E・M・フォースター批評史
著者
石和田 昌利
著者別名
Masatoshi Ishiwada
雑誌名
白山英米文学
巻
43
ページ
1-27
発行年
2018-02
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00009875/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja一 E・M・フォースター批評史 1.イントロダクション E・M・フォースターという作家は、現在は同性愛作家や ポストコロニアル的な作品を書く作家という印象が一般的に は強いかもしれないが、最初から同性愛作家やポストコロニ アル的な作品を書く作家と考えられてきたわけではなく、か つてはリベラル・ヒューマニズムを本質とする写実主義的傾 向 と 象 徴 主 義 的 傾 向 の 共 存 す る 反 ヴ ィ ク ト リ ア ニ ズ ム の 作 家、あるいは、広い意味でのモダニストの作家の一種とさえ 考えられてきた作家であり、文学批評の方法に翻弄されて読 まれてきた作家であると言えよう。そして、これらのフォー スターの印象は、どれもフォースターという作家の側面に過 ぎず、フォースターという作家のすべてを表現するものでは ない。小論はフォースターの作品、特に、フォースターの長 編 小 説、 つ ま り、 ﹃ 天 使 も 踏 む を 恐 れ る と こ ろ ﹄︵ Wher e An -gels Fear to T read, 1905 ︶、 ﹃最も長い旅﹄ ︵
The Longest Journey
, 1907 ︶、﹃眺めのいい部屋﹄ ︵ A Room with a V iew , 1908 ︶、﹃ハワー ズ・ エ ン ド ﹄︵ Howar ds End, 1910 ︶、 ﹃ イ ン ド へ の 道 ﹄︵ A Pas -sage to India, 1924 ︶、 ﹃ モ ー リ ス ﹄︵ Maurice, 1971 ︶ の 批 評 史 で あ る。 こ れ ら の 作 品 は、 人 間 が 場 所 を 変 え る の で は な く、 場所が人間を変え、異文化の出会いや衝突、異文化による人
E・M・フォースター批評史
石和田
昌
利
二 間の成長、異文化による魂の救済を描いると一般的に捉えら れている。中村邦生、木下卓、大神田丈二の編著によるイギ リス作家作品紹介 書 ︶1 ︵ には、このようなフォースター像が一般 読者に紹介されている。フォースターの研究書で一般的に使 用 さ れ て い る 用 語 を 用 い る な ら ば、 ﹁ 人 間 に 影 響 を 与 え る 土 地の霊﹂と﹁対立する価値観の衝突﹂がフォースターの作品 の 主 題 で あ る。 た だ し、 フ ォ ー ス タ ー が 表 現 す る 異 文 化 は、 作 品 の 舞 台 と し て イ ギ リ ス 人 の 登 場 人 物 が 訪 れ る イ タ リ ア、 ドイツ、インドという文化の異なる土地ばかりではなく、ケ ンブリッジ大学を卒業した世間知らずな男が体験する営利優 先の実社会や異性愛しか知らなかった男が体験する同性愛を も 含 む の で あ る。 ﹃ ハ ワ ー ズ・ エ ン ド ﹄ の 冒 頭 に つ け ら れ た Only Connect . . . ﹁ただ結び付けるだけ…﹂ という言葉は ﹁対 立する価値観の結合﹂というフォースターの理想を表現して いる。フォースターは、その理想の実現が困難であることを 徐 々 に 実 感 し、 最 終 的 に は 現 実 に 絶 望 し て い く。 し か し、 フォースターは、体裁と真情、仮象と実在、抑圧と解放、物 質文化と精神文化、ヘテロとホモ、差異と混沌という対立の 図 式 を こ れ ら の 作 品 に 描 き 出 し、 ﹁ 対 立 す る 価 値 観 の 衝 突 ﹂ を描き出していく。また、場所がフォースターの作品では自 分 の 意 思 を 表 明 す る。 ﹃ ハ ワ ー ズ・ エ ン ド ﹄ の ハ ワ ー ズ・ エ ンドという家は住んで欲しくはないウィルコックス家の人々 の く し ゃ み を 止 ま ら せ ず、 ﹃ イ ン ド へ の 道 ﹄ の イ ン ド の 空 は 読 者 に 呼 び か け、 ﹃ モ ー リ ス ﹄ の ペ ン ジ と い う 家 は 同 性 愛 者 のクライヴを異性愛者にしてしまう。フォースターはこれら の 作 品 で こ の 主 題 を 社 会 批 判 と し て 描 き 出 し て い る。 第 一 に、ヴィクトリア朝よりもよりヴィクトリア朝らしくが強調 されたエドワード朝におけるヴィクトリア朝的な価値観への 諷刺がある。この状況はヴィクトリア朝に教育を受けた人間 が教育を与える立場に立っていたことを考えると当然である が、フォースターは表面的な上品さを重視する体裁を重んじ る考え、経済的な裕福さのみを幸福の尺度とする考え、官能 性 を 隠 蔽 さ え す る 精 神 的 価 値 を 重 ん じ る 考 え を 諷 刺 し て い る。第二に、イギリスの階級社会への諷刺を外すことはでき
三 E・M・フォースター批評史 ない。フォースターは、イギリスの中産階級をイギリスの本 質と考え、イギリスの中産階級の保守的で排他的な因襲とい う 問 題 に 注 目 し て い る。 フ ォ ー ス タ ー は、 こ れ ら の 作 品 に、 階級差別や経済格差を描き出しているが、中産階級の枠組み の外へ出ようとしない。一九世紀から二〇世紀にかけてのイ ギリスの階級社会が、上流階級、中産階級、労働者階級をそ れぞれ上層、中層、下層の三つに分けて九つの階級に分けた り、上流階級に属する人間は少ないので一つにまとめて七つ の階級に分けたり、九つの階級を更に三つに分けて二七の階 級に分けたりしていることは周知のことであろう。九つの階 級に分ける考えに従うと、フォースターは、上流階級や労働 者階級の登場人物を作品に登場させないわけではないが、登 場人物の大部分は中産階級に属している。しかし、フォース ターは、登場人物が上層中産階級、中層中産階級、下層中産 階級のいずれに所属するかによって、作品の中に異文化の出 会いや衝突を引き起こしていく。この点にフォースターの限 界を感じる読者もいるであろう。第三に、帝国主義の問題が ある。二〇世紀前半の世界を舞台にしている限り、フォース ターのこれらの作品、特に、イギリス植民地時代のインドを 作品の舞台にした﹃インドへの道﹄においてこの問題を無視 することはできない。それでは、フォースターはどのような 評価をうけてきたのであろうか。小論の目的は、海外と日本 で出版された単行本のフォースターの主要な研究書を中心と したフォースターの批評史を確認することによって、フォー スターの研究の展望の基盤とすることである。フォースター については﹃モーリス﹄の出版による同性愛の発覚が大きな ポ イ ン ト と な っ て い る こ と は 確 か だ が、 批 評 方 法 の 推 移 に 従って、海外と日本で出版された単行本のフォースターの主 要な研究書を中心に、フォースターの小説の批評史を見てい きたい。 2.リベラル・ヒューマニスト フ ォ ー ス タ ー の 小 説 に つ い て の 最 初 の 批 評 は 一 九 〇 五 年
四 一〇月に﹃ブックマン﹄に掲載された執筆者不詳の﹃天使も 踏むを恐れるところ﹄の内容を紹介する書 評 ︶2 ︵ に始まる。この 書評は、後に論文集に所収されるが、一般読者への作品の紹 介のみを目的にしたものである。フォースターの小説につい ての最初の重要な指摘は、I・A・リチャーズが、一九二七 年一二月に雑誌 ﹃フォーラム﹄ でフォースターの ﹃ハワーズ ・ エンド﹄の曖昧さを難解さと美化し、写実的傾向と象徴的傾 向を共存させている作家と捉えた指 摘 ︶3 ︵ である。F・R・リー ヴィスは一九三八年九月に雑誌﹃スクルテニィ﹄で﹃モーリ ス﹄以外の五つの長編小説をこれらの小説に共存する風刺的 要素と詩的要素の調和という観点から成功作と失敗作に分け ている。この指摘は、リーヴィスの著 作 ︶4 ︵ に所収され、フォー スターの名前が単行本の評論集に登場することになる。リー ヴィスは、 ﹃天使も踏むを恐れるところ﹄ と ﹃眺めのいい部屋﹄ を 成 功 作 と 捉 え、 ﹃ 最 も 長 い 旅 ﹄ と﹃ ハ ワ ー ズ・ エ ン ド ﹄ を 失 敗 作 と 捉 え、 ﹃ イ ン ド へ の 道 ﹄ を リ ベ ラ リ ズ ム の 伝 統 を 強 く意識させる代表作として賞賛している。ヴァージニア・ウ ルフとローズ・マコーリーというフォースターと同時代の二 人の女性作家がさらにフォースターの評価を決定づける。マ コーリーは、単行本にまとめられた最初のフォースターの研 究 書 ︶5 ︵ を出版し、フォースターをリベラリズムの伝統に属する 作 家 と 捉 え る 礎 を 作 り 上 げ た と 言 え よ う。 一 方、 ウ ル フ は、 アーノルド ・ ベネット、ジョン ・ ゴールズワージィ、H ・ G ・ ウ ェ ル ズ の 三 人 の 先 輩 作 家 を 客 観 的 事 実 を 時 系 列 的 に 描 き、 つ ま ら な く て 冗 長 な 小 説 を 描 く マ テ リ ア リ ス ト と し て 批 判 し、ジョイス、ロレンス、ウルフ自身と共にフォースターを 人 間 の 心 の 底 を 描 く 心 理 主 義 的 作 家 に 含 め た 指 摘 ︶6 ︵ を し、 フォースターを新時代の旗手の一人に祭り上げていく。しか し、フォースターの小説には、ヴィクトリア朝小説の伝統的 な技法しかなく、人間の心理を描いてはいるが、ジョイスや ウルフの﹁意識の流れ﹂のような実験的な技法やロレンスの 反社会的とも言えるような斬新な思想はない。このように考 えると、フォースターはモダニストではない。あえて言うな らば、ウルフにモダニストにされてしまった作家である。ウ
五 E・M・フォースター批評史 ルフはフォースターの小説の作品 論 ︶7 ︵ も書いている。 ウルフは、 そ の 批 評 に お い て、 ﹃ イ ン ド へ の 道 ﹄ 以 外 の 長 編 小 説 に お け る写実と象徴の不調和を指摘している。フォースターは、技 法においてはリアリズムの小説家として論じられることから 始まるが、斬新な技法を用いないが、リアリズムだけに収ま らないものを読者に感じさせていたことは確かである。 フォースターの小説が訴える内容を考えてみると、フォー スターへの初期の批評はリベラル・ヒューマニズムという言 葉 か ら 切 り 離 せ な い。 第 二 次 世 界 大 戦 の 後 も、 最 初 は、 フォースターの評価は賞賛と非難の混ざったものである。例 えば、D・S・サヴェッジは二〇世紀イギリスの代表的な小 説家としてフォースターを取り上げた批 評 ︶8 ︵ において写実と象 徴 の 矛 盾 と 対 立 を 徹 底 的 に 非 難 し て い る。 一 方、 ア ー ノ ル ド・ケトルはイギリス小説 論 ︶9 ︵ においてリベラリズムを超える 態 度 を 持 つ リ ベ ラ リ ス ト の 作 家 と し て 賞 賛 し て い る。 し か し、 フ ォ ー ス タ ー は 本 格 的 に 研 究 の 対 象 と な り、 フ ォ ー ス ターの小説は、同時代批評のように、書評による一般読者へ の作品紹介や同時代作家による指摘ではなく、フォースター 研究者によって系統的に論じられていくことになる。その多 くの研究書は、フォースターの六つの長編小説、一九七一年 以前は﹃モーリス﹄以外の五つの長編小説に発表年順に各一 章を割り当て、前後の章で短編小説、演劇、批評を扱った単 行本である。もちろん、フォースターの一作品にのみ焦点を 絞ったフォースターの研究書がないわけではない。時代を無 視した指摘にはなるが、J・P・レヴィンの研究 書 ︶10 ︵ 、マルコ ム ・ ブラッドベリーの編著によるケース ・ ブッ ク ︶11 ︵ 、ジェレミー ・ タンブリングの編著による新しいケース・ブッ ク ︶12 ︵ はいずれも ﹃ イ ン ド へ の 道 ﹄ の み を 論 じ た も の で あ る。 こ れ は﹃ イ ン ド への道﹄がフォースターの代表作として捉えられてきたこと を実感させる。日本においても林節雄の研究 書 ︶13 ︵ や立野正裕の 研究 書 ︶14 ︵ は﹃インドへの道﹄のみを扱っているものと﹃インド への道﹄を中心に扱ったものである。また、フォースターの 長 編 小 説 を 扱 わ ず、 フ ォ ー ス タ ー の 短 編 小 説 の み を 扱 っ た J・S・ハーツの研究 書 ︶15 ︵ やフォースターの批評のみを扱った
六 ルーキン・アドバーニの研究 書 ︶16 ︵ もある。日本においても、小 比 賀 香 苗 の 研 究 書 ︶17 ︵ は フ ァ ン タ ジ ッ ク な 短 編 小 説 の み を 扱 い、 戸田仁の研究 書 ︶18 ︵ は牧神パンを主題とするフォースターの短編 小説とD・H・ロレンスの短編小説の比較研究である。しか し な が ら、 研 究 書 の 主 流 は フ ォ ー ス タ ー の 六 つ の 長 編 小 説、 一九七一年以前は﹃モーリス﹄以外の五つの長編小説に発表 年順に各一章を割り当てたものである。 ニュー・クリティシズムとも思想を中心とした批評とも袂 を 分 か つ ヒ ュ ー マ ニ ス ト の 立 場 を 取 る 批 評 家 の ラ イ オ ネ ル・ トリリングは、第二次世界大戦中に、このような単行本の形 式で、フォースターの﹃モーリス﹄以外の五つの長編小説を 詳細に分析し、フォースターは、常にリベラリズムの伝統に 属するが、リベラリズムの理想主義に埋没していないリベラ ル・ヒューマニストとして研究 書 ︶19 ︵ で捉え、フォースターを高 く評価している。穏当で健全な考えを持つフォースター像の 完成である。フォースターをリベラル・ヒューマニストとし て の み 評 価 す る 批 評 は す で に 時 代 遅 れ の も の で あ る が、 フォースターのリベラル・ヒューマニストとしての側面を現 在においても完全に否定することもできない。また、フォー スターの長編小説を発表年順に詳細な分析をして考察するト リリングの研究方法はその後のフォースターの長編小説研究 の 手 本 と な っ て い く。 リ ベ ラ ル・ ヒ ュ ー マ ニ ス ト と し て の フ ォ ー ス タ ー の 評 価 は 第 二 次 世 界 大 戦 後 の し ば ら く の 間 は フ ォ ー ス タ ー に つ い て の 批 評 の 支 配 的 な 傾 向 に な る。 そ し て、フォースターのヒューマニズムが天上的な価値の虚しさ と地上的な価値のはかなさを自覚するペシミズムを含んでい ることを主張するF・C・クルーズの研究 書 ︶20 ︵ はフォースター のヒューマニズムに対する最終的な判断になっている。すな わち、フォースターのリベラル・ヒューマニズムは最終的に は何も達成できない理想主義に過ぎなかったという意地の悪 い 見 方 に も 説 得 力 を 持 た せ る こ と に な る。 フ ォ ー ス タ ー は 一 九 〇 五 年 か ら 一 九 六 〇 年 頃 ま で こ の よ う な リ ベ ラ ル・ ヒューマニストの作家として捉えられていたのである。日本 で最初のフォースター紹介書と言える近藤いね子の編著によ
七 E・M・フォースター批評史 るフォースターの紹介 書 ︶21 ︵ 、近藤いね子の編著によるフォース ターの紹介書において作品紹介の多くを執筆した阿部義雄の 研究 書 ︶22 ︵ 、近藤いね子の編著によるフォースターの紹介書にお いてフォースターの評価を担当した松村達雄の研究 書 ︶23 ︵ はこの 流 れ に 属 す る も の で あ る と 言 っ て 良 い。 し か し、 リ ベ ラ ル・ ヒューマニストとしてだけフォースターを捉える考えはもは や 過 去 の も の に 過 ぎ な い。 こ の よ う な 状 況 の 中 に お い て、 一九九〇年代末に、フォースターの﹃最も長い旅﹄ 、﹃ハワー ズ・エンド﹄ 、﹃インドへの道﹄をイギリスのエドワード朝の リベラリズムの歴史を踏まえて、フォースターの作品をリベ ラリズムからのみ再度読み直すブライアン・メイの研究 書 ︶24 ︵ は 逆に異彩を放っている。 3.シンボリック・リアリスト フォースターの小説をリアリズムとして捉える研究はロレ ン ス・ ブ ラ ン ダ ー が 一 九 七 〇 年 に 発 表 す る 研 究 ︶25 ︵ ま で 続 く が、 フォースターはある意味で象徴主義者であると指摘するフラ ンク・カーモードのフォースターの作品解 釈 ︶26 ︵ がフォースター の小説研究の主流を作り出していく。すなわち、シンボリッ ク・ リ ア リ ス ト と し て フ ォ ー ス タ ー を 捉 え る 考 え 方 で あ る。 ニュー・クリティシズムを起点として文学作品の技法への拘 りは、やがて構造主義や脱構築に発展し、フォースターの長 編小説研究に大きな影響を与え、リベラル・ヒューマニスト と し て フ ォ ー ス タ ー を 考 察 す る 研 究 に 取 っ て 替 わ る。 ﹃ 天 使 も踏むを恐れるところ﹄ 、﹃最も長い旅﹄ 、﹃眺めのいい部屋﹄ 、 ﹃ ハ ワ ー ズ・ エ ン ド ﹄ に お け る 写 実 と 象 徴 の 不 調 和 を 指 摘 し たウルフの考察はフォースターの小説の技法に注目する研究 者を生み出していく。そして、この始まりはフォースター自 身 が 一 九 二 七 年 に 発 表 し た 小 説 論﹃ 小 説 の 諸 相 ﹄︵ Aspects of the Novel, 1927 ︶ に あ る。 ジ ェ イ ム ズ・ マ ッ コ ン キ ー は﹃ 小 説の諸相﹄で扱われた小説の諸要素であるストーリー、登場 人物、 プロット、 幻想、 予言、 パターン、 リズムを自分のフォー スター 論 ︶27 ︵ の各章の題目に応用したのである。 リベラル ・ ヒュー
八 マ ニ ス ト と し て フ ォ ー ス タ ー を 考 察 し た 研 究 者 も フ ォ ー ス タ ー の 小 説 の 技 法 に ま っ た く 注 目 し な か っ た わ け で は な く、 トリリングもフォースターの長編小説の技法にも鋭い解釈を 与えているが、マッコンキーは新しい方向を目指そうとした のである。しかし、マッコンキーは、フォースターの﹃モー リス﹄以外の五つの長編小説を発表年順に作品論として論じ るが、 喜劇性に潜むペーソスを指摘する作家の評価に留まり、 フ ォ ー ス タ ー の 小 説 の 技 法 に 注 目 し た だ け に 甘 ん じ て い る。 一九六〇年代に入ると、フォースターの作品に内在する不調 和に対する拘りは鮮烈なものになる。穏当なフォースター研 究家K・W・グランズデンの研究 書 ︶28 ︵ は、一九六〇年代の活発 なフォースター研究の幕開けであり、 作品の連続性を重視し、 フォースターの﹃モーリス﹄以外の五つの長編小説を発表年 順に考察し、フォースターの成長を考察している。フォース ターは ﹃インドへの道﹄ へ向かって円熟するという考えも徐々 に固まっていく。J・B・ビアは、イギリス社会の諷刺、深 い倫理性を持つ道徳観、古代ギリシア世界に繋がる想像力の 共存をフォースターの難解さの原因と考え、フォースターを ブレイクやコールリッジの系譜に繋がるロマン主義作家とい う見解を示す研究 書 ︶29 ︵ を発表する。内的な想像力と外的な知覚 力、合理主義的な知性と美的な感性の相克、矛盾、対立とい うフォースターの特性をロマン主義の特徴として捉えるので ある。ビアは内的な想像力を制御しているフォースターの鋭 敏な現実感覚にロマン主義を感じたのである。ビアはフォー スターの作品の写実と象徴の不調和をこのように解決しよう と試みたのである。アラン・ワイルドの研究 書 ︶30 ︵ はビアの流れ を受け継ぐものである。しかし、フォースターにロマン主義 者的な感覚を認めながらも、フォースターをロマン主義者と 考えている批評は現在では皆無であり、ビアとワイルドは批 評の迷宮に入り込んでしまったとしか言えない。しかし、ビ ア と ワ イ ル ド の 研 究 は 無 意 味 で は な い。 ビ ア と ワ イ ル ド は、 フォースターの作品の難解と考えられてきた象徴性に大胆な 解釈を試み、各作品の細部に及ぶ分析に着手している。ビア の特筆すべき点はフォースターの﹃モーリス﹄以外の五つの
九 E・M・フォースター批評史 長編小説が﹁人間に影響を与える土地の霊﹂という問題に密 接に関係していることを主張した点である。やがて、フォー スターはリアリズムを越える偉大な作家としてG・H・トム ソンに評 価 ︶31 ︵ されることになる。フォースターの六つの長編小 説に潜む﹁人間に影響を与える土地の霊﹂という問題は、や がてジョン・コルマーの研究 書 ︶32 ︵ に継承され、フォースターの 全 作 品 を 貫 く 重 要 な 問 題 と し て 扱 わ れ て い く の で あ る。 二〇一一年に出版された塩田伊津子の研究 書 ︶33 ︵ もフォースター の六つの長編小説に描かれている場所の影響力に焦点を絞っ た研究である。 ニュー・クリティシズムからノースロップ・フライの原型 批評、クロード・レヴィ=ストロースやロラン・バルドの構 造主義批評、ポール・ド・マンやヒリス・ミラーの脱構築批 評へと発展する作品の構造や技術を中心とした批評はフォー スターの作品研究に影響力を与えていく。特に、作者の意図 を考慮せずに作品を分析し、作品は固有の意味を持つもので はなく、読解という行為を受けるテクストであると考える構 造主義批評の基本的な姿勢、および、構造主義批評から発展 してくるナラトロジーがフォースターの作品の写実と象徴の 不調和の問題を解決していく。それは、フォースターがリベ ラル・ヒューマニストと捉えられていたことを忘却の彼方へ 追 い や り、 こ れ ら の 批 評 の 興 味 深 い 研 究 対 象 と し て シ ン ボ リック ・ リアリストのフォースターの姿を強調し、 読者に様々 な解釈を提供する。 ウィルフレッド ・ ストーンはフォースター の長編小説の写実と象徴の不調和にJ・G・ユングの分析心 理 学 を 導 入 し た 研 究 書 ︶34 ︵ を 発 表 す る。 ス ト ー ン は、 ﹃ イ ン ド へ の道﹄のマラバー洞窟を原始への回帰を表す象徴と捉え、マ ラバー洞窟の反響音を永劫の回帰性と虚無の暗示と捉える解 釈に代表される大胆で刺激的な解釈を提供するが、テクスト の解釈の決定性という点を問題にした場合、ストーンの分析 心理学的なフォースターの作品の解釈の信憑性については意 見が分かれるところである。 しかし、一九七〇年代以降のフォースターの研究書におい て、原型批評、構造主義批評、脱構築批評の批評用語を使用
一〇 した批評は主流にはならない。すなわち、フォースターの研 究書は、これらの批評の影響を受けながらも、伝統的な表現 方 法 に よ っ て 書 き 続 け ら れ て い る と 言 え る。 J・ S・ マ ー ティンの研究 書 ︶35 ︵ やグレン・キャバリエロの研究 書 ︶36 ︵ に代表され る一九七〇年代以降のフォースターの作品の解釈は、作者の 意図を考慮せずに作品を分析し、作品は固有の意味を持つも のではなく、 読解という行為を受けるテクストであると考え、 対象となる作品の共通の要素に焦点を絞り、ナラトロジーを 利用し、対象となる作品を読解する路線を切り開いていると 言うほうが正確であろう。この傾向を持つフォースター研究 者 は、 一 九 七 一 年 の﹃ モ ー リ ス ﹄ の 発 表 と と も に 露 見 し た フォースターの同性愛者という側面を軽く受け流すかのよう に、 一九八〇年代になってもこの路線の研究を継続し、 深め、 多方面への展開を見せている。バーバラ・ロゼクランスの研 究 書 ︶37 ︵ はその方向性を代表しているが、C・J・サマーズの研 究 書 ︶38 ︵ 、ノーマン・ペイジの研究 書 ︶39 ︵ 、S・K・ランドの研究 書 ︶40 ︵ も、この路線で、フォースターの六つの長編小説に潜む対立 の図式、衝突、結合に注目し、それらの作品の分析と考察を している。特に、ペイジが﹃モーリス﹄をマイナー・フィク ションとして扱っているのは印象的である。二〇〇二年に出 版されたマイク・エドワーズの研究 書 ︶41 ︵ を参照しても、フォー スターの同性愛という側面のみを強調しないフォースターの 長編小説の研究は、存続し、現在に至っているといっても良 い。 エ ド ワ ー ズ は、 ﹃ 天 使 も 踏 む を 恐 れ る と こ ろ ﹄ と﹃ モ ー リ ス ﹄ を 研 究 の 対 象 か ら 外 し、 ﹃ 最 も 長 い 旅 ﹄、 ﹃ 眺 め の い い 部 屋 ﹄、 ﹃ ハ ワ ー ズ・ エ ン ド ﹄、 ﹃ イ ン ド へ の 道 ﹄ の 第 一 印 象、 作品の舞台、登場人物、出会い、人間関係、結果という作品 の要素に注目している。日本においても、岡村直美の研究 書 ︶42 ︵ はフォースターの長編小説の登場人物の価値観に考察の焦点 を絞り、筒井均の研究 書 ︶43 ︵ はフォースターの長編小説の作品の 舞台に考察の焦点を絞り、川口能久の研究 書 ︶44 ︵ は登場人物の人 間 関 係 に 考 察 の 焦 点 を 絞 り、 山 本 洋 子 の 研 究 書 ︶45 ︵ は フ ォ ー ス ターの長編小説の対立の図式に考察の焦点を絞っている。 テクストへの執着はフォースターのマニュスクリプト、フ
一一 E・M・フォースター批評史 ラグメント、バリアントにも注目の眼を向けさせる。フォー スターの長編小説のスタンダード・エディションである﹃ア ビンジャー・エディション﹄ ︵ The Abinger Edition ︶にはマニュ ス ク リ プ ト が 各 作 品 の テ ク ス ト の 後 に 所 収 さ れ て い る。 ﹃ 天 使も踏むを恐れるところ﹄ 、﹃最も長い旅﹄ 、﹃眺めのいい部屋﹄ 、 ﹃ モ ー リ ス ﹄ は、 マ ニ ュ ス ク リ プ ト が 多 量 に な ら な い の で、 一 冊 の 書 籍 の 中 に 収 め ら れ て い る が、 ﹃ ハ ワ ー ズ・ エ ン ド ﹄ と﹃ イ ン ド へ の 道 ﹄ は 別 冊 に な っ て い る。 更 に、 ﹃ 眺 め の い い 部 屋 ﹄ に は﹃ ル ー シ ー 小 説 ﹄︵ The Lucy Novels, 1977 ︶ と い うバリアントが存在する。長編小説として計画されて途中ま で 書 か れ た﹃ 北 極 の 夏 ﹄︵ Ar ctic Summer , 1980 ︶ と い う 失 敗 作 の フ ラ グ メ ン ト も 登 場 人 物 の 性 別 を 女 性 か ら 男 性 に 変 え た ﹃ ハ ワ ー ズ・ エ ン ド ﹄ の バ リ ア ン ト と 捉 え ら れ な い こ と も な い。 レヴィンの研究書やコルマーの研究書で行われていた ﹃イ ン ド へ の 道 ﹄ を マ ニ ュ ス ク リ プ ト と 比 較 す る テ ク ス テ ュ ア ル・クリティシズムは二一世紀にはディヴィッド・メダリの 研究 書 ︶46 ︵ に受け継がれている。日本においても、石塚裕子の研 究 書 ︶47 ︵ は﹃眺めのいい部屋﹄と﹃眺めのいい部屋﹄のバリアン トの﹃ルーシー小説﹄を比較するテクステュアル・クリティ シズムを行っている。フォースターの隠蔽されていたテクス トの公開はフォースターの隠蔽されていた人生の秘密を露見 させることになる。それは、フォースターの同性愛を裏づけ るばかりではなく、フォースターが、自ら作品で諷刺してい るものを実際には尊んでいる人間であり、表面的な上品さを 重視する体裁を重んじ、経済的な裕福さのみを幸福の尺度と 考え、インテリであることを自慢しているヴィクトリアンで あり、同性愛者であることが露見して社会的な地位を失うこ とばかり心配していた臆病者であったことを垣間見せてくれ る。そのうえ、フォースターは、批評では穏健な知識人とし て立派なことを言いながらも、周囲の状況に合わせて平気で 意見を覆す作家だったのではないかと考えることが可能にな る。フォースターが数々の批評で主張した意見は現在このよ うに説得力がない。もっとはっきり言えば、フォースターの 政治批評、 社会批評、 文化批評は裕福な作家の戯言であろう。
一二 しかし、長編小説、短編小説、戯曲、旅行記は、今も、輝き を持ち続けている。それは、これらの作品は、作品本来の主 題を社会諷刺や喜劇性に潜ませた作品本来の魅力に加え、こ の後に考察していくホモセクシャルやポストコロニアルの側 面からの研究ばかりではなく、映画化によって一般の読者や 観 客 に と っ て も 魅 力 的 な も の に な っ て い る か ら で あ る。 フ ォ ー ス タ ー が 作 品 に 用 い た 技 法 に 焦 点 を 絞 っ た フ ォ ー ス ターの作品分析は現在もフォースターの作品研究の基盤とい う位置を失っていない。 4.ホモセクシャル フォースターの死後の一九七一年の﹃モーリス﹄の出版が フォースターの同性愛を露見させたことは紛れもない事実で ある。一九七一年以前に出版されたフォースターについての 伝記は、意味のないものになったとまでは言えないが、同性 愛 者 フ ォ ー ス タ ー の 姿 を 欠 落 さ せ た、 あ る い は、 同 性 愛 者 フォースターの姿を隠蔽したものになってしまったことを否 定することはできない。特に、J・R・アッカリーの伝 記 ︶48 ︵ よ うに、フォースターと同性愛関係にあった男性によって書か れ た フ ォ ー ス タ ー の 伝 記 な ど 信 用 で き る は ず が な い。 P・ N・ フ ァ ー バ ン ク の 伝 記 ︶49 ︵ と フ ラ ン シ ス・ キ ン グ の 伝 記 ︶50 ︵ は、 フォースターの同性愛を認めながらも、フォースターの人生 をすべて同性愛に繋げず、フォースターの人生を冷静に記録 しようとしている。そのために、ファーバンクの伝記とキン グ の 伝 記 が フ ォ ー ス タ ー の 人 生 を 伝 え る 基 準 に な っ て い る。 しかし、フォースターの人生には隠された事実があまりにも 多い。その原因が同性愛者であることが露見して社会的な地 位を失うことばかり心配していた臆病なフォースターの姿勢 に あ る こ と は 明 ら か で あ る。 一 九 九 〇 年 以 降 に 出 版 さ れ た フォースターの伝記、例えば、ニコラ・ボーマンの伝 記 ︶51 ︵ 、メ アリー・ラーゴーの伝 記 ︶52 ︵ 、ウェンディ・モファットの伝 記 ︶53 ︵ は フォースターの記録されていなかった履歴の暴露を目的にし ていると言っても良いだろう。フォースターの隠された新事
一三 E・M・フォースター批評史 実の発見は確かに読者に購買意欲を掻き立てる。同性愛者で あ る こ と を 隠 し 続 け て き た フ ォ ー ス タ ー の 人 生 は フ ォ ー ス ターの伝記作者をフォースターの秘密の探求に向かわせ続け ているのである。特に、ボーマンは、フォースターが作品の 登場人物に男性であろうと女性であろうと自己投影をし、女 性の登場人物への自己投影は擬装された同性愛小説を潜在さ せているという主張をし、フォースターの作品における﹁擬 装 ﹂ と い う 問 題 を 投 げ 掛 け て い る。 こ の よ う に、 フ ォ ー ス ターの同性愛の露見とフォースターの同性愛を容赦なく追求 する伝記批評はジェンダーを意識したフェミニズム批評、ホ モセクシャル・レズビアン批評、クィア・セオリー批評とい う思想を中心とした批評をフォースターの研究に意識させる ことになる。しかし、女性の登場人物への男性の作家の自己 投影による擬装された同性愛小説という着想は研究対象とす る 作 品 の 登 場 人 物 の 性 別 と 性 差 を 曖 昧 な も の に し て い る。 フェミニズム批評の基本は、ジュリア・クリステヴァやルー ス・イリガレイがイデオロギーとしてのフェミニズムを記号 論に発展させてしまう以前には、男性の視点からの作品解釈 を女性の視点から読み直すことであったと言えよう。フォー ス タ ー の 作 品 の 登 場 人 物 の 性 別 と 性 差 が 確 定 さ れ て い れ ば、 ホモセクシャル・レズビアン批評やクィア・セオリー批評か らのジェンダーを意識した研究は可能であるが、作品の登場 人物の性別が擬装されているとなると、あるいは、作品の登 場人物の性別が表層と深層で両方の性別を与えられていると なると、 この批評の立場からの作品の考察は説得力が乏しい。 フ ォ ー ス タ ー が 同 性 愛 者 だ っ た と い う 事 実 の 発 覚 は、 フォースターの研究書のすべてを同性愛一色に変えてしまう ことはなく、 作者が同性愛者であることを認めての作品解釈、 同性愛的な側面を認めた上での作品の再解釈、せいぜい、擬 装された同性愛小説として作品の読み直しを生み出す程度で ある。また、コルマーの研究書やB・B・フィンケルシュタ イ ン の 研 究 書 ︶54 ︵ は、 フ ォ ー ス タ ー の 同 性 愛 の 露 見 以 前 か ら、 フォースターの同性愛の噂を意識したフォースターの作品の 考察をしている。フォースターの同性愛の側面を認めながら
一四 も、フォースターの同性愛の側面を強調しない研究者と研究 書はシンボリック・リアリストのフォースターの研究者と研 究 書 と し て 言 及 し た と お り で あ り、 二 一 世 紀 の 小 野 寺 健 の フォースターの研究 書 ︶55 ︵ においても、 その方向性は変わらない。 しかし、フォースターの研究者と研究書のすべてがフォース ターの同性愛者としての側面を軽視や無視をしているわけで はない。フォースターの長編小説の登場人物の人間関係を同 性愛として読み直した研究書の代表はアーサー・マートラン ドの研究 書 ︶56 ︵ である。マートランドはフォースターが同性愛的 な側面のために完成させなかったり出版しなかった作品に注 目する章さえも設けている。R ・ K ・ マーティンとジョージ ・ ピグフォードの編著による論文集はフォースターの同性愛の 側面ばかりを強調した過激な論文 集 ︶57 ︵ である。P・K・バクシ の研究 書 ︶58 ︵ は、フォースターの長編小説の登場人物の人間関係 を 同 性 愛 と し て 読 み 直 し、 ﹃ イ ン ド へ の 道 ﹄ を 対 象 と す る 考 察ではホモセクシャリズムとオリエンタリズム、つまり、同 性 愛 の 側 面 と ポ ス ト コ ロ ニ ア ル の 側 面 を 結 び つ け る 研 究 に なっている。日本におけるフォースターの研究書は、フォー スターの同性愛を軽く受け流しており、同性愛の側面を強調 していないものが主流である。阿部幸子の研究 書 ︶59 ︵ は、フォー ス タ ー の 同 性 愛 と い う 側 面 に ヒ ス テ リ ッ ク に 嫌 悪 を 示 し、 フォースターの同性愛という側面から意図的に眼を背けてさ えいる。しかし、フォースターの同性愛という側面を強調し ている研究者が日本にいないわけではない。石塚裕子の研究 書は、フォースターのイタリアを同性愛の世界と捉え、ボー マンの伝記の擬装された同性愛小説として ﹃眺めのいい部屋﹄ を捉える考えを受け入れている。 ﹃モーリス﹄ の出版がフォー ス タ ー の 同 性 愛 を 露 見 さ せ た 後 も、 ﹃ モ ー リ ス ﹄ は フ ォ ー ス ターの長編小説の中心として捉えられていかない。ペイジが ﹃ モ ー リ ス ﹄ を フ ォ ー ス タ ー の マ イ ナ ー な 作 品 と し て 扱 っ て い る こ と は す で に 指 摘 し た と お り で あ る。 ﹃ モ ー リ ス ﹄ は フ ォ ー ス タ ー の 長 編 小 説 に 加 え ら れ る が、 ﹃ イ ン ド へ の 道 ﹄ をフォースターの長編小説の中心に据える方法が一般的には 踏襲されている。フォースターは同性愛者であることの発覚
一五 E・M・フォースター批評史 を ひ た す ら 恐 れ て い た が、 二 一 世 紀 を 迎 え た 世 界 に お い て は、同性愛はさほど珍しい現象ではなくなってきている。ま た、作者の意図を考慮せずに作品を分析し、作品は固有の意 味を持つものではなく、読解という行為を受けるテクストで あると考える構造主義批評の基本的な姿勢が作者の同性愛ど ころか作者の違法行為や犯罪行為までも軽視あるいは無視さ せている。このような未来を予測できなかったフォースター はヴィクトリア朝のイギリスの既成の社会通念から脱してい ない人間である。現在のフォースター研究においてフォース ターの同性愛的な側面を完全に無視している研究者は皆無と 言って良いだろう。今後のフォースター研究において、紹介 してきたフォースターの同性愛的な側面を強調しているよう な研究が飛躍的に増えるようには思えないが、フォースター の同性愛的な側面を意識して研究せざるを得ないだろう。同 性愛作家としてフォースターを誰もが受け入れなければなら ないのである。特に、日本においてもすでに石塚裕子の研究 書で取り上げられた女性の登場人物への男性の作家の自己投 影 に よ る 擬 装 さ れ た 同 性 愛 小 説 と い う ボ ー マ ン の 着 想 は フォースターの作品における登場人物の性別の逆転という信 じられない珍説まで生み出している。もはや、男同士の友情 を同性愛に置き換えるだけでは済まないのである。フォース ターの同性愛という側面がフォースターの小説の登場人物の 再検討を呼び起こしていくことはフォースター自身にも予想 できなかったであろう。そして、フォースターの伝記的な事 実のすべてが完全に確定し、フォースターの作品の登場人物 の偽装された性別が解き明かされた時、フェミニズム批評か ら 発 展 し た ホ モ セ ク シ ャ ル・ レ ズ ビ ア ン 批 評 か ら の ジ ェ ン ダ ー を 意 識 し た 研 究 は 可 能 に な る。 し か し、 フ ォ ー ス タ ー は、先天的な同性愛者であり、大伯母マリアン・ソーントン による幼いフォースターへの女装の強制はフォースターの同 性 愛 を 目 覚 め さ せ る き っ か け に す ぎ な か っ た の か、 あ る い は、フォースターは、後天的な同性愛者であり、幼いフォー スターへの女装の強制がフォースターを同性愛者へ変貌させ たのかという問題は永遠に解決がつかないかもしれない。作
一六 家が影響を受けた人間、書籍、出来事、言葉、生活環境を調 べ 上 げ て、 作 家 の 作 品 を 読 み 直 す 新 歴 史 批 評 の 研 究 方 法 は、 フォースターの伝記的な事実のすべてが完全に確定していな いので、フォースターの研究においては現在は決定力を持た ないが、フォースターの謎を解明する助力となってくれる可 能性はある。 注目すべき点はフォースターの人間関係である。 5.ポストコロニアル 原型批評、 構造主義批評、 脱構築批評、 計量分析、 物語論、 新文体論のような作品の構造や技術を中心とした批評や精神 分析批評、フェミニズム批評、ホモセクシャル・レズビアン 批評、クィア・セオリー批評のような思想を中心とした批評 が フ ォ ー ス タ ー 研 究 に 影 響 力 を 持 ち 続 け て い る の に 対 し て、 レイモンド・ウィリアムズやテリー・イーグルトンによるマ ルキシズム批評は、思想を中心とした批評を代表してきたと 言 っ て も 良 い が、 フ ォ ー ス タ ー 研 究 の 中 心 に は な ら ず、 フ ォ ー ス タ ー の 作 品 に お け る 階 級 問 題 を 強 く 意 識 さ せ、 フォースターが描く世界の限界を実感させる程度に留まって いる。上層中産階級、中層中産階級、下層中産階級の間の階 級問題は﹃最も長い旅﹄ 、﹃眺めのいい部屋﹄ 、﹃ハワーズ・エ ン ド ﹄、 ﹃ モ ー リ ス ﹄ に お い て 描 か れ て は い る が、 フ ォ ー ス ターが描くイギリスは、中産階級にのみに限定されていると までは言わないが、中産階級を中心とした社会の枠組みから 逸脱しない。上層中産階級と中層中産階級に属する大部分の 登場人物は、 不労所得で生活しているか企業の経営者であり、 生 活 の 臭 い や 労 働 の 汗 を 感 じ さ せ な い。 ﹃ 最 も 長 い 旅 ﹄ の 羊 飼いスティーヴン・ウォナムや﹃眺めのいい部屋﹄の鉄道員 ジョージ・エマソンは、下層中産階級か労働者階級に属して いるが、働いている場面や経済的に不満を抱いている場面は 一切描かれていない。それどころか、スティーヴンはギリシ ア神話の牧神パンを想起させる登場人物である。階級を意識 させる登場人物は﹃ハワーズ・エンド﹄の下層中産階級のレ ナード・バストと﹃モーリス﹄の同性愛の使用人アレク・ス
一七 E・M・フォースター批評史 カダーぐらいであり、経済的な意味で社会に不満を感じ、階 級 闘 争 を し て い く こ と が 作 品 に 描 か れ て い る 登 場 人 物 は レ ナードのみである。むしろ、フォースターが読者に強く意識 させるのは階級の壁である。岡山勇一の研究 書 ︶60 ︵ は、フォース ターが小説を書かなくなっていく謎を追いながら、イギリス の中産階級と同性愛の問題に焦点を絞り、六つの長編小説を 論じている。 最初にも述べたように、フォースターは、イギリス人が異 文化を持つ作品の舞台訪れるという形式で作品を描き、実際 にイタリア、ドイツ、インドという文化の異なる土地がイギ リスと対照される作品の舞台になる。そこに、描き出される ものは、階級の壁ばかりではなく、人種の壁、民族の壁、言 葉 の 壁、 宗 教 の 壁 で あ り、 階 級 差 別、 人 種 差 別、 民 族 差 別、 宗教差別が横行する世界である。フォースターがこのように 描き出す、中産階級を中心と捉え、その他の階級を周縁と捉 える階級意識や、イギリスを中心と捉え、その他の国を周縁 と捉える世界観は、一九九〇年代になると、E・W・サイー ドのポストコロニアリズムから発展したポストコロニアル批 評 の 格 好 の 研 究 対 象 に な っ て い く。 な ぜ な ら ば、 フ ォ ー ス タ ー は、 ﹃ イ ン ド へ の 道 ﹄ で は 実 際 に 植 民 地 の イ ン ド を 作 品 の舞台にしているだけではなく、中心となるものと周縁とな るものを作品に描き出しているからある。ポストコロニアル 批評はサィーデイズムによるフォースターの作品の読み直し に始まる。サィーデイズムのポストコロニアル批評の基本姿 勢は、西洋人によって文学や歴史に描かれた旧植民地を中心 とした非西洋世界という作品の舞台を実際にその作品の舞台 に 暮 ら す 人 間 の 視 点 か ら 読 み 直 す と い う も の で あ る。 特 に、 東洋人によるフォースターの作品のサィーデイズムを用いた 読み直しは、辛辣であり、イギリス人の帝国主義を﹁イング リッシュネス﹂として糾弾する。フォースターがイギリス中 産階級の特性を表現するために使用した﹁イングリッシュネ ス﹂という言葉は異なる意味を帯びてくる。 モハメッド・シャヒーンは、帝国主義の小説を描いてくれ たフォースターに感謝しながらも、フォースターが政治家で
一八 はなく小説家であることを言い放つサイードの言葉を用いな が ら、 フ ォ ー ス タ ー の 限 界 を 自 分 の 研 究 書 ︶61 ︵ で 指 摘 し て い る。 それは、G・K・ダスが、一九七〇年代に、 ﹃インドへの道﹄ は植民地を支配するイギリス人からインドを見ている小説に 過ぎず、フォースターのインドは想像力の中でインドの神秘 を反映している世界であることを指摘したことを思い出させ る。ダスの研究 書 ︶62 ︵ は、二〇〇一年に再版され、フォースター のインドはイギリス人によって想像された偽の作り物である ことを再び主張するのである。しかし、シャヒーンの研究書 とダスの研究書は、東洋人によって書かれたフォースターの 研究書であるが、英語で書かれ、イギリスで出版された書籍 に過ぎない。ヒンズー語やアラビア語で書かれ、インド、パ キスタン、サウジアラビアで出版されたフォースターの研究 書に書かれている内容は予想を裏切らないであろう。 ポストコロニアリズムを用いたイギリス人のフォースター 研究者への影響も見落とせない。トマス・カーライルの散文 やアルフレッド・テニスンの詩における帝国主義の賞賛をラ ド ヤ ー ド・ キ プ リ ン グ、 ジ ョ ー ゼ フ・ コ ン ラ ッ ド、 そ し て、 フォースターというイギリスのポストコロニアルの作家の系 譜に結び付けて論じるC・C・エルドリッジの研究 書 ︶63 ︵ にもポ ストコロニアリズムの影響を感じずにはいられない。 ただし、 エルドリッジが用いるポストコロニアリズムは、サイーディ ズムとさえ呼ばれるサイードのポストコロニアリズムではな く、エルドリッジが自ら指摘しているように、イギリスの民 衆文化を重視するJ・M・マッケンジーのポストコロニアリ ズム、つまり、アンタイ・サイーディズムのポストコロニア リズムである。これは実際の中心世界であるキリスト教の英 語圏と周縁世界である非キリスト教の非英語圏の対立の図式 を抽象的な中心と周縁の対立の図式として捉え、作品の舞台 と な っ て い る 場 所 へ の 拘 り を 生 み 出 し て い く。 ク リ ス ト フ・ フォルドンスキーの研究 書 ︶64 ︵ は、 ﹃天使も踏むを恐れるところ﹄ と﹃眺めのいい部屋﹄のフォースターのイタリア小説だけを 取り上げ、イタリアとイギリスという対立の図式の中でイギ リス人にとっての周縁世界の機能を果たすイタリアという作
一九 E・M・フォースター批評史 品 の 舞 台 の 機 能 に 考 察 の 焦 点 を 絞 っ た も の で あ る。 ス テ ュ ワート・クリスティの研究 書 ︶65 ︵ は、フォースターの六つの長編 小 説 ば か り で は な く、 ﹃ ア ビ ン ジ ャ ー・ パ ジ ェ ン ト ﹄︵ The Abinger Pageant, 1936 ︶ や﹃ イ ン グ ラ ン ド の 楽 し い 土 地 ﹄ ︵ England’ s Pleasant Land, 1940 ︶ という戯曲でも作品の舞台と なっている緑が豊かな場所を緑が豊かではない場所と対照さ せ、作品の舞台となっている都市の郊外の問題にも照明を与 えている。日本においても、作品の舞台にのみ注目してきた 研究がある。筒井均の研究書は、フォースターの土地の霊に 注目し、イタリア、イギリス、エジプト、インドという作品 の舞台に考察の焦点を絞っているが、偶然ポストコロニアリ ズムを受け入れた研究を先取りしたものになっている。むし ろ、剱持淑の研究書ほうが、女性や同性愛者への性差別や階 級差別と共に、異文化への差別に注目し、差別意識の観点か らジェンダーやポストコロニアルの視点を用いた研 究 ︶66 ︵ をして いると言えよう。フォースターほどポストコロニアル批評に 向 い て い る 作 家 は い な い で あ ろ う。 ﹃ イ ン ド へ の 道 ﹄ を 例 に とっても、サイーディズムのポストコロニアル批評では、植 民地を支配するイギリス人と植民地で支配されるインド人の 対立の図式、 対立する価値観の衝突があり、 アンタイ ・ サイー デ ィ ズ ム の ポ ス ト コ ロ ニ ア ル 批 評 で は、 分 割 と 整 理 の 世 界、 つまり、 イギリス人居住地とインド人居住地の差別の世界と、 融合と混沌の世界、つまり、空や洞窟の無差別の世界の対立 の図式、対立する価値観の衝突がある。ポストコロニアル批 評は、多文化主義批評の流行により、流行遅れになりつつあ る。しかし、フォースターは、アフリカや南アメリカを作品 の舞台にしたジョーゼフ・コンラッドやインドを作品の舞台 にしたラドヤード・キプリングと共に、ポストコロニアル批 評に最も向いている作家であり、フォースターの研究者はポ ストコロニアル批評を背負っていかざるを得ないだろう。そ し て、 サ イ ー デ ィ ズ ム の ポ ス ト コ ロ ニ ア ル 批 評 を 用 い た フォースターが描く作品の舞台の分析は、マルキシズム批評 と同様に、イギリス人のフォースターが描く作品の舞台とし ての ﹁外国﹂ の限界をますます実感させることになるだろう。
二〇 6.フィルム・スタディと比較研究 フォースターの研究における今後の展望を最後に述べる前 に、 これまでに述べていない二種類の研究に触れておきたい。 第一に、フォースターの原作と映像化された作品を比較する フィルム・スタディである。一九八〇年代から一九九〇年代 に か け て フ ォ ー ス タ ー の 小 説 の 映 画 化 の ブ ー ム が あ り、 ﹃ 最 も 長 い 旅 ﹄ を 除 く 五 つ の 長 編 小 説 が 映 画 化 さ れ て い る。 ﹃ イ ン ド へ の 道 ﹄︵ デ ィ ヴ ィ ッ ド・ リ ー ン 監 督、 ジ ュ デ ィ・ デ イ ビス、ヴィクター・バナージ主演、一九八五年︶ 、﹃眺めのい い部屋﹄ ︵ジェイムズ ・ アイヴォリー監督、ヘレナ ・ ボナム ・ カーター、ジュリアン・サンズ主演、一九八六年︶ 、﹃モーリ ス ﹄︵ ジ ェ イ ム ズ・ ア イ ヴ ォ リ ー 監 督、 ジ ェ イ ム ズ・ ウ ィ ル ビー、ヒュー・グラント主演、一九八七年︶ 、﹃ハワーズ・エ ン ド ﹄︵ ジ ェ イ ム ズ・ ア イ ヴ ォ リ ー 監 督、 ア ン ソ ニ ー・ ホ プ キ ン ス、 エ マ・ ト ン プ ソ ン 主 演、 一 九 九 二 年 ︶、 ﹃ 天 使 も 踏 む を恐れるところ﹄ ︵チャールズ ・ スターリッジ監督、ヘレナ ・ ボ ナ ム・ カ ー タ ー、 ジ ュ デ ィ・ デ イ ビ ス 主 演、 一 九 九 二 年 ︶ の五作品が映画化されたフォースターの長編小説であること は 周 知 の こ と で あ ろ う。 ﹃ イ ン ド へ の 道 ﹄ は こ の 映 画 化 以 前 にも一度映画化されている。脚色された脚本や映画の映像専 門のハンドブックが出版されているだけではなく、映画化さ れ た 作 品 を 研 究 対 象 と し た 研 究 書 が 出 版 さ れ て い る。 J・ H・ステイプは映像化された﹃インドへの道﹄についてのク リストファー・ヒッチンスの短いコラムと映像化された﹃眺 めのいい部屋﹄や﹃インドへの道﹄についてのレヴィンの長 いコラムを論文 集 ︶67 ︵ に所収している。E・G・インガ│ソルの 研究書は映画化されたフォースターの長編小説の脚色につい てのフィルム・スタディの専門の研究 書 ︶68 ︵ である。日本におい ても、山村元彦が、フォースターの長編小説と戯曲の作品論 の研究 書 ︶69 ︵ の中で﹃天使も踏むを恐れるところ﹄の封切り日に 亡 き ダ イ ア ナ 王 妃 ま で も が 映 画 館 に 来 た こ と を 伝 え て い る が、映画化に言及しているに留まり、フィルム・スタディの
二一 E・M・フォースター批評史 みですべてを押し通していはいない。フィルム・スタディは 映像化のメイキングと映像化されたテクストの二つ側面に対 する研究バランスというジレンマを抱えざるを得ない。すな わち、フィルム・スタディは、映像化のメイキングに重点を 置きすぎると、監督、キャスティング、脚色、時代考証、衣 装、撮影技術にも触れることになり、原作とは関係のない映 画研究になってしまう可能性を否定できない。一方、原作と 映像化された作品の両方の内容を考察する場合、文字テクス ト と 映 像 テ ク ス ト の 比 較 で あ り、 原 作 と 脚 色 の 比 較 に な る。 ジェイン・オースティンやブロンテ姉妹のように、映画化や テレビ化の数が多くなり、英語圏以外の地域での映画化やテ レビ化が多くなると、映画化やテレビ化された地域の言語に 精通していることが研究に必要となり、フィルム・スタディ をグローバルな基準で達成するには多くの言語を理解する能 力が必要となる。フィルム・スタディは発展の可能性を秘め た研究方法ではあるが、 研究の課題の多い分野である。 フォー スターの長編小説のフィルム・スタディも例外ではない。 第 二 に、 フ ォ ー ス タ ー と 他 の 作 家 の 比 較 研 究 が あ る。 一九六〇年代のC・B・コックスの研究 書 ︶70 ︵ 、一九七〇年代の カ ル ヴ ィ ン・ ベ デ ィ エ ン ト の 研 究 書 ︶71 ︵ 、 一 九 八 〇 年 代 の ロ ジャー・エバットソンの研究 書 ︶72 ︵ 、一九九〇年代の平井雅子の 英語で書かれた海外出版の研究 書 ︶73 ︵ はこの研究の歴史を物語っ ていると言えよう。日本においても、フォースターとウルフ を比較した横山幸三の研究 書 ︶74 ︵ 、フォースターとロレンスを比 較した戸田仁の研究書、フォースターとフィリッパ・ピアス を比較した小比賀香苗の研究書という作家の比較のみを目的 にした研究やエドワード・カーペンターとロレンスにも言及 した岡村直美の研究書やヘンリー・ジェイムズとウルフにも 言 及 し た 山 本 洋 子 の 研 究 書 の 指 摘 が あ る。 フ ォ ー ス タ ー は、 小説の傾向の起点としてはジョージ ・ エリオット、リベラル ・ ヒ ュ ー マ ニ ズ ム の 社 会 思 想 や 同 性 愛 者 と し て は カ ー ペ ン ター、異文化との出会いという主題からはジェイムズ、思想 の類似性からはロレンス、ブルームズベリー・グループとし てはウルフ、空間のファンタジーの共通性からはピアスと比
二二 較されているが、ポストコロニアル批評においてすでに指摘 されているように、エルドリッジの研究書やシャヒーンの研 究書に代表されるようなキプリングとの比較が旧植民地のイ ンドという作品の舞台をめぐって盛んである。 7.展望 最後に、このように研究されてきたフォースター研究の展 望まとめたい。現在のフォースターの研究は、フォースター の リ ベ ラ ル・ ヒ ュ ー マ ニ ス ト、 シ ン ボ リ ッ ク・ リ ア リ ス ト、 ホモセクシャル、ポストコロニアルのどの側面も棄て去るこ と が で き ず、 フ ィ ル ム・ ス タ デ ィ や 他 作 家 と の 比 較 も 含 め、 新しい方向を模索している。しかし、現在のフォースターの 研究は、新しい伝記的な事実を探求する伝記批評やマニュス クリプトやバリアントの異同に実証的な痕跡を探す創作批評 等の伝統批評を始め、 原型批評、 構造主義批評、 脱構築批評、 計量分析、物語論、新文体論等のような作品の構造や技術を 中 心 と し た 批 評、 更 に、 精 神 分 析 批 評、 フ ェ ミ ニ ズ ム 批 評、 ホ モ セ ク シ ャ ル・ レ ズ ビ ア ン 批 評、 ク ィ ア・ セ オ リ ー 批 評、 マ ル ク ス 主 義 批 評、 新 歴 史 主 義 批 評、 カ ル チ ュ ラ ル・ ス タ ディーズ、ポストコロニアル批評、エコ批評等のような思想 を中心とした批評に翻弄されているのが実情である。新しい 批評方法を発案しない限り、 二一世紀になっても、 リベラル・ ヒューマニズムだけで押し通すメイの研究書、フォースター のホモセクシャルとポストコロニアルの側面を無視するメダ リの研究書、フォースターの同性愛にのみ注目するマートラ ンドの研究書のように、フォースターの一つの側面への注目 と他の側面への無視によってしかフォースターの独創的な研 究はできない。新しい伝記的な事実の発見と実証的な証明に よる作品の読み直しやキリスト教圏を敵対視するイスラム教 圏の視点からの作品の読み直しにも従来の研究で見落として きた事柄の発見の余地はあるが、フォースターの作品の技術 分析が主要な研究対象であるように思える。斎藤兆史が指 摘 ︶75 ︵ しているように、語り手が全知の語り手であり、登場人物の
二三 E・M・フォースター批評史 外面を描写する外的焦点化と登場人物の視点からの自由間接 話法の内的焦点化のみで構成されるフォースターの長編小説 は、視点の複眼化と移動は行われても、登場人物の内面を照 射する行動は存在しても、 語り自体の独自性はない。しかし、 フ ォ ー ス タ ー の 小 説 の 電 話 の 場 面 に 注 目 し た デ ヴ ィ ッ ド・ ロッ ジ ︶76 ︵ のように、細かく分析すれば、フォースターの小説の 技術的な独自性が見つけられると言えよう。小論はこのよう な批評史をフォースターの研究の展望の基盤と考えたい。 〔注〕 ︵ 1︶ 中 村 邦 生、 木 下 卓、 大 神 田 丈 二︵ 編 著 ︶﹃ た の し く 読 め る イ ギリス文学﹄ ︵京都:ミネルヴァ書房、一九九四年︶ ︵ 2︶ Anonymous, Review , Bookman, October , 1905. in E. M. For -ste r: Crit ical Assessme nt s, e d. by J. H. St ape, vol .1 ︵ Mount fiel d: Hel m Information, n.d. ︶ ︵ 3︶ I. A. R icha rd s, A Pa ssa ge to Fo rst er: R efle ctio ns on a Nov elist , Forum, December , 1927. in E. M. Forster: Critical Assessments, J. H. Stape, vol.2 ︵
Mountfield: Helm Information, n.d.
︶
︵
4︶
F. R. Leavis,
The Common Pursuit
︵ Harmondsworth: Penguin Books, 1962 ︶ ︵ 5︶ Rose Macaulay , The W riting of E. M. Forster ︵ London: The Hoga -rth Press, 1938 ︶ ︵ 6︶ V irginia W oolf, Modern Fiction ︵ London: The Hogarth Press, 1919 ︶ ︵ 7︶ V irgi ni a W ool f, The De at h of the Mot h ︵ London: T he Hoga rth Press, 1942 ︶ ︵ 8︶ D. S. Savage, The W ither
ed Branch: Six Studies in the Modern
Novel
︵
London: Eyre & Spottiswoode,1950
︶
︵
9︶
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