紅 野 謙 介 中里介山 の 読書 と 個人雑誌

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1  介山の読書

中里介山というこの特異な作家と代表作﹃大菩薩峠﹄につい

て考えるとき︑思い浮かべるひとつの証言がある︒介山の門人

のひとり高野孤鹿の﹁中里介山先生の追憶

﹂というエッセイで 1

ある︒

私にとって大いに勉強になったのは︑資料索引の製作で あった︒ 先生は昼夜の別なく︑意のおもむくままに︑あらゆる方面の書籍を猛烈なスピードで読破された︒端座の時もあれ

ば︑寝台に横臥されておる場合もある︒読書の時などめっ

たに側に近づいた事はないが︑読みながら地名│人名︑固有名詞その他およそ著作の上に資料として重要な箇所に

は︑鉛筆で棒がひいてある︒読み終った本は︑傍のつづら

に無造作に投げこまれ︑それが多い時には︑日に十冊も上 キーワード﹁大菩薩峠﹂・読書の方法・個人雑誌・編集力・

コミュニケーションの空間

要  旨

学歴もなく独学で学んだ中里介山にとって︑読書は一般とは異なる特別な意味をもっていた︒一方︑介山は生涯にわたって個人による出版活動を行った︒同じ活字メディアでも︑新聞と個人雑誌・個人出版は対極にある︒介山はマスメディアに身を置きながら︑活字を一つ一つ拾う労働を通して︑言葉を交わす人々との関係を維持しようとした︒それは澎湃として大量の個人雑誌が発行された時代とも関わっていた︒異様な長さを有す

る﹃大菩薩峠﹄には︑こうした介山の関心や思考が作家の自己表出にとどまらない言葉の運動として現れているのではない

か︒

紅 野 謙 介 中里介山読書個人雑誌

︱︱﹃大菩薩峠﹄の始まり︱︱ ︿論文﹀

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は知られているが︑なかでも﹁地名│人名︑固有名詞その他お

よそ著作の上に資料として重要な箇所﹂に印をつけ︑読み終わ

ると葛籠に無造作に﹁投げこ﹂んでいたという︒高野はその傍線箇所をもとに﹁索引﹂の短冊を作った︒﹁読みかす﹂という言

い回しに︑介山が本をどのように扱っていたかもうかがえる︒短冊に掲げられた項目が﹃大菩薩峠﹄に登場しているときは巻名と頁数が書き込まれ︑介山が読んだ書物と﹃大菩薩峠﹄の対応関係が分かるようになっていたという︒

こうしたインデックス型の読書は︑介山固有の読書のあり方

だけではなく︑﹃大菩薩峠﹄を書くことの背後にある創作の内実を解き明かしているように思う︒読むことは︑大量の言葉の

なかから特定の情報を引き出すことにつながり︑それはさらに

べつの書物の言葉とも接続し︑最終的に﹃大菩薩峠﹄のなかの言葉へと収斂した︒大量の︑ほとんど無限大にも思える情報の海がある︒そのなかからひとつずつ塊を拾い上げ︑探索するな

かで﹁資料として重要な箇所﹂を見出す︒データは助手によっ

て記録され︑検索可能な位置に置かれる︒高野はこんな証言も残している︒

あのぼう大な大菩薩峠で︑先生ご自身ですら︑

﹁あれは一番新しいところで︑どのへんに登場させたかな﹂

と︑ひとりごとのように申されることもあった︒長篇小説とは︑ある意味でみずからの記憶力への挑戦でもあ

る︒まして二八年にもわたる創作期間に及べば︑それはほとん

ど成人して以後の人生の過半を覆いつくしてしまうだろう︒大

きな事件や出来事は記憶が鮮明だとしても︑孜々として持続さ ることがある︒ 二日に一度︑そのつづらの中の読みかすを書庫に運んで一冊一冊と私は読むのではなく︑アンダーラインを探し︑索引を作るのである︒

横五分︑長さ三寸位の短冊を何百枚と用意して︑どうい

う書名の何頁にあるということを記して︑所用の文字を写

しとり︑最後にいろは順に区分けして︑いろは別のスク

ラップにはりつけるのである︒

たとえば︑大石進という剣客のカードは︵お︶のスクラッ

プに︑いくつもはりつけてある︒月見草は︵つ︶のスクラッ

プを見れば︑大菩薩峠の中でも︑どの巻とどの巻の何頁に

あり︑他の図書では︑何ていう本のどの頁にでておるか︑立ち処に探し出せる仕組みである︒介山は︑一九三一︵昭和六︶年三月に阿佐ヶ谷小山四四番地

に家を購入し︑﹁阿参堂﹂と名づけた︒住まいとした故郷羽村

の﹁黒地蔵草庵﹂のほかに︑東京への足がかりの拠点としたの

である︒そこにも多くの書物を置いた︒その書庫で助手として働いたのが高野孤鹿︵一八九六〜?︶である︒高野は︑のち﹃福岡日日新聞﹄︵﹃西日本新聞﹄の前身︶に勤めるかたわら︑在野

の考古学者となり︑飛鳥時代から奈良・平安時代にあった海外交流施設﹁鴻臚館﹂関係の資料調査や︑瓦に経典を彫り込んだ平安末期の﹁愛宕山瓦経﹂を福岡市内で発見するなど︑九州の考古資料発掘に貢献した︒

その高野の回想に登場する介山の読書術は具体的であるだけ

に︑なかなかに興味深い︒介山が速読・多読の人であったこと

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による出版活動を行った︒なかでも初期における個人雑誌の発行は﹃大菩薩峠﹄私家版の発行の先駆けともなっている︒新聞

と個人雑誌は︑同じ活字メディアでも対極にあると言ってもい

い︒こうした読書行為と個人出版について考えることから始め

ようと思う︒

2  独学と編集力

年譜を眺めてみても︑介山に高等教育の知的リソースはほと

んどないと言っていい︒介山こと中里弥之助は︑一八八五︵明治一八︶年四月四日︑神奈川県︵のち東京府に編入︶西多摩郡羽村に生まれた︒父弥十郎︑母ハナの七人兄妹の次男で︑長男が早逝したため︑実質的に家長となることを期待された︒弥十郎は多摩川河畔の水番人をつとめ︑水車小屋で精米業を営んでいたという︒明治政府

が成立して一八年が経過している︒西南戦争などの内乱も収ま

り︑自由民権運動も収束しつつあった︒帝国憲法の発布︑国会開設を迎え︑時代は政治から経済へと焦点を移動する︒そうし

たなか西多摩地域がまだ農業地帯であり︑水番がきわめて重要

な役回りであったとはいえ︑番人や精米業では収益は望めな

い︒家業不振の一方で︑兄弟姉妹は三男四女と増え︑生活の安定は望むべくもなかった︒一時は生まれたばかりの三男を親族

にあずけ︑両親は長姉と次男の弥之助をつれて︑母方の横須賀

に仕事を求めて移ったこともあった︒弥之助も伴われて転校し

た︒しかし︑今度は母方の実家も行きづまり︑結局︑二年後に

ふたたび羽村に帰るなど︑中里家の生活に落ち着き場所はな れ︑日常化してしまった創作の仕事において︑細部は不鮮明に

なり︑忘却のかなたに押しやられる︒すべてをデジタルデータ

に置換し︑情報として検索可能にしたコンピュータの時代に

なって︑語彙検索は驚異的な速度と確実性でなしとげられる

が︑このときはもちろんすべて手書き原稿であり︑新聞掲載か

ら単行本へと活字に変換されたとしても︑巻を重ねていけば︑物語はふくれあがり︑だれをどこに登場させたか︑一覧にした表にでもしておかないかぎり︑嘆息のひとつも洩らしたくな

る︒とはいえ︑﹁どのへんに登場させたかな﹂とひとりごつこ

とに︑また意味がある︒忘却のなかから記憶をたぐり寄せ︑思

い出すことを通して︑その場所と現在のいまを新たにつなぎ合

わせる︒索引はその手助けをする︒

﹃大菩薩峠﹄特装版全六巻︵一九二九年九月〜三〇年三月︶に

は︑実際に巻末に索引がついている︒このときは高野が作業に入る以前の版だから︑だれが索引をつける仕事をしたかは判然

としない︒しかし︑索引の必要性を感じた人物がいる︒介山自身なのか︑編集者なのか︒いずれにせよ索引は用意された︒

これは﹃大菩薩峠﹄の作者が後年になって至った読書術なの

だろうか︒量は膨大になり︑インデックスの作業を担う助手を雇う余裕ができたとはいえ︑そのような条件が整ってからたど

りついたものなのか︒そうとは思えない︒読書とは身体行為の

ひとつである︒いったん身についたものは︑それほど簡単にス

タイルを変えられるものではない︒

まず︑介山にとって読書とはどのような意味をもっていたの

かを考えてみよう︒同時に介山は生涯にわたって断続的に個人

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すべて自力︑独学で学習しなければならなかった︒こうした介山にとって︑読書が唯一の学習機会となるのは無理もない︒読むことを通して︑学習し︑身につけ︑並々ならぬ記憶力で︑不平等な社会と闘う武器とした︒体系的な学びを受けることは

できなかった︒だからこそ︑反対に独自な世界観を持つにい

たったのである︒

やがて︑この苦学苦闘の士にも大きな壁が来る︒愛宕小学校

のときに中学教員の検定試験に挑戦︒そこで不合格になった︒佐々は教員免許制度が確立していくとともにみずからの居場所

を失っていったが︑介山はその教員免許を獲得することによっ

て教育による社会変革を目指す一方︑みずから階級上昇の機会

をつかもうとしていた︒その挫折が教員の継続を断念させるこ

とにつながった︒社会を変えていくのはどうしたらいいのか︒当時︑自由主義神学のキリスト教に立っていた松村介石に影響

を受け︑社会教育の必要を感じていた介山は︑キリスト教社会主義に関心を向けた︒﹃万朝報﹄から﹃平民新聞﹄へと手に取る新聞が変わり︑内村鑑三︑堺利彦や幸徳秋水への親しみは︑キ

リスト教にもあきたりず︑西川光二郎や山口孤剣ら平民社に集

う社会主義・無政府主義のグループとの交流へと結びついた︒

しかし︑松村介石が﹁修養﹂を説いて︑やがて独自な宗教団体﹁道会﹂を開いたように︑介山もまたやがてキリスト教︑そ

して社会主義にも疑いを抱くようになる︒一九〇六︵明治三九︶年二月に発表された﹁小さき理想

綱島梁川や河上肇を尊敬する人物とあげながらも︑﹁労働を離 ﹂︵﹃火鞭﹄第六号︶では︑ 2

れた信仰や学問は無価値とは云はないが︑慥かに片輪である︑ かった︒西多摩小学校高等科︑それが介山にとっての最終学歴とな

る︒一八九八︵明治三一︶年三月︑満一三歳のことである︒こ

の前年︑介山は西多摩小学校高等科三年を修了し︑成績優秀の賞状を受けたが︑修学継続が困難になった︒結局︑中里家を出

て︑元校長である黙柳佐々蔚の好意を得て恩師宅に寄宿︑家事

を手伝いながら勉学した︒以後︑二一歳までのあいだ︑住み込みの書生︑東京電話局で

の電話交換手見習︑正規の電話交換手︑母校西多摩小学校の代用教員︑五日市町小学校準訓導︑北豊島郡岩淵小学校代用教員︑麻布区三ノ橋慈育小学校正教員︑愛宕小学校正教員といった職歴をへた︒住み込みから見習いへ︑いったんは電話交換手にな

りながら教員への転職︑小学校の代用教員︑準訓導︑そして正規教員︑貧困児童対策の教員へと︑行きつ戻りつしながら︑少

しずつ階段を上っていったのが分かる︒佐々の時代とは異なり︑教員資格を取得しなければならな

い︒介山は順を追って検定試験を受けている︒一九〇二︵明治三五︶年︑一七歳のときには︑尋常小学校本科正教員検定試験

を受け︑その結果︑﹁修身﹂﹁国語﹂﹁日本歴史﹂﹁地理﹂﹁算術﹂﹁理科﹂の六教科の合格証明書を一度に受け︑人々を驚かせたとい

う︒小学校とはいえ︑﹁習字﹂﹁体操﹂以外はすべて合格したと

いうのはたしかに異例のことだったろう︒恩師の佐々はその年

の春に亡くなっている︒すでに庇護者はいなかった︒住まいも親族の従兄の家に同居するが︑衝突して飛び出し︑一四歳で自活していた︒

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した﹁本郷会堂と角筈櫟林﹂や雄弁家論などからなる日本人の人物評を収めた後編からなる︒伊藤銀

月が﹁序﹂を寄せ︑まだ 5

﹁高名ならざる介山﹂ではあるが︑その﹁文章の魔力﹂を高く評価し︑﹁文壇は介山を容るゝに吝なるべからず︑介山を認むる

に遅かるべからず﹂と結んだ︒少なくとも︑シェークスピアや

ゲーテ︑シラーに始まり︑ディケンズやカーライル︑ラスキン

らを縦横無尽に論評するかたわら︑日本キリスト教会の二大巨頭を比較検討し︑さらには歴史をふりかえって和気清麻呂と日蓮聖人を日本の二大雄弁家として称賛した︒この腕力は︑伊藤

ならずとも端倪すべからざる若き書き手の登場として印象づけ

られたにちがいない︒

この本をひもといて驚かされるのは︑そのたぐいまれな編集能力である︒ひとりにつき︑一頁以上に及ぶこともあれば︑わ

ずか数行のこともあるが︑まさに古今東西の詩人・作家や芸術家︑宗教家︑政治家をめぐるエピソード︑格言名言類がたくみ

に切り取られ︑並置されている︒それぞれに元になる書物が

あったはずである︒それらを通読し︑ここという場所を見出し︑

アレンジしながら引用する︒それは尋常一様の能力ではなかっ

たはずである︒ふたたび指摘しておけば︑このとき介山は満二一歳︒おそらくちょうど小学校教員を辞める前後にあたる︒介山の読書のあり方は︑この最初の出版物を見ても分かるだろ

う︒

やがて新聞人にひとつの活路を見出した介山は読売新聞社と都新聞社に挑んだ︒結局︑都新聞社にいたジャーナリスト田川大吉郎が介山の才能を見出し︑ようやく新たな道を開いたので 病的である﹂と批判し︑一年三六五日のうち︑三百日を農業に費やし︑残りの六五日を芸術や学術に費やすべきだと説いた︒

﹁あゝ僕は今まで何主義とか何哲学とか云ふものに欺された︒魅された︒けれども最早欺されぬ︒手に肉刺の無い人の教は断

じて信ぜぬ断じて聞かぬ﹂と書き︑﹁人格の鍛錬﹂の必要を主張

した︒

この断言は︑青森在住の知友大塚甲山の批判を呼んだ︒大塚

は﹁覚え書﹂︵同誌︑二巻一号︶で介山が﹁品性修養﹂を求めな

がら東京にいることを矛盾だと指摘し︑皮肉を述べた︒介山は

﹁甲山君に答ふ

﹂︵同誌︑二巻三号︶で︑その批評を認め︑自身 3

の上京は﹁虚栄心﹂による誤謬であるとした上で︑実際の労働

に通じた過去をふりかえり︑帰農するまでの﹁見識﹂の修業が

まだ足りないと書いた︒九年後の三〇歳には農夫となり︑さら

に五年後にはそれなりの思想を持つと宣言している︒

このとき介山は弱冠二一歳である︒書斎の人に欺瞞を覚えな

がら︑﹁労働﹂と﹁芸術や学術﹂のはざまで揺れていた︒﹁帰農﹂

するには生計の目処が立たない︒故郷に残る父との対立は依然

として解けない︒耕すべき田畑もない︒覚悟と理想はあっても︑実現の基盤に乏しかった︒

この同じ一九〇六年︑介山は﹃今人古人

﹄︵隆文館︑同年五月︶ 4

の著者となっている︒初めての単行本であった︒これはB五判︑本文一三四頁の小さな本だが︑ジョン・アーヴィング︑ナサニ

エル・ホーソン︑ワーグナーに始まり︑八〇人以上もの欧米の詩人・作家・芸術家の横顔をスケッチした前編の記事と︑内村鑑三と海老名弾正を対比し︑前者を称揚し︑後者を厳しく批判

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斎派知識人の観念的な自己完結を拒絶している︒偏りのある百科全書派ではあるものの︑世界に広く﹁手に肉刺﹂ある人の言葉を求めたのである︒

3  ﹃独身﹄と﹃親様﹄

介山は都新聞社のなかで︑同人を集めて﹃独身

誌を出した︒創刊は一九一二︵明治四五︶年七月︒﹃大菩薩峠﹄ ﹄と題した雑 8

の二年前である︒この雑誌は全三号のうち一号と三号だけが山梨県立文学館に所蔵されている︒二号は︑掲載記事が検閲にか

かり︑発売頒布禁止処分にされ︑その二号の校正刷のみが羽村市立郷土博物館に所蔵されている︒第三号は︑同︵大正元︶年一〇月の発行であった︒そしてそのまま終刊となった︒第一号の奥付には﹁発行兼編輯人  中里弥之助﹂とあり︑﹁東京市下谷区谷中真島町一番地﹂の介山の住所が掲げられた︒発行所は﹁独身会﹂とされ︑住所は﹁府下西大久保二百四十五番地﹂

となっていた︒﹁定価七銭︵半年分四拾銭︶﹂で当初は﹁毎月発行予定﹂であったらしい︒﹁編輯より﹂には﹁今年の三月ふとし

た思ひつきから僕等の仕事をして居る新聞の編輯局内だけの独身者が集まつて会談して見やうではないかといいふ事で︑頭数

を調べて見ると十人ほどある﹂︑そこで宴会を四度ほど開き︑

やがてみずからの思うところを外に発信してみようということ

になったと創刊の経緯が書かれている︒発行所となった﹁府下西大久保二百四十五番地﹂は︑キリス

ト教徒で︑のちに救世軍に入る秋元巳太郎︑郷里羽村の従兄弟

で神官を目指して國學院皇典講究所に学ぶ宮沢一︑そして仏教 ある︒その後︑すぐに介山の読書量と編集能力が買われた実例

が︑内外出版協会の﹁偉人研究﹂叢書である︒そこで介山は︑第二編﹃トルストイ言行録

﹄︵〇六年七月︶に始まって︑第三編 6

﹃ガーフールド言行録

第一〇編﹃中江藤樹言行録﹄︵同年一二月︶など︑編著を続けざ 言行録﹄︵同年六月︶︑第六編﹃二宮尊徳言行録﹄︵同年九月︶︑ ﹄︵〇七年二月︶︑第四編﹃フランクリン 7

まに刊行した︒年譜と照合すれば︑﹃今人古人﹄を出してから

わずか二ヶ月後に︑トルストイの﹁言行﹂をまとめあげたので

ある︒第六編巻末の広告によれば︑一年後に﹃トルストイ言行録﹄は四版を重ねたとある︒好評でもあったのだろう︒﹃新潮﹄

﹃早稲田文学﹄﹃中央公論﹄にもそれぞれ評価する新刊紹介の記事が出た︒﹁中里君が例の如く力ある筆で森厳な態度を以て︑真面目な研究の成果を示したものであるから︑文字の上に自ら杜翁が躍如たるものが見らるゝ﹂︑これが﹃新潮﹄の記事の一節

である︒

さらに︑一九〇八︵明治四一︶年八月には同じ内外出版協会

から﹃克己制欲の実例﹄という﹁古今東西の偉人が克己に関す

る言行﹂やエピソードを集めた再編集本も出している︒読書量

に裏打ちされた並々ならぬ博識と︑それを駆使した編集能力が評価されたのである︒

こうして見るかぎり︑介山は書く人としては言うまでもない

が︑まず徹底して読む人だったと言える︒しかも︑介山にとっ

て読むことは︑知識の習得︑情報の獲得のみを目指していない︒読むことが人生を切り開くことにつながっていた︒﹁手に肉刺

の無い人の教は断じて信ぜぬ断じて聞かぬ﹂という姿勢は︑書

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独去︑独来︑独生︑独死の道に彷徨ふ人よ︑来りて我等

と共に語り給へ︒会則では非婚者が﹁独身﹂の定義となるが︑エピグラフでは

﹁既婚者﹂をふくめた﹁一切人類﹂が究極において﹁独身者﹂と

なる︒﹁独去︑独来︑独生︑独死の道に彷徨ふ﹂ものたちとい

う言葉の選び方のなかに︑すでに非婚者の﹁独身﹂という言葉

に収まりきらない過剰さがあふれている︒介山が羽村に開設した西隣村塾の塾生のひとり松尾熊太の

﹁介山先生と童貞

鳴象︑西尾綏山︑秋元巳太郎等が参加していた︒/独身会はた 号でつぶれてしまった︒/会員には井家忠男︑高山郁乎︑鈴木 富砂郎の文章が風俗壊乱の理由で発行停止をくらい︑二号か三 ﹂によれば︑﹁この﹃独身﹄は創刊早々会員倉 9

ぶん茶目半分の集まりであったと想像されるが︑介山先生だけ

はそのころからすでに独身で貫く考えがあったのではあるまい

か﹂とある︒倉富砂郎とは︑砂邱の誤りだろう︒﹃都新聞﹄の新聞小説担当者で︑いずれも社内の主任や記者たちであった︒

﹃独身﹄は︑一二年一〇月に出た三号になると︑A四判より

わずかに大きい︑しかし︑全四頁に折りたたんだ薄いパンフ

レット形式へとその体裁を変貌した︒収められた記事はわずか四篇に縮小し︑その巻頭の﹁日記﹂では︑﹁雑誌﹃独身﹄は先月分を休刊し本月分より斯くの如く体裁を改め同時に余一身にて一切の責任に当り秋元巳太郎氏援助さるゝ事となれり⁝⁝いと小さき声ながら一貫したる処の物を載せ︑聊か世道人心の為に尽さんと欲す⁝⁝﹂とある︒早くも﹁独身会﹂は二号の発禁処分も絡んでか︑何らかの事情で分裂し︑介山﹁一身﹂での責任 に重点を置く介山の三人が﹁三教合同生活﹂と称して生活を共

にした住まいを指している︒秋元はこの時期︑キリスト教を通

じて知り合った介山の伝手で︑都新聞に入社していた︒刊行は

﹁明治﹂から﹁大正﹂へまたいだ時期にあたるが︑さまざまな文芸雑誌︑詩歌雑誌︑美術雑誌などが乱立するなか︑﹁独身﹂と

はなんとも奇妙な命名である︒第一号には﹁独身会﹂の会則が掲げられている︒それによる

と︑一︑独身会は独身主義者の会にあらず︑現在独身者の会合

なり一︑結婚したるものは退会と見做す一︑時々大会或は小会を開く

とあり︑ほほえましくもある組織なのだが︑その一方で︑中扉には次のようなエピグラフが掲げられている︒

孤独の心 人に孤独の心あり︑この心︑友を求め︑異性を求め︑芸術を求め︑宗教を求む︑求めて得られざる時︑孤独︑いよ〳〵︑孤独也

人に無窮の向上心ある間︑何人か此の孤独の感より離れ得べき 人に不断の欣求心ある間︑孤独の消息は常にサブライム なり 我︑我を理解し得ず︑如何んぞ人を理解し得るを得ん︑独身者︑もとより孤独なり︑既婚者も亦孤独なり︑一切人類は其の元に帰るを知らざる以上は悉く独身者なり

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間を超越した原存在をめぐる哲学は古今東西にさまざまにある

が︑介山はそれをここで﹁親様﹂というある種の先祖崇拝のよ

うな超越的な名称で呼びかけ︑みずからを救いがたい﹁愚者﹂

として語る︒

親様︑私共の不幸や不満や苦しみは皆︑あなたを忘れたの

から起つたのでありました︒あなたと私とは如何しても離

すことの出来ない者であるに関はらず自分は自分はといふ傲慢な心の萌しが抑々私共の不幸や不満や苦しみを作り出

したのでありました︑然乍ら私には此の傲慢な心を直に取

り去つてそしてあなたの御前に潔く平伏するだけの勇気や決断がつかないのであります︑この傲慢と汚れとに充ち満

ちた身体其の儘をあなたの御前に投げだして父よ母よと呼

ばして戴くことの力︑これも私の血からではありません︑親様︑此の後とても若し私の前に様々の難儀が起つたとて私はそれに勝ち得ると断言するの力を持ちませぬ︑若し勝

ち得たとしてもそれはあなたの御力に過ぎませぬ︑若し又何事にも負け通しで︑見す〳〵堕落と汚辱との奥へ引き入

れられつつ︑この身はどの様に腐り果て行かうとも前の因果と後の果報とをよく〳〵思ふて現在に何の恨む所もない道理を考へながら同じくあなたの御力にお任せ申すつもり

でございます︑

このとき介山は二八歳︒言行不一致を衝いた大塚甲山に答え

た﹁九年後﹂︑数え年の三〇歳はもうすぐに近づいていた︒﹁傲慢と汚れとに充ち満ちた身体﹂をどうすべきなのか︒﹁無始無終の御力﹂をたより︑すべてをその手に委ねながら︑﹃大菩薩峠﹄ 体制となった︒独身者の共同体はかくして潰え︑﹁独去︑独来︑独生︑独死の道に彷徨ふ﹂ただ﹁一身﹂の会へと縮小した︒三号に掲載されたものは︑﹁日記﹂︑﹁S君と乞食生活﹂︵秋元生︶︑﹁一人旅﹂︵中里生︶︑﹁身の上の記﹂︵某女︶とわずか四篇

に過ぎない︒﹁一身﹂の会となったにもかかわらず︑小羊秋元巳太郎の援助は永続した︒のち︑介山は隣人之友社より秋元の単行本﹃行脚伝道日記﹄︵一九二八年七月︶を刊行し︑みずから跋文を寄せた︒さらに秋元巳太郎﹁中里介山氏の手紙﹂︵﹃中里介山研究﹄創刊号︑武蔵書房︑一九七三年四月︶によれば︑介山との交友はその死にいたるまで持続し︑交わされた書簡の数々も生涯にわたった︒﹁会合の人﹂たりえず︑つねに﹁孤独﹂

を愛した介山は︑しかし︑まったく同時に人と人のあい寄りそ

う関係への強い志向を把持した︒だからこそ︑活字を愛し︑活字による発信を終生︑手離さなかったのである︒

しかし︑同人雑誌としては﹃独身﹄は失敗した︒次に介山が試したのが︑個人による自費出版だった︒その始まりが﹃親様

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である︒一九一四︵大正三︶年一一月発行︑著作・発行人は中里弥之助︑印刷人は岡千代彦の﹁自由活版所﹂となっていた︒跋文五頁︑本文一七頁の小さなパンフレットである︒それにし

ても﹃親様﹄とはまた同じように奇異な表題である︒冒頭は次

のように書き出されている︒

親様︑私共の父の父︑母の母︑先祖の先祖︑また其れのみ

ならず天地と万物の原の原︑有ゆるものゝ総本原を︑私共

にかりに﹁親様﹂と呼ばして下さいまし︑

この﹁親様﹂は︑﹁無始無終﹂﹁不生不死﹂だという︒時間と空

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トと言ってもいいような薄い雑誌である︒非売品で︑限定され

た読者にのみ郵送で届けられた︒現在︑この雑誌を所蔵しているのは︑山梨県立文学館である︒徳冨蘆花の謦咳に接し︑その没後は蘆花会の監事︑蘆花恒春園

の管理責任者をつとめるかたわら︑明治期のキリスト教や社会主義文献の蒐集家として知られた後閑林平の旧蔵資料のひとつ

である︒確認できているのは︑第一信から第一一信まで︑一五年の一月から一二月まで︑一一月を飛ばして発行された一一号分の合本と︑サイズを小さくしながら頁数を増やし︑雑誌色を濃くした第一七信︵一九一七年二月︶から第二八信︵一一月︶ま

での合本である︒第一二信から第一六信までの五号分は発見さ

れておらず︑内容はまったく分からない︒この第一七信以降は︑印刷が岡千代彦ではなく︑中里弥之助自身となっている︒みず

から印刷機を買い︑印刷を自分で行ったと記している︒始まりは︑﹃親様﹄の反応を伝える記事である︒印刷にあたっ

た岡千代彦との思い出から書き出し︑伊東在住の秋元巳太郎か

ら﹃親様﹄の﹁祈り﹂や﹁ゆるし﹂をめぐるくだりで﹁腑に落ち

ぬ箇所﹂の指摘があり︑それに返信を書いたという︒こうした反応のなかで︑﹃親様﹄の感想を寄越した高田集蔵︵一八七九ー一九六〇︶への言及がある︒

﹁村落通信﹂の高田集蔵君は︑全文︵﹃親様﹄の││引用者︶

を其の雑誌に載せて下すつた︑高田君には︑まだ一度もお目にかゝつた事のない人であるが︑同君が︑自分で活版機械を持ち︑一片二片づゝの紙を思ひ出したやうに刷り出し

て配る村落通信の文字は︑私をして非常に心酔せしめる︑ をすでに書き出している介山は︑こうして﹁親様﹂に呼びかけ

る冊子を作った︒横一一センチ︑縦一四センチの︑この小冊子は︑いわば抽象的な懺悔と告解の書であり︑その文体は﹁主イエス・キリスト﹂

に呼びかける﹃聖書﹄にも近しい︒しかし︑﹁一介の愚人﹂とい

う署名で結んだ本文のあとに︑法華経の一節︑法然︑親鸞︑日蓮︑道元の言葉が数行ずつ並べられている︒救世軍中校となっ

た秋元巳太郎との交流からも垣間見えるように︑介山は仏教に軸足を置きつつも︑複数の宗教のシンクレティズムをむしろ志向していたと言えよう︒

だが︑そうした宗教的な感情を満たすべく祈るというだけで

は終わらない︒介山は私家版の冊子を出すことで︑みずからの祈りと苦悩と葛藤を表現によって共有しようとした︒あえて出版することは︑これに応答する読者を求めていたということで

もある︒新聞という大量の読者を相手にするメディアの一方

で︑介山は小さなメディアを作ろうとした︒そのときどのよう

な読者を想定したのか︒﹃手紙の代り﹄という個人雑誌がそれ

を考える手がかりとなる︒

4  個人雑誌﹃手紙の代り﹄

介山が﹃手紙の代り﹄第一信を発行したのは︑一九一五︵大正四︶年一月一日である︒﹃大菩薩峠﹄開始から一年半︑すでに

﹁壬生と島原の巻﹂を終えて︑小休止のときにあたっていた︒著作兼発行人は中里弥之助︑印刷はひきつづき岡千代彦︑自由活版所が印刷所となった︒四段組︑二〜四頁程度のリーフレッ

(10)

高田の﹃村落通信﹄本体は現在ほとんど見ることができない

が︑高田集蔵著書刊行会による﹃高田集蔵文集﹄四冊︵一九八四年一〇月〜八六年四月︶に記事の大半が収録されている︒ただ本文のみで︑初出の巻号︑刊行年月が不明のままだが︑前後か

ら一九一三年八月頃と思われる号に介山から高田に宛てた手紙

がそこに入っていた︒そこには﹁芸妓とか料理屋とか云うもの

に多大の読者を持って居る﹂新聞社に勤めていることにふれ︑

﹁僕の周囲には︑人間の最も下等なる欲望を粉飾した材料が転

がって居る︒僕は其の間に超然として美醜併せ呑むが如き態度

を気取つていた︒併し其れは気取りきれなくて︑地位を辷った﹂

と書いている︒介山は当時︑大阪在住の高田とこうして通信をやりとりしな

がら︑交流を重ねていた︒高田だけではない︒﹃手紙の代り﹄

に現れるのは︑﹃独身﹄以来の秋元巳太郎や鈴木鳴象︑他にも吉田庄七︑山口義三︑鳥谷部陽太郎︑三浦修吾︑西川文子︑宮崎安右衛門︑江渡狄嶺などなどからの来信や返信が介山の紹介

とともに引用されている︒キリスト教徒︑旧平民社の関係者︑徳冨蘆花関係者などがいる︒そこには日々の生活やそのなかで

の苦しみや悩みが書かれており︑紙上における手紙の交換を複数の読者に開いてみせた︒いわば︑そうした小さな読者共同体

をこのメディアを媒介にして作り上げようとしたのである︒介山の言葉をいくつか引いておこう︒

独身者の私も︑只一度︑前にも後にも結婚の意志を当の人に発表した事がある  この事は︑他日適当の時を見て懺悔するつもりであるが││今はそれを思ひ返す勇気がな 偉大なる思想と信仰とが人間の音色を帯びて︑或は同化し

たり或は同化しなかつたりして滾々と現はれ来るのは︑無限の驚異である︑人物事典では多く﹁宗教家・思想家﹂としてくくられる高田

は︑しかし︑そうした職業人というよりも︑鳥谷部陽太

正畸人伝﹄︵三土社︑一九二五年一二月︶にも登場する﹁畸人﹂ 郎﹃大 11

のひとりと言った方がふさわしいかもしれない︒岡山県勝山の資産家のもとで生まれ︑内村鑑三に惹かれてキリスト教に目覚

めたのち︑儒教や仏教︑神道にも関心を向け︑﹃独立﹄﹃村落通信﹄

などの個人雑誌を発行することに生涯をかけた︒﹁非聖非俗﹂

であることを唱え︑職業につかずに旅に出ては托鉢よろしく支援者にすがり︑購入した印刷機でみずから活字を拾い︑記事を書き︑印刷し︑郵送することのみに専念した︒初めはその宗教的情熱に惹かれて一緒になった女性たちも︑やがて彼のもとを去った︒その二度目の妻には︑社会主義の女性団体・赤瀾会の

メンバーで︑のちゾルゲ事件で逮捕︑投獄された九津見房

12

︵一八九〇ー一九八〇︶がいる︒介山によれば︑高田の﹃村落通信﹄の読者はわずかに﹁百三十名﹂だという︒﹁せめてこれを三百にしたいけれども︑自分の我儘が許さない﹂と高田は告白した︒こうした覚悟について︑介山は﹁今の世に︑あなたのやうな人と文字との存在は︑慥か

に利害鑑賞を超越した貴重品﹂︵﹃手紙の代り﹄第二信︑一五年二月︶だと高く評した︒のちに介山自身が活版印刷の機械と活字一式を購入し︑みずから印刷を手がけるようになるのはこの高田集蔵をモデルとしている︒

(11)

借金をしなくとも︑出版社に骨を折つてもらはなくて

も︑今の処︑その位のことは出来さうである︑

けれどもまだ早い〳〵といふ声が何処からともなく起

る︑それはあぶない〳〵といふ声も︑何処からともなく聞

えるやうだ︵﹁文字﹂︑同右︶江渡狄嶺は︑トルストイやクロポトキンに心酔して東京帝大法科大学を中退︒武蔵野︵杉並区高井戸東︶に居を定め︑帰農

して小作人から始めた在野の思想家・アクティビストである︒当時は﹁百姓愛道場﹂を名乗り︑共同農場を開いていた︒千歳村粕谷に徳冨蘆花が転居し︑土地を耕して﹁恒春園﹂を維持し

たように︑都市や政治に背を向け︑﹁農﹂に根ざしたアナキズ

ムを貫こうとする人々が少なからず現れていたのである︒

﹃手紙の代り﹄の記載によれば︑介山は高田集蔵から江渡を紹介されたという︒その高田のことは吉田庄七から紹介された

のだが︑吉田に高田を紹介したのが江渡だという︒また︑江渡

は﹃手紙の代り﹄にふれた最初の感想に﹁村落通信でおなじみ

の顔触れに大分御面会して何だか余所のやうな気がしませんで

した﹂と書いてい

13

る︒こうした男たちの友情のサーキュレー

ションが﹃手紙の代り﹄の背景にあった︒しかも︑相互交換し

ている雑誌名をあげているのを見るかぎり︑﹃村落通信﹄のみ

ならず︑﹃コブシ﹄﹃サカエ﹄﹃へいみん﹄﹃くれなゐ﹄など︑数多

くの個人雑誌︑個人の通信が発行されてい

14

た︒最後の引用にも明らかなように︑介山は﹃手紙の代り﹄を﹁相当の雑誌﹂にすることも夢想しながら︑﹁早い﹂﹁あぶない﹂と読者の拡大がもたらす危険性をも自覚していた︒このとき高田 い︑名実共に独身となつて︑純然たる愛他生活に入ること︑

いやそれは愛他ではなくて︑実は我儘の頂上かも知れぬ││どちらでも宜しい︑そこへ入つて思ひきり働いて見たい

と思ふ︵第三信︑一五年三月︶

悪魔にならねば活きて行かれぬと仰有るなら悪魔におな

りなさい︑︵中略︶如何なる聖人にも︑悪魔の影があり︑如何なる悪魔にも聖なる心は宿つて居ます︑︵中略︶私は

ドン底に落ちて居ます︑遠き以前から悪魔です

︵第六信︑一五年六月︶

私は︑雑木林の中の路なき路を歩むのが大好きです︑殊

にわたしは武蔵野の雑木林の中に恋があります︑わたしの郷里の武蔵野は︑もつとずつと奥で︑そこからは秩父の連山が︑程よく見えます︑山の高さは︑わたしを圧するほど

に高くなくあのテンダー︑カーヴには︑或時は夢のような水蒸気がかゝり︑或時は︑雪を被つて︑私をして︑ロシア

の小説にあるコーカサスの山々を思ひ出させます︑

胸に満つる悲愁を抑へて││僕相当の悲愁です││あの雑木林の中を無暗にあるきます︑片手には木の枝を折つて蜘蛛の巣を払ひのけながら︑折々は下萌の若木に脛を払は

れたり︑面を撫でられたりして︵﹁江渡さんへ﹂︑第一〇信︑一五年一〇月︶

どうかすると︑この﹁手紙の代り﹂をもつと拡張して︑相当の雑誌として︑新聞などへも広告して見やうかなどゝ

も考へる︑︵中略︶必ずしもそれは︑やつて出来ないこと

ではない︑

(12)

5  むすびに

イタリアの歴史学者カルロ・ギンスブルグが﹃チーズとうじ虫

﹄で注目した一六世紀イタリア東北部の粉挽き屋メノッキオ 19

をここで呼び出すのは奇矯だろうか︒メノッキオはローマ教会

によって異端と認定され︑一五年に及ぶ異端審問の末に処刑さ

れた︒ギンスブルグは︑膨大な裁判記録を読み解くことを通し

て︑わずか一〇冊程度の読書しかしたことのないこの農民が多

くの俗信や民間伝承︑日常生活の経験から︑キリスト教的世界観とは異なる﹁異端のコスモロジー﹂を作り上げていた文化的背景と文脈を明らかにした︒介山は︑もちろんメノッキオのような︑書物と無縁な農民で

はない︒むしろ︑すさまじい読書の量を重ねた︒しかし︑介山

において読書は︑知識の集積ではなかった︒大量の言葉にふれ︑

そのなかから拾い出した言葉を書き抜くことによって︑いまの苦しみや困難から自分たちを救い出す言葉を探ろうとした︒知識人として知名度をあげることよりも︑労働や生活の現場にお

いて生きる言葉を求めた︒それはおそらく日本においてメノッ

キオを探すことに等しかった︒他方︑発信しつづけた﹃独身﹄や﹃親様﹄は︑﹁独去︑独来︑独生︑独死の道に彷徨ふ人﹂としての自己を確認する媒体であ

り︑他者の言葉と入り交じることへの欲望につながっている︒

﹁独身者﹂の共同体は︑ミソジニー︵女性嫌悪︶の色合いを潜ま

せながらも︑超越的な主体への自己同一化と︑﹃手紙の代わり﹄ 集蔵は内務省から﹁特別要視察人﹂に指定され︑警視庁特別高等課の監視がついていた︒﹃村落通信﹄を取っていた吉田庄七

は﹁村落通信が災をなして︵といつては少し具合が悪いですが︶小笠原を去らねばならぬ

場へ入ったのだという︒既存の宗教にあきたりぬ超宗教への強 ﹂ことになり︑家族とともに江渡の道 15

い希求︑人生の苦悩や結婚・家族制度への疑いを言葉にし︑そ

して何よりもその問いと思索を具体的に実践しているものたち

に対して︑大逆事件以後の監視体制はより厳しいまなざしを向

けていた︒結果的に見れば︑やがて﹃手紙の代り﹄は︑介山自身の印刷

に変わっていくにつれて︑第一七信以降︑﹁聖徳太子の研究﹂

を連載する媒体へと変わり︑リーフレットから一定の頁数のあ

る雑誌らしい雑誌へと変容する︒したがって︑限定された読者

による︑共通した思考と志向をもったものたちによる共同体で

は収まらなくなっていった︒しかし︑﹃親様﹄や﹃手紙の代り﹄

に見られた自主メディアへのこだわりは︑その後も﹃高原﹄﹃高葉

﹄︵一九二一年〜二五年︶のような回覧雑誌︑﹃隣人之友 16

17

︵一九二六年〜三九年︶﹃峠

書館と印刷部の設置と︑質量ともに変化しながらも生涯にわ 誌や個人雑誌の発行︑郷里羽村に開いた西隣村塾︑その西隣図 ﹄︵三五年〜三六年︶のような総合雑 18

たって維持された︒ここには︑介山の︑新聞記者でありながら︑既存のジャーナリズムへの強い不信とみずから出版することへ

の執着がある︒﹃大菩薩峠﹄はこうした思索と実践のすぐとな

りで生み出されていた︒

(13)

種の文章があるが︑そのいずれにもこの記述はない︒しかし︑笹本も介山の謦咳に接した門人のひとりであり︑未確認の﹃隣人之友﹄などに掲載された可能性がある︒高野孤鹿は︑福岡日日新聞記者で平民社にも出入りしていた高野嵐灯︵邦基︶の息子︒のち同じく福岡日日新聞に入社した︒福島在住時代に︑介山の東北取材を手伝い︑﹃福島に於ける世良の遺蹟﹄﹃福島 に於ける天誅組浪士の最期  附・世良文献集﹄︵ともに真相報知社︑一九三一年︶をまとめた︒その後は﹃大島要三翁の足跡﹄

︵故大島要三翁遺徳顕彰会︑六六年︶︑﹃筑前愛宕山瓦経の研究﹄

︵雄山閣︑七四年︶などの編著・著書がある︒のちに福岡市博物館で﹁福岡考古学の先駆者たち1

高野孤鹿展

︵一九九六年四月一六日〜七月二八日︶が開催されている︒

2︶全集第二〇巻収録︒

3︶同右︒

4︶﹃今人古人﹄後篇のみ︑全集第二〇巻に収録されている︒

5︶介山と伊藤銀月の関係については︑銀月が﹃万朝報﹄記者で

あったことから︑幸徳秋水らとの関係によると推測される︒銀月の主著﹃詩的東京﹄︵曙光社︑一九〇一年一二月︶には﹁辱友﹂幸徳秋水が序文を寄せている︒また︑巣鴨獄中にあった幸徳伝次郎宛の介山ハガキ︵一九〇五年三月二八日付︑日本近代文学館所蔵︶にも︑﹁秋水獄に入り銀月嫁を取る弥生かな﹂

という戯句とともに︑介山と銀月とのやりとりが記されてい

る︒

6︶いずれも全集未収録︒

7︶この﹃ガーフールド言行録﹄については︑﹃週刊社会新聞﹄

︵一九〇七年七月二八日︶の﹁監獄より﹂という記事中の永岡鶴蔵︵宇都宮監獄に収監︶からの通信に︑﹁拝啓ガーフールド で交わされるような言葉の運動にみずからを委ねていこうとい

う志向を内包していたのだろう︒中世イタリアとは異なり︑近代日本は書物や活字文化の氾濫

する社会となった︒にもかかわらず︑介山はアカデミックな

﹁知﹂やジャーナリズムがいかに人々の暮らしから切り離され

ているかを意識していた︒人々の生活を支え︑生と死を意味づ

けていく言葉はどこにあるのか︒仏教を基調としながら︑先祖崇拝と神道とキリスト教とをない合わせた超宗教を夢想しなが

ら︑言葉をめぐる労働に生きたのが中里介山である︒一九一〇年代前半の介山はつねに言葉を探り︑活字を一つ一

つ拾う労働の過程を通して︑言葉を交わす人々との関係を維持

しようとした︒それが﹃大菩薩峠﹄のスタートと両立していた

のである︒﹃大菩薩峠﹄という異様に長いテクストは︑索引を

つけ︑メモをつけながら読み続けた言葉の運動と結びついてい

る︒分類し︑整理しながら︑ひとつの巨大なマンダラ/書物を作り上げる︒孤立を怖れず︑﹁独身者﹂の共同体に理解ある読者を見出し︑みずからメディアたらんとして︑同時にマスメ

ディアを厳しく排撃する︒矛盾に満ちた﹃大菩薩峠﹄の行程は

そこに始まったのである︒

注︵

頁︒残念ながら初出は不明で︑引用した笹本の書に注記もな  1︶笹本寅﹃大菩薩峠中里介山﹄より孫引き︒一八二│一八三

い︒高野には﹁介山先生の追憶﹂︵﹃文藝﹄臨時増刊﹁中里介山大菩薩峠読本﹂一三巻六号︑一九五六年四月︶や︑﹁介山先生追憶﹂︵﹃中里介山研究﹄第二号︑一九七三年七月︶といった同

(14)

賀川豊彥︑二階堂真寿︑大西悟道︑金子白夢︑古屋芳雄︑堀井梁歩︑赤松良譲︑武者小路実篤︑村松梢風︑野沢一︵木葉童子) ︑相馬御風︑木村高幸︑矢内原忠雄︑正木あきらら多

くの思想家﹂が個人紙誌の刊行に挑戦したと指摘している︒

15︶注 15と同じ︒

16︶第三号までは﹃高原﹄と題し︑第四号以降︑﹃高葉﹄と改題

された︒手作りの回覧雑誌で︑やはり秋元巳太郎や江渡狄嶺

が参加した︒

  之友社の発行︑﹁編輯兼発行人中里弥之助﹂となっている︒ 協力を得て︑政論も含めた総合雑誌として発行された︒隣人 一九三三︵昭和八︶年に改巻後は︑田川大吉郎や柳田泉などの 17︶﹃隣人之友﹄は当初はリーフレットの薄さで創刊され︑

里弥之助﹂となっている︒   行された︒西隣村塾印刷部の印刷で︑﹁編輯兼発行印刷人中 18︶﹃峠﹄は﹁中里介山純粋箇人雑誌﹂として隣人之友社より発

19  ︶原書は一九七六年刊︑日本語版は﹃チーズとうじ虫

年︶︒ギンスブルグは﹁ほとんど無名に近い個人でも︑はるか 紀の一粉挽屋の世界像﹄︵杉山光信訳︑みすず書房︑一九八四 16世

に大規模な現象にかんする省察への道を拓くことがありうる﹂

として﹁ミクロストリア﹂︵日本語訳﹃ミクロストリアと世界史││歴史家の仕事について﹄上村忠男編訳︑みすず書房︑二〇一六年九月︶を提唱したが︑介山はみずから﹁ミクロスト

リア﹂を体現したと言ってもいいかもしれない︒

︵こうの  けんすけ︑本学教授︶ 言行録非常の益を得ました︑感謝致します﹂という一節があ

る︒獄中の活動家への差し入れなどにも用いられたと思われ

る︒

序説文学史のなかの介山﹂や﹁独身・一人旅・表現者﹂︵ど 8︶﹃独身﹄については︑竹盛天雄﹁﹃大菩薩峠﹄の流動と生成 ちらも﹃介山・直哉・龍之介

一九一〇年代  孤心と交響﹄所収︑明治書院︑一九八八年七月︶がくわしい︒

9︶松尾熊太﹃随筆中里介山﹄︵春秋社︑一九五六年六月︶︒

10︶全集未収録︒

主人でもあった︒三土社は古本屋の屋号でもある︒三土社か 11︶鳥谷部陽太郎はアナキスト・エスペランティストで古本屋

らは鳥谷部陽太郎主幹により︑雑誌﹃新時代﹄を刊行した︒

見房子︑声だけを残し﹄︵みすず書房︑二〇二〇年八月︶がある︒ 科学社︑一九七五年一月︶のほか︑近著として斉藤恵子﹃九津 12︶九津見房子については牧瀬菊江﹃九津見房子の暦﹄︵思想の

一〇月︶︒ 13︶﹁江渡狄嶺様より﹂︵﹃手紙の代り﹄第一〇信︑一九一五年

14︶こうした個人雑誌の思想的な意義に注目した先行研究とし

て︑小松隆二﹁日本における思想家の個人紙誌

1910年代〜

20

年代を中心に

﹂︵﹃三田学会雑誌﹄八三巻特別号︑一九九〇年九月︶がある︒それによれば﹁論説・評論︑文学︑信仰など

をも含む広義の社会思想や思想家の領域において︑個人紙誌

が一種の流行のようになり︑今日から見ても大きな意味を持

つほどになるのは︑大正も次第にすすんでから︑つまり

集蔵と中里介山の二人︑とりわけ高田集蔵であった﹂という︒ 代の半ばを過ぎてから﹂であり︑﹁その先駆をなしたのが高田 1910年

この二人の影響下に﹁加藤一夫︑宮崎安右衛門︑有島武郎︑

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