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近世オランダ貿易の成立と展開

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

近世オランダ貿易の成立と展開

八百, 啓介

https://doi.org/10.11501/3123170

出版情報:Kyushu University, 1996, 博士(文学), 論文博士 バージョン:

権利関係:

(2)

第三露霊 元本柔小判の斬首tL1とオランダ雲賓易

は じ め に

貞享二年(一六八五)の定高制にはじまる幕府の貿易高の制限政策の中で、 元禄四年の 別子銅山の関坑による国内産銅量の噌加をうけて、 元禄八年(一六九五)、 定高枠外に銅 を引き当てとする取引(銅代物替貿易)が許可され、 オランダ貿易における銅輸出量もそ の頂点を迎えることとなる。その後、 正徳五年(一七一五) 年のいわゆる正徳新例によっ て廃止されるまで、の二一年間続いた銅代物替貿易については、 その廃止の理由を含めて、

いわゆる国内の産銅畳の減少と長崎廻鍋状況の悪化といった 国内事情との関連において、

園内史料から考察されてきた。し かし、 当該期の出島オランダ商館の銅貿易については、

代物替銅の数量・価格など基礎的な部分をはじめとして、 具体的な取引の状況に付いて、

いまだ不明な部分が多い。

そこで本章では、 出島オランダ商館の銅貿易をこれ ら国内史料とオランダ側史料との比 較、 またオランダ側の帳簿と報告書類との照合の上で捉え、 オランダ商館の銅貿易を規定 するオランダ側の事情を明らかにするとともに、 定高制下のオランダ貿易における代物替 貿易の実態とその特質について考察することとし たい。

第一節 元禄小判の輸出

元禄八年(一六九五)九月、 幕府は金銀貨幣の改鋳をおごない、 従来の慶長小判に代わ って元禄小判が登場する。オランダ商館による小判の輸出は、 一六六三(寛文三)年に始 まり、 当初は三0%を越える利益を上げた

その後、 一六七二(寛文一二)年には小判は 一枚六八匁に値上げされて、 値段が固定され たが

一七世紀後半には依然として銅と並ぶ

主要な輸出品であった(表3 - 1 )。

寛文八年(一六六八)のオランダ船に対する銀輸出禁止以後、 オランダ貿易において銅 と並ぶ重要な輸出品となっていた 小判の改鋳は、 オランダ貿易に重大な影響をもたらし た。

そして、 ごれ以降、 国内貨幣である小判の改鋳とオランダ貿易との密接な関わりが元文元 年(一七三六)の元文小判の改鋳まで続くことになる。

元禄の改鋳については改鋳の翌年一六九六(元禄九)年六月二五日付のパタピアより商 館長宛の副"令によると

皇帝の意図していることは、 国中の大判(Oebangs) ・小判(Coebangs) ・一分金 (Isiboos) からなる、 全ての金貨を集めさせ鋳銭させることである。それは品位に

してー00分の二悪くなるが、 我々はその小判を、 以前と同様に、 六テール八マース

- 68 -

(3)

表3-1 出島オランダ商館小判.jj輸出高(寛文9年一元禄10年)

小 判 銅

年 総輸出高

輸出高(テ-Jv) % 輸出高(テ-jv) % (テ寸レ) 1669(寛文9) 567,190.4 77.69 127,547.5 17.47 730,096.2 1670(同10) 448,531.4 57.09 295,334.55 37.59 785,725.4 1671(同11) 621,997.8 73.10 200,395 23.55 850,飴5.0

I

1677(延宝5) 202,368 46.87 211,234 48.92 431, 789.2 I 1679(同 3) 143,663.6 31.88 291,400 64.66 450,664.8 I 1686(貞享3) 972.4 0.37 256,680 96.71 265,410.6 1688(元禄元) 106,059.6 39.45 155,000 57.65 268,864.5 1689(同2) 12,399.8 4.62 243,040 90.46 268,684.2 1690(同3) 83,374.8 30.71 179,800 66.23 271,462.5 1691(同 4) 154,767.2 56.64 111,150 40.68 273,237.6 1692(同5) 25,526.8 9.82 222,300 邸.56 259,827.5 1693(同6) 121,305.3 43.93 148,200 53.67 276,133.2 1694(同 7) 66,530.4 24.21 197,600 71. 91 274,780.5 1695(同8) 49,489.6 17.88 209,950 75.84 276,816.5 1696(同9) 88,589.2 29.15 196,931.1 64.81 303,868.7 1697(同10) 299,521.4 93.37 320,782.6

ムー一一

註) Negotie Journalen anno 1668/69-1696/97, N.F.J.863-881 による。輸出高

総輸出高は箱代などの諸経費を含む。 1テール=銀10匁。

で受け取るだろう。 それは逆らうことが出来ないことであり、 貴下が我々の命令を求 めるならば、 我々は、 その相違が前述のもの以上に大きくないならば、 逆らうことな く受け取るよう命ずる。 そうすれば、 会社は非常な損害を蒙ることはないであろう

?

とあり、 パタビアでは当初新小判の品位の低下をわずか二 % 程度のものと考えており、 従 来の一枚六テール八マースすなわち六八匁の価格で‘受け取ることもやむなしと見ていた。

これに先立つ同年六月二二日(旧暦五月二三日)オラン ダ 商 館長は町年寄高木彦右衛門 を通じて長崎奉行に宛てて、 小学jについての要求を提出した。この要求の内容については、

オランダ通詞中山家の史料である「元禄九子年 元字斤阿蘭陀人詑御渡被成川旧記写jの 中に「元禄九子年五月廿三日謹而御訴詔Jとして伝えられている

?

それによれば

元ノ字也

一今度新小判被 仰付1,.1由奉承知1,.1、 然者例年阿蘭陀商費仕、 震元ニ而調物代金井遺捨 相残金異国ヘ持波、 異国ニ而者つぶし欧金ニ而遺申比、 今度之儀前を以、 せ称らる承 知不仕l1付、 商人共より新小判請取申ω而ハ、 志やかた ら1乞罷帰申分ケ茂無御座しも、

就夫只今行当申比御慈悲之御上より当年持渡金子者 、 古小判相波申1,.1様ニ商人中ニ被 為 仰付被下しもハ〉、 偏ニ難有可奉存ω、 来年よりハせ称らる了簡次第二新小判請取

- 69 -

(4)

可申凶

かひたん弐人判

右之通かひたん奉願りニ付、我ミ立合和ケ差上申むも、以上

子五月 目付弐人印

通詞七人同

とありそ)商館長らはパタビアの東インド当局が事情を知らないことを理由に、引続き従来 の慶長小判を受け取ることを求めている。同史料には、さらにこの要求に対する日本側の 対応として

元禄九子年

一今度金銀吹直被 仰付、吹直りIA金銀段ミ世間i乞可相波川問、有来金銀と新金銀と同 事相心得、古金銀不残吹直り泊者、新金銀と入交遣方請取渡両替共ニ、無御用可申IA、

上納金銀茂可為同事

右御書付之趣、かひたん臼未申聞l1と拝見川、此度之御書、乙名通詞共取次1,1段、

不念之至川、 欧直りIA金銀之事五ヶ年十ヶ年之内不残可相済儀者難斗IA、 依之、 右 之通、金銀遺方入交両替等之無高下被 仰l付川、然上者、日本之諸商人共ニ御法令 相背、異国花古小事j斗相波川様ニと者、中ミ難申付事IA之{様、此旨急度かひたんね 通用可仕者也

子五月

とあり?圏内においては金銀改鋳により慶長小判が回収されているため、オランダ貿易に だけ慶長小判を適用することができないことを理由として、オランダ人を説得して理解さ せる方針であった。

しかし、翌年一六九七(元禄--0)年九月一一日のオランダ商館長の日記に

将来は新しい小判以外は期待できないという条件で、その年は古い小判を受け取り 輸出しでもよいことが、昨年、オランダ人に十分知らされたの)

とあるように、 前年の一六九六(元禄九)年にはオランダ商館は、従来通りの慶長小判の 輸出を認められることとなった。出島オランダ商館の仕訳l憾によれば、同商館は同年一0 月一五日に、前年の二倍近い一万三O二六・五枚の小判を取引している守)これは、翌年以 降の元禄小判の受け取りを前にして、オランダ商館ができる限りの慶長小判を輸出しよう

- 70 -

(5)

と、買い急いだ結果であろう。このため、同年には小判の取引高は、諸経費を含めて八万 八五八九・二テール(八八五貰八九二匁)となり、同年の輸出高 の二九・ 一五%にまで増 加している

?

翌一六九七(元禄ー0)年六月五日付のパタビアの東インド評議会の決議録によれば 前商館長コルネリス・ファン ・アウトホールンによって見本としてもたらされたも ののうちの一つは、商務員ヨハネス・ホフマンによって試金検査がなされ、古いもの と価値が約三分のー違うことがわかった。その結果、その小判は、ごごでは、-0レ イクスダールダー(ーレイクスダールダーはこ・五グルデン=引用者註)の普通の値 段では良くは売れないだろうし、損失がひどくなるためコロマンデルに送られるごと もないであろう。(中略)第一に、実行することが良いと忠われ決定されたごとは、

毎年そこ(日本=引用者註)から必要とされる通常の商品や他の小さなものを除いて、

会社が 取り扱う商品の売上は、できるだけ多くの栂銅で受け 取るごとが認められるよ う要求し、新しい種類の小判を少したりとも受け取らないことで・ある

)

と、元禄小判は一枚二五グルテ'ンの通常の価格に値しない品質で-あるとの判断から、元禄 小判の受取を拒否し、その分すべて銅で輸出するよう決議している。

これを受けて、同年七月二日付のパタピアより出島商館長宛の副"令では

今年は古い小判はもう輸出できないだろうが、鋳造されたばかりの新しい小判は、

商館長コルネリス ・ ファン ・ アウトホールンによって一六枚が見本としてもたらされ たが、ごこでの試金検査によって、一三カラット四グレイン以上の価値はないごとが わかった。それは古い小判と、 七カラット二分のーグレイン差がある。その結果、新 しい小判が六テール八マース、すなわち、こ こでは--0レイクスダールダーかかると すると、-0グルデン七スタイフェル六ペニング価値が少なく、二二%以上の損失に なる。新しい小判が古い小判より重さが減っていないことも驚きである。(中略) 新 しい小判は、本国の値段によれば、古い小判より一八%以上価値が少ないということ がわかった。(中略)今年は、我々の商品の売上高は、注文された樟脳や銅銭や銅片

や他の小さなものは除いて、五隻の船で運ぶことのできない銅をとどめなければなら ないとしても、全て精錬された糊銅で買取り、新しい種類の小判は、少しもうけとら ないこと

と、 命じられている。

同年一六九七年八月一九日(I rI盾七月三日) tf\島尚館長は長崎奉行に宛ててパタビア総 督の書翰を提出する。先ほど の中山家の史料には「元禄十巳年七月三日 謹而せねらる言

上Jとして、ごの書翰の和解が残っている。それによれば

元ノ字也

一去年より日本一統新小判被 仰付1.1処、去年阿蘭|吃人持波小判之{義、古小判被為 仰

- 11 -

(6)

付被下様ニとかひたん泰願I/l.慮、 被為 聞召分、 阪之通古小判被為 仰付、 せねらる 難有泰存1.1御事

一省年ぷ者新小判持波申様ニと被為 1m付、 奉承知ω、 重而古小判之儀御願上1.1而茂、

御取上不被遊ω問、 不奉願ω様ニと被為 。fJ付ω旨、 去秋帰帆之かひたん申間せ奉畏 ω、然上御願申上川儀、 恐多奉存ω得共、 阿蘭|吃儀者日本奉頼、数年御蔭を以、 商責 仕 御儀御座川、 就 夫、 異 国筋方ミ古小判を商費 仕 来L1、 唯今新小判持渡商責仕1.1而 者、先ミ差問申御事ニ御座川問、 表御憐感之段、 御上被為聞召分可然様、 被為 仰付 被 下 ω ハ 人 重畳難有可奉存L1、 以上

右之通、 せ称らる方り奉頼I/l.ニ付 乍恐御訴詔申 上ω

古かひたん

遍んてれきていき満ん判 新かひたん

ひいとろてほ須 同 右せ称らる御訴詔申上L1越、 弐人之かひたん申聞II�通、 和ケ指上申しも、 以上

巳七月三日 目付弐人印

通詞八人間

とあり、ω) オランダ商館 では同年も前年に引続き慶長小判を輸出で‘きる ように再度求めてい

るが、 もとより日本側の取り合うところではなかった。

この結果、 出島オランダ商館は、 先のパタピアよりの副11令に従って、 同年の元禄小判の 受取を拒否する。 それは、 前述の同年六月五日付のパタビアでの決議によれば

新しい小判を、 これまで通りの高い値段で受け取らなければならないのならば、 そ れは会社の採算に合わないということを、 日本の政府に、 多く言わずとも理解させる ためV3)

に必要な措置であったが、 出島における 積み残し銅という新しい問題を生じた。

同年オランダ商館は積み残しを覚悟した銅の大量購入によって、 元禄小判の受け取りを 拒否する ことはできたものの、 小判の取引を全て銅に代える ことはできなかったのである 。 すなわち、 同年一一月二日付の出島オランダ商館の年次報告によれば

ここの倉庫には銅が四三七九箱蓄えられている 。 そこで、 残りの勘定は、 閣下の御 命令に従って、 銅には投資されなかった。 (中略)残った勘定は、 小判に計算する と、

通常の(出島に残しておく=引用者註)二四00枚の小判以外に、 四四八七枚すなわ ち-0万六七九Oグルテeンが、 ピーテル ・デ・ フォスのもとに置かれた

- 72 -

(7)

と あ り、同年オランダ商館は、 江戸参府などの支出のために例年出島にとどめ置かれる出 島残金以外に、 小判四四八七枚分の勘定を未取り引きのまま繰り越したのである。

同年の仕訳l販の一一月三日付の次期繰越勘定の中には、 売れ残りの輸入商品とともに、

小判六八八七枚が含まれており、 その小書きには

6,887 ps. Japanse goude coubangs soo tonvoedoeninge en affbetaling der

すなわち、

dagelijxe vallende ongelden, als degene die bij manquemene van meerder coper genoodsaake zijn geweest over te houden

六八八七枚の日本の小判、 日用の経費の支払いと、 より多くの銅の獲得の必要のた めのためとして

とある

?

時、 出島オラン商館では、 毎年取引の終了次期繰越高の中に滞在中

経費として、 二四00枚の小判を残しているとから

六八八七枚のう四四

枚は、 年次報告にもある通り、銅への未投資分として保留されているものである。 翌六九八(元禄一一) 年六月一七日付のパビアにおける決議録によれば

昨年のそこ(日本=引用者註)での取引の後、 今年、 銅や銅に投資するための新し い小判貨幣が残ったことを考えるならば、 約三万四000箱の銅を入手し、輸送する ようにω

と、未投資分の小学jの勘定を含めて、三四O万斤の銅の購入するよう命じている。オラン ダ商館の仕訳帳によれば、当時、オランダ船の銅の購入価絡は、-00斤当り一一八・五 匁以上であり

四O万銅を購入す

船に割り当てた銀三八00

貫目(定高三000貫目、 銅代物替八00貰目)を越える、 銀四O二九貫自分の取引が必 要であった。

また同年六月三O日付のバタビアより出島商館長宛の副11令によれば

今年取り引きされるべき勘定は、 一六九七年の取引から計算すると、 金一三ト ン 半 (約六万四二00両=引用者註)分以上となるだろう。 そのため、昨年、 銅の購入の ために、 勘定を新しい小判としてとどめた金約一ト ン (約四八00両=引用者註)分 と合わせて、 約一四トン半分を精錬された線銅に投資すること

?

とある。パタビアの言う金一三トン半(六万四二00両)の取引とは、 定高五万両分と銅 代物替八00貫目(一両六八百として約一万一七六五両)の合計を上回るものであったが、

現実には、前年元禄ーO年のオランダ商館の粉出高にしても一一二万二七三九グルデンで、

一両六八匁とすると、金約四万d七一七四両分にすぎなかった?)これらパタビアの取引高の 目算の線拠は不明であるが、 元禄一一年の取引において、 引き続き元禄小判の受取を拒否

し、可能な限りの銅を買付けようとしていたことは、 明らかといえよう。

- 73 -

(8)

しかし、 これに対して、同年元禄一一年、幕府はオランダ船に対する銅の給出量を、 二

(21) ....

五O万斤に制限し、 」れしょっと、 寸フンダ商館は同年の輸出高約四七万一五四六テール のうち、前年の積み残し銅を含めて、 約七 九%の約三七万四O一五テールの 銅しか輸出で

きず、やむをえず七五三七・ 五枚の元禄小判を受け取らざるを得なかったのである

)

( 1 )オランダ商館による小判の輸出は一六四O(寛永一八)年に初めて行われるが、 翌

年幕府により禁止され、 ナホッド氏によれば一六六三 (寛文三)年より、 山脇悌二 郎氏によれば一六六四(寛文四)年より再開されたという(オスカー・ ナホッド著

・富永牧太訳『十七世紀日開交渉史』 、 養徳社、一九五六年、二三八頁、 山脇悌二 郎「オランダ東インド会社と日本の金j ( W日本歴史』第三二一号、 一九七五年) )。

( 2 )山脇、註(1 )所掲論文。

(3) Batavias uitgaand briefboek, Ms.A.R.A., V.O.C.928, fo1. 742.

( 4 )シーボルト記念館所蔵中山文庫。

( 5 )同前。

( 6 )同前。

(7) Dagregister anno 1996/97, N.F.J.ll0, .

(8) Negotie Journaal anno 1995/96, Ms.A.R.A., N.F.J.880.

( 9 ) op. ci t ..

(10) Copie reso1uties van Gouverneur-Generaa1 en Raden, Ms.A.R.A., V.O.C.712,

fo1. 351.

(11) Batavias uit gaand briefboek, Ms.A.R.A., V.O.C.930, fo1.701.

( 12)註(4 )所掲史料。

(13) Copie resoluties van Gouverneur-Generaal en Raden, Ms.A.R.A., V.O.C.712,

fo1.351.

(14) Overgekomen brieven uit Japan, Ms.A.R.A., V.O.C.159Ô, fo1.42.

(15) Negotie Journaal anno 1996/97, トts.A.R.A., N.F.J.881.

( 16)オランダ商館の仕訳帳によれば、 この出島残し金は一六九二(元禄五)年より始ま っている(Negotie Journaal anno 1991/92, ト1s.A.R.A., N.F.J.876.)。

(17) Copie resoluties van Gouverneur-Generaal en Raden. MS.A.A.R.. V.O.C.713 fo1.309.

( 18)出島オランダ商館の仕訳I阪は、一六九八(元禄一一)年分から一七Oー(元禄一四) 年分までが現存しないためこの聞は不明であるが、 現存する仕訳i憾によれば、 オ ラ

ンダ商館への銅の輸出値段は、 一六九一(元禄四)年よりー00斤当たり一一八匁 五分となり、 その後一七O二(元禄一五)年より一二八匁四分となっている(

- 74 -

(9)

Neg otie Journalen anno 1690/91-1701/02,トts.A.R.A., N.F.J.875-882.)。 一方、

「長崎実記年代録Jによれば、一六九八(元禄一一)年のオランダ船の銅の輸出値段 はー00斤当たりーO九匁であった。

(19) Bat avias uitgaand briefboek , Ms.A.R.A., V.O.C.931, fol.480-481.

( 20)註(15 )所掲史料。

(21) r大日本近世史料 唐通事会所目録』二、東京大学出版会、一九五八年、二八九頁。

Overgekomen brieven uit Japan, ト1s.A.R.A., V.O.C.1609, fo1.66.

(22) Overgekomen brieven uit Japan, Ms.A.R.A., V.O.C.1609.

第二節 元禄九・-0年(一六九六・一六九七)の積み残し銅について

近世オランダ貿易における輸出商品であった銅は、寛永一四年(一六三七)から正保二 年(一六四五)の幕府による輸出禁止期間を経て輸出が再開された

?

そして寛文八年(一

六六八)にオランダ船に対して銀の輸出が禁止されてからは、 小判に次ぐ主要輸出品とな り、延宝元年(一六七三)には初めて小判を抜いて輸出高の第一位となり

)延宝八年(一 六八0)には二五O万斤に達し、輸出高の七七・ 三%を占めるに至った

2

)

元禄八(一六九五)年、幕府は江戸商人伏見屋四郎兵衛に対して金一五00両の運上と 交換に、銅を引き当てとして、 唐船六六六貰六七O自分・オランダ船三三三貫三三O自分 の銅代物替貿易を新たに認める

同年一六九五年一二月二六日付のオランダ商館長コルネ

リス・ ファン・アウトホールンの年次報告によれば

江戸の宮廷に材木を納めている俗福な商人伏見屋四郎兵衛が、陛下からの命令書に よって、-0万タエルを銅と交換する特許を獲得した(引

ことが記されているが、同一O(一六九七)年には伏見屋に代わって長崎の町年寄を代表 とする地下中に対して、麿船四二00貫自分・オランダ船八00貫自分の銅代物替が認め られた

?

同年一六九七年一一月二日付の商館長ヘンドリック・デイクマンの年次報告には 商人伏見屋四郎兵衛は、銅によって外国人と取引することを、皇帝によって禁止さ れ、代わって長崎の都市が、同線な方法で、五O万テール(五00貫目=引用者註) の品物を取引するごとを許可された

?

と報告されている。出島オランダ商館の仕訳l憾では、同年一六九七年一O月一五日条に、

この長崎地下による銅代物替貿易の取引が記載されてお

複雑な内容となっている。

しかし、 従来の出島オランダ商館の銅輸出についての研究では、オランダ側の史料に記 された銅の積雑な取引を、取引の性絡を十分 に検討しないまま集計し、輸出量が算出され ている

?

とりわけ、元禄八年の鍋代物替貿易と大量の銅輸出は、それ以降の取引において、

取引量と積み出し量との阻曲目を生じせめ、オランダ船の「輸出量Jについての再検討を迫

phd η,,

(10)

るものである。

また唐船を含めた長崎貿易における銅輸出についてのこれまでの研究においては、 長崎 における銅貿易は、 元禄期の経済発展による貿易鉱大への要求と元禄四(一六九一)年の 別子銅山の関坑 による国内銅産出量の増加lによってピークを迎えるものの、 元禄ー0年代 年に入ると、 園内における銅産出量の減少と銅需要の増大から、 長崎への廻銅量が減少し、

元禄一四年(一七O一)には大坂剣座が設置され、 輸出銅の集荷体制の強化が計られるこ とが指摘されている?)このごとは、 オランダ船を含めた銅貿易を日本側の視点から分析し、 それが主として日本側の事情によって、 その限界に達したとする見解である。

しかし、 出島オランダ商館による銅輸出の問題点は、 果してそのような日本側の事情か らのみ考察されるべきものであるとは思われない。 すなわち、 一方の当事者であるオラン ダ側の事情を検討するならば、 そこには新たな事実が明らかとなって来る。 それは、 オラ ンダ側に起因する銅貿易の限界が、 すでにこの元禄-0年の段階で見えてくるということ であり、 以下、 そのことを明らかとしたい。

表3-2は一六九六(元禄九)年と一六九七(元禄ー0)年の二年間の出島オランダ商 館の仕訳帳における銅の取引 を一覧したものである。

表3-2仕訳帳における銅取引(1696-1697年)

一一一

年 月日 ホ'ンド 箱 単価 価絡(テ哨) 言己載方法 種 類

1696 10,11 468,750 3,750 11 :8:5 44,437.5 積出し① 定高銅

10.12 468,750 3,750 11:8:5 44,437.5 積出し① 11 10.13 562,500 4,500 11:8:5 53,325 積出し① 11

10.15 351,625 2,813 積出し③ 元禄8年分代物替銅

210,875 1,687 11:8:5 19,990.95 積出し① 定高鍋

1696 10,16 527,4283/4 4,220 前英搬越 元禄9 年分代物替銅

1697 10.15 844,9371/2 6,759 11:8:5 商品交換 元禄10年分代物替銅

10.28 487,500 3,900 11:8:5 46,215 積出し① 定高鍋

10.29 562,500 4,500 11:8:5 53,325 積出しCD 11

10.30 375,000 3,000 11:8:5 35,550 積出し① 11 10.31 575,000 4,600 11:8:5 54,510 積出し① 11

11. 1 214,9283/4 1, 719 11:8:5 積出し③ f明融司

260,125 2,081 11:8:5 24,659.85 積出し① 定高銅

11. 3 610,0621/2 4,880 積出し③ 代物替銅

39,9371/2 319 11:8:5 3,786.075 積出し① 定高銅 註) Negotie Jounalen anno 1695/96,1696/97, N.F..J.880,881 により作成。

仕訳般においては、 鍋を含む輸出品の取引は、 すべて購入の取引は記載されず、 また個

々の商品勘定科目を設定することもなく、 船積みの時点で《輸出品積み出し勘定》として 現金勘定科目で一括処理して記載されることになっていた

これは、 出島オランダ商 館 に

- 76 -

(11)

おいては、銅は他の日 本からの輸出品と同僚に、 当年度購入・ 当年度積み出しが原則とな って いたことによる。その意味で、出島オランダ商館の「輸出Jとは、 商品の取引・引渡 しではなく、船積みの段階を指すものといえる。

ところが、 一六九六年・ 九七年の二年間の仕訳l阪におい ては、 銅の取引が表3-2のよ うに

①〔借方) Comptoir Generaa 1本店勘定

〔貸方) Cassa現金勘定

②〔借方) Japans Staafcoper尚品(剣) (貸方〕商品(諸口)

③〔借方) Comptoir Ge neraal 本店勘定 (貸方) Japans Staafcoper商品(銅) の三種類の方法で記載されている

?

)

①は、前述の《輸出品積み出し勘定》であり、 これは例年のごとく、当年度購入・ 当年 度積み出した銅であるが、 ②と③は、 それまでの仕訳版の原日IJを破る新た な取引の記載で ある。

すなわち、 ②は《商品(銅)交換勘定》である。通常、出島オランダ商館の輸入商品の

《輸入品販売勘定》は

〔借方) Cassa現金勘定

〔貸方〕商品

と借方の勘定科目に現金勘定が設定されているが

?

②の方法では借方に銅の勘定科目が設 定されている。す なわち、 ごの取引は、輸入商品の販売代金を銅で受け取ったものである とともに、輸入商品による輸出品(銅)の購入を意味し ている。 また、 同年の仕訳帳には、

この商品(銅)の勘定科目を立てた《輸出品積み出し勘定》が記載されていないことから、

この商品(銅)は同年には船積みされず、出島オランダ商館にとどめられたことになる。

また③は、商品勘定科目を立てた《輸出品積み出し勘定》であり、 ②の《商品(銅)交 換勘定》の商品(銅)の《商品(銅)積み出し勘定》をあらわしている。

例えば、一六九六(元禄九)年一O月一五日条に、 元禄八年の伏見屋の代物替銅三五万 一六二五ポンド(二八一三00斤)が銅の勘定科目を立てて、 ③の方法で記載されており、

元禄八年の伏見屋の代物替銅が、 翌年のーO月に積み出されたことを示している

これは

元禄八年の伏見屋の代物替銅が、 同年のオランダ船の出帆に間に合わず、 翌九年の一月に なって引き渡されたことによるものと思われるが、 この結果、 一六九六年には出島オラン ダ商館は、 合計二O六万二五00ポンド(一六五万斤)の銅を積み出すこととなった。

一六九六年六月二五日付のバタビアの東インド総督よりfH島商館長宛の訓令によれば 現在、要求されている一万.六五00箱以上の銅は、 我々は四隻の船には必要でなく、

また常識的にも、 それ 以 上積む ことはできない

結果貴下は、 前述(

円,,円,t

(12)

見屋が会社に対して負債があるという理由=引用者註)から、 一般の売り手のものよ りも、 前述の四郎兵衛の銅を選ばねばならない

?

として、 オランダ船の銅積み込み量を一六五万斤を限度とするとともに、 前年分の伏見屋 の銅を優先することを命じている。

これに対して、 日本側は同年八月一九日に商館長に対して、 年番通詞や町乙名らを通じ て、 長崎奉行の名で

毎年の三O万テール(定高三000貰自分)と五万テール(代物替五00貫自分) を銅で交換することが'自・廷商人伏見屋に許されたので、昨年交換された分と今年交換

される分を除いて、 会社は一七000箱の銅を購入することを許され、 それを船積み しても積み残してもよい

?

)

との条件を提示し、オランダ側が承諾しない場合には、 伏見屋の代物替銅は、 すべて唐船 に割り当てられるとした。 そこで、 オランダ側は、 パタビアからの副11令に基づいて、 両年 の代物替銅を含めて、 オランダ船に船積みできるだけの銅しか取引しないごとを求め、 積

み残し に消極的な姿勢を見せている

?

結局、 同年一O月一四日付の商館長コルネリス ・ ファン・アウトホールンの年次報告によ れば

伏見屋の前年分の二八一三箱の銅は積み出してよいこと。銅商人から は出来る限り 少なく買うこと。 今年の交検(代物替銅)は、 ここにとどめる

:

ということで合意している。

これによって、オランダ商館は、 同年元禄九年には、結果として、 銅を積み残すごとと なったのであり、 前述のごとく、 船積みできなかった同年の伏見屋の代物替銅は、 同年の 仕訳帳の輸出品積み出し勘定に記載されなかった。 このため、 元禄九年分の伏見屋の代物 替銅五二万七四二八・七五ポンド(四二万一九四三斤)は、 翌九七年の仕訳帳の前期繰越 高の中に記載された

?

一六九七年一一月二日付の商館長ヘンドリック・デイクマンの年次報告に は

(銅の積荷は=引用者註)全部で二万五000ピコル四三カティの量であり、 その 中には、昨年、 商館長アウトホールンによって伏見屋四郎兵衛から買われ、 こごに残 された代物替銅四二一九ヒGコル凶三カティが含まれている

2

0)

とあり、 この 四二万一九四三斤は、 元禄九年に購入されたものの、 翌一O年まで積み残さ れていたものである。

このように、 一六九六(元禄九)年の取引にあたっては、 オランダ商館は、パタピアよ りの命令に従って、 オランダ船に船積みできる限界と考えられた一六五万斤以上の銅は購 入しないという方針であったが、 日本側との妥協によって、 同年分の代物替銅を積み残す こととなった。

翌一ー六九'七 (元禄ー0)年七月二日 付のパタビアよりtH島商館長宛の計"令によって、 オ

一78 -

(13)

ランダ商館は、 同年の取引において、 元禄小判の受け取りを矩否するために、 「五隻の船 で 運ぶことので き ない銅をとどめなければならないとしても、 全て精錬された銅で買取J

ることを命じられた21)これによって、前年、日本側から認められた積み残し銅は、パタピ アによっても公認されることとなったのである。前年元禄九年分の積み残し銅(代物替銅) が、同年の仕訳帳には記載されず、 塑-0年になって記される理由も、 このバタピアの許 可にあるのかもしれない。

さて、 一六九七年一二月一七日付の商館長ヘンドリック・ デイクマンの特別年次報告に よれば、|司年は二五一万六000斤の銅しか取引きれなかったということであり

2)このこ

とは、 改めて同年の仕訳l憾の銅の取引のうち、 通常の輸出品積み出し勘定として処理され た銅のみを、 同年になって購され船積みされたものとして抽 出 する必要を示している。

一六九七年の仕訳l憾におげる銅の取引は、 表3-2のごとく、同年一O月一五日の長崎 地下の代物替銅八四万四九三七・五ポンド(六七万五九五O斤)から一一月三日の三万九 九三七・五ポンド(三万一九五O斤)にいたる九件、合計三九六万九九九一・二五ポンド (三一七万五九九三斤)となっているがωいうまでもなく、これらの取引は①②③の方法 で記載されており、 これの銅が全て同年に船積みされたわけではない。

同年の仕訳I憾の銅の取引勘定のうち 、 現実に同年取り引きされた銅は、 ①の方法で記載 されたーO月二八日から一一月三Hまで六度にわたって引き渡された定高分一八四万00 五O斤と、②の方法で記載されたーO月一五日に引き渡された同年分の代物替分六七万五

九五O斤の合計二五一万六000斤となり、 特別報告の数字と一致する。

一方、 同年に積み出された銅は、 同年一O月二八日から一一月三日まで六回にわたって

①の取引方法で記載された定高銅一八四万00五O斤と、 一一月一日・三日の二度にわた って③の方法で記載された代物替(交換されたingeruyte)銅六五万九九九三斤の合計二

G必 守

五O00四三斤となる。但し の代物替銅六万九九九三斤の中に、 前期繰越高に 記載された元禄九年分の伏見屋の代物替銅四二万一九四三斤が、 すべて含まれており、 元 禄ーO年の長崎地下の代物替銅六七万五九五O斤は、 六五万九九九三斤のうちの二三万八 OO斤しか船積みされなかったことがわかる。

この結果、 同年には新たに四三万七九00斤が積み残されたのである。

しかしながら、 出島における銅の積み残しについて、 バタピアと幕府の双方の了解を取 り付けていたオランダ商館にとっては、 このような大量の積み残し銅 も問題ではなかった。

むしろ、 彼らにとっては品質の劣る元禄小学jの受け取りを拒否するために、 より多くの銅 を 確保 す ることこが重要でったのである。

しかし一万六000斤の銅を取り引きし、四七九00斤の銅を積み残すとい う 同 年の大 量の銅の取り 引 きも、オランダ側の満足するものではなかった。

同 年 オランダ商館は、 元禄小判の受け取 りを拒 否するた、 小 判の取引分を全て銅で買 い 取 る ことを望 んでいたのである。表 3 -2に見られるごとく、同年一六九七年にはO

- 79 -

(14)

月二八日から一一月三日にかけて六凶にわたって、 剣がオランダ船に船積みされているが

?

四回目の船積みが終わったーO片三一日になってオランダ商館は、銅の引渡しに当たって いた剣商人たちから、もはや銅がないことを知らされたヂオランダ側 は、早速、通詞・通 詞目付を呼んで・問いただした結果

京・大坂から、これ以上の剣は米なかったので、今回の我々の要求を満たすごとは できない。中国人たちも同様に、到底彼らに認められた畢を受け取ることはできない だろうヂ

ということを知った。オランダ側では、充分な量の銅の供給を権利として強く主張したが、

通詞と銅商人らは、 「もはや剣を持っていないが、可能な限り最善を尽くす」ことを繰り 返すばかりであった2お国内における産銅量が急速に悪化するのは、翌元禄一一年(一六九 八)以降のことで‘ありその元禄ーO年の銅の払底は、オランダ船による大量の銅の購入によ

るものと考えられる。

しかしながら、このオランダ船に対する銅不足は、別の所に主な原因があったのである。

同年一六九七年一一月-0目、オランダ商館長は、通詞目付本木良意に対して、残りの 銅が会社に引き渡されない理由と、本当に剣が不足しているのかを尋ねた。これに対して、

本木は

銅は全く不足していない。 それはまだ豊富にある。 すなわち、 その不足の理由は、

最近、 大坂や京の鍋屋(de Kooper coopluyden)が、 特権を与えられた鍋の売り手た ち(de gepreviliseerde koper leveransiers )に銅を渡すのに、オランダ人が取引 することを契約したのと、ほとんど同じ値段を請求したためである?)

と答ている。同 年一一月日 付のオラ ンダ商館 長の年次報告によ

銅の売り手たち(de cooper leveranciers)との交渉に関しては、今年の銅は、彼 らの持っている特許状に妨げられた。すなわち、彼らは、皇帝に三000枚の小判を 払わなければならないので、彼ら以外には、誰も外国人に銅を売って はならない?

とあり、オランダ船に対する銅の販売の独占を巡って、銅商人内部の対立が存在したこと をうかがわせる。

翌一六九八(元禄一一)年、オランダは七隻のオランダ船を送り、前年積み残した銅四 三万七九00斤と同年取引された銅二五O万斤の合わせて二九三万七九00万斤を積み出 すことによって、積み残された銅を解消することができた?)

このように元禄八年(一六九五)の銅代物替貿易制度の創設によって、 出島オランダ商 館の銅輸出量は大幅に増加し、元禄ーO年(一六九七)の元禄小判の受け取り拒否によっ て、オランダ船の輸送能力の限界を越えることとなったのであるが、そのオランダ船の輸 送能力については、 改めて検討することとする。

- 80ー

(15)

( 1 )オスカー・ ナホッド、 前掲書、 一七二、 二一一員。

( 2 )同前、 四五四一四五六員。

( 3 ) Overgekomen brieven van Japan, 円s. A. R . A. , V . 0 . C. 1 362 , on g e f 01. .

( 4) r大日本近世史料 唐通事会所目録』二、 東京大学出版会、 一九五八年、 一六二頁。

( 5 ) Overgekomen brieven ui t Japan, ト1s.A.R.A., V.O.C.15BO , fo1.4.

( 6) r長崎実記年代録J (九州大学文学部文化史研究胞設所蔵) 0 Overgekomen

brieven uit Indie, Ms.A.R.A., V.O.C.1596, fo1.13. なお『唐通事会所目録』で は、 同年の麿船に対する代物替銅は春船一三五O貰目、 夏船八00貫目、秋船一0 五O貫目の合計三二00貫目であったとする( W庖通事会所目録』二、 二一一頁)。

太田勝也「長崎貿易の利銀収公政策に関する一考察-銅代物替貿易を中心に-J (森克己博士古希記念会編『史学論集対外関係と政治文化』第一 対外関係編、 吉 川弘文館、 一九七三年)、 同『鎖国時代長崎貿易史の研究』、 思文閣出版、 一九九 二年、 三六O一三六三頁。

(7) Overgekomen brieven uit Indje, 円s.A.R.A., V.O.C.1596 , fo1.13.

( 8 ) Negotie Journaal anno 1996/97, ト1s . A . R . A., N. F . J . BB 1.

( 9 )鈴木康子 「近世銅貿易の数量的考察J ( �中央大学大学院研究年報』一五一四、 ー

九八六年)。

( 10)永積洋子「大坂銅佳J (地方史研究協議会編『日本産業史大系』六、 東京大学出版 会、 一九六O年)、 同「第一次剣座と住友J (住友修史室編『泉屋叢考』第拾八輯、

一九八O年)。

( 11 )行武和博「出島オランダ尚館の会計帳簿J ( �社会経消史学』五七一六、 一九九二

年) 。

(12) Negotie Journaal anno 1995/96-]996/97, トIs. A. R. A., N. F. J . BBO-BB 1.

( 13 )註(11 )所掲論文。

(14) Negotie Journaal anno 1995/96, 円s.A.R.A., N.F.J.BBO.

(15) Batavias uitgaand briefboek, Ms.A.R.A., V.0.C.92B, fO].741. 従来の研究にお いては、 この一万六五00箱は既に受け取った銅とされてきたが(永積洋子「柳沢 吉保と伏見屋の代物替銅J ( W 日本歴史』四三四号、 一九八四年) )、 原文のrg' eystJからして、 いまだ受け取らず「要求されたJ銅であろう。

(16) Dagregister anno 1995/96, トIs.A.R.A., N.F.J.109, f01.321-322.

(17) Overgekomen brieven uit Japan, Ms.A.R.A., V.O.C.15BO, fO].55.

( 18) op. c i t.

( 19) Negotie Journaa 1 anno 1996/97, トIs.A. R. A., N. F. .J. BB 1.

(20) Overgekomen brieven uit Japan, Ms.A.R.A., V.O.C.1596 , fo1.41.

(21) Batavias uitgaand briefboek, Ms.A.R.A., V.O.C.930, f01. 701.

- B1 -

(16)

(22) Overgekomen brieven uit Japan, Ms.A.R.A., V.O.C.1596 fo1.48.

(23) Negotie Journaa1 anno 1996/97, Ms.A.R.A., N.F.J.881.

( 24) op. c i 1.

( 25) op. c i 1. .

(26) Dagregjster anno 1996/97, Ms.A.R.A., N.F.J.l10, fol.380.

(27) op.ci1..

(28) Dagregister anno 1996/97, Ms.A.R.A., N.�.j.ll0, fO].381.

( 29 )菊池義美「近世銅貿易の変遷J( W中央大学文学部紀要』史学科第一一号、一九六

六年)、同「正徳新令と長崎貿易の変質J (中国易直編『近世対外関係史論』 、 有 信堂、 一九七七年)、 太間勝也、註( 6 )所掲論文。

(30) Dagregister anno 1997/98 , MS.A. R.A., N.F.J.l11, fol.19.

(31) Overgekomen brieven uit Japan, ト1s.A.R.A., V.O.C.1596 , fo1.36.

(32) Overgekomen brieven uit Japan, トfs.A.ILA., V.O.C.1609.

第三節 銅代物替貿易とオランダ貿易 ( )代物替鍋の輸 出 量にいて

前節で述べた ごとく、元禄八年(一六九五)幕府は江戸の商人伏見屋四郎兵衛に対して、

運上金一五00両と引き換えに、銀高ー000貰自の銅代物替を認めた。ごれは唐船・オω

ランダ船との定高の枠外に設定されたものであり、『麿通事会所 目録』によれば

今度被仰付候代物替銀高千貰目之内、 三百三拾三賞三百三拾目ハおらんた方ヘ御ヲ

f �

とあるように、 オランダ船には三三三賞三三O目が割り当てられた。

翌元禄九年(一六九六)には、伏見屋に対して一万両の運上金と引き換えに、銀高五0 00貫目の銅代物替が認められ、 「長崎実記年代録Jによれば、オランダ船には五00貫 目が割り当てられたという(:)ごれについて、同年一六九六年一O月一四日付のオランダ商 館長の年次報告によれば、 同年八月一九日にオランダ商館は長崎奉行より

前述の商人(伏見屋=引用者註)は、昨年と同様、今年も再び五万テールの銅を、

会社の反物と荒物と交換してよい?

という命令を知らされており、 同年のオランダ船に対する銅代物替は、 やはり五00貫目 であったと思われる。

翌元禄ーO年(一六九七)には伏見屋に代わって、町年寄高木作右衛門を代表とする長 崎地下中に合計五000貫目の鍋代物替が認められ、 「長崎実記年代録Jによれば、オラ ンダ船に対しては八00貫目が制り当てられた守同年一六九七年一一月二日付のオランダ

- 82 -

(17)

商館長の年次報告によれば

商人伏見屋四郎兵衛は、外国人と銅で取り引きすることを禁じられた。しかし、同 様な方法で、五O万テールの勘定を取引することが、長崎の都市に恵まれた

)

と報じられている。

同年から翌一一年にかけては長崎会所が創設された年であり(

?

町年寄をはじめとする長 崎地下に対する鍋代物替の許可も、 ごの長崎会所の創設と深くかかわっていた。 w唐通事 会所目録』によれば、

但唐人・おらんた代物替銀高五千貫目、此増銀凡四局五千両程、此内壱万両地下中 f'2被下置、 相残ル分御公儀I乞被召上之由ニ候(8)

とあるように、 同年の銅代物替の条件として、銅代物替の利銀の うち一万両を長崎に残し、

残りの三万五000両を幕府が収公するというものであり、これは元禄一二年よりの長崎 会所の貿易利銀運上につながるものであった。

さて、オランダ船の銅代物替貿易は、その後正徳五年(一七一五)の正徳新例の制定ま で続くが、 その実態についてはいまだ不明の部分が多い。とりわけこの間のオランダ船に よる毎年の代物替銅の鞘出量については、わずかに日本側史料である「長崎実記年代録」

に記されるのみである

?

麿船を含めた銅代物替貿易全般については、これまで国内史料に基づく太田勝也氏らの 研究があるが

P

ここではオランダ貿易における銅代物替貿易について、新たにオランダ側 史料を用いながら、日本側の「長崎実記年代録Jと比較しつつ、その実態 とオランダ貿易 におけるその意味を明らかにしていきたい。

表3-3に見られるように、日i島オランダ商館の仕訳I憾に記載された同商館の輸出銅の 取り引き量と「長崎実記年代録Jのオランダ船の鍋輸出量を比較すると、 両者はやや異な るものの、かなり近いものであることがわかる。また、 両者の違い数字の大きく異なる元 禄八年から同一O年までは、イ上訳l阪の}Jは、 代物替剣の遅れなどによる混乱を含めて、 現 実の取り引きを記しているのに対して、 「長崎実記年代録Jの方は、 元禄八(一六九五) 年から正徳五(一七一五)年までのオランダ船の毎年の定高銅と代物替銅の輸出量が、 正 確にその年に記載される形式的なものとなっていることがわかる。

前節で述べた通り、 仕訳帳における輸出銅の記載は、 他の輸出品とともに船積みをもっ て記載されており、原則として、 それが定高取引の銅であったのか、代物替取引の銅であ ったのかは問題とはならず、記載されていないのである。但し、仕訳l阪には、銅代物替貿 易が創設された一六九五(元禄八)年から三年間と、 一七O二(同一五) ・一七O三(同 一六)年の二年間に限つての代物替銅の 取引が記載されている

そこで、出島オランダ商

館の仕訳I憾の銅輸出量を「長崎実記年代録」と比較分析することによって、一六九五(元 禄八)年から一七一五(正徳五)年にいたる仕訳版の銅輸出量を、定高銅と代物替鍋に区 分してみることとする。

- 8:1 -

(18)

表3-3 出島オランタ滴館調司取引量(元禄8年~正徳、5年)

年 仕訳l阪 局崎鶏己年代録

1695(元禄8) 1, 700,000 2,008,638.8凶 1696(同 9) 1,650,000 1,832,962.962 1697(同10) 2,937,943 2,500,000.413 1698(同11) 2,500,000 2,500,000 1699(同12) 2,250,000 2,500,000.00015 1700(同13) 1, 246, 900 1701(同14) 1,658,600 1,658,700 1702(同15) 1,544,300 1,544,500 1703(同16) 1,629,952.92 1,630,059.9997 1704(宝永元) 1,829,421. 625 1,829,421.6262 1705(同2) 1,830,000 1,830,000 1706(同 3) 1,500,000 1,500,000 1707(同 4) 1, 500,000 1,500,000 1708(同5) 827,200 827,166 1709(同 6) 1,500,000 1, 499,999.999 1710(同 7) 1,500,000 1,499,999.999 1711(正徳元) 1,000,000 999,999.998 1712(同2) 746,900 746,899.999

1713(同 3) 999,999.99405

1714(同 4) 1, 050,000 1,050,000.75842 1715(同 5) 1,150,000 1,150,000.755

註) Negotie Journalen anno 1694/95-1714/15(N.F.J.

879-894)、 「崩i枝記削減Jによる。単位は斤。

1斤= 125ポンド(1698年以前) = 120ポンド( 1698 年以後)。

先ず、前節でも取り上げた、 元禄八・ 九・ -0年の代物替銅について見てみよう。

表3-2にも見られるように、 一六九六年(元禄九年 )の仕訳帳の同年一O月一五日条 には、

〔借方) Comptoir Generaal本店勘定

〔貸方) Cassa現金勘定

という通常の輸出品積み出し勘定の他に、 わざわざ貸方に銅の商品勘定科目が設定された 取引が見られ、

fijn geraffineerd Japans staafkoper f.12 1,590:12:__ over 351,625� do. schs. bestaande in 2813 kistjes, dewelke in de ledige tijd van den hof coopman Foesimia Sirobe ingeruijld sijn,

すなわち

良質の精錬された日本銅一二万一五九Oグルデン一二スタイフェルであり三五万一 六二五ポンド、 二八一三箱入り、 これは昨年宮廷商人である伏見屋四郎兵衛と交換さ れたものである。

- 84 -

(19)

と、前年元禄八年分の代物替銅の給出品積み出し勘定が記載されている

?

また翌一六九七(元禄ー0)年の仕訳l阪の前期繰越高には、 貸方の諸口の中に、銅五二

万七四二八ポンド四分の三(四二二O箱)すなわち一八万二三八五グルテ・ン一八スタイフ ェル八ペニンク'の元禄九年分の代物替銅の期首棚卸勘定が記載されている

?

)

同年一六九七年の仕訳帳の同年一O月一五日粂には、新たに

〔借方) Japans 8taafcoper銅

〔貸方〕 商品(諸口 )

として、貸方に反物等の輸入商品が記載された取引勘定が見られ、 そ の小書きには 844,9371/2 � dos. in 6,759 nieuwe hout kisjens ijder inhoudende een picol

off 125� en 1 van 621/2 a T.ll.B.5 spe. mitsgaders nog 5 maas pr. kisje voor de ongelden, de welke op diverse datums van de inwoonders der stad Nangasackij (wien sijn keijser-

すなわち

lijke maijestijd vergundt heefft T.BO,OOO met de Comp. in coopmansz. te trocquceren) sijn ontvangen.

八四万四九三七ポンド半で六七五九の新しい木箱入り、 それぞれには一ピコルすな わち一 二五ポンドが入っていて、 一箱は六二ポンド半入っている。一ピコル当り一一 テール八マース五コンデリン、 また一箱当り五マースの経費である。 ごれは何日かに わたって長崎の都市の住民(彼らは皇帝陛下から会社の商品を八万テール交換するこ とを許された)から受け取ったものである

とあり、 同年には代物替が長崎の地下に認められたことが記されている。

これらの仕訳帳に記載された三年間の代物替銅の取引量と取引高(諸経費を除く)を、

「長崎実記年代録Jのそれと比較すると(表3 - 4)、 取引量では異なるものの、 取り引 き高ではほとんど一致することがわかる(表3 - 5)。さらに、 定高鍋の取引量と取引高 (諸経費を除く)を、 「長崎実記年代録Jのそれと比較すると、取引高では異なるものの

取引量でほぼ一致していることがわかる。

次に、 一七O二(元禄一五年)の仕訳l販の同年一一月六・七日条の輸出品積み出し勘定 には、貸方に鍋の商品勘定科目が設定されて、 それぞれ

(一一月六日条〉

600,000� do.in 5,000 kisjes van de ingeruijlde partije, op de Hollandse schaal gewogen in presentie van Constantin Comans kosten volgens de boeken met haar ongelden

(一一月七日粂〉

147,6631/2� dO.in 1,231 kisjes van de ingeruijlde partijen, op de Hollandse schaal gewogen in 't bijzijn van Opperchurgijn Pieter Kestelood

- 85 -

(20)

表3-4 r昆崎実記年代録Jによる出島オランダ尚館広精出 定高鍋・代物替銅(元禄8年~正徳5年) 年 定高鍋(斤) れ湖替銅(斤) 1695(元禄8) 1,700,000 308,638.脱却B 1696(同 9) 1,370,000 462,962.962 1697(同10) 1,766,055.459 733,944.954 1698(同11) 1,795,154.186 704,845.814 1699(同12) 1,798,245.614035 701,754.3858 1700(同13) 574,065.6855 672,834.3145 1701(同14) 985,865.6855 672,834.3145 1702(同 15) 873,921. 6262 670,578.3738 1703(同 16) 959,481.6262 670,578.3735 1704(宝永元) 1, 829,421. 6262 1705(同 2) 1,430,504.6258 399,495.3742 1706(同 3) 1,500,000 1707(同 4) 827,165.685 672,834.3145

1708(同 5) 827,166

1709(同 6) 8l7,165.685 672,834.314 1710(同 7) 827,165.685 672,834.314 1711(正徳元) 831,791.42 168,208.578 1712(同 2) 696,648.743 50,251. 256

1713(同 3) 918,300.653 81,699.346405 1714(同 4) 928,444.8427 121,555.91572 1715(同 5) 1,028.444.84 121,555.915

註) r長崎努己年悩柔J (九州大学文学部文化史砂院胞設所蔵)

表3-5 出島オランダ商館の銅取引

定 高銅 代 物替銅 年 史料

斤 数 銀高(匁) 斤 数 銀高(匁) 1 695 (A) 1, 700, 000 1,836,000 308,638.民泊 333,329.9 (元禄8) (B) 1,700,000 2,014,500 281, 3 00 333,340.5 1 69 6 (A) 1,370,000 1,479,600 462,962.962 499,999.99 (同 9) (B) 1,368,700 1,621,909.5 421,943 500,002.46 1 697 (A) 1,766,055.46 1, 925, 000.45 733,944.954 799,999.99 (同10) (B) 1,840,050 2,180,459.25 675,950 801,000.75 註) (A) r開暗実記年{ぴまJ (九州大学文学部文化史研究雌支所蔵)による。

(B) Negotie Journalen anno 1694/95-1696/97, N.F.J.879-881による。

但し、 (B)の銀高は諸経費を除く。

- 86 -

(21)

kostende volgens de boeken

すなわち

〈一一月六日粂〉

六O万ポンドで五000箱入りの交倹された分、 コンスタンティン ・ コーマンス の 立会いのもと、 オランダの秤で計られたもの

〈一一月七日条〉

一四万七六六三ポンド半で一二三一箱入りの交換された分、 上級外科医ピーテル・

ケステロードの立会いのもと、 オランダの秤で計られたもの

と、代物替銅の積み出しが記されており、 同年の代物替銅合計七四万七六六三・五ポンド 出し

され

いる

?

また一七O三年(元禄一六年)の仕訳帳には、 先ず同年九月三O日条に、 の-0月二七 日・三O日粂には

〔借方) Japans Staafcoper銅

〔貸方〕商品(諸口)

として、 貸方に合計八万三一一五・四八五一四タエルすなわち二九万O九O四グルデン四 スタイプェルの反物等の輸入商品が記載された取引勘定が見られ、 その小書きには

747,6631/2 {6 schaars, besloten in 6,231 kisjes ider inhoudende 120 {6

すなわち

exepto meer dan 631/2 \6 schaars in heeft, costende 't picol off de 120 {6 T.12.8.4 mitsgaders nog 5 ms. pr. ider kisje voor d ongelden, zijnde op verschijde datums van de Nagasackise in-

woonders, die van den keijzer gepermitterd zijn om 80,000 thailen met d'E Comp. in coopmansz. te trocqueeren, ontfangen nadat aan haar bevoorens verkoops prijs de volgende goederen zijn te hand gesteld,

七四万六六三ポンド半で六二三一箱入り、 六三ポンド半のー箱を除けば、 それぞれ には一二0ポンドが入っている。 一ピコルもしくは一二0ポンド当り一二テール八マ ース四コンデリン、 また一箱当り五マースの経費である。 ごれは何日かにわたって長 崎の住民から受け取ったものであり、 彼らは皇帝陛下から会社の商品と八万タエル分 交換することを許されている。彼らに、 以前の販売価絡で、 以下の商品を渡した。

とあり?

?

同年の銅代物替の取引が、 商品交換勘定で記載されている。

また同年一O月二七日・ 三O日粂の輸出品積み111し勘定には、 貸方に銅の商品勘定科目 が設定された銅の積み出しが記されており、

(�O月二七日粂〉

159,6631/2{i; 1,331 kisjes van 120{i; jder exepto een, dat niet meer als 63

- 87 -

(22)

1/2� schaars weegen, zijnde van d' jngeruijlde parthij, door de Japanders op de Hollandse schaal gewogen, volgens de 4

nevensgaande monster kisjes, in 't bijwesen van den adst.

Joannes Caseralias en den pl. do. Francois Roos, costen volgens d'boeken mel d'ongelden

(-0月三O日粂〉

588,000� 4,900 kisjes, jder inhoudende 1 pl. off 120� zijnde van d'

すなわち

ingeruijlde partij en door de Japanders gewogen op d' Holl. schaalen

, volgens de voor vier hiernevensgaande monster kisjes, in 't bijwesen van den boekhouder Constantijn Comans en den pl. adst.

Nicolaas Chol, kosten volgens de boeken met haar ongelden

〈ーO月二七日粂〉

一五万九六六三ポンド半で、 六三ポンド半に足りない一箱を除けば、 それぞれには 一二0ポンドが入っている交換された分。見本の四箱とともに、 ヨアネス ・ カセラリ アスと同じくフランソワ ・ ロースの立会いの もと、 日本人によってオランダの秤で計 られたもの

(-0月三O日条〉

五八万八000ポンドで四九00箱入りのそれぞれには一ピコルすなわち一二0ポ ンドが入っている交換された分。見本の四箱にしたがって、 書記役コンスタンティン

・ コーマンスとニコラス ・ コールの立会いのもと、 日本人によってオランダの秤で計 られたもの

として、同年の代物替銅合計七四万七六六三・五ポンドの積み出しが記載されている

?

そこで、 先ほと'の元禄八・ 九・ ーO年の三年間と同様に、 この二年間の 仕訳帳と「長崎 実記年代録Jの定高銅と代物替銅の取引量と取引高(同様に仕訳i憾の取引高は諸経費を除 く)とを比較したものが表 である。 ごこでは、 定高銅は取引量・取引高ともに異なって いるものの、代物替銅の取引高は「長崎実記年代録」とほとんど一致していることがわか る(表3-6)。

これらのことから、仕訳般の定高銅と代物替銅の区分がされていない他の年次の仕訳l憾 についても、 「長崎実記年代録」の代物替主I�の取引高と1t訳I恨の銅の単価とをもとにして、

仕訳帳の取引銅のうちから、代物替制の取引量と取引高を算出し、さらに定高鍋の取引高 と取引量とを推定したものが表3- 7である。

(二)元禄一一年(-'六九八)の銅輸出書Ij当量について

- 88 -

(23)

表3-6 出島オランダ商館の銅取引

定 I高 剣 代 物 替 銅

年 史料 一一一--,.

斤 数 銀高(匁) 斤 数 銀高(匁)

1702 (A) 873,921.6262 1,042,588.5 670,578.3738 799,999.99

I

(元保15) (B) 921,247.08 1, 182,881. 25 623,052.9166 799,999.94

I

1703 (A) 959,481.6262 1, 144, 661.58 670,578.3735 799,999.99 (同16) (B) 1,006,900 1, 292, 859.6 623,052.9166 799,999.94

一一

註) (A) r局崎実記年代録J (九州大学文学部文化史研'錨蹴所蔵)による。

( B ) Negot ie Journa len anno ] 70 1/02,1702/03, N. F. J. 882,883による。

但し、 (B)の銀高は諸経費を除く。

表3-7 仕訳l憾による出島オランダ商館の取引定高銅. tt物替銅(元禄8年~正徳5年)

定 高剣

|

代 物替 銅

1---,-一一一一一一一

斤 数 銀 高

1695(元禄8) 1696(同 9) 1697(同10) 1698(同11) 1699(同12) 1700(同13) 1701(同14) 1702(同15) 1703(同16) 1704(宝永元) 1705(同 2) 1706(同 3) 1707(同 4) 1708(同 5) 1709(同 6) 1710(同 7) 1711(正徳元) 1712(同 2) 1714(同 4) 1715(同 5)

1, 700,000.0。

1, 368, 700.00 1,840,050.0。

1,849,593.50

1,033,600.00 921, 247.08 1, 006,900. ()。

1, 829,421. 62 1,458,906.25 1,500,000.00 875,000.00 827,200.00 875,000.00 875,000.00 843,750.0。

700,207.40 936,792.46 1,036,792.46

2,D14,500.no 1,621,909.50 2,180,459.25 2,152,000.00

nHU「円UAHHpnunHunHunHunHunHunHunHMハuu,』A・tanuりLQuqJnunununununununununu

- - - - - - - - -

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唱iti--叫42i唱i'I唱11Ati'inO唱121

斤 数 銀 高

281,300.00 421,943.00 675,950.00 650,406.50

625,000.00 623,052.92 623,052.92

0 371, 093.75

0 625,000.00

0 625,000.00 625,000.00 156,250.00 46,692.00 11:1 207.54 113,207.54

333,340.50 500,002.46 801,000.75 800,000.00 800,000.00 800,000.00 800,000.00 799,999.94 799,999.94

0 475,000.00

0 800,000.00

0 800,000.00 800,000.00 200,000.00 60,000.00 150,000.00 150,000.0。

註)Negotie Journalen叩no 1694/95-1714/15(N.F.J.879-894)、 「島崎実記年代録」に よる。銀高の単位は匁。 1斤=125ポンド(1697年以前) = 120ポンド(1698年以後)。

但し、銀高は諸経費を除く。

- 8B

参照

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