と︑酒も入り︑歌舞音曲も行なわれ︑身分秩序による序列もや
や緩やかになっている︒﹃万葉集﹄の本文からその実態を完全
に復元するのは無理だが︑その姿をある程度窺い知ることはで
きる︒
1
昨今︑﹁令和﹂という﹁元号﹂の登場によって︑﹃万葉集﹄巻五
に収録された梅花宴とその序文が︑にわかに注目を集めた︒し
かし︑その序文と三十二首の歌群に関する理解は揺るぎないも
のであるのかと問われれば︑必ずしもそうではないと答えざる
を得ない︒﹁元号﹂の告示当所︑﹁令和﹂の出典となった序文に関しては︑何人かの研究者が自己の見解を公にしたが︑三十二首の歌群の方は︑あまり注目されなかったように思われる︒と
は言え︑梅の歌を詠むことこそが︑その宴の目的であった︒し
たがって︑本稿では三十二人の参加者によって詠まれた歌々の方に注目してみたいと思う︒ キーワード万葉集・大伴旅人・梅花宴・大宰府・宴席歌
要 旨
﹃万葉集﹄巻五の梅花歌三十二首から︑天平二年正月に大宰帥邸で催された宴席の実態の復元を試みる︒
それは五位以上の人たちの上座の八首︑陪席者と見られる大宰府の役人たちの歌五首︑下座の下級官人たちの歌一九首に分
けられる︒序文は︑無礼講のように一同が庭園に座して盃を取
り交したと伝えるが︑その三十二首は官位と職制に基づく身分秩序に従って披露された︒上座の人々は建物の中と見られる
が︑下座の人々は庭園に控えていたのであろう︒﹁対座﹂を基本とした座席の位置に基づいて歌の表現が連鎖し対応するとい
う︑かつて有力だった説は成り立ち得ない︒上座は秩序立った儀礼的な歌々だったのに対して︑下座は総
じて上座に対する忖度の歌々︒下座の歌が披露される頃になる
梶 川 信 行 梅花宴 は 見 えて 来 るか
︱︱﹃万葉集﹄の宴席歌を考える︱︱ ︿論文﹀
本稿は︑﹃万葉集﹄巻五に収録された梅花歌三十二首から︑
その向こう側にある宴そのものを考えてみることを目的とす
る︒そのために︑一首一首をできるだけ丁寧に読み解いてみた
いと思う︒
2
大宰府都府楼跡に隣接する大宰府展示館に行くと︑博多人形
で再現された梅花宴のジオラマがある︒﹁令和﹂となった直後
の五月︑福岡での学会の後︑改元で注目されている都府楼跡に足を運び︑展示館にも行ってみた︒そこには︑興味深そうにジ
オラマをのぞき込む多くの人の姿があった︒
ジオラマには︑梅の花が満開の庭園の中で︑大宰帥の大伴旅人以下の官人たちが︑地面に胡坐をかいて宴会をしている姿が示されている︒スペースの関係であろうか︑三十二人全員の姿
はない︒十三人に過ぎないが︑上座の議長席のような所に着座
し︑右手に盃を持つ紫の衣を着た男が︑帥の旅人に違いあるま
い︒その背後に袈裟を着た僧侶が控えているのは︑世俗の身分制度の埒外ということか︒観世音寺別当の満誓であろう︒官人たちは旅人の前で左右に並んでいるが︑左側の列の最初
に位置する男は︑濃い緋色の衣を着ている︒養老の衣服令では四位の礼服だが︑官位令によれば︑大宰府に四位のポストはな
い︒しかし︑大弐は正五位上相当の官だが︑そのポストにある紀男人が︑実際には従四位下だった︒したがって︑それは男人
であろう︒
それに続くのが︑従五位下相当の少弐小野大夫︵実際には従五 それを考える上で︑しっかり押さえておかなければならない
ことは︑天平二年︵七三〇︶正月十三日︑大宰帥邸における宴席
で披露された歌々を︑私たちは﹃万葉集﹄という歌集を通して読んでいるという事実である︒当然のことを言うようで気が引
けるのだが︑声によって披露された︵と思われる︶宴席歌を︑文字を通して窺い見ているに過ぎない︒しかも︑その場で記録さ
れた︵と思われる︶歌々が歌集に収録された時に︑編集の手がまっ
たく入らなかったという保証は何もない︒言うなれば︑歪んだ
レンズを通して梅花宴を覗き見ているに過ぎないのだ︒した
がって︑﹃万葉集﹄から宴席の場を復元することはできないと
する考え方も成り立ち得る︒一方︑場を復元する危うさを弁えた上で︑適切な読解法を用
いればある程度復元は可能だ︑という立場もある
能か否かという問題ではあるまい︒﹁宴﹂と明記する﹃万葉集﹄ ︒しかし︑可 1
の題詞・左注はかなりの数に上る︒それらをすべて虚構だと証明しない限り︑﹃万葉集﹄に収録された歌々の中に︑宴の場で生まれた歌が数多く存在するという事実は︑否定のしようがな
い︒もちろん︑天平二年正月に︑大宰帥邸で梅花宴が行なわれ︑
そこで三十二首の歌が生まれたという事実も︑誰にも否定でき
ないだろう︒確かに︑宴の場の復元は困難であるに違いない︒しかし︑宴席は古代の歌の重要な母胎の一つである︒その姿を見極めなけ
れば︑古代和歌の世界を十全に理解したことにはなるまい︒し
たがって︑それに近づいて行くためのさまざまな試みがなされ
なければならない︒
どが七位の官人だが︑これはおそらく大典の史氏大原であろ
う︒大監・少監の三人よりも少し下がり︑ウメの木に隠れるよ
うに座っているのは︑身分差が意識されているからに違いな
い︒末席の方には︑旅人の方を向いて踊っている男がいる︒深い縹の衣と見られるので︑八位相当の官人である︒この日参加し
た八位の官人は六人︒その中で日常的に旅人に接する機会が多
く︑旅人の気持ちをもっとも忖度しやすい人物は︑少典山口若麻呂ではないか︒たとえ彼ではなかったとしても︑下僚が宴席
を盛り上げ︑上座の上司のご機嫌を取り結んでいる姿である︒
その後ろには︑机の前に座っている男がいる︒机の上には紙
と硯が置かれ︑右手に筆を持っている︒記録係として︑梅花歌
の三十二首を筆録した人物という想定なのであろう︒黄色っぽ
い衣を身につけているが︑それは無位の制服とされた黄袍であ
る︒無位の参加者は三人いるが︑末尾にその歌が載る小野淡理
か︒とは言え︑あえて三十二人の中にその候補を探す必要はな
いのかも知れない︒
この三十二首については︑つとに仮名字母の多様性が指摘さ
れている
録と見るのは無理で︑作者それぞれの文字遣いを残すとする説 字反復を避けるものとが混在していることなどから︑一人の筆 ︒また︑同じ音の表記に同字を反復使用するものと同 2
もある
記したものを後で整理した可能性が高いということを教えてく ︒用字に関する詳細な研究の蓄積は︑参加者一人一人が 3
れる︒たとえその場に記録係がいたとしても︑それは﹃万葉集﹄
の直接的な資料にはなっていないのだろう︒ 位上︶︒小野老である︒次に︑同じく少弐の粟田大夫︵後述︶︒こ
の二人は規定通りの浅い緋の衣を着ている︒ところが︑その彼
らの次に真っ赤な衣を着た男がいる︒衣服令の規定とは異なる
が︑この中に﹃万葉集﹄を代表する歌人の一人山上憶良がいな
いとは考えにくい︒梅花宴では︑小野大夫と粟田大夫の歌の後
に﹁筑前守山上大夫﹂とした歌がある︒その点からすると︑真っ赤な衣が憶良であろうか︒その衣の色に疑問は残るものの︑左側に五位以上の身分の高い人たちがいるのは︑律令制度の中で
は当然のことであろう︒一方︑旅人の右側の列には︑濃い緑の衣を着た官人が三人並
んでいる︒正六位下相当の大監伴氏百代︵大伴百代︶と︑従六位上相当の少監阿氏奥島︵阿倍奥島︶・少監土氏百村︵土師百村︶であ
ろう︒職員令によれは︑大監も少監も定員は二人だが︑梅花宴当日は公務の都合か︑大監一人が欠席していた︒あるいは︑歌
が詠めずに記録に残らなかっただけなのか︒ジオラマにその姿
はない︒
その男たちの中に一人の女性がいて︑三人の中の上座の男に酒を勧めているように見える︒これは遊行女婦の児島に違いあ
るまい︒その年の十二月︑旅人の上京時に惜別の歌︵巻六・九六五︑九六六︶を贈っている︒梅花宴にその歌はないが︑宴席に女性が侍るのは﹃万葉集﹄でも珍しいことではない︒大宰府在任中の旅人と児島はずっと懇意で︑宴の接待役として参加して
いたと見ているのであろう︒右側の末席には︑薄い緑の衣を着た男がいる︒衣服令によれ
ば︑七位の朝服である︒大宰府では︑大典・少判事・防人正な
ような丸くて薄い敷物だけ︒﹁初春の令月にして︑気淑く風和
ぐ﹂︵序文︶日だったことを表しているのかも知れないが︑高齢
の旅人が︑寒いその時期に︑本当に直接庭に胡坐をかいて宴に興じたのだろうか︒部屋の中で行われたとする意見もある
展示品に対して野暮な分析をして来たのだが︑このジオラマ ︒ 7
は︑序文の﹁天を蓋にし︑地を坐にし︑膝を促け︑觴を飛ばす﹂
という部分と︑律令制の身分秩序を前提に作られたもののよう
に見える︒しかし︑天平二年の正月十三日の大宰府で︑こうし
た無礼講のような催しが︑本当に行なわれたのかどうか︒きち
んと検証してみなければなるまい︒
3
梅花宴の序文については︑王羲之の﹁蘭亭集序﹂などの漢籍
の影響と見るのが通説である
︒事実を忠実に記録することより 8
も︑典拠に基づきつつ︑整った正格な漢文をなすことを目指し
たと見るべきであろう︒したがって︑その宴の実態に近づこう
とするならば︑やはりその三十二首を丁寧に読み解いて行くこ
と以外にはあるまい︒三十二首についてはつとに表現の連鎖が指摘され
︑さらに 9
は︑それを手かがりとして︑座席の復元も試みられて来た︒と
りわけ︑秩序立った表現の連鎖と対応関係を読み取りつつ︑﹁対座﹂を基本とした座席の配置まで想定した説は
系化された優れた作品群であるという評価に基づく︒賛否はあ ︑三十二首が体 10
るものの︑歌群の読みをより精緻なものとしたことで研究史的
な意義は大きい︒しかし︑律令官人にとって︑儀式や宴におけ もちろん︑このジオラマは想像の域を出ないものだが︑概ね律令に基づく身分制度を前提としている︒官位に基づく服装と座席の位置である︒なるほど︑こんな様子だったのかも知れな
いと︑納得しやすいものではある︒
しかし︑必ずしもすべて史実に忠実というわけではあるま
い︒そのもっとも疑問に思えることは︑梅花宴には無位の官人
も参加していたが︑正三位という高貴な旅人が︑微官の者たち
とともに庭に出て︑無礼講のように︑地面に胡坐をかいて酒を飲んでいることである︒厳格な身分社会の中で︑本当にこんな
ことがあったのか︒確かに︑その序文には﹁天を蓋にし︑地を坐にし︑膝を促け︑觴を飛ばす﹂と書かれている︒しかし︑はたしてそれを言葉通
りに受け取ってもいいものか︒序文は﹁庭に新蝶舞ひ︑空には故雁帰る﹂などといった︑絵に描いたような構図の対句を含む︒
それは﹁観念的・理想的な美景
述のすべてを︑そのまま正直に受けとめていいのかどうかは大 ﹂であって︑装飾過剰なその記 4
いに疑問である︒旧暦の正月十三日は︑太陽暦の二月八日
︒その頃の大宰府は︑ 5
まだ寒さが残っていたと思われる︒現代でも︑しばしば氷点下
になる日があり︑日中の気温は一桁の日が多い
首の中には︑大宰府背後の﹁城の山﹂に雪の降っていることを ︒また︑三十二 6
うたったもの︵八二三︶もある︒ならば︑暖房が必要であろう︒現在︑太宰府天満宮でウメが見頃となるのは三月上旬であると言う︒ウメを愛でる宴としては早過ぎるのではないか︒
ところが︑地面に座る参加者たちの尻の下には︑縄で編んだ
我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来 るかも 主人︵巻五・八二二︶右の﹁主人﹂は旅人だが︑客側でもっとも身分の高い大弐が︑
まずは口火を切った形である︒大弐紀卿は︑すでに述べた男人︒彼は慶雲二年︵七〇五︶に従五位下に到達し︑天平十年︵七三八︶大宰大弐のまま没している︒旅人以外の大宰府の官人たちの中
では︑もっとも年配だったと見られる︒天平十八年︵七四六︶正月の雪の肆宴︵巻十七・三九二二〜三九二六︶でも︑主催者の太上天皇に対して︑左大臣橘諸兄が最初に歌を献上している︒大弐男人の歌が︑その配列通り︑開宴の口火を切ったという見方は︑蓋然性が高いと思われる︒正月となり︑春が来たならば︑このように皆うち揃い梅を招待し
13
て楽しい日を過ごしましょう︑という一首︒﹁春の来たら
ば﹂と仮定しているので︑今日だけではなく︑来年も再来年も
ということを含んでいる︒この﹁かくしこそ﹂は︑﹃続日本紀﹄天平十四年︵七四二︶正月条に見える天皇臨席の宴でも︑
新しき 年の始めに かくしこそ 仕え奉らめ 万代まで
に
とうたわれている︒宴席歌にしばしば見られる表現だが︑一同
を指し示しつつ︑賑々しく参集している現在の姿を積極的に肯定している︒男人の一首は︑宴を企画した主人に対して全面的
に賛同の意を示す歌である︒大弐という立場を弁えた開宴の挨拶として︑実にふさわしい一首であると言ってよい︒
それに続くのは少弐の小野大夫︵従五位上︶だが︑同じく少弐
の粟田大夫の歌は三番目に置かれている︒粟田大夫は︑人︵比 る席次は自己の存在意義に関わる重大事であったと考えられ
る︒しかも︑この三十二首のほとんどに官職が明記されている
が︑それは﹃万葉集﹄の宴席歌の中では異例の形式である︒に
も関わらず︑その官位と職制を考えず︑歌の表現のみから座席
を考える説にはとうてい賛同することができない
三十二首冒頭の八首は上座の人たちの歌々と見られるが ︒ 11
下のような配列である︒ここからも︑表現の連鎖を見ようとす ︑以 12
れば見えてしまうのだが︑それは明らかに上座の人たちの官位
と職制という身分秩序に基づく配列である︒あとで整理された可能性も否定できず︑実際に披露された順なのか否かは︑きち
んと検討してみなければならない︒
正月立ち 春の来らば かくしこそ 梅を招きつつ 楽し き終へめ 大弐紀卿︵巻五・八一五︶ 梅の花 今咲けるごと 散り過ぎず 我が家の園に あり こせぬかも 少弐小野大夫 ︵巻五・八一六︶ 梅の花 咲きたる園の 青柳は かづらにすべく なりに けらずや 少弐粟田大夫︵巻五・八一七︶ 春されば まづ咲くやどの 梅の花 ひとり見つつや 春日暮らさむ 筑前守 山上大夫︵巻五・八一八︶ 世の中は 恋繁しゑや かくしあらば 梅の花にも なら ましものを 豊後守大伴大夫︵巻五・八一九︶ 梅の花 今盛りなり 思ふどち かざしにしてな 今盛り なり 筑後守 葛井大夫 (巻五・八二○)
青柳 梅との花を 折りかざし 飲みての後は 散りぬと もよし 笠沙弥(巻五・八二一)
一般的である︒しかし︑それが芽吹くのは三月中旬から四月頃
樹種が確定できないので︑確かなことは言えないが︑粟田大夫 ︒ 17
の歌は必ずしも事実を反映したものではあるまい︒序文の﹁初春の令月にして︑気淑く風和ぐ﹂を受けて︑新春の宴らしく︑季節を代表する植物の﹁柳﹂を﹁かづら﹂にする趣向を詠んだの
であろう︒表現の連鎖や対応関係ということで言えば︑初句の﹁梅の花﹂
が同じ︒また︑二句目の︿咲く﹀という語も共通する︒しかし︑
﹁宜しく園梅を賦して︑聊かに短詠を成すべし﹂という課題な
ので︑これは当然のことだろう︒初期万葉の贈答歌のように︑明確な表現の対応でない限り︑むやみに対応関係を説くこと
は︑恣意的な読みになってしまう恐れがある︒したがって︑そ
の点については慎重な姿勢を取
18
る方が適切だと思われる︒四首目は筑前守山上憶良の歌で︑以後︑豊後守・筑後守と続
く︒西海道の各国は大宰府管下の国ということで︑同じく従五位下相当だが︑大宰少弐の後に置かれているのであろう︒憶良の一首はかつて︑集団にあえて背を向け︑孤独を強調し
た歌だとする理解もあった
︒しかし︑並み居る官人集団に対し 19
て︑親和的に春の訪れを共に喜ぼうという気持ちを表明した
歌 20
だと見た方がよい︒﹁やど﹂は帥の邸宅を指し︑旅人の立場で
うたった﹁梅の花をともに享受しようとする仲間への誘い歌
﹂ 21
とする理解が︑現在では一般的である︒初句の﹁春されば﹂は︑紀男人の﹁正月立ち 春の来らば﹂と
いう表現を受けたもの︒直前の歌の﹁青柳﹂が︑実際にはまだ芽吹きの時期ではなかったからこそ︑﹁まづ咲くやどの 梅の 登とも︶か人上かと意見が分かれているが︑天平二年正月の時点で︑人は従五位上︑人上は正五位上︒官位相当からすれば︑人であった可能性が高い︒同じく少弐でも︑老の方が年長だっ
たとか︑着任が先だったとか︑納得のできる理由があったのだ
ろう︒
その老の歌の﹁我が家の園﹂は︑帥の邸宅の庭園のこと︒﹁主人﹂の立場でうたっていると見る説
14
が多くの支持を得ている
が︑その梅が﹁今咲けるごと 散り過ぎず﹂に咲き続けること
を願う歌︒本当に﹁今咲ける﹂状態だったのか否かは定かでな
いが︑今日のよき日の永続性を求める歌であり︑来年も再来年
もと言う紀男人の歌に同調している︒これも上司の意を汲み︑
その宴を寿ぐ歌として適切なものだと考えてよい︒粟田大夫の歌は︑﹁青柳﹂を詠む点で︑先行する二首との違
いが見られるが︑﹁梅﹂と﹁柳﹂の取り合わせは︑六朝の詩に数多く詠まれているとする指摘がある
︒実際︑大宰帥の邸宅の庭 15
には︑ウメばかりでなく︑ヤナギも植えられていたのであろう︒
﹃万葉集﹄中の﹁柳﹂は春の代表的な景物の一つとされている︒
﹁柳﹂﹁青柳﹂﹁川柳﹂﹁春柳﹂など︑多くの例を数えるが︑樹種が明確なものは︑
ももしきの 大宮人の かづらける 垂柳は 見れど飽か
ぬかも︵巻十・一八五二︶
という一首のみ︒﹁垂柳﹂だが︑ここは風雅の遊びとして﹁かづ
ら﹂にする﹁青柳﹂︒大宰帥の邸宅のそれも︑ウメと同様在来種
ではなく︑中国大陸原産のシダレヤナギだった可能性が高い︒
この﹁青柳﹂については﹁春芽吹いた新緑の柳
﹂とする説明が 16
もにする人たちとの融和を表明している︒これも旅人の意に沿った歌だと見てよい︒六首目の葛井大夫は︑神亀五年︵七二八︶に外従五位下となっ
た葛井連大成である︒一人だけ外位なので︑山上大夫と大伴大夫の後塵を拝している︒葛井連氏は百済系の渡来氏族で︑﹁先進の学問を伝えた家柄
﹂だった︒大成の作歌の背景にも︑漢学 23
の素養があったことが指摘されている
︒ 24
しかし︑二句目と五句目には﹁今盛りなり﹂が繰り返される︒大宝元年︵七〇一︶に持統太上天皇が紀伊国に行幸した時︑やは
り渡来系と見られる調首淡海が︑
あさもよし 紀伊人羨しも 真土山 行き来と見らむ 紀伊人羨しも︵巻一・五五︶
という土地褒めの歌をなしている︒こうした形式は︑古代の歌謡的な短歌にしばしば見られるものであり︑﹁音楽的な遺風
﹂ 25
とされる︒その日の宴を︑諸手を挙げて讃美しているような一首であり︑朗々と高吟するにふさわしい歌だと見るべきか︒三句目の﹁思ふどち﹂も︑宴席歌にふさわしい表現である︒
それは﹃万葉集﹄の社交の歌の常套的表現であり︑一同に共調
と融和の気分を醸成する働きを持つ︒しかも︑﹁思ふどち か
ざしに﹂すると言う︒︿かざす﹀ことをうたった最初の歌だが︑
︿かざす﹀は﹁季節の霊威を宿した植物を髪に射して︑その生命力を身につけようとする呪的な行為
﹂︒これも宴の風流の典型 26
である︒﹁かざしにしてな﹂の﹁な﹂は︑勧誘・慫慂の助詞︒︿か
ざす﹀ことを促し︑風流の遊びがこれから始まることを表して
いる︒ 花﹂と︑現に咲き始めていた︵かも知れない︶﹁梅の花﹂に人々の視線を戻した︑ということであろう︒
﹁ひとり見つつや﹂の﹁や﹂は反語だが︑﹁万葉集の中で﹁独り﹂
ということばは︑恋人といっしょにいないときと︑官人であり
ながら︑官人集団と共にいない状態である
﹂︒ここは官人集団 22
と共にいない時の例だが︑反語は強い肯定とも見られるので︑憶良は官人集団に背を向けているのではあるまい︒むしろ︑積極的に共調しようとしていると見るべきであろう︒この日の宴
の場に官人たちが賑々しく集まっている状態を指し示す﹁かく
しこそ﹂という︑男人の三句目を意識した﹁ひとり見つつや﹂
にほかなるまい︒五首目は豊後守の歌だが︑大伴大夫が誰を指すのかは不明︒従五位下相当のポストだが︑大伴氏で蔭位の制が適用され︑若
くして従五位下に到達したと想定できる人で︑この時豊後守の任にあった可能性のある人物は︑﹃続日本紀﹄に見当たらない︒長い官歴の末︑ようやく従五位下に到達したのだとすれば︑こ
の人はかなり年配だったと思われる︒
そんな男が﹁世の中は 恋繁しゑや﹂とうたったのだから︑
その意外さに︑上座では笑いが起きたのではないか︒年甲斐も
なく︑都の奥さんがそんなに恋しいの︑と︒あるいは︑大宰府
で新たな恋愛でもしているの︑ということか︒ところが︑その後を聞いてみると︑﹁かくしあらば 梅の花にも ならましも
のを﹂と転換している︒﹁梅の花﹂になれば︑旅人をはじめ︑こ
の日集まった人たちとまた会える︑という気持ちを含むことは明らかである︒望郷︵あるいは恋︶の歌と見せて︑巧に宴席をと
まれた語彙と表現の近似性と見るべきものであろう︒参加者の一体感を深めることに不可欠な﹁類同性
﹂と言ってもよい︒こ 27
うした儀礼的な歌々が︑身分秩序に基づいて配列されている︒
この八首の配列は概ね︑実際に披露された順であったと考えて
よいのではないか︒大宰府展示館のジオラマは︑旅人が盃を持ち︑児島が大伴百代に酒を勧め︑末席の男が踊っている︒宴酣といった様子であ
る︒しかし︑上座の人たちの歌々が披露された時点では︑まだ
そうした雰囲気にはなっていなかったと見てよいだろう︒
4
三十二首のうちの二つ目の歌群は︑次の五首である︒彼らは
いずれも大宰府の官人だが︑六位から八位のポスト︒上座の人
たちとは一線を画していたが︑日常的な業務と同様︑その傍に控え︑陪席者的な位置にあったと考えられる︒上座で披露され
た歌々を︑その他の参加者にも伝える役割などを果たしていた
のではないか︒
ここでも︑歌の読みを通して座席などを考えるのは︑本末転倒である︒この五人の歌は︑大監︵正六位下︶・少監︵従六位上︶・少監・大典︵正七位上︶・少典︵正八位上︶と︑まさに官位の順に並
んでいる︒やはり︑律令制度に基づく官位と職制こそが︑彼ら
の立場を考える基本でなければならない︒
梅の花 散らくはいづく しかすがに この城の山に 雪 は降りつつ 大監伴氏百代︵巻五・八二三︶
梅の花 散らまく惜しみ 我が園の 竹の林に うぐひす 上座の客の最後に︑満誓の歌が置かれている︒ここでその歌
が披露されたのはやはり︑満誓が世俗の身分制度の埒外にいる
からであろう︒とは言え︑﹁青柳﹂と﹁かざし﹂をうたうこの歌
が︑粟田大夫と葛井大夫の歌を受けていることは確かである︒宴の風雅な趣向に背を向けることなく︑この日の楽しいひと時
を︑ほかの人たちとともに享受していることを示している︒﹁飲
みての後は 散りぬともよし﹂と︑︿散る﹀ということがここで初めて肯定的に詠まれるが︑それは序文の﹁落梅の篇﹂という語を受けているのであろう︒この瞬間こそがすべてであり︑思
い残すことは何もないという気持ちを表している︒これも︑こ
の日の宴を謳歌する一首としてふさわしい︒以上の歌々を︑﹁主人﹂旅人は満足そうな笑みを浮かべて聴
いていたことだろう︒ところがその歌は︑これまでの七人がこ
の日の宴を讃美し︑同調と融和をうたい上げて来たのとは趣を異にしている︒﹁詩に落梅の篇を紀す︒古今それ何そ異ならむ︒宜しく園梅を賦して︑聊かに短詠を成すべし﹂とする序文に即
し︑﹁散る﹂﹁梅の花﹂を異界である﹁天﹂から﹁流れ来﹂たもの
として︑その美しさを詠んでいる︒満誓の歌の﹁散りぬともよ
し﹂にも応じたのであろうが︑耽美的と言ってもよい一首であ
る︒
こうして上座の八首を見て来ると︑いずれも大人の対応を見
せている︒儀礼的で卒のない社交の歌々だったことが確認でき
る︒その場で作ったものばかりでなく︑事前に準備して来たも
のもあったのかも知れない︒そこにあるのは︑意図的な表現の連鎖と言うよりも︑同じテーマに基づく気分の共有によって生
があってから献上されたのではないかと考えられる︒
その第一首は大伴百代の歌︵八二三︶︒旅人の﹁梅の花散る 天より雪の 流れ来るかも﹂という歌に対して︑﹁梅の花 散
らくはいづく﹂と疑問を投げかける︒確かに︑時期的にはまだ
ウメが散る頃ではなかった
︒そこで︑﹁流れ来﹂た白いものは 29
ウメの花びらではなく︑まさに雪が降っているのだと主張す
る︒庭のウメから﹁城の山﹂へと︑視線を転ずることを促した
のだ︒﹁城の山﹂は大宰府背後の大野山とするのが通説である︒本当に雪が降っていたかどうかは不
仰る通り︑﹁城の山﹂には雪が降っておりますよと︑興じたの 明だが︑御覧下さい︑帥様の 30
ではなかったか︒たとえ雪が降っていなくても︑﹁城の山﹂に何か白いものを見つけた︵ことにした︶のであろう︒山の白いものを詠むという点では︑持統天皇の御製︑
春過ぎて 夏来たるらし しろたへの 衣干したり 天の香具山︵巻一・二八︶
という一首が参考になろう︒実際には初夏の歌ではなく︑冬の歌だとする説である
︒﹁あの白いものは何﹂という問答だとす 31
る見方だが︑天上世界から雪が流れて来たみたいだという旅人
の歌に対して︑実際にはまだウメが散っていなかったことも
あって︑雪はどこに降っているのでしょう︑雪とはあの﹁城の山﹂の白いものではありませんか︑と言う︒旅人の歌をしっか
り受け止めた上で︑あえて﹁あの白いものは何﹂という問答を仕掛けたのであろう︒現実には雪がなかったとしても︵旅人の視野に大野山が入っていなかったとしても︶︑旅人は︑確かに城の山に 鳴くも 少監阿氏奥嶋︵巻五・八二四︶
梅の花 咲きたる園の 青柳を かづらにしつつ 遊び暮 らさな 少監土氏百村︵巻五・八二五︶ うち靡く 春の柳と 我がやどの 梅の花とを いかにか分かむ 大典史氏大原︵巻五・八二六︶ 春されば 木末隠りて うぐひすそ 鳴きて去ぬなる 梅 が下枝に 少典山氏若麻呂︵巻五・八二七︶職員令に規定された大宰帥の広範な職掌の中に﹁饗讌﹂があ
る︒しかし︑それは﹁蕃客の辞見︑饗讌︑送迎﹂とされる玄蕃寮の規定と同じく︑﹁蕃客﹂に対するものである︒また︑この日は十三日︒儀制令に定められた国守が国郡の役人を集めて行
なう元日朝賀の儀の後の宴にも当たらない
︒天平十八年 28
︵七四六︶正月の肆宴︵巻十七・三九二二〜三九二六︶は︑時ならぬ大雪の中︑急遽太上天皇の御在所に馳せ参じた時︑﹁酒を賜ひて肆宴したまひき﹂というものだった︒それと同様︑臨時の宴で
あり︑公務ではあるまい︒
とは言え︑大宰帥が呼びかければ︑大宰府とその管下の官人
たちは︑馳せ参じないわけには行かない︒そして︑身分秩序に従って︑適切にその役割を果たさなければならなかったに相違
ない︒右の五人は︑大宰府の幹部たちの下で︑まさにそうした役割を果たした人たちであろう︒旅人の歌が披露された時︑それを一同でじっくり味わうため
の時間が置かれたのではないか︒まさにその通りでございます
ね︑お見事︑といった称賛の言葉も連ねられたことだろう︒し
たがって以下は︑上座の人たちの歌が披露された後︑少し時間
ここで初めて﹁遊び﹂という語が現れるが︑問題はそれをど
う理解するか︑ということである︒周知のように︑それは歌舞音曲を表わす︒大宰府展示館のジオラマに踊る男がいたのも︑
︿遊び﹀をそう理解していたからであろう︒楽器を持った人物
はいなかったが︑踊っている以上︑当然︑音曲を伴ったはずで
ある︒とすれば︑旅人も嗜んだと見られる琴であろうか︒
しかし︑﹁遊び暮らさな﹂の﹁な﹂は︑﹁文末にあって︵中略︶希望をあらわす
上座の歌の中に﹁遊び﹂という語はない︒この段階ではまだ︿遊 ﹂︒一方︑儀礼的な歌々が取り交わされていた 34
び﹀が行なわれていなかったということであろう︒四首目は︑大典の史氏大原の歌︵八二六︶︒まずは︑百村の﹁梅
の花 咲きたる園の 青柳﹂を﹁うち靡く 春の柳﹂に言い換 えている︒そして︑﹁我がやどの 梅の花﹂との優劣を論う形
だが︑﹁いかにか分かむ﹂と結論を保留している︒額田王の春秋競憐歌︵巻一・一六︶のように︑決着をつけないことこそが︑融和を目的とした宴席歌の常道なのであろう
陪席者の最後は︑少典の山氏若麻呂の歌︵八二七︶︒﹁うぐひす﹂ ︒ 35
を詠んでいるが︑それは上座の歌には見られず︑少監の奥島の歌に初めてうたわれた︒しかし︑﹁我が園の 竹の林﹂の﹁うぐ
ひす﹂を﹁梅が下枝﹂のそれに転換している︒これは見たまま
なのか︑あるいは屏風の絵柄なのか︒しかし︑﹁去ぬなる﹂が﹁聴覚による推量
﹂だとすれば︑実際にウグイスが鳴いたというこ 36
とになる︒
いずれにせよ︑上座に同調する姿勢を見せず︑この日の宴を礼賛するものでもない︒忖度する気がなかったのか︒単なる歌 は雪が降っているようだね︑と同調したのではないか︒二首目の阿氏奥島の歌︵八二四︶の﹁梅の花 散らまく惜しみ﹂
が︑旅人の歌の﹁我が園に 梅の花散る﹂︵八二二︶を受けている
ことは明らかであろう︒とともに︑百代によって外に向けられ
た視線を﹁我が園﹂に戻し︑﹁うぐひす﹂の声に耳を傾けること
をうたっている︒ここで初めて﹁うぐひす﹂が登場するが︑大宰府あたりでウグイスが鳴き始めるのは︑三月一日頃とされる
当然︑年によって誤差はあろうが︑これも早過ぎるのではない ︒ 32
か︒屏風に描かれたウグイスと見る説もある
︒ともあれ︑これ 33
が﹁梅﹂と﹁うぐひす﹂の取り合わせの早い例だが︑奥島の一首
も︑絵画的な構図が意識されているように思われる︒
この日の﹁梅は鏡前の粉を披﹂︵序文︶くとされているが︑﹁う
ぐひす﹂さえも︑梅の花が散るのを惜しんで︑﹁竹の林﹂で﹁鳴
く﹂としている︒鳥さえも同じ価値観を持ち︑﹁梅の花﹂を愛で
ることに共感しているということになろう︒擬人法である︒三首目は土氏百村の歌︵八二五︶だが︑伴氏百代の歌から三首続けて初句が﹁梅の花﹂という形である︒一見︑表現の連鎖の
ようにも見えるが︑初句に﹁梅の花﹂と詠む歌は三十二首の中
に十二首もある︒偶然なのか意図的なのかの判断は難しい︒確実なのはやはり︑身分秩序に基づく配列ということであろう︒
また︑﹁梅の花 散らまく惜しみ﹂は︑旅人の﹁梅の花散る﹂
を受けたものと見られる︒散る時期としては早いにも関わら
ず︑ここでは﹁散らまく惜しみ﹂とうたわれているが︑帥が散っ
ていると言う以上︑部下たちは散っていることにしなければな
らない︒まさに忖度である︒
この梅花宴も︑下座の人たちは︑これまで歌を披露した人たち
と︑席を同じくしていなかったと考えられる︒大宰帥の邸宅については︑その遺構が発見されていないの
で︑建物の構造や庭園の形などについては不
明と言うしかな 37
い︒とは言え︑上座の人たちは暖の取れる室内から︑蔀を上げ
て庭のウメを眺めていたのであろう︒一方︑下座の彼らは庭園
で︑まさに﹁天を蓋にし︑地を坐にし﹂ていたのではないか︒
ともあれ︑一つ目のグループから検討することにしたい︒
人ごとに 折りかざしつつ 遊べども いやめづらしき 梅の花かも 大判事 丹氏麻呂︵巻五・八二八︶ 梅の花 咲きて散りなば 桜花 継ぎて咲くべく なりに てあらずや薬師張氏福子︵巻五・八二九︶ 万代に 年は来経とも 梅の花 絶ゆることなく 咲き渡 るべし筑前介 佐氏子首(巻五・八三○)
春なれば うべも咲きたる 梅の花 君を思ふと 夜寐も寝なくに 壱岐守板氏安麻呂︵巻五・八三一︶ 梅の花 折りてかざせる 諸人は 今日の間は 楽しくあ るべし 神司荒氏稲布︵巻五・八三二︶ 年のはに 春の来らば かくしこそ 梅をかざして 楽し く飲まめ 大令史野氏宿奈麻呂︵巻五・八三三︶ 梅の花 今盛りなり 百鳥の 声の恋しき 春来るらし 少令史 田氏肥人(巻五・八三四)
春さらば 逢はむと思ひし 梅の花 今日の遊びに 相見 つるかも 薬師高氏義通︵巻五・八三五︶
梅の花 手折りかざして 遊べども 飽き足らぬ日は 今 に関する技量の問題か︒展示館のジオラマで踊っている男が若麻呂だとすれば︑作歌に自信がなかったので︑踊って見せるこ
とでその場の雰囲気を盛り上げた︑ということになろうか︒定
かではない︒
このように見て来ると︑この五首は︑全体の構成を考えつつ編集された歌群と見るよりも︑官位と職制に基づいて配列した
か︑単に披露された順に並べられているだけ︑ということにな
ろう︒作者名の表記には統一感があるので︑明らかに編集の手
が入っていよう︒その歌々は官位と職制に基づいた序列によっ
て披露されたものが︑そのまま並ベられたものだった可能性が高い︒
5
以下の歌々は下座ということになる︒それは三つのグループ
に分けられる︒まずは︑大判事の丹氏麻呂︵八二八︶から算師志氏大道まで︵八三七︶︒大宰府の六位以下の官人たちと︑管下の国の守と介だが︑彼らも六位の官人である︒二つ目のグループ
は︑西海道諸国の目たち︵八三八〜八四二︶︒概ね初位の官人であ
る︒そして︑三つ目のグループは︑無位の官人たち︵八四三〜八四六︶︒一人だけ従七位上相当の筑前掾︵従七位上相当︶門氏石足
が混ざっているが︑それには理由があったと思われる︒天平十八年︵七四六︶正月に催された肆宴︵巻十七・三九二二〜三九二六︶は︑﹁大臣参議と諸王たちは大殿の上に侍せしめ︑諸卿大夫たちは南の細殿に侍せしめ﹂と︑身分によって異なる建物から﹁雪﹂の歌を献上させているが︑それが参考となろう︒
他者の行為を指しているのであろう︒神司荒氏稲布の﹁折りて かざせる 諸人は﹂︵八三二︶なども︑自己の行為のようには見 えない︒また︑このグループではないが︑末席の方でも﹁梅の花 折 りかざしつつ 諸人の 遊ぶを見れば﹂︵八四三︶とうたわれて
いる︒これは明らかに他者が﹁遊ぶ﹂のを外側から見ているの
であって︑自己の行為ではあるまい︒風雅な︿遊び﹀は上座の人たちだけが享受できるものであって︑下座の人々は単に︑そ
うした趣向が凝らされているということを承知した上で︑それ
を詠んでいるだけだったと見た方が適当かも知れない︒身分差
による待遇の違いが︑その表現の差から垣間見えるように思わ
れる︒ここで︑もう一度︿遊び﹀という語に注目してみたい︒この
グループでは︑三人の歌に﹁遊べども﹂︵八二八︑八三六︶﹁今日の遊びに 相見つるかも﹂︵八三五︶とうたわれている︒それらは
いずれも︑すでに行なわれたことを意味している︒陪席者の歌
の中には﹁遊び暮らさな﹂という︿遊び﹀を促す歌︵八二五︶も
あったが︑ここでようやく︿遊び﹀が行なわれたということで
あろう︒ジオラマで踊っていたのは八位の官人だったが︑確か
に︑上座の貴人たちのために陪席者の一人が下座に向かって座興を求め︑それに応じて下座の人々が歌舞を行なったというこ
とであろう︒二首目の張氏福子の一首︵八二九︶は︑︿散る梅﹀をうたっては
いるが︑単にウメが散ったらサクラが咲きますね︑と言うだけ
の歌︒張氏は渡来系氏族だが︑出自・経歴は不明︒福子は﹃藤 日にしありけり 陰陽師磯氏法麻呂︵巻五・八三六︶
春の野に 鳴くやうぐひす なつけむと 我が家の園に 梅が花咲く 算師志氏大道︵巻五・八三七︶
このグループでは︑一人目の丹氏麻呂が﹁梅の花﹂を︿かざす﹀
ことをうたっている︒そこで注目すべきは︑上座の人々の中で
は葛井大夫︵八二〇︶と笠沙彌︵八二一︶がそれをうたっていたが︑陪席者たちの歌の中にはないことである︒ところが︑ここでは四人が︿かざす﹀ことをうたっている︒風雅な︿遊び﹀のために
︿かざす﹀ウメの花は︑上座を中心とした儀礼的な歌々の披露
が一通り終わった後︑まずは上座の人々に届けられたのであろ
う︒身分により席が異なっていて︑食事の内容が違ったり︑順番に配られるために時間差があったり︒ここで︿かざす﹀こと
がうたわれるのは︑下座にもようやく︿かざす﹀べきウメの花
が届いたということかも知れない︒
しかし︑﹁人ごとに 折りかざしつつ﹂という表現には︑疑問符がつく︒たとえば︑天平十年︵七三八︶十月の橘奈良麻呂
の集宴︵巻八・一五八一〜一五九一︶では︑
手折らずて 散りなば惜しと 我が念ひし 秋の黄葉を かざしつるかも︵巻八・一五八一︶ 黄葉を 散らす時雨に 濡れて来て 君が黄葉を かざし
つるかも︵巻八・一五八三︶
黄葉を 散らまく惜しみ 手折り来て 今夜かざしつ 何
か念はむ︵巻八・一五八六︶
などと︑自己の行為としてうたわれているが︑それとは明らか
に異なっている︒丹氏麻呂の︿かざす﹀は自己の行為ではなく︑
ことと酒を飲むことをうたっている点である︒上座の笠沙彌の歌︵八二一︶には﹁飲みての後は 散りぬともよし﹂とうたわれ
ているが︑それは飲む前である︒しかし︑ここでは﹁かくしこ
そ ⁝⁝ 楽しく飲まめ﹂とうたわれている︒今現在︑楽しく飲んでいるのだ︒上座の歌々を見ても明らかなように︑最初から酒が入ってい
たわけではない︒当然︑上座の人たちが歌を披露している時︑彼らが酒を飲むわけには行くまい︒下座に歌の披露の順番が回って来た頃︑ようやく彼らのところにも酒が出て来たのであ
ろう︒七首目は田氏肥人︵八三四︶だが︑この初句と二句は︑上座の葛井大夫の歌︵八二〇︶とまったく同じである︒三句目以下の﹁百鳥の 声の恋しき 春来るらし﹂という季節の表現は初めての
ものだが︑冒頭の紀男人︵八一五︶以来︑春の到来は﹁楽し﹂と
うたわれている︒同調することで融和の気分を生み出す歌だと見てよい︒
それに続くのが︑高氏義通の歌︵八三五︶︒直前の歌に﹁春来
たるらし﹂と確信的にうたわれているのに︑﹁春さらば﹂と始め
たのでは辻褄が合わない︒これも︑冒頭の紀男人の歌︵八一五︶
を受けていると見た方がよい︒﹁春さらば﹂は﹁正月立ち 春の来らば﹂を︑﹁逢はむと思ひし 梅の花﹂は︑紀男人の﹁かくし こそ 梅を招きつつ﹂に対応する︒いずれも﹁梅﹂を擬人化し ている︒しかし︑男人が﹁楽しき終へめ﹂とうたったのに対して︑義通は﹁今日の遊びに 相見つるかも﹂としている︒これから
の男人に対して︑すでに完了した義通である︒宴は確実に進行 氏家伝下﹄に﹁方士﹂とされ︑言うなれば医療関係者であった︒歌という文化にはあまり縁がなかったのか︒サクラが咲くの
も︑季節的にはだいぶ先のこと︒ヤマザクラが大宰府一帯で咲
き始めるのは三月下旬とされる
︒季節外れの歌だと言った方が 38
よい︒﹁全体の流れにやや水をさした感じ
散らないことを願う点では︑上座の二首目︑小野大夫の歌 呂の吉野讃歌︵巻一・三六︑三七︶に見られる永遠性の表現である︒ 遠性を言挙げしている︒また﹁絶ゆることなく﹂も︑柿本人麻 三首目の佐氏子首︵八三〇︶は︑まずは﹁万代﹂という語で永 然のことであろう︒ ﹂とされるのも︑当 39
︵八一六︶に同調しているのであろう︒
このあたりは﹁梅の花﹂という語以外に︑表現の連鎖は見ら
れないが︑四首目︵八三一︶は﹁梅の花﹂を﹁君﹂と呼んでいる︒
それを擬人化している点では︑この宴の口火を切った紀男人の歌︵八一五︶を踏襲しているのであろう︒五首目の荒氏稲布の歌︵八三二︶は︑二つの﹁は﹂に特徴がある︒周知のように︑それは他と区別しつつ︑名詞を強く提示する働
きを持つ︒したがって︑﹁諸人﹂と﹁今日の間﹂を強調している
ことになろう︒﹁諸人﹂はこの宴に集う人々であり︑﹁今日の間﹂
は﹁宴の一日を他と区別されたハレの一日として提示
﹂してい 40
る︒型通りの歌だが︑この日の宴を讃美するものとしては適切
な一首であろう︒六首目は︑野氏宿奈麻呂︵八三三︶︒これは冒頭の紀男人の歌
︵八一五︶の焼き直しのように見える︒二句目︑三句目はまった
く同じである︒しかし︑大きな違いもある︒ウメを︿かざす﹀
氏福子︵八二九︶は︑季節外れの歌であって︑直前の大判事の歌
︵八二八︶の後に置かれる必然性が窺えない︒﹁全体の流れにやや水をさした感じ﹂と評された一首である︒また︑自分よりも官位の低い少令史の後にある薬師高氏義通の歌︵八三五︶が︑その少令史の歌と矛盾するということも︑すでに述べた︒自分の位置を自覚し︑前の歌を意識しつつ作られた歌々ではあるまい︒六位の官人の歌から始まっているので︑官位順が完全に無視
されているわけではない︒しかし︑すべてが官位順に整理され
ていないこの形は︑提出されたままの姿だったのではないか︒
つまり︑上座と陪席は秩序立っていたが︑ここに至ると︑酒も入り︑やや砕けた雰囲気になっていたのであろう︒思い思いに歌が提出され得る状態になっていたと見ることができる︒
6
次は︑下座の二つ目のグループ︒いずれも大宰府の官人では
なく︑たまたま訪れていた西海道諸国の下級官人たちである︒筑前目の田氏真上以外は︑島嶼部を含む遠隔地の人たち︒冬の玄界灘は波が荒いことで知られ︑危険が伴う︒とりわけ壱岐・対馬の官人たちは︑この宴のためにわざわざ大宰府にやって来
たわけではあるまい︒儀制令で定められた元日の拝賀の後︑そ
のまま残っていたのだろうか︒あるいは︑朝集使として昨年末
から大宰府に滞在していたか
︒いずれにせよ︑公務のついでだ 42
ろうが︑それが次の五首である︒
梅の花 散りまがひたる 岡びには うぐひす鳴くも 春
かたまけて 大隅目榎氏鉢麻呂︵巻五・八三八︶ していたことになろう︒続く礒氏法麻呂の歌︵八三六︶は︑開宴からだいぶ時間が経っ
た時の歌と見られる︒三句目以下の﹁遊べども 飽き足らぬ日 は 今日にしありけり﹂がそれを示す︒﹁飽き足らぬ﹂という語
に﹁今日﹂の満足感が示されており︑宴の開催を称賛する姿勢
が見える︒
このグループの最後は︑志氏大道である︵八三七︶︒﹁我が家﹂
とは帥の邸宅のこと
︒﹁野﹂の﹁うぐひす﹂を手なずけようと︑ 41
﹁我が家の園に 梅が花咲く﹂と言う︒﹁梅の花﹂のすばらしさ
をうたっているのだから︑これもその日の宴を称賛する歌だと言える︒
このように︑当然のことながら︑下級官人たちがしっかり見
ているのは︑主に上座の貴人たちの歌である︒とりわけ︑口火
を切った紀男人の歌が重要であろう︒その日の宴の基本的な方向性を示しているからである︒表現の連鎖や﹁対座﹂を主張す
る説は︑むしろ下座の者同士が注意を向け合っていることにな
るが︑彼らが忖度しなければならないのは上座の貴人たちであ
ろう︒それこそが律令官僚機構の中で生きる人たちの自然な姿
ではないかと思われる︒改めてその配列を見ると︑大判事︵従六位上︶・薬師︵正八位上︶・筑前介︵従六位上︶・壱岐守︵従六位下︶・神司︵正七位下︶・大令史︵大初位上︶・少令史︵大初位下︶・薬師︵正八位上︶・陰陽師︵正八位上︶・算師︵正八位上︶という順である︒上座と陪席が例外なく官位の順であったのに対して︑やや秩序の乱れが見られる︒
たとえば︑自分より身分の高い筑前介の前に歌が載る薬師張
春の野に 霧立ち渡り 降る雪と 人の見るまで 梅の花散る 筑前目 田氏真上︵巻五・八三九︶ 春柳 かづらに折りし 梅の花 誰れか浮かべし 酒坏の上に 壱岐目 村氏彼方︵巻五・八四○︶ うぐひすの 音聞くなへに 梅の花 我家の園に 咲きて散る見ゆ 対馬目高氏老︵巻五・八四一︶ 我がやどの 梅の下枝に 遊びつつ うぐひす鳴くも 散 らまく惜しみ 薩摩目 高氏海人︵巻五・八四二︶彼らはいずれも目だが︑筑前は上国で従八位下︑大隅と薩摩
は中国で大初位下︑壱岐・対馬は下国で少初位上相当のポスト
である︒目の歌々がまとめられてはいるものの︑決して官位の順ではない︒これも提出された順ではないか︒
まずは︑榎氏鉢麻呂の歌︵八三八︶︒この﹁梅の花﹂は大宰帥邸
のものではない︒﹁岡び﹂のウメであつて︑﹁園梅を賦し﹂︵序文︶
という原則から外れている︒しかも︑﹁うぐひす﹂が﹁鳴く﹂の
は﹁春かたまけて﹂であると言う︒カタマクは﹁時が近づく﹂の意
︒すなわち︑鉢麻呂の感覚では︑まだ春ではないということ 43
になろう︒これも﹁時に初春の令月﹂︵序文︶という前提から外
れている︒すでに述べたように︑二月八日の太宰府市では︑し
ばしば氷点下になることもある︒確かに︑春の訪れはもう少し後︑という陽気だったのであろう︒序文の﹁初春の令月にして︑気淑く風和ぐ﹂は︑必ずしも事実ではなく︑単なる美辞麗句だっ
た可能性が高い︒
それは次の歌からも窺える︒田氏真上の歌︵八三九︶だが︑﹁﹁雪﹂は梅の落花の見立て
﹂だとされる︒実際には雪が降って 44 人をはじめとする貴人たちが﹁天を蓋にし︑地を坐にし﹂てい いたと見るのだが︑それが﹁落梅﹂︵序文︶だったとすれば︑旅
たとは︑とうてい考えられない︒それは文飾だったことになる︒
この歌も︑天平二年正月十三日がやや寒い日だったということ
を伝えているのであろう︒三首目は村氏彼方の歌︵八四〇︶だが︑﹁春柳﹂の﹁かづら﹂を
うたっている︒﹁青柳﹂の﹁かづら﹂は︑上座の粟田大夫︵八一七︶
と陪席の土氏百村︵八二五︶がうたっていたが︑直前の二首との表現の連鎖は見られない︒
﹁酒坏の上に﹂﹁梅の花﹂を浮かべる趣向は︑ここで初めてう
たわれている︒また︑梅花歌三十二首の後に掲載された﹁後に梅の歌に追ひて和へたる四首﹂︵巻五・八四九〜八五二︶とする旅人
の歌にも︑
梅の花 夢に語らく みやびたる 花と我思ふ 酒に浮か
べこそ︵巻五・八五二︶
という一首が見られる︒花を酒に浮かべる趣向は﹃遊仙窟﹄を粉本として︑神仙世界が暗示されていることが指摘されている
時間の経過とともに︑宴も酣となり︑︿かざす﹀ことに加え︑ ︒ 45
また新たな趣向が凝らされる雰囲気になって来たということ
か︒このグループの歌々は全般に︑顕著な表現の連鎖や対応が見
られないが︑五首中の三首で﹁うぐひす﹂がうたわれている点
に特徴がある︒﹁うぐひす﹂は上座の歌に見られず︑陪席の阿氏奥島の歌︵八二四︶が最初だった︒また︑下座の最初のグルー
プの十首にも一首︵八三七︶しかうたわれていない︒ところが︑
建物の外に控えていたことは間違いあるまい︒
ここに一人だけ無位ではない者が含まれている︒筑前掾の門氏石足︵門部連石足︶である︒筑前は地元だからであろうが︑西海道諸国の中では唯一守・介・掾・目の四等官が揃って出席し
ている︒守の山上憶良は︑当然上座︵八一五〜八二二︶の客︒介
の佐氏子首は下座の六位のグループ︵八二八〜八三七︶︒目の田氏真上は︑目のグループ︵八三八〜八四二︶︒それぞれの官職にふさ
わしい位置が与えられていたが︑掾の石足だけ所属すべきグ
ループがなかったことになる︒石足はそこで︑遊軍的な役割を果たしたのではないか︒四首には表現の連鎖も一貫性もない︒それらは︑それぞれ別
の場所で作られた歌々だった可能性もあろう︒
梅の花 折りかざしつつ 諸人の 遊ぶを見れば 都しぞ思ふ 土師氏御道 ︵巻五・八四三︶ 妹が家に 雪かも降ると 見るまでにここだもまがふ 梅の花かも 小野氏国堅︵巻五・八四四︶ うぐひすの 待ちかてにせし 梅が花 散らずありこそ 思ふ子がため 筑前掾 門氏石足 (巻五・八四五)
霞立つ 長き春日を かざせれど いやなつかしき 梅の花かも 小野氏淡理︵巻五・八四六︶一首目︵八四三︶の土師氏御道は︑望郷歌を披露している︒梅花宴の中では唯一の望郷歌である︒﹁都し﹂の﹁し﹂は強意だが︑
﹁諸人の遊ぶ﹂という行為を見ると︑まさに﹁都﹂の風雅を思わ
せるものだということを述べている︒自分は﹁諸人﹂に含まれ
ていないのだろうが︑都に劣らない風雅とうたうことは︑この ここに集中している︒その点をどう見たらいいのか︒現実の景物ではなく︑初春の景物として選び取られたものと見る向きもある
︒しかし︑宴の最初の頃は鳴いていなかったウ 46
グイスが︑だんだん近づいて来て︑庭で鳴くようになったとい
うことではないか︒それは時間の経過を示している可能性もあ
ろう︒高氏老の歌︵八四一︶は︑やはり大宰帥邸の庭園を﹁我家の園﹂
と呼んでいるが︑﹁うぐひす﹂の声を聴くのと同時に︑﹁梅の花﹂
が﹁咲きて散る﹂のが見える︑とうたっている︒聴覚と視覚の両方で︑春の訪れを感じ取っている歌だが︑三句目が﹁梅の花﹂
である点以外︑特に前の歌と共通する点はない︒最後は︑高氏海人の歌︵八四二︶︒この﹁我がやど﹂も︑大宰帥邸であろう︒﹁うぐひす﹂が﹁梅の下枝﹂で﹁遊びつつ﹂鳴いて
いるのは︑散ることを惜しむからだとしている︒一首目︵八三八︶
は﹁春かたまけて﹂﹁鳴く﹂﹁野﹂の﹁うぐひす﹂だったが︑四首目では﹁我家﹂で声が聞こえ︑これは﹁我がやど﹂で﹁遊びつつ﹂
﹁鳴く﹂﹁うぐひす﹂である︒だんだんと近づいて来る形だが︑
むしろそれぞれに自分のイメージで詠んでいると見るべきか︒
このように︑このグループの歌々には必ずしも表現等の対応
は見られないが︑語彙の共通性は見られる︒座席などで表現が縛られているわけではなく︑場を同じくし︑気分を共有するこ
とに基づく表現の類型性と見るべきであろう︒
7
最後のグループはもっとも下座だったと考えられる︒彼らが
年のはに 春の来らば かくしこそ 梅をかざして 楽し
く飲まめ︵巻五・八三三︶
という大令史の歌で締めくくってもよかろう︒毎年春になった
ら︑こうして梅をかざして楽しく飲みましょう︑と言う︒まさ
に序文の趣旨に適っているばかりでなく︑ 正月立ち 春の来らば かくしこそ 梅を招きつつ 楽し
き終へめ︵巻五・八一五︶
という冒頭の紀男人の歌と︑きちんとした表現の対応もある︒
また︑ 梅の花 手折りかざして 遊べども 飽き足らぬ日は 今日にしありけり︵巻五・八三六︶
と︑満足感をうたった礒氏法麻呂の歌も︑﹁尽きぬ名残をとど
めて﹂いる歌と見ることができる︒つまり︑拡大解釈すれば︑
どうにでも説明できるということだ︒小野淡理の歌はたまたま最後にあったので︑閉会の歌に見えてしまっただけのように思
われる︒
ともあれ︑三十二首はきちんと構成されたものと言うより
は︑身分に基づくグループごとに︑披露された順のままに並べ
られたものだと考えた方が穏当であろう︒
8
﹃万葉集﹄巻五に収録された梅花歌三十二首を一首一首確認
して来たのだが︑以上の考察から次のようなことが言える︒
その三十二首には︑宴の趣向に基づく虚構的・社交辞令的な表現も多々見られるものの︑現実の宴席の姿をある程度反映し 日の宴を称えていることになろう︒次の小野氏国堅の歌︵八四四︶の﹁我が家に﹂は︑枕詞的に﹁雪
︵行き︶﹂を導き出している
︒雪が降っているかと思えるほど︑ 47
こんなにも散り紛う﹁梅の花﹂であるよという意だが︑こうし
たレトリックは梅花宴の歌々の中では例外的である︒国堅の歌
はほかに見えないが︑ある程度作歌に習熟していたのかも知れ
ない︒あるいは︑前後の歌とまったく内容的な関連性がないと
ころを見ると︑事前に用意して来たものだったのであろうか︒
とすれば︑歌に堪能な誰かに作ってもらったものであった可能性もあろう︒三首目は門氏石足の歌︵八四五︶︒﹁うぐひす﹂が﹁梅の花﹂を
﹁待ちかて﹂にしていたとうたっている︒ここも﹁うぐひす﹂の擬人化である︒﹁梅﹂の擬人化は冒頭の紀男人の歌︵八一五︶にも
あったが︑﹁うぐひす﹂の擬人化は山氏若麻呂の歌︵八二七︶に見
える︒最後の一首︵八四六︶の﹁長き春日を かざせれど﹂は︑時間
の経過を示している︒それが宴の最後の方で披露されたことは間違いあるまい︒これを﹁三十一首全体をまとめた︑打ち挙げ
の歌
上司たちを差し置いて︑閉会を告げるべき立場の人ではあるま ﹂とする説もある︒しかし︑小野淡理は無位の官人である︒ 48
い︒
また︑冒頭の紀男人の歌が形式通りで適切な開会の歌であっ
たのに対して︑小野淡理の歌は必ずしも閉会の歌には見えな
い︒﹁いやなつかしき﹂が﹁尽きぬ名残をとどめて一座をしめく
くる名言
﹂だと見るのだが︑ならば︑ 49