1 「これは論文ではない」 マグリットへの再接近の前に
( 1 ) 自由な読書メモと引用の編物としての「論文」
初めの始めにことわっておこう。20世紀のモダンアートを代表する画家の 一人であるルネ・マグリット(René François Ghislain Magritte, 1898.11.
21 1967.8.15)のあの天才的な表現「これはパイプではない。」(Ceci n’est pas une pipe.:終止符は重要なので訳に「。」を付す)をあえて借用すれば、
じつは本稿も「これは論文ではない」のだが、それには二つの理由がある。
一つは「論文」(research paper)が先行研究や一次資料、二次資料などを 参照しながら、外観上は控えめに「私」を三人称の「筆者」や「著者」に変 換して、対象に「客観的」に接近する試みであるのに対して、ここで私が企 てようとするのは、そうした気配りにはあまり留意せず、もっと恣意的に
(スポーツの試合の審判= arbitre のように arbitraire に)、一人称の「私」
を通じて「主観的」に対象に再接近する企てだということである。
もう一つは、もっと具体的な理由であり、本稿は事実上次の二つの書物を 主要な源泉とする「自由な読書メモと引用の編物」になっている。それら はルネ・マグリット『全著作』(アンドレ・ブラヴィエ編注、フラマリオン、
パリ2001)と、パトリック・スーヴェランス、パスカル・アンス共著『マグ リットを(再び)読む:芸術作品を理解するための七つの鍵』(ブリュッセ ル、グループ・ド・ベーク2009)の二冊である。だから、スキュトネール
ルネ・マグリットの謎と鍵
「シュルレアリスムと絵画」を越えて?
塚 原 史
(1947)やワルドベルク(1965)のマグリット論から最近の利根川由奈の博 士論文『マグリット 国家を背負わされた画家』(2017)などまでの「先行 研究」には、残念ながらほとんど触れられない(1)。
『全著作』は、マグリットの著述活動の最初期(「純粋芸術」1922など)か ら最晩年(「世界の認識」1965や1966年のインタビューなど)まで、ほとん どすべてのテクストを詳細な註釈付きで再録した全巻760ページの大著であ り、広義にも狭義にもマグリット研究に不可欠な必須文献であることはいう までもない。編注者のアンドレ・ブラヴィエ(André Blavier, 1922 2001)
はベルギーの詩人でレーモン・クノーらの実験文学集団 OULIPO に参加、
長年出身地ヴェルヴィエ(Verviers)の図書館司書を勤め、マグリット研究 の専門家として世界的に知られた。一方『マグリットを(再び)読む』は アカデミックな意味での研究書ではなく、ベルギー・リエージュ大学准教授
(Maître de conférence à l’Université de Liège)のパトリック・スーヴェ ランス(Patrick Souveryns)と、やはりリエージュ大学で彼の協力者(助 手?)であるパスカル・アンス(Pascal Heins)が、中等教育課程の美術教 育の教授用に書き下ろした、アカデミックな研究書とは異質な「実用書」
(マグリットの主要作品解説 DVD 付)にすぎないのだが、マグリットの作 品に潜む「謎=神秘」に先端的な視点から大胆な解釈を試みたもので、これ までの「先行研究」には見られない意外な指摘や大胆な示唆に富んでいる。
( 2 ) マグリットと「マグリット現象」
それでは、なぜマグリットなのかといえば、まず以下の点を確認しておこ う。
美術の領域でモダンアート(この場合は20世紀以降の近現代アートで、印 象派などは含まない)の最初期のもっとも特徴的な試みをあげるとすれ ば、ピカソの『アヴィニョンの娘たち』(Pablo Picasso, Les Demoiselles d’Avignon, 1907) と デ ュ シ ャ ン の『 泉 』(Marcel Duchamp, Fountain,
1917)などが思い浮かぶことに、おそらく大きな異論はないだろう。ピカ ソがアフリカ彫刻から着想したこの絵画は、詩人ギヨーム・アポリネール が『美的省察 キュビスムの画家たち』(1913)で説いた、対象との類似や 作品の主題性を否定する「非人間的芸術」の先駆的試みとして今なおインパ クトを維持しているし、ダダイスト・デュシャンの場合は、周知の通り工 業製品の小便器をほとんどそのまま「作品」化したレディ・メイド(Ready- made)であり、ダダの冒険以後、モダンアートの突出した部分は現実の表象 化の技法からますます遠ざかることになる。それはモダンアートというより、
岡本太郎が1950年の『アヴァンギャルド芸術』で強調した通り「アヴァン ギャルド(前衛)アート」の問題なのだが、ここでは立ち入らない(2)。 とはいえ、それから一世紀以上の時間を経た現在、研究の現場というよ りモダンアートが消費される場面(美術展、美術書出版、アート・メディ ア、SNS など)で人気が高いのは、つまり各国の美術館で多くの観客を集 めたり、画集やガイドブックが売れたり、商品の広告に利用されたりするの は、「非人間的」だったり、「レディ・メイド」だったりする作品よりは、む しろ「何が描いてあるか」が容易に見てとれる、表象的傾向の強い作品では ないだろうか(現実をそれが現実の一部だと一見して分るように描く傾向を 仮にこう呼んでおこう)。
日本のミュージアムに限っても、近年のモダンアートの大規模な催しでは、
ダリ、ゴッホ、クリムト、ムンク、ミュシャといった企画展が思い浮かぶが、
なかでもルネ・マグリットの回顧展は1971年の東京国立近代美術館展(同 館では1988年にも開催)から2015年の国立新美術館展までほぼ十年ごとに 何度も開催されている。(ピカソの大規模な個展は2004年東京都現代美術館、
2008年国立新美術館などくらいで意外に少ない。)世界的に見ても、2011年 テート・リヴァプール館の「マグリット:快感原則」展(René Magritte:
The Pleasure Principle)、2017年パリ・ポンピドーセンターの「マグリッ ト:イメージの裏切り」展(René Magritte:La Trahison des images)な
ど、数年おきに回顧展が開かれ、多くの観衆が訪れているし、2019年11月~
2020年 9 月にはブリュッセルのベルギー王立美術館(Les Musées royaux des Beaux-Arts de Belgique)で「ダリ&マグリット展」が開催される。
つまり、ごく手みじかにいえば、マグリットは日本に限らず世界中で最も 人気のある近現代画家の一人なのだが、その理由のひとつは2015年に南雄介
(国立新美術館副館長)が述べた通り「マグリットは、目の前の現実を、誰 にでも誤解のないように、わかりやすく表現することに努力を傾注した画家 である。無表情な写実的様式で描かれた絵画は、何が描かれているかひと目 でわかる」ことだといえるだろう。けれども、それだけではマグリットの魅 力の説明にはならないから、南はこう続ける 「マグリットが作り出した のは、たんに思いつきだけの奇抜なイメージではない。彼は、世界は神秘で あると考えていた。一つひとつの作品は、世界から与えられる神秘の感覚を 表現するものなのである」(南雄介「マグリットの現代性(3)」)。
こうして、「わかりやすさ」と「神秘性」の不可思議な組み合わせが美術 館や画廊の枠組みを越えた「マグリット現象」を引き起こしていることは、
すでに1988年のマグリット展(上述)の際に高橋幸次(当時東京国立近代美 術館研究員、その後日大芸術学部教授)が指摘した状況とも今なお重なって いる。
「今、恐らく私達は、マグリットの引き起こした現象を、私達が〈歴史〉
と呼び習わしている物語の一つに巧く封じ込められるかどうか迷っている地 点にいると思われる。私達の日常の視覚体験の基礎に、或る〈型〉を与えて しまったがゆえに、余りに〈現在〉であり、余りに〈絵〉でありすぎるイ メージ、それを私達は〈マグリットの空〉とか〈マグリット的な風景〉とか
〈マグリットのオブジェ〉……等々とマグリットという固有名詞を冠して呼 ぶことができる。〔…〕何らかの再現性を基礎としたコマーシャル・デザイ ンや現代芸術の一部にその影響は顕著であろう」(高橋幸次「序論―ルネ・
マグリットの類似性:『見えるもの』に留まることについて(4)」)。
高橋の重要な示唆から三十年が過ぎた今日、「マグリット現象」はすでに
「歴史」の一部として定着した感があり、たとえば少し古い例だが、板塀の 前の砂利道で履き古した一足の半長靴が人間の剥き出しの裸足に変貌する
『赤いモデル』(Le Modèle rouge, 1947)は1975年のカナダ税関の広告 (Are you accustomed to travel?) に、波立つ海面の上空の青空に巨大な岩が浮 遊している『ピレネーの城』(Le Château des Pyrénées, 1959)は1990年 の TOSHIBA の宣伝(In Touch with Tommorow)に用いられらたことが あった。2010年の CCFD-Terre solidaire(フランスの宗教団体「飢餓に反 対し発展に賛成するカトリックセンター=連帯する地球」)の意見広告では、
「これはパイプではない。」・『イメージの裏切り』(La Trahison des images, 1929)を拡張して、ベージュ色の下地の上にパイプの代わりに手をつなぐ南 米系の女性と少年が描かれ、「これは貧しい母と子ではありません。ボゴダ で子どもたちに文字を教える若い女性なのです」と記されている。マグリッ ト作品の商業的な利用を越えた提案として注目されるが、これほど先進的で はなくても、もっと単純な模倣は無数に見つかるだろう。まさに「マグリッ ト現象」ではある(5)。
( 3 ) マグリットの「わかりやすさ」と「虚偽の認識」
マグリット現象のこうした展開をひとまず確認した上で、ほぼ同時期の作 品であるマグリット『人間の条件』(La Condition humaine, 1933)とピカ ソの『泣く女』(The Weeping Woman, 1937)を比べてみよう。一見した
「わかりやすさ」では、カーテンが両側に引かれた大きな窓から戸外の田園 風景が見える『人間の条件』のほうが、モデルの女性の眼や鼻や口など顔を 構成する部分が壊れて、日常的現実にはありえない場面が描かれている『泣 く女』に明らかに優っている。ところが、よく見ると『人間の条件』の風景
のほとんどの部分は、室内の窓際に立てられたイーゼル上の絵に描かれた
「風景」であり、目の前の現実そのものではないのだ。この点について、マ グリット自身は1938年の講演「生命線 I」(La Ligne de vie, I:手相占いの 用語では「運命線」の意もある)でこう述べていた。
「私は窓の前に、絵によって覆われている風景の部分を正確に描いた絵を 置きました。したがって、この絵に表象されている樹木は、絵の向う側の、
部屋の外の樹木を隠していることになります。観客にとって、この樹木は室 内にあると同時に、現実の風景の中では室外にあるのです。同時に二つの異 なる空間に存在するということは、同時に過去と現在に存在するようなもの であり、《虚偽の認識》(la fausse reconnaissance)の中で起こることに似 ているのです(6)」。
この意味では、同じ年の大作『ゲルニカ』の激しい怒りと悲しみにつな がる『泣く女』の破滅的な表情のほうがリアルでわかりやすく、『人間の条 件』は絵が現実を覆い隠していることになる。そのことは絵の中の画架に置 かれた絵のキャンバス上部の茶色いクリップと右側の白い辺で明示されてい るので、よく見ればわかるのだが、この種の「虚偽の認識」は1936年の『野 の鍵』(La Clef des champs)でいっそう深まるだろう(7)。
というのも、この絵には『人間の条件』とほぼ同じ室内の窓から戸外の野 原と遠景の樹木が描かれていて、前作のような画布の覆いがないので素透し の窓からは野外の風景がそのまま見えているが、観客を不安に陥れるのは、
窓ガラスが大きく割れて室内に散らばっていることだ。それだけなら現実の 一部ともいえるが、飛び散ったガラスの破片には戸外の田園風景の断片が はっきり映ったままなので、ありえない情景を前にして観客の当惑は『泣く 女』以上に大きくなってゆく。
この作品から着想してユニークな詩を書いたのが、日本の現代詩人渡辺め
ぐみである。
2019年出版の詩集『昼の岸』(思潮社)第二部「II マグリットを書く」に は2015年国立新美術館開催の「マグリット展に感銘を受け」て書かれた数編 が収録されており、その一つ「約束」が『野の鍵』の印象に由来する作品だ。
一部を省略させて頂いて、引用しておく。危険を冒して約束を守り、「向こ うにある」野の自由への鍵を奪いとろうとする意思表示が実感されて、力強 い。絵ではガラスのかけらが室内に飛散しているので、外部の何かの力で壊 れたことになるから、窓を割ったのは野原に潜む共犯者、あるいは野原それ 自体だったとも思えてくる。
約束
野の襞に素足を浸すと 樹液が時を刻む音色が 皮膚の底に降りてゆく 〔…〕
脅えてはいけない 野は
野を愛したものを 守るから
〔…〕
野でした約束は 決して壊れない 野の瞳が
契りあったものたちを 見ているから
〔…〕
硝子窓の向うに 野はある 確かに見える
窓が閉ざされ 明日への光を 絶たれたなら
窓を素手で割ればいい 野に向って
飛べばいい
硝子片で怪我をしようとも 血だらけの手で
足で 〔…〕
硝子窓の向こうに いつでも野はある 野が呼んでいる(8)
じつは、窓ガラスと風景の関係については、意外な人物がすでに論じてい た。ロラン・バルト(Rolad Barthes, 1915 1980)だ 「《写真》は薄い 層をなす対象(もの)の部類に属していて、その二つの層をこわさずに引き 離すことは不可能なのである。たとえば、窓ガラスと風景がそうであり、ま た言うまでもなく、《善》と《悪》、欲望とその対象がそうである」(『明るい 部屋』、花輪光訳(9))。
ここでバルトは、写真が「何か目の前にあるもの」を指す「純粋な言語活 動」であるという前提に立って、一枚の写真は対象に分かち難く貼りついて
いる、つまり何か、あるいは誰かが写っていない写真(写真そのもの)は存 在しないから、写真とそこに写った対象を切りはなすことはできないと主張 している。ところが、マグリットの『野の鍵』では、「窓ガラスと風景」の 貼りつくような重なりがまさに暴力的に破壊されていて、この点では渡邊め ぐみが詩篇に書いた状況に通じるものがある。もちろん『野の鍵』は写真で はないが写実的な絵画であり、一見「目の前にあるもの」を忠実に表現して いるように感じられても、そこに巧みに描かれているのは絵画の中にしか存 在しない、目の前の「現実」を越えるありえない場面なのであり、このこと は私たちをマグリットの謎へと誘い込むだろう。
2 マグリットの謎と鍵 認識不可能な世界の絵画
( 1 ) デペイズマンの両義性 マグリットとエルンスト
結局、美術館の展覧会から宣伝広告まで広範にわたる「マグリット現 象」の起源となったのは、マグリットの絵画がこうした「現実」を越える 場面を写実的に提示しているために、わかりやすそうでいながら謎めいた 印象を見る人に与えるからである。つまり、そこには「ありそうで、あり えない」場面が提示されているわけだが、この種の方法を「デペイズマ ン」(dépaysement)と名づけて強調したのがシュルレリストたちだった ことはよく知られている通りだ。このフランス語の単語は「国や場所や環 境を変えること」(changer de pays, de lieu, de milieu)を意味する動詞 dépayser の名詞形であり、定評ある Petit Robert 辞典にはジョルジュ・サ ンド『魔の沼』「II 労働」中の「彼ら〔農民の親子〕がそのこと〔彼らの高 貴な額には主の徴(しるし)が見て取れ、彼らが土地の王として生まれたこ と〕を感じている証拠に、彼らを何の咎もなく土地から移動させたりする
(dépayserait)ことなどできはしないだろう(10)」という文例が挙げられてい る。したがって、デペイズマンは原義通りには「慣れ親しんだ場から引き離 すこと」であり、強いて訳せば「異境化」となるだろうが、ここではそのま
ま「デペイマン」としておこう。
この方法を作品中で実践した代表的アーティストは周知の通りマックス・
エルンスト(Max Ernst, 1891 1976)で、彼は1936年の著書『絵画の彼岸』
でこう述べていた(コラージュ自体はピカソやブラックの先例があるが、彼 らの場合は美術的な技法であり、意図的な「デペイズマン」の意識はなかっ ただろう)。
「コラージュとは何か?/それは視覚的イメージの錬金術のような何かだ。
存在とオブジェがその物質的または解剖学的様相の変容をともなって、あ るいはともなわずに、完全に変身するという奇跡。/コラージュのメカニ ズムとは何か?/私はそこに(ロートレアモンの有名なフレーズ:《ミシン と雨傘の手術台上での偶然の出会いのように美しい》を一般化して言い換え るなら)二つの隔たった現実の不適当な平面上での偶然の出会いの活用、あ るいはもっとかんたんな言葉を用いるなら、《超現実はすべてのものの完全 なデペイズマンへのわれわれの意思に依拠するようになるだろう》というア ンドレ・ブルトンの主張にしたがった体系的デペイズマン(dépaysement systématique)の効果の培養(culture)を見たいと思う(11)。」
ここで引用されているブルトン(André Breton, 1896 1966)の表現は
「マックス・エルンストの《百頭女》のための読者への紹介文」(1929)の中 に見つかる。そこには、上記の引用に続けて括弧内にこう記されていた
「(だから片方の手を腕からデペイゼ〔移動〕することさえできるし、その手 がそこでそのまま手として定着することも可能だ。それに、言うまでもない ことだが、デペイズマンについて語る際に、われわれは空間中の移動だけを 考えればよいわけではない(12))」。
つまり、エルンストの場合、ごく単純に言えば、デペイズマンは1929年初 版のロマン=コラージュ『百頭女』(Femme 100 têtes:邦訳は巌谷國士訳、
河出文庫)で彼が試みたようなクラッシクな銅版画などの切り貼りのことで あり、たとえば黒服の紳士たちが奇妙な器具を手に、巨大な箱から女性にな り損ねた両性具有者(股間にある部分が見える)の、上半身から切りはなさ れた巨大な裸の下半身を引き出すような「ありえない」イメージが出現す るのだ(ポンピドーセンター所蔵作品「…そして三回目、これも失敗」:“...
et la troisième fois manquée”:河出文庫版 p.29)。ブルトンが予告した「腕 から手を切り離す」ようなイメージだが、こうした操作を通じてロートレア モン(イジドール・デュカス)が『マルドロールの歌』第五歌に書き留めた あの「ミシンと雨傘の出会い」が容易に再現されるわけである(13)。
こうして、デペイズマンは自動記述(オートマティスム)とともにシュル レアリスムの主要な武器となったのだが、じつはブルトンはもっと前の1921 年 5 月に、パリ最初のエルンスト展のカタログに寄せた文章中で、この発想 をダダに結びつけてこう述べていた 「ダダはまた、お決まりの遠近法に したがっても無駄だと判断している。〔…〕われわれの経験の領域から逸脱 することなしに、二つの隔たった現実に到達し、それらの接近から火花を引 き出すという素晴らしい能力、〔…〕われわれ自身の想い出の中でわれわれ をデペイゼする能力、これがさしあたりダダをひきとめ、支えているものな のだ(14)」。
ここでは「デペイズマン」という用語はまだ使われていないが、「デペイ ゼ」が「お決まりの遠近法」を越えて「二つの隔たった現実の接近」を実現 する能力の意味で用いられているから、事実上デペイズマンの提案の起源に なっていると言ってよいだろう。その際、ブルトンがそれをダダの企てと見 なしていることは重要であり、コラージュによるデペイズマンは、既成の版 画や写真や新聞記事などの断片を貼りつける操作という点では、レディ・メ イドに近い試みだったのである(ブルトンが1924年の宣言で強調する「偶然 性」という条件についてはひとまず留保されているが)。
マグリット自身も、前出の講演「生命線 I」でエルンストのコラージュを
紹介してこう語っていた。
「ポール・エリュアールの詩集『反復』〔Répetitions, 1922年〕の挿画を制 作する際に、マックス・エルンストは古雑誌の版画から作ったコラージュの 衝撃的な効果を見事に証明しました。この種のコラージュによって、人びと は伝統的な絵画に威信を与えていたすべての要素を容易に一掃することがで きるようになりました。鋏と糊と〔印刷された〕イメージと、いくらかの思 いつきが、事実上、絵筆、絵具、モデル、様式、感受性そして芸術家の聖な る霊感に取って代わったのです(15)。」
まさにコラージュ礼賛のようだが、そのすぐ後で、彼は子どもの頃、地方 の小都市の使われなくなった墓地で、一人の少女とたびたび地下の墓所に 入って遊んだものだと回想し、明るい地上に出た時、墓場の小道でとても美 しい絵を描いている画家を見かけて感動した体験に触れてから「その時、絵 を描くという技術(アート)がどことなく魔術的であり、画家は超越的な力 を与えられているように私には思えたのです」と述べている(16)。
ここまでこの講演を聞いた聴衆は、マグリットがコラージュの効果に「衝 撃」を受けながらも彼自身はその実践に深入りせずに、少年期の体験の「衝 撃」を維持しながら、絵描き(peintre-artiste)としての魔術的で超越的な 探求をめざし続けたことを理解したはずである。言うまでもないが、マグ リットの代表的な作品では「デペイズマン」といっても、絵を構成する画布 上の諸要素はすべて画家自身が描いたものであり、そこには偶然性の要素は なく、またレディ・メイド的切り貼りの操作も介入していない(一時期文字 通りのコラージュを実践したこともあったが、作品はほとんど忘れられてい る)。したがって、マグリットのデペイズマンはエルンストのコラージュと は異なり、鋏も糊も使わずに、同一平面上に複数のイメージの不可思議な組 み合わせを絵筆と絵具だけで描き出すことによって「ありえない場面」を浮
かび上がらせる、いわば神秘的な企てだったのであり、マグリットの謎と方 法はそこから出発している
( 2 ) 世界の謎を描く画家
こうして、マグリットの絵画では(1943年頃の印象派的作品と1948年頃の フォーヴ的作品を除いて)、そこに潜んでいると予感される「謎=神秘」(le Mystère は通常「神秘」と訳されるが「謎」でもあるので、文脈によって は複合語的に記すこともある)が、その題名も含めて絵を見る人を捉えて離 さないのだが、このことは先の講演でマグリットが強調した画家の超越的な 力を、個人的であると同時に社会的でもある場面で実践するための方法だっ たと言えるだろう(絵画の企ては絵を見る人や論じる人の存在を通じて実現 される)。晩年になってからも、彼は1962年の短いエッセー「神秘の声」(La Voix du Mystère)でこう述べていた 「謎=神秘なしには、いかなる世 界も、いかなる思考もありえません。〔…〕あらゆる事物は、その表面的な 性格がどのようなものであっても謎めいたものであり、そこには現われた部 分と隠れた部分があるのです(17)」。
マグリットのこうした考えは「幻想画家」の枠に収まりきらない自由な思 想家としての彼の個性を示唆しているが、この点に関して、1967年 8 月15日、
当時68歳と 9 カ月のマグリットがブリュッセル市スカールベーク地区の自邸 で急逝した翌日、ベルギー放送のラジオ追悼講演で長年の友人だったマルセ ル・マリエンが、画家の生涯の業績についてこう語ったことは非常に意味深 い。
「ポール・ヌージェは、《20世紀の精神史から見て、マグリットの絵画は、
第一級の出来事である》と述べていましたが、きわめて傾聴に値する考えの ひとつです。〔…〕実際、彼は美的なものに背を向け、芸術に奉仕するとい うよりも芸術を利用したのです。〔…〕彼にとっては手段以外のものであっ
たことがない絵画というものの歴史における以上に、思考の歴史においてこ そ、マグリットはきわめて重要な意味をもっています。彼の重要性は、ひと つの方法を創りあげ、ひとつの真の言語を明らかにしたという点にあります。
そうした言語は〔…〕抽象化の罠を逃れることに成功したという点ではいわ ゆる哲学的言語とは異なった長所を持っています。マグリットはいつもきわ めて厳密に絵を仕上げていましたが、彼の描く絵がそれぞれひとつの観念を 表すものであるだけに、彼の作品はいっそう無視できないものなのです。」
(マルセル・マリエン「マグリットの死」、内藤俊人訳(18))
それにしても、マグリット逝去直後の追悼番組で、マリエンがこの大画家 に深い哀悼の意を表しながらも、マグリットにとって絵画は「手段以外のも のであったことはない」と述べたのは、いったいなぜだろうか。直観的な言 い方になるが、この時彼は、マグリットにとって絵画とは、世界のすべては 理解可能だと思い込んでいる現代人に対して、世界が「謎=神秘」そのもの であるという「真理」の存在に気づかせるための「手段」(「鍵」といっても よいだろう)なのだと言いたかったのではなかっただろうか。
というのも、死の前年の1966年 1 月28日に、ベルギー・テレビのインタ ビュー番組に出演したマグリットは、子ども時代の忘れられない記憶として、
生まれたばかりの頃、揺籠の横に四角い箱(une caisse)が置いてあったこ と(最初の記憶)、熱気球が家の屋根に落ちて操縦士(balloniste)が降り てきたこと、そして先ほどの墓地で画家を見かけたことの三つのエピソード を挙げてから、こう語っていたのだ 「私は自分が本当に神秘の感情を抱 き続けたと思っています。世界を初めて目にするすべての子どもは、必ずこ うした感情を抱くにちがいありません。なぜなら、世界とは子どもにとって 未知のもの(l’inconnu)に属しているのですから(19)」。
さらに、この種の感情は、時として子ども時代の甘美な想い出の中に閉じ 込められるとしても、生涯を通じて神秘の存在を意識し続けることは可能だ
と、マグリットは言う 「自由な思想はいつでも神秘の存在に敏感になれ る可能性を秘めている。可能性が苛酷か好意的か、貧弱なものか素晴らしい ものか、どんな性格なものであっても、自由な思想は有効な力を発揮して、
神秘を呼び出すことができるのだ」(「神秘の声(20)」)。
世界の奥底から「謎=神秘」を呼び出す自由な思想が、デュシャン『泉』
とともに世紀の話題作である「これはパイプではない。」(『イメージの裏切 り』、前出)を生み出したことを意識するかのように、マグリットはやはり 1966年にアメリカのベストセラー雑誌『ライフ』のインタビューで、「なぜ これはパイプではないのですか」と聞かれて「そうだね、それはパイプの絵 であって、現実のパイプじゃないからね」と答えてから、少し間をおいてこ う語っている 「私たちは皆あまりにも多くの実利的なことがらに気を 取られているので、謎を見失ってしまう(We miss the mystery)。だから、
時々立ち止まって、謎について考えてみるべきなんだ。科学は謎をまったく 認めない。すべてが発見なのだ。それでも、今頃になって、科学は新たな逆 説を提起している…。発見がさらに多くの謎を発見する(the discovery of still more mystery)という逆説だよ(21)」。
このように、最晩年のマグリットは、彼の絵画が世界の謎=神秘を提示す るために自由な思想から着想された「手段」=「鍵」であると、繰り返し強 調している。このことが端的に語られているのが、1966年にローザンヌの雑 誌『ガゼット・リテレール』のインタビューで、そこで画家は彼の生涯をわ ずか数行で振り返って、こう述べていた。
「私の人生は少しも特別な精彩に富んだもの(pittoresque)ではありませ ん。私はブルジョワの家庭に生まれ、学校で勉強してからブリュッセルの美 術アカデミーで描くことを学びました。その頃私は少し手探り状態で、とり わけものごとを思考することに時間をかけました。この経験から、私は形 態(フォルム)ではなく、絵画の根底にあるものを取り戻す(reprendre le
fond de la peinture)方向に導かれたのです。結局、絵を描く手法にはほと んど関心がなかったので、〔…〕多少なりともオリジナルな手法を探し求め る代わりに、私は事物の奥底を追求して、絵画を世界の認識を深めるための 一つの道具(un instrument)にすることを選んだのですが、この認識は世 界の謎=神秘(mystère)と切り離せないものなのです(22)。」
この言葉通り、絵画が世界を認識する重要な手段のひとつだとすれば、マ グリットが『ライフ』誌のインタビューで答えた通り、どれほど科学が発達 しても世界から謎を消去することが不可能である以上、画家は目の前の世界 を秘かに満たしている「謎=神秘」の存在を、絵画を通じて人びとに気づか せる任務を負っていることになりはしないだろうか。だが、その場合画家は 彼の仕事によって、科学者のように「客観的に」世界の謎を解明するわけで はない。先ほど引用した1966年 1 月のテレビ・インタビューで、マグリッ トは聞き手(ジャック・グーセンス)が、マグリットの「ファントマ」や
「ニック・カーター」への深い関心に触れて、それらのストーリーや人物像 から影響を受けたことがあるかと質問したのに対して、こう答えていた。
「私はそうは思いません。というのも、こうした本〔ファントマやニッ ク・カーター物〕で問われている…そう、あの謎は解く鍵のある謎で、結局、
解法が存在し得る謎なのです。ところが、私の作品で謎が問題になるとすれ ば、そこでは認識不可能なものが問われているのですから(23)。」
死の前年の、一見何気ないこの発言は、マグリットの作品が見る者に答え のない謎を提示していることを彼自身があっさりと認めた点で、重要な意味 を持つ。いわゆる「ミステリー」が謎解きの興味で読者(映画の場合は観 客)を引きつけるのとは異なり、マグリットの絵は「ありそうな世界」に薄 い膜のようにぴったりと貼りついた「ありえない世界」の「認識不可能なも
の」を描くことによって、見る者を捉えて離さない。
したがって、たとえば、あの『野の鍵』の場合、戸外の風景を写したまま 割られて飛び散ってもなお風景を写し続ける窓ガラスの破片という存在は、
永遠に「認識不可能」のままである。推理小説なら誰が窓を壊したのか、と いう謎解きを通じて私立探偵ニック・カーターが犯人を捜し出せばストー リーは終るが、マグリットの場合、割れても風景を写す窓ガラスを割った犯 人は決して見つからない。「犯人」は凡庸な日常に隠れた不条理な世界その ものであり、あるいは別の言い方をすれば、この異常な世界を出現させた画 家でもあり、絵を通じて、このありえない世界に入り込もうとした「あな た」自身でもありうるのだから。マグリットの絵の世界では、ストーリーに 決して終わりはないのだ。
この節の最後に、マグリットの作品とその題名の関係について、ひと言だ け触れておこう。彼の絵画がいっそうミステリアスに見えるのは、その謎め いたタイトルのせいでもある。これまで取り上げた例では、「これはパイプ ではない。」が『イメージの裏切り』なのはわかりやすいが、『赤いモデル』、
『ピレネーの城』、『人間の条件』など、あるいは妻ジョルジェットのバルコ ニー際の裸身を描いた『黒魔術』、都会の空から黒服黒帽子の紳士が無数に 降ってくる『ゴルコンダ』などには説明が必要かもしれないし(「ゴルコン ダ」はダイヤモンドの産地として知られたインドの古都など)、説明できな いものも多い。
この問題について、マグリットの旧友カミーユ・ゲマンスは評論「生きて いるマグリット」で「マグリットはどの題名も自分で考えだしたりはしな かった。友人たちが彼の気に入るような題名を思いつかなくて、自分でその 厄介な仕事に取りかかる時はやむをえないにしても、そういったことは友人 たちに任せていたのである」と述べてから、マグリット自身の言葉を紹介し ている 「題とは、…詩を取りとめのない戯れへと陥れようとするあらゆ る誘惑を阻むために後から付け加えられた安全装置といったものでなけれ
ばならない」(Camille Goemans, “Magritte, un être vivant”:内藤俊人訳、
1988年東京国立近代美術館・マグリット展図録参照)。
「安全装置」とはまさに至言だが、この場合は画家や詩人つまり作家に とっての仕掛けということになる。ゲマンスがさらに「マグリットが作品の 各々に与えた題名は,いったん私たちの眼に姿を現わせば作品と一体となり、
両者を切りはなすことはもうできなくなる」と続けていたように、彼の絵を 見る側にとって、題名は作品の中に入り込むための不可視の扉を開く、ひと つしかない「鍵」のように思えるかもしれない。
( 3 ) マグリットを(再び)読むための「七つの鍵」
とはいえ、世界が認識不可能であり、謎を解く鍵はいくら探しても見つか らないとしても、マグリットがこの不可思議な世界を描いた絵画を、オリジ ナルな思想=発想を提案する試みとして読み解くことは、もちろん不可能で はないはずだ。こうした視点から、マグリットを「(再び)読む」ための新 たな「鍵」を私たちに提示しているのが、本稿執筆の動機となった「二つの 主要な源泉」の一つとして冒頭に挙げたリエージュ大学のパトリック・スー ヴェランスとパスカル・アンス共著『マグリットを(再び)読む:芸術作品 を理解するための七つの鍵』(ブリュッセル2009)である。
同書は、「マグリットの思想(思考)のいくつかの扉を開き、絵画として 表現された彼の心的表象に接近するため」の「七つの鍵」について、具体的 な作品(絵画)の例を挙げ、人間科学の諸分野と関連させながらわかりやす く解釈している(24)。いわゆるアカデミックな研究書ではないので、研究論文 などの参考文献に取り上げられることもなさそうだが、この節ではそれらの
「鍵」から五つ選んで要約して、マグリットの作品とあわせて紹介すること にしたい(このような書物にこだわる点も本稿が「研究論文ではない」所以 ではある。なお、本稿では作品の図版が掲載できないので私自身による紹介 文を付した)。
鍵 1 :イメージへの接近から解釈へ/どのようにして、アーティストの思 想を裏切ることなく作品を見て、鑑賞し、評価するのか? p.51 61
【作品 1 】マグリット『描かれた対象:眼』(Objet peint: l’œil, 1936 1937):直径15.3cm の円の中に金髪と思われる女性の右眼が描かれている。
・円形絵画(tondo)の二重性:見る者と見られる者の逆転
・アングル『トルコ風呂』(Le Bain turc, 1862)=絵を見る者が円形の覗き 窓から描かれた場面(ハーレムの白人奴隷の入浴)を見ている。
・マグリット=描かれた女性の眼が絵を見る者を見ている(見る者が見られ ている)。マグリットは作品と鑑賞者の関係を逆転し、「眼」は円形の枠を越 えて、鑑賞者を凝視する。鑑賞者に見られる者としての自己を意識させるこ とで、画家は想像力の復権を企てる。
・この作品で、マグリットは「絵画」を「描かれた対象(モノ)」に変換す ることでポップアートを先取りしている。マグリットの発言「五十年ほど前 にダダイズムが出現したことを知らなければ、ポップアートは新しいものに 見えるでしょう。ポップアートに大人しくなったダダイズム以外のものを期 待することができるでしょうか」。p.51 53
・芸術作品と「現実」:作品自体が置かれた状況の現実、作品を着想し、状 況の現実を解釈する者(画家)の現実、見る者の現実。
・C・G・ユング(Carl Gustav Jung, 1875 1961)による現実認識の 4 機 能:感覚 sensation =五感が受け取る情報を知性化せずに読み取る/感情 sentiment =周囲の状況に適合する性質について情報を与える、ある種の価 値判断/思考 pensée =論理的推論を通じて世界を認識し、出来事を理解し て分析する欲求に応える/直観 intuition =異なる諸要素の間の結びつきを 認識する能力。p.56 57
【作品 2 】マグリット『慧眼』(La Clairvoyance, 1936):自画像、主要な モチーフ(画題)は椅子に座った画家(マグリット自身)、鳥が描かれた画
布の架かったイーゼルとパレット、テーブルとその上の卵。場所は明示され ていないが画家のアトリエと思われる。
・読解(鑑賞者の視線)の方向:画の中の絵から画家の視線に従って左側の 卵へ導かれる。画家は卵(現実のモデル)を見て、創造的想像力によって画 の中の絵(鳥)を、現実界への飛翔の可能性(予言)とともに描いている。
鍵 2 :現実の領域での混乱 confusion /どのようにして、マグリットは客 観的現実を大混乱に陥らせる chambarder のか? p.63 81
【作品 3 】マグリット『複製禁止(エドワード・ジェームズの肖像)』(La Reproduction interdite, 1937)
・鏡の裏切り=鏡の前に立つ男性(ジェームズ)の鏡の像は後ろ姿で前向き の反映像ではないが、鏡の前のマントルピースの上のエドガー・ポーの書物
(『アーサー・ゴードン・ピムの冒険』)の一部は左右が逆転した鏡像として 描かれている。男性の鏡像が一見「複製禁止」に従っているのに対して、書 物の忠実な反映像(複製)は「複製禁止」の表題に違反していることにな る。(男性の姿が「鏡像の現実」を逆転したイメージとなっていることは世 界の実像自体が逆転しているという画家の論理を反映している)。二つの鏡 像の矛盾は鏡と現実の関係に謎を掛けることになるが、この謎は絵画と現 実の関係の謎でもある。エドワード・ジェームズ(Edward William Frank James, 1907 1984)は英国の富豪で、マグリットを自邸に招いて制作を依 頼した。
【作品 4 】マグリット『美しい世界』(Le Beau monde, 1962):前景には ブルーのカーテンが両側に引かれ、その間に林檎が一つ枝葉ごと置かれてい る。背景の青空と白い雲は中央部が右側のカーテンと相似形に切り取られ、
そこだけ明るさが増している。
・マグリットは彼の世界を演劇の舞台のように構築する。舞台の前の大きな カーテンは現実を隠す以上に、プラトンの洞窟と影の寓話のように、複数の
現実がぶつかり合う空間を暴露する。描くことは(現実を)演出することな のだ。
・現実の単なる鏡像としての絵画という固定観念を打破するために、彼は現 実と意味の関係の断絶を企てる。絵画とはそれが描く現実とは別の現実の ことである(「これはパイプではない。」La Trahison des images-Ceci n’est pas une pipe., 1928 1929)。マグリットは絵を見る者の認識の領域を、こう して意図的に混乱させている。
・イメージの源泉としての「百貨店(grand magasin)」:ブルトンが強調 したフロイト的無意識に代わって、マグリットの作品はイメージの「百貨 店」を連想させる。この表現はアメリカの医師・精神医学者ミルトン・エリ クソン(Milton Erickson, 1901 1980)が催眠療法で比喩的に用いたもので、
我々の無意識は多様なイメージの活発な貯水池であり、この「貯水池」がア ナロジーやメタファーを通じてマグリットによって積極的に活用されている。
・ ポ ー ル・ マ ク リ ー ン(Paul MacLean, 1913 2007) の「 三 位 一 体 脳 」
(Triune brain/ Cerveau triunique):人間の脳の三分野=爬虫類脳(脳幹:
反射脳)、周辺脳(情動脳:哺乳類の脳)、新皮質(人類:左脳/論理、右脳
/イメージ)=本能、情動、思考が一体となって活動する。マグリットの作 品の深層には理性と感性の近代主義的対立を越えて、この三位一体脳のアイ ディアにつながるものがあるとも考えられる。p.75.
鍵 3 :実物教育(la leçon de choses)/どのようにして、マグリットは 人生教育 la leçon de vie を彼の作品中に導入しているのか? p.83 94 【作品 5 】マグリット『個人的価値』(Les Valeurs personnelles, 1952):
寝室の親密性を感じさせる室内で、ベッドやクローゼットなどのサイズは部 屋に釣り合っているが、ベッドの上の櫛、床の敷物の上のマッチ棒、ワイン グラス(画面中央)、丸い石鹸、クローゼットの上のシェービングブラシな どの「個人的日用品」は異様に誇張された大きさで描かれている。壁にはマ
グリット特有の青空と白い雲が描かれ、クローゼットの扉の鏡に映った窓だ けが現実への唯一の開口部である。
・モノ=対象との関係がしばしば価値観の尺度を決定するので、マグリット は複数の現実のサイズの比率を故意に歪めることで「個人的価値」の存在を 強調し、現実の人生そのものが相対的な世界であることを教えている。
・ブルトンの発言(「実物教育」について)1941:「オートマティスムではな く、その反対に熟慮されたマグリットの手法は、当時 [1927 1928] からシュ ルレアリスムを補強するものだった。この傾向によって一人だけで、彼は絵 画を「実物教育」の精神へと接近させ、この視角から、視覚的イメージの体 系的プロセスを〔私たちに〕教えてくれた。彼は視覚的イメージの欠陥を強 調し、言語と思考の綾(figures)に依存する形象の性格を強調して楽しん だのだ(25)。」
・マグリットの発言(「実物教育」1962): 1 ・礼儀作法を認めることとは無 関係に、帽子を持ち上げる動作を見ることは可能だ。 3 ・一つのイメージは 時おりそれを見る者に対する重大な告発(accusation)になりうる。 8 ・あ るページの上に散らばった線や語や色がどのようなものであろうと、そこか ら得られる形象は常に豊かな意味を含んでいる(26)。
鍵 5 :語とイメージの間で/どのようにして、語とイメージは同一の空間 中で現実の解体に関与するのか? p.113 122
【作品 6 】マグリット『語とイメージ』(“Les mots et les images”, La Révolution surréaliste, no.12, p.32, 1929.12.):「あるモノ(un objet)は、
もっと適切な他の名前が見つからないほどその名前に密着しているわけでは ない」という文の下に「木の葉」のスケッチが「大砲(canon)」という「名 前」とともに描かれ、以下同様の「語とイメージ」が18組続く。
・絵の中で語はイメージと同じ実体 substance となる/モノ obejt はイメー ジと出会い、名前と出会う。モノのイメージと名前が(モノ抜きで)出会う
こともある。
・あらゆる点を考慮すれば、モノとそれを表象することがらとの間にはほと んど関係がない。
【作品 7 】マグリット『イメージの裏切り』(La Trahison des images, 1929):62x81cm のクリーム色に塗られた画布に Ceci n’est pas une pipe. と いう一文(終止符付き)が筆記体で描かれる。
・「これはパイプではない。」(Ceci n’est pas une pipe.)はタイトルではな く発話(文)énoncé である(最後のピリオドが重要)。「これ」は絵のモデ ルとなった現実(「パイプ」)自体ではなくモデルが表象されたイメージであ り、「ではない」という否定で結合されて「である」を前提とした現実とイ メージの絵解き的で慣習的な関係が表象空間で完全に解体される。〔この作 品をめぐって、マグリットとミシェル・フーコーが「類似」(思考の働き)
と「相似」(幾何学的関係性)をめぐって書簡を交わしたことはよく知られ ている通りだが、他の場所で論じたのでここで立ち入らない(27)〕。
【作品 8 】マグリット『夢の鍵 II』(La Clef des songes II, 1930): 縦長 の窓が縦 2 x 横 3 の 6 枠に区切られ、上から順に「卵(絵):アカシア(文 字)」・「パンプス(絵):月(文字)」/「丸い帽子(絵):雪(文字)」・「燃 える蝋燭(絵):天井(文字)」/「ガラスのコップ(絵):驟雨(文字)」・
「ハンマー(絵):砂漠(文字)」が描かれている。
・この作品では『イメージの裏切り』の提案をさらに進めて、発話とイメー ジが新たに結びつき新たな詩的現実(une réalité poétique)が創造される。
語とイメージのセットが一組ずつ枠に入っているのはアルファベット読本な ど教科書や図鑑の体裁を思わせる。
・凡庸でありふれたモノ objet を、表現の技法を用いずに、モノのイメージ と意味がつながらない語を導入するだけで、そのまま非凡で異様なモノに 変換する操作を通じて、マグリットはモノと現実世界との関係を問い直す。
「描かれたイメージが思想や感情を表象するのではなくて、感情が描かれた
イメージを表象する」(マグリット〔『全著作』p.462〕)のである。
鍵 7 :マグリットの謎(神秘=ミステリー)と体系(システム)/どのよ うにして、謎が真の体系に到達できたのか? p.131 141
・思考の物質化(具体化)と社会的文化的現実の表現としてのイメージ=時 代、場所、文化によって異なる多様な知とその情報から、個人の枠を超えた 世界像が形成される。
・マグリットは「イメージの作り手」と好んで称したように、外的現実の 多様な断片を「貼り合せて」新しい世界を再構成する。神秘 mystère /謎 énigme /秘密 secret は説明不能なことがらをめぐって展開される概念装置 であり、一つの文化、精神状態、詩的現実なのだ。
【作品 9 】マグリット『光の帝国』(L’Empire des lumières, 1954):前景 は夜の場面で、樹木に囲まれた邸宅の二階左側の二つの窓には照明が灯り、
玄関の街灯の光が建物の前の池に反射している。ところが後景には昼の青空 と白い雲が描かれている。
・この作品で、マグリットは家、樹木、街灯など触知可能な現実に属するモ ノ objet を呼び出す。一見何気ない風景だが、昼間の空(青空に白い雲)と 夜の場面を組み合わせているので、不可能な風景となる。マグリットの謎=
神秘はしばしば「現実の」モノたちの異常な(ありえない)対照から生じて いる。
・画面全体には奥行きが感じられず、遠近感のないコラージュの印象を与え る。暗い部分と明るい部分のコントラストは、明るい青空だけでなく暗い部 分の中でも、生い茂る木の枝、照明のある窓、光輪を放つ街灯、池の水面へ のそれらの反射などによって強調される。
・このありふれた風景は夢と現実の間を揺れ動く感覚を引き出している。あ りえない場面という第一印象はすぐに不可能な世界の存在への確信へと横滑 りし、マグリットはもうひとつの世界に生命を与えるのだ。
・マグリットは1949 1964に『光の帝国』を23回描いているが(油彩画16点、
グアッシュ 7 点)、それらは微妙に異なっていて、商業的依頼によって制作 されたとも思われる。彼のこの選択が主体的なものだったかどうかは別に しても、マグリットの謎(ミステリー)は答えのない謎の次元にとどまら ず、しだいに画家自身の手を離れて生産される体系(システム)へと姿を変 えてゆく。マグリット没後、彼の作品の膨大な複製化は「芸術の民主化」の 名目で産業段階に達し、情報を得ることができさえすれば、誰もが「実物」
も「使用法」も知らなくても作品に接近可能になった。こうした状況を前に すると、あの『複製禁止』(1937)は、芸術作品の複製がライセンス生産さ れる時代を予告していたように思えてくる。
『マグリットを(再び)読む』によるマグリットの認識不可能な世界を解 読する試みの内容はおよそ以上のようなものだが、著者のスーヴェランスと アンスが同書の序章「マグリットと真面目に戯れる」でこう述べていたこと を、この節の最後に思い出しておこう 「マグリットの絵画は《美しいイ メージ》として評価されているが、そのイメージを容易に読み解けると思う のは幻想であり、分析の努力の怠慢に由来する。というのも、作品との戯れ には真面目さが不可欠であり、マグリットの作品はもちろん表面的な鑑賞を 禁じるものではないが、その真の豊かさは分析によって認識されるからだ」。
(p.6)
3 「シュルレアリスムと/の絵画」を越えて
ここからは話題を変えて、ベルギーのダダ・シュルレアリスムの運動とマ グリットの関わりについて、少しだけ接近してみよう。「少しだけ」と言っ たが、このテーマはそれだけで一冊以上の著作が書けるほど大きなテーマで あり、また 1 、 2 章が案外長くなってしまったので、ごく手みじかにアウト ラインをたどるだけにする。この接近を通じて「シュルレアリスムの画家」
マグリットという定説を再検討しようという意図も、そこには含まれている。
( 1 ) ベルギー・ダダとマグリット
まずダダとの関係だが、この点について、運動の当事者ではなく研究者の 立場から最初期に言及したのは、パリ大学(ソルボンヌ)最初のダダ博士と なったミシェル・サヌイエ(Michel Sanoullet, 1924 2015)なので、彼の歴 史的名著『パリのダダ』からひとまず引用しておこう。
「ベルギーでは、ダダ運動はパリのグループのアンテナとしてしか存在 しなかった。〔…〕パンセールの死後、ダダの精神はベルギーの地で息絶 えたように見えた。ダダの不死鳥(フェニックス)が、E・L・T・メザン ス、ルネ・マグリット、ポール・プロケ、ピエール・デュピュイ、ヴィクト ル・ビュータンホルツら、ブリュッセルの小グループの呼びかけに応えて 灰から蘇るには1925年 3 月まで待たなくてはならなかったが、その頃パリ のダダの運動はすでに死滅していた。このグループは『エゾファージュ』
(Œsophage:食道)と題する雑誌を発行したが、彼らの活動は、1926年 6 月には〈美しい青春のための隔週雑誌〉、『マリー』(Marie)に引き継がれ た( 4 号まで刊行)。ツァラ、ピカビア、リブモン=デセーニュ、ピエー ル・ド・マッソらが寄稿したとはいえ、この雑誌では明らかにダダ的傾向が 弱まっていた(28)。」
「パリのアンテナ」という表現には異論もあるが、その点は措くとし て、事実上ベルギー最初のダダイストとなる詩人クレマン・パンセール
(Clément Pansaers, 1885 1922)はツァラと文通し、ツァラは1920年 2 月発 行のダダ運動の雑誌 Bulletin Dada, no. 6に掲載された「ダダの男性および 女性の大統領たち」のリストに彼の名前を加えている。このリストはドイツ のダダイスト、リヒャルト・ヒュルゼンベックの『ダダ大全』中に再録され
るが、ブルトンやエリュアールからアメリカのミナ・ロイやスペインのデ・
トーレまでコスモポリタン的顔ぶれが登場し、国境を越えるダダの拡がりが 実感される(29)。
1921年 5 月に出たブルトンたちの雑誌 Littérature, no.19 (当時はパリ・
ダダの拠点だった)に、パンセールは散文詩「ジンジン」(Zinzin)を掲載、
同じ年にダダ的詩集『バー・ニカノール』(Bar Nicanor)と雑誌『サ・イ ラ』(Ça ira: 万事順調の意)のダダ特集号を発行するが、この雑誌の表紙 には DADA と大書され「その誕生、人生、死」と記されていた(『バー・
ニカノール』の版元はブリュッセルの Éditions AIO となっているが、本社 以外の所在地として「ロンドン、パリ、ニューヨーク、マドリッド、ヨコ ハマ」と記されているのは興味深い)。こうしてベルギー・ダダの先駆者と なったパンセールだが1922年に37歳で急逝し、サヌイエが述べた通り、その 後ベルギーのダダが復活を遂げるには1925年を待たなくてはならない。だが、
その前にブリュッセル出身の作家・美術家 E・L・T・メザンス(Edouard Léon Théodore Mesens, 1903 1971)はパリでダダ運動の主要メンバーと交 流し(彼は作曲家でもあり、サティを敬愛していた)、フランシス・ピカビ ア(Francis Picabia, 1879 1953)の雑誌391, no.19にマグリットとともに寄 稿している(メザンスとマグリットは1919年に知り合ったという(30))。
フランソワ・ビュオの『トリスタン・ツァラ伝』によれば、メザンスはす でに1923年からツァラと連絡を取っていた 「ツァラが雑誌『フゥイー ユ・リーブル』(Les Feuilles libres)に発表した自伝的小説『賭金を張れ』
(Faites vos jeux)の断章がとくに彼の関心を引いたのだ。〔…〕ブルトンの
『失われた足跡』が刊行された時、メザンスはツァラにこう明言した。《あな たに対するブルトンの悪意は、馬鹿げた嫉妬を感じさせるほどで、彼自身を 困らせるだけです。》〔…〕彼は親しみをこめて、ツァラのことをツァリシュ キン(Tzarichkin:「キン」は愛称)と呼び、『セレクション』〔SÉLECTION Chronique de la vie artistique:ブリュッセルで1920 1927に発行された芸
術誌で、コクトー、サティらも執筆)にツァラの文章を掲載するために、根 気よく奮闘した。マグリットの援助も受けたが、自費出版で雑誌『エゾ ファージュ』を出版した時には、ナンシー・キュナードやド・ボーモン伯爵 に資金援助を頼もうとしてパリに行き、モンパルナスに滞在した(31)」。
1924年夏に、メザンスはダダ的傾向の新雑誌 Période(時代)を企画し、
近刊予告のチラシには彼と並んでマグリット、マルセル・ルコント、カミー ユ・ゲマンスの名があったが、メザンスは雑誌が文芸趣味的になることを危 惧していた。彼らの友人のポール・ヌージェ(1919年にベルギー共産党の前 身の第三インターナショナル・ベルギー支部結成に参加)がルコントやゲマ ンスの側についたため、1925年 3 月、メザンスとマグリットは独自に雑誌
『エゾファージュ』を一号だけ発行するが、この雑誌の表題(Œsophage 1)
の下には括弧つきで(PÉRIODE)とあり、二つの雑誌が合体した形になっ ている。
『エゾファージュ』に掲載された「五つの命令」(Les 5 commandements)
は事実上ベルギー最初のダダ宣言であり、そこにはこう記されていた(共同 署名者はアルファベット順にビヤンタンホルツ、デュピュイ、マグリット、
メザンス、プロケの五人だが、ブラヴィエ編『全著作』に収録されており、
マグリットのテクストと見なしてよいだろう)。
1 ・政治の場面同様、われわれは力の限り自己破壊と人間的美徳への信頼 を実践する。
3 ・われわれはあらゆるデカダンスに対して断固として抗議する。衒学趣 味、『パルムの僧院』、ダダイズムとその亜流、コカイン、義務教育、肉欲 の悪徳 そしてとりわけあらゆる形態の同性愛に対して。
5 ・われわれはいかなる状況においても他人が理解できないことを説明す ることを拒否する。〔…〕
「オップ・ラ、オップ・ラ」、それがわれわれの標語だ(32)
だが、1925年といえば、パリのダダ運動はすでに 2 年前に終わり、前年 の10月にはブルトンが『シュルレアリスム宣言』を出版、12月には新雑誌
『シュルレアリスム革命』が刊行されて、シュルレアリスム運動が公然たる 出発をとげた年であり、メザンスやマグリットたちの活動はダダの「パリの アンテナ」(サヌイエ)と呼ばれるには遅すぎた感がある。むしろ、ゲマン スとヌージェを中心に1924年11月に最初の号が出た『コレスポンダンス』
(Correspondance:雑誌というより無料で配布されたチラシ)の方がパリ のシュルレアリストたち(もう「ダダイスト」ではなかった)に注目され、
1925年 7 月にはブルトン、エリュアール、マックス・モリーズがブリュッセ ルで彼らと直接出会うことになる。
そして同じ年の 9 月に発表され、シュルレアリスム運動が政治的過激派へ の第一歩を踏み出すきっかけになった檄文「まず、そしてつねに革命を!」
(La Révolution d’abord et toujours!: モロッコ先住民リフ族の民族解放 闘争にフランスが軍事介入した「リフ戦争」に対する反戦メッセージ)に は、シュルレアリストたち、ジャン・ベルニエらの『クラルテ』(Clarté)
グループ(フランス共産党内の左派集団)、アンリ・ルフェーヴルらの『哲 学』(Philosophies)グループ(パリ大学の哲学専攻学生たち)とともに、
『コレスポンダンス』を代表して(ベルギー共産党の)カミーユ・ゲマンス とポール・ヌージェが共同署名者になったのだった。この文書は1925年10月 の『シュルレアリスム革命』第 5 号に掲載される。
こうした状況のもとで、翌1926年 6 月には『マリー』が刊行されて 4 号ま で続くことになる。だが、その副題(「美しい青春…」)が示すように、この 雑誌は『エゾファージュ』のような「自己破壊的」な方向をめざすものでは なく、創刊号の目次にはメザンス、マグリット、ルコントらと並んでマン・
レイの名が挙がっていたとはいえ、ダダの季節はすでに終わっていたから、
1927年の 2 月か 3 月には最終号『マリーへの別れ』(Adieu à Marie)が発
行されて、ベルギー・ダダの活動は終わりを告げたのだった。
けれども、ここでツァラが1922年のワイマールでの講演で「ダダはひとつ の精神状態である」と語ったことを想い起すなら、ダダイズム運動の終焉は ダダ的な発想や生き方の消滅ではもちろんありえない。すでに引用した死の 前年の TV インタビューで、聞き手のグーセンスに彼の絵が高額で取引さ れていることの感想を問われて、老マグリットはまず「いや、まったく関心 はないよ」と答えてから、こう言葉を続けている 「…そうだね。私がダ ダイストである限りはね(33)」。
冗談めいた発言だが、彼の内心のダダ的「精神状態」の表われとも思われ、
マグリットは画家のキャリアの最後にダダイストと「自称」したことになる。
( 2 ) マグリットとベルギーのシュルレアリスム
このテーマについては、美術展のカタログやネット上の解説などから多様 な研究書まで、国内外であまりにも多くのことがすでに述べられているし、
マグリット自身も講演「生命線」や晩年のインタビューなどで多くを語って いるので、ここでは深入りしないが、ひとまずダダの季節前後からシュルレ アリストとくにブルトンとの出会いと対立にいたる時期(1921 1930)のマ グリットの動向を整理しておこう(前節と重なる部分もある(34))。
1915年にブリュッセルの王立美術アカデミーで絵画を学んだマグリットは、
数年後の1921年に兵役を終えて、ペータース・ラクロワの製紙(壁紙)工房 に図案担当者として雇用される。この工房にはアカデミーで同級のヴィクト ル・セルヴランクスが美術監督を務めていた。1922年に生涯の伴侶となる ジョルジェット・ベルジェ(Georgette Berger, 1901 1986)と結婚、1924 年頃にラクロワの工房を辞めてブリュッセルの高級服飾店(婦人服)ノリー ヌの広告を担当、多くのポスターを手がける。1925年にはメザンスとダダ的 雑誌『エゾファージュ』を創刊するが 1 号で終わり、『マリー』(その後『マ リーへの別れ』)に引き継がれる。デ・キリコ『愛の歌』の複製を見て感動
するのはこの頃だ。この年シュルレアリスム的傾向の最初の絵画『窓』[La Fenêtre] 制作)。1926年には最初のシュルレアリスム絵画と本人が認める
『迷える騎士』(Le Jockey perdu)を発表する(この年ヌージェらが『コレ ポンダンス』発行)。
1927年にはブリュッセルのサントール(Centaure:ケンタウロス)画廊 で最初の個展を開催、作家ルイ・スキュトネールと知り合う(この年、ジョ ルジェットとパリ東郊のル・ペルー・シュル・マルヌに移住、ブルトンら シュルレアリストとの交流が始まる。この時期パリで多くの絵画を描き、ブ ルトンがかなりの点数を購入したという(『マグリットを(再び)読む』に よる)。1928年にはヌージェとゲマンスの『ディスタンス』(Distances)に 協力。この雑誌はベルギー最初のシュルレアリスムの雑誌とされるが短命に 終わり、ゲマンスとマグリットは翌年『本来の意味』(Sens propre)を発 行する。1929年にシュルレアリスムの機関誌『シュルレアリスム革命』12 号(最終号)に「言葉とイメージ」(Les mots et les images)とフォトモン タージュ「隠された女」(La femme cachée:中央の長方形の中にヌードの 女性のデッサンが「私には森の中に隠された…が見えない」というキャプ ション付きで描かれ、四辺の周囲に十六人の両目を閉じたシュルレアスト の写真付き)を発表。また、絵画『イメージの裏切り』(La Trahison des images:「これはパイプではない。」)の最初の作品を制作。エリュアールら とスペインのダリの別荘を訪問しシュルレアリスムのメンバーとして知られ るようになるが、この年早くもブルトンと対立する(後述)。そのせいもあ り、1930年にはブリュッセルに帰国し、以後終生妻ジョルジェット(1901 1986)と同地で暮らすことになる。
トリヴィアに渉るが、夫妻は小型犬ポメラニアンを飼っていて、アメリ カのシンガーソングライター、ポール・サイモン(Paul Simon, 1941 )に
「戦争が終わって犬を連れたルネとジョルジェット・マグリット」(“René and Georgette Magritte with Their Dog after the War”, 1983)というタ