• 検索結果がありません。

雑誌名 主流

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "雑誌名 主流"

Copied!
22
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

精神の屋根裏部屋と啓蒙という名の降霊術 : ハー マン・メルヴィルの「林檎材のテーブル」

著者 松本 加奈子

雑誌名 主流

号 71

ページ 39‑59

発行年 2009‑11‑10

権利 同志社大学英文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015234

(2)

精神の屋根裏部屋と啓蒙という名の降霊術

ーハーマン・メルヴイルの「林檎材のテーブル」

松 本 加 奈 子

39 

TheApp1e

TreeT a b 1 e ;  0

O r i g i n a 1S p i r i t u a 1  M a n i f e s t a t i o n s "  

(1

8 5 6 )

は,

Herman M e 1 v i l l e  (

1

8 1 9

9

1)が

TheC o n f i d e n c e ‑ M α n 

(1

8 5 7 )

を書き始めた 頃に執筆したとされる最後の雑誌掲載短編である物語の元になった出来 事は,

Henry D a v i d  

Th

o r e a u   ( 1 8 1 7

6 2 )

Walden( 1 8

日)でも

iNewE n g 1 a n d  

中に広まっていた

J ( 2 5 7 )

と言及される程に流布していた逸話であり,

M e 1 v i l l e

の作品に漂うのも,いかにも大衆向けのたわいのない小品といった 風情である.けれども意外なことに,

TheA p p 1 e ‑ T r e e  T a b 1 e "

が掲載された のは,アイロニーや示唆象償に富み重層的な意味世界を内包した作品を提 供することを謡う

Putn αm

MonthlyM α: g a z i n e

であった短編の寄稿先と して,センチメンタルで単純明快な話を好む傾向にあった保守的な読者層へ の人気を誇り部数を伸ばしていた

H αr p e r ' sMαg a z i n e

と,そのような作品 では飽き足らない知的で、批判精神の強いリベラル派を自負する読者層をター ゲットに定めた

Putn αm

包を使い分け,それぞれの雑誌の編集方針に過剰な までに適応したかのような体裁の作品を書き続けてきた

M e l v i l l e

のことで ある 2

Putn

α

m ' s

を選んだということは,知的探究を好む読者が何らかの形 で深読みをすることは想定済みであろう.確かに,語り継がれた林檎材のテ}

ブルの物語の再話という表層の背後に目を凝らせば,理性と非理性の両極端 の立場が共に浅薄な形で混在した当時の精神状況や安易な宗教観に対する調 刺,世相批判といった別の層の重なりが浮かび上がる.一方で,周到に用意

(3)

40精神の屋根裏部屋と啓蒙という名の降霊術ーハーマン・メルヴイルの「林檎材のテーブル

J ‑

されたようにも見える「深層

J

へと誘導され深読みを続けることは,相手の 精神的傾向や思考的弱点、に合わせた仮面で人を欺く

t h ec o n f i d e n c e ‑ m a n

ようなこの作品の詐術に陥ったことになるのではないかという可能性も払拭 出来ない.本稿では,凡庸に見える表層の下で交錯するテーマに,表層との 関連も考慮しつつ考察を加え,生計のために片手間に書かれたとして軽視さ れがちな短編群の一つである"Th

eA p p l e ‑ T r e e  T a b l e "

が,重層性や翰晦的 手法のみならずテーマにおいても.

M e l v i l l e

文学に見られる一連の精神的・

宗教的遼巡との連続性を有していることを解き明かしていきたい.

表 層 と し て の 「 復 活

J

の 物 語

語り手の「私」が「アメリカで最も古い町の一つの古風な地区にあるとて も古い家

J ( 3 7 8 )

を買ったのは五年前のことである.屋根裏部屋には

g o b l i n s "

( 3 7 8 )

が出るとの噂もあったが.

r

J

はそれを気にするどころか,むしろ そのおかげで安い値段で購入できたことを喜ぶような,迷信よりも実利を重 視する世知にたけた人間であることを自認している.その後長いこと屋根 裏に入らなかったのも,保険会社が査定の必要なしと調査対象からはずし たのと同様,あえて中を覗く必要性/実益を感じていなかっただけの話で ある.迷信深い世間の迷妄に対して自らの常識と理性を強調する「私」は,

Putnαm

訟の読者層の自己イメージに近い案内役として,お説え向きの語り 手のように見える.

r

J

は,読者の一人称としての「私」とも共鳴する可 能性を多分に持ち合わせているのである.けれども,ある時「私」は,屋根 裏へ通じる扉の鍵を偶然見つけたことから好奇心に駆られ,聞かずの聞に足 を踏み入れる.そして挨にまみれた林檎材の古テーブルを発見した時に連想 したのは,どういうわけか「降霊術

J

や「呪いと魔法

J

.i悪魔

J ( 3 7 8 )

といっ

d た不吉な迷信的発想のオンパレードであった.

「私」によると,テーブルについて読者に理解してもらうには,それが置

(4)

精神の屋根裏部屋と啓蒙という名の降霊術ーハーマン・メルヴイルの「林檎材のテ}ブル

J‑

41  かれていた場所について説明する必要があるという (378).続いて行われる 屋根裏部屋の描写は過剰なまでに象徴的である.すなわち,ゴシック教会の 説教壇とその踏み段を思わせるものから細い梯子が上へ続き,その先の高窓 からは虹色の一条の光が射し込んでいるといった具合に,さながら古い教 会の廃撞のようである.

r

私」は細い梯子を,天へ通じる「ヤコブの梯子

J

( J a c o b ' s  l a d d e r )

に喰え,蜘妹の巣がはりめぐらされ大量の虫が飛び交う「地 下埋葬所

J ( c a t a c o m b s )

のような暗がりに光を導くため,虫まみれになり ながら高窓を開放しようと奮闘する (379).ついに窓が聞いた瞬間は,墓穴 から光ある地上へと出ていく復活のイメージで描写される.

As from t h e  gloom o f  t h e  g r a v e  and t h e  companionship o f  worms

man s h a l l  a t  l a s t  r a p t u r o u s l y  r i s e  i n t o  t h e  l i v i n g  g r e e n n e s s  and  g l o r y  immortal

, 

s o

, 

from my  cobwebbed o l d  g a r r e t

, 

1  t h r u s t  f o r t h   my  head i n t o  the balmy a i r ,  and found myself h a i l e d  by the  verdant t o p s  o f  g r e a t  t r e e s ,  growing i n  t h e  l i t t l e  garden b e l o w .  .  .  . 

(380) 

自宅の屋根裏から外に出るだけの行為を描くには,あまりに修辞的な描写で ある.けれども,

M e l v i l l e

がかつてMoby‑Dick(1851)において捕鯨者教会 の海洋趣味的説教壇を描写した際に それが単なるまやかしの舞台装置では なく深い意味を持つことを語り手に力説させたような努力 (39) は,ここで は見られない.結局,復活のイメージは,非日常の空間に踏み込んだ人間の 大仰な想像という感を免れないまま,様々な些少な事柄に付与され,積み重 ねられていく.

屋根裏から「復活

J

した「私」が,次に「復活」させたのは,テーブルで ある.

r

墓穴」の暗聞から光の中へ出たことで「私

J

の想像のレベルで「復活」

を遂げただけではなく,家具屋でニスを塗られ「金貨のように輝いて

J

(381) 

(5)

42精神の屋根裏部屋と啓蒙という名の降霊術ーハ」マン・メルヴイルの[林檎材のテーブルjー

戻ってきたテーブルは,その流行遅れの古びた貧相さを嫌っていた妻にとっ ても,財産的価値と実用性を兼ね備えた家具として「復活j したのである.

C o t t o n  Mather ( 1 6 6 3 ‑ 1 7 2 8 )

Mα . g

n

α

li

α(

1

7 0 2 )

が長年その上に載ったま まとなっていたテーブルを,流行遅れとなった初期の

C a l v i n i s m

の表象と 解釈すれば,たまった挨を払われ当世好みに改変を施された古い宗教が(テー ブルと書物は一緒に階下に運ばれ修復に出される) 実用主義的な十九世紀 人である妻に受け入れられるものとして「復活jしたとも受け取れる.一方,

過度に迷信的な二人の娘

J u l i a

とAn

na

にとって,屋根裏に眠っていた「分 祉蹄の足

J ( c l o v e n  f e e t )   ( 3 7 8 )

を持つテーブルを階下に運ぶことは,閣に 潜んでいた不吉で悪魔的な存在を呼び覚ますことに他ならない.テーブルか ら謎の音が聞こえ始めると,霊のせいだとヒステリックに怯える彼女たちの 過剰な反応は,明らかに

1 8 4 0

年代後半から

5 0

年代半ばに隆盛を極めたあや しげな降霊術の流行を榔撤したものである.この出来事は,

f F o x

家の娘た ちの頃よりもずっと前に起こったことである

J ( 3 8 2 )

という語り手のことわ りも,降霊術騒動で、有名になった

Fox

姉妹との関連を否定するというより,

逆に連想、を喚起するばかりである.

このような騒ぎを理性的立場から冷ややかに見下すことは簡単であるよう に見える.しかしながら問題は,一家族の中に妻と娘のような対極の反応を 示す人聞がいるように,

f

理性と啓蒙の時代

J

と呼ばれる十八世紀を経でも なお,十九世紀のアメリカでは,理性と迷信という両極端の立場が複雑に絡 み合ったまま混在していたということである.

Fox

姉妹が死者の霊との交流 と主張した音は,実はテーブルの下で関節をならして立てたものであったが

( K e η 4 )

,彼女たちの主張に疑問を投げかける者もいた一方,何しろ音を立 てている「精霊

J

が「神に属するか悪魔に属するかを善良な牧師が大真面目 に論じていた

J

(Ka

r c h e r  1 0 2 )

時代のことである.多くの人が姉妹の「交霊」

を信じ,以後も,新たな降霊術騒動の勃発は後を絶たなかった合理主義精 神を誇っていた語り手の「私」も,頭では音が霊によるものということはあ

(6)

精神の屋根裏部屋と啓蒙という名の降霊術 ハーマン・メルヴイルの「林檎材のテ}ブル

J‑

43 

りえないとわかっていても恐怖を捨てきれず,妻に体現される理性と娘たち に表される迷信の間を,振り子のように往復する.前述のように「降霊術」

や「呪いと魔法

J

r

悪魔」といった不吉なイメージは,

r

私」が初めてテー

ブルを見た時に連想したものでもあり,音に怯えた「私

J

が自分を落ち着け ようと頼ったのは理性であったという点で,娘と妻の反応は,

r

恐慌と哲理

の相争いが決着することがない

J ( 3 8 8 )

という「私

J

の精神の二つの傾向の 外在化とも言える.取り乱しては妻にたしなめられ,今度は彼女の目を意識 して自らを取り繕い,平静な顔つきで娘の迷妄をたしなめるのである.実際 には娘たちの非理性的な騒ぎぶりは,つい先程までの自分の狼狽とさほど変 わらないのだが,他者として外在化された姿を目にする機会を得たおかげで 自らを客観視することが出来るようになった「私

J

は,娘たちが騒げば騒ぐ ほど冷静さを取り戻す (393),これは,

r

私」の滑稽な動揺を見た読者の反 応ともパラレルをなすであろう.

復活のイメージの連鎖のクライマックスを飾るのは ,

Putn

α m包に似合わ ぬセンチメンタルな

J u l i a

の発言である.テ}ブルからオパールのように燦 然と輝く美しい虫が現れ,今までの音はその虫が木をかじる音だ、ったと知っ た彼女が,霊は霊でも,悪魔的な霊ではなく美しい精霊であったと態度を急 転回させたのである.当然のことながらその考えは,妻の提案で呼ばれた博 物学者の

Johnson

博士に一蹴されてしまう.林檎の木がまだ生えていた頃 に生みつけられた卵から虫が鮮ったに過ぎないという博士に対して,

J u l i a  

は次のように反論する.

[ S l a y  what you w i l l ,  i f t h i s  beauteous c r e a t u r e  be n o t  a  s p i r i t ,  i t  

y e t  t e a c h e s  a  s p i r i t u a l l e s s o n

, 

For i f ,  a f t e r  one hundred and f i f t y  

y e a r s '  entombment ,  a  mere i n s e c t  comes f o r t h  a t  l a s t  i n t o  l i g h t , 

i t s e l f  an e f f u l g e n c e ,  s h a l l  t h e r e  be no g l o r i f i e d  r e s u r r e c t i o n  f o r  

t h e  s p i r i t  o f  man? S p i r i t s !  s p i r i t s ! "  she e x c l a i m e d ,  with r a p t u r e

(7)

4 4

精神の屋根裏部屋と啓蒙という名の降霊術ーハーマン・メルヴイルの「林檎材のテーブル

J‑

1  s t i l l  b e l i e v e  i n  s p i r i t s ,  o n l y  now 1  b e l i e v e  i n  them with d e l i g h t ,  when b e f o r e  1  but thought ofthem with t e r r o r . "   ( 3 9 7 )  

果たしてこれを,純粋な少女の信仰の勝利と片付けてよいものだろうか.彼 女の言葉は,林檎材のテーブルから美しい虫が出てきた話を聞いて「復活と 不滅への信が強められるのを感じない者があろうか」と詠嘆する

Thoreau

W αl d e n

の言葉

( 2 5 7 )

3に酷似する.降霊に関する神学的見解を述べる説 教や著作の題に多用された

S p i r i t u a lM a n i f e s t a t i o n s "

という語を冠した副 題にも示される通り 4この作品は,有名な出来事の背後に復活に関する宗 教的教訓を読み取らせるというポピュラーな読み物の体裁を纏ってはいる が,用意された啓示は,あまりに典型的で平板なものである.皮肉なことに,

復活のイメージ(あるいはそのパロデイ)に満ちたこの物語の中で,最も敬 慶な信仰告白と見える発言が,復活に対する懐疑の物語への反転を決定的に するのである.彼女が得た復活の啓示は,父が語った屋根裏からの戯画的な

「復活劇」と発想的にさして変わるところはないうえ,宗教的というよりむ しろ感傷的である 5当時の雑誌市場で隆盛を誇っていたセンチメンタルな 作品であれば,少女の純粋な信仰の吐露に対する感動の言葉で幕を閉じてい たところであるが,ここでの「私」の沈黙が,批判的な言葉以上に距離感を 示唆する.精霊の顕現について語る

J u l i a

は,悪魔の出現に取り乱していた 時と同様,迷信深く浅薄に見える. しかも彼女の言葉は,十九世紀アメリカ 人の傾向として

C a r o l

Karcher

が指摘する「キリスト教信仰の要石であ る復活の教義と異教の魂の不死との混同

J ( 1 0 4 )

を如実に表している.さら にだめ押しをするかの如く

M e l v i l l e

は元の話にはなかった一節を付け加え る.

Them y s t e r i o u s  i n s e c t  d i d  n o t  l o n g  e n j o y  i t s  r a d i a n t  l i f e ;  i t  e x p i r e d   t h e  next d a y "   ( 3 9 7 ) .

復活と不滅の象徴と見なされた虫が,すぐに死んでし

まうという程の皮肉があろうか 6

J u l i a

はまるで古代エジプト人のように,

虫の遺骸に防腐処理を施し保存することで奇蹟の証拠とするが,それは彼女

(8)

精神の屋根裏部屋と啓蒙という名の降霊術ーハーマン・メルヴイルの「林檎材のテ}ブル

J‑

45  の信仰が,異教との「混同」どころか,異教的発想、の上にしか成り立たない ことを示すだけである.結末で葬られたのは虫だけではない.虫に付与され た復活や神秘の啓示への楽観的見解も共に葬られたのである.

E  I gently oscillated between Democritus and Cotton I¥

1 t

ather" 

しかしながら,復活への懐疑が必ずしも理性の勝利の確信へとつながらな いところにこの作品の複雑さがある.理性的視点の存在によって非理性的視 点の迷妄さが強調されたのと同様,非理性的視点の存在が理性的視点の平板 さを浮き立たせるという逆の効果も見落とすわけにはいかない.

J u l i a

の美 しい夢想、を頭ごなしに却下する博士の説明は,

I

明断だが散文的

J ( 3 9 6 )

に すぎることは否めない.振り返ってみれば,

I

私」の軍配が妻の理性に上が りかけると,徹底的に

mattero f ‑ f a c t " ( 3 8

1)である妻が,逆の意味で度を 越していることを「私」に気づかせたのである.

I

私」は,自身の理性を,

幽霊を装った子供たちに真夜中の墓場で脅かされても動じなかったという

Democritus ( 3 8 7 )

に聡え,パニックの一歩手前で踏み止まった際には,1ちょ うどその時

Democritus

が助けに来てくれなかったら…

J ( 3 8 8 )

と言ったり,

I D e m o c r i t u s

が味方してくれた

J ( 3 8 9 )

と表現したりするが,

I

J

a f e m a l e  D e m o c r i t u s "   ( 3 9 4 )

と称える妻は,神秘の音を止めるためにゴキブ

リ用薬剤

l

をテーブルに塗り込もうとするなどあまりに即物的で,霊的現象を 信じることの愚を知る賢者というより,目に見えないものを理解する力を欠 いているだけのように見える.かくして「私」は

I D e m o c r i t u s

C o t t o n

Mather

の聞をゆるやかに揺れ動く

J ( 3 9 4 )

ことになるのだが,これを悪魔 の実在を否定する理性と肯定する非理性の聞を移動するだけの構図と単純に 捉えるわけにはいかなくなってくる.私の揺れ動きは,二つの立場が意味す るものをも揺さぶるのである.例えば「私」は,理性が勝っていた時には娯 楽読物あるいは「老女の戯言j と笑い飛ばしていた

:gnali

α

を著したのが

(9)

46 精神の屋根裏部屋と啓蒙という名の降霊術ーハーマン・メルヴイルの「林檎材のテーブルjー

R a d c l i f f e

夫人ではなく「善良なキリスト教徒で正統な牧師であると同時に,

実際的で勤勉でまじめな正しい人物,博学の士である

J C o t t o nMath

ぼであっ たことに思い至り↑号然とするが

( 3 8 2 )

,まるで理神論者のように扱われてい る

Democritus

もキリスト教徒ではない.果たして 智慧と敬農をもって知 られた人物が証言していることを異教の懐疑家の如く瑚笑する妻のような 十九世紀的人聞を,当人が自称する

( 3 8 7 )

ように「キリスト教徒」と呼べ るのであろうか.悪魔の存在を信じないことは,悪魔に対する警戒心を薄め ることで結局悪魔につけこまれる隙を与えると説く

Mather

のような立場か ら見れば,妻や

Johnson

博士7の言動は,信徒としてあるべき姿から議離し ていることになろう.態度を転回させた

J u l i a

が語る聖なる精霊も含め一切 の霊的存在や奇蹟を信じない妻は,何をもって「キリスト教徒

J

を自認する

のかという疑問も残る.一方で,真の信仰者と考えられていた人物の思想が,

百数十年の時を経ただけで,流行遅れの家具同様に家庭の主婦から毛嫌いさ れたり,悪魔的なものとして少女たちから恐れられるというのはどういうこ となのか.テーブルを

s a t a n i c ‑ l o o k i n g " ( 3 7 8 )

と形容した「私

J

が,その 上 に 置 か れ て い た

:gn

α

li

α

の作者を描写した言葉も

d o l e f u l

g h o s t l y

, 

g h a s t l y  C o t t o n  Mather" ( 3 8 3 )

であった.

r

私」の眼には ,M

α

gn

α

li

α

rNew England

の魔術の詳細な報告

J( 3 8 2 )

としか映らないのである.

r

私」を含 め十九世紀の多くの人々の無理解を示すかのように一語も引用されない

gn

α

li

α

は,81:梁く吟味されることもなければ全体像を術敵されることもな く,一連の魔女騒動において報告された超自然的現象

(M

α

g n a l i

α原書では

「不可視の世界の悪魔

J[Mather 3 2 7 ]

と関連づけられている)の詳述とい う限定的な一面だけに焦点が当てられる.

一方で,テーブルと

Mα g n a l i α

は,峻厳や恐怖に対する反応をはかる試金 石として,十九世紀的人間の浅はかさをあぶりだす.対極的な反応、を示して いるように見える妻と娘は,自分の理解を超えたものを受け入れられない狭 量さ,あるいは神か悪魔にしか結び付けられない発想の貧困さにおいて,結

(10)

精神の屋根裏部屋と啓蒙という名の降霊術ーハ}マン・メルヴィルの「林檎材のテーブル

J ‑

47  局は似た者同士である.

r

善良なキリスト教徒

J

であれば悪魔から危害を加

えられることはないという都合の良い論理が目立つ妻の宗教観は (387), 

The Confidence‑M

αn

の主人公が再現する「善良なキリスト教徒」の態度一 神が支配するこの世に悲惨な事は起こらないと断言する態度 (CM157)9  に共通する.以前の短編でも,雷を恐れよと言う説教者風避雷針売りに反駁 する人物が,奇妙にも,信徒なら雷を恐れる必要はないと説いた

C o t t o n Mather

を連想させたように 10棋の

Mather

的発想の迷妄を解こうとする 妻もまた

Mather

を乗り越えてはいないようである.むしろ妻は,世俗性や 利己主義が進んだ形で

Mather

の考えを受け継いでいるともいえよう.長ら く存在感を失ったように見えていた

:gnali

α

は啓蒙の明かりの届かない精 神の屋根裏の関の中に存在し続けていたのであり,手直しされた形ではあっ たが,十九世紀的精神の表舞台に再び現れたのである.復活のイメージに彩 られたこの物語において,魂の復活の奇蹟は顕現しなかったが,かつて魔女 騒動に顕在化したような非理性的迷妄 聞や悪魔に対する過剰な恐怖心は確 かに復活しているといえる.敬度と実利主義の区分のみならず信仰と迷信の 区分さえ暖昧にする登場人物たちの姿は 時代の流れと共に力を失いつつも なお高遇なものとして尊重されていた信仰さえ,実は卑近なレベルで,迷信 や迷妄の延長線上に連なるのではないかという疑念をも呈する.

しかしながら家庭内喜劇である

"TheApple

TreeT a b l e "

における調刺的 視点には,教会や聖職者を対象にした場合に見られた痛烈な批判と違い,弱 さや欠点を抱えた愚かな人聞やただ安楽に暮らすことだけを望む無害な小 市民に対する愛情も感じられる.重厚感に欠けるために評価の低い

M e l v i l l e

の喜劇的作品を評価する際には, とかく隠された「痛烈な訊刺」や「絶望的 状況での悲壮な挑戦

J

を読み取ろうとしがちだが この作品の語りに漂う余 裕のようなものをも見落とすわけにはいかない.

r

J

は,右往左往しなが らも,自分の揺れ動きを「奇妙だが心地悪くはない

J

(394) と描写する.結 局のところ,

r

J

は妻と娘の間で揺れているのである.信と不信,合理と

(11)

4 8

精神の屋根裏部屋と啓蒙という名の降霊術ーハーマン・メルヴイルの「林檎材のテーブルj

非合理といった複雑に絡み合う対立項の聞でもがき続けて自滅した以前の

Melv

i1l

e

的人物と違い,

1

J

は自分が連れ添った相手(=理性)から生ま れた娘たち(=迷信)が,共に自分とつながっていることに気づいている

. 1

J

はどちらの足りなさも認識しているが,それで、いて家族としての愛着を失う ことはなく,どちらの相手から見た自分の体面を保つことにも気を配る

. 1

私」 の家庭が崩壊せず,

1

私」自身が正気を失って自壊することもないのは,合 理と非合理の確執の中で,どちらをも選ばないということを選んだ、からであ ろう.

田安楽に逃げ 込む

このように,

1

私jが心地よさを手に入れられたのは,深刻な精神的破綻 に行き着く可能性もあった揺れ動きを,家庭内の問題にすりかえたというこ とも大きい.

1

私」は, とにかく精神的にも物理的にも危険を避けるたちで,

間違っても死と隣り合わせの荒海に漕ぎ出て巨鯨と戦おうなどと考える人間 ではなく,脅威においては海上とは比べ物にもならない住宅地の自然環境か らさえ保護された家屋の中で安穏と暮らしている.家の中は完全に人聞がコ ントロールできる世界である.自然の木は,例えば杉で居聞がしつらえられ たように

( 3 8

1),もはや建具や家具という明確な用途を持った人工物に変え られて人間の安楽に寄与するものとなり,明るく快適な空間で,住人は時計 によって刻まれる人工の時間に従って生活を営む.夜中に本が読みたければ ランプがあるし冬に暖をとりたければ暖炉がある.しかしながら,長い間,

人の手が入らないうちに原初の森へと逆戻りしたかのような屋根裏へ足を踏 み入れ,そこから林檎材のテーブルと Mα:gnαliα‑NN版では校訂されて いるが原綾は

M a g n o l i a "

と樹木の名前になっているーを居間に持ち込んだ ことから,安心の基盤が揺らぎ始める.家庭的な環境から締め出されていた テーブルに「私

J

がまず行おうと考えたことといえば,

1

温かい紅茶沸かし,

(12)

精神の屋根裏部屋と啓蒙という名の降霊術 ハーマン・メルヴイルの「林檎材のテーブル

J‑

49  温かい暖炉,温かい心jでもてなすことであった

( 3 8

1).けれどもこのよう

な歓待で手なずけられるようなテーブルではない.むしろ温度のおかげで,

まだ林檎の木であった頃に産みつけられた卵が騨化してしまう.神の創造物 /所有物としての自然に合理的意味づけを行うことで人間の所有物へと変え ようとする博物学を奉ずる博士は,この件に関して「啓蒙する

J

(

" E n l i g h t e n " ' )  

(396) ょう求められると年輸を数えたが 11問題は何年前に卵が産みつけら れたかという正確な数字ではない.時計の針が指し示す数字が時間の本質に ついて何も伝えないのと同様,この数字は,精神的にも物理的にも人間が征 服したと思っていた自然,完全に人間の日用品と化したように見えていた テーブルから不可解な音が聞こえるという事態の意味について何も語らない のである.

眼と違って耳は,知覚するものを選別することはできないため,見たくな い光景から眼を背ける者も,音は聞かずにはいられない. しかも人聞は見え ないものに恐怖を感じやすい.人工の明かりによって見える領域の境界を少 しくらい押し拡げようとも,夜の圧倒的な外の閣の気配が高じさせる心理的 不安を払拭することは出来ず,そこで耳に飛び込んできた謎の音が閣の恐怖 と簡単に結びつくのは仕方のないことであろう. しかも音の出所は,我が家 の聞から出てきたばかりのテーブルである.閣の深淵を覗き込むことは,自 分の精神を深淵から覗き込まれる危険に晒すことであると言われるが,その ような勇気がなく,とにかく眼をそらし続けてきた「私

J

が,否応なく闇と の関連を想像させる音を聞いてしまったのである.理性の光がその輝きと範 囲を増すと,かえってその背景となる閣の深さ,理性では説明し尽くすこと の出来ない非合理の領域の広がりが際立つという点では,意識の外に追いや られていた閣の存在を再び呼び覚ましたのは,黒魔術を思わせる儀式による ものでもなければ,オカルトブームに煽られて病的に過敏となった神経の興 奮状態によるものでもなく,実は明断なる理性に裏打ちされた「啓蒙」とい

う名の降霊術で、あったともいえる.

(13)

5 0

精神の屋根裏部屋と啓蒙という名の降霊術ーハーマン・メルヴイルの「林檎材のテーブル

J‑

音は, Ti

c k !

Ti

c k ! "   ( 3 8 3 )

と時計を思わせる.思わず見上げた

S t r a s b o u r g

製の大きな時計一理神論者たちが,精確に動き続ける世界の比聡に用いた

S t r a s b o u r g

の大時計をも連想、させるーは止っており,対抗手段として妻が 持ち出した懐中時計の音も敵わなかったことから

( 3 8 7 )

.この音は,人間が 願望を民映して作り込んだ時間概念の枠にはめることが出来ない自然の時間 を示すものと考えられる.それでも「私」は.

r

一時…二時…三時…

J

(395)  と時計の時間を振り当てながら音の様子を書き留めることで抵抗を試みる が,音は独自に時を刻み続ける.女中が火の中に捨てたため証拠は残ってい ないものの既に最初の虫を「私jが目撃しているので,この時点では音の主 は完全に謎ではなく,家族は年輪を噛み進みながら二匹目が姿を現す様を自 らの眼で見ょうと待っているのである.合理主義の所産として十九世紀前半 に発展を遂げた近代地質学が 真実を閉じ込めた深層の表層化・顕現という プロセスの枠型を人々の精神構造に植えつけた影響は大きいとされるが 12

原理的には地層も年輪も同じであろう.年輪の奥から顕現するものは, より 深い真実を明らかにするはずであると観察者が期待するのも無理はない.し かしながら,初期の地質学者たちが地層の奥から発見したのは,合理的であ りながらも信心深かった彼らが期待していたノアの洪水などの聖書的真実の 証拠というよりその民証であったのと同様,年輪の奥から姿を現したのは,

人々が期待するような復活や不滅の証拠ではなく,っかのまの生13とはかな い死一神による救済どころか懲罰や悪魔の連想さえ入り込む隙のない単なる 自然な死ーであった時間を円形の空間に視覚化した文字盤を廻り続ける時 計の針は,変わらぬ日常生活がいつまでも繰り返すかのような錯覚を与えも するが,時を刻む音は時間の不可逆性という否応のない現実に我々を向き合 わせる.不安に苛まれた「私」が「全身が耳となり眼がなくなったかのよう な

J ( 3 8 8 )

中で聞いた音も,命ある存在が死へと一直線に進み続ける不可逆 の時間の推移/消耗と共鳴する.

r

J

にはこの音は.

r

自分を迎えに来るた め近づいてくるように聞こえる

J ( 3 8 4 )

のである.それは自らの心臓の鼓動

(14)

精神の屋根裏部屋と啓蒙という名の降霊術ーハ}マン・メルヴイルの[林檎材のテーブル

J ‑

51 

の音であり,人間の意味づけを拒否する自然の摂理の時聞を刻む音,生の営 みの無意味を示唆する音であり,

I

私」のような人聞が意識の底に封印して いる死の予感を呼び起こす音である.その予感通り,姿を現した音の主は,

はかなく死にゆく虫であった.

神話的・宗教的意味づけという後ろ盾を失った時間の無常に抗するには,

固定性と持続性において安定した空間に自らを基礎づける必要があり,その 顕著な例として「生活空間

J

(ボルノウ 7) への執着が挙げられることを考 えれば,安楽な家にひきこもる「私」は,意識的であれ無意識であれ,音を 聞く前からかすかに気づいていた無常の予感から逃げていたとも受け取れ る.

Gaston Bachelard

が,地下室の恐怖と屋根裏部屋の恐怖という比倫を 用いて人聞の精神の陰影を分析したC.G. Jungを引き合いに,地下室の恐 怖を解消する為に地下ではなく屋根裏を点検して自らの勇気を証明した気分 に浸る臆病な人聞について論じるように

( 3 6 )

,冒険者よろしく大袈裟な身 振りで屋根裏に踏み込んで、いく「私」は,死や聞と直接に向き合うことを避 ける臆病な人間の典型例であろう.

I

私」が屋根裏を「宙に浮いた地下埋葬 所

J

(379) に見立てようとも,窓さえ開ければ隅々まで明かりを入れること が出来る屋根裏の暗がりは,合理化の可能な安全な薄閣であり,朝が来れば 太陽の光が前夜の恐怖を消し去ってくれる.屋根裏は結局,地下とは逆方向 に位置するのである.地下は,実際の埋葬の領域としても,暗黒の閣を抱え た無意識(そこに死の想念やその他の恐怖が封じ込められることで, 日常が 平静なものとなる)の表象としても,屋根裏とは異なる.人は,地下に感じ る漠然とした不安を打ち消すために,安全な屋根裏を見回して,あの不安は 空想に過ぎなかったと安堵しようとするという

( B a c h e l a r d3 6 ) .   I

私」もま た,屋根裏に光を入れて噂されていたような幽霊などいないことを確認して 安堵しそこで見つけたテーブルを運び下ろした際には,閣の気配を恐れる 娘たちの臆病を一笑に付しでもいたのだが,自分の勇気を家族に示すはずで あったテーブルが,

I

私」を恐怖の底へと突き落とすことになったのである.

(15)

52精神の屋根裏部屋と啓蒙という名の降霊術ハーマン・メルヴイルのf林檎材のテーブル

J‑

テーブルと一緒に持ち出した

Mα gn α

li

α

に対する「私」の態度も,当初はま るで肝試しのようであった.深夜に蝋燭の灯りの下で読んでは「千四も笑い 飛ばした

J

(382) という「私

J

の行為は,この書物を鏡あるいは小道具とし て,勇気ある自分を映したり演じたりしていたようなものであろう.けれど もある晩

.M α gn α

li

α

を聞いた「私」が向き合うことになったのは,自らの 内に秘めていた不安や恐怖心であった.

しかじながら,音によって噴出する実存的不安や得体の知れない恐怖と向 き合うことに怯えているにせよ,虫ごときにここまで想像を膨らまして怖が る「私」の騒ぎょうは,やはり滑稽である.何よりも「私」自身が,自分の 語りに喜劇的要素を意識して盛り込んでいるふしがある.初期作品から聖職 者批判や懐疑的見解で非難を受け続けてきた

M e l v i l l e

が, 四

l eA p p l e ‑

Tr

e e   T a b l e "

執筆の前年には教会訊刺が明らさますぎるという理由でPμt

n αm

包に さえ

The

Tw

o  Temples"

の掲載を断られたという経緯を考慮すれば,この 喜劇的表層を.

M e l v i l l e

が隠蔽のために用いた偽りの明るさと捉える論評に も確かに説得力はある.林檎材のテーブルの逸話と降霊術騒動という別個の 人気の題材をテーブルという主要小道具を軸に結び付けると同時に 14軽妙 な語り口とどたばた的展開で楽しませ,最後は少女の純粋な感動の言葉で締 め括るといった具合に,雑誌向け短編で望まれるセオリーへの順応ぶりは,

意識してのことであろうと推測される.さらに,深読みを楽しむ読者の知的 好奇心をくすぐる重層性に加えて,アメリカの時事的話題といった愛国的な

Putn αm

包編集部の受けも良さそうな要素も備わっているのである. しかし ながら,この作品を理解するには,喜劇的表層からも注意をそらすべきでは ないと考える.やはり.

I

私」の狼狽は喜劇なのである.凡庸な人物が些細 な事柄に過剰な想像力を働かせて,大騒ぎをしているだけのことである.そ れに気づいた時,解釈を誘うこの物語の隠された奥の層を明らかにしようと

L

た読者も,作中で榔撤されている,林檎材のテーブJレの元話の意味を様々 な立場から解明しようと試みた人々と同じではないかという疑念も浮かぶ.

(16)

精神の屋根裏部屋と啓蒙という名の降霊術ハーマン・メルヴイルの「林檎材のテーブル

J‑

53 

表層の下から現れる真実に何らかの意味を期待した読者が目にするのも,結 局は虫であり,それ以上の解釈は,自分の立場から勝手に意味を付与したに すぎない.真実は,我々の期待などはおかまいなしに,見えないところで木 をかじっているようなものではなかろうか.たとえ姿を垣間見せたとしても,

無知な女中によって火にくべられたり,あるいは家人から大事にされても翌 日には息絶えてしまうのである.けれども無意味に耐えることの出来ない 我々は,過剰な想像力を働かせ,我々の生を意義深いものにするような意味 を付与していく.解釈を加えると真実から遠ざかるのであれば,真面白な顔 で仰々しく「真実」を語る者ほどの滑稽な道化はいないであろう.そうする と

, どの解釈にも落ち着かない「私」の揺れ動きは知恵でもあり,

r

私」の 優柔不断を噴い自らの解釈を導き出した者も皆,道化であったということに なる.その意味では,演者も観客も共に道化と示唆する喜劇の様相は,単に 剥がされるだけにある虚偽の表層ではなく,本質的なものといえるだろう.

物語の表層の奥に自を凝らした読者に呈示されるのは,年輪の奥に偉大なる 真実が潜んでいると信じて必死に目を凝らしている自分によく似た人物たち の姿であり,音の主が小さな虫とは知らずに勝手な解釈を披露する滑稽な道 化たち,虫を目にした後でさえもなお無理な意味づけに固執して自らの世界 観や存在意義を守ろうとせずにはいられない哀れな人聞の姿である.

「私」は,妻の理性と娘の迷信のどちらかだ、けが誤っているわけではない ことに気づいている.結局,両者は血を分けた親子なのである.理性の先に は必ずしも不信が出てくるわけではなく,理性と迷信の立場が全く相いれな いというわけでもない 理性には,説明不可能な領域に恐怖を覚えると同時 にそれを解明せずに放置しておくことは出来ない性癖があり,その空漠を合 理の光で照らし出そうとしたのが妻であり,迷信的説明(あるいは宗教的/

感傷的幻想)で覆い隠そうとしたのが娘であったとすれば,音の謎について の推理小説的解釈とゴシック・ロマンス的解釈(最後は宗教教訓物語的解釈) は,人間の独善が作り上げた同じコインの裏表であるともいえよう.このよ

(17)

5 4

精神の屋根裏部屋と啓蒙という名の降霊術一一ハーマン・メルヴイルの「林檎材のテーブルj

うに,異なる解釈的アプローチを定番とするジャンルの題材にもてはやされ た林檎材のテーブルと降霊術騒動が,一つの作品に取り込まれ,せめぎあう ことになった結果,それぞれがパロディ化されると同時に,対極的に見えて いた両者の立場が,同じ根で繋がっていたことも明らかになる.それでも「私」

は,同じく欠点を抱えた人間/家族として,妻や娘を非難することはせず,

むしろ滑稽なまでに双方の尊敬を得ょうと奮闘しどちらの機嫌をも損ねな いように努める.このような滑稽さや配慮が風刺の辛諌度を弱め,語りに 漂う大らかさや余裕,諾諺を生じさせているのであろう.

しかしながら,ただ逃げ続けることで,誤った答えに至ることもなく安息 も得られるという小賢しい知恵は,称えられるべきものではない.

Frank  Davidson

は.

r

私」の揺れ動きを,この作品の発表の半年後に

Hawthorne

が見た

M e l v i l l e

自身の揺れ動き一

Hecan n e i t h e r  b e l i e v e

n o rbe c o m f o r t a b l e   i n  h i s  u n b e l i e f ;  and he i s  t o o  honest and c o u r a g e o u s  n o t  t o  t r y  t o  do one o r   t h e  o t h e r . "

一一と重ね合わせるが

( 4 8 5 ) . r

私」の安楽な揺れ動きを作者の苦 闘と同一視すべきではない.

r

私」はむしろ,安楽に逃げることの出来ない

M e l v i l l e

が描いた,逃げることの出来る人物で、はなかろうか.陰欝で不毛な 砂漠を初僅するかのような

M e l v i l l e

の精神的遼巡は,どうして耐えられる のか不思議だと

Hawthorne

に言わしめるほどの苦行のようで、あったが.

r

私」 は,対立するどちらの立場にも落ち着けないのなら,どちらに安住すること も避けて心地よく揺れ動き続ける道を選ぶという人間である.一方で,個人 としてはどうであれ,作品を発表するには

M e l v i l l e

も読者を意識せざるを 得なかったことを考えれば,気分屋の妻や娘に丸腰で接する「私jは,様々 な立場の見解に気を配りながら,雑誌購読者の大部分を占めた女性読者にへ つらう文学作家としての自らの姿の戯画とも見える 15

M e l v i l l e

が短編を発表し始める前年に出版された

P i e r r e

に,以後の作品 に見られる軽やかな人物群を予見するような一節がある.

" [ I ] t  i s  o f t e n  t o  be 

o b s e r v e d  o f  t h e  s h a l l o w e r  men ,  t h a t  they a r e  t h e  v e r y  l a s t  t o  d e s p o n d .  

It 

(18)

精神の屋根裏部屋と啓蒙という名の降霊術ーハーマン・メルヴイルの[林檎材のテ}ブル

J ‑

55 

is the glory of the bladder that nothing can sink it; it is the reproach of a  box oftreasure, that once overboard it must down" (280). Pierreの主人公

自身は,周囲の全てを(ある意味では作品自体をも)巻き込みながら,堕ち る所まで堕ちてゆく破滅型人間であったが 16悲劇がもはや成り立たないよ うな浅薄な世界にふさわしい主人公は,信仰や真実の希求に殉じて深みに沈 んでゆく重たい宝箱のような人物ではなく,沈めようとしても沈まない浮き 袋のように軽い人間ではなかろうか. TheApple‑Tree Table"の「私」も後 者の系譜に連なるようである.このような人聞は,物語の中で当人が溺れる こともなく,物語の外における世間の反発をもうまくかわす.悲観的な真実 を垣間見ようとも悲劇に身を投じることなく,あくまで滑稽な道化の役割を 演じきり,自らを取り巻く喜劇としてユーモアを交えて物語る「私」は,こ の 後 , さ ら に 斡 晦 と 鏡 舌 の 度 を 増 し 道 化 の 衣 裳 に 身 を 包 ん だ The Confidence‑Mα九の主人公詐欺師へと発展していくのであろう.

1以後に書かれた短編として"ThePiazza" (1856)があるが,短編集出版の際に書き 下ろされたものである.Melvilleが短編を発表したのは,Pierre  (1852)とThe Confidence‑M.α凡の刊行に挟まれた期間に限定されており,1855年の夏か秋 (Sealts 231)という "TheApple‑TreTable"の執筆時期は,欺附と斡晦に満ちた仮面劇で、

あるTheConfidence‑Mαnを書き始めた頃とほぼ重なる.

MelvilleはBartleby"(1853)や"TheBell‑Tower" (1855),BnitoCereno" (1855)  といった陰影に富んだ深みのある作品を寄稿しPutnαm包の、rusadeagainst the  vulgarization of literature"に参加した (Flibbert116)一方で,少なくも表面上は

vulgar literature"の典型的モチーフを扱ったと見える作品を,

I

哲学者や詩人では なく一般人に捧げる

J

(Charvat 27980)ことを標携するHαrper云に発表し続けた.

Melvilleとこの二雑誌の関係はSheilaPost‑Lauriaが詳しく論じている (165‑87). 

3林檎材のテーブルへの言及のうち,少なくともTimothyDwight著 骨αvelsinNew  EglαndαndNew York (1821)とDavidDudley Field編AHistory of the County  of Berkshire, Mαssαchusetts (1829)に関してはMelvilleが目にしたことが明らか であるのに対し(Sackman448‑50; Parker 1:  736), Wαldenの明確な読書記録は残っ

(19)

5 6

精神の屋根裏部屋と啓蒙という名の降霊術ーハーマン・メルヴイルの「林檎材のテーブル」

ていないが,内容的な相似から,この一節がMelviIleの念頭にあったと想定する批 評家は多い(e.g.Davidson 479‑80).たとえMelviIleがWld仰を読んでいなくとも,

当時一般的であったこのような楽観論への訊刺が込められていることは確かで、あろ

っ .

William B. Dillinghamは,霊が立てる音を聖書の真実を表す証拠と見なすべきと説 いたSamuelBrittan牧師の説教( SpiritualManistationつと特定するが (347‑8),  音を悪魔の仕業とする説教 (CharlesBeecherによる説教はRevieωof命iritual Manifestα,tio悶"と題して1853年に出版されている)や, 恒leApple‑TreTable"掲 載より数ヶ月前にPutnαm註の評者が「非科学的な神学論」と切り捨てた著作(Robert Hare, ExperimentαlInvestigα,tion of the Spirit Mαnifestαtions)を含め,題名は酷 似していながらも見解の異なる説教や著述の記録は複数残っており (Keη13‑4, 46) ,どの立場への言及/皮肉ともとれる点に,この副題の妙があるのではないか

と考える

MelviIleの作中人物が宗教的悦惚や絶対的帰依を表明する際には,当人は幸せそう でありながら,何故かいつも後味の悪さが残る. Mαrdi (1849)の哲学者のように,

信仰と懐疑の狭間で揺れていた人物が,唐突に理性という足柳を解いて信仰へと飛 刻する様子は,弁証法的に理性を超越したというより,単に理性的判断を停止し安 易な平安へと逃げ込んだように見える.美しい信条や完全な信仰を堂々と宣言出来 る者が, もはや他人を欺いているか自分を欺いているかのどちらかにしか見えなく なった時代の「信仰者」の姿は ,The Confidence‑Mαnの主人公を通しても吟味さ れる.

6 Mαrdiにおいて,幼虫,踊から蝶への鮮やかな変容は,

r

人の死後の奇跡的な変容

J

, すなわち復活と不滅の例証となるかと詩人から尋ねられた哲学者は,蝶がすぐに死 に至ることを指摘し,次のように言う. 'Allvani切vanity...toseek in nature for  positive warranty to these aspirionsof ours. Through aIl her provinces, nature  seems to promise immortality to life, but destruction to beings. Or, as old  Bardianna has it, ifnot against us, nature is not for us'"  (210).このような考えを 持つ彼が信仰による平安を手に入れるには,理性による思考を放棄するしかなかっ たことは注5で見た通りである.

7妻と同じく matter‑oιfact"と形容される辞書編纂者のJohnson博士でさえ幽霊を 信じていたことが言及されるが (382),こちらの十九世紀版Johnson博土は,散 文的で理性一辺倒である

The Confidence‑Mαnでは,聖書に関して,実際に開いて読む者が殆どいないこと を示すかのように,外はぼろぼろだが中は純白であることが指摘されたり (249), 何十年も熟読したと自慢する老人でさえ勝手な解釈をしているだけということが判

(20)

精神の屋根裏部屋と啓蒙という名の降霊術ーハ}マン・メルヴイルの「林檎材のテ}ブル

J‑

57 

明したりするが, "The ApplTreTable"におけるMagnaliαも同様に,長い間,

開かれることもなく屋根裏に放置され続けてきたのであり,家族で唯一,頁をめく るようになった「私」にさえ,本質を理解されているとは言い難い状態である.

9より直裁的に安易な宗教観を誠刺するこの作品において主人公が語る神は,二十四 時間体制jのきめ細かいサービスで人々の安全を見守ってくれる非常に都合の良い存 在である (CM250), 

10 "The Lightning‑Rod Man" (1854)において,雷の恐ろしさを活写して恐怖を煽る 避雷針売りが理性的視点に映る Mather的人物を体現する一方,彼と対l持する人物 の論理もまた ,Magnαliαの中の雷に関する説教を努霧させることは指摘されると ころである (Bickley68; Dillingham 177),合理精神の代表的存在であるBenjamin Franklin (1706‑90)についてさえ, Matherの影響がしばしば論じられるが,彼の Matherに対する関係が acombination of antithesis and continuity" (Breitwieser  13)であったことは, Melville作品の理性的人物とMatherの関係にも示されてい るようである.

11いかに不注意な読者といえども, 90 (年輪)+ 80 (テーブルの古さ)150年と計 算する博士の「科学的陳述

J

(397)に疑問を覚えない者はいないだろう.これは DwightFieldの話ではつじつまの合っていた計算を,わざと間違えさせたもの である 表層の物語と,そのすぐ下に横たわる宗教的教訓という安易な二層構造に 満足で、きない読者は, もう一度表層に引き返して別の解釈の可能性を探るしかない が,理性の道へ進んだ先にも,進行を阻む障害が周到に用意されているのである.

他方,目立つ計算間違いに隠れて見落とされがちだが, "The Apple目TreeTable"執 筆時から 150年遡れば,Mα:gnaliαの刊行年に近づくという点では,意味深長な数 字でもある.

12例えば, Rosalind Williamsは,発掘が,地下の隠された領域に真実を見つけよう とする神話的探究の現代版として,近代知的研究の重要な隠l除となる経緯を論じて いる (41)

13年輪から出てきた虫の年齢を,地層から掘り出される化石の古さと同様に測定する という落とし穴に陥ると誤解しがちだが,虫は癖化してから年輸を噛み進んで、いた 時間しか生きてこなかったのであり 何十年も生き続けているわけでも,過去に死 んでから千夏活したわけでもないのである.

14林檎材のテーブルの逸話と同様,降霊術騒動という題材も文学者の関心を集め,

Putnαm'sHαrper'sでも繰り返し取り上げられていたが, Melvilleは,林檎材の テ」ブルの元話からは実用本位の素朴な家具と推測されるテーブルを,曲線的な一 柱式三脚に丸天板という降霊術用テーブルを思わせる形状に変更することで, トピ カルな二つの話題を重ね合わせる.この頃には既に懐疑的空気が濃厚となっていた

(21)

58精神の屋根裏部屋と啓蒙という名の降霊術ーハーマン・メルヴイルの[林檎材のテーブル

J‑

降霊術騒動と二重写しになることで, Thoreauをはじめ多くの人々に静かな感動を 与えた林檎材のテーブルの物語までが再吟味されることになる.

15そもそも林檎材のテーブルの元話を世に広めたDwightの 肝αvelsiNeω E.gland は, Melvilleが Hawthorneand His Mosses" (1850)において,このような本に 別れを告げ,真に偉大な作家であるHawthorneを読むべきことを示唆していたも のである (240).Hawthorne 作品の「小春日和の陽光の裏

J

に隠されたCalvinism 的 な 閣 の 概 念 に 由 来 す る 「 偉 大 な 暗 黒 の 力

J

(243)を讃えるこのエッセイは,

Moby‑Dick発表前のMelville自身の文学的マニフェストとも受け取れるが, The Apple‑Tree Table"においては,事物や事象の背後に過剰なまでに宗教的意味や文 脈を見出すというピューリタン的想像力や,うららかな表層の奥に「隠されたj閣 や暗黒の力を読み込む行為自体を榔捻するだけではなく,別れを告げたはずの Dwightの本で目にした話を題材に取り上げたという点でも,以前の自分の文学的 態度を距離を置いて省察し,滑稽に戯固化するという余裕が見受けられる.

16 Pierreとて,自らの苦境を認識していなかったわけではない.けれどもこのような 人物の精神は「溺れかけた男に似ている

J

と語り手は言う.

I

自分が危機に瀕して いることは分かつており,その危機の原因も分かつている.それでも,海は海であり,

溺れかけた男は溺れるのである

J

(303). 

引用文献

Bachelard, Gaston.  Lαpoetique de l'espαce.  Paris: PUF, 1957. 

Bickley, R. Bruce, Jr.  The Method of MelvilleShortFiction.  Durham: Duke UP,  1975. 

Breitwieser, Mitchell Robert.  Cotton MαtherαndBenjαminFαnklin:The Price of  Representαtive Personαlity.  Cambridge: Cambridge UP, 1984. 

Charvat, William.  The Profession of Authorship in Americα1800‑1870.  Ed. 

Matthew J. Bruccoli.  New York: Columbia UP, 1992. 

Davidson, Frank. Melville, Thoreau, and 'The Apple‑Tree Tabl巴,.. Americαn  Literαture 25 (1954): 479‑88. 

Dillingham, William B.  Melville's Short Fiction 1853‑1856.  Athens: U ofGeorgia  P,1977. 

Flibbert, Joseph.  Melvilleαnd the Art of Burlesque.  Rodopi: Amsterdam, 1974.  Karcher, Carolyn L. TheSpiritual Lesson' of Melville's 'The Apple‑Tree Table.'" 

Americ.αn Quαrterly 23 (1971)・101‑9.

Kerr, Howard.  Mediums,αnd Spirit‑Rαippers,αndRoαrin.g Radicals: Spirituαlism 

(22)

精神の屋根裏部屋と啓蒙という名の降霊術 ハ」マン・メルヴィルの「林檎材のテーブル

J ‑

59  inAmericαn Literαture, 1850‑1900.  Illinois: U ofIllinois, 1972. 

Mather

, 

Cotton.  Mα.gnαliαChristi Americαnα.  Ed. Kenneth B. Murdock. 

Cambridge: Harvard UP, 1977. 

Me1ville, Herman. The Apple‑Tree T:ble,Or, Original Spiritual Manifestations." 

The PiαzzαTαlesαnd Other Prose Pieces 1839‑1860.  Ed. Harrison  Hayford, et al.  Evanston: Northwestern UP and NewberηLibrary, 1987.  378‑97. 

The Confidence‑Mαn: His Mαsquerαde.  Ed. Harrison Hayford, et al.  Evanston: Northwestern UP and Newberry Library, 1984. 

Hawthorne and His Mosses." The PiαZZαTαles. 239‑53. 

Mαrdi,αnd A Voyα:ge  Thither.  Ed. Harrison Hayford, et al.  Evanston:  Northwestern UP and Newberry Library, 1992. 

Moby‑Dick, or The Whαle.  Ed. Harrison Hayford, et  al.  Evanston: 

Northwestern UP and Newberry Library, 1994. 

Pierre; or, The Ambiguities.  Ed. Harrison Hayford, et al.  Evanston: 

Northwestern UP and Newberry Library, 1983. 

Parker, Hershel.  HermαMelville:A Biogrα:phy.  2 vols.  Baltimore: Johns  Hopkins UP, 1996. 

Post‑Lauria, Sheila.  Correspondent Colorings: Melville in the Mαrketplαce.  Amherst: U ofMassachusetts P, 1996. 

Sackman, Douglas. The Original of Melville's AppleTreeTable."  Americαn  Liter.αture 11 (1940): 448‑51. 

Sealts, Merton M., Jr.  Pursuing Melville 1940‑1980.  Madison: U ofWisconsin P,  1982. 

Thoreau, Henry David.  Walden.  New York: Holt, Rinehart and Winston, 1963.  ボルノウ,オットー・フリードリッヒ.

r

人間と空間

1. 

大塚恵一他訳. 東京:せ

りか書房,1978.

ウィリアムズ,ロザリンド.

r

地下世界 イメージの変容・表象・寓意

1. 

市場泰男 訳 . 東 京 平 凡 社 ,1992.

参照

関連したドキュメント

森 狙仙は猿を描かせれば右に出るものが ないといわれ、当時大人気のアーティス トでした。母猿は滝の姿を見ながら、顔に

編﹁新しき命﹂の最後の一節である︒この作品は弥生子が次男︵茂吉

であり、 今日 までの日 本の 民族精神 の形 成におい て大

自閉症の人達は、「~かもしれ ない 」という予測を立てて行動 することが難しく、これから起 こる事も予測出来ず 不安で混乱

子どもたちは、全5回のプログラムで学習したこと を思い出しながら、 「昔の人は霧ヶ峰に何をしにきてい

自分ではおかしいと思って も、「自分の体は汚れてい るのではないか」「ひどい ことを周りの人にしたので

を負担すべきものとされている。 しかしこの態度は,ストラスプール協定が 採用しなかったところである。