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タマン・シスワの研究(1928年〜1930年) : 組織化をめぐって [Taman Siswa : Its Organization in the Late 1920s]

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(1)

東 南 アジア研 究 16巻4号 197

・3月

治 *

TamanSi

Wa'

.I

t

sOr

gani

2

;

at

i

oni

n t

heLat

e1920s

Ke

n

j

i TsUcHIYA

*

TheTamanSiswaschoolwasfoundedin 1922byseveralyour唱 Javanescaristo -crats,most()rwhom belonged tothePakuAlam HouseofJ(将jakarta.Itstarteda

patternthatwouldbecomesigniSCanttOthenationalistmovementin Indonesia. By 1930,fifty-sevenTamanSiswabrancheswereestablishedthrough outJavaandEas tSuma-tra(Medan)・ TherapidexpansionoftheTamanSiswa,especiallyinthelatterhalfof the1920S,WasaClearmanifestationofthepervadingspiritof"kuaTu,ataTtrpeOple-ness

l

"

andnationalawakening.

However,thehori2:OntalexpansionoftheTaman Siswaschoolsintothevarious regionsofJavaand Sumatra,coupledwiththeverticalrecruitmentofteachersfrom d)'frerentsocialbackgrounds,inevitablyresultedininter-andintra-branchtensionand con8ict・ Nevertheless,theTaman Siswamovementwasregarded within nationalist circlesasitsforemost"counter・institution

,

"

notonlyagalnStthecolonialeducational structure,butingeneralasanaffronttotheDutchcolonialreglme・

ThisarticleisastudyofthecriticaljunctureoftheTamanSiswamovementin thelate1920S.Itwasa period when the Taman Siswahad todealwith conflict within itsranksIaswellastrylngtOeffectivelyimp】ementitsgoalofprovidinganin°)' g-enous nationalist counter-modelagalnSt Western educationa一institutionsand the Dutchcolonial administration.

は じ め に 1922年 に中部 ジ ャワの古都 ジ ョクジ ャカル タ 市で発足 した タマ ン ・シス ワ

タマン ・シスワ

拡 大 き,そ

文 部 (分校 )の数 は1929年 7月には ,束 ジ ャワ地 方 で17

,申

ジ ャ ワ地 方 で4,西 ジ ャワ地方 で 4,マ ドゥラ島で 1,メダ ン周辺 の スマ トラ東 海 岸地方 で 3を数 え ,そ

0

)総計 は29校 に達 して い た. そ の数 は1929年 か ら1930年 にか けて さ らに急 速 に 増 し,

* 京 裾大学 東南7 ジア研 究 tJン クー ;TheCcntcrforSoutheastAsian Studies,Kyoto Univt:rsity

(2)

東南 アジア研先 16巻 4-号

1930咋 7月 に は蘭

東 イ ン ドU)

u・損 モ休 で 53杜 (そ

U

)[

吊 iほ , スマ トラ 3, ボ ル ネ オ 3

,班

ジ ャ ワ9,申ジ ャ ワ9∴ 束 ジ ャ ワ28, マ ト ンラ鳥 1) に逢 した 。 こU)よ うな タ マ ン ・シ ス ワU)支 部 拡 大 の過程は , ジ ョ クジ ャ カル タ Ojタ マ ン ・シ ス ワ学 校 を 新 しい 文 化 運 動ujL恒 二、(セ ンタ ー ) とみ な した各 地 U)人 々 に よ --,て , そ れ ぞ れ U)l助 成で日光 帖 こ文 部 が 結 成 され る とい う

週租

で あ った. 従 -,て ,射 也

〕文

部レ

hzJ二レ)されノバま, セ ンタ ー か ら組 織 者 が 派 遣 され , セ ンタ ー U)

克U

)

志向に 措づ い て 文 部 が設 :ll/I_され る とい う U)で は な く,各 地 で 個 別 に そ れ ぞ れ 独 自

u

j運 動 が 形 成 され , それ が 各 々 タ マ ン ・シ ス ワ学 校 を 名 来 る と い う形 態 を 示 して い た。 とは い え , これ らojタ マ ン ・シ ス ワ学 校 が 各 々 ば らば らに存 在 して い た とい うわ けで は な い 。 この過 程 を 少 し く詳細 こ検 討 して み る と,各 地

U

)タ マ ン ・シ ス ワI、封 宝 は , そ れ ぞ れ の地 方 の 中 心

u

jもと に ゆ るや か な結合 性 を 示 し, それ ら

U

)

中心 が ジ ョ クジ ャ カル タ とい う全 体 の 中 心 に 向 って ゆ るや か な 結 合性 を 示 す もojで あ った . 従 って , ジ ョク ジ ャ カル タ とい うセ ンタ ー 0)も とに , ス ラバ ヤ , マ ラ ン, ジ ェ ンベ ル な ど山東 ジ ャ ワ地 方 o)サ ブ ・セ ン タ - ,バ ク ヴ ィア 及 び バ ン ドrl/ン0:)西 ジ ャ ワ地 方 ojサ ブ ・セ ン タ ー , メダ ン

U

)ス マ トラ束渥

地 方 o)サ ブ ・セ ン タ ー が 形 成 され , それ ぞ れノの サ ブ ・セ ンタ ー 0)邸 週に 幾 つ か レ〕タ マ ン ・シ ス ワ学 校 が 設 立 され る とい う形 態 を 示 して い た。1) ゆ るや か で あ る とは い え , こU)よ うな タ マ ン ・シ ス ワU)結 合 性 を 支 え て い た の は次 の二 つ の 要 素 で あ っ た。 第 --は , 1922年 に タ マ ン ・シ ス ワを 設 立 した 申 ジ ャ ワ0)バ ク ・ア ラム狛 Ij身 者 を 中 核 と す る民 族 主 義 的 な 貴 族 た ち の 問 の半 ば は 同 志 的 な , そ して 半 ば は 同 板 ・同 「

閥」

的 な 人間 関 係 の ネ ッ トワ ー クが ,各 地 ojサ ブ ・セ ンタ ー

を ゆ るや か に覆 って い た とい う こ と で あ る。 彼 らは い ず れ もブ デ ィ ・ウ トモ の 闇 係 者 で あ り, ま た , タマ ン ・シ ス ワの 前 身 に 当 た る ス ラサ ・ク リオ ン団 体 の構 成 員 で あ り, ジ ャ ワ文 化 の再 興 を イ ン ドネ シ ア民

族U

)jr・,;戒 とい う フ レー ム ワ ー クに お い て 実 現 す る こ とを め ざす と と もに , そ の た め に ,植 民 地 支 配 機構 と抵 抗 し う る カ ウ ンタ ー ・イ ンス テ ィテ ュ ー シ ョンを タマ ン ・シ ス ワ に お い て 実 現 しよ う とめ ざす 点 で , こ ころ ざ Lを -I-つ にす る者 た ち で あ -1た。2) "共 同 体 O へ の 自覚 この 当時

o

jタ マ ン ・シ ス ワ0)

合性 を 保 許 して い た も うい つ の 要 素 ほ ,各 地 で タ マ ン ・シ ス ワC/)活 動 に参 加 した 人 々 (支 部 設 立 U,)準 備 者 ,文 部 ujj雛 f;者 ,教師 ,子 弟 を タ マ ン ・シ ス ワ学 杖 へ 通学 させ た 両 親 ) が ,総 じて い え ば , 1927年 の ス カル ノ に よ る イ ン ドネ シ ア 国 民 党 刷或

:

l

r

/I.,翌年 ojジ ャカ ル タ に お け る 「百 年 の 誓 い

」U

刃采机 な ど , イ ン ドネ シ ア艮扶 U

-

)

統 ・・と回

結」て

い烏ざす 裾 ノい

'

運 U)

楊 に対 して す ぐ 1) これにつ いての詳論 は拙稿 「タマ ン ・シスワの成il.と拡大- 1922牛∼1930年を申心 と して

『東 南ア ジア

史 と文化』第8巻 (1979年刊行予定 )を参照。 2) これについての評論 は

拙稿

閥 ミ住民委Lrll会.りをめ ぐる

諸閤

題一・--支配 と抵抗の様式に閑適 して- 」 『東南 アジア研究』15喜2!,)(1977年)及び 「ジャワ知識 人の西欧認識をめ ぐ る諸 関 根 (1913年∼1922 隼 )

『東南アジア研

.官15巻 4弓・(1978年 )を参照。 5

(3)

上JS.:タマン・シス

G)研究 (1928年-1930年) れ て椿射 廟 こ反 応 した 人々で あ った とい うことで あ る

3

)

蘭髄

莱 イ ン ド」 に代る 「イ ン ドネ シ ア」, ことに, こ

U

) 「イ ン ドネ シア」 に包摂 さ召しる徹域 ・民 族 ・古語 の確 立 とそれを基礎 と し て成 _tLl_して い る と想定 され たく共 同体 >へ

0

)自覚 は ,1920年 代後半 か ら1930年 代 前 半 に か け て,鮮 烈 なく日射Ⅷ ii・神

:

-

,と して噴 出し

たO また この く時 代精 神 > は

,植

民 地支配 機構 の打 倒 とイ ン ドネ シア艮

旋u

j

独立 とい う主

と して発 露 して い た. そ

C

/)場合の

民地支 配 機 構 と は ,土地 と

働力 o)調速 によ -'て熱

農産物 と

産 物 を収奪 し 「富 の流 出」4)を 可 能 な らしめ る装 勘

ち,バ ク ヴ ィアを セ ンター とす る植 民 地官僚

制o

j

体 系 で あ った。 この よ うな植 民地 体制 に対 置 しうる と 考え られ た さま ざまな理念 ・制度 は ,そ

0

_

)

当時 の

族 主 義者 に よ って次 々 と紹 介 され 導入 され ,また ,それ らを め ぐって討 論が くりひ ろげ られ た。共 同組 合主 義 ,ス ワ ラジ ・ス ワデ シ運 動 ,イス ラム諸国 の近 代化運 動 と世 俗 国 家 (読 ), 三艮主 義,西欧 的 な議会 民 主 主 義 (請 )等 々,20世紀 以降 のオ ラ ンダの イ ン ドネ シア支 配 が そuj支配 の官僚制化 と合理 化 の過根 を通 じて ,必 然 的 に植民地 に もた らさざ るを えなか った 「情報 の阻 放

」 を通 じて ,イ ン ドネ シア0)民 族主 義者 は ,お よそ カ ウ ンター ・イ ンス テ ィテ ュー シ ョンの形成 に資 す る と

定 され たあ らゆ る理念 とHitj度 に対 して 敏感 に反応 した。 それ は ,一一・li,混沌 と して お り,また , 知識

o

)展覧 にす ぎない も

の よ うで あ ったが ,に もか かわ らず 民族 国家 の理 念 を形成 して い く うえで ,必ず 辿 らね ばな らない道程 で もあ った。 「人民主権 」 の 国家 こ

0

)過程 で提 示 され た さま ざまな理 念 が共 通 の 基盤 と して い たの ほ , 新た に形成 きれ るべ き

独立国

家が 「人 民主 権 」 (KedaulatRakyat)に 基 づ かな けれ ばな らない とす る原理で あ った。 "人艮" (Rakyat)とい う概 念 は ,当時

o

)

<

時代 精 神 >を示 す , もう一一・つ の重 要な シ ンボルで あ り,民 族主 義運 動 に 直線 性を賦与 す る原理 で あ った。5) この よ うな<

代精

神>o

j渦 中 に於 け るタマ ン ・シス ワ

C

/)役割 は特異 な もので あ った. タマ ン ・シス ワは 「人艮 の ため

U

)教育J

「艮 胤の ため の教 育

J

の樹証 を 糟糠す る教育機 闇で あ った か ら,そ こで は

,

地政

庁U

)運 営 す る教 子封矧 鳳との対 比 が常 に意 識 され ,蟻掛 内皮 人間 類型 と

的 な教 育機闇oj]・1杜念輿とが絶 えず

題 とされて い た。 ま た ,植艮

rT刷 二会の秩序 に括 抗 しうる民族

的社

会 の

秩序

頂 .PP・.

が標

椀 され た。 それ らはいず れ も,柚民 地 以

に成立 して い た又 3)これについての詳論は拙稿 「タマン ・シスワの

就 と拡大」(1979年)を参照。 4) 「富の流出」の構造とそれがジャワ社会に及ぼ した深刻な影響Hこついては,次の番がきわめて明快に解 明している。

C.Geertz,Agn'culturallnuolution:Ehcproce∫∫of ecologicalchange2',iJndone∫ia.Berkeley,1963.

5)インドネシアにおける 「人尺概念」の成立についてはさらに詳細に論ずるべきであるが,さし当り,吹 の論稿がきわめてす ぐれた冊題提起と分析を行なっている。

石陸 「サ ミン主義の研究- ジャワに於けるラヤ ット・ラディカ リズムの成立-

-

-

『東京大 学 東洋 文化研究所紀要』(1979年刊行予定) なお

石体氏は上 記の論稿を草稿の

附で筆 首の閲覧に供して下さるとともに,筆者の本稿も軍稿の段 階でいくつかの貴重なコメントを頂いたO記 して感謝を表する次第である。 5卿

(4)

東南 アジア研究 16巻4号 化を再建 ・再 興す る とい う姿勢 に貫 かれて い た。 タマ ン ・シス ワの この よ うなあ り方 は ,それ が植民地体 制 に対 置 され うるカ ウ ンター ・イ ンス テ ィテ ュー シ ョンと して の機能 を現 に果 た し つつ あ る とい うことを意 味 して いた。6)こ う して ,かつて ブデ ィ ・サ トモ に参 加 した ものの ,そ

U

)「守旧性 」 にあ きた らず にそ こか ら離脱 した 人 々 とス カル ノの イ ン ドネ シア国民 党 の主 張 に 共 鳴 した 人 々は,1920年 代

o

)後半 か ら続 々 とタマ ン ・シス ワ学校 の活 動 に参 加 して い った。 ス カル ノは<時代精

神>

の鼓吹者 で あ り,キ ・- ジ ャル ・デ ワ ン トロ

U

)タ マ ン ・シス ワはく

時代

神 > の具現者 で あ った。 こう して ,各 地 の タマ ン ・シス ワは ,創立 以来 の指導者 の人間 関係 の ネ ッ トワー クによ って ゆ るやか に覆わ れ ,また

,上

に述べ た よ うな <時代精神 >を顕在 化す る もの と して その精 神を 共 有 して い た。 本 稿 で論ず るの は , この よ うな時 代的背景 にお け るクマ ン ・シス ワ内部 の状況 に関 してで あ る。 筆者 は先 に ,タマ ン ・シス ワの設 立 を準備 した

-姉

の ジ ャワ知識 人 の成立 と彼 らの思想 に つ いて論 じ,7)また ,設 立 当時 の活 動 とその文 化 的背景 8)について論 じたo さ らに,1920年 代 に お け る各 支 部 の状 況 を検 討 す る とと もに,各地 の タマ ン ・シス ワ活動を支 えた 人 々につ いて当 時の政 治的状況 との関連 にお いて考 察 した。9)本 稿で は,1920年 代未 か ら1930牛代 初頭 にか けて の タマ ン ・シス ワ

u

j

拡人 の状況 に相 呼応 して , タマ ン ・シス ワ内部 で どの よ うな活 動 が行 われ たかを ,で きる限 り具体 的 に明 らか にす る。 組織 的な 結束 と 強 化 この時

/

t

l

j

j

c

L)タマ ン ・シス ワは ,---方 で各地

o

j文 部 が ひ き続 き設 立 されて い く 過程 と して捉 え る ことがで きるが ,他 方で は ,その拡大 に見合 う形で (1)イ ン ドネ シア民 族主 義運 動 の総 体 に対 して タマ ン ・シス ワが 自 らの存在意 義 に つ いて 自己主張 を

始 す る

期で あ り,かつ (2)タマ ン ・シス ワ内 部で の組 織 的な結 束 と強 化 が試 み られ る

時期

で もあ る。 (1汀=関 して は ,イ ン ドネ シアC,)各種 の艮

的卜

田本のゆ るやか な結 合体 で あ る 「イ ン ドネ シア民族 政 治 団体 連合協議 会」 (略称 PPPKI)に対 す るタマ ン ・シス ワ の働 きか けが注 目に

す る。(2)に関 して は,1930年 7月 に開催 され た タマ ン ・シス ワ

0

)節- 回 仝 同大会 に よ って ,そ

o

)クライマ ックスを迎 え るが , この大 会 に至 る

過程

と して1930年 1月末 か ら2月初 め にか けて マ ランで行 われ た タマ ン ・シス ワ東 ジ ャワ大会 が と くに誼要 な意義 を も つ 。紙 幅 の関係 で本 稿 で は ,第

1

-rL-.j全国入 会 に関 して は触 れ ない こと と し,PPPKIとタマ ン・ シス ワの関係 及 び タマ ン ・シス ワ東 ジ ャワ大会 の 内容 を 中心 と して ,1920

年代

末 か ら1930年代 初

にか けて の タマ ン ・シス ワ内部 の状況 を跡 づ ける こ とにす る。 6)これについての詳論は,拙稿 「タマン ・シスワの研究--- t<J]勅の活動に関する-一常酪 -・一一一

『束子羊文化 研究所紀要第62

』(1974年)及び 「ジ17ワ知識人の西欧認識」(1978年)を参照。 7)拙

稿「

『1酎 】三民委員会』をめ ぐる諸問題」(1977年 )及び 「ジャワ知識人の西欧認識」(1978年) 8)拙稿 「クマン ・シスワの研究」(1974年) 9)拙稿 「クマン ・シスワの成立と拡大」(1979年) 5

(5)

土屋 :タマ ン ・シス ワの研究 (1928年∼1930年)

その場合 の論点 は次 の通 りであ る。

第- は,(1)及び (2)の ことが らを通 じて ,タマ ン ・シスワは "人民運動 "(Pergerakan Ra・ kyat)における

らo)存在意義を どの よ うな形で再確 認 したのか とい う点 であ る. 第二 は, と くに (2)の ことが らにおいて ,タマ ン ・シス ワの組織化が,何故 ,また ,どのよ うに して ,試み られてい った

o

)か とい う点であ る. ただ し,本

稿

は筆者 U)-1 如 )タマ ン ・シス ワに

け る研究 の- 雑分を構成 す る もU)であ るか ら,本稿で記 された歴 史的車象に関す る分析 は,タマ ン ・シス ワに関わ るさ らに別の よ り広 い 諸事 象 との闇速で検 討 され るべ き点を含んでい る ことを ,あ らか じめ付記 して お きたい。 Ⅰ

タマン .シスワと

PP

PKI l 仝同大会開催 の呼 びか け 1929牛 6-7月合併 号のタマ ン ・シス ワ機 関 誌 『ワシタ』 (Wasita)は, ウォノクロモ (ス ラ バ ヤ)支部長 スデ ィヨノの起判 こな る次 のよ うな

呼 びか け

を掲載 した。

ち, 「タマ ン ・ シス ワ内部 の さまざまな状況 にかんがみ ,また,人民 Rakyatのための教育 に献身す るとい う 点で欠 けるところがあ るとい う点 にかんがみ , さ らにまた,PPPKI 入会 の決定, と りわ け民 族教 育 に関 して な され た決議 にかんがみ ,タマ ン ・シス ワに関わ ってい るわれわれ は,上 記の 状況 に しか るべ く対応 しな ければな らない。 それをめざ してわれわれが正 しい態度を とるため に,われわれ は全 イ ン ドネシア

0

)すべて

0

)

タマ ン ・シス ワか らな る入 会 (Pertemtlan Besar)を開催 しな ければな らな

い。

この大会 の重

要椎 を諸兄はひ と しく認めてい るはず である。

それゆえ,ウ ォノクロモのタマ ン ・シス ワ運営委員会並 び に教師適 合は ,諸兄 に対 して次

o

)

ような質 問を提起す る もojであ る。即 ち 『きた る断食月 (Puasa)にこの大会を開催 す ること

に同意 しませ んか』

この結論をわれわれは集約 して タマ ン ・シス ワ中央委 員会 (MadjelisBesar)に提 出 し, も

し同意が得 られれば,入会 の 日程 と開催地並び に大会 のプ ログ ラムを準備す る予定であ る

.I) この

呼 びか け

に並 んで中央委員会

o

畑iLlJiJは大略以下 の よ うな コメ ン トを付 した。即 ち (1)この種 の大会を開催 す ることの重 要性 は再 々討議 されノて お り,大会運営梨 の捻 出 さえ可能 であれは 大会を開 く用意 o)あ ること

,(

2

)

従 って各地 の タマ ン ・シス ワ会fほミその費 用を支 山 す るな ら,

本邦

として はただ ちに入会

o

)準備を開始 しうること,(3)大 会で の討議事項 は ,教育 内容 ,組織, 規則 , 運営方 式が中 心 とな ること, (4)そ

O

jための捉案 はすで に佃 戊されてい る

1)T4/asita,Vol.I,No.9-10,JuniJuli1929,p.SOL.及び IPO (IndischePersoverz.ichten),July20th, 1929,p・145・

(6)

東 南 アジア研究 16巻4号 ことが この コメ ン トの骨子 で あ った。2)併せて ,次号 の 『ワシタ

で は中央 委員会 の見 解 を掲 載す ることを予!J,'・して いた。 しか し,その次 の号 の hrlヮシタ

(1929年 8, 9月合併号 ) で は この大会 について特 に触れ た通普 ・報 吾は掲載 されず , この号を もって 『ワシタ

はひ とまず休 刊 され た. これが

刊 さ れ るレ刃ま10カ月後 の1930年 7月号 か らで この号を もって 『ワシタ

は第 2巻第 1号 とな った。 この 『ワシタ』第 2巻第 1号 は全 国大会号 と して 出版 され ,先 にスデ ィ ヨノが提起 した大会 に 闇す る特猿 を行 な って いたo この大会 が開催 され るのは ,1930年 8月 であ るか ら

,

先 のスデ ィ ヨノ提案以来約 1年 の準備 潮間がおかれ た ことにな る。 ところで スデ ィ ヨノ提案の

で述べ られて い る PPPKI入会 の決議 とは どの よ うな も

u

Jであ ったのだ ろ うか。 2 タマ ン ・シス ワ と PPPKI PPPKⅠ(イ ン ドネシア民族政治団体連合協 議会 )は1927年 12月 17, 18日にバ ン ドゥンにおい て開催 され た艮 族 諸相休 の代表者 会議 によ って成立 した.3)これ は ,各種

o

j政治 団 体 のゆ るや かな連 合体 で あ り

,

「イ ン ドネシアの統-・と団結

を掲 げ る国民党 が , そ

u

j "統 山 と用紙〝を 民 族運 動 に関与 してい る諸団体 の間 に実現 す る ことを意図 して呼 びか けた もU)であ った。民 族 全体 に関わ る諸問題 につ いて討議 し,で きれ ば それ らの諸問題 について合意を得 よ うとい うこ oj呼 びか けに応 じて PPPKIに参加 したのは , イス ラム同盟党 (PSI),ブデ ィ ・り トモ,パ ス ンダ ン (ス ンダ人 同盟 ),カ ウム ・バ タグ ィ (バ タグ ィア人 同盟 ),スマ トラ同盟 ,イ ン ドネシ ア研究会 (ス ラバ ヤ研究会 )で あ り, これ にイ ン ドネシア国民党 (PNI)を加 えた 7団体 か ら Pf'PKI

構成 されて い た。 そ こには , 地域 的 ・種族 的

格を もつ 諸団休 と, イス ラムの政治 勢

を代表 す るイス ラム同盟

(イス ラム同盟 の抜 け殻 ) と新値代 の知的エ リー トで民 族主 義 を鼓吹す る

民党 及び ス ラバ ヤ研究会 が参加 して お り,1927年 紬 土師こイ ン ドネ シ ア 共亜 党 (PKI)が崩壊 した後 の主 要な政治勢 力がすべ て 含まれて いた。 PPPKIはまた ,ジ ャカルタ,バ ン ドゥン

,

中部 ジ ャワ (ジ ョクジ ャカル タ とス ラカルタ), ス ラバ ヤな どジ ャワの各地方 の都 市 を 中心 に "統一 と団結 〝 の呼 びか けを行 な った。 それ は, PPPKIに参加 した組織 が これ らの大都 市のいずれかを活 動 の拠点 としてい たか らであ った。

PPPKI

の 第 1回 大 会 こう した111で PPPKIは第 1回大会を 1928年 8月30日か ら 9

2 日に か け て ,ス ラバ ヤで開催 した.2,000名が参 加 して行 われ た この "デ モ ンス トレ ーシ二Jン大会〝 で は,ス ト七, イスカ ッ.// ・チ…1クロ- デ ィ ス ル ヨ (Mr. 2)什'asi

l

a

,

JunトJuli1929,p.302・

3)PetrusBlumberger,J・Th

,DeNaLionalz'sEischeBelt,eging 2'nNederLaTldshJrzdic.Haarlcm :TjeenkWilレ ink良 Zoo

m

,1931,p.251.

(7)

土 崩葺:タ マ ン ・シス ソ0)研 究 (1928年-1930エH

Iskaq Tjokrohadisoerjo,闇艮党),ス カル ノ,シ ンギ (Mr・Singgih,ブデ ィ ・ウ トモ),ア リ ・ サス トロア ミジ ョヨらと並 んで ,デ ワン トロが教育問題 に関 して演説 した。4)

この大会か ら 1カ月後の 10月 には,有名 な 「青年 の誓 い」 (SumpahPemuda)が採 択 されて お り,この 「

誓い」

の中に再三用い られ る "イ ン ドネシア〝 とい う語 は,すで に本稿 の序 にお いて述べたよ うに<時代精 神>を表 明す る もの と して ,新 しい民族 ・亀城 ・言語 を表 示す るシ ンボルであ った。 この シ ンボルは,

-

-

万で

,

「オ ランダの平和」 (Pax

N

ederlandica)とそれを 支 え る 「白人の義務」(Thewhiteman'sburden)を全

(否定 す るための新 しい シ ンボル と し て掲 げ られたが ,他方で

,

」 (Pemuda) とい う語 に象徴 され る新 しい世代の拾頭 を宣言 す る もので もあ った。 ここに "新 しい偲代〝 とは ,かつてのブデ ィ ・サ トモ及びイス ラム同盟

刃骨導者

U

)世代 よ り

-

世代 (少 な くと も20年 )若 く,かつ ,イ ン ドネ シア共産党及び イス ラム 同盟の指導者 と異 な って 「モス クワか らもメ ッカか らも扶 けをか りない」t旧宅,従 って 「われ らのイ ン ドネシア」 (Indonesiayangkita punya) を共通の意識 と して分 ち もつ世代を意味 し ていた。 この快代 の旗手 はスカル ノで あ りモ- マ ッ ド ・ヤ ミンであ ったが ,こうして み ると, デ ワン トロは この 「新 しい世代」 には履 きざる者 であ った。 実 際,デ ワン トロは この PPPKI大 会 の演説者 の中で ,ただ ひ と り 「旧い世代

に属 してい た。その ことは ,デ ワン トロの率い るタマ ン ・シスワが ,この新 しい時代精神 の拾頭 に先 駆 け て その精神を現 に具現 しつつあ る もの としてみな されていた ことを示す ものであ った。 人民のための教育 さて , この PPPKI大会 の二 日目に当 た る1928年 8月31日に行 われ たデ ワン トロの教育問題 に関す る演説 の骨 子は,次の よ うな ものであ った。5) 先ず ,教育は人民 のための教育でな ければな らない として ,

1

.

民族 や国家の力 (kekuatan)は ,人民一人一人 の力の総和 にはかな らない か ら,下 か ら 教育を普及 して い くべ きで あ る。

2

.

教育 とは

親o

)世代か ら子 の世代- と継承 されてい くものであ り,子供を教 育す ることは 次 の世代を育て ることであ るか ら,人民を教育す る とは

,

先ず子供を教育す ることで ある.

3

.

会生活 にとって有 用であ るよ うな教育制度 を樹立す るために必要な ことは,その制度 が人民 の生活 と密接 にかかわ ってい るか否か に絶 えず留意す る ことであ る。

4

.

すべての国家 (staat)は利害 と見解を異 にす るさまざまな集団か ら成 り立 っ て い る か ら,調和 の とれ た 自然の続一一を達成す るための原則を打 ち克て るためには ,この相異性 に絶 え ず留意 しなけれ ばな らない。 5. 教育によ って 人は,精 神 と肉体 の独立性 を獲得 す る。

6.

独立 した 人間 とは,心 身 ともにその生活を他 人本位 でな く自分の力で支 えてい る者 の謂 4)2'bid・,p・255・

5)WasiLa,Vol.I,No.6,Mardl1929,pp・175-178・

(8)

東南 アジア研 究 16巻4号

いであ る。

7

.

教育 の 目的は,(人民 の)統一体 の一員 と して , 自立 した人間を育て ることにあ る。この 自 立 した状態 において ,彼 は絶 えず彼 自身が よ り大 きな人間社会 の一員 と して生活 してい ること を想起 しな ければな らない。そのために教育 は精神 の育成 によ り注意を払わなけれ ばな らない。 8. 教育が絶 えず留意 しておかな ければな らな い ことは,iP,L-に日jEIl(zelfstandigheid)節 自立のための教育 二 に他力 依 存 か ら

u

j離 脱 (onafhankelijkheid)第 三 に

(vrijheid,zelfbeschikking)であ る。 自 立 とは, 自分以外 の者 も

r

十二立.し てい ることを念頭 にお きつつ ,自分 自身を秩序づ けることに他 な らない。(●●●●●●●●●● 傍点 は筆者 )

9

.

この ように して人民 の生活を秩序 あ る もの とす るの に有効 な教育活動を行 な う た め に は,"統一〝 とい う言葉が次 の意味 において了解 されなけれ ばな らない.即 ち,それ はすべて こ の集団が認め,すべて に利益を もた らす統一で あ る。 それ は調和の とれ た 自然な統一である。 一つの集団の利益 の上 に成立 した り強制 によって成立 した りす る統一 や些細な点 にまで関わ る 統一を追求 して はな らない。 それ は決 して長続 き しない統一であるo 次 にデ ワン トロは民族 的な教育 について触れ ,

10. 民族教育 (Nationaa10nderwijs)こそ,民族 の社会的 ・文化的生活 に合致す る教育で あ る。子供- の教育が民族 的でな けれ ば,子供 は民族-の愛を失い, ついには民族 に敵対す る ものにな って しま うのであ る。

l

l

.

民族教育を推進す ることはわれわれの権利であ り義務 であ る。 イ ン ドネシアにあ る政府 は,オ ランダ政府であ り,彼 らは一貫 して人民 のための教育 に着手す ることに不満を抱いて き た。だか ら人民 のための教育を遂行す るのはわれわれの義務であ る。 われわれ は 自分 自身の政 府を樹立す る以前 にこの教育 に着手 しなければな らない。

1

2

.

民族教育を遂行す るに際 して能 うか ぎ り自立性 を維持す るため に,それを損 な うような 補助金を政府 は じめいかな る団体 か らも受 け入 れてはな らない。 13. これ とは逆 にわれわれを精神 的 に も肉体 的 に も何 ら束縛 しない援助な らば,誰か らの も のであれ受 け入れて良 い。 自分 に対 して好意を示す者 に対 してなおかつ 自らを堅持す るとい う ことはきわめて困難 であ るか ら,"束縛 されない〝 とい うことをあ くまで も優先すべ きであ る。 14. 補助金 な しで教育を行 な うために, 自営制度 (zelrbedruiping systeem)を 維 持 しなけ ればな らない。支援資金 (steunfonds)を得て も良いが , その寄金者 は教 育 に容曝 してはな ら ない。教師 はわずかな給料 に耐 え ,子供 は粗末 な教場で学ぶ ことに耐 えなければな らない 。 し か し,理想 的な教育 とは しば しば こうした状況で行われ るのであ る。 15. 各 々の学校 はそれぞれ支援委員会を有 していて良いが,支援団休 の統一体 (BadanPem-bantuan Umum)が設 置 され るべ きであ る。 これ によ り,経済基盤 oj弱い 学校を援助 した り新

(9)

土屋 :タマ ン ・シス ワの研究 (1928年∼1930年) た に学校 を設 立 した りす る こ とが 可能 とな る。

16. この中央 基金 (steunronds Umum)は , ま た能 力 があ って も学 費不如 意 のため に進学 で きないで い る

の ための奨 学金 と して も用 い られ るべ きで あ る。 以 仁が第 1回 PPPKI大 会 にお け るデ ワン トロの演説 の骨子 で あ った。 それ は

(

1

)

民 族 教育 を , 人民 のため

の教

育 と して 規定 し,かつ ,それを 成 人教 育で な く子 弟教 育 と考 え

(

2

)

その 日 槽 と して, l′口Lした人 間を 育て る こ とを掲 げ (3)その ため に "ひ もつ きU)補 助金〝を拒 否 す る とと もに (4)民 族教 育 の遂行 に有 用 な中央基金 を独 自に設 'llr.すべ きで あ る, とい う四点 に要約 しうる。 この 内 (1)か ら (3)まで は ,つ とにタマ ン ・シス ワが主 張 して い た こ とで あ っ た が (4)は統- 的な Ff-1央機構 を設 立 しよ うと

う主 張 を含 む もので あ り,PPPKI に対 して デ ワ ン ト ロが提示 した具体 的 な提 案 で あ った。 この (4)の主 張 は また ,ブデ ィ ・り トモの設 立 を準備 し た ワ ヒデ ィ ン ・スデ ィロブ ソ ドが,1900年 代 の初頭 以来主 張 して きた こ とが らで あ り,6)また , ブデ ィ ・ウ トモの設 立 後 もその活 動

o

)

.仁要な 内容を形 成 す る もので あ った。7)この よ う な ,輿 学 基 金 の調達 とそれ によ る奨 学生 o)習成 とい うジ ャワ貴 族の問 に,つ とに抱 懐 されて きた構想 を ,デ ワ ン トロは PPPKI とい う民族運 動 の統合 体 において 再度 主張 したので あ る。

族教育 につ いて はデ ワ ン トロに続 いて モ- マデ ィヤ学 校 の代表 が演説 を行 ない ,デ ワ ン ト ロの 教育理念 が イス ラム到来 以前 の教 育 理念 に基礎 を おいて い る点8)を批判 した。 モ- マデ ィ アは1920年 代半 ば よ り教 育活 動 に も着手 し,宗教学 校 以外 に も各種 の "西 欧 式学校 〝 を設 立 し て い た。 それ は 叶1ジ ャワの都 市部 (こ とにジ ョクジ ャカル タ ,ス ラカル タ,ペ カ ロ ンガ ンの三

市 )で大 きな成果 を あげて い た。9)

6)NagazumiAkira,TheDawnof IndonesianNalionali∫m,TheEarly Ycar∫of BudsULomo,1908-7918.

Tokyo,1972,pp・26-65・ 7)ibid.,pp・90-92・ 8)この点に関 しては,拙稿 「タマン ・シスワの研究」(1973年)を参照。しか し,モ-マディヤが主張する ように,タマン ・シスワが もっぱ ら 「イスラム到来以前の」教育理念をモデルに したというのは妥当性 を欠 くものである。例えば,デワントロは,プサ ントレンを高 く評価 しているか らである。 9)この間の事情については次に詳 しい。

Alfian,IslamicModcrTn'zalioninIndonesianPolitics:TheMuhammad2j'ah MoucmentDuring The Dutch ColonialPeriod(1912-1942),Ph.D・Dissertation,WisconsinUniversity,1969,pp.300-320.

アルフイアンの上記の論文か ら伺えることは,モハマディヤがタマン ・シスワより10年以上 も早 く1911 年に設立されたのにもかかわ らず,それが "西欧式学校〝と称する世俗教育に着手するのは,タマン ・ シスワの設立以降であるということである。この種の教育に関 しては,モ-マデ ィヤはタマン ・シスワ 学校の成功に刺激されて活動を始めたと考え られる。第二に,モ-マディヤ学校が設立されたのは,ち っぱ ら中ジャワの大都

市であって,東ジャワへの浸透はほとんどみ られなかった。この点は,タマン ・ シスワが東ジャワ地方でもっとも多 くの支部を設立させたことと比 して,著 しく対照的である。この間 の事情は,束ジャワ地方が,モ-マディヤと対抗するイスラム団体であるナフグ トゥル ・ウラマの根拠 地であったという点を抜 きにしては考え られない。ナフグ トゥル ・ウラマはイスラム正統派を 自称する 団体であって,プサ ントレンを基盤とするキヤイやウラマの連合体であり,ジ1・ワの文化に対 して確固 たる自信を有 していた。おそらくこの点において,クマン ・シスワとナフグ トゥル ・ウラマとの間には, 共珪関係が成立 していたのであろう。一方 ,モ-マディヤがジョクジャカルタのクラ トン (王宮)に連 なるカウマンをその発祥としているのに対 し,タマン ・シスワが現存のクラ トン文化を否定する方向性 を有 していたことも,ナフグ トゥル ・ウラマの反中ジャワ

反マクラム王朝文化的性格と共鳴 し合 うも のであったと思われる。 535

(10)

「民族教育委鼻会」 の 設 立 城 南 ア ジ ア研 究 16番 4 〉 3-しか し, PPPKI 大 会では, デ ワン トロ0)提案 に沿 って教育問題を検 討す る委員会を設置す ること,その委員会が民族教育を 具体化す るプ ログ ラムを作成す る ことを決議 した。10J

こ0)委員会 は 「民族教育委員 会」(Komi siPengadjaranKebangsaan)と名付 け られ 8月31日 に発足 した。委員会 は ,国民党 の シ ンギ (Mr・Singgih) とスユディ (Mr・Soejoedi), イス ラ

ム同盟党 のスキマ ン医師 (I)r.Soekiman)の三名の委員 と,ア リ ・サス トロア ミジ ョヨ及びデ ワン トロの二名の顧 問か らな って いた。 この内,スキマ ンを除 く四名 はいずれ もタマ ン ・シス ワ関係者であ り, しか も,その内スエデ ィ以外 の三名は, 当時 のタマ ン ・シス ワ中央委員会 に 名を連ねていたか ら, PPPKI の教育問題委員会 は, タマ ン ・シス ワの教育理念 を民族的な レ ベルで表 明す る場所 にはかな らなか った とい うことがで きる。"沈黙の八年間〝 とい う発 足 当 時 のタマ ン ・シス ワの 自己規定 に もかかわ らず ,1920年代後半 のイ ン ドネシアの政治運動の状 況 は,タマ ン ・シス ワの立場を当然 の ことなが らその中核 のひ とつ に据 え ることにな ったので あ る。 植民地 的教育 に括抗 しうる教育を民族主義的精神 に基づいて樹立 し,これを拡大 してい こう とす る意図を ,デ ワン トロは早 くか ら抱いていたよ うであ る。 た しか に1920年代を通 じて タマ ン ・シス ワは大 々的な宣 伝 は 行 わなか ったが,個 々の指導者 との接触を通 じて民族教育の理 念 について合意を得 ,かつ ,この理念 に基づいて統一一的な教育機

樹正

しよ うとす る試みを デ ワン トロ白身は何度 か行な って いた。彼 自身の述懐 によれば,彼 はタマ ン ・シス ワを設立す る前年 の1921年 に,すで にブデ ィ ・サ トモのス トポ ・ウォノボ ヨ,イス ラム同盟のスル ヨプ ラ ノ トに対 して民族教育 の統一 ,具体 的 には,民 族

図書

館の設立を試みた とい う。 この試みは成 果 をあげなか ったが ,デ ワン トロは タマ ン ・シス ワ設:;[.後 も,モ-マデ ィヤのスモウィデ ィグ ド医師 (Dr.Soemowidigdo)とジ ョヨスギ ト(Djojosoegito), また,人艮同 盟U)ダル ソノ (Dar

-sono), さ らにまた イス ラム同盟覚 の指導 者 とU)日射こ,艮族教育 の雑 -・に関 して 協 議 し て い た。11)従 って民族教育 に関 して 協議 す る場が ,PPPKIの設立 によって準備 され た ことは,デ ワ

ン トロ以下 のタマ ン ・シス ワ指導者 に とって ま ことに歓迎すべ きことであ った。

民族教育 センター 艮 族教育委 Ell会 は,1929年 3月 3tは 3月2車 用二工 二回 にわた って ,ジ ョ

クジ ャカル タのタマ ン ・シス ワ本 邦で会合を開 き

,

艮 族教 育を実現す る

ための貝体案を 協議 した。12)その結果 ,PPPKI の諮 問委

n

会 (MadjelisPcrtimbangan) に対

して次 の三項 目よ り成 る意 見雷を 3J127日に捉 LLl‖ノた。 こ

0

)

案の昭 一I右 PPPKI が民 仮数 10)P.Blumberger,oP・cit・,p・2551

ll)WG∫iEa,Vol.1,No.6,March1929,pp・173-174・

12)Was2'la,Vol.1,No・7,April1929,p・212・ 536

(11)

土崩 :タマ ン ・シス ソCL)研究 (1928年-1930年)

啓セ ンタ- (CPN;ConcentratiePengadjaran Nasional)を

設L

F

t

I

/.1

:

すべ きであ ること,

一二 は PPPKIが教育基 金 (Onderwijsfonds)を投_ィT_して ,その運営を民族教腎セ ンター (CPN) に 委ね るべ きこと,第三は PPPKIが Ill等 レベ ルU)民 族的教育機 閲を 早急 に設Irl.す るよ うに考慮 すべ きであ ること,とい う も

U

)であ り,それぞれの捉案 に意見帯 が添 え られ た。 この意見古 は スエデ ィ,スキマ ン,シ ンギC/.)連名で提 出され た。13) こWljlJ,CPN を設jll.す るとい うアイデ アは先 の PPPKI 大会 におけるデ ワン トロの演説を 具体 化す る もの として捉案 された。 こcDJ浅見晋 によれば CPN はマタラム (ジ ョクジ ャ カル タ) に設ー)I(.され るべ きこと,その任務 は民族的学校を設立 し,教育基金を設 置 し,教育 の運用 に必要な:教科晋 や カ リキ ュラムを作成 しその他有 fIHな措置を溝ず るべ き も

a

)であ ること,別に 定 めた民族教育 に関す る頂親を認め る者 は誰で も CPN a)会 最 となれ ること,な どが唱われて いた 。14) PPPKIは,1928年 か ら29年 にか けて ,バ ン ドゥン (1928年 12月16日及び12月25日∼ 26日), ジ ョクジャカル タ(1929年 3月29r:1- SOP), ジャカルタ(1929年 8月 1日∼ 4日及び 9月 l日) な どで各種 の班会 と代表者会議

を開

催 し,艮 朕が

当面

す る諸問題 (政治活動 の制限 条 項 の 撤 廃 ,経済状況

U

)改革 ,共同組 合運動

u

j推進等 )について協議 していた15)が ,これ らの諸集会 を 集約す る もの と して ,1929年 12月25日か ら27Hにか けて ス ラカルタで第 2回大会を開催 した。 民族教育 の問題 も黍要 な議題の -- )として取 り上げ られた.16)そ して ,そoj大会で ,先 の民族教 育委 員会 の三提案が採択 され ,艮朕教育 セ ンター(CPN)の設立 と教育 基金 oj設置 とが PPPKI によ って正式 に認め られた

)であ った。17) 先 に述べ た ウ ォノクロモ文 部の呼びか け とそれ に対す るタマ ン ・シス ワ中央委員 会 の 回 答 は, こ0)よ うな民族運動 の流れの中で現れて きた ものであ り, ことにそ こで述べ ら れ て い る PPPKIa)動 きとは このよ うな状況を示 していたo タマ ン ・シス ワは PPPKI を通 じて教育運 動の主導性 を確実 に掌握 しつつあ ったのであ る。 内部の対立 と分裂 しか し, PPPKI は, ス カル ノらoj新 しい リーダーの出現 と艮 族意識 の 急激 な昂湯 によって1 1-,㌔J=的 に

0

)み存在 し得 た連合体 にす ぎ な か っ た0 1929年末 にスカル ノをは じめ とす る国民党 の指導者 が逮捕 され るとともに,既 に PPPKIの内 部に存在 していた各組織間 o)相違 は次第 に不協和音 を立て るよ うにな った。18)そa)主 要 な対 立 13)Wyasita,ibid.,1929,p.208.

14)Wasila,Vol.I,No.7,April1929,p.211.

15)P.Blumberger,op.cit.,p.258,p.26l・ 16)ibld・,p・267.

17)ibid・,p・269・

18)この間のき附ltiを

事者の立場から鮮明に浮き彫りにさせたものとして次の省があるo

Soekiman,ApakahP.p.p.K.I.daPatditcroeskan? No17-CoBJ・eraEieasau CobやcraLie? NalionaLisme,Isla・ mlsme,In/emaEion〝llJmC.Jakar1.i (?),1931.

(12)

東南 ア ジ ア研 究 16巻4号

はイス ラム勢力 と非 イス ラム的

勢力U

)

闘 ,また

,抽

民地政庁 に対 して <非 協

力>

(non・coOpc -ratie)の立場を とる勢 力 と<協

力>

(cooperatie)の立場を とる勢力 との間 に存在 していた。 こ れ らの諸 勢 力 は

そ う してお りい ったん対立 が露わ にな ると再度適 合す ることは

難であっ たO例 えば国艮党 は非 イス ラム的で<非協力>を掲 げ,イス ラム同盟党 はイス ラムの立場 に立 つ<非協力>政党であ った。一方 ,ス トモ

0

)率 い るス ラバ ヤ研究会 (これは1920年 代未 には政 党 として機能す るに至 っていた)は非 イス ラム的で<協力

>o

jl

r

/」易を とっていた。 このよ うな PPPKIの構 成団体間 の対立 よ りもさ らに深刻 な対立が ,ス カル ノらが 逮捕 された以 後の国艮 党 の内部で月別台していた。 それ は1930年 中には公然化 し,31年末 には国民党 は,スカル ノ-サ ル トノ派 の イ ン ドネシア党 (Partindo)と,シ ャフ リル -- ッタ派 の民族教育協会(PNトBaru) とに分裂す るに至 った。19)このよ うな過程を通 じて PPPKIの活動 はます ます有名 無 実 な も

o

)

とな ってい った。 このよ うな対立 と分裂 は,この時期 に,党則 と綱領を備 えた政党が続 々と誕生 しつつあ った ことを反映 していた。 「イ ン ドネシア民族 の統一一と団結

とい う時代

神は, それを貝現すべ き個 々の政党 の レベル において は,組織

o

j累密化 ,党 の方針

o

j明確化 とい う点で各 々の凝災性 を強める ことによって

,

自他を弁別す るとい う逆 の方 向で作用す ることにな った

u

jである。 このよ うな状況 は,タマ ン ・シス ワ自体 に も当然反映 したはずであ る。 1929年末 か ら1930年 の半 ばにか けて タマ ン ・シス ワは機 関誌の発行を停止.して い るため,この

f

I

E

7

l

a

)

情は詳 らかで はないが,先 に述べ たよ うな タマ ン ・シス ワのゆ るやかな結合性 に代えて ,タマ ン ・シス ワ自 体 の組織 的体裁を とと

o

jえ, もって その内部 的結束をかためる必 要は,時 とともに強ま りつつ あ った。 こうして タマ ン ・シス ワは,PPPKIu)二度 の大会で明示 した艮族教育

主 要な推進 団体 として の機能を維持 しつつ ,そ こで提示 した<統一性

>o

)理念を ,先ず タマ ン ・シス ワ

C

J

_

)

内部 自体で制度 的 に実現 してい くことにな るのである。 ⅠⅠ タマン ・シス ワ東ジ ャワ会議 1 タマ ン ・シス ワ全国大会開催 の通告 1930年 7月1日廿で ,タマ ン ・シス ワの最高会議 (MadjelisLuhur,元の中央委員 会が1923 年以降改名 された もの)は,タマ ン ・シス ワ全国大会を開催す ることを ,各地 のタマ ン ・シス

ワ運営委員会 (Instituut)及び教 師連合会 (Schoolraad)に対 して通 告 した. この通 空]'-は穀高 会議書記局長デ ワン トロの名で発表 され たが ,それ によれば ,入会 は1930年8月611か ら8月

13日迄 の 8

問にわた -〕て ジ ョクジャカルタで開催 され ること,大会 U)し

!.と討

車現及び最 高会議 の提案 (これ らは この通 告 に続 いて明記 されてい る)について各支部 ごとにあ らか じめ

19)国民党の分裂とスカルノ派対-ッタ派の対立に関しては,拙稿 「スカルノと-ッタの論争

『東南アジ

(13)

摘 ;:タマ ン ・シスソの研究 (1928咋∼1930年) 討論 し支部 ごと

G

/)態鹿を決めた うえで入会 に臨むべ きこと,ただ しもし運営委員 と教師の間で 見解 が異 な るな ら各 々の見解を大会で表 明す ることは許 され ること,大会 にはで きる限 り多数

u

Jタマ ン ・シス ワ会員が出席 し,タマ ン ・シス ワが一つの組織 として そ の 存 在 を 一 般 社 会 (dunialuar) に主張 しうるよ う協力すべ きこと, そ して タマ ン ・シス ワ会 員とは, タマ ン ・ シス ワ学校 の指導者 (運営委

員)

・教師 ・父兄を意 味 す る ものであ るこ と が 明 ら か に さ れ た。1) なお この他 に大会運営 の規程 として ,大会参加費 は各支部が負担す ること,大会期間 中の食 事 と宿泊施設 は ジ ョクジャカルタ本部が用意す ること,正式の委任状を持 つ者 にのみ代理 の出 席が認 め られ ることが定 め られた。2) このよ うな大会開催 に関す る手続 き的な通告 につづいて ,最高会議 は長大な提案 書 を 掲 げ た。 この提案書 は,(1)大会 の趣 旨(2)タマ ン ・シス ワの

則 (3)東 ジャワ (マ ラン)大会 の 報告 (4)最高会議作成の議案書 か らな っていた。 先ず大会の趣 旨として大 略次 のよ うに述べ られて いた。① タマ ン ・シス ワは現在53の学 校 を擁す る迄 に発 展 した。最近だ けで も数十名 もの人 々が 自 らを犠牲 に して タマ ン ・シス ワ学校 の運営 に参加 し同 じ くまた数十名 もの人 々が タマ ン ・シス ワ学校 の教師 とな ることを志願 し, 数千 名 もの父兄がその子弟 を タマ ン ・シス ワ学校へ通学 させて い る。 この よ うな時 にタマ ン ・ シス ワの関係者 が一 同 に会す ることは きわめて意義 のあ る重要 な ことであ る ④ しか し, この 中にはタマ ン ・シス ワの意 図 と目的を まだ十分 に理解 していない者 も多い。従 って きた るべ き 大会 は,われわれU)理想 とす るところを先ず タマ ン ・シス ワ関係者 にお しひろめ,次 いで ,氏 族教育 に関心を もつすべて

U

〕人 々に対 してわれわれ

U

)理想を表 明す る場 として設定 され なけれ ばな らない ③ それ とともにこの大会で ,われわれ はタマ ン ・シスワ自体 の浄化を図 り,自 ら の誤 りを

し, さ らに前進す るための新 しい遺す じを兄 い出 さなければな らない。3) 趣意

は以上三点 にわた って この大会 の意義を明 らか にす る とともに,それを成功裡 に導 く ため に (イ)タマ ン ・シス ワ

0

)原

(ロ)大会で議題 とされ るよ うな諸問題を協議 した東 ジ ャ ワ大 会

o

)報告 (-)最高会議

u

j議案 責二を掲示 して , これ らが各支 部での討論史料 として用い ら れ るべ きことを要請 していた。 この趣意 達吉二で述べ られて い る項 目の うち ④ と ③ は具体 的 に どの ような状況を意味 していた

a

)で あろ うか。 その実態 について知 られてい るところは少 ないが ,少 な くと も次 の二点 が問題 とな っていた と考 え られ る。第-」まタマ ン ・シス ワの活動 の

域が拡大す る一方で さまざまな 摩擦 や対立 が生ず るとと もに,タマ ン ・シス ワに閲 してな され る論評 のい くつかがタマ ン ・シ

1)WasiEa,Vol.2,No.I,July1930,pp.1-3. 2)Wasila,ibid.,pp.5-6.

3)ll;asita,ibid

,pp.

70

.

(14)

東南 アジア研究 16巻 4号 ス ワ中央 によ って反 論 され るべ き もU)とみな されて きた とい うことで あ るO摩擦 な い し対 正 は タマ ン ・シス ワ学校 の 内部で生ず る場合 もあ った。例 えば ス ラウィ文 部で は 1924年か ら1929年 にか けて 内紛 によ って教刷や/i徒 が

一時断

放減 した ことが 伝え られて い る。4)1929年 4月 に は タマ ン ・シス ワが

U

)ため

植艮

地政 庁 が行 な って い る宝 くじレ)販;jirを

請i

L_'Lうつ もりで あ る とい う報 道 が行 われ て か ら取 り消 され る とい う出来事 が あ り,5)同 じ年 U)7月 に は ,アデ ィ ・//ル マ学 校

の1:

_宰者 で あ った スル ヨプ ラノ ト (デ ワ ン トロC/刃亡)が発 行 して い た 『オ ボール』 ;'('

P

LL

二で デ ワ ン トロを批 判す る記事 が掲 載 され , これ に対 して タマ ン ・シス ワ側が反 論す る とい う出来事 が あ った。6)そ uj当時 , こ

U

)アデ ィ ・ダ ルマ学 校 は イス ラム同 盟 党 の議 長で あ るスキ マ ンが運 営 して い た。 1930年 5月 にはデ ワン トロが タマ ン ・シス ワU

)

指導者 の地位 を退 いて ス ダ ル ミンクが これ に代 る とい うニ ュース も流された。7)これ らは ,何 れ もタマ ン ・シス ワ とそ れ 以外 との問 に焦 じた摩擦

や誤

裾 で あ ったが ,それ はいず れ も PPPKIが成立 し民 族 的教 育

u

j

樹 立 が唱導 されて い る

o

jと同 じ時 期 にその PPPKIの 内部で圧 じて い た

C

/)で ある 。

-

jJ-,こ0)日

用l

に タマ ン ・シス ワ内部で の問 題 と して

,教

師 と

/

L

L

/

i

:

.

徒 とU_)"不純 な交

〝 も お きて

た。 その ため 1930年 3

には 二名 の教 師 と-一名の

女出

走が タマ ン ・シス ワか ら追放 さ れ たが , この事 件 は タマ ン ・シス ワが敬 度 な イス ラム教徒 の社 会で あ るイ ン ドネ シア に "西 欧 的 な 自由な交 際〝 とい う理念を もち こんで きたか らこそ発 牡 した もa)で あ る と して ,モ- マデ ィヤか ら厳 し く批 判 され た。8) これ らは ,一 見些 細 な ことで は あ ったが , これ らの事 象 を通 じて タマ ン ・シス ワの 中央 は , 統一 的な規 約 によ って そ

0

)組 織 を強 化すべ き時 機 が到来 して い る と判 断 したので あ 7)う. 政 治運動 の規 定 第二 の点 は , もっ と基 本的 な問題 で あ った。 それ は ,タマ ン ・シス ワ と政 治運動 の関係 を ど

o

)よ うに規定 す るか とい う問題 で あ る。 こ

0

)点 につ いて は後 に詳論 す るが ,従 来 の タマ ン ・シス ワは自らを教育運 動 で あ る と規定 し,政党 団体 か らは 一 線 を

す る とい う姿勢 を公 式 には とって い た。 しか し,既 に述べ た よ うにタマ ン ・シス ワは ブデ ィ ・ウ トモ と

民 党 を結 ぶ重 要 な水路 をな し,事実 , タマ ン ・シス ワの指導者 の 多 くは , ブデ ィ ・サ トモない し国民党 の党 員 (しば しば指導 的立場 に克 つ党 員 ) で あ った。9)彼 らは「個 人 の資格 において」 政 治活動 を行 な う もの とされ ,従 って 「学校 内 に政 治活動 を待 ち 込 ま な い」 こととされ たが

,

植民地 政庁 は タマ ン ・シス ワの果 た して い る政 治 的役割 に次 第 に危 機感 を抱 くよ うにな って い た。 国民党 が結 成 され ,PPPKIが設 立 され た20年代 の後半 か らそ の 危

4)Wa"ltL7,Vol・2,No・6,March 1929,pp・196-197・

5)I.P.0.1929,p.81,320,356.(Sinbo,Aprilllth;PcTldalE,a,February19th)

6)I.P.0.1929,p.42.(Djang

c

t,July4th) 7)I.P.0.1930,p.393.(Sinpo,May22nd)

8)I・P・0・1930,p・408(SedioTomo,March llth),p・32(Bintang Mataram,Mar.ch 2lst),pp・85-86 (SuaraM uhammadiyah,March21st).この事件は,あるタマン ・シスワ文部 が,Excursionを行なった

際,教師と

牡徒が無断外泊したという事件であった。

9)この点に関する詳論は拙稿 「タマン ・シスワの成立と拡大」(1979年)を参照。 540

(15)

土 鮮 :タマ ン ・シス ソの研究 (1928年-1930隼)

恨U

)念 は ます ます助長 され て い った. そ して1932隼以降 政 庁 とタマ ン ・シ ス ワ

u

)射止は決定 的 にな 一一て い くU)で あ るが , そU)際

,

鶴 こ問題

の焦

点 とな ったU,)はプ リア ンガ ン (バ ン ドゥ ン一一一 甘)U)タマ ン ・シ ス ワ引 立で あ った。 そ班 別 JO十・一・つ は ,バ ン ド,・)ンU)タ マ ン ・シス ワ学 校の 前身 が人艮

剛 ,

jtI_損 押 目二な る判 Jiiで あ った とい

;

)

点 にあ り,政 府 は1923牛、''両--か らバ ン ドゥ ン U)学 校U)i-・伸 」に対 して こ と さ ら敏感 で あ った.10) そ して バ ン ドrL7ン友部は,1930年 初 め には タマ ン ・シ ス ワ と政 治活 動

I.日Fm,ま た ,タマ ン・ シス ワ と植民 地椎力を め ぐる臣闇

JJ.(:-証・撞 な して い た。先ず1930年 2川 こほ ,バ ン ド,:)ン

0

)父

兄 が , タマ ン ・シ ス ワ

守校

は教

U)場 と して もは や機 能 してい ない とい う批 判 o)声を あ

た。 理由 は'ij'5--一・に教師 U)数 が 不足 して い る こ と,第 二にバ ン ド・.,ンuJタマ ン ・シ ス ワ学 校U)E関係者 が困艮 党

所 屈 して お り,そU)た め , タ マ ン ・シ ス ワは国艮 党 U)支 部U)ご とき様 相 を 呈 して い る こ と, とい う もレ)で あ った。 これ に対 して 教師 側 は タマ ン ・シ ス ワ学 校 は 卜分な 教価 を

し て い る こ と, クマ ン ・シス ワ 自体 はい か な る川休 に も所 属 して い 畑 、こ と, 上 して反論 した。 この判持,バ ン ドTl′ンの タマ ン ・シ ス ワ学 校 を主 宰 して い た 刷 まス ケ ミで あ 一万二が ,彼 は

l

l

ヨ民 党 創 設 以来 U)メンバ ー と して 活 動 を続 けて い た。 こレ〕学 校 o)開設 には ス カル ノ自身 も闇係 して お り, ス カル ノ, スケ ミな どの影轡 は他 C/)教師や運 営 委 員会 の 間 に

く浸 透 して い た。先 の父 兄に よ る批 判 は ,そ

U

)た め に教

が な お ざ りに され て い る とい う趣 旨

U

)もの で あ -,た。 教 師 の 逮 捕事 件 こ

U

)よ うな タマ ン ・シ ス ワ内郡 で の対 立にひ き続 いて ,2月未 には植民 地 政

がバ ン ドゥン

0

)タマ ン ・シ ス ワJ、封 如 )教

師三′

名を逮 捕 しそ の後教

と して の活 動 を禁直す る決 定 を下 した。 この決定 は

西

ジ ャ ワ・)廿長官の名で1930年 3月 初 め に行 わ れ た。"彼 らは国艮

目 と して 学 校 で政 党 .活動 を行 な った〝とい うの が こ

C

/)決定 の理 由 と され た が , これ は明らか に前年

末レ

)ス カル ノ らの逮 捕 と関連 した も

U

)で あ った。11)そ もそ も, タマ ン・ シス ワ学 校 の よ うに政 庁か ら

u

j補 助 金 を受 けな い学 校 に対 して ,政 庁 は教 育 内容 を 調 査 す る こ とは で きて も,学 枚 開設

o

)許 可権 ,教

TLの免 許賦与 権 な どは

して お らず ,従 って , これ らの 「補 助 金 支給 対 象外 の私 学 校」 (betnieトgesubsidieerd onderwijs) は ,そ の開 設 ・教 師 の 調 達 ・教 科 内容 ・施 設 な どす べ て 放 任 されて い た。 これ らoj学 校 は

"

放 しo)学 校〝 (wildesc

h-olen) と別称 され たが ,それ は , 政 庁 が 関知 しな い "程度 ujイ射 、

私 立 学 校 とい う意味 を 含 ん で い た。 こU力∴i、に-)いて は ,別 に,「私 学 校 条 令」 の項 で 別 U)機 会 に群 論す るが ,いず れ に せ よバ ン ドTLJンU)タマ ン ・シ ス ワ学 校 レ)教師 が植 艮 地 社会 oj "秩序 と安 寧〝 (ordeen rust)を脅 か し畑 I)えを も-,て 逮 捕 され た こ とは , タマ ン ・シ ス ワ申央 に と -〕て ,政 治運 動 及 び植 民地 粧 10)バ ンドゥンのタマン ・シスワ学校の成立の背景には,タン ・マラカが1921年にスマランで開校 したいわ ゆる 「タン ・マラか学校」の存在があったOこの 「タン ・マラが 封

,

k

」に関する周到な論稿として次の 未発表論文があるO 押川典昭 「タン ・マラカの思想 と行動一-1896年∼1922年- -」東京 (1974年 J ll)I.P.0.1930,pp.395-396・ (PcrSatuanlndone∫ia,March lo叶 ) 54I

(16)

東南 ア ジ ア研 究 16巻4号

力 とo)闘 っりにつ いて ,あ らた み′)て

りU)1T佃 ・_と態 度uj表 明を迫 る もU)で あ っ たo と く に ,

1922年 の創 設 以来 , タマ ン ・シ ス ワは "秩序 と安 寧〝 (tertib dan dalmai;tat●●a tentrem)の社

会 を実現 す る こ とを そU)Jii・高 U)l冊 と して掲 げて きた。12)タマ ン ・シス ワが柚 民地 推 力 とU)

係 を考 慮 す る こ とは, 柚 民地 政 桐 )"orde cn rust〝と クマ ン ・シス ワレ) "tata tentremnを それ を成 立 させ て い る理念uj

.

泉 にまで遡 行 して突 き合わ せ て み る こ とに他 な らな か った。 こ の こ とは換 言 す れ ば , タマ ン ・シ ス ワが , オ ラ ンダ柚艮 地 榊 ;-1jの別表現 で あ る Beambtenstaat

a)"ordc en rust〝 13)と括 杭 しうる "tata tentrem〝を タマ ン ・シス ワの その 軸 邪で理念 化 し, かプ 実体 化 す る とい う こ とを意味 して い た。

こ う して み る と,

に第 ・∴r.・止 して 述 べ た支 部 内で 0-)内紛 を克

し, 外 部 の批 判 と対 応 し内 部 の規律 を 強化 す る とい う,JiL'旨 と,第

と して 述 べ た政 治運 動 及 び

民 地

椎力

o

)関係 を明

確 にす る とい う趣 旨とは ,糾 .i,タ マ ン ・シス ワが それ 自身U)"tat●●atemtrem〝を理 念 榔 こま た 現実 的 に ど

u

jよ うに構築 す るか とい う点 で結 節 しこ

U

j.r∴‖

結 して い くこ とにな る。 タ マ ン . シス ワ全国 大 会開催uj通碧の要点 は ま さに こUjJ封 こ存 して い たU)で あ る。

2

束 ジ ャワ会議 1929年 7月 にスデ ィ ヨ ノ ・ジ ョヨプ ライ ッ トノが主 宰 す る ウ ォ ノ クロモ文 部 が タマ ン ・シス ワ全

大会 を呼 び か けて か ら, 1930年 7月 に最 高会議 が正式 に こ0)大 会 の開催 を

通/

L

t

J

-

・す るまで U)1年 間 は ,今 まで述 べ て きた よ うな PPPKIo)ス ラカル タ大 会 ,ス カル ノ らの逮 捕 とPPPKI

a

)内部対 _-Il'.の顕 在 化 , タマ ン ・シ ス ワを め ぐる諸事 件 oj発生 な ど,民 族 主義運 動 とタマ ン ・シ ス ワの 内外 で い くつ か の重 要 な変 動 が

起 した時期で あ った。 そ して , タマ ン ・シス ワ全 国大 会 の開催 との関連 で い え ば , もっ と も卦 要な Jil.来制 まタマ ン ・シ ス ワの東 ジ ャワ会 議 が 開 かれ て , タマ ン ・シス ワの 当 面す る諸 問題 とタマ ン ・シス ワの存 在 理 由 につ いて 詳細 な討 論 が行 わ れ た こ とで あ った。

の開催 通告 の 中で もこの東 ジ ャワ会議 は こ とに重 視 され ,そ の報 告 は全 国大 会 の議 案書 ない し討 論 質料 の一 部 を構 成す る もの と して発 表 され て い た。14)以下 に この大 会 の討 論 の 内容 を 追 って み る こ とにす る。 (イ)束 ジ ャ ワ会 議 の議 題

タ マ ン ・シ ス ワ東 ジ ャ ワ会 議 (ConferentieTamanLjiswaDjawa-Timoer)は,1930年 1月29

日か ら 2

1日にか けて マ ラ ンで 開催 され た。 こ

C

/)会議 は マ ラ ン直ジ ャガ ラ ン地 区

U

)タマ ン ・ シ ス ワ学 校 を 会場 と し,当時 束 ジ ャワ地

に設 立 され て い た タマ ン ・シ ス ワ学

校o

)う らゲ ン

12)詳論は

,

拙稿 「タマ ン ・シスワの研究」 (1973年 )及び 「タマ ン ・シスワの成 立と拡大」(1979年)を参

照。

13)Beambtenstaat(行政国家)という概念 とそ の 内 容 に 関 しては次を参照o H.A.Sutherland,PangTeh Pradja:Jaua'∫IndigeneousAdmim'∫lrat2'VCCorj,sandIt∫Rolein lhcLa∫tDecadeofDutchColoTH'alRtLle

,

Ph.I).Dissertation,YaleUniverslty,1973,pp・173--285・ Ill)WaSilG,Vol.2,No・1,July 1930,pp.10-37・

(17)

土屋 :タマ ン ・シス ワの研究 (1928年∼1930年) テ ン, クラクサ ア ン,アムブル,モジ ョアグ ンを除 く150)学校

o

j代表者 約50,Iv.と,ジ ョクジ ャ カルタ

0

)最 高会 議

U

)メンバ ーが参加 して行われ た015) ここで討議 の議題 とされ たのは,次 の 9]ji目で あ った。;lLlず組織 (organisatie) に関す る事

として (1)タマ ン ・シス ワU),i-iiL

:

1

上ノ

J

'式 (

読,

E

i

白根忍者 =ニウォノ クロモ,マ ラン,ケ ンチ ョン及 び チル リンU)4校 )(2日招 きと調査委 H会oj設立 (提案者 --ボ ロ ン,タ ング ゥル,バ ンカ ラン0) 3校 )(3)政 治 に対す るタマ ン ・シス ワの態度 (提案者 エバ チ ャル ク リン)(4)教師に闇す る問 過 (提案者 -ジ ェ ンベル,ケ ンチ ョン及び ボ ロンの 3校 )U)4項 目が議題 とされ ,次 に教育 に 園 して (5)教科

内容

(Leerplan)(提案者 -ス ラバ ヤ, タ ング ゥル , ウォノクロモ, ケ ンチ ョ ン及びバ ンカ ラン0)5校 )(6)歴 史 (Babad) 教育 (提案者 -ス ラバ ヤ) U)2項 目が議題 とさ れ ,さ らにそoj他Cリ.満車項 として, (7)休 Frlの

定 (捉案者 -ボ ロン)(8)

r

イ・供 新聞」(Kinder

-Courant)U)刊行 (提 案者 エバ チ ャル ク リンとタ ング ゥルU)2校 )(9) 了供 U_)保養地建 設(提案

者 -ジェ ンベル)U)3

し摘ミ議題 とされ た。 会議 の初 日は 1月29日夜 にマ ラン代表 のプ -ゲル0)司会で始 め られ たが ,ジ ョクジ ャカルタ か らの参 加者 が末到着

o

)ため比較 的重

度 の

い第8

目と第 9項 目の 協議か ら始 め られ た。 子 供新聞の発行 第8項目の 子供新聞 について は ,言語 教育 を推進 し共 同作 業を奨 励す る も の と して その発行 が承 認 され , さ し当 りパ チ ャル ク リン支 部 の イスバ ンデ ィ (Isbandhi)が , ジ ャワ譜 の ンゴ コを用 いた週 刊 の新 聞を 250部発行す ることを 目途 に準 備 す ることにな った。 そのためU)費用 は一 カ月10フロー リンと見積 られ各支 部が その支 援 をす る こととされ た。16)この新聞 に各種 の情報 や読 み物 を掲載 す る こ とによ って ,図誤 飲 の機能 を代行 す るとい う趣 旨 も 了承 され た。 当

の束 ジ ャワの タマ ン ・シス ワ学 校で は図 膏室 を備 えた所 は ほ とん どなか ったか らで あ る。

次 に第9項 目0)予供o)保養地 (Kindervacantie-Kolonie) につ いて は, ジ ェンベ ル代表 ojシ ャフィウデ ィン ・スル ヨプ トロが その捉案 の趣 旨を説 明 した。 それ によれ ばオ ランダ人 が設営 して い るよ うな遊 園地 を タマ ン ・シス ワを 中心 とす る民族 諸団体 の協力 によ って設立 しよ うと い う ものであ った。17)この提案 も了承 され ,マ ラン

に建 設す ることを 目途 に

動 が開 始 され る ことにな った 。 会議 の二 日目は 1月30日夜 にジ ョクジ ャカルタか ら到 着 したデ ワ ン トロ,スナルヤ テ ィ,ス ゲル ミンクを迎 えて ,プ -ゲルの司会 で開始 され た.議題 の中心 は タマ ン ・シ スワU)糸1描締 )問 題 に絞 られ ,デ ワン トロU)裾 兎と質疑応答 ,各支 部か らo刃是案 とデ ワン トロ0)助言 (nasehat) を通 じて ,先の第 1

目か ら第 3項 目にわ た る諸問題 が協議 され た。

15)Wasi

L

a,ibid.,p.ll. 16)Wa∫1'

l

a,ibl'd・,pp・12-13・ 17)Wasi

l

a,ibid

,pp・13-14・

(18)

火南 ア ジ ア研 究 16巻4号 (ロ)組

C

き現題 組織 化 の 聞題 に閲 して , デ ワ ン トロは 会議 U)冒

で 次

U

)よ うな趣 旨

U

)見

を述 べ た.18' (1)タマ ン ・シ ス ワ

U

j,

u

i

i

i

冊 ミそ

u

jま ま行 われ て い るな らば ,組 織 の

題 は そ もそ も発 !L:.しえ な い O 本来 タ マ ン ・シス ワは ,魂 と人間 的 結 ノ合性 を 重 視 して お り,-・万 ,組 織 とは魂 を 圧殺 し

性を押 しつ ぶ す もojだ か らで あ る. 組 織 の こOjよ うな危 険 性 は [)_n如)組 織 が なべ て 機 械 (ma-chinaal) と化 して い る こ とに 放 して も明 らか で あ る。 それ ゆ え に従 来 タマ ン ・シス ワ の 内 部 で こUjよ うな組 織 化 の rTIT.1題 は決 して 考慮 され な か った0)で あ る。(2)しか し

,

最 高 会 議 は現 在 こ の よ うな状 況 が 今後 と も続 くと考 え る

U

)は , もは や 誤 りで あ り, タマ ン ・シ ス ワを 組 織 化 す る こ とが 必 要 だ と判 断 せ ざ るを え な くな って い る。 第-・は , タ マ ン ・シ ス ワ

C

/)拡 大が きわ めて 迅 速 で 多 数 の文 部を擁 す る に圭 -,て い る こ と,第 二 は , そU)内U)多 くuj支 離が タマ ン ・シス ワ0)

則 を まだ 理 解 して お らず , そ0)結 果 そ抽 出 iりに惇 る

-

L

嘉が 出来 して い る こ とで あ る。

(

3)

そ U)た め ,

最高

会 議 は 従来U)

態度

を 変 吏 して タマ ン ・シ ス ワU)組 織 化 につ い て 考慮 しは じめて い る。 しか し,組 織 化 は た だ ち に規 約 の制 定 を 意 味 す るo)で な く,必 要 に応 じてUjみ組 織 化 が行

れ るべ きで あ る。 デ ワ ン トロの この演 説 は1920年 代 後 半 か ら30年 代 初

にか けて タ マ ン ・シス ワ内で生 じて い た 変 化を端 的 に表 明す る も

u

jで あ った。 そ して この 見解 は 姐 こ述 べ た全

大会

U

)r紺 裸通告 (そ れ は実 際 に は こ0)束 ジ ャワ大 会U)約 半 年 後 にな され た もU)で あ った)0jl趣意杏U)申で 繰 り返 し て 述 べ られ る こ と とな った。 ま た , この時U)デ ワ ン トロOj演 説の申 こは

,

最高会 議 が デ ワ ン ト ロを ジ ョク ジ ャカル タU)タ マ ン ・シ ス ワか ら 抑 )離 して各 地ojタマ ン ・シ ス ワ全 般U)掌 握 に当 らせ る こ とを 考 慮 中で あ る とい う 重要 な

-

項 目が 含まれ て い た。 デ ワ ン トロに続 い て ウ ォ ノ クロモ支 部 ujスデ ィ ヨノが演説した。 彼 は と くに タマン ・シス ワ と PPPKIの 閑 係 に触 れ て , タ マ ン ・シ ス ワは

ず れ PPPKIの民 族 教 育 セ ンタ ー (CPN)め - 構 成 部 分 とな るはず で あ るが ,(既 に述 べ た よ うに,CPNは1929年12月末 に ス ラ カル タで 開 か れ た第

2

回 PPPKI入 会 にお い て ,そ の設

が汗 .式 に承 認 され て い た ) タ マ ン ・シ ス ワ は CPN に加わ る以 前 に先 ず タ マ ン ・シ ス ワ自体U)組 織 化を図 るべ きで あ る とi二脹 した. 次 に ス デ ィヨ ノは ,こU)CPNが タ マ ン ・シ ス ワUjJ

則を お か す こ とは な い か,CPNは どU)よ うな性 格を もつ0)か ,そ して CPNに加 盟で き るC/)は どの よ うな 教 育 酬 本で あ るU)か , とい う質 問 を した。19)ス デ ィヨノ

0

)質 問 の意 図 が 奈 辺 に あ -,た の か は定 か で な い が ,スデ ィヨノは , それ まで タマ ン ・シ ス ワ

0

)東 ジ ャ ワの活 動 にい ちず に取 り組ん で い た 人物 で あ り,それ だ け に タマ ン ・ シ ス ワC

/

)

自性 を樹

す る こ とに熱 心 で あ った か ら,CPN な い し PPPKl レ)な か に タ マ ン ・ シ ス ワ0)活 動 が解 消 され て しま うU_)を

慎 して い たUつか も知れ な い0 18)Wasita,ibid.,pp・14-15. 19)ll′'lESi

l

a,ibid.,pp.15-16. 544

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