでは相当程度に変化していることに着目しているのに対して︑コーエンはそのメンバーが年々増大の一途をた
(22)どっていった点を強調しているのである︒コーエソは︑三つの時期にそれぞれ次のようなメンバーをリストしている︒
︹第一期︺ジェレミ・ベンサム(一七四八i一八三二年)︑ジェームズ・ミル(一七七三‑一八三六年)︑ジョン・ス
チニアート・ミル(一八〇六ー七三年)︑フランシス・プレイス(一七七一‑一八五四年)︑ヘソリ・ピータ1・ブル
ーアム卿(一七七八i一八六八年)︑ヨウゼフ・ヒューム(一七七七‑一八五五年)︑デイヴィド・リカード(一七七
ニー一八二三年)︑ダニエル・オウコソネル(一七七五‑一八四七年)︑ヘンリ・ビィカステス(一七八三ー一八五一年)︑
サー・フラソシス・バーデッド(一七七〇1一八四四年)︑トーマス・ジョナサン・ウラー(一七八六ー一八五三年)︑
ウィリアム・ホウソ(一七八〇1一八四二年)
(195}
195
︹第二期︺ジョージ・グロート(一七九四1一八七一年)︑ジョソ・オースチソ(一七九〇1一八五九年)︑ジョソ.
アーサー・ロウバック(一八〇一i七九年)︑ウィリアム・アイトソ・トゥーク(一七七四‑一八五八年)︑ウィリア
ム・エリス(一八〇〇ー八一年)︑ジョージ・ジョソ・グレイアム(一八〇一!八八年)︑ウィリアム・ジョージ・プ
レスコット(一八〇〇1六五年)
︹第三期︺サー・エドウィソ・チャドウィヅク(一八〇〇1九〇年)︑トーマス・サウスウッド.スミス(一七八
八ー一八六一年)︑チャールズ・ヘイ・キァマロソ(一七九五ー一八八〇年)︑ジェームズ.ディーコソ.ヒューム
(一七七四‑一八四二年)︑エドワード・ギボソ・ウエイクフィールド(一七九六ー一八六二年)︑チャールズ.ブラー
(一八〇六ー四八年)︑トーマス・ホジスキソ(一七八七‑一八六九年)
コーエンは以上のような二十六名を哲学的急進派のメンバーとしてリストしているが︑研究者によってはさらに多
くの人物がリストされる場合がある︒これらの人物はじつに多彩な群像を形成するものであって︑かれらは︑本稿の
主題である議会改革論の枠組をはるかに超えるさまざまな政治的・経済的・社会的な諸分野において活躍したのであ
った︒この意味では︑哲学的急進派とは︑たんなる政治的諸改革を目ざした人々のみならず社会全体のブルジョワ的
な諸改革を志向した人々の総称でもあった︒それは︑ブルジョワ社会への変革とその完成を目ざした広義の文化運動
にほかならなかったのである︒
ところで︑哲学的急進派の年代区分はどのようになるのであろうか︒本稿では︑ウォーラス説とコーエソ説とをあ
えて折衷して︑さしあたり︑次のように区分してみようと思う︒すなわち︑その第一期は一八〇八年から一八二三年
まで︑その第二期は一八二四年から一八三二年まで︑その第三期は一八三三年以降である︒一八三二年は︑第一次選
挙法改正のみならずベンサムが他界した年としても記憶されねばならない一つのエポックだからである︒そして︑本
{196)
196稿は︑主として︑その第一期および第二期に焦点をあててこれを論究しようとするものである︒
(1)Qり8旨①Pr'§.ミ;ぎド一矯掌N︒︒一・毫ミ葭一一昼ρ惜寒§ミ笥達§¢寒§鰯一〇︒頓︒︒矯劇薪乱・一〇涕℃0穿一ヨ窟霧ご昌一綜どヤ刈9
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(6)欝菰§戸罫O§き駄書寒ミ§奮ミ甲マ・︒朋ド
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(8)ミ﹂マミ.
(9)護鐸トωご毎ミ§§ミ騨一Q︒刈︒︒鳩↓冨ご鐸昌oh=冨桶匹≧酸噂巴・ξρタω霞住貴お㎝﹂マ8●朱牟田夏雄訳﹃ミル自伝﹄(一九六〇年)︑
九三頁︒
(10)↓ぎヨ章芝噸讐§・ミご寧㌣劇・
(11)守言轟し.(巴■y寒き幕恥ミ瀞鳶ミ兄§ぎミ零一一ぎゲ堕一器◎︒ム︒︒.
(12)拙稿﹁ジェレミ・ベンサムの主権国家論1ー啓蒙専制主義から人民主権論ヘー﹂(﹃神奈川大学創立五〇周年記念論文集隔所収︑一九七九
年)参照︒
(13)ζ出一噂↑ψ讐o︾象到マ㎝"︒・邦訳︑前出︑七六頁︒
(14)Q自議穿︒q①お旨(a)矯§馬導誉b轟ミ智§要§ミ§砺ムミqミ禽§書ゆ一〇〇一・なお︑本書の邦訳としては︑山下重一訳﹃ミル自伝初
期草稿﹄(一九八二年)がある︒
(15)ミ噂Ψ窃野邦訳︑同前︑一==頁︒寓臨一埴トψ.﹄ミo督§ずり巴ξρタω眩巴貴Ψ這9邦訳︑前出︑一七一頁︒
(16)﹃ミル自伝初期草稿﹄では︑哲学的急進派のメンバーの中にはウォーバートソはリストされていない︒
(17)Oδ3露咀罫ぎ誉§潜ミ寄§冷ミ︑︒︒器"一︒︒8器ヤ一ミρヤ§
(18)浮冨壱︑戸魯.黛野唱﹄契
(19)拙著﹃増訂イギリス功利主義の政治思想隔(一九八一年)︑一六二頁以下参照︒
(20)窯邑霧矯P讐§,ら騨"︾G︒9
(197)
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(21)ミ﹂ΨQoゆ.
(22)Oo冨P<ご瀞ミ§ヒしロ馬ミぎ§.ぎ§慧ぎ鼻コ9悼bo一.
三﹃ウェストミンスター・レヴュー﹄と哲学的急進派
(198) 198
十九世紀初頭のイギリスでは︑政治的性格を強くもつ有力雑誌としては﹃エディソバラ・レヴュ!﹄(寒ミミ蒔隷勘騨
ミ§)と﹃クォータリー・レヴュー﹄((ミミミ⑤沁§§)が刊行されていた︒前者は一八〇二年に創刊されたホイッグ
党の機関誌であり︑後者は一八〇九年に創刊されたトーリー党の機関誌である︒このような中にあって︑急進主義者
へと転換した後のベンサムがその急進主義の諸潮流を一つに糾合する結集点として雑誌創刊の必要性を考・兄ていたこ
とはきわめて自然の成り行きであったといえるであろう︒そして︑その途は一八一〇年代にかれの周囲に結集してき
た多くの弟子たちによって切り拓かれてゆくのである︒
一八二一年︑かれは︑四︑○○○ポソドの資金を提供して︑雑誌創刊の財政的基盤を確立する︒しかし︑その後の
雑誌創刊に至るまでのプロセスは必ずしも順調とはいえなかった︒その主筆として︑ベソサムはジェームズ.ミルを
考えていたのであるが︑ミルは東インド会社での勤務と主筆としての活動は両立不可能であるとしてこれを辞退する︒
そこで︑ベンサムは︑ジョソ・ボーリソグにその主筆を依頼したのであった︒ボーリングは︑一八二〇年にペソサム
に紹介されたばかりであったが︑それ以降︑熱心にペソサム邸を訪れていた熱烈なるベソサム崇拝者であった︒それ
までのかれは胃ソドンのシチーにおいてささやかな商店を営む一介の商人にすぎなかったが︑﹃ウェスト︑︑︑ソスタ!.
レヴュー﹄(§§ミ蕊︑ミ沁§§)の主筆という有給の地位に就くことによってその人生の一大転機を迎えていたので
ある︒ベソサムとボーリングの親密な関係は︑その後︑ベンサムの生前はもとより︑その他界後もつづく︒すなわち︑
ベソサムの他界後は︑ポーリソグはその遺言執行人として﹃ベソサム全集﹄(全十一巻)を編集しこれを公刊したので
ある︒
ところで︑﹃ウェストミソスター・レヴュー﹄は︑その創刊号を世に送る前に︑別の純粋に文学的な定期刊行物の
企画と提携を完了していた︒この文学的な定期刊行物の主筆にはヘンリ・サザソが予定されていた︒そこで︑﹃ウェ
ストミソスター・レヴェー﹄は︑政治の分野はボ!リソグが︑文学の分野はサザソが担当することとなり︑二人の主
(3)筆をもって出発することになった︒そして︑その第一号は︑ようやくにして︑一八二四年一月二十四日に発行された
(4)のである︒その第一号は︑まず二︑○○○部を売り切って︑一︑○○○部を追加増刷した︒その後︑しばらくの間は︑
(5)毎回︑三︑○○○部が印刷された︒哲学的急進派にとっては︑これは大成功に属するものであった︒J・Sーミルは︑
﹁この雑誌が概して好評をもって迎えられたことに加えて︑創刊号としては異常なくらいによく売れ︑かつ︑既成政
党の機関誌のそれに劣らぬ主張をもった急進派の評論誌の出現が非常な注目の的となったことをわれわれが知った時
に︑もはや躊躇の余地はなく︑われわれ一同はこれを強化し一層よいものにするために最善を尽くそうとの熱意をた
(6)ぎらせたのであった﹂と回想している︒ところで︑この当時の﹃エディンバラ・レヴュ1﹄は一万一︑○○○部の発
行部数を誇っており︑これと比較するならぽ︑﹃ウェストミソスター・レヴュー﹄はまだまだ力不足であったといわ
ざるをえないであろう︒
しかし︑その経営危機は意外に早くやってきた︒この雑誌は︑ベソサムの個人所有の形で維持されていたのである
が︑二人の有給の主筆と原稿料のためにたちまちに赤字に転落してしまう︒一八二八年暮に︑トーマス・P・トムス
ソがベンサムからその経営権を買収して︑この雑誌のいわば社主となり︑これ以降三四年までの約六年間はかれ自身
(7)とポーリングが共同主筆となるのである︒しかも︑かれはこの期間にたんに編集者としてこの雑誌の編集にあっただ
(199)
199けではなく百+四本もの論文を寄稿しているの鼠蕊・かれは︑この雑誌へのかくれ叢大の寄薯であった︒しか
し︑その評価がこれほどに低い人物も珍しいといわざるをえないであろう︒そして︑トムスソとボーリソグが共同主
筆となったことが︑哲学的急進派の内部にかなり深刻な不協和音をかもし出すことになるのである︒しかも︑かれら
が共同主筆であった時期に一八三二年の選挙法改正が行なわれていることを考えるならば︑﹃ウェスト︑︑︑ソスター.
レヴュー﹄と哲学的急進派の関連についてのみならず︑ひいては選挙法改正と哲学的急進派の関連についても新たな
る視点から再検討せざるをえないであろう︒
結論的にいえば︑﹃ウェストミソスタ:・レヴュi﹄の創刊に至るまでのプロセスとその創刊後の十年間は︑その
内部の人間関係においてはトラブルの連続であったといえる︒そのトラブルの根本的な原因は︑J.︑︑︑ルとボーリソ
グの対立によるものであった︒そして︑ひいては︑ボーリソグをその主筆に抜擢したべソサムから︑︑・ルは次第に遠ざ
かってゆくのである︒この時期の両者の関係について︑ハソバーガーは︑﹁ベソサムとJ.︑ミルの疎遠はつづいた︒
ミルはべソサムと会ってはいたが︑かれらの関係は真心がこもったものとはいえなかった﹂と指摘している
﹃ミル自伝﹄によれば︑﹁ボーリングは︑私の父が政治や哲学の評論誌を経営するのにふさわしいと考えていた人柄
とは全くちがった人物であったので︑ベソサム氏がその出資金を失うだけではなく︑急進主義の諸原理に対する信用(10)
をも失墜させるのではないかと感じて︑私の父はこの計画の前途を非常にあやぶみ︑たいへん残念がっていた﹂︒こ
こには︑J・ミルがボーリソグをどのようにみていたのかが端的に示されている︒﹃ウェスト︑ミンスター.レヴュー﹄
の主筆には︑編集者としての知的な学問的識見のみならずその経営者としての企業家的才覚が求められていた︒とこ
ろが︑J・ミルからみるならば︑ボーリソグにはそのいずれもが欠けていたのである︒︑ミルからいわせれぽ︑この時
点では︑かれは海のものとも山のものともわからない不確定さをもっていたといわざるをえないであろう︒それは︑
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