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Title
15年戦争における“下級兵士”の戦場体験とその継承 -加害・被害
の二重構造の多重的連鎖構造のケース・スタディ-Author(s)
岩松, 繁俊
Citation
経営と経済, 65(2-3), pp.505-529; 1985
Issue Date
1985-10-31
URL
http://hdl.handle.net/10069/28276
Right
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
15年戦争における“下級兵士”の
戦場体験とその継承
−加害・被害の二重構造の多重的連鎖構造のケース・スタディ−
15年戦争におけるホ下級兵士かの戦場体験とその継承 505 ま え が き わたしはすでに拙著『反核と戦争責任n (. 三一書房, 1982) において, 日本 帝国主義の加害行為が、水平的加害かと、垂直的加害かの二重構造をもって いること,そして日本人民大衆は天皇を頂点とする日本帝国主義による被害 者でありながら他方において天皇への忠誠という行為を通して日本帝国主 義の二重の加害の下手人,すなわち加害者となってきたということ(加害・ 被害の二重構造)を論じた。 ところで,第 II次世界戦争後40年の歳月のあいだに,核軍備競争のたえま のない進行,国際緊張の激化と局地戦争の継続,資源の収奪と飢餓,人権抑 圧と差別1.地球生態系の破壊という破滅の危機の増大は,世界の多くの心あ (1) るひとぴとに、平和かの貴重さを改めてつよく認識させ,平和へむかつて努 力することの緊急性を自覚させてきた。わたしは,これらの認識と自覚のな かで,とりわけ、加害国かの人民大衆,すなわち、加害・被害の二重構造の (2) (3) 多重的連鎖構造砂の比較的底辺部分にくみこまれた民衆の認識と自覚の問題 (4) に関心をもってきた。なかでも天皇の叶刻11t:"として加害の中核を構成して きた日本帝国軍隊のホ下級兵士かの認識と自覚の問題は,敗戦後40年をへて 戦争を知らない世代が人口構成上しだいに優位を増大している現在において, 戦争体験の継承のありかたを考えるばあいに重要なキーポイントとなると考 えてきた。 これら下級兵士の認識と自覚を知るべき資料としての戦争体験者による戦 場体験の回想や記録,文学作品は,すでにおぴただしい量の出版物として発 表されてきた。もちろんわたしにとってその出版物のすべてに眼を通すこと は不可能で、あり, またこれまでにわたしが披読しえた出版物はごく少数にす ぎないが,最近閲読しつつある出版物のなかで,読売新聞紙上に連載中の「新 聞記者が語りつぐ戦争J(以下「戦争」と略記する)のなかにのべられている ホ下級兵士かの戦場体験にかんする談話とそこにいたる背景描写には,加害・ 被害の二重構造にくみこまれた底辺の民衆の苦渋に満ちた体験の自己認識と
506 つよい罪悪意識とが述べられており,そしてこれらの意識は消極的ではある がも平和グへの意志にふかいかかわりをもっと考えるようになった。 本稿は,このような問題意識をも勺,て,読売新聞連載中の記事を主たる資 料としてとりあげ,下級兵士がどのような戦場体験をもち,その体験をどの ように認識してきたのか,その体験内容と思考論理の一端にふれ,加害・被 害の二重構造の多重的連鎖構造の実態を内在的具体的に考察して,現在の ホ平和'意識との関連に論及しようとするものである。 注(1) ここでわたしがいうところのホ平和かの概念は,通常のホ非戦争状態かよりも広義 である。ここではその詳細について論ずる余裕はないが,簡単にいえば,①戦争のな い状態および戦争準備のない状態,②人権が尊重され,差別がない状態,③飢餓がな く,富の収奪がない状態,④地球生態系が破壊されない状態,⑤学問,技術,産業が 以上の①一④に積極的に寄与している状態,を意味する。したがって,たとえ比「平 和を守るためには軍備が必要だ」という俗論における「平和」は,ここでいう、平和か とは全く無縁である。 (2) 拙著『反核と戦争責任」三一書房, 1982, p.145. (3) 被支配階級としての、民かは,人民,民衆,国民などの合成語として,ひろく使用 されている。この、民グの語源は,たとえば諸橋轍次氏や藤堂高明氏の研究によって も,周時代奴隷や被征服民族が支配者の針によって片眼をつぶされ,黒い瞳がなくな って白眼のみとなった形, すなわち
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で吋あるにことyカが洲4う炉 とを妨げられ,ただ支配者の意のままに唯唯諾諾として服従するように強制された民 衆の本質が,この文字にこめられており,しかもこの本質は今日にいたるまで何らか わっていないというべきである。 (4) 日本国家の戦争責任を政治的軍事的にになうべき指導層の研究は,従来かなリ綿密 におこなわれてきた。もっとも大沼保昭氏は束京裁判と日本の戦争責任の問題は, これまで本格的なメスが加えられることのないまま今日に至っている」と論じ束京 裁判を文明の裁きあるいは勝者の報復とみた従来の論争の枠組をこえた検討の必要性」 戦後三五年の歴史の展開をふまえて十五年戦争そのものを再評価する必要性」を 指摘する。大沼保昭『束京裁判から戦後責任の思想へ』有信堂, 1985, p.83. (ただ しここで戦後三五年とあるのは,本書のこの部分が1980年に執筆された論文の収録で あるからである。〕15年戦争における、下級兵士かの戦場体験とその継承 507 わたしもまた,大沼氏の指摘に賛同するものであるが,被支配層であり,、凡人・俗 人かである民衆の立場にかんする研究が指導層のそれに比してさらに少なかったこと は否定できないであろう。
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本稿において、下級兵士かといつのは,厳密な概念ではないことをまずこ とわっておきたい。「陸海軍人に賜はりたる勅諭J(1882年)にいう、軍隊グ は,大日本帝国憲法第11条にいうところの天皇が統帥するホ陸海軍グ亡、皇 軍かと俗称、されたが,上官の命令=天皇の命令への絶対服従が強制された階 級序列のきびしい軍隊のなかで,いわゆる兵士は最下級の序列に位する存在 であった。したがって兵士はすべて下級であって,この意味では下級兵士と いう用語はいわずもがなの同義反覆となるが,ここで下級兵士と称するのは 兵および下級下士官をさすことにしておこう。 1878年8月23日の、竹橋事件か を契機として1881年 12月28日太政官布告によって制定された「陸軍刑法Jr海 軍刑法J(1908年大改正)は,上官の命令への反抗あるいは不服従を、宗教的 神聖性かをもってきぴしく処断した。したがって序列化され差別化された軍 隊においては,、上官グと、下官かとの上下の関係はきわめて厳正で、あり r軍 人勅諭」は天皇の名において上下の秩序の厳守を強調した。日本の軍隊は, 天皇を頂点とする階級社会=差別社会であって,上官の命令への服従は天皇 の命令への絶対服従にはかならないと規定された。ところで,陸軍刑法にお いては,兵はすべて平等の立場におかれていたのであって,たとえば一等兵 は二等兵の上官ではなく,下士官勤務のばあいをのぞいて,上等兵は一等兵 の上官ではない。しかし下士官は兵の上官であり,下士官以上の階層はすべ (5) て上下官の連鎖で結合され,その上方の極限には天皇=大元帥が存在した。 下級兵士にかぎらず,軍人の戦場体験は各人によって千差万別で、ある。こ のことは日本国内にいたいわゆるホ銃後かの、国民かにとっての戦争体験が 種々さまざまであることと同ーの論理である。だからこそ,今日まで多数の 戦争が語られ,間われ,考察されてきたのであり,そしてそれでもなおすべ てカf明白になったとはいえないので、ある。508 『兵隊たちの陸軍史」のなかで伊藤桂一氏はこう述べている。「兵隊の世界 は,複雑で混沌としていて,一部の左翼公式主義者のみるような,単純なも のではない。むろん兵隊が被害者であることに間違いはないが, といって被 害意識だけで存在しているのでもない。六年六ヵ月たっぷりと兵隊をやって, 上海郊外の一角で敗戦の刻を迎えた私にも,実をいえば『兵隊とはなにか』 (6) といつことはよくわかっていなかったり この文章のなかには,ふたつの重要な論点がふくまれている。ひとつは, ホ兵隊の世界グが左翼公式主義者がみるように単純なものではなく,自分に も兵隊というものの本質がよくわからなかったということ,いまひとつは, 兵隊が被害者でありながら被害意識だけで存在しているのでもない,とい つことである。 前者の指摘は,軍隊を多面的に冷静にみる能力と知性をもったものの鋭い 指摘であり,たしかに軍隊は公式主義で割り切ることのできない複雑な性格 をもっていたということができるであろう。伊藤氏が軍隊を複雑なものという 理由のひとつには,軍隊を不合理な組織とみてこれにたいして強い反感をも ちながら,同時に与えられた使命にたいしてはきわめて忠実に献身したとい (7) う自己の矛盾した感情や行動への反省がこめられているようである。 後者の指摘も,軍隊の複雑な性格に関連があって明快で、はないが,兵隊を 被害者とみる見方は, 日本の天皇制軍隊組織のなかで底辺にあった兵や下士 官の立場にたった見方であって,軍隊の本来の使命である加害者としての側 面をことさらに過少評価した見方といわなければならない。事実,伊藤氏の 主たる視点は「敵一ーである中国軍と戦った, という意識より,味方ーーで (8) ある日本軍の階級差と戦ってきたのだ, という意識の方がはるかに強かった」 という叙述にみられるように,外にたいしてよりはむしろ内なる、味方かの 日本軍そのものに向けられていた。このようにホ兵隊。の意識が外にたいし てではなく内にたいして向かずにいられなかったほどに, 日本の天皇制軍隊, なかんずく将校の、権力主義かは腐敗堕落していた。 ここでは,代表的な例を簡単にあげるにとどめよう。①1941年 7月から 44 年8月まで、北支那方面軍司令官かとして在任した岡村寧次大将は,北京で
15年戦争におけるホ下級兵士。の戦場体験とその継承 509 しばしば宴会を催したが,そこには軍用機でとりょせたフィリピンの熱帯果 (9) 実や東京のニギリズシの大皿がいくつも供されていた。②このような状況は 敗戦直前にいたってもかわらなかった。寸暇を惜しんで陣地構築に汗水をた らしている兵隊の眼前を,連日,上海の芸者たちが軍用トラックにゆられて, ( JO) 部隊本部の宴会場にいそいでいた。③上層部のホ風紀の乱れかや腐敗堕落は, 最前線でも同じであった。敗走に敗走をかさねている原生林の師団司令部で, 師団長以下の高級将校は数本の裸ローソクの灯のもとでマージャンに興じて いた。しかも兵隊が苦労してかついできた師団の貴重品行季の中からとりだ (JJ) した葉巻をくゆらせていた。④第4航空軍司令官富永恭次中将が,ルソン島 東方を行動中の米機動部隊に特攻攻撃をかけることを命令し, 日本万を抜い て「突撃/突撃.ん「進め/進め
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と連呼し(1944年 11月13日) I最後には 俺が特攻隊でゆく」と豪語したにもかかわらず,、最後にはか事実上の「敵前 ( J2) 逃亡」をした事実はあまりにも有名である。 これらに類する軍首脳や軍司令官の横暴・無能・大言壮語・無恥・責任逃 ( J3) 避の事実は,枚挙にいとまがないほどである。 しかし本稿は,軍上層部のこのような天皇制下の権力主義の退廃を論ずるこ とを完全に禁欲し,ただひたすら下級兵士の戦場体験とその意識に焦点を 限定する。ただしこのことは,けっして両者,すなわち軍上層部の退廃と下 級兵士の苦労とが無関係だと考えるからではないことに注意をうながしたい。 むしろ下級兵士の苦しい体験と罪意識のよってきたる原因は,究極的には日 本帝国主義軍隊の人命軽視の体質と上層部の高慢で、差別的な権力主義にある のであって, したがって下級兵士の諸体験や意識を考察するにあたっては, このような軍隊の基本的体質と上層部の権力主義的差別主義を同時に念頭に おかなければならないことはいうまでもない。ただ本稿は,紙幅の制限もあ り,両者を対応させて論ずる余裕がないので, とりあえずその論点を前者だ けに限定することとしたい。 注(5) 黒羽清隆『軍隊の語る日本の近代』のそしえて, 1982, pp.255-57.軍刑法上,兵 は平等であったが, しかし現実には星ひとつのちがいはたいへんな格差を立味するのであ って,兵のなかの政格な階級秩序がきわめて苛酷な暴力をもって維持されていたことは,510 初年兵にたいする古兵・上等兵らの内務班(陸軍),あるいは教班(海軍)における制 裁の残酷さとして,おびただしい数の証言が明らかにしているとおりである。このた めに多くの自殺者や障害者,脱走者をうみだした。(清水光雄『最後の皇軍兵士』現代 評論社, 1985,参照)強制の体系としての軍隊はまことに暗黒の集団であった。 1940年 8月,独立混成第 4旅団第 14大隊第 4中隊の沖野春利上等兵の日記が八路軍 の子に入った。その日記の6月17日の項に,つぎのような記事がある。「小島一等兵が 鉄道自殺したと聞いた時,俺は心臓に短剣でも突きさされたような気がした。……小 島を殺したのはお前だぞ……心の中でささやくものがあった。/思へば俺はズイブン つまらないことで初年兵をいぢめた。俺の犬をからかったと言ってはなぐり,地方弁 が出ると云ってはしほ、1),マルデ初年兵を目のカタキにしていた。考へてみれば,俺 も初年兵当時にはズイブンひどい目にあわされた。そしてあの頃は『俺は古兵になっ ても初年兵は絶対になぐるま~'.oと思っていたじゃないか/だが,いざ上等兵になっ てみたらそうはいかなかった。小隊長も准尉も,初年兵は甘やかすとクセになるから なぐれ, と云はんばかりに俺をケシかけた。俺はいい気になってなぐった。そうした ら小島が自殺してしまったのだ。/昨日,佐藤准尉によばれたが,大してしかられも せず二時間ほどのお説教ですんでしまった。人間一人殺したのにたった二時間のお説 教で……。/小島は表向きは戦死と言ふことになった。だが,小島の家族がほんとう のことを知ったらどう忠ふだろう……。俺はもう兵隊をなぐらない。どんなことがあ ってもなぐらなしL これが小島の霊に対するただ一つのおわびナごoJ (藤原彰編集・解 説『資料日本現代史1一一軍隊内の反戦運動』大月書庖, 1980, pp.352-53) 最下級 の兵の内部における現実の上下関係はこのように苛酷で、あったが, しかしそれは初年 兵を甘かしてはならないという上官のケシかけを必要とした日本帝国軍隊の体制その ものに問題があった。日本の軍隊の暗黒さは,ヒトラーのナチズム軍隊においてさえ, スターリングラード包囲作戦中の部隊の隊長が藍壕にピアノをもちこんで,バッハ, モーツアルト,べートーウ。エン,ショノfンなどを弾いて部下の心をなごませたという 事実(クルト・ロイパーの妻への手紙一一NHK特集「人聞のこえ・日米独ソ・兵士 たちの遺稿J1985・8.13. N H K総合テレビ放送一一)に比するとき,ますます明確 に浮き彫1)にされる。 このような日本の軍隊においては, したがって,兵と下士官との関係は,兵内部の 関係以上にさらに苛酷の度をくわえるのであって,簡単に両者を、下級兵士グという 用語でくくってしまうことはある面では許されないというべきである。本稿における
15年戦争における、下級兵土砂の戦場体験とその継承 511 ホ下級兵士か階層の内部には,上述のようなきびしい自己矛盾が存在していたのであ って,本稿でのホ下級兵士かなる用語は,このような事情をひとまず捨象したところ の便宜的概念であることをことわっておきたい。大江志乃夫氏と小沢郁郎氏は,その 対談記録「官僚機構日本軍の矛盾J(Ir歴史公論.JNo., 78, 1982. 5 . 1 .発行,所収) において,兵と下士官との関係をつぎのようにのべている。 大江「ただ〔敗戦後 の復員のとき〕兵隊が仕返しをしたのは,将校よりも下土官ですね。下士官に直接暴 力支配をされていたわけですから。将校が直接兵隊に手を出すというのはめったにな くて,将校が怒鳴りさえすれば,あとは下士官がぶん殴るというかたちで、すU小沢「だ から,よくも悪くも日本の軍隊というのは下士官が中心になって動いていたなという 感じはしますね。学校出たての士官なんてなにもやれませんからり大江「軍隊に入っ ていい下士官にめぐり合うか合わないかが,兵隊にとってある意味で決定的なことな んて。すねd (6) 伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史』番町書房, 1969, p.16. なおホ兵隊かという用語は 、兵。の俗称とし、うべきで,下士官をふくまないと考えるのが妥当であるが,著者自 身はのちに伍長に昇進していることを考慮すれば,ここでは兵と下士官を意味する語 として使用されているといっていいであろう。 (7) 伊藤,前掲書, pp. 16-17, (8) 伊藤,前掲書, p.17, (9) 藤 原 資 料 日 本 現 代 史 1.Jp.357 ( 10) 伊藤,前掲書, p.18, (11) 津布久寅治『魔境ニューギニア最前線』叢文杜, 1982, p.521, ( JZ) 黒羽,前掲書,⑦, p p.236-39, ( 13) もっとも有名な事例のひとつは,ノモンハン事件における大敗北の実質上の責任者 でありながら,軽罰の転勤を命ぜられ,のちに再ぴ中央の要職にかえり咲いて、大東 亜戦争かの有力な開戦論者となった関東軍司令部第1課(作戦)参謀たちとその任命 権者,およびインパール作戦の悲惨な大敗北の責任者でありながら,自己の計画に呉 見を唱えた師団長や参謀長を罷免して恥じなかった第15軍司令官牟田口廉也中将およ び部下にたいして冷酷無慈悲で横暴をきわめた第55師団長花谷正中将であろう。 司令官の横暴・無恥・責任逃避によってもっとも苛陥な犠牲をしいられたのが地位 の低い兵や下士官,あるいは下級将校であったことはいうまでもないが,非常に気が かりなのは,これら司令官の横暴腐敗について追及する姿勢が,敗戦後においても微
512 弱なことである。花谷の冷酷さを
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品、た高木俊朗氏は,その著作においてこう述べて いる。「戦後には,たくさんの戦記,戦史が書かれ,刊行された。地域別に見ると,そ れらは,ビルマ地区に関するものが,最も多いといえる。それなのに,花谷師団長の 狂暴について,戦記,戦史が一行も書き残そうとしないのは,どうしたことであろう か。/それは……戦時中の禁忌に心をしばられているからではないか。/そしてまた, ……今,花谷中将は,国防のための《期待さるべき人間像》として,一部の人々によ って,その栄光を伝え残されようとしている。/これはまた, 日本人の太平洋戦争の 戦後処理の,象徴的な一つの事例ともいえるようだ。J(高木俊朗『戦死一一インパー ル牽制作戦一一.!1967,文春文庫版, p.370) r戦争悪」を歴史の事実として伝える ことさえなされていないのが日本の現実である。2
世界人口の%が戦争にまきこまれ 1億1,000万の兵士が戦場におくられ た第II次世界戦争において, 日本の軍人の戦争への参加はのべ約 1,000万人 ( 14) であったと考えられる。そのうち,直接戦場で生命を失った軍人の数は約 ( J5) 200万人と推定される。そして戦場あるいは旧植民地から復員および引揚げ ( 16) てきたひとの数は約700万人にのぼると想定されている。 多数の復員者の大部分をしめる下級兵士の戦場体験の伝達・継承にたいす る意識と姿勢には,大別してふたつの型があるといっていいであろう。第1 のタイプは,自分の戦場体験を積極的に記録し,語ることによって,戦場の 実態をひとびとに正しく伝え,理解と継承をえようと努力してきた下級兵士 である。第2のタイプは,逆に,自己の戦場体験を積極的に記録することも 語ることもせず,聞かれると語ることを必ずしも拒まないが,おおむね記録 し談話することにたいしてきわめて消極的な態度をとってきたものである。 消極的の程度は,ひとによって異なるので,一律に割り切ることはできない が,一部の旧兵士はほとんど絶対的に口をつぐんで,あたかもや貝のごとくか に口を閉ざして語ろうとしないのである。 第lおよび第 2のタイプを数量的に計量する方法はまったく存在しないが, 最近戦争体験の記録や談話が多量に発表される傾向にあるとはいっても,な ( J7) お第1のタイプの旧兵士の数がまだ少数であることはたしかである。そして15年戦争におけるホ下級兵土砂の戦場体験とその継承 513 第1のタイプの旧兵士にも,思想的心情的には 15年戦争および今後おこるべ き戦争にたいして,全部肯定の立場にたつもの,全部否定の立場にたつもの, および一部肯定・一部否定の立場にたつものの3種に大別することができる であろう。しかしそれでも積極的に戦場体験を表現してきた旧兵士の思想的 心情的立場のかなりの部分は,戦争否定・平和希求の立場にたっているとい うことができる。それは発表されてきた体験の記録を調査していけば証明す ることができるであろうし,このこと自体ひとつの重要かつ興味深い調査・ 研究テーマとなるであろう。 しかし私が本稿でとりあげようとするのは,第2のタイプの旧兵士につい てである。私はこのタイプの旧兵士については,従来長い間,単純にマイナ スの評価をくだしてきたし,またそれだけで十分で、あると考えてきた。なぜ ならば,みずからの戦争責任・加害責任でなくてただ九死に一生をえて生還 するまでの戦場での苦難を被害者意識をもって被害体験として断片的に語る 傾向を大衆的に支え,その結果, 日本および日本人の戦争犯罪・加害責任の 明確な自己認識と自己批判の成長を妨げてきたものがこれらの口を閉ざした 旧兵士たちであると考えてきたからである。 しかし現実にはこれらの兵士たちの心情には, もっと深刻で複雑微妙なも ( 18) のが存在していることを理解する必要があるのではないかと考えはじめた。 その契機となったのが,前述のように「読売新聞」連載の「戦争」であった。 私は最近1年間の「戦争」連載のなかから,沖中慶二氏(陸軍)と竹中武 治氏(陸軍)のふたりがそれぞれの戦場体験を語ることをかたくななまでに 拒否してきたことを知った。しかも両氏の沈黙は,生還するまでの苦労を被 害者としての立場にたって語るという一般的な傾向を支え, 日本人の戦争責 任の自己認識の成長を妨げるという性格のものとは全く異質のものであった。 すなわち第2のタイプの旧兵士にも明確に区別すべきすくなくとも二種の型 があるというべきである。大多数の型はわたしがささに規定したような被害 体験強調型であるが,ごく少数ながら,内心に非常に強烈な罪障意識をもち つづけていて,そのために遺族にたいしても世間にたいしてもけっして口を 聞こうとしない型の下級兵士がいるのである。後者は何らかの意味で、自己を
514 加害者と考え,ひとにたいして戦場体験を語る資格は全くもっていないとみ ずからをさびしく潔癖に律する加害体験意識型であるといえるであろう。本 稿はこの型の下級兵士に焦点をあてようとする。 1943年 9月,大本営が設定した「絶対国防圏」の中部太平洋上の要衝とさ れたメレヨン島に配備 (1944年 5月までに)された兵員は,陸軍が独立混成 第50旅団の3,205人,海軍が警備隊・設営隊など 3,221人・計 6,426人であ った。敗戦で引揚げた数はわずかに 1,626人。他の 4,800人はすべて死亡し た(空襲による戦死175人,飢餓と伝染病による死亡4,625人)。死亡率は 74.7 ( 19) %の高率で、あった。死者の96.4%は端的にいえば餓死である。ところで,独 立歩兵第331 大隊第 3中隊の生還者14名のなかに,旧軍曹沖中慶二氏がいる。 読売記者の質問に答えて,沖中氏は苦しそうにこう答えている。 「言えないんですよねえ……私には。ご遺族のことを考えますと。それで はいかん,メレヨンであった事実を,それがどんな酷いことであっても,き ちんと語り伝えるべきだ,それこそが死んだ戦友の心にこたえる道だ, とい う人もいますし,私もそうは思うんですが, しかし……J[""……なにしろ,軍 隊ですからねえ。軍隊じゃ,将校と兵が同じものを食べるいうことはないん べすよ。粥にしても,中隊長や小隊長には濃いところを入れる。それが軍隊 側 というもんやったんです。経験した人にはわかってもらえると思うんですが, ご遺族がこういうことを果して納得してくれるでしょうか……J[""私自身のこ とといえば,なぜ自分が生き残ったのか,いまだにわからない。元々が補充 兵で体格はよくなかったし,私ら下士官の食事は兵とかわらなかった。(中略) ともかく,生き残ってしまったんです。しかし,辛いですよ……。年をとる につれて記憶は薄れていくんですが,逆に死んだ戦友への,思いはますます強 (2]) くなってくる, といっょっなことでしてねえ」 沖中氏の苦しいホ独自かは,メレヨンでの悲惨な戦場体験をありのままに 語ることが不可能で、ある理由を明白に示している。氏はどんなにむごい戦場 体験であっても,それを正確率直に語り伝えることが戦友の心を慰める道だ という理窟を十分理解しながら,それでも、遺族グのことを思うと,どうし ても話すことはできないという。氏は遺族の理解可能な行動や心理について
15年戦争における、下級兵土砂の戦場体験とその継承 515 説明することにはためらいをもたないが,理解ができないために自分が人間 的な悪事をはたらいて生き残ったと価値判断されるであろうことを極度に恐 れているのである。正常で、、平和かな状況では考えられないことを,あの悲 惨な戦場ではしなければ生きることができなかったが,生き残ったからには 生き残るだけの異常な悪事を働いてきたにちがいないと価値判断されるであ ろう。あの悲惨な状況のなかで生き残るためにはいろいろの異常なことを体 験しなければならなかったといっ点ではほかの兵も同じだったが,結果にお いて自分を含む少数者だけが生き残った。生き残ったからといって,生き残 ったものが, とくにひどい悪事を働いたのではないと説明しでも, とうてい (22) 遺族に理解されることはないであろう。 沖中氏の考えかたは多分こういうことではないかと思われる。そして"遺 族。のこういう判断を完全に否定し去る事実ばかりでもないという気持が氏 に働いたのであろう。、遺族かのきびしい眼で自己の行動を反省してみると, 些細なことでも自分の責任ではないかと気にかかって耐えがたい心情になる のであろう。氏は,ある同年兵の死について, 自責の念にかられる事実を記 者に語っている。それは戦友と約束はしたものの週番士宮の言葉を信用して, 医務室に入った、戦友M にメシをもっていかなかったというのである。とこ ろが,そのホ戦友かはホメシはまだか,メシはまだなのかかと言いながら死 んでいった, という話を翌朝医務室の下士官からきかされたのである。「ああ, 彼は私が食事を横取りしたと,思ったに違いない。私を怨みに怨んで死んでい ったに違いない……。その思いが,いまでも私を苦しめるんでやす」 戦友を裏切る気持をまったくもたなかった沖中氏が,結果において裏切っ たという自責の念にいまもなおさいなまれているということは,氏が戦友を いかに深く敬愛していたか,両者がいかに深い信頼と友情で結ぼれていたか を示すと同時に,その信頼し敬愛した戦友が自分を裏切者と思って死んだの ではないかと思わざるをえない事情が結果として発生したことが悔やまれて 耐えられないという心境を示している。それは友情ゆえの苦悶である。 第
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航空隊整備兵であった池上義男氏は,飛べる戦闘機がいなくなって, 自活用の畠を耕すだけが仕事となったころから,餓死者がつぎつぎと出てき516 たという話をしたあと,記者から兵の将校殺人事件について質問されたとき, 「表情がサッと変わり」数分間「目をつぶって考え」こんでしまった。取材 者側はこの殺人事件についての取材は困難だと考えていた。すなわちこの事 件について口を聞いて語ってくれるひとがいるかどうか,またたとえ聞き出 せたとしても i心の傷をかきむしることになりはしないか」と,この事件の 取材にあたってはあらかじめ種々検討した。しかし「戦争がどんなに異常な ものであるかを,たとえそれがどんなに辛いことであっても, しっかり{云え ていく」ことがマスコミの使命であり i敵を殺すんやなく味方向士が殺し合 うという事件を通して,戦争の本当の姿に近づ、」くことができるのだという 確信に達して,この取材に改めてとりかかったのである。はたして,池上氏 はこの事件の取材をうけたとき,表情が変わらざるをえなかった。しかし目 をつぶって考えこんでいた氏は,結局,取材に応じた。そのときこういった。 「そうですわな……あれは,だれが悪い言うんやない。戦争がこさえた事件 (23) やもんな。戦争が人間をあないにさせたんや。わかりました,話しましょう」 こういって,氏は2件の将校殺害事件,古参兵リンチ事件,整備兵自決事件, 銃殺事件を語り iこうやって話をさせてもろうてますが,ほんまは思い出す のも辛いんで、すわ」といい,さらに,敗戦後20年たったころ殺された将校の 実兄が真相を聞きたいと不意に訪問してきたときのことにふれ,あのときは 仰) 「ほんまに,胸が張り裂けそっゃった」と述べた。 殺された将校の実兄にたいして真相を語るかどうかについて,池上氏は実 兄を案内してきた、戦友グと相談し,はじめは「うそは言えん。けど,言う たら,あまりに気の毒や,戦死で押し通した方がええんと違うか」といっ気 持であったが,迷いに迷って,ついに iやっぱり話そう,お兄さんの戦争も それてい終わるやろう」と意を決して,将校の最期を語ったという。将校の兄 の悲歎は当然であるが,それを見ていた池上氏は i泣けて泣けて……。心の 中で叫びましたよ。将校も兵隊も悪いことあらへん。戦争があんな事件をこ さえたんや。飢えて,飢えて,それがあんな馬鹿げたこと,こさえたんや。 人間,ネズミ追いかけて食つよつになったら, どないなるか……。わかって (25) くれますか……」
15年戦争における、下級兵士かの戦場体験とその継承 517 池上氏は,記者による取材の20年ほど前,すでに,真相を語るべきかいな かの決断をせまられる時を経過していた。そのとき真相を語る決意をかため たのは,、遺族かのホ戦争かを終わらせるという意味を見出したことと,その 事件がおこったのは殺害者が悪人だったからではなし戦争がっくりだした 飢餓状況のなかでのやむをえないできごとであったと考えることで特定個人 を犯罪者扱いにしなくてすんだことによるといっていいであろう。 池上氏は体験の真相を語ることにふみさることができたが,沖中氏のばあ いはそれができなかった。それは、戦友。の最期がみずからの不作為による と考え,自分を犯罪者として責める罪障感にさいなまれているからであり, しかもその個人倫理意識上の罪障感は、戦争かゆえの出来事として一般化し て抹殺し去るにはあまりにも深刻であったからである。 読売新聞の取材班は,さきの将校殺害事件の真相をさらに深く知っている 70歳近い男性をさがしあてて取材した。その男性は当時航空隊員であったが, 取材者に事実を語ったあと,このことは「女房にも子供にも話したことがな い」と苦渋の表情を見せたという。そしてその体験があまりにも重くかっ無 残なので,その男性の名前を紙上では公表せず,、元航空隊員かとして表現す (26) ることにした。それほどに、元航空隊員。の話は真実を赤裸々に語っていた のである。 その話の詳細は省略せざるをえないが,メレヨン島に派遣された軍人のな かで,本隊からとり残されてもっとも苦労させられた航空隊員であったとい う同氏は,米を盗んだ、戦友かが見つかって木に縛られて絶食させられて死 んでいったときのことを「こう言うたら悪いけど,その時の他の兵隊の心の 中は,かわいそうやと言うより,これで自分に回って来る食糧がふえる,そ の分だけ命をのばすことができる,そんな気持ちゃなかったかと思います」 と表現した。さらに,盗みを働いた兵にたいする処罰は自決だときめた将校 たちのことについて r上の者は,人間を人間と見てなかったんと違うか,兵 隊を減らそう,減らそうとしとったん違うか, と思うてしまいますわ。芋を 盗んだだけで,自決せい,いうんはあまりにもひどいのと速いますか。 1銭 5座のはがき 1枚で呼び出されて,飢えて,飢えて,それで自決してしもう
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て・・・・・OJ 、元航空隊員グの体験談は,いよいよ事件の核心にせまっていく。乾パン 1 箱を 1人占めにした将校の専用壕に盗みにはいった 6名のホ戦友かたちが, 乾パンの箱を見つけだせないでいる聞に戻って来た将校に発見されたので, とっさに将校と従兵を射殺した。 6名の兵はホ犯行かの取調べをうけ,銃殺 された。ところで、元隊員グははじめその6名の銃殺について不自然なほど 簡単にしか語らなかった。取材記者は不思議に思い,さらに問いつづけたと ころ,真相を洩らしはじめた。そのと色、元隊員グの体は「小刻みに震えつ づけてい」た。同氏は2年以上も行動を共にしてきた 6名の、戦友かを壕内 で処刑する執行者にさせられたのである。その真相を語りながら,当時の心 境をこう述べている。 「なんと,ひどいことをする,恐ろしいことをする。心の中は,かきむしら れるようでしたよ。長い間つき合って来た仲間です。家族のことも,故郷の ことも話し合うて, 日本に一緒に帰ろう, と励まし合うた戦友ですよ。それ を殺せ,と言うんですよ。そんなむごいこと,ありませんよ。/……私, ど うしたらいいんかわからんで『何か食いたいもんはないか」とだけしか言え (28) んかった。戦友は『何もいらん』言うてねえ……」 「将校は乾ノfンを私らの前で、は食べんかった。けど, 目の前を乾パンの箱さ げて通って行きょった。それを見られとる。兵隊は腹をすかして,生きるか 死ぬかのところにおる。これを見たら,だれでも思うんと違いますか。将校 は,ょうけ飯を食いやがって,乾パン食いやがって……なんで乾パン一枚で もくれへんのや。将校も兵隊も同じ人間ゃないか, とね。/そら,盗みとう もなりまっせ。確かに将校と従兵を殺してしもうた。けど,六人みんなが手 を下したわけゃない。連帯責任か何か知らんが,六人みんなを銃殺すること ( 29) はないゃないか。」、元航空隊員グの将校にたいする怒りはいまもなお激しい。 氏は敗戦後メレヨンにいた海軍の幹部に偶然出あったことがある。そのとき, この怒りをぶっつけた。すると,相手は「ま,ま,あれは戦争の時のことゃ から,そんなこと言うたらあかん」と言いのがれたという。直接、戦友かを 銃殺するよう命令された兵と銃殺を命令した将校との差は,敗戦後の人間と15年戦争における、下級兵士勿の戦場体験とその継承 519 しての生きかたにまで明確な差となってあらわれている。将校は戦中と戦後 とでひととしての生きかたをきわめて器用に転換して恥じないのである。良 心的な下級兵士ほど,戦中の行為をいまにいたるまでひきずり,自己批判し 苦悶しつづけている。 「メレヨンの話はいやや。女房,子供にも,こっから先言うてない,そのわ けがわかってもらえまっしゃろ。私はメレヨンのことは忘れたいんです。忘 れよう,忘れようとしてるんです。けど,どうしても忘れることがでけへん (30) ので、すd妻や子供にも語れない戦場体験がある。苦楽を共にし,互いの家族 について語りあい,いっしょに日本に帰ろうと誓いあった、戦友かを銃殺せ ねばならなかった戦場体験は,人間としては最大の苛酷な反人間的行為であ る。その行為をひとに語ることはやはり苦しい。しかし、元航空隊員グがそ の真相を語ったのは,罪障感にまさる将校への怒りがあったからということ ができょう。 本稿の主題からはそれるが,ここで上級将校のケースをひとつだけとりあ げてみよう。陸軍独立混成第50旅団長北村勝三少将のばあいてやある。氏は 1947 (31) 年8月15日夜,遺書を残さず,、古式かの作法にのっとって自決した。長男宏 氏によれば"元少将かは,メレヨンにおいて毎朝餓死者の報告をうけていた。 「これにはもう心身ともに参ったよ。何とか手だてはないか, と思うと居て も立ってもおれなくて,本当に切なかったム「最高指揮官といえども,特別 (32) なものを食べていたわけではない。」食糧は当時海軍の潜水艦が輸送して来て いたので,優先権は海軍にあり,それを陸軍にどれだけ回してくれるかが大 問題であった。、元少将かは陸軍の指揮者として陸軍のための食糧をどれだけ 確保するかに苦心したもののようである。したがって,陸軍と海軍とでは食 糧の配分や管理・消費について別個の方式をもっていたのであろう。ホ元少将か は,復員後1946年春から、遺族かを訪ね rメレヨンて、、の実情」を話し rなぐ さめ」てまわることをはじめた。敗戦直後の食糧難と混乱の時期に,、元旅団 長。は米をもって全国各地に散在している遺族を訪ねた。、元旅団長。は自宅 に戻ってくると,家人に「みんなに喜んでもらえたJr行ってよかった」とい って,ホッとしていたとのことであるが,突のところ遺族や復員の兵の反応
520 には厳しいものがあった。陸軍高射砲隊長であった横山氏の話によれば,北 海道を1ヵ月近くかけて1周したあいだ[""うちの息子を返して下さいつ」と か「上の者ばっかり,のうのうと生きて還りやがって」という罵声さえ飛ん できたし,生還した兵のなかにも同じょっな言葉をなげつけるものがあった という。そういうと色、元旅団長かはただただ頭を下げて,責任はすべて自 分にある, といい,メレヨンの状況を語り,最後には必ず墓参りをした。横 山氏の語るところでは,、元旅団長かの心は最後にはわかってもらえて,おに (33) ぎりやおだんごをつくって渡す遺族もあったとのことである。 下級兵士との立場の差を最大限利用した将校が圧倒的に多カか込つたなカか為てでで、許、 北村、元少将汐のような指揮官の存在は稀有で、あったということができょう が,兵の死亡率の高さ,したがって兵がなめた辛酸の程度を看過するわけに はいかない。戦場での辛酸の体験は,思いだすだに怒りと悲しみと悔恨と罪 意識にからだ中がうちふるえずにいないほどのものである。 注(14) 遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史.!l (新版), 1959, p.245, 246. ( 15) 服部卓四郎『大東亜戦争全史」原書房, 1965, p,1016によれば 1937年以降の侵略 戦争(大東亜戦争〕の犠牲者数は,陸軍(軍人および軍属)の死亡・行方不明者数 1,439,101名・不具・廃疾者数85,620名,海軍(軍人および軍属)の死亡・行方不明 者数 419,710名,不具・廃疾者数 8,895名,官民の死亡・行方不明者数 658,595名と 推定される。死亡・行方不明者の合計は 2,517,406名である。これらの数字は復員局 および経済安定本部の報告をもとにして累計したということであるが,基礎となる数 字自体,正確な数ではありえないから,戦争による死者の数は約 260万人というのが むしろ妥当であろう。 しかし,本稿の対象外なので'J,れることをしなかったが,世界史的観点からみてわ れわれがさらに注目しなければならないのは, 日本の侵略軍が中国・朝鮮・東南アジ ア諸国,太平洋諸国のひとびとにどれほどの被害をあたえたか, という視点にたって 考えなければならないといつことである。しかしながら, 日本軍が殺し,あるいは死 にいたらしめたこれら諸国のひとの数は幾らだったかといっ視点にたった考察は乏し いというべきである。加害国日本の立場としては,その数をできるだけ少なく見積り, さらには不明だから殺毅そのものの事実はなかったのだとして責任をのがれようとす る傾向があることは,教科書検定にあたる文部省の姿勢をみても明らかである。
15年戦争におけるホ下級兵士。の戦場体験とその継承 521 ( 16) 陸軍について1945年8月15日現在の方面別・階級別人員表が同年8月31日付で大本 営陸軍部より発表されている。ここでは「玉砕セル部隊及一般ノ損耗人員ヲ控除シ アリ」とあるので,戦死者数をのぞいた生残りの陸軍軍人数(軍属・防衛召集者をの "7"7 ぞ く ) の 推 定 値 が 示 さ れ て い る わ け で あ る 。 た だ し 「 比 島 ノ 人 員 ヲ 含 マ ス 」 な のてv在フィリピン予想人員約10万人を付加する必要があるが, とりあえず,この分 を考慮、の外において,大本営の発表数字を,方面別を省略して,階級別人員について みてみると,つぎのようになっている。 将校 246,900名 , 下 士 官 =680,700名 , 兵 =4,479,500名 しかも将校人員のうち約 3割は欠員の見込みとなっているので,このことを考慮、に いれると,将校の実人員はおよそ173,000名と推定することができょう。そこで将校 :下士官:兵の比率をみてみると,およそ 4 : 26となる。兵の比率がいかに多い かがわかる。参謀本部所蔵『敗戦の記録』原書房, 1979, p p.318-20. しかしこれらは生存者についての数値であって,戦死者についての数値・比率は兵 においてさらに大であったことを忘れてはならないであろう。 ( 17) みずからの戦場体験を積極的に語り,記録している下級兵士のひとり塚越正男氏は その自己告発の書のタイトルを
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百の場合』としている。これは中華人民共和国の 最高人民法院特別軍事法廷において裁かれた1,062名のうちのひとりすなわち自己自身を 示す表現である。みずからの戦争犯罪を自己告発する意味をこめて発言する旧兵士の 数は,このタイトルに示されるほどに少ないということができるであろう。塚越正男rd
古の場合一一鬼から人間への発言集一一』自費出版, 1977,参照。 ( 1日 そうはいっても,私がマイナス評価してきた旧兵士の存在が圧倒的に多いというこ とにかわりはないであろう。「朝日新聞J1985. 7. 22付「ハッピー・ニッポン」のな かで,岡田記者は中国に養蚕技術の指導に行ってきた林雄次郎氏のことにふれている。 林氏は1938年に召集され,中回戦線で半年間転戦したが赤紙一枚で弓│っ張られたー 兵卒に過ぎない。時々話題となる「中国侵略の責任』など,自分には関係ないと思うd i(中国〕滞在中, 自分のほうから従軍経験に触れることはなかったりまた,同日付の 記事で,岡田記者はフィリピン戦線に従軍した田中美名氏のことにもふれている。そ して田中氏にも ilr償v'.1などという気持ちはない。自分が戦ったのは「やむをえなか った.IJという心的であることを記述している。 ( 19) i読売新聞J1984.11.18付「新聞記者が語りつぐ戦争」より引用。なお,独立混成第 50旅団の階級別死亡者数・率は,将校二71名・31.3%, 下 士 官 =330名・64%, 兵 =522 2,018名・ 81.9%である。注(16)における生存者比との対比のために,死亡者比をみて みると,将校:下士官:兵=1 : 4.6 : 28.4となる。 (20) 将校の下士官・兵・軍属にたいする冷酷な仕打ちは海軍でも同じであった。第216 設営隊(約1,000人)の軍属であった西川菊太郎氏は,少年兵たちの最後を語ったあ と せ め て1日1合の米を配給してくれりや,子供らの半分以上は生きて帰っていた。 当時の上官で,戦後遺族を訪ねたり,わしらと面と向かつて顔を合わせたもんは 人もおらんですよ」と憤怒の情をこめて記者に話したといっ。「読売d1984, 12.1付。 ( 21) r読売d1984.11.20付。
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2) 遺族からは理解してもらえないという心境は,復員者があとでホ戦友。の遺族を訪 ねてその最期の状況を語ったときの遺族の反応によって, しだいに普遍的に形成され ていったのであろうo 同じメレヨン島で将校の給仕役をつとめていた少年兵が,飯を 運ぶ途中,一口ほおばったことが発覚し,制裁をくわえられ,それ以後,衰弱してつ いに飢え死にするにいたったことを遺族に告げに来た復貝兵のことを記述した個所に, こういう叙述がある。一一(1945年10月〕約 1時間かけて話し終えた復員兵は,別れ を告げると,よろけるような足取りで玄関を出た。その姿が消えたとたん,母のケイ さんは,卓祇台を叩いて泣き叫んだ。 /rあんな年寄りが,どうして飢え死にせんと帰 って未た。なんで昇みたいな若い者が先に死なないかんのや。わがらのような者が, 命惜しいばっかりに,若い子の分まで食うてしもうたに相違ない。そうに決まっとる。 卑怯者が。くやしい……J(r読売d1984.12.4.付) しかし少年兵の弟は39年後の取材時点で冷静にこうのべている。一一一「わざわざ兄 の死を告げに来てくれた人が,兄の食糧を奪ったなんて,私らは,まったく思ってい ません。母だって冷静に考えれば,そんな言葉は出さんかったでしょう。でも納得い かんのは,島に米や缶詰がまだ,たくさん残っていた, ということです。食糧があっ たのに隠され,多くの人が兄のように飢え死にしたとしたら, とてもゃないが,割り 切れんので、すd(同日付) 敗戦直後四歳にもならない息子が飢えて死んだと聞いた母親の悲しみは十分理解す ることができる。そしてこの事実を知らせに来た生き残り復員者を見て,息子の悲運 と比較した心理過程も了解できる。しかしみずから栄養失調で正常な食事もとれない 健康状態のままで遺族に知らせに未た復員者の誠意は,その時点で母親に理解されて いない。 (23) r読売d1984.12.5付。15年戦争における、下級兵士かの戦場体験とその継承 倒) r読売J1984.12.8付0 (25) r読売J1984.12.9付。 (26) r読売J1984.12.12付。 523 (27) r読売J1984.12.14付。なお盗みなどを厳罰に処するとの方針は,実際に京高級幹部か によってつくられていた。島の守備隊の最高指揮官だった独立混成50旅団長北村勝三 少将の長男宏氏は調査した結果をこう語っている。一一一「確かに,兵隊さんがおなか をすかして,隣の南瓜をとりに行ったのを見つけられ,木につながれるという処罰を受 けた,そして衰弱して亡くなられた, ということは私も耳にしました。この処罰は, 父の部下の高級幹部の方が,軍規を維持していくためには,盗みなどは厳罰に処さな ければならない, と強硬に主張されて,出来たようですJ(12.20付) (28) 読売J1984.12.16付。なお 6人の銃殺を命令したのは,メレヨンの海軍部隊を指 揮していた、第44警備隊の幹部。であった(同日付)。 (29) r読売J1984.12.18付。 (30) r言完売J1984.12.16付。 (31) r読売J1984.12.23付。 (32) r読売J1984.12.20付。 (33) r読売J1984.12.22付。
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最近1年間の「読売新聞」の連載「戦争」のなかで,いまひとつ,戦場体 験を語ることを拒否しつづけてきたひとの話が出てくるのは,和歌山県鮎川 村の戦没者と復員者の取材の個所においてである。 同紙の1985年 3月14日付の「戦争」には,ニューギニア戦線から生還した 竹中武治氏の復員後の状況が叙述されている。 1946年はじめ復員した同氏は, 39年たったいまも,遺族にたいして,ニューギニアの戦場を語ったことがな し、。 東部ニューギニアの残存兵は武装解除された後ムッシュ島に収容され,そ こから氷川丸に乗せられて復員したが,ムッシュ島で同村出身の赤木正弘氏 と再会した。ふたりが所属した歩兵第80連 隊 は , 戦 時 の こ と と て , 総 兵 員 5,200人という通常の2倍近い大部隊であったが,ムッシュ品に集結させられ たときは,わずかに 160人,品での収容生活中にも栄養失調やマラリアで死524 (34) 亡するものが相ついて三結局,生き残ったのは 105人であった。生存率はわ ずかに2.01%であった。赤木氏の話によれば¥このなかで,和歌山県出身者 は7人であった。浦賀から復員列車で大阪まで行く途中、 7人の話ははずん だが,名古屋をすぎたあたリでだれかが「村に帰ったら皆に何と言おう」と 関 ため息まじりに言ってからは,みんな黙りこくってしまった。ところが,大 阪駅に降りたったとき 7人の復員兵は 100人をこえる婦人たちにとり固ま れてしまった。「夫がニューギニアから帰ってくるんと違うか,戦死公報もろ たけど,ひょっとしたら生きてるかもしれん, と望みをかけた人たちゃった んや。みな,頬がこけてよ,背中に赤ん坊おぶった人も大勢おった。復員船 が浦賀についたことを,新聞かラジオで知って, じっと汽車を待っとったん やろな(:)これらの婦人たちはたしかにニューギニア戦線に派遣された夫(あ るいは父親,息子,兄弟)を待つひとたちで, r20師団の人はいませんかJr朝 2,055部隊の人はいませんか」といっ婦人たちの叫びはまさに赤木,竹中氏 にたいする必死の呼びかけであったのである。赤木氏によれば「その瞬間, わしは頭をガーンとどやされたような気がしてのう, もう, どう言うたらえ えのかわからん」という心境におちいった。そして, とっさに「私ら,部隊 が違うもんでい」と言って,逃げるょっに人波をわけでその場を離れた。まさ にかれらは、逃げたかのである。生死の消息を何とかして知りたいと必死の 思いで待ちつづ、けた婦人たちにたいして,嘘をいってまで逃げなければなら なかったのはなぜか。
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人の生き残り兵は,生還を喜ぶどころか,むしろ「ニ ューギニアで死んどりゃあ良かったのう」という心境であった。「まるです巴罪 者のような,暗い帰郷だったり竹中氏にくらべて,戦場体験を語ることにか んしては積極的に応じている赤木氏でさえ,その日は「道でいろいろ声かけ られたがのう,何も覚えとらん。誰にも会いとない,の一心でよォ……。家 に着くなり¥¥面会謝絶と玄関に張っといてくれか言うて,二,三日は寝たき りやったり数日後遺族が訪ねて来てもことわった。「もう話す馬力がなかった。 死んどれば良かった。早う忘れたい……この繰り返しゃった。ひと月ほどは, 家から一歩も出なんだりその赤木氏がニューギニア戦線の惨状を語りはじめ たのは,復員後半年ほどたって,、戦友かの妹が訪ねてきて, 兄の最期を教え15年戦争におけるホ下級兵士かの戦場体験とその継承 525 てくださいと,玄関にすわりこんで動かなかったからである。「あの人に話し たことでよ,何やら心の重しが取れたようでのう,やっとそれから,他人様 (37) に戦争の話ができるようになったんよ……」 しかし竹中氏はなぜいまも戦場体験を語ろうとしないのだろうか。「話題が 戦争に及ぴそうになると,あわてて話をそらせ,会合などの折の場合は,な (38) にかと理由をつけて,逃げるょっに家に帰る」という生活がいまもつづいて いる。村で聞かれる慰霊祭にもけっして出席せず,今年3月17日も顔をみせ (39) なかったという。 女 4人,男 4人の 8人きょうだいの長男に生まれた竹中氏は貧しい農家で いろいろの仕事をしたが,なかでも猪撃ちの名人で,それが戦場で大いに役 立ち,飢え死にすることなく生還できた。しかし氏の心に重くのしかかる戦 争への思いのひとつは 5歳のとき事故で右目を失明していた弟の寅児氏が 1943年5月に召集されて1944年6月同じニューギニア戦線で戦死していたこ とを復員してから知ったことであった。竹中氏は視力障害をもっ寅児弟だけ は兵隊にとられることはあるまいと安心していたにもかかわらず,赤紙で召 集され, しかも同じニューギニアで戦死していたということに非常なショッ クをうけた。しかも兄弟4人全部が兵隊にとられたなかでこの弟だけが戦死 (40) し,あとに妻と子が残されたのである。 竹中氏の口を固くさせるいまひとつのもっと重大な胸の痛みは, 1938年か ら1946年 ま で9年間におよぶ軍隊生活(兵および、下士官)のなかの, とくに 43年1月以来のニューギニア戦線での悲惨な体験である。食糧は現地調達(聞各 奪)しなければならなかった日本軍にあっては,敗残の
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現場での最大のたた かいは食糧の確保であった。しかし,郷里で猪撃ちの名人であった氏は,ニ ューギニアのジャングルにかくれて生きる状況でも,そこに生息、する多数の は1) 烏を撃って, 20人の部下の栄養を補給してやることができた。部下思いの。班 長かである氏は, 1943年9月泥沼のジャングルを敗退する途中で7人の部下 を失なったことが心に残った。翌年はじめにはフィニステール山系の縦走の 途中でさらに 5人の部下を失なった。氏にとってさらにつらかったのは, 1944 年3月,食紐確保や火をおこす技術を身につけていることで周囲から頼りに526 されていた、班長かが連隊長付を命ぜられ,部下8人と別れなければならな かったことである。最初上官から連隊長付を言われたとき,残った部下8人 を何とか飢え死にさせないよう守りぬこうと,改めて心に誓った矢先だった ので,その話をことわった。しかしそれは上官からの命令であリ,否も応、も (42) なかった。ところが, 1945年 8月,武装解除されてムッシュ島に収容されだ (43) とき, 80連隊員 160人のなかに,かつての部下は 1人もいなかった。 読売新聞取材班の記者が竹中氏から聞きだせたことは,大要以上のことだ けであって,それ以上の細かい話はいまだに聞きだせないでいる。これだけ の話を聞きだしたことだけでも,読売取材班の熱意の成果というべきであろ う。それどころか紙上に竹中氏の記事がのったあと,読売新聞社に読者から 「竹中武治さんは『命の思人』という手紙J(和歌山市の宮崎氏より)が舞い こんだという。竹中氏は「自慢話になるのを避けた」のであろうが,ニュー ギニア最後の決戦となったアイタペ作戦て1 食糧輸送の途中,火力に勝る相 手側から集中攻撃をうけて全滅寸前までおいつめられたとき,仁王立ちにな って相手陣に接近,手摺弾をなげこむと同時に,突撃/と大音声を発し,こ 川 うして自己のいのちを的に、戦友グを守ってくれたという文面である。 そのような戦場での活躍にもかかわらず,竹中氏の心をいまだに苦しめつ づけているのは,部下が全員死んでしまったのに,自分だけが生き残ったと いうことへのうしろめたさである。「わしは,部下のことでもやれるだけのこ とはやった思うとる。なにも,悪いことして生き残ったわけゃない。ただよ ォ,たとえ命令とはいえ,あとの方の一年半は,他の衆とくらべて生き残れ やすいところにおった。それがうしろめたいんよ。そういうわしの話を聞い たら,遺族はどう思うやろ考えると, とても,面と向かつて話をする勇気が 出んのよoJI部下だった連中にしてもよォ,わし一人,いい目しゃがってと, あの世で思うとるんやないか,そんな気がしてならんのよ。それが証拠に, (45) ついぞ夢にも出てきてくれん。わし,淋しいよォ……」 氏が部下を思う真剣さは,当時の日本軍ではもはや稀有となっていた上官 (兵長=班長)として部下を守るべきだとの旺盛で、真面白な責任感を基礎と していた。その真面目な責任倫理意識のために部下全員を失なったことは自
15年戦争におけるホ下級兵士かの戦場体験とその継承 527 分自身に責任があるとしてみずからを責めつづけざるをえないのである。し かし氏の責任感は部下の生命を尊重するというすぐれた倫理意識に裏づけら れていたというべきで,その優秀さゆえにかえって自己を責める反省力も強 力だったと考えられる。 第2のタイプに属する多数の旧兵士のなかで,徹底して戦場体験を語らず, 遺族会の慰霊祭にも顔をださない旧兵士は稀である。この数すくない下級兵 士は,その体験と倫理感を僅かしか語らないが,沖中・竹中両氏から推定で きることは, 自己にきびしい責任倫理を課して生きているということであり, 自分を単純な戦争被害者として甘やかさないということである。 注(34) r読売J1985.3.2, 3.9,および3.14付。 (35) r読売J1985.3.9付。 (36) 同上付。このような情景は日本全国で見られた。戦場の夫の帰りを待つ妻の必死の 思い,戦死公報のいい加減さを知る妻の必死の原心、がこうLけ駅頭風景をいたるとこ ろでうみだしていた。 (37) 向上付。 (38) r読売J1985.3.14付。 仰) r読売J1985.4.3付。 (40) r読売J1985.3.10付。 ( 41) r読売J1985.3.12付。 (42) r読売J1985.3.13付。 (43) r読売J1985.3.14付。 (44) r読売J1985.4.3付。 (的 「読売J1985.3.14付。 も ヨ す ぴ 「おびただしい多数のドイツ人民老若男女が命をなげ、うってナチスに対す る抵抗を続けていた」ドイツや「ムッソリーニ政権を倒し,連合国軍の到-右 に先だってイタリア北部をイタリア人民自らの力で解放した」イタリアにく たべて, 日本では rドイツ・イタリアのような人民の反戦・反ファシズム抵 抗はほとんど見られず, 日本国家の支配層が,戦況の悪化に伴って民心が離
528 反し国体の護持』が困難となるのを憂い,権力側のイニシャティヴにより 降伏を決行し,連合国側でも日本占領の実権をほとんど独自に掌握したアメ リカが, 占領政策の円滑な遂行のためには天皇を温存し天皇とその政府を利 用するのを得策と判断してJI戦争中の支配勢力の全面否認・打倒の政策をと らなかったので,降伏後に上からの日本国家による公の戦争責任の自己処理 (46) も,下からの日本人民による戦争責任の追及もおこなわれることがなかった。」 上からの公の戦争責任の自己処理をおこなう意思のない政府は,敗戦直前か ら下からの戦争責任追及の動きをおそれて,事前に封殺する政策を講じてい 仰) た。このような政策は過半数のホ国民かにより支持されて,ついには1985年 8月15日の中曽根内閣の靖国神社公式参拝の実現にまでいたった。 本稿が対象としてきたところのホ戦場体験グをだれにも語らず,記録しな いと誓った少数の旧兵士は,むしろみずからの戦争責任をあまりにも強烈に 認識し,戦場の飢餓・敗残状況のなかでのやむをえない現象であったと一般 化・合理化し,あるいは他に責任を転嫁することを許さないきびしさで自己 の行為を倫理的に責めつづけているのである。戦争責任を回避し,人民によ る戦争責任追及を封殺してきた吋長カグの無責任体制とは全く逆の,まさに (48) 責任倫理の模範的典型とさえいうべきであろう。 これら下級兵士の、倫理的沈黙かは,戦没した、戦友かあるいは、部下か の生命と人権にたいする限りない悼みと責任意識・罪意識にもとづくもので あり,再び「国家に生命をささげる」軍隊の復活と増強を願う軍備拡大推進 者たちの靖国神社参拝の意識とは全く相容れないものであるが,ただわたし 附 の戦争責任論の視点、からみるとき,生命と人権への責任意識・罪意識を日本 帝国主義の侵略の被対象国の生命と人権への責任意識,すなわち日本国家と 日本人民が負わなければならない戦争責任論まで拡大していないところに弱 点がある。責任意識・罪意識が日本帝国主義の侵略範囲と同じ規模に拡大す ると色、下級兵士かの反戦・平和を希求する立場はさらに堅固なものとなる であろう。なぜならばその責任意識は個人倫理を基礎としつつさらに普遍的 な人類的責任倫理へと進展しているはずだからである。 注(46) 家永三郎「戦争責任』岩波書庖, 1985, p p.349-50.
15年戦争におけるホ下級兵士。の戦場体験とその継承 529 (47) 本稿ではこの点にふれる余裕はないが,たとえば,内務省警保局長は全国警察部長 あてに暗号電報(1945.8.14付)を発し,戦争責任者追及の動きを封じた。また同年 10月4日連合国最高司令部が廃止覚書を発するまで,特高,外事,検閲警察は戦中に劣 らぬ活発な活動を継続した。粟屋憲太郎編集・解説「資料日本現代史2一ー一敗戦直後 の政治と社会①」大月書庖, 1980, p. 7,など。 (48) 戦争の実像を明らかにし,継承するために,固く口を閉ざしてきた少数の下級兵士 からもこれだけの発言を聞きだす努力をかさねてきた「読売新聞」取材班の熱意と骨 折りをも讃えるべきであろう。 側 前 掲 拙 著 , 参 照 。 (付記〕本稿に使用した資料の収集について協力を惜しまれなかった中尾慶子氏に感謝の 意、を表したい (1985.8.23J