学校教育と倫理-教員養成における倫理学の役割- その2
「心のノート」と道徳教育
木村 競*
(2006 年 11 月 30 日受理)
School Education and Ethics (2)
Kiso KIMURA * (Received November 30, 2006)
はじめに
筆者は,前稿「学校教育と倫理-教員養成における倫理学の役割- その1 予備的考察」1)
で,教員養成における倫理学・倫理学的思考の役割を見出すための準備的考察を行った。
すなわち,教育活動を行う学校という社会的組織・集団の特徴とそこで教員が置かれている立場 からして,教員は,他者との関係における自らの行為について,様々な場面で倫理的判断が求めら れ,実際に倫理的判断を下している。一方,教員の活動,倫理的判断の仕方を含む「生き方」に関 して大きな影響を及ぼす教員養成教育において,倫理学的思考は教員となる者の将来の活動のあり 方を広げ,可能性を開く働きをなすが,それは教員養成教育の教員が倫理学的思考を行うことによ って可能となる。
このような把握の下,本稿以降,具体的問題に即して教員養成における倫理学・倫理学的思考の 役割を考察していく。
今回取り上げるのは,昨今の学校教育における重要な動向である文部科学省による「心のノート」
の配布と活用推進に関わる諸問題である。
「心のノート」路線および道徳教育の「場」としての学校について倫理学的に分析し,それをふ まえて,道徳教育についての教員養成における倫理学・倫理学的思考の役割を考える。
1 「心」と道徳規範
1-1 「心のノート」と「自信喪失」・「不安」
*茨城大学教育学部倫理学研究室(〒310-8512 水戸市文京 2-1-1; Laboratory of Ethics, College of Education, Ibaraki University, Mito 310-8512 Japan)
「心のノート」が配布されるに至る経緯については様々に紹介されているので,ここでは繰り返 さない2)。確認しておきたいのは,第一に,「心のノート」はより広い意味での「心の教育」とい うことが語られる中で登場してきたこと,第二に,「心のノート」を作成し,活用を推進する側は 社会的状況に関する「不安」について言及することである。後者からみていく。
文部科学省は,「心のノート」の配布にあたり,2002(平成14)年4月22日付で,各指定都市 教育委員会教育長,附属小・中学校(中等教育学校,盲,聾,養護学校小・中学部を含む)を置く 各国立大学長宛に,初等中等教育局長名で「「心のノート」について(依頼)」という文書を出し ているが,それには,柴原弘志文部科学省初等中等教育局教育課程課教科調査官・国立教育政策研 究所教育課程研究センター研究開発部教育課程調査官名の「「心のノート」の活用に当たって」と いう文書が付けられている。
この文書は,1「心のノート」作成の背景,2「心のノート」の概要,3「心のノート」の形式・
構成及び作成・配布予定,4「心のノート」活用における主な留意事項からなるが,1に以下の記 述がある3)。
「今日,大人社会全体のモラルの低下を背景に,児童生徒の規範意識の低下が叫ばれ,少子化,
核家族化さらには地域社会との関係の希薄化などの影響による家庭・地域社会における教育力の低 下が指摘されている。子どもの心豊かな人間への成長を願いながらも,社会の急激な変化,価値観 の多様化が進む中で,子どもに伝えるべき価値に確信がもてず,しつけや教育に対する自信を喪失 している保護者が増えているともいわれている。こうした状況を考えても,人間として生きていく うえで,児童生徒が自覚的に学習すべき基礎・基本としての道徳教育の内容について,保護者や地 域の人々と共に十分な共通理解を図ることは,極めて重要なことである。」
また,「心のノート」の市販本のうち,小学校5,6年向けと中学校向けを発行している暁教育 図書では,そのウエブサイトに「心のノートを語る」というページを設けている。これは,暁教育 図書によれば,心のノートの企画制作に関わった四氏(押谷由夫氏,七条正典氏,柴原弘志氏,横 山利弘氏)による座談会での発言の要旨をまとめたものである4)。そのうちの一人であり,「心の ノート」の活用推進に積極的に活動している押谷由夫氏(昭和女子大学教授・前文部科学省教科調 査官)の記事の最終部に以下の記述がある。
「いま国民全体が不安な状態にいるといわれています。これは価値意識が多様化しすぎているこ とに起因しているように思います。国民が安心して生活していくには,基本的な価値については共 通の価値意識をしっかりと育てる教育をやっていかなければなりません。「心のノート」をもとに,
基本的な道徳的価値について共通した価値意識を養っていく。それは安定した国をつくっていくと ころへつながっていきます」
両者の記述を合わせると,ここには以下のような議論の進め方が見て取れる。1)まず,少子化,
核家族化,地域社会との関係の希薄化といった社会の変化と価値観の多様化があり,それに伴い,
大人社会全体のモラルの低下,児童生徒の規範意識の低下が生じている。2)それによって,保護
者は伝えるべき価値に確信がもてず,しつけや教育に対する自信を喪失し,国民全体が不安な状態 にある。3)そこで,基本的な道徳的価値について共通した価値意識を養い,道徳教育の内容につ いて教師,保護者,地域の人々の共通理解を形成して,安定した国をつくっていく(ことが必要で ある)。
「心のノート」的な教育のあり方に賛同しない立場からは様々な批判がなされているが,このよ うな議論の進め方に即していえば,その批判は,1)の現状分析の妥当性についてと3)の「心の ノート」的な教育がめざす方向に向けられている。
しかし,ここで指摘したいのは,1)の現状分析と3)の方向性の提示が,2)の「自信喪失」
と「不安」によってつなげられている点である。
このつなげ方に関しては次のように批判することもできる。例えば,本当に保護者は「自信喪失」
しているのか,国民全体は「不安」になっているのか,また,たとえ1)の現状分析が妥当であっ ても,それが「自信喪失」や「不安」につながるとは限らず,かえって「開放感」や「自由」をも たらすこともあり得るはずだ,というように。さらに,たとえ,「自信喪失」や「不安」が存在す るとしても,それの解消は道徳的な価値意識の共有によってではなく,社会的関係の組み直しによ ってのみ可能になるはずだ,というように。
しかし,ここで着目したいのは,1)の現状分析すなわち<現在>の人々のあり方から3)の方 向性の提示すなわち<未来>の人々のあり方への議論の進行に関して,「自信喪失」や「不安」と いった「心のあり方」が呼び出されている点そのものである。
ここには,「心のノート」が,より広い意味での「心の教育」ということが語られる中で登場し てきたことの意味が,端的に現れている。「心の教育」を推進する立場とは,<現在>から<未来
>へと人々のあり方を変えていくこと可能にするのは,「心のあり方」を変えることであるとする 立場に他ならない。「心の教育」のいわば中核的ツールとして「心のノート」が登場してきたとい うことは,それを推進する立場の人々にとって,「心のノート」が関わる道徳的な価値意識や規範 ということが「心のあり方」の中心であることを表している。
では,なぜ,道徳的な価値や規範ということが強く「心のあり方」と結び付けられるのか,また 結び付けることが可能なのか。さらに,なぜ,その際に「自信喪失」・「不安」といった不全感が 言上げされるのか。
1-2 なぜ「心」と道徳規範が結び付くか
「心」とは日常的に用いられる言葉であり,そうであるがゆえに多義的である。「心」をキイワ ードとして用いる人々も,多くの場合,意味を限定することなく,その多義性を利用する形で浸透 を図る。しかし,言葉の意味とはその用法に他ならないから,それの用いられ方において,多義の 中でどんな意味が取り上げられているかが浮かび上がる。
道徳的な価値や規範と結び付けられた「心」が意味するところは,伝統的な倫理学の中での「心」
あるいは「精神」,「魂」といった類似の概念の意味と,実は近しいものである。以下に,なぜ,
道徳的な価値や規範ということが強く「心のあり方」と結び付けられるのかについて,一つの「ス トーリー」を提示する。
心,精神,魂等といった概念は,人間を他の存在者(無生物,「単なる」生物等)と区別しよう とする時に現れる概念である。無論,単なる区別ではなく,人間が他の存在者に比べて「優れた」
存在者であることを説明しようとする時に用いられる概念である。「人間は心を持っているがゆえ に,他の存在者とは違う存在者である。だから,我々は人間として...」という言い回しは,現 代の我々にとってもなじみ深いものであり,「...」のところでは,何か「よい」「立派な」振 るまいをしたり,態度を示すことが求められたり,勧められたりする。
これらの概念の中で,とりわけ「心」についていわれるのは,それが外界からの働きかけを受け とめる「感受性」と人間の状態を変えるあるいは行為を新たに始める「能動性」の両面を統合的に 持っているということである。それによって,まず,単に機械的に他のものと相互作用をするに過 ぎない「もの」(無生物)と区別される。さらに,この統合において「思考」的な「創造性」を発 揮するとされることで,「本能」的な統合システムによって外界の変化に「適応」するに過ぎない 他の生物と区別される。
この「思考」的な「創造性」はそれが振るまいや行為(=「外面的」なもの)として現れないと どのようなものかはわからないことから,「心」は「内面」的なものととらえられ,人それぞれの 違いもあることから,「心」のありようは「個性」の重要な契機となる。ヨーロッパ近代において,
人間が強く「個人」として考えられるようになると,この両側面が際だつようになり,人間の人間 たるゆえんは,それぞれに異なる内面的な「心」を持って,世界の中で自らの生き方を切り開いて くことに求められるようになる。
また,一方で,「心」の働きは,知・情・意の三側面からとらえられるのが伝統的である。上記 の整理に合わせれば,情とは外界からの働きかけを受けとめる「感受性」に対応し,意とは行為を 発動させる「能動性」に対応し,知とは両者を媒介する「思考」的な「創造性」に対応する。
かくして,人間は,単なる世界の部分品である「もの」や,種として世界に埋没している他の生 物とは異なる,知・情・意を備えた「内面」的な「心」を有する個別的存在者として,何より「優 れた」存在者であることとなる。
さて,前稿でも述べたように,どんな社会にも,それが集団としての凝集性を持つ限り,行為に ついての規範が存在する。すなわち,規範とは,他者との関係における行為の仕方(この場面では このように振るまうべきである/振るまってはいけない)および行為についての評価(このような 行為は善い・許される/悪い・許されない)に関する当為性(についての知)である。規範に従っ ていること/従おうとすることは「善い」ことであり,規範に従っていないこと/従おうとしない ことは「悪い」ことであり,規範と価値(意識)は密接に結び付いている。
ここで重要なのは,規範は,当為(べき)性,評価性を含むものである以上,現実の社会におけ る実際の行為のあり方とは一定の距離があり,それを越える/変化させる志向を要求するものだと いうことである。
まずここに,「心」が規範(一般)と結び付く理由がある。
先ほど述べたように,「心」を有していることこそ,人間が世界と自らの現状を越えて,異なっ たあり方をすることを可能にするものだからである。「心」の働き・力によって,規範を守り,規 範にあった行為をし,規範にあった社会をつくることが可能であり,かつ,その働き・力を発揮す ることが要請される。知・情・意の三側面に即していえば,知によって規範内容を理解し,情によ
って規範が必要だと感じ,規範に従うことに喜びを感じ,意によって規範に従おうとし,規範に従 った行動を行おうとする。
また,その際,世界と自らの現状について肯定的であれば,あるいはとりたてて問題を感じてい なければこの回路は発動しない。したがって,「自信喪失」・「不安」といった世界と自らの現状 について否定的な把握に対応する不全感が強調される必要があることになる。
しかし,さらに,道徳規範の場合は次のような事情がある。
道徳規範をそれ以外の規範から厳密に区別することは困難であるが,以下のように考えることが できる。道徳規範を狭く考えれば,法律等の明示的に示された規範では統御できないような人間活 動に関する規範であり,広く考えれば,法律等の明示的に示された規範の前提となる人間活動一般 に関する根本的規範である。
しかし,どちらに考えるにせよ,道徳規範は,どのような振るまいや行為が規範に従っていると いうことを明示的に示す規範ではカバーできない人間活動の領域についての規範である。無論,そ のような領域に関して社会的に拘束力のある規範を認めることを否定する立場はあり得る。しかし,
そもそも道徳規範とは,そのような立場をとらないがゆえに,すなわち,どのような振るまいや行 為が規範に従っているということを一般的かつ確定的に示せない人間活動に関して,あるいは一般 的かつ確定的に示せる範囲を越えた人間活動に関して拘束力のある規範を立てようとするがゆえに 要請される規範なのである。
ここに,道徳規範に関して特に「心」が呼び出される理由がある。
「心」の存在を想定するということは,先ほど述べたように,振るまいや行為といった「外面的」
なものに先だって,そのあり方を決める「内面的」な働きの領域を想定するということである。「内 面的」な働きがいかなるものであるかは,それが「内面的」であるがゆえに本質的に非明示的であ る。すなわち,どのような振るまいや行為が規範に従っているということを一般的かつ確定的に示 せない,あるいは一般的かつ確定的に示せる範囲を越えた人間活動に関しても拘束力のある規範を 立てようとした場合,その規範が適用されるものとして,「内面的」な「心」の働き,「心のあり 方」はとても都合のよいものなのである。
ここで,先ほどの「心のノート」の企画制作側・活用推進側の二人の議論で,1)の現状分析
では「価値観の多様化」が,3)の方向性の提示では「安定した国をつくっていく」ということが 語られていたことに着目しよう。
「価値観の多様化」ということは,規範に関していえば,規範内容についての社会的な合意形成 が難しいこと,すなわち,どのような振るまいや行為が規範に従っているということを一般的に確 認することが困難であることを意味している。また,「安定した国をつくっていく」という社会形 成の方向性については,そうでよいか,よいとしてもそれをどのような社会なのか,ということに 関して,意見の一致が簡単ではないことはいうまでもない。
このような困難があるにもかかわらず,このような現状分析と社会形成の方向性を前提にして規 範を確立しようとするならば,「心のあり方」を取り上げて道徳規範を焦点化しようとする方策は,
上記のストーリーから考えて,あり得べきものということができよう。そこでは,規範遵守への「心」
の働きの発動に必要な世界と自らの現状について否定的な把握についても,「自信喪失」・「不安」
という個人の「内面的」な心情として確認されることになる。
さてしかし,上記のストーリーから考えた場合,道徳規範による「心のあり方」の統御には,規 範としての有効性に関して根本的な問題がある。すなわち,道徳規範はどのような振るまいや行為 が規範に従っているということを一般的かつ確定的に示すものではないということ,強くいえば,
道徳規範はそもそも明示的に示される範囲を越えて人間活動を統御しようとするものであるという 点。
このような道徳規範を学校教育に組み込むことは可能なのか。「心のノート」を軸とした現在の 道徳教育が,この問題点をどのようにして「乗り越え」ようとしているのかを次章で考える。
2 学校生活と道徳・「心」
2-1 道徳の学習指導要領
学校教育の機能については様々な議論があるが,学校が何かを教える場であることは広く認めら れているところである。この何かを教えるということは,道徳教育においては,一定の道徳規範を
「身に付ける」ことと通常は理解されているだろう。
しかし,そう考えるならば,道徳規範が,本来,どのような振るまいや行為が規範に従っている ということを一般的かつ確定的に示すものではないがゆえに,道徳規範による「心のあり方」の統 御には規範としての有効性に関して問題があるということは,学校における道徳教育にとって,致 命的な問題のように見える。
この点についての,現在の学校における道徳教育の対応は,きわめて単純である。すなわち,学 習指導要領で教えるべき道徳規範を示す,ということである。
小学校学習指導要領および中学校学習指導要領の「第3章 道徳」の「第2 内容」において,
それが列挙されている5)。
ここには以下の特徴が見出される。それは,具体的な生活の場面でいかに振るまうべきかに関す る規範(以下「生活行動規範」と呼ぶ)と,いかなることが社会で一般的に価値があると考える・
感じるべきかに関する規範(以下「社会価値規範」と呼ぶ)が混在していることである。
すなわち,文部科学省が現在の学校における道徳教育において「身に付ける」ことを期待してい る道徳規範とは,生活行動規範と社会価値規範であるということである。そして,前章の議論をふ まえれば,ここでは,生活行動規範と社会価値規範の両者とも個人的な「心のあり方」に関わるこ とと考えられているということである。
しかし,具体的な生活の場面でいかに振るまうべきかということを,個人的な「心のあり方」に 関わること,「心のあり方」を変えることでよりよくできることとするのは,比較的に受け入れ易 いにしても,いかなることが社会で一般的に価値があると考える・感じるべきかということを,個 人的な「心のあり方」の問題として扱うのは無理があるといわざるを得ない。
この点は,これまでも道徳教育の難しさとして語られてきたことである。日常生活の具体的振る まいから一定の距離がある形で示される規範,例えば「人権を大切にする」というようなものに関 しては,言葉の意味や知識として理解させることができるが,その理解が実際の振るまいや行動に
なかなか結び付かない,というように。
しかし,「安定した国をつくっていく」という社会形成の方向性までも道徳教育の中に取り込ん でいこうとするならば,社会価値規範を「しっかりと身に付けさせる」,すなわち実際の振るまい や行動にも反映されるように「教える」必要がある。
ここで,「心のノート」での「内容」の取扱いにも注目すると,以下の特徴が見出される。
「心のノート」は扱う「内容」はまったく学習指導要領に合わせてあるから,より低学年では生 活行動規範を中心に示し,高学年になるにつれ社会価値規範の割合が増していく。特徴的なのは,
高学年で社会価値規範を示す際に,例えば,その社会価値規範からはどのような生活行動規範が導 き出されるかを考えさせて答えさえるというように,それを生活行動規範と結び付けている点であ る。一方で,社会価値規範がそれとしてなぜ妥当であるかが論じられることはない6)。となれば,
児童・生徒は,社会価値規範がいかなるものであるかを,それと結び付けられた生活行動規範を介 して,それに還元する形で理解していくことになる。
このやり方は,確かに,(学校外の一般社会にも/にこそ当てはめられるべき)社会価値規範の 道徳教育での扱いが難しいこと,それが自分たちにとってよそよそしいものととらえられてしまう ということに対する一つの方略であろう。
しかも,これは,学校という「場」の性格に合ったやり方ではあるのである。
2-2 学校という「場」
学校は何かを教える「教育の場」であるが,同時に児童・生徒と教員その他の「生活の場」でも ある。前稿でも述べたように,現在の日本の小・中学校は,他の教育機関に比べて特にこの「生活 の場」であるという性格が強い。子ども達は生活時間の相当に大きな部分をこの集団に属して過ご す。
「教育の場」である以上,そこでは一定の道徳規範の教え込みが行われることが期待される一方,
「生活の場」である限り,常に一定の生活行動規範が必要なところでもある。これも前稿でも述べ たように,現在の日本の小・中学校は,子ども達の属する他の集団に比べて生活に関わる規範性が 高い。日本の小・中学校ではいわゆる「生活指導」がきわめて重視されている。
さらに特徴的なのは,「教育の場」として果たすべき機能を,「生活の場」であることもふまえ て果たそうとしている点にある。この点は教科指導でも見出されるところだが,特に道徳教育では 顕著である。
このことは,現行の学習指導要領にも現れている。例えば,小学校学習指導要領および中学校学 習指導要領の「第3章 道徳」の「第3 指導計画の作成と各学年にわたる内容の取扱い」(小学 校),「第3 指導計画の作成と内容の取扱い」(中学校)には以下のような記述がみられる7)。
「4 道徳教育を進めるに当たっては,学校や学級内の人間関係や環境を整えるとともに,学校 の道徳教育の指導内容が児童の日常生活に生かされるようにする必要がある。また,家庭や地域社 会との共通理解を深め,授業の実施や地域教材の開発や活用などに,保護者や地域の人々の積極的 な参加や協力を得るなど相互の連携を図るよう配慮する必要がある 。」(小学校,中学校に共通)
「1(3) 各学校においては,特に,規律ある生活ができ,自分の将来を考え,国際社会に生き る日本人としての自覚が身に付くようにすることなどに配慮し,生徒や学校の実態に応じた指導を 行うよう工夫すること。」(中学校)
これまでの道徳教育の実際においてもこの点は重視されてきたといるだろう。「生活の場」であ ることを土台として,さらには「生活の場」における生活行動規範の必要性を利用して道徳教育を 進めることが「よい教育」「よい教師」と考えられてきた。「心の教育」・「心のノート」路線は,
このような考え方の延長線上にあるということができる。
しかし,それは「成功」するのであろうか。
2-3 「心のノート」の限界
筆者は,2005(平成17)年度より「心・道徳・倫理」という授業を開講し,その中で「心のノー ト」の内容を履修学生とともに検討してきた。そこで以下のような課題についてのレポートを課し た。「「心のノート」の内容,方法について,自分が最も重要である考える点,あるいは最も特徴 的であると考える点を指摘し,重要あるいは特徴的であると考える理由を述べよ。その点について の価値判断(肯定,否定)はしても,しなくてもよい。」
或る学生のレポートに以下のような記述がある(抜粋)。
「心のノートでは,自分とノートとの対話により,自分の考えを持ち,また再考できる。この点 において心のノートはうまく作られてると思う。」
「心のノートには誘導的な方法により,望ましい方向性が組み込まれているという特徴がある。
望ましい方向性とは心のノートにおける望ましい方向性であるが,そこには問題のあるものも多 い。」
「私は心のノートと向き合う中で,自分の考えを深めたり,自分というものについて考える,と いうことが大切なのだと思う。すなわち,望ましい方向性を示したり,それを誘導的にやることは ないと思う。心のノートにおいて深めた考えを表現する立場を与えたり,つくってあげたりするこ とが必要ではないだろうか。または,日常生活の中で,どうやって考えをつきあわせればよいか,
その方法を考えさせたり,教えたりするのでもよいかもしれない。」
「私は心のノートの中だけで全てが完結するとは思えない。心のノートの中で考えたこと,気づ いたことを実生活の中でどう活かしていけるか,その視点が大切ではないかと思う。」
この記述では「自分」がキイワードとなっているが,これはこれまで「心」と呼んできたものと 同じと考えることができるだろう。「自分」あるいは「心のあり方」を確認し,考えることで,「深 めた考え」を持つようにすることついては,「心のノート」が役に立つことを認めている。そして それを,他者とつきあわせ,実生活の中で生かすことについても言及している。すなわち,生活行 動規範について「心のあり方」の見直しから考えを深めることについては肯定的である。
しかし一方,それが「心のノート」にとって「望ましい方向性」へと「誘導」されることに関し
ては疑問を呈している。その「望ましい方向性」の中身への疑問と同時に,ある方向性へ「誘導」
すること自体の必要性にも懐疑的である。
少なくともこの学生にとっては,「心の教育」・「心のノート」路線のもっとも肝心なところで ある,「心のあり方」の見直しによって生活行動規範を検討することを通して社会価値規範を「身 に付けさせる」というやり方は賛同されてはいないのである。
では,ひとまず学校という「場」のあり方に即していると思われるこのやり方のどこに問題があ るのか。
そもそも,「生活の場」であることを土台として,さらには「生活の場」における生活行動規範 の必要性を利用して道徳教育を進めることが「よい教育」と考えられてきたにもかかわらず,しか もそれが学校という「場」のあり方に即していると思われるにもかかわらず,これまで必ずしもう まくいって来なかった理由は何か。
それは,(少なくともこれまでの)学校が閉鎖的な性格の強い「小社会」であることに求めるこ とができる。このような学校においては,生活行動規範がそのまま社会価値規範としても通用して しまうのである。すなわち,社会価値規範を生活行動規範から導き出そうとしても,そこから導き 出される社会価値規範が,本来それに値する学校外の一般社会にも妥当するものではなく,学校と いう「小社会」で妥当するものにとどまってしまうのである。
「心のノート」の高学年向けの部分では,この両規範の結び付けをいわば逆向きに用いて,まず 社会価値規範を提示し,それがいかなるものであるかを,それと結び付けられた生活行動規範を介 して,それに還元する形で理解させるという方略を用いた。しかし,結局のところ,結び付けが可 能な社会価値規範は学校という「小社会」で妥当するものにとどまるから,先ほどの学生が提言す るように,それは学校という「生活の場」でさらに検討していくことの方が望ましいということに なる。しかし,その限りで,この社会価値規範の一般的妥当性は仮のものにとどまり続ける。もし,
この検討を抜きにして,それをあくまで社会価値規範,すなわち一般的に価値があると考える・感 じるべき規範として提示すれば,先ほどの学生が感じているように,「望ましい方向性」へと「誘 導」されているという印象から免れないことになる。
ここで,あくまで,一般社会にも妥当する社会価値規範を学校という「小社会」の生活行動規範 と結び付けようとし,かつこの学生が示しているような提言や感想を無視しようとすればどうなる か。実は「心のノート」はそうしているのであるが,学校外の社会もまた,学校という「閉鎖的」
なものと同様の「社会」してとらえざるを得ないことになる。「心のノート」における「社会」が 異質なものを排除する,あるいは同化しようとする,さらにいえばそもそも想定してないものであ るという批判はよくなされるが,「心のノート」のそのような社会観は,「心のノート」のこのよ うな方法論と整合的なものなのである。
先ほど,「心のノート」においては,そこで示されている社会価値規範がそれとしてなぜ妥当で あるかが論じられることはないということを指摘した。すなわち,「心のノート」は社会価値規範 の生活行動規範とは異なった存在性格を認めようとしていない。それに相即しているのが社会価値 規範を生活行動規範から導き出そうとする「心のノート」の方法論であるが,以上確認したように,
そこで導入しようとしている社会価値規範の内容の是非は別としても,「心のノート」路線は成功 しているとは言いがたいのである。
2-4 「心のあり方」主義の限界
しかし,では,生活行動規範を個人的な「心のあり方」の問題として扱うことは適当なのだろう か。
実は,学校および教員にとって,生活場面における振るまいや行動の善し悪しの原因を児童・生 徒個人の「心のあり方」に求めることはとても「便利」なことである。
学校が学校児童・生徒と教員その他の「生活の場」であり「小社会」である以上,そこには構成 員間の相互関係が存在する。それは,そこで生活していくことに関わって構成員がなす様々な振る まいや行動によって形成される。そこでは,当然のことながら,ある場合には相互理解や協力が生 じ,ある場合には行き違いや対立が生じる。学校が「生活の場」としての機能を果たすためには,
この相互理解や協力,行き違いや対立を統御する一定の生活行動規範が必要となる。
学校が「教育の場」であり,この教育が主に教員によってなされるべきだと考えるなら,この相 互理解や協力,行き違いや対立について,教員からみて,望ましいあるいは望ましくない,より強 くは善いあるいは悪いという価値判断がなされ,望ましくないあるい悪いと価値判断されたものつ いては,望ましいあるいは善い状態にあるように導かれるべきだということになる。すなわち,教 員による生活行動規範の確立である。そして,この導きは,相互理解や協力,行き違いや対立を生 じさせる振るまいや行動の是正によって行われることになろう。すなわち,生活行動規範は構成員 がなす様々な振るまいや行動に関わってくる。
もしここで,振るまいや行動が「生活の場」あるいは「小社会」としての学校の制度,集団構造,
そこから帰結する構成員間の相互関係によって生み出される,あるいはそのあり方が強く規定され ていると考えるなら,振るまいや行動の是正のためには,学校の制度,集団構造,そこから帰結す る構成員間の相互関係の再検討,再構築が必要だということになる。他方,もしここで,振るまい や行動が構成員の「心のあり方」によって生み出され,主に規定されていると考えるなら,振るま いや行動の是正のためには「心のあり方」を変えればよいということになる。
教員にとってどちらが「楽」であるかは自明である。しかも,ここで,学校が「教育の場」であ ることを重視し,振るまいや行動の是正が主に教員によってなされるべきだと考えるなら,「心の あり方」を変える必要があるのは,もっぱら児童・生徒の側だということにある。対して,学校の 制度,集団構造,そこから帰結する構成員間の相互関係の再検討,再構築ということになれば,こ とは教員自身に深く関わってこざるを得ない。もし生活行動規範をあくまで個人的な「心のあり方」
の問題として扱うならば,この再検討,再構築が行われる可能性は限りなく低い。
さらに,ここで指摘したいのは,教員が児童・生徒の振るまいや行動を是正し,生活行動規範を 確立しようとする時,教員においては,児童・生徒の振るまいや行動,およびそこから生じる相互 理解や協力,行き違いについて,何が望ましいあるいは望ましくない,より強くは善いあるいは悪 いという判断をなすための,一定の価値基準が必要だし,存在しているということである。
この価値基準の形成については,二つの考え方が可能である。一つは,「生活の場」としての学 校で日々なされる構成員の振るまいや行動,およびそこから生じる相互理解や協力,行き違いをふ まえて,構成員にとっての「生活の場」がよりよいものになるように,作り上げていくものだとい
う考え方。このように考えるなら,価値基準は常に作り直される動的なものとなる。もう一つは,
「生活の場」のあるべき姿をふまえて,それを実現するためにあらかじめ想定されているべきだと いう考え方。このように考えるなら,価値基準は相当程度に固定的な静的なものとなる。
後者の立場に立った時,教員が児童・生徒の「心のあり方」を変えることで振るまいや行動を是 正し,生活行動規範を確立しようとするやり方はきわめて好都合である。「心」は個人的・「内面 的」なものであり,他者との相互関係を捨象することが可能なものだからである。特に,「心のノ ート」のように「内面的」な「心のあり方」を言語化して「吐露」させれば,それは一般的・抽象 的なものにとどまり,日々変化する構成員間の具体的交流の影響を無視することができるからであ る。このことを逆からいえば,「心のあり方」を,このような具体的な構成員間の具体的交流と結 び付けて考えない限り,「心のあり方」で生活行動規範を取扱おうとすることは,後者のような価 値基準の考え方を引き寄せるということである。したがって,「心のノート」に典型的なように,
後者のような価値基準の考え方と「心のあり方」主義は手をたずさえて出現することを常とする8)。 しかし,後者の立場での価値基準は,内容的には,学校の制度,集団構造,そこから帰結する構 成員間の相互関係の現状に合致したものであり,実は,学校という閉鎖的な「小社会」の社会価値 規範に他ならない。すなわち,生活行動規範を個人的な「心のあり方」の問題として扱おうとする ことのうちには,実は,既に社会価値規範が忍び込んでいるのである。ただし,この「社会価値規 範」が「学校外の一般社会にも妥当する」ことはまったく保障されていないのだが。
すなわち,生活行動規範を個人的な「心のあり方」の問題として扱おうとする立場には二重の限 界がある。第一に,生活行動規範である以上それに関わってくるはずの,学校という「生活の場」
での構成員間の日々変化する振るまいや行動,具体的交流を取り逃がしてしまうこと。第二に,社 会価値規範の「生活の場」に対する外在性を乗り越えようとして導入されたはずのこの立場は,実 は,一定の社会価値規範を必要としてしまうこと。
かくして,ここまでの考察から以下のような方向性を示すことができよう。
学校における道徳教育に必要なのは,学校という閉鎖的な「小社会」に合致した,あらかじめ想 定された社会価値規範を生活行動規範に還元することで児童・生徒の「心」に「内面化」し,一般 社会でもそれにそって行動する「心構え」を形成することではない。真に必要なのは,学校という
「小社会」における社会価値規範がいかに児童・生徒さらには教員の生活行動規範に投影されてい るかを検討し,他者との具体的交流の場面としての生活場面における振るまいや行動をふまえて,
この学校という「小社会」における社会価値規範の限界を乗り越えさせることで,一般社会での社 会価値規範を批判的に形成する力を児童・生徒に「しっかりと育てる」ことなのである。
3 「心の力」の養成と倫理学的思考
3-1 「心の力」の再考=再興
しかし,そう考えるならば,伝統的な意味での「心」について,「心の教育」や「心のノート」
の路線とは別の仕方でその力を生かす方向を探る必要があるし,それが可能であるように思われる。
伝統的な「心」概念の以下の点に着目したい。
「心」は,それが外界からの働きかけを受けとめる「感受性」と人間の状態を変えるあるいは行 為を新たに始める「能動性」の両面を統合的に持っており,この統合において「思考」的な「創造 性」を発揮するとされてきた。そうであるがゆえに,「心」を持つ人間は,世界の中で自らの生き 方を切り開いていくことが可能であると考えられてきた。
すなわち,「心」は,人間が現実を越えることを可能にするものである。
この「現実」には,生きている社会において機能している様々な規範も含まれる。学校という場 に即していえば,学校という「小社会」をひとまず成立させている生活行動規範と社会価値規範も また,その社会で生きている児童・生徒にとっての「現実」である。
このように考えるならば,「心」こそ,学校という「小社会」に現存する生活行動規範と社会価 値規範を把握し,検討し,それを越えていく「力」を持ったものということができる。前述の整理 に合わせれば,外界からの働きかけを受けとめる「感受性」としての「情」によって,他の児童・
生徒や教員との関わりを受けとめ,思考能力としての「知」によって,そこにおける生活行動規範 と社会価値規範の働きを分析し,その有効性と限界を把握し,「知」の「創造性」と結び付いた「意」
によって,新たな生活行動規範と社会価値規範の形成につながる行為を発動する。
学校という「小社会」においてこのように発揮された「心の力」は,学校の外の一般社会での社 会価値規範を批判的に形成することにおいても同様に働くことができるだろう。
かくして,学校における道徳教育に必要なのは,学校という「場」において児童・生徒にこのよ うな「心の力」を発揮させ,それによって「心の力」をよりしっかりとしたものに育てることなの である。
これまでの道徳教育の実際において,学校が「生活の場」であることを土台として,そこでの生 活行動規範の必要性を利用して道徳教育を進めることが「よい教育」「よい教師」と考されてきた ことにも,実は児童・生徒の「心の力」の発揮を期待して,という面がある。すなわち,「生活の 場」での他の児童・生徒や教員との関わりを受けとめさせ,それを対象化して知的に分析し,納得 ずくで新たな生活行動規範に合致した行動を行う意欲を持たせる,という,これまでの「よい教育」
「よい教師」のやり方は,児童・生徒の「心の力」の発揮を前提としているし,そこに外在的な社 会価値規範を既存のものとして持ち込まなければ,「心の力」の養成にもなっているからである9)。
3-2 「心の力」の養成における倫理学の役割
さて,このような児童・生徒の「心の力」の発揮のきっかけを与えるのが,教員の教育的働きか けであることはいうまでもない。では,道徳教育における「心の力」の養成の担い手として教員を 養成するために,倫理学はどのような役割を果たすことができるだろうか。
前稿でも述べたように,教員養成教育のあり方が教員としての活動を規定するという点に関して は,以下の三つの側面に整理できる。第一に,知識的側面である。これには学生が学ぶ教科内容・
指導法・児童生徒理解に関する知識,現行の教育制度についての知識,これら全ての成立過程につ いての歴史的理解等が含まれる。第二に,経験的側面である。これには教育実習を代表として,模 擬授業,「フレンドシップ」事業等,学生が実際に教育的活動を行うことが含まれる。第三に,モ デル的側面である。これは教員養成教育の担当者たる大学教員が果たす「モデル」としての役割の
ことである。これらにそって考えてみよう。
知識的側面に関していえば,無論,様々な道徳思想を知ることは道徳教育を行う上での基盤であ るから,倫理学は倫理思想史上の蓄積を提供することで道徳教育の担い手の養成に役立つことはで きる。しかし,これらの道徳思想・倫理思想が,それに沿って考えるべき規範的知識として示され るなら,それは,「心の力」の養成の担い手の養成にとっては,かえってマイナスの働きをする。
必要なのは,古今の道徳思想・倫理思想が,「倫理学的思考」10)によって形成されことを示し,
理解させることである。すなわち,それらは,その時点での社会的規範およびその適用に関する体 系的知識に対して,そのような前提的規範・知識をあらためて考え直す,それとは「別なように」
思考するという思考態度によって形成されたこと,その議論の展開がそのような試行態度に貫かれ ていることも含めて示すことである。道徳思想・倫理思想をこのような議論の展開の追跡も伴って 理解させたならば,教員をめざす学生は,あらためて考え直す,それとは「別なように」思考する という思考態度になじみ,幾分かは我がものとすることができるだろう。
もちろん,ここで重要なのは,モデル的側面である。指導にあたる大学教員自身が,このような 思考態度を示しながら,実際に,古今の道徳思想・倫理思想に対して,授業においては前提的規範・
知識という性格を持つそれらを,あらためて考え直す,それとは「別なように」思考するという実 践を,まさに「心の力」を発揮して行う必要がある。
さらに,モデル的側面として重要なのは,授業の中で学生自身が,「心の力」を発揮してこのよ うな思考実践をするような仕掛けを準備するとともに,それを見守り・援助するという「指導」を 行うことである。このような大学教員と教員志望の学生との関係が,学生が教員になってからの,
教員と児童・生徒との関係のモデルになる。さらにいえば,大学の教育「指導」のあり方が,小・
中学校における「心の力」の養成の仕方のモデルになるわけである。
経験的な側面ついていえば,教員志望の学生は,教育実習,模擬授業,「フレンドシップ」事業 等の教育的活動において,「心の力」の養成の「予行演習」をすることが求められるということは いうまでもない。
しかし,ここで留意すべきなのは,これらの「予行演習」においては,教えるべき教育内容,教 員としての振るまい方等について,実際の学校現場以上に規範的な枠組みが与えられていることが 常だということである。例えば,教育実習においては,学習指導要領に基づき,扱う単元が指定さ れ,実習生は教員以上に「教員らしく」振るまうことを要求される。
しかし,そうであるならなおさら,これらの規範的な枠組みに対して,倫理学的思考を働きかせ る意味がある。自明な前提と受け取られがちなこの規定に対して,あらためて考え直すこと,それ とは「別なように」思考することができないかと問うことができて,はじめてこれらは「心の力」
の養成の「予行演習」であることができる。
しかし,このことは教育実習等の現場と,ある種の緊張関係を生むこともあろう。それでもなお,
このような思考態度を維持するには,大学教員の強い支持が不可欠である。この支持は,大学教員 と教員志望の学生との関係が持つモデルとしての意味のもっとも重要な要素ということができよ う。
このように考えてくると,「心の力」の養成の担い手として教員を養成するためには,大学教員 自身が先ほど述べた意味での「心の力」を身に付けており,その意義について十分理解を持ってい
ることが必要なことが見えてくる。教員養成教育が一人の教員によるものではなく,多くの教員の 協同的な教育活動であることもふまえれば,教員養成教育にあたる大学教員が「心の力」の意義を 理解する基盤を提供することこそが,教員養成教育における倫理学の究極の役割だといえるかもし れない11)。
注
1)木村競「学校教育と倫理-教員養成における倫理学の役割- その1 予備的考察」『茨城大学教育学部 紀要(教育科学)』第 55 号,2006 年,379-385 頁.
2)三宅晶子『「心のノート」を考える』岩波ブックレット No.595(岩波書店,2003)が簡潔に整理している。
3)以下の文章は,特定非営利活動法人子どものための民間教育委員会の WEB サイト
http://cebc.jp/data/education/gov/jp/tsuuchi/knote-katsu.htmから引用した。
4)http://www.akatsuki.co.jp/pickup/kokoro_note/oshiya.html 5)以下に,下記の文部科学省の WEB サイトより引用する。
小学校 http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301/03122601/011.htm 中学校 http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301/03122602/012.htm
小学校
〔第1学年及び第2学年〕
1 主として自分自身に関すること。
(1) 健康や安全に気を付け,物や金銭を大切にし,身の回りを整え,わがままをしないで,規 則正しい生活をする。
(2) 自分がやらなければならない勉強や仕事は,しっかりと行う。
(3) よいことと悪いことの区別をし,よいと思うことを進んで行う。
(4) うそをついたりごまかしをしたりしないで,素直に伸び伸びと生活する。
2 主として他の人とのかかわりに関すること。
(1) 気持ちのよいあいさつ,言葉遣い,動作などに心掛けて,明るく接する。
(2) 身近にいる幼い人や高齢者に温かい心で接し,親切にする。
(3) 友達と仲よくし,助け合う。
(4) 日ごろ世話になっている人々に感謝する。
3 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。
(1) 身近な自然に親しみ,動植物に優しい心で接する。
(2) 生きることを喜び,生命を大切にする心をもつ。
(3) 美しいものに触れ,すがすがしい心をもつ。
4 主として集団や社会とのかかわりに関すること。
(1) みんなが使う物を大切にし,約束やきまりを守る。
(2) 父母,祖父母を敬愛し,進んで家の手伝いなどをして,家族の役に立つ喜びを知る。
(3) 先生を敬愛し,学校の人々に親しんで,学級や学校の生活を楽しくする。
(4) 土の文化や生活に親しみ,愛着をもつ。
〔第3学年及び第4学年〕
1 主として自分自身に関すること。
(1) 自分でできることは自分でやり,節度のある生活をする。
(2) よく考えて行動し,過ちは素直に改める。
(3) 自分でやろうと決めたことは,粘り強くやり遂げる。
(4) 正しいと思うことは,勇気をもって行う。
(5) 正直に,明るい心で元気よく生活する。
2 主として他の人とのかかわりに関すること。
(1) 礼儀の大切さを知り,だれに対しても真心をもって接する。
(2) 相手のことを思いやり,親切にする。
(3) 友達と互いに理解し,信頼し,助け合う。
(4) 生活を支えている人々や高齢者に,尊敬と感謝の気持ちをもって接する。
3 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。
(1) 自然のすばらしさや不思議さに感動し,自然や動植物を大切にする。
(2) 生命の尊さを感じ取り,生命あるものを大切にする。
(3) 美しいものや気高いものに感動する心をもつ。
4 主として集団や社会とのかかわりに関すること。
(1) 約束や社会のきまりを守り,公徳心をもつ。
(2) はたらくことの大切さを知り,進んではたらく。
(3) 父母,祖父母を敬愛し,家族みんなで協力し合って楽しい家庭をつくる。
(4) 先生や学校の人々を敬愛し,みんなで協力し合って楽しい学級をつくる。
(5) 郷土の文化と伝統を大切にし,郷土を愛する心をもつ。
(6) 我が国の文化と伝統に親しみ,国を愛する心をもつとともに,外国の人々や文化に関心を もつ。
〔第5学年及び第6学年〕
1 主として自分自身に関すること。
(1) 生活を振り返り,節度を守り節制に心掛ける。
(2) より高い目標を立て,希望と勇気をもってくじけないで努力する。
(3) 自由を大切にし,規律ある行動をする。
(4) 誠実に,明るい心で楽しく生活する。
(5) 真理を大切にし,進んで新しいものを求め,工夫して生活をよりよくする。
(6) 自分の特徴を知って,悪い所を改めよい所を積極的に伸ばす。
2 主として他の人とのかかわりに関すること。
(1) 時と場をわきまえて,礼儀正しく真心をもって接する。
(2) だれに対しても思いやりの心をもち,相手の立場に立って親切にする。
(3) 互いに信頼し,学び合って友情を深め,男女仲よく協力し助け合う。
(4) 謙虚な心をもち,広い心で自分と異なる意見や立場を大切にする。
(5) 日々の生活が人々の支え合いや助け合いで成り立っていることに感謝し,それにこたえる。
3 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。
(1) 自然の偉大さを知り,自然環境を大切にする。
(2) 生命がかけがえのないものであることを知り,自他の生命を尊重する。
(3) 美しいものに感動する心や人間の力を超えたものに対する畏敬の念をもつ。
4 主として集団や社会とのかかわりに関すること。
(1) 身近な集団に進んで参加し,自分の役割を自覚し,協力して主体的に責任を果たす。
(2) 公徳心をもって法やきまりを守り,自他の権利を大切にし進んで義務を果たす。
(3) だれに対しても差別をすることや偏見をもつことなく公正,公平にし,正義の実現に努める。
(4) 働きくことの意義を理解し,社会に奉仕する喜びを知って公共のために役に立つことをする。
(5) 父母,祖父母を敬愛し,家族の幸せを求めて,進んで役に立つことをする。
(6) 先生や学校の人々への敬愛を深め,みんなで協力し合いよりよい校風をつくる。
(7) 郷土や我が国の文化と伝統を大切にし,先人の努力を知り,郷土や国を愛する心をもつ。
(8) 外国の人々や文化を大切にする心をもち,日本人としての自覚をもって世界の人々と親善 に努める。
中学校
1 主として自分自身に関すること。
(1) 望ましい生活習慣を身に付け,心身の健康の増進を図り,節度を守り節制に心掛け調和の
ある生活をする。
(2) より高い目標を目指し,希望と勇気をもって着実にやり抜く強い意志をもつ。
(3) 自律の精神を重んじ,自主的に考え,誠実に実行してその結果に責任をもつ。
(4) 真理を愛し,真実を求め,理想の実現を目指して自己の人生を切り拓いていく。
(5) 自己を見つめ,自己の向上を図るとともに,個性を伸ばして充実した生き方を追求する。
2 主として他の人とのかかわりに関すること。
(1) 礼儀の意義を理解し,時と場に応じた適切な言動をとる。
(2) 温かい人間愛の精神を深め,他の人々に対し感謝と思いやりの心をもつ。
(3) 友情の尊さを理解して心から信頼できる友達をもち,互いに励まし合い,高め合う。
(4) 男女は,互いに異性についての正しい理解を深め,相手の人格を尊重する。
(5) それぞれの個性や立場を尊重し,いろいろなものの見方や考え方があることを理解して,
謙虚に他に学ぶ広い心をもつ。
3 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。
(1) 自然を愛護し,美しいものに感動する豊かな心をもち,人間の力を超えたものに対する畏 敬の念を深める。
(2) 生命の尊さを理解し,かけがえのない自他の生命を尊重する。
(3) 人間には弱さや醜さを克服する強さや気高さがあることを信じて,人間として生きること に喜びを見いだすように努める。
4 主として集団や社会とのかかわりに関すること。
(1) 自己が属する様々な集団の意義についての理解を深め,役割と責任を自覚し集団生活の向 上に努める。
(2) 法やきまりの意義を理解し,遵(じゅん)守るとともに,自他の権利を重んじ義務を確実 に果たして,社会の秩序と規律を高めるように努める。
(3) 公徳心及び社会連帯の自覚を高め,よりよい社会の実現に努める。
(4) 正義を重んじ,だれに対しても公正,公平にし,差別や偏見のない社会の実現に努める。
(5) 勤労の尊さや意義を理解し,奉仕の精神をもって,公共の福祉と社会の発展に努める。
(6) 父母,祖父母に敬愛の念を深め,家族の一員としての自覚をもって充実した家庭生活を築 く。
(7) 学級や学校の一員としての自覚をもち,教師や学校の人々に敬愛の念を深め,協力してよ りよい校風を樹立する。
(8) 地域社会の一員としての自覚をもって郷土を愛し,社会に尽くした先人や高齢者に尊敬と 感謝の念を深め,郷土の発展に努める。
(9) 日本人としての自覚をもって国を愛し,国家の発展に努めるとともに,優れた伝統の継承 と新しい文化の創造に貢献する。
(10)世界の中の日本人としての自覚をもち,国際的視野に立って,世界の平和と人類の幸福に 貢献する。
6)「心のノート」の倫理学的な問題点としては,特に,この点と「私」と「我々」の関係の不分明 さが重要であるが,本稿では取り上げることはしない。別の機会に論じたい。
7)以下は,注5)に示した文部科学省のWEBサイトからの引用である。
8)先ほどの学生のレポートはこの点に反応しているということも出来よう。
9)実は,道徳に限らず,児童・生徒からみれば,学校での「学習」とはすべてこういう「心の力」
の発揮と発展ということなのではなかったか。
10)「倫理学的思考」については,前稿で以下のように述べた。「倫理学(広く言えば哲学)の場合,「学」
は単純に知識の体系のことを意味するとは言えない。それは,同時に学のあり方のそのものに関する 反省的思考を含む。倫理学(広く言えば哲学)とは,日常的思考および学問的思考に対して,それら の思考の前提となっていることがら(知識内容および思考方法)をあらためて問い直すこと,そして,
それらとは「別なように」思考する可能性と手がかりを探ること,この二つの思考を含む。このよう な思考,とりわけ人間の行為・活動に関するこのような思考を「倫理学的思考」と呼ぶことにする。
倫理学的思考は,規範と社会的適用についての知識の体系をふまえつつ,それに対する問い直しと組
み直しをも行おうとする思考である。
11)本稿の内容は、日本倫理学会第 57 回大会・ワークショップ「道徳教育と倫理学研究(3) 道徳教育の内 容の批判的検討」(2006 年 10 月 13 日、東京大学)での報告「道徳教育への倫理学の寄与-学校生活 と道徳-」をもとにしている。参加された学会員他の方に感謝したい。