九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
Ta-hang 打行 and fang-hang 訪行 in chiang-nan during the Late Ming and Early Ch'ing period : The historical materials on the urban "Bully groups 無頼"
川勝, 守
https://doi.org/10.15017/2231501
出版情報:史淵. 119, pp.65-92, 1982-03-31. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:
権利関係:
明 末 清 初 に お け る 打 行 と 訪 行
ーーー旧中国社会における無頼の諸史料||
I l
−
−
EE
勝
守
はじめに
る所
以は
︑ 中国の二ハ・一七世紀︑いわゆる明末清初と呼ばれる時期は︑中国史上の劃期をなす変革期である︒その変革期た
単に乙の時期に明から清への王朝交代があったためでも︑異民族満州族の中国侵入があったからでもな ぃ︒それはひとえに王朝交代が﹁民変﹂・﹁抗租﹂・﹁奴変﹂と表現される都市の民衆や農民及び家内奴隷たちによって たたかわれた社会動乱を背景としていたからである︒しかも︑乙の頃︑木綿・絹・麻布等の繊維製品︑農具・鍋釜の 鉄製品や陶磁器・木工品などで︑広汎かっ一般的に成立していた商品生産の展開が国内流通市場の確立と相侠って︑
社会的生産力を向上させ︑それが民衆・農民の生活を支えていた︒それ故に︑乙の時期の農民・民衆たち直接生産者 は生産力の発展を確実に我ものとし︑それを踏えて抗租︑民変等の抵抗を行っていい川ル
とこ
ろで
︑ 以上のように考えた場合︑明末清初の歴史の具体において次の二︑
点が
課題
とし
て残
る︒
その
一は
は︑既にこれまでの研究でしばしば指摘された乙とだが︑明王朝の支配を崩壊せしめた抗租・民変等のちからは︑な にゆえに︑中国の専制支配体制そのものを解体せしめることなく︑異族の征服と専制支配を許したか︒その二は︑清 朝支配に関しては暫く措いたとしても︑明王朝を直接に倒したのは︑華北の農民反乱の李自成の蜂起であって︑当時
明末
清初
にお
ける
打行
と訪
行︵
川勝
︶
六五
明末
清初
にお
ける
打行
と訪
行︵
川勝
︶
六六
経済的に先進地域とされた華中華南の抗租や民変でなかったという点をいかに考えるか︒第三には︑明末清初の民衆 の抵抗を民変抗租奴変とのみ表現し︑﹁民衆﹂範鴫を市民︵都市商工業者︶・農民・奴僕に絞ることがどれほど有効 であろうか︒あるいは︑乙の第三点目は︑第一点と第二点を展開すれば必ず行き当る問題点であるかも知れない︒
本稿は︑もとより以上の諸点に十全に応えるものではないが︑明末清初の歴史の現実の中で︑相当な役割を果して
ハ2﹀
おりながら︑案外に取り上げられる
ζとの少なかった遊民・無頼層の存在に光を当てながら︑三点の問題点究明のた
めに一素材を提供しようとするものであり︑
一種
の史
料集
の性
格を
持っ
てい
る︒
一︑
打行
1
打行の発生
﹃明実録﹄世宗︑嘉靖三八年十一月丁丑条に︑次のような一種の都市暴動のさまが述べられている︒
みな
蘇州海定興りしより︑武勇を招集す︒諸々市井の悪少︑成腕を奮い︑雄傑と称す︒翠数十人を表め︑号して打行
とど
ま
と為す︒火固に禁り︑語詐剰却し︑坊腐の聞に武断す︒是の年︑呉会巌に侵︵あり︶︑各郡邑時に擦縞あり︒応
の ぞ お さ と ど ま
天巡撫翁大立︑既に任に誼べば︑則ち厳禁して之を絹む︒火固に熱る諸悪少の名を訪ね︑府県に撤して捕治す︒
おそ
督責甚だ急なり︒十月に及び︑大立︑卒を携えて蘇州に来り駐剖す︒諸悪益々健るれば︑則ち相与に血を歌り白
ひたいをおおい
巾を以て抹額し︑各々長万巨斧を持ちて︑夜︑呉県長洲︵県︶及び蘇州衛の獄を攻め︑因を劫ふこと自随なり︑
ひら
鼓諌して都察院を攻め︑門を男きて之に入る︒大立︑その妻子を率ひ︑堵を臨えて遜去す︒諸悪乃ち火を縦にし
大立の奉ずる所の勅諭・符験及び令字旗牌︑
て街
癖を
焚く
︒
一時
倶に
煩く
︒
諸悪
復た
衆を
率ゐ
て︑
府治を劫か
す︒知府王道行︑兵勇を督して之を劫く︒将に曙ならんとするや︑諸悪及ち詩門を衝き︑闘を斬りて出で︑太湖
四散探捕し︑首従周二等二十余人を捕獲す︒事︑上に間乙え︑大立に命じて罪を
中に
逃亡
す︒
宮司
兵を
遣わ
し︑
載せ
︑ め︑指揮朱文正等は按臣に付して逮間す︒
厳に
魁期
珍滅
を督
し︑
以て
地方
を靖
ぜし
め︑
知府
王道
行等
︑
とど
知県柳東伯等は俸を住めて︑勃限捕賊せし
嘉靖期の倭窪︑いわゆる後期倭冠に際しては︑既に軍戸制に基づく衛所制度は有効ではなく︑急速市井の無頼悪少 が招募されて新営が編成された︒南京の振武営などがそれであかなところが︑倭冠が終息すると︑募兵の手当に当て る財源も之しくなっていたこともあり︑当局は招募兵の存続に甚だ困った︒蘇州では嘉靖三五・
2一
六年
どろ
より
無頼
層の騒擾が指摘されるが︑右の実録の記事によれば︑嘉靖三八年十一月に招募兵くずれが数十人家って号して打行と
︵4﹀
称し︑火固なる甚だいかがわしい処に本拠を置き︑語詐割劫を事として市中近郊に聾断する︒宮憲の取締りがある と︑機先を制して官街獄舎を襲撃した︒乙れは︑いわば無頼活躍の合戦記である︒それでも︑付﹁数火回︑程詐剰 劫﹂と述べており︑繁華街の裏に潜む暴力の典型的行為を表現する文章があり︑同﹁相与に血を散り︑白巾を以て抹 額す﹂といった組織的盟約関係もまた具えている︒従って右の打行は何分にも臨時的突発的発生物だとしても︑その 初めから組織暴力的存在であったととは明らかである︒
それでも︑嘉靖三八年十一月に初めて出現した打行は巡機翁大立によって鎮圧された︒嘉靖|万暦閣の呉
県の人陳璽︵一五
O
六1
七五︶の﹃己寛堂集﹄巻三︑A為府公送翁巡撫序Vには
︑ 而吾蘇受助独多︒至於更調・将官︑整筋軍士︑調度糧銅︑多設戦艦防海之具︑無不詳備︒海賊聞之︑乗風宵遮︑
数月不敢犯呉境︒所以陰福我呉民者︒凡比之類不知其幾也︒市有悪少︑噺策為乱︑漸不可長︒公撤所司捕之︒甚
快人意︒人以為百世功︒ し
かし
︑ とある︒また︑同じ頃の蘇州府下常熟県の人︑趨用賢﹃松石斎集﹄巻二九︑書
A与陳按院V
にも
︑ て打行之風︑独盛於呉下︒昔年督糧翁大恭︑嘗被其禍︑幾及大乱︒後梢檎薙殺悪少百余人︑此風少息︒近者掠跡 愈密︑詑名子郷宣家人︑遂致道路以目︑宮司莫敢誰何︒異時地方百変︑此輩亦致乱之端也︒
明末
清初
にお
ける
打行
と訪
行︵
川勝
︶
六七
明末
清初
にお
ける
打行
と訪
行ハ
川勝
︶
﹂ ︑
τ
︑
− ︐
︐
FJ
とあって︑当局の取締り強化によって悪少百余人を捕え︑呉下の打行の風は少しく息んだ︒しかし︑かかる打行の輩
そうさ
は郷置の家人に詑名して巧みに潜行したのが実情で︑誰何が難しくなったという︒潜行した打行は︑その組織性の表
現たる﹁行﹂を他の︑例えば﹁会﹂などに変えるものがあった︒王稗登﹃王百穀集﹄呉社編︵万暦四七年序︶に︑
打会︒会行必有手持者数十輩︑為之前駆︒凡豪家之匝折︑暴市之侵陵︑悉出是輩︒与之角勝争雄︑酎闘猛撃︒芳
観之人︑無不罷市掩扉一︑奪醜喪気︒此皆怒髪裂皆︑暴虎葱河之流︒往来信導海気︑焚焼宮癖︑不過此曹為之︒漏
網出押之軒︑跳梁抜愚之党︒司子域者︑宜有以灰其焔而熔其燈也︒
とあるが︑市中に跳梁抜愚し︑豪家の阻折すなわち豪紳らの横暴横車や暴市すなわち市場の盤断などの侵陵を事とす る彼らは依然として打行に他ならず︑城を司るものが警戒すべきものであった︒なお︑漸江の寧波には﹁打郎﹂と呼
ばれるものもあった︒すなわち︑断﹃仙居県志﹄巻二︑風俗には︑
翠衆
捧語
︑調
之打
郎︒
とあ
る︒
蘇州府城における打行の潜行化と同時に︑蘇州以外の江南地方一帯への打行の地域的拡大もみられた︒抱擁﹃雲間
拠目抄﹄巻二︑記風俗︵万暦一二年選序︶に︑
悪少打行︑盛於蘇州︒昔年撫台翁大立︑幾被害︒此風沿入松︵江︶︑以至万暦庚長︵八年︶後尤甚︒ji−−−況此
輩皆由三十年来︑承平生育︑兼以生計甚難︑禍必日織︒若更遭倭乱兵変︑則乗勢娼獄︑必有不可勝道者︑此東南
之隠
憂︑
智士
之所
預料
也︒
とあって︑打行の風は蘇州東方の隣郡の松江府に及び︑万暦八年︵一五八
O
︶以後もっとも甚しくなった︒右の記事が作成された万暦二
O
年頃は︑太平が続き︑生活が苦しくなって︑その禍は日々織しくなるだろうと警戒する︒次に蘇州北方の常州府では︑万暦二年に編集された﹃無錫県志﹄巻四︑風俗に︑
城中之俗︑大抵好文而妻︒臣室率以庖姐珍麗相高︒北門之外︑翠商所来︑倫駆之家︑尤以翠修相肱︒裏路新街等
巷︑悪少年章一衆夜遊︑以詐謀拳勇︑凌瞬間弱︒籍︒
ち よ う な い ぼ う り よ く
と述べ︑常州無錫県の県城内外の裏路・新街の巷区にたむろす忍悪少年が群衆夜遊し︑人を詐謀し人に拳勇を働き︑
よわ
いも
の
闇弱も凌韓しているといい︑その割註にとれを打行と謂うとある︒岡県志の編纂期聞をて二年とみても︑岡県では
遅くとも隆慶末年までには打行の伝播出現があったものと考えられる︒
以上から︑万暦年問︑打行は官憲の取締りを避けて潜行し︑かっ︑蘇州府城以外の江南各府県への地域的拡散があ
っ た
︒
ζうした状況に対するためには︑州県官の単発的取締で打行の終息を得られるわけがなく︑もっと広域的系統
的な地域対策が必要であった︒そのため︑隆慶三︑四年頃︑都察院右愈都御史︑兼巡撫応天等府として蘇州府等を管
掌した海瑞は各州県官の行政執務要項ともいうべき﹁考語冊式﹂︵﹃海瑞集﹄上巻︑二五八l六三頁︑中華書局︑一九
六二年﹀に附した各款の除害に︑風俗薄悪という項を設け︑そこに︑
如不孝不友︑為好為弊︑事仏為娼︑打行賭博之類︒此等事類甚多︑須詳細言之︑亦詳細言其能革不能革之故︒
という一文を填めて︑他の悪俗に並んで打行賭博の類を警戒すべしとする︒さらに︑東林派の巨頭︑高禁竜﹃一晶子遺
書﹄
巻七
︑
A申厳憲約責成州県疏V
にも
︑
一︑悪人者良民轟賊︑義賊去而良民始安︒凡天畳地熱打行把椙之類︑訪其首悪重治︒の籍之子宮︑使禁其党類︒一
有党類詐害良者︑井其首治之︒
とあって︑高馨竜は左都御史となるや︑海瑞同様に所属州県官に責成して︑天畳・地然︑打行︑把総という党類の訪
察を
提案
した
︒
打行から打降へ
とこ
ろで
︑﹁
打行
﹂と
いう
存在
は︑
﹁打
降﹂
2
と表記されるととがあった︒清の康照年聞に編集された裕人穫﹃堅弧
明末
清初
にお
ける
打行
と訪
行︵
川勝
﹀
....L‑
J
、
九
明末
清初
にお
ける
打行
と訪
行︿
勝川
﹀
七0
集﹄九集︑巻二︑打行に引かれる﹁亦巣偶記﹂なる書物には︑
打行︑聞興於万暦問︑至崇顧時尤盛︒:::如牙倫然︑故日行也︒鼎革以来︑官府不知其説︑而吏膏又不暁文義︑
改作降字︒但此輩惟得銭為人効力耳︒何嘗欲人之降︒此予少時所親見︒今此字久而不変故記之︒
とあり︑明清鼎革以来︑打行の行が降字に変えられ︑それは打行が牙伶の行すなわち牙行の如きギルド的組織である ことを清朝の吏背がわからなくなったためであるという︒乙の点は︑また︑乾隆年閣の作である顧公費﹃鋪夏閑記摘
抄﹄
巻上
︑打
降︵
﹃酒
葬楼
秘笈
﹄所
収︶
にも
︑ 康照年問︑男子聯姻︑如貧不能要者︑滋同原媒︑糾集打降︒:::又許訟者︑両造各有生員具公呈︒聴審之目︑又 各有打降保護︒故田打降之降乃行︒非降也︒善拳勇者為首︑少年無頼︑属其部下︒聞呼即至︑如開行一般︒故謂
之打
行︒
とあって︑やはり打降は開行一般の如く︑打行というのが正しいという︒との経緯については後に述べるが︑明代の 打行が清朝になると打降と記載されるようになった乙とは確認できよう︒
しかし︑以上の文言にもかかわらず︑打行を打降と記載するのは何も清朝に入ってみられたものではなかった︒ま
ず︑
崇禎
一
O
年序
刊﹃
嘉一
興県
志﹄
巻一
玉︑
里俗
には
︑ 務本者少︑入身公門者︑目盛月新︑居爆者稀︑而袖手遊間者︑肩摩腫接︑廼若打降悪少︑欽血結盟︑十百成群︑
一呼畢集︒設遇外冠突来︑窺在足市先応者︑必在此曹︒言之可為寒心︒是不可不早為隈防者也︒
とあり︑また︑嘉興県の隣りの嘉善県でも︑崇蹟一
0
年代の知県李陳玉﹃退思堂集﹄第一冊︑述職言︑考満事蹟冊の
一項
にも
︑ 一︑治打降︑以謹愚善︒悪少糾結︑三五成翠︒或為訟徒之羽翼︑或為豪視之鷹犬︒市井揮拳無論︒
とあり︑また︑岡県の郷神陳竜正﹃幾亭全書﹄巻三
O
︑政
官官
︑郷
籍︑
察訪
に︑
打降
悪少
︑五
也︒
とある︒以上の打降という表記の事例がいずれも漸江の嘉興府のものであるととから︑あるいは打降というのは漸江 地方に始ったといえるかもしれない︒同時期︑すなわち崇積年閣の南直隷の史料には依然として打行という表記が続
いて
いた
︒た
とえ
ば︑
撒﹃
太倉
州士
山﹄
巻五
︑風
俗志
︑流
習に
は︑
吾州悪習︑多相殴︑或情無頼︑日打行︒
とある︒しかし︑南直隷︑江蘇地方でも︑清朝に入ると打降の表記が出現するが︑その聞の経緯について︑蘇州府︑
太倉州の崇明県では︑時﹁崇明県志﹄巻六︑風物誌︑習俗に︑
一︑打降︒結党成群︑凌弱暴寡︑勢莫可当︒其最無良者︑偶有小嫌︑即謀放火︒村落中毎遇風起︑有終夜防守︑不
眠者︒:::崇有向打行︒打行者︑云打為行業也︒又名打降︒猶降伏之降也︒明宣徳初︑巡撫周公悦︑男設重大柳
板治之︑此風精息︒至万暦中︑有曹鉄抄化・李三等︒天啓初︑有楊麻大・陳梅二・郁文昌橋・陳二・熊帽子︑名
団円会︒崇顧時︑有黄倫等︑結地皇会︒至油元西・泊二等︑遂子獄中反出︑劫庫焚署︒後又有施君正・胡八︑及
陳章等︑先後倶勢子法︒国朝屯宿重兵︑若輩衰息︒然鳩猶鷹阪︑是在司牧者之善化爾︒
うちとわししょくぎようとあり︑打行というのは打を行業とするものをいうのに対し︑打降とは降が降伏の降であるという︒
の宣徳初に巡撫周枕が重大蜘板を設けてこれを治し︑乙の風が息んだ乙と以来︑万暦︑天啓︑崇頑に至るまでの結党 成群︑凌弱暴寡の徒はいずれも法に艶れた︵すなわち降伏した︶︒国朝清になって重兵を屯宿させたので︑乙の輩は 衰息したが︑なお鳩が腐の眼をしているようであるが︑乙れは牧民官の善化によるのではないかとしている︒右の崇 明県志の指摘によれば︑打行を打降に変えたのは︑先に﹁亦巣偶記﹂の﹁官府はその説を知らず︑吏背も又文義に暁
らかでない﹂から起ったまちがいではなく︑打行の輩が明清両朝を通じて法に伏した乙とを踏まえ︑特に国朝清朝の
善化を称賛する目的を持たせるものであった︒ただし︑崇明県志は︑明の宣徳期に打行の存在を想定し︑その鎮圧を
すな
わち
︑
明
明末
清初
にお
ける
打行
と訪
行︵
川勝
︶
七
明末
清初
巴お
耽る
打行
と訪
行︵
川勝
︶
‑ t ;
周枕の業積とするなど多少の無理がある︒その他にしても岡県志の主張を全面的に認めるわけにはいかないが︑打行 が打降という表記に変ったのが州県官の継続的取締りによって公然とした活動が難しくなった乙とを背景としているので
あり
︑
それは︑先掲の誼用賢の指摘にあったごとく︑打行は郷紳勢力の傘下に入り︑その活動が潜行型となった
こと
も重
視す
べき
であ
る︒
3
打行の構成・組織
上掲
の諸
史料
で︑
嘉靖三八年十一月の蘇州の打行について﹁翠数十を衆め﹂﹁相与に血を歓り﹂と記されたほか︑
﹁飲
血結
盟︑
十百
成群
︑ 翠﹂︑崇明県志に﹁結党成群﹂とあって︑いずれの史料文言も打行が多数来って党類をなす暴力集団である乙とを伝
える︒との内︑﹁相与に血を散り﹂とか︑﹁血を飲んで盟を結び﹂とある乙とから︑同志的ないし誓約的仁侠集団とも 無錫県志で
﹁牽
取県
夜遊
﹂︑
漸江
嘉興
県志
で
一呼
畢集
﹂︑
李陳
玉の
文言
に
﹁悪
少糾
結︑
三五
成 判断される︒それでは︑打行はいかなる組織を持つ集団であったか︒この際︑注意しておく必要があるのは︑打行を
打降
と表
記し
た場
合に
︑
乙の打降は打架と同義で︑﹁争ふ︒喧嘩する︒なぐりあひをする︒﹂という動詞的使い方をす
るという用語解もあるという点である︒しかし︑打行は打降と表記しても︑その本質は打行にあって︑それ故に前項 に引いた﹁亦巣偶記﹂や﹁鋪夏閑記摘抄﹂が打降は非なりと言うのであった︒したがって︑ここでは打行は単なる
︵5︶ ﹁ウチアヒケンクハ﹂という謂ではなく︑﹁如牙伶然﹂たる組織性を具えた集団であることを確認しておく︒
まず︑打行の属性をみよう︒それが暴力を事とするのはいうまでもないが︑
その
暴力
は﹁
拳勇
︵拳
法︶
﹂で
あっ
た︒
また﹁打行賭博之類﹂︵海瑞の文言︶︑﹁天畳地熱打行把視之類﹂︵高楼竜の文言︶のほか︑悪少年・悪少という語を伴
っていた︒高磐竜の文言には打行が天畳︑地熱︑把梶とともに現れていたが︑清の康照朝前期︑江蘇で巡撫から内閣
大学士となった余国柱のA厳禁打降移文V
︵鴫
﹃江
南通
志﹄
巻六
五︑
芸文
︑移
文︶
にも
︑
指其党︑則有天畳・百竜・十三太保・百子尖万之不一其名︒
とあって︑天呈・地熱などの厄がかかった星辰の名や百竜・十三太保・百子尖万など水詩伝に出てくる百八人の豪傑 まがいの人的構成をとったと思われる︒
ところで︑清の康熊初年の漸江︑嘉興府知府慮崇興﹃守禾日紀﹄巻二︑告示類
A一件︑諮訪利弊事V
には
︑ 合行暁諭︑為此一示仰府属官吏軍民士農工商人等知悉︒凡切地方利弊︑如盗賊縞発︑作何緯獲︒:::光視・打降・
豪奴・街語︑作何清除︒
とあり︑打降は光根︵梶徒︶︑豪奴︑街役とほぼ一体のものとして扱われていることがわかる︒
倉州志﹄巻五︑風俗志︑流習に︑
乙の
点は
また
︑搬
﹃太
三十年来︑崇明受畳会害︑近流入吾州︒大約即春状行中︑自相結︑私立名目︒其法公立一甑︑毎月量貧富︑出資 投甑︒入会者︑訟師・打行・街役畢備︒一人有事︑即出願中物︑牽致力︑遂横莫遇︒州尤著者︑日烏竜会︒銭侯 先後瀦其劇︑且解散︒然事敗︑遺党反即以烏竜会謹人︒此外名目不一︒如蔓草︑最海邦所隠慮︒
乙乙でも打行は訟師︑街役及び奴僕とともに同一の階層のものとして秘密結社的な会をつくっている︒しか この組織は公権力に抗するものであったが︑かの清初︑蘇州昆山の大郷紳徐乾学一族の傘下の訟師|打降
l
奴︵6︶ 僕1
街役|膏吏のグループは郷紳の郷里における不正行為を推進する党類を構成した︒乙の場合︑両者の差違は極め
とあ
り︑
るに
︑ て微妙な関係にあるが︑太倉州志の前掲部の続きに︑
吾州悪習︑多相殴︒或情無頼︑日打行︒或情若輩︑自宅裏人︒大約打行半係宅一義人︑則若輩尤雄︒凡其族党︑与
其家児難調︑即群向話︒庚午楊発︑佳何者六七
外親
︑
井外親之外親︑倶狐仮作焔︒今則郷紳相戒︑不軽収一僕︑
人︑若輩分投無受主︑各時嵯散︒
やと
とあって︑無頼を傭う乙とを打行といい︑若輩を償うのを宅裏人︵おやしきのひと﹀といったが︑大体︑打行の半ば は宅裏人で︑若輩が尤も雄であり︑
一族を集めて勢威を持っていた︒なお︑乙乙で若輩とはどのような人をいうか︑
明末
清初
にお
ける
打行
と訪
行︵
川勝
︶
七
明末
清初
にお
るけ
打行
と訪
行︵
川勝
︶
七四
﹁郷紳が相戒めて︑軽しくは一僕を収めない﹂という乙とからみれば奴僕の可能性もあり︑また﹁其の家児調し難け
そし
れば即ち群向して詰る﹂とあって︑郷紳の子弟であるかも知れない︒乙の点については︑彼の清の黄六鴻﹃福恵金 書﹄巻十一︑刑名部︑禁打架︵汲古書院縮印本︑一二八頁上︶に︑
近日呉越ノ州邑︑等ノ無頼少年有り︑井テ紳衿不肖ノ子弟ヲ糾合シ︑︵中略︒後掲︶号シテ太歳ト称ス︒名テ打
降ト
日フ
︒ とあって︑無頼少年は紳衿の不肖の子弟を糾合して打降をつくっているというのである︒また︑時﹃常熟県士山﹄巻九︑
風俗
A糧憲劉公風俗六禁V
の一
に項
も︑
一︑
禁蕗
手打
降︒
示為
琴川
一邑
︒:
::
誼近
多按
手好
梶間
徒打
降︑
不事
恒業
︑山
而一
鈎引
良家
子弟
及愚
議︑
無知
観其
所 好
とあ
るが
︑
ζ乙では良家子弟とあって必ずしも郷紳の家と断定したものではないが︑
それ
を含
む可
能性
は大
あで
る︒
また
︑先
掲の
﹁亦
巣偶
記﹂
にも
︑ 打行︑聞興於万暦問︑至崇頑時尤盛︒有上中下三等︑上者即秀才貴介亦有之︑中者為行業身家之子弟下者則遊 手負担里巷無頼耳︒三種皆有頭目︒人家有闘殴︑或訟事対簿︑欲用以為衛︑則先嘱頭目︑頃之斉集︑後以銀銭付 頭目散之︒而頭目男有謝儀︒散銀銭︑復有相頭︑如牙伶然︒故日行也︒
しよ︿ぎようしん
とあり︑打行には上中下三等の種類があり︑上等は秀才貴介即ち郷紳の子弟を含む生員くずれ︑中は確かな行業・身
だ い む ら ま ち
家のある中流家庭の子弟︑下は遊手で里巷の負担となる無頼である︒三種にはそれぞれ頭目がいるが︑闘殴や訟事の 対簿︵書類審査︶で護衛を頼みたいものは︑必ず頭自に人数を斉集することを嘱し︑後に銀銭を頭自に付し︑頭目は
わりぴき
それをパラまく︒頭自には別に謝儀がいる︒また子分に銀銭を散ずる場合︑拘頭があり︵ピンハ︑不分は頭自に入る︶
ちょうど牙信の行の如くであるので︑︵打︶行というのだとする︒なお︑清中期の高官かっ学者の楊名時﹃楊氏金書﹄
巻三
O
︑別集二︑示︽通行禁令示Vに ︑ て禁打降光握︒濃省有無頼凶徒以及営兵子弟︑醐酒撒液︑凌虐善良︑深為可悪︒示後各該地方官厳査奪処︑母得
姑狗
︒
とあ
れば
︑雲
南地
方で
は打
行に
は営
兵の
子弟
︑も
また
参加
して
いた
︒
以上から確認できるのは︑打行は単に水平的な仲間集団ではなく︑頭目︑首領をもっ上下関係の明確な組織暴力集
団で
あり
︑
しか
も︑
郷紳一族や奴僕などが当の郷神の勢威を背景として参加してくることもあったという諸点であ
る
。
( A )
打行の活動H営業内容
打行の活動を記す史料文言には︑たとえば﹁成腕を奮い︑:::火固に染り︑程詐剰劫す﹂︵﹃明実録﹄嘉靖三八年十
だ ま す ぼ う り よ く を ふ る う
一月丁丑︶とか︑﹁詐謀拳勇﹂︵万暦﹃無錫県士山﹄巻四︑風俗︶とあって︑人を詐謀・程詐する乙とと剰劫・拳勇する
乙との両者を必ず述べていた︒それでは人をどのようにして詐謀し︑いかなる場合にどういう形の拳勇を発揮するの
であろうか︒その諸事例を検討してみよう︒
活漆﹁雲間拠目抄﹂巻二︑記風俗に︑
悪少打行︑盛於蘇州︒昔年撫台翁大立︑幾被害︒此風沿入松︑以至万暦庚辰後尤甚︒又名撞六市︒分裂某処某
班︑臨時行強横︑有閑郷人持物入城︑設計誌編︑至深広之処︑半騎半奪者︒有同赴官理訟︑為仇家賂集︑駕禍紅
打︑而其人無所控訴者︑有白昼倫換︑地方結紐送官︒適遇党与求解脱去︑反受侮虐︒如俗所称妙塩豆者︑諸如此
類︑不可弾述︒幸知府倉公獲西郊葉姓者︑提以重酔︑衆始称輯︒然不過大車之風︑終非格心之化︒況此輩皆由三
十年来︑承平生育︑兼以生計甚難︑禍必日織︒
4
はあ
り︑
ここでは郷村の農民が品物︵市場で取引する農工産品か︑あるいは身の回り品︒前者の可能性が大︶を持つ
明末
清初
にお
ける
打行
と訪
行︵
川勝
︶
七五
明末
清初
にお
ける
打行
と訪
行︿
川勝
﹀
七六
かた
て蘇州府城︵H呉・長州県城︶に入ると︑設計証騎︑半ば騎られ半ば奪われる︒また︑宮に告訴するものがあると︑
い ん ね ん を つ け て な ぐ り ぬ す み と
P
ほば
くし
て
仇家が賂集し︑駕禍在打し︑その人が控訴しないようにする︒また︑白昼倫換し︑地方︵地保︶が結証して送官しで も︑その党与が救出をはかり︑︵捕縛した側が︶反って侮虐を受ける︒以上からこの事例の打行の活動は①物品の強 奪横領︑@告訴事件で被告側に依頼されての原告側の脅し︑@警察沙汰をめぐるいざこざなどが指摘されている︒
B
蘇州府常熟県知県秋橘﹁開荒申﹂︵﹁常熟県水利全書﹄巻一︑附︶の一項
A一
︑駆
打行
悪少
帰農
v k
︑ 打行之風︑本県頗盛︑成牽合党︑接管挺身︑不論是非曲直︑惟以必勝為主︒凡愚民有報仇復怨之事︑争投其党︑情其人︒交拳者︑唱釆者︑得勝者︑論功称謝︒甚且打至事限外︑其月日死︑其期不爽︒無論域外山川壇一帯︑為 此輩之戦場︑即街門前︑叢叢族旗者皆是也︒無論小民借交報仇︑即置僕狐仮虎威︑出入街門︑往往挟此輩︑以為
重︒
不得
志子
宮府
︑必
臨時
志子
打行
︒ とある︒右例の打行の説明では︑打行を利用する目的が﹁報仇復怨﹂のことにあった︒そして︑宜僕
H郷紳家の奴僕
くゃ
しよ
・豪奴も︑また狐が虎の威を仮りるように郷紳の勢威を循として街門に出入し︑往往この打行と結び︑打行を尊重し た︒そ乙で官府に志を得ないものは必ず打行に志をつげて目的を遂げたという︒ここで打行と置僕及び街門の街役・
青吏が結託しているのは明らかである︒それにしても︑右の打行では︑依頼者が仇をうち怨を晴らしたい時に利用す
ほう
りよ
くを
ふる
う
ると︑拳を交す者︑喝釆した者︑勝を得た者︑それぞれ論功称謝とあって打行機能が十分に働くのであった︒
何万暦三三年修﹃嘉定県志﹄巻二︑彊域︑風俗に︑
市井悪少︑侍勇力弁口︑什伍為群︑欲侵暴人者︑轍陰賂之︒令子怨家所在︑腸相触仔︑因群殴之︑則又極列不根 之調︑以其党為証佐︒非出金吊厚謝之︑不得解︒名目打行︒告許成風︑一家有事︑闇巷轍蜂起︑連十人為一党︑
a連数十事為一詞︑非必真負究抑︑特欲魚肉之以為利︑名目連名︒設呈睦枇之憾︑或先有借貸︑遜逓一家之内︑有
死者職以告官︑其人不服則求検験︑検験則無不破家失︒
ねの
とあり︑これも先の倒常熱県の事例とほぼ同内容を述べているが︑先に交拳・喝釆・得勝とのみあったと乙ろを﹁不
ない
Eと
ぱ
根の詞を謹列し︑その党を以て証佐と為し﹂とあり︑打行に金吊を出して厚く謝するのでなければ︑かかわりから解
放されることはないという︒
(同
崇頑
一
0
年代の漸江嘉善県知県李陳玉﹃退思堂集﹄第一冊︑述職言︑考満事蹟冊の一項︑
治打降︑以謹愚善︒悪少糾結︑三五成翠或為訟徒之羽翼︑或為豪根之臆犬︒市井押拳無論︒査得︑往時尚有殴 人於頭儀門者︑職到任︑下令厳禁︒凡有犯者︑立時痛責一︑所依者党援︑即井其党援市治之︒所選者城社︑即井其
域社而倒之︒非敢破柱之威︑柳以戟向井之暴而己︒
とあ
り︑
ことでも打行は訟徒の羽翼︑豪梶の鷹犬となり党援によって組織的活動をしている︒その内容は岡仰と同じ
であ
る︒
同時﹃蘇州府志﹄巻二一︑風俗に︑
市井悪少︑侍其拳勇︑死党相結︑名目打行︒言相来如貨物之有行也︒許訟之家︑用以伺伏街門︑対簿甫畢︑即狙 撃儲家︑欲得而甘心駕︒以仮命題人者︑亦号召之使争先排閥︑恐行打捨︒
とあり︑これも倒以下と同じ内容であるが︑この史料で注目すべき点は︑清朝康照閣の史料文言にもかかわらず︑打 行と表現している点であるが︑それは市井の悪少がその拳勇を特んで︑死党をつくって相結び︑ちょうど相来って貨 物物資それぞれに﹁行﹂があるのと同じ組織をつくった点を強調するためであろう︒
同時﹃常熱県士山﹄巻九︑風俗A糧憲劉公風俗六禁V
には
︑ 一︑禁務手打降︑示為琴川一口巴︑僻処海開︒年来水阜︑頻伯究荒︑遊至兼之︑賦急差繁︑民寵困苦︒即素封之家︑
亦巳捉襟露肘︒本道駐節蛮土︑深切関念︒凡利弊有関民農者︑事無巨細︑不惇領袖柄︑力与興除︒誼近多務手好問 根徒打降︑不事恒業︑出向一鈎引良家子弟及愚議︑無知観其所好︑曲意超承︒如性批御酒暗博者︑則以掛薬呼盛誘
明末
清初
にお
ける
打行
と訪
行︵
川勝
︶
七
七
明末
清初
にお
ける
打行
と訪
行︵
川勝
﹀
七八
之︒如愛練勇使械者︑則以拳法武備導之︑善子音楽者︑即以学唱串戯惑之︒以致若輩︑縞貨掲責︑頂撮銭糧︑美 食鮮衣︑恋情浪費︒自此物以類表︒不分遠近︑違禁聯盟︑非独禁城之内外皆然︑而県治東南特甚︒更有横行郷 曲︑種種不法︑将来巨側︑方深実切地方隠害︑合再厳禁︒仰該県︑嗣後︑凡有前項務手椙徒打降無頼︑須病改前 轍︑洗腸機肺︑扉践欽跡︒其不肖子弟︑務合安分守業︑母容の習匪流︒倫再枯終不俊︑是属梗化︒除一面現在密 訪会究外︑許本家父兄及受害人等︑指実赴告︑立刻飛提︑縄以大法
0
4
る と
・ 一 巴
ζbもやしみ
tE
とあり︑ととでは禁令の対象を瀞手打降としているので︑①酒に醐ひ賭博にふける者には麹抽と呼壷で誘い︑②練勇 使械を愛する者には拳法武備で之を導き︑③音楽を普くする者には学唱串戯で惑わす︒また︑④財貨を縞め責務を負 わせ︑⑤銭糧を頂撮︵
H
包撹︶し︑美食鮮衣︑恋情浪費するという︒打行としての活動は既出のものの域に含まれる
ので
あろ
う︒
鵬﹃江南通志﹄巻六五︑芸文︑移文︑皇清︑余国柱
A厳禁打降移文
v k
は ︑ 為厳禁打降︑以除民害事︒照得︑打降之為害︑地方惟三呉有其事︑遂有其名︒詣其根由︑始子瀞手無頼︑各覇一 方︑城鎮郷村無処不有︑籍拳根為生涯︑視善良如凡肉︒指其党則有天畳・百竜・十三太保・百子尖万之不一其 名︑語其悪則有喪命傾家訴離姦占放火撒育不一其害︒毎当春月︑則醸金演劇︑借報饗之名︑而苛欽民財︒精不遂 慾︑牽行兇殴︒或値隆冬︑則駕鷹逐犬︑以捉獲為事︑而握掘墳墓︒若与理論︑反遭奈毒︒期遇灯節︑則争勝︒或 因婦女再酷︑摘裁酷詐︒或乗構結調訟︑包撹虹智︒侍算勢豪為域社︑結連街露為腹心︒彼既侍有護身之符︑向何 畏乎三尺之法︑更有無知郷愚︑見人買地造墳︑職以妨碍風水︑生計匝撞而営葬之家︑復慮勢孤︑力単設局抵敵︒因市彼此糾集︑打降為防護︑若輩復呼朋類以快意︒白昼列械︑勢逸冠盗︑倖雨漏網︑則酒食財任其貧盤︒一遇事 発︑則獣奔鳥散︑卸禍他人︒種種悪端︑難以悉数︒有司狗情不究︑小民畏勢呑声︒若不立法査紙︑此害将何底
止︒除本都院時加察訪傘究外︑合行筋禁︑有司各宜仰体本都院︑為民除害至意︑即将打降一項︑此之盗逃之案︑ (
ω
力行
保甲
之法
︒ とある︒右ではまず︑三呉︵江蘇・漸江︶のみ打降の害があるのは︑遊手無頼がそれぞれ一方を縄張りとし︑城鎮郷
や
︿ ざ し ょ
︿ ぎ よ う 伽 宮 崎 町 い
村の至ると乙ろを占拠し︑拳視を生涯とし︑養良な民を九肉とした︒
その
悪害
は︑
喪命
︵生
命を
喪う
︶︑
させる︶︑訴離︵家の離散︶︑姦占︵妻女の強奪︶︑放火︑撒青︵不明?︶など︒春の月には醸金して演劇するが︑
かり
あっ
冶
寮の名に借りて︑民の財を苛飲する︒稿慾を遂げなければ︑群して兇殴を行う︒真冬には︑鷹を狩り犬を逐い︑捉獲
ぬきほを事とし︑また墳墓を握掘り︑もし与
K
理論すれば反って奈毒に遭う︒正月十三日から十七日までの灯節には︑勝を
さい
ζん
さ え ぎ り と め る た よ り
争い︑或は婦女の再礁には︑欄裁酷詐し︑或は詞訟を構結して︑包撹在一驚するに乗ずる︒勢豪即郷紳を城社とし︑街
おふだ役を腹心とする︒彼既に護身の符が有るを侍み︑なお︑何ぞ三尺H法律を畏れるであろうか︒右の打降を厳禁する処
置で注目すべきは︑右文の終りに︑保甲法の活用を行えと主張する点である︒保甲法は極めて日常的な地域対策であ り︑打降がそれによって取締る必要があるというのは︑それだけ打降が官憲の取締り対象として難しいものになって
傾家︵破産
報
いる
証拠
でも
ある
︒
( 同 超宏恩﹃玉華堂両江奏稿﹄巻下︑
A為
厳行
筋禁
事︒
本署
院察
勘海
塘︑
行舟過松︑訪有松郡応行厳禁数条︑開列子
後
V
K
︑ 一︑松属浜海︑民多弓惇︑毎有土豪好勇闘狼遇事︑糾衆打降︑傷人猿命︒嗣後︑務宜厳行査禁︑倫有此等悪根立会平詳報
︑縄
以大
法︒
一︑松属民間多蔵鉄俊・欽尺・尖万・拳心・刻文・金剛圏等項器械︑毎過闘殴︑持此傷人︑嗣後務宜厳禁︑有即徽 報鎖慨︒倫再私蔵︑査出定︑即治以私蔵軍器之罪︒並禁鉄匠︑不許打造︑有犯逮坐︒
乙乙には打降が闘殴につかう武器が挙げられている︒鉄竣︵綾は織機のひ︑なお︑竣鎗は投鎗|﹃武備志﹄︶・鉄尺
︵短い鉄の棒︶・尖刀・拳心︵不詳︑とげ
H
心がついた手はめか︶・鶏文︵文はさすまた︶・金剛圏︵不詳︶などで︑そ
明末
清初
にお
ける
打行
と訪
行︵
川勝
︶
七九
明末
清初
にお
ける
打行
と訪
行︵
川勝
︶
i へ
。
の使用︑所持が厳禁された︒
川﹃雅公心政録﹄撒示︑巻一︑A為通飾共謀官︑方以粛吏治事V
に ︑ 一︑打降︑禁市後命案可少也︒予省民風強惇︑一言不合︑轍感揮拳︑甚至万杖柏加︑醸成人命︒此皆習於拳勇所 致︑為地方官者︑果能平時留心︑勧諭講譲興仁︒遇有学習拳棒者︑即行重責︑則違兇闘殴之風息︑而人命白少︒
各該州県中︑有能命案︑較前減少者︑記功二次︑較前多者記遇二次︒
とあり︑岡が武器の使用所蔵の禁を述べたのに対し︑乙れは拳法や棒術など武術の習練を禁じたものである︒なお︑
右は予省すなわち江西省の事例である︒
(J)
呉宏﹃紙上経論﹄巻五︑告示︑会示打降
V
に ︑ 為厳禁兇徒打降︑以全民命事︒照得︑闘殴傷人︑律子重典︒兇徒楽衆︑新例尤厳︒本県近日批閲訟牒︑毎見.繭民 勤職打降︑手足之外︑碍石刀根︑無施不可︒人当気念之時︑挙手自不容情︑欲保身家︑全在此時按捺︒若任性争 強︑描碍飛石︑万礼根打︒血肉之躯︑何能堪此︒所以謹属保奉者︑畳畳見告︒被傷之人︑得以不死者︑倖耳︒万 一適中致命之処︑因傷碩命︑勢必監傷通報抵命︒兇犯拘会到官︑幽囚獄底︑傷伏梢有未明︑一審再審︑三木無 情︑爽訊之下︑痛楚哀号︑本県未嘗不為慨側︒然必真情吐露方可拠定愛書︒一爽不己而至於再︑再爽不巳市至於 三︒肉綻皮聞︑現前苦悩︑皆由自作自受︒一命一抵︑是殺人適以自殺行兇之人︑何嘗得以倖脱︑到得身擢法網︑
悔何及哉︒合亜出一示厳禁︑為此示仰県属軍民人等知悉︑繭等務宜俗遵一不禁︑於性発之時︑加意忍耐︒但欲挙手︑
先須念及自己監禁牢獄︑受刑抵命之苦耐︑得一時之性︑自然事息気乎︒況乎口角微嫌︑郷隣可以勧解︒縦有積仇 夙怒︑具詞可以伸想︑不許於途次撞遇︑檎人殴打︒如有兇悪之徒︑三五成群︑迎途伏路︑選裁讃殴者︑是即顕述 禁令︑無論被打之人︑成傷不成傷︑責在該処総約保都︑即時協紐赴県︑以連大法処︒
とあ
るが
︑
ζれは光線取締りを厳しくした康照閣の新律で打降等の兇徒来衆は強く規制されるようになったが︑彼ら
は手足の外︑碍石や万視で人を傷つける︒しかし︑逮捕した兇犯に対する訊聞は厳しく︑再三の侠訊すなわち爽視で 罪人の両脚をはさむ拷聞が行われるという︒それでも︑法の網をくぐり︑三五群を成すものに対しては保甲制が機能 すべきで︑とれら打降による傷害事件が起きたら︑当該保甲の総約・保隣の責任とする︒
同諸人穫﹃堅孤集﹄九集︑巻二︑打行所収の﹁亦巣偶記﹂に︑
人家有闘殴︑或訟事対簿︑欲用以為衛︒
とあるが︑実は凶
lm
の諸事例が打行の活動について述べた最大公約数的記載はとの闘殴事件と訟事について護衛を
頼む
もの
であ
った
︒
( L )
顧公
費﹁
鋪夏
閑記
摘抄
﹂︵
﹃酒
芽楼
秘笈
﹄所
収︶
巻上
︑打
降に
︑ 康照年間︑男子聯姻︑如貧不能表者︑滋岡原媒︑糾集打降︑径入女・家鎗親︑其女必靖親扶上輔︑冊以鼓楽迎帰成 親︒又許訟者︑両造各有生員具公呈︑聴審之目︑又各有打降保護︒故日打降之降乃行︑非降也︒善拳勇者為首︒
少年無頼︑属其部下︑聞呼即至︑如開行一般︑故調之打行︒今則功令森厳︑此風不興失︒
とあるが︑他の史料文言と異なる指摘は︑打行が貧にして妻を要れない男の略奪結婚に一役買っている乙とである
o
M
黄六鴻﹃福恵金書﹄巻十一︑刑名部︑禁打架には︑打行の活動について極めて明解に︑
ヤワヲ
近日
呉越
ノ州
邑︑
ヒ鋭
Y鰐駒少年有リ︑井テ紳衿不肖ノ子弟ヲ糾合シ︑香ヲ焚キ血ヲ歌り︑教師ヲ公請シ︑拳棒ヲ
ホq
由 ひ チ ヤ ミ セ ザ カ ヤ
学習シ︑両管ニ花較ヲ刺続シ︑身ニ斉︿喪服で裳下の絹﹀ヲ服ジ腰ニ短甲︑狐翠狗覚︑茶坊酒捧ニ出入シ︑蜂瀞
拘V
ツ タ ジ ア ゲ ヤ タ
h wキψ川ヒト
b w
ワル壱
JV
豆電
ヒト
dF富から
蝶舞︑紅粉青楼ニ顕狂ス︒他人不平有リト聞ケパ︑便チ仇ヲ報スト指ジテ捨毒ヲ怒ママニジ︑伊ノ兇−二時ヲ秤
アヲマリウテ
q uw e
ノカジヲ
へパ︑轍千讃殴シテ股肱ヲ折ルコトヲ為ス︒号ジテ太歳ト称ス︒名テ打降ト日ク︒
と説明している︒乙れもまた打行︵打降﹀が不平分子の報仇のため槍奪を窓ままにするということで法の規制を期待
乙の文言から︑打行や無頼少年が明清時代の経済の発展︑都市の繁栄の申し子的存在である乙とも看
する
︒し
かし
︑
明末
清初
にお
ける
打行
と訪
行︿
川勝
︶
;¥
取 さ
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れ事
で 滑あ 初
完 さ i
け
n る
fτ
訪
と行 / I I 勝
;¥
二︑
訪行
訪行の発生 明末︑清初には︑打行と似た組織に訪行というのがあった︒前掲の繰﹃太倉州士宮巻五︑風俗志︑流習には︑
上官懲里豪︑尋主名︑日訪察︒勢必寄耳目︑則有姦人為窟︑招賄羅織︑毎平民負究畢命︒至持長吏及稽紳短長︑
目名
訪行
︒町
一一
需品
開
r
醐鳴
害甚
探尤
︒当
事一
落其
術︑
将胎
伊感
︒ とあり︑上官が里豪を懲罰するとき︑犯罪容疑者を尋問するのを訪察と日う︒その際︑州県宮は必ず下役︵
H
耳目
︶
スキ
ヤシ
ダ仰
に情報の提供をさせたが︑姦人は賄賂を使って逃れ︑つねに一般民が究罪を負った︒一方︑州県官や郷紳の短所欠点
しよ
うば
い
を把持する機闘があり︑名づけて訪行と日った︒その割註に凡そ行と云ふは︑猶お牙行を聞いて生理を作すがどとし
︵8﹀
といい︑訪行という組織は打行と同じく利益集団︑仲間組織であった︒ただし︑右史料の文言では﹁長吏及鱈紳の短
そ れ が 何 の た め で あ る か な ど は 十 分 に わ か ら な い
︒ 断
1
乙の
点に
いつ
て︑
﹃嘉
定県
士山
﹄巻
︑二
彊
を長
持し
﹂と
あり
︑
域︑
風俗
︑に
然謂執一県生死之柄︑上至長吏︑猶或陰持短長︑伺間諜盤︑名目訪行︒
とあり︑陰に州県地方長官の短長を持し︑伺間︵すきをつけねらひ﹀臨時蚤︵毒針を指すのをほしいままにする︶する という︒ご県生死の柄を執る﹂とある乙とから︑誰かが訪行をつかって知州知県ら地方官を牽制しようとしたので ある︒訪行は打行に比べ︑それを叙述している史料が極めて一部に限られている︒しかし︑明末清初時の蘇州府常熟
の県
地方
社会
を活
し写
た﹁
虞譜
士山
訪﹂
行伝
第一
︵﹃
陽虞
説苑
﹄乙
編︑
都京
大学
人文
科学
究研
所蔵
︶に
は︑
訪行︑何始乎︒始乎明季︒直指使行部︑訪事豪費︑必寄耳目於所司︒時則有謂育大好︑鼠身街門︑交通近習︑或
居奇貨︑或報私仇︑羅織成款︑献之所司︒飛株提騎︑厳会密繁︑設局講款︒委其重賂︑甫得弁雲︒己致傾家︒如 是者︑謂之造報︒造報之入︑必推一人為宗︑而翠兇附和之︒一倍百従︑競相標梼︑名目訪行︒然其時為訪行者︑
不遇豪奴街謡︑千百成翠︑猶仰郷紳之鼻息︑伺官長之喜怒︒今則在城在郷若貴若賎︑郷紳反仰其鼻
千百
成翠
︑ 息︑宮府因之為喜怒︒以此徒党日多一目︑声勢日加一目︒
とあり︑訪行について詳細な記述を行う︒これによれば︑訪行は明季に創まる︒天子じきじきの御史︵﹁直指使﹂︶が
さがしとらえる
巡察を行い︵﹁行部﹂︶︑豪蜜を訪掌し︑必ず耳目を所司に寄せさせた︒時に︑猪膏大好は︑街門に賀入し︑近臣と交
か担もうけ
通し︑或は奇貨とし︑或は私仇を報じ︑羅織成款︵罪のないものを謹ひ捕へてその罪を構成︶し︑とれを所司に献じ た︒ただちに罪人を捕える提騎が派遣され︑厳しい逮捕と密かなひっ立てがあり︑たちまち犯罪事件がつくられる︒
よほど巨額の賄賂でもつかわない限り︑その罪は晴れない︒それで傾家破産してしまう︒とれを造報といい︑
ζの
人 は必ず一人を推して首領とし︑群兇が乙れに附和し︑一倍百従︑競って相い標梼するを︑名づけて訪行と日う︒とと
かおいる
ろで︑明未には訪行は豪奴︑街役に過ぎず︑千百群を成しても︑猶お郷紳の鼻息を仰ぎ︑州県官の喜怒を伺っていた が︑今︵清初︶は在域在郷︑貴も賎も︑訪行となり︑千百群を成し︑郷紳は反ってその鼻息を迎ぎ︑官府の方が乙れ
かおいる
によって︑喜怒をかえるようになった︒こうして︑乙の党の勢は日に日に盛んになっているという︒
ところで︑訪行の発生は︑右の﹁虞譜志﹂によれば明末であるというが︑先掲嘉定県志によれば万暦聞には確認さ
れる
︒乙
の点
につ
いて
︑﹁
虞諾
志﹂
序文
には
︑ 訪行︑生殺之柄︑自下操也︒志漕量糠背︑耗国賊剥民髄也︒志街役︑飛市睡人也︒志悪紳︑貧而不知止也︒志劣 衿︑営狗有名教蕩如也︒士山打行︑触景風生︑為訪行爪牙也︒志訟師︑為訪行耳目心腹也︒葉為一巻︑名目虞︒
とあり︑訪行は︑漕轟根青︑街役及び悪紳劣衿らと結び︑また︑打行は訪行の爪牙︑訟師は訪行の耳目心腹となって いるという︒打行︑訟師の発生が明末であることから︑訪行もまた同じ頃の出現であると考えられる︒
明末
清初
にお
ける
打行
と訪
行︵
川勝
﹀
八三
明宋
清初
にお
け各
打行
と訪
行ハ
川勝
﹀
J¥
四
2
訪行をつくる人々とその行動
﹁虞譜志﹂には蘇州府常熟県の訪行の発達史として︑次の三期を指摘する︒
湖其源流︑則自部声施而始盛︒芦施広保生社︑其党則有朱霊均・郷田升・陸恵雲等︑若市人号日乾児︒直指秦公 世禎︑先後捕殺之︒霊均漏網猶存︒於是招集旧人︑扱引後進︑復相図表︑有八大分・八小分︑号部氏中興︑此訪 行之一変也︒造王九玉執牛耳︑角立門戸︒其党始分而為一一︒時則有南北部之称者︑訪行之再変︒九玉擁獄後︑其 党競相雄長︑為之領袖者︑不下数十人︑市附之者以千百計︒訪行之盛︑至於斯極失︒此訪行之三変也︒
すなわち︑第一期は郁声施が首領の時で︑その党には朱霊均︑都日升︑陸恵雲等があり︑ひと号して乾児︵乙ぷ ん︑実子分︶という︒清初︑巡撫秦世禎が前後して捕殺した︒第二期︒朱霊均は法網を漏れて猶お存した︒乙乙で旧 人を招き︑後進を汲引し︑また図表し︑八大分・八小分があり︑部氏中興といった︒乙れが訪行の一変︒第三期︒王 九玉が盟主となり︑また一家をつくった︒その党は始め二分し︑時に南・北部で称された︒訪行の再変︒第四期︒王 九玉が獄死し︑その余党が競って雄長をはかり︑領袖数十人を下らず︑附和する者千百で計える︒訪行の盛はこ乙に
極っ
た︒
行訪
の三
変︒
﹁虞
詰士
山﹂
訪行
第伝
一は
︑
A朱相公
V
A北頭ニ伯伯附文氏小営
V
驚散一家骨肉A
V
の三項より成る︒三項を訓読してみ よう︒便宜的に一訪行グループどとに凶・倒・削をつける︒
(A)
朱 相 朱相公︑字は霊均︑号は莫愁︑孫方伯家の優奴なり︒訪行にして部氏乾児の長たり︒部声施没し︑遂に牛耳を執
外 ︶門 化
る︒根道張公︑乙れを捕鞠するに︑臓私万を以て計り︑減等の例とて謹荒に投ず︒都内に遁入し︑大盗黄膿・李三 に依りて親戚と為る︒当道頗るその毒を受く︒梁給諌特にこれを疏弾し︑部議成を加す︒尋いで故里に宜帰し︑復 た壇坊を主る︒猪膏・大鐘・悪衿・豪紳は皆その門に出で︑朱相と号す︒私人を養畜し︑大猪と交通し︑官府を把
公
持す︒海防同知魯某︑通家弟名を以て帖し︑相往還す︒霊均夷然として礼を為さずして日く︑彼固より我に求むる有
み ち び
︵ 香 の 名
︶
りと︒稿紳許瑠は霊均と納交せんと欲し︑乙れを延きて室に入れ︑迷香洞を進め︑照春扉を掩ひ︑錦祷を地に設く
かん
げん
る乙と︑数十層を累ねて︑以て床第に代へ︑その温且つ厚きを取りて声は戸を出でず︒時に議会は総竹並び奏さ
書かもり
れ︑鵠酌横飛し︑夜以て日に継ぐ︒熔僕通問する者は腫を霊均の門に接す︒時に珍味と為すは︑以て乙れを霊均に
とし
ら
遺り︑転じて以て門下の客に賜う︒甲長︵康照三年︑一六六四︶春︑抜富の挙を為し︑富民王叔仁等の款を担え︑
密かに塩院に送る︒霊均人に誇示す︒諸富人争って醸金し︑霊均の為に寿ぐ︒多き者は千金︑少き者も数百を下ら ず︑その家の肥幡市に随ひて乙れを上下し︑始めて釈されて帰る︒道路目を以て︑敢てその字を斥らず︒威な朱相公
と称
すと
云へ
り︒
( B )
塔後大相公︑姓は銭氏︑号は維周︑亦た︑臭瞳と号し︑顧参政家の世僕なり︒父の耀初め屠戸と為り︑部氏党に梢ぼ霊均に武
後そ
の党
漸く
盛ん
にし
て︑
坐して獄に下されて死す︒朱霊均の主盟の時︑維周は八大分の首為り︒
ざ し き ろ う ね を つ け る
ぷ︒糧道の承差に充つに︑家に軟監を設く︒平人と圏逼し︑講価の所なり︑花庁宴会博突の場なり︑帳房で群兇の
域 郷 各 区 の 事 款 を 細 書 し て
︑ 狂 生 某 は 酔 帰 し て そ の 里 を 過 密謀の地なり︒房中に百事匝を設け︑
乙れ
を分
貯す
︒
り︑堂上方に楽を奏するを聞き︑
その
門に
大一
書し
て日
く︑
肉を
銭売
して
人肉
を食
い︑
一家歓びて千家突くと︒その
豪横此くの如し︒世家の子陸載商︑維周と交納せんと欲し︑乃ちその僕婦某をして観粧麗服せしめ︑乙れを延きて
れ ん 巴 ま ど か げ ま 門 男 色
︶
室に入れ︑掃曲房を為くり︑繍祷を設く︒載商︑隔間よりこれを窺う︒又︑その俊童王周郎なる者をして︑龍陽を
つ か え し ゃ く わ た
︿ し
以て維周に事へしむ︒維周家に宴を設け︑訪行王周郎を延きて座に在る︒載商︑突入して維周に揖して日く︑小紛
かたじけなおひきたておでましをかんしゃします
辱くも不棄を承け︑特来叩謝す︒乃ち諸轟に遍揖し︑劇飲の歓甚し︒乙乙を以て入幕を得る︒海虞銭氏の要路に居 る者有り︑引きて同宗と為し︑兄弟の好を敦くす︒その居る所に縁り︑塔後大相公と称し︑人亦た此を以て乙れを
称す
︒
明末
清初
にお
ける
打行
と訪
行︵
川勝
﹀
八五
明米
清初
にお
ける
打行
と訪
行ハ
川勝
︶
ー ︑
﹂ ︑
1ノ 白
︐ ︐︐
( C )
北頭二伯伯附文民小営 北頭二伯伯︑姓は文氏︑︷子は樹仲︑訪行に入りて四十年︑今老ゆ︒虞山北部の盛︑樹仲より厭の後︑支派日に分 かれ︑各々門戸を立つ︒然して巨好大靖︑必ず樹仲に譲り︑一頭地を出し︑推尊の号を競って日く︑先輩は北里に 居り︑糟紳士庶その門に幅鞍す︒四方の逃命者︑多く招納せらる︒各憲司の承差は命を奉じて県に到り︑必ず樹仲も う し あ げ し
Cと
を む ら お く り も の の か ね
に裏白し︑然る後作事す︒里に争訟有れば︑鋭金の多寡在視て︑乙れを曲直とす︒長吏或はとれを察せず︑誤って
つえ
でた
た
Eう
とす
る
理を以て断ずれば︑息隷行杖せんとす︒その人二伯伯と称するは︑即ち執杖敢て吏に下さず︑前に官長の耳に噴き
おさ
て日く︑比れ文相公数を起せば即ち止む︒治す勿れ︒吏は慣を抱いて進み︑手で紙の尾末を圧えて日く︑文相公は
えん
ま
宵ろ
羅闘
王に
見ゆ
るも
︑
常民
乙れ
が為
謡に
って
日く
︑ と︒邑治の西に浦来卿なる者有り︑以て古董を売り︑善く茶を治し︑寵を文氏に得る︒樹仲その庫を過ぎれば則ち
うな
づ
車馬雑沓し︑娃爆同里︑時に︑或は席を設ければ則ち修摩を窮極し︑一飯は中人十家の産を費す︒樹仲乙れを領 き︑小剥船の例を抜置す︒浦︑此れを以て致富︒訪行亦た︑時時その家に屯蒸し︑以て聾断を為す︒樹仲疾有れ
はらひEうし︵道士
V E H
ば︑諸議醸金して一離を為し︑僧一百有八人︑羽流亦一百有八人を延き︑水道場を建て︑七昼夜︑都人競ってこれを 送
策執
筆す
るに
︑
以て
惟だ
謹と
す署
と︒
二伯伯を犯す勿れ 観る︒或は日く︑訪行中に殺害は多く比れに命じ︑釈氏の法を借り︑以て桂死の諸魂を薦抜し︑究対を求釈せんと
欲す︒病より起き︑諸蜜置酒して︑西湖に逝飲し︑画船田十担︑一舟に登る毎に︑酒行一巡︑梨園の子弟︑一曲を
つ き し た が う な ぞ ら
歌えば︑報ち復た他の舟を過ぐ︒按従の盛︑声伎の楽は王侯に擬ふ︒子の霧書は号して小将軍︑智術多く︑舞文を 善くす︒惨毒群兇を殺し︑帰心多し︒駕ぞ小将軍は英雄無双と日はん︒此れ相ひ推許の調なり︒姪の長康︑性は驚 惇︑訪款多くその手に出で︑亦た亡命を集めて︑爪牙と為し︑文氏の小営と為すと云へり︒
( D )
驚散一家骨肉 王仲徳︑糧道の承差︒初め部氏の党に入り︑朱霊均・銭維周・方略狼等と並び芦有り︒時に己に嘆じて日く︑大丈夫はまさに単鎗独騎︑中原に横行すべく︑宣に人の能下に寄るを屑とせんかと︒是に於いて始めて党人を弐にす
ほか
る︒その造訪売訪は他人の手を仮らず︑自ら一営を立て︑鋒鋭特に甚し︒里中富者有れば︑必ずその家産を佑り︑
陥すに事誘を以てし︑帰して私界中に至り︑拷来してその家を傾けて乃ち止む︒或は従わざれば則ちとれを死に致
おどろいでにげちるし︑復た巣の下︑一も完卵無し︒故にこれを号して日く︑驚散の一家骨肉と︒此れ訪行中最も標梼せらる称なり︒
ねをつける順治七年分の漕折を承催し︑糧戸数百人を鎖捉す︒戸毎に銀二十両︑少くも亦十両を講価し︑始めて放帰す︒婆臓
︵ 弔 ﹀
万を以て計る︒母の喪を治むるに︑四方より来吊する者数千人︒軒菟︵士大夫︶以て奴隷に至る有り︑皐ぐ集ら
ざるは莫し︒士類の弔に往かざる者有り︑衆は危と為して︑日く︑某人は王氏の喪を拝せず︑禍それ至らんと︒姻
家程伯和︑一尊を設くるに︑遂に百余金を費す︒その他の探費多類︒此の家は一園を造くり︑八角庁を為り︑廻廊
みちみちるその聞に充切す︒その中に入る者︑迷いて出づる所を知らず︒宮室の美推
曲房
一︑
飾る
に金
碧を
以て
し︑
声伎
玩好
︑
は︑
極盛
なり
︒ 回方略狼︑姓は方氏︑名は洪坤︑字は子興︑初め息隷為り︑尋いで糧道の承差に充つ︒亦た部氏の乾児の一︒その
後︑その党漸く盛んにして︑方氏党と号す︒始め倣然として雄据の志有り︒家に訟師数十人を致し︑徐翼甫乙れが
長と為る︒打行数十人︑大力顧二乙れが長と為る︒清客数十人︑査白雲とれが長と為る︒戸の股実なる者︑先ず構
則ち
居き
て奇
貨と
為し
︑
す︒訟の未だ終らずして家己に両つながら傾く︒原・被皆な勢に迫ままれ︑実に仇隙無し︒その察詐遂げず︒或は
えんかいとれと抗する者は︑則ち打行に付し︑多くその命を発らる︒暇あれば︑則ち酒を置きて高会し︑諸清客は楽を前に
奏し︑酒後耳熱く︑譜笑雑還して歌呼し︑烏烏としてその曙に達するを知らず︒性は暴属︑芦大にして猛喜︑人を
おの
の
課罵す︒その声一晩すれば︑聞く者は寒からずして傑く︒故に狼と日ぅ︒嘗って白昼人を殺し︑而して衆とれを匿
その党を繋獄す︒猶お人に誇って日く︑此等の事︑何ぞ我を難ずるに足
えて
訟を
成さ
しめ
れば
︑
即ち
訟師
に引
置す
︒
両造
既に
成る
所な
れば
︑
坐してその利を擁
すを
なす
︒襲
司李
廉︑
その
実を
得て
捕え
︑
明末
清初
にお
ける
打行
と訪
行︵
川勝
︶
八七