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「淡窓」号の諸問題 : 桃秋の俳文「淡窓の記」より

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「淡窓」号の諸問題 : 桃秋の俳文「淡窓の記」より

井上, 敏幸

http://hdl.handle.net/2324/4742079

出版情報:雅俗. 18, pp.55-72, 2019-07-16. 雅俗の会 バージョン:

権利関係:

(2)

◉論考

はじめに

淡窓の父桃秋、廣瀬宗家第五代三郎右衛門貞恒、別号長春園・二世秋風菴・長春菴(宝暦元年生、天保五年没  八十四歳)に、俳文「淡窓の記」がある。昭和十六・七年の頃、この俳文を読まれた、山口県立久賀高等女学校長大元玄一氏は、その著『廣瀬桃秋の性格と其の家庭教育』(1)(稿本、廣瀬先賢文庫蔵)の第十一章「和氣満堂

嗚呼此の和風  嗚呼此の清香

」で、

  

桃秋がものした「淡窓の記」の中にも、「今歳初の夏伯子建前栽にひとつの書齋を設けて淡窓と名つく。(中略)齋なれるの日いちはやく我を請うて飲食をすゝむ。こはつねに我を(二字不明)なぐさめて我がたのしむを自の楽みとすなるは簡(淡窓の名)の素よりの志なりとぞ。即ちいへらくいましが壽長く爰に黃巻を繙き聖賢の道を楽しむをもて我が楽しみとすなるをやと筆をとりて記す

試よ  卯の花の雪  螢の灯」

  

と。父子志を同じくし、相互愛敬の情を通はした眞情が目に見えるやうである。 と、「淡窓の記」に読みとれる親子の情の真実の和合を指摘されたのであるが、この俳文「淡窓の記」の執筆年次や、「淡窓」号の使用開始時期、さらには、「書齋」が何時・何処に建てられたものであったのか、といった具体的な事実の考証は、全くなされていない。この桃秋俳文の俳味豊かな表現の中に、どのような親子の思いが流れているか、等々については、ここでは省略に従い、本稿では、「淡窓」号の使用開始時期、また「淡窓」と名づけられた書斎が、何時・何処に建てられたものであったのか、さらには、「淡窓」という号は、どの時点で詩人淡窓を指す雅号となって世に広がっていったのか、などに限って、考えてみることにしたい。そのために、まずは俳文「淡窓の記」の全文を翻字紹介することから始めることにする。

一、「淡窓の記」の翻字と書誌

  淡窓の記今歳初の夏、伯 子建、前栽の 端にひとつの書齋を設けて、淡窓と名 1 「元簡」ヲ朱筆ニテ抹消シ右ニ「伯子建」ト朱書ス。

2 「栽」ト「に」ノ間ニ「の端」ヲ朱筆ニテ補ウ。

「淡窓」号の諸問題   ―桃秋の俳文「淡窓の記」より― 井上   敏幸

(3)

つく。淡きは、君子の交りにもたとへて、意ひろく、室は、維摩に倣ふて、はつかに膝を容るゝ而已なり。虧す崩れすと誦せし、南の山を表に立て、圓き窓を開く。亀の山は、近く其麓にた ゝすミて、佳氣を傳へ、萬年か嶽は、遠く巓を顕ハし抽 て、朝 日を吐く。斜に

顧れ ハ、濤のことく連る

嶺々ハ 、夕陽の朗かなるあ

たりに、二筑の山も接 10

呉竹のなよや 松柏の操たゝしく、 るなるへし。 11

潔く イサキヨ かに、梅の 12

類ひは、素より所 、桃桜の媚有る 13

おのつからの墻とな 糸長く引めくらして、 迄に打囲ミ、柳の せき 14

の雅かなるを聞くにも、 に、鳥は集り、聲々 垂れて、枝々のしげき (ママ) れは、今や緑の蔭を れ 15 13 原本ルビ「イサキ」、今「ヨ」ヲ補ウ。 か」ト改ム。 12 「け」ヲ朱点ニテミセ消チトシ、右ニ朱筆ニテ「や る」ト改ム。 ニ「籠れ」ヲ朱点ニテミセ消チトシ、朱筆ニテ「接 11 「方」ヲ墨筆ノ丸デ消シ、「山も籠れる」ニ改メ、更 に」ニ改ム。 10 「は」ヲ朱点ニテミセ消チトシ、朱筆ニテ「あたり 改メ、更ニ朱筆ニテナゾル。 9「に」ヲ朱点ニテミセ消チトシ、墨筆ニテ「ハ」ニ ニ改ム。  8「りたる」ヲ朱点ニテ見セケチトシ、朱筆ニテ「る」 朱書ス。  7「るに」ヲ朱点ニテ見セケチトシ、右ニ「れハ」ト ニ朱筆ニテナゾル。  6「于」ヲ朱筆ニテ抹消シ、右ニ「に」ト墨書シ、更 を吐く」ニ改ム。  5「朝日吐」ニ「を」ト「く」ヲ墨筆ニテ補イ「朝日  4「して」ノ横ニ「抽」ト朱書シ、「顕ハし抽て」ト改ム。 再度右ニ「たゝすミ」ト朱書ス。  3「見え」ヲ墨筆ニテ抹消シ右ニ「伏し」ト墨書シ、

ト右ニ墨書ス。 14 「透間しもなげに」ヲ墨筆ニテ消シ「所せき迄に」

れ」ニ改ム。 15 朱点ニテ「しつ」ヲミセ消チトシ、朱筆ニテ「な いはん 調度には、むへも冨けりと を保ち、心を養ふの 氣色空しからす。身 得て加ふれハ、四時の 夜々に絲ミ、雪は時を にもかそまへぬへし。月ハ 田毎の蛙は、吹鼓の器

。齋なれ 16

や るの日、 17

我か楽む 我を爰になくさめて、 飲食をすゝむ。こは、つねに、 かて我を請ふて、 18

を、自 19

壽 とそ。予いへらく、いましか 簡か、素よりの志なり の楽とすなるは、 20

とりて記す。 すなるをやと、筆を 楽をもて、我楽しミと を繙き、聖賢の道を 長く、爰に黃巻 21

  試よ

    卯の花の雪         蛍の灯   初夏   秋風葊          桃秋

16 「まし」ノ右ニ朱筆ニテ「ん」ト改ム。

17 「な」ト「る」ノ右ニ朱筆ニテ「れ」ヲ補ウ。

「やがて」ニ改メル。 18 「いちはやく」ヲ朱点ニテミセ消チトシ朱筆ニテ ニ改ム。 19 朱点ニテ「ミ」ヲミセ消チトシ右ニ朱筆ニテ「む」

20 「を」ト「楽」ノ間ニ朱筆ニテ「自の」ヲ補ウ。

21 「壽き」ノ「き」ヲ朱点ニテ抹消スル。

(4)

書誌  廣瀬先賢文庫所蔵  桃秋墨蹟第一巻(

窓の記」

33

・1・1(1))「淡

18

・1×

本文に句点を施した。 『廣瀬先賢文庫家宝書詳細目録』六八〇頁。猶、読み易さを考慮し、(2)

227

  ・0糎継紙六紙。文政五年四月初旬成稿。自筆。

二、「淡窓の記」の成立年次

俳文冒頭「今歳初の夏」の「今歳」が分かれば、淡窓が「前栽の端にひとつの書齋を設けて、淡窓と名つ」けた年次が直ちに確定できるのであるが、残念ながら、この俳文と末尾の発句「試よ  卯の花の雪 蛍の灯」の成立年次も、現在のところ確定できる資料は見い出しえていない。したがって、「淡窓の記」の中の、年次を推定しうるであろう部分に着目し、年次を確定する作業を試みることにする。まず、冒頭の「今歳初の夏」という表現は、俳文に添えられた発句の「卯の花」「蛍」より、また、署名の上に記された「初夏」より考えて、その年の「四月」であったことは疑う必要はないであろう。では、何年の「四月」かという問題になるが、このことを解く鍵は、「初夏」に続いて記されている署名「秋風葊  桃秋」の「秋風葊」にある。冒頭にしるしたように、淡窓の父三郎右衛門は、桃秋の俳号を終生変えることなく用いたのであるが、菴号については、長春園・秋風菴・秋風菴二世(または二世秋風菴)・長春菴と、四度にわたって変更していた。桃秋は、父久兵衛、博多屋第三世、俳号桃之(延宝七年生、明和三年、八十八歳没)、兄平八、博多屋第四世、貞高、俳号月化(延享四年生、文政五年、七十六歳没)の影響を受け、幼年時より俳諧に親し み、明和元年十四歳の折、来遊した大阪の俳諧師八千房舎桲に、兄と共に入門する。天明元年、兄月化は九年間勤めた博多屋第四世当主の座を退き、弟桃秋に当主の座を譲り、三十五歳の若さで秋風菴を結んで隠退し、俳諧の宗匠となった(3)。翌々天明三年、父桃之の古稀を迎え、『古稀賀寿章集』(4)を編んでいるが、いうまでもなくこの『集』に桃秋の発句も収められている。ちなみに、淡窓二歳の発句も「祖父様を賀し奉る  祝へ〳〵けふ七福の凧 (いかのほり)二才亀林」のごとくに記されている(5)。それから三十一年を経た文化十二年、六十五歳で、桃秋は博多屋を淡窓の弟、旭荘の兄久兵衛、嘉貞、別号南陔、俳号扶木(寛政二年生、明治三年、八十二歳没)(6)に譲るのであるが、その三十一年間、桃秋は、兄月化宗匠の下で俳諧修行を続けていたのである。隠居した直後より長春園の別号を持ち、文政五年、月化の遺言に従って秋風菴を襲名する直前まで用いていたことが、『桃秋関係文集』第十二冊中の〔古墳探訪記〕(7)の奥書で「文政壬午(五年)如月廿日秋風菴ニシテ長春園桃秋書」のごとく「長春園」の号を用いていたことが確認できる。桃秋は、月化の死没時、文政五年正月三十日の様子を、[秋風菴襲名記念句文](8)の中で「月化、此菴を結びてより、四十余りのとし、今歳身まかり、跡をやつかれにまかせつるに、諸君つとひ給へる恭さに」と記した上で、発句「献立も菴の寒さもつゝまれす」を添えた句文を残しているが、これは「秋風菴の跡は桃秋に任かせる」という月化の遺言を、弟子達に披露することを目的とした文章と発句であった。残念ながらこの句・文だけでは執筆の日時を読み取ることはできないが、この時期の俳諧資料を見てみると、月化没後の閏正月六日に、「劣弟桃秋拝哭して書」くと署名された「無心即浄居士の霊前に

(5)

備ふる文」(9)、また、二月七日に催された「午如月七日秋風菴會草稿哥仙通題発句」(

窓の記」のみであるが、翌文政六年には、正月と夏に、 こうした「秋風菴」号の使用例を見てみると、文政五年は、この「淡 ことになろう。 「初夏」とは、まぎれもなく文政五年の「四月」を意味していたという て来たことが認められるとすれば、この新しい名乗りの上に置かれた 「秋風菴」の号を名乗るようになったと考えられるのである。以上述べ   え、桃秋は、ようやく「秋風菴桃秋」と、「長春園」の別号を廃し、 んだん強くなって来たであろうことが想像できる。そして四月を迎 過ぎた二月を迎え、桃秋に、秋風菴の継承者であることの自覚が、だ はなかったかと思われる。しかし、秋風菴に移り、閏正月の一ヶ月が ただただ慌しく、継承した秋風菴に思いを廻らせる余裕といったもの 文政五年正月三十日に月化が没してよりの桃秋にとっての日々は、 えて間違いあるまい。 日時は、二月七日の[秋風菴會]のその日、あるいは、その前後と考 諧の公式の場における[句文]であることを考えた場合、その執筆の に、この[句文]にも、「秋風菴」の号は用いられていないわけで、俳 事に読み込まれているといってよいであろう。「備ふる文」と同じよう 席に出された料理の冷さが、「いよいよ身に沁み通る」という心境が見 を失った秋風菴の虚しく寒々しい空間を描出するとと同時に、供養の の寒さもつゝまれず」においては、季語「春寒」を生かして、主人公 かれたものといわねばならないが、[句文]、特にその発句「献立も菴 閏正月六日の「備ふる文」は、激しい哀しみの情の中で「哭して書」 10のどちらにも「秋風菴」の号は用いられていない。)   [翠蘿句集序文草稿]奥付「癸未(文政六年)の春のはしめ二世 44

秋風菴 444」(

  [表徳授与ノ狀]の署名「二世秋風葊文政六年癸未夏季」( 44444 11)

月秋風菴二世桃秋述」( 44444 [春雪集草稿]所載、[月化・三千春(月化妻)追悼句文]奥付「霜 [二世秋風葊]と記されており、また、同年冬には、 12)

[春雪集]所載[月化・三千春追悼文]奥付「文政癸未冬秋風菴二 4444 13)

4桃秋述」(

のように「秋風菴二世」と記された例が見い出せる( 14)

風菴宗匠の座を中村撫牛に譲る( 桃秋は「秋風菴」の別号を、文政五年から天保元年八十歳を迎え、秋 15。ということは、)

いうことがいえるのである。 て、「淡窓の記」の執筆年次が、文政五年であることは確かなことだと 以上のように、桃秋の別号の使用の年次が確かめられることによっ 菴」と改め、天保五年八十四歳で没するまで、用いていたのである。 保元年以降、八十歳を過ぎてからは、最初の別号「長春園」を「長春 また「秋風菴二世」と名乗っていたことが考えられる。ちなみに、天 たことになる。「秋風菴」在菴中の桃秋は、「秋風菴」・「二世秋風菴」 16までの七年間にわたって用いてい)

三、「玄簡」から「建」へ

「淡窓の記」冒頭の「今歳初の夏」が、文政五年四月であったことが確かであることを踏まえ、それに続く「伯子建、前栽にひとつの書齋を設けて、淡窓と名つく。」一文が持つ意味を考えてみると、「記」の

(6)

推敲過程に見られるとおり、「伯子建」は「元(正しくは玄)簡」を改めたものであったことが注目される。なぜこうした推敲がなされたかを考えてみると、それは淡窓の名前が、この時期何度も変えられていたために、桃秋の記憶に多少の混乱があったことによると見て間違いない。いまここで、文政五年淡窓四十一歳までの名称の変更を確めておくと、幼名寅之助を唯一の通称として用いていたことが、『懐旧楼筆記』巻六、十六歳の寛政九年春正月の条下の記事(

玄簡ヲ改メテ求馬ト称ス。」と記しており、玄簡の名は、弱冠、つまり 姪浜ニ寓スルトキ、内山ヲ改メテ本姓ニ復ス。帰家シテ弱冠ニ至リ、 ことが確認できる。そして淡窓は、同条の終りに、「其後先生ニ随ッテ れらの記事によって、寛政九年十六歳の時、淡窓が内山玄簡と称した ニ用フベシト。是ニ於テ内山玄簡ト称ス。」のごとくに記している。このごとくに記していたのである( 称スベシ。亦養父ノ一字(玄斐の玄の字)ヲカリトリテ、玄ノ字ヲ名鵞ヲシテ此印ヲ刻セシム。数年ノ後、専ラ之ヲ用ヒタリ。 ために、筑前林田の内山玄斐の養子になったことを指す)。姓ハ内山ト旧称ヲ刻セシヲ用ヒタリ。然レドモ終ニハ改メント思フヨリ、黄 ズンバアルベカラズ。既ニ内山氏ノ子タリ(昨日、旅人の禁を逃れるレナリ。此時予名字ヲ改ムト雖モ、未タ世ニ公ニセス。押印ハ猶 余ニ謂ツテ云ハク。足下童子ト雖モ、其名ヲ知ル者多シ。姓名ヲ変ゼノ印二顆ヲ刻ス。今存スル所ノ、廣瀬建印、子基ト云フモノ、是 続けて、「簡」を「玄簡」に改めることになったいきさつを「昭陽先生刻師ニシテ、頗ル高手ノ由ナリ。黄鵞ト号セリ。予ガ為ニ、名字 カズト。此ニ於テ、二人相議シテ、名簡字廉卿ト定ム。」とあり、また九日。館林清記尾州ノ人松元餘三郎ヲ導イテ、来リ見エシム。篆 アラン。然ル時ハ、我ガ意ニ協ハズトモ改メガタシ。自ラ定ムルニ如で、篆刻師黄鵞に名字二顆を彫らせたことを、   門した人物)ガ云ク。子(淡窓)名字ナシ。必ズ先生ヨリ賜ハルコト「建」「子基」について、『懐旧楼筆記』巻十九文政二年四月九日の条    ノ前一里程ニシテ、左仲(藤左仲、淡窓を誘導して一緒に亀井塾に入ることになる。このことをどう考えるかであるが、淡窓は名字 得た事情の説明が、「去秋(寛政八年淡窓十五歳)福岡ニ来ル時、福岡の記事「四十五歳ニ至ッテ、建字子基と改ム」とは大きく異なってい   る。なお、この条下には、十五歳の時、「名簡字廉卿」という名字をめたと考えられるが、この桃秋の書き方は、先に見た『懐旧楼筆記』 歳ニ至ツテ名字未ダ定マラズ。惟通称ヲ以テ行ヘリ。」によって知られとに気付き、四十一歳の文政五年現在用いている新しい名「建」に改 17、「始メ予、十五簡」は淡窓が十六歳から二十歳まで用いた亀井塾時代の名であったこ) 玄)簡」から「伯子建」への推敲の理由を考えてみると、桃秋は、「玄 卿の使用期間という記述に注目しつつ、「淡窓の記」の「元(正しくは から二十歳までの玄簡の使用期間と、十五歳から四十五歳までの簡廉 三十年、四十五歳ニ至ッテ、建字子基ト改ム」と述べている。十六歳 分かる。また、この文章に続けて「簡廉卿ノ名字ハ、之ヲ用フルコト 寛政十三年二十歳までの五年間用い、その後求馬と改められたことが

機会だと捉え、尾張から来た黄鵞に二顆を依頼したと考えられる。二 めようという考えがずっと頭にあって、篆刻師の来訪をちょうどよい はないとすれば、この頃の淡窓に「簡廉卿」の名字を「建子基」に改 の二顆が彫られたのが、淡窓三十八歳の四月であったことは疑う必要 18。この記事より「廣瀬建印」「子基」)

(7)

顆を作成したことで、淡窓は自分に言い聞かせるように「此時予名字ヲ改ム」と記録することができたのだと思われる。ところがこの事実を記録した一節「此時予名字ヲ改ム」に続く文章には、「ト雖モ、未タ世ニ公ニセス。押印ハ猶旧称ヲ刻セシヲ用ヒタリ。然レドモ終ニハ改メント思フヨリ、黄鵞ヲシテ此印ヲ刻セシム。数年ノ後、専ラ之ヲ用ヒタリ。」とあって、確かに改名のために二顆を作ったけれども、すぐ 44

には公表せず 444444、その後もしばらくの間は旧印を用いていた。しかし、行ゆくは改めることになることが分かっていたので、黄鵞に彫らせたのだが、結局、数年後になって専らこの二顆を用いるようになった、と説明していることに注目したい。文政二年四月からまる三年後の四月に書かれた「淡窓の記」に、桃秋の「伯子建」の訂正書き入れがあることは、この淡窓の説明にピッタリ(数年を三年と見れば)当てはまっているといえるからである。父である桃秋は、淡窓が三十八歳の時「廣瀬建印」「子基」の二顆を作ることで「簡廉卿」の名字を「建子基」に改めることを決めたこと、また、三年後の文政五年になって、ようやく「建子基」の名字を使い始めたことを知っていたわけで、「元(玄)簡」を「伯子建」に改めたのだと考えられるのである。この推測は、先に引用した『懐旧楼筆記』の説明「四十五ニ至ッテ、建字子基ト改ム」とは明らかにズレることになる。しかし、三十八歳の折の二印の作製と「淡窓の記」との一致を考えてみれば、『懐旧楼筆記』の説明は、極めて疑わしく『懐旧楼筆記』執筆中の淡窓に思い違い、というよりも記憶の混乱があったかと思われる(

この点に留意しつつ、次章において「淡窓」号の出現と使用開始の時 い、あるいは記憶の混乱が「淡窓斎」についても考えられるのである。 19。実は、この種の思い違) た意味等々について検討を加えていくことにする。 期、また「淡窓」と名づけられた書斎の実態と「淡窓」号に籠められ

四、「淡窓」号の出現

父桃秋の「淡窓の記」の執筆が、淡窓四十一歳の文政五年四月であったことは、すでに見たとおりであるが、このことが認められるとすれば、この書斎名として使用された「淡窓」号は、淡窓が用いた最初の使用例だったということになる。では、この「淡窓」という別号は、何時、どのような経路をたどって生れて来たものであったかを、確かめておくことにする。「淡窓」号の初出は、周知のとおり、『淡窓日記』巻九下  文化十四年、淡窓三十六歳の十一月二十五日の条に確認することができる。自擇十号。曰淡窓。曰青谿。曰九春。曰蘭窗。曰畸園。曰華陽。曰米山。曰文陽。曰南梁。曰東里。将他日而定

 

之(

 

除淡窓。畸園。文陽。東里。米山。五号( たたない十二月朔の『淡窓日記』には、 れていたのが「淡窓」号であった。だが、不思議なことに、一週間も とを考えていたことが窺えるのであるが、その十号の第一番目に記さ に最も適した号を定め、その折々場面場面で必要に応じて使用するこ 淡窓は、自ら十箇の別号候補を択び出し、その中からそれぞれの用途 20。)

何の説明もない。 号を除くと記されていた。なぜ「淡窓」以下の五号が除かれたのか、 とあり、十一月二十五日に書き付けた十号の内より、「淡窓」を含む五 21。)

(8)

ところが、『淡窓日記』の翌文化十五年正月二十九日の条に「移居於蘭窗。病勢頗減。勉勵三事。三事謂攝生。勤業。修徳

が、「至ッテ」( を掌ってほしい」との意向を持っていることを伝えた。これは、淡窓 の使者として淡窓を訪ね、「幕府の許可を得た学校を興し、淡窓に学校 よい、三十八歳の文政二年九月、父桃秋が明府(日田郡代塩谷大四郎) ない性癖があったからである。そうした逡巡の真中にあったといって いか。前に述べた通り、淡窓には、なかなか物事をきめることができ 淡窓は、一旦除いた筈の「淡窓」号を捨てきれずにいたのではあるま 五年四月に、桃秋が「淡窓の記」を書いていたことを考えてみれば、 良しとし、「淡窗」を除いたものと考えられる。しかし、五年後の文政 「蘭窗」が使われた記事が認められる。この時点で淡窓は、「蘭窗」を 22。」と)

の年の九月二十二日、「始テ上下ヲ着シ。大小ヲ帯ビ」( の上で、父桃秋の強い進めに従い、用人格に準じられ塾主となり、こ の、桃秋を利用した説得策だったのであるが、淡窓はそのことを承知 23郡代を嫌っていることを知っていた郡代塩谷大四郎)

ととなり、以後生涯を郡代支配の「学校ヲ主」( 24て出仕するこ)

其恐レアリ。是ヲ以テ敢テセサルナリト。答ヘ玉ヒシガ。其後程 ルニ非ス。唯隠者ノ身トシテ。御用モナキニ。官府ニ至ルコト。 4444 嫌ヒナリト承ル。果シテ然リヤトノ玉ヘリ。先考答ヘテ。敢テ然 是ヨリサキ。明府先考ニ向ッテ。求馬ハ官府ニ来ルコト。至ッテ 『懐旧楼筆記』巻二十、文政二年九月二十二日の条の末尾にある。 一節に、三十八歳の淡窓の身の在り様を知りうる注目すべき言葉が、 とであるといってよいが、この直前に交わされた郡代と桃秋の対話の ての仕事に身を捧げることになったのである。このことは、周知のこ 25どる身分、塾主とし) ナク此命アリシナリ(

なかったと考えられる。こうした淡窓の人生を決定する重大な場面に 同五年四月までは、父桃秋が知っているだけで、ほかは誰れもが知ら こでも作用し、ただちに使用し公表することなく、文政二年十月から をえらんだといってよいであろう。しかし淡窓の場合、例の性癖がこ ども、ともかくもこの時点で淡窓は、「蘭窗」号ではなく、「淡窓」号 心は、多分に桃秋の願いを容れたものであったことが想像できるけれ 例はない。)への変更であったと考えられるからである。この淡窓の変 (ちなみに〔大漢和辞典〕に二字熟語「淡窓」は、広瀬建の号以外に用 庸』「君子之道淡而不厭」『老子』「淡乎其無味」、等)を冠した「淡窓」 窓。〔大漢和辞典〕)から、君子の道徳の深奥の境地をいう「淡」(『中 雅な隠者の生活を連想させる「蘭窗」(香木でつくったまど。美しい た「淡窓」へと戻されることになったのではあるまいか。それは、幽 他動的な転身があったことで、別号の選択も、「蘭窗」から、一度捨て 主としての道が開かれることになり、この「隠者」から「塾主」への たことが考えられるからである。しかし、用人格に準ずる資格での塾 えられる。というのは、「淡窓」か「蘭窻」かと二年近く迷い続けてい 十四年十二月から、三十八歳の文政二年九月まで続いていたことが考 利用した「隠者ノ身」であるという淡窓の自己認識は、三十六歳文化 いう郡代の思いを見事に払拭することができたのである。この桃秋が に用いることでもって、桃秋はうまく〔淡窓は自分を嫌っている〕と の日常会話の中で言っていたことを思わせる。この淡窓の言葉を巧み る。これは、淡窓が現在の自分の身の在り方を「隠者ノ身」と父親と 引用文中の傍点を付した「隠者ノ身」という一節に注目したいのであ 26。)

(9)

おける親子の対話が背景にあったことを考えてみれば、「淡窓」号が桃秋の「淡窓の記」において始めて用いられたことも納得できることであるように思うが、いま一つ確かめておかねばならない問題がある。それは、『淡窓日記』の題名に「淡窓」の二文字がどの時点から用いられたかである。文政五年四月に執筆された「淡窓の記」の「淡窓」が、「淡窓」号使用の最初だと言い切った時、当然のこととして出てくるであろう疑問が、三十二歳の文化十年八月二十三日から書き始められた『淡窓日記』の「淡窓」の使用例が先行してあるではないかということである。確かに『淡窓日記』四十二冊の第一冊(自文化十年八月二十三日)より第十冊(文政五年十二月晦日迄)までの内題には、「淡窻日記」とあり、第十一冊よりは「遠思樓日記」、第十四冊よりは「欽齋日暦」、以下「醒齋日暦」、「進修録」、「再修録」、「甲寅新暦」となっている。この『淡窓日記』の題名がいつ頃与えられたかであるが、「淡窓」号の芽生えが三十六歳の文化十四年末の「十号撰定」、「五号削除」にあったとすれば、翌々年九月の用人格に準ずる塾主となった三十八歳の文政二年九月頃より以降の可能性が考えられてよいであろう。しかし、これまで見てきたように、文政五年四月迄に「淡窓」の号が用いられた例はない。とすれば、考えられることは、桃秋の「淡窓の記」における「淡窓」号の使用が、やはり最初の使用例であり、淡窓は、父の「淡窓の記」のこの使用例を得て、文化十年八月十三日より文政五年十二月迄の『日記』に、「淡窓(窻=内題)日記」の書名を与えた(年末頃カ)のだと考えられるのである。さて、本章を終えるにあたって、なぜ文政五年四月に桃秋によって「淡窓の記」が書かれたのかということを、改めて考えてみると、それ は、廣瀬家の精神的支えであった月化の死に深くかかわっていたことが注意されねばなるまい。月化没後の広瀬家の後ろ盾となった桃秋にとって、家督を譲った久兵衛(第六代嘉貞。号南陔。淡窓より八歳年下の弟)の御用達としての順調な経済活動の進展と塾主となった長男淡窓の順調な学校経営、および  淡窓自身の学問の達成とが、七十二歳の老境に達した桃秋にとっての悲願であったわけであるが、この桃秋の悲願に答えてくれたものの一つが、この淡窓による書斎の新築であったといってよいであろう。「淡窓の記」は、「今歳初の夏、伯子建、前栽の端にひとつの書齋を設けて、淡窓と名つく。」で始まる。文政五年四月、長男建は、秋風菴と道を隔てた西側の新居(新塾・西塾・後の咸宜園)の庭の植込みの端に、ひとつの書斎を作り、その書斎に淡窓と名づけた。続く文章「淡きは君子の交りにもたとへて意ひろく」と「淡」の意味を説いているが、これは『礼記』にいう「淡き君子の交わり」を通して人格の大成を念じた意を含むものであり、次の「室は維摩に倣ふて、はつかに膝を容るゝ而已なり。虧す崩れすと誦せし、南の山(諺「南山之壽」、「虧」は「騫」の宛字)を表に立て、円き窓を開く。」は、その書斎は維摩居士の方丈を摸した広さ(

るは、簡か素よりの志なりとそ。予いへらく、いましか壽長く、 こは、つねに、我を爰になくさめて、我か楽むを、自の楽とすな して、これに続く結びの文章は、 も富けりといはん。」の一文で「淡窓斎」の紹介は閉じられている。そ の描写と四季の風情が綴られ、「身を保ち、心を養ふの調度には、むへ いた造りとなっていると説明し、続いて、近景・遠景から前栽の木々 27とし、南方の山に向って円い窓を開)

(10)

爰に黄巻を繙き、聖賢の道を楽をもて、我楽しみとすなるをやと、筆をとりて記す。

   試よ  卯の花の雪  蛍の灯と俳諧発句を添えて結ばれている。この末尾の文章の冒頭部「やがて 444

我を請ふて飲食をすゝむ」の一文は、初稿では「いちはやく」となっているが、「齋なれるの日」、つまり、書斎が完成した日に、なぜその日を待っていたように、「いちはやく」(初稿)父親を招き「飲食をすゝ」めなければならなかったのかである。そのようにしなければならない事情が、淡窓と桃秋の間にあったに違いないのである。それは、この年の正月三十日に亡くなった桃秋の実兄、淡窓の伯父である秋風菴月化の喪明けの日だったからではあるまいか。当時の『服忌令』(

多病。外ハ多事。其志ヲ遂クルコト能ハス。哀哉( 外出シテ人事ニ預レリ。本ハ暫ク喪ニコモラント思ヒシカトモ。内ハ 二十一日の条に「伯父没後五十一日ニ当レリ。予之ヨリ持斎ヲ休メ。   斎」を止めていたからである。『懐旧樓筆記』巻二十一文政五年二月 い。というのは、淡窓は九十日の服喪を願いつつも、五十一日目に「持 に待って、桃秋を新築の「淡窓斎」に招き、飲食を進めた可能性が高 日目は、四月二日であったことになる。淡窓は、この四月二日を待ち 日・二月三十日・三月二十九日の八十八日で、服喪が満たされる九十 たため、この「記」が書かれた「初夏」までの日数は、閏正月二十九 喪明けの日を計算してみると、文政五年の場合は、正月に閏月があっ 同じ九十日間の服喪が要請されていたことが分かる。ここで、二人の によれば、「兄弟服九十日」「伯父服九十日」とあって、二人とも我父 アニヲトヽ 28)

り、途中で「持斎」が途切れたことを、哀しんでいたのである。九十 29。」との記事があ) いたとする説も多いが( よって、「淡窓斎」の中に菅茶山筆になる「淡窓」の扁字が掲げられて の「菅茶山ニ乞テ。其扁字ヲ得」、「之ヲ斎中ニ掲」げたという記事に   と推測されるからである。『懐旧楼筆記』巻二十五文政九年三月朔日 て淡窓に与え、新築の書斎に掲げてもらおうという強い願いがあった られる。というのも、桃秋に、この俳文を招待の日時までに完成させ れを施さないままに浄書を終えてしまったからではなかったかと考え るが、これはおそらく文章の完成を急ぐあまり、朱筆でもって書き入 淡窓の名を「簡」と書いたままで、推敲を施していないことが気にな ちなみに桃秋は、「淡窓の記」の末尾で「簡が素よりの志なり」と、 を積み重さねよと、励ましていたのである。   花の雪蛍の灯」は、その期待をこめて、いよいよ一筋に「蛍雪の功」   楽しみなのだ」、といっていたのである。添えられた発句「試よ卯の き、聖賢の道を楽しむ境地に至るようにと期待する、このことが私の れば、「淡窓よ、お前が長生きをして、この淡窓斎において、書物を繙 「いましが壽長く、爰に黄巻を繙き、聖賢の道を楽しむ」こと、口訳す 淡窓の孝心が、「簡が素よりの志」によるものであることを喜びつつ、 (軈て・時を移さず・すぐさま)「飲食をすゝめ」たのであった。この 回復すべく、初稿「いちはやく」(逸速く・すばやく)、成稿「やがて」 違いない淡窓であったればこそ、その粗食に堪え衰えた桃秋の体力を 日の喪を満たした、七十二歳という高齢の父桃秋の身を深く案じたに

ころ見い出されていないのである( 30、そうした事実を裏付ける資料等は現在のと)

「淡窓」ではなく、桃秋の成稿本「淡窓の記」が書斎に掲げられていた   「淡窓」において詳しく論じることにするが、稿者には、茶山の扁字   31。後の第六章西家東南隅の小斎)

(11)

可能性が高いように思われる。

五、「淡窓斎」の実像

「淡窓の記」の成立は、文政五年四月二日あるいはそれから数日を経た四月上旬のことであろうとの考証を重ねてきたが、実は『淡窓日記』『懐旧楼筆記』のどこにも桃秋の「淡窓の記」についての記事は見当らないのである。しかし、「淡窓の記」のいう「淡窓斎」に違いない建物についての記述は、長短はあるが二・三にとどまらず見い出しうる。それらによれば、この「淡窓斎」は、三十六歳の折、淡窓が元の学舎桂林園を、伯父月化の営む堀田村の秋風菴の西側に「増減スル所」(

窓日記』の文化十四年正月九日の「経ト居地」( ナハヽリス られた書斎が「淡窓斎」だったのである。その新築工事の経過は、『淡 西塾と呼ばれるようになったのであるが、その淡窓の自宅の一隅に作 なく移築し、居宅としたもので、始めは新居・新宅と呼ばれ、やがて 32)

日「塾成」( 33から、二月二十八)

の文化十四年二月二十三日から二十八日におよぶ記述の中にある( 記述二条がある。その第一条目は『懐旧楼筆記』巻十七、淡窓三十六歳 窓斎」を説明した記事は見られない。そうした中で注目すべき長文の 34まで、その經過は具体的にたどりうるが、これにも「淡)

④〔炊飯所〕其次炊飯所ナリ。板間二疊ニシテ。席ナシ。

③〔西北隅六畳〕西北ノ隅六疊。納戸トス。

②〔玄関〕其次玄関三疊ナリ。

①〔西南隅六畳〕西南ノ隅ニ六疊牀ノ間アリ。之ヲ書院トス。 いま必要部分に番号を付して抜き出せば①から⑪のごとくである。 35。)

⑦〔西北楼〕又西北納戸ノ上。一楼アリ。六疊ニシテ席ナシ。物置キ (ママ) えた)。 テ增減スル所ナシ」に鑑み、原本の記載漏れと判断し、稿者が加

⑥〔東南楼下六畳〕六疊(すでにに触れた二月二十八日の「旧ニ依ッ

⑤〔東南楼〕楼東南ノ隅ニアリ。六疊ナリ。

トスルノミ。⑧

〔遠思楼〕楼上六疊ナリ。楼ハ即遠思楼是ナリ。是ハ秋ニ至ッテ成就セリ。⑨

〔夕佳楼〕西北ノ楼ハ。謙吉カ時ニ至ッテ。修理ヲ加ヘ。席ヲ敷キ。夕佳楼ト称セリ。⑩

〔玄関追加三畳〕又玄簡三疊ヲ広メテ。六疊トナセリ。⑪

〔東南隅二畳〕東南ノ隅ノ二疊ハ。後年予カ加フル所ナリ。其事ハ後ニ詳ニセリ。淡窓の説明では①の〔西南隅六畳〕は、「牀ノ間」を備えた部屋で、「書院」と呼ばれ、新居の中心であったと考えられる。『懐旧楼筆記』巻十八  文化十四年二月二十八日の条に記載される五言古詩「ト居ノ詩」(

料はなく推測にとどめておくことにする。 時改められたかも知れないが、これまた他に確かめることのできる資 九日の条に、「移居於蘭窗」の記事があり、「考槃」の室名はこの   触れたように、十一ヶ月後の『淡窓日記』巻十文化十五年正月二十 ていたことは(図版A)、淡窓の遺墨類に見られる通りである。すでに なく、ほとんど知られていない。しかし、関防印として長く用いられ の書院は「考槃」と呼ばれたかと思われるが、この室名は他に用例が

36の結びに「何以名吾室請名以考槃」とあることより、こ)

(12)

次に③〔西北隅六畳〕については、「西北ノ隅六疊。納戸トス。」とあるが、「納戸トス」という説明はよく分からない。先程見た『懐旧楼筆記』巻十八  文化十四年二月二十八日の「ト居詩」の中に「西北家塾」という詩句があり、「西北」は、この③〔西北隅六畳〕のことであり、「開家塾」の意味は、これまた先に見た『淡窓日記』巻十八  文化十四年二月二十八日の記事「塾成」と同義だったと考えられる。新居の「家塾」(西塾、後の咸宜園)(

日の条に、「毀西塾炊屋新之」(クス   ④〔炊飯所〕に関しては、『遠思楼日記』巻二文政六年十月二十七 ことになるが、「物置」として用いたことが考えられるように思う。 を「納戸」として使い、⑦〔西北楼〕については、後に改めて触れる 承知の上で転居し、③⑦が完成するまでの間、仮りに③〔西北隅六畳〕 わけで、③〔西北隅六畳〕と⑦〔西北楼〕がまだ未完成であることを 〔玄関〕、④〔炊飯所〕、⑥〔東南楼下六畳〕が揃っていれば可能だった あって、「家塾」としての機能は、自分の部屋①〔西南隅六畳〕と② て憶測を逞しくすれば、転居時点の塾生数が少なかったという事情も を、なぜ「納戸トス」と書いたのか、大変分かりにくいが、いまあえ 37の中心であるはずの部屋)

リ。時スギテ其事明カナラス」( 巻二十三の同年同日の条に、「塾ノ炊屋ヲ改メ作ルコト。日記ニ見エタ 38とあり、また、『懐旧楼筆記』)

⑧〔遠思楼〕である。⑧では、「楼上六疊ナリ。楼ハ即遠思楼是ナリ。 が、この記事の後の方で、この⑤〔東南楼〕を再度説明しているのが、 次に⑤の〔東南楼〕は、「東南ノ隅ニアリ。六疊」と説明されている 言っていることが注意される。 いていることが分かるが、ここでは、この事についての記憶がないと 39と記している。『日記』を見ながら書)    

図版A

図版C

関防印「淡囱」(同右番外) 図版B

図版E 大正2年に描かれた咸宜園図

※図版A~E(廣瀬資料館蔵)

図版D 図版D 「淡窓斎」は丸窓のある独

立した小建物

(13)

是ハ秋ニ至ッテ成就セリ。」とあって、この楼の完成が文化十四年の秋であったことが知られる。しかしこれは、大まかな言い方で、その經過を具体的に知るためには次の三ヶ条を丹念に比較検討する必要がある。(イ

)『懐旧楼筆記』巻十八  文化十四年八月二十四日  遠思楼ノ経営。始メテ全備セリ。此日ヨリ予カ座ヲ楼上ニ移セリ。初ハ飛鴻楼ト称ス。後ニ遠思ト改ム(

昨日。洒掃。移坐於楼上。(予性喜楼居。以下略)(   

(ロ)『淡窓日記』巻九上文化十四年十月二十日楼上雑営畢於 40。)

遠思。初名飛鴻。今改焉(   

   

(ハ)『淡窓日記』巻九下文化十四年十一月十五日名東楼曰 41)

改めて⑥〔東南楼下六畳〕について説明すると、すでに注 南楼下六疊〕の説明を書き漏らしてしまったと考えられるのである。 めて書いたため、⑤⑧と〔東南楼〕の説明を繰り返し、肝心の⑥〔東 上⑤〔東南楼〕の記述を検討してみたが、淡窓の書き方は、後年まと 十一月十五日になって「遠思楼」に改められたことが確認できる。以 れ、また、(ハ)によって、〔東南楼〕の最初の名称は「飛鴻楼」で、 「畢」り、二十日に「洒掃」を済し「坐ヲ楼上ニ移」したことが知ら (ロ)の記事によれば、十月十九日に「雑営」をも含めて楼の建設が 楼」が「全備」し、「此日」より「楼上ニ移」ったと記されている。 (イ)は同じ『懐旧楼筆記』の記事であるが、八月二十四日に「遠思 42。)

〔東南楼下六畳〕に関する記事はどこにも見い出せず、淡窓の記載忘れ て広さが六畳分不足することになる。すでに述べたとおり、この⑥ シ」に鑑みれば、この⑥の六畳がなければ、新居は旧居桂林園に対し   た『懐旧楼筆記』巻十七二月二十八日の「旧ニ依ッテ增減スル所ナ

32

で触れ

といってよく、ここに稿者の考えで書き加えることにした。なおこの⑥も、旧居(桂林園)と比べてみると、当然のことながら塾用の部屋であり、席を敷いた板の間であった可能性が高いように思われる。次に⑦の〔西北楼〕は、「又西北納戸ノ上、一楼アリ。六疊ニシテ席ナシ。物置キトスルノミ」のごとくに説明されている。③〔西北隅六畳〕の上にある「楼」は、「六疊」の広さで「席」を敷いてるわけでもなく、「物置キト」している、と説明されている。③〔西北隅六畳〕の「納戸」の上の⑦〔西北楼〕を「物置」と説明したのは、移転時点の実際の光景を思い出しての記述だったかと思われる。①〔西南隅六畳〕②〔玄関〕④〔炊飯所〕⑥〔東南楼下六疊〕部分が完成した時点で、当面の「塾」の機能は、②④⑥の計十一疊の広さで済すことができるとの判断を持って、転居し、⑤〔東南楼〕は秋頃まで待つ、③〔西北隅六畳〕については資料がなく不明であるが、⑦〔西北楼〕の場合は、『淡窓日記』巻十  文化十五年四月十日の「西楼梯成」(

家塾」と詠じていた「ト居詩」において「西北開( り、翌年の初夏まで待たねばならないことを承知の上で、転居怱怱の 43という記事よ) 二月二十四日の条に「名西塾楼、為西楼」(   る。なお、⑦の〔西北楼〕については、『淡窓日記』巻十八文政五年 は、こうした建築中の現場の反映があったことが考えられるのであ る。③の「納戸トス」、⑦の「物置キトスルノミ」という記述の背景に (ママ)

44ことが推測され)

とが知られる( 旭荘が西家に住んだ天保三年頃には、「西楼」を「夕佳楼」と称したこ 謙吉カ時ニ至ッテ修理ヲ加ヘ、席ヲ敷キ、夕佳楼ト称セリ」とあって、 呼ばれたことが分かり、また⑨の〔夕佳楼〕の説明には「西北ノ楼ハ、 45とあり、「西楼」と) 46。)

(14)

次に②〔玄関〕三畳についてであるが、⑩〔玄関追加三畳〕の記述「玄関三疊ヲ広メテ。六疊トナセリ。」とあるように、三畳が「六畳」に広められたのであるが、これは、塾生の急激な増加に応じた処置であったかと思われる。さて最後に、⑪〔東南隅二畳〕を見てみると、その説明は「東南ノ隅ノ二疊ハ、後年予カ加フル所ナリ。其事ハ後ニ詳ニセリ。」とある。まず考えねばならないことは、この東南隅の二畳は、移築された桂林園とは関係がないということである。このことは、淡窓が「後年予カ加フル所」だと言っていることからも明らかだといってよい。つまり、桂林園の旧材によって新居(西塾)が建築される時点において、⑪〔東南隅二畳〕の建物は、そもそも存在していなかったのである。では淡窓が「後年予カ加フル所」といっている「後年」とはいつであったかが問われることになるが、『懐旧楼筆記』よれば、それは新居(西塾)へ転居を終えた文化十四年二月の時点から、実に九年を経た、『懐旧楼筆記』巻二十四、文政九年三月朔日の「一ッノ書齋ヲ経営セント思立テリ。云々」(

斎」と一致するものといえるのかどうかを考えてみることにする。 検討し、いうところの「一ッノ書斎」が、果して「淡窓の記」の「書 に不自然なことになってしまうのである。次章において、このことを 47とある記事を指していたこととなり、時間的にまこと)

六、西家東南隅の小斎「淡窓」

『懐旧楼筆記』巻二十五「淡窓再生一」の文政九年三月朔日の記事には「淡窓斎」についての淡窓自身による説明がある。少々長くなるが 引用すれば、次のごとくである。余歳四十五。咸宜園南軒ノ西偏ニアリ。病褥ニ在テ春ヲ迎タリ。去臘麻薬ヲ用ルニヨリテ。後数日人事ヲ省セサリシカ。除日前ヨリ漸ク旧ニ復シタリ。三月朔日ヨリ以後。苦悩漸々ニ減シ。精神益復シタリ。医師ヨリシテ看侍ノ人ニ至ルマテ。皆余ニ勧ムルニ。心ヲ平安ニシ。氣ヲ養フヲ以テス。余是ニ於テ。病ヲ忘ルヽノ方ヲ思ヒ。一ツノ書齋ヲ經營セント 44444444444

思立テリ 4444。其コトヲ久兵衞ニ托ス。久兵衞其事ニ監トシテ。前後一月程ニシテ成就セリ。則今ノ西家ノ東南ノ隅ニ在ル処ノ小斎是ナリ。初余淡窗ト號セシ時 444444444。菅茶山ニ乞テ。其扁字ヲ得タリ。此ニ至テ之ヲ齋中ニ掲テ。齋ノ名トセリ 444444經營ノ事アルニヨリ。三月九日。終ニ黽勉シテ褥ヲ離レ。東塾今ノ講堂ニ至リテ。其コトヲ指揮シタリ。是病来戸ヲ出ツルノ始ナリ。四月ニ至。終ニ病褥ヲ離レ。淡窗ニ移リ住セリ。是此篇淡窗再生ヲ以テ稱トスル所以ナリ。(続く記事五箇条略)淡窗ノ経営成就セシコト。何日比ナリシヤ。委ク覚ヘス 444444444444。四月中ナリシナルヘシ。其比ヨリ。彼処ヲ居間トシ。始メテ筆硯ヲ事 4444444

トセリ 444。病後保養ヲ専トシ。塾政ニ預ラス(

(図版B・C)しかし、続いて「菅茶山ニ乞テ。其扁字ヲ得タリ。此ニ めて淡窓が「淡窗」号を用いた書斎であったといってよいであろう。 詳ニセリ」に相当するものである。この「二疊」の「小斎」が、「初」 ノ隅ノ二疊ハ。後年予カ加フル所ナリ」に付されていた、「其事ハ後ニ 巻十七の、西塾(新居)についての、⑪「東南隅二畳」の説明「東南 引用文中の文章Bが、前章で検討した文化十四年二月の『懐旧楼筆記』 48。)

(15)

至テ之ヲ斎中ニ掲テ。斎ノ名トセリ。」と記している部分は、すでに少しく触れたごとく、事実であったのかどうか、疑問視せざるをえないのである。茶山と淡窓との交遊は、『懐旧楼筆記』巻二十六  文化十四年四月初の条に「余茶山ト書信往復スルコト二十年」(

を記している( 絶二首を持帰えった折、同時に「硯一面」を遺物として贈られたこと 同年九月、旭荘が茶山の塾に数月留まり、「題廣瀬子基詩巻後」七 49と記し、また)

アルヘカラス( この記事の中で茶山を、「師弟ノ名ナシト雖モ。知己ノ遇。思ハスンハ 50が、「淡窓」の「扁字」についての記事は見当らない。)

から発病( に父桃秋の「淡窓の記」を掲げ、斎の名とした時点と、文政五年の冬 ト」し、「初余淡窗ト号セシ時」、即ち、文政五年四月に「淡窓斎」中 てもよかったのではあるまいか。「此ニ至テ之ヲ齋中に掲テ。齋ノ名 ば、「斎中に掲」げられていたのは、桃秋の「淡窓の記」だったといっ   のではないかと考えられるのである。このことが認められるとすれ 重なりが指摘できるわけで、淡窓に「淡窓の記」の記憶が蘇っていた 「淡窓の記」の一節「ひとつの書斎を設けて淡窓と名つく」との表現の 4444444444444444 と、末尾の「之ヲ斎中ニ掲テ。斎ノ名トセリ。」の一節とは、桃秋の 444444 て、この文章Bの冒頭部の「一ツノ書齋ヲ・・經營セント思立テリ」 44444444 窓」の扁字は、実在しなかったように思われてならない。これに対し 51。」と記している淡窓を考えてみると、茶山書の「淡)

た大病(三大厄中の最大の厄病)( 52し、文政九年を迎えてようやっと乗り越えることができ)

る新たな「淡窓再生」の決意( 53を克服して、「淡窓」号の原点に戻)

重なりの原因は、いうまでもなく淡窓の錯覚、つまり文政五年と九年 てしまっていたことが読みとれるからである。この文政五年と九年の 54をした文政九年四月の自分とが重なっ) 正月の条に記されている「四十五歳ニ至ッテ。建字子基ト改ム」(   た、老化が齎らした大きな誤りの例が、『懐旧楼筆記』巻六寛政九年 年の六十五歳から六十九歳にわたって綴られたものであるために生じ ことも考えられねばならないであろう。さらには、『懐旧楼筆記』が晩 シ」といった苛酷な治療のために生じた記憶の空白による混乱という 正月冒頭の文章A「去臘麻薬ヲ用ルニヨリテ。後数日人事ヲ省セサリ   記していたのだと思われる。また、『懐旧楼筆記』巻二十五文政九年 た文政九年四月中の記事Dの中で「何日比ナリシヤ。委ク覚ヘズ」と のである。この思い違いに淡窓自身も気付くところがあって、引用し の二回にわたて「淡窓斎」を建設したという思い違いに起因していた

であたかも淡窓が「經營」を「指揮」し、文政九年「四月ニ至」って 四月」に新築成った「淡窓斎」のことだったのであり、Cの記述の中 Bの「初余淡窓ト号セシ時」は、淡窓がいっている通り「文政五年 込まれてしまったと考えられるのである。 斎」の記憶も、この文政九年四月の「淡窓再生」の時間軸の中に取り 専心するのだという強い決心に吸収され、文政五年四月の新築「淡窓 再住の決意、すなわち、「淡窓斎」に戻り淡窓の本来の志である学問に 中で、文政五年四月の「淡窓斎」新築の記憶は、文政九年四月の淡窓 いであろう。こうした淡窓の大病に起因する追詰められた精神状況の 建字子基ト改ム」という記事は、大きな錯覚だったといわねばならな の名が記されていることを考えてみると、この「四十五歳ニ至ッテ、 刻ませたこと、そして四十一歳の文政五年四月の「淡窓の記」で、「建」 字を建子基に改め、尾州の篆刻師に「廣瀬建印」と「子基」の二顆を ある記事に認められるのである。淡窓が文政二年三十八歳の折に、名 55と)

(16)

D「成就」し、C「淡窗ニ移リ住」んだという叙述は、やはり錯覚あるいは記憶の混乱が齎らしたものだった。別の言い方をすれば、淡窓の書斎「淡窓斎」が二度にわたって建てられるということはありえないことだったからである。現在の淡窓研究を見てみると、この『懐旧楼筆記』文政九年三・四月の記事をそのままに読んで、「淡窓」号は文政九年四十五歳のときから使用されたとする説が主流となっているようである(

した建物がある( 母屋(淡窓の新宅)の東南隅に、「圓窓」を持った小さな草菴風の独立 塾、左に秋風菴が描かれているが、その右図の考槃楼と書かれている る「咸宜園絵図」(図版D・E)が所蔵されている。道を挟んで右に西 館に、大正二年(一九一三)に門弟長岡永邨によって描かれたとされ 開く」と書いていたことに触れておきたい。大分県日田市の廣瀬資料 この章を終えるにあたって、桃秋が「淡窓の記」の中で「圓き窓を 56が、稿者はもとより賛同するものではない。)

取り壊されていた(注 斎」であったと思われるが、この「淡窓斎」は明治二十二年頃迄には 57。これがおそらく文政五年四月に新築された「淡窓)

ばならないようである。 く少なくとも四半世紀前の記憶によって描かれたものだったと考えね

31

参照)わけで、この絵は、実際の風景ではな

七、おわりに

本稿を終えるにあたって、「淡窓」の雅号が、書斎名を離れてどのように広がり、淡窓自身を指す代表的な雅号となっていったのかを、淡窓の自署名を持つ書簡と淡窓宛の来簡から確かめておくことにする。 大分県先哲叢書『廣瀬淡窓  資料集  書簡集成』(

文政六年九月十九日付、「淡窓先生」宛「昭翁」書簡( く「淡窓」号を使用した人物は、淡窓の師である亀井昭陽であった。 となっており、往信とほとんど変わりはない。来信の中で飛び切り早 十二年(一八四一)から安政二年(一八五五)までの十四年間のもの 井昭陽の一通があることによって生じたもので、他の十五通は、天保 十八年間と十年近く長くなっていることに気付かされるが、これは亀 往信にくらべ文政六年淡窓四十二歳から、安政二年七十四歳までの二 う。ここで改めて来信における「淡窓」号の使用期間を見てみると、 としての使用は、かなりの広がりを見せていたといってよいであろ の多さとなっているわけで、淡窓の思いとは裏腹に、淡窓を指す雅号 信一五四通の内の十六通(十・四パーセント)は、往信にくらべ三倍 号を自称に用いることをあまり好まなかったように思われる。一方来 なめないが、「淡窓」号は、書斎の号であるとの考えが強く、「淡窓」 四三〇通の中の十五通(三・五パーセント)は少ないという感じをい 八四一)まで、実に十九年間を要していたことがわかる。また、往信 を自号として用いるまでに、文政五年(一八二二)から天保十二年(一 る。往信の自署名から見てみると、書斎の号として用いた「淡窓」号 ら安政二年死没前年の七十四歳までの二十八年間で十六通となってい での十二年間で十五通、来信は文政六年淡窓四十六歳の九月十九日か を見てみると、往信は天保十二年淡窓六十歳から嘉永六年七十二歳ま 書簡に限って、淡窓の署名のある往信と、宛名に淡窓と書かれた来信 三〇通、来信篇に一五四通が収められているが、両篇共に日付を持つ 58には、往信篇に四)

宜園で問題児となった「大島生」のことの報告と、唐山扇と墨二筒の

59の内容は、咸)

(17)

贈物に対する謝辞を述べ、「大島生」に反省させる旨を伝えた書簡であった。内容的には普通の書簡だといってよいが、この手紙を持ち帰った折の旭荘には、多分に亀井塾の下見のための訪問という面があったのであるが、そうした雰囲気の中での昭陽と旭荘の対話の中で、去年四月に兄淡窓が、「淡窓斎」を建てて、いよいよ文人のスタイルをとったことを告げられ、自分より九歳下の門人である淡窓に、わざわざ「先生」の尊称を付して、「新書斎の御主人様」という冷やかしの意を込めて「淡窓先生」と書き、私は、「大島生」の躾も碌に出来ない一介の老人であることを自ら認め、「昭翁」と署名したものだったと思われる。この昭陽書簡の宛名「淡窓」が、他人に使用された「淡窓」号の最初の例だったことになるが、このことは同時に、「淡窓斎」の建設が文政五年四月初旬であったことを裏付けていたといってよかったように思う。

   『孝弟烈女廣瀬秋子』昭和九年四月廣瀬正雄発行福岡秀巧社刊がある。1長。稿。に、

 2中村幸彦・井上敏幸共編廣瀬資料館平成三十年八月刊

3大内初夫著『天領日田の俳諧と俳人たち』国民文化祭・おおいた

98

  4『古稀賀寿章集』写大一冊廣瀬先賢文庫蔵7・2・

24

ハ。人。故。 ヤ。六・ハ。リ。考( り。予カ手ヲ取ッテ書セシメ玉ヘル者。後年存セリ。末ニ亀林拝ト号ス。 三年)。王父(桃之)七十ノ賀筵アリ。伯父(月化)予ニ代ツテ。発句ヲ作5『懐旧楼筆記』巻一「家居養蒙一」に、このことを淡窓自ら「此歳(天明    四年十二月初版思文閣昭和四十六年二月初刻。   ソ。る。頁。 リ。モ。ハ。

6廣瀬正雄著『贈従五位廣瀬久兵衞傳』昭和四年十二月刊。

   7『桃秋関係文集』第十二冊廣瀬先賢文庫蔵7・3・

19

12

  8『桃秋墨跡』第二巻第四十八番廣瀬先賢文庫蔵

33・1・1(2)

    9『長春菴桃秋翁御筆』一冊第二番目廣瀬先賢文庫蔵

33・1・4

7・2・ 10   稿』 

64

11    』 

33

12    』 

33

13    『春雪集草稿』一冊廣瀬先賢文庫蔵7・2・

90

14    『春雪集』一冊廣瀬先賢文庫蔵7・2・

89

15

/之印」二顆が押されている。 摸写の署名に「秋風菴二世桃秋拝書」とあり、下に「二世秋/風菴」「桃秋 22番、筆「

16

3に同じ。一五四頁。

17『懐旧楼筆記』巻六「四方負笈二」七一頁。

18『懐旧楼筆記』巻十九「濠梁定居三」二四〇頁。

注意しなければならないようである。『懐旧楼筆記』「凡例」五頁。 め、 19『懐旧楼筆記』は、その凡例に書かれている通り、淡窓六十五歳より六十

20『増補淡窓全集』中巻『淡窓日記』一一六頁。

21

20に同じ。

22『増補淡窓全集』中巻『淡窓日記』一二二頁。

23『増補淡窓全集』上巻『懐旧楼筆記』巻二十

  「濠梁定居四」二四九頁。

24『増補淡窓全集』上巻『懐旧楼筆記』第二十

  「濠梁定居四」二四八頁。

25

24に同じ。

26

23に同じ。

参照