地 学 雑 誌 76, 1 ( 1967 )
伊能忠敬の伝記類 と業績の評価
―明治100年
に ち な ん で―
保
柳
睦
美*
The Life of Tadataka
(or Chtikei) INO, the First Land-Surveyor
in the
Yedo Period and His Contribution to the Modernization
of Japan since the Meiji Restoration
By
Mutsumi HOYANAGI*
Summary
A) Tadataka INC) (1745-1818) was a remarkable man who established a landmark in the
history of cartography of Japan based on his indefatigable survey of the whole of Japan,
carried out from 1800 to 1816. His work was so memorable and the Tokyo Geographical
Society erected a bronze memorial monument in the Shiba Park, Tokyo, in 1889, but it was
removed and lost during the World War II. However, the Society did succeed in the
re-establishment of it in the same site with a beautifully designed stone monument in 1965.
The account of his life and work was so remarkable that nearly twenty kinds of
biogra-phies and biographical stories of Tadataka Ino have been published since the Meiji era. Most
of them placed the emphasis upon his indefatigable character, his laborious travel of survey
throughout Japan (Fig. 4), and his successful achievement which means, the account of the
life of Tadataka Ino has been didactically told in Japan, particularly in the elementary
education before the war. Among them, however, "Tadataka Inc), the Japanese
land-surveyor ", written by Prof. Ryokichi Otani (1917) is most substantial and authoritative,
and some parts of which were revised or shortened, translated into English, and published in
1932.
Prof. Otani scientifically analysed the Ino's survey and his manuscript maps and revealed
their essential facts and the degree of accuracy of the maps. The book was reviewed by
George Sarton in 1936 (Isis, XXXI, I, 196-200), and the account was briefly summarized in
the article of Norman Pye and W. G. Beasley in 1951 (Geogr. Jour. CXVII, 178-187).
Ino's remarkable achievement was appreciated in Europe earlier than in Japan. For instance,
a map of Nippon compiled from Ino's map was published in Europe by von Siebold in 1840, with
the result of demonstrating the Japanese progress in surveying and map-making. A somewhat
similar kind of story which exemplified the accuracy of Ino's map was told in the article of
Pye and Beasley, concerning manuscript copies of Ino's maps carefully kept in the National
* 東京都立大学教授 (理学部地理学教室)Prof. Dept. of Geogr., Faculty of Sci., Tokyo Metropolitan University. 1
保
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美
Maritime Museum at Greenwich.
While in Japan, the Tokugawa Shogunate Government
tucked the ma's original manuscript maps (more than two hundred sheets of large-scale,
middle-scale, small scale and others) in the Library, without using them effectively and
closed to the public.
B)
Since the Meiji Restoration ma's maps have served greatly to meet the urgent needs of
modern maps, charts nad statistical figures of the Japanese Islands.
For instance, Military
Land Survey Department
produced hastily the maps of 1 : 200,000 based on ma's maps
(Fig. 6), and some of the sheets served to the public up to 1920's before the modern maps
replaced them out.
Geographical Bureau of the Home Affairs provided statistical figures of
the size of Japanese islands and prefectures and some of the figures maintained their existence
up to 1921. Naval Hydrographic Department produced many charts based on the well drawn
coastline of ma's maps (Fig. 5), which have helped the development of coast navigation
in
Japan.
In this way, Japan has owed the rapid progress in social and cultural development since
the Meiji Restoration unconsciously and basically to ma's maps ; in other words, without
ma's maps Japan would have met with various kinds of grave obstacles in the process of
modernization.
Many of the original manscript of ma's maps were lost by the fire in 1873
and the Kanto earthquake
in 1923, but carefully copied maps, which provided the basis
for practical use, are kept in the Library of the Geographical Survey Institute and others.
The year 1967 falls on the 100th year since the Meiji Restoration and gives us a good
opportunity to remember and to re-appreciate the remarkable achievement of, and the scientific
geographical heritage from Tadataka Ina.
ま
え が
き
い か に も,あ い ま い な表 題 で あ る。 は じめ の うち は,伊 能 忠 敬 の伝 記 類 につ い て一 通 り調 べ た こ とが あ る の で,ま ず これ らの紹 介 をや り(前 編),こ れ を うけ て,忠 敬 の業 績 につ い て の 自分 の考 え方(後 編)を 述 べ て み た い と思 つ た 。 とこ ろ が前 編 か ら書 き 出 してみ る と,い つ こ うにお も しろい も の に な ら ない の で, と ころ どこ ろ に感 想 ま で書 き加 え た 。 した がつ て伝 記 類 と業 績 の両 方 を評 価 した も の と思 わ れ て も よい も の とな っ た 。 前 後 両編 は,相 互 に密 接 な 関連 を もつ も の と して計 画 を立 てた が,前 編 の方 は 資 料 と して の性 格 が 濃 い もの で あ るだ け に,や は りそ うお も しろ い も の に な らな かつ た 。 そ こで 少 し両 者 が 分 離 す る よ う にな っ た が,後 編(13∼21)だ け を 読 ん で も,一 応 は理 解 され る も の に,あ とか らま た書 き改 めた か ら,せ めて こ の 方 は,で き るだ け 多 くの人 々 に読 ん で も らい た い も の と思 う。 な お前 編 の伝 記 類(2∼12)は,そ れ ぞれ が 書 か れた 時 期 に よつ て重 点 が多 少 ちが つ て い るの で,便 宜 上 い くっ か の 時期 の もの に分 け た 。 もつ とも伝 記 類 とい つ て も,こ こで は 成 人 向 きで,あ る程 度 の 学 究 的 態 度 で 書 か れ た,ま とま つ た もの に 限定 し,同 じ く成 人 向 き で も,一 般 向 き の軽 い 読 み もの や 小 品 もの, お よび 児 童,生 徒 を 対象 と した 少年 向 き の も の は除 いた 。前 編
伊 能 忠 敬 の 伝 記 類
第 I 期 (明治末前後まで)
( 1 ) 墓 碑 文 (1822) 忠 敬 の墓 は,現 在 の東 京 都 台 東 区 上 野 六丁 目,源 空 寺 の墓 地 内 に あ る.忠 敬 の遺 志 に よつ て,そ の 師 で 2伊 能 忠 敬 の伝 記 類 と業 績 の評 価― 明 治100年 に ち な ん で― 3 あつ た 高 橋 至 時 の墓 の そ ば に葬 られ た もの で あ る が,墓 石 は至 時 の も の よ りも堂 々 と して い る 。 しか しこ れ は忠 敬 の遺 志 で は な か っ た も の で あ ろ う。 墓 石 に は,そ の左,背,右 の 三面 に わ た つ て,文 政5年(1822) に佐 藤 一 斉 が撰 した墓 碑 文 が 彫 ま れ で い るが,現 在 は こま か い 苔 が つ い た り して,か な り読 み に く くな つ て い る。 しか し これ が 忠 敬 の経 歴 を 後 世 に 伝 え た 最 も重 要 な 文1)で あ るの で,大 谷 亮 吉 編 著 「伊 能忠 敬 」 に 引 用 して あ る もの も参 考 に して,次 に そ の 全 文 を掲 げ る。 本 文 は書 き 下 しの 漢 文 で あ るが,読 み 易 い よ うに数 節 に 分 け,か つ 訓 読 とす る。 「君 の誰 は忠 敬,字 は子 斉,伊 能 氏,東 河 と号 し,三 郎 右 衛 門 と称 し,晩 は勘 解 由 と称 せ り。北 総 香 取 郡 佐 原 村 の人 な り。本 姓 は神 保 氏,南 総 武 射 郡 小 堤 村,神 保 貞 恒 の第 三 子 に して,出 で て伊 能 氏 を 冒せ り。 伊 能 氏 は世 々 間 の 右族 な り。 そ の 先 は大 和 高 市 郡 西 田郷 に 出ず 。大 同 中,誰 は景 久 とい う者 あ り。始 めて 佐 原 に 徒 る。天 正 中,居 民 とな り,難 塵 貿 易 を開 く。 実 に君 が 九世 の祖 な り。 高 祖 の 謙 は 景 利,曾 祖 の誰 は 昌 雄,祖 の 誰 は 景 慶,考 の 誰 は 長 由。 長 由 子 な し。そ の配 神 保 氏 は,君 の 従 祖 姑 な り。 因 つ て 君 を 以 て 嗣 とな す 。 長 由 は 不 幸 に して 蚤 に殉 し,産 頗 る荒 む 。君 す で に来 りで嗣 ぎ, 慨 然 と して 幹 盤 を もつ て志 とな し,折 夕 題 勉 し,倹 素 を務 め,奢 靡 を 禁 ず 。 家 衆 百 口,躬 を もつ て こ れ を 率 先 す 。 天 明 三 年,関 東 大 い に 磯 う。 君 た めに 私 儲 を 発 し,郷 里 を賑 貸 す.施 して 労 近 の 村 落 に 及び, 全 活 す る所 多 し。 六 年 ま た 鱗 う。 これ を 救 うこ と初 の 如 し。 地 頭 津 田 日州 君,並 に これ を 優 賞 す。 君 は星 暦 を好 む 。寛 政 六 年 に至 り,家 事 を子 の景 敬 に委 ね,躬 独 り江 都 に来 りて 暦 学 に 従 事 す。当 時 伝 うる とこ ろ の暦 法,君 は そ の合 わ ざる とこ ろ あ る を疑 い,偏 く暦 家 に就 い て これ を質 す 。 猶 お 未 だ釈 然 た らず 。 す で に して官 会,改 暦 の挙 あ り,高 橋 東 岡 な る者 を召 し,浪 速 よ り来 る。 君 は 贅 を執 りて 往 きて 見 始 め て西 洋 暦 法 を 聞 く。理 精 し く,数 密 に して,宿 疑 乃 ち解 く。遂 に 旧学 を棄 て て これ を学 ぶ。推 歩 測 量 の精,東 岡 の 門,独 り君 を推 す とい う。 寛 政 十 二 年 閏 四 月,官 は 君 に 命 じて 北 海道 お よび 蝦夷 地 方 東 南 沿海 を測 量 して,以 て地 度 を定 め しむ 。 明 年 正 月,官 は 君 が 父子 に 銀 各 十 錠 を賜 い,刀 を侃 び 氏 を称 す るこ とを許 す 。 そ の天 明年 中 に,窮 氏 を両 1) 伊 能 忠 敬 の 師 で あ っ た 高 橋 至 時 の 次 子,渋 川 景 佑 が 見 聞 し た こ と を 書 き 集 め た 「聞 見 録 」(1821)も あ る が,こ れ は 現 物 を ま だ 見 て い な い の で,こ の 紹 介 は 他 日 に ゆ ず る 。
Fig. 1 ( a ) 伊 能 忠 敬 の 墓 ( The tombstone of Tadataka INO), 石 燈 籠 の 向 う が 高 橋 至 時 の 墓.
( b ) 石 碑 に 彫 まれ た 碑 文
(The
inscri-ption to the memory of Tadataka
INO written by Issai SATO in
1822)
救 せ るを 賞 して な り。 享 和 元年 二 月,ま た命 じて伊 豆,相 模,二 総,常 陸,陸 奥 沿 海 を測 量 せ しむ 。 六 月 ま た 命 じて 出 羽,三 越 佐 渡,能 登,駿 河,遠 江,参 河,尾 張 沿 海 を 測量 せ しむ 。 文化 紀 元 に 至 りて,地 方 各 図 を集 め て 一大 図 とな し,進 呈 す 。 そ の 九 月,官 は 庫米 を 賞賜 し,擢 ん で て 小 普 請組 とな し,天 文 方 に 属 せ しむ 。 す で に して ま た 命 じて,山 陽 山 陰,西 海,南 海 の 四道,壱 岐,対 馬 の 二 島,官 道及 び 沿 海 を 測 量 せ し む 。十 二 年,ま た命 じて伊 豆 七 島 お よび 箱 根 湖 を測 量 せ しむ 〇 す で に事 を竣 え,江 都 府 内 を測 量 す 。十 四 年 四.月,府 内 図成 りて進 呈 す 。蝦 夷 測量 の始 め よ り ここ に至 る,十 有 八 年 を 閲 みす 。五 畿 七 道,地 渉 ら ざ るな く,遽 阪 僻壌,尽 く測 量 して これ を 図 に す 。 最 後 に命 あ りて,寓 内沿 海 輿 地 全 国 お よび 度 数 譜,行 程 記 を集 成 す 。 文 政 元 年 に至 り,齢 七十 有 四 に し て病 に罹 る 。 そ の 四 月十 三 日,劇 し く して殆 ど起 たず 。 四年 七 月 に至 り,輿地 図 等成 りて進 呈 す 。 こ の九 月 四 目を もつ て残 せ り。官 そ の功 を追 賞 し,康 米 宅 地 を孫 の忠 謳 に賜 い,も つ て こ れ を施 せ り。 君 は人 とな り真 率 に して,辺 幅 を修 めず,精 力 入 に絶 す 。 測 命 の下 る ご とに,轍 ち喜 び 顔 色 に見 われ, 日な らず して発 せ り。 乃 ち躬 は険 阻 を歴,海 濤 を凌 ぎ,奔 走 す る こ とを数 十 百 里,風 雨 寒 暑,未 だ嘗 て少 し も沮喪 せ ず 。何 ぞ そ の気 の遮 に して事 の勤 な る や 。 著 す とこ ろ,国 郡 昼 夜 時 刻 考,対 数 表 記 源 術 並 用 法,割 円入 線 表 記 源 法,地 球 測 遠 術 問答,凡 そ 若干 巻 あ り。み な家 に蔵 す 。 君 は先 に長 由 の女 を配 し,継 ぎ て桑 原 氏 を配 せ り。み な先 に残 す 。三 男 二 女 を得, 昆 季 並 び に 瘍 し,仲 子 景 敬 嗣 ぐ。 ま た先 に残 す 。 孫 忠 講 嗣 ぐ。君 の葬 は城 北 浅 草 源 空 寺,東 岡君 の 笙域 に あ り。遺 嘱 に従 うな り。 忠 誰,状 を もつ て来 り,余 に 銘 を請 う。 乃 ち これ を略 叙 して銘 と なす2)。」以 下 に 銘(韻 文 の部 分)が 続 くが,こ れ は伝 記 の一 部 とい うよ りも文 学 で あ るか ら,こ こ で は略 す 。 (2) 佐 野 常民 述(0882):故 伊 能 忠敬 翁事 蹟,東 京 地 学 協 会 報 告,4巻,5号,0∼17,明 治15年9月 。 こ れ は 明治15年(1882)9月 に,当 時 の元 老 院議 長,日 本 赤 十 字 社 会 長 佐 野 常 民 が,東 京 地 学 協 会 で行 な つ た講 演 の記 録 で あ る 。伊 能 忠 敬 伝 の系 統 だっ た講 演 と して,お そ ら くこ れ が最 初 の も の で あ ろ う。全 文 が漢 文 調 の 美文 で書 かれ て い る が,前 半 は墓 碑 文 を基 と して忠 敬 の経 歴 を説 き,後 半 は,そ の作 製 した 地 図 が どん な にす ぐれ た もの で あ つ た か を,い ろ い ろ な実 例 を あ げ て説 明 して い る 。 た とえ ば幕 末 の文 久 元 年(1861)に イ ギ リス の 測量 船 が 日本 沿海 を測 量 す る こ とを 申 し出 た とき,す で に伊 能 図 が あ る こ と, お よび こ れ が非 常 に 正確 で あ るこ とを知 つ て驚 き,こ の複 写 図 を も らつ て測 量 を 中止 した こ と,オ ー ス ト リア の万 国博 覧 会 に 出 品 して各 国 の賞 讃 の ま と となつ た こ と,目 本 の陸 海 軍 の地 図 の基 本 は,こ の伊 能 図 に よ るこ とな どを あ げ て い る。 こ の ほ か至 る とこ ろ,忠 敬 の逸 話 や そ のす ば ら しい努 力 を ほ め た た え る言 葉 で満 た され て い る3)。 も とも とこ の講 演 は,忠 敬 の功 績 に対 して,東 京 地 学 協 会 の名 に おい て贈 位 を 申請 し,そ の業 績 をた た え るた め に記 念 碑 を建 設 す る こ とを提 案 した もの で あ る か ら,こ れ にふ さわ しい 内容 が盛 られ て い る わ け で あ る。 こ の講 演 は,後 世 に非 常 に大 き な影 響 を与 え た も の の1つ で あ る と信 ぜ られ る 。す な わ ち忠 敬 へ の贈 位 (明治16年2月27目 付,贈 正 四 位)と 記 念 碑 建 設(明 治22年12月14日,東 京 市 芝 公 園 で 除幕 式 挙 行)が 実 現 した もの,こ の講 演 が 源 で あ り,し た が っ て,伊 能 忠 敬 の 名 が 明 治 の 社 会 に 広 ま っ た の も,こ の 講 演 の 2) 大 谷 亮 吉 氏 の 調 査 に よ れ ば,碑 文 中 の 記 述 に は 多 少 の 誤 り が あ つ て,た と え ば 「そ の 配 神 保 氏 は 君 の 従 祖 姑 な り」 は,「 そ の 配 平 山 氏 は 鷺 の 再 従 姉 な り」 と,「 官 は 君 に 命 じ て 北 海 道 及 び 蝦 夷 地 方 東 南 沿 海 を 測 量 し て 」 は 「官 は 君 に 命 じ て 奥 州 街 道 及 び 蝦 夷 地 方 東 南 沿 海 を 測 量 し て 」 と,「 六 月 ま た 命 じ て 出 羽,三 越 」 云 々 は,「 翌 年 六 月 ま た 命 じ て 出 羽,三 越 」 云 々 と,そ れ ぞ れ 訂 正 さ れ る べ き で あ る と い う。 3) 講 演 の 後 半 の 部 分 は,保 柳 睦 美(1965):1日 伊 能 忠 敬 測 地 遺 功 表 に つ い て,地 学 雑 誌,74巻4号, 28 ∼33,に 引 用 し て あ る か ら,詳 し い こ と は こ れ を 参 照 さ れ た い 。 4
伊 能 忠 敬 の伝 記類 と業 績 の 評 価― 明 治100年 に ちな ん で― 5 お か げ で あ つ た ば か りで な く,忠 敬 の伝 記 や 業 績 の一 部 が,戦 前 の小,中 学 校 教 育 で訓 話 的 教 材 と して取 り入 れ られ る よ うに な っ た の も,こ の講 演 に 出発 す る と考 え られ る か らで あ る。 教 材 とい え ば,忠 敬 の こ とを 学 校 教育 に取 り入 れ た最 初 の も の は,明 治25年(1892)4月 の検 定 教 科 書 末 松 謙 澄 著,小 学 修 身 訓 で,こ れ に は忠 敬 が 日本 国 中 を測 量 して,大 い に世 の た め につ く した,と 書 い て あ る 。 しか しそ れ だ けの こ とで あ つ て,こ れ に は 佐 野常 民 の講 演 内容 が,ま だ そ う関与 して い る とは思 え な い 。 これ に対 して 明 治36年(1903)10月 の 文 部 省 著 作,高 等 小 学 読本,1,に は 伊能 忠 敬 の1課 が設 け ら れ て い て,そ の 生 い 立 ち か ら晩 年 で の 勉 学,そ れ か ら全 国測 量 とい う超 人 的 努 力,最 後 に贈 位 と遺 功 表 の 建 設 が 述 べ て あ つ て,そ の 内 容 の 主 要部 は 明 らか に こ の講 演 に よつ てい る4)。 さ らに 明 治43年(1910) 3 月 の文 部 省 著 作,尋 常 小 学 修 身 書,巻6,に は 「勤 勉,(1),(2)」 「迷 信 を避 け よ」,「 師 を敬 へ 」 の4課 が あ らわ れ る。 これ が そ の の ちは 少 し く簡 略 に され な が ら も,昭 和16年(1941)の 国 定 修 身教 科 書 に ま で 続 い てい る 。そ し て これ ら の内 容 に も,こ の 講 演 が 最 も大 きな 影 響 力 を もつ て い た に違 い な い の で あ る 。 (3) 伊 能 登 著(1911):伊 能 忠 敬,忠 敬 会(東 京 市 日本 橋 区)発 行,明 治44年,新 書 版,285ペ ー ジ 。 伊 能 家 の同 族 として 伊 能 忠 敬 伝 を書 い た も ので,15章 か らな る。 そ の 序 文 に,「 そ の 功 烈 を 不 朽 に伝 う る は,た だ に子 孫 一 族 の 余 栄 た る のみ な らず,天 下 後 人 を して 感 奮 興 起 せ しむ るに 至 らん 。 こ れ 予 が 同族 伊 能 忠 敬 を伝 す る所 以 な り。」 とあ る こ とか ら も察 せ られ るよ うに,忠 敬 の 経 歴,人 物,業 績 な どの す べ て の点 を讃 えた も の 。 しか し重 要 な資 料 もい くっ か 含 まれ て い て,こ とに最 後 の章 に,測 量 日記 の 一 部 を 掲 載 した こ とは出 色 で あ る。 (4) 加 瀬 宗 太 郎 記 述(1911):偉 人 伊 能 忠 敬,多 田尾 書 店(千 葉 市)発 行,明 治44年,A5版,142ペ ー ジ 。 明 治41年 に大 谷 理 学 士 が,帝 国 学 士 院 の嘱 託 と して 佐 原 へ しば しば 出 張 し,忠 敬 の事 績 の 調 査 に 従 事 し た こ とを契 機 と して,佐 原 中学 校 校 友 会 の学 報 第8号 付 録 の 「伊 能 忠 敬 先 生 」(明 治38年 発 行,内 容 は 贈 位 の こ とが主 体 となっ てい る 。)を 書 き直 した も の 。 した がつ て こん ど は伊 能 図 につ い て も あ る程 度 の説 明 が あつ て,あ とで 出 版 され た 大 谷 亮 吉 編 著 「伊 能 忠 敬 」へ 発 展 す る 中 間報 告 的 書 物 で あ る 。 しか し全 体 と して は郷 土 の偉 人 伝 的 な書 き方 で,修 身 教 材 的 傾 向 が強 い も の で あ る 。 (5) 西 脇 玉 峰編 著(1913):伊 能 忠敬 言 行 録,内 外 出版 協 会 発行,大 正2年,B6版,200ペ ー ジ。 明 治末 か ら大 正 の は じめ に か け て の社 会 に は,偉 人 崇 拝 の気 風 が あつ た とみ え て,こ の本 も 「偉 人 研 究 」 (全79冊)の1っ と して 刊 行 され た もの で あ る。 した が つ て 特 に 忠敬 に つ い て の 新 しい調 査 や 研 究 で は な く,そ れ ま で に知 られ て い た こ とを,や や くわ しい事 項 別 に ま とめ た もの で あ る。 そ の序 言 で,「 これ を要 す るに,生 先 は 壮 歳 に 斉 家 に 力 め,暮 歳 に 国 家 に つ くせ り。 而 して この 二 者 は 一貫 せ る も の は,た だ そ の至 誠 の 心 と精 神 の気 と を もつ て した るの み 。」 とあ る よ うに,そ の基 本 に お い て は,忠 敬 の人 とな り と 精 神 面 を讃 え る立 場 で 書 か れ た も ので あ る。 以 上 の よ うに,明 治 末 前 後 まで に出 た 伊 能 忠 敬 伝 は,人 物 本 位 に に 書 か れ て お り,佐 野 常 民 が そ の講 演 で 言 及 した 伊 能 図 の優 秀 性 の究 明 につ い て は,そ の の ち な ん ら具 体 的 発展 を み な い ま ま,も っ ぱ らそ のす ぐれ た人 とな りや 努 力 を賞 讃 す る こ とに重 点 がお かれ て い る ので あ る。 す な わ ち成 人 向 き の伝 記 に お い て も,修 身 的,教 訓 的 部 分 が 主 要 部 を な して い る こ とが 特 色 とい つ て よい 。 しか し これ は 忠 敬 の 伝 記 もの か らみ た 場 合 だ け の こ とで あつ て,忠 敬 の 業 績 の客 観 的 分 析 に 発 展 す る第II期 へ の 基 礎 づ け と して,一 方 で は地 味 な研 究 も行 な われ てい た こ とも見 の がせ ない と こ ろで あ る5)。 4) 正 式 な 記述 以 外 に,ま だい ろ い ろ あ っ た こ と と思 わ れ る。 た とえ ば 香 取 郡 長 大 須 賀 庸 之 助(千 葉 県 令 へ の贈 位 申請 者)の 手 も とに は,種 々 な資 料 が集 ま つ て い た(伊 能 忠敬 事 蹟 集纂,明 治19年 写 本, 東 大 史 料 編 纂 所 蔵)。 また 明 治24年 に は幸 田 露伴 の 「伊 能 忠敬 翁」 が博 文 館 少 年 文 学 第7編 とし て 出 て い る し,明 治32年 に は同 じ作 者 に よ る 「伊 能 忠 敬 」 が博 文 館少 年 読 本 と して 刊 行 され て い る。
第II期 (大 正 か ら戦 前 ま で) (6) 長 岡 半 太 郎 述(1914): 伊 能 忠 敬 の事 蹟 に つ い て,地 学 雑 誌,26年,308号,309号(大 正3年8月 587∼596,9月. 678∼690) 大 正3年6月,東 京 地 学 協 会 総 会 で の 講演 の 筆 記 で あ る。 地 学 協 会 が この 講 演 会 を開 催 した 背 後 に は, 前 述 の よ うな偉 人 崇 拝 の 気 風 が あ っ た の か も しれ な い 。 け れ ど も この 講 演 は,従 来 の型 に は ま っ た 伊 能 忠 敬 観 に,新 しい 生 命 を与 え た もの とい つ て よい 。 す な わ ち,さ す が に 当 時 の 一 流 の 科学 者 の 見解 だ け に, 忠 敬 の 人 物 や そ の 業 績 に つ い て,必 要 以 上 に 美化 す るこ とな く,淡 々 と述 べ て い て,こ れ が大 谷 亮 吉編 著 「伊 能忠 敬 」 を 生 ん だ基 本 的 能 度 で あ る こ とが うか が え る 。そ れ に これ は 前 に 掲 げ た 佐 野 常 民 の講 演 とは, ま た ち が っ た客 観 的,科 学 的 見 解 の 発 展 を促 が す 上 に 大 き な 影 響 力 が あ つ た もの と考 え られ る。 そ れ に 話 の は じめ に 「私 が 本 日お話 す るこ と も,大 部 分 は大 谷君 が 調 べ て お られ る こ とが らを,代 読 す る よ うな 体 裁 に な つ て い るの で あ ります 。」 と述 べ て い るけ れ ど も,長 岡 博 士 が 早 くか ら伊 能 忠 敬 の業 績 に対 して深 い 関心 を もつ て い た こ とは,い ろ い ろ な こ とか ら うか が え る 。 た とえ ば明 治23年 に,す で に忠 敬 の 測 量時 代 に お け る磁 石 の偏 角 につ い て論 じてい る し6),明 治42年 の東 京 帝 国 大学 の卒 業 式 に 際 して は,忠 敬 の遺 品 を天 覧 に供 し,か っ 自 らこ れ らの 説 明 に 当 た つ て お られ るの で あ る。 な お地 学 協 会 で の講 演 の題 目は伊 能 忠 敬 の事 蹟 とい うこ とに なつ て い る が,話 の な か で は忠 敬 の幼 少 時 の こ とか ら,地 図製 作 に至 るま で の い き さつ の重 要 な 点 は ほ とん ど語 り尽 され て い て,大 谷著 の ダ イ ジ ェ ス ト版 と もみ られ る く らい で あ る。 大 谷 編 著 の 内容 と著 し くち が う点 は,地 図 それ 自身 の科 学 的 分 析 が不 十 分 な こ とで あ るが,お そ ら く こ の とき に は,大 谷 氏 の調 査 もそ こ ま で は進 ん で い な か っ た も の で あ ろ う。 しか し忠 敬 の仕 事 に 対 して は す ぐれ た 見解 が述 べ られ て い て,こ れ は講 演 の しめ く く り とな つ て い る次 の言 葉 で 要 約 され よ う。 「そ こ で私 が諸 君 に御 注 意 を 申 し上 げ た い の は,伊 能 翁 の事 蹟 を考 え るに は,必 らず 高 橋 作 左 衛 門至 時 と関 連 して考 え な け れ ば な らぬ 。 こ の人 な か りせ ば,到 底 こ の 測 量 は で き な か っ た の で あ りま す 。 主脳 は 高 橋 作左 衛 門 で あ る。 ま た器 械 を こ し らえ るに つ い て は,間 五 郎 兵衛 重 富 の功 も没 せ られ な い わ け で あ り ま す 。忠 敬 翁 の高 橋 作左 衛 門 を尊 敬 せ られ るこ とは 実 に非 常 な もの で あ つ て,つ い に遺 言 して,自 分 が死 ん だ な らば,遺 骸 は高 橋 先 生 の側 に葬 れ とい つ て い た 。 そ の遺 言 に した がつ て,高 橋 作 左 衛 門 の 隣 に葬 つ て あ るよ うな わ け で あ ります 。 高 橋 作 左 衛 門 が こ の大 事 業 を成 功 せ しめた は じめ の動 機 は,実 に こ の時 代 に お い て は感 服 す べ き も の で あ つ て,あ る い は麻 田 剛立 の薫 陶 を うけ た た め で あつ たか も しれ ま せ ん 。 と に か く麻 田剛 立,高 橋 至 時,間 五 郎 兵 衛 な ど の,本 邦 にお け る観 測 術 の功 は没 す べ かず る も の で あ つ て, 実 際 に そ の観 測 を した の は伊 能 翁 で あ る。 故 に こ の三 人 の あ る こ とを御 記 憶 願 い た い の で あ りま す 。 ま た そ の こ とを伝 え る の が,伊 能 翁 に対 す る最 も た い せっ な こ とが らで あ ろ う と思 うの で あ りま す。」 (7) 大 谷 亮 吉 編 著(1917):伊 能 忠敬,岩 波書 店 発行,大 正6年,B5版,766ペ ー ジ 。 明治41年(1908)6月 の帝 国学 士 院総 会 で,長 岡 半太 郎 博 士 か ら,伊能 忠 敬 に 関す る 資料 を 集 め,そ の 事 蹟 を 明 らか に して,こ れ を後 世 へ 伝 え よ う との提 案 が な され,こ れ が承 認 され た 。 こ れ に基 づ い て 大谷 亮 吉 理 学 士(の ち の京 都 帝 大 教 授)が そ の調 査 を委 嘱 され,10年 の歳 月 に わ た る非 常 な努 力 に よつ て完 成 さ れ た書 物 で あ る 。 長 岡博 士 が ど うい う動 機 か らこ の提 案 を され た の か は よ くわ か らな い が,そ の 結果 は 美 事 な も の で,「 明治 以 後 に成 っ た幾 多 の伝 記 中 で も 最 も優 秀 な もの の一 つ に お り,忠 敬 の事 績 は,ほ とん どこ の書 に尽 され てい る感 が あ る 。7)」した がつ て こ の の ち に刊 行 され た忠 敬 に 関 す る書 物 や 記 述 も,す べ 5) 大 谷 亮 吉(1909): 伊 能 忠 敬 の 実 測 図 に 就 き て,歴 史 地 理,13巻4号,355∼366,明 治42年4月, 由 比 質(1910): 伊 能 忠 敬 の 天 草 測 量,歴 史 地 理,15巻1号,61∼74, 明 治43年1月, な お 伊 能 忠 敬 の 測 量 法 を 最 も早 く解 説 し た も の は,大 川 通 久(1889):目 本 古 今 測 地 一 班,地 学 雑 誌, 第 集,第4巻,144∼147,明 治22年4月,で あ ろ う。 6) 長 岡 半 太 郎(1890): 羅 鍼 の 偏 差 に 付 き,地 学 雑 誌,2集,22巻,489∼495,明 治23年10月, 7) 森 銑 三(1943): 学 芸 史 上 の 人 々,(伊 能 忠 敬 の 部),二 見 書 房 発 行,昭 和18年,第93ペ ー ジ
伊 能 忠 敬 の伝 記 類 と業 績 の評 価 明 治!00年 に ち な ん で 7 て こ の書 に基 づ い て,そ の原 拠 にお い て,こ れ 以 上 に出 て い る もの は稀 で あ り,あ つ て も部 分 的 な こ とにす ぎ な ない 。 第1篇 忠 敬 の閲 歴(1∼238),第2篇 忠 敬 の 測 地 事 蹟 ( 239∼ 646),第3篇,忠 敬 の師 友 及 門 第(647∼766)の3篇 か らな るが, 著 者 が科 学 者 で あ る だ け に,第2篇 に最 も多 くのペ ー ジ が費 され て い て,そ の 内容 も,文 字 通 り先 人 未 踏 のす ぐれ た も の で あ る 。 した が つ て本 書 の最 大 の特 色 は,第2篇 に あ る とい つ て よ く,こ の点 で前 記 の長 岡博 士 の講 演 当時 よ りも は るか に科 学 的 分 析 が進 ん だ こ とを 示 す 。す なわ ち こ こ で は,当 時 の学 界 に お け る暦 学,数 学,測 地 学 の発 達 程 度 か らは じめ て,忠 敬 の測 量 法,測 量 材 料,測 量 の精 度, 測 量 に使 役 した人 数 や 費 用,作 製 した地 図 や 著 書 な どに つ い て,く わ し く調 査 した結 果 が述 べ られ て い る。 そ して この の ち に 刊 行 され た忠 敬 に 関す る書 物や 記 述 も,ほ とん どの もの が この 書 に 基 づ い て お り,か つ,こ れ 以 上 に 出 て い な い 。 こ の こ とか ら も この 著 書 を完 成 され た大 谷 氏 の熱 意 の ほ どが うか が え るが,一 方 で は 大 谷 氏 が ど の よ うに して こん な くわ しい 調 査 を され,こ の よ うな す ぐれ た 著 書 に ま とめ られ た の か 経 緯 を明 ら か にす る こ と も,い ま とな つ て は, ま た 意 味 の あ る仕 事 と して 浮 ぴ あ がつ て く るほ どで あ る 。 しか し この 書 は 専 門 的研 究 で あ り,か つ そ の量 も大 きい も の で あ る か ら,一 般 の人 々 には 普 及 しな か っ た の はや む を 得 な い と して も,著 者 が 最 も 苦 心 され た 客観 的,科 学 的 分 析 の結 果 す ら,そ の の ち の伝 記 類 の著 述 者 に は 十 分 に理 解 され なか っ た 傾 きす ら あ る。 す な わ ち そ の後 の 多 くの伝 記 や 記 述 は,お も に 本 書 の第1篇 の 内容 に よつ て い て,第2篇 以 下 か らは,一 般 む き の こ とが 部 分 的 に 選 ばれ て い る にす ぎ な い 。 しか し実 をい え ば,本 書 に も重 大 な弱 点 が あ る 。 そ れ は この 調 査 当 時 の 状 況 を 考慮 に入 れ て も,な お か つ 伊 能 図 が 日本 の社 会 に寄 与 した 役 割,す な わ ち社 会 的 価 値 の考 察 が ま だ 不 十 分 と思 わ れ るこ とで あ る。 ロシ ア の探 検家 で あ り,水 路 学 の権 威 で あつ た クル ー ゼ ン ステ ル ンの 推 奨 の 言 葉,1840年 に シ ー ボル トが 刊 行 した 「同本 図 」が,ヨ ー ロ ッパ 人 を驚 かせ た 話,幕 末 に来 航 した イ ギ リス の 測 量 船 の人 々 が,与 え ら れ た小 図(模 写)の 精 確 な こ とに驚 嘆 した 話 な どは書 い て あ る.し か し伊 能 図 が わ が 国 の 社 会 や 文化 の進 展 に どん な に貢 献 した か に は,ほ とん ど触 れ て い ない 。 実 の とこ ろ,日 本 で 伊 能 図 が 日の 目 を見 る よ うに な つ た の は 明 治 に な つ て か らで あ り,こ れ か ら伊 能 図 が正 確 で,か つ 精 密 を き わ めた も ので あ る こ とが実 証 され,こ れ を通 じて 忠 敬 の 業 績 が 高 く評 価 され る よ うに なつ た も の で あ る。 そ れ は そ れ と して も,本 書 が 特 筆 に価 す る著 作 で あ る こ とに は変 りは ない が,残 念 な こ と には 大 正12 年 (1923)の 関 東 大 震 災 に よっ て 絶 版 とな っ て しま つ た 。 関東 大 震 災 は一 方 で は,東 京 帝 国 大 学 付 属 図 書 館 に保 管 され て い た 伊 能 図 全 部 を灰 に して しま つ た 。 ま こ とに大 き な痛 手 を うけ た の で あつ て,こ の こ とは そ の の ち の伊 能 忠 敬 の業 績 に関 す る研 究 に対 して も,大 変 な 支 障 とな つ て い る の で あ る。 つ いで な が ら伊 能 図 の0っ の特 色 を述 べ る と,こ れ はす べ て 肉筆 で描 かれ て い た 。 そ して幕 府 に上 呈 さ れ た 正本 は,た だ書 庫 に秘 蔵 され てい た にす ぎ な かっ た 。 これ らの 地 図 は どれ も当 時 の一 流 の腕 き き に よ つ て描 かれ た も の ら し く,芸 術 的 に も価 値 が高 い も ので あつ た と思 わ れ る。 した が つ て 印刷 され て,広 く 民 間 で利 用 され た地 図類 とは,全 く性 格 が ち がっ た も ので あ る。 この 幕 府 秘 蔵 の もの が 明 治政 府 に うけ つ が れ た 。 これ が 明治6年5月 の皇 居 炎 上 に よっ て,た また ま地 誌 編 修 の 参 考 資 料 と して,太 政 官 内 の地 誌 課 に保 管 され て い た伊 能 図全 部 が失 われ て しまつ た 。 そ の の ち伊 能 家 に保 存 され て い た 副 本(こ れ は便 Fig. 2 大 谷 編 著: 伊 能 忠 敬 (1917)の 表 紙,
(Ryokichi OTANI : Tadataka
INO, Tokyo, 1917 , )
保
柳
睦
美
宜 的 な よび 方 で,な に も正 本 の方 が 正 し く,副 の方 が劣 っ て い る とい う意 味 で は ない)が 政 府 に献 納 さ れ,こ れ が東 大 の付 属 図書 館 に保 管 され てい た も ので あ る。 これ が また 関 東 大 震 災 で全 部 が 焼 け て しまつ た の で あ る か ら,全 く語 る言 葉 も な い 。 しか しそれ だか ら とい つ て.伊 能 図 がす べ て世 の 中か ら失 われ て し まっ た わ け で は な い こ とは あ とで述 べ るが,と に か くこの 大 痛 手 に よっ て,伊 能 忠 敬 の努 力 の結 晶 で あ る伊 能 図 の系 統 的 研 究 に支 障 を来 た した ば か りで は な く,残 つ て い る伊 能 図 に対 す る見 方 や 取 り扱 い 方 に 特 殊 な古 地 図 と して の異 常 な状 態 ま で も導 入 され て し まつ た も ので あ る 。(8) Rytikichi OTANI :
TADATAKA 11%5, the Japanese
Land-Surveyor.
Translated
by Kazue
SUGIMURA, with a Preface by Prof. H. Nagaoka and 47 Illustrations. The Yamato Society, Tokyo,
published by S. Iwanami, 1932, 358 pages.
これ は前 掲 の 「伊能 忠 敬 」 の 英 訳 で は な く,大 和 会 の要 請 に も とつ い て,当 時 す で に京 都 帝 大 教 授 で あ っ た 大 谷 氏 が,外 国 人 向 きに 書 き改 め られ た もの の 英 訳 で あ る。 した が つ て 内容 は忠 敬 の測 地 業 績 と地 図 Fig. 3 伊 能 図 (中 図) の 一 部 分 ( Part of a Ino's map of middle-scale). 陸 地 測 量 部 沿 革 史 (1922) か ら。 実 物 は,山 地 は 緑 色,海 は 青 色 で 美 し い が,模 写 図 か ら の 印 刷 で あ る 。 左 隅 の 注 が あ と で 必 要 と な る の で, こ れ を 掲 げ た。
伊 能 忠 敬 の伝 記 類 と業 績 の 評価― 明 治100年 に ち な ん で― 9 作 製 の説 明 に重 点 が お か れ て い る 。 しか し前 の 日本 文 の著 書 よ りも新 しい だ け に,伊 能 図 が 明 治 以 後 の 日 本 の 地 図 と して,し ば ら く役 に立 つ た こ とに も少 し触 れ てい る し,関 東 大 震 災 で そ の地 図 の 多 くが 失 わ れ た こ と も書 い て あ る。 この本 が どれ く らい 印制 され,ど うい う方 面 で読 まれ た も のか わか ら な かっ た 。 しか 最 近,ア メ リカの 科 学 史 雑 誌Isis(1936)8)に こ の本 の紹 介 文 が あ る こ とがわ かっ た の で,次 にそ の主 要 部 を掲 げ る 。本 文 は GeorgeSartonの 筆 に な り,伊 能 忠 敬 の 肖像 画 入 りで 載 つ て い る 。 「この書 の 序言 で 長 岡教 授 は,日 本 の こ とにつ い て外 国 語 で書 か れ た 文 献 はた くさ ん あ る けれ ども,日 本 の 開 国 以 前 に お け る科 学 の発 達 につ い て説 明 した も の が ほ とん どない こ とは,ま こ とに残 念 な こ とで あ る と述 べ て い るが,こ れ に は私 も全 く同感 で あ る。」 「こ うい う本 の 出 版 は 大 い に 歓 迎 す る。 この 本 は そ の 名 が示 す よ うに,同 本 の最 も偉 大 な,最 も興 味 深 い 科 学 者 の1人 に つ い て 書 か れ て い るだ け で は な く,外 国 に は ほ とん ど知 られ てい な かつ た明 治 以 前 の 日本 の 数 学 と天 文 学 との す ば ら しい 発 達 も明 らか に して い る 。 こ れ は,わ れ わ れ の近 代 目本 の発 展 に 関す る理 解 に大 い に 役 立 つ 。 こ の 発 展 を,わ れ わ れ は,は じめ の うち は い か に も奇 蹟 の よ うに考 え てい た が,実 は そ うで は な か っ た ので あ る。 過 去 の 日本 の 科 学 の 発達 を よ く知 れ ば知 る ほ ど,日 本 の1868以 後 にお こっ た 急 速 な革 新,進 歩 に対 して,日 本 人 は前 もつ て十 分 に準 備 を して い た こ とが わ か る の で あ る 。」 「第1章 で は,日 本 の天 文 学,数 学,測 地 学 の 発 達 史 お よび ヨー ロ ッパ 科 学 の伝 来 につ い て簡 単 に述 べ て あ る。 … 第2章 で は,西 洋 天 文 学 を熱 心 に 摂 取 し,こ れ へ の 道 を 開 い た天 文 学 者 た ち,す な わ ち麻 田剛 立,高 橋 至 時 とそ の子,お よび 間 五 郎 兵 衛 重 蜜 に つ い て書 い て あ るが,あ とは伊 能 忠敬 の生 涯 お よび そ の 業 績 の説 明 にす べ て が 費 や され て い る。」 「日本 人 は測 地 に深 い 関 心 を も ち なが ら も,1800ま で は 日本 の 実 測 図 は 作 られ て い な か っ た の で あ る 。 1778に 長 久 保 赤 水 が よい 日本 図 を作 つ て い るが,こ れ は 小 縮 尺 の もの で あ り,実 測 に よ っ た もの で は な い 。 伊 能 忠 敬 は 晩 年 の生 涯 全 部 を 日本 の 測 地 に さ さ げた.し か も これ を驚 くほ どの 技術 と忍 耐 とで完 成 し た の で あ る 。著 者 は伊 能 の 大 変 な 仕 事 を説 明 して か ら,そ の測 地 法,測 地 器 械,誤 差 の修 正 法,地 図製 作 お よび 地 図 の精 度 な どに つ い て 論 じて い る。」
「比 較 のた めに 次 の こ とを 付 言 した い 。U。S.CoastSurveyの 創 設 者 はFernand Rudolph Hassler ( 1770 ∼1843)で あ り,そ の活動開始は1816年 にす ぎない。 この点で 資本は ア メ リカ よ りも一 歩先ん じ ていた わ けで あ る。」 「こ の本 は よ く書 かれ て い るが,索 引 が な い のが 不 便 で あ る。 ま た 日本 や 中 国 の 科学 に に つ い て の本 を 西 洋 で印 刷 す る場 合 には,漢 字 や カナ を入 れ る こ とは,一 般 に 費 用 の 点 か らむ ず か しい 。 しか し この本 は 東 京 で,こ ん な に美 しい 英 宇 で 印 嗣 され た の だ か ら,漢 字 も入 れ れ ば よか っ た もの と思 う。」 「大 谷 教 授 の こ の本 は,日 本 の文 化 に つ い て のわ れ わ れ の 知 識 に,重 要 な プ ラス とな つ た。し か しそ れ で も長 岡 教 授 が述 べ た 遺 憾 な点 は,ま だ 満 され な い.い っ に な つ た ら,目 本 の 明 治 以前 の 科 学 の 全 歴史 が わ れ われ に与 え られ る こ とで あ ろ うか 。」 以 上 の文 か らもわ か る よ うに,こ の本 が 英 文 で 出 版 され た こ とは,決 して む だ で は な か っ た の で あ る。 の み な らず こ の紹 介 文 は,わ れ わ れ に種 々 な示 唆 を与 え て くれ る。 特 に 重 要 な こ とは,と もす れ ば 従 来, 伊 能 忠 敬 につ い て われ わ れ が とつ て きた 近 視 眼 的 な 見 方 に 対 して,警 告 が 与 え られ て い る よ うに さえ感 ず る こ とで あ る 。 さ らに こ の本 は,外 国 の専 門 家 の 問 で は,い ま で も利 用 され る こ とが あ る こ とが 明 らか に な つ た(第12ペ ー ジ参 照)。 や は りこ うい う地 味 な 本 を外 国 語 で 出 版 す る こ とは,費 用 の 点 で む ず か しい 問 題 も あ るが,目 本 文 化 の基 本 的 な こ と を外 国 人 に 正 し く理 解 させ る上 に 重 要 な こ とで あ る。
8) Isis, XXVI, 1, 196∼200,1936,Dec.早 稲 田 大 学 図 書 館 の 御 好 意 に よ つ て,こ の 稀 少 な 原 文 を 読 む こ と が で き た 。 ま た 抄 訳 で は,著 者 の 小 さ い 誤 解 も 訂 正 し て お い た 。
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(9) 伊 達 牛 助(1936): 伊 能 忠 敬,古 今 書 院,昭 和12年,B6版, 172ペ ー ジ 。 大谷 編 著 「伊 能 忠敬 」 が大 正02年 の 関 東 大 震 災 で絶 版 とな り,そ の の ち こ れ に代 る も の が 出 て い な い の で,当 時,佐 原 中 学校 教 諭 で あ つ た 著者 が 忠敬 の 伝記 を 簡潔 に ま とめ た もの で,全 体 が 租 の多 数 の項 目 に 分 れ て い る。著 者 が大 谷 氏 の著 書 か らそ の 事績 を転 載 す る こ との 許可 を,監 修 者 長 岡半 太 郎 博 士 に求 め た とき(当 時,大 谷 氏 はす で に死 亡),r事 実 を事 実 とせ よ,枝 葉 を ま じえ る な」 との注 意 を うけ,こ れ を忠 実 に守 つ て編 修 した も の だ け に,資 料 的 価 値 は あ るが,諸 項 目が ほ とん どメ モ程 度 に と どまつ て い る の は お しい 。 それ に大 谷 著 の第2篇 以 下 か らの摘 出 が少 な く,結 局,精 神 面 を主 と した学 校 教 材 と して編 修 さ れ た も の で あ る との感 が 深 い 。 しか し本 書 で は,伊 能 図 が 明治 に入 つ て か ら陸 海 軍 の地 図作 製 に役 立 つ た こ とに は,多 少 な り とも言 及 して い る こ とは進 歩 で あ る 。 そ の上 に本 書 に は,「 伊 能 忠 敬 翁 全 国測 量 経 過 図 」 と題 し て,全 国 にわ た る 忠 敬 の足 跡 を地 図 に書 き入 れ た も の が付 い て い る 。 測 量 臼記 に よ く当た つ てみ る と,多 少 は修 正 の余 地 も 発見 され る が,忠 敬 の足 跡 が年 代 別 に,は じめ て描 かれ た も の と して価 値 が大 き い地 図 で あ る。 これ を要 す る に第II期 は,長 岡,大 谷 時 代 で あ つ た といつ て よ い.す な わ ち伊 能 忠 敬 が 人 物 と してす ぐ れ て い た こ とは否 定 しない が,そ れ よ りも そ の業 績 を科 学 的 に分 析 して,そ の科 学 的 価 値 を評 価 す る こ と に重 点 がお かれ た時 代 で あ る 。 大 正 か ら昭 和 の は じめ に か け て は,自 由主 義 が は なや か な時 代 で あつ た が,そ れ が こ の よ うな態 度 を生 ん だ社 会 的 背 景 と して役 立 つ て い たか ど うか は.わ ず か に2人 の学 者 の例 だ けか らで は か わ ら ない.し か し大 谷 編 著 「伊 能 忠 敬 」 が す ぐれ た も の で あっ た こ とは,そ の影 響 が良 い につ け悪 い につ け,ず つ と あ と ま で続 い た こ とに は注 意 して よい 。す なわ ち これ 以 後 に刊 行 され た 伝 記 類 は,妙 に片 よつ た も のに な らなFig. 4 伊 能 忠 敬 の 全 国 溺 量 の 足 跡(Ino's routes of the travel of survey.) 伊 達 牛 助 原 図 (1936),保 柳 修 正 略 図.
伊 能 忠 敬 の伝 記 類 と業 績 の 評 価― 明 治000年 に ち な ん で― 11 か っ た こ と,し か しそ の 反 面 で は,こ の著 書 が あ ま り くわ しい の で,こ れ以 上 に 発展 させ る努 力 が,だ れ に も な され な かっ た こ とで あ る 。 第III期(戦 時 中)と 第IV期(戦 後) 伊 能 忠 敬 の 名 は,社 会 に非 常 時 の性 格 が 付 加 され る と,し ば しば 出 て く る傾 向 が あ る。 短 い 年 月 で あ つ た が,戦 時 中 に は,諸 雑 誌 に も伊 能 忠 敬 の 熱 意 と実 行 力 を た た え る 記 述 が載 っ た こ とが あ つ た9)。 もち ろ ん 国 民 の意 気 昂 揚 に役 立 た せ るた めで あっ た が,次 の 書 物 も こ の時 期 に 出 た もの で あ る。 (10) 伊 藤 至 郎(1941): 伊 能 忠 敬,鈴 木 雅 之,伊 藤 書 店 発 行,昭 和16年,B6版,296ペ ー ジ(忠 敬 の 部,182ペ ー ジ)。 (10) 藤 田元 春(1941): 伊能 忠 敬 の測 量 日記(ラ ジオ 新 講59),日 本 放 送 協 会 発 行,昭 和16年,新 書 版, 033ペ ー ジ。 これ は,藤 田元 春(1942): 改 訂 増 補,日 本 地 理 学 史,刀 江 書 院 発 行,昭 和17年,に 「伊 能 忠 敬 の事 蹟 」 (563∼667)と 題 名 を か え て収 録 され て い る。 (12) 伊 藤 弥 太 郎(0943): 伊 能 忠敬(新 伝 記叢 書),新 潮 社 会 発 行,昭 和18年,B6版,288ペ ー ジ 。 これ らの うち(10)は,お も に忠 敬 の蝦 夷 地 測 量 ま で の こ とをや や 文 学 的 に書 いた も ので あ り,(01) は ラジ オ 講 座 の 原 稿 に手 を加 え た もの で あ る が,測 量 日記 を 中 心 と した とい うよ り も,測 量 旅 行 につ い て多 く語 つ て い る もの で あ る。(12)は そ の序 言 で,こ れ ま で の伊 能忠 敬 の伝 記 の 多 くが絶 版 とな り,一 般 の人 々 の 手 に 入 りに く くな つ て い るの で書 い た,と い つ て い るだ け に,お もに大 谷 編 著 「伊 能 忠 敬 」 の なか の 一 般 向 き の 部 分 を種 本 と して 書 い た もの で あ る こ とが わ か る。 上 の よ うに 並 べ て み て も,ど れ に も格 別 に戦 時色 が盛 られ て い る とは思 え な い 。 不 屈 な精 神 面 が た た え られ て は い るが,こ れ は 何 も この と きか らは じま つ た こ とで は な い 。 こ の よ うに 戦 時 中 で も,そ の記 述 が 特 殊 な 面 だ けに 偏 しな い で す ん だ こ と も,お そ ら く多 くの もの の 種本 に な つ た 大 谷編 著 が,科 学 的 に書 か れ てい た こ と に負 うと こ ろが 大 きい も ので あ ろ う。 も う1っ 注 意 して よい こ とは,(12)を 含 めて 当 時 計 画 され て い た 新 伝 記 叢 書(20冊)の 性 格 で あ る。 これ は昭 和15年01月 に発 表 され た も ので あ るが,こ の 年 は 日,独,伊 の 三 国 同 盟 も成 立 し,紀 元2600年 の祝 典 も行 われ て,戦 争 初 期 にお い て意 気 が あ がつ て い た ときで あつ た 。 この と きに 伝 記 に 選 ば れ た 人 物 は 日本 人 と外 国 人 が半 数 ず っ で,ど れ もそ れ ぞ れ の時 代 の難 局 に処 して,学 問,技 術,思 想,宗 教,芸 術 な どの上 で 大 き な功 績 を残 した 人 々 で あ り,現 在 か らみ て も少 し もお か し くない 人 々 で あ る。 す な わ ち 戦. 時 中 とい つ て も,い つ も独 善 的,神 が か り的 な議 論 ば か りが 横 行 して い た わ けで は な く,こ の よ うに 世 界 的 視 野 で物 事 を考 えた 時 期 も あっ た こ とを示 す も の で あ る 。 戦 後 に は しば ら く伊 能 忠 敬 の名 も消 え てい た が,そ の うち に割 合 に 特 色 の あ る もの が 出 た 。 (13) 平 柳 翠(0957): 偉 人 伊 能 忠敬 翁 とそ の 子 孫,千 葉 県 佐 原 興 業 会 社 発 行,昭 和32年,B6版, 191 ぺ ー ジ これ は伝 記 とい うよ りも,忠 敬 並 び に そ の子 孫 の家 系 を調 べ た もの で,い ろい ろな 人 の墓 の写 真 が 出 て く る し,話 の合 間合 間 に,忠 敬 の生 活 や 逸 話 そ の他 を織 りまぜ た郷 土 的 出版 物 で あ る 。 (14) 今 野 武雄(1958): 伊 能 忠敬(日 本 文 化 研 究,1),新 潮 社 発 行,昭 和33年,A5版,51ペ ー ジ 。 著 者 は数 学 の専 門家 で歴 史 家 で は な い し,現 在 は革 新 政 党 に所 属 してい る人 だ か ら,従 来 の も の と は ど ん な に ち がっ た見 解 が述 べ られ てい る こ とか と思 つ たが,お だや か な書 きぶ りで あ る 。 しか し普 通 の伝 記 9) 専 門 雑 誌 に掲 載 され た も の とし て は,当 時 陸 地測 量 部 か ら出 て い た 誌地 図 」(研 究 蒐 録,部 外秘)の 昭 和18年6月 号 に は,陸 測 総 務 課 の 名 で,「 伊 能 忠敬 先 生 を憶 う」,7月 号 に は 「伊 能 忠 敬 先 生 測 量 叢 話 」 が掲 載 され てい る。し か し特 別 に新 しい研 究 とい う もの で は な い。 11
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とは ち がっ た書 き方 で あ る。 す な わ ち忠 敬 が蝦 夷 地 の測 量 を志 した 動 機 の第1は,子 午 線1° の長 さ を 実 測 した い とい う学 術 的 動 機 で あ つ た こ とか ら書 き 出 し,「 忠 敬 が50を 過 ぎて か ら科 学 に熱 中 し,あ れ だ け の 仕 事 をな し とげ た 情 熱 と精 力 が,ど こか らき た の か,そ れ を 明 らか に し,ま た そ れ に よ っ て わ れ わ れ の祖 先 の 科学 的 能 力 が,ど ん な 土 台 の 上 で 発展 した か を 明 らか に した い 」 との 意 図 の も とに調 べ,論 じた もの で あ る。 しか し著 者 自 ら も 「結 局,目 標 の10分 の1に も達 せ ず,か え つ て 疑 問 が 深 くな つ た よ うな 気 が す る」 とい つ て い る よ うに,忠 敬 の 活 動 に つ い て は よ く説 明 が っ か な い こ とが 多 い の で あ る。 当 時 の風 土 や 社 会 環 境 との 関 連 もは っ き りせ ず,結 局,凡 人 に は は か り知 れ な い 忠 敬 の 強 烈 な 個 性 を 考 え な け れ ば な ら な い 場合 が 多 い よ うに思 う。 しか し本書 の結 論 に は特 色 が あ る。す な わ ち 元禄 前 後 か ら文 化,文 政 の こ ろ は 日本 の ル ネ サ ン ス期 で あ り,「 忠 敬 の複 雑 な生 涯 と仕 事,し か もそ の 中 を貫 く一 本気 な情 熱 と精 力,そ れ らの正 当 な評 価 は,こ の 臼本 の ル ネ サ ンス の全 面 的再 評 価 の な か で,は じめ て 確 定 され るの で は な か ろ うか 。」 と結 ん で い る。 (15) そ の ほ か に短 かい も の と して は,山 口康 助(1960): 伊 能 忠 敬(今 目 を築 い た人 び と,8) 文 部 省 初 等 教 育 資 料119号,昭 和35年12月,26∼30,是 沢 恭 三(1961): 伊 能 忠敬 と江 戸 府 内 図(五 島 美 術 館 月 例 講 座,8),五 島 美 術館 発行,昭 和36年,A5版,21ペ ー ジ 。 な どが あ る。前 者 は小 学 教 材 と して伊 能 忠 敬 を取 り上 げ る場 合 の参 考 資 料 と して書 かれ た も で あ り,後 者 は忠 敬 の測 量 の概酪 につ い て の講 演 で あ る10)。しか し最 も異 色 が あ る もの は, Norman Pye and W. G. Beasley (1951): An Undescribed Manuscript Copy of Ino Chukei's Map of Japan。 Geogr. Jbur., 117, 178∼187で あ ろ う。
まず,イ ギ リス の グ リニ チ のNationalMaritimeMuseumに 大 き な3幅(北 部,東 部,南 西 部)の 日本 の 肉筆 の 地 図 が あつ て,こ れ は以 前 にAdmiraltyのHydrographicDepartmentの 文 庫 か ら移 管 され た も の で あ る 。 これ に は署 名 も題 名 も ない が,こ れ は 日本 で作 られ た正 確 な古 地 図 で あ り,同 類 は全 くほか の 国 に は存 在 し ない も ので あ る。 これ が 手 に入 つ た い き さつ を調 べ る と,1864年 に軍 艦Acteon号 と Dove 号 が もた ら した も ので あ る 。 さ らに調 べ る と,こ の 地 図 は,Acteon号 の艦 長Ward大 佐 が1861年 に 目 本 の沿 岸 の測 量 に出 か けた とき に,目 本 の幕 府 と種 々交 渉 の末 に手 に入 れ た も ので あ る。 こ の こ とは当 時 の 日本 側 の記 録 と も よ く一 致 して い て,た しか に伊 能 図(小 図)で あ る,と い うこ とを中 心 と して,伊 能 忠 敬 の生 涯 も紹 介 して い る。 そ して そ の 源 は 大 谷 著 の 伊 能 思 敬(英 文,1932)に よつ て い るか ら正 確 で あ つ て,も つ と以 前 に出 たE.B.Knobelの 文(Ino Chukei and the First Survey of Japan. Geogr. Jour., 62,1913,246∼250)の よ うに,ま ちが い だ らけ の もの で は な い 。 さ らに この 伊 能 図 が どん な に す ぐれ た も ので あ るか を,緯 度,経 度,方 位 な どを 自分 で 計 測 して 証 明 して い る し,そ の 投 影 法 や 記 入 事 項,事 物 の 描 写 の 美 し さ も記 して い る上 に,同 じ もの が 日本 の 内 閣 文 庫 に 保 管 され て い る こ とま で も確 か め,能 登 半 島 と対 馬 付 近 の部 分 の 写 真 も掲 げ て い る。 文 久 元 年 に,イ ギ リス の測 量 船 ア クテ オ ン号 に,や む を得 ず 伊 能 図(小 図 の 写 し)を 与 え,こ れ で 問 題 を起 こ さず に す ん だ との こ とは,ま ず 佐 野 常 民 の 講 演(1882)に 出 て く るこ とか らは じま つ て.こ の 話 は さ ら に当 時 の記 録 か ら裏 づ け され な が ら,長 岡(1914),大 谷(1917)と うけっ が れ,そ れ 以 後 は 孫 引 き, 孫 引 きで 今 日 に及 ん で きた も ので あ る、 しか し この 話 が 真 実 で あ る こ とは,こ の 論 文 に よつ て は じ めて イ ギ リ ス側 か ら も証 明 され た し,そ の地 図 の 所 在 も判 明 して,日 本 に とつ て も うれ しい 論 文 で あ る。 10) な お 伝 記 と は い え な い が,伊 能 忠 敬 に 関 す る 研 究 成 果 が,戦 後 も 時 た ま 発 表 さ れ る こ と は 心 強 い 。 こ の 中 で 伊 能 図 関 係 の も の を 除 く と,最 も 特 色 が あ る も の は,増 村 宏(1952):伊 能 忠 敬 の 屋 久 島 種 子 ケ 島 測 量,文 科 報 告,第1号(鹿 児 島 大 学 文 理 学 部 研 究 紀 要),1∼36,昭 和27年4月,増 村 宏(1953) :伊 能 忠 敬 測 量 当 時 の 種 子 島 の 情 況,文 科 報 告,第2号,28∼81,昭 和28年3月,で あ ろ う 。 前 者 は 種 子 島 で 新 た に 発 見 さ れ た 忠 敬 の 測 量 の 史 料 に よ り,後 者 は こ れ ら と,種 子 島 家 所 蔵 の 「種 子 島 家 譜 」 (戦 災 と昭 和27年4月 の 火 災 で 焼 失)と に よ っ て 書 か れ た も の で あ る 。 12
伊 能 忠 敬 の伝 記 類 と業 績 の 評価― 明 治100年 に ちな ん で― 13
後 編
伊 能 忠 敬 の 偉 大 さ に つ い て
これまでの見解の不備
以 上 に 紹 介 した よ うな,戦 前 に は 何種 類 も印刷 され た伊 能 忠 敬 の伝 記 類 も,い ま で は どれ も絶 版 あ る い は これ に 近 い 状 態 に なつ て い て,容 易 に 手 に 入 らな い 。 だ か ら読 む よ り も,さ が す方 に 多 くの 労力 が か か る。 しか し,も し も これ らが 手 近 か に 揃 つ て い て,次 々 と読 む こ とが で き た な らば,人 々 は どん な 印象 を う け る こ とで あ ろ うか。 時 代 に よつ て そ の 見 方 の 重 点 が 少 しず っ 変 わ つ て い る とは い え,そ の 大 部 分 の も の に は,同 じ こ とが く りか え し,く りか え し述 べ られ て い て,正 直 な と ころ,お そ ら くだ れ もあ きあ き し て し ま うこ とで あ ろ う。 とい つ て 戦 後 の 伝 記 類 に お い て も,特 に 画 期 的 な 新 しい 見 解 が 展 開 され て い る わ けで もな く,よ うや くこれ が 出 か か つ て い る程 度 に す ぎな い 。 そ うす る とこれ ま で に公 に され た 伊 能 忠 敬 の伝 記 や 業 績 の あ らま し を知 るた め には,次 の2種 類 を読 め ば十 分 で あ ろ う。 そ の1は 佐 野 常 民 の講 演(1882)で あ り,そ の2は 長 岡 博 士 の講 演(1904)で あ る。 前 者 は人 物 を主 体 と した見 方 の代 表 で あ り,後 者 で は,そ の業 績 に重 点 をお い て 忠 敬 を見 よ うとす る試 み が な され てい る も ので あ る 。 さ らに忠 敬 の業 績 に つ い て,も つ と こま か に知 ろ うとす る と きは,大 谷 編 著 「伊 能 忠 敬 」 に よつ て 調 べ れ ば よい こ とにな る。 どれ も それ ぞ れ の時 代 を代 表 す るす ぐれ た 記 述 で あ る 。 修 身 的見 解 に対 す る疑 問 上 に あ げ た どの記 述 や 本 を読 ん で も,伊 能 忠 敬 はす ぐれ た 人 物 で あっ た との 印 象 を うけ る 。 しか し,い つ た い忠 敬 の偉 大 な 点 は どこ に あっ た のか と改 め て考 え直 す と,ど うも よ くわ か らな くなつ て くる 。 これ に つ い て は従 来 の見 方 を最 も簡 潔 に要 約 した も の が過 去 の修 身 教 材 で あつ た か ら,ま ず これ を思 い起 してみ る こ と とす る(第5ペ ー ジ参 照)。 現 在,相 当 な年 輩 の人 は だ れ で も,過 去 の修 身教 育 を通 ーじて,伊 能 忠 敬 は え らい人 で あっ た と教 え こ ま れ て きた 。 こ とに 私 の よ うに,小 学 校時 代 を,贈 正 四位 伊 能 忠 敬 先 生 測 地 遺 功 表 の前 の広 場 を お も な遊 び 場 と して過 した 者 に とっ て は,修 身 で教 え られ た こ との 印象 が深 い 。 しか しい ま改 め て思 い返 す とい くつ か の点 で 疑 問 が わ い て く る。 まず 「勤 勉 」 の 課 で は,伊 能 家 に 養 子 に な つ て か ら,倹 素 を 旨 と して家 業 に は げ み,家 産 を恢 復 した上 に,天 明 年 間 に関 東 を襲 っ た2回 の 磯飢 に 窮 民 を救 っ た,と あ る。 しか し忠 敬 が どれ だ け の 財 産 を作 つ た の か を調 べ る と,50歳 で 家 督 をそ の 長 男 の 景 敬 にゆ ず つ た と きの 財 産 は3万 両 相 当 で,い ま の 金 に 換算 す る と4億 円以 上 にな る。 当 時 の 佐 原 は,い か に す ぐれ た 利根 川 水 運 の 港 町 で あ つ た とい え,醸 造 業 と国 内 商 業 だ けで,こ れ だ けの 財 産 を作 つ た 商 才 に は 驚 くほ か は な い 。 単 に 倹約 や 勤 勉 で 片 づ く よ うな 問 題 で は ない 。 天 明 の凶 作 に際 して は 救 民 行 為 を 行 う一 方,関 西 か ら買 い れ た 安 い 米 を江 戸 へ 送 つ て 巨 利 を得 た こ とは,す で に長 岡,大 谷 両 氏 が 述 べ て い る と こ ろで あ る し,こ の ほか に もま だ い ろい ろ あ る。 この す ば ら しい 機 敏 さ と商 才 の発 揮 した 時 代 の伊 能 忠 敬 は,後 年 の か れ とは 別 人 の よ うに 感 ず る。 修 身 で は こ うい う す ぐれ た商 才 を ほ め ない で,た だ勤 勉 と家 を守 っ た こ と をた た えて い る のは,い か に 旧民 法 の 時 代 で も片 手 落 ち で あ る 。 さ らに50歳 で 江 戸 へ 出 て か ら,20歳 も年 下 の高 橋 至 時 を先 生 として 学 ん だ こ と もえ らい よ うに考 え ら れ て い た が,自 然 科 学 の研 究 で は,先 生 の方 が年 下 とい うこ とは少 しも めず らしい こ とで は な かっ た.た とえ ば 長崎 で,若 い シ ー ボ ル トにつ い て,当 時 の 日本 の ど う い う人 々 が熱 心 に 学 ん だか を 調 べ て も わ か る。 ま た 「迷 信 を避 け よ」 で は,測 量 旅 行 に 出発 の とき,蔵 の大 き な酒 樽 が 破 裂 した ので,家 人 は色 を失 な い,不 吉 の 前 徴 と して 出 発 を とめ た が,忠 敬 は こ れ を一 笑 に して 出 か けた,と あ る が,こ れ は佐 野 常 民 の 講 演 に あ る 口碑 をそ の ま ま とつ た もの にす ぎ な い 。 忠 敬 は測 量 に は いつ も深 川,黒 江 町 の隠 宅 か ら出 発 し て い た の で あ るか ら,酒 樽 な どは あ るはず が な い 。 最 後 に 「師 を敬 へ 」 で は,自 分 の死 後 は遺 骸 を東 岡 先 13保
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生 のそ ば に 埋 め よ と遺 言 した こ と を忠 敬 の美 談 とし てい る が,こ れ は あ ま りに教 育 者 の儒 教 的 の ご都 合 主 義 にす ぎな い か 。 これ は 弟 子 の 心 を,そ れ ま で に と らえ た 高 橋 至 時 の学 者 と して の え ら さ を示 す も ので, む し ろ これ は,私 自身 を含 めて,現 代 の 一 部 の 不 勉 強 な 大 学 教 師 に対 す る痛 烈 な 修 身 で あ る。 もち ろ ん 過 去 の 修 身 教 育 で も,上 にあ げ た よ うな こ とだ け を え らい と して い た わ けで は な い 。 一 番 の 眼 目は,50歳 か ら勉 強 をは じめ,ま た16年 間 以 上 も 日本 を 測 量 しま わ つ て,日 本 の 地 図 を作 つ た とい う こ とで あ る。 こ の え ら さに つ い て は だ れ も異 論 は な い 。 だ か ら上 の よ うな こ とを い う と,何 か あ げ 足 と りを や つ て い る よ うに 思 わ れ るか も しれ な い が,決 して そ うで は な い 。 む しろ 当時 の 社 会や 教育 に 都 合 が よ い よ うに忠 敬 が利 用 され た部 分 が あ っ た こ とを,気 の毒 に感 ず る か らで あ る 。 こ ん な こ とま で もえ らい と し て い た か ら,そ ん な え ら さが通 用 しな い現 代 社 会 に な る と,伊 能忠 敬 に対 す る世 人 の 関 心 が 薄 ら ぎ,あ と で 述 べ る よ うなす ば ら しい業 績 ま で も忘 れ られ か け てい る の で あ ろ う。 佐 原 市 の伊 能 忠 敬 記 念 館 に こ もつ て,一 入 で 静 か に忠 敬 の残 した もの を調 べ て い る と,忠 敬 の学 究 的 な え ら さを身 に しみ て感 じる 。そ れ は私 の よ うな凡 人 に は,た だ驚 異 とい うほ か は な い 。 そ の科 学 的水 準 は別 澗 題 と して,50歳 を 越 しか ら,よ く もこ ん な に ま で数 学,天 文 学,測 地 学 を勉 強 した もの と思 う し,自 分 で書 き残 した記 録 や 著 作 も大 変 な分 量 に の ぼ る 。 しか も56歳 か ら72歳 ま で 目本 中 を測 量 して歩 き(第 4 図),す ぐれ た地 図 を作 っ た伊 能 忠 敬 とい う人 は,い っ た い どん な 人 で あつ た の か想 像 す ら む ず か し くな る 。 だ か ら偉 人 な の だ とい え ば そ れ ま で で あ る が,こ れ は お そ ら く,現 在 の私 の よ うに60歳 を越 した人 間 に して,は じめ て感 じ とれ る超 人 的 努 力 と,そ の背 後 の不 屈 な情 熱 で あつ て,10年 以 前 で あつ た ら,同 じ 私 で も,ま だ気 力 も そ う衰 え て い な かっ た の で,こ うま で は感 じな かっ たで あ ろ う。 だ か ら伊 能 忠 敬 の え ら さが わか る た め に は,当 時 の忠 敬 と同 じ く らい の年 齢 とい うこ とも必 要 で あ る ら し く,し た がつ て子 供 の 修 身(あ るい は道 徳 教 育)教 材 と して,決 して適 当 な人 とはい え ない 。 け れ ども長 い 日本 の社 会 の歴 史 を通 じて は,仕 事 に対 して忠 敬 に劣 らな い惰 熱 を もつ て超 人 的 努 力 を し た人 は,他 に も幾 人 も い た こ とで あ ろ う。 どん な に努 力 を して も,も しそ の成 果 がす ぐれ た も ので なか つ た ら,伊 能 忠 敬 の 名 は 日本 の歴 史 に は残 らず に,せ いぜ い郷 土 史 に名 を と どめ る程 度 に終 つ た こ とで あ ろ う。 こ う考 え る と,忠 敬 の偉 大 さの 一 番 の 中心 を,ど こへ しぼっ た ら よ い か が次 第 に 明 らか に なつ て く る。す な わ ち そ の作 製 した地 図 の価 値 で あ る 。 といつ て これ を 「正 確 な 日本 地 図」 とい うよ うな観 念 的, お 題 目的 表 現 で す ませ て い た の で は,忠 敬 の偉 大 さが少 し も具 体 的 に浮 び 上 らな い の で あ る 。 伊 能 図 の 科 学 的 分 析 忠 敬 の 仕 事 の 科 学 的 分 析 を 重 視 す べ き こ とに つ い て は,す で に 長 岡 博 士 は大 谷 編 著 「伊 能 忠 敬 」 の 序 言 で 次 の よ うに 述 べ て い る。「聖 恩 枯 骨 に 及 び て贈 位 の 栄 を 荷 い,銅 標 は 永 久 に そ の 遺 功 を表 彰 す べ く,教 科 書 に 載 せ られ た る略 伝 は,児 童 を して感 奮 興起 せ しむ るに足 る。 しか れ ども 翁 の 如 き科 学 者 を伝 うる には,そ の 事 業 の 科 学 的 解 析 を施 して,は じめ て そ の真 価 を 発 し得 べ し。 わ ず か に 口 碑 に存 せ る伝 説 と一 片 の 地 図 と を もつ て,翁 の 如 き偉 大 な 人 物 を伝 え ん と欲 す るは,そ の 道 を得 た る もの い うべ か らず 。 十 余 年 間,櫛 風 沐 雨,測 量 に 従 事 した る経 歴 は,尊 か ら ざ るに あ らず 。 しか れ ど もた だ そ の 経 歴 を説 きて,測 図 の 精 粗,器 械 の 良 否 等 に 論 及 せ ざ るは,伝 記 と して 十 分 な もの に あ らず 。 … 翁 が 先 輩 の懲 懸 に従 い,そ の 指 導 を仰 ぎ,百 方 援 助 を得 た る こ とは,翁 の 告 白 す る とこ ろ な り。翁 は表 面 に立 ちて 事 業 を担 当 した れ ど も,そ の 裏 面 に は 巧 妙 な る参劃 者 の あ り し こ とを忘 るべ か らず 。」 こ うい う科 学 的 で 広 い 見 地 か ら伊 能忠 敬 の仕 事 が 調 べ られ,書 物 となつ た も の が大 谷 編 著 「伊 能 忠 敬 」 に な るわ け で あ る。 ま こ とに これ に は,微 に入 り細 に わ たつ た科 学 的 分 析 が施 され てい る 。 そ して さす が に 科 学 者 だ け に,そ の 成 果 の 長 所 も認 め る一方 で は,短 所 に 関 して も容 赦 が な い 。 た とえ ば忠 敬 が測 定 し た 緯 度10の 長 さ=28里2分=110.85kmは,ベ ッセ ル の平 均 度 法(110.98km)に 比 べ て1/1,000の誤 差 に す ぎず,そ の用 い た 器 械 や 観 測 法 を考 え る と,驚 くほ ど美 ご とな成 果 で あ る とた た え る一 方 で は,経 度 の 測 定 が 失 敗 に 終 つ て い る こ と,小 区画 図 を集 合 させ て広 い範 囲 の 寄 図 を作 つ た とき の室 内作 業 に欠 点 が あ 14伊 能 忠 敬 の伝 記 類 と業 績 の評 価― 明治100年 に ち な ん で― 15 つ て,た め に 地 図 の精 度 を 悪 く して い るこ と,こ の寄 図 か ら地 方 図 を作 る に 際 して は サ ン ソン ・フ ラ ム ス チ ー ド図 法 を採 用 して い るが11),図 幅 の 辺 縁 部 で の 歪 み を ご ま か して い る こ と,地 球 を球 と して取 り扱 つ た こ と か らの誤 差 な どが 指 摘 され て い る。 とこ ろ で これ らの欠 点 を割 引 い て考 え て も,結 論 にお い て は,伊 能 図 は や は り科 学 的 に す ぐれ た もの で あ っ た と評 価 して よ い も の と私 は思 う。 これ を端 的 に図 示 した も のが 第5図 で あ る。 これ は 欠 点 が 多 い と され て い る小 図 と現 在 の地 図 と重 ね 合 わ せ た も ので あ る。 た しか に位 置 のず れ が 目 だっ 部 分 もあ るが,全 体 と して そ の海 岸 線 の一 致 は か な り美 事 で あ る 。 そ れ で も こ こ は,で きが そ うよい 部 分 で は ない 。 な お っ い で な が らこ こ で子 供 に説 くよ うな こ とまで 付 言 させ て も ら う と,伊 能 図 の長 所 は海 岸 線 と測 量 沿 道 の 各 地 点 の位 置 の正 確 さに あ る の で あつ て,地 形 に は,沿 道 や 海 岸 か ら眺 めや す い よ うに と の考 慮 は払 われ て い るが,平 面 図 と して の地 形 の表 現 法 に は,は じめ か ら格 別 な考 案 が な され て い な かっ た の で あ る。 とこ 11) サ ン ソ ン ・ フ ラ ム ス チ ー ド図 法 は,ヨ ー ロ ッパ で は す で に17世 紀 に 考 案 さ れ,18世 紀 に は 実 用 化 さ れ て い た も の で あ る が,伊 能 忠 敬 の 総 合 図 は,京 都 西 三 条 台 改 暦 所 跡 を 通 る 子 午 線 を0。 と し て, サ ン ソ ン ・ フ ラ ム ス チ ー ド図 法 で 描 か れ て い る 。 し か し こ の 図 法 が,当 時 わ が 国 に 紹 介 さ れ て い た と の 証 拠 が ど う し て も 見 当 ら な い 。 だ か ら こ れ は 忠 敬 自身 が 考 案 し た も の と 思 い こ の 程 度 の 簡 単 な 正 積 図 法 な ら,忠 敬 に は 十 分 に 考 え られ る こ こ に も忠 敬 の え ら さ が あ る と解 釈 し て い た 。 こ の 考 え 方 は い ま で も 変 ら な い が,よ く調 べ て み る と,不 思 議 に も忠 敬 は こ の 図 法 を 十 分 に 使 い こ な し て い な い 。 む し ろ 高 橋 至 時 か ら,中 図 や 小 図 を こ の 図 法 で 描 く こ と の 欠 点 を 指 摘 さ れ て い る く ら い で あ っ て, こ の 点 で も さ す が に 至 時 は す ぐ れ た 学 者 で あ っ た 。
Fig. 5 伊 能 図(小 図)の1部 分 と 現 在 の 地 図 と の 海 岸 線 の 比 較 ( Coastline of a Ino's map of small-scale and of a modern map.)陸 地 測 量 部 総 務 課 原 図,1943.伊 能 図 で 天 文 観 測 が 行 わ れ て い る 銚 子 と御 前 崎 の 位 置 を,現 在 の 地 図 に 合 わ せ た も の 。 太 線 は 現 在 の 地 図 の 海 岸 線 や 河 川(投 影 法 が 少 し ち が う の で,厳 密 な 比 較 と は い え な い)。