ここに掲載するのは︑ さきに本誌第二十号に﹁未刊津田左右吉日記﹂と題して紹介した︑ e 明治四十年︵﹁津田左右吉
伝 記
資 料
﹂ ヌ
六
I
七 八
五 六
︿ ︱
1 0 ︱
﹀ ) ︑
◎
明 治
四 十
四 年
︵ ﹁
同 ﹂
︿ 三
六 ﹀
︑
R
明治四十五年︵﹁同﹂︿三七﹀︶の三冊である︒この日記
中に常子夫人の記事あることの御指摘を受け︑第二十一号の巻末︵補記︶に弁明めいたことを記したが︑もとよりそれ
にて済まされることではなく︑ここに訂正の機会をえて夫人の記事と思われるものを削除して改めて紹介することに
﹁補記﹂にも記したが︑夫妻の筆蹟は酷似していて一見区別し難く︑
から常子夫人が夫君の原稿の清書をされていたことに起因するのか︑偶然に筆蹟が似ていたのかは明かでないが︑後
に行くほど区別はつき難く︑所によっては代筆かと思われるところもある︒
概ね交互に記すのを原則としているように見えるが︑必ずしも守られていない︒髪を洗うとか羽織を縫うというご
した︒
津 田 左 右 吉 日 記
ま
4入ぇ カ
き
疇 , 年 [ エ 戸 十 津 田 左 右 吉 日 記
︵ 訂 正 版
わずかに筆圧が異なる感がある︒これは早く 光 彦 柴 田 ︶
とき︑明らかに夫人にかかわる記事を中心に︑消去して行き︑
さらに文意・箪蹟を考慮に入れてみても︑なお判断に 苦しむところが生じた︒決しかねるものも若干残り︑これには﹁?﹂を付した︒
岩波書店の全集が︑これらを除外したのもあるいは判別の困難なところからきたものであろうかと︑今になって推 測される次第である︒疑義はなお残るが︑
ともかくもここに訂正版をだしておわび申し上げる︒
本稿の校勘に当っては、松本弘
•松下真也両氏の助力によったところが多い。謹んで謝意を表する。
‑ 96 ‑
とて来りしなるも
︑
雨はげしきま
4
ひきとゞめて例の盃とりし なり︒高岡にありし彼の兄が事業に失敗して国をさす
ら
ひ出
津田左
右 吉
日 記
学校にてはけふより池内某
︑
中村に代ること
4
なり
ぬ︒
日本紀略など見て何やらん
しらべをりしが︑十時ころよりお で︑
今は美猥にあるよしを聞く︒
学校はやすみなり
︑
招魂社のおかげとあり難し︒
六日
︵ 水︶
︵全
集
収
録 ︶
Jろより雄山来りr
また酒のみて語りあふ︒共に大石を訪はん
早く床に入りぬ︒この
夜
夢多くしてねぐる
し
かり
き︒
けふも雨なり
︑
午後
︑
きのふの稿をかきつぎしが
︑ゆふ暮の夜は
︑日
本紀
略 ︑
いさ
4か見はじめしも︑
ねむさ堪へ難う
て ︑
小説︑
よむともなしによみ居るほどに
中村
来れり︒きのふより
︵全
集収
録︶
十一月三日
む︒朝より時雨めく雪のゆき
A
して
︑目白
の坂を上るころはハ ラ/\とこぽれ来りぬ︒例の式了へて帰れば
︑
ほどなくふり出 でし雨︑しと/\として
︑午後よりはます
l V
\はげしくなれり︒
なでしこに送るべき原稿書きかけ
しが︑雄山
より来よといひ
おこせしま4
︑ゆふ暮より雨を冒してゆき
︑
酒のみて帰りぬ
°
︵全
集収
録︶
四日
︵ 月︶
天長節の佳辰より
︑久しく打
絶 え た る 日 記 の 籠 を と り は じ
0
天長節 明治四十年︵全
集収
録︶
五日
︵ 火︶
がら︑
かの稲をかきつぎ
︑辛くし
て出校の時刻までにそ
の業を
卒へつ︒雲はや上洵うなり
て西
の空
明るけれど︑小雨をり/\
音づれ来
て ︑
ぬかるみの
道わるきを急ぎゆく
︑江戸川の水揺ま
して
︑
かの桜の落葉
︑今とし
もハラ/\とこぽれか
4
れり︒教
室
より仰ぎ見る公孫樹の木は
︑
色まだ青し︒何の
花か︑隣りの
庭の鉢植
︑
雨にぬれたる紅の
色
涙く
見ゆ
︒ 学校より帰りて久しぶりに湯にゆく︒湯より帰りて
机上の新
三輪田女学校の教師となれるなり︒
もひ立ちて久しぶりに図
書館
にゆ
く ︒ 時雨空さむ
し ︑
杜氏通典
めざめたるは四時や
4すぐるころ
︑灯
ともして床に横はりな
の音楽の部と︑段安節の楽府雑録︑南卓の親鼓録を見︑電燈の
ぬらすほどにもあらず︑や4
しめりたる土の上に落たる桜の朽 葉の色さびし︒
夜︑レイモンドの美学よみはじめしもねむさにたへで早く床
入に
りぬ
︒
︵全 集未 収︶ 九日
︵ 土︶
図書館にゆく︒久しぶりに池の端とほるに︑上野の山にたち ます/\忌まはしく覚ゆ︒
教坊記︑古琴譜などよみ︑教訓抄半ば閲して︑ゆふ暮に帰り 十 ぬ ︒ 日
︵ 日︶
レイモンド︑少しばかりよみ︑十時ころより中村を誘ひて石 井老人を訪ひ︑例の酒のむ︒二時ころ辞し出で︑また中村と共 に市
ヶ谷より大久保を経て戸山の原を散策す︒紅葉はなほ色う
すけれど︑雑木の黄ばみたる見所あり︑ひろやかなる原のゆふ だかれ果てねど︑池のおものながめさびしく︑人造石の観月橋︑ 並ぶ大木の梢の枝粘れたるが常よりは著しく目につく︒荷葉ま
ぐれ︑遠方はうす坐色にぽかしたるやうにて︑木の下にカソバ スすえて写生し居る年わかき婦人の
︑片頬にゆふ日かすかに映
れり︒大久保より汽車にて帰る︒
十一日
︵ 月︶
午後図書館にゆく︒江戸川べりの家々の庭木︑こき︑うすき︑
黄に
︑紅に︑朽葉色に︑はなやかならねど
︑
うつ
くし
︒ 教訓抄と続教訓抄とを読み日暮れてより帰家︒ビイルの一琺
を仰ぎ︑バイオリソ夢ご4ちにき4ていつのまにか寝たり︒ひ
十
二日
︶ ︵ 火
新長谷寺の大銀杏︑黄色うつくしく︑緑なる木の間の薄紅葉
午後ゆあみす︒日くれて雄山を訪ひしも在らず︑白鳥氏を訪
岩崎春吉来る︒四年ぶりにあひしなり︒ビイルをのむこと一
本︑用ありげに急ぎかへれり︒ れ︑隋書をかへす︒ の︑
金色常よりは鮮なり︒
も目につく︒学校の銀杏はなほ色づかず︑傍なるドングリの木 け/\といひしも忘れて︒
つきて後もしばし居りて帰りぬ︒をり/\こぽれか4る雨は袖
‑ 98 ‑
十三日
︵水
︶
しきに︑教会棠の尖塔二つ一︱︱つ突つ立ちたる様︑西人の画にて
とかしたるやうなり︒地平線の界は︑をりからの黒雲に映ずる
光︑火炎の如くして︒
十四日
︵木
︶
た出でうくて︑やめたり︒レイモソド︑少しよみしのみ︑しる
すべきほどのことも無し︒
十五日
︵金
︶
あた4かく︑うら4かなる小春日和を︑学校より直に図書館
にゆく︒歩めばやA汗ばむほどのあた4かさを︑キリッタソの
あたりの公孫樹︑まばゆきばかり美し︒ことしは黄なる葉の常
津 田 左 右 吉 日 記
図書館にゆかん心がまへなりしかど︑︱たび帰りて後は︑ま ゆきなれぬ道を︑伝通院の下あたり辿りゆくに︑其のあたりのさま︑数年前よりはいたく変れり︒平なりし地の︑今はむさ
図書館にては楽家録を見るに︑又た侠存叢書中に収められた
る楽書要録の残欠を見るに︑音律を論じたる条なれど︑かはり
たる事もなし︒
八時ころ家に帰る︒
山に立ちより︑午後中村︑雄山と共に文部省の美術展覧会見に
て場を出づれば︑いつのまになりしか︑落葉散りしける庭の面︑
の上より見渡せば
るが中に︑本願寺︑浅草の寺々の屋ねの一きは高く登えたるが︑ 一面にもやうち蔽ひたる万家の瓦︑狡糊た
水姻に捲かれたる岩山なんどのやうに見ゆる︒遠方の空低く一
すぢの黒雲の長く横はれると共に奇なるながめなり︒博覧会場 しつとりとうちしめりて木の間の公孫樹︑つや4かに美し︒崖 りて彫塑と西洋画の部とは熟覧する追なかりき︒看守に追はれ
ゆく
︒ 日本画の部にて多くの時を費し4がため︑閉場の時刻迫 家に帰れば︑酒のみて什
れふ
しぬ
︒
朝のほどより空公りてうすら寒げなる日なり︒学校の帰途雄 十六日︵土︶ ゆふ暮の西の空︑しづみはてたる夕日の名残り.うすべにを む ︒ ま/\に見ゆるがことによし︒けふも図書館にて楽家録をよ
上野にゆけば動物園前の紅業いとうつくし︒桜の枯枝のひ
見たらんやうなるながめなり︒くるしき小路のたてよこにつらなりて︒ 時雨めく雲の幾重かさなれるひまより見ゆる紺青の空の色美 よりは鮮かに見ゆとおぽし︒
居の前あたり︑そゞろあるけば︑群嗚のさわぎ一しきりやみて︑
時雨る4
秋のゆふべの静に暮れてゆく︒
夜雄山を拉し来りて例の酒のむ︒
︵全
集収
録︶
空よくはれてあた4かき日なりしかば︑午後より例の図書館
にゆく︒栗原信充の律呂集議といふ書をよむに
︑清朝のはじめ︑
も
( I E
しくはあらねど︶知られしよしを見て
︑おもひの外に感
(一キ一•こ
じぬ
︒青木昆陽も和蘭
人 の カ ー を 見 た り と い ふ
︒ ク ラ キ コ ードの頬なるべきか︒長崎の蘭人が楽器なきことあらじとかね てより思ひしこと︑果して然りと今悟りぬ︒閉館の鐘声に追は なりき︒いつの頃よりか災りはて
し
空の
︑をり/\小雨落し来
るころ︒
︵全
集収
録︶
十九日
︶ ︵ 火
俄に寒うなりしこ4ちして︑
ステ
ッキもつ手︑赤うなりぬ︒ れて門を出で︑南江堂にて楽譜を求め︑家に帰りしは九時すぎ 康熙の頃︑
すでに西楽の其の国に入れるあり︒かの五線記譜法
十ハ日
︵ 月︶
のあとの半ばとり<づされたるところをう
しろ
に︑
東照宮の鳥
︵全
集収
録︶
二十一日
︵ 木︶
午後︑学習院にゆきしも︑
白鳥ぬし既に帰られし後なりしか ばいたづらになりぬ︒文献通考からんがためなりき
︑うちくも
氏よりおなじことをなしはじむ︒ 孫樹も色づき初めたり学校の公︒
ゆふ暮のころ︑中村を訪ふ︒王右軍の書の摺本を見る︒
夜 ︑ 矢島淳平来るべきはずなりしが
︑遂に来らず°レイモンドいさ
全︵
集収
録︶
二十日
︵ 水︶
はげしき雨は十時ころにやみて︑ひるよりはうるはしき小春
.
レイモンド︑辛くも読み了りぬ︒全篇︑さして得るところも
無か
りき
︒
夜︑延喜式より楽に関する記事を抄ひ出し︑また源
日和︑夜は十四五日頃の月のさやけさ︒
いぬる時雨の音す︒しづかなる夜なり︒ 4
かよみたれど興来らず︒ て ︒ て︑時雨をさそふ風さむし︒枯葉をうごかす音から/\となり
午前は美しき空なりしが︑ひるころよりひた晏りにくもり
‑100‑
ゆふぐれ︑例のふたりして︑さす方も無くさまよひ出づ︒坂 りてさむげなる空なり︒
︵以
下
全
集未
収︶
二十四日
︵ 日︶
う
つく
し
くはれ渡りて︑心地わろきまであた4
か な る 日 な り︒午前︑倉島︑文芸協会の切符をもち来る︒其の帰りし後
︑
髪刈り︑湯に入り︑午後雄山
と共に本郷座にゆく︒終りしは十
一時半︑電車に乗り得ず︒徒歩して帰りぬ︒いねしは一時近き
ころなりしならん︒
注︑文芸協会倹芸部第二回大会︑十二月二十二日より三日間於本郷座°演測筋害を存す。大極殿・ハムレット•新曲
哺島を上演する︒
二十五日
︵ 月︶
午後学習院にゆき文献通考をかり来る︒冬がれの土手に︑尾
花のみほうけ残れる︑
興あ
り︒
を下れば︑蓬々たる灰色の雲しきりに動きて︑あなたなる小石
川台の木立の梢まばらに︑ところ人\銀杏の色や4
さめ
たる
︑
秋く
れ方の山の手さびし︒久しぶりに築土八幡にのぽる︒二本
津田左右吉日記 ざりき︒ 雄山来りしかば︑ゆふ暮よりうちつれて大石を訪ひしもあら
二十八日
︵ 木︶
ゆふぐれの空の美しさ︑淡くして水の如し︒ 美しとおもひぬ︒これは目白坂にての所見︒
松の葉の緑なるに︑黄なる銀杏の葉の点々とちりか
4れる︑ 二十六日
︵ 火︶
︶よ
ひは
︑
さしたる事もなさで過しぬ°
の公
孫樹
︑
︱つはまだ色づかねど︑片つ方はちりしく落葉の金
色に地も見え来ぬまでなり︒
にわかに思ひ立ちて飯
田町
にゆ
き︑日くれて帰りぬ︒
寒`し︒冬の空なり︒学校の傍の銀杏目ざましきまで美し︒
江戸川
端の電車線路半ば成りて︑赫色したる電柱のならびたて
る︑これも冬がれのさまなり︒
文献通考を見る︒
二十七日
︵ 水︶
学校にゆくまでの時を過ぎし数日間の日記しるすに費
し
ぬ ︒
文献通考をよむ︒
ゆふ暮より雨となりぬ︒
朝のほど美しうはれ上りし空
︑いつのまにか公りはて4︑午
後よりは雪にてもふり出でんかとおもはる
4さまとなりぬ°
明治四十四年日記 てたる後は︑残照なほ地平線の一帯にうすく残りて︑はてなき て︑また本校にゆく︒口演部の会を開きたればなり︒ り︒長火ばちのもとにすわりみる︒ 例の通考みる︒
二十九日
︵ 金︶
わびしき雨なり︒傘もつ手の冷めたさ︒
文献通考をよみ︑西洋の俗楽に律旋法あるにあらずやと思
ふ︒かれこれ考へあはせて︑十二時ころまでこよひは起き居た
三十日
︵ 土︶
こ4ちよく晴れ上りたる美しき空なり︒分校より一度び帰り
講堂のバルコンより落日を見る︒壮大のながめなり︒沈みは
武蔵野の平野に眼界をつくる︒はるかあなたの丘陵︑漸く薄墨
色に暮れゆくに︑こなたに近き老松のみなほあざやかに見ゆ︒
うち仰ぐ空は水の如くして︑夕風さむし︒
日暮れて帰る︒星の光静なり︒
〇宜長が﹁朝日ににほふ山桜花﹂の詠は其の意何処にあるか明
ならず︒人皆な我か意を以て之を迎へ種との解釈を之に加ふるのにあらざるべし︒たゞ桜を美なりとし︑大和心を美なりとな るを感ぜしむるに︑朝日に匂ふ山桜花は︑口かく力あり彩ある 強き調子はおのづから大和心を以て光彩あり︑活力あるものた 宜長の此の詠︑もと
一種の理智的思索より
出てたるものA如
く︑恐らくは﹁朝日に匂ふ山桜花﹂の印象より得たるものには
あらざるべし︒ほの白く︑ほの紅き山桜は朝嗽に映ずるも︑タ
陽にはゆるにも︑極めて低く︑極めて弱き調子を示し︑人目を
剌激すること甚た微なり︒我国古来の和歌は光を詠じ反照を材
とせること甚だまれなれば︑桜花に於てもまた此の類のもの無
きは怪しむに足らざれど︑紅葉に対して色をいふこと甚た多き
に︑桜に対しては甚た少く︑たとひあるも︑﹁山のかひより見ゆ
る白雲﹂の如く白しとせらる4は︑桜花其のものが光に於て︑
色に於て︑強き印象を与へざるが故なるべし︒宜長が大和心を
いかに見たるかは明ならざれど︑この詠の一気にいひ下したる
ものにあらず︒之を其の感覚的印象は大和心の比喩とするに適
せさるを覚ゆ︒恐らくは朝日を以て日本の表号とし︑桜花を以
て日本国民性の美所を象徴したるものなるべし︒而して其の美
の何の点にあるかは宜長のこの詠に於て道破せんと試みたるも も︑多くは勃窟理屈︑詩趣のとるべきものあるを見ず︒されど
一日
︵ 火︶
津 田 左 右 吉 日 記
四十四年ハ月 て︑哀愁の既に湧けるを自覚せるものといふべきか︒ 春の恨は必しも歓楽の将に尽きんとするを悲しむにあらずし 滴目の光景︑.また人の心を傷ましむるものあるを見る︒ゆく 〇暮春の憂愁に於ける主観的要素
ものは省みざるを得ず︒三春の楽事も続けば倦み︑倦めば疲
れ︑疲るれば哀愁を呼ばざるを得ず︒春にあひて春の歓楽を
満分に味へる者は︑歓楽の裡︑既に一味共愁の潜めるものあ
るにあらずや︒をりしもあれ︑花はちりぬ︑香はうせぬ色
はあせぬ︒惨風新緑の梢を弄んで︑悽雨︑残紅の枝に撒ぐ︒ 狂ひ花香に酔ひし心も︑酔へる者はさめざるを得ず︒狂へる 蛤蕩たる春風にうかれ︑嬉々たる春光にあくがれ︑花影に
なら
んか
︒
し4のみならん︒
るかは知りがたし︒或は其の美を︑美としては感受せざりし 宣長みつから桜を愛したるは明なれど︑何故に之を愛した
ふしぎなる花あり︒庭さきの垣に沿ひて︑日のかげをくらく
二日
︵ 水︶
玩味せばや︑とおもふ︒ 伊原の演劇史いさ4かよみたるに︑いつしか眠りしと見え︑目
をさましたる時は九時半なり︑こよひは︑いたづらにすごし
ぬ ︒
かみくずひろひが︑うのめ︑たかのめにて︑軒は道のほとり︑
さては塵芥箱のうちなどをあさりありくやうなる態度にて書を
(Fi.︶ よむは︑心落っちかずして浅ましきものなり︒
間にても︑さる研究的態度ならで︑こころ静に合意の書を熟読 本間来るべきよし︑予報ありしかど︑つひに来らざりき︒夜 あさ︑
﹁希
撒 劇 ﹂
をよみさしてふとおもひつき︑
能 楽 の 歴 史
土用に入りてより風雨つねならず︒物狂ほしきやうなる気候
のみうちつゞきしが︑けふは空高くはれ上りて久しぶりにつよ
覚えざりき︒
に今まで人のこ4ろづかざりし点あるべしと
かれ
こ
考れ
へ
居た
るほどに︑雄山来れり︑用談終へて後︑つれだちて家を出で︑
我は満鉄にゆけり︒けふは電車のはじめて市の手にて運転せら
る4日なり︑
とて
切符のさまなどかはりゐたり︒
一日
の
うち一時 き日光を見たり︒されど︑風は秋め︵い︶て涼しく︑あっさを
きのふのワイルドが戯曲をよみつゞけたり︑イリソグヲオス
かのワイルドの戯曲携へてゆく︒電車のうちにて四幕目をよみ 八時ころ︑やう/\ふりやむ︒例の満鉄にゆくべき日なれば︑ の初幕を了る︒イリソヲオス卿といふが︑皮肉の言ををかしと
三日
︵ 木︶
朝よりの雨終日やまず︒しめ人\とふりくら
せり
︒
卿や︑アロソビイ夫人の語を皮肉と見ればをかしく︑実情と見 あふる4水は隣りの家との間なるせまきかよひぢを一条の川と おもふ︒さて後︑演閲のこと︑かれこれと考へあはせつ︒りて︑前の板垣の崩れめより吐き出
さる
4濁水︑滝のやうなり︑
なして︑後なる道に流れ出づ︑すさまじきさまなり︒ 夜半よりの豪雨は︑今朝もなほ止まず︑庭は池水のやうにな 夜はオスカア︑ワイルドの戯曲︑﹁無用なる女﹂
を読
み︑
其 ん︒おぽつかなき花のこ4ろなりけり︒
けふは午後より例の満鉄にゆく︒むしあっさにかしらもいた
くありて︑取りいで4いふべきほどのこともなさず︒
四日
︵ 金︶
してのるを見れば︑目立ちてをかしきものなり︒ めぐりなどせしにやあらんとおぽえたり︒電車などにか4る態 にてわれと同じく下りたるを︑よく考ふれば近きあたりの弘法 るに︑これは何をはぢらひて︑夜のみほのめき出づるにやあら道者らしきもの︑道者らしからぬ姿にて四五人のりこむ︒目白 車にてゆく︒車のうちにてもなほかのドラマをよむ︒新宿より 経しに︑けふ︑ゆふぐれの蚊やり火にむせびて︑はし近う立ち て︑其の花の蜜の甘きをも知らざるべきに︑かくおもひて日を
べき
に︒
(7キrr)おほへる松︑︑なんどに︑高く︑はひまつはれるからす瓜の
さへみのりたり︒夜の星を仰ぎて開き︑朝のつゆかはくと共に
萎むにやあらん︒さては︑蝶も葉かげにねむり︑蜂も巣に宿り
いでしついで︑ふと見あぐれば︑黒き樹立の上にうき出でたる
やうにほの白う︑其の花は開けるなり︒ひるのみ開くはおほか れば︑あまりにこ4ろのすさみたるがいやしくおぼゆ︒︵イリ
ソグヲオスは作者みつからのおもかげなるべく見え︑かの﹁ド
イリングヲオスならぬ人が︑か4る警句を吐かばおもしろかる
けふはまた歌舞妓のことに終日をつひやしぬ︒
ゆふ暮より︑落合を訪づれたり︒雨なほやまねば牛込より電 リヤングレイの肖像﹂のヘソリイ卿と肖かよひたるやうなり︑︶ 花さくとは見ゆれど︑つねに萎み居るに︑いつとはなく小き実
‑104 ‑
そ4げるさま︑世にはかなげなる老人の常とて︑くど/\とく
どける数百言︑いとあはれなり︒忽ち明眸皓歯のヘスタア旗が
五日
︵ 土︶
夜半にははげし
き 雨 の 音 を 半 ば 夢 の や う に き
4
しが
︑けさ
は︑名残りなう空はれて︑庭の芭蕉葉に︑其の雨の痕をのみぞ
わさわと音する︑涼しげなり︒ひや4かなる風をり/\は此の
家
にも
そと入り来︑
午後
︑ゆあみにゆかんとて外の面に出づれ
は月かげさやかにて秋のこ4ちす︒そゞろありきのついでに雄
津 田 左 右 吉
日記 ば︑日の光はつよけれど︑風の涼しさに夏としもおぽえず︒夜世の音も無し︒十
二 日 ば か り の 月 さ や か に て
︑
ひや
4かなる
光︑露となりて滴らんとす︒去年の北条のたびねをおもひし ゞ
ろに
門をいで4石の門のほとりにた4ずみぬ︒人は静まりて く風涼しげなれば︑このま4床に入らんもをかしからずと︑そ し
たる
︑日たくるま4に︑.風吹きいで︑垣のあなたの木立のさ十時すぎて︑いねんとしたれど︑かしらや4いたきに︑月清
ふし
ぬ︒
︹?︺a
t ti c t he at re
をよみてわが国のいにしへの文化のひ
むかしわがゐたる矢来の下宿屋の軒燈にゐもりのとまりゐた
るを見る︒漱石の﹁それから﹂に出でたる︑ある光景をおもひ
︹?︺ゆふ暮︑早稲田南町のかたより喜久井町の方を散歩せ
り︒浴上りにやあらむ︑
つや
4かにうるほひたる髪をお下げに
して
︑広やかなる紅きリボンつけたるが︑
一人
は
十ばかり︑一
人は八ツばかり︑そろひのきぬきて手をひきながら︑とある小
路に入りゆきぬ︒うしろ姿︑かはいらしかりき︒ に一総のビイルの酔のしみわたりたるにや︑前後も知らすうち 家にかへりて︑よみさしたる戯曲をよみ了る︒つかれたる脳
六日
︵ 日︶
ず ︒
いで
4︑おもひよらぬ材料をよく利用したるを感じたり︒ 満鉄にては︑重き空気にかしら圧さる4やうにて何事もなさ 射しこむが如く︑対照の妙なるをおぽゆ︒ 其の間に入り来るを見るは︑うすぐらき室に夕陽の光の明る< Jれ考へあはするほどに一日を了へたり︒ くかりしをそゞろにおもひあたりぬ︒歌舞伎のことなど︑かれ 世をうらみて︑おのが罪の子なる其の一人子に全幅の愛情を はじめしに︑ゲラルドの母なるアプスノット夫人の︑人を恨み山
燈を
かす
︒
︹?︺けふも歌舞伎年代記などを読みて江戸役者のおもかげ をしのびぬ︒役者絵など多く見しこと無きわれは︑か
4るもの
七日
︵ 月︶
ふとおもひつきて︑ふるきスバルをとり出し鵡外の青年をは じめより通読せり︒実世間をば未だふまざれど︑書籍の上にて 舎出の青年が︑東京に出てより二三月の間に閲したる経歴と思 想の変化とを描きたるものなり︒今の世の地方青年にはあるま じき文学的修養を有せるが事実らしからず︑また︑青年として は︑あまりに落ちつきあり︑思廊あるがふさはしからぬやうな れど︑坂井夫人と︑お雪さんと︑おちゃらとの三人に対し︑そ れ人\に異れる心情の反応を呈せる︑其の心理的分析は巧に写 されたり︒肉体的︑本能的衝動を或る点まで合理的のものとし て是認しながら︑絶えず理性とプライドと上品なる感情とにて
之を抑制しつ4ゆくやうに写せるは︑作者の性慾に対する思想
得たる智識と︑生れながらに有する一種の澗察力とをもてる田 ベ難きぞ是非も無き︒ のみにては︑海老蔵の姿も訥子の態も路考の顔も鮮におもひ浮 ぬ ︒
の朝霧に日光の映じてまぶしきばかりなりしを︑.さながらのさ に︑すりがらすの窓を透して見る強き外光︑
日かげのや4傾きし四時すぎ︑日本橋の大通を電車にのりし
八日
︵ 火︶
︱つ
らに
夜︑池内を訪ふ︒芝生をてらせる月清く︑うすき服のか
4り を示したるにやと覚ゆ︒
たるあなたの森︑こき黒き影をなせる庭さきの木立︑
つらなりて︑深山のうちにあるこ4
ちせ
り︒
︹ ?
︺垣ねの傍の日まはりが見上げる様な先に苔が出た︒咲
のはいつか/\とまつてゐたほどもなく︑黄色い花弁が開い
た︒真夏の光に日に/\開いた花弁が拡がつて行く︒今日は五 寸足らずもあったらうか︒あれた庭も此の花一輪のために夏の 面影が見える︒
汽車にのりて︑猿橋あたりを過きしとき︑谷間をとざせる一面
まよとおもひぬ︒ 一とせ甲府ゆきの
朝のほどは空や4くもりて︑冷なる風︑この家にも音づれし
に︑午後よりはやくが如き日光︑満鉄のまどよりさし
入り
︑て
日おほひの紐︑動かすばかりの風もなく︑暑さ堪へがたかりき︒
‑106‑
九日
︵ 水︶
雨に日は早う暮れて︑庭の前なる木立は蒋坐色に黒うなりた
るを︑こなたにさし出でたる連紐の枝と︑芭蕉のひろばとのみ
白緑の色に浮きて見ゆる︑美しと思ひぬ︑又た暮れはて4︑あ
に映ずる梢の露にぞありける︒
た一しきり駿雨して︑満鉄のまどより見やる土手の松も日比谷
のひくき木立も︑一面の水姻につ4まれたり︒其のや4止むを
く︑はげしき雨また注ぎ来りて︑幾時かをやみなく︑ふりつゞ
けり︒今はやうlく\収まりて梢よりした4る雫︑軒のたまだ
れ︑ボッリ/\と名残惜しげにふる雨の音︑静かにきこゆ︒水
害などあらんかとあやぶみながら︑かくまで雨のふりつゞくを
十日
︵ 木︶
津 田 左 右 吉 日 記
もはる︑もあやしきこ4
ちな
めり
︒
見ては︑さらにまた︑ふりて︑ふりて︑ふりつゞけよとさへお まちて家に帰りしにつかれし身のや4
落 ち つ き た る 間 も な
なくやみて︑ひるごろには空も半ばはれたりしに︑午後より又 はげしき雨なりき︒朝のほど︑しめ人\とふりたる雨はほど やめもわかぬ庭に︑星の如く紫に輝くものあるは︑ランプの光 雄山︑本間二子訪づれ来て︑数時間をむだばなしに費せり︒十
一日
︵ 金︶
電車に鮨づめにせられて︑あつ苦しきに困じたる身をからく
中央公論をもち来りてかしくれたり︒鵡外の﹁心中﹂あれば
なり︒ある料理屋の女中お蝶が︑恋せる男と心中せし話を︑朋
輩なるお金といふもの4物語せる体に写せる也︒作の主眼は心
する態度︑雪の夜のおそろしさ︑などにあるべし︒三田文学に
のせたる荷風の﹁男と女との対話﹂の興味が︑対話の題目とな
れる娼婦と若き僧との恋物語にはあらずして︑対話者の情調に
やる
うな
り︒
例の少し酒のみて後︑共に雄山を訪へり︒不在なりといふま
\しばし縁にこしかけて物語りし居るほど︑帰り来りぬ︒わ
月清し︒外濠端に出づれば︑電車はかよはず︑電燈のみさび
しげにきらめけり︒工夫等がカンテラの下に破損せる線路の修
繕にいそがはしきを見る︒神楽坂を上りて帰りぬ︒ を
きく
︒
がために家屋の設計書の批評を誰やらにさせたりとて︑其の話 あると同じ︑世の批評を業とせるもの4観察は多くあやまりた 中にはあらずして︑むしろ女中の寝屋の有様︑仲間のお蝶に対 も家までもちはこびたれば︑本間来てまちゐたり︒
十二
日
︵ 土︶
朝︑落合にゆかんかとおもひしが︑しばしためらひをる間に︑
日の光つようなり来りて熱さはげしかるべく思はれたれば
︑遂
に家を出でずなれり︒ふとおもひつきて初期の猿楽及田楽の性
質を考へ見たるに︑それより線はさま人\の方面にひかれゆき
て︑けふの一日をそれに費し了りぬ︒能の形成について今まで
よりは確かなる意見を定むるを得たり︒
︹?︺太陽に出でたる藤村の﹁平和の日﹂といふ小説をよむ︒
日露戦争の終りて間もなきころ︑通訳となりて従軍し︑病を得
抱きて山路をたどるさまを写せるなり︒戦争の惨虚を見たる
と︑おのが得し病との為めに︑人を見ては恐る4やうなる癖を
生じ︑乗り合馬車に同乗せし男の︑後よりいそぎ来るを見て︑
われに害を加ふるもの4やうにおもひなさるといふが作の主眼
なるべし︒平和の日に平和ならざる心を抱ける男︑人の心を損
ひし戦争の禍害を描かんとせしものにや︒
ゆふ暮︑例の早稲田南町より喜久井町あたりを散歩したり︒
空羮りはて
\ 湿 り た る
空気︑こ4ろよからず︒ て帰りしものが︑戦死したる友の妻を木曾に訪はんと︑逍物を
ん中に置いてある︒其のわきに鉢うゑが五つ六つあるのであ やつばりさはいでをる︒見ると︑木の下では上の方をみつめな で見てゐても︑ちつとも静まらない︒フトおもひついてむかふ 十三日
︵日
︶
たゞれた血のやうな雲が︑沈みきった夕陽の名残を西の空に
とゞめをるのをみながら︑筑土八幡の境内から裏門の方へぬけ
る︒見上ると︑一面にしげつてをる銀杏といはず樫といはず︑
あらゆる木のあらゆる枝に一︒ハイの雀である︒それがとびちが
いほど乱れあってをる︒どうして︑こんなに集つてゐるかと思
で︑かしましいこと一通りで無い︒それがいつまでたつてもや
まぬ︒こちらもどうするのかとおもつていつまでも見てをる︒
赤い雲の色がうすくなり︑それがまた灰色になり墨色になるま
側の万松院へ入って致曲の墓にまゐる︒ぶら/\出てくると︑
がら︑婆さんが︑ゴミ箱のふたをあけたりしめたり︑カタリ/\
いはせてをる︒裏門のわきに小屋がけみたやうなコケラぶき
の︑うすぐらい家があって︑旧式の輪のついた人力車が一台ま はれるほどの雀のむれが︑ひつきりなしにペチャついてゐるの ひ︑かけちがひ︑とまるかとおもふととび立つて︑目まぐるし て来ると︑あたまのうへでペチャクリ/\とやかましい声がす
‑108 ‑
津 田 左 右 吉 日 記
一かたまりの黒い人かげが見える︒
ハッ
ケ
ヨイ
/\
と
いふカケ Jしうちひらいたところのある︑宙につつた燈火に照されて︑ 新しい家が畠のなかにボッリ/\と出来る町
外 れ の 夜 の
十
の主張をする︒こんどはアチラコチラでくす/\いふのみで笑
も
ふと
︑外のむれが︑すぐどこからかさつと現はれて︑こちら
の木にかくれる︒果しがない︒舌切雀の親類筋みたやうな婆さ
ん︑
相かはらず上をみい/\カタ/\やってをる︒日が暮れて
も︑
夜がふけてもやつてゐさうである︒
十四日
︵ 月︶
時︒畠であらう︒闇いのではつきりとは見えぬが
︑道ばたのす ないと︑何だか間がわるい
や︑﹂といふものがある︒それがすこ
し肝ばし
った声で︑いかにもまじめな︑一生懸命な調子なので︑
黒い影は一斉にどつと咲ふ︒すると︑呼び出し主張者は一層本
気になって﹁オイ何公︑呼び出しをやれよ︒呼び出しがなくつ
ちやあ︑きまりがつかねいや﹂と︑や4懇請的な声つきで再度
はない︒其のうち︑印し半てんをきた男がブラリと土俵へあら
はれて︑妙な黄い声を出
して︑﹁カタヤ
ー稲瀬
川 ︑
カクヤー何﹂
とかといふ︒ウマイゾとひやかすものがある︒其間
に裸の男の
つとかすめてゆく︒それがむかふの木立で見えなくなる︑とお
と黒い影の中から︑﹁オイだれか呼び出しをやれ︑呼び出しが 手では一陪はげしく
カク/\をやる︒其の内にどこかのいたづ
しこをふむかとおもふと一人は柱の下へ来て水をのむ︒塩を しない︑ねいあなた︑植木がみんなかれてしまひますよ﹂と︑
通りが4りの爺さんを一寸見て︑半分独り語のやうにはなしか
けながら︑目は矢張り仰けたま4でカタ/\やつてをる︒雀は
其の音に驚いて︑パラ/\と飛び出すが︑じきにまた︑帰つて
来る︒婆さんこんどは声を揚げて﹁ホーイ︑ホーイ﹂といふ︑
らものが石をほる︒雀は驚いたと見えて︑漁夫が網を
︒ハッとひ
ろげたやうに一斉に飛び立つ︒さうして︑空を腐の影の如くさ 本の柱には黒
ると
︑
丸太を四本立て4
︑其の上の方を︑矢張り細い丸太で︑足
る︒婆さんはさもにくさげに︑﹁しようがない雀ったらありや声がきこえる︒やがて︑ワァーといふ喝采がする︒近づいて見
場でもかけたやうに四角にいはひつけてある︑
︵マ こ
い油姻の立つ大きなカソテラがぶらさげて
︑残る二本には﹁魚
政﹂とかいた提灯がかけてある︒下は急づくりの土俵で︑今し
も真の上へ︑銅色の小さな裸体男が二人走り出
したのである︒
ふる︒それ丈が相撲らしい︒まはりには見物がとりまいて立っ てをる土俵ぎはに︑黒く裸の男が五六人しやがんでをる︒する
めしをくつて︑新聞をよんで︑さて机に向ふと︑第一番に此の
帳面をひろげる︒
床のなかから見上げた空は一面にドソヨリ秘つてゐたが︑起
き上がつて︑楊子をつかひながら縁側から見た時は︑雲がとこ まで筆をとらなかった︒けふからは約束を履行するつもりで︑ 日記をかく約束であったが︑
つい
︑なまけてしまつて︑昨日 るき出した︒むかうの方の森の上に十八九日頃の月が出て︑地
のを見るとこ4ろもちがよい︒ はいたやうなe巴
e ct
を生じて居る︒国華社 の上はシットリと露にしめつて居る︒る︒お師匠さんの家でお琴がはじまる︒ 一人は︑ふんどしの間から巻姻草を
一本
出して︑柱の提灯をは
づしながら︑ロオソクの火でそれをのみはじめた︒他の一人は
後をむいて舌を出して見る︒﹁だれだい﹂といふ声がする︒﹁肴
俵を出てしまった︒行司先生妙な顔をして﹁オイどうした︑や
れよ﹂といふ︒首をふつて立ち上らない︒仕方がないから外の
一人をつかまへて﹁おまへやれよ﹂といひながら︑声ふり上げ
て﹁稲瀬川代理因幡山ー
﹂ ︒
みは始まったが︑
十一
月七日
︵ 火︶
見物は手をた
‑ ‑ 1 V
o
ろ人\薄すくなって︑灰色の空が︑ところまだらに︑うすい樺色のやうな明るい色を見せながら︑西から東へ動いてゆくので
あった︒今かうやって︑机の前に坐りながら︑叉た空を見ると︑
ちぎれ/\の真白な綿のやうな雲が︑碧色の空に浮
い て 居
つ
て︑むかふの家の庭の黄ばんだ木に︑うすく日光があたつて居
る︒丁度︑おれの目と水平になって居る石垣の上の地面につく
つてある菜の葉も︑光線をうけた方があかるい︑鮮な緑の調子
を出して居る︒昨日一日︑妙に生まあた4か4つた時候も︑け
ふは︑さはやかな秋日和になるらしい︒雀が大きな声をしてさ
分だとおもふ︒黄ばみかけた庭の連他の葉が一枚ハラリと落ち
きのふかつて来た南蕉造の木板色ずりを︑ゆふべのうちに︑
額面に入れて置いた︒けさまたそれをとりだして見る︒水絵の
具の五六度ずりで出来て居る大まかな色の調和が︑よく落ちつ
いて居る︒ざら/\した木版のおもてが︑丁度ヮyトマソに水
ゑのぐを一はけ︑
の木版色ずりのみが世にもてはやされて居る時に︑かういふも ハッケヨイといふ声をあとにして︑おれはあわぐ︒田舎に戻ると︑もうそろ/\ひよどりの鋭い声をきく時 やがてとり< といひかけると︑姻草をのんでゐた男は何とおもったか急に士 屋のカツギだよ﹂と誰かゞ答へる︒行
司が﹁稲せ川にーー﹂
鈴木三重吉の﹁女﹂といふ小説を読む︒あたまからっくりだ
した空想小説である︒﹁女﹂は漱石の草枕の女主人公を連想さ
せる︒小説をよむには︑どこをあけてきれ人\に読んでも興味
がある︑始から終まで読みとほすに及ばぬといふやうな言葉
も︑草枕の画家が既にいつてをる︒但し︑全体は草枕よりも︑
もっと空想的にできてをる︒
津 田 左 右 吉 日 記
八日
︵ 水︶
いふやうな情調である︒
一向文学などに嗜好のない理学者ら︑門もさびしげに閉されて居る︒左の方の崖の下には︑切石 て右へまがると︑右手の方の寺も︑例の﹁移転﹂でもしたのや シットリと地が湿めて来た︒車をひいて帰る職人のさびしい姿 放射線的に逃つて居る︒弁天町の低き谷は薄もやに蔽はれて︑ 灰色の空が浪い鼠色に暮れてゆく西の方にクリムソンの色が きに雨の音がした︒﹁時雨る4やわれも古人の夜に似たる﹂と がさわいでゐた︒カチーー\いはせてをるうちに︑幸作が︑とぼ
がら︑中へ入って竹刀をとらうとする︒罪の無い有様が見てゐ
ておもしろい︒帰りにはい4月夜であったが︑家へつくと︑ぢ と空想的の女とのコントラストもおもしろいが︑かういふ小説にしては舞台が現実すぎると思ふ︒それから女が﹁知つてゐらつしやる<せに︑おかくしなさる﹂といふやうな言葉を幾度もいふが︑あれは気になる文字だ︒空想の女らしくない︒文章もすには却てよいかも知らぬが︑拙いいひまはしの目につくとこ
く︒どこかに藤八拳教授といふ札が出てをつたを見た︒其の隣
にふるい長屋門見たやうなところに︑旅人宿とかいた軒ラムプ
が出てをつたのもめづらしくおもった︒
九日
︵ 木︶
がちらほら見えるばかりで︑路ゆくものも少い︒幽霊坂を下り かた人\出かけたのだ︒ほう人\で家をたて4ゐるのが目につ に幸作の頭をかるくうつ︒一ばん下の女の子がひょろ/\しなひるから麹町区役所へゆく︒水道のことをき4あはせに運動 けたかほをしてボカんと兄の頭をうつ︒百合太郎も︑其のうちろもおほい︒会話は割合に自然に出来てをる︒ 魂社でかつて来たといふおモチャの竹刀をもつて二人の小どもじめ/\してゐて︑くらい︒冷たい︑男主人公の性質をあらは しないので︑さすまでもなかった︒大久保へゆくと︑きのふ招 るから︑立ちもどつて傘をもつていったが︑ふるほどにふりも 大久保をたづねる。門を出るとボロl~雨がこぽれか4つてゐ 満鉄から帰ったら︑日が暮れてしまった︒めしをくつてから
れのかついでるくらゐのよごれた帽子をかついで︑.矢つばりお ゐる男がある︒ヂ︑ムサ加減がどうもヘボ画家らしいので
︑ど
んな奴かと気をつけて見て居ると︑店のものと心やすさうに話
︵ マ マ
︶
しをして居る様子が商買人らしく見える︒きくともなしに話を きくと︑千円どうだとか︑二千円どうだとかいつてゐる︒何だ︑
イヤにヂ︑ムさい商買人だなと︑画家だとおもったのが買ひか ベソチにこしかけてれのくらゐふるくなった外套をしよつて︑
て来ない︒まつても︑まつても︑どこで何をしてゐるのか︑出
東儀のところへよったら︑バタ/\︑ハタキをかける音が門 十二日
︵ 日︶
らせて︑息もつかずに飲んでしまった︒
同じ道をかへつて来た︒あまりくたびれたので︑麦酒を一本と
電車が来ても︑来ても満員だから︑
て来ない︒しようこと無しに︑そこいらを見まはすと︑丁度お
十一日
︵ 土︶
ェ︑また歩けと︑往きと
て ︑ 一枚いくらだときくと︑二十七銭ですと答へた︒
てゐたのだから︑小僧め五の字だけ間違へやがったなとおもっ で五十四銭はをかしい何でも一枚七銭ぐらゐのやうにおもつ︒ 十四だときくとニー︑二七十四︑五十四銭ですといふ︒二七ら
りませうかといふ︒それなら八つに切つてくれといふと︑かし
を見まはして居るうちにやっと︑紙をきってもつて来た︒いく
ま4で巻いて来たから︑持ちい4様に折つてくれといふと︑切 満鉄のかへりに︑文房堂へよつてワットマソを買ふ︒大きい
す﹂とかいたのが︑下にはりつけてある︒
は美しいところだといった︒ やら︑
木の切れやらが乱雑に横はつて居る︒いまに道普請をす
るのであらう︒東京の場末の情調が︑この静かな夕暮にも朕つ
てをる︒これは晩食前の散歩の瞥見である︒
中村が夜来た︒学生をつれて伊勢参宮をした話をした︒鳥羽
十日
︵ 金︶
こまりましたといつて︑奥の方へ入っていったが︑なか/\出
ぶりをしたやうな気がした︒其のわきに︑丁度いま来たばかり
の書生が油ゑのプラッシュをひねくつてゐる︒黒い大きなマン
トの下から︑よごれた小倉の袴の裾と︑きたない素足が二本出
てゐる︒こいつは画家の雛つ子にちがひないが︑顔は見えな
い︒其の頭の上に︑黒い札にーー作画展覧会とチョオクでか
いてある札がか4
つて
ゐて
︑
小さな紙に﹁入場券発売致しま
一向きいた事の無い
画家の名前であったので︑今はわすれてしまった︒そんなもの
‑112‑
まできこえて︑障子をとりのけた室のなか
4ら︑手ぬぐひをか
ぶつてたすきをかけた女の顔が二つばかりおれのかほをのぞい
時雨の雲の間に鮮な荘空の見えるのが映つてゐるのである︒黄
ろくなった両岸の雑木から︑折からの木枯らしにふきちらされ た木の葉が︑静に水の上をながれてゆく︒あたりには稲の香が
源うてゐる︒
何をいつてるのか︑さつばりわからない︒酔つばらってでたら めを喋舌ったものと見える︒自分ながら︑をかしくてふきだし
︵ マ こ てしまった﹂と演説の箪記を見ながらの白鳥のはなし︒
目白の停留場で︑まつてもまつても電車が来ない︒たいくつ して︑あちこち見まはして居る間に︑おもしろいものを見つけ て︑ペソキには一面にひゞがいつてゐるが︑其の白い文字の肉
津 田 左 右 吉 日 記
には︑やきもの4ひゞやきのやうに細いひゞができて︑其のひ
けぶくろ︑しんじゆくとかいてある︒日光と風雨とにさらされ
此の演奏には二個の全然矛盾せる形式を含み︑之を漫然混合
したる跡著し︒矛盾
せる形式とは能劇式とオペラ式とをいふ︒
今見たるところの初夢につ
いて所感を記すと左の如し︒
た︒あかいペンキでぬった板の上に︑やはり
︒ヘソキで白く︑い
得べきものと何程の差ある者なりや︒か
4
る問題を且<措き︑
︵以
下巻
末よ
り︶
振事閲初夢
逍遥の所謂︑振事劇なるものが果して成立すべきものなりや あらずや︒又た︑彼の理想とする振事閲は︑今日にありて演じ
﹁大へんうまくしやべったつもりなのが︑今よんでみると︑
けませんといふ︑
一寸をかしかった︒
ゞから︑紅い色がほんのりとにじみ出て居る︒仁清の茶壺に藤 である︒こんな好い色が︑こんな祖末なペンキから︑どうして
がメソをとった奴だ︒池内が︑あいつはおれはきらいだといふ
と︑其のあとで来合はせた大工の親方が︑天井のじまんをして︑
桟もきをつけてこれにしましたといふ︒池内が︑それがいけな いのだといふ︒大工は自慢の昴をひしがれて︑旦那様それはい
と︑どんよりした色のところ人\澄んだ碧の色が動いてをる
︒
普請場へいつて見ると︑丁度天井をはつてゐるところだ︒桟
金井のところのすこし手まへの橋の上から下の水をみおろす出たかと思った︒ てみた︒大掃除ににげ出したのだらう︒鉄笛はゐなかった︒
の花の模様のある有名なのがあるが︑丁度其の地のやうな色合
後見をして舞台に出没せしむるほどならば︑何を苦で滑稽なる るのみならず︑オペラ其のものが表情的の性質を有するが故 して舞踊其のものにのみ集注せしめ︑舞踊其のものを舞台面よの如きもの︑舞台にありと雖も︑競者は運も之に注意せず︑所
謂後見の出没するも何等の目障りをなさず︑観客は多年の習熟
により︑か4る看方をなして怪しまざる也︒これ一は︑舞台面
の構造粗にして︑背景などをつくる智識なかりし幼稚時代の産
物なる故もあるべけれど︑
の性質を帯びず︑ 一
は︑
舞踊
其の
もの
本が
来︑
︑
︑カ
ル
一種のダソスにして︑純然たる形式美の所現
なるが故なり︒然るにオペラにありては︑之に反
し ︑
巧なる背
景を以て一種の夢幻世界を現出し︑観者をして優人の仕ぐさと
背景とを融合せしめ︑複雑なる舞台面を具象的に看取せしむる
也︒ワグネルが管絃席を看客よりかくしたるもこの故なるべ
し︒これ単に近時に於ける劇場の構造と道具の進歩のために然
也°ミ︑カルのものなるが故也︒今初夢の演奏に︑後見を用ゐ
たるは前者の形式によれる者にして︑背景と道具とを用ゐ︑叉
た︑や4滑稽なる管絃席を訪けたるなどは後者に従ひたる也︒ り抽出して看取せしむるなり︒此の故に︑囃方︑又は例の雛段 能及び之より変化して現はれたる舞踊にありては︑観者の眼を
於て雛段を目障りとせざる修旋ある也︒又た背景を用ひしほど
ならば何故に︵いさ4かの注意にて避くるを得べからざるにあ
所謂振事劇其のもの4根本的性質に関する問題と関連すれど︑
背景についてなほ一のいふべきことあり︒この曲は夢中の光
景也︒非現実的なる振事也︒然るに︑勝頼と八重垣姫︑藤娘と
座頭との舞踊︑書院風の床のまつきたる座敷を背景とせり︒其
の直線のみにてくみ合せたる構造︑単調にして貧しき色彩は︑
あまりに明確︑あまりに浅露︑あまりに現実的にして︑看者は
も調和せず
st ag e e ff e c t
を考應せざるも甚し︒
次に節付け及び振付けについて
いは
ゞ何れも写実的に傾き過
︵ ?こ
ぎたり︒語りもの4系統に属する常盤津のプロザイックなるは
是非もなきか︒振付も舞踊の範囲を超えて芝居となりたるヶ所
少からず︒︵これも一は振事閲の性質の明ならぬによる︶︒ 之に対して憂も夢らしき感を生ぜず︒叉た非現実的なる振事と にいふべし︶︒そは別 したるよりか4る矛盾を生じたるものと見るべし︒︵此の点は 性質を異にしたる二形式を口て混合は常に破らる4也︒所詮︑ 用折角のイリュウジョソらざる︶後見をゐしぞや︒之が為めに 管絃席を設けしぞや︒邦人は後見を邪腐物視せざると同程度に
り生ぜる失敗也︒押絵が動いて踊り出すも︑白鼠が化
して
キュ
津 田 左 右 吉 日 記
にもあらず︶畢党︑﹁夢﹂を﹁写実的﹂にあらはさんとせるよ 観客には何の感じをも与へず︑︵このたびの演奏の拙なるのみ 羽子板の押絵が動き出すとせるも之と同じ﹁趣向﹂なり︒この 久しぶりに日記を書かうと思って箪をとりあげたが︑何
だか
明治四十五年 となしたる理由も明ならず︒次に︑観客には何等の印象を与ヘ合せず︒ 振事とははなれ人\となり︑耳にきく感と目に見る感とは融 段の狂言は拙を蔽ふ能はず︒結末の西洋式舞踊︑沙汰の限りな
り︒︵管絃席のボルカもボルカらしからず︶︒但しこれは責むる
もの4無理なり︒今日の役者にダンスのできぬは当然なれば︑
作者に対してもいふべきこと無きにあらず︒初段の狂言はいか
にしても無用なり︒プロローグといふ性質のものにても無し︒
またさるものを要するほど複雑の曲にもあらねば︑この一段は
曲の
pr op
erに対する権衡を失すること甚し︒また之を狂言式
ざる細工あり︒白鼠のぬきぐるみをひきぬきてキュ
ウピ
ッド
と
するなど其の一にして︑作者はこAに﹁趣向﹂をこらしたる由
なれど︑観客は︑鼠が化してキュ
ウピ
ッドとなるを感ずる能は
ざれば︑何のかひ無し︒大黒と夷とがロメオとジュリヤとに化
すると同じく︑役者の役割に関する楽屋の都合とおもふのみ︒
趣向の為に狂言の一段を設けたるかとまで思はるれど︑これも 所謂オルケストラを舞台の前方に齢きたるはオペラを学び
たるべけれど︑明に失敗なり︒オペラの管絃は伴奏のみ︑歌
︵アキ
r r
)は優人みつから歌ふ︒これは俊人のしぐさ所謂にして歌
者は別にあり︑この歌者︑優人よりも前方にあるが故︑歌と
=一 月四 日
︵ 月︶
書くことが沢山ありさうで︑少しも考がまとまらない︒目を閉
ぢてジッとしてゐると︑火の気の無くなった部屋の十一時すぎ
の空気が脚の方に冷く迫つて来る︒土管から落ちる水の音が絶
えずチョボ/\ときこえる︒時々は電車の軋る音や空に伝はる
呻り声が噸Jいて来る︒耳をすますと森の木立を揺がす風の音で
もあらうか︑ザーッといふ声が静に且つ微ながら︑どこやらで べきものならず︒この作者往とか4る︵黙阿弥式の?︶趣向を 技術については深く立ち入りたる批評をなす能はざれど︑初
弄す︒厭ふべし︒ ウ
ピ
ッドとなるも夢としてはあり得べし︒但し舞台には上し得
時 ︒
真くらな小路から︑ぞろ/\と黒い人の彩が流れて来て︑
か
やり顔を出して︑湿っぽい夜の空気を照らしてゐた︒丁度十
り/
\あるいてゆくと︑此のせまい横町と直角になって居る︑` ねやうと思って窓の戸をあけたら︑混めっぽい月が︑ぽん︑ がます/\つめたくなる︒ きこえる︒更ふけて人音の絶えた雨の夜も存外︑騒しい︑膝頭 (rこ
きのふからの雨がをやみなくふりつゞくのに加へて︑部屋の
中にのみ閉籠つてゐると︑さほど気にもつかなかったが︑外は
なか/\の風であったらしい︒自分はたゞ︑寂しい雨の日とし
てけふの一日を暮らした︒
musica
l c
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(よ
んだ
︑が
年5しい知識も得
なかった︒たゞ作曲の稽古には始から器楽にとりか4
るが
よ
い︒歌
から
はじめるのは間違だといつてをるのは成程と思った︒
たが︑さして面白く感じたのも無く︑有益な材料となりさうな
夕方から中村が来て
ニ ︱ ︱ 一
時間話をしていった︒池内の婚礼に
新式を作らうといふやうな相談もした︒池内は落合へいったる
すな
ので
︑
うちへ来たのである︒ こ°
t
ものもなかった
︒午後︑倫理槃篇の古学派の部をとびよみをし見てゆくと︑同じ様にす4けた︑同じゃうな文句の書いてある それから︑きのふ配達して来た国書刊行会本の日記類を抄読し
五日
︵ 火 ︶
坂を上つて︑喰違ひを出て︑紀国坂を左へ下りると活動写真
のイリュミネェショソが閥い空の下に力の無い光をあつめたや
うに見える︒闇い採の水をへだてた左の方は︑其の閻い色の一
段漑くなった森のかげで︑正面には赤坂見附あたりの街燈が星
の様に点々と見える︒下りきった曲り角から小さな横町を右へ
入ると︑煙草を並べたわきに筆や墨を置いて其の隣に絵はがき
をかけつらねたみせがある
︒︳
︱‑
文菓子の箱をならべた傍に貸本
らしい古本を二段ばかりつめこんだ棚の見える小みせもある︒
煤けた障子を下ろして︑それに︑金物品々とかいてあるのが目
につ
く︒妙に場末らしい︑又た︑むかし風の店つきだと思って
障子に︑種油の燈とも思はれる︑弱い光がさして居るのが︑左
にも右にも出て来る︒後は外濠線の電車の軋る音がする︒前に
は青山線の電車が走る影が見える︒わづか一丁位︑二丁とは無
い間に︑こんな古風の店が並んで居るのは︑よっぽどおもしろ
いので︑何だかなっかしいやうな気がして見かへりがちにのた
‑116‑
る一群は新八十八ヶ所巡拝といふやうな連中であらう︒あそこ
比谷公園へ入ってみる︒池のふちに鶴の居るのが目につく︒但
少しはやめに社を出て︑又たプラリ/\帰る︒久しぶりに日 柳が黄ばんで来た︒ プラリ/\
\出
かけ
る
︒弁鹿橋で築村老人にあふ︒桜
田門内の
八日
︵ 金︶
頭巾を頭からかぶつて外套を長く着た男が︑ボソャリした電燈
国の香がかすかにかよふ︒
まつてをる︒さしかけのやうな待合のベソチの片隅に大きな風
池内の庭から水仙
をもつて来て一輪ざしにさす︒春の朝に南
たまりづ4
三方に分れて動いてゆく︒考へて見ると活動写真が ハネたのらしい︒此の閻い空の闇い横町を一しよに雇をならベ
てあるきながら︑別々の足で別々のからだを運んでゆく群衆の
れが︑あのイリュミネニショソの中から流れ出して来たかとお
ビシ
ョ/\︑と降る雨の夜の代々木停車場に山の手線の電車を
ろ敷包みを背負った商人風の男が身動きもせずに下を向ひて居 る︒雨にぬれた四条のレエルが冷た<光る向ふ側の待合には︑
の下の柱にもたれて影のやうに立つてゐる︒さみしい︑冷い空
気が︑湯上りの府を襲ふ︒
まちにまつて︑
やっと来た電車にのる︒新宿でドヤ/\と入
の道がわるくてこまったとか︑腹がへつてあるかれなかったと
か︑いふやうなことを声高に話しあってゐるのを見ると︑いか
にも太平の民である︒
津 田 左 右 吉 日 記
六日
︵ 水︶
もふとこれもおもしろい︒
ゆく
︒
黙々として動く様が︑さながら布片に映る影のやうである︒そ
帰りに目白からまた電車にのる︒乗客はながいボギ
ー車の向
の隅に僅か三人きりである︒自分は反対の隅に陣取る︒人の集 る雨がガラス窓にあたって︑点々と滴るのが室内から見える︒
電燈が一しきりくらくなって︑向ふの隅の二人の姿がうすれて 七日
︵ 木︶
ヤット天気になった︒
まひるの日光におもてを見ると︑土手の芝生の青みわたつて ゐるのが急に目立つ︒猫柳が芽ぐんでをる︒豊後梅の苔がうす
紅にふくらんで来た︒
し長閑さうにも無い︒渥が関を上りて離宮の前からふりかへつ まるべきところに人のゐないのは寂しいものである︒ふり
しき
満足である︒マアテルリソクの戯曲をよみかけたのも︑せめて を燈かすのが悪くてたまらぬ︒
い?ときくと黙つてうなづく︒何をいひかけても
︑首を竪にふ うしてむけてしまったら黙つて︱つづ4とつて食ふ︒
お い し
さまは︑ある丈けの豆の皮がむけるまで︑黙つて見てをる︒さ
たつて明るく見えるに︑左の方は大審院の屋根が黒ずんで其の 上を灰色の雲が一面にかぶさつて居て︑妙なコントラストを作 つてゐた︒支那公使館の門前をとほると
︑ペソキの色の生々し
い五色の国旗の形が︑事新しげに門扉の真中を彩つてゐる︒
から電車にのると向ふ側に腰かけてをる男が︑帽子をまぶかに フト︑あみがさをかぶせられてをる囚人の姿をおもひうかべた︒
九日
︵ 土︶
といひ出す声がいかにも和で︑甘い音色である︒さうして︑ビ
ヤニジモから︑
フォルテに移つて︑小さな咽が張りさけるばか り強い声を出す︒いつまでもねてゐてきいてやりたい心持がす
る︒たゞ時々どこかの汽笛がなって︑あのいたいけな小さな鳥
近ごろはあまり
lo wtone
のmoodであるのが自分ながら不 目をさますと唸がなく︑しきりになく︒咽をふくらしてフー
滴鉄の帰に梧影と一しよに下宿屋さがしをした︒中村のため
︵ マ r )
である︒行政オ判所の門前に三軒ならんで
居るうち︑二軒では
十日︵日︶
日あたりのよい離れの六昼の障子が開いてゐて
︑橡側近く大
きな火鉢を据えた両方に︑黒い襟をかけたはんてんをドテラの
やうに
羽をつた艮善と︑脂粉の気も無く紅の色もない百合子と が向ひあってすはつてゐる︒小さな蝙蝠傘をあぶなかしいから
だつきで︑かたげながら︑節子が庭から入って来た︒橡の上へ
だきあげてやるとふとんの上ヘキチンと坐つて黙つて居る︒百 合子が︑節子さんのおすきなものをあげませうと
いひながら︑
神田でHeineの詩をかつて来た
︒ かぶつてヂットうつむきながら︑両手を膝の上にくんでをる︒
めしをくひすぎたから︑腹ごなしに運動に出かける︒半蔵門
南京豆を小
さい盆にのせて持つて来てむいてやる︒
小さいお客
ると横にふると丈けで口をきかない︒さう
して
黙つて豆を食つ
てゐる︒そこへ小さな白い犬がどこからか飛んで来て
︑橡の端 しくて話にならなかった︒ Jとはられた︒一軒ではあきまを見せたがいかにもむさくる て見ると︑
真直に見える内幸町の通りには黄い光線が欄面にああたまだけでもいくらか放奔な詩国へ遊びたいためである︒
‑118‑
津 田 左 右 吉 日 記
ゆふべ夜
ふかしをしたので朝からねむい︒ひるから髪をか
十一日
︵月
︶
さうして﹁お線香は五厘ぐらゐでせう﹂といった︒ てやった︒さうしたら百合子がやつばりおさいせんを投った︒ 化しながら︑それでも一時にバタ/\下りてゆく︒松がねにむ
しろをひいて一文菓子を売つてゐる爺さんが︑それを見ていく
ら怒なってもだめだよと笑ってゐる︒怒なってゐるのは山番だ
さうだ︒それから︑鬼子母神へゆく︒百合子はおさいせんを投
つて拝む︒薬師堂か何かの前で線香が一はあったから火をつけ と怒なつてあるく︒子どもどもが口々に下りろ/\だとさと茶 いて原をうろ/\しなから︑﹁のっちゃいかん︒下りろ/\﹂ 射探の上へのつてゐたら︑ョボ/\した爺さんが︑細い杖をつ まだ片づけないお雛さまの前で少し酒をのむ︒白酒も︱二杯 に前足をかけながらクソ/
V
\いふ︒節子さんは犬の方をむいて下ろしたらしい小さい紅梅が咲いてゐる︒午前十一時ころのこ
とで
ある
︒
のんで︑それから三人づれで雑司ヶ谷へ出かけた︒戸山の原で は牡丹の芽が出てゐて陽炎も立ちさうである︒隅の方に鉢植を 一ッコリ笑ったが︑依然として一っ︱つ豆をくつてゐる︒庭に
目をさますと夜具の中が蒸すやうに暖い︒ 二十ハ日
︵ 木︶
る後からきえてはゆくが︑それでも夕がたまでには︑崖下
の屋
ねや︑後の上の土手がだいぶ白
く 見 え る や う に な っ た
︒ 冬 か
C~こらかけての初雪である︒
︱︱
一月
のつ
ゞき
けたやうな朝であったが︑其のうちに雪になつて︑春の雪のふ ドソヨリ薄暴った空が︑そこ冷えのする空気を上からおしつ 十三日
︵ 水︶
星が頭の上できら/\し
てゐ
た︒
て︑それから帰りに矢来の中村をたづね︑夜おそく帰つて来た︒ 満鉄から山の手電車で目白にまはる︒風が寒い︒金井へ寄つ ろく芽ぐんで居るのに気がついた︒ る︒夜︑池内のところで麦酒をのんだ︒
十二日
︵ 火︶
( r
マ ︶
池内と一しよに例の出かけると︑前の坂でうす色の蝶が崖の
上をひら/\して居るのを見た︒きのふのひるすぎ四畳半の
倣ではじめて見てから︑
これが二度目である︒春の感じがだ
ん/\\深くなる︒桜田を入ると︑駿ばたの柳がすつかりうす黄