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「新論」における国家観

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「新論」における国家観

社会科研究室 前 田 光夫 安 田 耳火雄

べくもなかった戦時下において提起された主張が,今度 序      は立場を替えて,王政復古史観などは論議の対象にさえ 従来,後期水戸学は明治維新史に於ける政治過程,尊  もならないような戦後の学界の風潮の中で,無条件的な 王撰夷運動から倒幕,維新政府成立へと至る展開で果し  支持を得たという事態の推移は」(注7),単に対立的思 た役割から評価されるのが常であった。即ち「水戸学的  想の性急な断罪にとどまらず,伝統的思考様式をも否定 意味での尊皇論乃至撰夷論が尊撰論一般を代表し得たの  する傾向を齎した事は否めない。敗戦によって急激に開 は精々安政・万延までであって,初期の『打払』的撰夷  放された知的状況のもとでは対立的思想に対する充分な 論が列国との条約締結後はもはや現実から浮き上がって  検討なしの批判が可能であり実践的課題を短絡的に担う し熱」(注1)その後は「水戸学的段階からは決定的 学問鰍が轍される一方で酒欧近代と対比する近代 に鯉しっつあった」(注2)吉田松陰梅田雲潰等の 躰の特殊性否定と近代原理そのものの否定とを重層化 激派尊撰論に主導的地位が取って替わられた,と歴史的  した思想課題を担う事を強いられた天皇制ファシズムへ 意義が確定され,政治イデオロギーの系譜上で否定的に  の反省が近代国家の病理に対する過敏症を生む事となっ 媒介される契機が論じられてきた。戦後水戸学の尊王論  た。しかし今,敗戦前の専制国家と戦後の民主主義国家 的側面を顕彰する皇国史観を否定して主流を占めた「社  との間のく切れ目=転換〉感覚の曖昧化によって没理念 会科学的方法による歴史学の成果が高まれば高まるほど, 的な連続観が日常生活意識に醸成されている現状(注8)

幕末維新期の水戸藩の動向は『新論』的大義名分論とと  では権力の側からする専制国家復活の動きに対する国民 もに維新史の本流からはずれるものとして評価され」   の側の民主主義擁護という単純明解な闘争図式さえも最

(注3)て,下士層とそれに追随する半鍵的村轍配 早その儘の形では成立しなくなってきている。秩序に対 者層との同盟を階級的性格とする尊撰運動の,内圧に加  する内面的自覚と国家の存在理由の合理的認識が定着し えた圧倒的外圧に直面した際生じた貴族反乱の日本的イ  ていない所では生活意識に於ける脱国民化が容易に起こ デオ・ギー形態であったとその本質が搬られる.(注4)るし沁情の船体としての国家の共同態的側面は伝統 従って水戸学の体制弥縫的な非合理的狂信性の限界とそ  的意識に立脚して自覚的に選び取られた諸理想さえ不断 の限りでの意義が指摘されることになった。だが近年, に侵触し形骸化する作用を及ぼす事となるのは必至であ 近代的思准の発展過程に於ける水戸学の近代性を高く評  ろう。この意味で時局的な趨勢による製肘から解き放れ

価する立場(注5)や徳川藩㈱を搬武士層の利益にた伝細想の再検討,即ち伝総想を伝縄想の儘で考

反するものと把握する武士階級の自己回復の思想とする  察する視点が要請されてくる。水戸学の新たな評価も,

評価(注6)等醗表されて籾政治號成形態たる明治 或いは賊思想.土龍想の研究(注9)や躰近代国民 国家との距離で思想の位置を計測し政治機能上の生命を  国家のイデオロギーに関する歴史的研究(注10)の課題も 持ったもののみを取り出し結果論的に裁断しがちな従来  此の近代日本史の通奏低音をなす伝統的思考様式の再検 の研究態度に比し新しい方向を示唆するものと言えよう。 討を担うものであった筈である。本論は会沢正志斎の

確かに「尊三巳思想などに関しては自由な論議が許さる  「新論」を中心に当時の思潮の内から自覚的に国家観念

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を結晶させ得た過程を検討する事で,近代日本の社会意  ける問題状況の内でも特に時勢の変と邪説の害を注視す 識の基底に流入していった日本的な国家意識の原型をみ  る。中篇で筒武の伝統が衰退し国力の弱体化する過程が る事を目的とする。12〜13世紀に迄も遡及する起源を 跡づけられ,下篇では天下の富の動向を記し社会に支配 有すると推定される西欧型近代国家原理は,(注11)世界  的である商品経済を批判する。国内現実の批判的検討も 資本主義の成立と共に圧倒的にアジアに,そして日本に 形勢論及び虜情論中に表現される帝国主義的世界の現状 影響を及ぼしてきた。当然,搏鐘撰奪の原理の支配する  認識に衝迫されたものであり,権力政治観に立った実質 国際的角逐場裡で「延期された近㈹(注12)を完成させ  的国力比較の意図が明瞭である。世界は「古者,一区の ざるを得なかった幕末維新期の日本では,急速に国家意  中に就きて分れて戦国となりしが,今はすなわち各区に 識を自覚し伝統的思陶内部から自生的醗展する独自並立し℃こもごも戦国となれり」(注19)と各地騨割 の近代性を西欧型近代に接続させる事で,相乗的に或い  拠して周辺諸国に勢威を振い覇を競う国際情勢をほぼ正 は対抗的に近代化過程に作用し対応を遂げていったので 確に把握,日本を清国,ムガール,ペルシャ,トルコ,

ある。従ってその解明には「複眼」をもった研究(注13) 神聖。_マ帝国及びロシアの諸国と併列して,而もトル が要請されようし階級国家一元論への過度の傾斜は伝統  コとロシャの相対的国力の優位を意識した上で「雄を争 の規範.力を過少評価する事になろう。特に「新論」は,  うに足る」実質的国力を有す国の一つに自己の位置規定 藩政上比較的重要でない役職にあった正志学建設時代の  を行う。 「宇内を挙げて列して七雄iとなす」国と,他の

(注14)成果であり,最初の体系的思想表明(注15)そあ  帝国を称する国とを世界制覇の可能性から区別する正志 る点を考慮すると,その固有化された儒学が東洋に澄け の思考では,根底的に華夷観念は稀薄と化さざるを得ま る普遍的思准の一様式である儒教の文化圏の内で異質の い。(注20)寧ろ西洋諸国は文化開けるに従い「漸く条教 思想原理に遭遇した際に取り得た可能性の一つの原初的  を設け規則を立つるを知」(注21)り築:城術に造船術に長 な型を提示するものと思われる。      足の進歩を遂げ,同時にその教法も威力で脅かし利益で

誘導する集合離散が常態の宗教から脱皮し,一方に雄拠

(一)      し同一宗団が合従連衝して世界を一教に統一しようとす 新論は文政8年の季春に成稿をみた。序文に「今西荒  る志向を持つに至ったとして宗教分布と強国の世界制覇 の蛮夷,脛足の賎を以て西海に奔走し,諸国を躁蹴レ砂  を目指す威権伸長とが相即的である事実を指摘する時・

撒履激へて上国を凌駕せんと欲し(注16着迫り来る 世界制覇の手段化した思想の有効性から優劣が判断され に旧聞に溺れ故見に馴れる天下の人は現実を理解してい  る可能性が生み出されていたろう。儒教も又,同一次元の ない。「ここを以て慷慨悲憤し,自ら己む能はず,敢へ  認識対象として意識されざるを得なくなる。

て国家のよろしく侍むべきところのものを陳ぶ」(注17)  キリスト教国の内でも神聖ローマ帝国は,その名望格式 と1国刎の問題として現実に対処する執筆動機を宣明する  によって諸国の尊奉する国ではあるが実勢はフランス,

が正にこの危機意識が「新論」全体を貫く根本動機であ  イスパニヤ,イギリス等と相伯仲するにすぎないと中国 り思想展開の出発点である。「天地の気は盛衰なき能は  戦国史を類推して理解,ロシヤを頂とするキリスト教圏 ずして,入衆ければすなはち天に勝つは,またその勢の 諸国の世界征圧意図に現状の世界動乱が起因していると

己むを得ざるところ」(注18)である以上,天意を理解し 把握する。西欧列国「皆すでに南海の諸島を併せ海東の 天功即ち天帝の事業を積極的に実現する事が実践的課題  地を呑みて大地の勢,日に侵削に就けば,すなわち神州 となり,〈天人の大道=理想社会の観念的投影〉を自覚  のみ,間に介居するはたとへば独り孤城を保ち隣敵,境 的に主体的に推進する途を拓いていった。       を築き日にまさに偏らんとするの勢のごとき」(注22)状 従って天下の為に大計を立てる論述の形式は,先ず先  況で,ロシヤは「既に西荒を平げて,即ち東して止百里 天的実在として追認された国体論を首章にこの原理規定  を収め,潜かに黒竜江に入れども,満清なほ強くして,

の下で四海万国の形勢とその虜情の叙述,及びそれに対  未だ得る能はず,転じて蝦夷の地を略し,まつその取り する守禦の策と長計の五論七篇で構成されるものであっ 易きものを取り,然る後にその難きものを争はんと欲」

た.国体上篇では天祖の建国原理が醐され,現下に於 (注23)し日本を窺伺する.此の・シヤの世界礪構想,

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前田・安田:「新論」における国家観       19

即ち日本を征服しその民を駆って満清を襲い,モンゴル  書としての執筆動機を示して澄り,学問的出発点での決 を覆しペルシャを従がえてトルコを倒す方針,或いはぺ  意の延長上に展開された箸述と言える。総説では「聖子 ルシャと同盟してトルコを征服し逆方向に征覇を推進す  神孫政を修明しよもに不庭を征し給ひしかハ皇大神の神 る方針の二策の難易を検討するため日本に接近している 詞にも狭き国ハ広く瞼しき国は平らけて遠き国ハ八十綱 意図を,正志斎は「その勢,宇内を席巻してことごとく 打かけて引寄する事の如くといへるが如く四方風靡し」

これを臣とするにあらざれば,すなはち止まらざる」   (注30)三韓攻略,奥羽越征伐,蝦夷平定と拡大し,更

(注24)ものと断定する。嘗ては天険であった四面の海  には粛慎国を討ち従えた結果,粛慎・渤海からの朝貢に も巨艦大舶に駕し電奔する西洋諸国にとっては単なる担  まで及んだ事実を理想化し,北条時宗,豊臣秀吉等の例 路にすぎず,数万里の外も直ちに隣境と化したとする危  外はあるが,その後公卿紳宴安に溺れ総体に雄略進取の 認識が,英人等12名の常陸多賀大津村登陸事件に直面  気風衰退の過程として歴史を把握する。後一条天皇治下 した時,警世の書としての「新論」執筆の直接的契機と の女真の対馬侵入事件に際しては・「賊ハ何れの国より なった事は当然と言える。       襲来れると云ふ事を知りたるものなく高麗の牒状により

新論執筆に至る迄の正志の主要著作には享和元年,19 て始て女真也と云ふ事を知(る状態であり……)眼前に 歳当時の千島異聞以来,居喪大意,心喪略説(共に文化  辺境を侵掠せられながら其冠の主名もしらざるほとなれ 13年,34歳)の礼式に関する著述,儒学研究の責難i解  ば王化の四表に被る事なと思ひもよら」(注31)ないと指

(文化10年,31歳),西行雑録(文政2年,37歳)  摘,思想と国勢とは相即的に衰弱するものと認識する。

と西遊詩稿(文政5年)の紀行詩文,それに暗夷問答   権力政治の状況を適確に把握する正志にとっては,興隆

(文政7年)等が挙げられるが,45部65巻と言われる するロシアは敵国として検討されるべき対象であると同 全著作に比べれば思想的に全面的展開を遂けているとは  時に,その興隆の故に相応の仁政の実現が考えられる国 言い得ず「蒲生君平にも晩成を勧められ,幽谷の教育も 家であった。「新論」中では「西夷の海上に破雇するこ 亦晩成を期する事に在った為であろうか」(注26)永い学  と,幾んど三百年にして,土彊日に広ぐ,意欲日に満つ 問的研究鎭の時期を過ごしていた。この時期,具体的現  るものは,これその智勇の大いに人に過絶するものある 実的問題に対処するに忠実な幽谷の祖述者の立場を離れ  か,仁恩の甚だ民に治きか,礼楽刑政の修備せざるなき ず,文化元年には「公卿表」を,文化3年には幽谷の意  か,そもそも神造鬼設,人力のよくなすところにあらざ

を受け史稿問題に関して「与校正局諸学士書」「与小林  るものあるか,而して皆然るにあらざるなり。彼その待 子敬岡崎子轄」「義公名綿」を残している.(濫7)みて以て伎楠を逞しくするところのものは,独り一聴 注目すべきは正志の処女作「千島異聞」であり,自己の 教あるのみ」(注32)と人心を収撹するキリスト教のみに 文化的・軍事的優位を絶対的には信じられない意識にと  西洋国家興隆の原因を帰納させているが「千島異聞」で っては,敵国蔑視と同時に強大国に対する敬意の念が生  は寧ろ智勇や仁恩にロシア進出の遠因を求めるかのよう ずる可能性があり「新論」に確定される以前の思想を知  である。現下の隆盛の直接的原因をペテル,エリザベト,

る手懸りを提供している。「蝦夷の千嶋は陸奥の東地に  カタリナと継承される軍備増強政策に見い出していた正 当り神州の鬼門の方位にして海を隔てては西方より東地 志は,特にペテルに関する記事を数回に旦って採録して まで皆旧の 胆の地なり」(注28)しが,「近き頃あやし  「此ペテル智謀深く大略有る専ら民を安んし国を富ます き夷人等多く彼の島々に渡り来て島夷を証し訟のれが国 大功を起して利を広め葡萄なとを植て民食を足し学校を に属従せしめ次第次第に松前の北方に近よりぬと聞ゆ其  立て治教を弘め兵を練て敵国を威す又古ハロシヤを赤白 夷人の本国をヲロシヤと云て西北極遠の地に在其国古, 黒の三部に分ちしに今併して単にロシヤと称し航海の法 小国なりしが漸々に強大になりて皇国を蚕食し 鞄の地  を調練し多く戦艦を作って水軍を備ふ図考に元隷十年和 を併せ得たるに及てハ其地勢既に蝦夷の千島に隣りて千  蘭に行て大船を作り習ふ事を載す軍人の甲冑を得む大に 島をも大半併呑せりされハ其消息もいかて中土に聞へさ  諸藩を切従へ近隣畏服せざるものなし」(注31)と進取雄 らむや是によりて其見分する所を繁を去り其簡なるハ挙  略の理想に近いものを実現する政治家ペテル像を構成す て大略を記す」(注29)とロシアの強大化に対する警世の  る。(注34)「従来絶へず識姦詐偽をなす悪風俗」であっ

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たのも「慶長の頃彼の国革命せし其以前の事にして(中 無く,正志も又この特質を有する。アレクセイの事かと 略)革命後次第に更張してペテル等の時に至りて国民を 思われるが「延宝3年王死す此王稀世の才徳あり常に三 化導してより其悪風も少しく改りし」(注35)と評価し, 愛言を以て国人に示す」の記事で,三愛言の内容を註し

「其国中の人恭敬にして勇状果敢事に臨みて動せず君に て「博く士民を愛し法令に従ふ者を愛し親子兄弟夫婦朋 忠有り闘を好み事に死するの風あり」(注36)と夷狭観か 友相和するものを愛す」(注42)事と説明するが,この徳 らは対極にある理解を示し,その善政を肯定する。勿論  目内容は完全に儒者の要求する為政者像の反映がある。

現実的には「其併得たる所の地南ハ大 胆トルコ等を侵 キリスト教に対してさえ「法主王に説いて元国君は博愛 し北ハシペリを併せ東北大洲西藩是を号して北アメリカ の心を以て自ら持すべし凶策を以て威を示すハ仁徳を以 と云の地二及び暇夷の諸島を蚕食し無入の地には人を植 て徳を施すにしかすと王是に依て専ら和平を事とす」と て年々繁息せしめて益蟷厚をなし強大の国とな」(注37)(注4鴨定的記事を採録している。

る事実があり,それが西方経略の挫析の代償としてなさ   「千島異聞」全体を通して「新論」程の夷秋,戒秋,

れるもので漂民をさへ速やかに領官に取り立て日本事情 驚慮といった蔑称は殆んど用いられて吾らず,寧ろ現実 の詳細な検討をなしているのも間近の東洋征覇の兆であ 的に強大なロシヤの実勢を承認した上で儒学の普遍性に るという情報の真実を確信していた。大津浜に上陸した 媒介された倫理の同質性を読み込み,自己の観念体系の 異人に対しても「余初ナ夷人ノ実ハ魯西亜人ナランカト 内に包摂しようとするのである。こうして正志の思考の 疑ヒシコモアリシカバ諸ト魯トノ実ヲ索メン」(注38)  根底には,諸外国を先ず権力として捉える政治的リアリ とロシア語で書かれた国名を抄録し取調に携行している ズムと同時に,文化的異質性にもかかわらず価値の普遍 程で,「暗虚の如きも本より魯西亜の輿国にして亜弗利 妥当性への信念があると言える。この信念は権力政治観 加洲の両端を併せ印度の地をも領し南蛮諸島をも数多有  を強く前面に押し出す「新論」中に於いても「仁を四表

ち亜墨利加に新地を開」(注39)く侵略の意図を有すキリ に被らせ荒要を児視するは,荒要をして天朝を父酸せし スト教国ではあるが,飽く迄もロシヤの亜類であり「譜 むる所以なり」(注44)と全世界を家族に擬制し統一共同

      (注40)厄利亜其実ハロシヤノ属国ナルヘシ」      との錯誤さえ生 体化しようとする世界構想に承継される。「道なる者は

み,相対的弱小国であると理解することになった。   人の共に由る所,海の内外を論ずることなく固より人に 正志にとっては,人的資源の全国的動員配置を軸とし 存す。故に地相去ること千万里なるも而も其大同する所 て近代国家へ変動を遂げるロシヤ史は,社会の有機的・ 以は符節を合するが如し。是を大道となすなり」(注45)

内面的連関を無視した物理的・外面的強制による支配機  と人間の同質性を自明の前提とした人間に固有な普遍的 構の営為であり国家を外在化していく過程であるとは認 倫理の実在性の主張がある。然がって「人倫ある事は自 識されなかった。寧ろ正反対に国王の仁政によって国民  然の大道なれば四海万国に人倫なき国ある事な](注垂6)

の自覚が向上し有機的結合を増す歴史であったと自己の  と,一定の国家としての同質性を認める。しかし権力政 儒教的理想が投影されている。翻訳家がロシヤ語のケイ 治の状況で自己の軍事的劣位を自覚している正志は,思 ゼルを帝と訳出することに対し,是は「王より一等上な  想的には普遍的な思惟基盤から自己の倫理的優位を主張 るを以て仮称する」(注41)もので,帝の本質的字義とは する特殊性,即ち国体を提出しなければならなかった。

異なると儒教用語の概念規定を厳密適用し自己の観念的

優位性を保持しようとするし,上代の日本の進取雄略は       (二)

王化の実現であると意義づける事で彼我の優劣を導入す  本来水戸学派は朱子学的色彩の濃いものではあるが,

るが・ロシヤの勢力伸長が国内徳治の反映とする可能性  朱子学の主張はその主眼ではなく寧ろ「大日本史編饗の は揺曳され,仁政実現ゆえの国勢伸張という類推を可逆  大事業を中心に皇統を是非し人民を勲するを以て其共 的に理解して現実的繁栄が仁政を推定させる以上,単純  同的企図とするが故に哲学若くは倫理学等に関する普遍 な優劣観鳳立しにくかろう。特嬬学思想を勘主体 なる理論は殆んど」(注47)持たない学派であり,史的事 が武士である日本では,武士階級の存在意義から,実用  実の活用的方面に着眼する後期水戸学では特に「経世実 主義的観点を思想原理内に組み込む傾向が強い事は否め  用」重視の精神態度を示す傾向が強い。正志もその学派

(5)

前田・安田:「新論」に澄ける国家観       21

に流れる対露認識を背景に頻発する露人接近の報で危機  有之事に候・老先生(注・長久保赤水の事)之思召には 意識を先鋭化し,実情に対応し得る現実的能力を有する  百姓の破産致候は飲酒博葉放蕩無頼の者にて無是非候事・

国家体制の検討の努力を続けてきたが,その理論  戸口の減候は不挙生子候故と被仰候へ共是其一端にて通 展開は幽谷一正志の学統が研鐙してきた現状認識の  論に非ず候,たとへ左様に候とも其儘にて致方無之と申 当時に於ける集大成であり(注48)危機認識と政治的実践  候は冥民の父母たる甲斐は無之候,況や田野荒蕪農民離

とを結節する先学の成果を継承するものであった。(注49)齢たし候には甚だ次鮪之側(注59)と邦の本たる民 義公も大船快風丸を建造,蝦夷地樺太探検を意図した  の困窮が一時的特殊的なものではなく普遍的事態である 事実(注50)はあるが,水戸藩で現実的なロシヤ船接近に  との認識に基づいて,為政者の無策を追求する幽谷にと 対し最も早く対露危機を指摘したのは立原翠軒であり, って,民生の現状に現実的に対応しようとする限り,藩 当時の老中首座松平定信の儒官大塚孝緯の求めに応じ, 共同体内において親の役割を果たすべき主君の非を格す 北夷の事を内容に含む「天下の三大患」を提出している。 事にならざるを得なかった。「たとへその身を不測の地

(注51)寛政十年には翠軒門下の木村謙,武石温を近藤守  に陥候とも御厚恩万分の一を奉酬度候(中略)無知無才 重の蝦夷地探検に随行させており,(注52)北辺に対する  何の御用にも相立申間敷候へども丹心憂国候事無所敢譲 知識は現実的見聞を伴なって蓄積されていった。     候」(注60)との決意でく忠敬の臣道実践=現状批判〉の 幽谷になると「北漠の聾虜は神州を窺宗し常に図南の志  封事を上書していったのであり,好貨の疾・借金の弊を あり。奈何せん,今人,小智にして大智に及ばず,妄り  現下の大弊とする丁己封事,日帳方の糺問と有効適切な に斥鵠の見を以て大鵬の所為を鴫ふと。所謂大を積薪の  政令の制定,大吟味方出納の明瞭化と合理化及び農政改 下に屠きてその上に寝ね,火未だ燃るに及ばざれば因り 革の三項目を藩政刷新の急務とする丁卯封事・或いは三 てこれを安しと謂ふ。当今の勢これなり」(注53)と外圧 郡制への復帰,郡奉行権限の拡大,事務の簡素化を改革 を槙桿とする天下人民の覚醒を主目的とするに至る。而  内容とする郡中利害封事の提出等,諸封事を通じて仁政 も侵略の危機の前では単なる警告に止まり得ず,「師を 実現=藩内領民の具体的生活安定の理想実現が目差され 興すこと+万なれば昧千金を費す.石購池効といた.「済世之術.学者之先務.難翻(注61)と自覚す へども粟なければ得て守るべからざるなり。故に古の兵  る幽谷にとって,大学八条目中の治国以下を軽視する傾 を強くせんと欲する者は必ずまずその国を富ましむ。今  向があると解された朱子学は,学問と政治を一致させた の人誰か国を富ましむるを欲せざらん」(注54)と現実的 実学たり得ず現実的危機に有効に対処し得ないと批判さ 危機への対応能力を実用主義的観点から積極的に検討す  れる。 「上古聖人の道を立て教を設くるや利用,厚生は る結果,抜本的内政改革を含む富国強兵策主張へと連な 生徳の先に在りて(中略)孔子の政を論ずるも・また兵

宴癩鞘饗禦㌘倉:黛暫禦£量費讐諜鴬匙鷺踊二欝芸1窪寛禁詐議)

て祖父の代に荒廃下の農村飯田村中島から水戸城下に移  と完成された教説である朱子学を放棄して寧ろより原初 住,廃着屋「藤田屋」を独立開業するに至った家歴は, 的な古代儒教に範を求めるようになる。この先人の原典 父言徳が経世済民の志を持ち,それを子孫に伝えんとし  を挙げてその旧に倣うという形式は現状批判の方法とし ていた事実(注55)等を勘案すると早くから民生対策の視  て充分に有効な射程を以て確立し正志斎に継承される。

点を育てていた事が推測される。「志学論」「私擬対策」 (注63褄本商末思想,貴穀賎金思想を基盤とする「勧農 等の学問的出発点で表明された孔子志向即ち「臣所学者。 或問」では藩財政逼迫原因を農村疲弊に求め,商品経済 仲尼之教.而古先聖王治天下之道也」(注56)の意図は,の農村侵透による修情之弊濠農の土地兼併之弊藩政

「縢且富鰍可以馳庶離之畝子之至訓」(注57)当局の撒強化による力役之弊,簾之弊法徹び事      /とする孔子理解に立脚しで現実的課題に対応しようとす  務の煩憂之弊が原弊五条と批判されるが,そこで提唱さ

るものであったろう。「風俗愈頽,紀綱愈弛,国用愈窮,れる諸改革案の一つ,租税の適正規模は「一切経界を正 民力愈困,講鮭,ん喩失」(注58)の現状では「治 しくして髄宣随する取方は燗法三分が一今里俗の 世軍国共に不宣候事勿諏候,是鮒候ては種々の物語所謂三折返しを定規とすべし」(注64)と太r雛制を採用

(6)

する。幕藩制下の正祖の四公六民に延米・口米を合等す 的に超えて国家的視点で思考し,その帰属対象を天照大 れば五ッ取を越え,肥沃田を持つ豪農に軽い名実不相応  神宮に採る藩兵指揮官に注目を払って澄り,幕府の弱体 の現行賦税に比較すれば,「一石の地はいつも一石と定  外交批判の後文だけに一一層鮮明に幕府と国家の位相のズ て取付する時は,公私ともに損得のかた澄ちなる事なし  レを明示して,幽谷一正志の思想を際立たせる。

さすが太圏の英雄石田治部が才幹にて定めたる法なれば  会沢正志斎は,この幽谷が思想的躍進を遂げ実践的意 中々今の俗史の及ぶべき所にあらざる也」(注65)と関ケ欲鰭する寛政3年正月功の6年間,直接師事してそ 原戦の敵方の定法を可とするのである。孔子の理想たる の思想的影響下に学問的成熟を遂げてきた。正志自身,

夏・股・周三代の法十が一貢法は兵農分離した現在,適  ラックスマン根室来航の報に接した際の事情を「(幽谷 用不可能であると追認する幽谷は均田・限田の法完全実  が)謂。脱使西夷得志。宇内晦暗。天地促長夜知安聞 施を前提条件として現状の着実な改善を要求し,自己の 之。荘然自失。如無所措身焉」(注69)と述腹して,「安 主体的価値基準に立脚して租法を選択したのである。更  時年甫十一待座於藤先生聞夷慮象繁之状憤然駆除之志至 に「国用を制するは家宰の職にして量入以為出は古今の  作土隅人以象夷筈之以為喜於始知自勉」と現実的外圧の 通誼也」(注66)と,自然繍の論理を越えな噛谷では 自覚が学問甑の飛蹴促し危機舗縮己の思想の重 士農工商の次序に関してもその適正規模が提示され,管  要な契機として繰り込まれた出発点をこの時期に求めて 仲の立てた参国五鄙の制を標準として絶対入数比を5; いる。師幽谷はラックスマン来航の年,寛政十年19歳,

75:1:1とする。こうした充分な歴史認識に基づく  11月異国船防禦のため筆談役拝命,翌5年には木村謙 自由な自主的な理想の選択は,藩主批判をさへ可能にし 次等の千島探検,高山彦九郎自刃の報等があり,こうし た「学ブ者」の義の確立に底礎されて徳川政権の諸制度  た一連の周囲の動勢が藩当局及び一般世人に対する焦慮

をも相対化することを可能にし島      感を募らせ同5年12月の幽谷初度封事に結実していっ 確かに幽谷の民生第一の実践的性格が徹底して水戸藩  たといえようが,,正志斎はこの時期を詳に視た事で生涯 改革に拘泥し若年時代の天下国家を論じる視点を十分に の基底通音としての国防意識を定礎し,学者の精神態度 発展させ得なかった理由であろうが,その視野を藩枠組 を確立したのである。

から天下国家へと拡大させる可能性が常に包含されてい

たのは当然である。僅か二度の選迄であったが,幽谷に      (三)

多大な影響を残したと思われる高山彦九郎の祭文中に   正志の国内現実の認識は基本的には幽谷の視点の延長

「身非有爵位於国不仕而乃心,朝延聞赤挟之融北睡而 線上に展開されるものであり,何よりも名分秩序の弛緩 窮寄神州令恐其後也為害天下蒼生上下宴安方耽鳩毒有子  ・動揺と捉えられている。ただ正志に澄いてはまず第一 独慷慨不受命以私行陽浪客而漂遊山水全陰欲為国家偵探  に武士階級の自意識の覚醒が問題であり,幽谷の保持す 虜情……爾行三年果有北使之事叩関疑塞而請互市搾場股  る民生への現実的対応の視点はより稀薄であるように思 己甘言重弊以誘我加之虚声桐喝以誇其富彊」(注67)と記  われる。

した幽谷は,明らかに藩枠組を脱して帰属対象を国家に   幕藩制国家は本来,個別領主を軍事的動員によって編 求めた彦九郎の行動に朝延を奉く日本全体を集合的に把 成する事を基軸に成立した軍事政権であるが,その基本 握する視点を看取していたのであり,その行動の必然性  的特質は,領主間矛盾の消滅=国内戦争の終結,及び対 を「果して北使の事有り」の表現に結晶させている。更 外軍事発動についての主観的・客観的契機の消滅によっ に文化十年の対魯和議成立後に「北虜講和の一件可悪事  て平時の国家行政機関へと変容を遂げた後でも根底では 無此上御同意不堪長大息奉存候」と書き出す正志斎宛の 変化していない。 「公儀の確立,対外的国家主権の確定,

手紙には「南部家発兵之日士卒へ被申渡候は此度の御用  幕府行政機構の確定,階級的暴力装置としての軍事体制 は日本と異国との事に候間公儀御役人衆御取扱え善悪杵 の確立・自立小農を基礎とする農民支配の方向の確定,

隣領等出入彼是には一同頓着無之天照大神宮へ国恩の為  大名領支配展開の基礎の確定,これらの事を達成して慶 め御奉公と存候而一同可致出精旨被申渡由承人心の霊殊  安年間,幕藩制国家」(注71)の確定が刻印されるのであ

勝尊燗座側(注68)と,外圧の蘭で藩謙を即自るが,その時点で武士層の掌握する鞍勧も,反舗

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前田・安田:「新論」における国家観       23

の大名反乱に対する軍事行動から徒党の叛乱鎮圧目的の  求める結果,義を失れ廉恥心を喪失した武士を創出する 警察的機能へと変質している。公儀を中枢とする秩序体  事になったとその必然性を論難し,幽谷に於いて既に成 系の確立が,徳川氏の圧倒的な軍事的優位を背景にして  立根拠を覇者の業と規定された(注81)徳川政権は,兵農 支酉己の貫徽の高い鍵的集中(注72)を完成させたので 分蘇の故腿重頓租を農民に課し生活を逼迫させ,

あり,大平の基を開いたと評価される。しかし幕末の危  軽薄華美な風習を生み軍事的編成の全般的な弱体化をも 機の時期,即ち「幕藩制の基礎をなす封建的小農経営の  たらして了ったと,現実機1巳上も正当性根拠を相対化される。

小ブルジ・ワ的発展やそれと絡みあう地主・小作関係の  「天下に令して私地私儲を廃し,天下とその富を同じく 拡大が藩専売制や幕府の流通統制,問屋商人,村役人,した」(注82)律令の制度は,まず灘氏が「権を専らに 高利貸的地主などに対する国訴や一揆,打ちこわしを激  し」「土地人民を私」して破られ,次いで地を守るべき 発させ,それ等が相互に影響しあい,個別の支配領域を  守護・地頭が私に財穀を蓄積し国郡を占有するに至って,

こえて連鎖反応をひきおこしてゆく事態」(注73)が進行  武入の手に天下の富を帰趨させる事になった。この歴史 する段階では「藩」枠組を前提とした農民支配が困難に  的経緯に立てば,兵の存在そのものは天下の人民・社会

なってくる。特に「封建制解体期における『後進』地型  を鎮武するためのものであり,未だ冗食とは言えないが,

の様相を示し,土地生産性の低さ,農業生産の停滞,農  兵農分離政策採用は商品経済の圧倒的展開を促進する基 村人口の一般的減少を第一の特色と」(注74)する水戸藩  盤と化して了った。「天下有土の君は,生れてはすなわ では,天保期に至る迄定免制さえ採用しなかった「領主  ち逸して,凶荒には備なきも,これを憧ふるなく,姦民 的収奪の苛酷さに規定された農業生産と農民層の停滞・ 横行するも,これを禁ずるなく,戎秋辺を伺ふも,これ 零落を基礎にし,その上に吸着した一部の高利貸的地主  虜るるなきは,土地人民を棄つるなり。天下の士民は,

商業資本が藩権力に徐々にくいこんで封建的特権を獲得  ただ利のみこれ計り,忠を尽し慮を喝して以て国家を謀 していく」(注75)形で農民層分解がなされていった。こ  るを肯ぜず,怠傲放蝉して,以て乃祖を添しめ,君親を の原因を正志も又,幽谷同様に広範な商品経済の農村侵  遺るる」(注83)状態であり,而も猶生活の困窮を訴え 透による農民困窮化として把握していた。水戸藩領内で  「米穀の賎しくして貨弊の乏しきを患ふ。米穀はすなわ の認識の客観的妥当性は別として(注76)正志の認識は当  賎しきにあらざるなり,貨弊すなわち乏しきにあらざる 時の社会状勢に充分適合的であったろうし,少なくとも なり。而して百物の甚だ貴き」原因は,米穀という「鎖 一定の社会的側面を別快していたろう。而もそれが軍事  すれば限りあるものを以てして,いよいよ出てて窮りな 権力的織の灘,即ち武士鰍一般の存在自体の否定 き物を遂」(注84)う結果であり都市生活者の必然的翻 をもたらすと自覚される限り,正志にとって必然的な考察  であると確定する。商品経済の基礎をなす「軽重を権る 課題であった。 「天朝,武を以て国を建て,詰戎方行せ  所以」の通貨の膨張が慶長以来の金産出量の増大を背景 しこと,由来旧し。弧矢の利,才矛の用は,すでに神代  に「造作・貿易する所のものを貴くして以て衣食の費を に見えたり.宝剣は旅三器の一に居る.故に号して細 償ふ」(注85)過程を媒介し増幅していく結果,米価の低 才千足の国と云ふ」(注77)躰鋲制を変化させ軍団の 落を招き生瀦であ膿民自体の生活困窮を招来した。

制に,そして幕兵の制になるに従い武士の絶対数は減少  西夷に於いてさへ亜墨利加からの金流入量の増大が「後 し,民衆は愚になり「天下の勢」は弱体化してしまった。 来まさに多金の累を受くべし」と指摘され「然れども利

「兵は地着にして・天皇・命を天に受くるは,これ天・ を獲ること既に厚くして,知るといへども絶つ能はず」

地・入,合して一となる」(注78)理獣態であり,天祖 (注86)と舗するのに何如本では鑓醐れ看過する

=天照大神が肇めて鴻基を建てて以来・冠賊を撰除し国  のか。「天下の民命は専ら市入の手に係り,凶荒に備な 土を開拓するのが国家の基本方針であったと確定する正  く,兵行に糧なく,海内空虚にして怪しきとなさず。手 志にとっては汗島異聞繍部同様(注79)搬鵬体と を擬て環視し,徒らに米穀の多きを患ふ,何ぞそれ惑 して衰退の過程と考えられている.武士が生産基盤であ へるや」(注87)と為政者の無策を糾弾する。この現状に る土地を離れ「都会に聚処し,終歳用ふるところは,一  「細民怨杏して騒擾なきにあらざるも,しかも未だ兵を 毫といへども龍資らざるを得」(注8°)な嘆契から利を 用ふる姪らざるは,志気矧去にして首唱者,兵を知ら

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ざればなり。姦民は閥閻に横行し,異化の徒は天下に充 保障することになる。従って自然主義経済の破綻は権力 斥し,禍端萌さざるにあらざるも,しかも天下未だ動揺  の集中化で補填される傾向があると同時に,運命共同体 せざるは,撫御,仁柔を務め,事,姑息多くして,未だ  的一体性が強調される。幕藩体制も本来の軍事政権的性 これを変に激せざればなり」(注88)であって,被治者の 格が強調され,土着化した兵力の全国配置と辺境守備,

無知に依存する相対的勢力均衡にすぎないと断定する。  民間防衛組織の拡充,藩枠組を超えた相互救援体制,斥 天下に於ける個の位置を自覚しない庶民社会では我執の  候網の整備等の例には,国家的規模で臨戦体制にある日 貫徹する無責任社会と化さざるを得ず,個のエゴイズム 常生活が期待されている。国内戦に対処する限りでの強 の外延に社会意識を結集できる市民社会とは異なり社会  本弱末政策は「一時の権宣にしてかならずしも永世とな 的責任は上下の分の形で外在的に保持しなくてはならな さ」(注92)ざるものとの留保付ではあるが,国家的強化 い。従って正志にとって現状の危機批判は,全面的に  の要請から強本末政策へと転換を余儀なくされる。相即 治国平天下の事業を忘れ,民命の帰趨を私利を営む市入  的に,家政執行組識を原型とする従来の幕府支配機構も に預けて平然と国家的危機をまつ為政者に向けら減るの  否定され,「天下の知勇を廟堂に葦め廟堂一揮せば,令 は当然であった。       の行はること響のごとく,義気天下に湧る。然る後に以 正志は改革すべき点として,士風の作興・奢修の禁止  て大いに振起作興するところあるべきなり」(注93)と言

・民生の保障・人材登用を細目とする国内政治の整備・ 路洞開を求める。将軍の信頼を背景に権力を分掌し政局 驕兵整理・兵員増大・精兵訓練をめざす軍令改革・それ  に当る家宰的吏僚組織では・内外の幕政動揺の時期に有

に藩の富強化と兵力の分散の四項目を指摘,更にその実  効に対処し得ず,既に松平定信は将軍補佐・老中首座と 現に応じた新たな課題として屯田の制設置,斥候組織整  して権力の集中強化と,批判思想の封殺によるイデオロ 備,海軍建設,火器技術の再検討,食糧・軍需資材の備  ギー統制を図っていたが,正志に於いては認識可能な天 蓄の五項目を提言する。国力充実と軍備強化の急務に向  意の観念を前提に「公儀興論」的傾向を示し「天下の士,

けた現実制度の改編は,日本の存亡をかけた闘争に対処 皆敷納するところありて,以てその所纏を尽すを得ば,

し得る軍事国家的編成を構想するものである以上,商品 平生の彰勃の気を泄し,誰か敢へて感激して争うてその 経済の弊害に対する抜本的対策を含むものでなければな  言を陳べざらんや,庶を明らかにするに功を以てせぱ,

らない筈であるが,そこに展開される論理は,幽谷的視 すなはち言は功に到るべくして(中略)実才の者は実功 点を踏襲するもので,基本的には自然主義経済への復帰 を立てて,その栄を受く。天下誰か敬してその大有為の を目差す武士の土着化と,奢修の禁止,米穀の統制,貯 志に応ぜざらん。かくのごとくんば,すなわち天下の賢 蓄等「財を理め辞を正し,入るを量りて出すをなし,邦 才,ことごとく廟堂に集り,天下の善を兼ねて,以て天 用常あり,尊卑分あり.身自ら群下に卒先して宮壺を治  下に布く。天下誰か敢えて廟堂の重きを知りて,これを め府務を清め,冗官を損じ,煩苛を除き,土木玩好の無  敬載せざんや」(注94)と主張する。ここでは分の観念を 用の費を省く古今の通論」(注89)に従がう商品経済の縮 前提としてではあるが,廟堂に反映される政治意識を承 少化にある。或は,海軍を利用して「天下の米穀及び諸物 認し,その結集が国家的利益であるとされている。勿論,

を運び纏耀の権をして上に在らしめ,邦国をして給を商  「夫れ天下の事,この利あればこの害あり・二者相僑ら 買に仰がざらしむ」(注90)流通機構の独占を企図する点  ざるはな(く……)荷しくも義を以て利となすにあらざ に,商品経済の必然的潮流への積極的対応があり,幽谷  るよりは,すなわち所謂,利なるものは,未だその利た に比し相対的な特徴と言えよう。しかし結局は,「朝野  るを見ざる」(注95)結果となる。当然「義を以て天下 をして常に虜兵の境に在るが如くならしめぱ,すなわち を率ゐんと欲せば,すなわちよろしく天下の公義に侯り 国家の楡り」(注9・)と既を結集する危機の鼓吹に現 て,以てその好悪を示すべき」(注96)である.現実 状革新の契機を求めざるを得ず,耐乏生活が要求される。 的には武士の弱体化,天下の愚弱化をもたらす事となっ 社会意識が各個人に内在する危機意識を紐帯に結集し得  た徳1陰1蝶の事蹟も,東照宮自身の開基の精神に於いては れば,外的強制よりも一層実効性が保持し得るのは当然  「専ら節義を以て士衆を磨励し,士は進んで死するある であり,恒常的危機龍の再生産が国家意志の統一性を も退いて生くるな」(注97)き気風を養う敦効,「武

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前田・安田:「新論」に澄ける国家観      25

士をしておの澄の都城に聚処せしめ,これをして一日も ある。当然,後年の政治状勢の変化による開国論への転 強をその邑に養ふを得ざらしめ,庶民をして耳に金鼓を 化(注104)も思想的基盤に於いては可能であったと言え 聞かず,目に千才を見ざらしむ」(注98)成果を期待する る。

ものであった。従って個々の義を統轄する基準として

「天下の善」や「公義」が要請されるのも,幽谷同様自      (四)

主的な選択に,その絶対性を委ねようとするからである。  徳川政権を国家的要請に対応する公的機関に定礎しよ

「東照宮の武力を尚びしは,基業を建つる所以,その天  うとする正志の意図は,天皇による政権委任の論理で完 下を愚弱にせしは天下と与に休息する所以にして張りて 結されている。水戸藩に義公光囲以来流れる皇室崇敬の

これを弛むるものなり。今や外夷,日に干才を尋ぎ,呑  感情もその背景にあったろうが,匡尿的規模に拡大された共同 併を事とし,逓に出て並び至りて,以て人の辺境を窺ふ。 体倫理の自然的実在を確信する正志にとって「帝王の時んで以

(中略)すなはち将たいつくんぞ弛めて張らざるを得ん  て四海を保ちて,久しく安く長く治まり,天下動揺せざると や。故にその基業を建てし所以の意は必ず法とすべくし ころのものは,万民を畏服し,一世を把侍するの謂にあ て,これを愚弱にせし跡は,必ずしも泥むべからざるは,らずして,億兆心を一にして,皆その上に親しみて離る 時変の見易きものなり」(注99)と実質的な有雛の観点るに忍びざるの実こそ,誠購むべき」(注・・5)であり,

から徳川祖法自体を論議可能な次元に降格させた正志は,徳川政権では現実的に不可能とする判断があった。

徳川政権が自存し得る軍事的優位の放棄と相俊って統治  ここに国体論が確立されねばならない必然性があり,外 根拠を再構成する必要に迫られる。 即ち大義を担うも 圧を契機とする現状の根本的批判が国際政治の動態に対 のとして東照宮基業の行為に読み込まれたのは,「東照宮踵 応して採り得た後期水戸学の結論であった。即ち外圧を いて興り,専ら忠考を以て基を立て」(注100)た意義で  国家的危機と認識する以」㍉現行制度の改革は国家的_

あった。現実的には敵対勢力の武力鎮圧によって成立し 体性の結集し得る方向へ統合されねばならず,早急の国 た政権基盤を,「天下の国主・城主を師ゐて京師に朝す。 力増強という軍事的要請に伴なって現存秩序上に,理想 天皇褒賞して,官を授け爵を賜ふ。この時に当りてや, 的古代の回復の形式でなしとげられる筈のものであった。

天下の土地人民,その治は一に帰し,海内一塗,皆天朝   国体論の骨格は万世一系の天皇家が継続し事実上 の仁を仰ぎて,幕府の義に服す。天下の勢,治れりと謂  「一君二民」の原理が妥当してきたとする歴史観にある。

うべし」(注101)と,仁義を思想的基盤として天皇の委 儒学的思唯では理念的法則的なものであった天地万物の 任を受けた公的国家機関に自己規定するのである。 「天 理も歴史的具体的天祖の事蹟の内に「事実」的な認識対

下は公器効潜へて以て私有となすを得ざる」(注1°1)象として探究される.即ち,「昔者,天乱肇めて鴻基 ものであり,幕府も亦公義を実現する限り国家秩序内で を建てたまふや,位は即ち天位,徳は即ち天徳にして,

公的性格を付与される。 徳川政権自体が相対化され 以て天業を経編し,細大の事,一も天にあらざるものな 歴史的現在の具体的内容として現行制度を取扱う以上, し。徳を玉に比し,明を鏡に比し,威を剣に比して,天

「公義」の帰趨で変容は当然であり,「新論」の基調をなす の仁を体し,天の明に則り,天の威を奮ひて,以て万邦 とされる懐夷論も「およそ,国家を守り兵備を修むるに に照臨したまへり」(注106)と,天の原理を体現する皇 は、和戦の策まず定めざるべからず」(注102)と現在に 祖神の神話的事実が建国原理の具体的内容であり,普遍 於ける通市の弊害と開国利益との衡量に基づく判断であ 的妥当性の根拠とされる。 「天下を以て皇孫に伝えたま

った。そこには国家権力の意志を体現して流入するキリス ふに造んで,手つから三器を授けて,以て天位の信とな ト教に対抗し得ない文化的に脆弱な思想風土を認識する し,以て天徳に象りて,天工に代り天職を治めしめ,然 正志の政治的リアリズムが働らいて澄り,自己の政治的  る後にこれを千万世に伝え」(注107)たのであり,ここ 優位を自覚し得る仏教に対しては「謹んで律令を守り, に天皇統治の絶対性と永遠性が顕われる。而も「天祖三 仏家の法に従はしむれば,すなはち樹下石上に楽しんで 種の神器を授け給ひ,君臣の分定りてより,忠の道著れ,

以てよわいを没するもまた可なり。ただその邦憲を奉ぜ 是より皇統一一姓にましまして,父子の恩厚く,孝の道著 ず♂こを以てその害ここ姪るのみ」(注1°3)なのでれたり.忠孝の教立ちぬれば,夫婦.長幼棚友の道も

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随って惇き事定れる道理」(注1°8)で,「天地の大義」す鏑品経済に対抗する倫理的再建醐待されている.

である君臣の義と「天下の至馴の父子の親が実践され但し,「由らしむべく矢・らしむべからず」(注114)の統 る時,「天地を経緯し,億兆を綱紀するところの大資」 治観念に従って,外面的制度的変革に伴う伝統意識の再

(注109)となって,億兆一心の帝王統治が実現される。 建を目指すものにとどまる事は言う迄もない。

従って忠孝原理が強調され,為政者に対する自発的服従   「天皇」観念を積極的に導入する事で果された現状に が確保される事が何よ腰請される.「人は天地の間に於ける徳川政権の樹イヒは,統治勧の究極的責任の腹 在り,天地の気,常に全身に潜行して,以て生活するな 昧化をもたらす。実質上は全面的に徳川幕藩制の統治体系に

り。故に人は天地とも,また同一気にして,その元気は 依存し,外交秩序も大君外交を西欧諸国家の進出に対抗 固より天地と通ず。人を以て天地を祭らば,また感応せ させねばならないであろうが,その統治の正統性は委任 ざるなくして,昭昭の多きものも瀬りて著る」(注11°)儲である天皇に求められることになる.勿論天皇は,

のであり,天に事へ先を祀ることが天の大道を知る事に 天祖の遺業を即自的に体現する存在として・存在自体に なる。ここに祭政一致の意義があり,「天祖の遺体を以 意義があり,一君二民の載然たる「分」の別が生ずる所 て,天祖のことに暦り,粛然懐然として当初の儀容を今 以である。従って倫理的絶対性の要請が責任倫理の追求 日に見れば,則ち君臣観感し,洋洋乎として天祖の左右  を峻拒する。そこで廟堂に反映する天下の善や公義に・

に在るがごとし。而して群臣の天孫を視るも,またなほ 統治行為の担保的役割が期待され・日本を国家的一体性 天祖を視るがごとく,その情の自然に発するもの,豊に に於いて捉える共同体意志が表現されるとする。本来,

己むを得(ないo………)民はただ天祖を敬し,天胤を 崇文瓢武の士太夫層と異なり・統治機構の中核を武士階 奉ずるを知るのみにて,郷ふところ一定して異物を見ず。 級に担われた日本では国家編成を機能的に構成する傾向 ここを以て四海を保つところにして,祖宗の国を建て基 が強いが,特に民族的危機として意識される外圧を前に・

を聞きし所以の大体」(注111)となるのである。  国全体を有機的家共同体と擬制する齢を結集させて,

こうして産土神まで国家宗教に体系化する事で民衆の  「まさに四海を以て一家となし,万世を一日となし・列 崇神感情を国家意識に統合させ,祭祀共同体的一体性を 聖の遺緒に困りて,以て時措のよろしきを図るべき」

実現する事は,統治の実雛を確保する有効な手段とな (注115)理想が宣揚される.正志が,本質的には外魍想 ろう。政教一致の原則は,日用的人倫一般しか持たなか である儒学を自己の思准の基盤とする限り,その思想が った伝統的社会に於いては自然的外観で貫徹され,伝統  「この世に生きたものとしてあるためには,徳川社会の 的権威への結集が統治体系を「主体的」に強化すること 支配者である武士階級の身分倫理を理論づけ体系化する になる。権力前的存在であった為に体制集中の有効な精  という役割を担うことに澄いてしかありえない」(注116)

神的支柱の積極的役割を果し得た「天皇」観念は報本反 制約を免がれない。当然,理想の自主的選択に基づいた 始の伝統的日常意識に化体されて社会的基底にまで到達 儒学の機能的・イデオロギー的解釈が現実的であった。而 する。(注112)勿論一方では「農は民命の係るところな  も日本的思唯の原型は,朱子学の存在論,つまり天地万

り。故に末を抑へ本を貴び,産を制し職を頒ち・時に使 物の存在が理に統轄された気で構成されているという理 ひ敏を薄くし,田里を均しくして兼併を除き・姦民を去  念的.法則的思考様式とはなじみ難く,「現世の延長上 りて罷惰を懲し,情好を通じて患難を曲み・その什伍を に全ての世界を考えようとする日本的な連続的な世界観」

明らかにして,これに保任を教へ,富庶にしてしかも孝  (注117)に立脚する傾向が強い。故に思想を国内的に現 弟,老幼孤寡をして収養するところあらしむるは・皆民 実的なものとしようとする時,生活経験的観念と不如意 を安んずる所以にして・古人の論ずるところ具れり。今・の交通が始まる事は当然であった。「天」「天道」観念 必ずこれを施行せんと欲せぱ,則ち当に上下をして憧み に主体的に選びとった理想の実質的概念内容を化体して を知らしむべく,上下に憧みを知らしめんと欲せぱ・則 土着化していく思想では,国家観念を確立しようとすれ ち当に民を動かすに実事を以てすべくして・これを喩す ば,共同体的一体感を生活意識の場面から無媒介に政治 腔言を以てすべからず」(注113)と,自然村的共同態的平面に移行させざるを徽かったと嫉よう。

の回復の必要性が意識されており,伝統的良俗をも侵食

(11)

前田。安田:「新論」に澄ける国家観       27 注      28・会沢安r千島異聞』彰考館蔵

1.丸山真男『日本政治思想史研究』353頁(1952)   29・〜31・同上

2.同上  356頁       32・会沢安「新論」94頁 3.芝原拓自『明治維新の権力基盤』115頁(1965)   33・会沢安『千島異聞』

4.同上 13頁以下参照。 「幕藩権力の倒壊過程」  34・当時,ロシヤのエカチェリーナH世を理想像とし 芝原発言参照,(『シンポジウム日本歴史15明治     て描く林子平・本多利明等がいた。信夫清三郎 維新』所収)(1975)      『日本政治思想史1』77頁以下参照。

5.源了円「明治維新と実学思想」(坂田吉雄i編『明  35・〜37・会沢安『千島異聞』 注35の革命とは慶長 治維新の問題点』所収)など。       3年のルーリク家の断絶と慶長18年のロマノブ 6.松浦玲「幕藩体制解体期の思想的特質」『日本史    朝樹立を謂うと思われる。

研究』74,78号(1964,65)上山春平『明治維新  38.会沢安『暗夷問答』雨谷毅蔵写本 の分析視点』参照。       39.会沢安『暗夷問答附辮妄』

7.尾藤正英「尊王撰夷思想」44頁(岩波『日本歴   40.会沢安『暗夷問答』

史13』所収)(1977)      41.会沢安『千島異聞』新論中にも同様記載,「新論」       ,

8.松浦玲「日本に澄ける儒教型理想主義の終焉」     前掲90頁

(『思想571』)参照。       42.〜43.会沢安『千島異聞』

9.色川大吉,安丸良夫,鹿野政直等の諸研究。    44.会沢安「新論」156頁

10.丸山真男,石田雄,松本三之介等の諸研究。    45 会沢安「下学遍言」197頁(『水戸学全集2』所収)

11.J.ストレイヤー『近代国家の起源』鷲見誠一訳  46.会沢安「読直毘霊」418頁(『水戸学全集2』所収)

48頁以下参照。(1975)       47.井上哲次郎『日本朱子学派の哲学』585頁(1905)

12.源了円『徳川思想小史』序      48.瀬谷義彦『会沢正志斎』40頁

13.下山三郎『明治維新史研究史論』参照。      49.藤田幽谷は新論を高く評価し,自己の平生の志を 14.瀬谷義彦『会沢正志斎』の区分による。        償うものとする。「東湖遺稿」中の「与飛田子健 15 学問的体系としての完成度は『下字遍言』の方が     書」(『新定東湖全集』所収)参照

高く,此の本の研究が少ない点にこそ,会沢の固  50.『水戸藩史科別記上』249〜251頁

有思想の実体的解明不十分の論拠。        51.瀬谷義彦『水戸学の史的考察』132〜135頁。(1940)

16.会沢安「新論」50頁,(『日本思想体系53』所     三大患の内容は朝鮮使聰礼の事,北夷の事,一向 収)(1975)       宗の事と推量されている。三項目の内容上の連関 17.同上 51頁       が不明確であるが,統一的認識はなく,幕府にと 18.同上 50頁       って警戒を要するものを列挙したにすぎなかろう。

19.同上 90頁       52,『水戸藩史科別記上』254〜255頁

20.同上 93頁,慣習化した用語法に込められた意   53.藤田幽谷「丁己封事」31頁(『日本思想大系53』

識は問題にしなくても良いであろう。         所収)

21.会沢安「新論」89頁      54.同上 32頁

22.同上 93頁       55、杉崎仁「藤田家の系譜について」20〜21頁参照 23.同上 98頁       (『藤田幽谷の研究』所収)(1974)

24.同上 91〜92頁       56.藤田幽谷「私擬対策」315頁(『幽谷全集』所収)

25.瀬谷義彦「新論解題」483頁(『日本思想大系    57.同上 316頁

53』所収),同『水戸学の史的考察』181頁    58.藤田幽谷「宍戸候宛書簡」(「二月廿二日長久保 26.瀬谷義彦r会沢正志斎』26〜27頁(1942)      赤水宛書簡」に添付)711頁(r幽谷全集』所収)

27.同上,30頁参照

(12)

59.藤田幽谷「二月廿二日長久保赤水宛書簡」696頁  87.同上 86〜87頁

(『幽谷全集』)      88.同上 76頁 60.同上 700頁       89.同上 108〜109頁 61.藤田幽谷「答木村子虚」243頁(『幽谷全集』)  90.同上 121頁

62,藤田幽谷「丁己封事」前掲27頁      91.同上 107頁,陳亮「上孝宗皇帝第一書」の引用 63.植手通有『日本近代思想の形成』12〜14頁参照  92.同上 79頁

64.藤田幽谷「勧農或問」195頁(『幽谷全集』)   93.同上 133〜134頁 65. 同上 174頁      94.同上 111頁 66.同上 123頁       95.同上 131頁 67.藤田幽谷「祭高山処士文」305頁(r幽谷全集』)  96.同上 132頁 68.藤田幽谷「会沢安宛書簡」(『水戸藩史料 別記   97.同上  74頁

上』256頁       98.同上 73〜74頁 69.会沢安「及門遺範」790頁(『幽谷全集』)    99・同上 80頁 70.会沢安「答都築但盈書」(『正志斎文稿巻一』所  100.同上 63頁

収)尊経閣蔵本       101.同上 63頁 71.佐々木潤之介「幕藩制国家論」76〜77頁(『大  102.同上 79頁 系日本国家史3近世』所収)      103.同上 107頁 72.〜73.永原慶二「国家的集中と『近代化』」73頁  104.同上 67頁

(『現代と思想,第2号』所収)         105 同上 52頁 74.芝原拓自『明治維新の権力基盤』116頁      106.同上 52頁 75.同上 122頁       107.同上 52頁

7a水藩領内の荒廃の苛酷さは水呑層が皆無に近い ・・8.会沢安「癖篇」264頁岩波文庫 村落構造を生み,吸着すべき下層・水呑層を失う  109.会沢安「新論」52頁

事で上農層も没落・停滞する状況を現出させてい  110.同上 145頁 た。これは商品経済の農村浸透より寧ろ封建的収  111.同上  55頁

奪の苛酷さに原因を求めるべきである。乾宏己,  112.水戸学的教説に結集された草葬層へ留意 井上勝生「長州藩と水戸藩」(『日本歴史に』所  113.会沢安「新論」109頁

収)参照。      114.同上 147頁 77.会沢安「新論」前掲70頁      115.同上 145頁

78.同上 73頁      116.田原嗣郎『徳川政治思想史研究』18頁 79.新論執筆直前の文政7年に千島異文に賊を附して  117・同上  17頁

いる事から直接的な影響を持ったと思はれる。

清水正健『増補水戸の文籍』91頁        〔備考〕 本稿は標題の問題に関し,前田と安田取雄 80.会沢安「新論」前掲86頁      (明治大学法学修士)とが論議を交し・その結果を安田 81.藤田幽谷「正名論」(『幽谷全集』)227〜229 が執筆するという作業過程をとって成立した。な澄成稿 頁 瀬谷義彦『水戸学の史的考察』87頁参照   にあたり・茨城工業高等専門学校助教助鈴木映一氏の懇 82.会沢安「新論」82頁       切なる御助言をたまわった。謹しんで同氏に感謝する次 83.同上 63頁      第である。(前田記)。

84.同上 85頁 85 同上 85頁 86.同上 85〜86頁

参照

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