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FaulknerのNew Orleans Sketches : 人生の有為転変と移民という異分子

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Faulkner の New Orleans Sketches:

人生の有為転変と移民という異分子

1925年1月,Faulkner は渡欧する目的で New Orleans に赴いた際に,7

月7日に出港するまでの半年間滞在しながら批評・詩・スケッチや短篇さ らに長篇に至るまで,多彩な作品を執筆し,発表している。Faulkner が

予想外に長期滞在するきっかけとなったのは,その前年の24年11月に知人

でその年に Sherwood Anderson と結婚した Elizabeth Prall という女性を 介して,Anderson に会い知遇を得たことと,以前から詩や書評を投稿し 採用されていた地元の文芸誌 Double Dealer の編集者や芸術家サークルと 関わりができたことなどによるといえる。到着して早々に,地元の文芸誌

Double Dealer2・3月号に,批評“On Criticism”や,自伝的エッセイ“Verse Old and Nascent: A Pilgrimage”そして2篇の詩“Dying Gladiator”,”The Faun”などを掲載されているが,それに加えて11篇の詩的独白/散文詩

からなる“New Orleans”1)を発表していて,さながら作家 William

Faulk-ner 特集のようで,いわば New Orleans の芸術家グループへの FaulkFaulk-ner の本格的な作家デヴューとなっている。この“New Orleans”については,

拙論2)ですでに述べているので,本論では地元紙 Times Picayune 紙に掲

載されたスケッチ・短篇を中心にする。しかし,“The Cobbler”という

名の作品が“New Orleans”の中の散文詩と Times Picayune 紙に掲載され

た物語の二つがあるように,“New Orleans”中の作品のテーマや人物像

がスケッチ版に引き継がれていることが少なくない。特に社会的弱者や移

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民が登場する作品を中心にして,両者の類似性と相違点を比較し,詩人を 自認していた習作時代の Faulkner の小説創作への道筋を考察していきた い。

1.最初のスケッチ“Mirrors of Chartres Street”

この最初のスケッチ“Mirrors of Chartres Street”という題には,Faulk-ner らしい皮肉が込められていることを,スケッチ集の編集者 Carvel

Col-lins はその序文の中で明らかにしている3)。もともと Times-Picayune 紙に

は,“Mirrors of Washington”というコラムがあって,首都ワシントンの

国政に携わる政府高官や連邦議会議員などの動向を紹介しており,またこ

の頃 Harold Begbie というイギリスの作家・ジャーナリストによる

Mir-rors of Downing Street(1921)というロンドンの上流階級の人々を描写す

てんじょうびと る極めて有名な本があり,いずれも社会の上層部で生活する「天 上 人た ち」を扱っていた。それに対して,「シャルトル街の鏡」で語り手が語る のは,社会的に最下層に位置する物乞いのエピソードである4)。それに続 くスケッチや物語でも,登場するのはアメリカ社会に同化できない移民・ 黒人・異教徒など社会の底辺/周辺を生きる人々である。この特質につい て Collins は,Faulkner は彼らに共感し,彼らの飢餓感を主要なテーマと していると論じているが5),作品の随所に仕掛けられたパロディ,戯画化 も見逃せない。 後述する“The Cobbler”に「散文詩版」と「語り版」の二つのヴァー ジョンがあるように,“New Orleans”の散文詩と日刊紙の散文作品との 間にはテーマや登場人物が似通ったものが少なくない。“Mirrors of

Char-tres Street”では,“New Orleans”中の一篇“The Beggar”という乞食が

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Faulkner の New Orleans Sketches の有為転変を強調し,年老いて,現実から忘れ去られたような人物が過去 の夢・愛・情熱を語るものが多い。“The Beggar”の乞食は若い語り手に, 人生は限られた空間に住み,ただ食べて眠るだけ以上の意味があると少年 の頃に考え,大きな夢を抱いたと語る。人間を蟻に喩え,小さな世界に満 足していればいいのに,蟻分際で人間のような大きな夢を抱いた,つまり 地球規模の壮大な夢を抱いたという。“What little of the world the ant can see is good to him; and I, with his vision magnified an hundred times― what would it not be to the ant with my vision! Then multiply the limit of my sight by the size of the earth―and there you are.(11)”6)

しかし,その後の具体的な行動や体験は語られず,直ちに尾羽打ち枯ら した,老馬に乗る老騎士の晩年の様子へと移ってしまう。若くて元気の良 い種馬に乗る戦士に追い越され,蹴落とされて,他の落伍者とともに落ち たパンのかけらを奪い合う,浅ましい戦いに明け暮れるだけになってし まったという(11―12)。このように,人生の劇的な変化を無邪気な青春時 代と夢破れた老年の悲哀という比喩で対照的に描き,シニカルな人生観を 盛り込んでいるのが“New Orleans”に含まれた散文詩の特徴である。

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去の幸福と現在の零落という“New Orleans”のパターンを踏襲している が,ここから意外な展開となる。その15分後に彼は,その乞食が,何と若 い女が沢山出て大騒ぎする,貴族・姦通・シャンペンなどが満載の豪奢な コメディ映画の映画館に入場するのを偶然見てしまう。それから語り手は 乞食が「人生に善を見出す,天賦の性質」である,「自由な精神」の持ち 主であると結論付ける。

Truly, his was an untrammelled spirit: his the same heaven-sent attribute for finding life good which enabled the Jews to give young Jesus of Nazareth with two stars in His eyes, sucking His mother’s breast, and a fairy tale that has conquered the whole Western earth; which gave King Arthur to a dull world, and sent baron and knight and lads who had more than coronets to flap pennons in Syria, seeking a dream.(16)(斜字体は 筆者) このように,この乞食を特徴付ける「天賦の性質」を直ちに普遍的な真 理に昇華させてしまうのが,詩人 Faulkner の傾向であるといってよい。 すなわち,これはユダヤ人をして,ナザレの幼いイエスの眼に星の輝きを 与え,母の胸を吸わせ,西半球全体を征服しようというお伽噺を与えたも のと同じだという。また Arthur 王を平凡なこの世にもたらし,貴族や騎 士や若者に夢を求めてシリアに進軍させたのも(これはおそらく中世の十 字軍遠征をさす)この天賦の性質と同根だといっている。いささか牽強付

会の懸念があるとはいえ,これは Faulkner が“New Orleans”やスケッ

チ集において,主流派から蔑視された,社会の周辺に住む人間たちにスポッ

トを当てた意図と関連している。

たまたま出会った乞食が個人として優れているのではなく,天より賦与

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Faulkner の New Orleans Sketches 伝説の英雄・歴史的出来事などを突き動かしてきた夢や情熱を生み出した 源泉から発し,彼が過去の人物と同様にそれを使って能力を発揮しうると 見なす点に注目すべきである。ここには,自身の詩に古代ギリシア・ロー マ神話のフォーンやニンフなどを登場させて,アメリカ大陸で旧世界と同 じように古典文学の伝統を引き継ごうとする詩人 Faulkner の願望が示さ れている。しかし,そのような普遍的な「自由の精神」をアメリカ映画の 金満コメディ映画の嗜好から導き出そうとすることには無理があるが,そ の日の晩にそれが遺憾なく発揮される機会が訪れる。 夜になり,月が昇り,イギリスの「渦巻派」(Vorticist)も描けないよ うな,明と暗の平面が作り出す印象的な町の景観をホテルのヴェランダか ら語り手が眺めていると,昼の乞食が彼を逮捕しようとする警官を相手に 自尊心を示す場面に遭遇する。彼は舗道に松葉杖で身体の周りを長方形で 囲み,自分の部屋だから令状なしに逮捕できないと警官に必死に強弁する のである。結局,抵抗空しく逮捕され,護送車で運ばれてしまう。しかし 彼は車を護送車とは認めず,友人が遣わしてくれた車だから乗らざるを得 ないと精一杯のポーズをとって去っていく。その堂々とした立ち振る舞い はまるで,かつてローマ皇帝 Caesar が戦車(chariot)に乗って,バラや 群衆の歓声に迎えられて,凱旋する光景を髣髴させたと語り手は最後に印 象を伝える。

And one thought of Caesar mounting his chariot among cast roses and the shouts of the rabble, and driving along the Via Appia while beggars crept out to see and centurions clashed their shields in the light of golden pen-nons flapping across the dawn.(18)

「散文詩」の“The Beggar”では過去と現在との鋭い対比がテーマになっ

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の人間でも夢想によって芸術の美と真理に達することがありうることを描 くことに比重が移されている。

これに関連して,“The Hill”という習作期の作品が想起される。この

小品では,無学な農夫が夕日の美しい光景を眺め,感銘を受けている。

And as the sun released him, who lived and labored in the sun, his mind that troubled him for the first time, became quieted. Here, in the dusk, nymphs and fauns might riot to a shrilling of thin pipes, to a shivering and hissing of cymbals in a sharp volcanic abasement beneath a tall icy star.7)

暮れ行く太陽が,日々の労働に明け暮れる農夫の心を解放し,ふと乱れ た心を鎮まらせるが,ひょっとすると神話的世界に起こったように,その 夕の明星の下でニンフやフォーンが浮かれ騒ぐかもしれないことに彼は気 づかない。一瞬だけ農夫は地平線の上に立ち,果てしない労働と悩み多き 眠りの日常世界の遥か上方を眺め,幻想の世界に踏み入り一瞬だけ我を忘 れる場面である。Faulkner は地位も階級も人種的優位性もそして金銭も ない弱者にも永遠の瞬間が訪れる機会は均等に与えられているという,い わば Emerson 的思想を持って,彼らに焦点を当てているといえるだろう。

2.

「デイモンとピシアス」のパロディ“Damon and Pythias

Unlimited”

二作目の作品は,一作目と同様に,若い語り手が体験した二人のイタリ ア系移民の男性との間で繰り広げられた,哀しくも滑稽なスケッチである。

「デイモンとピシアス」(Damon and Pythias)は,言うまでもなく,紀元

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Faulkner の New Orleans Sketches

友人のデイモンが一時入獄し,期限の日になってもピシアスが戻らず,デ イモンが代わりに死刑にされそうになった時ピシアスが戻り,二人とも無 罪放免となるという,友情を美化した伝説である。イギリスの Richard Ed-wards の戯曲 Damon and Pythias(1571)やドイツの Friedrich Schiller の

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“ I bet the city ain’t painted it in twenty years. Why don’t they tear it down, anyway, and put up a modern building? They would have done that in Win-terset years ago. These people in the South ain’t got the pep we have at all.”(19)

さらに語り手は「人間の栄枯盛衰」(“the mutability of mankind(19)”)に ついて思いをはせ,バプテスト派が強調するように,堕落は「一つの時代 の奢侈と悪徳」(“the luxuries and vices of an age”)から生じるのではな

あたま

く,「自動調理食品や一人頭の浴槽数などの効率と便利さ」(“the efficiencies

and conveniences such as automatic food and bathtubs per capita(19)”) などの現代文明のせいだと断じている。これまで述べたように,移民の場 合新世界アメリカの生活よりも,旧世界の彼らの故郷の方が牧歌的な幸せ を享受できたとするパターンが多かったが,この作品では初めて貧しい移 民の姿を直視し,その評価と生態をリアルに描いている。

“Mirrors of Chartres Street”の語り手が乞食から小銭を乞われることか ら話が始まるように,この“Damon and Pythias Unlimited”の語り手も, 街中で非常に汚いユダヤ系の顔立ちの移民から幾度も声をかけられて,そ の存在に気付くようになるなどスケッチの語り手に求められる好奇心には 程遠い,受動的姿勢が最初は目立っている。しかし,声をかけてきた男に ついては,首にかけた帽子のオイルでコーティングしたような汚れが,厩 や馬丁に特有なものであることを判断するようになり,彼に対して次第に 観察を深めていく。

“Morowitz”を名乗るその男は,語り手が New Orleans に初めて来たこ とを聞き出すと,強引に街の案内を買って出て,なぜか競馬場に連れてい

こうとする。彼は英語の文法的誤りの他,“New Orleans”を“Noo Orluns”

と言ったり,“gentleman”を“chentleman”と発音するなど,あからさ

(9)

Faulkner の New Orleans Sketches 転手は高級ホテル St. Charles Hotel へ行けというその男を客と認めず,語 り手にも関わりを持たない方がいいと忠告する。まともな町の人が見れば, すぐさまその男は観光客をカモにするいかがわしい移民だということが分 かるのだが,語り手はなぜか彼を追い払うことはせず,一緒に競馬場に行 こうとする。

The driver addressed me again. “Take my advice, mister, and throw this bird out and go on where you are going, see?” I had about reached this conclusion myself, but I decided to carry on a bit longer. I asked him to drive us out to the race track, and we were off. Then I found how my com-panion’s hat acquired that peculiar oily sheen. He removed it and mopped his face with it. He became voluble.(22)

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明日正午に会いましょうと言い寄り,語り手は二人にホテルで12時に会う 約束をして別れる。

“Damon and Pythias”では,死刑の宣告を受けた Pythias の代わりに命 を賭けて Damon が入牢して友情を示したが,このスケッチではわずか5 ドルを巡って仲間同士が仲違いをするという話にすり代わっている。題名 “Damon and Pythias Unlimited”の Pythias に付された“unlimited”とい

う形容詞は「友情という絆に制限されない」,つまり友情など関係がない

という意味を示していよう。

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Faulkner の New Orleans Sketches

3.

“Home”と「洗礼者ヨハネ」

三作目の“Home”は,観察者/語り手の登場しない第三者の語る物語 であるが,前二作と同様に移民が主役を演じている。彼は南仏プロヴァン ス生まれのフランス人の移民で英語はあまり話せない。彼の名はフランス 語で Jean-Baptiste,英語でいえば John the Baptiste,つまり「洗礼者ヨハ ネ」という,新約聖書では,悔い改めの洗礼を宣べ伝え,イエスにもヨル ダン川で洗礼を施した予言者的人物である。ガリラヤ領主ヘロデ・アン ティパスの違法な結婚を批判したため,ヨハネは投獄・処刑されるが,新 しい妃ヘロデヤの娘が母にそそのかされて彼の首を踊りの褒美として求め

るエピソードは,ティツィアーノ(Tiziano Vecelli,1488―90)などの画家

のテーマとなり,19世紀後半の Oscar Wilde(1854―1900)によって Salome

(1896)として戯曲化された。この『サロメ』には世紀末の挿絵画家ビア

ズリー(Aubrey Beardsley,1872―98)が挿絵を描いているが,Mississippi 大学新聞などにグラフィック・アートを描いた Faulkner が彼の影響を受 けたことはよく知られている。 キリスト教の伝道者とは無縁と思える「洗礼者ヨハネ」という名の主人 公は,知り合ったばかりの知人から,戦争中に彼が得た火薬の知識などを 提供して,銀行強盗に加わるように迫られていた。つまり人々に罪を告白 させ洗礼を授けた,聖書の洗礼者ヨハネとは逆に,犯罪に加われば反省と 悔悛を迫られる状況に追い込まれてしまうのである。悔悛を迫られるかも しれない人物に「洗礼者ヨハネ」の名が冠せられていてパロディ化される など,“Mirrors of Chartres Street”や“Damon and Pythias Unlimited”と

同様に作品のトーンはアイロニカルである。「洗礼者ヨハネ」は第1次世

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いて,旧世界の故郷を手放しで楽園として思い出すことはできず,故郷へ の思いが屈折していることが,それまでの移民の登場者とは大きく異なる 点である。 「洗礼者ヨハネ」は南仏の故郷の森を春に散策したことを思い出す一方, 慎ましやかな百姓の農婦だった母にとって,戦争は無邪気な若者だった息 子の彼を,一人前の男として戦わせる恐ろしい組織だという嘆きを忘れる ことができない。従軍するとすぐに彼は戦争は英雄的な行為を示す場では なく,忍耐の限界越えた雨中の行進のような辛い体験であることを思い知 らされる。そして,戦う兵士は名づけようのない罪のために煉獄に送られ, 漠然とした存在が彼らに審判を下すような運命に置かれたことを気づかさ れる(30)。 戦後,彼は幸福の機会を求めて「ゴールデン・ランド」アメリカに移住 するが運は巡ってこなかった。正直に生きていてもただ寝て食べることし かできていないと彼の心で,一つの自我が嘆くと,それに対してもう一つ の自我が,お前は何を望んでいるのだ,食べ物を与えてくれる方が他のこ とも面倒を見てくれることが分からないのか,などと自問自答を繰り返し, 銀行強盗に加わるかどうか煩悶する。

Then, do you not see that He who gave you food when it was necessary will also care for your other wants? Who are you, to assume charge of a vessel, the destiny of which you cannot know?(31)

Times-Picayune 紙のスケッチでは,“Mirrors of Chartres Street”でのイ エス・キリストや聖母マリアのイメージの活用のように,聖書的なモチー フが使われる例が目立つが,この引用での“a vessel”は聖書では「器/

人」として用いられ,“charge”は神が人間に下す「戒め」を意味してい

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Faulkner の New Orleans Sketches ように人を戒めるとは(何様のつもりだ)」という意味になる。しかし, そのような「告諭」にもかかわらず,いよいよ重大犯罪に手を染めようと したその瞬間に,人気のない静まり返った通りが突然不思議な音色に満た される。それは歌声と半ば弦楽器,半ば管楽器のような深い響きを持つ音 色で,彼の故郷のプロヴァンス風でもあると同時になぜか軍隊調も交じっ ていた。そしてその音色は彼の眼前に故郷の光景を浮かび上がらせたので ある。

Suddenly the empty street filled with sound, a resonant singing, half string and half pipe―a lilting provencal air somehow incongruously martial. Jean-Baptiste paused, stricken, and about him rose the land he called his; the wooded hills, and valleys, willow and tall chestnuts in the meadows where quiet cattle grazed or stood knee-deep in the water; of young love and nightingales among the chestnut trees after the sun had gone out of heaven and the intimate stars swam in a velvet sky.(33)

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作品も,やはり「旧世界の楽園対新世界の零落・失望」というテーマは引 き継いでいたことが分かるのであるが,この作品とそれまでの作品との相 違は,故国の牧歌的楽園は海を渡って遠い国に来なければ分からないとい う点にあるといえる。 この作品では,運命の選択を迫られた「洗礼者ヨハネ」が,突然響き渡っ てきた音色によっていわば心の牧歌を知り,ほとんど犯罪者となることを やめる決意をして終わるが,この音色とそれを生み出す楽器については一 考の価値がある。

“a resonant singing”は反響する歌声であるが,彼の故郷南仏を思い出 させるのであるから,カトリックの教会のミサで行われる合唱隊の合唱と も考えられ,一方,“string”と“pipe”は「陽気なプロヴァンス風の雰囲 気」を想起させるので,ヴァイオリンや笛などが考えられるが,教会をイ メージすれば“pipe”はパイプオルガンを意味していることも否定できな い。さらに「不釣合いに軍隊風」ということはヴァイオリンやフルートな どの楽器が連想されよう。いずれにせよ,ここで聞こえてきた音色を生み 出しているのはのこぎりであり,作品の冒頭にのこぎりとその演奏者の描 写がある。

A man sat on the curb. In his hands were a carpenter’s saw and a violin bow. The saw he held like a violin and from the bow there rose a sound, a resonant singing, half string and half pipe, which the very atmosphere, which silence itself, seemed to find strange and hard to digest: toying with it when the bow ceased−−a lilting provencal air played in a virgin tonal scale, and somehow ambiguously martial.(28)

のこぎりをヴァイオリンのように弾くということは,The Sound and the

(15)

Faulkner の New Orleans Sketches たサーカスの呼び物,のこぎりの演奏を見たがる場面に通じている。しか しこののこぎりの演奏者は長女 Caddy が Herbert と結婚する前に別の男 との間にできた娘 Quentin と駆け落ちをした男であり,牧歌的ともいえる 音楽を奏でる“Home”の演奏や演奏者とは対極に位置している。 しかし,“Home”ののこぎりの演奏は視覚的なイメージを生み出す装 置として重要である他に興味深い点がある。それは普通の楽器を使って聞 くことのできる音楽ではなく,のこぎりと弦楽器の弓という本来は組み合 わされることのない組み合わせから生み出された音楽であり,つまり,普 通の楽器では生み出せない音が聞こえたということである。聞こえてきた 音色は,合唱の反響とも,弦楽器とも管楽器/パイプオルガンとも思える 音楽で,軍隊風という音楽にそぐわないものも交じっていたのである。そ こには社会の周辺に暮らすカトリック系移民をはじめ多種多様な人々が生 み出す文化的諸相を探求しようとする Faulkner の多文化主義的な初期の 試みが感じられる。

4.移民の物語の変化,

“The Jealousy”と“The Rosary”

拙論「Faulkner の“New Orleans”:新たな可能性を切り開いた散文詩」

で述べたように,1925年に New Orleans で発表された“New Orleans”で

は,異邦人・移民・黒人・娼婦など1925年当時のアメリカ社会の異端者に

焦点を当てながら,Faulkner は彼らの視点からアメリカ社会を批判して いる。とりわけ移民は,旧世界での幸福な思い出を抱えてアメリカに渡る

と,かえって不幸になるというパターンで語られることが多い。“New

Or-leans”の“The

Cobbler”の靴直し職人はその典型的な例だが,Times-Picayune 紙のスケッチ“The Home”の主人公も南仏の故郷の良い思い出

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感情は同情的である。しかし,移民を扱った“Jealousy”(1925年3月1 日)や“The Rosary”(同年5月3日)ではそのようなパターンはほとん ど見受けられない。この2作の後の5月10日に発表された“The Cobbler” は,“New Orleans”に含まれる同名の小品(以下「散文詩版」とする)に 対して,いわば「語り版」になるが,語りの比重の置き方が異なり,移民 の話としてこれら2作と関連するのでまずこれを取り上げてみたい。 (1)二つの「靴直し」と「嫉妬」

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Faulkner の New Orleans Sketches 村にやってきて,彼女を連れ去ってしまう。彼は彼女の部屋の外に捨てら れて,ほこりにまみれた「黄色いバラ」を拾い,彼女が戻った時のために 大切に育てている。 「散文詩版」と「語り版」で語られるかつての恋人に捧げ捨てられたバ ラの鉢植えは,過去の恋と娘を連想させる大切な象徴となっており,文学 的には実際の娘以上に愛玩されるものとなっている。New Orleans に到着 した直後に発表された自伝的エッセイ“Verse Old and Nascent: A Pilgrim-age”には,John Keats の“Ode on a Grecian Urn”というオード/詩を

発見した体験が語られているが8),これ以降 Faulkner は「古壺」のイメ

ージを「花瓶」(vase)などで用いるようになる。たとえば初期の長篇で

ある Sartoris(1929)で Horace Benbow にガラスの花瓶を制作して「ギ

リシア古壺」を忍ばせているし9),The Sound and the Fury(19)の未

発表の序文でもこの作品への愛をかつてローマ人が寝台の脇において夜ご と愛玩した花瓶に喩えている10)。バラの鉢植えはそのような Faulkner の フェティシズムを体現するものである。 これに対して“Jealousy”は,逆にバラではなく,娘本人をアメリカに 連れてきた男の悲劇といえるだろう。主人公はイタリアのシチリア島出身 者で,町でレストランを経営しているが,雇っている若く恰好のいいウェ イターと妻との密通を疑って,彼女を部屋から無理やり店の中に座らせた 結果,彼女は仕方なく一日中編み物をして時を過ごすが,それが却って彼 の不満の種となってしまう。

“Knitting again, eh?”

His wife raised her smooth, oval face and her soft eyes for a moment met his, then dropped to her work again.

(18)

“Knitting! Always knitting! Is it that there is nothing to be done here that you must knit at all times?”

She sighed, but made no reply.(34)

妻は,部屋ではなくここにいるのは夫の命令に従ったからだと反論する が,店にいても,ウェイターが彼女に近づいたり,話しかけたりするたび に理性を失うほど主人公は興奮してしまうのである。とうとう,妻から彼 が正気に戻らない限り,自分は家族の元に戻ると言われてしまい,その地 を去って妻を連れて新しい町で彼女ともう一度やり直す決意をする。レス トランを売りに出すとそのウェイターが買い手として名乗りを上げる。 ウェイターは主人公の妻に記念の品を贈りたいと言い出し,主人公と二人 で骨董店に行き,そこでたまたま目にした錆びた古い拳銃で,弾丸が入っ ていないと思った主人公がウェイターを誤って射殺してしまうという悲劇 的結末で終わる。 この作品でも主人公が,路地裏から見上げた星空から,少年時代を過ご した故郷のシチリアを思い返す場面がある。彼は,その当時は人生は明瞭 で,単純であったと回顧する一方,彼の死後,故郷の若者が星空を見上げ て,彼の夢と彼の問題について思い巡らすだろうと想像する。

And he stared at the starred sky stretching like taut silk above the walled well of the alley, watching the same stars at which he had gazed in fara-way Sicily, in his youth, when he had been a boy and life was clear and fine and simple; and that lads would stare wondering upon long after he and his dream and his problem were quiet underground.(38)

このように,旧世界の故郷での幸せの記憶が見られるが,“The Cobbler”

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Faulkner の New Orleans Sketches

ど強調されていない。むしろ,この作品で目立つのは,イタリア系移民の 主人公が抱く,妻とウェイターに対する偏執狂的な嫉妬心の描写である。 イタリア系移民の店主は,Faulkner がやがて小説において,未来の職を 奪った姉 Caddy に復讐心を抱く The Sound and the Fury の Jason,自分の 出生の秘密を握る兄 Darl への恨み最後に晴らす As I Lay Dying の Jewel, 黒人の血の混じった男と出奔した娘の遺児 Christmas を執拗に追い回す

Light in August の Doc Heins など,ほとんどの作品に登場する偏執狂的な

(20)

The hours I spent with thee, dear heart, Are as a string of pearls to me;

I count them over ev’ry one apart, My rosary, my rosary.

Each hour a pearl, each pearl a pray’r, To still a heart in absence wrung: I tell each bead unto the end And there a Cross is hung!

Oh, memories that bless and burn O, barren gain and bitter loss!

I kiss each bead and strive at last to learn To kiss the Cross, sweetheart! to kiss the cross12)

拙論で述べたような,カトリック世界への憧れは全く見られず,移民・ 旧世界・カトリック的なものは Harris 氏によって全否定されている。し かし,Harris 氏の出番は最初だけで,すぐに,彼の敷地にゴミを投げ入れ たり,彼や彼の所有物に憎しみを抱く Venturia の視点から語られる。他 の「移民もの」とは異なり,Venturia の出自は明らかにされず,旧世界の ふるさとの思い出も出てこない。この物語で顕著なのは,“Jealousy”の ように一方的な憎しみではなく,お互いが憎しみを通して深く相手の心に 踏み込む神経戦になっていることと,Venturia の偏執狂的な憎しみは次第 に感情的なレベルを超えて,Edgar Allan Poe の“Tell-Tale Heart”のよう な冷静な計算に基づく犯罪行為のようになっていくことである。

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Faulkner の New Orleans Sketches

“Later, as he lay in bed, heaving and chuckling, a terrible thought struck him. Suppose his enemy were to die! Be beyond the reach of his hatred!

(62)”そして,Harris 氏に死なれたら惨めになるので,このような形で逃

がさないように彼も死んで「煉獄」(“purgatory”)13)まで追いかけること

(22)

だ」14)と、作品ではなく作家について書こうとするアメリカの批評界を批

判している。学生時代の1922年に学生新聞 The Mississippian に発表した

演劇評においても,国民的な不安定さにより,想像力と才能のある人はア

メリカの現状に堪えられなくなり,O’Neill はアメリカに背を向けて海を

舞台に劇を書き,Alfred Kreymborg はイタリアに逃避し,Ezra Pound は ロンドンで偽の芸術品を弄んでいるなどとアメリカ批判を繰り広げ,次の

ように述べている。「彼らは皆アメリカは審美的に見て絶望的だというこ

とを知った」15)。つまりアメリカは芸術に向いていないことを悟ったのだ

結論付けている。

1925年に New Orleans に滞在中に発表した“New Orleans”やスケッチ

類に見られる移民ものは,このような Faulkner のアメリカ文化批判の文 学観に沿った作品群といえるが,他方,詩作から小説創作を始める橋渡し となり,テーマとして小説にも引き継がれて Light in August の Joe Christ-mas, Absalom, Absalom! の Thomas Sutpen など南部社会や共同体の構造 ・価値観などを根底から揺るがす異分子として引き継がれ,発展していっ たといえるだろう。

1)“New Orleans”については,“sketch”(Joseph Blotner, Faulkner: A Biography Vol-ume One(New York: Random House,1974)p.391),“prose piece”(David Minter, William Faulkner: His Life and Work(Baltimore: Johns Hopkins UP,1980)p.48)な どと呼ばれるが,文体が詩劇の独白に近いので,本論では Kartiganer の“prose poem” (散文詩)の名称を採用している。(Martin Kreiswirth, William Faulkner: The Making

of a Novelist(Athens, Ga.: U of Georgia P,1983),pp.24―25)

2)並木信明「Faulkner の“New Orleans”:新たな可能性を切り開いた散文詩」『専修 人文論集』(2014年10月)第95号,35―55ページ。

3)Carvel Collins, “Introduction,” in Carvel Collins, ed. William Faulkner: New Orleans Sketches(New York: Random House,1958),pp. xxvii―xxviii.

(23)

“An-Faulkner の New Orleans Sketches

other Mirrors of Chartres Street”の見出しがついていて,スケッチがパロディ版の シリーズであったことを明らかにしており,それによっても社会の周辺に住む人々を 登場させた理由が分かるのである。Cf. Hans H. Skei, William Faulkner: The Short Story Career(Oslo: Universitetsforlaget,1981)p.21.

5)Collins, p. xxviii.

6)以後の引用は,Carvel Collins, William Faulkner: New Orleans Sketches(New York: Random House,1958)による。

7)Carvel Collins, ed. William Faulkner: Early Prose and Poetry(Boston: An Atlantic Monthly Press Book,1962),p.92.

8)Ibid., p.117.

9)William Faulkner, Sartoris(1929;New York: Random House,1951)p.182. 10)James B. Meriwether, ed., William Faulkner, “An Introduction to The Sound and the

Fury,” in A Faulkner Miscenery, ed. James B. Meriwether(Jackson: U of Missis-sippi,1974),p.161.

1)Theodore Raph, The American Song Treasury: 100 Favorites(New York: Dover, 1964),2244/3291.

2)Ronald Herder, ed., 500 Best-Loved Song Lyrics(New York: Dover,1998),p.294. 13)「煉獄」とカトリック的テーマについては上記の拙論 pp.42―44を参照のこと。 14)William Faulkner: Early Prose and Poetry, p.112.

参照

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