酒折宮問答歌と中国神話
著者 犬飼 和雄
出版者 法政大学社会学部学会
雑誌名 社会労働研究
巻 42
号 4
ページ 1‑22
発行年 1996‑02
URL http://doi.org/10.15002/00006620
「古事記」「n本書紀」とも景行犬皇紀に、甲斐の酒折宮での問答歌をしるしている。以下「古事記」にもとずい
や1とたりらのみことて説明すると、倭建命が東国遠征の途中、甲斐の酒折宮にたちよった時、勿論}」の時、倭建命は征服者として甲
みひ化白の〃8矼斐に入ったのだが、そ}」にいた御火焼之老人と次のような形で問答歌をかわしている。
川斐に川でまして、洲折宮に坐しし時、歌いしく、新治筑波を過ぎて幾夜か腰つる
とうたいたまいき。ここにその御火焼之老人、御歌に続ぎて歌いしく、
かがなくて夜には九夜日には十日を
く侭のみやつ二とうたいき。}」}」をもちてその老人を祥めて、すなわち束の国の国造を給いき。 洲折宮間然歌の謎
酒折宮問答歌と中国神話
犬飼
-1利川この問答歌は「古瓢記」「日本書紀」とも万葉仮名でしるされているが、使われている万葉仮名、つまり漢字は両2蚊画で兇様なほど異なっている。この漢字は後に問迦にするのでここであげておくと、次のとおりである。
特に数字の表記の迎いが眼にとまる。この問答歌の意味は、倭建命が、新治筑波から甲斐の酒折宮まで、私はいく日かかって来たかという質問に、御火焼之老人が九夜十日と答えた。すると、その稗が当っていたというので、命が老人を排めて、老人を東川の支配者に
任命したというのである。
この問答歌と、それにまつわる記述は至極明瞭だが、一歩つっこむと多くの矛盾にとんでいるのがわかる。
加迩泥比 祁婆流理 波迦盗・賀
哀・那加倍 哀亘
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~許・許・
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IiE1l1 比叫
伽IlliW1比 苑慶流利
那久波衰狐疑豆Ⅲ久川
菟玖波嶋弧擬臣異玖川
まず第一に、倭建命は東国を征服した遠征軍の大将である。甲斐へのりこんだ時もそうである。その征服者が征服した人間にむかって、「ここまで来るのにいくⅡかかったか」などいう無意味な質問をするはずがない。それに、戦いながら甲斐に入ったのである。命でさえいく日かかったかわからないかもしれない。まして叩斐にいた老人に、そ
の日数を当てることなど、とうていできないはずである。またなにかの機会で、そのような質問をしたとしても、た
だ表面的な文字通りの意味なら、「古事記」ばかりか「日本書紀」にまで記録されるはずがないのである。次にこの問答歌は、征服者である倭建命に歌で答えているのであるから、答えた相手は倭建命に匹敵する人物、つ
まり、征服された甲斐の支配者のはずである。それ以外に、命の問歌に対等に歌で答えられる人物は考えられない。私はこの論文の前に灘いた「Ⅲ斐酒折宮御火焼之老人老」という論文で、この点を私なりに論証した。だとすれば、この問答歌の真怠は、そうした両者の対立側係を示すものでなければ存在意味がない。叩なる日数当てクイズを征服者と彼征服者の間でかわすはずがないからである。つまり、この間蒋歌には、特に「Ⅱ本譜紀」では、大和朝廷が「日本書紀」を作成した意図が含まれていなければならないはずである。その明瞭な証拠として、「古事記」と「日本書紀」では、この問答歌の前後の記述の違いがあげられる。この件に
癖関しては後で詳述するが、前後の記述が違っているというのに、問答歌そのものには手がつけられていないのであ 烟る。変えなかったのは、この間容歌が、少くとも「日本書紀」を作成するにあたって大和朝廷の作成意図がこの問答
に辨歌に読みとる}」とができたからだと考える方が当然である。 囎第一一一に、この問答歌は、ある意味では東国の災態を記述したものである。新治筑波から叩斐の酒折宮までいくnか
70擁かつたかという問題だから、これほど具体的に東国を問題にした例はないといってよい。ところが、特に「日本書
酒紀」の景行天皇記では、東国を描くのに中国古典の東夷の記述をそのまま利用している。なぜ利用せざるを得なかつ3
たかという問題は別として、だとすれば、この問答歌も巾側古典を利川して作られている、中国古典をぬきにしては、この問答歌は理解できないのではないかということである。
従来、この問答歌が問題にされたことはほとんどない。表面的な説明に終始しており、歴史的に問題にされるどころか、疑問にさえされたこともない。倭建命や御火焼之老人が歴史的に問題にされたことがないと同じである。その理山は、倭建命とその遠征は英雄説話であり歴史的耶尖とは考えられない、あるいは、後世の大和朝廷による征服
を、「古半記」や「日本書紀」の作成者が古代におきかえた造作だと理解されているからである。したがって倭建命
のⅢ手をした御火焼と老人も実在しないことになり、その両者が口にした問答歌が、歴史的に取りあげられないで今日に至ったのは当然といえば当然である。しかし、この記録を、記録する意味が、少くとも、「古事記」や「日本書紀」の作成にあたって記録する意味、必然性があったのだと考えれば、話は全く別のことになる。特に大和朝廷の意図のもとに作られた「日本書紀」では、そこに大和朝廷の意図、つまり、大和朝廷がその疋統性や椛威や神性を主張しようとする愈側が含まれているはずで
ある。この視点に立てば、倭述命も御火焼之老人も歴史的存在であるし、その問答歌も七世紀から八世紀にかけての大和朝廷の意図を含んでいなければならないはずである。単なる日数当てクイズであるはずがないのである。
洲折宮川蒋歌を論ずるにあたって、まず注目されるのは、大和朝廷の遠征に閲して、記紀両書に共通にしるされて
いる歌が、どのような意図に利川されているかがわかれば、問溶歌も同質のものだと推察できるであろう。 記紀における歌の意味
洲折宮l1I呑歌と['1国iIII3ili
記紀に共迦している遠征記録は、一つは神武天皇の來征、一つは倭建命の九州と東国の遠征と二つある。「古事記」と「川本評紀」では遠征の内容がだいぶ述うが、そこに使われている歌もだいぶ巡っている。「古事記」の神武天皇來価では多くの歌が祁録されており、「日本苫紀」はその巾から選別して記録したと思われる。こうした歌が大和朝廷以前からある歌を利川したものか、犯紀を作るために作られたものかは別として、記紀に此皿した歌を取り川し、
その特徴を調べてみることにする。「古事記」の神武天皇記には、大別して二種類の歌がしるされている。|っは神武天皇の東征に直接かかわる歌
士なしみろので、他には天皇が型后を選ぶにあたっての机間歌に当る歌と、天皇が死んだあとの皇位継承に関しての当芸上し英美命の反逆に側するものである。「川本洲紀」にしるされているのは神武大里の來征に側するものだけであり、「日本沖
紀」には、神武火星の皇后選疋や当芸志英美命の反逆についての記述は存在していない。記紀両諜に、ということは「日本書紀」にもしるされているということだが、共通している歌は次のようなものである。多少の違いはあるし、歌がうたわれている情況にも多少の違いがあり、順序も異なったりしているが、腿本的な述いはない。「川本謝紀」から記述順序にしたがって引川すると、次のとおりになる。
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ねぬiWぃめ 118行て つき鳥IliXfOIい 鵜ひ雌ごら】Ⅱ必 iiilの が戦111 徒へのば 今木、』す我の けは’'11 にやゆ
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Ⅶみつみつし来[Hpの子等が垣本に
あはふかみ・ワひともと粟生には韮一木其根が本そねめつ屯芽繋ぎて盤ちてI)止士ひむ
撃植み(5)
ちえってしみ し111Mつ 止椒’しま
む口:来口捲く我は忘れず くらぴひ 米目の子等が垣本に
6
iWi折宮'111溶歌と[''1帥'1話
この歌はいずれも神武天皇がこれから敵を撃たんとする時の歌である。まずこれらの歌で共通している特徴は「撃ちてし化まむ」という言葉に見られるように、神武火星の人机朝廷の力の誇示である。この歌のあとで敵を征服しているので、歌を効果的に利川しているのがわかる。「みつみつし」とい
みりつう言葉もそうである。この一一司葉は来月の枕詞だが、そのもとは「御稜威」で、天皇の威光を表わしている言葉である。淵波版の「日本諜紀」の注には「火星の御威光を負って戦う」となっており、文字皿り大里の椛威を歌ったものである。また「神風の伊勢の梅の」という言葉は、大里の神性を示している。史に「剃飼が徒〈‐助けにこれ」は大和朝廷には味方もあって強力だとその力を強調している。以上見たとおり、「古事記」と「日本書紀」に共通している五つの歌は、天皇の大和朝廷の権威や力を、神性や爪統性を誇示しているのがわかり、この主張は七世紀から八世紀の人机朝廷の主張そのものだとわかる。
景行天皇記における倭建命の遠征に関しても、記紀共通の歌が存在すれば、その歌には神武天皇記におけると同じ意図が含まれていると考えられる。
景行天皇記の倭処命の遠征では、記紀両謝に共通の歌は、椚折宮問答歌だけである。しかし、遠征に関しては、も
う一つ共通の秋がある。しかし、この歌は共皿しているといっても、「古事犯」では歌を口にしているのは倭処命だが、「日本灘紀」では、最行天皇になっている。その迷いを見ると、「日本書紀」が歌をどのような底図で利川しているか尖に明瞭に読みとることができる。
「古躯祀」によると、その歌は次のようになっている。勿論次の歌をうたっているのは倭処命である。
の川のしの能煩野に到りましし時、国を、しいて歌いたましく、
7
これは岐後の説明にあるように、倭延命が能斌野、今の三重県鈴鹿郡まで来て、死を目前にして、故郷である大和をしのんでうたった歌であり、いかにも悲劇的な英雄の最後を飾るにふさわしい歌になっている。
みやこしの}」の同じ歌が「日本書紀」では次のように並べられている。ただ「京都を億びたまいて」の主語は倭建命(書紀では日本武尊)ではなくて景行天皇である。
みやこしのみうたよみの上1京部を億びたまいて、歌して日は/、、
jわざへ愛しきよし我家の力ゅ雲居立ち米2㈹)
や。&と上代肛倭は国のまほら●ま磯づく訊阿垣
命の
全紮伽;lllr むるけれ 人は倭
鍵#;
俵は図のまほろばたたなづく背垣山隠れる俵しうるわし
とうたいたまいき。また歌いたまいしく、
またたたみこしへぐりく1かしうf命の全けむ人は猫醐平脈の山の熊白柵が葉を暢韮に仰せ
くにしのとうたいたまいき。}」の歌は国思び歌なり。また歌いたまいしく、
はわごへ愛しけやし麺画家の方よ頭雪居起ち米も
みやjいいと侭Ⅲとうたいたまいき。}」は片歌なり。この時御病甚急かになりぬ。.
へぐりしちかしうf平群の山の白臓匝が枝を轡華に柿せ比の子 その子
8
「古事記」の景行天皇記には、餓行天皇の九州速椛は全く書かれていないのに、「日本替紀」には大きくとりあげ
られている。古川武彦はその箸「盗まれた神話」の巾で、この景行天皇の九州遠征は、古代の九州にあった王朝の九州征服を、大和朝廷の景行天皇征服に巧妙にすりかえた造作だと、綿密な論証をおこなっている。時代の限定を別に
すれば、九州に王朝が存在したというのは、常識的に考えても当然である。しかし今ここで問題にしたいのは、そうした九州王朝の存在ではなく、どうして「日本書紀」がそうした造作をおこなったか、「古事記」にない景行天皇の九州遠征を抓人しなければならなかったかということである。それだけの
”ことをするには、「川本書紀」を作成した大和朝廷の必然的な意図があったはずである。「日本書紀」が作られた七世 咽紀末から八世紀初頭の歴史が存在したはずである。 錐「古事記」の景行天皇記では、景行天皇は全く遠征に出かけていない。そこに描かれているのはもっぱら倭建命の 峠英雄的行為だけである。これでは天皇の存在は、その威力は誇示できないどころか無視されているといってよい。同
r1症じ「古事記」でも神武大里記では、神武天皇がみずから反抗する敵を次々と討伐していく。》」れによって天皇、つま
酒9り、大和朝廷の威力を誇示できるのである。「日本書紀」が景行天皇の九州遠征を挿入したのは、同じ意図からだと この「U本書紀」の歌の記述は、「日本書紀」作成の意図が明確に示されている。第一にこの歌をうたったのは、倭建命ではなく景行天皇であり、その上死にのぞんで歌ったのではなく、景行天皇が九州遠柾の途中に歌ったものである。ここに景行大里が幾場するというのは、「日本評紀」作成の意図が読みとれるのである。 くにしのびうたこれを田心邦歌と調う。酒折宮問答歌は歌であるにしても二人の人間の問答であり、その一人である倭建命は大和朝廷を代表する征服者で
ある。その倭建命と対等に問涛できる人物といえば、倭建命に比敵する人物、つまり、征服された凶の支配者、また
はそれに相当する人物でならなければならない。まして倭建命の問歌に歌で答えられる人物となると、その感が一層強くなる。これを論誠するためには、記紀において倭雌命とⅢ袴をかわしている他の例を捜し、そこの間然の意図が
わかれば、酒折宮問答歌の謎をとく手がかりとなるであろう。「古事記」「日本諜紀」の倭処命と一一一一m葉をかわした阿諜に共通の人物は二人しかいない。一人が御火焼之老人で、 いうことは容易に理解できることである。「日本書紀」では景行天皇の九州討伐が必然だったのである。その景行天皇が討伐の途中で歌ったものであるとすれば、例えば「俵は囚のまほらま」つまり、大和はもっともすぐれた国という表現は、「倭うるわし」とともに、倭建命の口から出た意味とは全く異なってくる。「日本書紀」においては、一つは大和朝廷の存在を誇示した言葉そのものになっている。もう一つは、倭処命が大和の近くまで帰ってきた時の言葉とちがって、遥か九州で天皇がこの言葉を吐いているのである。大和朝廷の威大さ、広大さをこれ以上適切に表わす一一局葉がないといってもいいぐらいである。
このように、同じ歌でも、記紀では全く異なる意図で記述されている。とすれば、こうした視点から酒折宮問答歌を理解しても、というより、同じⅢ審歌でも、記紀の記述の意川が全く異なっていると考えた刀が妥当であると思わ
れる。
問答者の存在意味
酒折宮'1M答歌と中国lqll話
後でも述べるようにこの言葉は矛盾しているが、「日本書紀」ではその矛盾を補うかのように、|部分を変更して次のようにしるしている。しかし矛研の水質が解決したわけではない。 くまそたけるかわかみたけるひともすしのもう一人が熊曽建(、ロ本譜紀では川上泉帥)である。なお「日本書紀」では御火焼之老人は火乘者になっている。熊曽建は明らかに倭建命に討伐された、その国の支配者である。
したがって、倭建命と熊牌建の会話がどのような怠図でなされているかを見れば、酒折宮問答歌も同じ見方ができるはずである。熊曽建の言葉が理解できれば、御火焼之老人の答歌も同じように理解できるはずである。それに、御火焼之老人とちがった意味で、というのは、熊曽建の答は興味深い問題を含んでおり、従来いろいろと
論じられているので、御火焼之老人の答歌を解く有力な手がかりとなる。
「古事記」によると、次のようにしるされている。これは熊曽処が倭雌命によって「剣もちてその胸より刺し通したまいき」と殺される直前に吐いた言葉である。
ニガニ⑤」0仁熊牌建白0-)つらく、「信に然ならむ。西
たりの方に吾一一人を除きて、処く強き人無し。
お皿や玄とのまさたけそ然るに人倭凶に、燕、二人に益りて雌●き男
たてまつは坐しけり。ここをもちて五口御名を鰍ら
たたむ。今より後は、倭建御子と称ふくし。」
とまをしき。
11
つまり、川上泉帥は皇子に尊号を与えるにあたって、まず許可をもとめ、許可されてから皇子に日本武尊という尊号を与えている。それでも、川上巣帥の言葉が矛盾していることにはかわりない。本来尊号、尊称は、上位者が下位者に与えるものである。倭建命は皇子であるから、上位者といえば天皇しかいないのである。それを、上位者どころかもっとも代表的な下位者、賊、つまり、敵から尊号を授与されたというのだから、たとえ許可したといっても、これほど矛盾にとんだ言葉はないのである。
津田左右吉は、これは後代の大和朝廷の造作にすぎないとして、この事件を黙殺している。それに対して、古田武
かわか・かたけるまう七二う川上巣帥、亦啓して日さく、「五口は是、ちか・つひと△しL》九一6Uろjyの国中の強力者なり。是を以て、当時の諸やつかれちから危の人、我が威力に勝へず-)て、従はずと
やつかれざはちからひという者無し。吾多に武力に遇いしかどJC、
ごとひといや未だ皇子の若き者有らず。是を以て、賎
やつ二いやみなたてまつ-しき賊が随しき口を以て尊号を本らむ。リだゆるのたま着I」聴したまいなむや」とまうす。日は
巾ろjUQつく、「聴さむ」との大まふ。則ち啓して
△し◇っの◆つばず日さく、「今より以後、皇子を号けたて
や士とたけるのみことまつりてpH本武尊と称すべし」とまうす。
12
iWi折↑;<'''1答歌と nll1lI誌
彦は興味深い解釈をしている。この会話からおして熊杵雌が上位背だったというのである。ごく柑識的な理解だが、従来そう即解されなかったのは、九州にそのような国が存在していたとは巷えられなかったからである。古川武彦
は、几州に王帆が〃在し、大和朝廷は傍流的〃代だった。傍流が主流にとってかわった聡史を服当化するために、こ
のような造作をおこなったというのである。樅〃行に従う史家や学行が雁史を造作する例は、戦前、鼠紀という年号を作り、それが二千六百年だという例や、〃世一系の大里というような造作した例など現代でもおこなわれているか
ら、山川武彦の論証は納得できるのである。
しかし、これが造作であるとしても、ここで問題にしたいのは、そういうことではなくて、どうしてそうした造作をする必要があったかということである。「日本書紀」の尊号の授与を許可するしないの一一一一、葉は、「川本書紀」の作成背述もその矛胴に気がついていたからである。おそらく杵川するしないぐらいの言葉を補っても、矛屑は解決できな
いと、作成者はわかっていたかもしれない。作成者達は当時の一流の史家や学者だったはずだからである。それでいて尊称の授与を記録に残したのは、別の意図があったからだとしか考えられない。
鰍恐の授与は、明らかに熊曽処が大和朝廷の存在を、その服当性を認めたと解釈できるのである。少し拡人解釈すれば、文配椛の移漉を承認したと衿えられる。つまり、祉服行としての俊雄命と征服されたその旧の文配行の問溶は、大和朝廷に政椛が移譲された、つまり大抓朝廷の服統性を主狼するために造作されたといえるのである。
これを型付ける例が、神政八劇の來椛に見られるのである。この側溝は「古耶紀」にあるだけで、「川本普紀」で
は別の形で炎現されているが、その内行については同じである。政樅は公式に移識されたのであり、杣武犬鬼は人和
の正統的な支配者だというのである。3とみび二脛きいやひのみことそれは、神武天皇が人Ⅱで岐人の敵磯芙肥古を討った時、迩塾速日命という人物が川現して神武大里に次のように
この天津端とは犬っ神の子、つまり杣武天皇と同族であるという証拠の品物であり、ここでは神武天皇の新しい支
吐がlbUこ配者としての正統性を主狼しているのである。「日本書紀」では迩製連日命が焼速日命になり、長髄彦を殺して帰順したことになっているが、その内容は変わっていない。このように大和朝廷の代表者が征服した図で、征服されたその図の支配者と問答をかわす時、そこに川硴に「古事記」や「日本諜紀」を作成した時代の大和帆廷の意図が、その碓統性が巧妙に袖かれている。とすれば、洲折樹での倭処命と御火焼之老人との問答にも同じ意図が含まれているはずである。 述べている例である。
「古事記」「日本謝紀」が中国古血の彬稗が大きいのは、両書とも中国語(漢文)と、漢字による万葉仮名で智かれていることでもわかる。殊に「日本書紀」は中国古典の直接的な影響、つまり中国古典の文章をそのまま利川したりしている。これだけ中国古典を利川しているとすれば、その知識も直接間接利用しているということは当然考えら くだ「天っ神の御子天降り牛よしつと閲けり。故、迫ひて参降り來っ。」とまをして、
あ1つしるしたてまつつかたて立つすなわち天津瑞を獣、りて仕へ奉りき・
記紀と中国古典
Ⅱ
ilWi折宮131番歌とIl1lZ1iqll話
かる・ か税環譜的れ
-句つ1リ1行第、にる
|]たし天二漢どこ
‘」F統砦牒
紀まるの国識うあ Lりと來古かにる で、い’五|典れ’'1.
は大う|このて図酒 東和こIHI文おTlr折
|正1朝とす章りり〔宮 の廷はるが、が問 突が、記司歌利答 Ii1j東大述日や111歌
溺豐'1:鰄舳
の征廷い紀地てう よ’}uがて‐名いし うし俵のではるた にた雌みは漢か視 記の命にほ字迫点 述Iよのしとの求か しも時ぼん音しら てつ代つどをて迎 いと、てそ利み解 るずこ説の)11るし
・つのⅢlましこな とl1fしまたとけ 後代て利万|これ 世はみ)11葉すば だIHるさ仮る完 と1Miこれ名。全 い’ことてでな う限にい智節理 証定するか一解 拠はるこれIこが
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勢利のに。
排l1Ulf丈:
ってIHI漱でて束しはは い国て’'1具 なを、国体
えみしといい征はgわそのこめのこかぞ蝦夷は是尤だ強し。男女交胴ソ届りて、父
こわ&澱めず子別無’し。冬は穴に宿、又は柳に住む。
しこのかみ〃とと毛を衣毛己川を飲みて、昆弟柑疑ふ。山に
とりはしに登る}」と飛ぶ禽の如く、草を行る}」と走ぐる朏の如し。
この「日本書紀」の文章を次の中国古典の文灘と比較すると、「日本書紀」の東国についての拙写の特徴がよくわ
15
この文瀧は神武天皇が道に迷っている時、日の神、天川大神が烏をっかわして助けたというのである。つまり、烏 が日の神につかわされたということは、烏が太陽と密接な側係にあるということがわかる。「古事記」では八四局に なっているが、この八四局は賜烏とも記され、足が三木だと説明されている。太賜と密接な関係があり、三水足の為
といえば、中国語の峻烏そのものである。中国の古典「脈南子、精神訓」に次のようにしるされている。 中国古典の知識を利川した代表的な例としては、太陽と烏の結合があげられる。記紀ともに、烏が日の杣の使者として、神武天皇を助けたことになっている。「日本諜紀」の力が具体的にしるしているので、その例をとると次のようになっている。め主てらすB低みかみをしのたき天照大神、天皇に訓えまっハソて日はく、
上れい上や火のからすっか吃くにのみもひ&「朕〈可頭八昭島を辿す。以て郷導としたまえ」とのたまふ。
礼食冬父②①
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-、櫓へ
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-。有君へ火色 liMj
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酒折宮問答歌と【'1国神話
明らかに八爬烏は「脈南子」のこの峻烏が「古事記」「日本書紀」に益場したものだと考えられる。「日本評紀」には「堆南子」を利用したところがあるので、峻烏から八題烏が生まれたといってもむりがないといえよう。なお「漢書」に後洩の光武術が遠征の途中逆に迷った時、烏によって助けられたという記録があり、神武天皇と八腿烏の関係は、この光武帝の記録にもとずくものだと衿えられる。
外ひたきのおき芯ひとLせる0のこうした中国古典の利用でもっとも興味をひかれるのは、「古事記」の御火焼之老人と「日本書紀」の釆燭者の表
やtととげるのみこと記の迎いである。「古馴記」では倭建命と問答歌をかわすのは御火焼之老人であるが、「日本靴回紀」では乘燭者に
変えられている。おそらく「日本書紀」の作成者は、御火焼之老人では、酒折宮問答歌の真意が理解されないと考えて、より具体的な飛燭人と変えたはずである。この変災は中川古典の知識を実に巧妙に利川しているし、この変更によって酒折宮問答歌に別の光をあてることができるのである。また御火焼之老人は倭延命と対等に言葉をかわすことができる人物、征服された国の支配者であるという根拠の一つが、この乗燭者という表記の変更に認められる。乗燭者の乗は「持つ、手にとる」という意味で特に問題にするにあたらないし、背も同様である。問迩は「燭」で
ある。
「燭」は「湫南子」や「山海経」という小国古典によると固有名詞で、錨山の神であり、燭陰とも燭竜ともいわれている。「山海経」に次のように説明されている。
鍬山と神眼、名H菖燭陰一、祖為し昼、膜為し夜、 日中行二峻烏一。(注、峻猶ン跡也、訓二三木崎一。)
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酒折樹間溶歌が叩なる日数当ての歌でないという視点に立つと、すぐ浮んでくるのは、先に述べた「日水止脚紀」の「燭」のが征である。「燭」つまり「燭険」は前にあげた「脈附子」のⅥ川又でわかるように、眼を開ければ凪、眼を
川じれば夜になるという、夜と昼をつかさどる神である。Ⅲ容歌の中心をなす「几夜十Ⅱ」と深い側係があるのだということがわかる。しかも、「燭陰」というから陰、すなわち夜と関係のある神だ点雌察できる。それに対して倭処命は日の神一族を代表する人物である。この両者の問答の中心が、夜と昼になるのは当然だと考えられる。しかも、
陰、つまり皮が九で、川が十だということは、明らかに両者の優劣を象徴していることになる。日が十である倭建命
に対して、皮が几である「燭陰」は対抗できないから、大和帆廷への帰川を述べているのだと解釈できるのである。しかし、この解釈にかならずしも納得しているわけではない。その岐人の肌山は、この解釈を裏付けるようなもの 「燭」は鋪山の神であるから、古代においては鐡山を中心とした地域の支配者であり、また火の神でもあるので、御火焼と老人の性絡をより典休的に持っている存在だということができる。つまり「日本普紀」の作成行は御火焼之老人を乗燭者にすることによって、その性桁を一肘川碓にしているのである。災に巧妙に中国古典の知識が利Ⅲされており、こうした皿解にもとずいて洲折宮川務歌もつくられていると考えられる。 吹為レ冬、呼為満器(注として次のようにしるされている。燭竜也、足燭ご几陰一、因名。)
椚折宮問答歌と中国神話
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酒折宮問答歌と中国FII話
という質問に対して、これ』いることから知られている。 笄は莞の時代の英雄で、弓の名手といわれた人物である。「堆南子」によると、莞の時、十の太陽が川現し、五穀を焼き、草木を枯らし、人民は食べるものがなくて困って
いた。また怪献も販凪しだした。莞はこの難局を解決するために弓の名人界を呼びよせた。罪は蝿の命令にしたがい、怪獣を殺し、十ある太陽のうち九つの太陽を射おとした。おかげで世界は正常に復し、万民はよろこんだ。万民
必つかはよろこんで、亮を大子にしたというのである。なお現存の「派南子」には「上は十Hを射て、下は狼諭を殺し」とあるだけで、九つの太陽を射おとしたとは書かれていない。この記録が残されているのは、凧原の「楚辞」の天間の が見当らないからである。それでも「燭陰」と関係がある采燭祈が「九夜十Ⅱ」と鱒えた問答歌を、中国神話によって、このような解釈ができるという一つの手がかりになるということはまちがいない。
げい私は》」の問答歌の九夜十Hを解く鍵はもう一つの中国神話、罪の神話にあると考えている。
はやすざのそのみこ凸弄は中国古代の英雄で、陳瞬臣によると、速須佐之男命に似ているといわれているが、倭延命にも似ていると考え
られる。尭、弾に命じて十日を仰射せしむ。典の
鳥罪、、
焉潟Xぞぞ 羽121をを 解り1Mい
くたる
これに註をつけた王逸という学者が「堆南子」からの引川だとして、次のような一文を残して
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このように卵は九つの太陽を射おとしたが、その太賜は脇で象徴されており、黒い太陽になって落下したことを附示するものである。太陽のことを九局ともいうが、明らかにこの故蛎にもとずき、黒い人賜という言葉が生まれたのである。この残った一日が莞の朝廷を階示しているのは、言うまでもないことである。さて、この罪が太陽を射おとした神話を耐に入れて、洲折窟問容歌の「夜は九夜、Ⅱには十日を」を見ると、次のように解釈できる。日が十、つまり、太陽が十あったのに、夜が九つ、つまり、九つが黒い太陽になってしまい、日が一つになったのであると。勿論、その一日は大和朝廷をさしていることはいうまでもない。つまり、倭建命にむかって御火焼之老人は帰順の意をこのような形で表わしたのである。だから御火焼之老人は、倭建命、というより大和朝廷によって国造に任命されたのである。「日本諜紀」では飛燭者が川造に任命されたという記述は謙かれていないが、このように乘燭者、つまり甲斐国の支配者が大川帆廷に帰順し、大和朝廷が甲斐国を中心とした東国の文配背になったことを記録すれば充分と考えたからであろう。この邦神話、十ある人賜を界が几っ射おとし、太陽が一つ残った、それをHが十日で、九が夜となって洲えてしまったということを裏付ける証拠が、油折宮問溶歌そのものの中に認められる。というより、「古瓢記」と「日本謝紀」の友紀の迎いの中に認められる。その述いは、「古叩紀」の御火焼之老人を「Ⅱ水血脚紀」が飛燭行と変災したと同じ意図が存在していると考えられるのである。「古馴記」「日水普紀」の酒折宮問答歌の中の「夜は几夜、Ⅱは十日」の原文を再度あげると次のとおりである。 翼九 をHHI'’に と’|]A する00 /lI(’三|
」〔のに’11 一・九日烏 (W死を皆 むに0、
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の11
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ここで川馳にしたいのは「几」を衣わす漢字のあて〃である。川洲は全く異なっていて、「古戦記」では「杵許」
をあてているのにたいして、「日本諜紀」では「虚脆」という洩字をあてている。「虚」は「艇」を通味するからこの「九」は存在しないということになる。つまり「虚虚」をそのまま読めば、「九」はなくなった、存在しないと読める
のである。十のうち几が「虚」であれば、残るのは一であり、文字通り十の太陽のうち九つを射おとした罪神話そのものになってくる。勿論界神話も、この残った一つの太陽は、莞が天子になった正朝を意味し、古代征服謙であることはいうまでもない。また「十」も「日本書紀」では「鳩」という文字をⅢいているが、ここに「烏」という字の入った言葉を川いたのも、芥神話における太陽に烏がいるという故躯を述想させるものがある。
噺しかし、「鴫」は「オ」として「日本誓紀」では多く使われているので特別に問題にするのは雌皿があるかもしれ
巾1Nない。それに対して「虚」が「.」として使われたのは、「日本書紀」ではこの問答歌が初めてである。(この側溝歌 麩後では「虚」は「.」として使われている)川らかにこの「虚」は、「日本諜紀」の作成打の恵志が働いている。 峠以上述べてきたように、「日本書紀」に従えば、この側溝歌によって、乗燭呑が日本武岬にむかって、文配打は一
宮折っ、つまり人机朝廷だけであると容えているのである。この椚折宮川溶歌は、征服された行が、征服した大川朝廷を酒認めたもの、というより、そうした意側で作られた問溶歌であり、几川における川本武岬と川上典師との側溶と同一 ●● 川叫波順順能川 ●● 川迩波許許能川●● 比瓜波苔嶋伽嶋(日本普紀) ●● 比邇波蚕衰加哀(古平記)
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の意図によって作られたものだということがわかる。「古事記」「日本書紀」に酒折宮問答歌が残された理由が納得で
きるのである
参考資料
大矢盗中漢わま国 和れれの辞たた歴 典九ネI|’史 州話(1)
王朝
設楚苑辞
山海経 史記
本事日古 書記紀
諸古古陳橋lllnl舜 次彦彦轍武武臣
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