縄
文
時
代の再葬
設
楽 博 己
はじめに 一 研究史 二 縄 文後・晩期の再葬事例 三 縄文晩期再葬の地域色 四 縄 文後・晩期再葬の特質と変遷 おわりに 縄文時代の再葬 論 文 要旨 い っ た ん 遺 体 を 骨 にしてから再び埋葬する葬法を、複葬と呼ぶ。考古学的な 事 象 からは、死の確認や一次葬など、複葬制全体を明らかにすることは困難 で、最終的な埋葬遺跡で複葬制の存在を確認する場合が多い。そうした墓を再 葬墓、その複葬の過程を再葬と呼んでいる。東日本の初期弥生時代に、大形壼 を 蔵 骨 器 に 用 い た 壼 棺 再 葬 墓 が 発 達 する。その起源の追究は、縄文時代の再葬 にさかのぼって検討する必要がある。 縄 文後・晩期の再葬は、普遍的葬法といえるものはまれであるものの、南東 北 地方から近畿地方にいたる比較的広い地域に広がっていた。再葬法には遺骨 を 集 積した集骨葬や、土器に納めた土器棺再葬、人骨を破壊して四角く組んだ 盤 状 集 骨 葬や、人骨を焼いて埋葬した焼人骨葬などがあり、けっして縄文後・ 晩期の再葬も一様ではない。縄文時代には、生前の血縁関係や年齢に応じたつ ながりを死後も維持するためと思われる合葬がしばしばおこなわれるが、再葬 の ひとつの要因として合葬が考えられる。そうした再葬を伴う合葬のなかに は、祖先や集落の始祖に対する意識の萌芽的な側面が指摘できるものもある。 しかし、同様な形態の再葬でもその内容が同じとはいえず、さらに長い年月の 間、その性格も不変のものではありえないと思われる。地域間の相互交流、再 葬の際の骨の扱い方の変化など再葬法の時代的な変化を整理することにより、 そうした多様性の内実に近づくことが可能だろう。 中部高地の縄文晩期の再葬の特色は、多人数の遺骸を処理する焼人骨葬であ り、それは北陸に広がり、伊勢湾、近畿地方に伝播した。一方、中部高地には 伊 勢 湾 地方の集骨葬が影響を与えた可能性がある。再葬の際の骨の取り扱い方 という点では、縄文後期に顕著であった全身骨再葬と、頭骨重視の傾向が晩期 初 頭∼前葉にも引きつがれる一方、それ以降部分骨再葬や中期にさかのぼる遺 骨 破壊の行為も比較的広範囲に広まるように、晩期前葉を過渡期として遺骨の 取り扱いにも変化がみられるようになる。 晩 期中葉の近畿地方では部分骨再葬と結びついた土器棺再葬をおこなってい た。土器棺再葬を部分骨再葬とみなせば、焼人骨はその残余骨の処理であった と考えられ、遺骨破壊の必要性が高まった反面、遺骨保存の措置が採られた二 重 構 造 を 想定することができる。多様な再葬の形態と相互の影響関係が認めら れる近畿地方から中部高地の内陸地帯で、晩期中葉には集骨葬が衰退するな か、類例は少ないが土器棺再葬と焼人骨葬が晩期終末まで継続するのは、弥生 時代の壼棺再葬墓の成立を考えるうえで重要な現象である。国立歴史民俗博物館研究報告 第49集 (1993) は
じめに
一九三九年、田中国男は茨城県女方遺跡の発掘をおこない、 一九四一 年までに合計四一基の土坑と、二〇〇個体をこえる土器を検出した。田 中が女方の遺跡で発掘したこれらの土坑は、直径がニメートルに満たな い 小さなもので、その中に通常数個体の壼形土器を肩を接して納めたも の であった。遺跡からはその他の遺構はほとんど見つからず、住居跡で もなく、貯蔵穴とも考えられないこの遺構に対して田中が下した判断は、 筑 波 山をのぞむ祭祀跡というものであった。西日本の弥生文化に特有な 青 銅 器 の 埋納祭祀との共通性を考え、古墳時代の土器を用いた祭祀をそ の 延 長 上 に 位置づけたのである︹田中一九四四︺。杉原荘介の新潟県六野 瀬 遺跡の発掘とならんで、このタイプの遺跡の計画的な発掘調査はこれ が 初 め て であった。その後、こうした遺構の性格については、さまざま な議論があったが、一九六三年から六四年にわたる、千葉県天神前遺跡 の 発 掘 調査で、頸の細い壼形土器の中から成人の骨が検出されるに至り、 女 方 遺 跡 以 来問題になっていた土坑が、遺体を骨にしてから壼に入れて 再 び 埋 葬した、いわゆる再葬墓であることがつきとめられた︹杉原ほか 一 九 七四︺。女 方 遺 跡 の 発 掘 から約半世紀、天神前遺跡から四半世紀あまりが過ぎ、 壷 形 土 器を主要な蔵骨器とするこの壼棺再葬墓︹石川一九八一︺遺跡の 数も一〇〇を超すようになった。この間に、壼棺再葬墓は縄文晩期終末 から弥生中期中葉のおよそ二世紀にわたって、愛知県から宮城、山形県 に い たる地域で盛行することが確められ、どういう葬儀の過程を経てこ れら再葬墓が形成されたか、という葬送のプロセスなどが追究された。 こうした研究の進展には、壼棺再葬墓が分布する地域の初期弥生時代遺 跡の調査はなぜか集落跡に恵まれず、再葬墓ばかりが例を増していくと いう状況が作用していることも否めない。この地域の弥生時代の始まり の 研 究は、すなわち壼棺再葬墓の研究であった。 したがって、壼棺再葬墓がどのようにして出現したか、という起源の 問題は、東日本の弥生時代の開始を考えるうえで、欠かすことのできな い 研 究 の ひとつに位置づけられた。これには二つの研究の流れがある。 ひとつは縄文文化の側から、この葬墓制にみられる伝統的な要素を探る 研究であり、ひとつは弥生文化の側から、新たな要素を見いだす研究で ある。これはどちらも重要であり、こうした両者からの接近により壼棺 再葬墓成立の起源の問題にせまることができるだろう。本稿では、前者 の 立 場 から壼棺再葬墓成立以前の縄文時代にさかのぼって、再葬のあり か た を 探り、壼棺再葬墓成立のバックグラウンドを固めておきたい。し た が って、縄文時代とはいっても壷棺再葬墓成立にかかわる東北地方か ら近畿地方の縄文後・晩期を中心とし、晩期終末の壼棺再葬墓成立以前 の 再葬を扱うことにする。
縄文時代の再葬
一
研究史
O
個 別 の 研 究と包括的研究 縄 文 時代に再葬の習俗があったことは、比較的古くから学界に知られ て いた。一九一八年に笠井新也が青森県天狗岱遺跡の︹笠井一九一八︺、 一 九 三 四年には喜田貞吉が青森県山野峠︵久栗坂︶遺跡の再葬墓︹喜田 一 九 三四︺を報告した。これらはともに縄文時代後期の再葬土器棺墓で あった。一九二五年には清野謙次が愛知県の貝塚から発掘した、人骨を 四角く集積した例を報告し、これを﹁人骨の盤状集積﹂と名づけた︹清 野 一 九 二五︺。研究の初期においては、このように形質人類学にたずさ わる者や、歴史学者により縄文時代の再葬風習が注目されたのである。 こうした傾向は、人種・民族論による遺物や習俗の意味づけという戦前 に支配的だった考古学研究の趨勢を背景とするものであった。したがっ て、人種・民族論争や人骨採集ブームの衰退とともに、縄文時代の再葬 に 対 する関心も失われていった。 こうした戦前の事例が再び注目されるのは、戦後だいぶたってからで ある。青森県の再葬土器棺墓の研究は、江坂輝彌による形質人類学者を まじえた山王峠遺跡の調査︹江坂一九六七︺によって再開され、﹁改葬甕 棺墓﹂と名づけて類例を集めた論文も出された︹江坂一九六八︺。この研 究を受け継いだ葛西励は、一九七二年頃から矢継ぎぽやに﹁改葬甕棺墓﹂ 遺跡の発掘調査成果を報告し、一九八三年には青森県下の三六遺跡を集 成して、土器棺墓・石棺墓・土坑墓からなる再葬墓とその葬制を、実証 的に復元した︹葛西一九八三︺。また、青森県の﹁改葬甕棺墓﹂からは、 遺 存 状 態 が良好な人骨が出土する例が多く、森本岩太郎はこれらに形質 人 類 学的、民族学的検討をくわえた︹森本一九八八︺。 ﹁人骨の盤状集積﹂については久永春男・斎藤嘉彦らの注目するとこ ろとなり、一九七五年には、五遺跡七例を集成して、それが偶然の改葬 で はなく、一般的な葬法のなかの特定形態とみなし、風習的再葬である ことを主張した︹久永ほか一九七五︺。石川日出志による﹁人骨の盤状集 積﹂の検討︹石川一九八一︺を経て、上敷領久はさらに事例を追加して、 この葬法の意味するところにまで論及している︹上敷領一九八七︺。 一九五二年に発掘調査された福島県三貫地遺跡からは、十個内外の頭 骨 を サークル状に並べ、それ以外の骨を集積した人骨が二群出土し、そ の 特 異 性 が 注目されていた︹吉田一九六四︺が、一九八八年に正式の調 査 報告書が刊行され、集骨を含む埋葬にいろいろな角度から考察が加え られた︹森ほか一九八八︺。古くから人骨が大量に出土していた愛知県伊 川津遺跡が一九八四年に発掘調査され、 一九八八年に報告された。四三 体の人骨が発掘され、そのうちの二二体が再葬であることがわかり、縄 文時代は時期によっては、再葬を予想以上に多くおこなっていたことが 確 認された︹春成ほか一九八八︺。中村健二は近畿地方の縄文晩期の墓制 を整理したなかで、土器棺再葬墓の問題を論じた︹中村一九九こ。縄文 時代の再葬は個別の地域においてそれぞれ特色をもち、短期間ではある ものの普遍性をもつもののあることが、こうして確かめられていった。国立歴史民俗博物館研究報告 第49集 (1993) 縄 文 時代の再葬の一形態として、焼人骨の問題がとりあげられた。長野 県では野口遺跡などが調査され︹林一九六二︺、岩手県八天遺跡の焼人骨 は 再葬の観点から分析され︹林ほか一九七九︺、高山純は焼獣骨を集成し たなかで焼人骨の問題にも言及した︹高山一九七六・七七︺。甕棺葬など 個 別 の 葬法の埋葬例を集成して比較するなかで、再葬がどういう意味を もつのかを探る研究︹菊池一九八三︺や、縄文時代の葬墓制のなかでの 再葬の位置づけに関する研究︹永峯一九八四、春成一九八八︺もおこなわ れ、事例の増加に伴い、縄文時代の再葬全般に関する包括的研究も現わ れ た 〔国分一九六八、小野崎一九七四、斎藤一九七七︺。 一九八八年、渡 邊 朋 和は、﹁縄文時代の複葬制についてー﹁再葬墓﹂の系譜を求めてlL と題する講演の要旨を発表した︹渡邊一九八八︺。雑誌の性格上短報であ り、意を尽くしていないところもあるが、六〇遺跡にも及ぶ縄文時代の 再葬例の集成や、型式分類、縄文再葬の特質に対する理解、弥生時代の 壼 棺 再葬墓成立への見通しには、体系だった研究の片鱗がうかがえる。 ⇔ 壼 棺 再 葬 墓とのかかわり 弥 生 時代の壼棺再葬墓の起源は、再葬墓の研究において重要な問題と して多くの研究者がとりあげている。杉原荘介は、弥生時代の壼棺再葬は 東日本の縄文時代の再葬にその起源があることを説いた。それは、福島 県 成田藤堂塚遺跡の発掘調査をきっかけとするものだった。成田藤堂塚 遺 跡 の
M
地 点 の 小 竪穴からは複数の土器が出土し、そのうちのあるもの に 骨 片 が 含まれていることが確認された。そしてこれが晩期後葉の、大 洞G
式 であったことから、先の説を導いたのである︹杉原一九六八︺。 星田享二は杉原説に反論した。星田は愛知県牛牧遺跡の土器棺葬を洗 骨と考え、農耕文化の東日本への波及によってこうした墓制が壷棺を採 用して壼棺再葬墓が成立し、農耕文化の波及とともに東方に広まった、 とした︹星田一九七四・七六︺。杉原も壼棺再葬墓と農耕文化の結びつき は 指摘していたが、星田はその直接の起源を三河地方方面に求め、より 積 極 的 に 壷 棺 再 葬 墓 の 成 立と普及の背景に農耕文化を据えたのである。 こうした星田の視点は石川日出志が継承した。石川は、縄文時代の再 葬を整理するなかで、人骨の盤状集積を含む再葬が卓越する三河地方を 重 視し、愛知県吉胡遺跡の壼棺再葬墓の起源が三河地方の縄文晩期再葬 に求められることを述べ、より東の壼棺再葬墓の展開にも影響を与えた ことを暗示した︹石川一九八一︺。石川は、その後中部高地における焼人 骨 が 再葬的側面をもつことを重視し︹石川一九八三・八七︺、縄文・弥生 時代の焼人骨を集成して弥生時代の壼棺再葬に伴う焼人骨との系譜関係 を 論じた︹石川一九八八︺。 春 成 秀爾は、伊川津遺跡の発掘調査を契機として、東日本の弥生時代 の 再葬の問題にせまった。春成は東日本の弥生時代初頭の人骨に、上顎 の 犬歯二本と下顎の切歯四本を抜くのを基本とする41系という、それ 以前は三河地方以西で顕著にみられた抜歯型式が広まることと、関東・ 東 北 南 部 の 壼 棺 再 葬 墓 に 三 河系の初期弥生土器である条痕文土器がしば しぼ含まれていることから、三河から東国への移住者の存在に注意を促 した︹春成一九八六]。縄文時代の再葬 このように東国における壷棺再葬に対しては、農耕文化の波及の問題 を 背景に三河や中部地方の縄文時代の再葬にその起源を求める声が高い。 その一方、福島県では近年、かつて杉原が壼棺再葬墓の祖形とみなした 成田藤堂塚遣跡の土坑と同じ形態のものが検出されたり、さらにその時 期の壼形土器埋設土坑も発掘され、杉原説再評価の機運がある︹大竹一 九 九二︺。三河地方とともにもっとも古い壷棺再葬墓が存在する福島県下 で の 壼棺再葬墓の研究は、土器の分析などを中心として蓄積されつつあ る︹中村一九八二・八八、石川一九八四、須藤ほか一九八四、鈴木一九八五、 志 賀 一 九 八六、須藤一九九〇、設楽一九九一︺。壼棺再葬墓の起源を考え るうえで、こうしたもっとも古い壼棺再葬墓に対する接近とともに、そ れ に 先 立 つ 縄 文 時代の再葬を、壷棺再葬墓が出現する地域を中心として 整 理 する作業が是非とも必要なのである。
二
縄
文
後・晩期の再葬事例
現 在 知り得た壼棺再葬墓出現以前の縄文時代における再葬例は、八〇 (1︶ 遺跡におよぶ︵表1︶。日本列島でもっとも古い再葬例は、大分県扮洞 穴 や 二日市洞穴のような縄文早期中葉の洞穴遺跡の例とされる。愛媛県 上 黒 岩 岩陰では、第四次調査において、人骨が七体検出された。このう ち 成 人男性二体と、幼児一体が円形のピットに一括して埋葬されていた。 森 本 岩 太 郎らの報告によれぽ、再葬か改葬の状態であることは明らかで、 ピ ッ トの底に頭骨や下顎骨を置き、その隙間に細かく小さな骨を重ね、 さらにその上に、大腿骨などの長い骨を束にして積み重ねていた︹森本 ほ か 一 九 七〇、森本一九八八︺。縄文早期のこうした事例はこの三例の他 にも長崎県で一例、大分県で一例知られており、偶然の所産ではなさそ うであるが、岩陰という狭い範囲のなかに埋葬場所を定めたために生じ ︵2︶ た改葬ー先葬者の遺骨の再埋葬ーとの識別になお問題を残す。 つ づく縄文前・中期にも若干の再葬例はあるが、事例が著しく増加す るのは後・晩期である。ここでは弥生時代の再葬とのかかわりという点 から、縄文後期以降の再葬に焦点を当てて考察を加える。その際、まず ︵3︶ 集 骨葬、土器棺再葬という施設の差で区分して類例にあたる。さらに、 それらにしぼしぽ見られる焼けた人骨の事例に触れつつ、壼棺再葬墓出 現 以前の縄文後・晩期、とくに晩期の再葬の性格と地域的特色について 論述する。O
集 骨葬の諸例と散乱骨・部分欠失人骨 考 古 学 的な再葬の識別は、解剖学的に正位置を保たない人骨の埋葬形 態の確認から始まる。解剖学的に正位置を保たず、ある程度整った集積 状態を示す埋葬人骨は、一般的に集骨と呼ばれる。集骨状態の埋葬、す なわち集骨葬は一∼数体の人骨を集めた一般的な少人数集骨葬と、多く は 一 〇体以上の人骨を集積した多人数集骨葬、特殊な集積状態である盤 ︵4︶ 状 集 骨 葬などに区分できる。また、解剖学的な正位置を保たないものの、 不 規則な散乱状態を示すものは散乱骨と呼ばれる。集骨葬に限ったこと で はないが、再葬人骨の一次葬の場は常に問題となる。それを考えるう(1993) 第49集 国立歴史民俗博物館研究報告 表1 縄文時代の再葬と関連資料 ㌦ 遺跡・遺構 複葬の形態 再葬施設 遺 体 数 人骨番号 性 別 年齢 人骨の部位等 焼 人 骨 抜歯形式 備考 時 期 文献 1 北海道釧路市・緑ケ丘 少人数集骨葬 楕円形土坑︵二〇〇×一八〇m︶ 八 体 男性二・女性二・不明四 成 頭骨・四肢骨など 単葬が含まれている可能性がある 晩期後葉 宇 田川一九七七 2 青森県むつ市・酪農12号遺跡 土 器棺再葬 土 器棺 ?° ?. ?・ ?・ 後期前葉 江坂一九六八 3 青森県上北郡六ヶ所村・表館遺跡 土 器 棺 再葬 土 器棺 一 体 女性 青 年 ( 十 十九歳︶ 頭・頸・胸・腰・仙・鎖・肋・上腕・尺・寛・大腿・脛・腓・足骨 棺 底 近 に 立てかける 後 期前葉 小片ほか一九七一 4 土 器 棺 再葬 円形土坑二三〇x一〇〇㎝︶・pl土器棺 ?° ?° ?° 細 骨片 土 坑 か 出土。P3土器棺には骨は認められない 後期前葉 遠藤ほか一九八一 P2土器棺 ?. ?. ?° 骨粉? 円形土坑︵=一〇㎝︶・第一号棺 一 体 男性 壮年 頭骨・肩甲骨・鎖骨・椎骨’上下肢骨・手骨・寛骨・膝蓋骨・足骨 5 青森県三戸郡倉石村・薬師前遺跡 土 器 棺 再葬 第二号棺 ?° ,層 ?層 頭 骨 ( で 不明︶ 土 坑 か 密 付 土 器 底 付 近 から出土 後期初頭 市川一九七九森本一九八八 第三号棺 一 体 女性 壮年 頭・肩・鎖’肋・椎・胸・腸・上下肢骨 6 青 森県三戸郡倉石村・上ノ平遺跡 土 器棺再葬 土 器棺 一 体 女 性 壮年 頭・鎖・腰・上腕・梶・寛・大腿・脛骨 晩 期前葉 葛西一九八三 7 1 青森県三戸郡三戸町・泉山遺跡m区m層 散 乱 骨 なし ?・ ,層 ?・ 骨片三個 焼けている 再葬か否かは不明 後期初頭 2 〃 7号フラスコ状ピット 散乱骨 フ ?. ,’ 成人 肋骨の一部・細骨片 焼けている ピット上面から骨が出土。再葬か否かは不明 中期? 8 青森県三戸郡倉石村・太田遺跡 土器棺再葬 土器棺 一 体? 女 性 三 〇∼四〇歳 ?° 土 器は二個体である 中期末∼後期初 1 青森県青森市久栗坂・山野峠遺跡−号 土 器 棺 再葬 石榔・土器棺 ?° ,° ?層 土 器 二 個 体 から骨が出土? 後期前葉 葛西一九七四 2 η 2号 土器棺再葬 石榔・土器棺 ?° ?° ?° 土 器 三 個 体 から骨が出土? 後 期前葉 9 3 〃 3号 土 器棺再葬 石郁・土器棺 ?層 ?. ?・ 頭 土 器 三 個 体 から骨が出土? 前期前葉 4 ” 4号 土 器棺再葬 石榔・土器棺 ?9 ?卜 ?^ 土器二個体あり。一個体から骨が出土? 後 期前葉 5 〃 5号 土器棺再葬 石榔・土器棺 ?. ?° ?° 土 後期前葉 10 青森県青森市駒込・月見野遺跡 土器棺再葬 土器棺 一体 男性 壮年 頭骨・肋骨・ヒ腕骨・祷骨・大腿骨・脛骨 頭 蓋 骨 は 土 後期前葉 森本一九八八 11 青森県南津軽郡浪岡町・天狗岱遺跡 土器棺再葬 石榔・土器棺 ?° ?° ,° 大腿骨・骨盤などのほかは散逸 後期前葉 笠井↓九一八
縄文時代の再葬 12 青森県南津軽郡浪岡町・松山遺跡 土器棺再葬 土 器棺甑1 ?, ?・ ?・ 骨片 土器棺は三個並んで出土。詳細は不明 後期前葉 工藤一九七九葛西一九八三 13 1 青森県南津軽郡平賀町・堀合1号遺跡甕棺 土 器 棺 再葬 土 器 棺 一 体 男性 成人 頭 蓋骨・四肢骨 棺底近くに頭蓋骨、その上に四肢骨を置く 後期前葉 葛西一九七四 2 〃 二号秦棺 土 器棺再葬 土 坑 ( 土 器 棺 ?・ ?° ?・ 四肢骨の一部 人骨は土器棺内から斜に出土 後期前葉 14 1 青森県南津軽郡平賀町・堀合n号遺跡A 土 器 棺 再 葬 土 器棺 ?・ ?° ?・ 顎骨︵?︶・歯細片多数 人 骨 は い が 数不明 中期末葉 葛西ほか一九七四 2 ” B 土 器 棺 再 葬 土 器棺 ?・ う゜ ?・ ,’ 後 期 葛西一九七四 15 1 集骨葬 石棺︵二〇〇×七〇㎝︶ 六 体 以 上 1∼6号 成人四︰1∼4号未成人二︰5・6号 頭蓋骨・歯・上腕骨・大腿骨・脛骨 人骨は石棺内の ヶ所に集積。頭蓋骨は棺底に接し、上に体肢骨 葛西ほか一九七四 2 〃 3号組石棺 少入数集骨葬 石棺︵八〇㎝︸ . 一 体 男性 成人 大腿骨・粉末状体肢骨 人骨は石棺底部付近 後 期 初? 3 〃 2号土坑 集骨葬 長方形土坑二二〇x八〇㎝︶ ?° ?’ ?・ 粉末状の人骨 人骨は土坑底やや東よりから出土 後 期 初 頭 16 岩手県盛岡市繁・薪内遺跡F1286土坑 焼 骨 葬 円形土坑二七〇×ニハ○㎝︶ 一〇∼一三体以上 女性を含む 二∼三歳の幼児から五十歳以上の老人 頭・肩・鎖・椎・胸・上腕・梼・尺・手・大腿・脛・腓・膝蓋・足 焼けている 配 石 土 お れて埋納 後・晩期 野 坂 ほ か 一 九 八 二 17 1 岩手県北上市更木町・八天遺跡G‘26ーイ遺構 焼 骨葬 円形土坑︷八五×八〇㎝︸ 三 体 以 上 ?° 頭 焼けている 骨は部分的で四肢長骨が少ない。猪の下顎骨一片含む。土坑は焼けておらず焼土もない 後期? 林 ほ か 一 九 七 九 2 〃 H−53ーイ遺構 焼骨葬 方形土坑二四〇x=二〇㎝︶ 二 体 以 上 男性二女性?二 成人 頭蓋骨・椎骨・胸骨・肋骨・上肢骨・手骨・足骨計八二九、七g 焼けている 頭蓋骨・上下肢骨が少ない。土坑は焼けておらず、焼土もない 後 期 後半 18 宮 城 県 塚第4土坑墓 少 人 数集骨葬 長 楕 二 × 六 五 ㎝) 三 体 4・5・7号 男性二︰4・5号、不明一︰7号 壮 年 二 ” 4・5号は手骨・足骨の一部を欠く全身骨、7号は頭骨のみ 後期前葉 阿 部ほか一九八六 19 秋 田県北秋田郡鷹巣町・藤株遺跡SKO5 一次葬? 隅丸長方形土坑︵一九三×九五㎝︶ 一 体 女性? 成 焼けている 土 坑 学 的 頭骨・歯がない 晩 期初頭 高橋ほか 九八一 1 秋 田 県 仙 北 郡 西 明 寺 津 元 宮 遺 跡 配 石 遺構A 焼骨葬 配 石 の環状列石?︶ ,° ?° 成人を含む 頭骨・肋骨・上腕骨・腫骨などの他は不明 焼けている 人骨は配石の下から木炭とともに出土 ?・ 20 2 〃 配石遺構B 焼 骨葬 配 石 ?﹀ ?. ?・ 成人を含む 頭骨・肋骨・ヒ腕骨・脛骨などの他は不明 焼けている 人骨は配石の下から木炭とともに出土 ?’ 武藤一九五一 3 〃 配石遺構C 焼 骨 葬 配 ?. ?° 成人を含む 頭骨・肋骨・上腕骨・脛骨などの他は不明 焼けている 人骨は配石の下から木炭とともに出土 う’ 1 福島県相馬郡新地町・三貫地貝塚番外A 多人数集骨葬 ?・ 十 七 体 ? 男性三・女性二以外は不明 男性︰熟二壮一・青﹁、女性︰壮一・青一 頭 頭 骨 の た集骨 後 期 終 森ほか一九八八 21 2 〃 番外B 多人数集骨葬 ,. =二体? 男性五・女性五・不明三 男性︰熟年二・壮年二・ 頭骨・榛骨・尺骨・大腿骨・脛骨・腓骨など 0型︰男二・2C 頭 骨 のなかに四肢骨を集 後 期 終
(1993) 第49集 国立歴史民俗博物館研究報告 青 壮 年 三 の 四肢骨以外は不明 型︰女一 めた集骨。四肢骨には関節でつながった状態のものがある 後 期 終 3 〃 3号人骨 少人数集骨葬 ?° 一 体 3号 男性 若 年 寛骨・大腿骨・脛骨などの他は詳細は不明 6号︵壮年女性の単葬︶との二体合葬 後・晩期 4 少人数集骨葬 ?層 三 体 9号・12号・13号 女 性 三 熟 年 二 ・ 壮 9号は上半身、12号は頭骨、13号は頭骨・椎骨・寛骨・大腿骨 8号︵壮年女性の単葬︶との四体合葬 後・晩期 22 群馬県邑楽郡板倉町・板倉遺跡−号伏甕墓坑 土 器棺再葬 不 整 楕 器 棺 一 体 ?層 成人︵二十二歳前後︶ 頭 骨 土 器棺は倒立している 中期後葉 外山ほか一九八九 23 埼 玉 県 入 跡褒棺墓 土 器棺再葬 一 体 男性 熟年 頭 蓋 骨・寛骨・仙骨・大腿骨・脛骨・腓骨 頭 骨 の 上 に 肋 骨 や 上 肢 肢 骨を乗せる 後期初頭 並 木ほか一九七三 24 千葉県山武郡大網白里町・沓掛貝塚98号跡 散 乱 骨 ?・ 最小一体 男性 成人 下 顎 骨 片・永久歯 焼けている 晩 期 三 浦ほか一九八七 25 1 千葉県市川市北国分町・権現原貝塚P65 多人数集骨葬 円形土坑︵一四九×一三三㎝︶ 一 七 体 男女ほぽ同数か、男性がやや多い 成人九・青年か成人二・青年三・少年二・幼児一 頭 骨 や 大 腿 骨 する全身各部の骨だが、詳細は不明。椎骨と肋骨が相対的に少ない 土 坑 あり、それに対応して柱状に人骨が堆積していない部分がある 後期初頭 花輪ほか一九八九 2 〃 Pーユ6 焼 骨葬 一 体? P116人骨 ?° 成年 頭 蓋 骨・足骨 焼けている 人骨は細片化したらのが多い 後 期初頭 1 少人数集骨葬 浅い土坑 三 体 3号・4号・ぺ号 男 性 熟 頭・肩・鎖・肋・椎・上腕・撹・尺・手・寛・大腿・脛・腓・足 解 後期前葉 26 2 〃 29 号人骨 多人数集骨葬 隅 十四体 10号・11号・17∼29号 熟 頭骨・肩甲骨・鎖骨・椎骨・肋骨・上腕骨・模骨・尺骨・寛骨・大腿骨・脛骨・腓骨 12型”27号 土 坑 の 形 状 に 骨 や 配列する 後 期前葉 森本ほか一九八三 1 千葉県船橋市・宮本台遺跡21・21・21号人骨 少人数集骨葬 不 整 形 土 坑 ( 〇〇㎝︶ 三 体 21 男性一︰21号、女性一⋮r 2量?=響 壮,熟年⋮別号、成人︰21号.少年赤号 21号︰頭骸片・上腕・大 ’腿、21号︰上腕・大腿・贋響三乳歯・体肢片 人骨は土坑底面からやや浮いている 後 期前葉 小片ほか一九七四 27 2 少人数集骨葬 四体 22号・23号・24号・25号 男 性 壮 22 土 坑 の ある 後期前葉 小片ほか一九七四 28 1 千葉県千葉市桜木町・加曽利北貝塚第2地点 少人数集骨葬 廃屋墓? 一 体 第2号 男性 壮年 頭骨・上肢骨・肋骨 1号︵熟年女性の単葬︶・3号︵熟年男性の単葬︶・5号︵少年の単葬︶との四体合葬 後 期中葉 宍倉ほか一九七一 2 調 査区 少人数集骨葬 土 坑 〇 ㎝ の 範囲︶ 一 体? 11 号 ,° 乳幼児 頭骨・椎骨・肩甲骨・上腕骨・指骨 貝層から骨片が乱雑に集積状態で出土 中期後葉 3 〃 調 査区 少人数集骨葬 楕 ×四四㎝︶ 一 体 13号 不 明 小 児 頭 骨 中期後葉 後 藤ほか一九七七 29 千葉県千葉市・誉田高田貝塚第V発掘区 少人数集骨葬 ?層 数 体 だ 明 ?° ?・ 頭 長 骨 の 上 に 頭 蓋 たような例がある 後 期前葉 鷹司ほか一九五四
縄文時代の再葬 1 千葉県市原市・西広貝塚F5区 少 不 整 形 土 坑 ( x 五 〇 ㎝ ) 一 体 26号 男性 熟年 大 腿 骨 土 坑 の 大 可能性あり 後期 30 2 〃B4−94区 少 人 ? 土 坑 ( 七 五 × 五 一 体 38号 女 性 壮年 ?’ 晩期 米 田 ほ か 一 九 七 七 3 〃B4‘85区 少人数集骨葬 浅い土坑 一 体 39号 女 性 壮 年 頭 骨 頭 骨 に 安 行 破片をかぶせている 晩期前葉 31 千 集骨葬?・ 土 坑 ?’ ?° ?° ?・ 詳 細は不明 中期終末 千葉県一九九〇 32 1 千葉県市原市根田・紙園原貝塚B2−43区 多人数集骨葬 楕円形土坑︵一四〇×一一五㎝︶ 最 少 六 体 ?° ?° 頭 骨 や 大 腿 骨 骨。詳細は不明 土 坑 の トがめぐる 後 期前葉 米田一九八〇 2 ” GW310ピット 多人数集骨葬 楕円形土坑︵一一〇x九〇㎝︶ 五 体 以 上 ?° ?. 頭 骨 や 大 腿 骨 骨。詳細は不明 後 期前葉 鷹野一九七三 33 神奈川県横須賀市佐原・茅山貝塚 散 乱 骨 ?. 一 体 ,’ ?、 頭蓋骨片・下顎骨片 焼けて焦げ﹂ている 早 期 終末 西村一九五一 34 新潟県佐渡郡真野町・浜田遺跡 散 乱 骨 なし ?・ ,・ ?° ?° 焼けている 後期前葉 関ほか一九七五 35 新 潟県西頚城郡青海町・寺地遺跡炉状配石 焼 骨葬 円形配石土坑︵外径二m・内径一m︶ 女性一体以外は不明 お お む ね 成 成 含 む 頭・頸・胸・腰・鎖・肩甲・上腕・椀・尺・手・寛・大腿・脛・腓・足骨計三二一六〇g 焼 2C型が一ー二個体存在 灰・木炭・焼獣骨とともに出土、焼人骨は細片化している 後・晩期 関ほか一九八七 36 山梨県北巨摩郡大泉村・金生遺跡第1号配石第2ブロック 焼 骨 葬 一 体? ?° ,° 頭・境骨・寛骨・座骨・大腿骨片 焼けている 晩 期前葉 新 津 ほか一九八九 37 山梨県北巨摩郡長坂町・上条遺跡 焼骨葬 配 石遺講 ?9 ?・ ?° 頭蓋骨片・脛骨片、その他細片 焼けている 人骨はいずれも青白色僅少の炭灰が伴う 後・晩期 大山ほか一九四一 38 長 野 宮遺跡配石墓 少人数集骨葬 長 八 五 x 七 〇 ㎝ ) 一 体 2号 ?・ 青年? 頭骨・頚骨 上 後 期 小林一九八二 39 長 野 県 長 野 市 若 穂 宮崎遺跡8号石棺 少人数集骨葬あるいは一次葬の散乱骨 胴 張 八 〇 × 一 〇 二 体 男性的なものと、それより華奢な個体 ?° 頭骨・上腕骨・大腿骨・脛骨・腓骨 各骨は自然の連結状態を示さない、散乱状態 後 期? 12 〃 3号埋褒 土 器 棺 再葬 隅 九〇×七〇㎝了土器棺 一 体 3号埋甕下出土人骨 ?’ 若年成人 骨片︵土器の中︸・下顎骨︵土器の下︶ 配石あり。土器の中から骨片が出土。底面には別の土器片を敷く。下から下顎骨が出土 晩 期 終 末 矢ロほか一九八八 40 焼 骨葬 配 石遺構 ?’ ?° 成年 頭 蓋 骨片 焼けている 配 石 遺 構 は 焼 ほ か の 配 石 に 骨 が 伴う 中期後葉 金 子ほか一九六五 41 長野県埴科郡坂上町・保地遺跡 少人数集骨葬? 炉 跡 一 体 男性 熟年 頭骨 2C型 頭骨は灰・炭・鹿や猪の骨とともに出土 晩 期前葉 関一九六六 42 1 長野県小県郡丸子町・深町遺跡SKO9 少人数集骨葬 不 整 〇 x 六 〇 ㎝) 一 体 男 性 壮 年 頭骨・上腕骨・脛骨・腓骨・大腿骨 2C型 大腿骨を叉状に組み、頭蓋骨をはさむ。遺跡からは焼骨を含む破砕獣骨が多量に出土する 晩 期前葉 林 ほ か 一 九 七 九 2 〃 SKPO5 集骨葬? 楕円形土坑︵一〇〇x八〇㎝︶ ?° ?・ ?° ?. 土 坑 の れている 後・晩期
(1993> 第49集 国立歴史民俗博物館研究報告 3 〃 SKP14 土 器 棺 再葬? 土坑・土器棺 ,層 ?・ ?・ 骨 紛 状 で る 焼 人骨は焼骨の可能性があるが明確でない 後・晩期 43 長 野 県 東 筑 摩 郡 明 北村遺跡 土 器棺再葬 土 器棺 一 体 男性 熟 年 頭 焼けている 上部に配石をもつ 後 期中葉 長野県埋文センター調査 1 長 野 県 跡
269P
焼骨葬 長 楕 円 形 土 坑 〇 × 九 〇 〇m︶ ?. ?・ ?’ ?. 焼けている 土 坑 土はみられない 中期後葉 2 〃 273P 焼骨葬 円形土坑︵一〇〇×九五㎝︶ 一 体 ,° ?’ 頭骨・椎骨・肋骨・鎖骨・上腕骨・尺骨・大腿骨・脛骨・指骨 焼けている 土 坑 上 骨 じって出土 中期 3 〃 289P 焼 骨葬 楕円形土坑二一四×九五㎝︶ ?・ ?° ?° 頭・椎・肋・肩・大腿・脛・指骨 焼けている 土 坑 上 鹿角が伴出 中期中葉 44 4 〃 354P 焼 骨葬 ヒョウタン形土坑︵二四x九〇㎝︶ ?. ?° ?・ 頭 焼けている 中期中葉 会 田ほか一九八六 5 〃 554P 焼 骨葬 楕円形土坑ム一一〇x九〇㎝︶ 一 体? ?9 ?・ 頭骨・尺骨’澆骨・上腕骨・大腿骨・脛骨 焼けている 人骨は梼土・炭化材とともに土坑底面出土 中期後葉 6 〃 723P 焼 骨葬 円形土坑︵八五x八〇㎝︶ ?° ?, ?° 上 腕骨・尺骨 焼けている 中期中葉 7 〃 342P 焼 骨葬 土 坑? ?° ?ム ?・ 頭 焼けている 中期? 45 長 野 遺 跡F7号土坑 焼 骨葬 不整方形土坑︵六〇×五〇㎝︶ 一 体 ?、 ウ・ ?層 焼けている 土 坑 人骨を納め、土器破片をかぶせている 晩期終末 百 瀬ほか一九八二 46 長 野 遺 跡 石 積 竪 穴 式 墳墓 焼 骨葬 長方形石榔︵四二〇× 九〇㎝︶・円形配石 最 ?’ 熟 頭骨・四肢骨などのほか詳細は不明 焼けている 2C型︰七体 七 群 の 配 石 の 下 か 三 体 の 細 人骨が出土。配石は焼けていない 晩期前葉 林ほか一九六二林一九八三 47 1 長 野 明 神 遺 跡集石群 焼骨葬 配 石 ( 二 円形、円形配石の集合︶ 十 二 体 ?・ ?’ 頭 骨 の い 焼けている 2C・412C計12個体 焼人骨は細片で三平方メートルの範囲から出土。人骨は故意に砕かれ数㎝の層を形成 後期後半・晩期前半 樋口一九六七 2 〃 2号配石 焼 骨葬 配 石 の周辺 最少二体 男 性 的 繊 細な個体 成 焼けている 焼 晩期前葉 新 谷ほか一九八八 48 長野県木曾郡日義村・芝垣外遺跡 焼 骨 葬 ?° ?. ?’ ?層 ?° 焼けている 型式不明 詳細は不明 藤 49 岐阜県益田郡萩原町・桜洞遺跡P20 焼骨葬 配 石 土 坑 ( 配 石 模は二〇〇x一六〇㎝︶ 最 少 七 体 ?’ ?. 頭 焼けている 焼人骨は細片化して、礫と共伴。礫・土坑底とも火を受けている 後期? 橘ほか一九七四 1 愛 知県宝飯郡小坂井町・稲荷山貝塚34号 少人数集骨葬 ?層 一 体 34号 男性 ?° 頭骨・頸椎骨 鹿角製腰飾が共伴 晩 期? 2 ” 47号 少人数集骨葬 ?° 数 体 男女とも ?° ?・ 晩 期? 清野一九六九 50 3 ・ 50号、 少人数集骨葬 ?° 数体 ?9 ?° ?. 不規則な人骨の集積 晩期?縄文時代の再葬 4 〃 SK40 少人数集骨葬 円形土坑︵一〇〇×九八㎝︶ 一 体
M
2 ?° 少 頭骨・四肢骨 礫数個を土坑の周囲に配置している 晩期 出ロほか一九九二 5 〃 SK57 少人数集骨葬 畏楕円形士坑︵八〇×?㎝︶ 一 体M
3 男性? 少 頭骨・肩甲骨・寛骨・上下肢骨 人骨を束状にしている 晩 期 1 少 人 数集骨葬 ?° 一 体 263号 女 性 壮年 頭 頭骸骨を2分して四肢骨の両側に置く 後・晩期 2 〃 査︶ 少人数集骨葬 ?・ 二 体 壮年︰男性、熟年︰女性 ?・ 不 規則な集積 後・晩期 清野一九六九 3 査︶ 少人数集骨葬 ?・ 一 体 265号 女 性 熟年 ?’ 不規則な集積 後・晩期 4 〃 盤 状集骨葬 ?. 一 体? 304号 ウ’ ?° 頭 晩期 清野一九四三 51 5 〃 清 野 調査V 少人数集骨葬 ?・ 最 少 三 体 308号・309号1・11 男性︰308・309−11号、女性⋮309−1号 熟年︰男性、老年⋮女性 頭骨・四肢骨以外不明 2C︰3 、08 412C︰309号 四肢骨は不規則に集積 後・晩期 清野一九六九 6 〃 第109号︵清野調査︶ 少人数集骨葬 (7・ 数 体 分 369号 男性一体あり 壮年︰男性 ?° 不 規則混合骨 後・晩期 7 〃 第164号︵清野調査︸ 盤 状集骨葬 ラ・ 四 体 424−1∼W号 男性四︰1∼W号 壮年三⋮1∼m号、壮年?一︰W号 頭骨・長管骨・寛骨・椎骨・肋骨 2C型⋮三体 長管骨を台形状に二連組み、頭骨や肋骨などの小骨を詰める 晩 期 清野一九四三 8 〃 第184∼187号︵清野調査︶ 少人数集骨葬 ?・ 最 少四体 444∼﹂暢47号 男性四︰444∼447号 壮年二︰444・445号 ?° 41型︰446号 人骨の不規則な集積 後・晩期 清野一九六九 9 査︸ 盤 状集骨葬 ?・ 一 体 16号 男性 成 年 四 肢 骨 が い。詳細は不明 長 骨 の えて積み重ねている 晩 期 中山ほか一九五二 1 愛知県渥美郡渥美町・伊川津貝塚1号人骨群 盤 状集骨葬 土 坑 ( 七 〇 × 六 ?︶ 三 体M
l−1号∼3号 男 性 二 ‥ ‥3号 熟年︰男性、老年⋮女性 2C型一2号 長管骨を四角に配し、三隅に頭蓋骨を割置く。枠内に他の骨を人為的に破砕して入れている 晩期初頭 2 ” 4号人骨群 少人数集骨葬 円形土坑︵六〇×五〇㎝︶ 二 体M
1号・2号 女性一︰1号、不明二2号 老年︰1号、幼児︵6歳前後︶ 一2号 1号︰頭・上腕・尺・大腿・脛・腓など、2号︰頭蓋・上腕・大腿 2C型︰1号 頭 骨 晩期初頭 3 〃 6号人骨群 多人数集骨葬 長楕円形土坑︵二〇〇x=二〇㎝︸ 十 三 体M
頭 13号が焼骨 2C型︰八体 晩期初頭 4 〃 7号人骨 一 次葬? 円形土坑︷五〇×四八㎝︶ 一 体 7号 ?° 幼 児 ( 一歳︶ 頭蓋骨片・上腕骨片・その他数片 晩 期 初 頭 52 5 〃 11号人骨群 盤 状集骨葬 ウ・ 二 体M
11 号 男性一一1号、女性一︰2号 熟年二 2C型︰1号 1号は人為的に破砕された頭骨片を長管骨が取り囲む。2号の頭骨も人為的に破砕 晩期初頭 春成ほか一九八八(1993) 第49集 国立歴史民俗博物館研究報告 6 〃 12号人骨群 少人数集骨葬 隅丸方形土坑︵七〇×七〇㎝︶ 二 体
M
1号・2号 男性一︰1号、女性一︰2号 老年一︰1号、熟年一︰2号 屈 葬 状 解剖学的正位置か? 晩 期 初 頭 7 〃 18号人骨 一 次 葬? 長方形の浅い土坑 一 体 18号 ?° 熟 年 右 尺骨・祷骨・手骨 右 腕 の 骨 位 置 り残しとされる ,° 8 〃 21号人骨 一 次葬? 土 坑 一 体 21号 ?° 熟年 指 骨 三点 再 葬 の 取 貝輪五点伴出 晩 期初頭 9 〃 22号人骨 一 次葬? 土 坑 一 体 22号 ?° 熟年 指骨一点 再 晩期初頭 10 〃 23号人骨 一 次葬? 土 坑 一 体 23号 ?° 熟 年 上 腕 骨 再 晩期初頭 53 1 愛知県渥美郡渥美町・保美貝塚A 盤 状集骨葬 ?・ 六 体 ?・ ?・ 頭骨・四肢骨・その他。詳細不明 四肢骨を六角形に組んで、その中に頭蓋骨やその他の骨を入れる 晩期前葉 久永ほか一九七五 2 〃 B 盤 状集骨葬 ?° 七 体 ?° ?° 四 肢 明 四肢骨を多角形に組み、中に他の骨を入れる 晩 期前葉 54 愛 知 県 西 盤 状集骨葬 ?層 一 体 1号 ?’ 幼 頭 長管骨を四辺に並べ、四隅に頭蓋骨を配し、中に他の骨を詰める。椎骨は関節したまま 晩 期 初 頭 牧 ほ か 一 九 七 三 55 愛知県刈谷市・宮東第一号貝塚 盤 状集骨葬 楕円形土坑︵=二〇×九〇㎝︶ 三 体 ?層 ?° 頭骨・四肢骨・その他。詳細は不明 四肢骨をほぽ方形に組み、その中に頭骨や小形の骨を詰めている 晩期前葉 加藤一九六八 56 1 愛知県刈谷市天王町・本刈谷貝塚NO6人骨 盤 状集骨葬 長 ×四六㎝︶ 一 体 6号 男 性 壮 年 頭骨・上腕骨・大腿骨の他は不明 長 晩 期前葉 谷 沢 ほか一九七二 2 〃 土器棺 土 器棺再葬 ?・ ?・ ?° 成人 頭 骨 の 他 に 頭 蓋 骨 他 の 骨を束ねる 晩期 1 愛 知 跡F地点5号ピット 焼 骨葬 楕円形土坑︵=二〇×=○㎝︶ ?’ ?. ?° ?’ 焼けている 土 坑 に 焼 土 は の 転 晩期後葉 57 2 〃 7号ピット 焼骨葬 土坑︵直径九〇㎝︶ 数 体 分 ?° 未成年 頭骨・大腿骨・肋骨など数百片以上 焼けている 焼人骨は故意に砕かれたように細片化している。木炭片若干が共伴 晩期後葉 澄田ほか一九七〇 3 ” 3号土器棺 土 器棺再葬 土坑・土器棺 ?’ ?. ?° ?. 焼けている 晩 期 終末 1 滋 少人数集骨葬 円形土坑︵六〇×四〇㎝︶ 一 体? ?° ?° 頭蓋骨・その他の骨という以外、詳細は不明 頭蓋骨を上に置き、下に他の骨を集積。朱塗りの土製品を伴う 後・晩期 58 2 〃 236号集骨墓 少人数集骨葬 土 坑 ( 一 三 ㎝ ) 数 体 ?・ ?. 頭 蓋 は 詳 細 不 明 頭 蓋 骨 以 外 の 骨 が 三 ブ ロ ッ 体 分集積されている 晩期 加 藤ほか一九七三 3 〃 103号土 土器棺再葬? 土坑・土器棺 一 体 ?9 乳児 頭蓋骨・上腕骨 土器棺はほぽ垂直に埋 晩期前葉縄文時代の再葬 坑甕棺墓 設。頭蓋骨を上に、他の骨を下に入れる 4 〃 171号土坑甕棺墓 土 器 棺 再 葬? 土坑・土器棺 一 体 ?° 幼 児 頭 蓋骨・大腿骨 土 器 されている 晩 期前葉 5 〃 172号土坑甕棺墓 土 器 棺 再 葬 土坑・土器棺 一 体 男性 壮 年 頭 蓋 骨 土 器 されている 晩 期前葉 59 1 大 阪 日下遺跡土坑 少 不整楕円形土坑二〇五×八〇巴 一 体 m号 女 性? 成人 頭骨・肩甲骨・鎖骨・上腕骨・尺骨・榛骨・大腿骨・脛骨・腓骨 四 肢 骨 は 態で集積。長骨の間に石が置かれている 晩 期前葉 2 ” 土坑墓m 一 次 葬? 楕円形土坑二七x六五㎝︶ 一 体 m号 男性 成人 一 一 次 的 骨 存在しない。頭骨があった場所に礫を置く 晩 期 吉村ほか一九八五 60 1 大 阪 府 鬼塚遺跡−号 焼 骨葬 楕円形土坑︵一二〇x一四〇㎝︶ 五 体 以 上 ?9 子 ?・ 焼 長管骨を意識してまとめた状態。詳細は不明 晩 期後葉 福永信雄教示 2 〃 2号 焼 骨 葬 方形土坑︵一一〇×七〇㎝以上︸ 三 体 以 上 ?・ 子 ?° 焼 長管骨を意識してまとめた状態。詳細は不明 晩 期 後 葉 61 奈良県橿原市畝傍町・橿原遺跡 焼人骨を含む散乱骨 ?° 二 体 以 上 男性とされるが、二体ともに男性か不明 成年 頭骨・上碗骨・寛骨・大腿骨など 焼 人骨は散乱状態。付近に炉祉がある 晩 期 末 永ほか一九六一 62 奈良県吉野郡中荘村・宮滝遺構 焼 骨 葬 配 石 遺 跡 ?、 ?. ?° ?・ 焼けている 人骨は細片。石錐・獣骨・木炭が共伴 晩 期 末永一九四四 63 岡山県児島郡灘崎町・彦崎貝塚 焼 骨葬 円 形 土 坑 ( 径 三 三 体 1号・2号・3号 ?・ ?° 頭骨・指骨・足骨など 焼けている 頭 骨 している 前期 池 葉須一九七一 64 1 広 多人数集骨葬 ,° 二 十 二 上 ,° 小児”一体、若年少なく高齢者が多い 頭 加熱による変色あり 0・2C型 頭骨を半円に集積し、西側に他の骨を集積 後期後半 2 〃 群 多人数集骨葬 ?・ 二十体以上、三十体近く ?・ 幼 児 多く、高齢者は三ー四体 頭骨・四肢骨などであるが、詳細は不明 幼 後期後半 戸沢ほか一九七六 65 広島県比婆郡東城町・猿神岩陰墓坑B 少人数集骨葬 土 坑 二 一 ㎝ ) 四肢 ?層 頭 骨 た墓坑Cから出土した頭骨片と接合。サルボウ製貝輪伴出 後 期 後 半 川越一九七八 66 1 山口県下関市富任町・神田遺跡 少人数集骨葬 円 形 土坑︵径一m︶ 二 体 壮年一︰男性、幼児︰一 頭 蓋 腿 骨など 二 体 分 の 出土 後 期 富 士 埜 ほ か 一 九 2 〃 土器棺再葬? 土器棺 一 体? ?° ?’ 長管骨一片 褒かぶり葬、乳児襲棺の可能性がある 後 期 67 愛 媛県上浮穴郡美川村・上黒岩岩陰 少人数集骨葬 円形土坑︷径約五五㎝︸ 三 体 6901号・6902号・6903号 男性︰6901号・6902号、?∴6903号 壮年︰6901号・6902号、幼児⋮6903号 頭 頭骨、短骨、偏平骨、長管骨の順に積み重ねられている。長管骨は束ねられたような状態 早 期中葉 森 本ほか一九七〇
(1993) 第49集 国立歴史民俗博物館研究報告 68 福岡県京都郡苅り田町・浄土院遺跡 土 器 棺 再葬 土 器 棺 一 体? 女性 成人 頭蓋骨・鎖骨・肩甲骨・肋骨など 焼けている 土 後期後葉 小田ほか一九七二 69 福岡県遠賀郡芦屋町・山鹿貝塚2−4号人骨 一 次 葬 二 体 2号・3号 女 性 二 成年二。2号は二十歳前後 全身骨だが、2号は鎖骨・胸骨・肋骨を、3号は鎖骨・肩甲骨・胸骨・肋骨と椎骨を欠く 4号︵乳児︶との三体合葬。2号人骨の寛骨などが3号人骨の足元に置かれている 後期 永井ほか一九七二 70 長 崎 県 佐 世 保 第V層 多人数集骨葬? ?’ 一 二 体 男性五︰6・9∼H・13号、女性四︰5・8・9・12・16号、不明三 早期中葉 麻生ほか一九六八 71 長 崎 県 筏遺跡19号ピット 少 一体?・ ?﹂ 成人 大 腿骨 後・晩期 吉田ほか一九七四 72 熊本県菊池市天城・赤星遺跡 焼 骨葬? 土 坑? ?° ?・ ?’ ?° 焼けている 詳 細 在 とされる 後期後葉 諌見ほか一九七六 73 熊本県下益城郡城南町・阿高貝塚 焼 骨 葬 ?’ 二 体 女 成 頭 蓋 腕 ど、詳細は不明 焼けている 軟 部 組 織 が れたもの。 中期? 清野一九二二 74 1 熊本県天草郡五和町・沖ノ原遺跡23号人骨 少 人 数 ? ?° 一 体 23号 男 性 成人 ワ゜ 型 式 不 明 二 次 埋 細 は 不 明 後 期 隈ほか一九八四 2 〃 29号人骨 少 ?・ 一 体 29 号 女性 成人 ?’ 二 次 埋 細 は不明 後期 75 大 分県下毛郡本耶馬渓町・扮洞穴6号人骨 少人数集骨 不 整 x 五 〇 ㎝ ) 一 体 6号 ?° ?° 頭骨・四肢骨 四肢骨が下に、頭骨が上に堆積 後期 賀川ほか一九七七 76 大 分 少人数集骨葬 楕 円 形 土 坑 ͡ × 五 二 ㎝ ) 三 体 1号・2号・番号なし 壮 頭骨・肋骨・四肢骨など図面から判断できるが、詳細は不明 下 に 小 に 成 る。小児骨の上半身は関節で接合か? 早 期中葉 橘一九八〇 1 大 分 1号埋葬祉 少人数集骨葬 土 坑 二 体 ?° 成人 四 肢 骨 以外詳細は不明 四肢骨を束ねる 前ー中期 2 〃2号埋葬祉 少 人数集骨葬 ?° 一 体 2号 7. 成人 頭骨・四肢骨という以外に詳細は不明 四肢骨を三角形に組み、上に頭骨を置く 前∼中期 77 3 717号埋葬祉 少人数集骨葬 長方形土坑︹七〇x四〇㎝︶ 一 体 7号 ?’ 成人 頭骨・四肢骨・肋骨・椎骨・寛骨 四肢骨を束ね、その上に頭骨を乗せている 前ー中期 高橋ほか一九八二 4 〃8号埋葬祉 少人数集骨葬 長方形土坑︵九〇x五〇㎝﹀ 四 体 8号a・b・C ・ 10 ?層 成 、a ・b ・ C小児一︰8d 頭骨・肋骨・椎骨・四肢骨・寛骨などであるが、詳細は不明 aは寛骨・四肢骨の上に頭骨を置く。b・cは四肢骨を三角形に組み、上に頭骨を置く 前∼中期 78 大 分 原田洞穴 集骨葬 ?層 ?’ ?. ?’ ?° 屈葬を模した集骨という以外、詳細は不明 早 期中葉 賀川一九六七 79 大 分 恩寺稲荷岩陰四号 抱足葬 ?’ ?. 4号 ?’ ?’ 距 骨 以 下 の の中から検出 足切断の時点は不明。再葬ではない? 前期 賀川一九六七 80 大 分 県 遺跡 土 器棺再葬? 土 器棺 一体?・ ?、 ?° 少 年 ( 一 二〇歳︶ 臼歯三本 直立つの土器棺、屈葬の可能性があり、再葬か否か不明 晩期 鏡山一九五三
縄文時代の再葬 えで、散乱骨とある部分の骨を欠いた埋葬人骨の例をここでとりあげる。 散 乱 骨や、部分欠失人骨の成因は様々であり、たとえば獣による撹乱、 何らかの原因で部分的に骨の消失が進んだものなど、再葬に伴う行為の 結 果との識別が問題であるが、ここでは明らかに人為的な結果によるも の をとりあげる。この識別作業は、調査現場での精査がものをいう。 少 人 数 集 骨 葬 すでに述べたように、集骨葬は縄文早期中葉にさか の ぼる可能性がある、もっとも基本的な再葬のありかたである。骨の残 存 条 件を反映して、こうした事例は洞穴遺跡や貝塚地帯に多くみられる。 宮 城 県 田 柄 遺 跡 の4号土坑は、壮年二体と乳児二体の少人数集骨葬で ︵5︶ ある。乳児の一体は単葬であるが、もう一体は頭骨だけである。墓坑底 面 に は 成 人男性骨の一部を埋葬しているが、二体とも骨盤と大腿骨だけ は 解 剖 学 的 な 正 位 置 を保っている。つまり、軟部組織が遊離する前に、 な んらかの理由でこの部分だけ埋置したのである。その上に残りの骨を つ め て いる。縄文後期前葉とされる︹阿部ほか一九八二︺。 福島県三貫地遺跡からは、一九五二年の発掘調査により五〇体以上の 人 骨 が 発 掘された。屈葬・伸展葬などの単葬人骨に混じって、二基の多 人 数 集 骨 が 検出されたが、それを取り巻くようにして二つの円形の埋葬 グ ル ープが形成されている︵図1−1︶。集骨を含んだ合葬人骨がそれ ぞれのグループから一例ずつ検出された。3号と6号は二体合葬である。 6号は屈葬の単葬であるが、3号はそれと主軸を一致させた上半身の骨 に、大腿骨などをそろえて乗せた少人数集骨葬である。3号は若年の男 性、6号は壮年の女性である。8・9・12・13号は四体合葬である。大 腿骨、椎骨列がいずれの頭骨とも整合性をもたないことから、四体のう ちのいずれかあるいは複数が再葬であるとされる。四体とも女性で、壮 年 二 体と熟年二体である︹吉田一九六四、森ほか一九八八︺。三貫地遺跡 の 埋 葬 人 骨 の 大 部 分 は 後 期 前葉の土器が圧倒的な皿層に包含されている。 したがって多人数集骨は後期前葉に位置づけられるとする考えも成り立 つが、墓坑が伴うとすれば縄文後期末∼晩期の1層を掘りこんで埋葬さ ︵6︶ れ たとみるのが自然であろう。 千葉県西広遺跡からは、縄文後・晩期の人骨が四一体検出されたが、 そ のうち38号は壮年の女性であり、小さな土坑に頭骨と長管骨が明らか に 集積された状態で出土した。39号も壮年の女性であるが、浅い土坑に 頭 骨 だ け 埋葬し、浅鉢をかぶせたものである。いわゆる甕被葬の可能性 も残る。いずれも縄文晩期である︹米田ほか一九七七︺。 一九八四年におこなわれた愛知県伊川津遺跡の調査では、二一基の墓 坑と、四三体の埋葬人骨が検出された︵図1−4︶。埋葬には合葬例が 九 例 認 められたが、そのうちの五例が再葬だった。うちわけは、二体合 葬︵再葬︶三例、三体合葬︵再葬︶一例、一三体合葬︵再葬︶一例であ り、二体合葬のひとつと三体合葬例は盤状集骨葬であった。4号墓は老 年の女性と六歳前後の幼児の少人数集骨葬である。12号墓は老年の男性 と熟年の女性の少人数集骨葬である。伊川津遺跡の埋葬は、縄文晩期初 頭 から前葉の三時期にわたるが、再葬は晩期初頭の1期に限られる︹春 成 ほ か 一 九 八八︺。 内陸部でもいくつかの少人数集骨例が知られている。青森県堀合皿号
国立歴史民俗博物館研究報告 第49集 (1993)
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一 1.融県三貫地遺跡
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縄文時代の再葬 の1号石棺内には数体分の頭蓋骨や体肢骨が集積されていた︹葛西ほか 一 九 七四︺。長野県深町遺跡では、一〇基の配石を伴う土坑が検出され、 そ のうちの五基に人骨が認められた。SKO1・09・12などは、その規模 や出土状況から再葬と考えられる。このうち、SKO9は、叉状に組ん だ 大 腿 骨 に 頭 蓋 骨 を はさみ、上腕骨や小骨をまとめて置いている︵図 1−2︶。この例も含めて、深町遺跡の骨は破損したものが多い。縄文 ︵7︶ 後∼晩期の資料である︹林ほか一九七九︺。 近 畿 地 方 では、滋賀県滋賀里遺跡で人骨を出土した土坑四四例のうち ︵8︶ 二 例 〔 加藤ほか一九七三︺、大阪府鬼塚遺跡で二例のうちの二例とも、大 阪 府日下遺跡で二六例中一例︹吉村ほか一九八三・八五︺、集骨葬が報告 されている。滋賀里81号例︵図1−3︶は性別や年齢の不明な数体分の ︵9︶ 少人数集骨葬で、土坑に四肢骨を集積し、その上に頭蓋骨を乗せている。 鬼塚例は大人三体以上小人二体以上が一例と、大人二体以上小人一体以 上が一例であり、長管骨がまとめられ焼骨を含んでいる。日下例は成人 女性一体分の少人数集骨葬である。これらは土坑の中に集骨したもので あり、近畿地方の諸例はいずれも縄文晩期で、鬼塚例は晩期後葉∼終末 である。 多人数集骨葬 下総台地の縄文後期の貝塚には、単葬に混じって多 人 数 集 骨葬が広がりをみせる。千葉県権現原遺跡︹花輪ほか一九八七︺で は一七体の人骨をひとつの土坑に埋葬した多人数集骨葬が、祇園原遺跡 〔 米 田 一 九 八〇、鷹野一九八三︺では五体以上のものが三基、古作遺跡 〔岡崎ほか一九八三︺では一四体の多人数集骨葬が知られており、多人数 集 骨 を 他 の 伸 展 葬 人 骨 が 取り巻いている︵図2−1︶。権現原例は成人 が一四体と少年二体、小児一体で、男女はおよそ半々であり、古作例は 壮 年と熟年の男性九体と壮年の女性三体、幼児二体である。権現原例は 円形の土坑の真ん中に深いピットがあり、人骨もその部分は柱状に抜け て いる︵図2−2︶。これらはいずれも縄文後期前∼中葉、とくに堀之 内−式に集中する。縄文後期の多人数集骨葬は、広島県帝釈峡遺跡群寄 倉 岩陰にも認められる。これは成人骨を多く含む二二体以上のグループ と、小児骨が中心の二〇体以上のグループの二群から成る︹戸沢ほか一 九 七六、河瀬一九八八︺。 三 貫 地 遺 跡 の 「 番 外A﹂とされた多人数集骨葬は、一四体分の頭骨を 円形に並べたものである︵図111︶。青年∼熟年の男性三体、青年∼ 壮年の女性二体以外は不明である。﹁番外B﹂では九体分の頭骨を寄せ 集めて円形に埋葬しており、頭骨の内側には数本を束にしたような状態 の 長 管 骨 が 二 群 認 められる。青年∼熟年の男性四体、壮年の女性二体以 外は不明である。時期は他の埋葬とほぼ同時期の縄文後期末∼晩期前半 と考えられる。 伊 川 津 遺 跡 の =二体合葬である6号人骨群︵図1−5︶は、埋葬時に は 骨 化していた四肢骨を束ねたようなもの、軟部の残っている状態で屈 葬を意識して埋葬したもの、埋葬時に腐乱が進行している例、していな い例、焼けた幼児骨片などからなり、明らかに再葬と考えられる個体を 含んでいる。これらは、老年女性一体、熟年女性八体、熟年男性一体、 性 別 不明老年一体、幼児二体で構成されている。縄文晩期初頭。
国立歴史民俗博物館研究報告 第49集 (1993) 1.千葉県古作遺跡 3.千葉県祀園原遺跡
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4.大阪府日下遺跡土坑墓III 100㎝ (2∼4) 図2 縄文時代の再葬(2) 2.千葉県権現原遺跡P65 0−一
5.愛知県本刈谷遺跡 0 6.愛知県枯木宮遺跡 OL一___巴0㎝(5・6)縄文時代の再葬 盤 状集骨葬 三河地方では、大腿骨などの長い骨を四角に組んで、 そ の中や隅に、頭骨やその他の骨を割ったりして詰め込んだ特殊な葬法 が、古くから知られていた︹清野一九二五︺。人骨の盤状集積、すなわち 盤 状 集 骨葬である。上敷領久の集成︹上敷領一九八七︺に新たな知見を 加えると、三河湾周辺で六遺跡二例が確認できる。このうち吉胡例が 四体︹清野一九四六︺、保美の二例がそれぞれ六体と七体︹久永ほか一九 七五︺、宮東例が三体、伊川津の二例が二体と三体︹春成ほか一九八八︺の 合葬であった。性別と年齢がはっきりしているものは四例あるが、吉胡 と本刈谷例︵図215︶はいずれも男性で、伊川津例は1号が男性二体 と女性一体で、11号が男女一体ずつである。年齢は壮年から老年までわ たるが、小児も枯木宮に一例︵図2−6︶みられる。伊川津1号・枯木 宮 例 〔牧ほか一九七三︺・本刈谷例︹谷沢ほか一九七二︺は、頭蓋骨が割 り置かれている。これらは時期不詳のものもあるが、おおむね縄文晩期 前 葉 である。 散 乱骨と部分骨欠失人骨 青森県堀合−号遺跡の一二基の石棺墓の うち、四基から成人骨が︹葛西一九七四・八三︺、前出の皿号遺跡の二基 から成人骨が出土した。その多くは腕や脚などの部分骨で散乱状態であ る。青森県山野峠遺跡からも同様の石棺が検出されており︹喜田一九三 四・江坂一九六七・葛西一九八三︺、これらの遺跡には後述の再葬甕棺が 伴う。いずれも縄文後期初頭∼前葉である。長野県宮崎遺跡の石棺墓二 基 からも二次的に移動した人骨が出土した。8号石棺墓からは二体の人 骨 が出土したが、散乱状態にちかい。性別、年齢は不明。縄文後期中∼ 後葉である︹矢口ほか一九八八︺。 伊川津遺跡の一九八四年の調査では、いくつかの集骨葬とともにわず かな人骨しか出土しない土坑や、散乱した部分骨を含む土坑が九基検出 された。その多くは、集骨葬の土坑の内側に弧状に並ぶ配列をとる︵図 1−4︶。清野謙次の吉胡遺跡や愛知県稲荷山遺跡の報告︹清野一九六 九︺にも、集骨葬に混じって﹁散乱骨﹂という記載が散見される。 近畿地方では、日下遺跡において解剖学的な正位置を保った成人男性 の 屈 葬 人 骨と散乱状態の成人女性の人骨が土坑から出土した。ともに土 坑 に は 掘りかえした跡があるとされ、人骨は頭蓋骨と下顎骨を欠いてい た。土坑墓Xには頭骨のあった場所に、それに見合う大きさの礫を置い て いる︵図2−4︶。これらは晩期である︹吉村ほか一九八五︺。福岡県山 鹿遺跡の三体合葬例は、2号人骨の寛骨などが取り出されて3号人骨の 足 元 に 置 か れ て いた。縄文後期中葉である︹永井ほか一九七二︺。 ⇔ 土 器 棺 再葬の諸例 ︵10︶ 縄 文 後 期 初 頭∼前葉の十腰内−式に、青森県を中心として再葬甕棺墓 が発達した︹笠井一九一八、葛西一九七四・八三︺。これは、大形の壼に ち か い 特 徴 的な形の土器を棺とし、その中に再葬人骨を納めて、土坑や 石 榔 状 の 遣構に埋納したものである。青森県鷹架遺跡︹遠藤ほか一九八 一 〕や、薬師前遺跡︹市川一九七九.森本一九八八︺では一つの土坑に三 個 体 の 土 器棺を納めていた︵図3−1︶。 これら再葬甕棺の中に人骨が残存していたのは一一遺跡ある。このう
国立歴史民俗博物館研究報告 第49集 (1993)
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3.滋賀県滋賀里遺跡103号 4.長野県宮崎遺跡3号 2.埼玉県坂東山遺跡 5.長野県御社宮司遣跡F7号焼人骨 /
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ヘ ロヒ __,一.._一⇔……’<}⇔〈つ…皿o二⇔”⇔σ〉…一・一一 6.長野県野口遺跡 7.新潟県寺地遺跡 0一一一__一一_______2」m(餅7)縄文時代の再葬 ち 主 要な例をまとめた森本岩太郎によると、堀合−号遺跡からは成人男 性、表館遺跡からは一八∼一九歳の女性一体分、月見野遺跡からは、壮 年男性一体分、下平遺跡からは、壮年女性一体分、薬師前遺跡では、第 1号棺から壮年男性一体分、第2号棺からは性別不明の成人骨が、第3 号 棺 からは壮年女性一体分の骨が出土している。表館例は、全身の骨を 得られる限り棺に納めており、それ以外の例も頭骨や長管骨をはじめと して身体のいろいろな部位の骨が納められている場合が多い。多くは頭 蓋 骨 が棺底付近にあり、堀合−号・表館・薬師前1・3号例は、上下肢 の 長 骨 を斜めにたてかけていた︹森本一九八八︺。 埼 玉県坂東山遺跡で、同様な葬法が一例報告されている。土坑の底に 熟 年男性の頭蓋骨を置き、その上に下肢骨・肋骨・上肢骨を積み上げ、 底を欠いた深鉢を逆位にかぶせている︵図3−2︶。称名寺−式であり、 青 森 県 下 の 再 葬甕棺墓のもっとも古いものと並行する時期である︹並木 ほ か 一 九 七三︺。さらにこれを遡る中期後葉の加曽利E3式の土器棺再 葬 例 が 群 馬 県 板 倉 遺 跡 にある。倒立土器棺という点では坂東山例と一致 するが、板倉例は頭骨だけが出土しているようである。性別は不明で二 二 歳 前後である︹外山ほか一九八九︺。縄文後期の土器棺再葬は、東日本 に お い て は これ以外管見には入っていない。つづく縄文晩期には、例数 は少ないものの、比較的広範な地域で土器棺再葬墓がみられるようにな る。 前述の長野県深町遺跡からは、一二基の埋設土器の三基から骨の出土 が 報じられた。そのうちの一基であるSK−P14の人骨は焼骨の可能性 があるとされている。また、土器棺の掘り方の中に人骨を伴うものがあ るが、人骨の年齢や性別などは明らかではない。これらは縄文後・晩期 とされるものの、詳細は不明であり、焼人骨を含むとされるSK−P14 の 時 期 は 不明である。長野県宮崎遺跡の3号埋甕︵図314︶は、底を 打 ち 欠 い た甕形土器を楕円形の土坑に直立に埋設したもので、埋甕の底 に は 別 個体の土器片を敷いている。土器中の埋土から骨片が、底部の土 器片の下から、若年の成人下顎の歯列が検出された。土器片の下に下顎 の み 埋 葬したものと考えられる。土器の上半部は礫で囲まれており、中 程 に は 大きな礫が落ち込んでいた。おそらく、蓋に利用したものであろ う。時期は縄文晩期終末、氷−式である︹矢口ほか一九八八︺。 愛知県本刈谷遺跡から、一九五二年に偶然発見された深鉢の中には、 成 人 骨 が 納 められていた。人骨の性別や年齢は報告されておらず、土器 棺も晩期に属する無文土器ということ以外は不明である︹谷沢ほか一九 七二︺。このほか、土器棺から焼人骨が出土する例があるが、これは次節 で述べる。 滋賀県滋賀里遺跡から、再葬の可能性のある土器棺が出土している。 縄 文 晩期の墓域である皿c区は、不確定のものも含めると、七八基の土 坑 墓と二五基の土器棺墓が群在しているが、報告者は成人男性の頭蓋骨 の 入 っ た
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号 土 器棺、ならびに乳児・幼児の頭蓋骨と上腕骨を納めた 鵬・m号土器棺に﹁洗骨﹂の可能性を指摘している︵図3−3︶。いず ︵11︶ れも滋賀里皿b式の甕形土器を用いている︹加藤ほか一九七三︺。国立歴史民俗博物館研究報告 第49集 (1993) ⇔ 焼 人 骨葬の諸例 縄 文 時 代 にも、火葬に類する葬法が存在した。これを焼人骨葬として おく。石川日出志は、縄文・弥生時代の焼人骨を三二例集成し、検討を 加えた︹石川一九八八︺。石川は焼人骨の再葬法を、その埋葬施設によっ て 五 群 に 分 類したが、それは、a群H各種配石遺構に伴う一群︵縄文中 期 後 葉∼晩期中葉、中部高地・新潟県西部に分布︶、b群11墓坑内に直 接 焼 人 骨 を納めた一群︵縄文後期∼晩期後葉、中部高地・近畿地方に分 布︶、c群‖壷棺内、もしくはこれに関係する一群︵弥生前期∼中期前 半、愛知県から福島県までの広い地域に分布︶、d群11岩陰や洞窟を墓 地とした例︵弥生前期∼中期後半、長野・群馬県に分布︶、e群11方形 周溝墓、土坑墓に伴う例︵弥生後期、長野・群馬県に分布︶である。詳 細 は そ れ に 譲るとして、ここでは縄文晩期のa∼c群について概観して おく。 焼 人 骨 葬は、中部高地の縄文中期後葉にさかのぼって認められる。晩 期にいたって事例は増加し、その分布も新潟県一例・山梨県二例・長野 県 五例・愛知県二例・奈良県二例・大阪府一例というように格段と広が る。新潟県寺地遺跡︹関ほか一九八七︺・山梨県金生遺跡︹新津ほか一九 八九︺・上条遺跡︹大山ほか一九四こ・長野県野口遺跡︹林ほか一九六 二︺・大明神遺跡︹樋口一九六七、新谷ほか一九八八︺・奈良県宮滝遺跡 〔 末 永 一 九 四四︺の焼人骨が配石遺構に伴うa群である。 a群に属する寺地遺跡例は、敷石状配石遺構が取り巻く中心に、炉状 配 石 があり、その中に最少一一体もの焼人骨が堆積していた︵図31 7︶。金生遣跡は一体分の頭骨、四肢骨の焼骨片が配石に伴う石棺状石 組 から出土した。野口遺跡例は、四・二×二・五メートルの石榔状遺構 のなかに七基の配石が設けられている︵図316︶。配石の下からは二∼ 三体の焼人骨が検出されており、最少個体数は三一体にのぼる。また、 一 部 が 盤 状 集 骨 状 に な っ て い たという指摘もある。大明神遺跡では、配 石 の間に故意に砕かれたような焼人骨が二ご体分、層をなして堆積して いた。宮滝遺跡の配石は、小規模かつ簡略化されたものである。これら 配 石 遺 構出土の焼人骨には、焼けた獣骨を伴う例が多い。縄文中期の長 野県幅田遺跡︹金子ほか一九六五︺・梨久保遺跡︹会田ほか一九八六︺、晩 期の寺地遺跡・深町遣跡・大明神遺跡などで、ヒトの焼骨とともにシカ やイノシシなどの焼獣骨が認められるが、それらは細片化され時として 破 砕されている。これらは寺地・上条・野口・大明神・宮滝例が縄文晩 期 前∼中葉で、金生が晩期後葉である。 b群は土坑に焼人骨を納める例であり、事例はそれほど多くはない。 長 野 県 御 社 宮司遺跡例︵図3−5︶は縄文晩期終末であり、一体分の焼 人 骨 に 氷−式の土器片をかぶせていた[百瀬ほか一九八二︺。大阪府鬼塚 遣 跡 例 は 二 例とも焼人骨を含む焼人数集骨葬で、晩期後葉である。東北 地 方 でも、後・晩期の再葬による焼人骨例がいくつか知られている。岩 手 県 八 天 遺 跡 からは多数の土坑が検出されているが、そのうちの二基か ら、それぞれ男女各一体の成人二体、成人二体と未成年一体の三体以上 の 焼 人 骨 が出土した。それらは骨の部位に偏りがあり、選骨して埋葬さ