568
−22 −−
安価な政府 をめぐる諸解釈
について
山 崎 怜
Ⅰ
われわれは別の機会にスミスと 安価な政府 とのかんれんについて,ひとつ
(1)
の結論をあたえた。/j\論は,それを基礎に,従来の諸解釈にふれつつ,,もんだ いのありかとわれわれの結論とをより明確にしようとするものである。
ところで,われわれの結論とはおよそつぎのようであった岬〔1〕スミスほ
チ・−プ 国家を「必要悪」だとか,政府は「安価」であるべきであるとかの,ことばも
文意もかつて一度ものべたことはない。それどころか,〔2〕かれによれば,文 明社会の深化する紅つれ,富裕化のすすむにしたがって,政府ないしは国家の
必然性がうまれ,〔j〕それに対応して公共経費の絶対的膨張率の高位がむしろ 謳歌されるが,さらにこの膨張をささえ.る土台における生産力の発展が重視さ れ,かれの名においで 安価な政府 がもしいわれうるとするならば,それは第 1に経費の数の限定であり,第2に.は相対的膨張率の減少のはかに・はありえな いという点であって,逆説をもて:あそぶのでなくいえば,こうしたかれの論 理が経費規模の絶対監を累増させるためのものであるから,スミスの 安価な
政府 は絶対的な経費縮小論のむしろ反対物としての 高価な政府 である○そ
して,かかるスミスの所説がプルジ.ユ.ワ・ラディカリズムのエ・ネルギ−を巧妙
にうらがえしたものであることほり たとえばト々ス・ぺインの叙述とのかんた
んな比較からもあきらかであろう。ぺインによれは,スミスとほ逆に・,「文明が
● ● ◆ … … … … ● ◆ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● ● ●
ますますかんぜんであれぼあるはど,政府の必要ほいっそうすくなくなる。な ぜなら,それほ.ますますみずからの仕事を規制し,みずからを支配するから
(1)小論「アダム・スミスといわゆる 安価な政府 」,『香川大学経済学部研究年報』5,1965
年弓,所収。
安価な政財 をめぐる諸解釈に・ついて ・−・・2β一
569
だ。しかし旧政府のやることは事態の道理紅あまりに・そむいているから,政府
● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
の経費ほ.それらが減少しなけれはならぬのに比例して増加する。文明生酒が要
求するのははんのわづかの一腰的法律(butfewgenera11aws)」だけである し,そのうえ,こ.れらの法律は「政治形式で強制されようと,また,されまい
(2) と,結果ほはとんどおなじである…」と。文明化がすすめばすすむはど,政
府を必要とし,公共費用がふえるとするスミスと,この叙述とを対比せよ0ぺ
インにあってほ,文明化が進展すればするほど「政府の必要」ほ「なくな.」り,
社会自体がその内部へ共同事務を解消またほ吸収す−る(「みずからの仕事を」み
ずからで「規制」し「統治」する)のだから,「■はんのわづか」に要求される ト戯的法律」にしても,「政治形式で強制され」なくとも維持されうるのであ
り,したがって,ここには政府消滅論と社会讃歌論の明断な対照がある。人々
は,「社会と政府とを混同して,両者のあいだに,はとんど,あるいは・,まった∴
く区別をつけていない。ところが,このふたつのものほ,たんにちがっている だけでなく,その起源からしても,ちがっているのだ。社会は,われわれの必 要からうまれ,政府は,われわれの悪徳からうまれている。前者は,われわれ
の愛情をむすびあわせることによって積極的に凄福を増進させ,後者ほ,われ
われの悪い行為をおさえ.ることによって,消極的に幸福を増進させる。一山方 は,交際をすすめ,他方は,差別をつける。社会ほ保護者であり,政府は処罰
(8) 老である。」「悪徳」が文明化のためにはろびてしまえば,「■ぉさえつけ」「処
罰」して「幸福を増進させる」政府はおのずから解体化するのであって,よろ
しく「積極的私事福を増進させる」社会こ.そが拡大深化するだろう\。とれは絶
●●●●●●●● 対的な政府縮小論ないしは政府解体論であり,だからまた,絶対的な政府経費
縮小論ともいうべきものであり,公共経費の絶対的縮小論としての, 安価な
(2)ThomasPaine,CommonSenseandotherPoliiicalWYiiings,ed・byNelsonF Adkins,TheLiberalArtsPress,NewYork,1953,ppl17−−18小五十嵐豊作訳『人
権論・第2編J(実美之日本杜),1948年11月,27ぺ−汐。傍点ほ,以下ことわりなきかぎ り,すべて引用者による。
(3)J∂ま−♂い,p小4.小松春雄訳『コモン・センス.』(岩波文庫),15ぺ一・−ジ。傍点は原文イタリ
ック。
第38巻 第6号 570
一− ご▲メ−
政府 論なのであった。政府の費用は文明化がすすめばすすむはど僅少になる
(4)
(「■統治が公正くjust>であれぼ」「租税はすくないくTheir taxes are few>」)
●●● とする,公共経費の絶対的縮小こそがぺインの主張であるとすれば,かれが
つぎのごとく敢然と宣言するのは当然である−「社会は,どんな状態に・おい
ても,よろこぶべきものであるが,政府は,たとえ最良の状態においても,や
●●■●●●●●●●●
むをえない恵にすぎない(Societyin every stateis a blessing,but gove−
Inment eVeninitsbest stateisbuta necessaryevil)。しLkがって,そ・の 最悪の状腰に‥おいては,がまんのできないもの(inits worst$tate aninto−
lerable one)だ」し,「安全(security)が政府の真の意図と目的とであるか ら,その形態ほどうであろうとも,最少の経費(theleastexpense)で最大の 利益をもたらして,いちぼんよく安全を保証してくれそうな政府が,もっとも
(5)
のぞましいということほ,反はくの余地のないものとなる一」,と。
スミスにおいては費目の数の限定が民間の労働の監督およびその社会的利益 に適した配分の仕事を放棄することこ一そ紅よっで民間の生産力配置を合理化し それを発展さ草ることをとおして,文明社会におけ畠 高価な政府 需要をみた
すために.こそであるが,ぺインでほ数の限定(「L一・般的法線」)が費目の畳の絶対 的締/J\に収赦していくことこそにあったし,前者の相対的膨張率の減少,すな
わち「資本と収入との比率」の減少も「収入」を削減することによってではな
く「資本」をふやすことによってこそであり,したがって,いわゆる政府経費の
(6) 不生産的ないしほ浪費的規定のコロラリにもとづく経費減縮論にして−も,「■資本
」を「収入」イヒさせ不生産的用途に/むける公債の償却に.ひっかけての,生産資本
の確保のねらいをもち,この生産資本の充実とそが増大する 高価な 政府経費
を維持しうるし,この生産資本の拡充以外にほ増大する財政需要をまかないえ ないとするのであるから,スミ.スでほ表見上の経費減縮服すづて真実の 高価な
(4)∫∂∠d..,p119.前掲,五十嵐訳,30ぺ一一汐。
(5)′∂摘.,pp.4・−5.前掲,小松訳,15−6ぺ一汐。
(6)AdamSmith,Wealth扉Nati−oni,Cannan sed,VOl小ⅠⅠ,p4311水田洋訳『国富論.』
く下>,世界の大思想15,、1965年7月,347−48ぺ・一汐。
安価な政府 をめぐる諸解釈について ・−−25 −
571
政府 の経費をささえるためにこ・そ・かんがえられたものであった。ことばをか
えていえほ,公債を償却するための経費削減というのほ.,公債が生産資本(「生
●●●●●●●●●
産的人手」を雇傭する資本)をくいつぶし抵当紅はいっている租税を累増させ たうえで国家を破産させる危険をもつからであって,逆にスミスの真意ほ生産 資本を拡大充実させながら,巨大な財政需要または相税負担をまかないうるよ
うにし,また,したがってこの財政膨張を公債(民間の生産資本のくいつぶし一)
…=…●
(7) によるのではなく,抵当にはいっていない租税(民間の収入からの控除)という
生産資本のうみだす果実からの公収入によるべきだとする(果樹そのものをく
●●●●●●●●
● いつぶす公債でなく)もので,こ.れほ.絶対的経費膨張を「確実で安定的で永続
的な収入」(抵当にほいっていない租税、)でささえ.るための果樹たる生産資本の
確保のためであるから,本来的にほ,また,長期的にほそれは経費削減でぬな く経費膨張論のコロラリに属するのであり,じじつ,スミスは経費の縮小をい うどとくみえて,そうでほない−「グレイ トブリテンにとって.…・のこる 唯一・の財源ほその〔公共〕費用の減少である。公共の収入を徴収する方法に‥おい ても,またそれを費消する方法に、おいても,そのどちら匿おいてもなお改善の余 地ほ.あるだろうけれども,グレイト・ブリテンは ,すくなくとも隣国のいかな る国ともおなじく節約的であるようにおもわれる。グレイト・プリテンが平時
●●●●●■●●
においてみずからの防衛のために維持している軍事施設は,富あるいはカのい ずれかにおいてグレイト・ブリテンに匪赦する、と主張することのできるいかな
るヨ一口ツパ国家のそれよりも,ひかえ目である。それゆえ,それらの項目の
(8) いかなるものもかなりな費用減少の余地があるようにおもわれない。」このぼ
(7)スミスが「■政府の費用な支弁するために収入がその年のうちに,拘束のない,すなわ ち抵当にはいっていない租税の収納から調達されるばあいには,私的個人の収入の一億 部分は,ある種の不生産的労働者〔召使,オぺラ・ミ/ンガ−・,医師など〕から他の種のも の〔政府公務員,軍人,裁判官など〕を維持することにふりむけられるだけである」
(Jあぎd∴p.410..邦訳く下>,329ぺ一汐)というのは,「資本」からの接除たる公債の
公共収入としての積極的浪費性をついたもので,生産資本のうえに咲きみだれる「収入」
からの控除たる租税の非浪費性(公債の利子は「左手に支はらうのは右手」ではない
が,拘束のない租税は「左手に支はらうのほ右手」であるとするスミス)なたたえたも ので,かれの経費癌模の盛における膨張論が租税主義の形式のもとで,のぞし\ている。
(8)J凝♂,pり431邦訳く下>,348ぺ」一汐。
第38巻 革6弓
−−26−− 572
あい,第1に鴇局は経費削減を原則としては拒否す るとと,静2に削減を「富
(9) あるいは力」という分母とつね紅対比しており,けっして経費それ自体の絶対
的縮小を終始もんだいとしないかれの方法を直視すべきであり,われわれのい うスミ.スの経費絶対的膨張論の,これらほすべて深長な布石であって,−・方の ぺインでほ経費縮小が文字どおりの絶対的な経費削減であったのにたいし,他
●■◆■●●●●●●●●●●●●●●●
方のスミスにあってほそれがむしろ絶対的な経費膨張の安定的かつ永続的な保 証としででてきたことを十分に・銘記すべきである。
われわれほ,公共経費の費目の数の限定や政府経費の浪費的性格や公債累砥
への批判やのいささかの共通目標をめざして,18世紀プルジュ.ワ・ラディカル と18世紀産業資本とが同盟しえぬわけではないにしても,両者のあいだにひそ むおもわくの決定的な相違をみとめ,前者は絶対的な経費縮小を追求するもの
(10) として,後者ほ.相対的経費膨張率の減少またほ低下を要求するものとして,そ
れぞれ,絶対的な 安あがりの政府 論と相対的な 安あがりの政府 論とよぶな
らば,絶対的 安価な政ノ粁 論は「■国家必要悪」と「国家活動」の「極度」の
「縮小」とをかならず内包するが,相対的 安価な政府 論の方は.,「国家必要悪」
をふくまないかたらでの政府必然論とそれをささえる生産力論をもち,したが って,前者は改革紅おけるやや政治主義的なものであり,後者がその経済主義
的なもの(紅眼をそらす政治主義)であることも,つけくわえるまでもないだ
(9)また,おなじように,「国債の償還に公共の収入な勤勉かつ忠実に・用いるけっか,そ れら租税の大部分ほ,ながくつづくこ・とほないであろうし,グレイ トブリテンの公共 の収入ほまもなく,適度な平時施設を維持するのに必要な額に減少する」(J∂ブd」・邦訳
<下>,347ぺ一汐)のも「必要な」鼠に減少するのであって,絶対的な縮小論でほない。
肌)「政府に費用がかかり,人民が抑圧されていない」ため紅ほ「人民が富裕である」こ
とが要求され,どのくらい「富裕」でなければならぬかといえは,公共経費増加率以上 ●◆●●●●●●●●●●●●●■
に人民の富裕化率がたかければよいのだから,さしあたっては相対的経費膨張率の減少 ●●●●●●●●
またほ低下である紅ほちがいないが,周知のごきく,
、_
ためにほ,相対的経費膨張率がかならずしも低下しないで,不変であるか,ないしは上昇
すらしても所得の増加率のほやさや所得の大きさ紅よってほ十分に可能であるので,正 確にいえば,スミスのばあい,相対的経費膨張率が低下・不変・上昇のいずれでもさしつ
かえはない。
安価な政府ン をめぐる諸解釈について ・−・ヱ7−
573
し11)
ろう。
さらにここで指摘しておきたいのほ.,あとでふれるどとく,現実に確立した 19世紀の 安価な政府 が経費の絶対的膨張をはらむ相対的膨張率の低下であっ たことで,わがスミスがいかに産業資本のリアリズムを遠くはるかに・,か、つ,
ふかく洞察しえていたかをまざまざと示すのである。
ⅠⅠ
こうして,スミスによれば,国家ほ 必要 に.して 善 であり,生産的労働 のうみおとす「収入」からの徴収たる租税もまた〃必要ノ にして 凄 であっ て,かれの主眼は,ぺイン派の国家「必要悪」(「ヰむをえざる災庇」)説とは,
一定のちがいをたもちつつ,生産力論的視座を基軸として,経済改革を迫るべ きなのであったし,それは.増大する絶対的経費膨張と相対的経費膨張率の低下 とが,あかるく一両宜しうる世界でもあったのである。
ところで,これまでの 安価な政府 をめくやっての解釈,とりわけ,こ.れを スミスに.ひきつけての規定にiは,おおよそ,よっつの見解が事実上みられた。
1.「必要な災厄」説または絶対的経費縮小論
●●●●●
たとえば,「自由主義財政思想…‥・化よれば,国家牒「必要な災厄」であり,
●●●●●●●●
したがってこその活動に要する経費もまた,たとえ有用ではあってもなんらの富 を生産するものではなく∴その意味において不生産的であり,失費である…
とされ,こうしてこの財政思想は,国家活動は,国防,司法およびある種の公 共土木事業等の必要最小限度にかぎられるべきであり,経費もまたなるべくす
くないことが望ましいとして,いわゆる「やすあがりの政府」の理想をかか
げ,」,「■またこの思想匿よればIl…粗税ほなるべく少額であることが望ましい…
とされた。こうしてまた,この思想は.,「やすあがりの政府」を前提しつつ租
税総額の縮小を要求する」といい,かかる財政思想をの べたものとして−ほ,イ
(11)かかる双方の立場のちがいが,かれらの近代社会把握と経済認識とにより,深部にお いて定着せしめられていることはもちろんだし,また,プルジュワ・ラディカル固有の
もんだい性もそれ自体としてあきらかにされるべきだが,いまはふれることができない。
第38巻 第6号 574
−2β−
(2)
ギリスでほ,「・なによりもまず,スミス(1723−90)‥‥だとされたり,「スミ スの財政論はまこと紅明快である。それは自由主義の明快さである。彼によれ ば,財政は国民の年々の労働の生産物の増加をさまたげてはならない。それは
ナチエラル●コース●オブ・シングス フリ−・コムペティション
「事物の当然たる」自由競争を妨げてはならない。資本の蓄積を妨げてはなら
ない。即ち国家は必要なものであるが,それにしても社会(資本)にとって
チ■−プ・ガグアメン†
る。故にわれわれは「安価なる政府」を要求する。租税の公平 この要求はまさに18世紀末における資本の立場における政治的 といわれ,あるいは,「国家は「やむをえざる災厄」(Necessary また,スミスに.みられるように.,国家の任務を,社会秩序の経 いう必要最低限に限定しようとする要求が時代の思潮を支配す
,「スミスは国家活動を極度に縮小した。最も安価な.る国家こ
ネセγサリー・イヴル 必要的害意であ を要求すると。
い3)
宣言であった」
evil)とされ,
持と国家防衛と
l、11) るようにな.」り
しぃ\
そ最も理憩的なる国家であるとするのがスミスの国家観である」し,「スミス 財政論を一層■している「安価な政府」への志向」,「18世紀中葉のイギリスにと
つてほ,
(16)
政廊こそ最長の政府」というスミスの考え」とされ,さら紅「スミスにおけ
る国家ほ,蓄積資本を維持するための「必果敢」なのである。このような意味
紅おいてほ,スミスほ国家措動にたいして.否定的であり,かれに.おいてほ「安 価なる政好」こそ鳳良の政府なのである」し?「かくて利潤(剰余価値)の創
出・資本の蓄積を最高と考える当時の社会とスミスの政策論体系に.おいてほ,
………・
(17)国家活動ほ必要なる最小限皮に制限ざるべきものであらた」と。
これらの解釈ほ,スミスの財政規模論をぺイ㌣流の「やむをえない害悪」と
姻 武田隆夫・速藤湘ま・大内力臼改訂・近代財政の理論』(時期社),1961年9月,52−
4ぺ・−・汐。
n3)大内兵術・武田隆夫『■財政学け月(弘文堂),1955年7月,34−5ぺ−ジ。大内兵衛氏執 筆。国家と社会とがペインのように,対比されていることに注意されたい。
㈹ 遠藤湘吉編『財政学』(背林書院),1958年9月,78ぺ一汐。遠藤湘書氏執筆。
個 井手文雄『■増訂新版・古典学派の財政論』(創造社),1960年6月,273ぺ−・汐。
(1嘲 森七郎『古典派財政思想則(白桃書房),196年年5月,84−−93ぺ−・わ。
師 菅原修「経費の性格」,巳■現代の財政理論』(春秋社),近代財政講座く1>,1957年
7月,95−6ぺ・−汐。
安価な政府 をめぐる諸解釈について ー29 −−
575
同叫・祝したうえで,「経費もまたなるべくすくないことが」要求され,「租税総 額の縮小」こそが「安価な政府」の理念だったとする,「安価」ほ理念として はゼロを意味する,見解であるから,スミスをすなおによめばかならず気づく
(18)
はずの絶対的な経費膨張論につい1て,あるものはそれを強引に捨象し,また,
(19)
あるものは,一・方で平然と例のスミ.ス経済学の2大目的論を引用したり,「ス ミスほ,勃興しつつあったイギリス産業資本の侵略主義と植民地獲得戦争を
美化しており,したがって.軍事費の増大を肯定しており,そ・の否定的側面に
(20) 対する認識を全く欠いて−いた」というごとき,分析なき陳列をこころみるか,
さらに,あるものほ,「スミスは,時として「国防ほ富裕より大事である」とい い,かれがあたかも国家主義者であるかのごとき感を与えるが,かれほあくま でも個人主義者であり,上記のごときかれの表現ほ,富裕一蓄積資本の外敵 の侵害からの防衛が,いか紅蓮要であるかを示すための逆説常すぎない。国家 活動の有用性あるいほ不可欠性に.関する判断ほ,かれ紅おいてほ,蓄療資本の
(21)
保持ということを基準としておこなわれる」といわざるをえないのであって,
帝1に捨象派は本来スミス解釈の名に値いしないし,第2に.そのままでは矛盾
㈹ とく隼「荒野理論」の論理主義を局限におしひろげられる武田隆夫教授は,スミス思 ・ゼロ 想が「政策者」(「その主張する経済政策が,いわばなんの数億をももたない零の政策であ
った」)を意図したかのよう紅「純化」したうえで,これと表見上くいちがうスミスみ ずからの叙述や方法の,いわば不純物を「科学と
.
れ,共通であるなかで,武田教授がもっとも先鋭である。参照,武田隆夫「マルクス主 義経済学と財政学」,『マルクス経済学の研究』(岩波書店),1953年2月;同「財政学 紅おける「基準」またほ「尺度」について」,『財政学の基本問鼠』(千倉書房),1960
年10月。宇野教授昂ずからほ,「財政学が原理論でやられて.いると自由主義のチ・−プ・
ガグアノソトが理想革なって,それで現実の国家財政を批評するだけで,真に批判する ととが出来なくなる」(宇野弘蔵『社会科学のために』98−118ぺ−汐)と。
任劫 大内兵衛氏ほ.−・方で上記のように.、「必要悪」説的縮小論を展開されながら,他方で
ほスミス政治経済学の目的たる,人民と主権者の双方の富裕化を全文引用されるが,論
理的不統一・のままであり,前記の捨象派がこれを「純化」したものとおもわれる。
照,前掲,大内兵衛・武田隆夫『財政学』(弘文堂),.1955年7月,33ぺ−汐。なお,
参前
掲,武田・遠藤・大内『改訂・近代財政の理論』も部分的に.同様の平列をなされている。
伽)前掲,森七郎『古典派財政思想史』(白桃書房),1964年5月,57ぺ−ジbなお,本番 へのわたしの書評(『香川大学経済論叢』第37巻第5号,1964年12月)を魂よ。
飢 前掲,菅原健「経費の性格」,『現代の財政理論』(春秋社),近代財政講座<1一>,
1957年7月,95ぺ・一汐。
.576
第38巻 第6号
−・∂∂−
するはずのものを陳列しても,やほり,分析すべきものの放置にすぎないし,
さら軋第8に.「逆説」と修辞して,もんだいを霧散させ,「有用性」を「】■資本
の保持」にもっぱらむすびつけて:みても,スミス国家論にふくまれる数おおく の非資本の保持的諸要素をつつみこむことほ.はとんど不可能であるばかりでな
く,第4に,もんだいはまったく解決されない。なぜかといえ.ば,国家経費が 不生産的(資本にとっての失費)であるのに,「有用」(資本の保持のために)
でもあるとする論理をいたずらに∴つきあわせても,前者からのコロラリたる財 政規模最小化論と後者のコロラリたる公共経費「有用」論とが抽象的に対立し
あうだけで,一・義的になに.が最小の,したがって最適の財政規模であるかが,
(○亡l
まったく決定されえないはずだからであり,これほ絶対的経費縮小論を固持す る解釈に.ひそ・む自家撞着を暗示しよう。すすんでほ.,第5に・,なぜに「18世紀 末」や「−18世紀中葉のイギリス.」や「当時の社会」やに・,絶対的最小化論とし
ての 安価な政府 が支配したかが論証ぬきであることも,こうした解釈の歴
史的根拠における脆弱さのあらわれである。
● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
■ … = ◆ 2. 絶対的経費縮小論への就縛とその内部崩壊
そ・こで,みずからほとりあえず絶対的経費最小化論をとりながら,これを現 代的な視角から超越的に批評する立場がうまれる。
「国家の支出機能についてのスミスの思想が「夜警国家」あるいほ「安あが りの政府」という言葉によって端的に表現されているように・,資源配分の問題 に.関する彼の主張もまた,公共セクターをそのうちに包含した混合経済におけ る資源の最適配分を考えるというより,公共セクタ・−・の縮小すなわち公共セク タ− ′\の資源の移転をできるだけ制限することにある。このような考え方の根 底にある彼の自然的秩序の思想ほ,民間セクタ一における資源配分の問題をほ
じめとしてすべての経済問題が,市場機構をつうじて自然価格(naturalprice)
が成立するとき,解決されるというのである。.」「ここ.から導出される推論は,
民間セクタ・−と公共セクタ−との間の最適資源配分の達成が目的でなく,むし
位功 この矛盾は,しかし,ぺインやプル汐ユワ・ラディカルたちにおける重大な論点を形
成する。
577 安価な政府= をめぐる諸解釈について ∬βヱ・−
ろ公共セクターの規模をできるだけ最小限皮にととめること自体が国民経済の 発展の条件を充足させるということである。そして,スミスが国防費,司法 撃,および土木工事・公共施設の経費に分類して:考えた本源的役割に国家の機能 を限定し,これらの諸機能が支障なく遂行される範閻に.とどめるとき,この規 模の最小限皮ほ決定されると考える。したがって−,公共セクタ・一における資源 配分すなわち公共サービスの給付の内容と予算規模の問題とが同時に.決定され
ることに.なる。しかし,「見え.ざる手」の自然的秩序の思想によってこ導出され
●●●●● たところの,公共セクタ・−の規模を最小限庶に.とどめるという解が,曖昧さをふ
●●●●●●●●●●●●
くまないといえるだろうか。良問セクタ・−との関連に.おいて二混合経済の観点か
……■◆●●●●●●
…=… らおこなわれるのでなく,公共セクタ、−をそれだけ切り離して政府支出を単に
= ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
… ● ● ● ● ● ● ● ● ● 最小限度として決定することは,その基準自体の不明確さば・いうまでもな
… … … … ● ◆ ● ● ● ● ● ● ● ■ ■ ● ● ● ●
● ● ● ● ● かつ最小限皮という規模がつねに.拡大しうる可能性をそのうちに・ふくんでい
る。/たとえば,土木工事・公共施設乾たいする政府支出の必要性を説明する 場合スミスが小…たとえば,社会の商業の便宜を−・般的に増大すると考えられ る道路・橋梁・運河・港湾・学校教育施設を主権者がいかに.用意しなければな
◆●●●●●●■●●●●●●●●●●●●●●●
らないかを主張するとき,このような施設が経済の発展に.つれてその規模を拡
… … … ●
(23)大する必要に迫られることはいうまでもないからである。」
こ.れは,絶対的最小化論を論理的におしつめていくと,自己矛盾をきたすこ
との事実上の表明であって,スミスの「最小限皮」が費目の数であって量では
ありえないこと,「公共セクターをそれだけ切り離して政府賓出を単紅最小限度 として決定する」(安価な政府を意義づける)ことは,「■政府支出の必要性」を否 定しないかぎり不可能だとする,それこそ明快な論理主義ではあるし,「■最小 限度という規模がつねに拡大しうる可能性」をはらんでいるとする, 高価な 政府′ への鋭敏な臭覚をもつものでほあるが,第1にあまりにも絶対的最小化 論紅とらわれたために,「このような施設が経済の発展につれてその規模を拡
位3)木下和夫・年嶋正「財政と資源配分」,『財政学講座』(有斐閣),第2巻く財政政策の
理論>,1964年9月,100−1ぺ」−汐。
578
解38巻 第6号
一一息2−−
大する必要に.迫られる」とする受身の叙述になり,スミスのポ汐ティグな絶対 的経費膨張論が,明確にとらえられていないし,欝2に民間セクター・と公共セ
クタ・−という「混合経済の観点」からのみ,スミスを批判することにより,か
れにおける生産的労働とその果実たる「収入」との比率,さらには,「一生産的 な人手」と公収入との比率たる財政規模の相対的膨張率のもんだいが事実上,
無視ないし軽視されるという,経済主義的な性格をもつだけでなく,第3隼は 歴史的に.重大な意味をになった18世紀の後半から19世紀なかばにかけて−の時代
と思想をそのひろさとふかさとに.おいてとらえることのできない没歴史的方法 であるために.,スミス経費論独自の政治経済学的必然性をとりだすことはでき ないのである。
● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● ● ● ●
5.イデオ・ロギーとしての絶対的経費縮小論と虚偽意識
おなじく形式的には絶対的経費最小化論をとりながらそこにふくまれる矛盾 を虚偽意識として,すなわち 安価な政府 ほイデオロギーとしての,「当然自 己の本質をおおいかくし,相手の歴史的な役割をも見あやまる性質をもつよう な理論」であるから,まず,ひとつには「そういう理論と歴史的実在そ・のもの
とを混同することほゆるされない」こと,ふたつにほイそういう理論が,国家 権力の矛盾にぶつかって自分にほねかえってくると,その理論は他の矛盾した 側面〔‖高価な 経費〕をもふくむようになってこくる_j との立場から, 安価な 政府 を事実上さしあたってほ絶対的経費縮小と同一・祝したうえで,その矛盾 をつくという方法をとる。
「わかりきったこ.とであるが,「安価な政府」の理論ないし理想ほ1つのブル ジョア・イデオロギ−であり,政治的要求であり,運動であった,ということ である。したがって「安価な政府」の理論を歴史的な実在の申で正しく位置づ けてみないで,そういう理論と歴史的実在そのものとを混同するこ・とはゆるさ れない。一・般に.理論と歴史とを値線的に/むすびつけることはあやまりである が,「・定の歴史的な課題をはたしおえたブルジョア・イデオロギ・一に‥おいては なおさらそうである。たとえば自由競争ほ資本主義経済を動かす力であった。
けれども「自由競争」の理論は,自由競争の現実を正しく反映して−いない。そ
安価な政肝 をめぐる諸解釈について
579 鵬 ββ −
れほまず,資本主義的な自由競争における資本と賃労働との関係を意識してこい ないし,自由とすぐとなりあわせの関係にある独占というものに眉をつぶって いる。それほいわば自己の内部に.ある矛盾をことごとく排除した「理論」なの である。 ひろく知られているように「自由競争」‥川などの経済的自由 主義は,重商主義の経済的干渉政策に.対抗して:かかげられたブルジョア・イデ オロギーであった。そういう対立関係にたつイデオロギーとして\当然自己の 本質をおおいかくし,相手の歴史的な役割をも見あやまる性質をもつような理
論であ った。重商主義ほ.あやまれる非合理的な政策とのみ理解された。これに
対して自由のもたらす社会は,何等矛盾のない永遠に調和的な体系としてえが
かれた。そのよう紅主張することによって,自他ともに.欺く理論になった。/
「−安価な政府」の理論は,あたかもこのような系列にぞくする理論である。そ れほ…・資本主義の1時期にほ財政政策や財政政〔敵〕草をおしすすめるカに.な
った。しカ三しその理論じたいはこの歴史的現実の申の矛盾や対立をおおいかく
(飢)
すような性質のものであった。」ここまでは 安価な政府り論がプルジコ.ワ・イ デカ・ロギ−として,理論と実在とを混同し,みずからを調和的に.美化し自他を あざむくものだとする,その虚偽意識への批判であって,表象されるのは絶対
(25)
的経費縮小論たる 安価な政府 論であるが,それがこうした虚偽意識である
だけに.,「政府や国家権力の問題とぢかに.ふれる」「安価な政府」の痙論は,r−は るかに矛盾の多い複雑なものにな」
みると,一・体だれが「安価な政肝」を純粋に代表しでいたのか疑問紅なってくる
チープ・ガグ7■−メソト
錮 島恭彦「『安価な政府』論の再構成」,『彦根論叢』第46・47合併号,1958年9月,46−−
7ぺ−汐。
位5)島教授は, 安価な政府 紅ついての,人々の頭脳匿うかぶ表象をかぞえて,「〔り国 民経済的な機能を縮小しようとしている政府,〔2〕国民経済の自然的な運動に対して1、
かなる干渉をもくわえまいとして.いる政府,〔3二〕したがって財政規模をも縮小し,租税
負担をも軽減しようとして言いる政府,〔4■〕経常的な租税収入の範囲で経常支出をまかな
い,またそのような意味での財政のバランス一億全財政−をたえず心がけている政
府,〔5〕あるいは〜・般に.そのような政府をもつ一・定の時代,もしくほ歴史の1段階など
など」(同上,45ぺ−・ジ,数字に.よる区分けほ引用者)といわれ,したがってすこぶる多
義的ではあるけれども,教授のばあい,これらの諸表象の中核に.あるものは,他の文脈
を考慮して結局のところをいえば,〔3〕財政規模縮小に.あるとおもわれる。
滞38巻 第6弓 580
−β4 −
(26\
のである。」
●■●●●■●●■●●●●●●●
というのも,「「安価な政府」の理論が,もし政府の費用が安ければ安いはど
よいということを意味するなら,こういう否定的な側面鵬そしてこの側面が
プル汐ヨア思想の国家批判をあらわす健康な側面なのだが一ほ・18世紀以来の 資本主義の上昇期におけるブルジョア思想とくに経済的自由主義が共通にもっ
●●●●●●●●●●●●●●
ていたものであろう。しかしそういう理論が,国家権力の矛盾にぶづかって自
===………■●◆……、●●●●●●●
分にはねや、えってくると,そ・の理論は他の矛盾した側面をもふぐむようになっ
てくる。こ.うして:「■安価な政府」の理論といっても,そういう側面だけから簡
単にわりきれないわけセある。壷農学派ほ最初の体系的な経済的自由主義の主 張者であり,「簡単な農業国と金のかからない徴税装置」の弁護者であった。
………==……■●●●●●●
● けれども彼等の国家論は王制や貴族制の擁護論さえふくんでいる。アダム・ス
ミスの生産的労働,不生産的労働の理論,とくに政府活動を不生産的労働のな かにふくめる理論は「安価な政府」の理論を−−・そうふかめたものといえる。し かし彼は国家の不生産的労働を「有用な」ものとして弁護する他の半面をもも
?ている0スミ‥スが国家経費を論ずる段になると,国家権力はむしろ経済的自 由の制度を擁護し,自由の侵害者を強圧する手段としての役割をもたされてい ることが,いよいよ明確になってくる。たとえば彼が軍事費,司法費について のべるところをみればよい。つまりここでほ「安価な政府」の理論は「■高価な
●●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●●■ 政府」の理論へと転化する契機をはらんでいるのである。「要価な政府」の理論
が,首尾一層したものをかいてこいるこ.とは,たしかに自由主義的なブルジョア ジ・−の国家権力に対する矛盾した立場をあらわしているものであった。エンゲ ルスは「イギリスにおける労働者階級の状態」の中でこう番いてこいる。「ブル ジョアジーほ,彼らにとって自由競争とおなじよう阻必要なプロレタリア・−ト を制御しておくためだけでも国家なしにすませるこ.とほできないから,そこで 彼らほ,国家をプロレタリア−・トにたいしてさしむけノ 自分からほできるだけ 遠ざけておこうとつとめるのである.」(マル・エソ選集,補巻2,413京)/19世紀40
但倒 同上,47ぺ一汐。傍点ほ原文。
安価な政府 をめぐる諸解釈について
581 Ⅳ−3博 一
年代のイギリスの自由主義的プル汐ヨア汐−の立場がこのようであってみれ は,彼等のイデカ・ロギ・−もまたさまざまの矛盾した要素をふくむのほ当然であ ろう。もっとも40年代のイギリスに.おける自由貿易運動の申で,ブルジョアジ
ーとプロレタリア−トの利害の部分的な−・致をみたときに「安価な政府」の理
論はもっとも純粋な形をとり,戦闘的な性格をおびてきたといわれている。そ
●●■●●●●●●●●●●●●■●●●
れ故に「安価な政府.」の理論とほ,主として:この時代のフィッグ党の−い部やコ …………==…=●●●●●●●
ブデン,ブライトなどのマンチェスタ一派によって代表されたものといわれて
■●■■●●●●●●●●●●●●●■●
いるのである。しかし理論が純粋さをましてくるにつれて,それはブルジョア
●●●●●■●●●●●●●●●●●●●■●
急進主義的な抽象性をもち,また半面で商人的なイデオロギーと評されるは
ど,−・面的で視界のせまいものに.なってきたのであった。理論が国家権力の現
実をふくもうとすればするほど,その内容は首尾一一層性を欠いたものになり,
=●t■●●●●●●●●●●
その理論が純粋性をませばますはど,そ・の内容は現実をつつみきれなくなる。
(27)
「安価な政府」の理論とはそうした性格の理論であった。一」
安価な政府 が「政治的要求であり,運動であ」り,「財政政策や財政政
〔改〕草をおしすすめる力になった」こと,しかもそれが「1時期」の「−・定の 歴史的な課題を」ほ.たすプル汐.。ワ・J・イデオロギ・−であるから,「自他ともに 欺く理論に.なった」ことはまちがいないし,「理論と歴史とを直線的にむすび つけることほ.あやまりである」ことも,きわめて的確な指摘というべきであ り,す‥でに言及したさまざまの論理主義的把握にたいする歴史的かつ主体的な アブロ−チとして,われわれはたかく評価したいのみでほなく, 安価な政府 の「接雑」さにふれて「一・体だれが「安価な政肝」を純粋に代表していたのか 疑問に」なるとサーる,また,それを18世紀ではなく「19世.・紀40年代」の時代の 自由主義的プルジュワ汐−の1部やマンチェスター派によって代表されたもの とする,明察をふくむし,さらに,スミスでほ 安価な政府 の理論が 高価 な政府 の「溜論へと転化する契槻をほら」むことを正当にも看破されてこいる のではあるが,これらの諸規定が「資本主義上昇期の「経済的自由主義」と
椚 同上,47−8ぺ一−ジ。
第38巻 第6号 582 ーーーJ(;−−
総称される思想の−・群から,「安価な政府」の理論だけをぬきだしてきて,そ れから当時のプル汐ヨア汐−と国家との関係を判断することほできない。まし
て「 ̄安価な政府」の理論を手がかりとして,−・般にその当時の国家の存在形態 を規定したり,またはそういう国家をもつ歴史の1段階を規定したりしようと いうことは,そ・の論理のもつトリックに足をさらわれることになりかねないで
(28) あろう」ことを,したがっておそらくほ,どうかすると 〃安価な政府 の「理
論を手がかり」に,「づた咋・そういう国家をもつ歴史の1段階を規定したりし ようと」する,かの宇野理論をみすえていることから, 安価な政府 の理論 のもつ矛盾をあばくことに急なあまり,当然ながら,こ.の理論を歴史的匡.内在
しておさえたうえで,これをできるだけ整合的に概念構成しようとされないた めに, 安価な政府 ほ,「歴史的実在」を反映していないことの批判のばあい は事実上,絶対的縮小論となり,それがそれ自体として論理的に矛盾をきたす
論定に・さいしてこはケネ・−やスミ・スやのなか紅ある王制や翠族制の弁護論, 高 価な政府 への「喫機」さえほっきり極印された絶対的経費膨張論となり,ま
た,論断の対象となるプル汐コワ・イデオロギーないしは経済的自由主義が必 要に、応じてケネ一になり,スミスになり,転じて,19世紀40年代の自由主義的
プルジュワジ・−・となるというごとく,国および時代の歴史的なちがいや思想史 的明暗がぬりつぶされてしまうし,そうした操作のためか,−・方で「この側面 がブルジョア思想の国家批判をあらわす健康な側面なのだ」と称讃された「否 定的な側面」こそ・がすぐあとで,「腰論が純粋さをましてくるにつれて\それ はブルジョア急進主義的な抽象性をもち,また半面で商人的なイデオロギー・と 評されるはど,一・面的で視界のせまいものになってきた」と否認される,いい かえれほ,以安価な政府 の「首尾一層性」の欠如をつくことだけに,ややとも すれば,力点がおかれるので,特殊スミス的な絶対的膨張と相対的膨張率の低 下とが両立しうる相対的な 安あがりの政府 論を抽出しえず,むろん,これ
こそが超生産力論的な 安価な政府 の構造であり,「■歴史的現実の申の矛眉
㈹ 同上,48ぺ−ジ。
安価な政府, をめぐる諸解釈について. − ∂7 − 583
(ごp)
や対立をれおいかくすような性質のもの一.j こそであるのだとするならば,「矛 盾の多い複雑なもの」をただ「簡単に・わりきれないわけである」といわれて
も,叙述そのものが,十分に生きてこないのではなかろうか。
そして,また,このことほ, 安価な政府 を具体的に・分析される基準に混 乱をみちびいているともおもわれる。「比較的古い資料であるシドニー・バッ
クストンのものほ,対仏戦役以前の平時(1791年)の中央政府の経費を18百万 ポンドとおさえ,それから「自由主義段階」の全時期を経過した1886年の経費 を94百万ポンドとおさえている。…約5倍の経費膨張である。しかし,この 期間に.産業革命による生産力=国民所得の一・そう大きな上昇があったにちがい ない。この期間の国民所得に対する中央政府の経費の比率を計算したものにス タンプの著書があるが,それに.よると,1791年のそれは8%であり,1890年の それほ7・3%である。い……・つまり長期の傾向としては「安価な政府」の実現を いいうるわけである」とされるときの, 安価な政府 ほ相対的膨張率の低下
であるが,すぐつづけて「しかしこの両期間の経費から公債費をのぞいてみる と,1791年は4%であり,1890年は5.3%である。つまり国家活動の実質をあ
(30) らわす経費ほ/むしろ増大しているのである」といわれるばあいのそれも,おな
じではあるけれども,第1に,1791年という年から公債費を除去することはこ の年の歳出の歴史的内容を消去するのにひとしいし,第2にこの年を 安価な 政府 の動向を示すための基準年次とする理由も不明瞭だし,第8にかりにこ の相対的膨張率が数字としては「低下」しても,分母たる国民所得の大きさや 細 絶対的な 安あがりの政府 論だけを対象としてその虚偽性を批判するさいの論点は,
それが現実をうつしとっていないという,「歴史的実在」からのズレに・集中するのだ が,つまりその理論にふくまれる内的矛盾の摘出ではなく,理論と現実との距離の速さ にあるのだけれども,相対的な 安あがりの政府 論ほ,もともと,公共経費自体の必要 性とその増加の必然性を弁護し,さらにその経費の増加率をうわまわる国民所得の成長 率あるいは生産力の発展を導出しうるのだから,いわば生産関係のもんだいを生産力に よって融解しつぐすとする,生産力論的かつ「科学的」 安価な政府 論であるから,−
面では歴史をみとおす英知と他面でほ.「矛盾や対立をおおいかくすような性質」や「自 他ともに欺く」召交知とをもち,これをこそ真に歴史内在的に克服しなければ 「 もちろ ん前者をもふくめて−,われわれは 安価な政府 論の亡霊から自由になったとはけっ して1いいえないだろう。
伽)同上,55ぺ・一汐。
第38巻 第6弓 584
ー ふゴ ーー
その成長率によってほ,その増大率以上軋租税負担りにたえうる論理からみれほ,
「−低下.」がただちに「国家活動の実質をあらわす経費恨むしろ増大している.」
とほかならずしもいいえないのであり,そこでたちまち基準年次にかんして:,
「これとほ別にもっと短期の,対仏戦以後自由主儀の典型期(1818−1875年)をと った武田隆夫教授らの資料によると(大内,武田共著,財政学,85貰),経費ほ絶 対的に.ほ増大して.いるが,国民所得に対してほ減少して−いる(13∩8%−61%)」
と譲歩せざるをえないし,さらに「この時期にほとくに重要である」地方経費 を考慮して,「■スタンプの著書によると,中央,地方の総経費の国民所得把対 する比率ほ,1867年10.7%,1由0年12%となって,膨張の傾向をあらわしてい
(鋸) る」とされるぼあにも,比較年次のもんだい,地方経費のなかに算入すべきも
のの科目のあいまいさによって,結論はいちじるしく可変的である。
したがって, 安価な政府り の存在の薄弱なことを強調されようとするあま り,「以上国家経費の動向にかんするかぎり「安価な政府」が期待するはどのめ ざましい経費の減少はみられない」としつつも,つぎには「もちろんこういう 統計的な事実だけから,「安価な政府」の存否を判断することほあやまりであ ろう。とくに対仏戦争の時期から自由貿易の尭成期紅かけて,軍事費や公債費 を減少しようとする運動,租税制度,公債制度その他財政制度全般における自 由主義的な改革の中に.仁わたし達は「安価な政府」への動向を充分つかむこと ができるのである。そればかりでなく,前期の「重商主義」段階に比較してと いうよりも,むしろ20世紀の独占段階に比較して,国家経費の膨張をさきにの べたような比較的長い期間ともかくおさえ.るごとができた点で,なんとしても 自由主義的イデオロギ・−やそれに.もとづく運動の影響をみとめないわけにほ いかない」とされ,ふたたび,強調点に.もどって,「けれども同時にわたし達 は・川…イ安価な政府」というイデオロギ−が無意識的に.みおとした資本主義経 済の矛盾や運動がこの段階で作用しはじめたがために.,そ・れが期待するはどの 経費の減少は実現せず,むしろこの自由主義段階においてすら根強い経費の膨
(31)同上,55−6ぺ・一汐。
安価な政府 をめぐる諸解釈について
585 一−∂9−
($2)
張傾向がみられるという事実をも忘れてはならない」とされざるをえない。「贋 本主義経済の矛盾や運動」をみおとす 安価な政府 の抽象性への批判紅とら われるに・もかかわらず,「経費の膨張を…・∴比較的長い期間ともかくお琴える
ことができた点」を否認もしえないとサーる,きわめて不分明なこの論旨を解消 するには,パ安価な政府 のひとつを相対的膨張率の低下としておさえ,「自由 主義段階においです■ら根強い経費の膨張傾向がみられるという事実」と 安価
とが両立しうることを確認すれはよいし,そのこ.とは事実上,統討的にほみず からこころ争られているはずなのだから,われわれに・ほどうも「歴史的実在」
としての 安価な政府 へのアブロ・−チとイデオロギ−としての 安価な政府 へのそれとが分断されたままであるよう払おもわれ,それゆえに「「安価な政 府」……のひきずっているなにか理論の惰性のようなものは,やはりこの際正し
(33)
い歴史の分析にてらして,うら破られる必要がある.」といわれる結論での, 安 価な政府 とはまずもって絶対的経費縮小論こそだとすべきであろうし,そう
すれは,轟に・克服すべきほずの 安価な政府 論たる相対的な 安あがり政府
論がおのずからうかびあがり,その歴史的批判にすすみうる条件をととのえる ことができるであろう。
これをもうすこし観点をかえて説明しよう。財政学の対象は 政治と経済と の矛盾 であると規定しつつそれを財政学史のなかで検討されたさいに,「■財
(3功 同上,56ぺ一汐。 このばあい,表象としておもいうかべられて1、る 安価な政肝 が絶 対的経費縮小論としてのそれ,もしくほ,それに類したものである点に留意されたい。
つぎのごとき文章もそうした心底をふくむとみられる一イ「自由貿易」は後進国や植 民地にたいして軍事的経済的侵略を意味するというこ.とは,「安価な政府」のイデオロ
ギーから見おとされたことであった。」「税務職員の比重がかなり高いことも,「安価 な政府」の合理的で透明なイデオロギ−が説明しえない現実をあらわしているようであ る。」(同上,58ぺ−ジ)「わたし達は「安価な政府」のイデオ・ロギーーから排除されたい くたの事実や矛盾をみたわけであるが,19世紀の後半ともなると,こういう矛盾がいよ いよ累積していく傾向にあったのである。しかもこういう段階でも,
ゐイデオロギーーが支配していて,新な社会的矛盾に対応しようとする人間の計画的な活
動をおくらせ,さまたげてきたのである。わたし達ほこういう意味での自由主義的イデ オロギ−・と歴史的現実との「混同」「一自由主義的イデオロギ・−・の現実への機械的適用
−を問題にし,批判してきたのであった」(同上,62ぺ−ジ)。
脚 同上,63′ミ・一汐。
第38巻 第6号
ー4ク ーー 58£
政と.国民経済との矛盾と対立とほ,まず古典経済学がぶつかった現実の対象で あった。このことは明かである。さらにこの「政治と経済との矛盾」は,経済 社会の内部の矛盾と対立とにもとづいて−いる。このことも古典凝済学は明かに 意識して:いる。経済社会の矛盾の階額的な表現ほ‥1一方で高利貸資本家,南 米資本家,特権的貿易商人,地主階級および国家権力を構成する「不生産的階 級」と,他方で産業資本家を先頭とする「生産的階級」との対立である。そし て前者の特権的諸階級や「不生産的階級」が,財務行政権を利用し,「生産的 階級」のつくり出した富を破壊し,浪費している。こういう経済社会に対する 認識があって,彼等の財政改革や税制改革が唱えられることとなったのであ
る。「 政治と経済」,また「経済社会」についての古典経済学の以上のような理
(B4)
論ほ,彼等の遺産として,現代の財政学がうけついでよいもの」とする叙述か らの帰結ほ.,絶対的経費縮小化とししてこの, 安価な政府 の表象とその擁護で あり,「次に.古典学派の理論のうち;継承すべからざる部分,すなわちその理 論的弱点」ないしは「政治と経済とに.ついては完全な調和論におちいってしま った」とされる側面,すなわち「たとえばケネ→が「国賓しければ,王貧し.」
という時,またアダム・スミ.スが「諸国民の富ゐ増大ほ,また国家収<の増大
(き5)
である」というとき,すで紅この調和論の片鱗があらわれている」とする指摘 の調和論とは,じつほわれわれのいわゆる相対的な 安あがりの政府 論であ
り,まさに.,これこそ「したがって,政治と経済との調和論ほ.,国家権力や財
務行政紅ついての経済主義であり,経済主義的解釈論である一」とされてよい し,「財政についての調和論と不調和論とが,統一・されないままに・同居してい
(鍾) るのが,自由主義的経済学のありのままの姿なので」ほなく,この相対的経費
膨張率低下論たる絶対的経費の増加の擁護とその増加率をはるかに凌蔑しうる
「人民の富裕」の発展とこそ・が,「財政についての調和論と不調和論」とを
「統・一・」する超生産力論的基調をもちうるとと紅あるとおもわれるの症り 安価
錮 島恭彦『財政学概論』(岩波審店),1963年5月,4−5ぺ−汐。
(35)同上,5ぺ・−汐。
(36)同上,6ぺ−ジ。
安価な政肝 をめぐる諸解釈について …イヱ−−
587
な政府 の絶対的経費縮小論紅とらえ.られたためか,ふたたび,つぎのように むすぼれて−,調和論の「調和.」の所以を思想またほ理論が,「歴史的実在」を
チ・−プ・ガプアメント
認識しえぬ無知にもとめられる−「「安価な政府」の思想は.,この時代の調和 論を代表するものであった。たしかに.,それほ政府の活動を「不生産的」とみ る不調和論を根底にもっているのである。だから政府の役割を減少させ,これ を経済社会にまかせようとしたのであるが,それについては経済社会そのもの の調和的作用を信仰していたということに.なるのである。しかしこれでは「安 価な政府」の理想が,政府の政策にとり入れられた19世紀の前半に,すでにイギ リス社会ほ産業革命に・よる動揺の中で,新たな政府機能を必要としていたとい う理由が理解できない。−・・アダム・スミスほ「商工業の繁栄が最善の警察で
ポリス
ある」という立場から,警察無用論を主張したが,その商工業が都市に集中し て∴都市の矛盾と犯罪とが増大し,警察力を大いに・増強しなければならなくな ったイギリスの19世紀の状態ほ,もうスミスの思想でほ解釈できなく
るのである。これは19世紀とは限らない。このような調和論をうけついでいる 現代の経済学や財政学もまた,現代国家の機能の増大や経費の膨張を分析し,
(37)
説明することができないでいるのである。。」
こうして,ふたつの 安価な政府 が事実上ひとつの 安価な政府 たる絶 対的経費縮小論のみに悸少化され,ふたつの「調和論」の差違がぬりつぶさ れ,スミスほ絶対的な経費最小化論者としてえがかれる。これでは,スミスの 生産力論をただしくみすえているとほいえない。.スミスはたしかに「富裕」が 犯罪をなくするとのべたが,それは前期的諸かんけいのもとでのポリス的規制 を批判し,ポリスから経済学へ下向するための作業であり,いいかえ.ると「古典 学派は絶対王制の財政権力との蹄争という場面では,政治と経済との矛盾,お
よび経済社会の矛盾の側面をするどく分析した.」のに,「しかしそういう−・切 の対立と矛盾とが排除された後の,政治と経済とに∴ついてほ完全な調和論紅お
(38)
ちいってしまらた」ように,あたらしい商業社会では警察力を縮小せよとほ
即)同上,6−7ページ。
脚 同上,5ぺ一一汐。
第38巻 第6弓 588 ーー 42−
けっして言いわないし,「イギリス社会は産業革命に・よる劫揺の中で,新たな政 府の機能を必要としていたという理由」をも,かれは端緒的に種々かきつらね
ていたほずであり,費目の数ほ減少させるが,必要費用の量はふえる文明社会
の国家収入の維持こそほ,自由な生産力の発展によるのだとすることにこそ,
かれにおけも調和論があり,「現代の経済学や財政学.」ほ−−・面的に「このよう な調和論をうけついでいる」のではないかとおもうし,スミスにしてもそれは どに.現実的であり,生産力論を骨格とする巧妙さであるのだから,われわれ ほ,これをこ・そ意識的に.とりだすべきなのである。「つまり「安価な政敵」を 塞がえしてみると,「高価な政府.」の理論がでてくる」のほまさしくこのこと
でほあるし,「償族階級とまで妥協しようというタグム・スミ.スを,よくまあ
「自由主∴養老」だなどといえたものだ」とかほ,スミスに・かんして:は 安価な 政府 の「理論そのものほ.自分のもってこいる暗い半面をおしかくし宅いる理論
(89)
である」把凍㌃ちがいないが,それをだまって「おしかくしている」のではな く,生産力という「分母」の堂々たる白日のカタ∵ゴタでそうしている点にこそ ある隠ずである。われわれが宇野理論から,ひるがえって一生産力理論からも自
由になるためにほ,こうした超生産力論的 安価な政府 −・それは「分子」
たる公共経費の縮小をとなえるというよりも「分母」たる生産力の発展をこそ 称揚する‖安あがりの政府 −−−−と奥に.歴史的に対決することでなければなら ない。
ⅠⅠⅠ
ところで,これまでに.知ったみっつの解釈なり立場ほっ 相互に異質なもので
ゼロ あって,あるものは不純物を「純化」しようとする「政策零」の,他のあるも
のは19世紀以後の近代主義にたっての,また,第3のものほ「純化」説批判の 立場からの虚偽性批判をねらうものとしての,意図と立場のちがいをもち,ま
た,決定的に対立しあうとさえいいうるにもかかわらず,相対的な 安あがりの
鋤 島恭彦訂■現代の国家と財政の理論』(三一層房),1960年3月,5ぺ−汐。
/