︿研究へのいざない﹀
梶 川 信 行 鈴 木 雅 裕 教室 で 読 む 古事記神話 ︵ 九 ︶ ︱︱ 宇気布時 から 如此詔別 まで ︱︱
宇気布時
故
かれ、 爾
しかく し て、 各
おのもおのも天
あめの 安
やすの 河
かはを 中
なかに 置
おき て、 う け ふ 時
ときに、 天
あま照
てらす大
おほみかみ御 神 、 先
まづ 建
たけ速
はや湏
す佐
さ之
の男
をの命
みことの 佩
はける 十
と拳
つかの 剣
つるぎを 乞
こひ 度
わたして、 三
み段
きだに 打
うち 折
をりて、ぬなとももゆらに 〈 此
この八字は 音
おんを 以
もちゐよ。 下
しも、 此
これに 效
ならへ〉 天
あめの 真
ま名
な井
ゐに 振
ふり 滌
すすきて、さがみにかみて 〈 佐より 下
しもの 六 字 は 音
おんを 以
もちゐ よ。 下
しも、 此
これに 效
ならへ 〉 、 吹
ふき 棄
うつ る 気
い吹
ふきの 狭
さ霧
ぎりに 成
なれ る 神
かみの 御
み名
なは、 多
た紀
き理
り毗
び売
めの命
みこと〈 此
この 神
かみの 名
なは 音
おんを 以
もちゐよ〉 。 亦
またの 御
みな名 は、 奥
おき津
つ嶋
しま比
ひ売
めの命
みことと 謂
いふ。 次
つぎに、 市
いち寸
き嶋
しま上比
ひ売
めの命
みこと。 亦
またの 御
みな名 は、 狭
さ依
より毗
び売
めの命
みことと 謂
いふ。 次
つぎに、 多
た岐
き都
つ比
ひ売
めの命
みこと〈 三
みはしら柱 。 此
この 神
かみの 名
なは 音
おんを 以
もちゐ よ 〉 。 速
はや湏
す佐
さの男
をの命
みこと、 天
あま照
てらす大
おほみかみ御 神 の 左
ひだりの 御
みみ づ ら に 纏
まけ る 八
や尺
さかの 勾
まが璁
たまの 五
いほつ百 津 の 美
みすまる湏 麻 流 の 珠
たまを 乞
こひ 度
わたし て、 ぬ な と も も ゆ ら に 天
あめの 真
ま名
な井
ゐに 振
ふり 滌
すすき て、 さ が み に か み て、 吹
ふき 棄
うつ る 気
い吹
ふきの 狭
さ霧
ぎりに 成
なれ る 神
かみの 御
み名
なは、 正
まさ勝
かつ吾
あ勝
かつ々
かち速
はや日
ひ天
あめ之
の忍
おし穂
ほ耳
みみの命
みこと。
亦
また、 右
みぎの 御
みみ づ ら に 纏
まけ る 珠
たまを 乞
こひ 度
わたし て、 さ が み に か み て、 吹
ふき 棄
うつ る 気
い吹
ふきの 狭
さ霧
ぎりに 成
なれる 神
かみの 御
み名
なは、 天
あめ之
の菩
ほ卑
ひ能
の命
みこと〈菩より 下
しもの三字は 音
おんを 以
もちゐよ〉 。 亦
また、 御
み縵
かづらに 纏
まける 珠
たまを 乞
こひ 度
わたし て、 さ が み に か み て、 吹
ふき 棄
うつ る 気
い吹
ふきの 狭
さ霧
ぎりに 成
なれ る 神
かみの 御
み名
なは、 天
あま津
つ日
ひ子
こ根
ねの命
みこと。 又
また、 左
ひだりの 御
み手
てに 纏
まける 珠
たまを 乞
こひ 度
わたして、さがみにかみて、 吹
ふき 棄
うつる 気
い吹
ふきの 狭
さ霧
ぎりに 成
なれ る 神
かみの 御
み名
なは、 活
いく津
つ日
ひ子
こ根
ねの命
みこと。 亦
また、 右
みぎの 御
み手
てに 纏
まけ る 珠
たまを 乞
こひ 度
わたし て、 さ が み に か み て、 吹
ふき 棄
うつ る 気
い吹
ふきの 狭
さ霧
ぎりに 成
なれ る 神
かみの 御
み名
なは、 熊
くま野
の久
く湏
す毗
びの命
みこと〈 久 よ り 下
しもの 三字は 音
おんを 以
もちゐよ〉 。 并
あはせて 五
いつ柱
はしらぞ。 是
ここに、 天
あま照
てらす大
おほみかみ御神 、 速
はや湏
す佐
さ之
の男
をの命
みことに 告
のらししく、
次 に、 天 津 日 子 根 命 は、 〈 凡 川 内 国 造 ・ 額 田 部 湯 坐 連 ・ 木 国 造 ・ 倭 田 中 直 ・ 山 代
おほしかふちのくにのみやつこぬかたべのゆゑのむらじきのくにのみやつこやまとのたなかのあたひやましろのつぎあまつひこねのみこと上 菟 上 国 造 ・ 下 菟 上 国 造 ・ 伊 自 牟 国 造 ・ 津 嶋 県 直 ・ 遠 江 国 造 等 が 祖 なり〉 。
かみつうなかみのくにのみやつこしもつうなかみのくにのみやつこいじむのくにのみやつこつしまのあがたのあたひとほつあふみのくにのみやつこらおや五 柱 の 子 の 中 に、 天 菩 比 命 の 子 、 建 比 良 鳥 命 、 〈 此 は、 出 雲 国 造 ・ 无 耶 志 国 造 ・
こいづものくにのみやつこむざしのくにのみやつこいつはしらこなかあめのほひのみことこたけひらとりのみことに 坐 す。 此 の 三 柱 神 は、 胸 形 君 等 が 以 ち い つ く 三 前 の 大 神 な り。 故 、 此 の 後 に 生 め る
いまこみはしらのかみむなかたのきみらもみまへおほかみかれこのちう次 に、 市 寸 嶋 比 売 命 は、 胸 形 の 中 津宮 に 坐 す。 次 に、 田 寸 津 比 売 命 は、 胸 形 の 辺 津宮
つぎいちきしまひめのみことむなかたなかつみやいまつぎたきつひめのみことむなかたへつみやと、 如 此 詔 り 別 きき。 故 、 其 の 先 づ 生 める 神 、 多 紀 理 毗 売 命 は、 胸 形 の 奥 津 宮 に 坐 す。
かくのわかれそまうかみたきりびめのみことむなかたおきつみやいま先 づ 生 める 三 柱 の 女 子 は、 物 実 汝 が 物 に 因 りて 成 れり。 故 、 乃 ち 汝 が 子 なり」
まうみはしらをみなごものざねなものよなかれすなはなこ「 是 の、 後 に 生 める 五 柱 の 男 子 は、 物 実 我 が 物 に 因 りて 成 れり。 故 、 自 ら 吾 が 子 ぞ。
このちういつはしらをのこごものざねあものよなかれおのづかあこ国
くにのみやつこ造 ・ 馬
うま来
く田
たの国
くにのみやつこ造 ・ 道
みちの尻
しりの岐
き閇
への国
くにのみやつこ造 ・ 周
す芳
はの国
くにのみやつこ造 ・ 倭
やまとの淹
あむ知
ちの造
みやつこ・ 高
たけちの市 県
あがた主
ぬし・ 蒲
かまふの生 稲
いな寸
き・ 三
さき枝
くさ部
べの造
みやつこ等
らが 祖
おやなり〉 。
︻本文︼故爾各中置天安河而宇気布時天照大御神先 ①乞度建速湏佐之男命所佩十拳剣打折三段而奴那登母々由良邇此八字以音下效此振滌天之真名井而佐賀美邇迦美而自佐下六字以音下效此 ②於吹棄気吹之狭霧所成神御名多紀理毗売命此神名以音亦御名謂奥津嶋比売命次市寸嶋上比売命亦御名謂狭依毗売命次多岐都比売命三柱此神名以音速湏佐男命乞度天照大御神所纏左御美豆良八尺勾璁之五百津之美湏麻流珠而奴那登母々由良爾振滌天之真名井而佐賀美邇迦美而於吹棄気吹之狭霧所成神御名正勝吾勝々速日天之忍穂耳命亦乞度所纏右御美豆良之珠而佐賀美邇迦美而於吹棄気吹之狭霧所成神御名天之菩卑能命自菩下三字以音亦乞度所纏 ③御縵之珠而佐賀美邇迦美而於吹棄気吹之狭霧所成神御名天津日子根命又乞度所纏左御手之珠而佐賀美邇迦美而於吹棄気吹之狭霧所成神御名活津日子根命亦乞度所纏右御手之珠而佐賀美邇迦美而於吹棄気吹之狭霧所成神御名熊野久湏毗命自久下三字以音并五柱於是天照大御神告速湏佐之男命是後所生五柱男子者物実因我物所成故自吾子也先所生之三柱女子者物実因汝物所成故乃汝子也如此詔別也故其先所生之神多紀理毗売命者坐胸形之奥津宮次市寸嶋比売命者坐胸形之中津宮次田寸津比売命者坐胸形之辺津宮此三柱神者胸形君等之以伊都久三前大神者也故此後所生五柱子之中天菩比命之子建比良 ④鳥命此出雲国造无耶志国造上菟上国造下菟上国造伊自牟国造津嶋県直遠江国造等之祖也次天津日子根命者凡川内国造額田部湯坐連 ⑤木国造倭田中直山代国造馬来田国造道尻岐閇国造周芳国造倭淹知造高市県主蒲生稲寸三枝部造等之祖也︻校異︼①の﹁乞度﹂は諸本一致しているが︑﹃書紀﹄︵神代上・第六段本文︶に﹁乞ひ取る﹂とあること︑﹁乞度﹂では﹁︵Aが︶コヒ︑︵Bが︶ ワタス﹂となることへの疑問から︑注釈は﹁乞取﹂へと改めて
いる︒だが︑ここでのワタスを︑互いに物を交換する意︵集成︶
と見れば︑あえて﹁取﹂に訂正する必要はあるまい︒②について︑真福寺本は全文を欠いているが︑書写時に一行分飛ばしたものと考えられる︒このことから︑真福寺本の親本
は一行二十二字程度であっただろうと推測される︵思想︶︒③は︑諸本﹁右御手﹂とするが︑この後にも﹁右御手之珠﹂と
あって︑重複することになる︒また︑身体部位を順にあげる場合︑左↓右の順を常とする︒前段で天照大御神は︑左右のみづ
ら・縵・左右の手に珠を巻いていたとあることから︑諸注︑記伝の﹁御縵﹂に従っている︒この重複は目移りによるもの︵新校︶︑繰り返し表現の多さによる誤字︵注釈︶ともされる︒真福寺本・兼永本の共通祖本時点で既にあったものと考えられるが︑天津日子根命の対である活津日子根命が︑左御手から生まれたとあ
ることに引かれたのかもしれない︒④について︑兼永本以下の卜部系諸本では﹁辺﹂とするが︑諸注︑真福寺本に従って﹁鳥﹂とする︒⑤は︑諸本﹁木国﹂とする︒﹃古事記﹄の用字に従えば︑現在
の和歌山県を指す︒紀氏の流れを汲み︑古代には国造でありつ
つ︑日前神宮・國懸神宮の祭祀にあたった豪族である︒だが︑
この箇所には﹁茨﹂字の脱落が想定されている︵記伝ほか︶︒﹃書紀﹄︵神代上・第六段・本文︶に﹁天津彦根命此茨城国造・額田部連等が遠祖なり﹂とあるこ
と︑﹃先代旧事本紀﹄︵国造本紀︶で︑紀伊国造は神皇産霊命の五世孫である天道根命を祖とすることに基づく︒一方︑﹃常陸国風土記﹄に﹁筑波県は︑古︑紀の国と謂ひき﹂︵筑波郡︶とあり︑
毗売命は︑宗像の奥津宮に鎮座した︒次に︑市寸嶋比売命は宗像の中津宮に鎮座した︒次に︑田寸津比売命は宗像の辺津宮に鎮座した︒この三柱の神は︑宗像君等が祀る三前大神である︒後に生まれた五柱の中の︑天菩比命の子である建比良鳥命︒こ
れは︑出雲国造・武蔵国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・津嶋県直・遠江国造等の祖である︒次に︑天津日子根命
は︑凡川内国造・額田部湯坐連・木国造・倭田中直・山代国造・馬来田国造・道尻岐閇国造・周芳国造・倭淹知造・高市県主・蒲生稲寸・三枝部造等の祖である︒
︻語注︼天の安の河 忌部広成の﹃古語拾遺﹄︵大同二年︿八〇七﹀成立︶
に﹁天八湍河原﹂とあることから︑多くの瀬がある広い川の意
だとされる︵記伝︶︒または︑﹁八洲﹂とする説︵集成︶︑息長氏の伝承が入り込んだもので︑滋賀県の野洲川︵鈴鹿山脈の御在所山
を原流とし︑琵琶湖に注ぐ︶の投影とする説もある︵よむ︶︒しかし︑
ヤスは﹁形状言︒やすらかなさま︒安穏な状態﹂︵時代別︶を言う
ものではないか︒たとえば︑国が穏やかに治められた様子は︑
﹁安らかに平らぐ﹂︵中巻・崇神︶と書かれる︒高天原に流れる川
は︑安らかな状態のものとしてイメージされたのではないか︒
なお︑﹃万葉集﹄でも︑﹁天の川 安の川原に﹂︵巻十・二〇三三︑二〇八九︶︑﹁天の川 安の渡りに﹂︵巻十・二〇〇〇︶とうたわれる︒
いずれも七夕の歌で高天原の世界のものではないが︑天上の世界なので習合したのだろう︒宮崎県西臼杵郡高千穂町には天岩戸神社が鎮座するが︑その西本宮近辺に天安河原とされる場所がある︒また︑洞窟には天 木国で茨城と同じと見る説もある︵注釈・新校︶︒ただし︑あく
までも筑波県の旧名である点に疑問もある︒ここでは︑諸本の用字に従って﹁木国﹂で︑紀伊国造のこととしておく︒
︻口訳︼
そこで︑各々︑天の安の河を挟んでうけひを行った時︑まず天照大御神が︑湏佐之男命の身に着けていた十拳剣を乞い受け取り︑三つに折り︑音を立てて天の真名井に濯いで︑噛み砕い
て吹き捨てた息吹の霧に成った神の名は︑多紀理毗売命︑別名
は奧津嶋比売命と言う︒次に︑市寸嶋比売命︑別名は狭依毗売命と言う︒次に多岐都比売命︒湏佐之男命は︑天照大御神が身
に着けていた左のみづらの多くの勾玉を貫いた玉飾りを乞い受
け取り︑音を立てて天の真名井に濯いで︑噛み砕いて吹き捨て
た息吹の霧に成った神の名は︑正勝吾勝々速日天之忍穂耳命︒
また︑右のみづらの多くの勾玉を貫いた玉飾りを乞い受け取
り︑噛み砕いて吹き捨てた息吹の霧に成った神の名は︑天之菩卑能命︒また︑縵の珠を乞い受け取り︑噛み砕いて吹き捨てた息吹の霧に成った神の名は︑天津日子根命︒また︑左手の珠を乞い受け取り︑噛み砕いて吹き捨てた息吹の霧に成った神の名
は︑活津日子根命︒右手の珠を乞い受け取り︑噛み砕いて吹き捨てた息吹の霧に成った神の名は︑熊野久湏毗命︒併せて五柱
である︒そこで︑天照大御神が湏佐之男命に仰ったのは︑﹁この︑後に生まれた五柱の男神は︑私の物実によって成った︒当然︑私の子である︒初めに生まれた三柱の女神は︑お前の物実に
よって成った︒これはお前の子である﹂と︑このように子の帰属をお決めになった︒そこで︑初めに生まれた神である多紀理
うけふ ﹁受ク︵下二段︶を再活用させた動詞﹂︵時代別︶︑また
は︑﹁請く﹂から変化した語で神の意志を﹁請く﹂意とも言う︵よ
む︶︒ウケヒは︑﹁
Aならば
A︵ʼ Bならば 代上・第六段・本文︶では︑﹁︵生まれた子が︶女ならば濁き心︑男な 示し︑行為の結果で物事を判断する呪的行為である︒﹃書紀﹄︵神 B︶﹂などの前提条件をʼ
らば清き心﹂との前提に基づき︑スサノヲの清明心の証明が行
われる︒ただし︑本段のウケヒは︑そうした前提のないことが問題視される︒勝敗の行方は︑スサノヲの﹁我勝ちぬ﹂という発言に拠るが︑このことと関わって︑スサノヲの勝ちを認める立場と認めない立場とがある︒
ぬなとももゆらに モユラニについては︑﹁教室で読む古事記神話︵八︶︱︱生終得三貴子から宇気比而生子まで︱︱﹂︵﹃語文﹄一六九輯・二〇二一︶を参照︒ヌナトは︑瓊の音の意で玉のゆれ
る音とされる︒ただし︑天照大御神の場合︑音を立てる対象は剣である︒この点につき︑﹁︵注天照大御神が︶身につけた玉︵手玉の類︶が触れ合って︑さやかな音を立てる﹂︵西宮一民﹃古事記 修訂版﹄おうふう・二〇〇〇︶︑﹁後の文に引かれて劔とは無関係の
ヌナトモモユラニの語が︑口誦的・韻律的にふと挿入されたも
の﹂︵全註釈︶︑慣用・定型として用いられた︵全書・新編︶︑﹁剣の飾り玉のふれあう音﹂︵寺田恵子﹁古事記﹃ぬなと﹄小考﹂﹃湘南文学﹄一六・二〇〇三︶などの説がある︒だが︑いずれの説にも疑問点が
あり︑考える余地が残されているように思われる︒ 天の真名井 神聖な井戸や泉を言う普通名詞︒宮崎県西臼杵郡高千穂町には︑天真名井の伝承地がある︒マナは愛子のマナと本来一つの語で誉め言葉︵注釈︶︒﹃出雲国風土記﹄︵意宇郡︶に﹁真 安河原宮︵祭神は思兼神と八百万神︶が鎮座する︒実際に訪れてみ
たところ︑確かに神秘的な雰囲気が漂う空間であった︒
天安河原宮近くの河原。現在、参拝者によって、至るところに石が積み上げられている。
あるが︑琵琶湖の竹生島の宝厳寺・竹生島神社︑宮島の大願寺・厳島神社︑江ノ島の金亀山与願寺・江島神社が︑一般に日本三大弁天と称される︒その内︑厳島神社と江島神社が宗像三女神 を祭神とする︒多岐都比売命 ﹁早瀬の女神﹂︵大系︶︑激流の神︵よむ︶とされ
る︒多岐都比売命は︑福岡県宗像市田島に鎮座する宗像大社︵辺津宮︶に祀られる︒中津宮は宗像市大島︒神湊の北西
余りの沖合の島である︒沖津宮は︑さらに北西へ 6キロ 玄海灘に浮かぶ宗像市大島沖之島に鎮座する︒二〇一七年に 49キロほどで︑
は︑﹁世界遺産﹃神宿る島﹄宗像・沖ノ島と関連遺産群﹂の一つ
に指定された︒多紀理毗売命から多岐都比売命までの三神は︑﹁三前の大神﹂
とされる︒宗像三女神だが︑この神が生まれたことで︑対馬海峡の航路が保障されたということだろう︒住吉三神の誕生で瀬戸内航路が保障されたことの延長線上に︑この神話があると見
ることができる︒﹃書紀﹄︵神代上・第六段・一書第三︶では﹁道主貴﹂
ともされるが︑道中にいらっしゃる貴い神という名である︒宗像三女神は︑日本海の自然に応じた神格とする説がある︒対馬暖流を象徴するのが多岐都比売命︑これに寒い中国からの季節風にあたって日本海特有の濃霧を発生させるが︑それを神格化したのが多紀理毗売命︑そして︑市杵島姫は浦港を支配す
る巫神だとされる︵水野祐﹁出雲大神と宗像神︱︱出雲文化の中の漁撈文化︱︱﹂神道学会編﹃出雲学論攷﹄出雲大社・一九七七︶︒また︑三女神は︑航海守護の神であると同時に︑対新羅関係の調整者的な性格をも併せ持っていたとする説もある︵正木喜三郎﹁宗像三女神 名井の社﹂と見え︑島根県松江市山代町に鎮座する真名井神社
に比定される︒また︑﹃丹後国風土記﹄︵与佐郡由縁︶にも﹁比治
の真名井﹂があるが︑﹃延喜式﹄︵神名帳︶に丹後国﹁與謝郡廿座﹂
の筆頭である籠神社︵京都府宮津市︶の奥宮は︑真名井神社とさ
れる︒
さがみにかみて 繰り返し表現は﹁神の言葉の装い﹂の一つ と言う︵古橋信孝﹁序 歌の発生﹂﹃古代和歌の発生 歌の呪性と様式﹄東京大学出版会・一九八八︶︒ここもその一例と見てよいだろう︒サ
ガミのサは︑サニハ︵神のお告げを聴く場所︒または︑そこでお告げを聴き︑その意味を解く人︶・サヲトメなどと同じく︑神聖さを表わ
すもの︒多紀理毗売命 霧に因んだ神名とするのが通説︒別名の奥津嶋比売命は︑沖ノ島に坐す姫の意︒後文の﹁胸形の奥津宮に坐 す﹂に対応する神名である︒市寸嶋比売命 イチキは斎の意とするのが一般的︒安芸国
の厳島神社︵広島県廿日市市宮島町︶は︑市寸嶋比売命を祭神とす
るが︑それは宗像氏の一族の東遷の結果とされる︒別名の狭依毗売命は︑﹁船の寄る所に坐す女神の意﹂︵大系︶︑神霊の依り憑
く女神︵集成︶などされる︒前者は航海守護の神であること︑後者はサ・ヨルという語構成からの説であろう︒
なお︑市杵島姫神は︑後に神仏習合して弁才︵財︶天となる︒弁才天の信仰は︑すでに奈良時代から見られ︑東大寺三月堂︵法華堂︶の塑像︵高さ
219センチ︑現在は東大寺ミュージアムに安置︶がそれ
である︒八臂の塑像で︑天平期に作られたものとされる︒近世
になると︑﹁七福神﹂の一となる︒弁才天を祀る神社は各地に
ヒは﹁穂の霊力﹂の意ともされる︵全書︶︒﹁菩卑﹂と表記される
が︑稲の意であれば﹁穂﹂が用いられる︒ヒについても︑﹁日・比﹂
などが普通で︑﹁卑﹂はこの神のみである︒この点︑﹁先行文献
の用字の継承﹂と見る説がある︵犬飼隆﹁古事記のホの仮名の二種の字体﹂﹃上代文字言語の研究﹇増補版﹈﹄笠間書院・二〇〇五︶この神は出雲系の神ともされる︒それが天照大御神の子と位置付けられる
のだが︑﹁出雲系と日神系にくり入れていく作為﹂とも言う︵よ
む︶︒表記の問題をふまえると︑ここに﹃古事記﹄成立過程の一端が窺えるのではないか︒
﹃書紀﹄︵神代上・第七段・一書第三︶では︑出雲臣・武蔵国造・土師連等の祖神とされる︒後の天孫降臨の段では︑地上との交渉役として派遣されるが︑復命せずに︑地上側に寝返る神とし
て描かれる︒天津日子根命 天つ日の子で太陽の子︵大系︶と見るか︑ヒコ=男︵全書︶と見るかで分かれる︒ネは﹁親愛と尊敬の意をこめた接尾語﹂︵時代別︶︒﹃書紀﹄では︑凡川内直・山代直の祖神︵神代上・第七段・一書第三︶︑茨城国造・額田部連等の祖︵神代上・第七段・一書第三︶とされるが︑﹃古事記﹄では︑凡川内国造以下︑十二氏もの祖である︒また︑﹃新撰姓氏録﹄︵九世紀初頭成立︒各氏族を左右皇別・左右神別などに分類した系譜集︶では︑十八氏もの祖先へ と拡大している︒活津日子根命 ﹁﹃活つ﹄は生命力︑活力のある︑の意﹂︵鑑賞︶︑
ヒコは天津日子根命と同様に二説ある︒名義からすれば︑天津日子根命と一対の神︒﹁左の御手に纏かせる珠﹂からの化成で︑物実は対とならないのだが︑天津日子根命の物実を﹁右の御手 と記紀神話﹂小田富士雄編﹃古代を考える 沖ノ島と古代祭祀﹄吉川弘文館・一九八八︶︒
なお︑天武天皇の妃の一人に宗像氏出身の尼子娘がおり︑高市皇子を生んでいる︒それが宗像氏の中央進出の契機になった
と考えられている︒奈良県桜井市外山に宗像神社が鎮座する︒式内社に比定されるが︑祭神は当然︑宗像三女神︒伴信友︵国学者︑一七七三〜一八四六︶の﹃神名帳考證﹄では︑胸形徳善の女
である尼子娘が︑天武天皇の後宮に入り高市皇子の母となった縁で︑同皇子の外戚の氏神として祀られたとする︒正勝吾勝々速日天之忍穂耳命 湏佐之男命の息吹によって成った神だが︑天照大御神の﹁詔別﹂により天照に帰属する︒
したがって︑天照直系の神である︒﹁正勝は正しく勝った︑吾勝は私は勝った︑勝速は素早く勝ったの意︒日は太陽に因んだ名︑忍穂は多し穂で豊かに稔った稲穂︑耳は尊称﹂︵大系︶とさ
れる︒﹁速日﹂は︑霊力の盛んな様を言うものであろう︒﹁ウケ
ヒの験がまさにあらわれたが故に﹃マサカ吾勝⁝⁝﹄と命名さ
れたのだと解すべき﹂︵注釈︶とする説もある︒﹁天之忍穂耳命﹂
で十分に豊葦原瑞穂国の貴い神という意の神名となるが︑そこ
にさらに﹁正勝吾勝々速日﹂という冠辞のごときものがつくこ
とが重要で︑尊貴性が一段とグレードアップしたものになるの
ではないか︒湏佐之男命の清明心の証明という﹁勝ち負けを問
う文脈の中で︑﹁勝﹂を三つも名に持った神こそ︑勝利の証﹂だ
とする見方もある︵松本直樹﹃神話で読みとく古代日本﹄筑摩書房・二〇一六︶︒天之菩卑能命 ﹁稲穂と太陽に因んだ神名﹂︵大系︶︒または︑ホ
胸形の奥津宮 福岡県宗像市沖之島に鎮座する︒宗像市の沖合約 60キロ︒面積は
0.97平方キロ︑周囲約
4キロ︑最高地点は
243
mという小さな島である︒一九五四年から数次にわたって行わ
れた学術調査によって︑二十四か所の祭祀遺跡が確認されてい
る︒それらは三︑四世紀から十世紀にかけてのもので︑祭祀神宝︵三角縁神獣鏡を含む鏡・武具・工具・装身具・馬具・その他の金属器
など︶が十二万点余りも発見され︑国宝・重要文化財に指定さ
れているものも多い︵宗像大社社務所﹃宗像大社﹄︶︒
﹃古事記﹄は多紀理毗売命を祭神とするが︑現在の宗像大社
では︑田心姫神が祭神である︒﹃日本書紀﹄︵神代上・第六段・本文︶
の記述を前提としているのであろう︒﹁汝三神︑道中に降り居
て天孫を助け奉りて︑天孫の為に祭かれよ﹂︵神代上・第六段・一書第一︶とされている︒﹁道中﹂は﹁九州から朝鮮半島への海路﹂
︵小島憲之ほか﹃日本書紀①︿新編日本古典文学全集﹀﹄小学館・一九九四︶︒
すなわち︑玄界灘の海上交通を守護する神である︒古代には︑遣唐使なども航海の安全を祈願した︒しかし︑近代になってからは鉄道関係の人々の参拝が多くなり︑やがて車社会になってからは︑安全運転祈願の参拝者が多くなったと言
う︵﹃宗像大社﹄︶︒一九六三年︑自動車専用の交通安全のお守り
を初めて販売した神社でもある︒胸形の中津宮 宗像市大島に鎮座する︒現在も︑海運・漁業関係の人々の信仰を集めている︒祭神は︑宗像大社では湍津姫神で︑これも﹃書紀﹄に従ってのもの︒胸形の辺津宮 福岡市の中心部から北北東に約
市田島に鎮座する宗像大社である︒﹃延喜式﹄︵神名帳︶には︑﹁宗 30キロ︒宗像 地名と見るか︑奥まった野と見るかで分かれる︒地名と見る説 熊野久湏毗命クスビは﹁奇し霊﹂の意だろうが︑クマノを に纏かせる珠﹂とする諸本に従うと対になる︒
によると︑﹃出雲国風土記﹄︵意宇郡︶に見える﹁熊野の大社﹂の祭神だとされる︵全書︶︒松江市八雲町熊野に鎮座する熊野大社
のことで︑式内社である︒火の発祥の神社として﹁日本火出初之社﹂とも言われる︒熊野本宮大社︵和歌山県田辺市本宮町︶の元津宮とも伝えられる︒ただし︑祭神は︑﹃出雲国造神賀詞﹄︵新任の出雲国造が朝廷に奏上する祝詞︶に見える﹁伊射那伎の日真名子︑
かぶろき熊野の大神︑櫛御気野命﹂であり︑熊野久湏毗命とは異なる︒生める 前段で﹁狭霧に成れる神﹂とあったが︑ここでは﹁生﹂
としている︒﹃古事記﹄では︑﹁生﹂は母胎からの出生︑﹁成﹂は母胎からではない出現を言うのが原則︒﹁﹃成﹄る神の出現に働
く主体の存在を明示するものではないか︒一種の擬制である︒
﹃成﹄らせる主体を意識して︑あたかも﹃生﹄むかのごとくにい
いならすのである﹂︵神野志隆光﹁﹃古事記﹄﹁国作り﹂の文脈﹂﹃国語国文﹄五八巻三号・一九八九︶とする見方がある︒本来は血縁で繋がれて
いない神を擬制的に血縁関係の中に組み入れる措置と言える︒物実 ﹁物事のおこるもとの意で︑ここでは神々の成るもと﹂
︵大系︶︒天照大御神と湏佐之男命が︑それぞれ身に着けていた剣と珠を指す︒それらは単なる武器や装飾品ではなく︑まさに魂のこもっているものと見做されたのであろう︒詔り別き 言葉によって︑生まれた三女五男の神の所属を決定することを言う︒
界﹂︑すなわち︑﹁現し国︵葦原の中つ国︶と異境︵出雲国︶との境界﹂
であり︑その境界を超える鳥の意と言う︵新潮︶︒一方︑兼永本に従ってヒラヘの神とすると︑ヘは境界とも言
えるから︑語構成としては︑ヒラ坂と似ている︒したがって︑境界の神ということになるか︒﹃書紀﹄・﹃神賀詞﹄に見える神名を考慮すれば︑比良鳥とするべきなのだろうが︑意味上は﹁比良辺﹂の方が理解はしやすい︒出雲国造ほか 以下︑建比良鳥命と天津日子根命の後には︑計一九氏族もの名が列挙される︒出雲国造︵現在の島根県︶・无耶志国造︵現在の東京都・埼玉県︑及び神奈川県の一部︶・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造︵千葉県内の一国︶・津嶋県直︵対馬︶・遠江国造︵静岡県西部︶︑凡川内国造︵大阪府︶︑額田部湯坐連︵奈良県︶︑木国︵和歌山県︑もしくは茨城県︶︑倭田中直︵奈良県︶︑山代国造︵京都府︶︑馬来田国造︵千葉県︶︑道尻岐閇国造︵未詳︶︑周芳国造︵長野県︶︑倭淹知造︵奈良県︶︑高市県主︵奈良県︶︑蒲生稲寸︵滋賀県︶︑三枝部造︵未詳︶である︒氏族名を小字二行書で記すことについて︑宣長は﹁註の例に
は非ず︒本文なり﹂︵記伝︶︑倉野憲司は﹁本文的内容を有する細注形式﹂︵全註釈︶と言う︒氏族名を並べた記述が本文的内容を持つことは︑﹁天津日子根命者﹂に続くことからも明らかだが︑中村啓信の﹁注的本文﹂という用語が適当と思われる︵﹁﹃古事記﹄
の本性︱氏祖表記の注的本文を通して︱﹂﹃古事記の本性﹄おうふう・二〇〇〇︶︒この形式については︑漢訳仏典︵尾崎知光﹁古事記分注
の一形式﹂﹃古事記年報﹄八・一九六六︶︑中国の氏族譜︵中村啓信﹃前掲書﹄︶に見えることが指摘される︒ 像郡四座﹂の筆頭に﹁宗像神社三座﹂と見える︒﹁名神大﹂であ
る︒祭神は︑宗像大社では市杵島姫神としており︑やはり﹃書紀﹄
の記述に従う︒現在は本殿を﹁第一宮﹂と呼び︑これを辺津宮
としている︒また︑本殿の後方に﹁第二宮﹂︵沖津宮の分霊︶と﹁第三宮﹂︵中津宮の分霊︶があり︑それぞれ田心姫神と湍津姫神が祀
られている︒ 胸形君 筑前国宗像郡を本拠とした豪族︒一般に︑海人族の首領と言われるが︑宗像大社の神官の家柄でもある︒胸形君徳善の女尼子娘が︑天武天皇の皇子高市を生んでいる︒宗像氏は天武十三︵六八四︶年に朝臣の姓を賜わっており︑一般にこれが宗像氏の中央進出の契機となったとされる︒﹃延喜式﹄︵神名帳︶
に︑大和国城上郡に﹁宗像神社三座﹂が見える︒国道
面した桜井市大字外山小字宮の谷に鎮座する宗像神社であると 165号線に
される︒三輪山を間近に望む交通の要衝だが︑境内は確かに宮
の谷といった地形である︒﹁天武朝頃に胸形君の一族が本拠地筑前国の氏神を勧請したものと考えられている﹂︵﹃奈良県の地名
︿日本歴史地名大系﹀﹄平凡社・一九八一︶と言う︒三座は︑三女神で
あろう︒建比良鳥命 割注に︑出雲の国造ほか七氏の祖とあるが︑﹁出雲氏の祖神が天照大御神の子孫であることに注目﹂︵新版︶とす
る指摘がある︒もちろん︑擬制的な同族関係だが︑出雲国造家
が王権の支配下にあるということを意味するのであろう︒
﹃神賀詞﹄に見える﹁天夷鳥命﹂と同一神と見るのが一般的︒
﹃書紀﹄︵崇神六十年七月︶にも︑﹁武日照命︑一云武夷鳥︑又云天夷鳥﹂と見える︒名義については︑ヒラは﹁物の端︑隣との境
だ︒なお︑額田部湯坐連が﹁天津彦根命﹂の子孫であることは
﹃新撰姓氏録﹄︵左京神別下︶にも見える︒
︻余滴︼神社の向き 神社の社殿がどちらを向いているのか︒私は神社に参拝する時︑いつもそれに注目している︒
たとえば︑﹃古事記﹄︵崇神天皇︶の三輪山伝説でも知られる大神神社︵奈良県桜井市三輪︶は︑概ね西を向いている︒私たちは西側の鳥居をくぐり︑参道を進んで︑東に向かって拝殿の前に立つ︒本殿はない︒社殿の後ろに聳える三輪山︵標高四六七メー
トル︶がご神体だからである︒祭神は大物主大神︒大いなる魂
の持ち主という意で︑大和国のシンボル的な神という名であ
る︒私たちは山に鎮まるその神を拝むのだ︒
また︑住吉大社︵大阪府大阪市住吉区住吉︶の四つの本殿︵第一本宮は底筒男命・第二本宮は中筒男命・第三本宮は表筒男命・第四本宮は神功皇后︶は︑いずれも西を向いている︒﹃日本書紀﹄神功皇后摂政前紀元年二月条によれば︑住吉大社の祭神である表筒男・中筒男・底筒男の三神は︑﹁往来船を看さむ﹂として︑そこ
に鎮座したと伝えられている︒そこは瀬戸内航路の起点なの
で︑航海守護の神が求められたのだ︒住吉大社は現在︑大阪湾の埋め立てが進められたことで︑海
からだいぶ遠くなっている︒しかし︑寛政八年︵一八九六︶に刊行された﹃摂津名所図会﹄︵住吉郡一︶などを見ると︑境内のすぐ前が海だったということがわかる︒社殿が西を向いているの
は︑沖を往来する船を見守る形なのであろう︒社殿の向きということで︑もっとも印象深い神社の一つに︑ 遠江国造 ﹁遠江﹂の表記について︑宣長は﹁後人の為﹂との師説を挙げている︒この国名表記は︑七世紀末〜八世紀初頭頃
の表記と考えられるが︑﹃古事記﹄の地名は基本的に古い表記
で書かれる︒たとえば︑﹁近淡海﹂の例があるが︑すると﹁遠淡海﹂の表記が期待されるところで︑確かに不審である︒﹁遠江国造﹂のみ︑安麻呂の増補ではないかとも推測される︵北川和秀
﹁古事記の国名表記﹂﹃國學院雑誌﹄一一二巻一一号・二〇一一︶︒後世︑氏族の祖神として拡張していくことを踏まえると︑十分にあり
えることで︑神話の拡張として捉えるべき現象だろう︒額田部湯坐連 大和国平群郡と河内国河内郡に額田郷があ
る︒いずれも額田部氏の所領である︒平群郡の額田郷は︑現在
の大和郡山市額田部寺町で︑そこには額田部氏の氏寺だったと言われる額安寺がある︒額田部氏の職掌に関しては諸説があ
り︑不明である︒しかし︑湯坐は貴人の乳児に湯あみさせる女
の意︒乳母のような役目で天皇家の子女に仕える女性を輩出し
た氏族であろう︒松江市東出雲町に﹁八雲立つ風土記の丘﹂があり︑その一画
に八雲立つ風土記の丘資料館︑岡田山古墳などがある︒岡田山古墳は六世紀後半の築造と推定され︑一九八三年に発見された大刀に﹁額田部臣﹂とする銘が刻まれていたことで知られる︒
﹃書紀﹄︵神代上・第七段・一書第三︶に︑﹁素戔嗚尊⁝⁝天穂日命を生みたまふ︒此は出雲臣・武蔵国造・土師連等が遠祖なり︒次
に天津彦根命︒此は茨城国造・額田部連等の遠祖なり﹂と見え︑額田部氏の祖先を溯れば︑スサノヲに行き着く︒すなわち︑﹁神話﹂は決して空想ではなく︑何ほどかの事実を反映しているの
あれ祭﹂が有名だが︑現在は交通安全の神としても知られてい
る︒交通安全のお守りは︑どこの神社でも買えるが︑車専用の
お守りを最初に売り出したのは宗像大社だと言われる︒
その辺津宮はどちらを向いているのだろうか︒それは本殿・第二宮・第三宮ともに北西を向いている︒宗像三女神は︑玄界灘に面した筑前国宗像郡を本拠とする宗像氏という豪族の祀る神だったが︑それは玄界灘や対馬海峡を中心とする日本海の自然に応じた神々だとする説がある︒その社殿が玄界灘の方を向
いているのは当然のことであろう︒中津宮は︑フェリーの到着する島の東側の港近くに鎮座して
いる︒社殿は港を見下ろすように︑東南東を向いて建っている︒辺津宮の向きとはややずれているが︑両者は向き合うような形
である︒二つの社で北九州沿岸の海を見守っているということ
か︒宗像郡の漁民たちの活動範囲は︑大島の先にも広がってい
たと見られるのに︑それはどうしてなのか︒単に港を見守る形
なのか︒さらに︑沖津宮の社殿がどちらを向いているのかは︑残念な
がら確認に行くすべがない︒国土地理院の地形図で見ると︑西南西を向いているように見えるが︑確かなことはわからない︒学生の頃からたくさんの古社を訪れて来た︒なるほどそうい
うことだったのかと︑訪れたことで﹃古事記﹄や﹃万葉集﹄の理解に役立ったことも多い︒しかし︑宗像大社に関しては︑なぜ
そういう向きなのか︑初めて訪れた院生の頃からわからないま
まである︒ 筥崎宮︵福岡市東区箱崎︶がある︒それは︑応神天皇・神功皇后・玉依姫命を祀る神社だが︑国防と外征の守護神である︒博多湾
に面して鎮座しているが︑海に向かって建つ正面の楼門には︑醍醐天皇︵八八五〜九三〇︶の宸筆とされる扁額に﹁敵国降伏﹂と認められている︒西北西に向いているのだが︑それは朝鮮半島
と中国大陸を睨む形である︒鎌倉時代には︑元の軍勢が押し寄せたこともあった︵文永の役・弘安の役︶︒国防の最前線だった筑前国︵福岡県西部︶にとって︑国防と外征の神々をそこで祀り︑睨みを効かせることは︑重要
な国家的課題でもあったと考えられる︒宗像三女神を祀る宗像大社はどうだろうか︒三女神は︑辺津宮︵福岡県宗像市田島︶に市杵島姫命︑中津宮︵宗像市大島︶に湍津姫命︑沖津宮︵宗像市大島沖ノ島︶に田心姫命が祀られてい
る︒中津宮は宗像市の沖合
11キロほどの筑前大島に鎮座してい
るので︑神湊からフェリーに乗って海を渡らなければならな
い︒また沖津宮は︑さらに
通常︑神職以外は足を踏み入れることができない︒そこで一般 49キロ先の沖ノ島に鎮座しているが︑
の参拝者は︑バスや車で行ける辺津宮を参拝することになる︒辺津宮の本殿には市杵島姫命が祀られているが︑その後方に第二宮と第三宮が設けられていて︑田心姫命と湍津姫命を祀って
いる︒海を渡らずとも︑三女神に参拝できるようにとのことで
あろう︒宗像大社は︑漁業に従事した人々の崇敬を集めて来た︒漁船群の立てる色とりどりの旗や幟で海上神幸を行なう勇壮な﹁み