ク ー ル 司 教 テ ッ ロ の寄 進 文 書

19  Download (0)

Full text

(1)

ク ー ル 司 教 テ ッ ロ の寄 進 文 書

杉 浦 武 仁

はじめに

クール司教テッロが七六五年に作成したとされる寄進文

書は︑問題の多い史料として知られている︒テッロは︑ディ

ゼンティス修道院に豊富な財産を寄進した︒このことを伝

える文書の内容は︑メロヴィング朝末期およびカロリング

朝初期における司教の所領支配の態様︑あるいはより広く

この時代の国制史像を解き明かすための重要な史料証言の

ように思われる︒しかし研究者の目は一様にして慎重であ

る︒あるいは積極的ではないというべきか︒たしかにクー

ル司教区は︑フランク王国の統治範囲の最辺境地域に位置

していた︒それゆえに︑王国の対外政策を考察する場合を

のぞいては︑研究対象としての重要性は減じられてしまう のかもしれない︒しかし︑テッロの寄進文書に対する研究

者の慎重な態度はこれに起因するものではない︒問題は史

料それ自体にある︒すなわち文書構成が特殊なのである︒

現在我々が目にすることのできるテッロの寄進文書は︑

十七から十八世紀に作成された三点の写本においてであ

る︒ただしこれらの写本はいずれも︑七六五年のオリジナ

  ル文書を底本とするものではない︒それゆえにまずその信

懲性が疑われることになるが︑今のところ偽文書説は否定

されている︒問題は文書構成にある︒現存写本は︑単一の

テキストがオリジナルそのままのかたちで由来したもので

はない︑というのが目下のところ研究者の一致した見解で

ある︒すなわち︑複数のテキストの組み合わせ︑あるいは

後代の文言付加が想定されているのである︒

(2)

本稿では︑テッロの寄進文書がそれ自体に内在させてい

る文書構成の問題をめぐって︑先行の研究成果を把握し︑

そのうえでこの文書が史料としていかなる可能性を持つも

のかを示したい︒第一章と第二章では︑それぞれシュトラ

イヒャーらの二元性説とマルターラーの文言付加説を紹介

する︒古典学説とはいえ︑両見解を上回る説得的な研究成

果は今なお登場していない︒ゆえにそれぞれの章に当てて︑

両見解の論点を詳しく紹介することは十分に意味がある︒

第三章においては︑二元性説と文言付加説以降の議論をま

とめ︑いくつか問題点を指摘したい︒

第一章二元性説

シュトライヒャーは一九三七年に発表した論文におい

て︑テッロの寄進文書が二元的な構成をなしていると主張

  した︒文書構成をめぐる議論はここから出発したといって

よい︒シュトライヒャーによれば︑現在の寄進文書は︑テッ

ロの手によるもの以外にもうひとつ別の文書︑すなわち

テッロの父ウィクトルのテキストが含まれている︒この見

解はほどなく支持を得た︒一九三九年にミューラーがテッ ロの寄進文書に関する研究成果を公にし︑二元性説に賛同

したのである︒

本章ではまずシュトライヒャーの立論を︑文書中のアレ

ンガ(前文)︑ディスポシティオ(措置部)︑サンクティオ(警告部)︑エスカトコル(終末部)に照らしてみていくこ

とにしよう︒そのあと二元性説を補強したミューラーの説

を概観することにしたい︒

文書はインウォカティオ(岡聖なる三位一体の名におい

て﹂)から始まり︑続くアレンガにおいては寄進の動⁝機が

語られている︒そこにはアレンガ特有の修辞句.8コ∋①δ

∋①葺すQ︒Φ自︒・⊆@∩一①∋Φコ樽冨..﹁私の善行ではなく︑主の恩恵

で﹂が記されるのであるが︑奇妙なことには︑この文言の

すぐあとに再び類似の表現︑8コヨΦぴ∋Φ﹃三︒・⊆葺︒・あΦα︒・¢︒・

(6

"[私の善行ではなく︑比類のない主の慈ぎヨΦ蕊⊆︑コΦ簸Φ

悲の心で﹂が登場してくるのである︒同じような文言のく

り返しはこれ以外に三例確かめられる︒ここで︑文言の反

復は一体何を意味するのか︑とシュトライヒャーは問うので

ある︒

彼の説がより明確に提示されるのは︑アレンガに続く

ディスポシティオについてである︒ここでは寄進財産の

(3)

列挙で大部分が占められる︒文書の二元的構成を浮き彫り

にしようとする試みとは別に︑この部分は形式上三つのグ

ループに分けることができよう︒最初のグループにおいて

は︑四つの所領(セカニオ︑イリアンデ︑ブレゲロ︑セラ

ウノ)にそれぞれ含まれる寄進財産が以下の順序で記され

ている︒まずクルティス..oξ蔚.︑と呼ばれる領主館と︑そ

れに付属する貯蔵庫︑厩︑納屋︑果樹園などの従物であ

  る︒そして︑クルティスの周囲には耕地および牧草地が

ロ 逐一列挙される︒例えばセカニオに位置するブリウと呼

ぼれる耕地については.H9ヨ58﹃葺〇三︒・oσq﹃⊆∋巴じo¢一ご

ヨo臼巴Φ︒⁝Φ×餌σq巨四ゆ三コ虐Φ∩oら三Φ昆Φ巴昼︒・o∋∩霞83

魯四℃o暮Φ︒・ユ︒・窪∩ε∋Oo一¢∋σ︒・屋ヨ︑﹁領地にある六五モ

ディアーレスのブリウの耕地を︑それはかのクルティスと︑

聖コルムバヌス教会に隣接している﹂のように︑地片の位

置と面積が分かるようになっている︒こうした記述が続

いたあと︑所領内に居住する従属農民の名が︑コロヌス..

∩o一〇コ⊆・︒︑やスペキウス.g・℃Φ∩ご︒・.などの身分名称を伴って

ロ 登場する︒かかる記載の手順が︑四つの所領に共通して見

られるのである︒これに対して二番目のグループは︑七

所領における領主館︑耕地︑牧草地などを明記している が︑ここでは地片の位置や面積は示されず︑従属農民も登

場してこない︒最初のグループと比較して大幅な簡略化が

ロ その特徴である︒最後のグループは︑十六名の従者たち,

訪α①一88︒︒巳︑︑に地片などが分配され︑かつそれが修道院

め に寄進される旨が伝えられる︒

シュトライヒャーはかかる三つのグルー︒フにとらわれる

ことなく︑それぞれの物件に寄進者の存在が明示される場

合と︑そうでない場合があると指摘する︒例えば︑︑.∩貫房

バ ロ ∋①魁﹁私のクルティス﹂やげ○︒・辞oσ量∋コ8再⊆∋ユ08ヨ⊆吃

﹁余の死後︑余は譲渡する﹂といった表現で寄進者の存在

が明示される一方︑.=器∩oヨ三〇︒・巨ユ餌8巴︒・毛8ユ一∩β∋

 ゆ①∩∩一Φ︒・冨∋.︑﹁これらの全ては上述の教会(ディゼンティス

修道院)に譲渡されるべきである﹂では寄進者の存在は示

されない︒またとくに最初のグループでみられることだが︑

地片の列挙は︑前述のブリウの耕地でみたように﹁〜と〜

に隣接している﹂という位置表示が一貫してなされている︒

ここには寄進がおこなわれる以前に︑それぞれの地片がど

こに帰属していたのか︑つまり所有者が明記されていない︒

これに対して位置表示のない箇所では︑所有者の存在が明

ロ かされている︒シュトライヒャーはこれらの特徴から︑二

(4)

元的構成を主張するのである︒具体的には︑おおむね最初

のグループがウィクトル︑残りのふたつがテッロのテキス

ね トとして捉えられる︒

サンクティオについては一例だけ示しておこう︒,︒︒・︒・8

れ ヨΦ三Φ2Q・oQ︒耳Φ∩o乙Φ︑[健やかなる精神と純粋な心で﹂

と.℃﹃○∋℃8<o一⊆三讐Φ虫ユΦ<○β∋Φコ8.﹁自由な意志と敬

虐なる心で﹂というように︑アレンガの場合と同じくここ

でも文言の反復がみられるのである︒

最後にエスカトコルについてであるが︑ここではテッロ

れ を除く合計十二名の証人が下署を施している︒この地域の

世俗法であるローマ・クール法によれば︑遺言状の作成に

際しては五ないし七人の署名によってその効力が認められ

お た︒シュトライヒャーはこのことに着目し︑証人を五+七

名であるとし︑ここでも二つのテキストの存在を指摘する

ぶ のである︒これについてはミューラーの見解も紹介してお

こう︒証人の名前にはそれぞれ役職名が付されており︑そ

れらを順番に見ていくと︑プレスビテル.竃8σk8︑一名︑

ユーデクス..ごユΦ×︑︑一名︑クリアーレス..∩⊆﹃巨窃︑"三名︑

ミリテス..巨一一8︒︒︒二名︑続けてクリアーレスニ名︑ミリ

テス三名となる︒クリアーレスとミリテスがあえてくり返 されるのは何ゆえか︒いかにも奇妙なことではないか︒そ

こでミューラーは︑十二名の証人を︑最初の七名がテッロの︑

カ あとの五名がウィクトルのテキストに属するものと考えた︒

一般に聖職者を示すプレスビテルはプラエセス.℃茜8Φ︒・.

(世俗官職)を冠していたウィクトルの文書ではなく︑司

教テッロの文書にこそ署名したはずである︑というのが最

が 初の七名をテッロのテキストとする理由である︒

以上のようにシュトライヒャーは︑ウィクトルとテッロ

が作成したそれぞれのテキストの存在を想定した︒さらに︑

これらのテキストがいかにして現存写本のようなひとつの

文書へと終着していったかについて次のように説明する︒

まずウィクトルが生前におこなおうとした寄進.6①Q・︒・δ

巨Φ︻≦<o︒・︑.のテキストがあった︒テッロはこれに自らの

死後なされるべき寄進.α08二〇℃o︒・辞oσ一ε∋︑の意図を書

き足したのである︒すなわち︑七六五年にひとつのテキス

り トとしての寄進文書ができあがった︒しかしながら︑シュ

トライヒャーの説は不十分な印象を否めない︒というのも

ウィクトルのテキストの存在は想定されこそすれ︑具体性

に欠けるのである︒この点ミューラ!の説は︑同じく二元

性説を唱えながらも︑立論の説得性においてはシュトライ

(5)

ヒャーを上回っている︒彼は︑ウィクトルとテッロのテキ

ストは︑七⊥ハ五年の時点でそれぞれ存在していたと考える︒

すなわち︑七六五年には単一の文書は成立しておらず︑そ

  れは九・十世紀を待たなくてはならないとする︒このよう

に文書の生成については︑ミューラーはシュトライヒャー

の見解を否定するのだが︑ここではウィクトルのテキスト

の実在がいかに証明されるのかをみてみよう︒

ミュ!ラーは︑ディスポシティオとサンクティオのなか

から次の文言に着目した︒まずディスポシティオである︒

.=o∩Φ︒・馨Φ︻錘くΦ;⊆・Φ﹃Φ鼻ρ・︒・℃磐ユQ・∋Φ一≦∩8冴く三

已⊆・︒三・・℃茜Φ・︒喜︒・皇Q・Φ23二①gρ三︒・<淳℃①﹃・・一コσq三︒・

︒︒q二∋窪βユΦρ823⊆Φ一コσq①三〇83巳・・一βo∩

且ゴ三〇自2・︒℃Φ︻︒・蕎ヨδ﹃σq冨8∋&お9σq8ε・・

駄噛これは貴顕の±でプラエセスである私の父ウィク

トルの所領あるいは相続財産であり︑これらはす

べて彼が個々の権原によって獲得したものか︑も

しくは何らかの方法で集められたものであり︑主

が私に仁慈の心により与えたもうたものである︒﹂ この一文によれば︑テッロが寄進しようとした財産は父

ウィクトルから譲られたものであった︒もちろんこの部分

だけでは︑ウィクトルにも寄進の意図があったかどうかは

わからない︒そこでサンクティオに着目しよう︒

.8三sぎ∩3∩ε∋8︒︒辞≡∋@三σqΦ巨○ユ︒・∋Φ三二〇α

一℃︒︒Φ℃﹃器8℃一戸⊆二βh一22ヨ︒・巳Q・ε3三訂Φ∩

886ユ℃二〇℃δ℃ユΦβ肝一・︒3∩三βε∋8︒・辞茜﹃⊆ヨ

幕﹃Φ戸8ヨ9Φ8∋ヨ6二〇器ρ8∋自①℃δ℃幕β8

鳥①ρ⊆島83⊆Φqgε<①一83三・・ぎ巴8︒︒8︒︒・︒①

℃①弓く①≡QoQ6Φ・

蛸余のこうした行為ないし余の父の指示︑すなわち

かくのごとく(寄進が)実行されるように︑契約

を通じてもしくは何らかの取り決めや売買によっ

てもたらされた我が所領の証書(∩oコQり∩コ℃口o)に

記された事柄が遂行されるようにと命じたことに

対して﹂

この文言からは︑ウィクトルもまた寄進をおこなおうと

していたことが判然とするのである︒さらにウィクトルが

(6)

作成したであろう証書.∩oコQ︒∩ユ℃8.の存在も重要である︒

この証書は︑ウィクトルの寄進文書ではなかったか︒ウィ

クトルは確固として寄進の意図を持っており︑それをやは

り書き残していた︒それをもとにして︑テッロは自らの寄

進文書を作成したのではなかったか︒

さらにサンクティオには次のようにも記されている︒

.︑=o∩︒・βσ≡∋8ε∋︻a①∋℃辞δ三・・℃Φ∩88≡ヨ

⇒OQoqO︻⊆Bgo辞O辞⊆一︼B⊆Q︒ゴ餌σΦ門ΦΦ暦∩OコG︒O﹃二〇

・︒き∩8﹃⊆ヨoσ葺ヨ¢・ユ・ρ⊆oαΦσqOぢα一σq2︒︒・・帥8

∋Φ三ΦΦ樽︒・○︒・℃一88aρ∋Φ≦<Φ三Φ℃磐ユg・ヨ9

℃﹃器8冥p∋Φ帥ユΦ︒・乙Φユ四∩ξ︒・≦巴巨℃一Φ﹃ρ三

℃﹃o∋①Φ辞℃δoヨ三σ蕊℃碧8ε∋ヨΦo≡ヨ矯ρ巳

︒・⊆℃2三︒・8屋∩ユ℃二︒︒⊆三曽99・一二︒︒︒・一80ε巳8

ぶ ∋Φお餌日霞くΦ三卿ヨα①℃①o∩四欝℃お∋Φ﹃Φユ●,

﹁余は︑余の罪から救われるための保証を有し︑聖

人たちがつなぎとめられることを信じている︒そ

こで不肖の私は︑健やかなる精神と純粋な心のう

ちに︑私が生きているあいだに︑父の指示

(℃﹃︒・Φ8℃δ)と私の望みを実行にうつすことに心 血を費やした︒すなわち︑私のために︑そしてす

でに書き記した私の全ての近親者のために︑背負っ

ている罪について偉大なる審判者から恩恵を得ら

れるように﹂

ここでもまたウィクトルが寄進の発起人となっていたこ

とが明らかとなる︒それをうけてテッロが寄進をおこなっ

たのだと理解できよう︒

こうしてふたつのテキストの存在は︑シュトライヒャー

の想定以上に明らかとなった︒ここで文脈を整理するなら

ば次のようになるであろう︒すなわち︑ウィクトルは自ら

の死に際して寄進をおこなおうとしたが︑何らかの事情で

それを果せぬままこの世を去った︒テッロは︑亡き父の意

み 向を受け継ぎ寄進を遂行したのである︑と︒

しかしこの推論を念頭に置くならば︑寄進文書の内容は

実に不可解である︒ウィクトルが成しえなかった寄進を︑

なにゆえテッロは自らの死を待って実行しようとしたの

か︒ウィクトルの死後︑すぐさま父の遺言は果されるべき

ではなかったのか︒現存する寄進文書をいくら読み解いて

も︑かかる疑問に答えを見つけることはできない︒できな

(7)

いからこそミューラーは︑七六五年の時点で単一のテキス

お トが存在していたことを否定するのである︒

二元性説はシュトライヒャーの研究成果を基礎として︑

ミューラーによってより精緻にされた︒ここでは寄進行為

がウィクトルにまでさかのぼることが︑重要な論点となる︒

第二章文言付加説

マルターラーは︑一九四六年にテッロの寄進文書に関す

る論文を発表し︑翌年にこの文書の解題を含めた﹃グラウ

ビュンデン州の証書集﹄を公刊した︒これらの研究によっ

て︑二元性説は批判にさらされ︑新たな見解が提示される

ことになる︒マルターラーの主張はおよそ次のようにまと

められる︒すなわち︑文言中に寄進者の存在が明示される

か否かで二元的構成を見出そうとする試みはあまりに表層

的であり︑ふたつのテキストを想定するための根拠は総じ

て不十分である︒むしろ︑七六五年に作成された単一のテ

キストの存在意義を重視すべきである︒ただし︑この単一

あ のテキストは後代に文言が付加されている︑と︒

ここでは詳述しないが︑二元性説への批判は︑他の同時 代史料との比較を踏まえたうえでなされており︑説得力が

ある︒とはいえマルターラーの主眼は二元性説への批判に

ぶ ではなく︑新たな学説の提示にある︒ここでは︑その主張

が最も明確に示されているところを紹介してみよう︒

寄進文書を通読して奇妙と思われるのは︑寄進の享受

者︑すなわちディゼンティス修道院を示す表現が三通りあ

ることである︒それらは︑教会の単数形.︑Φ∩∩一Φ︒︒冨..と複数

形,.Φ∩o一Φ︒・一〇Φ︑.︑および修道院を意味する..ヨ888﹃三∋.︑で

ある︒例えばディスポシティオの冒頭においては︑これら

あ の表現が相互にさほどの間を置くことなく登場してくる︒

まず教会の記載方法についてであるが︑全体を見通すと

一応次のような傾向がみとめられる︒すなわち︑寄進行為

を直接伝えるところや寄進物件の列挙のところでは単数

形の..Φ∩∩歪冨..が用いられている︒一方でそれ以外の部分

例えばサンクティオでは複数形の..Φ∩9︒︒邸①︑︑が記される︒

しかしこうした違いは重要ではない︒注目すべきはディ

スポシティオの冒頭の,.q①︒︒Φ6αΦQ・す①︑.という表現である︒

マルターラーによれば︑これは後代の文言付加を想定しな

くては考えられない︒これについては次のように説明さ

れる︒まず..Φ∩∩冨冨︒︒〇三器ζ︒・﹃ぴΦg・Φ⊆︒・き8巨ζo﹃口三Q・①⊆

(8)

Q︒き∩二℃9二..という文言からは三宇の教会を想定する必要

はない︒一宇の教会に複数の聖人が祀られていたことは︑

別段奇妙な事でもない︒だが..qΦ︒・Φ∩∩一Φ︒・冨①.︑は明らかに

三宇の教会を指し示している︒ここで考古学の発掘成果は

重要である︒それによれば︑聖マルティヌス教会と聖ペト

ルス教会は八世紀中頃までにはすでに存在していたことが

判明している︒一方聖マリア教会は九・十世紀の起源であ

る︒すなわち︑テッロの文書が作成された七六五年の時点

では︑二宇の教会しか存在しなかった︒とすれば︑三宇の

教会を示す.q8Φ∩∩一〇︒・邸Φ..という表現は︑七六五年のディ

ゼンティスの状況を語ったものではないことになる︒こう

して..q①Q︒.︑および..①∩∩一Φ︒︒一︒・Φ.︑の複数形主格の語尾は︑聖

マリア教会が建設されて以降︑すなわち九・十世紀以降に

れ 付加された部分とみなされるのである︒

ではゴoコ8おユ⊆ヨ.の語が登場してくる理由はどこに

あるのか︒これについては次のように説明される︒すなわ

ちテッロが寄進をおこない︑その結果として修道院は建設

されたのである︑と︒それゆえに七六五年の時点では文書

のなかに..ヨoコ窃8﹃三∋.︑の語は登場するはずがない︒よっ

てこれも後の時代︑とりわけ八〇六年以降の文言付加で あった︒こうしてマルターラーは︑七六五年にオリジナルの寄進

文書が作成されたのち八〇六年以降に︑そして九・十世紀

以降にと二回にわたって文言の付加がなされたことを想定

するのである︒

なにゆえ八〇六年以降か︒マルターラーによれば︑

.︒∋o轟Q・8︻ピヨ..を含む箇所の一切が八〇六年以降の文言付

ヒ 加によるものであった︒その多くは修道院への寄進物件の帰

属を指示している︒最も顕著な例は︑従者への土地分配の

箇所である︒ここでは従者がそれぞれ地片や従属農民など

を有していることが明記され(例ピ己oユ⊆︒︒8コ①富℃①∩ごヨ)︑

かつ,君・︒ロ∋(もQ,器)話くΦ二只コ)辞ξ℃o・︒酢oσ巨∋8・︒q⊆∋巴

一℃Q︒⊆ヨ∋08Q︒8﹃ご∋.圃(分配された十地は)世の死後かの

修道院に帰属されるべきである﹂と記される︒⊥地の帰属

が︑一度従者たちに対して認められたにもかかわらず︑最

後に修道院に帰せられるとは一体どういうことなのか︒な

にゆえ従者の一人一人に対して︑分配物件の修道院への帰

属を逐一指示しなくてはならないのか︒ここには何か作為

的なものがひそんでいる︒すなわち︑是が非でも修道院へ

れ の寄進を確認しようとする意図がうかがえるのである︒

(9)

ディスポシティオ末部の次の部分をみてみよう︒

.︒=OQり辞σ一①コ同O℃Oコ⊆GΦ辞ρ¢一αρ

ΦヨΦgりhgり矯O⊆qD∩αO⊆D辞一Φ

QoρDOO﹃コOコOOコg6∩℃Q¢QoΦ①﹃ρ⊆O9D∋

ρ=卿∋Φ団﹄⊆一8二Q⊆匿一コOQq四Φ⊆∋一コユΦOコ一σ⊆G

Φσ⊆Q∩コOGQり餌σQO一¢O〇コΦヨ"⊆二∩O=gりO℃辞OΦG

(54)Φ﹃ロロΦ︻Φ

︻これを確認すべく余は公言する︒すなわち︑余が

忘れてしまったか︑あるいはこの聖人たちへの寄

進のなかに含めなかったあらゆるものは︑ただし

それは余がフルミンのクルティスに残しておいた

一部の土地を除いてのことだが︑余の全ての土地

財産については完全に︑寄進文書に記載された如

くに︑維持されるように︒﹂

ここで注目されるべきは..ρ⊆o﹃β︑.の語である︒この

語を含めた部分には︑本来他の近親者の利益に供するた

めの条件が記されるはずである︒けれども上記の箇所で

は︑..ρ二〇二⊆・︑︑に対する何らの保護もなされていない︒む しろここでは︑記載しきれなかったあらゆる財産の寄進行  

為︑それ自体を強固に確認する態度がみてとれるのである︒

さらにサンクティオのふたつの箇所をみてみよう︒

︑.Φ∩OコqげOh四2⊆∋コOgq卿⊆樽σqΦ〇二Gリ

ρ⊆O自Q6ΦO①∩Φ一ρ①︻Φ叶四コα四酢・⊆

=餌Φ∩OコQo℃二℃円O℃二ΦO口g6⊆犀O⊆∋コOQりqqD﹃¢∋

睦Φ﹃ΦOユΦOO∋OO二〇⇒Φρ⊆O∋αΦ℃﹃O℃ユΦ餌辞Φ

α①一∩⊆コO¢①02<①一〇〇ρ仁一G∩OOコOQOQっQりΦ

℃①﹃<Φロ一Q∩Q∩Φ●=OGり⊆Dσ一=Φコ⊆ヨΦユΦ∋〇コQり

①∩∩四辞O﹃Ogり樽︻O門Qり卿辞¢一Qっ四σ①円①Φ辞

OコGO﹃二〇Q∩コ∩O円⊆﹃Oσゆ﹃=餌.

(試訳は第一章を参照)

..ρ⊆四コ=ΦΦ∩∩9D二Q6OQo樽gりΦ辞℃餌円Φコ⊆∋

コOg6qO﹃Φ樽⊆∋コOQqO﹃一く一コ四℃一①樽OQ

OQっ∩一①∋Oコ①円⊆GQ6ΦユコユσqΦ﹃ρO

O∋一⊆ヨ℃Φ∩OO辞O樽qDQ∩⊆℃Φ一℃Qり⊆ヨ<①コ一ΩDコ戸O

ユすσO一Φ甘一コQ6qQ6⊆Qα四二〇コΦ∋@∩∩

ΦO¢コOb∩OO一O﹃(一①一¢﹃60﹃PQりO﹃一〇

(10)

Φ×qき2︒︒¢・℃℃碧8け一8⊆℃雲①ニコ﹃Φ︒︒⊆﹃﹃①a8Φ

ピ∋9・三σq8Φユ・︒・︒Φ℃8∋ユo∋8二8Φ・・∋〇三︒︒

ぎ︒・βσq8一σq三・︒︒︒毛Φ二℃︒・¢∋ぎ8∋σき辞もユ巳ロ

母ヨ8辞δ"︒・︒︒窪&︒・︒・Φ℃⊆・茜二ρ・︒①8邑903∩一Φ

8巨三8℃巳・・δ芸︒匠9・ 55融﹃8匹Φ∋Φ﹃︒・δ匠爵器日

o℃Φ茜︒・Φ三・︒︻①巳σ三一ρρ⊆一三9・・ヨ①℃oΦ三8コニ9・曽

ρ三@2一一四Φ二冥①含・︒︒︒一〇一︒︒Φ×8"︒・ぎΦ9Φ∩≡∩翼一ρ

︒・Φ℃口∋90ヨ三二∋℃oΦ轟目ニョ8コΦユら昌δ●.

﹁そして︑温かくも神の恩恵がこの(寄進の)ために︑

余と余の近親者︑そして余の従者たちのいかに多

くの罪をお許しになるように命ぜられたことか︒

これらの全ての罪はこちらに来るように︒そして

悪魔とその下僕とともに厳罰を受けるべし︒全て

の信仰深きキリスト教徒から排除されるべし︒こ

れに加えて人類の蘇生において︑七つの死の審判

は︑火の泥沼の内に罪人に課せられるべし︒最初

の審判は︑聖人から見離されることであり︑二番

目は︑主の恩恵からの追放︑三番目は︑地獄への

転落︑四番目は︑行為の報い︑五番目は︑悔俊な

しにいかなる赦免もありえないであろう︑六番目 は︑終わりのない拷問︑

わりがないであろう︒﹂ 七番目は︑全ての罰に終

マルターラーによれば︑これらの冗長な表現は通例のサ

ンクティオと比較しても異質なものであるという︒こうし

た文言もまた八〇六年以降に付加されたに違いない︒

八〇六年は︑カロリング王権によって司教領から一定の

領地が接収され︑そこに新たなクール伯が設置された年で

れ ある︒たしかにかかる収公は司教区に伯の領域を設定した

が︑それは決して司教領の廃絶を意味するものではなかっ

た︒司教領は収公後も確固として存在し続けた︒このこと

を踏まえるならば︑テッロがクール司教の立場でディゼン

ティスに寄進をおこなった以上︑その寄進財産はかつての

司教領とはもはやみなされず︑それゆえに国庫領に接収さ

れる危険も生じてくるわけである︒実際に︑八三〇年ごろ

に作成された王国所領明細帳には︑テッロの寄進物件が集

中する地域に国庫領が設けられている︒かかる政治的な背

景がゆえに︑修道院への寄進行為はくり返し強調されたと

理解できよう︒

さてマルターラーは二回目の文言付加を九・十世紀以降

(11)

む と想定している︒まずサンクティオの.∋Φ<一く①三Φ℃o巳︒・

れ ∋Φ一℃茜Φ8℃冠.﹁私の生前に父の指示で﹂とアレンガの

・ρ⊆oα℃Φ﹃℃ユヨ=∋℃舘Φ三Φ∋8︒・q⊆ヨαoεヨΦ︒︒辞..﹁余の最

初の父に起因する(罪)﹂をみてみよう︒前者は︑ディゼ

ンティスへの寄進の発起人がテッロの父ウィクトルであっ

たことを示している︒ここから︑テッロがウィクトルの遺

志を継いで寄進を遂行すべきことが暗示される︒一方後者

は︑この文言の前の文脈から彼の父の罪業がほのめかされ

ており︑これが寄進行為と深いかかわりを持っていること

が明かされる︒かかるウィクトルの罪業を具体的に伝えて

け いるのが︑聖プラキドゥス受難伝である︒プラキドゥスは︑

修道士シギスベルトとともにディゼンティス修道院の創始

者として知られる人物である︒八世紀初頭に︑フランク人

の遍歴修道士シギスベルトはディゼンティスの地に慎まし

い僧房を建てた︒このとき彼を支援したのが︑この地域の

富裕な±地所有者プラキドゥスである︒

両者によって新たな修道士団体が作られることに危惧を

感じたためであろうか︑ウィクトルはプラキドゥスを殺害

お してしまう︒十三世紀初頭までに作成された聖プラキドウ

ス受難伝はこの事情を︑ウィクトルに対する嫌悪感ととも り に伝えている︒ウィクトルへの敵意は︑九世紀以降の作成

となる︑ザンクト・ガレン修道院の創始者聖ガルスの伝記

からも確認される︒九・十世紀に由来するプラキドゥスと

シギスベルトへの読訥と頒歌もまた︑ウィクトルを暴君と

の してえがいている︒

これらを踏まえたうえでマルターラーは︑ウィクトルに

よるプラキドゥス殺害の伝承が形成されるのは九・十世紀

以降であり︑ウィクトルの寄進の意向を記した部分も︑こ

  の時代に書き加えられたものだと推論するのである︒

このように文言付加説によるならば︑ミューラーらが主

張するような二元性︑わけてもウィクトルのテキストの存

在は否定されるのである︒

第三章その後の研究状況と問題点

二元性説と文言付加説は︑その後の議論に大きな影響を

与えた︒一九四八年に論文を発表したバイヤーレは︑両

方の説を折衷したような立論を展開している︒まず文書

の二元的特徴として︑テッロの生前のテキスト..8Q・Q・δ

葺Φ﹃≦<o︒︒︑.があり︑かつ彼の死後なされたはずの寄進

(12)

.Oo8二〇℃o︒・8σ巨∋.のテキストがあるという︒バイヤー

レの説は︑ミューラーの見解に新たな観点を導入したもの

といえるだろう︒ミューラーは︑ウィクトルによる生前の︑

そしてテッロによる死後の寄進文書を想定した︒しかし︑

たとえ後の時代にひとつのテキストに編集されたのだと解

釈しても︑ウィクトルによる生前の寄進が︑なにゆえテッ

ロの死を待って実行されなくてはならなかったのか︒かか

る問題は残るのである︒バイヤーレはこの問題にひとつの

答えを提示したといえよう︒ウィクトルが寄進を実行でき

なかった場合でも︑それは相続財産としてテッロに受け継

がれ︑テッロによる寄進として文書に記されるはずである︒

バイヤーレはこのように考え︑テッロによるふたつのテキ

ストの存在を指摘するのである︒これらは後代にひとつの

文書に編集され︑さらに文言の付加が二回にわたってなさ

わ れたという︒

しかしながら︑二大学説をともに受け継いだからといっ

て︑テッロの寄進文書をめぐる議論に終止符が打たれたわ

けではない︒少なくとも一九八〇年代にいたるまでミュー

ラーは二元性説を保持し︑後代の文言付加の可能性をやは

り否定している︒マルターラーもまた一九六八年に発表し ほ た研究で自説を固持している︒マルターラーはウィクトル

の存在が寄進文書に記されるようになるのは︑九・十世紀

以降の伝承によるものだとしたが︑これに対してミュー

ラーは反論し︑根拠とされる.℃ユヨニQ︒℃窪Φ器︑はウィク

トルを示すのではなく人類の原罪を最初に背負ったアダム

お であると断言したのである︒さらに︑七六五年には三宇の

教会が存在しえなかったとする論拠に対しては︑新たな発

掘成果に基づいて︑この時期にはやはり三宇の教会は存在

  していたと主張した︒こうした議論のなかで︑ミューラー

の見解はクラヴァデッチャーによっても支持されている︒

かかる研究状況を一瞥するならば︑説得力の点で︑二元

性説が文言付加説やバイヤーレの折衷説を上回りつつ推移

しているというべきだろうか︒とはいえいまだ通説的見解

は生まれていないのが実情である︒

ここでそれぞれの説に対して︑いくつか問題点を指摘し

ておきたい︒マルターラーは︑修道院への寄進がくり返し

強調されることはいかにも作為的であり︑その背景には

八〇六年以降の政治状況があるとして︑後代の文言付加を

・王張した︒第二章で述べたが︑その論拠のひとつとして︑

ディスポシティオ中の従者たちへの土地分配の箇所があ

(13)

る︒そこには十六名の従者のそれぞれに﹁(分配された土

地は)世の死後かの修道院に帰属されるべきである﹂とい

う文言が付されている︒マルターラーはこの文言の全てを

八〇六年以降に書き加えられたものだと考えた︒これに関

して次の一文をみてみよう︒当該箇所の冒頭には,.H8ヨ

9諏巳ヨ蕊9h乙Φ=σ⊆・・3︒・辞ユ︒・ゆ三σ二・・ρ¢磐ε∋

∩88・・︒・喜⊆︒︒8σ一・︒≦<窪二σ⊆︒・Φ樽℃8辞oσ一ε∋8︒・q⊆ヨ

お αoコ︒・∋蕊●..﹁同じく余の従者たちについて︑余の生前およ

び死後︑どれだけのものを彼らに与えたか︑そして与える

のかについて決定しておく﹂とある︒この部分については︑

マルターラーによれば︑七六五年に書かれたオリジナルの

文言である︒しかしもしそうだとすると︑上記の修道院へ

の帰属を示す常套句は八〇六年以降の書き加えではありえ

ない︒八〇⊥ハ年以降の付加だとすれば︑件の冒頭文言の半

分︑すなわち死後の決定は意味をなさなくなる︒よって︑

かかる文言が後代の書き加えではない以上は︑マルター

ラーの説は不可解といわざるえない︒文言付加説にとって

支柱となる論拠であればなおさらのこと︑こうした点は指

摘されなくてはなるまい︒

一方で二元性説についてであるが︑この説に則るならば 寄進をおこなおうとするウィクトルの意向は如実に明らか

となる︒ミューラーとバイヤーレは︑ウィクトルのテキス

トを想定するか否かで意見を違えた︒とはいえ両者とも

ウィクトルによる寄進の意図は認めるのである︒だがここ

でマルターラーの見解を軽視するわけにはいかない︒前述

したように︑マルターラーはウィクトルのテキストを想定

してはいない︒ミューラーらがウィクトルによる寄進の意

志を読み取るのに対して︑それが記されている箇所はマル

ターラーによってことごとく後代の付加だとされている︒

たしかにミューラーが.℃二∋⊆︒・℃oお蕊︑をアダムとみな

したことは︑かかる文言が特有の修辞句を含むアレンガに

置かれている以上︑十分に首肯しうるものではある︒しか

しだからといって︑それだけではマルターラーの見解に根本

的な部分で反論することにはならないように思われる︒

こうした問題点を提示するとき︑テッロの寄進文書をめ

ぐる議論はやはり決着していないのである︒

おわりに

近年領主制の観点からテッロの寄進文書を扱ったグリュ

ニンガーは︑きわめて慎重になりつつもこの史料の有用性

(14)

を認めた︒すなわち文書の原形を見定めたうえであれば︑

  その史料的価値は十分あるとされる︒この寄進文書の史料

的価値を知るうえで︑二元性説と文言付加説によって展開

されてきた議論はきわめて重要であろう︒その記述内容が

ゆえに︑何よりもまずクール司教区における所領支配を考

察するための史料として︑寄進文書の価値は見出されるの

かもしれない︒一方また別の可能性として︑この文書それ

自体は︑当時の政治史などの文脈でも語られるのではない

だろうか︒とすれば︑二元性説と文言付加説による議論は︑

これとの関連でも重要になるだろう︒

マルターラーが・王張するように寄進文書の起源をテッロ

に求めるとすれば︑次のような政治史的な文脈で捉えるこ

とができるだろう︒テッロが文書を作成した七六五年前後︑

クール司教区は政治変動の渦中にあった︒ピピン三世が

七五四年から五六年にかけてランゴバルド遠征をおこな

い︑最終的に七七四年にはカール大帝によってランゴバル

ドは征服された︒こうした軍事遠征に伴い︑クール司教区

もまた甚大な影響を受けている︒カール大帝は七七四年ま

でに︑テッロの属するウィクトル家門をクール司教ないし

世俗職掌より遠ざけ︑自らが信任する人物にこれらの要職 を与えた︒さらにこの地域に対する保護特権をも付与して

  いる︒ウィクトル家門は︑すでに六世紀からその存在が確

かめられる有力貴族家門である︒七世紀以降は︑親族のい

ずれかがクール司教あるいはプラエセスを独占してきた︒

一人の人物による聖俗両役職の独占は︑テッロによって達

成されたようである︒こうした有力家門が︑この時期に支

配権を骨抜きにされた︒問題は︑テッロの寄進文書作成も

こうした変動と関係があったかどうかである︒とりわけメ

ロヴィング朝末期に顕現化する強力な司教支配は︑初期カ

ロリング王権︑とりわけカール大帝にとっては︑是が非で

も排除されるべき脅威であった︒同じようにカールの矛先

がテッロに対しても向けられたとすれば︑家門の所領を確

保すべく方策が練られたとしても不思議ではあるまい︒そ

の一環としてテッロによるディゼンティスへの寄進があっ

たのではないだろうか︒

一方︑二元性説を肯定するならば︑寄進はテッロの父ウィ

クトルの時代からなされたことになる︒とすれば前述の文

脈で寄進行為を捉えることはできないであろう︒ウィクト

ルの時代は︑七六五年前後と比較して︑著しい政治変動な

どは確かめられない︒この時代︑すなわちピピン三世の治

(15)

世期においては︑司教支配に対する抑圧はさほどのもので

はなかった︒例えば地理的にクールからは離れているが︑

トリーア司教区においては︑ピピン三世の時代には司教権

ゆ カへの本格的な干渉はおこなわれていない︒もしトリーア

の場合と同じであるならば︑ウィクトルが寄進をおこなお

うとした動⁝機は︑前述したものとは異なるに違いない︒す

でに述べたように聖プラキドゥス受難伝は︑ウィクトルが

プラキドゥスを殺害したことを伝えている︒この事件の原

形となるような出来事は実際にあったのかもしれない︒そ

して︑それが結果的に寄進の動機に結びついたのかもしれ

ない︒もちろん推論の域を出ないのではあるが︒

(一 )一1註  

(2) 最も古い写本は一六二八年に作成され︑現在ザンクト・ガ

レン修道院付公文書館に所蔵されているプフェファー写本

二六番である︒次に古いのが︑一⊥ハ八四年に作成されたパ

リ国立図書館所蔵のラテン語写本一三七九〇番である︒最

後に十八世紀初頭の作成とされるウィーン国立公文書館所

蔵の写本三八三\三二番がある︒一︒ζ自①5,U一Φ︒っ魯Φ莫ニコσQ

αΦ︒∩bu一︒り∩ゴo房日Φ=o餌コユ8δ88円9Q︒Φコ蝕一︒∩一∋﹂鋤ぼΦ刈①α.噛§ミ題簿こ︒ミ譜︑ミ︑ミ︒こ動さ鼠ミ心ミミぎミ§OQ亀︑︑吻き息

Oミ碁§譜ミ①⑩(一⑩ω⑩)曽しっ・一①‑一〇〇●

オリジナル文書と三つの写本の間には少なくとももうひと

つの写本がある︒これが現在研究者の一致した見解であ

る︒その根拠としていくつか挙げておこう︒マビヨンは

テッロのテキストを自らの著作鼠§ミ題O§ミ偽動切§Qミら︑︑

(一七〇四年)に所収した︒このとき彼は三つの写本のう

ちパリ写本を確認している︒そしてこのパリ写本を︑当

時ディゼンティス修道院にあった最初の写本.℃ユ∋聾ユζQ・

Φ×Φ∋℃一〇︑より転写されたものだとみなした︒もしそれが

オリジナルである場合︑マビヨンは..①×四三琴三貯o︑.と記

すはずである︒アイヒホルンもまたディゼンティスの写本

を参照したうえで︑著作曾︑象亀ミ§6ミ㍉§昌(一七九七

年)を公刊にしている︒このとき彼は︑もしオリジナル

であれば6×〇三〇σq3喜o..と記すはずだが︑この写本に

対しては..Φ×①∋℃δ㌦︑と記している︒現在この写本は残存

(16)

(3) していない︒十九世紀初頭の証言によれば︑この写本は

一七九九年にフランス軍が侵攻してきた際に焼き払われ

たとされる︒ただし.︑Φ×Φ∋℃醇,.は一点だけとは限らな

い︒なぜなら三つの現存写本は相互に同一ではないからで

ある︒例えばプフェファー写本およびウィーン写本にはイ

ンウォカティオの部分において.︑HZZO≦Z>国︒っ>ZO日﹀団

日カ一Z一日﹀同一し︒唱﹀ζ団Z..と記されている︒一方でパリ写本

には..﹀ζ団Z︑.が付加されていない︒こうした相違が︑

十七・十八世紀の写本作成者の意図によるものでないなら

ば︑..Φ×Φヨ℃醇..が一点だけとは考えられないであろう︒

三つの写本間でみられる相違は..﹀∋Φコ︑.だけではない︒

例えば,.Φ‑8⊆α讐四..と呼ばれる特殊な表記方法はパリ写本

にのみみられる︒一.ζ自Φ︻b℃・o芦し︒﹂ω‑N9

二十世紀初頭までテッロの寄進文書は偽書とされてきた︒

今日そうした見方は否定されている︒考古学的な発掘成

果が文書の記述と一致するなど︑信懸性はくり返し確か

められている︒≦.ζ①図Φ50δ﹀⊆Q︒σq鑓σ琶σ︒α①﹃じu霞σq︻巳コ①

Qっ∩三Φ二σ①﹃σqーヨ"切ミお偽ミe鳶らぴミ嵩凶きOミミぴ鐵ミ魯§切ミ㌧6ミQ鐵ぴミ

ミQさ喬q蝕ミミ凶Q鳶匙ミへ譜壽馳ミ蒔︑ミきQミ㌻亀らミQきミミ栽浄ミ偽きQ蒔糟

﹂≦㍉ピ・じuOQ・OO︻αヨ¢・<<.ζΦkΦ﹃(=σq●)b=Φづ\閏︻Φ一σ⊆円σq一●bd円こ

一⑩刈8しっ●0一‑霜0一また言語学的な観点からの考察として

以下の文献を参照勺﹀Φ⊆︒・9Φ﹃㌦.田σ∋Φ三Q︒〇三〇6葺oコΦ︒・①辞

0嘗四コσqgg∩α④コQり冨臼豆O]日O口ρ¢①9δδ×β⊆Φα⊆おQり8ヨ①三

α①日Φ=O..鴇N蝕嵩鳥ご︑ミ誉︑浄尋ミ亀Nミ㍉ヒ鳥蝕QO題6ミらミ驚N刈(一〇蔭刈)一 しつ●一刈戯‑N一〇.

(4).し︒..9888δ9・︒・8Φ︒︒udo房

目①=O<Oコ07⊆円︑.︑紺︑ミ財き︑ミ討ミ

O題6§0一(⑩ω図)魍しNω.

がテキストの一部の箇所について二元性を指摘している︒

シュトライヒャーの着想は明らかにラトゥールから来てい

る︒O・[讐Oξ㌦.じuΦヨΦ艮⊆コσqΦコN¢∋目①︒︒♂ヨΦ三αΦ︒・じoぴ∩コO房

日①=O..魍馳鐵ミ§Q︑さミ亀跨ミ亀︑︑一⑩一吟Qり.N一刈‑Nω一●

(5)切§§ミ零添§譜さミ三﹄●ζ2Φ﹃之弩ゴ幕﹃\閏七霞9(=σq.)り

9¢戸一⑩心刈(以下切§と略記)℃Gっ﹂心噸N・○︒‑⑩.

(6)しっ・一N●一一一

(7)..︒・︒・Φコ①ゆ9..(し︒畠し︒N●N・)\.§

δβ80⊆℃δ85q..筍§̀しN﹂".︑8Q・時Oσq葺δ口︒..

(切Qり・心噛N・〇.)糟..=¢ヨ餌コ四hσq一Q︒...︑(Qっ

N一一N.)".︑OコQりq⊆∩βQ︒Q︒g・ΦQり一ヨ¢Q"︒(ヒqしっ.N●

NO・)一..∩Oコ9︒再⊆OβQりコ触.︑(馳§GっN・卜o一)‑..∋OコOQ∩8⊆B

ΦσqρDOコQq二〇εΦ︒りq・9・α︒り..§こQっ﹂N.NN●)

(8)し︒2︒℃F︒︒﹂

(9)b︒§しり●区N・一Q︒φN●N刈

(10)N黛しり●一qN●一‑N.NH.︑=O∩ΦQ︒辞∩⊆﹃8︼BΦ空3QっOコ一ρ

ピBユ∋Qり6⊆ヨQ︒O一二〇Qりσ8OOρ一ΦQ・℃9Gり

O5QりQ︒σ8Φ一一鋤ユ⊆BコPQり⊆σρOOqDO¢昌]B

Qりδσ⊆bFσρ8σOOΦQo<Φ一巴OQ∩8ζO<一〇Φ9

ρρ巳αΦ9∩]BOΦ]B℃Φ5OΦ×一コ8σqδ辞Φ

48

Figure

Updating...

References

Related subjects :