著者 斎藤 仁作
雑誌名 基督教研究
巻 71
号 2
ページ 95‑115
発行年 2009‑12‑03
権利 基督教研究会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012447
西田哲学と三一論的創造論
The Philosophy of Kitaro Nishida and the Theology of Trinitarian Creation
斎藤 仁作
Jinsaku Saito
キーワード
絶対無、人格的自己、実在、三一論、創造論
KEY WORDS
absolute nothingness, personal self, reality, trinity, creation
要旨
西田哲学は真の自己の究明をとおして実在世界の論理構造を解明している。それは 絶対無の場所における自由な人格的自己の成立を解明するとともに、絶対無を媒介に した我と汝の関係を解明し、歴史的現実の世界の論理を絶対矛盾的自己同一として解 明している。また、絶対者(絶対無)と自己の関係を「三位一体論的に」説明してい る。
絶対無は大乗仏教の空の論理的な解明であり、形而上学的な(存在論的な)解釈な のであるが、西田の絶対無の哲学は現代神学の三一論的創造論(イエスにおける神の 歴史的な自己啓示から三一論と創造論を解明する)と構造的に一致し、同一の内容を 語っている。
本稿は、絶対無の場所と神の霊、我と汝の関係、弁証法的世界と継続する創造、絶 対者と人格的自己の関係等について、西田哲学を現代の三一論的創造論と対比しつつ 論じている。
SUMMMARY
The philosophy of Kitaro Nishida explicates the logic and structure of the real world through the pursuit of the true self. It clarifies the free personal self in the field of ‘the
absolute nothingness,’ and the relationship of I and Thou by the medium of the absolute nothingness. Furthermore, it explicates the logic of the historical real world as
‘absolutely paradoxical identity’ and calls the relationship of the absolute(the absolute nothingness)and the self the ‘Trinitarian’ relationship.
Between the philosophy of the absolute nothingness, which is the logical explication and metaphysical (ontological) interpretation of Mahayana’s Sunyata (emptiness), and the concept of trinity and creation of the present theology, which interprets the historical self-revelation of God through Jesus, there exist a coincidence of structure and content.
This article explains the philosophy of Nishida in comparison with the present theology of Trinitarian creation. Specifically, it explicates the same function of the field of the absolute nothingness and the Spirit of God, the relationship of I and Thou, the correspondence between Nishida’s dialectical world and the successive creation of Trinitarian God, and the personal relationship between the absolute and the self. The problem of Trinitarian creation in the present theology will be discussed in another article, which covers the truth of religion.
はじめに
従来のキリスト教神学は神の救済を父と子と聖霊の業として三一論的に説明した が、神の創造は一なる神の行為として一神論的に説明してきた。神の創造における御 子と神の霊の固有な働きと共働は十分に解明されなかったのであり、キリスト教神学 は「二重帳簿」(K・バルト)であった。この伝統的な創造論においては神は世界の 超越的な原因であり、世界の創造は元初の創造において完結したものと考えられた が、このような世界解釈は近代科学の機械論的自然観の前に維持し難いものとなり、
現代の自然科学が説く自然の進化(生命の進化や宇宙の進化)に対しても対応できな いものとなっている。また、伝統的な創造論においては(神の存在やイデアを分有す る)被造物の世界のヒエラルキー的な秩序が説かれたが、神と被造物の呼応する人格 的な関係、人間と人間、人間と自然の人格的な交わりの関係は解明されないままにと どまった。M・ハイデガーが「このような神に人間は祈ることもできず……このよう な神の前で音楽を奏で舞うこともできない」1 と批判したように、キリスト教神学は 神を世界の原因と考える形而上学であり、「存在-神学(Onto-theologie)」であっ た。
現代の神学はそれに対して神の創造を一なる神の行為として解釈するのではなくし て、三一の神の行為として解釈し、神の世界関係を父と子と聖霊の働きをとおして解 明せんとしている。この創造論の三一論的解釈はK・バルトによる創造論のキリスト 論的解釈によって先鞭がつけられたのであるが、現代の神学においてJ・モルトマン
やW・パネンベルクによって積極的に推進されている2。それはイエスにおける歴史
的な神啓示(父と子と聖霊の具体的な関係)から神の内的本質(内在的三一論)を解 明するとともに、創造(神の世界関係)を父と子と聖霊の働きから解明するのである が、その場合、御子キリストは被造物の原型(構造的原像)であると解され、神は霊 の内部から(区別と統一の原理である)御子・ロゴスによって世界を創造し、御子と 霊によって被造世界を保持し、創造を継続すると解される。
既に旧約聖書は神の知恵による創造を語っているのであるが(箴言8:22−27,詩編 104:24, ヨブ28:25−27他)、新約聖書において救済の仲介者キリストはこの創造の仲保 者・神の知恵と同定され、御子による創造が語られている。「万物は御子において
……御子によって、御子のために造られた」(コロ1:16.参照Ⅰコリ8:6.ヘブ1:10.ヨハ 1:3)と言われるように、御子キリストは神の知恵(ソフィア、もしくはロゴス)と 同定され、被造物の原型や予定(本質的規定)として解されている。また、霊(ルー アッハ)は聖書において単に救済や聖化の霊ではなく、創造の霊である。「神は霊で ある」(ヨハ4:24)と言われるように、霊は神の本質的な現実であり、そこから世界 が創造される場である(創世1:2f)。それゆえ、神は霊の内部から御子によって世界 を創造するととともに、御子と霊によって被造世界を保持し、創造を継続すると解さ れるのである。
この御子と神の霊を媒介とする三一の神の創造は、パネンベルクにおいては場の形
態化 力の場である霊の内部からの御子・ロゴスによる形態化 として解釈さ
れ、モルトマンにおいては三一の神の自己限定(自己収縮)によって生じる無からの 創造として解釈されるのであるが、このような創造論の三一論的解釈においては(霊 の内部から御子・ロゴスによって創造された)被造世界は神の霊の内部に存在すると ともに、被造物は神の霊を場として他者と未来に向けて自己を超越する。それによっ て被造世界は「開かれたシステム」として解され、神と(御子キリストを原型とす る)人間の関係のみならず、人間と人間、人間と自然の関係は自由と愛における交わ り(人格的な関係)やコミュニケーションの関係として解明されるのであり、モルト マンは三一論的な創造論を(人間と自然の共生を説く)生態学的な創造論として展開 している。
また、この三一論的な創造論においては神の創造は元初の創造において完結するの ではなく、現在においても継続され、未来の終末(神の国)において完成される。神
の霊は被造物の自己超越の原理であり、御子もまた「父が働くように、私も働く」
(ヨハ5:17)。それゆえ、三一の神の創造は霊と御子によって継続され、新しい創造で あるキリストの救済によって更新され、「神がすべてにあってすべてとなる」(Ⅰコリ 15:28)終末の神の国において完成される。その場合、御子・ロゴスの十全な実現で ある人間は新しいアダム(Ⅰコリ15:47.コロ3:10)として三一の神の歴史において創造 的な役割を果たすことになる。
このような創造論の終末論的で三一論的な解釈の真理性は、未来の終末における神 の自己啓示によって究極的に確証され、現在においては三一の神の交わり(聖霊にお ける父と子の交わり)に与かる信仰者の経験において先取り的に確証される事柄であ るが、しかし、それはキリスト教信仰に特殊な経験ではない。創造のロゴス(ソフィ ア)は被造世界の全体において働いているのであり、神の霊は(被造世界を保持し活 動させる)宇宙論的なエネルギーの概念を内包している。また、聖書の創造信仰と創 造神学は単に神の救済の経験や歴史的な啓示から導きだされたのではなく、全ての人 間に共有される原初史を語っており3、知恵文学が示すように、神は被造物をとおし ても人間に語りかける4。それゆえ、三一論的な創造論はより普遍的な世界解釈であ り、哲学的な存在理解や世界解釈に対しても開かれている。それは絶対無という宗教 的立場から自己と世界の存在構造を解明する西田哲学とも内容上の親近性や同一性を もっており、また、人間現存在と呼応する存在の性起を語る後期ハイデガーの存在の 思索とも共通する内容をもっている。
西田幾多郎の絶対無の哲学はイエスにおける神の自己啓示から出発するのではな く、真の自己の究明から出発して実在の世界の論理構造を解明するのであるが、この 絶対無の場所の論理と哲学は(イエスを構造的原像として人間と被造物の本質的な規 定を解明する)現代神学の三一論的創造論と共通する内容を語っており、同一の内容 を語っていると解される。西田は真の自己が成立する根底を絶対無の場所に見出すの であるが、(絶対無において真の自己が自覚されるという)絶対無の自覚とは「色即 是空、空即是色」の自覚に他ならず、絶対無は大乗仏教の空を意味している。しか し、西田が「事実の底に徹する」と言う大乗仏教の立場から遂行する真の自己の究明 と実在世界の解明は、現代神学の三一論や三一論的創造論と内容的に親近性があり、
同一の内容を語っている。この内容上の親近性と同一性は、絶対無の場所と神の霊の 作用的同一性、「私と汝(我と汝)」の人格的な交わりや愛の媒介として働く絶対無と 聖霊の働きの同一性にとどまらず、自己の内部に自己否定を内包する神概念、絶対無 の(自己否定的な)自己限定としての創造の解釈、絶対矛盾的自己同一的に展開する 弁証法的世界と継続する創造、自己否定的に自己超越する人間の創造性など、西田哲 学と三一論神学の全体にわたっている。
また、西田自身も当時のキリスト教神学(バルトやゴ-ガルテン、ブルンナ-など の弁証法神学)によく通じており、自己の絶対無の場所の論理と宗教的世界観を「三 位一体的」(三一論的)と呼んでいる。のみならず、西田の絶対無の場所は自由な人 格的自己が成立する根底を明らかにしており、現代神学の三一論的創造論に残存する 主観性の形而上学を克服する道を示している。
それゆえ、西田の絶対無の哲学を現代神学の三一論や三一論的創造論と対比しつつ 論じ、両者の親近性や内容的な同一性を明らかにするとともに、現代神学の三一論的 創造論の展開にとって西田哲学の絶対無の場所の論理がもつ意義について論及した い。
1.実在世界と真の自己の究明(西田哲学の出発点)
既に『善の研究』において示されているように、西田の根本問題は善(道徳的価 値)の成立根拠としての実在世界の解明にあった。西田によれば、実在の世界は、認 識主観(知的自己)によって対象的に認識される世界ではなく、主観と客観が対立す る以前の原初的な意識において直接に経験される事実、すなわち、「純粋経験」の事 実でなければならない。直接的な経験においては現実の世界は自己と世界に明確に分 離・対立しておらず、主客未分の状態にあり、純粋経験(実在の世界)においては、
芸術的な直観におけるように、自己と世界は相互に交流し合っており、自己と世界は ひとつである。知的な反省の次元において自己(認識主観)と世界は区別され対立す るのであるが、しかし、「元来物と我と区別のあるのではない」5。西田によれば、物 と我、すなわち、自然と精神は実在(宇宙の根本的活動)の両面であり、神はこの実 在世界の根底である。そして、道徳的価値(善)や科学的な認識はこの(神を根底と する)実在世界の上に成立する価値なのである。
しかし、このような西田の純粋経験の立場は、直接的な経験の表出という性格が強 く、哲学的に十分に根拠づけられたものではなかった。すなわち、自己と世界の同一 性を強調するあまり、意識(純粋経験)と実在世界は区別されておらず、「意識現象 が唯一の実在である」6 と言われるように、意識一元論であった。また、純粋経験と 反省的思惟が明確に区別されておらず、反省的思惟は広義の純粋経験として考えられ ていた。しかし、自己と世界は単に主客同一ではなく、反省的思惟においては主客は 明確に分離しており、純粋経験の事実のみにもとづいて自己と世界を同一視すること はできない。
西田は新カント学派(認識の構成作用以前に客観的実在を認めるリッケルト)との 接触からそのことに気づき、純粋経験(直観)と反省的思惟の主体である自己のあり
方を根本的に反省せざるをえなかった。反省的思惟においては世界は自己にとって確 かに客観的対象としてあらわれるのであるが、根源的な状態(純粋経験)においては 自己と世界はひとつなのであり、直観と反省の成立基盤である自己とその所在が根本 的に究明されねばならない。
しかし、自己が自己自身を直接に(対象的に)認識することは不可能である。それ ゆえ、西田はフィヒテ的な事行の立場から(観照的な立場から自己を対象的に認識す るのではなく、行為的な自覚の立場から)行為的で能動的な自己を自覚にもたらそう とした。それは行為的な自己を知的直観によって自覚することであり、「自己が自己 の内に自己を映す(自己が自己に於て自己を見る)」ことであるが、しかし、行為的 な立場においても自己を意識する意識(自己自身)を捉えることは不可能である。
「意識(自己)を意識する意識」は無限に遡行するのであり、自己を意識する意識
(自己自身)をとらえることはできないのである。
西田はこの問題の解決に長い間「悪戦苦闘」し、意識する意識の根底を「絶対自由 意志」に求めるのであるが、真の自己の自覚に至ることはできなかった。紆余曲折の 末、西田は反省的な意識の立場から「意識する意識(自己)」を捉えるのではなく、
意識する意識の底に(そこにおいて真の自己が成立する)絶対無の場所を見出すこと によって、この難問を解決するのであるが、それは意識を(対象を構成する)作用と してではなく、(対象を映す)場所として理解することによってであった。すなわ ち、対象(対象としての自己)を映し包摂する意識の場所の底に真の自己(自由な人 格的自己)を映し包摂する絶対無の場所を見出すことによって、真の自己の自覚に至 るのであり、自由意志もまたこの(限定するものなく限定する)絶対無の場所によっ て根拠づけられる。真の自己の自覚とは「絶対無の場所」において自己を見る(直観 する)ことであり、自己と(自己の根底である)絶対無がひとつであるという絶対無 の自覚に他ならないのである。
2.絶対無の場所(自己と実在世界の根底)
この絶対無の場所における真の自己の自覚(自由な人格的自己の成立)を、西田は 判断における主語(個物)と述語(一般者)の包摂関係を用いて論理的に解明する。
〔場所としての意識〕認識判断は、主語(個物)が述語(一般的なもの)によって 限定されることによって成立するが、アリストテレスは主語を述語によって限定され ない基体と考えた(主語的論理)。述語に種差を加え、述語による限定を加えていっ ても、主語は究極的に限定されえないのであり、基体そのものは意識(認識主観)に よって認識できないままにとどまるのである。
しかし、西田は述語(一般者)を場所(個物がそこにおいて映される意識面)と考 え、個物が場所(意識面)によって(包まれ)限定されることによって、判断が成立 すると考える。この述語的論理の立場においては、主語(個物)は述語(一般者)に よって限定されないままにとどまるのではなく、述語(意識面としての場所)が無限 大に拡大されることによって、主語(個物)を限定することが論理的に可能になる。
究極的には、無限大の場所(絶対無)によって個物は限定されることになるが、究極 の個物である真の自己(自由な人格的自己)はこの絶対無の場所においてはじめて直 観される(自覚される)のである。
すなわち、個物は一般に「有の場所」(という意識面)において存在し、認識され るが、このような「有の場所」においては、それを超えて存在する意識(認識主観)
そのものは限定されえず、認識されえない。それに対して、反省的な意識の場所(相 対的無の場所・「意識の野」)においては、意識された対象と(それを意識する)認識 主観はその内部に包摂される。しかし、この「意識の野」においても、意識する意識
(自己)は限定されないままにとどまるのであり、真の自己(自由な人格的自己)を 自覚することは不可能である。真の自己は、意識の野を底に超える「絶対無の場所」
において 限定するものなき限定において 限定されるのであり、直観される
(自覚される)。絶対自由意志も「絶対無の場所」においてその根拠づけを得るのであ り、自由な人格的自己は絶対無の自覚において成立するのである。
〔様々な意識(場所)の段階〕この絶対無の場所(無の一般者)にまで深まってい く様々な(意識の)場所の段階についての西田の体系的な説明を、以下の行論に必要 な範囲で論及すれば、自然的な意識においては個物は有の場所において存在し、有の 場所(判断的一般者)に限定されている。個物は場所において存在するものとして対 象的に認識され、限定され、判断される。しかし、このような場所(判断的一般者)
においては個物の存在は真に認識されず(限定されず)、自我も認識されえない。い わんや(単なる事物ではない)自由な人格的自己は自覚されえない。
それに対して、いわゆる反省的な意識の立場においては、このような判断的な自己 がおいてある場所(有の場所)は超越される。認識主観もまた意識の野(自覚的一般 者)に映しだされるのであるが、しかし、この相対的無の場所においても情意的自己 は限定されず、個物は真に認識されない(自由な人格的自己は自覚されない)。自己 を意識する意識は無限の過程の繰り返しであり、認識主観を包む場所である自覚的一 般者においても、意識を意識する意識(自己)はとらえられないのである。
このような相対的無の場所(自覚的的一般者)は、イデアを直観する叡知的自己に よって超越されるのであり、叡知的自己においては意識の無限の過程は超越される。
自覚的自己(意識的自己)の根底には意志が存在するのであるが、この意志の底が破
られることによって、叡知的自己があらわれる。しかし、この叡知的自己も 真の イデアを抽象的に直観する知的な叡知的自己も、美のイデアを物そのものに見る芸術 的な叡知的自己も、善のイデアを自己の内部に直観して実践する道徳的な叡知的自己 も 未だ一般的な自己であり(自己の形式的な自覚であり)、実在的な自己ではな い。叡知的世界においては自己とイデアの間に対立が存在するのであり、最高の叡知 的自己である道徳的な(叡知的)自己も自己の内部に反価値的な傾向をもち、分裂と 矛盾をかかえており、ルターが言うように、自己の罪を自覚せざるをえないのであ る。
しかし、叡知的自己がおいてある場所(知的直観の一般者)は宗教的自己において はさらに底に向けて超越され、絶対無の場所(無の一般者)に到るのであり、この絶 対無の場所において自己は自己自身を自覚する。この絶対無の場所においては、自己 に対立する静的なイデアは消滅し、意識的自己も消失し(無我となり)、見られる自 己(対象的な自己)も消滅する。自己は「無にして見るもの」となり、真の自己が直 観され、実在的な物そのものを見る。真の自己は絶対無の場所において成立するので あり、それは絶対無の場所(限定するものなき限定)において自己自身を限定する自 由な人格的自己である。
絶対無を根底として自由な自己は自己自身を行為的に限定するが、それをとおして 世界は表現的に限定され、「見られる物そのものが直ちに自己の表現と考へられ る」7。「内が外となり、外が内となる」7のであり、事実が事実自身を限定する。しか し、真の自己はノエマ的(対象的)に自己の根底に無を見て自己を限定するだけでな く、ノエシス的(作用的)に自己の内部に「内的生命の流れ」を体験する。「その
(絶対無の場所の)ノエシス的方向には無限なる生命の流れといふものが見られる」
のであり、「見られる自己がなくなると共に、即ち真の無我となると共に、我々は深 い内的生命に於いて生きるのである」8。それゆえ、(絶対無において真の自己が自覚 されるという)絶対無の自覚とはノエシス的には「無限に自己自身を限定する生命の 流ともいふべきもの」であり、「生命が生命を限定する」9 と言うべきことである。
このような絶対無の自覚の背景には、勿論、西田の見性(成仏)の禅的な体験があ る。絶対無の自覚とは「色即是空空即是色の宗教的体験」10 であり、「心身脱落によっ てそこに(絶対無の自覚に)至るのである」10−bと言われるように、「絶対無の場所」
は大乗仏教の「空」の論理的な解明であり、形而上学的な(存在論的な)解釈であ る。(自己を対象として概念的に規定する)一切は空であり、一切が空であることを 自覚するとき(意識的自己の立場が超えられたとき)、真に自由な自己が自覚される のであり、そのとき真の根源的な世界(無限の生命の流れと我と汝の関係)が現出す る。「我々の自己の根底には無限の自由があり、無限の生命がある」11 のである。
〔絶対無〕このように、絶対無は、判断的知識が成立する概念的な認識を超えたと ころにおいて(意識的自己が無我となるところにおいて)自覚される場所である。絶 対無の場所は一般者の一般者、究極の一般者であり、真の個物(自由な人格的自己)
は絶対無の場所において自己自身を限定するのであり、絶対無は真に個物が成立する 場所である。「場所が場所自身を限定するとは、之においてあるものが自己自身を限 定するものとなること」12 であり、真の個物は絶対無の場所の限定(限定するものな き限定)において成立する。所謂客観的世界は絶対無を場所とする行為的自己の自己 限定の表現面として成立するのであり、対象がそこに映される様々な場所は絶対無の 場所の抽象的な限定面である。それゆえ、絶対無はノエマ的には(対象的には)絶対 の無なのであるが、ノエシス的には(作用的には)絶対の有である。絶対無は「対象 的に見られるもの、主語的に考えられるものに対しては無である」13が、作用的に は、限定するものなき限定として、自由な人格的自己を成立せしめる根底である。絶 対無は「絶対に無なると共に、絶対に有なるものである」14。
絶対者の自己展開であるヘーゲルの弁証法においても、(無限性としての)絶対者 はその内部に有限者を包摂しており、ロゴスによって自己と区別される他者を措定す る。しかし、ヘーゲルにおいては無限の絶対者は絶対無としてではなく絶対的な主体 として考えられているために、真に自由な個物は存在することはできない。個物(人 格的自己としての自由な個物)は一般者によっては限定しつくされないのであり、む しろ一般者を限定していくところに個物の個物たる所以がある。絶対無は絶対の無で あるがゆえに、個物を個物として限定する。自由な個物は限定するものなき限定とし て存在し得るのであり、個物を個物として限定するものは、無の一般者である。個物 は絶対無を場所として自己を限定するのである。
西田は最初、絶対無を意識の極限に見出される「心の本体」と見なしていたのであ るが、後述のように、やがて絶対無は自己と他者、個物と一般(環境)の媒介者と考 えられるようになる。そして、晩年の宗教論(「場所的論理と宗教的世界観」)におい ては西田は絶対無を人格的な神として語るのであるが、この絶対無(絶対者)の自己 否定的な自覚的自己限定によって個物は創造される。それゆえ、絶対無は人格的自己 のみならず、「すべてを内に包み、すべてを成り立たしめる」場所であり、根拠であ る。単に「心の本体」ではなく、有限者(個物)をその内部に含み、有限者を成り立 たしめる根本的な実在である。
〔神の霊〕聖書においても神の霊(ルーアッハ)は対象的に把握されえず(ヨハ 3:8)、理性にとって絶対の無であるが、全ての被造物の存在の根源である。「神は霊 である」(ヨハ4:24)と言われるように、霊は神の本質的な現実であり、無限の力で ある。現代の三一論神学においては神の霊は「力の場」として解されるのである
が15、被造物はこの力の場の内部から創造され(創世1:2f)、力の場を根底として存在 し、被造世界は力の場の内部に存在する。
また、神の霊は被造世界に内在し、全ての存在を運動させ、被造物に生命を与える
「生命の源」である(詩編104:29−30、ヨブ34:14f)。絶対無を場所として真の個物(自 由な人格的自己)が自己を超越して未来に向けて自己自身を限定していくように、被 造物(特に人間)もまた神の霊を場としては未来に向けて自己を超越し16、自己自身 を限定していく。絶対無の場所のノエシス的方向には生命の流れ(個物と環境の相互 限定)が現れるように、被造物はこの神の超越的な力(デュナミス)によって生命を 与えられるのであり、神の霊は「生命の源」である。このように、絶対無と神の霊は 単に自己と世界の根底であるだけでなく、両者の働きの間には作用的な同一性が看取 される17。
3.私と汝(我と汝)
このように、絶対無は自己と世界の根底であり、個物(究極的には人格的自己)は この絶対無の場所の自己限定として成立する。自己は絶対無を場所として自己自身を 行為的に限定していくが、それは絶対無の場所が自己を限定することでもある。しか し、この絶対無を場所とする自己限定は単に宗教的な自覚ではなく、客観的な知識
(世界についての対象的な知識)はこの行為的な自己の自己限定において成立する。
行為的な自己限定によって世界は表現的に限定されるのであり、それによって対象化 された世界(いわゆる客観界)が成立する。しかし、このような絶対無の自覚のノエ マ的限定は知的自覚において成立するのであり、自愛に基づいている。それに対し て、より深いノエシス的限定においては(情意的な)自己は絶対無を場所として自己 否定的に自己限定するのであり(絶対無の自覚のノエシス的限定)、そこに私と汝と いう関係が成立し、真の他愛が成立する。「絶対無のノエシス的限定によって人とい ふものが成立する」のであり、「各の人は各自の自己の根底に於てかゝる絶対無の自 覚そのものに接して居ると云ふことができる、即ち神に接して居るのである」18。 〔永遠の今〕単に絶対無の一般者によって限定される個物は、自由な人格的自己
(真の個物)ではなく、自由な自己は絶対無を場所として自己自身を行為的に限定す る。自己は無限の過去や環境によって限定されているのであるが、その根底において 永遠の今(絶対無の場所)に接しており、永遠の今において自己が自己自身を限定す る(現在が現在を限定する)ことによって、無限の過去と無限の未来が現在において 限定される。時間はこの永遠の今の自己限定として 「非連続の連続」とし て 成立するのであり、無数の自由な人において無数の時(時間)が成立する。
しかし、このような自由な行為的自己の自己限定は「自愛」に基づいており、それ によって個人的自己(自我)は無限に拡大していく。「自己自身を限定する現在と考 えられるものは自愛的自己と云ってよい、過現未を包む現在の自己限定と考えられる ものは自愛的自己でなければならない」19。「社会愛、人類愛といふ如き他愛といふの は自愛の拡げられたものと考えられる」20 のであり、真の他愛ではない。このような 絶対無の自覚のノエマ的限定(知的自覚における自己肯定的な自己限定)において は、他者も自己も客観界(対象化された世界)の一部にすぎないのである。
それに対して、絶対無の自覚のノエシス的限定(絶対無の場所が絶対の愛として働 く、情意的自己の自己否定的な自己限定)においては、他者は自己にとって「汝」と してあらわれる。「時の自己限定の底に生命の自己限定がある」21 のであり、絶対無の 自覚のノエマ的限定はより深いノエシス的限定によって否定され、包摂される。この 自己否定的な自己限定においては自己と他者の間に「私と汝」の関係が成立し、真の 愛が成立する。「時は永遠の今の自己限定として成立し、永遠の今の自己限定と考え られるものは、絶対の愛といふ如きものでなければならない。而してそれは私と汝の 関係でなければならない」22。
〔私と汝〕永遠の今において自己自身を限定する人格的自己は、自由であり、他者 は自己にとってけっして同化されえない絶対の他者である。「私と汝とは絶対に他な るものである。私と汝とを包摂する何等の一般者もない」23。一般的自己も客観的精 神も自己と他者を真に結合することはできないのであり、私と汝は絶対の無を隔てて 相対し、非連続である。しかし、私と汝は同じ一般者(絶対無の場所)によって限定 されている。私と汝は自己の底(身体的自己の底)に絶対の他(絶対無)をもつので あり、私と汝は絶対の他において自己を否定することによって結びつく。「私と汝と は各自の底に絶対の他を認め、互いに絶対の他に移り行くが故に、私と汝とは絶対の 他なると共に内的に相移り行くと云ふことができる」24。すなわち、「我々は神に対す ることによって人格であり、而して又神を媒介とすることによって私は汝に対し、人 格は人格に対する」25 のである。
それゆえ、私と汝は、絶対の他(絶対無)において自己が絶対的に否定されること によって結びつく。それは、自由な自己と自己が絶対無(永遠の今)を媒介とするこ とによって成立する関係であり、絶対無の場所において自己が「破壊される」ことに よって結びつく関係である。死即生(死即生なる真の生命)において成立する関係で ある。それは私が感情移入的に汝を知り汝と合一することではなく、私と汝が呼びか けと応答によって、身体的表現を介して結びつくことである。「私は汝が応答するこ とによって汝を知り、汝は私が汝に応答することによって私を知るのである。私の作 用と汝の作用が合一することによって私が汝を知り汝が私を知るのではなく、互いに
相対立し相応答することによって相知るのである」26。私と汝の関係は「非連続の連 続」である。
このように、絶対無の場所は永遠の今として「我と汝」の関係が成立する「媒介」
である。絶対無の自覚は「ノエマ的には時間的に自己自身を限定すること」である が、「ノエシス的には社会的に(私と汝として)自己自身を限定すること」であり、
そこに「時を超えたもの」、「永遠なるもの」が成立する27。この自己否定的な自己超 越による「私と汝」の愛の関係においては、時間の中に永遠が現れるのであり、「神 の国」が現出する28。西田によれば、この「私と汝」の関係は社会的な現実であり、
それによって歴史的世界が成立する。また、この永遠の今における我と汝の関係は、
人間に対する関係においてのみならず、物(自然)に対する関係においても成立する のである。
〔聖霊を媒介とする我と汝の関係〕聖書や三一論においても父と子の交わりや神と 人間の交わりは、神の霊(聖霊)を媒介として成立する。終末論的な現在においては 神の霊は聖霊として人間に内住するが、聖霊は「神の国の保証・前渡し」(エフェ1;
14他)であり、「自由と平和の霊」であり、その働きは自由と愛にある。「我と汝」の 関係や真の愛は、絶対無を媒介として成立するように、聖霊を媒介として成立する。
そして、この「我と汝」の人格的な関係は神と人間、人間と人間の間においてのみな らず、人間と自然の間においても成立するのであり、「永遠のいのち」や「神の国」
はこの「我と汝」の自己否定的な愛において成立する。西田は同一の事柄を体験的に 語るのではなく、絶対無の場所(自己の根底が絶対無の場所であるという絶対無の自 覚)から真の愛(アガペ-)や「我と汝」の関係の原理と構造を解明していると言え る。
4.歴史的現実の世界
〔弁証法的世界〕以上のように、自己と他者は絶対無を場所として相互に限定しつ つ存在するのであるが、自己自身を限定する真の個物(人格的自己)にとって、他者 は他の人間に尽きるのでなく、自然や環境もまた他者である。現実の世界は単に「私 と汝」によって構成されているのでなく、「私と汝と物」によって構成されており、
無数の個物と個物の間に相互限定的な関係が成立している。また、個物と一般(環境 世界)との間にも相互限定的な関係が成立している。(絶対無の場所の自己否定的な 自己限定によって成立している)実在の世界は、個物と個物が不断に相互限定しあう 世界であると同時に、個物と一般が相互に限定し合う弁証法的世界である。
個物は単に自己を限定するだけでは、真に個物であるとは言えず、個物は個物に対
することによって、個物である(とりわけ、人格的自己は単に個人的に自己を媒介と して自己を限定するのではなくして、他者との関係において自己を限定する)。個物 と個物は(「私と汝」の関係におけるがごとく)相互に限定しあうが、世界(究極的 には絶対無の場所)を媒介にして相互に限定しあう。すなわち、個物は自己否定的に 他の個物を限定するのであり、個物と個物は自己否定的に相互に限定しあう。それは 世界が世界自身を限定することでもある。「個物は唯、個物に対して限定せられ、個 物が個物自身を限定することによって一般者を限定すると考へられるのは、場所が場 所自身を限定するという意味を有ってゐなければならぬ。かゝる意味を有することに よって、個物が個物自身を限定することによって一般者を限定すると考へられ る」29。すなわち、個物と個物の相互限定は一般者(絶対無を根底とする世界)の自 己限定であり、世界の自己限定は無数の個物と個物の相互的な自己限定であり、「個 物と個物の相互限定即一般者の自己限定」という弁証法的な関係が成立している。
同様に、実在の世界は個物が環境(一般)を限定するとともに、環境が個物を限定 する世界である。その場合、個物と環境(一般)の関係は、個物が絶対無の場所(無 の一般者)を媒介にして自己否定的に自己を限定する(一般化する)ことによって、
環境世界を限定するとともに、環境世界も自己否定的に自己を限定する(個物化す る)ことによって、個物を限定する関係である。それゆえ、絶対無を媒介にして「一 般的限定即個物的限定・個物的限定即一般的限定」という弁証法的な関係が成立して いる。
その場合、単なる個物的多の集合である物質的世界(現実の世界から空間的に抽象 された世界)においては、個物は「自己自身から自己を限定する」のでなく、環境か ら自己を限定するのであり、機械論的である(多の一である)。生物的世界において は個物は自発的であり、目的論的であるが、未だ環境から独立的ではなく、真の意味 での個物的限定は存在しない(一の多である)。しかし、歴史的世界(人間が創造的 に働く世界)においては個物は環境世界から限定されるだけでなく、(自己否定的に 自己限定することによって)環境世界を限定しかえすのであり、絶対無を場所として 自己否定的に環境世界を限定していく。それは(空間的な限定を破る)時間的な限定 であるとともに、環境世界を限定していく円環的な限定である。「歴史の世界は……
個物的限定即一般的限定、一般的限定即個物的限定として現在が現在自身を限定する ことから始まるのである」30。
このように、個物と個物は自己否定的に相互に限定しあうとともに、個物と環境
(一般)も自己否定的に相互に限定するのであるが、それは世界(究極的には絶対無 の場所)が自己否定的に世界自身を限定していくことである。「世界の底には無が考 へられねばならない。故に弁証法的世界は創造的でなければならない。無限に自己自
身を創造して行く世界でなければならない」31。歴史的生命の世界(絶対無を根底に して人間が創造的に働く世界)は、過去と未来は現在(永遠の今)において絶対矛盾 的自己同一的に統一され、一瞬一瞬に形から形へと創造的に自己を限定していくので あり、「時間的限定即空間的限定、空間的限定即時間的限定」として不断に自己を限 定していく創造的な世界である。
〔行為的直観〕この創造的な弁証法的世界は(個物の側から言えば)無数の個物の 自己限定の世界であり、行為的直観によって発展していく世界である。個物と個物、
個物と一般は相互に限定し合っており、自己(行為的自己)と物(個物や環境世界)
は相互に限定し合っているのであるが、絶対無の場所の自己限定である世界において は、自己に相対する物は、単に客観的な対象ではなく、「汝」という性格をもつ。行 為的自己に対するものは、単なる表現ではなくして汝となる。自己と物の関係は、非 連続の連続の媒介者(絶対無)において相互に限定し合うことによって、「私と汝」
という性格をもつのであり、対話的なものとなる。それゆえ、自己は物を単なる対象 として見るのではなく、行為的に見る。それは自己否定的に物を見ることであり、自 己が物となり、「物となって見、物となって働く」ことである。直観と行為は(常識 的な立場においてもそうであるように)ひとつであり、見ること(直観)は働くこと
(行為)であり、働くことは見ることである。「直観といふことは形成することであ り、創造することである」32。事物の制作(ポイエーシス)とは行為的直観的に事物 を創造することである。
すなわち、無数の個物(自己)は行為的直観的に身体的行為をとおして物を形成し 創造する(芸術的活動のみならず、科学的認識もこの身体的な行為に基礎がある。社 会的実践もまた行為的直観によって成立する)。全てのものが絶対無の自覚的自己限 定である世界において、それは世界が人間をとおして自己を表現することであり、世 界自身を形成し創造することである。「我々の行為的直観の過程は逆に自己自身を限 定する世界の自覚的過程である」33 のであり、世界は行為的直観をとおして不断に自 己を限定し、自己を創造していく。人間は歴史的世界によって作られたものでありな がら、歴史的世界を作っていくのであり、歴史的現実の世界は「作られたるものから 作るものへ」と不断に発展していく形成作用的世界であり、創造的な世界である。人 間は創造的世界の創造的要素であり、「神の像」として創造的に働くのであり、歴史 的現実の世界は モナドが世界を映す表象的モナドロジーの世界(ライプニッツ)
に対比して 「創造的モナドロジーの世界」である。
〔絶対矛盾的自己同一〕このように、実在の世界(作られたるものから作るものへ と動き行く世界)は、自己同一性の根拠を自己の内部にもたず、超越的なるもの(絶 対無)を場所(媒介)として自己否定的に発展していく。それは、絶対否定を媒介と
して展開していく創造的な世界である。そこにおいては多(個物的多)は自己否定的 に全体的一であり、全体的一は自己否定的に(個物が自己否定的に自己限定すること によって)多であり、世界は多即一、一即多として自己矛盾的に発展していく(物質 的世界においては多の一であり、生物的世界においては一の多であるが、いずれの世 界も根本的には個々の多は矛盾的自己同一的に一であり、全体的一は矛盾的自己同一 的に個々の多である)。歴史的現実の世界は、絶対無を媒介として自己否定的に自己 限定することによって展開していくのであり、矛盾的に自己同一である。
個物もまた(絶対無において自己否定的に自己限定するのであり)矛盾的に自己同 一である。現在が現在を限定するここにおいて、過去と未来は絶対矛盾的に統一さ れ、見ること(直観)と働くこと(行為)は矛盾的にひとつである。「歴史的世界に 実在するものは、すべて自己矛盾的でなければならない。而して文化はかゝる実在の 自己形成から成立するのである」34。歴史的世界に存在するものは矛盾的自己同一的 に発展していくのであり、「絶対矛盾的自己同一」において自己同一性をもつ。
すなわち、歴史的現実の世界においては個物も世界も自己自身の内部に自己同一性 の根拠をもたず、(自己を超える)絶対無の場所において自己否定的に自己を限定す ることによって、自己自身を超えていくのであり、個物も世界も自己矛盾的に(自己 否定的に)自己同一である。「歴史的現実の世界は、自己矛盾的に、いつも自己自身 を中から自己自身を超えていく世界である、いつも自己自身を超える所に自己自身の 実在性を有つ世界である。自己自身を超える所に自己自身の実在性を有つと云ふこと は、それが絶対矛盾の自己同一によって成立し、絶対の他に於て自己同一を有つと云 ふことを意味する。自己自身の中に自己同一を有たないと云ふことを意味するのであ る」35。
〔継続する創造〕現代神学の三一論的創造論においても、三一の神の創造は最初の 創造において完結しないのであり、神の霊と御子(ソフィア)によって継続され る36。世界は神の霊の内部に存在するとともに、神の超越的な霊は世界に内在する。
それゆえ、被造物とその世界は自己同一性の根拠を自己の内部にもたないのであり、
内在する神の霊の働きによって未来に向けて現在を超えていく。神の像(似姿)とし ての人間は(神の霊における自己否定的な自己超越によって)創造的に世界を形成し ていくのであり、それをとおして被造物の世界は自己自身を実現する。西田の言葉で 言えば、それは絶対矛盾的自己同一的に自己自身の中から自己自身を超えていく世界 でもある。西田が論じる弁証法的世界は、(従来のキリスト教神学が看過してきた)
歴史における神の「継続する創造」の内的な論理構造を解明するとともに、被造世界 における神の像(似姿)としての人間の創造的な役割を論じているものと解すること ができる。
西田の実践哲学について論じる紙面の余裕はないが、知的自己の立場(対象論理の 立場)から現実の世界を分析・解体するのではなく、それ以前の現実を行為的自己の 立場から根源的に解明しようとする西田の絶対無の哲学は、社会倫理や文化の創造を 根本的に解明する道を切り開いている。それは特に「プラクシス(道徳的な実践)」
と「ポイエーシス(事物の製作)」が同一の原理(我と汝、行為的直観)にもとづく という西田の独自な解釈においてあらわれているが、このような立場と解釈は、現代 社会の人間の物象化と生態学危機の中における新たな倫理学や文化の創造について
(したがってまた、キリスト教実践神学の課題にとっても)貴重な示唆を与えてい る。
5.絶対者(絶対無)と人格的自己
上述のように、絶対無は自己と実在世界の根底であり、自由な人格的自己と生命活 動の成立基盤である。それゆえ、「宗教の問題は、価値の問題ではない」37 のであり、
生の根本的な事実問題、歴史的現実の世界の根底を形成する事実の問題である。
〔絶対者の内的本質(内在的三一論)〕絶対無の場所において真の個物(自由な人 格的自己)が成立するように、西田にとって絶対者(神)は自己の内部に自己を否定 するものを、すなわち他者を内包していなければならない。「自己の外に自己を否定 するもの、自己に対立するものがあるかぎり、自己は絶対ではない」のであり、「絶 対は、自己の中に、絶対的自己否定を含むものでなければならない。而して自己の中 に絶対的自己否定を含むと云ふことは、自己が絶対の無となる」ということである。
すなわち、「真の絶対とは……絶対矛盾的自己同一的でなければならない」38 のであ り、「神の絶対愛とは、神の絶対的自己否定として神に本質的なものでなければなら ない」39。それゆえ、自己の内部に自己に対立する他者(個物)を含み、絶対的な自 己否定によって他者を存在せしめる絶対無こそ、真の絶対者であり、人格的な神なの である。
現代神学の三一論もまた実体としての神概念や主体性としての神概念を克服すると ともに、神の内部の自己否定性や他者性の原理を語っている。モルトマンによれば、
三一の神は自己の内部に神の死(十字架やアウシュヴィッツ)を有しており、創造は 三一の神のケノーシス(自己制限)である。また、パネンベルクによれば、神は霊で あり(ヨハ4:24)、神の三者性は(無限の力である)霊の具体化であり、三一論(父 と子と聖霊の交わり)は神が愛(愛する者ではなく)であることを語っている40。そ の場合、御子は神の内部の他者性の原理であり、三一の神は御子によって世界を創造 するのである。
〔創造〕西田においてもノエマ的な神(対象として存在する神)や主語的な神 は すなわち、実体としての神や主観性(主体性)としての神は 真の神ではあ りえない。このような神概念によっては自由な個物(人格的自己)の成立は説明でき ない。「主語的超越的に君主的 Dominusなる神は創造神ではない。創造神は自己自身 の中に否定を含んでいなければならない。然らざれば、それは恣意的な神たるに過ぎ ない」41。
それゆえ、神の創造とは「絶対者の自己否定」であり、絶対者の自己否定的な自覚 的自己限定 絶対無が個物の内に自己を否定的に映し、自己を表現する自覚的自己 限定 である。「絶対は何処までも自己否定において自己を有つ。何処までも相対 的に、自己自身を翻す所に、真の絶対があるのである。真の全体的一は真の個物的多 において自己自身を有つ」42。それゆえ、自己と世界は絶対者の自己否定的な創造に よって成立するのであり、等根源的である。
モルトマンもまた創造が三一の神の自己限定(自己収縮)によって開始される神の ケノーシスであると説くのであり43、西田の所説とモルトマンの創造論との間には親 近性が存在するが、西田の場合、三一の神のケノーシスではなくして、(神の霊とも 言うべき)絶対無の絶対的自己否定による創造である。
パネンベルクによれば、三一の神創造は無限の力の場である霊の(神の知恵であ る)御子による形態化である。上述のように、霊は神の本質的な現実であり、無限の
「力の場」であるが、神はこの力の場から(区別と他者性の原理である)御子によっ て創造するのであり、創造は御子・ロゴスによる霊の形態化として解される44。この パネンベルクの創造解釈は三一論的な解釈としては論理的な一貫性があるが、(無限 な存在である)神と(有限な存在である)被造物の絶対的な区別と統一についてなお 不明な点が残されている45。それに対して、(限定されえない)絶対無の自己限定と いう西田の創造解釈は神と被造物の絶対的な区別と統一を明らかにする。前述のよう に、絶対無を場所としてはじめて真の個物(自由な人格的自己)が成立するのであ り、神と(御子を原型とする)被造物の区別と統一性が解明されるのである。
また、西田が説く神と世界の関係は 現代の三一論的創造論と同様に 汎神論 ではなく、万有内在神論(Panentheismus)である。神の自覚的自己限定によって、
世界は成立するのであり、創造的に自己を形成していく世界は、絶対無としての神の 内部に存在するとともに、超越的な神は世界の内に存在する。「(真の神は)何処まで も超越的であると共に内在的であり、何処までも内在的なると共に何処までも超越 的」である46。
〔宗教的関係〕この絶対無(としての絶対者)の自己限定によって成立する世界に おいては、絶対者と個物(人格的自己)は二元論的に分離・対立せず、自己否定的に
結びつく(相即する)。絶対者と個物は絶対無を根底にして相対するが、絶対者は絶 対的に自己を否定し(自己を相対化)することによって、個物に相対するのであり、
個物もまた絶対的に自己を否定することによって絶対者に対する。「神は絶対の自己 否定として、逆対応的に自己自身に対し、自己自身の中に絶対的自己否定を含む」47 のであるが、この絶対者に対する自己の関係もまた逆対応的である。「我々は自己否 定的に、逆対応的に、いつも絶対的一者に接して居る」48 のであり、「我々の自己は、
唯、死によってのみ、逆対応的に神に接する……神に繋がる」49。絶対者(神)と個 物(人格的自己)は絶対的に区別されつつ、絶対的な自己否定を介して相対し、接す るという「逆対応」の関係にある。
この場合、この絶対者に対する自己の逆対応的な関係は、自己が絶対無に向けて自 己を否定して生きる(死即生)という内在的超越において成立する。それゆえ、絶対 者に対する関係は、現実の生を超越したところに成立するのではなくして、自己の底
(絶対無)に向けての自己超越において成立する。「我々の自己が自己自身の根底に徹 して絶対者に帰すると云ふことは、此の現実を離れることではない、却って歴史的現 実の底に徹することである。絶対現在の自己限定として、何処までも歴史的個となる ことである」50。自己は存在の根底において(自己の根底に向けての内在的超越にお いて)自己否定的に絶対者に相対しているのであり、神に対する関係は「平常底」に おいて成立している。そして、道徳と文化的創造の基礎もまたこの「平常底」におけ る絶対者との関係、すなわち、「内在的超越」に存するのである。
現代神学の三一論的創造論においても、神と(御子を原型とし目標とする)被造物 の交わりは イエスにおける父と子の関係がそうであるように 聖霊を媒介にし て成立する。被造物、とりわけ人間は聖霊における自己否定的な自己超越によって三 一の神の交わり(聖霊における父と子の交わり)に与かるのであるが、この聖霊にお ける自己否定的な自己超越(逆対応の関係)は、西田によれば、自己の根底に向けて の内在的超越として解される。それによって神と人間の間に「我と汝」の人格的な交 わりや愛(アガペー)の関係が成立するのであるが、この関係は人間と人間の間にお いてのみならず、人間と自然との関係にまで敷衍される関係である。それゆえ、第二 のアダムであるキリストを原型とする新しい人間は、御子を構造的原像とする被造物 の世界を表現するのであるが、それは西田が語る「行為的直観」の世界でもある。
〔西田哲学と三一論〕このように、西田が語る(「自己自身において絶対の否定を 含む絶対矛盾的自己同一」である)絶対者はその内的本質においてのみならず、世界 関係においても、三一論的である。三一の神が自己の内部に他者性の原理(御子)を もつように、西田が説く絶対者(絶対無)もまた自己の内部に自己否定(個物)を含 んでいる。絶対者の自己否定的な自己限定としての創造もまた三一論的であり、絶対
矛盾的自己同一として展開していく世界の論理も、前述のように、三一論的創造論に おける継続する創造に対応する。絶対者と(人格的)自己の「逆対応」の関係も三一 論的な構造をもっている。また、絶対者に対する自己の逆対応的な(自己否定的な)
関係が、外部(の対象的な神)に向けての自己超越ではなくして、自己の底に向けて の(絶対無に向けての)「内在的超越」において 特に「内在的超越のキリスト」
において 成立するという西田の所説は、聖霊における父と子の三一論的な交わり を解明していると言える。
それゆえ、西田は絶対者(絶対無)と個物(人格的自己)の関係が「三位一体的」
であると考える。「絶対矛盾的自己同一として絶対現在的世界は、どこまでも自己の 中に自己を映す。自己の中に自己焦点を有つ。かかる動的焦点を中軸として、何処ま でも自己自身を形成して行く。此に父なる神と子と聖霊との三位一体的関係を見るこ とができる。かゝる世界の個物的多として、我々の自己の一々が自己自身の世界を限 定する唯一的個として、絶対的一者を表現すると共に、逆に絶対的一者の自己表現と して、一者の自己射影点となる。創造的世界の創造的要素として、創造的世界を形成 して行く」51。すなわち、絶対無(神)を根底として成立する世界は、自己否定的に 個物のなかに自己を映す(表現する)のであるが、個物もまた(絶対無を根底とし て)自己否定的に世界を限定することによって、絶対矛盾的自己同一的世界(絶対無 を根底とする世界)を映し出し、絶対的一者(神)を表現するのであり、この関係が 三一論的なのである。したがって、「我々の人格的自己は、右の如き世界の三位一体 的関係に基礎付けられていると云ふことができる」51 のである。
勿論、西田は父と子と聖霊の働きや三者の相互関係を具体的に解明しているのでは なく、彼独自の立場(絶対無の場所と内在的超越)から当時の弁証法神学の三一論を 解釈しているのであるが、西田が語る絶対者(神)の内的本質と世界関係は三一論的 な構造をもっており、現代神学の三一論や三一論的創造論と内容的に共通し、本質的 に一致するものがある。西田はイエスにおける神の自己「啓示」とその解釈から出発 したのではなく、真の自己の「自覚」から(すなわち、絶対無という極限の場所にお ける自己の究明から)実在世界の論理構造の解明に向かったのであるが、その場所の 論理は三一論的と呼ぶことのできる原理と構造を有している。
終末論的な立場に立つ現代の三一論的創造論においては被造世界の完成(神の国の 完成)は未来に求められるのであるが、西田の絶対無の哲学においては永遠の今の自 己限定は現在において(今、ここにおいて)成立しなければならないのであり、両者 の間には相違点も存在するのであるが、しかし、西田の絶対無の場所の立場と論理は
(現代神学の三一論と三一論的創造論においてもなお残存する)主観性の形而上学を 克服する道を示しており、神と世界の(絶対的に区別されつつ、ひとつである)関係
の解明に大きな示唆を与えている52。それゆえ、次稿において現代神学の三一論的創 造論について論述することにしたい。
注
1 M.Heidegger, Gesammtausgabe, Bd. 11, Frankfurt am Main, 2006, S.77.
2 Cf. J. Moltmann, Gott in der Schöpfung: ökologische Schöpfungslehre, München, 1985(沖野政弘訳『創 造における神』新教出版社).W. Pannenberg, Systematische Theologie Bd. II, Göttingen, 1991.
3 C. Westermann, Genesis 1-11, Neukirchen-Vluyn, 1974, S.90.
4 G. von Rad, Weisheit in Israel, Neukirchen-Vluyn, 1970, S.213(勝村弘也訳『イスラエルの知恵』日本 キリスト教団出版局 250頁).
5 『善の研究』(1911年)、西田幾多郎全集第1巻(岩波書店)156頁。
6 Ibid. 52頁。
7 『無の自覚的限定』(1932年)、西田幾多郎全集第6巻 17頁。
8 『一般者の自覚的体系』(1930年)、西田幾多郎全集第5巻 444頁。
9 『無の自覚的限定』(1932年)、西田幾多郎全集第6巻 73頁。
10 『一般者の自覚的体系』(1930年)、西田幾多郎全集第5巻 451頁。
10−b 『無の自覚的限定』(1932年)、西田幾多郎全集第6巻 79頁。
11 Ibid. 78頁。
12 『一般者の自覚的体系』(1930年)、西田幾多郎全集第5巻 440頁。
13 Ibid. 422頁。
14 Ibid. 451頁。
15 W. Pannenberg, ibid., S.101ff..
16 Ibid., S.47-48, S.263-264. J. Moltmann, ibid., S.26ff.(邦訳ibid.34頁以下).
17 W. Gray, Mu and Pneuma(Asian Profile, Vol. 1, No. 1, 1973, pp. 171-184)は(仏教と西田幾多郎におけ る)無と(新約聖書とパウロにおける)霊の作用的な同一性を指摘している。
18 『無の自覚的限定』(1932年)、西田幾多郎全集第6巻 149−150頁。
19 Ibid. 195頁。
20 Ibid. 197頁。
21 Ibid. 246頁。
22 Ibid. 237頁。
23 Ibid. 381頁。
24 Ibid. 391頁
25 「絶対矛盾的自己同一」(1939年)、西田幾多郎全集第9巻 210−211頁。
26 『無の自覚的限定』(1932年)、西田幾多郎全集第6巻 392頁。
27 Ibid. 238頁。
28 Ibid. 214頁。
29 「私と世界」(1933年)、西田幾多郎全集第7巻 107頁。
30 「弁証法的一般者としての世界」(1934年)、ibid. 413頁。
31 Ibid. 392頁。
32 「論理と生命」(1936年)、西田幾多郎全集第8巻 348頁。
33 「弁証法的一般者としての世界」(1934年)、西田幾多郎全集第7巻 412頁。
34 「絶対矛盾的自己同一」(1939年)、西田幾多郎全集第9巻 213頁。
35 Ibid. 45頁。
36 Cf. J. Moltmann, ibid., S.214ff.(邦訳ibid. 305頁以下).
W. Pannenberg, ibid., S.50ff..
37 「場所的論理と宗教的世界観」(1945年)、西田幾多郎全集第11巻 393頁。
38 Ibid. 397−398頁。
39 Ibid. 399頁。
40 W. Pannenberg, Systematische Theologie Bd. I, Göttingen, 1988, S.456ff..
41 「場所的論理と宗教的世界観」(1945年)、ibid. 400頁。
42 Ibid. 398頁。
43 J. Moltmann, ibid., S.98ff.(邦訳ibid. 135頁以下).
44 W. Pannenberg, Systematische Theologie Bd. II, Göttingen, 1991, S.132ff..
45 パネンベルクにおいて(そこから有限な事物が成立する)神の無限性は形而上学的な性格を残存させ ている。Cf. Th. Freyer, Zeit Kontinuität und Unterbrechung, Würzburg, 1993, S.232f., S.275f..
46 「場所的論理と宗教的世界観」(1945年)、ibid. 399頁。
47 Ibid. 398頁。
48 Ibid. 429頁。
49 Ibid. 396頁。
50 Ibid. 423−424頁。
51 Ibid. 403頁。
52 Cf.筆者の博士論文「三一論と創造論 創造論の三一論的解釈の研究 」(同志社大学、2001年)
149頁以下。