ヴィヴェーカーナンダの
ヒンドゥー教
─ 1893年万国宗教会議での演説をめぐって─平野久仁子
1 はじめに
1893
年9月、「ネオ・ヒンドゥー1」の1
人とされるスワーミー・ヴィヴェー カーナンダ(Swami Vivekananda
1863
-
1902
)は、アメリカ・シカゴの 芸術館(Art Institute
)に於いて開催された「歴史上初」[Barrows
1893
:
18
]の万国宗教会議(The World s Parliament of Religions
、9
月11
日∼27
日)に、インドからヒンドゥー教(Hinduism
)の代表とし て出席した。万国宗教会議は、コロンブスのアメリカ大陸到達400
年を記 念 し て 開 催 さ れ た シ カ ゴ 万 国 博 覧 会(The World s Colombian
Exposition
)併設の会議であり、各宗教の代表が一同に会し、延べ15
万 の観衆を動員したといわれるほど大変な活況を呈した[足羽2006
:
8
]が、 ヴィヴェーカーナンダは、この万国宗教会議において一躍脚光を浴びるこ ととなった。 会議終了後、ヴィヴェーカーナンダは、約5
年間2アメリカやイギリス でヴェーダーンタ思想を中心とするヒンドゥー教の伝道活動を展開し、さ らにインド帰国後の1897
年には、カルカッタ(現コルカタ)に宗教・教育・ 奉仕・厚生等の活動を担うラーマクリシュナ・ミッション(Ramakrishna
Mission
)3を設立した。 万国宗教会議におけるヴィヴェーカーナンダの演説は、彼自身のそれ以 後の公的活動を展開する契機ともなり、後にヴィヴェーカーナンダの著書 を読んだインド独立の父マハートマ・ガンディーが「私の祖国に対する愛 執筆者紹介 ひらの くにこ●上智大学大学院外国語学研究科地域研究専攻博士後期課程 地域研究 ・2005、「スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの思想─ヨーガ及びその実践への寄与─」 上智大学提出地域研究修士学位論文。が何千倍も深くなった」[
Lokeswarananda
1983
:
44
]といみじくも語っ ているように、ヴィヴェーカーナンダの言説がインド内外において、少な からぬ影響力を人々に与えていく端緒ともなった、と言えよう。 本稿の狙いは、万国宗教会議におけるヴィヴェーカーナンダの演説に着 目し、彼が演説で伝えようと意図したことは何であったか、また彼のそう した意図に対するアメリカの人々の反響はどのようなものであったか、を 記述することにある。2 先行研究について
万国宗教会議については、その概要並びに1990
年までの研究史が、森 孝一によってまとめられている[森1990
]。それによれば、1970
年代以降、 このテーマについての本格的な研究が発表されるようになり、Carl T.
Jackson
やRick Fields
は、万国宗教会議をアメリカの東洋宗教の歴史における新しい時代の幕開けの出来事として描いており、日本の仏教界も万 国宗教会議を日本仏教のアメリカへの布教の始まりと見なしている。さら に、
Martin E. Marty
(アメリカ宗教史研究の第一人者)は、万国宗教会 議をアメリカ宗教史上の一つのメルクマールと受け止めており[森1990
:
4
-
5
]、Ziolkowski
らは、万国宗教会議を比較宗教学の立場から、その重 要性を評価しようと試みている[Ziolkowski
1993
]。 ヴィヴェーカーナンダと万国宗教会議との関係については、Mary
Louise Burke
が西洋におけるヴィヴェーカーナンダの活動を全6
巻の労 作にまとめているが、その中に、ヴィヴェーカーナンダの演説並びにそれ に対する人々の反響や会議終了後の彼の動向が記されている[Burke
2000
]。Asim Chaudhuri
は、万国宗教会議の様子と共に、ヴィヴェーカー ナンダのシカゴ及びその周辺における彼の足跡を追っている[Chaudhuri
2000
]4。また、Indira Chowdhury-Sengupta
は、インドからの参加者 の発言を引用しながら、万国宗教会議におけるヒンドゥー教の再評価につ いて論じており[Chowdhury-Sengupta
1999
]、万国宗教会議における ヴィヴェーカーナンダの演説がアメリカにおける宗教界やインド社会へ及 ぼした影響等についても論じられている[Dasgupta
1994
]。さらに、中 村元はヴィヴェーカーナンダの演説について、インド思想史の面から論じ ており[中村1997
]、万国宗教会議におけるヴィヴェーカーナンダの活動やそれに関する新聞報道については、
Sankari Prasad Basu
が詳しく論じ ている[Basu
2007
]。 近年、万国宗教会議の記録の一つであるHanson
版が復刊され、「万国 宗教会議は、キリスト教を相対化するとともに、アジアでの民族独立運動 やナショナリズム、また宗教改革運動、女性の権利平等運動、比較宗教学 や宗教社会学の成立などに多大な影響を及ぼしていった」[足羽2006
:
11
]が、本稿は、こうした先行研究をふまえ、ヴィヴェーカーナンダの 演説全体から、彼の主張する「宗教性」と「社会性」とは何かを捉えよう とする点に特異性をもつものである。3 万国宗教会議とヴィヴェーカーナンダの渡米について
3-1 万国宗教会議 万国宗教会議は、1893
年にシカゴで開催された万国博覧会5併設の20
の会議(女性の進歩、教育等)の一つで、大々的な宗教会議であった。そ の趣旨として、「世界の偉大な歴史的宗教の指導的な代表たちを、歴史上 初めて一堂に参集させること」、「様々な宗教が共通に持ち(人々に)教え 得る重要な真理は何であり、どれだけあるのかを、最も印象的な方法で人 類に示すこと」、「恒久的な国際平和を希求する中で、地球上の国々に一層 友好的な協力関係を結ばせること」などといった10
の項目が挙げられて いる[Barrows
1893
:
18
]。しかしこれらの趣旨の中で、「一神教の難攻不 落の基盤を示すこと」といった表現が見られるなど、万国宗教会議はキリ スト教のゆるぎない存在の表明を意図するものであったとも言えよう。 シカゴ市内のキリスト教各派及びユダヤ教の16
人の牧師とラビによっ て万国宗教会議委員会は構成され、議長はシカゴ第一長老教会の牧師John Henry Barrows
であった。この委員会が世界各国との交渉やアメリカの各教派との交渉、万国宗教会議の運営を行ない[森
1990
:
3
]、世界 中の宗教指導者に1万通以上の手紙を送り、万国宗教会議への協力を要請 した。その結果、世界中から3000
人のAdvisory Council
のメンバーが 選定された[ibid.:
5
-
6
]。 インドでは、コロンブス万国博覧会があまり注目されていなかったのに 対して、万国宗教会議の方は、こうしたBarrows
議長の組織力のおかげで、 その計画やプログラムがよく宣伝されていた[Basu
2007
:
21
]。インドのAdvisory Council
のメンバーの1
人であったThe Hindu紙のG.S. Iyer
も、The Hinduの記事を通して宗教会議の計画を一般に伝えたと考えられてい る[
Asim
2000
:
86
]。インドでは、万国宗教会議に向けて、ブランモ協 会(Brahmo Somaj
)6のP. C. Mazumudar
ら幾人かの代表が選ばれてい たが、正統派ヒンドゥー教徒の方では、盲目的な迷信に束縛され、硬直し たまま無関心な態度をとり続けていたため、ヒンドゥー教の代表は誰1
人 選ばれない状況[Basu
2007
:
21
]が続き、そのような状況を嘆く投書が Madras Times(1893
年1
月27
日)に寄せられていた。それによれば、「イ ギリス船に乗り、Kalapani
(海の「黒い水」)を渡ることを忌み嫌い、カー スト制度や宗教教義についてうまく伝えられないことを懸念し、多くの人 をしてヒンドゥー教の代表として会議に出ることを思いとどまらせていた のではなかろうか」(C. P. Sreehurry Naidu ibid.
)。Vivekananda A Hindu monk, Bombay ○
Professor Dvivedi Hinduism S. P. Aiyangar Hinduism
Narasima Charya A graduate of the Christian College, Madras Laksmi Narain Arya Somaji, Lahore
Virchand A.Gandhi B. A., Honarary Secretary of the Jain Association of India, Bombay ○
P. C. Mazumdar Brahmo Somaji, Calcutta ○
B. B. Nagarkar Brahmo Somaji, Bombay ○
H. Dharmapala General Seretary of the Maha-Bodhi Society, Southern Buddhist Church of Ceylon,
Colombo ○
Professor C. N. Chakravarti Allahabad College, Allahabad, Theosophist ○
Miss Jeanne Sorabji A convert to Christianity from Parseeism, Bombay ○
Rev. Maurice Phillips Missionary, Madras ○
Rev. R. A. Hume Christian Rev.T. E. Slater Christian Rev. T. J. Scott Christian
Siddhu Ram Mohammedan, Punjub
Jinda Ram Mohammedan, Punjub ○
さて、万国宗教会議は
1893
年9
月11
日から27
日まで、シカゴ芸術館で 開催されたが、世界中から200
余名の宗教代表が一同に会し、1
日3
回、 午前・午後・夕方に、各々2
時間半から3
時間のセッションが開かれた [Dhar
1990
:
455
]。万国宗教会議に参加した宗教代表は、コロンビア・ カトリック、ルター派教会、メソジスト・エピスコパル、改革エピスコパ ル、ユニバーサリスト教会、ユニテリアン教会、フレンド教会、エバンジェ リカンなどキリスト教の教派や、ユダヤ教、さらにはヒンドゥー教、イス ラーム教7、ゾロアスター教、仏教、神道、道教、ネイティブ・アメリカ ンなどであった[足羽2006
:
9
]。9
月11
日の開会式には8、4000
人の観衆 を前に、壇上には各宗教の代表が59
名並んだ[森1990
:
10
]。 インドからの代表は、以下のようであり(右の○印は開会式の壇上にい た人)、各自、演説や論文の形で発表した。 3-2 ヴィヴェーカーナンダ渡米の経緯 ヴィヴェーカーナンダは、ベンガル州カルカッタ出身で、弁護士の父、 敬虔なヒンドゥー教徒の母のもとで、カーヤスタ(クシャトリヤ)の裕福な 家庭に生まれた10。カルカッタのプレジデンシー単科大学およびカルカッ タ総合大学で西洋論理学や哲学、歴史を学ぶなど、いわゆる近代的教育を 受け、英語も堪能であった。しかし生来、宗教的探求心が強かったヴィ ヴェーカーナンダは、ダクシネシュワルのカーリー寺院の役僧をしていた 師ラーマクリシュナ(Ramakrishna
1836
-
86
)のもとで宗教的神秘体験 を得たことにより、サンニャーシン(出家遊行者)の道を歩むことになっ た。この間、父の死去に伴う財政的困窮などにも直面した。 師ラーマクリシュナ亡き後、サンニャーシンは遊行の旅に出るというイ ンドの伝統に従い、1888
年からインド全土を約4
年間遊行した。ヒマラヤ に滞在し、また南はコモリン岬までインド各地を巡り、藩王や後に弟子と なる多くの人々と交流を持った。ヒンドゥー教の伝道を試みるとともに、多 くの貧困者を見て心を痛め、救済の方法を見出したいと切望するに至った。 なぜアメリカに渡ることになったか。この理由については、ラーマクリ シュナ・ミッションでも議論されてきた11が、主に二つの目的が考えられ る。一つの目的は、前述したようにインドの貧困者を救済する方法を見出 すことである。ヴィヴェーカーナンダの兄弟弟子で後にラーマクリシュナ・ ミッションの初代僧長を務めたSwami Brahmananda
によれば、渡米の理由についてヴィヴェーカーナンダは彼に次のように語っている。「いい ですか、先輩! この国中に広がっている極貧の状況下にあって、人々に 宗教を伝道することにどんな意味がありますか。もしも私がこの国の貧困 と苦悩を取り除くことに成功したならば、その時にこそ私は宗教について 話そうと思います」[
Gambhirananda
1983
:
87
]。恐らく、インド国内で サンニャーシンという立場の一青年がとんな声を挙げたところで、救済の 道はなかなか開けないことをヴィヴェーカーナンダは遊行を通じて知って いたのであろう。 もう一つの目的は、ラーマクリシュナから託されたヴェーダーンタの思 想を伝道することである。事実、万国宗教会議の折、ヴィヴェーカーナン ダは「師パラマハンサ・ラーマクリシュナに関するパンフレットを配って い る 」(Boston Evening Transcript,1893
年9
月30
日 付[CWSV., Vol.,
3
:
470
])という記事に見られるように、ヴィヴェーカーナンダは、ラーマ クリシュナが1
枚の紙に書いた「ナレンドラ12よ、他の人々を導いておく れ」[ニキラーナンダ1996
:
78
]という言葉を実践したのである。すなわち、 ラーマクリシュナの教えやヴェーダーンタの教えを人々に伝えること、イ ンドを貧困から救済することが、ヴィヴェーカーナンダの渡米における大 きなテーマになっていたのである。 ラームナードのラージャーBhaskara Setupati
がシカゴ行きをすすめ、 ケトリーのマハーラージャーAjit Singh
の援助やマドラスの弟子Alasinga
Perumal
らによる支援などを受け、ヴィヴェーカーナンダは1893
年5
月31
日、太平洋経由でアメリカへ向かうべくボンベイ(
現ムンバイ)
を出航 した。途中、日本(長崎、神戸、京都、大阪、東京、横浜)にも寄り、そ の近代化の様子に感銘を受けつつ、同7
月25
日、Empress of India
号で カナダ・バンクーバーに到着した。また、ボストンで知己を得たハーバード大学の
John Henry Wright
教授から紹介状やシカゴまでの旅費までを与えられ、万国宗教会議に出席することができたのである[
His Eastern
and Western Disciples
1979
]。会議出席に際しては、所属する宗教団体 からの委任状が必要であったのだが、ヴィヴェーカーナンダはそれを持っ てはいなかった。しかし、Wright
教授が、「スワーミーさん、あなたに 身分証明書を求めることは、太陽に対して輝く権利はあるのかを尋ねるよ うなものです」と言い、会議に出席できるようすべての手筈を整えてくれ た[ニキラーナンダ1996
:
132
]のである。4 ヴィヴェーカーナンダとヒンドゥー教
4-1 ヒンドゥー教認識とブランモ協会 ヒンドゥー教は、本来、インドにおけるイスラーム教、仏教、ゾロアス ター教、ユダヤ教、キリスト教を除く、渾然とした宗教・文化の複合体に 対して用いられる便宜的な呼称であり、明快な定義を与えることは不可能 である。ヒンドゥー教は、日本の本来の神道と同じように特定の教祖によっ て創始されたものではなく、インドの地にいわば自然に生まれたものであ る。ヒンドゥー教は個人個人によって意識された信仰の体系であるという よりも、むしろ宗教的な観念や儀礼と融合した社会習慣的性格を多分に もっており、ヒンドゥー教徒の子として生まれることが、ヒンドゥー教徒 の資格をえることに自動的になるわけである。そして、神あるいは絶対者 をとってみても、ヒンドゥー教は、一元論も一神教も、二元論も多神教も、 果ては無神論をその中に含んでおり、共通の教義も、共通の実践も、共通 の教会ももっていない[前田2000
:
38
-
39
]、とみなされている。 では、当時のヒンドゥー教に対する人々の見方はどのようであったのだ ろうか。T. E. Slater
(London Missionary Society
宣教師)は「ヒンドゥー イズムは曖昧な折衷主義で、様々な信仰や、異なった体系、あるい外的生 活の様々な種類や特徴の総計であり、各自を色々な時にヒンドゥーイズム と呼ぶ。しかし明らかに他の信仰とはほとんど似ていない。宗教思想や哲 学的思索のあらゆる側面がインドを表してきたのである」と、万国宗教会 議の論文に、彼のヒンドゥー教に対する見解を示している[Hanson
1893
:
341
-
342
]。また、Mahendranath Datta
(1869
-
1956
、ヴィヴェー カーナンダの弟)は、ヴィヴェーカーナンダがカルカッタの街角でキリス ト教宣教師と遭遇し議論に発展した時のことを回想しつつ、カルカッタの 人々のヒンドゥー教認識について次のように述べている。 「当時、ヒンドゥー教が何か知る人はほとんどいなかった。その本質が何 であるかも。聖典を読んだ人はさらに少なかったし、そうしたものは当時 めったに手に入らなかった。したがって、人々は宣教師たちとの議論で彼 らを論破することは困難であると感じていた」[Dhar
1990
:
65
]。一方、そのような状況下、
Keshab Chandra Sen
(1838
-
1884
)の率い るブランモ協会は、多くの知識人の関心を集めつつ、宗教社会改革を進め ていた。ヴィヴェーカーナンダはブランモ協会と関わりがあったので、ここでブランモ協会について触れておきたい。ブランモ協会を代表して万国 宗教会議に出席した
P. C. Mazumdar
は、Keshab Chandra Sen
の主席代 理(Chief lieutenant
)を務めていた人物であるが[Jyotirmayananda
1986
:
382
]、Keshab Chandra Sen
自身は、1880
年に新たに宣言したNavavidan
(新摂理〈New Dispensation
〉)という宗教団体の指導者と なり、その著書The Oriental Christは西洋でよく知られ、アメリカでも人 気のある人物であった[His Eastern and Western Disciple
1979
:
481
]。 また、ブランモ協会は数十年間、ヨーロッパ及びアメリカのユニテリアン や宗教学者らと着実な国際的なネットワークを持っていた[Seager
1995
:
109
]ので、単身渡米したヴィヴェーカーナンダとは異なり、既にアメリ カで受け入れられる素地が十分に出来ていたと言えよう。 ヴィヴェーカーナンダの叔父はブランモ協会のSecretary
を長年務め13、 ヴィヴェーカーナンダ自身も15
歳の時、ブランモ協会の会員になってお り[Jyotirmayananda
1986
:
407
]14、しばらくの間は、ブランモ協会の 会衆の祈りや祈祷の歌が、ヴィヴェーカーナンダの心をかきたてていたが、 やがて、これらが真の宗教体験を少しも自分に与えてくれないことに気づ き[ニキラーナンダ1996
:
20
]、ラーマクリシュナのもとへと向かったの である。なお、Keshab Chandra Sen
も、のちにラーマクリシュナと親 交を結んでおり、その影響を大いに受けていたものと思われる。 4-2 ヴィヴェーカーナンダの考えるヒンドゥー教 このようなインドでのヒンドゥー教の状況を背景に、ヴィヴェーカーナ ンダは演説でどのようにヒンドゥー教を紹介したのであろうか。要約すれ ば、「ヒンドゥー教とは、世界の人々にすべてを受容する寛容の精神を伝 える宗教であり、そのことを悟る宗教でもある。それは、人間ひとりひと りの内に存在する神性を認め、人類が自らの神性を自覚することを助ける 普遍宗教でもある。また、ヴェーダは、ヴェーダーンタ哲学から偶像崇拝 の思想に至るまでの多岐にわたる思想の共通基盤であり、霊性の法則が集 められている宝庫で、その教えは科学とも矛盾しない。また偶像崇拝をも 容認し、全ての宗教は真実であるとして、宗教間の対話を求める宗教でも ある」[CWSV., Vol.
1
:
1
-
24
]ということであった。では、これらの諸点について、
P. C. Mazumdar
の論文(The Principles
考察してみたい。ヴィヴェーカーナンダは
Hinduism as a religion
と 題する論文を発表(9
月19
日)したほか、以下のようなテーマで演説し [CWSV., Vol.
1
:
3
-
24
]、科学部会(The Scientifi c Sections
)でも様々な 発言をしているが、それらの内容は残念ながら記録されていないので不明 である[CWSV., Vol.
8
2002
:
198
-
199
]。Response to welcome 開会式での挨拶「歓迎に応えて」 1893年9月11日
Why we disagree 「なぜ我々は意見が違うのか」 9月15日
Hinduism as a religion 「宗教としてのヒンドゥー教」 9月19日
Religion not the crying need of India
「宗教はインドにとって今どうしても必要なものではない」 9月20日
Buddhism, the fulfi llment of Hinduism
「ヒンドゥー教を成就するものとしての仏教」 9月26日
最終会議での挨拶 9月27日
Orthodox Hinduism and the Vedanta Philosophy
「正統派ヒンドゥー教とヴェーダーンタ哲学」(科学部会)
9月22日 午前10:30
The Modern religions of India
「インドの近代宗教」(科学部会)
9月22日 午後
上に同じ 9月23日
The essence of the Hindu Religion
「ヒンドゥー教の本質」 (科学部会) 9月25日
4-2-1 寛容と受容の宗教
開会式における最初の挨拶で、「ヴィヴェーカーナンダが聴衆に対して
Sisters and brothers of America
と呼びかけると、会場では万雷の拍手 が鳴り響き、それは数分間続いた」[Barrows
1893
:
101
]という。また「世 界中で最も古い僧団を代表し、何百万人のあらゆる階級と宗派に属するヒ ンドゥーの人々になり代わって感謝する」と述べた後、会議のテーマでも あった「寛容(toleration
)」に言及し、「世界の人々に、寛容(toleration
) の心と、すべてを受け入れる精神(universal acceptance
)の二つを教 える宗教に今自分が属していることを誇りに思う」[CWSV., Vol.
1
:
3
]と 語り、さらに「我々は普遍的な寛容の精神を信じるのみならず、すべての 宗教は真実であることを認めるものである」[ibid.
]と宣言している。そ して、宗教迫害の難を逃れてインドにやってきたユダヤ人やゾロアスター教の人々を念頭に置きながら、祖国インドが「地球上のすべての宗教およ びすべての国々の、迫害されて難を逃れてきた人々をかくまってきた国 (
nation
)」[ibid.
]とし、それを誇りに思う、と語った。 さらにヴィヴェーカーナンダは、自分が特定の団体から派遣された代表 ではなく、ヒンドゥー教という大きな枠組みの代表であることを示すとと もに、「寛容と受容の国」としてのインドという国家像をも示した。 ブランモ協会のMazumdar
も「インドは、あらゆる宗教の母なる国で あり、そのように進化してきた国でもある。」[Hanson
2006
:
428
]と述べ、 宗教性豊かな国インドを提示した。 4-2-2 全ての宗教は真実である さらに、ヴィヴェーカーナンダは、全ての宗教は真実であり、同じ神へ 到達するという主張を、ウパニシャッドやギーターの教えを引用しながら、 次のようなメッセージとして伝えている。 「様々な源から流れてくる様々な川は、その水を最後にはすべて海に注ぐ ように、おお神よ、人々が様々な傾向に応じてたどる様々な道は、曲がっ たり真っ直ぐになったりしていますが、最後にはすべてあなた(Thee
) のもとへと辿り着くのですから」[CWSV., Vol.
1
:
4
]。 「いかなる形を通してであろうと、私のもとにやってくる者は、それが誰 であろうと、私はその者を受け入れる。すべての人は、ついには私のもと へと到達する、さまざまな道を通って近づく努力をしているのだから」 [ibid.:
5
]とも言っている。 こうした発言の背景には、「唯一なるものを、賢者は様々に呼ぶ」(リグ・ ヴェーダ、1
-
164
-
46
)という哲学や[中村1997
:
66
]、師ラーマクリシュ ナの思想の継承があるからだ、と言えよう。事実、ラーマクリシュナは、 ヒンドゥー教のみならず、キリスト教、イスラーム教の様々な宗教実践を 経て体得した智慧を、やさしい譬え話を用いて次のように語っている。 「信仰者たちは、あの御方のことをいろいろな名前で呼んでいる。同じひ とりの御方を呼んでいるのだよ。一つの貯水地に、いくつもの水汲場があ る。ヒンドゥー教徒はこちらの水汲場で水を汲んで「ジョル」といい、イ スラーム教徒はあちらの水汲場で水を汲んで「パーニー」と呼び、キリス ト教徒はまた別な水汲場から汲んで「ウォーター」とよんでいる。また違 う水汲場からくんで「アクア」と呼んでいる人たちもいる。このように、 同じ一つの神に、いろいろな名前がついているんだよ」[田中1992
:
129
]。しかし、それにもかかわらず宗教間に常に大きな意見の違いがある理由 については、ヴィヴェーカーナンダは、自分の住む井戸の中のことだけを 知っていて、外の世界に海があることを知らない蛙の例え話を用いて、自 分の属する宗教が全世界だとみなす傾向があるからであると述べている。 4-2-3 ヴェーダの科学性─多様性の中の統一─ 「ヴェーダーンタ哲学のような高尚な思想から、多種多様な神話をもつ偶 像崇拝の低い思想に至るまで、また仏教徒の不可知論もジャイナ教徒の無 神論も、それらのことごとくが、ヒンドゥーの宗教の中に、各自の居場所 を持っている」[CWSV
., Vol.
1
:
6
]。そのように多岐にわたる思想にも中 心があり、共通の基盤があって、それこそがヴェーダなのだ、と彼は言う。 ヴェーダは始めも終わりも無く、霊性の法則が集められている宝庫であ り、それはちょうど、重力の法則が発見される以前から既に存在していた のと同様に、霊性の世界を支配する永遠の法則であって、それがヴェーダ なのだ[ibid. :
6
-
7
]、と主張している。そして、宗教の目標は「多様性と 二元性とを経て究極の単一性に到達する」[ibid.:
15
]ことであり、宗教 はそれ以上に進むことはできず、換言すれば、単一性の発見という科学の 目標と同じなのだ、とヴェーダのもつ科学性を主張したのである。 この主張に対して、ブランモ協会のMazumdar
は「我々の一神教は、 ヴェーダやウパニシャッドの霊感から発見したものである」[Hanson
2006
:
429
]としながらも、「我々の一神教はすべての聖典に基づき」「ヒ ンドゥーの聖典のみが、真実の宗教の唯一の記録であることはあり得ない」 [ibid.:
430
]と述べ、他宗教の聖典をも包含しようとする姿勢を示してい た。しかし、ヴィヴェーカーナンダは、Mazumdar
よりもヴェーダの優 位性を強調していたと考えられる。 神(God
)の概念については、ヴィヴェーカーナンダは、神は「創造主 ではなく」、「彼はあらゆる所に存在し、純粋、無形の存在で、かつ全能で、 慈 悲 そ の も の で あ る 」[CWSV., Vol.
1
:
11
] と 表 現 し た。 一 方、Mazumdar
は、「神は一つの無限の善である」[Hanson
2006
:
432
]と表 現している。 偶像崇拝(Idolatry
)については、カトリック教会にある象徴(image
) に言及しながら、それは「別に恐ろしいものではなく」、「未発達の心に高 い霊的な真理を理解させようとする試みである」[CWSV., Vol.
1
:
17
-
18
] と述べ、ヴィヴェーカーナンダは擁護の立場をとった。4-2-4 魂は神性である 「ヴェーダは、魂(
soul
)が神性(divine
)なものであることを教える」 [CWSV., Vol.
1
:
12
]のだという。そこで、ヒンドゥー教徒は「もし普通 の感覚的存在を超越する存在があるのなら、それと直接会いたいと願うの だ」[CWSV., Vol.
1
:
13
]と述べ、「ヒンドゥー教徒は、ある教義または定 説を信じようと努めるのではなく、すなわち信じることではなく、悟るこ と(realization
)を目指す」[ibid.
]というのである。つまり彼らの目標 は、「神に到達し、神を見ること」[ibid.
]であり、「自分が霊(spirit
)そ のものであることを信じる」[ibid.
]ことであるが、『バガヴァッド・ギー ター』の第2
章23
節を引用するならば、その霊とは「剣で突き刺すこと もできず、火で焼きつくこともできず、水で溶かすこともできず、空気で 干しあげることもできないものなのだ」[ibid.
]と述べている。 ヴィヴェーカーナンダは、ラーマクリシュナに初めて会ったとき、「師よ、 あなたは神を見たことがありますか」と尋ねたところ、それまで誰からも 満足な返答を得られなかったヴィヴェーカーナンダは、ラーマクリシュナ が「うん、私は神様を見たよ。ここでおまえを見ているように、私には神 様が見えるんだよ。それもじつにはっきりとね」と答えたのだった。この 時の体験はヴィヴェーカーナンダにとって大きな驚きであり[ニキラーナ ンダ1996
:
33
]、彼自身の宗教体験の入り口になっていて、彼が宗教体験 の目標として「神を見る」と言った背景には、このような彼自身の体験が あったからであろう。 4-2-5 ヒンドゥー教と仏教 さて、ヴィヴェーカーナンダは、9
月26
日の夕方、釋宗演、蘆津實全、 平井金三らと並び、仏教部会(Buddhist Congress
)に出席し、演説を した[Hanson
2006
:
1193
]。ヴィヴェーカーナンダは「皆さんお聞きの ように、私は仏教徒ではありません。それでも私は仏教徒なのです。なぜ なら、もし、中国や日本、セイロンの仏教徒達がこの偉大なる師(釈迦牟 尼)の教えに従うなら、インド(のヒンドゥー教徒達)は彼を地上に化身 した神として崇拝するからなのです」[ibid.
]と述べ、仏教とヒンドゥー 教の関係は「ユダヤ教とキリスト教の関係とほぼ同じ」[ibid.:
1194
]と言っ ている。また、仏陀について次のようにも語っている。「釈迦牟尼はヒン ドゥー教の完成、論理的な展開であり、結論でもあった」[ibid.
]だけで なく、「布教を修行の中にとり入れた、世界で最初の人、否、改宗ということを考えた最初の人でした」とも述べている。そして、その「並々なら ぬ偉大さは、あらゆる人々、特に無知な人々や貧しい人々に対する彼の深 い慈悲心にこそある」[CWSV
., Vol.
2
:
22
]と、仏陀への熱い思いを語っ ている。 仏陀に関してヴィヴェーカーナンダがこのように述べた背景には、渡米 の途中日本に立ち寄った際、実際に見てきた日本の様子に感銘を受けたこ とが大きく関与しているものと思われる。日本の近代化の様子に目を見張 るとともに、多くの寺院を訪れたヴィヴェーカーナンダは、「どの寺院にも、 古代ベンガル文字で書かれたサンスクリットのマントラがある15」[CWSV.,
Vol.
5
:
9
]ことに驚き、そのことを横浜から弟子Alasinga Perumal
に宛 てて送った手紙(1893
年7
月10
日付)の中に記している。おそらくヴィ ヴェーカーナンダは、極東の日本にも及んだインドの宗教の影響の大きさ に驚くと同時に、ある種の確信をもち、後にインドでの講演の際にも、「東 アジアにおけるインドの霊的な思想の普及」[CWSV., Vol.
3
:
440
]に心を 打たれたと述べ、寺院で見られたマントラを指して、「ベンガルの祖先に よってなされた伝道のエネルギーと熱意の記念碑として、今日でさえもそ の価値を失ってはいない」[ibid.
]と述べている。中国や日本におけるイ ンドから伝道された宗教の痕跡を見て、その影響力を感じたことは、これ からシカゴでの万国宗教者会議に臨むヴィヴェーカーナンダにとって、大 いなる勇気づけの材料となったに違いない。1893
年は、日清戦争の前年にあたり、当時の日本では富国強兵策が実 施され、社会の近代化・西洋化が進められていたわけであるが、ヴィヴェー カーナンダは、日本で見た僧侶達でさえ、世俗者と同様に進歩への渇望に あふれていることに感銘を受け、「ヒンドゥー教は仏教なしに生きられな いし、仏教もヒンドゥー教なしに生きられないであろう」と言い、「仏教 徒はブラーマン16の頭脳と哲学がなければいけないし、ブラーマンは仏教 徒の心がなければいけない」[CWSV., Vol.
1
:
23
]とも語っている。そし て「インド衰退の原因は、仏教徒とブラーマンの分離である」[ibid.
]と も語ったヴィヴェーカーナンダは、インドにおける精神的停滞の原因の一 つに、ブラーマンの体制の非柔軟性を考えていたとともに、そのような状 況下における新しいサンニャーシンのあり方を、仏教教団をモデルとして、 模索していたのではないだろうか。 さらに、ヴィヴェーカーナンダは「宗教においてカーストは無く、カーストは単なる社会的制度である」[
ibid.:
22
]と述べているが、これに対 して、ブランモ協会は「カーストは越えられない壁のようなもの」と考え ていたので、「(そうした壁は)打ち砕かれなければならない」[Hanson
2006
:
431
]と考えていたようである。 4-2-6 宗教の対話と普遍宗教 ヴィヴェーカーナンダは最終会議で、次のように宗教の融和を唱えている。 「キリスト教徒が、ヒンドゥー教徒や仏教徒にはなりえないし、ヒンドゥー 教徒や仏教徒も、キリスト教徒にはなりえない。ただ各自が他者の精神を 消化吸収しつつ、しかも自己の個性を保ち、自らの成長の法則に従って進 歩すべきである」[CWSV., Vol.
2
:
24
]と述べている。 このように宗教間の対話を求めたヴィヴェーカーナンダの見解は、ブラ ンモ協会の目指すところとは異なっていた。すなわち、ブランモ協会が、 様々な宗教について「我々の進歩は、これらの様々な体系や預言を、一つ の偉大な体系へと調和していくことにある」[Barrows
1893
:
433
]とし、 そうした考えの普及を目指したのに対し、ヴィヴェーカーナンダは、一つ の体系を形成するというよりも、ヴェーダの優位性を保持しつつ、各々の 宗教に見られる普遍的要素を認め、各々の宗教をより良いものにしていく という姿勢を打ち出していた。 さらに、ヴィヴェーカーナンダは、もし普遍宗教(universal religion
) が存在するとすれば、それは「特定の時間と空間には限定されたものであっ てはならず、それが説く神のように無限であり」、「バラモン教的でも仏教 的でも、キリスト教的でもイスラーム教的でもなく、これらのすべての総 計であり、なおかつそれ以上に発展するための無限の余地を持っているも のでなければならない」[CWSV., Vol.
1
:
19
]とし、「その普及の方策の中 には、迫害や不寛容の要素が少しもあってはならず、1
人1
人の男女が自 らの内なる神性を認め、かつ全ての意思と、全ての力を、人類すべてが自 らの神性を自覚するのを助けるために向けていくという宗教である」 [ibid.
]と述べている。その宗教とはすなわち、ヴィヴェーカーナンダの 考えるヒンドゥー教の不二一元論の中にすでに内包されていることを、示 唆しているように思われる。 またブラフモ協会のMajumdar
が「我々の宗教の目的は、すべての宗 教を、調和された一つの体系へと進化させていくことにある」と主張した のに対し、ヴィヴェーカーナンダは「ヒンドゥー教は、世界の様々な宗教と並び立つ一つの宗教体系であり、かつまた単一法則の発見を目標とする 自然科学と同じ目標を掲げるものでもある」と主張している。 このようにヴィヴェーカーナンダは、近代の自然科学及び社会の発展を 意識しつつ、彼自身のサンニャーシンとしての体験をふまえ、ヒンドゥー 教を描き出したが、それは曖昧な認識をもたらしていたヒンドゥー教に新 たな自己概念を与えるものであったとも考えられる。
5 インドへの援助を求めて
ヴィヴェーカーナンダが演説した内容は「宗教としての」ヒンドゥー教 についてだけではなかった。デュモンは、世俗内人間に対して、サンニャー シンを世俗外個人と呼び、サンニャーシンは社会的な役割を離脱し、普遍 的かつ個人的な役割を採用する[デュモン2001
:
240
-
241
]存在であると して捉えているが、同じサンニャーシンであるヴィヴェーカーナンダの場 合はどうであっただろうか。世俗内人間に対する姿勢を「社会性」として、 彼がどのような態度をとろうとしていたのかを、彼の更なる演説から捉え てみたい。 万国宗教会議は、ヴィヴェーカーナンダにとって、インドの民衆の状況 を伝え、そうした現状の改善ないし救済への協力を訴えるまたとない機会 でもあった。即ち、ヴィヴェーカーナンダは、9
月20
日の演説において、「捨 て置けぬ東洋の(人々の)不幸は宗教ではありません。彼らは十分に宗教 を持っています。焼けつくインドに住む何百万もの不幸な民衆が、ひから びた喉で叫び求めているのは、宗教ではなくパンなのです17」[CWSV.,
Vol.
1
:
20
]と、救済を訴えたのである。そして、「私はこの国に、わが国 の貧しい人々のために援助をお願いしようと思ってやってきました」 [ibid.
]とも言っている。この時の演説の様子を、Chicago Inter Ocean(
1893
年9
月21
日付)は 詳細に綴っているが、それによれば、ヴィヴェーカーナンダは「ヒンドゥー 教徒に、形而上学的なナンセンスを教えるのではなくて、よりよい一切れ のパンを買えるお金を、よりよく稼ぐ方法を教えるためにあなた方は宣教 師を送ってください」[CWSV., Vol.
9
:
433
]と訴え、拍手喝采を浴びてい る。さらに、ヴィヴェーカーナンダは「ある新聞記事に一つの提案がなさ れているが、それは本当のことです。つまり、中国やインドの僧侶が組織をつくったなら、非常に大きい潜在的なエネルギーとなり、それは社会や 人類の復興のために大いに役立つことでしょう」[
ibid.
]と述べ、インド でもこのような組織をつくろうと努力したものの、資金不足のためにうま くいかなかったが、この自由の国で私は失望していない[ibid.:
433
-
434
]、 とも付け加えたのである。こうした、ヴィヴェーカーナンダの訴えは、民 衆の救済を目的とする組織の形成を念頭に入れつつ、インド民衆の叫びを 代弁したものでもあった。 デュモンは、ヒンドゥー教の特徴の一つとして、特定の祭儀や教義をも つ多数の教団が存在していることを挙げ、そうした教団はすべてサン ニャーシンによって創設されていることを指摘している。そしてグルの制 度を介して、教団の思想や教義が、多くの世俗の人々へと浸透してはいく が、しかし世俗の外に位置するサンニャーシンは、結局のところ自らは超 えることの出来ない狭い限界中に閉じ込められてしまい、世俗の人々の生 活に対しては無力な存在となってしまう。もしその方向にあえて進もうと するなら、彼の考えは儚く消えてしまうであろう[ibid.:
349
-
350
]
という。 民衆の、精神的のみならず物質的な救済が、世俗の方向であるとするな らば、それまでのインドにおいては、サンニャーシンの1
人であるヴィ ヴェーカーナンダは、まさに無力であったかもしれない。しかし、万国宗 教会議という国際舞台でインドの困窮を訴えたヴィヴェーカーナンダは、 自らを、狭い限界に留まる従来のサンニャーシンから、社会性を持ったサ ンニャーシンへと立場を転換させようとしたのであり、その発言によって、 世俗内人間に対してより積極的な役割を果たそうとする「無力でない」サ ンニャーシンの新しい在り方を示した、と言えるのではなかろうか。6 聴衆の反応と新聞報道
ヴィヴェーカーナンダは、キリスト教徒の敵意をかりたてるような発言 をすることで、キリスト教の一部から反発されることもあったが、それで もなお、多くに人々には受け入れられたようである。聴衆の1
人であった 哲学者William Ernest Hocking
は、次のように書き残している。 「彼は、伝統あるいは書籍に基づいた議論討論ではなく、彼自身の経験と 確信に基づいて話していた。私は彼の演説の仕方を思い出せないが、終わ り近くになって彼の言った一節と彼の声の響きはまだ耳に残っている。聴衆の間には沈黙が感じられ、人々は大変なショックを受けたようだった。 (略)演説者はいったい何と言ったのか? 私は彼の次のような激しい非 難の声を聞いた。『人間を罪人と呼ぶなんて? 人間を罪人と呼ぶこと自 体が罪なのに!』(略)。 私は、会場のすべての聴衆が、一瞬何かはっと息をのむように感じられ た。この後に続いた彼の言葉を、私はよく思い出せないが、「全ての人の 中には神性なる本質があり、それは分割されておらず、永遠であり、真実 は一つである。それはブラフマンに他ならず、私達の
1
人ひとりの中に存 在するものなのである」というようなことだったと思う。 私にとって、この教義は、私の科学的心理学の基礎をなし、驚くべき出 発点となった。(略)しかし、私が感じ理解し得たことは、この男は彼自 らが知っていることを話しており、他人から教えられてきたことを話して いるのではない、ということである」[Burke
2000
:
118
]。 さらに、議長のJ. H. Barrows
は「スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ は聴衆者に素晴らしい感動を与えた」[Chetananada
1995
:
59
]と述べ、 ヴィヴェーカーナンダの演説を少なからぬ好意をもって受け止めている。 ヴィヴェーカーナンダはまた「あたかも母語を話すような英語力」( Chicago Advocate,
1893
年9
月26
日付)で話し、彼の「最も目をひく容姿」 (Boston Evening Transcript,
1893
年9
月30
日付)は、シェークスピアの「オセローによく似た、人気のあるヒンドゥー修行僧でもあった」(Chicago
Inter Ocean
,
1893
年9
月19
日付)とも記している。さらに、次のような 記事からも、ヴィヴェーカーナンダが人気を博していたことがわかる。つ まり「彼が単に演壇を横切るだけで、拍手され、この何千人もの称賛を、 彼はいささかの自負心もなく、子供のような素直な心で受け入れている」 (Boston Evening Transcript,
1893
年9
月30
日付)[CWSV., Vol.
3
:
472
]とか、「聴衆からは何百もの質問がなされたが、卓越したサンニャーシンは すばらしい説得力と明快さをもって答えていた。部会が終わった後も熱心 な質問者が押し寄せ、ヒンドゥー教について半公開的な講演会をどこかで 開いて欲しい、と懇願され、それに対して、ヴィヴェーカーナンダは既に 考慮中、と答えた」(Chicago Daily Inter-Ocean,
1893
年9
月23
日付)[CWSV.,
Vol.
8
2002
:
199
]といった記事があるからである。では、なぜヴィヴェーカーナンダはこのように多くの聴衆に注目された のであろうか。その理由の一つとして、ヴィヴェーカーナンダ自身の印象
的な個性が挙げられる。彼は「原稿を持たずに話した」(New York Critic
,
1893
年11
月11
日付)[CWSV., Vol.
9
:
435
]だけでなく、「彼の教養や雄 弁さ、魅力的な個性がヒンドゥーの文明という新しい考えを我々にもたら してくれた」[ibid.
]からなのであろう。 二つ目として、彼の唱えたヒンドゥー教がアメリカの人々の精神性と共 鳴し合う部分があったからではなかろうか。その背景として、東洋宗教へ 高い関心を示したユニテリアンや神智学などの存在に見られる、キリスト 教の多様性がある。当時のシカゴのキリスト教をめぐる状況について、万 国宗教会議に参加した土宜法龍は手記の中で、シカゴ市内に500
ヶ所以 上の寺院があると記し、30
以上の宗派を挙げ、次のように印象を述べて いる。「寺院の多きは羅馬教にして、彼等は此の度の宗教会にも、不賛成 の方に傾き居れり。依て知る、当地も耶蘇の宗派非常に別かれ、随て異議 多きものと見ゆるのみならず、霊智会あり、又密かに佛教に帰する者あり 実に彼等が競争の苦心は知るべきなり」[土宜1994
:
831
]18。その中で、反・ 三位一体主義で、神の唯一性を主張したユニテリアンは、理性の力や人間 の自己改善の能力と人間が完全なものになれる可能を強く信じており[柳 生1988
:
96
]、ヴィヴェーカーナンダの主張と符合する部分があったから なのではないだろうか。また行動と理論を尊重するアメリカのヒューマニ ズムとともに、エマーソン(Ralph Waldo Emerson,
1803
-
82
)を指導者 とする超越主義(Transcendentalism
)の運動の基盤ともなり得たし、 さらにそうした考えには、インド精神が深く関わっていたので、ウパニ シャッドに憧れて森の生活を体験したソロー(Henry David Thorau,
1817
-
62
)なども、この運動の推進者であった[ニキラーナンダ1996
:
154
]19という事実なども考慮しておく必要がありそうである。 また別の背景として、1893
年には金融恐慌(Panic of
1893
)20が起こり、 社会不安が見られたことである。シカゴでは万国博覧会の大規模な準備が 地元の建設ブームを起こし、他の都市と比較すると状況は悪くなかったも のの、食べる物に困る人もいて、またホームレスの数も増加していた [Chaudhuri
2000
:
43
-
44
]。こうした社会不安に伴なう精神的な疲弊も 人々に大きな陰を落としていたことであろうし、インドの民衆の困窮を訴 えるヴィヴェーカーナンダに少なからず同情を感じた人々もいたのではな いだろうか。 なお、ヴィヴェーカーナンダが演説した科学部会において司会を務めたMr. Merwin-Snell
も、のちにヴィヴェーカーナンダの友人となり、ヒン ドゥー教の熱心な擁護者ともなった[Dhar
1990
:
454
]とも言われている。 一方、インド国内では、ヴィヴェーカーナンダを「ヒンドゥー教の救世 主」とみなす[Basu
1994
:
361
]など、彼の万国宗教会議における「成功」 を賞賛する論調が高まっていったのであった。おわりに
万国宗教会議において、ヴィヴェーカーナンダはヴェーダーンタ思想を 中心とした「宗教としてのヒンドゥー教」をアメリカの聴衆に伝えただけ でなく、インドの民衆を代弁し、その救済を意図した発言や訴えをしたこ とは明らかである。それは、個人的な魂の救済のみを意図したものではな く社会的、物質的な救済にも目を向けた、新たなサンニャーシンのあり方 を示したものでもあった。ブランモ協会のMazumdar
は、主として自分 の協会の理念を主張したのに対し、ヴィヴェーカーナンダはヒンドゥー教 という大きな枠組みと、インドという国の民衆の現状を示すことによって、 聴衆に「宗教性豊かな国インド」というイメージをもたらしたと言えよう。 ヴィヴェーカーナンダの提示したヒンドゥー教は、近代科学を意識しつ つ、ラーマクリシュナから受け継いだ伝統を再構築したものと考えられる が、ブラーマンとサンニャーシンのあり方を示唆するものでもあった。そ れはサンニャーシンであるヴィヴェーカーナンダの立場にも起因するとも 言えようが、当時のヒンドゥー社会の厳しい状況下においては、社会性を 持とうとしたサンニャーシンは、従来の枠外に出る以外に道はなかった、 という見方もできるのではなかろうか。万国宗教会議における演説から、 ヴィヴェーカーナンダが「宗教性」と「社会性」とのつながりについて考 えていることが窺われるが、それは「宗教」と「国家」という連関性にも つながるかどうかについては、更なる考察を必要とするであろう。 ヴィヴェーカーナンダは、あとで万国宗教会議を振り返り、「シカゴ万 国宗教会議は、インド及びインドの思想にとっては、ものすごく有意義な 催し物だった。なぜなら、それはヴェーダーンタの流れを強め、世界にあ ふれ出させてくれたからである」[CWSV., Vol.
5
:
211
]と語っているが、 ヴィヴェーカーナンダ自身にとっても、その後の伝道活動を展開させてい く上で、大きな転換点となったことであろう。新聞報道におけるヴィヴェーカーナンダの活躍は、当時のインドの人々 にどのような影響を与えていったか、また、ヴィヴェーカーナンダの伝道 活動や宗教思想が、サンニャーシンを介して、どのようにインド社会に浸 透し具現化していったのか、さらにヴィヴェーカーナンダに関する評価の 変遷、ナショナリズムへの影響を含め、今後の研究課題にしていきたいと 思う。 本稿は、日本南アジア学会第
21
回全国大会で発表したものを加筆修正 したものです。座長やフロアの先生方から貴重なコメントを頂き、御礼申 し上げます。本稿をまとめるにあたり、ラーマクリシュナ・ミッションの ジェネラル・セクレタリーSwami Prabhanandaji
から[Dhar
1990
]、 [Burke
2000
]、[Chaudhuri
2008
]、[Basu
2007
]の書籍をご教示頂きました。ラーマクリシュナ・ミッション文化研究所の
Dr.Sachidananda
Dhar
、Mr.Subhasis Chowdhury
、元広報担当のMr. Keshab C. Sarkar
の方々からも、それぞれのご見解と情報を頂きました。また日本ヴェーダー ンタ協会のSwami Medhasanandaji
には書籍[Dasgupta
1994
]を貸し ていただいた上、様々なご教示を賜わり、厚く御礼申し上げます。さらに、 上智大学のシリル・ヴェリヤト教授、赤堀雅幸教授には常日頃、様々に御 指導賜わり深く感謝申し上げます。なお、東京外国語大学の奈良毅名誉教 授と東海大学の臼田雅之教授にも、様々なご教示を賜わるとともに、筆者 のインド訪問に上記関係者をご紹介頂くなど、大変お世話になりましたの で、この稿を借りて改めて御礼申し上げます。 1 オーロビンド・ゴーシュ、モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー(インド独立の父)、ラビ ンドラナート・タゴール、ラーダークリシュナンなどである。彼らは、ナショナリズムの高まりを 背景に、その知的形成は主として西欧的でありながら、西洋の宗教、倫理、社会、政治的諸価 値をヒンドゥー教に同化させた[早島1991: 225]。 2 1893年から1896年末までの3年半、および1899年半ばから1900年12月までの1年半。3 正式名称はRamakrishna Math and Ramakrishna Missionである。本部はコルカタ近郊の
ガンジス川沿いのベルール(Belur)にある。Belurにはラーマクリシュナが祀られている本堂、
ヴィヴェーカーナンダ寺院、博物館等の他、ヴィヴェーカーナンダが使用した部屋、またヴィヴェー
年10月)はカーリー・プージャーの時期でもあり、大勢のインド人が参拝に訪れていた。ゲスト ハウスの滞在者の国籍はアメリカ、アルゼンチン、ブラジル、南アフリカ、シンガポール等、国際
色豊かであった。コルカタ市内には、ラーマクリシュナ・ミッション文化 研究所やSister
Nivedita Girl s Schoolなど、ラーマクリシュナ・ミッションの関連施設が点在する。1998年、そ の活動に対して同ミッションはインド政府文化省よりガンディー平和賞を受賞している[ラーマ クリシュナ・ミッション1999: 85]。 4 この続 編としてChaud hu r iは、アメリカでのヴィヴェーカーナンダの足 跡を追っている [Chaudhuri 2008]。 5 1893年、シカゴ市は近代産業の技術の成功を世界に示すために万国博覧会を企画した。シカ ゴの郊外に新しく設置された、ホワイト・シティと名づけられた万国博覧会会場は、当時の技術 の粋を集めた展示場が建ち並び、新しいイエルサレムともよばれた。新大陸での西欧文明とキ リスト教の勝利を歌い、重ねて数年前の大火災で街の殆どを焼失したシカゴの見事な復活を 祝うものでもあった[足羽2006: 8]。 6 1828年、ラムモホン・ライが設立した宗教団体。ブランモ協会はベンガル語の発音に従った表 記。「ブラフマ協会」などの表記もされる。ブランモ(Brahma)は、ベンガル語でブラフマン (Brahman、宇宙の本体)を信じる人、ブラフマンに帰依する人、ブラフマンに属する人を意味 する。また、ブランモ協会の入門者をもブランモと呼ぶ[竹内1991: 52]。 7 イスラーム教については、トルコのスルターンが参加に反対であったので、イスラーム諸国から の参加はなく、インドのイスラーム教徒数人とアメリカ人でイスラーム教に改宗したAlexander Russell Webbだけであった[森1990: 10脚注]。 8 『東京朝日新聞』(明治26年〈1893年〉10月10日付)は開会式の様子を次のように伝えている。 「世界宗教大会議(神道家の気焔) 米国シカゴに於る世界宗教大会議は、去月十一日ミシガ ン湖上の美術館内にて開会式を執行せしが、当日の参会者は男女総数六千人にて、日本神道 実行教管長柴田禮一氏は、本邦古代の冠を戴き大菱の下着に大白雲鶴の大礼服を着し、議長バ ルロース氏の指揮により第一に登場して祝辞を朗読し(英文に訳して議長之を読上たり)満場 割るるばかりの喝采を博し、数千の男女先を争ふて握手を求め、氏は為に右手を痛めたる程な りしが、同市の諸新聞は氏に装束を模して紙上に掲ぐるなど評判をとりどりなりしと、又同氏は同 十四日同館に於て神道実行教の大意を演述したりと云ふ」[朝日新聞〈復刻版〉1993:206]。 9 日本から万国宗教会議に出席したのは神道系実行教の柴田禮一、天台宗から後に臨済宗に 変わった蘆津實全、34歳の若さで円覚寺管長となった禅の釋宗演、26歳で高野山の大学林長 となり、後に真言宗大学総理をつとめた土宜法龍、西本願寺派の八淵蟠龍、当時38歳の同志 社校長の小崎弘道、アメリカ在住の神智学の平井金三(龍華)、同志社を卒業後留学し、当時 ハーヴァード大学に在学していた岸本能武太、仏教の代表たちの通訳の野口善四郎と野村洋 三であった。また論文の形で参加したのは、日蓮正宗の川合芳次郎。実行教のNishikawa Sugao。キリスト教界からは横井時雄、松山高吉、鏑木五郎であった[森1990: 6]。
10ヴィヴェーカーナンダの生家(The Ancestral House of Swami Vivekananda)は修復さ
れ、2004年9月26日から、Cultural Complexとして一般公開されている。コルカタ市内北部の シムラーにある、その立派な生家は、西ベンガル州カマルプクル所在の師ラーマクリシュナの家
と対照的であった(2008年10月のフィールドワークより)。
12ヴィヴェーカーナンダのこと。出家前の名はNarendranath Datta。 13 The Ancestral House of Swami Vivekananda内の掲示より。
14ヴィヴェーカーナンダが属したのは、Keshab Chandra Senのインド・ブランモ協会から分派し
たシャダロン・ブランモ協会(Sadharan Brahma Samaj)である。
15「卒塔婆に書かれた梵字のことを言っているのであろうか?」と奈良毅博士は推測している[ 奈良1994: 48]。 16バラモン。インドのヴァルナ(種姓)制度で最高位の司祭階級。 17「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る」(マタイ福音書4 章)と対比しているのであろう。 181893年シカゴを訪れたイギリス人ジャーナリストWilliam Steadは、シカゴ市民について、「シカ ゴでは、建前としてはキリスト教徒であるが、三位一体について特別の関心を持っていないよ うである」とし、また「抽象的な神学上の教義において、現代のシカゴではあまりよく検討され ていないようである」とも言及している[Chaudhuri 2000: 44]。
19ユニテリアンや超越主義の思想による東洋の思想の発見は、The Light of Asiaの出版によって刺
激された仏教への関心を高め、アジアについての研究者や比較宗教学者の出現をもたらし、ア メリカでは1890年代までには19世紀初頭よりも、アジアの宗教に対してより一層注目し共感す るようになっていた[Jackson 1994: 14]。 20これに関して、ヴィヴェーカーナンダは弟子宛ての手紙(1893年8月20日付、Breezy Meadowよ り)に、「ちょうど今、インドのルピーの上昇がこの国で恐慌を引き起こし、多くの工場が休止し ている」と記している[LSV: 44]。 参照文献 一次資料
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CWSVと略記)
The Complete Works of Swami Vivekananda, Vol. 3, 2001, Calcutta: Advaita Ashrama. (文中
CWSVと略記)
The Complete Works of Swami Vivekananda, Vol. 5, 2001, Calcutta: Advaita Ashrama. (文中
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