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全文

(1)

剣巻の成立背景

︱︱熱田系神話の再検討と刀剣伝書の世界︱︱  

はじめに

﹃平家物語﹄屋代本などに付属する系統の﹁剣巻﹂  

* 1

は︑古くは﹃平家物語﹄内部の﹁剣﹂

の章段が増補改定を繰り返すなかで生じてきたとされていた︒昭和五五年に発表された伊

藤正義氏の﹁熱田の深秘﹂

* 2

で︑剣巻と﹃あつたのしむひ﹄との類似が指摘されると︑剣巻

は﹁熱田系神話﹂との関わりが深いと言われるようになった︒以来︑剣巻は中世日本紀と

の関わりから論じられる傾向にある︒

本論は︑従来の中世日本紀からの論について︑﹁熱田系神話﹂なるものの再検討の必要  

性を提起し︑中世日本紀以外の︑剣巻の成立に影響を与えた文化的背景について述べるも

のである︒

﹁熱田系神話﹂の再検討

先にも挙げた伊藤正義氏の論では剣巻について﹁これは平家物語の中で増補を繰り返し  

た結果として生れて来たというようなものではなく︑その部分をそっくり熱田系のテキス

トを借用した結果であると考える方が自然であろう︒﹂と述べている︒ここで問題なのは

﹁熱田系テキスト﹂の定義づけがなされておらず︑それが﹁熱田神宮内部で作成されたも

の﹂を指すとも﹁熱田神宮に関わる内容のもの﹂を指すともとれてしまうことである︒

﹃尾張国熱田太神宮縁起﹄との比較から

熱田神宮については現在多くの伝承がのこされているが︑それぞれの内容が同じ性質の  

ものであるとは言い難い︒中でも最も古いと縁起とされる﹃尾張国熱田太神宮縁起﹄と︑

剣巻と関係の深いと言われる﹃あつたのしむひ﹄では︑似た内容の物語を扱っていても︑

その性質は全く異なっている︒例えば︑新羅の沙門道行が宝剣を盗んで新羅に持ち帰ろう

として失敗するという話が両者に共通してあるが︑その話の扱いが両者では全く異なって

いる︒

﹃尾張国熱田太神宮縁起﹄︵鎌倉初期頃成立か︶

* 3

では

天命開別天皇七年︑新羅沙門道行盗此剣神︑為移本国︑竊祈神社︑所剣裹袈裟︑逃去

伊勢国︑一宿之間︑脱自袈裟︑還著本社︑道行更亦還到︑練禅祷請︑又裹袈裟︑逃到

摂津国︑自難波津解纜帰国︑海中失度︑更亦漂着難波津︑乃或人託宣云︑吾是熱田剣

神也︑而被欺野僧︑殆着新羅︑初裹七條袈裟︑脱出還社︑後裹九條袈裟︑其難解脱︑

于時吏民驚恠︑東西認求︑道行中心作念︑若棄此剣︑将免投搦之責︑則抛棄神剣︑神

剣不離身︑道行術盡力窮︑拝手自肯︑遂當斬刑︑

と︑道行の話はそれ自体で完結し︑この盗難事件は熱田明神の神威を示す話として扱われ

ている︒これが﹃あつたのしむひ﹄

* 4

になると︑道行が住吉明神に誅された後︑以下のよう

に物語が発展してゆく︒

⁝⁝しんらのみかと︑つるきをはとりへすして︑たうきやうをはころしたまへぬ︑は

らをたゝせ給ひて︑てんちくよりしゃうしんの七ふとうを︑いのりくたして︑日ほん

こく︑をしよせ︑あつたみやうしんを︑うちまいらせんとし給ふとき︑みやうしん︑

(2)

このよしを︑てんせう大しんへ︑申させ給ふ︑ちからをあはすへしとて︑九萬八千の

いくさかみをもつて︑御たゝかいありしかは︑大みやうしんよろこひ給ひて︑さて︑

七ふとうをうはひとり︑七ふとうけんともとのけんにあひそへ︑八けんのみやうしん

と︑ゆわゝれ給ふ

同じように剣巻でも︑

⁝⁝新羅ノ御門︑馮給ツル道行ハ討レケリ︑安カラヌ事ニ思食テ︑不動ト云将軍ニ︑

七ノ剣ヲ作リ持セリ︑日本ニ渡シ給フ︒生不動ハ尾張ノ国マテ飛下ルヲ︑熱田ノ明神︑

﹁悪キ者哉﹂トテ︑軈テ蹴害シ給ヘリ︒持所ノ七ノ剣ヲ召取給テ︑草薙ノ剣ニ加テ同

宝殿ニ祝ハレタリ︒今ノ八剣ノ大明神︑是也︒

となっており︑ここでは道行による盗難事件が熱田神宮の摂社である八剣宮の縁起へとつ

ながっていく傾向がみられる︒こうしたことから剣巻が熱田系テキストを取り込んでいる

と言われるのだが︑この傾向は時代的なものというよりは︑伝承がどこで作成されたか︑

ということと関わりが深いようである︒もっとも早く八剣宮と道行の説話を結びつけた文

献は伊勢神道の神道書﹃伊勢二所太神宮神名秘書﹄︵一二八五年︶

* 5

であり︑

其草薙剣今在尾張国熱田社也︒沙門道行盗取之︒赴異国︒逢風雨不達先路︒有霊威被

送熱田社︒自爾以降︒造加於剣七柄為八剣宮也︒

ここでははっきりと八剣宮の起源と道行による剣の盗難を結び付ける﹃あつたのしむひ﹄

や剣巻と同じ性格の記述がみられる︒しかし︑熱田神宮で作られたと思われる﹃熱田太神

宮御鎮座次第紀﹄︵延暦十年の奥書有︶

* 6

では

天命開別天皇七年十一月外賎逃宮路山到筑紫時大神霊験賜国司女於是奉遷大神

とあるだけである︒同じく﹃宝剣御事﹄︵応永四年の奥書あり︶

* 7

でも︑道行が日本へ渡り︑

日本の神々を水瓶に閉じ込めた上で宝剣を盗み取るが︑熱田明神が内裏に託宣を下し︑無

事宝剣が取り戻されるという話があり︑その末尾は以下のようになっている︒

⁝⁝内裏院中驚思食︑貴僧百人難波浦被下︑大般若経七日被読誦︑勅使筑紫被立︑七

日満日︑剣七帖袈裟蹴破出様道行之頸切落︑剣緒高松之梢懸︑皓渡御坐ケレハ︑在地

之者奉拝之︑早馬立︑令奏聞ケレハ︑貴僧十人被下︑剣可入給程箱指︑旦之上置奉祈

ケレハ︑剣自然彼箱飛入給ケリ︑仍都奉入ケレハ︑遠国御坐社有此御事︑洛中御在所

造可崇奉有沙汰ケレハ︑内侍付給︑我有東土縁︑如元熱田之社可帰有御託宣ケレハ︑

此上者将︑熱田奉帰入ケリ︑

ここでもやはり﹃尾張国熱田太神宮縁起﹄と同じように八剣宮と道行を結びつける記述は

みられない︒他にも熱田には﹃熱田太神宮秘密百録﹄

* 8

などがあるが︑そこでも八剣宮と道

行の結びつきはみられないのである︒

室町期の展開

室町時代に入ると熱田にまつわる伝承は謡曲の題材ともなっている︒金春禅竹作とされ  

る﹁源大夫﹂

* 9

は︑勅使に社の由来を尋ねられた老夫婦が御神体である宝剣の故事を語り︑

自分達が脚摩乳・手摩乳であることを告げ︑さらに脚摩乳が源大夫であり︑また︑その源

大夫は橘姫の父であるとあかすという内容になっている︒語られる故事は素盞烏尊のオロ

チ退治と日本武尊の東征を合わせたもので︑剣巻の類話とも言えるが︑源大夫を橘姫の父

とするなど異なる点が多い︒この謡曲のシテである源大夫は︑剣巻・﹁あつたのしむひ﹂

(3)

などには登場するが﹃尾張国熱田太神宮縁起﹄には登場しない人物である︒世阿弥の能に

は﹁布留﹂という曲があり︑そのなかに﹁そのかみ熱田の宝剣は︑道行法師が法味に引か

れて︑筑紫まで出現ありしぞかし/それは異国の行人なれば︑さも法力も高かるべし﹂

* 1 0

というやりとりがある︒﹁布留﹂のこうした言説は︑剣巻などとは違った形での︑聖人と

しての道行の伝承を取り込んでいるという点で﹃熱田宮秘釈見聞﹄

* 1

に﹁⁝⁝大唐新羅国ニ1

テ道行聖人ノ書給ヘル梵網経︑神ノ御財トテ有マス︑弘法大師ハ十三生人︑新羅道行ト者︑

弘法大師化身也︑﹂とあるのに近い︒このようにみていくと︑熱田にまつわる伝承の裾野

の広さが想像できる︒しかし︑御伽草子や謡曲などに翻案され︑ひろく享受された伝承は

﹃尾張国熱田太神宮縁起﹄をはじめとする︑熱田社で作成されたとされる伝承とは性格が

違うのである︒

また︑剣巻で︑草薙剣と同一視される熱田明神が︑道行の袈裟を破って逃げようとする  

話は﹁筥崎宮紀﹂︵大江匡房作︶

* 1

2

﹁ 熱

田明

︑此

為 剣

出自

印 契

中欲

逃 去

︑僧

袈裟

被 剣

収之後諸神訖︑欲収宇佐宮︑而炳然昇天︑咒力不及︑僧到山陽道︑於備後国︑為宇佐宮被

蹴而死︑⁝⁝﹂とあるのによく似ている︒住吉明神の活躍が描かれる点などともあわせて︑

八幡縁起の影響があるのではないだろうか︒

八剣宮は古くからその存在を知られる熱田神宮の摂社であり︑﹃熱田明神講式﹄︵一一  

六〇〜六五年頃︶

* 1

には以下のようにその名がみえる︒3

 

次八剣大明神者︑昔素盞烏尊截大蛇八岐尾︑所得神剣也︑故号八剣︑  

八剣宮は熱田社と同じく剣を祭る神社であるため︑古来その伝承が混乱しがちであったよ

うだ︒その他に﹃梁塵秘抄﹄巻第二︑四句神歌

* 1

にも4

 

関より東の軍神︑鹿島  

鹿取  

諏訪の宮  

また比良の明神︑安房の洲  

滝の口や  

小  

□︑熱田に八剣

伊勢には多度の宮  

とあるのがみえる︒しかし︑これらのものからは八剣宮についての固有の伝承を知ること

はできない︒八剣宮についての記述は日本書紀の注釈書などにはあらわれず︑剣巻や﹃あ

つたのしむひ﹄系列の︑道行説話と結びついた形の伝承が広く確認できるようになるのは︑

室町にはいってからである︒﹃兼邦百首歌抄﹄︵文明一八年︶

* 1

﹃参詣物語﹄︵山田大路元5

文明一三年︶  

* 1

6 などに︑道行説話と結びついた八剣宮の伝承が記されている︒

よって︑以上のように道行説話と八剣宮の縁起を結びつける傾向は熱田社外部のもので  

あった可能性が強い︒﹃あつたのしむひ﹄が必ずしも熱田社で作成されたと考える必要は

ないであろう︒むしろ熱田社の縁起と性格を異にする﹃あつたのしむひ﹄が︑剣巻の影響

を受けて成り立っている可能性も考えられるのである︒

例えば︑﹃尾張国熱田太神宮縁起﹄には縁起独自の記述とされる部分があるのだが︑剣  

巻や﹃あつたのしむひ﹄にはそれが出てこない︒独自の部分とされているのは尾張連の祖

とされる稲種公についての記事である︒東夷討伐のさい﹁天皇勅吉備武彦与建稲種公︑服

従倭武尊﹂とあるのに始まり︑日本武尊が尾張国で稲種公の歓待を受けたこと︑その妹宮

酢姫を娶ったこと︑遠征の帰りに再び尾張を訪れると稲種公の死を告げられること︑など︑

数箇所にわたりあらわれ︑縁起の重要な部分を形作っている伝説であるにもかかわらず︑

その名は﹁剣巻﹂には現われない︒たとえば︑遠征の途中尾張に立ち寄ったところでは

 

尾張国ニ下テ︑マツコノ島ト云所ニテ︑源大夫ト云者ノ家ニ留マリ︑源大夫カ最愛ノ  

姫アリ︒岩戸姫ト云ヘリ︒ミメ形吉カリケレハ︑日本武尊是ヲ始メテアヒ給フ︒一夜ノ契

(4)

リ深クシテ志不浅︒

とあり︑稲種公は現れない︒その代わりをするのが﹁源大夫﹂であり︑稲種公の妹宮酢姫

の代わりに源大夫の娘岩戸姫となっている︒また︑﹃尾張国熱田太神宮縁起﹄では熱田に

宝剣が奉斎される部分で︑

日本武尊奄忽仙化之後︑宮酢姫不違平生之約︑独守御床安置神剣︑光彩亜日︑霊験著

聞︑若有祷請之人︑感応同於影響︑於是︑宮酢姫会集親旧︑相議曰︑我身衰耗︑昏暁

難期事︑須未瞑之前占社奉遷剣神︑⁝⁝

とあり︑宮酢姫が宝剣を奉斎し︑社を建てて祭ったことが書かれるが︑これは熱田社の独

自の記述であると同時に︑神社の起源に関わる重要な部分である︒﹁剣巻﹂ではそれが

⁝⁝草薙ノ剣ヲハ︑遠ノ柱ニ懸置給シヲ︑岩戸姫乞給ヒテ︑紀大夫カ田一夜ノ内ニ森

ト成リタリシヲ︑其森ノ杉ニ寄懸テ被置タリケルカ︑ヨナ〳〵剣ヨリ光リ立出ケルカ︑

彼杉ニ燃付テ焼ニケリ︒田ニ彼杉ノ焼テ倒タリケレハ︑焼田トソ申ケル︒又彼杉ノ焼

テ倒レ入タリシ時ハ︑田モ熱クヤアリケント云心ニテ︑熱田トハ名付タリ︒日本武尊

ハ︑白鳥ニテ松子ノ島ニ飛落給テ︑後ニハ神ト祝レ給ヘリ︒今ノ熱田大明神︑是也︒

岩戸姫モアカテ別シ中ナレハ︑終ニ神ト顕テ︑一所ニ祝ハレ給ケリ︒源大夫モ︑神ト

ナリ︑田作リノ紀大夫モ︑同ク神トソ祝ハレケル︒

となり︑岩戸姫が奉斎していたのかどうかすらはっきりとは書かれず︑日本武尊に関わっ

た者達が神として祭られたと書かれるのみである︒稲種公は熱田大宮司家の祖とされる人

物で︑熱田社にとっては重要人物であろう︒そうした人物を伝承から外してしまうことは

熱田社で作成されたものとしてはありえないのではないか︒

もし︑﹁剣巻﹂が熱田神話の影響を受けて成り立っている︑あるいは熱田系のテキスト  

から本文を直接借用しているのだとすれば︑自らのオリジナリティーが表れている稲種公

の記事や宮酢姫による宝剣奉斎などを割愛するのは不自然であり︑そうした点からも﹁熱

田系﹂という言葉の定義や︑熱田の神話と﹁剣巻﹂の関係は見直される必要があると思わ

れる︒

刀剣伝承の流行

﹁剣巻﹂が成立してくる背景には︑神祇説の影響以上に刀剣に対する興味関心の盛り上  

がりがあるのではないだろうか︒刀剣についての伝承は鎌倉時代頃からみられるが︑南北

朝以降室町時代にかけて大流行する︒それは﹃保元物語﹄﹃平治物語﹄﹃太平記﹄などの

軍記だけでなく︑公家日記にも刀剣の伝承を記録した記事がみられることからも推測でき

るのである︒主な日記を散見しても以下のような記事をみることができる︒

・﹃実隆公記﹄延徳二年十一月四日に左相府の重代の太刀﹁千鳥﹂の号の由来  

* 1 7

・﹃蔭涼軒日録﹄長享三年正月晦日に吉見家重代の太刀﹁鵜噬﹂についての伝承  

* 1 8

・﹃看聞御記﹄応永二十八年の紙背文書︵物語目録︶に﹁鬚切物語  

一巻﹂の記録  

* 1 9

・﹃看聞御記﹄永享八年十二月十日に﹁天狗切﹂という太刀についての記述  

* 2 0

こうした現象の背景には鎌倉後期から刀剣に銘が刻まれ始めたことがあるだろう︒﹃増

鏡﹄には後鳥羽院の刀剣鑑定に関する話が出てくる

* 2

ことから︑刀剣についてその銘によ1

って作者を判断し優劣を競う習慣がうまれていたことがわかる︒世俗の一般的知識を集

(5)

めた往来物の一つである﹃新札往来﹄︵康暦二年︶

* 2

には2

太刀刀之身︑昔之天国以後︑得其名鍛冶︑雖覃数百人ニ︑紀新大夫舞草・中比後鳥羽

院ノ番鍛冶・御製作者︑以菊為銘︒此外︑粟田口・藤林・国吉・吉光以下又三條小鍛

冶・了戒・定秀・千手院・尻懸・一文字・仲次郎︒此等ハ大略其振舞如ク剣ノ候︒御

所持候者︑少々可拝領ス候︒

と︑当時の名のある鍛冶が列挙されている︒

刀剣への関心が高まるなかで︑﹁刀剣伝書﹂  

* 2

といわれる一群の書物がつくられてゆくの3

だが︑それらの内容は刀剣の鑑定に必要な知識のみならず︑刀工やその刀剣についての伝

説︑刀剣の刃紋や疵による吉凶占いなど幅広い情報を集めたものであった︒例えば︿鍛冶

名字考﹀︵享徳元年( 一四五二年) の奥書有︶の︑﹁伯耆国住鍛冶等﹂の項の﹁実次﹂という

鍛冶についての記述をみてみると以下のようにある︒

 

号伯耆権守ト︒天武天皇ノ御宇︑慶雲年中ノ作也︒此作ノ太刀︑源氏伊与守帯之︒子  

息筑後守︑是ヲツタエ畢︒嫡子八幡太郎コレヲ伝タリ︒コヽニ後冷泉天皇ノ御宇天喜年中

ニ︑奥州五十四郡・出羽国十二郡管領ノ時︑安倍ノ貞任・宗任ツイハツノタメニ︑義家八

万騎ニテ相向︒十二年ノ合戦ニ︑奥州金崎クリヤ河ノ城セメヲトシ︑貞任召取テ頚ヲキリ

スヘテ︑アマル太刀ニテヒケヲキリ落シケル間︑ヒケキリト名付タリ︒又奥州舞草行重作

太刀相ソヘテ︑二振御ヒサウニ思食ケリ︒彼ノ実次ハ︑行重ヨリ寸法一寸ハカリ短シ︒行

                                                               

       

重ハ︑寸法長間︑ナヲスクレテ御ヒサウアリ︒アル日︑義家︑二フリノ□□立ナラヘ  

置給タリケリカレトモ︑サヤツカヨリ ︵ヌケ出カ︶□□□テ︑カラリ〳〵トヲトスルヲ見給候ヘ行

重□□□キツサキ一寸ハカリキラレ︑同シ長ニナリニケリ︒其ノ時ヒケキリヲ友キリト

名付給ウ︒又行重ヲハサヤツカニサシヲキ給テ後ニヌキテ見給ヘハ︑元ヨリナヲイツ

クシク︑寸法モトノコトクニ生ノヒタリ︒其時彼ノ行重ヲ若草ト名付給フ︒義家イヨ

〳〵二フリノ太刀御ヒサウ也︒子息六条ノ判官為義コレヲ伝給ウ︒其ノ子下野ノ守義

朝コレヲ伝︒友切ヲハ頼朝是ヲ伝︒子息実友伝之︒其後相模ノ守義時伝テ︑合戦ノ時

セウマウニヤキケルヲ︑陸奥守時頼︑此太刀ヲ行次ニヤカセテ有ケルヲ相模ノ守貞時

出家シテ︑西明寺禅門崇演許渡進タリケルヲ︑法華堂ニ彼ク納メタリ︒又此作ノ太刀

陸奥守宗宣一フリ帯之︒此作ノ太刀三十振我カ朝ニアルヘシ︒

ここに書かれた話は直接に特定の文学作品と比較検討が可能な種類のものではない︒しか

し内容は剣巻や仮名本﹃曾我物語﹄︑幸若の﹁剣讃嘆﹂などと類似しており︑おそらく巷

間に流布していた髭切の異伝の一つであろう︒刀剣伝書はこのような異伝を含むものでも

ある︒なお︑﹁剣巻﹂の説も髭切の説の一つとして参照されていたらしく︑文明十六年の

本奥書・天正十六年の書写奥書をもつ︿佐々木本銘尽

廿二  

不知国鍛冶等事﹀には次の  

ようにある︒

実次

源氏重代髪切作者也   ︵ママ︶

然ニ剣巻ニハ多田満仲大国ヨリ来鍛冶筑前国土山云所  

ニ在之

彼人ヲ召寄而打タル由見タリ  

無其名  

若此人歟  

或奥州行重云異説多之  

 

後満仲嫡子頼光相伝之

然ニ出羽守頼基  

時ニ後冷泉院御宇  

天喜比ノ奥州貞任退治  

之時

彼髪切被召出之  

満仲三男河内守頼信子伊予守頼義賜之  

其後義家為義朝頼家  

(6)

真朝相続之

同作陸奥守宗宣許在之  

定次同人タルカト云々  

刀剣伝書がこのように鍛冶や刀剣にまつわる伝承を述べることには︑興味関心の充足の  

ほかに︑鍛冶やその作刀に価値を付与する意味もあっただろう︒こうした性格をもつ刀剣

伝書は文学作品にも影響を与えていた形跡がある︒﹃平治物語﹄の鬚切の伝承をみると︑

古態とされる陽明文庫本には鬚切伝承そのものが存在しないが︑金刀比羅本﹁源氏勢汰へ

の事﹂になると︑以下のようにみえる︒

 

⁝白星の甲の緒をしめて︑鬚切といふ太刀を帯︑八幡殿奥州にて貞任を責られし時︑  

度々の間に生取千人の首をうち︑ひげながら切てんげれば︑鬚切とはなづけたり︒鎧に産

切︑太刀にひげきりとて︑ことに秘蔵して嫡々に譲しかば︑悪源太にこそたぶべかりしを︑

三男なれ共︑頼朝は末代大将とぞみ給ひけるにや︑頼朝にたびけり

* 2

4

それが時代が下って﹃平治物語﹄流布本﹁源氏勢汰への事﹂となると︑

 

さて鬚切と申は︑八幡殿︑貞任・宗任をせめられし時︑度々にいけどる者千人の首を  

うつに︑みな髭ともにきれければ︑髭切とは名付たり︒奥州の住人に文寿といふ鍛冶の作

也︒昔より嫡々に相伝せしかば︑悪源太こそつたへ給べきに︑三男なれ共︑頼朝さづかり

給けるは︑つゐに源氏の大将となり給ふべきしるし也

* 2

5

時代が下るごとに︑古態本にはなかった命名の由来が加わり︑次いで鍛冶﹁文寿﹂の名が

増補されていることがわかる︒こうした記事を増補する際︑参考となった可能が高いのが

刀剣伝書である︒﹁文寿﹂という鍛冶の名を刀剣伝書にあたってみよう︒現存するなかで

最も古いとされる︿観智院本銘尽﹀︵応永三十年(一四二三年)書写の奥書有︶時代別の項︑

大宝年中には︑

 

文寿  

むつの国住人けんしちう代ひ□き□  

       

といふ太刀のつくりなり  

とあるのがみえる︒肝心な部分が判読不能なのが残念だが﹁ひ□き□﹂は﹁ひけきり﹂と

読んでいいだろう︒流布本﹃平治物語﹄の記事は︿観智院本銘尽﹀の一項のように髭切の

作者を﹁文寿﹂とする説によったものと思われる︒﹃平治物語﹄にはこのように刀剣伝書

とも共通する記事の増補が見られることから︑伝書類に記録されたような刀剣に関する知

識が︑文学作品にも影響を与える存在だったことが言えるであろう︒﹁剣巻﹂もこうした

刀剣伝承の流行を背景に生まれたものと考えられないだろうか︒

﹁剣巻﹂は源氏の刀剣伝承に神話を取り合わせる形で形成されており︑本としての傾向  

は︑刀剣の由来やその霊威を述べて刀剣の価値づけをする刀剣伝書に近い︒こうした刀剣

への興味の盛り上がりを背景に剣巻が生れてきたのだとすれば︑その成立は刀剣への興味

が増大する南北朝期以降となるであろう︒

さて︑同じ︿観智院本銘尽﹀の︑﹁剣作鍛冶前後不同﹂の項には  

 

諷誦  

ひけきりお作  

とあるのがみられる︒︿鍛冶名字考﹀︵享徳元年( 一四五二年) の奥書有︶にも似たような記

事があり︑

 

諷誦  

平家ニ小烏ト云太刀作者也コノ小烏ハカマクラノ法華堂厨子ニコレヲヲサメラ  

ル又切居ト云太刀ノ作者トモ云ヨロイ武者ヲキリスヘケルユヘニキリスヘト名付タリ又源

氏重代ノヒケ切ノ作者シラスト云ヘトモ実ニハ諷誦之作ト云々

となっている︒﹁髭切﹂の作者として先に挙げた文寿のほかに諷誦という名がみえる︒そ

(7)

の他にも数名の鍛冶が挙げられている︒

実次

源氏重代の髭切・膝丸・薄緑・鬼丸と同作なり︒別所家あり︒かの髭切は城奥  

州禅門合戦の後相模守師時尋ね出して所持しぬ︒其後最勝寺禅門宗宣の許におくりし

を︑大将法華堂に納められ畢︒一は陸奥守宗誼がもとにありしとなり︒かのひげ切は

筑紫より一人の鍛冶上洛してうつといえども︑誠は八幡大菩薩人と現じて打ち給うと

云う︒よくよく口伝あるべし︿喜阿弥本銘尽

不知在国鍛冶次第不同﹀  

実次

大同年中ノ鍛冶也︒平城天王御宇者也︒源氏重代ノヒケ切ト云太刀作之︒又彼  

作太刀︑城奥州禅門︑弘安九年十一月十七日合戦ノ時︑尋出シ︑相模守師時ノ卿︑サ

イセウヲンシ殿︑法華堂ニ取レ畢︒炎上ニ依テ焼畢︒其已後焼ナヲス間︑昔ヨリソリ

高シト云︒此造太刀一上野殿ニアリト云︒又彼作太刀大仏アウセウ宗奥御方ニアリト

云︿長享銘尽﹀

宝寿

源氏ノヒケ切作也︿芳運本銘尽﹀  

文寿

けんしちうたいのひけきりさくしやといふりゃうせつ︿三好下野守本能阿弥銘  

尽﹀

実次

源氏重代ひけきりこのさくといふせつもあり︿三好下野守本能阿弥銘尽﹀  

文寿

文武天王御宇  

或源氏重代髪切作者云事在之︵佐々木本銘尽   ︵ママ︶

十五陸奥国鍛  

冶事︶

 

︵ママ︶髪切膝丸

・實作異説多之  

*﹁左馬権頭源満仲太刀也﹂と傍書︿佐々木本銘  

廿九昔鍛冶霊剣作者事﹀  

文寿

みちのくにのちう人  

けんしちうたいのひけきりといふ太刀  

これかつくり︿  

鍛冶銘集

陸奥国物﹀  

文寿

*﹁舞種カ﹂と傍書  

 

陸奥国

住人げんじちう代のひけきりといふ太刀これをつ

くる︒から人なり︒ひけきり満中のうたせらる︒ひさ丸といふ太刀おなし時にうたせ

らるゝなり

口伝在之︿利永本銘尽﹀  

宴寿

平泉住  

唐人也  

源氏重代ヒゲキ□□□□  

又ヒサ丸ト云モ同作也︿直江本銘  

尽﹀

鍛冶の伝承は刀剣伝書間でもいくつかの異説があり︑しかも﹃観智院本銘尽﹄が﹁文寿﹂

と﹁諷誦﹂の二説を載せていたように︑一つのテクストの中にも異なる説が混在する︒こ

の異説は﹁文寿﹂が﹁ブンジュ﹂とも読めるため︑それを書写する際に﹁フシユ﹂等と書

かれるなどして生じた異同が別の鍛冶の説として定着したものではないかとも推察できる︒

事実︑﹁実次﹂﹁宝寿﹂﹁宴寿﹂等︑書写の際の誤字と思われるものも多く︑それも異説

を生むもとになったのではないか︒こうした現象について︑﹁髭切﹂と称する太刀が複数

存在したと考える説もある︒しかし﹁源氏重代の髭切﹂と聞いて人々が想起する太刀とい

えば︑﹁剣巻﹂等で語られた︑頼朝の手元にあった﹁髭切﹂だったのではあるまいか︒だ

(8)

からこそ﹁源氏重代の﹂とわざわざ断るのであろう︒髭切の伝承に限らず︑刀剣伝書の中

に矛盾する説が混在するというのは珍しいことではない︒むしろ︑殆どの伝書が矛盾する

説をいくつも内部に抱えている︒刀剣伝書に限っていうならば︑中世の間︑ある説を正統

としてそれにそぐわぬものを排除してゆくという姿勢はまずみられない︒むしろ様々な説

を包括してゆく傾向にある︒注釈が諸注集成となってゆく傾向は︑中世の学芸の世界にあ

る程度普遍的に見られる現象でもある︒一五世紀知識人の思考について﹃文学﹄︵二〇〇

八年五︱六月号

岩波書店︶の座談会﹁一五世紀の文学﹂の中で佐々木孝浩は﹁信じると  

か信じないという問題ではなくて︑﹁それは知っている﹂と言うことが重要で︑何でも融

通無碍になってしまう︒﹂と語っている︒これは当時の知識人たちの宋学受容に関しての

発言であるが︑学問全般においても言えることであろう︒中世人の思考の基本的なパター

ンが諸注集成を指向していたと思われるのである︒

﹁剣巻﹂が作られ流布していった南北朝期・室町期は︑﹁衒学的﹂傾向の強い時代でも  

ある︒それも中世人の思考のあり方が諸注集成的であったからと言えよう︒﹃太平記﹄は

物語の本筋から逸脱するほどに古今東西の故事を引き︑仮名本﹃曾我物語﹄では曾我五郎

と母とが大量に仏典を引用し論争する︒知的欲求の強さを示すものとも言えるが︑それ以

上に︑ある出来事や物語に対し︑それをどのようなものとして理解したか︑ということを

示すために︑﹃太平記﹄や﹃曾我物語﹄の作者たちは大量の故事を引用するのである︒そ

れは︑自らの知識をひけらかしたいというよりは︑ある物事を説明するために﹁自然と﹂

物語が想起されてしまうという知の傾向である︒こうした傾向は必然的に大量の知識を必

要とする︒想起し得るものが何もなければ︑世界が一つも理解できないからである︒それ

が普く知識を網羅しようという欲求となり︑特定の器物に対して﹁名物﹂をあつめた本を

生み出す元ともなっているのだろう︒﹁剣巻﹂では熱田に関わる神話が大量にとられてい

るが︑それは熱田と作者との関わりというよりは︑草薙剣に関する知識を余すところなく

披瀝しようとした結果であると考えたい︒草薙剣の伝承を集めれば︑自然とそれを奉祭す

る神社の伝承が多く入り込むであろう︒刀剣にまつわる知識の幅広さもそのような思考パ

ターンを背景にしていると思われる︒

もう一つ︑刀剣の伝承が増補される理由として︑刀剣の伝説が家の歴史を象徴するもの  

であったと思われることが挙げられる︒鍛冶や刀剣にまつわる伝説は︑それがいかに由緒

正しい霊力のある太刀であるかを語り︑その所有者の正当性を保証する役割を果たす︒そ

のあり方は︑天皇支配の正当性を語る記紀神話の有りようとも重なるものである︒それを

証明するかのように︑刀剣伝書には刀剣の起源を神話に絡めて語るものが多く︑和歌注釈

の中で醸成された中世日本紀とはまた違った日本紀の世界が展開されている︒先に取り上

げた熱田の宝剣についての言及も多く︑

夫神代之剣号天村雲剣︑而人皇十一代崇神天皇ノ御時被召之︑両目一神末子於大和国

宇多郷被□之︑以来代々御門之宝剣是也︒其後八十一代安徳天皇之御宇︑元暦二年平

家西国没落之時為長門国団浦終海底訖︑其正本之剣留宅残熱田社于今不絶在之云々︒

後改草薙剣︑次天虵切剣︑十柄剣是也︿喜阿弥本銘尽﹀

熱田の剣は素戔嗚尊の宝剣切り出したる剣なり︒然るを後鳥羽院七条中納言家盛を使

者として御拝見あり︒末代もし神剣を犯し掠める事ある時の為にもと七の剣に作らせ

本社に納めらる︒是を八剣と云う︒其時召されし作人名□也︒︿喜阿弥本銘尽

上古  

(9)

太刀銘﹀

村雲剣  

帝釈天御作  

*﹁尾州熱田宮在之云説在之﹂と傍書︿佐々木本銘尽﹀  

夫神代之剣

号天村雲剣  

而仁皇十代之御門  

崇神天皇御時被召之  

両目一神末子於  

大和国宇多郡

被写之  

以来代々御門宝剣是也  

其後八十一代御門安徳天皇御宇  

元  

暦二年

平家西国没落之時  

為長門国団浦終沈海底訖  

其正本之剣留宅残熱田社之  

 

今不□在之

後改草薙剣  

次天虵切剣  

又十柄剣是也︿利永本銘尽﹀  

夫神代ノ御ツルキワ

アマノムラクモト号  

然ニ人王十代ノ御門宗仁天王之御代ニ  

 

大和国宇多郡ニ是ヲ遷シモヨリ以来

代々霊王ヨリイマノ御ホウケン是ナリ  

其後八  

十一代ノ御門

安徳天皇之御宇  

元暦二年  

平家西国没落之時ニ  

長門国ダンノウラ  

ニヲイテ

ツイニ海底ニ沈ヌ  

カノ御ケンワ  

又尾張国アツタノ御社ニ留ル  

八剣宮  

トテ今ニ在之

其御クサナキノケント号  

天蠅切剣又十ツカノ剣︿直江本銘尽﹀  

刀剣伝書に語られた神話は︑天叢雲剣から語り起こされ︑熱田の宝剣が神話の時代から継

承された天叢雲剣であることを述べている︒︿長享銘尽﹀ではそれがさらに複雑化し︑

△夫剣ト者

神祇ノ精也  

雖為神道秘密  

愚者不知剣之徳威  

天現アカメス  

未天地  

開白前ニ天神七代トテ御座

是則五形之精也⁝︵天神七代の説明省略︶⁝夫婦儀為神  

始祖

大日孁ノ尊前之二神一女也  

此二神昔天浮橋上ニテ共ニハカリテ云  

此下ニナ  

トカ国無ランヤト云テ

天ノマ鉾ヲ差ヲロシテ探リ給フニ  

天原ノ三アツテ敢物無  

 

其鉾ノ滴ノウシヲコリカタマリテ一ツノ嶋ト成リ

今ノ淡路島是也  

二神下テ夫婦ト  

成給フ

始テ一女三男ヲ産給フ  

日神・月神・蛭児・素盞烏尊是也  

サテ淡洛国ニ宮  

作テ住給フ

此七代ヨリ天ノマホコヲ以天地開出給フ也  

自此代伝所ノ剣三有  

一ハ  

大和国布留大明神ニ有之

一ハ内裏ニ有之  

一ハ尾張ノ熱田宮ニ有之  

何モ名ハ秘事  

也⁝︵地神五代事省略︶⁝釈迦仏出世此末ニ当ルト云

如是十二代ヲ書事  

為令剣本  

洦知也

治天下八十三万六百四十二年ナリ  

以上十二代木火土金水ノ形也

剣ノ作法ヲ為合知書畢  

故天神之時ハ沼土瓊ノ尊ハ剣  

神也

地神之時ハ素盞烏尊剣之神也  

サル程ニ素盞烏尊  

賞罰スクナル故ニ  

御心武  

クシテ世ヲ治給フ地神ノ御時

兄日神ニ戦給フ  

日神ヲ天ノ岩戸ニ退篭給フニヨテ  

 

六年ノ間闇ト成テ

夜昼ノ分無  

サルホトニ大和国天ノ香久山手力男尊又ヲネミノ尊  

八万ノ神達ヲ率シテ素盞烏尊ヲ打奉ルヘキヨシヲ日神ニ申サレケレハ  

日神ノ給■  

サ有ハ多ノ神達ノ□給ン事不使成云テ我行テ退治セントノ給フ  

此時ヲ素盞烏尊聞  

シ召テ

悪神達魔太羅神及一千ノ神達ヲ語テ大和国宇多ノ野城ヲ構テ  

八歯ノ剣ヲ一  

千本立テ待居給フヲ

日神彼城ヲ行給イテ  

立並タル八歯剣ヲ一足ニ■破テケリ  

去  

程ニ悪神恐ニケサル

素盞烏尊ハ住所ナクシテ  

出雲流ル嶋アリ是ヲ我住家ニセント  

摩玉フニ  

流留尊其嶋ニ宮作シテ住ス  

今年摩嶋是剣神也  

可秘々々  

故ニ神代  

ヨリ三ノ剣事

一ヲ十欛剣ト名ク  

一ヲ草薙剣ト名付  

一ヲ村雲ト名付事  

素盞烏尊  

後手嶋ニ住シ給フ時

奥ノ方ヲ御覧スルニ  

八色ノ雲立テ見タリ  

尊行テ見給ニ  

老  

翁一人美キ女子ヲイタイテ泣居タリ

尊向テ云  

汝ハ何ヲナケクヤ  

翁答云  

我ハ是  

天神ノ弟ニ

国狭槌ノ尊ノ末ニ  

名ヲハ足ナツミノ尊ト申也  

天神ノ世ヨリ衰ヘテ下  

(10)

位ト成テ居タリ

又懐タル女子ハ  

我等カ姫也  

去間  

海中ヨリ八頭龍出テ  

多クノ  

人ヲ取ル

今ハ此姫ヲ取ラントス  

是ヲ悲テ泣ト云  

尊聞召テ  

サテハ不便ナリトテ  

サモアラハ其姫ヲ丸ニ取セヨ  

扶ケン  

サラハ妻セント  

ノ給ヒテ  

軈テ可奉  

我  

ハ是天神ノ末也君ハ何人ソ

尊答給フ  

我ハ是天照大神ノ弟ニ素盞烏尊トハ我也  

サ  

テハ嫌フヘキニアラスト云テ

姫ヲ奉ル  

去程ニ尊ハ八船ニ酒ヲ湛テ浮テ  

湯角爪櫛  

ヲ八造テ

姫ノ首ニ指テ置  

是ハ海松ノ根ニテケツル也  

去程ニ海ヨリ龍出テ八船ニ  

頭ヲ入テ酒ヲ呑

酔テ睡臥タリ  

彼八ノ櫛ノ八龍ト成テ敵龍ヲクラヒタリ  

尊モ剣ヲ  

以テ切玉フ也

剣神ノ徳ヲ顕也  

又彼龍ノ尾ヨリ八色ノ雲立上タリ  

彼ヲ破ヲ御□□  

ルニ

帯ル霜ヲ剣アリ  

是ヲ取テ持玉ヒ  

日神ニ中ヲナヲリ玉フ時是ヲ奉  

今ノ村雲  

ノ剣是也

努々剣ヲ不可軽  

天地不開先ナリ  

昔天祖自天降坐以来  

至テ神武天皇元  

年及合一百七十九万二千四百七十九億歳ト云

是ヲ全名尽トハ不可得心  

諸大公ノ御  

所持ノ宝物其見所斗ヲ荒々拾集テ書記ス

故名付テ私用書ト云  

不可外見之  

︿長享銘尽﹀は精力的に神話を語る︒それは剣が﹁神祇の精﹂であり︑神聖な威力を秘め

た霊器であることを強く訴えるための行為である︒中世において︑刀剣は単なる武器では

なかったのである︒それは神代の昔から存在し︑神秘的な力を有し︑所持者の家の由緒を

支える根拠となるものであった︒

刀剣について語る時︑神代から語り起こすというのが刀剣伝書の一つのパターンだった  

としたら︑﹁剣巻﹂が熱田の宝剣について語るのもそれを踏まえているのだとはいえない

だろうか︒

剣巻の時代性

剣巻には時代を反映しているとみられる記述がある︒まずは︑安徳帝とともに海に沈ん  

だ宝剣を複製であった︑とする記述である︒

⁝⁝代カ世ニテ有程ハ︑カクコソアリケレ︒後ノ宝剣モ霊験劣リ給ハス︒平家取テ都

ノ外ニ出テ︑二位殿ノ腰ニサシテ海ヘ入給ヘトモ︑上古ナラマシカハ︑争カ失スルヘ

キ︒末代コソウタテシケレ︒カツギスル海士仰セテ是ヲ求メ︑水練スル者共ヲ入テ尋

シカトモ見ヘス︒竜是ヲ取テ竜宮ニ納テケリ︒終ニ不出来︒︵中略︶⁝⁝八俣ノ大蛇

ト其体ヲ示サンカ為ニ︑八歳ノ帝顕レテ︑本ノ剣ハ叶ハネハ︑後ノ宝剣ヲ取持テ都ノ

外ニ出テ︑西海ノ波ノ底ニソ沈ミケル︒﹁終ニ竜宮ニ納マリヌレハ︑叶ヘキニ非ス﹂

トソ︑人ノ夢ニ見タリケル︒

宝剣の複製については古く﹃古語拾遺﹄から言われてきたが︑それが壇ノ浦での宝剣の紛

失と関連付けて言われるようになるのは南北朝期︑特に北畠親房の﹃神皇正統記﹄

* 2

に﹁⁝6

⁝宝剣モ正体ハ天ノ叢雲ノ剣︵後ニハ草薙ト云︶ト申ハ︑熱田ノ神宮ニイワヒ奉ル︒西海

シヅミシハ崇神ノ御代ニオナジクツクリカヘラレシ剣也︒ウセヌルコトハ末世ノシルシニ

ヤトウラメシケレド︑熱田ノ神アラタナル御コト也︒﹂と書かれて以降である

* 2

︒親房の歴7

史認識を﹁剣巻﹂が支えているとは考えにくいため︑﹁剣巻﹂の方が親房的な歴史の解釈

の上に立脚しているといえる︒すると︑親房の説と同じ内容をもつ﹁剣巻﹂は︑﹃神皇正

統記﹄以降︑つまり南北朝以降に成立したと考えられよう︒また︑﹁剣巻﹂では源氏重代

の剣が︑改名を繰り返しながら嫡流に相伝されていく構成になっているが︑そこには明ら

(11)

かに源氏称揚の傾向がみられる︒例えば﹁鬼丸﹂という太刀についてである︒

⁝綱ハ兼テ心得タリケレハ︑少モ不騒︑此料ニコソ持タル剣ナレハ︑帯タル鬚切ヲサ

ト抜テ︑空様ニ鬼ノ手ヲ切ル︒キリハツレハ︑綱ハ北野ノ社ノ廻廊ノ上ニ動トソ落タ

リケル︒鬼ハ手乍被切︑アタコノ山ヘ向テ飛行クコソ怖シケレ︒︵中略︶サテ此鬚切

ヲ︑鬼ノ手ヲ切テ後︑名ヲ改メテ鬼丸ト名ツク︒

以上は剣巻の﹁鬚切﹂という太刀が﹁鬼丸﹂と改名される話だが︑ここでは渡辺綱が一条

戻り橋で鬼を切ったことにちなんで﹁鬼丸﹂と名づけられている︒﹃太平記﹄

* 2

にある同じ8

﹁鬼丸﹂という名の太刀の由来は︑﹁剣巻﹂とだいぶ異なったものになっている︒﹃太平

記﹄では︑北条時政が夜な夜な小鬼に苦しめられていると︑ある夜︑太刀の精が夢枕にた

ち︑穢れた手でさわったため刀が錆びてしまっているので身を清めた人に刀の錆をぬぐわ

せるように告げ︑時政がそのとおりにして刀を立てかけて︑火鉢にふと目をやると︑火鉢

の台に銀細工の鬼がはめ込まれているので︑夢に出てきた鬼に似ていると思って見ている

と︑立てかけておいた太刀がひとりでに倒れ掛かってその鬼を切った︑という話になって

いる︒これでは鬼丸は源氏の重代ではなく北条氏の太刀だったことになる︒こうした伝承

の違いを考えるため﹃観智院本銘尽﹄をみてみると︑

助綱

あわた口︑ほうくわうし殿御代めし下されおに□作なり︑太刀刀ともにまれ也  

大きりやすり︑かまく□のくろまをうち︑とうさこんとかうす正和五年まては

百卅年也

とあり︑鬼丸を北条氏の太刀だとしている︒︿観智院本銘尽﹀では﹁ほうくわうし殿﹂︑

つまり最初の所有者を時宗としているが︑北条氏の太刀であるという部分は﹃太平記﹄と

同じである︒︿観智院本銘尽﹀は書かれた時代の異なる複数の章からなっており︑慎重な

判断を要するとはいえ︑鎌倉後期に遡れる要素をもっている︒この内容も慎重に扱わねば

ならないが︑﹃太平記﹄が最初の太刀の所有者を時政としているのにたいし︑伝説的人物

にまで遡らず時宗としているところなど︑﹃太平記﹄の影響を受けたとも言い切れない面

がある︒

国綱

本は粟田口の住人なり︒西明寺殿の御時よりかまくらにめされ山内に住す︒其  

の作の太刀に鬼丸と云う一振あり︒その故は銕火鉢の足に鬼のおもてを鋳付けてあり

しを︑此太刀にて抜打ちに切り付けたりしかば︑真二つに切れたりとて鬼丸と名付く︒

又前鬼という太刀一振あり︒この鬼丸より前に打ちたる故前鬼と云う︒此作はいづれ

も剣なるべし︒板目の物なり︒打込みやきは︑のたりやきは︑細直︑中直︑広直やき

はもあり︒かねの色ふつうに替りたり︒正本みね鉄を入れたりと云う︒︿喜阿弥本銘

相模国鍛冶次第不同﹀  

︿喜阿弥本銘尽﹀は﹃太平記﹄とほぼ同様の説を載せる︒こちらでは鬼丸の最初の所有者

を﹁西明寺殿︵最明寺殿︶﹂︑すなわち北条時頼としている︒伝書の世界では鬼丸は西明

寺殿の太刀というのが大勢であったらしく︑︿鍛冶名字考﹀では

国綱

藤六左近入道鎌倉西明寺入道時山内住道崇剣鬼丸作真国ト銘ヲ打云々  

国綱

本ハ粟田口ノ住西明寺禅門ノ時山内住  

とある︒﹁道崇﹂というのは時頼の法名だが︑それを理解できていない伝書も多く︑﹁道﹂

の字を落とした挙げ句︑﹁道崇﹂の﹁崇﹂が太刀の号﹁鬼丸﹂とくっついて﹁崇鬼丸﹂と

なっているものをよく見かける︒

(12)

国綱

藤六左近入道西明寺殿崇鬼丸作者  

四十二歳よりかまくらの山のうちにすむ  

 

一の見ところには

やきはみたれて  

しのきの上まてやくなり  

されともいてきあし  

はあさくいりて

にこりあしいりたり  

国綱の二したかねめほそくうつくしくうつ  

 

又国綱の二したかね同ふとりて

綱の字のつくりに  

岡といふしをうちたるは  

つく  

しひこの国菊池にすみたる国綱なり

代下すくなるへし  

やきのあしもいてあしもふ  

かく入て

はたあらく  

ちかねのいろあをし︿三好下野守本能阿弥銘尽﹀  

国綱

藤六左衛門入道西明寺殿崇鬼丸作者  

四十二歳ヨリ鎌倉山内ニ住  

一ノ見所ニ  

刃乱テ  

シノキノキハマテ焼ナリ  

サレ共  

イテアシハアサク入テ  

ニコシ足入ナ  

国綱ノ二字  

タカネ目細ウツクシク打ナリ  

又国綱ノ二字  

タカネ目フトクテ  

 

綱ノ字ノツクリニ

岡ト云字ヲ打タルハ  

筑紫肥後ノ国菊池住タル国綱ナリ  

代下直  

刃ノアシモイテアシフカク入テ  

ハタアラク  

チカネノ色青シ︿宮元盛本能阿弥  

銘尽﹀

国綱

つかの身︒よこやすり︒しのき□︒さきまてとをして︒さきふつきれなり︒刀  

はすちかい︒やすり︒はもみねも︒四方なり︒さひみやうしとのおにまる︒これ□つ

くり︒さきのおに︒とうさく也︒くとう三郎さへもん尉︒くてんこれあり︒︿利永本

銘尽﹀

国綱

藤六  

建仁比鎌倉西明寺入道〃崇太刀鬼丸之作者也  

此時ヨリ相模国山内住  

 

号左近允

但彼太刀此作乱焼刃也  

広直焼ニテ少乱在之  

中心ハ峰少丸シ︿佐々木本  

銘尽

三粟田口鍛冶事﹀  

鬼丸  

粟田口国綱作  

*﹁平相模守時頼也﹂と傍書︿佐々木本銘尽  

廿九昔鍛冶  

霊剣作者事﹀

以降︑刀剣伝書の世界では最初の所有者が時頼で︑国綱という鍛冶の作った北条氏の太刀

であることが定説となっていくが

* 2

︑それは︑鬼丸という太刀は北条氏の物であるという共9

通認識が広く存在したことを表している︒﹁剣巻﹂はそれを頼光が鬚切を改名したものと

しているが︑それは鬼丸という刀剣の由来を︑北条氏の重代から源氏重代へ書き換えるこ

とである︒

同じことが﹁小烏﹂という太刀についても言えよう︒﹃平家物語﹄にも名前の見える  

* 3 0

小烏の太刀は有名な平氏重代の太刀だが︑﹁剣巻﹂ではそれを

⁝責テノ余ニヤ︑重代シテ持タリケル一具ノ剣ヲ取放テ︑吠丸ヲ聟引出物ニソシケル

教真別当此剣ヲ得テ︑﹁是ハ源氏重代ノ剣ナリ︒教真カ可持剣ニ非ス﹂トテ︑権現ニ

進テケリ︒為義一具ニテ持タリケル剣ヲ引放タリケレハ︑片手無様ニソ覚ヘケル︒無

心元マヽニ︑吉鍛冶ヲ召シ登セテ︑獅子ヲ本ニシテ︑﹁少モ不違作﹂トテ造ラセタリ

ケルカ︑殊勝ノ剣ナリケレハ︑喜事不斜︒目貫ニ烏ヲ作リテ入タリケレハ︑小烏トソ

名付タル︒

と︑為義が作らせた太刀としてしまっている︒刀剣伝書の世界では﹃源平盛衰記﹄や﹃平

治物語﹄にあるのとほぼ同じ小烏の由来譚を伝えている

* 3

1

天国

大和国宇多郡者也︒平家重代之小烏と云太刀造之銘云々︒大宝三年天国と打︒  

(13)

三尺六寸五分︒すかたは長太刀のゑをきりたるかことし︒ゑの身みしかし︒此太刀を

こからすと︒なつけられける事は︒桓武天皇南てんにまし/\て︒こくうを御らんし

けるに︒おのつからくもの中より︒からすとひいて︒其時御笏をもつて︒まねきめさ

れけり︒からすちよくめいにしたかつて︒とひくたり︒御座の御へりにくちはしをか

けて︒そうし申さく︒我これ太神宮より︒けんの︒御ししや︒まいれりとて︒はねつ

くろいして︒まかりたつけるか︒ふところより一の太刀をおとしとゝめり︒からすの

ふところよりいたしたる物なれはとて︒すなはち︒こからすとめされけるとなり︒一

説如此︒︿利永本銘尽﹀

天国

大和国宇多郡のものなり︒へいけ重代のからすとゆふ太刀これかつくる︒めい  

には大宝三年天国とうつ︒二尺六寸五分︒すかたななきたのゑをきりたるかことし︒

つかの身みしかし︒此太刀をこからすとなつけらるゝことは︒桓武天王なんてんに御

座あつて︒こくうを御らんしけるに︒雲のなかよりからすとひいつの︒御さのへりに

くちはしをかけて︒奏して申す︒我はこれ太神宮より釼の御つかいにまいれりとて︒

とひたちけり︒そのふところより︒一の太刀をおとしたり︒からすのふところよりい

てたる物なれはとて︒すなはち小烏とてされけり︒︿鍛冶銘集﹀

天国

⁝⁝ヤマトウタノ郡ノ住人ナリ︒仁王四十四代文武天王ノ御時代ノカジナリ︒  

平家重代ノコガラストイウ○剣コレヲサク︒メイニワ大宝二年八月廿五日天国ト打︒

カノツルキワ︒二尺六寸五分也︒ナリハ︒ナキナタノツカミヲキリタル︒ミシカシ︒

此タチヲコガラストナヅケタルコトハ︒クワンム天王ナンデムニギヨシユンアリケル

ニ︒クモノ中ヨリカラス一ドビワタリケル︒ソノ時御カド御シヤクヲモツテ︒マネカ

セタマイケレバ︒カラスチヨクニシタカイテトビクタリ︒御センノミハシノ上ニ居申︒

ワレワコレ︒伊セ大神宮ヨリ剣ノ御ツカイニ参タリトテ︒スナハチドビサリケリ︒ソ

ノアトニ︒カラスノフトコロヨリ出タルニヨリテ︒コガラストメサレケリ︒カノドウ

サクノツルキ︒三浦ノ一門ワダノヨシモリサウデン︒又木枯ヲコガラスト一説モアリ︒

平家ノ重代トモキリトテメイブツナリ︒︿直江本銘尽﹀

天国

大宝年中鍛冶也︒宇多郡住︒平将軍貞盛ヨリ平家重代の小烏作者也︒三浦和田  

三郎持之︒又此作太刀足利武蔵守義氏所持之︒此太刀ヲ小烏ト名付タル事ハ︒桓武天

皇南殿ニ御座在テ︒虚空ヲ御覧スルニ︒空ヨリ烏飛出︒御笏ヲ以召サレケル︒烏勅命

ニ随テ飛サカリ︒御前ニテ口ハシヲカケテ奏シ申サク︒我ハ是太神宮ヨリ釼ノ使ニマ

イリタルトテ︒羽ツクロイシテ一ノ剣ヲヽトシタル間︒小烏ト名付タリ︒⁝⁝︿宮元

盛本能阿弥銘尽﹀

天国

大和国宇多郡ノ者也︒大長七年丁酉︒御即位ノ門ヲハ文武天皇ト申︒神武ヨリ  

四十二代也︒大宝年中ノ御宇也︒平家重代ノ小烏ノ作者︒名ハ大宝三年天国ト打︒二

尺六寸五分也︒スカタハ長刀ノ中子を切タル如シ︒柄身ミシカシ︒此太刀ヲ小烏ト名

付ル事ハ桓武天皇南殿ニ御座時︒虚空ヲ御覧スルニ︒一ノ烏舞遊︒御門御笏ヲ以招キ

給フ︒勅ニ随テ飛来︒御座ノ御ヘリニコロハシカケテ︒剣ノ御使ニ参レリト云テ飛立

(14)

シカ︒懐ヨリ一ノ太刀ヲ落タリ︒故ニ則小烏ト名付也︒⁝⁝︿長享銘尽﹀

天国

大ほう年中のかぢ也︒へいけぢうだいのこがらすといふたちのさくしやなり︒  

此たちを︑くわんむ天皇︑なんでんに御ざありて︑こくうを御らんぜらるるに︑くも

の中よりからすとびきたり︑御しやくをもつてめされければ︑ちよくめいにしたがつ

て︑御まへのつちにくちはしをかけてそうし申すやう︑大じんこうよりもつるきのつ

かひにまいりたりとて︑このたちをおとすといふ︒かるがゆへにこがらすといふ一せ

つあり︿享禄比写刀剣書﹀

以上が主流な平家の小烏の伝承である

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2

そ の

他に

も 桓

武天

皇 が

関わ

る も

のと

は ま

た別

の 伝

承も見られるが︑それは以下のようなものである︒

天国

大宝年中文武天皇御宇鍛冶也︒平家重代小烏云太刀作者也︒号小烏由緒者︒将  

門平新王追罰之時︒為副将軍陸奥守貞盛朝臣東国進発︒作太刀帯之処︒将門以平法之

術︒今分身八騎之時︒一人之甲天辺ニ小烏居間切之故也︒亦此作足利武蔵守義氏持之︒

亦三浦和田三郎持之︒古本云︒天国者︒帝釈御作村雲剣ヲ︒人皇代ニ大和国宇多郡而

天国鳫之為宝剣由也︒日本記我之鍛冶銘雖無之︒天国宇多郡住人也︒其旨銘尽教本在

之︒無不審此事ヲ帝釈御作村雲剣同事ト︒我之にて古人住之︒尤信用之︒後ニ奥州下

云々︒︿佐々木本銘尽﹀

号小烏之由緒ハ︒将門追討之時︒将門以兵法之術︒全分身八騎之時︒一人ノ甲ノ  

テヘムニ小烏切レハ間︒如此号云々︿芳運本銘尽﹀

平将門の影武者伝説の影響を受けた説である︒将門の影武者伝説の生成・発展などの詳細

は村上春樹﹃平将門伝説﹄︵汲古書院

二〇〇一年︶に詳しい︒七人と伝承される将門の  

数も︑影武者が六人に本体一人の七騎とするものと︑影武者が七人いたとするものに大別

できるようだ︒お伽草子﹃師門物語﹄は﹁おなじやうなる武者八騎出たまへばいづれを将

門とも見もはかず︒﹂といっているので︑伝書に見える説もこのような影武者を七人とす

る説によったもののようだ︒ここでは七人将門の伝説については深く触れないで︑︿利永

本銘尽﹀に﹁一説如此﹂︑︿享禄比写刀剣書﹀に﹁一せつあり﹂とあるように︑小烏をめ

ぐる伝承も一つではなかったことを押さえておきたい︒一つの刀剣に対して複数の説が存

在したのである︒しかし︑小烏が平家の太刀であったという認識は共通していたようだ

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3

このような刀剣伝書などの記述から︑﹁剣巻﹂に名称があらわれる刀剣は︑当時すでに  

名剣と呼ばれるような品々であったことが想像できる︒名剣︑特に武家の刀剣にまつわる

伝承はいつ頃から語られだすのだろうか︒刀剣伝書の作られ始めた鎌倉期からあったとも

考えられるが︑軍記に取り入れられていくのは︑もっと時代が下ってからのように思われ

る︒名剣の物語は︑古態本ではなく︑後出の本文により詳細に記される︒﹃太平記﹄にな

ると古態本の段階からまとまった形で見られるようになる︒となると﹁剣巻﹂の成立はや

はり南北朝期を遡らないと言えるだろう︒そしてその成立の下限は︑屋代本の書写年代が

応永頃とされていることや︑長禄四年には単独で流布する﹃剣巻﹄︵長禄本平家剣巻︶が

みられることなどから︑室町初頭を下らないと言えそうである︒

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おわりに 

以上︑﹁剣巻﹂の生成にかかわる文化的背景をみてきた︒近年︑神道説の側からの検討

が盛んにおこなわれ︑熱田の伝承と関わりが深いと言われてきた﹁剣巻﹂だが︑熱田の伝

承との関わり方には︑﹁熱田系﹂という言葉の示す範囲も含め︑再考の余地があることを

指摘した︒

また︑南北朝︑室町という時代のなかで刀剣への興味関心が増大し︑刀剣伝承が流行し  

たという事実は﹁剣巻﹂の生成を考える際に看過してはならないと思われる︒現在︑刀剣

伝書に対する文学側の調査・研究は始まったばかりであり

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︑まだ不明なことが多いが︑刀4

剣伝書が︑﹁剣巻﹂とその他の軍記などの間で伝承が混乱しているといわれているものに

ついて︑考察の手がかりとなることは確かであろう︒太刀伝承の生成と変容の過程を追う

ことは︑それを通じて形成された軍記物における武将やその佩刀についての共通理解を知

ることになる︒それは小さいようでいて︑軍記物というジャンルがいかに受容され物語が

再生産されたかという大きな問題へとつながっている︒

よって︑今後﹁剣巻﹂を含め軍記物の研究には︑諸本間の比較検討に加え︑刀剣伝書な  

どの資料も検討していくことが必要である︒

参照