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雑誌名 大妻比較文化 : 大妻女子大学比較文化学部紀要

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(1)

ヨーロッパ統合の起源 : 戦後国際政治経済秩序を 考慮に入れるための試論

著者 井上 淳

雑誌名 大妻比較文化 : 大妻女子大学比較文化学部紀要

巻 20

ページ 23‑38

発行年 2019‑03‑01

URL http://id.nii.ac.jp/1114/00006679/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止

(2)

ヨーロッパ統合の起源

戦後国際政治経済秩序を考慮に入れるための試論

井 上   淳

キーワード:ヨーロッパ統合(EU)の起源、石炭鉄鋼共同体(ECSC)、

欧州決済同盟(EPU)、冷戦、金・ドル体制

1.はじめに

EU(European Union)統合は紆余曲折を経ながらも進展し、加盟国の数、取り組む政策

領域ともに拡大してきた。ギリシャ財政危機そしてユーロ危機の際には一部でユーロ崩壊 が懸念されたが、現在は(過去には取り組むことができなかった)加盟国財政状況の相互 監視が行われるようになり

1

、「真の

EMU(a genuine Economic and Monetary Union)」 2

へ向 けた取り組みがすすむなどしている。

進展と停滞を繰り返しながらも漸進的に統合が進んでいく

EU

をどのように捉えるべき かという分析手法(分析枠組/理論)についての研究は、国際関係理論研究ないしEU研 究といった研究領域で発展してきた。たとえば政府間主義(あるいは合理選択的制度主義)

は、統合の進展はあくまで加盟国政府の国益の反映であるとして、統合の進展を加盟国と りわけ大国の国益から説明してきた

3

。政府間主義とは対照的に、EU諸機関や多国籍企業 が統合を需要することで統合が促進されると主張する研究(超国家主義)、加盟国が選択

した

EU諸制度が時間を経て加盟国を拘束してさらなる統合がすすむと主張する研究(歴

史的制度主義)も生まれた

4

。21世紀に入ると、上記の立場による説明では

EUと加盟国

政府を対置させた形でしか分析することができないと指摘して、様々な行為主体(アク ター)が政策決定にかかわる様相を描写しようとするガバナンス・アプローチ

5

が提唱さ れた。それでも、分析枠組をめぐる諸研究はいずれもEUを「閉ざされたシステム」

6

とし て扱う傾向が強く、

EU

と加盟国がおかれている国際政治経済環境を視野に入れた分析ツー ルを提供するには至っていない。

しかしながら

EU

を日々観察していると、EUを理解するにあたって

EUの外にある国際

政治経済環境の検討は欠かすことができない。ユーロの前身である欧州通貨協力はブレト ンウッズ体制崩壊の過程で制度的に整備され、石油危機後の長期経済停滞は1980年代の 域内市場統合計画をもたらし、冷戦終結と東西ドイツ統合は共通外交安全保障やユーロ創

(3)

設の引き金になった。また、経済のグローバル化を経験する過程で、金融や

ICTをはじめ

とするサービス産業の市場統合がさらにすすめられた。一連の事実を踏まえると、国際政 治経済要因を

EU

分析に取り込むことが必要であり、その国際政治経済要因とは戦後世界 を特徴づけた冷戦(とその変遷)そしてブレトンウッズ体制(金・ドル本位制)ではない かと考えている。両者を

EU分析に関連づける分析枠組を発展させることが筆者の目下の

研究上の関心であり、本論文は、EU統合の起源である石炭鉄鋼共同体(ECSC: European

Coal and Steel Community. 以下「ECSC」と表記)創設について、従来の研究が焦点をあ

てる冷戦にくわえてブレトンウッズ体制(金・ドル本位制)を視野に入れた説明を試みる ものである。

欧州統合の起源、ECSC設立の経緯を扱った先行研究は多い。とりわけ近年は、史料の 公開にともない「外交史」的研究が発達している。そのようななかでなぜ、本論文が欧州 統合の起源について改めて冷戦とブレトンウッズ体制を視野に入れた説明を試みるのか。

2

節では、先行研究の視座とその説明を概観しながら、それらが直面している課題と制 約とを指摘する。第

3

節では

ECSCの設立に至るまでの情勢について、冷戦にくわえてブ

レトンウッズ体制(金・ドル本位制)を視野に入れた説明を試みる。

2.先行研究の視座・説明とその制約

2-1.国際統合論および「独仏和解」から「外交史」的説明へ

1950

5

月、フランスのシューマン外相(Robert Schuman)は、フランスと西ドイツの 石炭および鉄鋼資源の共同管理を提案した。この呼びかけに西ドイツのアデナウアー首相

(Konrad Adenauer)が賛同、ベネルクス諸国とイタリアも加えた

6

カ国で

1951

4

月にパ リ条約を調印し、翌年

7

月に

ECSCが発足した。石炭鉄鋼資源を超国家的に共同管理する

ために、ECSC独自の最高機関や特別理事会、評議会を設け、最高機関に政府の意思決定 権を一部移譲、司法裁判所をも設置した。その後、軍事共同体創設には至らなかったもの の、1958年

1月には欧州経済共同体(EEC: European Economic Community)と欧州原子力

共同体(EAEC: European Atomic Energy Community)が発足し、これらが今日の

EUの礎と

なっている。

こうした西ヨーロッパ統合の進展は、国際関係のあり方を大きく変える動きだと注目さ れた。主権国家同士の争いを克服する手段としてのヨーロッパ統合構想は、中世以降幾度 と提案されてきたものの実現をみず、戦間期にようやく社会運動にはなったものの政治家 や大国が採用するまでには至らなかった

7

。ところが、1946年

9月にチャーチル(Winston

Churchill)がチューリッヒ大学演説でヨーロッパ合衆国構想を提唱し、その後西欧同盟を

設立するためのブリュッセル条約調印(1948年)、北大西洋条約機構(通称

NATO)成立

と欧州審議会の設立(いずれも

1949年)、欧州決済同盟(EPU: European Payment Union)

(4)

の結成(1950年)と、ヨーロッパの組織化がすすんだ【表

1】。

そのようななかで

ECSCや EEC

が生まれたため、ヨーロッパ統合が主権国家を超える国 際統合の先駆ではないかとみなす動きが高まり、国際統合論という研究領域が発展した。

ECSCが独仏の和解に立脚した不戦共同体を創設する試みだと評価する研究者もあらわれ

8

。上記のような理解は専門家や研究者の間で共有されており

9

、その後の統合進展を説 明するにあたっても独仏和解をはじめとする国家間協調の側面が強調され、ある分野の統 合が他の分野にまで波及すること(スピルオーバー)、さらには各国の主権を制約する新 たな国際組織が登場することに対して楽観的な見込みを与えた(新機能主義)

10

このような議論は、統合を運命論的にそして不可避的に捉えておりその後の統合進展に 楽観的であると、一部研究者から批判されてきた。たとえば、ド・ゴール(Charles de

Gaulle)政権時代には、加盟国が承認しない統合は進展しなかったと指摘された(政府間

主義)

11

。実際、その後の欧州統合は

1966

年の所謂「ルクセンブルクの妥協」による事実 上の全会一致の導入を経て停滞したため、新機能主義は沈滞した。

ただ、1980年代半ばから「1992年域内市場統合」へ向けた動きが活発になると、改めて 統合進展への楽観ムードが広がった。学術的説明においても、統合を促す

EU諸機関や企

業の役割を重視する学派(歴史的制度主義、超国家主義:前出)があらわれた。しかしな がら、政府間主義的な議論も健在であった。モラブチック(Andrew Moravcsik)は、ホフ マン(Stanley Hoffmann)以来の政府間主義を発展させたリベラル政府間主義を提唱した

12

。 モラブチックは、統合は加盟国政府の主導者による合理的な選択の産物、究極的には主要 加盟国の(しかも英仏独三大国の)国益のバーゲニングの結果であると主張した

13

ヨーロッパ経済史研究、欧州統合の経済史的解釈研究においては、ミルワード(Alan

Milward)が新機能主義的な議論を否定する論考を発表した。彼は史料に基づいて、加盟

国の国益に叶う場合にのみ統合がすすんでおり、その意味でヨーロッパ統合は主権国家を 古きものにして新たな超国家的な存在に移行するものではなく、主権国家を強化(救済)

したのだと指摘した

14

国際政治学の領域においては、外交史料の公開時期に合わせて、また、上記ミルワード やモラブチックの議論の展開とも合わせて、国内では「外交史」研究やヨーロッパ政治史 研究と称される研究領域が発展した。とりわけ、統合の過程で「独仏和解」を強調したり、

統合がさも運命的であるかのように描写したりする「神話化」された説明に対して、異議 を唱える研究が公刊されるようになった

15

。近年は、史料に基づき、そして国際政治環境(冷

戦、

NATO)と欧州秩序(欧州審議会)との関係を意識した形で、統合の歴史を検証する「欧

州統合史」なる研究領域が提案されている

16

。また、「外交史」研究者の細谷(細谷雄一)は、

戦後の欧州秩序形成を説明するにあたって「米ソ冷戦史観」と「欧州統合史観」がそれぞ れもつ不備を指摘し

17

、欧州統合とは「国際環境から切り離された「運命論的」な歴史的 必然」ではなく、それぞれの時代の政治指導者が苦悩の中から選択した外交的帰結なのだ

(5)

と主張

18

、史料に基づき外交の成果としての欧州統合という選択を描き出した。

2-2.政府間主義的説明および「外交史」的説明の限界

このように政府間主義的あるいは「外交史」的な説明は、とりわけ国内では一定の影響 力をもっている。EUが条約に基づいて運営されている以上、その調印と批准には加盟国 政府の了承が不可欠である。また、日常の政策決定においては加盟国政府代表が集まる理 事会に決定権があり、統合停滞の時には加盟国の国益がむき出しになることが多い。政府 間主義的、「外交史」的な説明は、ある意味否定しようのない事実に基づいて議論が展開 されており、盤石のようにもみえる。

ただ、既存研究にはふたつの疑問がある。第一に、国益から統合を説明することができ るとして、その国益の源泉はどこかという疑問である。ECSC発足前には

EU

組織が存在 していないが、国益は国際環境とEUの双方から影響を受けないだろうか。第二に、国益 が国際環境や

EU

からの影響を受けるとして、その国際環境には冷戦のみならずブレトン ウッズ体制あるいは金・ドル本位制が関係し、その両方を分析・説明の射程におかなくて はならないのではないかという疑問である。

たとえばモラブチックは、統合を条約改正交渉時の加盟国政府主導者による合理的な選 択から説明することができると主張した

19

。そもそも彼の著述はローマ条約から始まって

おり

ECSCは分析の対象になってはいないが、それを差し引いたとしても、条約改正交渉

時に争点に挙がったトピックに対する4 4 4 加盟国の立場を選好、国益とみなしているに過ぎな い

20

。彼の議論の集大成である『Choice for Europe』の索引には「冷戦」の項目はなく、「ブ レトンウッズ(体制)」については

1970

年代の通貨協力の章にいくつか記述が存在するに とどまる

21

。つまり、リベラル政府間主義は、第一の疑問点について国益はきわめて内生 的なものであり、第二の疑問点については冷戦、ブレトンウッズともに射程には入れてい るとはいえない。

「外交史」的アプローチは、基本的に国家の外交担当者の思考と行動から統合を説明する。

欧州統合の「神話化」への批判を展開しているだけに、「外交史」的アプローチは、冷戦 を中心に当時の国際的な事件には目配りをしている。しかしながらそのアプローチは、冷 戦をはじめとする国際的な事件に対する4 4 4各国政府の外交政策を、史料に基づく形で個人や 政府の思考と行動から論じることになる。つまり、国際的な要素を予め政策担当者の思考 と行動というフィルターにかかった形で検討している。その意味で、当該アプローチでは 国益は外生的に見えてその実、内生的に描かれる

22

。この点、細谷が慎重に言葉を選んで いるように、「外交史」的な説明は「外交を通じたヨーロッパ国際秩序の形成」を論じて おり

23

、EUに代表されるヨーロッパ国際秩序は客体4 4(被説明項4 4 4 4 )になる。また、その際 に参照している国際的な事件は主として冷戦など安全保障関係の事件であり、ブレトン ウッズをはじめとする経済秩序については配慮していない。

(6)

一方、とりわけ第二の疑問点をめぐって政府間主義や「外交史」的アプローチとは異な る様相を呈するのが、ミルワードによる欧州統合(経済)史、そして国内では遠藤(遠藤 乾)らが中心となって発展させている欧州統合史研究である。いずれも究極的には各国の 選択・意思によって欧州統合が選択されるという立場をとっているにせよ、分析にあたっ てはまず国際環境が考慮されているという点で第一の疑問点には応えている。ミルワード による諸研究は、各国の経済状況、とくに生産と貿易にかかる状況だけでなく、ヨーロッ パ諸国間経済関係、ヨーロッパとアメリカの間の経済関係を考慮している。そこでは、(本 人は欧州復興への寄与については否定しているが

24

)マーシャルプランや(本人は

1940

年 代には厳密には始まっていないと評価しているが

25

)ブレトンウッズ体制といった、国際 的な要因がどのようにヨーロッパ諸国の利益と選択に影響したのかを考慮している

26

。欧 州統合史についても、「EU-NATO-CE」体制と名付けて、冷戦、大西洋同盟の展開を視 野に入れて時代の特徴を把握した上で当時の統合の展開を検証している

27

ところが、ミルワードの研究の場合、生産や貿易、雇用には配慮している

28

が、金融と りわけ為替(交易に伴う金・ドルの移動)は主たる説明要因には含めていない。もちろん、

ヨーロッパ諸国の対米輸入増による金・ドル流出という「結果」にかかる叙述として金・

ドルに言及することはある

29

が、その著作で参照・披露されている膨大な統計資料が示す とおり、生産、貿易と密接に結びついていたと理解される金融や為替の状況から何かを説 明するケースはほぼない。

欧州統合史研究についても、NATO-CE、つまり冷戦(安全保障)と欧州審議会(人権 等の規範)をみていると明言しているだけに、そこに含まれていない経済秩序については 第一義的には射程においていない

30

。遠藤(2014)の

ECSC

創設時代に相当する章では、マー シャルプランが欧州経済復興をもたらし

31

、そこからフランスがドイツの経済復興を懸念 して

ECSC

を通じたドイツ問題の解決へと発展する様を描いてはいる

32

。しかしながら、

NATO-CE

体制を強調するなかマーシャルプランがなぜそれほどまでに重要なのかにつ

いて、冷戦の文脈には言及しているものの、金・ドル準備などにかかわることについては ほぼ無自覚であり、マーシャルプランが「経済援助」であったがゆえに経済復興に敷衍し ているという形がとられている。これは偶然に発生した訳ではなく、当該研究において欧 州通貨協力が発展した

1970年代を扱う章 33

でも、デタントが大きな国際関係上の出来事 となっており、ブレトンウッズ体制崩壊(金・ドル本位制崩壊)は扱われていない。

以上のような指摘が、ECSC発足までの時代の理解にどのような影響を与えるのか。以 下では、年表【表

1】を使いながら検討する。

モラブチックを除いた「外交史」的あるいは統合史的な理解では、冷戦の文脈で(ある いはその一幕として)マーシャルプランが取りざたされる

34

。経済的支援を必要としてい たイギリスは、フランスとともにアメリカの呼びかけに応えて、マーシャルプランによる 支援の受け皿となる組織を準備するが、結成された欧州経済協力委員会(CEEC: Committee

(7)

for European Economic Co-operation)はアメリカの狙いとは裏腹に政府間主義的な組織で

あった【表

1

①】。マーシャルプランにソ連が加わらないことが明確になり米ソ間の分断 が決定的になると、1948年に英仏そしてベネルクス諸国はブリュッセル条約を調印して 西欧同盟(西欧連合)を創設したが、チェコスロヴァキア危機を契機にイギリスはアメリ カの欧州へのコミットメントを望むようにもなり、1949年にはNATOが設立された

35

【表

1

②】。この過程で別途、チャーチルによる欧州合衆国構想に端を発するハーグ会議が

1948

5

月に開催され、翌年

5

月に欧州審議会が設立された

36

【表

1③】。この時期に設立

されたCEEC、西欧同盟、欧州審議会は、いずれも超国家的な統合ではなく政府間組織で あった。なお、この頃から顕在化するイギリスと大陸諸国とりわけフランスとの立場の違 いは、それぞれによる戦後欧州秩序追求を後押しし、1950年

5

月のフランスによるシュー マンプラン発表で英仏両国の決別は決定的になる

37

【表

1

④】。「外交史」的研究では大き くはクローズアップされないものの、一連の過程でEPUが創設されている

38

【表

1

⑤】。

一連の過程の説明で気になる、あるいは興味深いのは、冷戦の文脈で登場するマーシャ ルプランへのイギリスの反応の主たるねらいが経済支援要請であり

39

それほどまでにアメ リカの支援を必要としていながら、また、後には安全保障上アメリカのヨーロッパへのコ ミットメントを追求しておきながら、1940年代後半のヨーロッパにおける制度設計にお いてはアメリカの意とは逆に政府間主義的なものばかりを志向してきたという事実である

【表

1

①②③】。そのように行動したイギリスの国益をスターリング地域維持そしてポンド の地位の維持だと「表現」することは可能だが、それらを維持しなければならなかった理 由については、当時の国際経済ないし通貨情勢を踏まえないことには「説明」することが できない。既存研究が把握している安全保障分野をめぐる国際情勢だけでなく、経済分野 をめぐる国際情勢を考慮に入れる理由が、ここにある。

そのように考えると、我々が戦後国際秩序として学ぶ冷戦(国連による集団安全保障体 制とその推移)そしてブレトンウッズ体制(金・ドル本位制)の双方が考慮されるような 説明が、ヨーロッパ統合の説明には必要ではなかろうか。次節では、実際に戦後の国際経 済情勢、とりわけミルワードらが焦点をあてていない金・ドル本位に注目して、従来の研 究成果にどのような理解を補うことができるのかを検討する。

3.国際経済秩序とりわけ金・ドル本位制を組み込んだ説明

経済秩序をめぐっては、安全保障秩序と同様、終戦前から米英間の交渉があったことは 周知のとおりである。大西洋会談において戦後の経済問題をとりあげたアメリカ政府は、

政府内部および議会からの要求もあり、1941年

3

月に成立させた武器貸与法以上の戦争加 担にはイギリスに対して何らかの見返りを求める必要があった

40

。アメリカ側は多角的貿 易体制の構築を求めたが、これは国務省ハル(Cordell Hull)による自由貿易主義的な考え

(8)

もさることながら、スターリング地域解体を望む産業界の声を意識したものでもあったと いう

41

イギリスにとって、アメリカによる支援維持は不可欠であった。というのも、開戦から

1940年末までに約 20

億ドルもの金・ドル準備を消費し、1941年初頭にあっては準備残高

3

億ドルになり、スターリング地域に対する債務4 4 4 4 4 は、大戦中に

5億ポンドから 37

億ポン ドへと急増したからである

42

。レンドリースの債務免除や支援維持は必要だが、アメリカ が要求する多角主義をのんでスターリング地域の解体を約束するわけにはいかなかった。

一方のアメリカでは、貿易の多角化なしの対英支援が議会に了承されるとは考えにくかっ た。そのため、ブレトンウッズ協定は

1944

7

月に調印されたものの、批准(米:1945 年

7

月、英:1945年

12

月)までには両国それぞれに紆余曲折があり、その過程でイギリ スに為替管理撤廃と交換性回復を求めるかわりに対英借款をおこなう英米金融協定が締結 された

43

終戦後、

1946年に約 82

億ドルだったアメリカの貿易黒字は翌年には

113億ドルに拡大し、

ヨーロッパの貿易赤字は同時期に

55

億ドルから

86

億ドルへと拡大した

44

。これはとりも なおさずヨーロッパ諸国の金・ドル不足を意味しており、この状況下でアメリカが求めた 交換性回復を実行するのは不可能に近かった。実際、1947年

7月にポンドは交換性を回復

したが、直後にポンドがドルに交換されてドル準備を1週間で

1億ドルを、その後のポン

ド売りへの対抗でさらに

8

億ドルを失い、8月には交換性が停止された

45

。イギリスは、

1947年末までにアメリカからの借款を使い果たしてしまったという 46

。この時点で多角的

な貿易・通貨体制構築は不可能であり、ヨーロッパ諸国のドル不足に対処しなおかつ冷戦 のなかで西ヨーロッパ復興を牽引するために、同年6月に提案されたマーシャルプランに よる支援が問題解決に充てられることになる

47

。その意味では、戦時中に考案した戦後経 済秩序の土台そのものが成り立たずマーシャルプランがヨーロッパのドル不足解消に充て られたというミルワードの説明(前節参照)は的を射ている。貿易赤字の拡大を考慮すれ ば、ヨーロッパの貿易のありかたと金・ドル不足に対する何かしらの策が必要であったと いう文脈は、非常に重要である。

マーシャルプラン受け入れのために旧ソ連を除くヨーロッパ

16

カ国が発足させた

CEEC

(1947年

7

月発足、1948年

4

月に

OEEC

へ改組)において、イギリスはヨーロッパ諸国と 態度を異にした。たとえば、ベルギーは各双務協定のスイング(信用枠)部分を多角化し てそれをドル援助資金で支援することで西欧通貨の自由化を実現しようと提案した

48

。双 務協定による貿易拡大には限界があり、域内決済多角化の必要性が認識されるようになっ たため、アメリカの同意のもと大陸ヨーロッパ諸国は双務協定のスイングを多角化するた めの域内決済機構づくりを模索するようになった

49

。しかしながら、イギリスはポンドの 地位は他の通貨とは異なると主張して多角化に反対し

50

、この年の多角的通貨相殺協定は イギリスを除いてベネルクス、イタリア、フランス中心で締結された。イギリスが単なる

(9)

ヨーロッパの一国になることをおそれて「特別な仲介者」としてアメリカとの二国間で特 別な援助が与えられることを願っていたこと、スターリング圏が大陸ヨーロッパより優先 されたことは、前節で紹介した既存研究の指摘とも合致する。

ただ、この協定では清算はすすまず、CEECから改組された

OEEC(Organization for European Economic Cooperation)は新たな多角通貨相殺協定を模索した。マーシャル援助

の実施機関として

1948

4

月に設立された

ECA(Economic Cooperation Administration:経

済協力局)と交渉し、援助の一部を決済資金に充てることが認められた

51

。10月には、

OEEC18ヵ国が参加する新たな清算機構である第一次欧州域内決済協定(The First Agreement for Intra-European Payments and Compensation)が成立、翌年には第二次協定へと

改訂したものの、引出権の多角化は

25%ほどしかすすんでいなかった 52

。1949年

12

月、

ECA

は新たな組織を創設して参加国間の債権と債務を新たに創設される共通計算単位に 換算して当該組織に対する債権ないし債務に置き換えて決済、引出権を多角化することを 提案、翌1950年

9月に EPU

が設立された。EPUは原資

4億ドルをマーシャルプランから提

供され

53

、当初の期限であった

1952

6

月をこえて更新され、1958年に西欧諸国の通貨交 換性が回復されるまで存続した。

先の貿易対米依存とドル不足とを踏まえると、多角決済そして

EPU

へと至る過程は前 節の既存研究ではさほど注目されないが、戦後ヨーロッパが直面した問題の解決と大戦中 に考案した戦後経済秩序運営の土壌整備という意味においては重要である。また、EPUは 域内貿易を増加させ、月平均額で見ると戦前の

1938年の 4

1,700

万ドルから

1953

年に

10

億ドルをこえ、1956年には

15

億ドル以上に増加、その結果、輸入全体に占める域内貿易

比率は

1938

年の

39.3%から 1950

年代半ばには

43-45%に上昇したという 54

。経済統合の

意義だとして

EU研究でしばしば指摘される域内貿易促進が EPU

において既に企図されて いたという意味でも、EPUは

EU

統合の起源をみる上で非常に重要である。

ところで、EPUが創設される時期にあわせて、イギリスの態度そしてドイツの扱いにつ いて変化がみられるようになり、それにともないフランスの対応も変化することになった。

まずイギリスは、徐々にだが多角化については容認しつつも、経済的には金・ドル準備 確保に専念するあまり、大陸ヨーロッパとは袂を分かつようになる。1948年、ブリュッ セル条約の成立に向けた議論のなかでも域内決済機構の構築問題が出て、マーシャルプラ ンによる支援が少ないことを予想するとともに(オランダからの輸入拡大で)関税同盟の 存立を危惧していた

55

ベルギーは積極的に多角決済体制を主張したが、イギリスは反対し た。両国は、

1948年 3月に発足した OEEC

においても域内決済多角化をめぐって対立した。

ただ、スターリング圏の一次産品が西ヨーロッパに輸出されていたこと

56

もあり、イギリ スはスターリング地域を重視し続けたものの、金・ドル準備の流出を最小限に抑えること を優先するようになり、自国の金・ドル準備が脅かされない限り域内貿易拡大には反対し なくなってきた。ベルギーとイギリスの接近にともない域内決済相殺協定交渉はすすんだ

(10)

が、域内引出権の多角化はこの時はまだイギリスの抵抗で実現しなかった。1949年に協 定を更新するにあたってイギリスはまだ多角化に反対していたが、協定の期限切れ目前に 引出権の25%のみを多角化することでベルギーとイギリスが妥結、9月に更新協定が調印 された

57

とはいえイギリスは、スターリング圏の貿易の観点からも徐々に

OEEC

との経済関係を 維持しなくてはならなくなった

58

。1949年

8月、アメリカによる西欧単一巨大市場統合お

よび多角主義の実現の要求に対してイギリスは抵抗したものの、交渉の過程で決済多角化 にポンドが使われるという条件を付し、ポンドの地位追求より金・ドル準備維持にこだ わった

59

。大蔵省内部から

EPU

参加の場合の経済的利益、そして不参加の場合のアメリカ 及び大陸諸国との関係悪化による不利益が強調されたこともあり、割当額と金決済比率に のみこだわるものの、EPUへの参加自体は決定された

60

大戦末期の英米交渉から一貫して貿易そして決済の多角化を拒否しながら支援を受けて きたイギリスだったが、恒常的なドル不足そしてスターリング地域の対欧州貿易の比重増 加は、イギリスをしてポンドの地位ではなく、金・ドルプールの維持を優先させた。ただ、

準備流出につながりかねない欧州域内の通貨自由化には反対していた。こうしたイギリス の態度シフトに対する理解は、安全保障秩序ではなく経済秩序に配慮しなければ可能には ならない。

多角的決済への道筋はついたが、戦前に比べて決定的に不足していた、そして戦後ヨー ロッパのドル不足の原因

61

にもなったドイツの貿易復活が課題に残っていた。この問題は 西ドイツ成立を境に前進した。西ドイツ成立前までの決済は双務協定を基礎にしていたた め、西ドイツの貿易伸長は抑制されていた。相手国の金・ドル流出に繋がらないよう、西 ドイツが急激に輸出額を増加することができない仕組みになっていた

62

。仮に、イギリスの ようにスターリング圏と西ドイツの貿易がイギリスからの外貨流出を度々引き起こしても、

イギリスが圧力をかけることによってドイツ占領地域に輸入を急激に増加させていた

63

。双 務的な支払協定のなかでは、西ドイツは貿易を伸ばすことができずにいた。

ところが

1949年 9月に西ドイツが成立すると、アメリカの担当部署の勢力関係に変化が

あり、ECAおよび国務省主導で管理貿易路線を破棄して貿易再建を通じての西ドイツ復 興を目指すとともに、これを西ヨーロッパ復興と調和させる方針へと転換された

64

。西ド イツは周辺国と二国間貿易協定を締結して、自由貿易(輸入割当廃止)へと歩みをすすめ、

ドイツと提携を結んだ各国が一旦は西ドイツへの輸出を大幅に拡大させたものの、その後 は欧州諸国(特にベネルクス諸国)も自由化へと向かった

65

。アメリカ側(ECA)は、西 ドイツに対する貿易自由化だけでなくヨーロッパにおける単一市場形成を要求していたた め、さらなる貿易自由化実施に関するタイムテーブル策定を求めた

66

。これをうけて

11

月 には、輸入割当に関する障壁の半分を除去することが決定された

67

。ベネルクスの障壁撤 廃によって西ドイツの製造業輸出が支えられ、これが西ヨーロッパ域内貿易再建への足が

(11)

かりになった

68

。西ドイツの自由貿易促進そして

EPU

が域内貿易量増加につながったとい う事実は、後に

ECSCも EC/EUもそれぞれに域内貿易増加を促しただけに、見逃すことが

できない。

アメリカのドイツ政策変更は、フランスに大きな影響を与えた。フランスは所謂「モネ プラン」を通じて戦後経済の近代化を図っていたが、それはドイツの資本ならびに資源を あてにしたものだったからである

69

。ただ、1949年に発生したポンド危機への対応をめぐ る交渉、翌

1950

年の

EPU

設立交渉ならびに

DEEC

諸国の貿易障壁撤廃交渉は、フランス にとってある意味機会となった

70

。ポンド危機への対処そして

EPU

交渉の過程で大陸諸国 とは異なる立場をとるイギリスをうけて、アメリカはフランスを中心にドイツ問題解決と しての統合をすすめようとした。イギリスが金・ドル準備確保に躍起で各国と足並みをそ ろえない状況で西ドイツの成長にともなう石炭鉄鋼調達と競争力の危機に対応するために は、アメリカがすすめている方針を活用しない手はなく、フランスはイギリスの

EPU

参 加の目途がたったロンドン会議においてシューマンプランを提案するに至った

71

4.おわりに

アメリカが戦後秩序交渉において提案した貿易の多角化そして金・ドル本位制は、

ECSC設立に至る過程を理解する際に考慮に入れる必要がある。当時の国際経済秩序を考

慮に入れると、1949年から翌年にかけて、多角化を嫌うイギリスの姿勢やドイツ問題に 変化がみられ、EPUを通じた決済多角化ならびにシューマンプラン提案に結実したことが 分かる。アメリカの後押しが明確に存在した

EPU

はもちろん、(アメリカの支持のもと)

フランス主導で提案されたシューマンプランも、域内貿易促進(共同市場形成)という点 で初期のヨーロッパ統合の大きな存在意義になる。

3節で検討した過程、すなわちイギリスが 1949年から顕著に大陸ヨーロッパと距離を

とるようになり大陸諸国のみで

ECSC

に取り組むことになるという経緯自体は、安全保障 秩序(冷戦)を中心に当時の経緯を分析した既存研究も指摘してきたことではある。既存 研究も、1949年の欧州審議会設立から西ドイツ建国の過程で英仏の路線の相違を明らか にし、フランスが中心となって

ECSC設立へと至る様子を描いている【表 1③から⑥】。た

だ、この時期のヨーロッパ「統合」の必要性と意義を考えるにあたっては、いかにヨーロッ パが復興・成長を遂げたかを理解する必要があり、その意味では域内貿易増加をもたらし た

EPU

および

ECSC

にかかわる経済秩序(金・ドル体制)を意識した分析が必要である。

結果として、本論文の検討は既存研究の冷戦中心のストーリーに

EPU

のエピソードを 加えただけにみえるかもしれない。これは、1949年から翌年に至る顛末のほとんどが

OEEC、米英仏外相会談など、同じテーブルで議論されて導出されたものだからだと考え

ている。そのため、この後冷戦と金・ドル本位制がそれぞれ異なる展開を見せたとき―と

(12)

りわけブレトンウッズ体制の崩壊期とその後のグローバル化の時代に―に、双方の観点を 持ち合わせていないと「統合」のダイナミズムを見失うという事態が生じると想定してい る。今後の研究課題としたい。

1 ユーロ参加条件であった財政赤字抑制をユーロ発行後も堅持するために、加盟国の間では安定 成長協定が締結されていた。しかしながらドイツ、フランスをはじめいくつかの加盟国が協定 を逸脱し、協定で定められたペナルティを課すことができないという事案が発生、協定の有効 性に疑問符が投げかけられていた。そこで危機後の 2011 年に、EU を中心に加盟国が相互に財 政状況を監視する「ユーロゼメスター」が導入された。

2 危機に陥るまで、ユーロの中央銀行である欧州中央銀行には国の中央銀行ほどの権限がないな ど、ユーロにはいくつかの制度設計上の不備があった。ユーロが「平時の通貨」と呼ばれる所 以である。田中素香(2010)『ユーロ 危機の中の統一通貨』岩波新書、111-112 頁。「真の EMU」という表現には、こうした制度上の不備を克服するという意図がある。

3 Geoffrey Garrett (1992), “International cooperation and institutional choice: The European Community’s internal market,” International Organization 46:2, pp.533-558; Andrew Moravcsik (1991), ”Negotiating the Single European Act”, in Robert O. Keohane and Stanley Hoffmann (eds.), The New European Community (Boulder, CO: Westview Press), pp.41-84; Andrew Moravcsik (1993), “Preferences and Power in the European Community: A Liberal Intergovernmentalist Approach,” Journal of Common Market Studies 31:4, pp.473-524; Andrew Moravcsik (1998), The Choice for Europe: Social Purpose and State Power from Messina to Maastricht (Ithaca: Cornell University Press).

4 Wayne Sandholtz and Alec Stone Sweet (eds.) (1998), European Integration and Supranational Governance (New York: Oxford University Press); Paul Pierson (1996), “The Path to European Integration: A Historical Institutionalist Analysis,” Comparative Political Studies 29:2, pp.123-163; Simon J. Bulmer (1998), “New institutionalism and the governance of the Single European Market,” Journal of European Public Policy 5:3, pp.365-386.

5 当該アプローチにはバリエーションがあるため、紙幅の都合上、ここでは当該アプローチをサー ベイした研究を紹介するにとどめる。井上淳(2006)「研究ノート 国際関係理論と国際機構―

国際機構一般と EU の理論化に対する一考察―」『慶應法学』5 号、240-244頁。

6 Stanley Hoffmann (1993), “A Retrospective on World Politics”, in Michael Joseph Smith and Linda B.

Miller (eds.), Ideas and Ideals: Essays on Politics in Honor of Stanley Hoffmann (Boulder: Westview Press), p.11; Andrew Hurrel and Anand Menon (1996), “Politics Like Any Other? Comparative Politics, International Relations and the Study of the EU,” West European Politics 19:2, p.394.

7 紙幅の都合上、ここでは代表的な研究として以下を挙げる。デレック・ヒーター[田中俊郎監訳]

(1994)『統一ヨーロッパへの道』岩波書店。

(13)

8 一連の研究動向の発展について整理した邦文研究として、以下を参照した。鴨武彦(1992) 『ヨー ロッパ統合』日本放送出版協会、第 3 章。田中俊郎(1998)『EU の政治』岩波書店、7-20 頁。

9 EU 関連教科書には必ずといっていいほど、統合思想、政治運動や独仏和解、石炭鉄鋼共同管理

による不戦共同体創設に関する記述がある。一例として、以下。鴨(1992)前掲書、76-66 頁。

田中俊郎(1998)前掲書、9-14 頁。辰巳浅嗣(2012)『EU 欧州統合の現在 第 3 版』創元社、

8-12 頁。

10 Ernst B. Haas (1958), The Uniting of Europe: Political, Social, and Economic Forces 1950-1957 (California: Stanford University Press); Philippe C. Schmitter (1969), “Three Neo-Functional Hypotheses about International Integration,” International Organization 23:1, pp.161-166.

11 Stanley Hoffmann (1966), “Obstinate or obsolete? The fate of the nation-state and the case of Western Europe,” Daedalus 95:3, pp.862-915.

12 Moravcsik (1991), op.cit.; Moravcsik (1993), op.cit..

13 Moravcsik (1998), op.cit..

14 Alan Milward (1984), The Reconstruction of Western Europe 1945–1951 (Berkeley and Los Angeles:

University of California Press); Alan Milward (2000), The European Rescue of the Nation-State, 2nd edition (London: Routledge). なお、ミルワードの研究を邦文にて整理したものとして、以下の文 献を参照した。原島正衛(1999)「欧州統合の経済史的解釈―アラン・ミルワードの理論を中心 に―」『北星論集(経)』36号、55-71 頁。池本大輔(2016)「アラン・ミルワード再考」『明治学 院大学法学研究』101号、71-91 頁。

15 たとえば、佐々木隆生・中村研一編(1994)『ヨーロッパ統合の脱神話化―ポスト・マーストリ ヒトの政治経済学』ミネルヴァ書房。

16 遠藤乾(2008)『ヨーロッパ統合史』名古屋大学出版会。遠藤乾(2008)『原典 ヨーロッパ統 合史』名古屋大学出版会。遠藤乾(2014)『ヨーロッパ統合史 増補版』名古屋大学出版会。

17 細谷雄一(2001)『戦後国際秩序とイギリス外交 戦後ヨーロッパの形成 1945年~ 1951 年』

創文社、11 頁。

18 同上。

19 Moravcsik (1998), op.cit..

20 Ibid., pp.92-93, 162-163, 242-243, 320-321, 382-385.

21 Ibid.

22 以下の文献で確認することができる。細谷雄一(2001)「シューマン・プランとイギリス、

1948-1954 年―欧州統合のリーダーシップをめぐる構想と外交―」『日本 EU 学会年報』第21 号、

34-63 頁。当論文では、冷戦やドイツ問題といった「事案」に対して

4 4 4 4

外交担当者がどういう構想

を抱き、それを交渉にもち寄ったかに迫っており、「事案」が

4

加盟国および交渉担当者にどのよ

うな利益をもたせるに至った(制約した)のかを第一義的に説明している訳ではないという意

味で、分析上の国益は内生的である。

(14)

23 以下の文献のタイトル、序章などにそうした配慮がみられる。細谷(2001)前掲書。

24 Alan Milward (2003), The Reconstruction of Western Europe 1945–1951, reprinted (London and New York: Routledge), pp.465-466.

25 Ibid., pp.xvi, 43-44, 462, 464.

26 国際環境の検討は統合初期だけでなく、一般的に統合が停滞されたと理解されている 1970年代 の検討においてもなされている。たとえば、1970年代は「加盟国が国家のために利用した欧州 統合」という「処方」にとっての大きな転換点だったと描写されている。Alan Milward (1984), op.cit.; Alan Milward (1993), The Frontier of National Sovereignty (London: Routledge); Alan Milward (2000), op.cit.; Alan Milward (2002), The Rise and Fall of A National Strategy 1945–63 (London and Portland: Frank Cass). また、ミルワードの研究を吟味した邦文文献として、以下の諸研究を参照 した。原島(1999)前掲論文。池本(2016)前掲論文。

27 遠藤編(2014)前掲書。

28 たとえば、以下の記述が象徴的である。Milward (2003), op.cit., p.xi.

29 一例として、以下。Ibid., pp.465-466.

30 遠藤乾(2014)「序章 ヨーロッパ統合の歴史」、遠藤乾編『ヨーロッパ統合史 増補版』名古 屋大学出版会、4-5 頁。

31 当該文献とは異なり、ミルワードはマーシャルプランが欧州諸国の経済的復興をもたらしたの ではなく、欧州諸国の経済は自立的に回復したという立場をとっており、マーシャルプランの 寄与をヨーロッパ諸国のドル不足の解決だと限定的にみている点は重要である。Milward (1984), op.cit., pp.1-55. また、邦文による研究として、以下も参照した。廣田功・森建資編(1998)『戦 後再建期のヨーロッパ経済』 日本経済評論社。

32 上原良子(2014) 「ヨーロッパ統合の生成 1947- 50 年 冷戦・分断・統合」、遠藤乾編『ヨーロッ パ統合史 増補版』名古屋大学出版会、第3 章。

33 橋口豊(2014)「デタントのなかの EC 1969-79年 ハーグから新冷戦へ」、遠藤乾編『ヨーロッ パ統合史 増補版』名古屋大学出版会、第6 章。

34 たとえば、細谷(2001)前掲書、48 頁。上原(2014)前掲論文、97-100 頁。

35 細谷(2001)前掲書、第 3 章および第4 章。

36 細谷(2001)前掲書、107-127 頁。

37 細谷(2001)前掲書、第 5 章。

38 本論文で紹介してきた既存研究(邦文)では、たとえば以下の文献が EPUに触れてはいる。上 原(2014)前掲論文、117-118 頁。

39 細谷(2001)前掲書、46-51 頁。

40 西川輝(2014)『IMF 自由主義政策の形成』名古屋大学出版会、22頁。

41 同、22頁。

42 同、22-23、27 頁。なお、1941 年から 1945 年までの間にアメリカによる援助総額は 460億 4,000

(15)

万ドルに達しており、うち 69%がイギリス向けだったという。佐瀬隆夫(1995)『アメリカの国 際通貨政策―ブレトン・ウッズ体制の回顧と展望―』千倉書房、60 頁。当時のイギリスの金準 備の心許なさがうかがえる。

43 西川(2014)前掲書、29-33 頁。ブレトンウッズ協定調印から批准までの間の国内情勢と国際交 渉については、以下を参照した。田所昌幸(2001)『「アメリカ」を超えたドル―金融グローバ リゼーションと通貨外交』中央公論社、 54-59 頁。佐瀬(1995)前掲書、 60-61 頁。本間雅美(1993)

『世界銀行の成立とブレトン・ウッズ体制』同文館出版、第3 章ならびに第 4章。

44 西川(2014)前掲書、33頁。

45 田所(2001)前掲書、59-60 頁。佐瀬(1995)前掲書、64-65 頁。

46 佐瀬(1995)前掲書、64-65 頁。

47 田所(2001)前掲書、60頁。佐瀬(1995)前掲書、64-65 頁。

48 菅原歩(2001)「マーシャル・プラン期イギリスのポンド政策とスターリング圏」『経済論叢別 冊 調査と研究』第 22号、33頁。が、以下を引用。Milward (1984), op.cit., pp.258 and 262.

49 西川(2014)前掲書、35頁。

50 菅原(2001)前掲論文、33-34 頁。

51 西川(2014)前掲書、42頁。

52 同、43 頁。

53 田所(2001)前掲書、64頁。

54 西倉高明(1993)「旧 IMF体制と基軸通貨・ドル―ヨーロッパにおけるドルの基軸通貨化―」、

深町郁彌編『ドル本位制の研究』(日本経済評論社)、37-38 頁。が以下を引用。OEEC (1957), Liberalisation of Europe’s Dollar Trade: Second Report, June, p.18.

55 菅原(2001)前掲論文、36 頁。

56 同上。

57 同、37 頁。

58 同、39-42 頁。

59 同、42-44 頁。

60 一連の過程については、以下を参照した。同上、44-45 頁。

61 Milward (1984), op.cit., p.465.

62 河﨑信樹(2001)「ヨーロッパ決済同盟成立以前における西ドイツ貿易とマーシャルプラン」『経 済論叢別冊 調査と研究』第 22号、51 頁。

63 同、51-52 頁。

64 同、57 頁。

65 同、56 頁。

66 同、57 頁。

67 同、57-58 頁。が以下を引用。Milward (1984), op.cit., pp.303-306.

(16)

68 河﨑(2001)前掲論文、58 頁。

69 坂出健(2001)「マーシャルプラン期におけるアメリカの欧州統合政策」『経済論叢別冊 調査 と研究』第 22 号、13-14 頁。

70 同、12-28 頁。

71 一連の過程については、以下を参照した。坂出(2001)前掲論文、18-28 頁。河﨑信樹・坂出健

(2001) 「マーシャルプランと戦後世界秩序の形成」 『経済論叢別冊 調査と研究』第22号、 1-9 頁。

表1 ECSC発足までの略年表

.

米欧レベルでの出来事 欧州レベルでの出来事

1946.3

チャーチル、「鉄のカーテン」演説

1946.9

チャーチル、欧州合衆国構想提唱

米、対ドイツ占領政策転換

1946.12

米英占領地区の経済統合協定調印

1947.3

トルーマンドクトリン

英仏、ダンケルク条約調印

1947.6

マーシャル演説:マーシャルプラン発表①

1947.7

欧州経済協力委員会(CEEC)結成 ①

1948.1

ベネルクス関税同盟発足

1948.3

英仏ベネルクスでブリュッセル条約調印 ②

(西欧同盟)

1948.4 CEECがOEEC

として設立(欧州

16+米+加)

1948.5

ハーグ会議 ③

1949.1

コメコン発足

1949.4 NATO

設立 ②

1949.5

欧州審議会設立 ③

西ドイツ建国 ④

仏はドイツ経済封じ込めで英に協力依頼も、英は大 西洋共同体を提案 。 ⑥

1950.5

シューマンプラン発表 ④

ロンドン英米仏外相会議で大西洋共同体を要望する 英に対して仏が提案。英仏が袂を分かつことに。 ⑥

1950.9 EPU(欧州決済同盟)設立 ⑤

1950.1 EDC

(欧州防衛共同体)の提案(プレヴァンプラン)

1951.4

パリ条約調印、ECSCへ

1952.5 EDC条約調印

1952.7 ECSC運営開始

1953.2

石炭、鉄鉱石、くず鉄共同市場発足

1953.5

鉄鋼に関する共同市場発足

筆者作成

(17)

The Origin of the European Integration: A Tentative Assumption on the Relationship between International Political and Economic Orders and the Origin of European Integration

Jun INOUE

This paper attempts to describe the origin of European integration, especially the establishment of the European Coal and Steel Community (ECSC), taking into account the political and economic orders issued after World War II. Such a description can contribute to theoretical approaches in the field of European Union studies, which are sometimes criticized for not taking international factors into account and for treating the EU as a closed system with respect to the international order. Many earlier studies have touched on the origins of European integration: Alan Milward described the process of the European integration as a ‘remedy’ of sovereignty or a ‘rescue’ of the nation-states;

more recently, many scholars in Japan criticized the study which evaluates European integration as

‘Franco-German rapprochement’ as a myth. In fact, Japan developed its historical diplomatic explanations in an effort to show that European integration was the outcome of diplomatic efforts by European politicians, and not a movement driven by ideas and ideals.

However, such new explanations have limits in their explanatory powers. Many of them focus on the ideas, discourses, and behaviours of politicians and diplomats, as well as their influence on diplomatic negotiations, and therefore they cannot take international factors into account primarily.

Some studies conduct a great deal of macro-level analysis and focus on the Cold War to explain the development of European cooperation, but they do not focus significantly on the influence of the economic order, such as the Bretton Woods system, on the cooperation among European countries.

This paper attempts to develop a tentative assumption on an international political-economic approach to the origins of European integration.

The paper concludes that dollar and gold reserves were as deeply related to trade and to the

economic ties in Europe as was the Cold War, and such an approach would contribute to our

understanding of the process of integration in Europe.

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