出ずる石」を中心として
著者 神垣 享介
雑誌名 仏語仏文学
巻 15
ページ 145‑159
発行年 1986‑02‑28
URL http://hdl.handle.net/10112/00017474
‑ 「 不 貞 の 女 」 と 「 生 い 出 ず る 石 」 を 中 心 と し て 一
神 垣 享 介
序
1 9 5 7
年に上梓されたカミュ最後の小説作品である『追放と王国』は,「不 貞の女」「背教者」「無口な人たち」「客」「ジョナース」「生い出ずる 石」という6
つのヌーヴェルから成る物語集の総題である。これらのヌー ヴェルはそれぞれに共通した登場人物や事件.出来事を取り扱っている訳 ではない。しかし,唯単なる出版上の都合によってよせ集められた類のも のではなく,カミュ自身の明確な意志の下に構成,配置されたものである。それ故に.本論の目的はこの物語集全体が持っている枠組み,言い換えれ ば一つの枠組みの中で捉えることによって初めて見えてくるこの物語集全 体の相互関係を考察していくことにある。その場合.「不貞の女」と「生 い出ずる石」を中心にして見ていくことが最も適切であると考えられる。
なぜなら.『追放と王国』の最初と最後に置かれているこの二つのヌー ヴェルが.この物語集全体を形式的にも内容的にも一つの枠組みの中で規 定することを可能にしてくれると思われるからである。結論から言って しまうと, この物語集が持っている枠組みは「自然の美」.「自然との交感
(communion)
」から「人間の愛」,ひいては「人間どうしの真のコミュニ ケーション」へと至るものだと考えられる。以下.こうした枠組みが,各々 独立したヌーヴェルを越えて具体的にどのような形で機能しているかを見 ていきたい。I
先に結論づけたような枠組みの中でこの物語集を見ていこうとする場合,
手掛りとなるのは表題の中に現われている「王国」という言葉であろう。
カミュがこの言葉をこれまでどのような意味において用いてきたのかを見 てみると.まず『裏と表』
( 1 9 3 7
年)の中で《toutmon royaume es t de c e monde
》I)と記している。このことは彼にとって.王国とはこの世界にしか 在り得ないものであり,そのことが前提条件であることを示していよう。そしてその王国の内容を彼は
2
つの文脈の中で明らかにしている。それ はまず第1
に『婚礼』(1939
年)の中で記しているように《le royaume d e s r u i n e s
》2)である。チパザの廃墟は,カミュにとって自然との交感 が為し遂げられた代表的な場所であり.この場合の王国とは「自然の美」又は「自然との交感」と解釈できよう。もう一つの王国については『戒 厳令』
(1948
年)の中で主人公ディエゴが《l'amour de ce t t e femme, c ' e s t mon royaume a moi
》3)と言っている。この場合の愛という言葉は,唯単に男女間の愛というよりももっと広い意味での愛,つまり
f r a t e r n i t e , s o l i d a r i t e , amitie
といった言葉で置き換え得るような「人間どうしの 真のコミュニケーション」と考えられる。こうした2
つの王国観こそがピー ター・クライルも指摘しているように4)• カミュの王国観の両極を示すも のであろう。ところで,以上のような
2
つの王国を再確認することが当時のカミュに とって重要な課題であったことを,1953
年に発表されたエセー「チパザに 帰る」がよく示している。彼はそのエセーの中で,久し振りに訪れたチパ《 A b r e v i a t i o n 》
1 )
PL. I
…A l b e r t Camus, T h e a t r e s , R e c i t s , N o u v e l l e s , B i b l i o t h e q u e de l a P l e i a d e , Gallimard, 1 9 7 4 .
PL.II
…A l b e r t Camus, E s s a i s , B i b l i o t h e q u e de l a P l e i a d e , Gallimard, 1 9 7 2 .
L ' e n u e r s e t l ' e n d r o i t , PL. I I , p . 4 9 . 2 ) N o c e s , PL. I I , p . 5 6 .
3 ) L ' e t a t de S i e g e , PL. I , p . 2 8 9 .
4) P e t e r C r y l e , B i l a n c r i t i q u e : L'
立i l e t l e royaume d ' A l b e r t Camus,
Minard, 1 9 7 3 , p p . 2 2 4 ‑ 2 2 5 .
ザで昔と全く同じという訳にはいかないが,苦労の末に再び「自然との交 感」を成就し,その一瞬の思い出を糧として再び「人間との愛」に立ち向 う決意を述べている。そうした彼の決意を「そうだ,美があり,辱められ た人たちがいる。その企てがいかに困難なものであろうとも,私はそのど ちらにも不忠実でありたくない「というくだりがよく示しているように思 われる。このエセーの中で示されている「自然との交感」から「人間の愛」なか
へという問題意識が,先にも記したように『追放と王国』の枠組みを構成 しているように思われる。
"
「不貞の女」は,主人公ジャニーヌが夫の南アルジェリアヘの商用の旅 に不本意ながらも随いていき,そこで神秘的な夜の砂漠を前にして自然と の交感を成就する物語であるが,このヌーヴェルの中に「チパザに帰る」
のカミュ自身の姿が最も強く反映していると考えられる。というのも,ジャ ニーヌもカミュと同様に自らの心の硬直によって生じる追放感を味わってお り,そうした追放感を克服する為に自然との交感を必要としているからで ある。「チパザに帰る」の中でカミュは,「余りの硬化の為にもはや何も 驚嘆させず,全てが知られ,人生がついに繰り返しに終ってしまう日がやっ てくる。それは追放の,乾いた生の,死んだ魂の時だ。再び生きる為には 恩寵,自己忘却,あるいは祖国が必要である。」6)と記している。それはジャ
としつき
ニーヌの「数年の年月,習慣と倦怠が結びつけてきた一つの絆」 とか,
「二十年前から引きずってきたことに突然気づいた巨大な重みの下で,彼 女は息がつまった。そして今,その重みの下で彼女は全力をあげてもがい
5 ) Retour a T i p a s a , PL. I I , p . 8 7 5 .
6 ) I b i d . , p . 8 7 1 .
特にこの引用文の中で記されている「自己忘却」O'oubli de s o i )
という言菓が最も良く自然との交感の必要性を示している。こうし た自己忘却を経て精神の蘇生へ至るメカニズムについては,拙稿「アルベール・カミュの作品における『忘却』について」関西大学大学院文学研究科院生協議 会発行,千里山文学論集第2
8
号.昭和5 8
年3
月,参照。7 ) La femme a d u l t e r e , PL. I , p . 1 5 7 0 .
ていた。彼女は解放されたかった。」8) といった記述に対応するものであろ う。カミュは『追放と王国』の序文の中で,「王国とは再び生れる為にわ れわれが見出さねばならない自由で,ありのままの生活と一致する。追 放とは,その流儀に従って隷属
( s e r v i t u d e )
と所有( p o s s e s s i o n )
を同 時に拒絶し得ることを唯一の条件として,王国へのいくつかの道を示してせ い き
くれる」9)と記しているが,ジャニーヌにとっての主要な追放とは生気の ない,日々が繰り返しに終ってしまうような現在の彼女自身の状況であろ う。そうした彼女が隷属と所有を同時に拒否し,自由に生きる理想的な形 態とは,彼女が砂漢の中で見かけた遊牧民のように何も所有せず,誰にも 仕えず自然と一体となって生きるようなものであろう10)。しかしながら,
実際問題として彼らのように生きることのできない彼女にとって唯一可能 なことは,「チパザに帰る」におけるカミュと同様に,自然と一体になった 一瞬の時間の停止の中で再び生まれ変ることなのである。
《
E l l e (Janine) s a v a i t s e u l e m e n t q u e c e royaume, d e t o u t t e m p s , l u i a v a i t e t e promis e t q u e j a m a i s , p o u r t a n t , i l n e s e r a i t l e s i e n , p l u s j a m a i s , s i n o n a c e
fugit i f i n s t a n t [ . . .
》]I ) :
実際に彼女が真の王国を見出すのは夜の砂漠の中においてではあるが,
その時の描写を「チパザに帰る」のそれとを比較してみたい。
《
Apres t a n t d ' a n n e e s o u , fuyant d e v a n t l a p e u r , e l l e a v a i t c o u r u J o l l e m e n t , s a n s b u t , e l l e s ' a r r e t a i t e n / i n . En meme t e m p s , i l l u i s e m b l a i t r e t r o u v e r s e s r a c i n e s , l a s e v e montait a nouveau
8 ) I b i d . , p . 1 5 7 3 . 9 ) PL. I , p . 2 0 3 9 .
1 0 )
《[…]q u e l q u e s hommes
[…] ,q u i n e p o s s e d a i e n t r i e n mais n e s e r v a i e n t p e r s o n n e , s e i g n e u r s m i s e r a b l e s e t l i b r e s d ' u n e t r a n g e royaume 》 .
La femme a d u l t e r e , PL. I , p . 1 5 7 0 .
11) I b i d . , p . 1 5 7 0 .
, z ・
m e r e s e t o i e s d e s c o n s t e l l a t i o n s d a n s s o n c o r p s
[…]L e s d e r
[…]
s ' i m m o b i l i s e r e n t . A l o r s , a v e c u n e d o u c e u r i n s u p p o r t a b l e , l ' e a u d e l a n u i t commenqa d ' e m p l i r J a n i n e ,
[…Je t d e b o r d a e n f l o t s i n i n t e r r o m p u s j u s q u ' a s a b o u c h e p l e i n e d e g e m i s s e m e n t s . L ' i n s t a n t d ' a p r e s , l e c i e l e n t i e r s ' e t e n d a i t au d e s s u s d ' e l l e , r e n v e r s e e s u r l a t e r r e f r o i d e
12>》. (イタリックは引用者)《
1 1 s e m h l a i t q u e l a m a t i n e e s e f u t J i x e e , l e s o l e i l arr~te p o u r un i n s t a n t i n c a l c u l a b l e . Dans c e t t e l u m i e r e e t c e s i l e n c e ,
d e s a n n e e s d e f u r
匹re t d e n u i t J o n d a i e n t l e n t e m e n t . J ' e c o u t a i s e n moi un b r u i t p r e s q u e o u b l i e , comme s i mon c o e u r , ar~te d e p u i s l o n g t e m p s , s e r e m e t t a i t doucement a b a t t r e .
[…Jj ' e c o u t a i s a u s s i l e s / l o t s h e u r e u x q u i m o n t a i e n t e n moi
13>》. (イタリックは引用者)以上
2
つの文章から共通してうかがえるのは,一瞬の時間の停止の中で 数年来付きまとってきた彼らの追放感の原因とも言える強迫観念を逃れ,f l o t s
という言葉が象徴するような或るs o u r c e
を自己の内に見出すイメー ジであろう。こうした時間は一瞬のものにすぎないが,その思い出こそが カミュが「チパザに帰る」の中で述べたように,絶望することから守って くれる「打ち勝ち難い夏14)」( u ne t e i n v i n c i b l e )
となるものだと考えら れる。特にジャニーヌの自然との交感の描写は,明らかにセックスのイメー ジとオーバーラップしたものであり.「夜の水が,・絶えざる波となって彼 女の中に溢れた」という記述は,これまで決して子供に恵まれることのなほの
かった彼女に何らかの新しい実りを仄めかしているように思われる。
ところで,これら
2
つの作品に描かれた経験が同質のものであることは 度々指摘されてきたことであるが,このことは「不貞の女」が着想された1 2 ) I b i d . , p p . 1 5 7 4 ‑ 1 5 7 5 .
1 3 ) R e t o u r a T i p a s a , PL. I I , p . 8 7 3 .
1 4 ) I b i d . , p . 8 7 4 .
経緯を考えてみれば或る程度納得のいくもののように思われる。カミュの 詳細な伝記を著したハーバート・ロットマンの調査によればIS),
1 9 5 2
年に カミュがチパザを再訪した2
週間後に,ついでに足を伸ばして小旅行した,アルジェから南方
4 3 0
キロの場所にあるラグアットで,その下書きが書か れているのである。こうしたことから,「不貞の女」のクライマックスの 場面は,チパザでの体験を基盤にしたものだと考えられるし,又そうする ことによって初めてこの物語が一方の王国に到達する物語になり得たのだ と思われる。しかしジャニーヌの物語はもう一方の王国(つまりは「人間 との愛」)に立ち向う為の.言わば前提条件としての王国を見出すものにす ぎず,夫マルセルや原住民であるアラヴ人たちとの関係の中にそのテーマ が見て取れる「愛の問題」については,何の進展もないままに終っている。I I I
次に「愛の問題」による追放が残されることになった訳であるが,この 問題については1
9 5 3
年に発表されたエセー「間近の海」(La mer au p l u s pres)
の中で次のように記されている。「互いに愛し合い,別れ別れになっている人たちは苦悩の中で生きてい るかも知れない。だがそれは絶望ではない。彼らは愛が存在するという ことを知っている。そうした理由で私は追放に耐えている。私は尚待って いる。ついにある日がやってきて…16)。」
こうした問題に対して,一つの具体的な解決が示されるには「生い出ず る石」を待たねばならないのであるが,作品集全体の中でこの作品の前に 位置を占めている 4つのヌーヴェルを,「愛の王国」に到るまでの幾つかの 試練を描いたものだと見なしたい。なぜなら,これら
4
つのヌーヴェルは「愛の問題」,言い換えれば「人間間の真のコミュニケーション」への試かん
みと考えられるし,そうした試みに失敗したが故に,主人公たちは決定的
1 5 ) H e r b e r t R. Lottman, A l b e r t Camus, S e u i l , 1 9 7 8 , p p . 5 5 2 ‑ 5 5 3 ,
参照。1 6 ) La mer au p l u s p r e s , PL. I I , p . 8 8 0 .
な追放の中に置かれてしまうからである。彼らが何故そうした試みに失敗 したのか,その原因について「隷属と所有」の観点から簡単に見てみたい。
「背教者」の主人公がアフリカの奥地へ物神
( f e t i c h e )
を信仰する原 住民をキリスト教に改宗させようとして赴くのは,キリスト教という秩序 の力で彼らを命令・支配しようとしたからであり,又逆に原住民たちの拷 問を受けた彼が悪の権化と思われる物神に改宗してしまうのは,悪の支配 のほうが絶対的で完璧だからである。彼が目論む人間関係は常に支配する ものとされるものとの関係,つまりは他者を所有し,隷属を強要するもの であるが故に,こうした関係の中では真のコミュニケーションは成立しな いように思われる。「無口な人たち」においては,経済的に支配するものとされるものの関 係の中での愛の試みの失敗が描かれている。突然の発作でその子供が入院 した社長に対して深い同情を感じながらも,賃上げ要求のストライキの失 敗の直後でひどい屈辱感に襲われている樽戦人のイヴァールは,社長に一 言の言葉をもかけることが出来ない。そのことによって彼は,自分自身に 対して,又は他者に対してより一層の絶望,孤立を感じるのである。
「客」の中では,政治的,社会的次元での隷属関係を嫌いながらも,自 らはその最終的な選択を回避し,他者にその選択を委ねてしまうことによっ て結果的には,他者に隷属への道をえらばせる人間の姿が描かれている。
つまり,主人公ダリュは殺人犯のアラヴ人を監獄のある町まで連行するよ うにという指令を受けるのであるが,彼はその任務への反抗心
c ; '
そのア ラヴ人との間に結ばれた奇妙な人間的な触れ合いの感情から,アラヴ人自 身に自由への道と監獄への道のいずれかを選ばせるのである。しかし,ア ラヴ人はダリュに対する一種のf r a t e r n i t e
とも呼べるような感清からか,.ダリュの予想を裏切って監獄への道を歩き出してしまう。
「ジョナース」では,自己の主張を持たず,余りに他者に隷属してしま うことによって二重に孤立してしまう画家の姿が描かれている。つまり,
主人公の画家ジョナースは,彼の弟子や支持者たちの要求をことごとく受 け入れてしまうことによって,自らの時間と空間を徐々に奪われていき,
ついには本当に愛する家族からも切り離されてしまう。又そうしたことに よって彼は作品さえ描くことが出来なくなり.その結果.作品を通して結ば れてきた弟子たち他者との.芸術家としてのコミュニケーションさえ失<
してしまうのである。
以上の4人の主人公たちの挫折感を最も良く示しているのは,それぞれ のヌーヴェルの結末部分であろう。これらの結末部分に共通しているのは.
主人公たちが現在とは違う別の次元を志向していることである。
《
Q u i t t ec e v i s a g e d e h a i n e , s o i s bon m a i n t e n a n t , n o u s n o u s sommes tromp 細, n o u s r e c o m m e n c e r o n s , n o u s r e f e r o n s l a c i t e d e m i s e r i c o r d e , j e ̲ v e u x r e t o u r n e r c h e z m o i )
〉.( L e r e n e g a t . P L .
I.p . 1 5 9 3 . )
《
1 1 (Yvars) a u r a i t voulu~tre j e u n e , e t q u e F e r n a n d e l e f o . t e n c o r e , e t i l s s e r a i e n t p a r t i s , d e l ' a u t r e c O t e d e l a mer
》.(Les m u e t s , P L .
I.p . 1 6 0 8 . )
《
Daru r e g a r d a i t l e c i e l , l e p l a t e a u e t , a u ‑ d e l a . l e s t e r r e s i n v i ‑ s i b l e s q u i s ' e t e n d a i e n t j u s q u ' a l a m e r . Dans c e v a s t e p a y s q u ' i l a v a i t t a n t a i m e . i l e t a i t s e u l
》.( L ' M t e . P L .
I.p . 1 6 2 3 . )
「背教者」と「無口な人たち」については.絶望的な状況(背教者は彼 を追ってきた原住民たちに殺されてしまうであろうし.イヴァールは彼自 身も十分意識しているように.何かを改めてやり直すには余りに年を取り すぎている)にありながらも.別の次元への志向がはっきり現われている と思われる。「客」に関して言えば.ロジェ・キーヨが指摘しているよう に17). そこで用いられている
q u ' i la v a i t t a n t aime
という大過去がダ リュの自分の住んでいる国に対する放棄( r e n o n c e m e n t )
と別れ( a d i e u )
を示していると考えるならば.彼も<目には見えない土地>に向って別の 次元を志向していると解釈出来よう。「ジョナース」においては.これま1 7 ) P L . I , p . 2 0 5 2 ,
参照。でのような具体的な文章は見受けられないが,主人公が物語の最後で部屋 の空間に屋根裏部屋のようなものを造り,そこに閉じ籠って自分を護って くれる星の出現を待っているという状況が,別の次元を志向し,又実行し
キャンパス
たのだということを示していよう。さらには,彼が最後に画布に書いた
s o l i t a i r e
ともs o l i d a i r e
とも読める言葉そのものを,ピーター・クラ イルが指摘したように 18)• その2
つの言葉に共通するs o l
とa i rに分析
すると,この謎めいた言葉そのものがs o l
とa i r
の中間に位置する何 処とも知れぬ別の空間を志向していると考えられる。このように彼らが 各々,別の次元=空間を志向するのは自分たちの失敗を自覚し,出来ることならもう一度やり直そうとする意識からだと考えられる
I I I
先きに見てきた主人公たちの後を受けるかのように,「生い出ずる石」
の主人公ダラストこそが海を越え,地平線のかなたのプラジルという別の 次元へもう一度やり直す為に,(もち論,その原因は前の主人公たちとは 何の関連もないのであるが)やって来たと考えられる。というのも,ダラ スト自身が「プラジルに来る少し前に自分のせいである人が死にかけてい た19)」とか,「自分の場所が見つからなかったので出発した20)」と言って いるからである。こうした状況は先の註の
1 6
で引用した「間近の海」に 記されているのと同様の追放を示しているだろうし,そうした追放感の中 でダラストもく—つの出合いの機会>を辛抱強く待ち続けているのである。《
I I (D'Arrast) a t t e n d a i t ,
[…Jcomme s i l e t r a v a i l q u ' i l e t a i t venu f a i r e i c i n ' e t a i t qu'un p r e t e x t e , l ' o c c a s i o n d ' u n e
1 8 ) P e t e r C r y l e , 《 The w r i t t e n p a i n t i n g and t h e p a i n t e d word i n
"Jonas" 》 , A l b e r t Camus 1 9 8 0 , U n i v e r s i t y P r e s s e s o f F l o r i d a , 1 9 8 0 , p . 1 2 8 .
1 9 ) La p i e r r e q u i p o u s s e , PL. I , p . 1 6 7 2 .
2 0 ) I b i d . , p . 1 6 7 9 .
s u r p r i s e , ou d ' u n e r e n c o n t r e q u ' i l n ' i m a g i n a i t meme p a s , mais q u i l ' a u r a i t a t t e n d u , p a t i e m m e n t , au b o u t du monde
》.(La p i e r r e q u i p o u s s e . PL. I . p . 1 6 6 8 . )
ところでこの物語をダラストと原住民の間に築かれる「愛の物語」,も しくはダラストの表現を借りるなら「一つの出合い」の物語として読む場 合,彼と原住民のコックが初めて交す会話の中に,彼らを結びつける前提 条件といったものが示されているように思われる。それは,少なくとも彼 らは直接的には,命令するものと命令されるもの,支配するものと支配さ れるものといった「隷属と所有」の関係には無いということであり,そ うした確認を経てコックはダラストに本当に心を開いていくようにもなり,
祭の日に神様との約束を果たす為に教会へ石を運ぶ手助けを求めさえする のである。彼らの会話は次のようなものである。
「ダラストー「民衆は存在する。しかしその主人は警官,もしくは商人た ちなんだ。」
コックー「フン,買ったり売ったり!何という卑劣なことだ!警察を もってすれば犬でも命令する(・・・)あんたは売ったりしない のか?」
ダラストー「ほとんどしない。私は橋や道路を造る。」
コックー「いいことだ!それは。私は船のコックだ。もしあんたが望 むなら,黒豆の料理をご馳走しよう」21).」
しかし,こうした会話の中に現われている説明だけでは,ダラストと原 住民たち全体の関係は十分にはわからないであろう。なぜなら,原住民た ちにとっては彼は彼らを政治的にも経済的にも支配し,命令を下す<有力
2 1 ) I b i d . , p p . 1 6 6 9 ‑ 1 6 7 0 .
尚.こうしたダラストの立場と比較して.「不貞 の女」のジャニーヌの夫が商人として描かれているのは興味深い。ジャニー ヌと夫が最後まで原住民と心の接触を持ち得なかった理由の一端が,ここで 暗示されているのかも知れない。者 >
Oes n o t a b l e s )
の側に属する人間だからであり,彼が最初原住民た ちに徹底的に無視され.悪意のこもった目で見られるのはこうした理由か らである。その彼らが憎み反発している<有力者>の世界は,完全に「隷 属と所有」の法則に貫かれた世界であるが.そのことを次のようなエピソードが最もよく示していよう。それは.「警察長官がダラストの旅券の不備 について彼に厳しく文句を言っているのを判事が聞き付け.警察長官を叱咤 し.出て行くように命令する。その後で有力者たちが協議し.この警察長 官に罰を与えねばならないが,その罰をダラスト自身に決めてもらいたい と申し出る」といったものである。このような<有力者>の世界にダラス トが馴染めないのは.彼がその罰の決定をあくまでも拒否することから明 らかである。しかし.そうかと言って「ここでは死ぬまで踊る,憔悴し.
騒々しい狂人たちの中にあっては,追放か,孤独かだ22)」とも記されてい るように,完全には原住民の世界に溶け込むことも出来ないのである。
こうした二重三重に孤立した状況の中で彼は祭の日を迎えるのである。そ の祭の日に,行列が通るのをよく見る為に有力者たちとテラスにいた彼は,
石を運ぶ途中で倒れたコックを見て.「断りもしないで」
( s a n ss ' e x ‑
cuser23>)テラスから駆け降り,彼に代って石を運んでやるのである24)0
このことは,ダラストが一時的にせよ「隷属と所有」が支配する<有力 者>の世界を離れ,コックヘの自発的な無償の愛を示していると考えられ る。しかし,原住民たちの行列の「教会へ,教会へ」という叫びを無視し
2 2 ) I b i d . , p . 1 6 7 8 . 2 3 ) I b i d . , p . 1 6 8 2 .
2 4 )
ダラストが原住民との真の交感に至る過程を,M.
イサシャロフは上と下,閉じられたものと開かれたもの,円の内部と外部
e t c .
といった二分法を用 いて見事に分析している。これらの二分法によって示されるイメージは,物 語の前半ではダラストと原住民を隔てる象徴的イメージとして現われている が,最終部においてダラストが上から下へ決然と降りることによって(その 結果,コックに代って石を運ぶことになるのであるが),閉じられたものか ら開かれたものへ,円の外部から内部へ入っていくことになるのである。っ まりは,彼と原住民を隔てていた二分法的イメージが最終的に収束,解決さて,彼が実際に石を運んだのはコックの兄弟の家なのである。この行為 の意味はこれまで色々と論じられてきたものであるが,次のように解釈 できるのではないかと思われる。つまり,群集の叫びに従って自分の信 じていない神の為に教会へ運ぶことは,他者への隷属を受け入れることに なり,逆に自らに忠実でなくなってしまうからであろう。さらには,「植 民地スタイルの」と形容されている教会25)そのものが,
DavidWalker
の指摘するように,「政治的,社会的不正と搾取を想起させる26)」もの と考えられ,こうした「隷属と所有」の精神的基盤の象徴である教会へ 運ぶことは,再び「隷属と所有」の世界を受け入れることになるからだ と考えられる。こうした幾重にも張り巡らされた「隷属と所有」の網の目 をことごとく払い除け,尚かつコックヘの愛を示すことによって初めて彼 は自らの再生の確信を得るのであり,コックの兄弟たちからも仲間として 迎えられるのである。しかしこうして成し遂げられた「出合い」も,一時 的なものにすぎないかも知れない。なぜなら,彼にとって祭の日そのも のが,《I l (D'Arrast) a t t e n d a i t a p r e s e n t sous l e porche d e l ' h o p i t a l , regardant sa montre
arr~tee21' 》というくだりが示しているように,言わば時間の停止の中での特権的なものと考えられるからである。
しかし,そうした祭の日という時間の停止の中で,彼がコックの兄弟の家 ヘ石を運び終った時に《enl
u i l e f l o t d ' u n e j o i e o b s c u r e e t h a l e t a n t e
れることによって,彼と原住民との交感を象徴的に示すことになるのであ る。以上がイサシャロフの論旨である。詳しくは,
Michael I s s a c h a r o f f , L ' e s p a c e e t l a n o u v e l l e , L i b r a i r e Jose C o r t i , 1 9 7 6 , p p . 9 7 ‑ 1 1 2 ,
参照。2 5 ) 《[…] l e s deux t o u r s rondes d ' u n e e g l i s e b l e u e e t " b l a n c h e , c t e s t y l e c o l o n i a l 》 . L a p i e r r e q u i p o u s s e , PL. I , p . 1 6 6 4 .
2 6 ) David H.Walker, 《 Image,symbole e t s i g n i f i c a t i o n dans 《 Lapierre q u i pousse 》》, A l b e r t Camus 1 1 , L e t t r e s modernes, Minard, 1 9 8 2 , p . 9 9 .
2 7 ) La p i e r r e q u i p o u s s e , PL. I , p . 1 6 7 8 .
(イタリックは引用者)q u ' i l n e p o u v a i t p a s nommer
28)》を聴くという記述の中に,先きの註の1 2 )
と1 3 )
で引用した「不貞の女」と「チパザに帰る」の自然との交感の 場面でのメカ・ニズム(つまりは,時間の停止の中でf l o tというイメージ
が象徴するような或るs o u r c eを見出すこと)と同一のメカニズムが見て
取れよう。それ故に,たとえダラストの経験が一時的なものにすぎなくと も,この「一つの出合い」の,つまりは「王国」の思い出も彼の中で生き 続け,「再び始められる人生」C l av i e q u i r e c o m ' . n e n 1 , a i t
29)) の中で,絶 望することから救ってくれるもう一つの《unet e i n v i n c i b l e
》の役割を 果すものになると考えられる。結語
これまで見てきたように,この物語集全体が,「自然との交感」から
「人間の愛」への試みの失敗を経て,「人間への愛」へと至る枠組みを持っ ていると結論づけても良かろうと思われる。それはカミュ自身の歩んで来 た精神的歩みの再確認とも言えるであろうし,又彼が「チパザに帰る」の 中で自らに課した「二つの王国のどちらにも忠実であろうとする決意」に 対する彼なりの一つの答えであると見ることも出来よう。そして最後に一 言付け加えると,これまで述べてきたような枠組みの中で改めてジャニー ヌとダラストを見直すならば,この各々の王国に達する二人があたかも互 いの存在を意識し,視線を交し合っているようにも思えてくるのである。
《
Sans m a i s o n s , c o u p e s du monde, i l s (nomades) e t a i e n t u n e p o i g n e e a e r r e r s u r l e v a s t e t e r r i t o i r e q u ' e l l e d e c o u v r a i t du r e g a r d , e t q u i n ' e t a i t c e p e n d a n t q u ' u n e p a r t i e d e r i s o i r e d ' u n e s p a c e e n c o r e p l u s g r a n d , d o n t l a J u i t e v e r t i g i n e u s e ne s ' a r r e t a i t q u ' a d e s m i l l i e r s d e k i l o m e t r e s p l u s au s u d , l a o i l l e p r e m i e r
2 8 ) I b i d . , p . 1 6 8 5 .
2 9 ) I b i d . , p . 1 6 8 6 .
/ l e u v e f econde e n f i n l a Joret
》.(La femme a d u l t e r e , PL. I , p . 1 5 7 0 )
《
Parvenu s u r l a r i v e , i l r e g a r d a i t au l o i n l a l i g n e i n d e c i s e de l a mer, l e s m i l l i e r s de kilom ぬ t r e s d'eaux s o l i t a i r e s e t l'Af — r i q l , ! , e , e t , a u ‑ d e l a , l ' E u r o p e d'ou i l v e n a i t
》.(La p i e r r e q u i p o u s s e , PL I , p . 1 6 6 7 )
(イタリックは共に引用者)ジャニーヌはアフリカの砂漠から南へ数千キロの,最初の河が森を瀾す 場所に視線を向けているが
3 0 ' .
こうした南へ数千キロの,河が森を瀾す場 所とは,「生い出ずる石」の中で描かれているダラストのいるブラジルの 森を想起させる31)ものであろう。そしてダラストは反対に,プラジルから 数千キロの彼方にあるアフリカ,さらにはヨーロッパを眺めているのであ る。こうした数千キロの空間を越え.テクストを越えながらも.『追放と王 国」という大きな枠組みの中で互いに見つめ合い.確認し合っているようなニ3 0 )
この 南 という方向は,ジャニーヌにとって特別な意味を持っており,そ れは或る至福のイメージと結びついてさえいる。c f . 《 L a ‑ b a s ,p l u s au sud e n c o r e , a c e t e n d r o i t ou l e c i e l e t l a t e r r e s e r e j o i g n a i e n t dans une l i g n e p u r e , l a ‑ b a s , l u i s e m b l a i t ‑ i l s o u d a i n , quelque c h o s e l ' a t t e n d a i t q u ' e l l e a v a i t i g n o r e j u s q u ' a . c e j o u r e t q u i p o u r t a n t n ' a v a i t c e s s e de l u i manquer 》 . La femme a d u l t e r e , PL. I , p . 1 5 7 0 .
《 I l (un f a i b l e v e n t ) v e n a i t du s u d , l a ou l e d e s e r t e t l a n u i t s e melaient maintenant sous l e c i e l a nouveau f i x e , l a ou l a v i e s ' a r r e t a i t , ou p l u s personne ne v i e i l l i s s a i t nine moura1t 》 . I b i d . , p . 1 5 7 3 .
3 1 ) c f . 《 Laf o r e t grondait un p e u , t o u t e p r o c h e . Le b r u i t du f l e u v e g r a n d i s s a i t C . . J . (…) l a l u m i e r e glauque d e s f o r e t s , e t l e c l a p o t i s n o c t u r n e d e s e s grands f l e u v e s d e s e r t s ( . . . ) 》 . La p i e r r e q u i p o u s s e ,
PL. I , p . 1 6 7 8 .
人の状況そのものが,この物語集に込められたカミュの意図を最も良く象 徴しているように思われる。
<付記:本論文は,昭和
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年度日本フランス語フランス文学会秋季大会(大阪市立大学)における口頭発表の原稿に若干の手を加えたものであ
る >
(本学非常勤講師)