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博士論文 自己愛的甘えの構造に関する研究 神戸大学大学院総合人間科学研究科 人間形成科学専攻発達基礎論講座 稲垣実果

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全文

(1)

Kobe University Repository : Thesis

学位論文題目

Title

自己愛的甘えの構造に関する研究

氏名

Author

稲垣, 実果

専攻分野

Degree

博士(学術)

学位授与の日付

Date of Degree

2008-03-25

資源タイプ

Resource Type

Thesis or Dissertation / 学位論文

報告番号

Report Number

甲4272

権利

Rights

JaLCDOI

URL

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/D1004272

※当コンテンツは神戸大学の学術成果です。無断複製・不正使用等を禁じます。著作権法で認められている範囲内で、適切にご利用ください。

PDF issue: 2018-11-14

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博 士 論 文

自己愛的甘えの構造に関する研究

神戸大学大学院総合人間科学研究科 人間形成科学専攻 発達基礎論講座 稲垣実果

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目 次

序 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 1 第 1 章 「 甘 え 」 お よ び 自 己 愛 的 甘 え の 理 論 と 定 義 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 5 第 1 節 精 神 分 析 的 歴 史 と 「 甘 え 」 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 6 【 1 】 F r e u d と F e r e n c z i の 心 的 発 達 論 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 6 【 2 】B a l i n t の 受 身 的 対 象 愛 と 土 居 の 「 甘 え 」 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 9 第 2 節 「 甘 え 」 理 論 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 1 3 【 1 】「 甘 え 」 の 定 義 と 日 本 社 会 に お け る 「 甘 え 」 の 重 要 性 ・ ・ ・ ・ 1 3 【 2 】「 甘 え 」 の 多 義 性 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 1 5 【 3 】「 甘 え 」 の 定 義 に 関 す る 議 論 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 1 6 【 4 】素 直 な「 甘 え 」と 屈 折 し た「 甘 え 」 ・・・・・・・・・・・・・ 1 8 第 3 節 自 己 愛 的 甘 え に 関 す る 理 論 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 2 2 【 1 】「 甘 え 」 理 論 と 自 己 愛 理 論 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 2 2 【 2 】 自 己 愛 的 甘 え の 理 論 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 2 4 第 4 節 「 甘 え 」 理 論 の 広 が り と 自 己 愛 的 甘 え の 問 題 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 2 6 【 1 】「 甘 え 」 の 二 重 性 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 2 6 【 2 】「 甘 え 」 の 諦 め と Wi n n i c o t t の 錯 覚 ― 脱 錯 覚 論 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 2 7 【 3 】「 甘 え 」 の 概 念 か ら み た Wi n n i c o t t の 本 当 の 自 己 と 偽 り の 自 己 ・・・ 2 9 【 4 】 信 頼 ・ 落 ち 着 き と 「 甘 え 」 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 3 1 第 2 章 自 己 愛 的 甘 え 尺 度 の 作 成 に 関 す る 研 究( 研 究 1 )・・・・・・・・ 3 4 問 題 と 目 的 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 3 5 方 法 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 4 0 結 果 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 4 2 考 察 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 4 5

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第 3 章 自 己 愛 的 甘 え に お け る 心 理 的 特 徴 に つ い て の 検 討 ・・・・・・ 5 1 第 1 節 自 己 愛 的 甘 え と 基 本 的 信 頼 感 に 関 す る 研 究( 研 究 2 ) ・・・ 5 2 問 題 と 目 的 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 5 2 方 法 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 53 結 果 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 5 4 考 察 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 5 5 第 2 節 自 己 愛 的 甘 え と 自 己 愛 的 対 人 態 度 , 一 体 感 願 望 に 関 す る 研 究 ( 研 究 3 ) ・ ・ ・ 5 7 問 題 と 目 的 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 5 7 方 法 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 5 9 結 果 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 59 考 察 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 61 第 3 節 自 己 愛 的 甘 え と 迎 合 の 心 理 に 関 す る 研 究 ― 自 己 愛 的 な「 甘 え 」の や り と り に お け る 問 題 ―( 研 究 4 ) ・・・・ 6 5 問 題 と 目 的 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 6 5 方 法 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 66 結 果 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 67 考 察 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 68 第 4 章 自 己 愛 的 甘 え と 自 己 愛 の 誇 大 性 ・ 過 敏 性 と の 関 連 性 に 関 す る 研 究 ( 研 究 5 ) ・ ・ ・ ・ ・ 7 0 問 題 と 目 的 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 7 1 方 法 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 73 結 果 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 74 考 察 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 75

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第 5 章 「 甘 え 」 を 向 け る 対 象 と 自 己 愛 的 甘 え の 傾 向 に 関 す る 研 究 ( 研 究 6 ) ・ ・ ・ ・ 8 0 問 題 と 目 的 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 8 1 方 法 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 84 結 果 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 85 考 察 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 88 第 6 章 思 春 期 ( 中 学 生 )・ 青 年 期 ( 高 校 生 , 大 学 生 お よ び 専 門 学 校 生 ) に お け る 自 己 愛 的 甘 え の 程 度 及 び 質 に つ い て の 発 達 的 変 化 に 関 す る 研 究( 研 究 7 ) ・・・ 9 4 第 1 節 思 春 期 ( 中 学 生 ) か ら 青 年 期 ( 高 校 生 , 大 学 生 お よ び 専 門 学 校 生 ) に か け て の ,自 己 愛 的 甘 え の 発 達 的 変 化 に つ い て( 研 究 7 - 1 ) ・・ 9 5 問 題 と 目 的 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 9 5 方 法 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 9 6 結 果 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 97 考 察 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 1 0 2 第 2 節 青 年 期( 高 校 生 ,大 学 生 お よ び 専 門 学 校 生 )に お け る 自 我 同 一 性 と 自 己 愛 的 甘 え の 関 連 性 に つ い て ( 研 究 7 - 2 ) ・・・ 1 0 6 問 題 と 目 的 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 1 0 6 方 法 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 1 0 8 結 果 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 1 0 8 考 察 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 1 0 9 第 7 章 全 体 的 討 論 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 11 3

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「甘え」は,土居(1971)によって学問的に精神分析学的概念としてとりあげられ,そ れは「甘え」という単語が日本にのみ存在するという事実から注目されるとともに,日本 語における日常的な言葉の多義性を生かして確立された概念である。そして「甘え」は, 日本人心性の鍵概念であり,日本人の感情生活の特徴を浮き彫りにする一方で,本来人間 一般に共通する心理的現象でもある。その意味で「甘え」は日本固有のものとしてとらえ られるものではなく,普遍的意義をもつものである。また,発達的にみれば,「甘え」の心 理的原型は母子関係における乳児の心理にあるが,成人した後も新たに人間関係が結ばれ る際には「甘え」が関係していると土居(1971)によって述べられているように,「甘え」 は生涯発達的問題であるとも考えられる。 「 甘 え 」 概 念 に 注 目 し た 理 論 的 研 究 は こ れ ま で 国 内 外 に お い て 数 多 く な さ れ て お り (Behrens,2004;Johnson,1993;水田,1999;西園,1988;岡野,1999;小此木, 1968;Rothbaum & Kakinuma,2004;手塚,1999;山口,1999;Yamaguchi,2004; Young-Bruehl & Bethelard,2000),精神分析的観点,人類学的観点,発達的観点から 様々な議論がなされている。また,「甘え」に関する実証的研究には,「甘え」を1次元的 な尺度で測定することを試みた藤原・黒川(1981),大迫・高橋(1994)がある。そして, より「甘え」の多義性に注目し,3次元からなる「甘え」尺度を作成した谷(2000)があ る。 さて,土居(2004)によれば「甘え」概念は原初的な人間関係を示唆するゆえに精神分 析の理論構築に格好な役割を果たすと述べられている。土居(1971,1997,2000a,b, 2001)は,「甘え」には健康で素直な「甘え」と不健康で屈折した「甘え」があると述べ ているが,不健康で屈折した「甘え」の状態は自己愛と結びついており,「自己愛的甘え」 が存在することを提唱している。土居(2000a)のいう自己愛とは,自己愛を受身的対象 愛(対象に愛されたいと思う心)に関係していると述べている Balint(1952)の説に近く, 愛されたい欲求すなわち「甘え」の欲求が満たされないときに生じるものであるとしてい る。これは,Freud の対象を不必要とする自己閉鎖性を特徴とした自己愛の定義とは異な る,対象関係を考慮に入れた自己愛であるといえる。土居(2000a),Balint(1952)の記 述によれば,自己愛の中心的な問題として十分愛してくれない,満たしてくれない他者や, 言う通りにしてくれない他者への不満や怒りを伴うといった特徴があり,このような自己

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愛的心理が,「自己愛的甘え」であると土居(2001)は指摘している。このような自己愛 的心理は自分に対する誇大性の心理というよりも,人間関係において「甘えたい」願望を 他者が満たしてくれることを一方的に要求するというような自己愛的要求を伴う,関係性 のなかでの誇大性としてあらわれてくると考えられよう。 以上のような「甘え」の不満を契機として起こる自己愛的甘えの心理は,周囲とよい関 係をもつことができないゆえの自己中心性であり,その心理的特徴を理論的,実証的に検 討することは,「甘え」研究および自己愛研究をはじめとする精神分析の理論と実践にとっ て有効な枠組みをもたらすものであろう。また,甘える対象を親から別の対象へ移行させ る段階で自己愛的甘えが一時的に高まると考えられる思春期(中学生)・青年期(高校生, 大学生および専門学校生)において,発達的視点から自己愛的甘えの傾向について検討す ることで,自己愛的甘えが思春期・青年期の人格発達にどのように影響しているのかにつ いても明らかにすることができると考えられる。 本論文では,これらの問題をふまえ,「甘え」理論および自己愛的甘えの理論について整 理し,自己愛的甘えの構造について,その心理的特徴および青年期における発達的変化を 実証的に検討することを目的とする。 第1章では,精神分析的歴史のなかでの自己愛概念の変遷について概観し,土居の「甘 え」概念と自己愛理論との関係について明らかにする。また,「自己愛的甘え」の性質につ いて理論的に考察し,自己愛理論における自己愛的甘えの位置づけについて述べる。さら に,自己愛的甘えにまつわる問題を Winnicott の理論的観点から対象関係論的に考察する。 第2章では,土居の「甘え」理論の観点から自己愛を捉え,自己愛的甘えの概念を整理 したうえで,自己愛的甘えを測定する尺度を作成することを目的とする。 第3章では,自己愛的甘えと基本的信頼感・自己愛的対人態度・一体感願望との関連を 検討することを通して,自己愛的甘えの心理的特徴をとらえることを目的とする。そして, 自己愛的な甘えのやりとりにおける問題として,迎合の心理をとりあげる。 第4章では,自己愛的甘え尺度が,従来の誇大性や自己閉鎖性を特徴とする自己愛尺度 よりも自己愛に関する心理特性を説明するものとして有効であることを明らかにするため に,自己愛的甘え尺度と自己愛の誇大性・過敏性との関連を実証的に検討する。 第5章では,「甘え」を向けることができる対象の有無および「甘え」を向ける対象別の 自己愛的甘えの傾向を検討することを目的とする。また,第3章,第4章で扱った問題で ある,自己愛的対人態度・一体感願望および自己愛の誇大性・過敏性との関連から,「甘え」

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を向ける対象の有無および「甘え」をどのような相手に期待するかによって自己愛的甘え の傾向にどのような違いがみられるかについても検討する。 第6章では思春期(中学生)・青年期(高校生,大学生および専門学校生)における自己 愛的甘えの程度および質についての発達的変化を検討する。さらに,自我同一性の形成お よび自己の再構成において,自己愛的甘えがどのように関連しているのかを検討するため, 自己愛的甘えと自我同一性との関連パターンについて青年期である高校生と大学生および 専門学校生との間で比較検討する。 第7章では,「甘え」理論について再考した上で自己愛的甘えの概念的な重要性について 述べ,全研究を通して自己愛的甘えの構造について理論的な統合を行う。 引用文献

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第1章 「甘え」および自己愛的甘えの理論と定義

本章では,精神分析的歴史のなかでの自己愛概念の変遷について概観し,土居の「甘 え」概念と自己愛理論との関係について明らかにする。また,土居(2001)が提唱し た「自己愛的甘え」の性質について理論的に考察し,自己愛理論における自己愛的甘 えの位置づけについて述べる。さらに,自己愛的甘えにまつわる問題を Winnicott の 理論的観点から対象関係論的に考察する。

第1節では,Freud から Ferenczi,Balint に至る精神分析的歴史を概観し,Freud

の自己愛概念の定式化から,自己愛の発生を受身的対象愛の問題とする変遷について 論じ,受身的対象愛と土居の「甘え」概念の間に共通性があることについて述べる。 第2節では,「甘え」理論について概説し,「甘え」の定義,「甘え」の多義性,素直な 「甘え」と屈折した「甘え」などについて説明する。第3節では,「甘え」理論と自己 愛理論との関係について論じ,土居(2001)が提唱した「自己愛的甘え」の性質につ いて理論的に考察する。第4節では,自己愛的甘えにまつわる問題として,「甘え」の 二 重 性 を も て な い こ と や ,「 幻 滅 」 と し て の 「 甘 え 」 の 諦 め の 問 題 な ど に つ い て , Winnicott の理論的観点から,自己愛的甘えに関して対象関係論的に考察する。

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第1節

精神分析的歴史と「甘え」

Ferenczi は,Freud 以後の精神分析の理論に新しい動向を与え,自我発達での母子関係 を重視し,乳児が最初の愛情対象(乳房)を母親(対象)から与えられるという意味で,

精神分析の歴史の中で始めて,自我発達の役割における受身的対象愛(passive object love)

を提唱した。そして,Balint は,その受身的対象愛を独自に定義づけ,Freud の対象関係 の成立していない自己愛理論を批判し,自己愛の発生は受身的対象愛が満たされていない ことと関係していると述べた。さらに土居は,「甘え」が Balint のいう受身的対象愛と共 通していると述べており,「甘え」および自己愛を論じるうえでは,以上のような自我発達 と関連する精神分析的歴史に触れる必要がある。そこで,本節では精神分析的歴史におけ る自我発達理論および自己愛理論の変遷を概観し,自己愛理論と「甘え」理論の共通性に ついて明確にすることを目的とする。 【1】 Freud と Ferenczi の心的発達論 精神分析の歴史的発展は,Freud の時代と Freud 以後から現在に至る時代に大別される。 しかし,実際にはすでにFreud の時代に新しいいくつもの流れがうまれている。Freud は, 1895 年から 1916 年頃までの間に治療方法および理論としての精神分析を確立したが, 1910 年代から 1920 年代に基本的には Freud の枠組みにとどまりながらも,独自の理論的 展開を示した弟子たちの流れがある。そのなかでも Ferenczi は,Freud に対抗する革新的 な着想を生み出し,Freud 以後の精神分析の理論と技法論に新しい動向を与えた。小此木 (1985)によれば Ferenczi は,Freud に比べてより早期のエディプス期以前の発達段階 と母子関係の交流に精神分析理論の力点を置き換えようとし,精神療法上の基本的態度と しては,現在,いま,ここの治療状況を重視し,治療者が患者に向ける人間的愛情を強調 した。例えば,Freud が転移を言語的解釈と洞察によって解決することに限定したのに対 して,Ferenczi は分析医が患者に誠実さ,受容,人間的愛情を向ける現実的機能そのもの を重視し,そのような治療体験そのものが転移の中で再生される歪んだ幼児期の対象関係 を再構成する力を持つと考えた。 このように Ferenczi は,Freud が前提としていた外的な現実存在としての母親の役割を,

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より積極的にその理論構成の中に取り入れようとし,Freud 以後の精神分析における母子 関係の重視と,自我発達におけるその現実的な役割を研究した。例えば,Freud(1911) によれば,人間の最も初期の段階である快楽原則が支配している段階から,やがて現実原 則に従ってこの快楽原則の支配する心理過程を抑圧する段階に到達する。しかし,Freud は夢,神経症の症状,幻想,神話などにあらわれる快楽原則の支配する一次的段階から, 現実原則に従う合理的思考と認識の支配する二次的段階に,心的なものがどのような移行 段階を経て発達してゆくのかについては明らかにしなかった。一方,小此木(1985)によ れば Ferenczi は,一次的段階から二次的段階への移行過程における中間的な段階を「現実 感の発達段階」とよび,自我の発達,現実検討の発達,運動行動による外界支配力の成長 がこのような移行の動因になるとした。また,快楽原則が全面的に支配する発達初期の段 階では,現実への認識を欠くために,かえって主観的な全能感が大きいが,このような全 能感と現実感のあり方は,乳児自身の自我発達とそれぞれの段階に応じた母親の関わりに よって決定されるとした。Ferenczi は,①無条件の全能感の段階,②魔術的幻覚的全能感 の段階,③魔術的身振りによる全能感の段階,④魔術的思考と言葉による全能感の段階の 4段階を経て,現実感が発達していく過程を明らかにした。小此木(1985)は,この Ferenczi による幼児的な現実感の発達の4段階を以下のようにまとめている。 ① 無条件の全能感の段階…胎児の保護や暖かさや栄養をすべて母親から与えられ,本能 の満足が常に与えられるために,胎児は何も望む必要はない。自分は全能で望むものは 全てかなえられるという段階。 ②魔術的幻覚的全能感の段階…新生児は自分自身では絶対的に無力な存在である。しかも この自我の最も原始的な状態は,Freud(1900)が「夢判断の心理学」の中で明らかに したように,即時に得られない願望の幻覚的満足を得ることで快楽原則の支配を全うす る。新生児が幻覚的方法(むずがったり叫んだりする)で得る全能感は,まだ自分が胎 内にいるのと同じような保護と安定を得ているという錯覚である。実際にそのような全 能感は,母親の存在と活動によって与えられているのに,新生児はこのことについてま ったく何も知らないという段階である。 ③魔術的身振りによる全能感の段階…やがて願望の充足が得られない場合に,子どもが泣 き叫んだり,むずがったりすることが母親の注意を引き付け,子どものこのような運動 の放出が魔術的信号として用いられるようになる。願望は発達と共に特殊化してゆくが, それと同時にその願望の表現も特殊化してゆく。例えば,摂食をしたいと思うときに,

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口をパクパクさせたり,欲しいと思う対象に手を伸ばしたりする。このような身振りに よって願望を表現すると,母親はその願望を満たしてくれるという感情を抱く段階であ る。 ④魔術的思考と言葉の段階…次の段階になると,子どもは自分の願望や自分の求める対象 を言葉と結び付けた表象の形で思い浮かべ,さらにそれを口にすることによってそれを 表出する。身振りが目の前の直接的な対象にしかかかわることが出来ないのに対して, 言葉によって時間的にも空間的にもこうした制約を超えた対象とのかかわりを表現し, それらに対する願望を表出することができるようになる。このようにして表象機能が発 達してゆくが,そのためには子どものこうした言葉による表出が意味するものを,母親 が読み取ってその願望を満たすようなかかわりが必要である。そしてこの経験は,子ど もに自分自身が思考と言葉を表出することだけで,願望を満たすことのできる魔術的能 力を持っているという錯覚を引き起こす。例えば,強迫神経症の患者における魔術的身 振りへの迷信的期待や誇大的な全能感は,こうした魔術的身振りや思考の段階への退行 として理解される。 Ferenczi は,この4段階を経て自我の知的能力や運動機能が発達するにつれて現実感が 相対的に発達し,それとともに全能感は減少してゆくと考えたのである。 小此木(1985)は,この現実感の発達における認識は,Winnicott の錯覚―脱錯覚論の 起源をなすものではないかと述べている。つまり,快楽原則から現実原則へ,全能感から 現実感へという移行過程を,対象関係論における一者関係から二者関係への移行段階とし てとらえるならば,魔術的身振り・言葉による全能感は,母親によって差し出される適切 な支持との一致によって成立する錯覚の意味を持つ(小此木,1985)ということである。 また,Freud が最初,強迫神経症の思考の全能について明らかにした,主観的内的な空想 や思考の外的客観的な現実に対する優位の信仰,外界を自己の願望のままに支配しようと する全能的コントロールの優勢,そしてこの全能的支配に制限を加えてゆく自我の現実検 討機能の未発達などの精神状態が,正常な心の発達の初期の段階でも普遍的にみられると いう観点をあきらかにすることによって,Ferenczi は自我機能の各発達段階と精神病理学 的状態の関連を系統づけたのである。 さらに渡辺(1995)は,Ferenczi は,Freud がエディプス・コンプレックスを中核に据 えて理論化した精神分析の辺縁に置かれていた母親の役割を,もっと積極的にその理論構 成の中に取り入れようとしたという点で,母子関係の重視と,乳幼児の自我発達における

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母親の役割の研究の先鞭をつけたものとして Ferenczi には価値があると述べている。この ように,Ferenczi は自我発達(身振り,言葉,思考の象徴機能の発達)が,子どもの側の 表出を信号として読み取る外的な対象としての母親の機能によって始めて可能になるとい う,Freud における母子関係のコミュニケーションと自我発達の相互性の認識を明確化し, Freud と Spitz,Mahler,Erikson,Winnicott らの研究を結ぶ役割を果たした。 【2】 Balint の受身的対象愛と土居の「甘え」 前述のように,Ferenczi は Freud のリビドー論を対象関係論的な枠組みのなかに統合し, Freud 以後の精神分析における母子関係の重要性と,自我発達における現実感の発達段階 などについて研究した。そして,精神分析的歴史のなかで最初に「受身的対象愛(passive

object love)」を提唱した。小此木(1985)によれば Ferenczi は,最初の愛情対象=乳房

は,母親(対象)から与えられるという意味で,乳児の側にあるのは,(人生)最初の受身

的対象愛(primary passive object love)であると述べており,この「受身的対象愛」は,

「現実感の発達」の中で Ferenczi が“乳児の全能感を支える母親の愛”と述べたものと表

裏をなしている。

Balint は,Fernczi からの教育を受け,Balint 独自の「受身的対象愛」の定義づけを試 み,さらにこの考察を自己愛論へと結び付けた。もともと,精神分析において,自己愛と いう概念は,Freud による,統合失調症をリビドー(libido)論で解釈しようとする試み から生まれた。リビドーとは,性欲動という生得的な精神的エネルギーのことで,これに よって彼は心的活動を説明しようとした。彼は,統合失調症は,リビドーが外界から引き 離され,内界の自我そのものに向けられるというものであるとし,その状態を自己愛と呼 んだ。つまり,対象関係からリビドーが撤退することが自己愛であり,彼が述べた「自己 愛神経症」とは分裂病(統合失調症)性の自閉の状態であったが,自己愛を統合失調症の 状態と等しいと考えるこの議論は,一般には普及しなかった(岡野,1998)。しかし,Freud の自己愛理論は分裂病(統合失調症)論だけには留まらず,自己愛に関する概念を展開さ せていった。そして彼は,「一次的自己愛」は赤ん坊が自分の体の一部を愛情対象とする「自 体愛」の時期から,他人を愛情対象とする「対象愛」へ移行する際の,両者の中間に位置 する過渡的な段階として考えたのである。このように,リビドーが自我に引き上げられる 前,そもそも外界の対象に振り向けられる前,自他の区別が未分化な時期に自我の中にこ もっている状態を,「一次的自己愛」とし,これに反して統合失調症のように,発達後,本

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来は対象に向けられるべきリビドーが自己へ充当された結果起きるものを,「二次的自己 愛」と呼んだ。したがって,Freud は自己愛の状態においては,対象関係は成立していな いと考えたのである。 これに対し,Balint(1952)は,自己愛を対象関係論的に理解し,受身的対象愛が,精 神の最初の働きであるとした。この受身的対象愛とは,母から自己が受身的に愛されるこ とを求める情緒的な愛情要求で,対象を愛するというのではなく,対象に愛されたいと思 う心の働きである。彼は,このような対象関係は,かなり早期の発達段階にみられ,受身 的対象愛を一次的対象愛,原始的対象愛と考えた。そして,Freud のいう,対象関係の成 立していない「一次的自己愛」を批判し,対象に愛されたいという欲望が一次的なもので あることから,受身的対象愛を一次愛,原初愛とも呼んだ。また,Balint(1952)は,こ のような受身的対象愛の目標を“私は愛されるべきであり,満足されなければならない, しかも私の側からは何もお返しをしなくてである”(邦訳書,p98)と述べている。さらに Balint(1952)は,この目標が直接達成されない場合の迂回路として,“もし世界が私を 十分愛してくれず,十分満たしてくれないのなら,私は自分を愛し,自分を満足させなけ ればならない”(邦訳書,p98)という自己愛をあげている。実際,彼が臨床上で観察する 自己愛は必ず,悪い対象や言う通りにしてくれない対象に対する防衛であった。 以上のように,Balint は受身的対象愛を対象希求的なものであるとし,自己愛の発生は この受身的対象愛に関係すると考えた。小此木(1985)も述べているように,前述のよう な母子関係の対象関係論的な洞察や受身的対象愛の概念は,土居の「甘え」概念を Freud 以後の精神分析理論の流れに位置付けるうえで,重要な役割を果たすことになった。 土居(2001)は,もともと「甘え」は,母親を求める乳児について「この子はもう甘え る」というように,非言語的な心理を示していると述べており,「甘え」は明らかに乳児の 心理と結び付いている。これは,相手に対する受身的態度であり,愛情を受動的に要求す るという特徴をもっている。また,土居は,“Balint が受身的対象愛という用語で示した ものが,甘えたいという欲望以外のなにものでもないことは明らかであろう”(土居, 2000, p15)と述べている。このように,両者は受身的特質を持ち,一次的で生得的なものとし て,共通して位置付けることができる。 また Balint(1952)は,分析の仕事が深い段階まで進むと,しばしば患者たちが原始的 な願望を充足させることを期待し,要求するという体験から,患者の願望は対象指向的で あると述べている。さらに,治療の最終段階になると,患者は今まで忘れていた幼児的本

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能的願望を表現し始め,周囲がその願望を満たしてくれることを求めるようになると述べ ている。つまり,幼児的本能的願望を満たすことができるのは,外的世界,周囲だけであ り,自体愛的,Freud のいう自己愛的に解消することは不可能であるということである。 さらに,Balint(1952)は,幼児的本能的願望を満たして欲しいという,受身的対象愛の 満足が適切な瞬間に適切な程度で達成された場合には,その満足の経験は非常にひっそり と起こるため,ほとんど目に止まらない微弱な反応になるとしている。そしてこの快の体 験は,いうことなしという静かな穏やかな感覚と表現できるが,もしこの願望が満たされ ないままにされるならば,満足が熱烈に求められ,その結果生じる欲求不満は,激しい反 応を引き起こすと述べている。このように,Balint は,受身的対象愛が,満足の中では静 穏であり,不満によって激しい反応を引き起こす性質をもつと考えた。そして,土居の「甘 え」も,満たされた時に静かに沈黙しているが,満たされないとわがままで要求がましい, 厄介な形で表に出てくるという性質をもっている。 以上のように,対象関係論における,乳児の最初の対象関係である「受身的対象愛」と 「甘え」は,非常に近い概念であり,共通性がみられる。

引用文献

Balint,M. 1952 Critical Notes on the Theory of the Pregenital Organizations of

the Libido,Primary Love and Psycho‐analytic Technique.London:The Hogarth

Press.(森 茂起・枡矢和子・中井久夫 共訳 1999 一次愛と精神分析技法 み すず書房)

土居健郎 2000 土居健郎選集2 「甘え」理論の展開 岩波書店

土居健郎 2001 続「甘え」の構造 弘文堂

Freud,S. 1900 The interpretation of dreams. S.E.,4‐5.London:The

Hogarth Press.(高橋義孝(訳)1955 夢判断 上・下 フロイト選集 11,12 日本教文社)

Freud,S. 1911 Formulations on the two priniples of mental functioning. S.E., 12.London:The Hogarth Press.(井村恒郎(訳)1970 「精神現象のニ原則に関

する定式」 フロイト著作集 6 人文書院)

岡野憲一郎 1998 恥と自己愛の精神分析―対人恐怖から差別論まで― 岩崎学術出版

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小此木啓吾 1985 現代精神分析の基礎理論 弘文堂

渡辺智英夫 1995 英国中間学派の仕事―バリントなど 小此木啓吾・妙木浩之(編) 精

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第2節

「甘え」理論

「甘え」とは,土居(1971,2000a,b)が述べるように,「他者の好意に依存し,それを あてにする」ことを意味しており,乳児のみならず成人した後にもみられるものである。 そして,「甘え」の概念は,日本人心性の鍵概念であると同時に原初的な人間関係を示し, 「甘え」という心理自体は,東洋・西洋を問わずみられる普遍的な現象であるとされてい る。つまり,「甘え」概念は,日本語でありながら,普遍的な精神分析的理論を説明できる のである。また,「甘え」には多義性があり,甘えられない心理に関連する,アンビバレン トな精神状態や自己愛といった非適応的な心理状態と結び付いているものも存在する。本 節では,土居(1971,2000a,b)の「甘え」理論について概説し,「甘え」の多義性,「甘 え」の定義をめぐる議論,素直な「甘え」と屈折した「甘え」について触れる。また,屈 折した「甘え」,不健康な「甘え」にみられる問題点についても論じる。 【1】「甘え」の定義と日本社会における「甘え」の重要性 「甘え」とは,その「甘え」という単語が日本にのみ存在するという事実から土居(1971) によって指摘された概念であり,日本人の心理の鍵概念であるとされている。 土居(1971,2000a)は,「甘え」とは,「人間存在に本来つきものの分離の事実を否定 し,分離の痛みを止揚しようとすること」とし,また,「他者の好意に依存し,それをあて にする」ことを意味し,語源的には味覚を示す「甘い」と結び付いているとも説明してい る。つまり,「甘える」という語には「甘さ・優しさ」という感覚があり,乳児の精神があ る程度発達して,母親が自分とは別の存在であることを知覚した後に,その母親を求める ことを指していう言葉であると述べている。このように,甘え始める前までは,乳児の精 神生活は母子未分化の状態であるが,精神の発達とともに自分と母親が別の存在であるこ とを知覚する。そして,その別の存在である母親が自分に欠くことのできないものである ことを感じ,母親に密着することを求めることが「甘え」であるといえるのである。また, この「甘え」は,子どもが必ず世話をしてくれるし,母親も子どもが世話に応えてくれる という相互的な信頼があって成り立つものである。この信頼関係がなければ,子どもは甘 えられなくなり,「甘え」は成立しないのである。

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さて,このような乳児が母親に「甘える」という現象は東洋・西洋を問わずみられるも のである。ところが,この語は,成人同士の関係を表現するときにも用いることができ, この場合の日本語に相当する英語の単語はない。このことは,「甘え」の心理が英語圏の国 民には全く未知の心理であるということなのではなく,日本社会では甘えたいという欲求 を表現することが社会的に許容されているということであると土居(2000a)は述べてい る。つまり,日本社会においては親への依存が育まれ,そしてこの行動パターンが社会構 造にまで制度化されているのに対し,西欧社会においては,そうでない傾向が一般的なの である。 こ の こ と は , 日 本 人 が 対 人 関 係 を 重 視 す る 傾 向 が 強 い こ と と 関 連 し て い る 。Johnson (1993)など,多くの論者も述べているように,日本人の間では個人意識や自己呈示より も,人間関係における役割の組み合わせ,相互作用的な行為,状況によって異なる文脈の 中で詳細に決められている社会的活動などから概念化されている自己が重視されている。 これは,Johnson(1993)によれば日本人には個人という意識がないということではなく, 自己呈示において,個人の存在や潜在的な行動についての意識は,状況によって異なる特 定の文脈における他者との対人関係的結び付きをもとにして形作られるのである。その中 で社会化されるにつれて儀礼的な謙遜や謙譲や自己誇大感の否定(「遠慮」)を身に付ける が,その代わりとして一時的な自己愛(愛着を求める欲動)が特別な配慮を受け,ほしい ままにさせてもらえる「甘える」ことに関する意識という形で保たれるのである(Johnson, 1993)。また,「甘え」は,相互関係として,それを互いに実現しあうという形であらわれ る。つまり,与えることと受け取ることによって,「甘え」はやりとりされているのである。 さらに,「甘え」とは,相手に対する受身的態度であるが,受身的態度そのものを進んで追 い求めているという面もあるのである。このようなことを総合して,Johnson(1993)は, 土居による「甘え」は,支持と愛情とを「受動的」に渇望して,世話や保護を言語的およ び非言語的に要求するという特徴を顕著にもっていると述べている。また,多くの欧米の 文化と違って,日本では「甘え」が幼い子どもの時期だけのものではなく,生涯を通じて, 弱められはしても明白に認められたまま許容される(Johnson,1993)という点も指摘し ている。 以上を踏まえると,日本では,甘える感情を非常に重視し,「甘え」のやりとりは日常の 人間関係を円滑にする一つの重要因子だといえるのである。また,「甘え」は受身的側面の みならず,「甘え」を追い求め,世話や保護を要求するという能動的な側面も含んでいると

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いえる。 【2】「甘え」の多義性 さて,日本語においては甘えの心理を示すものとして,「甘える」という言葉以外にも多 数の言葉がある。甘えられない心理に関係している言葉として土居(1971)は,「すねる」 「ひがむ」「ひねくれる」「うらむ」などをあげている。「すねる」のは,素直に甘えられな いということから,すねながら甘えているともいえる。また,「ふてくされる」「やけくそ になる」というのもすねの結果起きる現象であり,「甘え」の一種と捉えられている。「ひ がむ」のは自分が不当な扱いを受けているとひねくれて解釈することで,自分の「甘え」 の当てがはずれたことから生じるものである。「ひねくれる」は,甘えることをしないでか えって相手に背を向けることであるが,それはひそかに相手を意識してのことである。結 局,甘えないように見えて,根本的には「甘え」である。「うらむ」は,「甘え」が拒絶さ れたことで相手に敵意を向けることであるが,この敵意は「甘え」と絡み合った敵意であ り,やはり「甘え」の心理である。 土居(2001)も述べているように,これらはすべて何らかの形で相手につながっている, 引っかかっているという点で一致しており,その意味でまさに「甘え」を志向しているの である。つまり,相手に対し不満などがあっても,それで相手との関係を切ろうとするの ではなく辛うじて踏みとどまり,つながっているのが「すね」や「ひがみ」であり,その 他前述のような心理なのである。 「気がすまない」,「くやむ」「くやしい」は土居によって,「甘え」の構造(1971)の「甘 え」の病理という章の中で以下のように触れられている。 「気がすまない」は,ある種,強迫的傾向をあらわす。まず,土居(1971)は,「気」と いう概念の観点から「気がすまない」を検討している。土居(1971)は,「気」について, 気は瞬間瞬間における精神の働きを指し,精神活動の原則を代表するものであり,根本的 には快楽志向であると定義している。また,日本人は気という形で精神活動を客観視する ことにより,その限りにおいて精神の自由ないし主体性を確保しているとも述べている。 このような観点から気がすまないと感じる人は,ある程度自分の精神の働きを統一的に自 覚している人であり,自分の気として自覚することを満足させようとし,それ以外のもの を切って棄てることができる人である(土居,1971)としている。したがって,「気がす まない」人は,他人には容易に依存しないのである。ここで「気がすまない」と「すまな

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い」を土居(1971)は比較している。相手にすまないと感じる場合は相手に対する「甘え」 が温存されているが,「気がすまない」と感じる場合は相手よりも自分の気の方を重んじて いるのである。つまり,「甘え」の充満する日本社会の中で「甘え」を卒業できていること といえる。しかし,容易なことでは気がすまず,そのことで絶えず悩んでいるとすればそ れは病的であると,土居は述べている。また,このような場合は,自分自身と「気」が分 裂しており,卒業したはずの「甘え」が実は卒業できていないし,うらみやくやしさが内 にこもっていると説明している。このように,「気がすまない」という言葉が正常人にも, 強迫神経症に悩む者にも共通して使えることは,日本人に強迫的傾向が偏在しており,本 来甘えたいが,実際は甘えられないので「甘え」を否定し,「気がすまない」という心境に なるのである。 「くやむ」は,もともと「悔いる」が転じてできた言葉である。しかし,「くやむ」は, ただ自分の非を悔いるだけではすまず,いつまでもくよくよ思うことであり,「悔いる」よ りもさらに屈折した複雑な心境である。また,「くやしい」は,「くやむ」と比べて,「負け てくやしい」など,外を意識しているのに対し,「くやむ」は,くやしさが内向した時に生 まれる。くやみの発達過程は,甘えられないというところから始まり,「気がすむ」ように 試みるが,気がすまないので「くやしく」感じ,悔しくてどうにもならない時に「くやむ」 と土居(1971)によって説明されている。つまり,この「くやしい」「くやむ」も,「甘え」 と関係があるのである。 このように,表面的には「甘え」と無関係のように見えても,内面的には「甘え」を求 めていると思われる心理がある。 以上のように,「甘え」は,多義性を伴った概念であるといえる。 【3】「甘え」の定義に関する議論 土居(1971)の「甘え」の定義は,多義性があり曖昧で難解なため,いくつかの議論を 招いた。竹友(1988)は,土居が「甘え」を「受身の愛への欲求」と一義的に定義してい るとし,それを批判して「甘え」を「常規の拘束から一時解放された場で関わり合い,コ ミュニケーションし合おうという同意が関わり合うもの同士の間にできた場合」のもので あるとし,「常規の拘束から一時解放されたものであることを互いに同意するシグナル表現 である」としている。また,竹友(1999)は,「甘え」には「精神内的甘え」(受身の愛, 依存欲求,分離の痛みの止揚)と「対人行動的甘え」(対人行動当事者同士の同意のもとに,

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対人行動の常規の拘束を一時的に棚上げして対人行動をすることでありそのために行儀や 作法などの規範から解放されたゆとり,親しさ,遊び心等を対人行動当事者が体験する) があり,「甘え」の核心的な意味は「対人行動的甘え」であって,土居の「甘え」理論が「精 神内的甘え」に限定されていることを批判している。 さらに,木村(1972)は,「甘え」を「一体化を求める依存欲求を表す言葉ではなくて, いわばすでに相手に受け入れられ,一体化が成立している状態において,もしくはそのよ うな許容が成立しているという自分本位の前提の上に立って,勝手気儘な,ほしいままの 振る舞いをすることを意味している。それはなにをしても許されうるという馴れ馴れしい 気持ちの上から,したい放題の振る舞いをすることである」とし,「甘え」を依存欲求とし なくても説明できると述べている。さらに Lebra(1976),Kumagai(1981)も甘えられ る相手,および両者の関わり方のなかで「甘え」が解明できるとしている。 しかし土居(2000a)は,「甘え」を「受身で愛されたいという動機」と一義的に述べて いるという批判は誤解であると述べており,「甘える」の中に「愛される」という受動態が 入っているのは事実としても,この言葉が自動詞であるということ自体,そこにある種の 積極性,主体性が存在することを示唆していると指摘している。また,「甘え」を定義する ならば「人間存在に本来つきものの分離の事実を否定し,分離の痛みを止揚しようとする こと」であり,その後,「人間関係において相手の好意をあてにして振舞うことであり,そ のことが自意識なしに自然に行われることである」(土居,2001)とも定義している。一 方で,土居(2000a)によると,例えば馴染みの感情に近い「甘え」の感情,すねて駄々 をこねるような「甘え」の願望,「御言葉に甘えて」というような,感情や願望と関係なく 日常会話の中で「甘え」という言葉が使われる場合(この場合,相手に対して特に親しい 関係にあるわけではなく,「甘え」という言葉が使われながら両者の間に距離が意識されて いる)があり,「甘え」についての決定的・一義的な定義を求めるのは非常に難しいとも述 べている。このような意味で土居(2000a)は,多義性も含め種々の状況で使われる「甘 え」を,(精神分析的概念,人間の基本心理の)全体に通じる普遍的なものを指す概念とし て使いうるものであると主張している。 以上のように,竹友(1988,1999)は「甘え」を「対人行動的甘え」として対人行動上 の関係性のなかでとらえており,行動科学的で観察可能な対人行動に着目して一義的に「甘 え」を定義している。しかし,上記の竹友(1988,1999)の定義では「甘え」における対 人行動上の関係性のみを説明しているにすぎず,広く「甘え」の感情,欲求やパーソナリ

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ティについてとらえられていない。一方,土居(1971)は,「甘え」の感情や願望をも説 明しうる形で「甘え」を一義的にとらえるというよりも「精神内的甘え」として無意識的, 力動的,多義的にとらえている。例えば土居(2001)は,「甘え」の自覚があり意識して いるときには,甘えの欲求があるという意味で甘えられていない状況であり,「甘え」とい う語は単に甘えて快い気分を意味するだけでなく,そのような気分を求めることを意味す ると述べており,土居の「甘え」理論においては「甘え」を愛情表出を伴う快い気分だけ でなく,それを求める願望や「甘え」の不満(甘えたいのに甘えられない心理)について も説明しうる。そして,アンビバレンスや自己愛などの精神分析学上の諸概念も,土居の 「甘え」理論から考えることが可能である。 さらに,土居(2000a)は,竹友(1988)の「甘え」を「常規の拘束から一時解放され た場で関わり合い,コミュニケーションし合おうという同意が関わり合うもの同士の間に できた場合」のものであるという定義よりもむしろ,「相手の同意を求める言語的ないしは 非言語的シグナル」とするべきであると指摘している。確かに「甘え」には,互いに同意 する場合もしない場合もあり,また,非言語的な「甘え」も存在する。そのような点で, 土居(2000a)の「甘え」に対する理論のほうが,より「甘え」の多義性や普遍的意義を 捉えていると考えられる。 このように,竹友(1988,1999)をはじめ,木村(1972),Lebra(1976),Kumagai (1981),は土居の「甘え」理論を批判し,「甘え」についての再定義を行っているが,そ れらは対人関係の中でお互いに「甘え」が意識され許容されていることが前提となってお り,無意識的な「甘え」の現象について説明しうるものではない。精神分析学上の概念を 「甘え」理論を用いて説明するには,土居の「甘え」理論のように「甘え」を精神分析的 概念として用いることが必要であり,そのことによってより多くの心理的現象を明らかに することが可能になるのでないかと考えられる。 【4】素直な「甘え」と屈折した「甘え」 前述のように,「甘え」には多義性があり,これらを整理して,土居(1971,2001)は 「甘え」には健康で素直な「甘え」と屈折した「甘え」があると述べている。 まず,健康で素直な「甘え」とは,相手との相互的な信頼に根ざした「甘え」である。 それに対し,屈折した「甘え」とは,一方的に「甘え」を要求するという形をとった「甘 え」である。つまり,屈折した「甘え」をもつ人は,「甘え」を与えることと受け取ること

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のバランスをとることができないのである。また,「甘え」の二重性を持たず,甘えたいけ れど甘えられないという相反する心理の中で,「甘え」自体がアンビバレンスな性質を帯び ているともいえる。健康な「甘え」というのは相手が自分の方を向いて受け入れてくれる という感覚があって維持されるものである。逆に,屈折した「甘え」は,信頼の基礎がな く,いつ甘えられるかわからないし,いったん甘えられないとなるとまたいつ甘えられる ようになるか分からないという点で,「甘え」は頼りなく,気まぐれなものとなる。つまり, 「甘え」はその満足が全く相手次第で,傷つき易いという面をもっているのである。 このような甘えたいのに甘えられないという状況において,「うらむ」という心情が起こ る。そして,以上のように信頼に根ざしていない,「甘え」と「うらみ」が同時に存在する 精神状態はアンビバレンス(相反する心理が同時に存在する)の原型であり,つまり,屈 折した「甘え」とは,アンビバレンスであるといえるのである。 このように「甘え」には健康で素直な「甘え」と不健康で屈折した「甘え」の二つの異 なったあらわれがあるのだが,土居(1971)が述べているように,素直な「甘え」を求め ているという点で根は一つである。ただ,信頼関係・相互関係に何らかの問題があった場 合,素直に甘えられず「甘え」が屈折し,いつまでもそこに留まって先に進めなくなるこ とも考えられる。「甘え」の病理とされる「気がすまない」「くやむ」などの病的な心理も, 屈折した「甘え」が根づいた結果起きているのである。 健康な(素直な)「甘え」と,病的な(屈折した,自己愛的)「甘え」の問題については, 小此木(1968),手塚(1999),西園(1988)によっても,とりあげられている。 まず,小此木(1968)は,「甘え」には自我の適応パターンである健康的な側面もある とし,「甘え」は,「自我に奉仕する一時的・部分的退行」であるとしている。 また,手塚(1999)は,健康的な「甘え」では,状況に応じて「甘え」の表現を柔軟に 調節したり,甘える役割と甘えさせる役割を柔軟に交代することによって,対人関係を円 滑に進めることが可能になる。これに対して不健康な「甘え」では,このような柔軟性が 欠けるために,相手から期待する反応が得られず,「甘え」欲求が満たされないことが多い としている。 西園(1988)は,甘えさせる側は甘える相手を非難しつつも,どこかでその人を受け入 れている部分があるし,甘える側は相手をとことん貪ろうとする強欲さはなく,相手にう まく依存しながら,ある程度の満足を手に入れるとし,健康な「甘え」に特徴的な部分性 や穏やかさの要素を強調している。

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つまり,これらを総合すると,健康な「甘え」とは柔軟性,一時性,部分性,穏やかさ をもっているのに対し,不健康な「甘え」はそれらが欠けており,結果として極端で激し く,柔軟性を欠いた非適応的なものになっているのである。 このように,土居の屈折した「甘え」や不健康な「甘え」は,「甘える」やりとりの失敗 であり,自分から与えることの出来ない,自己愛的で,他人に素直に依存することが出来 ない状態が続いている成人にみられるかもしれないと,Johnson(1993)は述べている。 また,土居(2001)は,屈折した「甘え」はアンビバレンス(両価性)の他に自己愛と も結びついていると述べている。つまり,屈折した「甘え」は,「甘え」をやりとりする際, 相手との相互的信頼の基礎がなく,甘えたいのに甘えられないという,自己愛的な一種の 欠乏状態を指すと考えられる。以上のように,屈折した「甘え」は,甘えたいという欲求 はあるがそれが受け入れられないという状態で,甘えたいのに甘えられず,「甘え」が一方 的で要求がましい「すねる」「ひがむ」「ふてくされる」「くやしい」などの自己愛的な要求 の形をとるのである。 引用文献 土居健郎 1971 「甘え」の構造 弘文堂 土居健郎 2000a 土居健郎選集2 「甘え」理論の展開 岩波書店 土居健郎 2000b 土居健郎選集1 精神病理の力学 岩波書店 土居健郎 2001 続「甘え」の構造 弘文堂

Johnson,F.A., 1993 Dependency and Japanese Socialization : Psychoanalytic and

Anthropological Investigation into AMAE.New York : New York University

Press.(江口重幸・五木田 紳(共訳) 1997 「甘え」と依存―精神分析学的・人 類学的研究― 弘文堂)

木村 敏 1972 人と人との間―精神病理学的日本論 弘文堂

Kumagai,H.A.,1981 A Dissection of Intimacy : A Study of “Bipolar Posturing” in Japanese Social Interaction . Culture, Medicine, and Psychiatry ,5,249‐ 72.

Lebra,T.S., 1976 Japanese Patterns of Behavior.Honolulu : University of

Hawaii Press.

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小此木 啓吾 1968 甘え理論の主体的背景と理論構成上の問題点 精神分析研究,14, 14-19. 竹友安彦 1988 メタ言語としての「甘え」 思想,768,122-155. 竹友安彦 1999 「対人行動的甘え」と「精神内的甘え」―日常語「甘え」の延長にある 精神分析術語「甘え」の問題― 北山修(編) 「甘え」について考える 星和書店 Pp.47-64. 手塚千鶴子 1999 セラピーにおける「甘え」と言葉―ある個人的体験をめぐっての一考 察― 北山 修(編)「甘え」について考える 星和書店 Pp.67-82.

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第3節

自己愛的甘えに関する理論

前述のように,土居(2001)は,「甘え」が満足されていない状態である屈折した「甘 え」は,自己愛と結びついていると述べている。また,土居(1965,2000b)は,Balint(1952) が Freud の一次的自己愛を批判したのと同じく,自己愛は,受身的対象愛が満たされない ことによる二次的産物であると主張している。そして,土居(2001)は,「自己愛的甘え」 を,一方的で要求がましいのが特徴であると定義している。本節では,自己愛を対象関係 論的に解釈し,Freud の自己愛理論の問題点について述べ,Balint(1952)や土居(1965, 2000b)の自己愛理論の再定義について触れる。そのうえで,「甘え」と自己愛との関連 について述べ,土居(2001)の定義をもとに自己愛的甘えの理論について説明する。 そして,Freud の概念にもとづいた自己愛理論では説明しきれなかった自己愛の特性が自 己愛的甘えを考慮に入れることによって説明できるということを明らかにする。 【1】「甘え」理論と自己愛理論 精神分析において,自己愛 narcissism という概念は,Freud による,統合失調症をリビ ドー論で解釈しようとする試みからうまれた。彼は,対象関係からリビドーが撤退するこ とが自己愛であり,彼が述べた「自己愛神経症」とは,分裂病(統合失調症)性の自閉の 状態であった。後に,Freud の自己愛理論は展開し,リビドーが自我に引き上げられる前, そもそも外界の対象に振り向けられる前の,自他の区別が未分化な時期に自我の中にこも っている状態を,「一次的自己愛」とし,これに反して統合失調症のように,発達後,本来 は対象に向けられるべきリビドーが自己へ充当された結果起きるものを,「ニ次的自己愛」 と呼んだ。したがって,Freud は自己愛の状態においては,対象関係は成立していないと 考えたのである。 これに対し Balint(1952)は,前述のように,自己愛を対象関係論的に理解し,自己愛 の発生は受身的対象愛(対象に愛されたいと思う心)が満たされないことに関係すると述 べた。土居(1965)も,この Balint の一次的自己愛を否定する考えは,自分自身の所論 に近いとしている。また,土居(2000b)は,一次的自己愛についての Freud の主張に対 し,矛盾を指摘している。Freud は,親たちの愛情深い態度は,彼ら自身の,以前に放棄

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された自己愛の再生したものであり,根本的には子供っぽい両親の愛情は,対象愛に変貌 してはいるが,それ以前の性格を明白に示していると考察している。これは,親たちの子 供たちに対する愛情深い態度の観察による考察を用いた,リビドー論における基本の一つ である幼児の一次的自己愛についての説明である。土居は,この Freud の説明を疑問視し, 親たちの愛情深い態度は,昔の自己愛の再生というよりも,親自身にもともと愛されたい 欲 望 が あ っ て , そ の た め に 子 供 に 愛 情 深 く 接 す る の で は な い か と 述 べ て い る 。 そ し て , Freud の自己愛理論によると,自己愛とは自我にだけリビドーが向けられて他から閉鎖さ れている状態を指すにもかかわらず,このFreud の主張は,自我が他にリビドーを与えな いのではなく,他からリビドーの供給を求める状態の存在を暗示しているとも述べている。 こ の よ う な 点 か ら , 定 義 上 で は 自 己 愛 は 自 己 閉 鎖 的 で あ る の に 対 し , こ れ の 証 明 と し て Freud が挙げる事実は,むしろ自己愛が密かに外界と関わり合い,外界に対しある欲求を 持つことを示していると,土居(2000b)は指摘している。 さらに土居(1965)は,他動的・受動的愛(受身的対象愛)に基いた自己愛の再定義は, 精 神病 理 的 現 象を 解 明 す る上 で ,Freud の定義よりももっと効果的であるとした。土居 (1965)は,愛されたい欲求,すなわち依存欲求は最も基本的な心的欲求で,それ自体本 能的なものであるとし,愛されたい,甘えたいという欲求があるにも関わらず,依存欲求 が満たされない時には,それが幼ければ幼いほど,「甘え」の対象を失い,本能衝動は現実 的に満足させられないので自体性欲的また自己破壊的な現象が起こるとしている。また, この状態は現実との接触が全く失われた精神病の場合に相当すると述べており,このよう な状態が幼時実際におきて継続すれば生存は不可能であるため,それを至急収拾しなけれ ばならないが,このようにして招来される結末が自己愛である(土居,1965)。すなわち, このような痛みに耐えられず,心的防衛の結果生じたものが自己愛であり,この状態にお いて自己充足感,または全能感の幻想が始まるのである。土居(1965)は,前述のような 欲求不満が非常に早い場合に起きるときは,依存欲求が芽生えのなかに摘みとられるかま たは固定する危険があり,この場合は自他の区別があいまいで,自体性欲的また自己破壊 的傾向を内蔵しており,精神病の素質となる自己愛であるとしている。そして次に,同じ 幼時でも自他の区別ができて自己の観念がおぼろげながら成立し,甘えるということを十 分知った後に欲求不満を経験するときは,自分に甘えまた自分を甘やかす状態が招来され, これは神経症の素質となる自己愛であると土居(1965)は述べている。このように土居は 自己愛を,Freud の定義と異なって,常に二次的な形成物であるとした。

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また,土居(1971,1997,2000a,2000b)は,屈折した「甘え」と自己愛とが密接な 関連があることを指摘している。そして,屈折した「甘え」は明らかに自己愛的であると も述べており(土居,1997),一種の精神的弱みや欠乏状態である自己愛的な状態は,甘 えたいのに甘えられない,一方的で要求がましい性質をもった屈折した「甘え」の心理に 近いのである。 【2】自己愛的甘えの理論 これらのことから,屈折した「甘え」は「自己愛的甘え」ともいえるのであるが,土居 (2001)は精神的弱みや欠乏状態を,自己愛的と形容詞として使われることが注目すべき 点であると述べている。つまり,Freud の自己愛概念にもとづいた自己愛という概念は, 成長した人間がこの幼児的な状態に退行すれば病理的なものであるが,一方で正常の自尊 心または理想我の形成の基礎ともなり,もともとは同性愛・統合失調症の特性を説明する ために造られた自己愛の概念が同時に正常の理想的な状態を指している。このことは,概 念の混乱を招くとして,土居(2000b)も批判している。また,土居(2000b)は,幼児 には自己の観念も,愛するという観念も芽生えていないということから,病理的な自己愛 の状態と真の自己愛は等しいものとは考えられないと述べている。これに対し,自己愛的 というのは,単に正しく自己を愛すること(真の自己愛)とは違い,自己中心的,利己的 なものであり,それはどのように利己的であるのかというと,精神的な弱みからくる欠乏 状態によって,対象関係において,わがままで要求がましい状態を伴うのである。つまり, 真に自己愛と呼ばれる状態は,成熟した人間が自己を自覚し自己を愛するという状態(土 居による「自分がある」という状態)であるのに対し,自己愛は,それが精神の未熟な状 態で起きるために,未熟で病的なものへと発展し,固定した状態となるのである。また, 自己愛的要求という表現も専門家の間で日常的に使われており,これは,何か特に自分に してもらいたいことがある場合,そのような要求を指して言うとされている(土居,2001)。 そして,土居(2001)は,「自己愛的甘え」を,一方的で要求がましいのが特徴であると 定義している。さらに,健康な「甘え」が非言語的で,本人に「甘えている」という自覚 がないのに比べて,自己愛的甘えは「甘えたい」欲求として自覚される。このような要求 がましく一方的な性質を持つ自己愛的心理は,自分に対する誇大性の心理というよりも, 関係性の中で誇大性としてあらわれてくると考えられよう。 以上のことから,自己愛は受身的対象愛が満たされないことによる二次的産物であり,

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