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ごあいさつ 本日は 東京文化財ウィーク 2015 参加企画展 江戸城から明治宮殿へ 首都東京の幕開け にご来場いただきまして 誠にありがとうございます 江戸幕府の中枢であった江戸城は 明治時代に入ると皇居となり 明治 21 年には新たに 明治宮殿 が建てられました 折しも この当時の日本は 欧風の文

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太政官御用留 (重要文化財 東京都公文書館蔵) だじょうかんごようどめ 大日本帝国造営御所之図だいにほんていこくぞうえいごしょのず 江戸城西丸仮御殿総地絵図(重要文化財) えどじょうにしのまるかりごてんそうじえず

会場 東京都立中央図書館 4階企画展示室 ・ 多目的ホール

会期 平成 27 年 10 月 31 日から 11 月 15 日まで

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ごあいさつ

 本日は「東京文化財ウィーク 2015」参加企画展「江戸城から明治宮殿へ —首都東京の幕開け —」にご来場いただきまして、誠にありがとうございます。  江戸幕府の中枢であった江戸城は、明治時代に入ると皇居となり、明治 21 年には新たに「明治 宮殿」が建てられました。折しも、この当時の日本は、欧風の文化・制度等を積極的に取り入れ、近 代国家としての体制整備に取り組んでいた時代です。こうした中、新しい時代の日本にふさわし い宮殿のあり方が追求され、和洋を折衷した独特の様式が作り上げられていきます。完成の翌年、 明治宮殿は大日本帝国憲法の発布式の舞台として内外に披露され、戦災により焼失する昭和 20 年まで、三代にわたり皇居としての機能を果たします。 本展示では、都立中央図書館が所蔵する重要文化財「江戸城造営関係資料(甲良家伝来)」や、明 治宮殿の造営に関わった木子家に由来する「木子文庫」、東京都公文書館が所蔵する重要文化財「 東京府・東京市行政文書」などから、約 50 点の資料を展示し、江戸城から明治宮殿への変遷を通 じて、江戸から東京への歩みをご紹介します。  また、第二会場(多目的ホール)では、約 11 畳の大きさの江戸城本丸表・中奥の図面複製パネ ルや、江戸城門の当時の状況を映像で再現した「タイムトリップビュー江戸城門」をお楽しみいた だけます。  開催にあたり、御出品・御協力を賜りました関係各位に対し、心より御礼申し上げます。 本展示を通じて、文化財をより一層身近に感じていただければ幸いです。 平成 27 年 10 月         東京都立中央図書館長  松 山 英 幸         東京都公文書館長    辻   隆 こうら きこ

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「江戸城から明治宮殿へ」年表

名称 和暦 西暦 月 日 出来事 1859 10月17日 11月 文久3年 1863 6月 3日 11月15日 1月 元治元年 1864 7月 3日 慶応3年 1867 12月23日 1月12日 3月13日 明治元年 明治2年 明治3年 明治4年 明治6年 明治9年 明治10年 明治12年 明治13年 明治15年 明治19年 明治21年 明治21年 明治22年 明治17年 明治元年 1868 1868 4月11日 7月17日 10月13日 12月19日 1869 3月27日 10月24日 1870 1871 1873 閏10月19日 閏10月20日 11月17日 5月 5日 1876 5月 8日 1877 8月 1879 9月12日 皇居造営が命じられる 1880 1月26日 皇居建築様式について、山里は和様建築、旧西丸跡は洋風建築にすることが 決定する 3月 3日 工部卿宮内卿連署にて、山里に表謁見所を建て、吹上に奥向造営をなすの議を 上申する 1882 5月27日 皇居造営事務局が設置され、総裁に三條実美、副総裁に海軍中将榎本武揚が 任じられる 1884 4月17日 皇居造営地の地鎮祭を執り行なう 1886 12月31日 宮殿室内装飾および家具取り調べのため出仕官片山東熊以下を ドイツに派遣する 1888 1888 3月18日 皇居装飾織物など取り調べのため農商務四等技師荒川新一郎を京都に派遣する 10月10日 皇居造営が成り、皇居御造営残業掛、宮殿そのほか諸建物を内匠寮へ引き渡す 10月27日 宮内省、告示して皇城を宮城と改称する 1月11日 明治天皇・昭憲皇后が宮城へ移徙する 1889 1945 2月11日 紀元節、宮中にて憲法発布式がおこなわれる 1860 5月25日 アメリカ軍の空襲により、明治宮殿が全焼する 1948 1964 7月 1日 「宮城」の名を廃して、皇居を正式名称とする 安政 6 年 万延元年 明治宮殿の跡に新宮殿を造立することが決まり、43年10月に完成する 昭和39年 昭和20年 7月 江戸城本丸が火事にて焼失する 江戸城本丸の普請が成り、上棟される 江戸城西丸が火事にて焼失する 江戸城本丸および二の丸が火事にて焼失する 西丸仮御殿の再建が着工する。6月26日、大奥向を上棟し、 7月23日表向が上棟される。以降、本丸御殿は再建されず 幕府、天璋院(てんしょういん、13代将軍徳川家定の正室)の居所に充てるため 二の丸の造営を命じる 江戸城二の丸が焼ける。本寿院(ほんじゅいん、13代将軍家定の生母)、 実成院(じつじょういん、14代将軍家茂生母)ら西丸へ移る 大坂より徳川慶喜、松平容保らが江戸城へ帰着する。 2月、慶喜が上野寛永寺大慈院に謹慎する 翌14日にかけて、新政府軍参謀西郷隆盛と勝海舟との間で江戸総攻撃の中止、 江戸城開城、慶喜の助命が交渉され決定する 江戸城が新政府軍に引き渡され、徳川慶喜は上野寛永寺から水戸へむかう。 21日大総督有栖川宮熾仁親王が江戸城へ入城する 江戸を改め東京とする旨の詔書が出され、東京府となる 明治天皇が行幸し江戸城に入る(12月8日帰京)。旧江戸城を皇居とし、 名称を東京城と改称する 新政府、徳川家達に命じ紅葉山の徳川家霊廟を撤去させる 明治天皇、再び東京へ行幸し東京城へ入る。28日、東京城を皇城と改称する 昭憲皇后が皇城へ行啓する 民部大蔵両省が皇城内へ移転する 工部省が設置され、皇城内民部省中に仮庁衙が置かれる 大嘗祭が皇城吹上御庭において挙行される。 18日19日宮中にて豊明節会がおこなわれる 皇城が火事にて焼失する。このため赤坂離宮を仮皇居と定め、元教部省に太政官代、 集議院に左院代、赤坂離宮に宮内省が移転する 太政官、工部省に達して明治10年より5年間で皇居を造営するよう命じる。 10年1月に地租減額のため皇居造営の延期が布達される 太政官が赤坂仮皇居内に移転する。翌11年6月、洋式木造2階建の太政官庁舎が 仮皇居内に新築される 昭和23年

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Ⅰ 江戸から東京へ

慶応 3 年(1867)12 月の王政復古を経て、明治政府はその輪郭を表し、日本は近代国家への歩みを 加速させていきました。翌慶応 4 年(1868)正月に戊辰戦争が始まると、政府軍は「錦旗」のもと官軍 として江戸へ進軍していきました。         江戸では徳川慶喜が寛永寺に謹慎し、幕臣である山岡鉄舟や勝海舟と政府軍を代表した西郷隆盛 らの会談を経て、4 月 11 日に江戸城が開城されました。 同月 21 日には東征大総督である有栖川宮 熾仁親王が江戸城西丸に入り、実質的に江戸城の管轄が明治政府へと移っていきました。7 月には江 戸が東京と改められ、10 月には明治天皇が初めて東幸し、東京城と改称されます。東幸の際には御酒 を下賜するなどし、 政府が東京の人々の支持を得る契機となりました。京都への還御を経て、天皇が 明治 2 年 (1869) に東京への再幸を果たし東京城を皇城と改めると、皇城内には政府の最高決定機関 である太政官が移されました。 この後、東京は政治の中心地として本格的に機能していきます。  このほかにも、天皇の代始めの儀式として実施される大嘗祭は、 これまで京都御所にて実施され てきましたが、明治天皇のそれは明治 4 年 (1871)に皇城にて開催され、11 月 17 日に執り行なわれ ました。その後の節会では外国使節らも宴へ招待されました。  こうして明治政府は東京に政権の基盤を得ていきました。              ありすがわのみや かんぎょ だいじょうさい せちえ きんき 8 御酒頂戴 たるひとしんのう

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正徳四甲午六月改紅葉山惣指図 

写 1舗 重要文化財  

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江戸城御吹上総絵図 

文化 2 年(1805) 写 1舗  

江戸城写真集 

1 冊   江戸城の吹上御庭、現在の吹上御苑の絵図です。江戸幕府成立以前 は、多くの寺院があったところですが、家康は寺院を移転させ、御三家 を初めとする武家地としました。明暦の大火(1657)後、武家屋敷はす べて城外に移されて空(火よけ地)となっていましたが、宝永 2 年 (1705)以降、庭園として整備され、将軍の公事裁許や武術・相撲など の上覧所や、茶屋・梅林なども設けられていました。 江戸城の古写真は、当時、太政官の役人であった蜷川式胤(1835-1882)の申し出により、明治 4 年 (1871)3 月 9 日から約 5 か月にわたり、写真家横山松三郎等によって撮影されました。蜷川式胤は荒廃 する 江戸城を写真に撮り、記録として永遠に残したいとして、自身も写真機を購入して撮影をするとと もに、横山松三郎にも命じて撮影させました。  その時に撮られた写真は数百枚と伝えられており、そのうちの 73 枚が明治 11 年(1878)に既に『観古 図説 城郭之部一』として出版されています。 明治 7 年に売却の許可が認められており、各地で写真が保存されていますが、当館でもその写真のう ち 40 枚を『江戸城写真集』として保存しています。中には、上記『観古図説』には掲載されていない写真も 含まれています。 しょうとくよんこうごろくがつあらためもみじやまそうさしず  東京誌料 6175-8 えどじょうおふきあげそうえず えどじょうしゃしんしゅう   東京誌料 6153-1       東京誌料 617-10 ちょくしごげこういっけん

勅使御下向一件

   慶応 4 年  

 慶応 4 年(1868)3 月、西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸城開城が決定します。これを受けて 4 月 11 日に江戸城が開城、同 21 日には東征大総督である有栖川宮熾仁親王が江戸城へ入城し、江戸は実質的 に明治政府へ引き渡されていきました。   東京都公文書館所蔵 605.A4.08 ちょくしごげこういっけん ありすがわのみやたるひと 明治元年 12 月、徳川宗家 16 代当主徳川家達に対し、明治政府から、御霊屋を撤去し、静岡藩に移すよう、 命令が下りました。しかし徳川家はすでに 4 月の江戸城明け渡しの時点で牌や宝物などを、上野の寛永寺 に移し、警護をしていたということです。  明治 2 年(1869)、霊廟はすべて撤去されて、現在は皇居の一部となり、養蚕所などがあります。 みたまや ぐそくぐら びょうぶぐら  現在は御所、賢所・皇霊殿・神殿の宮中三殿、生物学御研究所などの建物や、日本庭園等があります。そ れらを取り巻く森は、江戸時代の植栽や自然に発生した樹木が生かされた、自然のままの森となってい ます。 にながわのりたね 重要文化財 重要文化財 江戸城西丸にある紅葉山は、東照宮、歴代の将軍の御霊屋、具足蔵、 鉄砲蔵、書物蔵、屏風蔵などがありました。元和 4 年(1618)に東照社 (1645 年 に 東 照 宮 と 改 名)が 建 て ら れ、初 代 将 軍 の 徳 川 家 康 (1542-1616)が東照大権現として祀られてからは歴代将軍の霊廟が 設置され、江戸幕府にとって重要な地となりました。 東照宮への参拝は家康の命日と祥月命日、そのほか将軍家にとっ て慶事があった時などで、特に家康の命日の廟への参拝は、歴代将軍 の重要な祭事であり、諸大名や幕府役人たちも参詣しました。

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 慶応 4 年(1868)7 月、明治政府は江戸を東京と改称し、駿河以東を統治する鎮将府を設けました。鎮将 府では旧幕臣対策や旧幕府行政の引き継ぎが進められ、公報として『鎮将府日誌』や東京城と改称後は 『東京城日誌』等を刊行し、方針を伝えるよう努めました。  大嘗祭は、天皇が即位礼の後に初めて開催する重要な儀式です。明治天皇は、維新期の混乱もあり明 治 4 年(1871)になって大嘗祭を実施し、初めて東京で開催されました。その他、各地の神社でも相応の 神事の開催が命じられ、全国的な行事であったことが分かります。        明治 4 年(1871)11 月 17 日、皇城で大嘗祭が執り行われ、翌 18 日及び 19 日には、その後宴である豊 明節会が行われました。この錦絵には、日本橋を渡って通りを進む山車や見物の群集が描かれ、東京府 民がこの大典をどのように祝ったのかが分かります。儀式のため皇城の吹上に建造された宮居は、20 日から 29 日まで、一般の東京府民も拝観を許されました。       

鎮将府日誌/東京城日誌 

慶応 4 年 / 明治元年 刊

御用留(府兵局)

明治4年 東京府

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大甞祭豊明節会奉賀祝 日本橋南通り町筋賑ひ之図

            

歌川国輝(二世)画 明治 4 年 12 月 錦絵    東京都公文書館所蔵 634.D4.06/634.D4.10   東京都公文書館所蔵 605.C3.12   東京誌料 183-C1 だいじょうさいとよあかりのせちえほうがいわい   にほんばしみなみどお   まちすじにぎわ   の ず ごようどめ  ふへいきょく ちんしょうふにっし  とうきょうじょうにっし   明治天皇は明治元年(1868)10 月 13 日に東京城へ入城しました。これを祝して、政府は東京府民へ御 酒を下賜することを決定します。3000 樽余の酒樽が用意され、町の大きさに応じて分配されました。11 月4日に町々の代表が東京府庁へ酒樽を取りに行き、荷車に載せて各町へ持ち帰りました。11 月 6 日、7 日は家業の差し止めが命じられていたため、3 日 3 晩、町はお祭り騒ぎになったといいます。  錦絵(第 1 章扉図)からは、福助の仮装や山車が出るなど賑やかな様子が伝わります。このようにして

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御酒頂戴 

歌川広重(三世)画 明治元年 錦絵   東京都公文書館所蔵 あ1 ごしゅちょうだい に移し、警護をしていたということです。 だいじょうさい 重要文化財 重要文化財 設置され、江戸幕府にとって重要な地となりました。

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Ⅱ 明治政府と皇城

明治 2 年(1869)、明治天皇の再幸に前後して、明治政府によって皇城を中心とした「東京」の整備が始 められます。        まず、政治の中心である太政官が二条城から皇城に移され、各省の出先機関なども城内に設置されま した。これまで格式や役職によって分けられていた江戸城西丸の各部屋は、明治政府の役職へ割り振ら れていきます。参議たちは日々皇城へ参内し、国内外の政治案件の対応にあたるとともに、各省や府県か らの上申や伺いにも対応していました。          皇城は、政治の中心であると共に儀礼の場でもありました。 明治 2 年の再幸に前後して三種神器のう ち神鏡を安置する賢所が建設されました。また女官部屋の増設などからは、天皇の居所として整備され た様子もうかがえます。        そのほかにも天皇の行幸や東京への在住にあわせて、多くの公家が東京へ移ってきました。明治政府 は、東京に屋敷を持たない公家に対し、上地した旧旗本屋敷などを中心に屋敷地を割り当てます。 明治 5 年(1872)には、京都府および東京府からの命令で東京在住の公家華族も京都の拝領屋敷を上地し、東 京に同程度の屋敷地が与えられました。        これら種々の変化によって、江戸とは異なる東京の都市空間が醸成されていきました。 あげち かしこどころ 14 皇居御造営誌下調図

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められます。       らの上申や伺いにも対応していました。         た様子もうかがえます。      

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工部省御用留 

東京府   明治元年 (1868) 閏 4 月、政体書にて一切の権力は太政官に属すと定められ、同官で政策の最終決定が 行われました。太政官は皇城(旧江戸城西丸)内に設置され、東京府でも太政官との調整や伺いが実施さ れました。この資料はその時の往復文書を留めたものです。  明治 3 年(1870)閏 10 月に民部省から分かれて工部省が設置されました。その庁舎は一時的に皇城内 に置かれましたが、同年 12 月には皇城から旧外務省跡地へ移転します。こうした例からも、皇城が官省 の一時的な庁舎として利用されていた様子がうかがえます。 明治 3 年(1870)7 月に民部省と大蔵省が分離すると、閏 10 月に民部省は皇城内に置かれました。同月 には新たに工部省が民部省から分かれ、皇城内に設置されました。この時期、皇城が省庁の官舎として臨 時的に利用されていた実態が分かります。

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民部省大蔵省御用留 

明治 3 年 東京府 1冊   東京都公文書館所蔵 605.B3.03   東京都公文書館所蔵 605.C7.01   東京都公文書館所蔵 605.B3.07

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太政官御用留 

明治3年 東京府 だ じ ょ う か ん ご よ う ど め だじょうかん こ う ぶ し ょ う ご よ う ど め みんぶしょうおおくらしょうごようどめ 重要文化財 重要文化財 重要文化財

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江戸城西丸御殿は、本来、将軍の世嗣や将軍を退いた大御 所が住む御殿であり、規模は小さいものの、表・中奥・大奥 と、本丸御殿とほぼ同じ構造をしていました。 江戸城は、幕末に至って西丸御殿や本丸御殿、二ノ丸御殿 を次々と焼失し、明治を迎えたときに残っていた御殿は、文 久 3 年(1863)の火事で焼失し、翌元治元年(1864)に再建さ れた西丸御殿だけでした。財政難と幕末の動乱期の影響で 非常に簡略化された建物で、「仮御殿」として造営されまし たが、江戸城唯一の御殿として幕末を迎えました。

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江戸城西丸仮御殿総地絵図 

(元治度) 写 1 舗 重要文化財

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 皇城絵図面

え ど じ ょ う に し の ま る か り ご て ん そ う じ え ず   東京誌料 6171-21 こうじょうえずめん  明治 2 年(1869)3 月、明治天皇の再幸をうけて、東京城は皇城と名前を変更しました。これより 先の同年 2 月に、東京に太政官、京都に留守官が置かれることが決まり、事務が分掌されました。 太政官は皇城内に置かれ、各省庁が太政官へ書類を提出する際の詰間も設置されました。   「皇城絵図面」からは、皇城内に設置された官省の様子がわかり、黄色の部分が太政官の管轄と 考えられます。江戸城西丸仮御殿の絵図(資料 12)と見比べていただくと、太政官は江戸時代に儀 礼を執り行った黒書院に、外務省の詰間が御三家部屋にそれぞれ置かれています。皇城は江戸城 をそのまま使い、政治儀礼の機能が付されていました。      

皇城の機能と空間

宮内庁書陵部図書寮文庫所蔵 175 ・ 544 よつぎ

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  布令・完 

明治 2 年 東京府

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 太政官御布告留 

東京府   明治 2 年(1869)明治天皇の再幸にともない、皇后(昭憲皇太后)も東京へ行啓しました。10 月 5 日 に京都を発した皇后は、東海道を進み同月 24 日に皇城へ到着しました。行啓の一報は 10 月初旬には府 民に伝えられ、出迎えの準備が進められました。   皇后(昭憲皇太后)が東京に到着する 10 月 24 日には、勅任官は皇城への参朝を、奏任官以下は各官 省にて拝賀し、名刺を取り集めのうえ各長官が言上することを命じられました。各々へは祝酒が下賜され、 明治天皇の東幸時と同様の振る舞いがありました。 図は、明治元年(1868)10 月に明治天皇が最初に東幸した際の江戸城西丸(皇城)の図面で、第 2 章の扉 に掲載した図は明治 2 年(1869)3 月に明治天皇が再幸した際の同所の図面です。  両図を比較してみると、明治 2 年の図では、図の上部に賢所が、右側には細かな部屋が増設されている ことがわかります。賢所とは、三種神器の 1 つ神鏡を祭る場所です。また右側の細かな部屋は、女官部屋 と考えられます。こうした点からは、皇城が天皇の居所として整備されていく一端がわかり、既に天皇の 東京での長期滞在が計画されていたことがうかがえます。

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皇居御造営誌下調図

  東京都公文書館所蔵 605.A6.08    東京都公文書館所蔵 605.A6.06 / 605.A6.07   宮内庁書陵部宮内公文書館所蔵 80100 / 81347 かしこどころ こ う き ょ ご ぞ う え い し し た し ら べ ず だ じ ょ う か ん ご ふ こ く ど め ふ れ い     か ん しょうけん 重要文化財 重要文化財

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 皇后(昭憲皇太后)は、明治 2 年(1869)10 月 23 日辰中刻(午前 8 時ごろ)川崎宿に入り、午中刻(午後 0時ごろ)に品川宿へ入りました。品川宿には、皇后を奉迎するため、政府の高官である大弁坊城俊政や、 静寛院宮(14 代将軍家茂室、和宮)の使者などが訪れました。  翌 24 日午中刻に東京へ到着し皇城に入ると、御学問所にて明治天皇と対面し、次いで皇后と共にやっ て来た公家の野宮定功らと拝謁しました。諸官へは祝酒が下賜され、供の人々へは 3 日間の休暇が与え られました。  明治 2 年(1869)、明治天皇の再幸により多くの公家も東京へ移って来ました。明治政府は、公家の 住居として、東京に残る旗本の屋敷を割り当て、京都の邸宅の坪数に応じて下賜しました。この資料 は大原重徳邸の図で、神田錦小路にある旗本蜷川相模守邸が与えられています。

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幸啓録

明治2∼3年 宮内省  

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旗本上ヶ屋敷図 

明治期  宮内庁書陵部宮内公文書館所蔵1   東京都公文書館所蔵 こ う け い ろ く は た も と あ げ     や し き ず にながわ おおはらしげとみ ぼうじょうとしただ せいかんいんのみや ののみやさだいさ しょうけん

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中山忠能履歴資料 目録略歴共 41

(明治期) 写 1 冊  明治 5 年(1872)2 月、東京府在住の華族へ京都拝領屋敷の上地が命じられました。東京在住の公家 華族も京都の邸宅を上地し、その代償として東京でそれに比例した土地邸宅が与えられます。  大原重徳は、2 月の達しを受け、7 月 10 日に京都下立売御門の拝領屋敷を返上しています。7 月晦 日には、東京神田錦小路の屋敷について、改めて替地の拝領を願い出ました。

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法令類纂巻之四十八 

東京府  重要文化財

ほうれいるいさん   東京都公文書館所蔵 632.B2.24 はいりょうちねがいつづりこみ きゅうていたくかかりとりあつかい

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拝領地願綴込・旧邸宅掛取扱

 明治 5 年 東京府 重要文化財 おおはらしげとみ しもだちうりごもん  明治元年(1868)の東幸にともない、明治天皇をとりまく公家たちも東京へ移ってきました。資料は 明治天皇の外祖父として知られる中山忠能が京都へ宛てた手紙の写しです。  資料には東京での様子が述べられています。前半部分では、東北地方で未だ戦火のなかにある自身 の次男で、奥羽追討総督である正親町公董を心配する様子が記されています。後半部分では、江戸で の旅宿に松平上総守(下総守ヵ)の屋敷が当てられ、広すぎて困っている旨、明治天皇の入城した江戸 城西丸について「御広く庭も大そう成物」と、これが慰めになっていることが伝えられます。手狭とさ なかやまただやす おおぎまちきんただ 東京都公文書館所蔵 605.C4.19   宮内庁書陵部宮内公文書館所蔵 73745 なかやまただやす りれき しりょう   もくろくりゃくれきとも を 楽 忍 候、 弘 過 き 困 庭

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Ⅲ 移り変わる東京の政治空間

明治天皇の二度目の東京行幸以来、皇城を中心として整備されてきた東京の政治空間は、 明 治 6 年(1873)5 月の失火により皇城一帯が焼失したことで、その様相を一変させます。   まず、天皇の居所として、赤坂にあった旧紀州藩徳川家の中屋敷をもとに、赤坂仮皇居(現在の 東宮から迎賓館一帯)が整備されます。従来の武家屋敷から不要な区画を撤去し、 洋風の御学問 所を明治 7 年(1874)に新築するなどの改修によって、和洋の部屋を備えた近代的な建物が設え られました。 しかし、皇城とは規模の異なる赤坂仮皇居では、各国貴賓の接待や儀礼に不便で あったため、新たな施設を建築する必要が生じてきました。明治 9 年(1876)、フランス人ボアン ヴィルの設計による洋風石造謁見所・会食堂が起工されますが、この工事は明治 12 年(1879)の 地震により中絶してしまいます。 明治 14 年(1881)になって、新たな木造の御会食所が造営さ れ、各国公使を招いての祝宴が行われるようになりました。       政治の中心として皇城内に設けられていた太政官は、馬場先門内の旧教部省庁舎へ移転する ことになり、一時天皇の居所から離れます。しかし、明治 10 年(1877)には仮皇居内に移転するこ とが決まり、再び天皇の近くに設けられました。一方で、大手門付近の旧姫路藩酒井家上屋敷に 庁舎を構えた内務省のように、依然として皇城付近に設置された機関もあり、東京の政治空間は 複雑な様相を呈していました。        25 赤坂仮皇居及太政官真景

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 明治 11 年(1878)に太政官庁舎が建てられてから、 明治 14 年(1881)に御会食所が完成するまでの時期 の全体図です。増築予定の御会食所の図面が上から 貼り重ねられています。部屋の用途や床の仕上げの 違いを異なる色によって表示しており、洋風の生活 様式を導入していた天皇の御座所が絨毯敷き(赤)で あるのに対し、和風の生活様式であった皇后や女官 の部屋は畳敷き(緑)だったことが分かります。    明治天皇と皇后(昭憲皇太后)が、仮皇居の一室から御庭(資料 24 参照)を眺めている錦絵です。具体 的にどの部屋に当たるのかは不明ですが、床が絨毯敷きで、庭に面しているところから、居住空間に当た る奥向きの部屋の一つと推定されます。天皇が洋装であるのに対し、皇后や女官たちは和装であり、両者 の生活様式の違いが分かります。      

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赤坂仮皇居配置平面図 

写 1舗

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仮皇居御庭拝見之図 

橋本周延画 明治 11 年 5 月 錦絵  あかさかかりこうきょはいちへいめんず   木子文庫 52-2-1 かりこうきょおにわはいけんのず  東京誌料 199-C7  付箋「明治一二 三年頃 赤坂御所建物地図太政官取建後會食所新築時」  ちかのぶ しょうけん

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明治 12 年(1879)、明治天皇・皇后(昭憲皇太后) の御座所が仮皇居内に新築されました。この資料は、 製作年代は不明ですが、御座所に面した庭の様子を描 いたものです。様々な種類の花木が植えられ、井戸や 噴水なども設えられていたことが分かります。庭の奥 には、天照大神の御霊代である神鏡を祭るための賢所 が 皇 城 か ら 遷 座 し て い ま し た。        明治 14 年(1881)10 月に新築された御会食所は、書院造を基本としながら暖炉や絨毯を導入した初期 の建物の一つです。108 帖の広間や 54 帖の「珈琲の間」、「吹煙室」などを備え、同年 11 月 3 日の天長節の 祝宴では、この会食所に初めて外国公使が招かれました。明治 19 年(1886)に皇后の洋装が導入され、夫 人同伴の洋式会食が行われるようになると、床は絨毯敷きから寄木張りに改装されました。後には明治 天皇臨御のもとでの憲法草案の審議の場となり、そのゆかりで伊藤博文に下賜され、現在は明治記念館 となっています。         赤坂仮皇居の敷地内には、皇城にあった太政官と宮内省が移設されていました。太政官については、 一時は馬場先門内の旧教部省庁舎に太政官代が設置されますが、明治 10 年(1877)に仮皇居内に移転す ることになり、その翌年に絵の中央奥に描かれた木造洋式 2 階建ての庁舎が完成しました。明治 18年 (1885)に太政官制度が廃止され、内閣制度へと移行した後も、明治 22 年(1889)に明治宮殿内に移転 するまで、引き続き内閣庁舎として使われました。       

24

[赤坂離宮]庭園図 

写 1鋪

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赤坂仮皇居及太政官真景 

井上探景画 明治 18 年 8 月 錦絵

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赤坂仮皇居会食所・御車寄平面図 

写 1鋪 100 分の 1  あかさかりきゅう  ていえんず    木子文庫 44-3-18   新収和書ー別 132 あかさかかりこうきょおよびだじょうかんしんけい 木子文庫 72−2−84 あかさかかりこうきょかいしょくじょ おくるまよせへいめんず あまてらすおおみかみ みたましろ かしこどころ たんけい しょうけん

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 皇居の再建に向けた動きは、皇城焼失の直後から始まっていました。 しかし、予算の問題や西 南戦争の勃発等により、計画がたびたび延期となり、再び造営の機運が高まるのは、明治 12 年 (1879)になってからでした。         ところがこの年、赤坂仮皇居に建設中の洋風石造謁見所が、地震で損壊する事故が起きます。 これを契機に、和風木造と洋風石造のどちらで宮殿を建てるべきかをめぐって議論が紛糾し、計 画は二転三転しました。最終的に明治 16 年(1883)、建物を和風木造、内装を和洋折衷とする案が 決定され、翌年から工事が開始されました。明治 21 年(1888)10 月 27 日、 ついに宮殿は竣工を迎 え、皇城の名称も宮城へと改められました。そして明治 22 年 1 月 11 日には、皇城炎上から実に 15 年以上もの月日を経て、明治天皇と皇后(昭憲皇太后)が新宮殿へと移りました。以後、この 宮殿は昭和20 年(1945)の空襲で焼失するまで、三代にわたる天皇の居所となり、同じ場所に建て られた現在の宮殿に対して、明治宮殿と呼ばれています。    宮殿の造営と並行して、赤坂仮皇居の御会食所では、伊藤博文が作成した憲法草案の審議が進 められていました。明治 22 年 2 月 11 日には、各国公使の列席のもと、宮殿正殿で大日本帝国憲 法の発布式が執り行われ、日本の近代国家としての位置を内外に示したのでした。             

Ⅳ 近代国家の象徴「明治宮殿」

34 大日本帝国造営御所之図 しょうけん

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 明治 12 年(1879)になると、再び皇居造営の気運が高まりました。ところが同年の地震により、赤坂仮 皇居に建設中の洋風石造謁見所・会食堂(ボワンヴィル設計)に亀裂が生じ、工事中止に至るという事故 が発生しました。このため、工部省営繕局長の平岡通義は、石造・木造両建築の利害について部下に検討 を求め、この建白書が提出されました。後に皇居造営に参加し、主として宮内省庁舎を担当する立川知方 は、この事件に言及し、石造は耐震性を欠くため、木造にすべしとの意見を述べています。翌年 1 月、工事 を中止した謁見所・会食堂を旧西丸跡に移築し、山里(旧西丸御殿の後庭)には新たに和風様式で建築す ることが決定され、いよいよ皇居造営の計画が動き始めました。         都立中央図書館木子文庫が所蔵する明治宮殿に関する資料は、皇居造営に中心的な役割を果たした建 築家、木子清敬に由来するものです。木子清敬(1845-1907)は、内裏に関わる大工の家であった木子家を 出自とし、宮内省に出仕後、皇居御造営事務局に配属され、造営の計画、施工から竣工後の残務整理に至 るすべての段階に関与しました。        明治宮殿の造営・建築は、宮内省と工部省営繕掛が担当しました。資料はこのうち工部省営繕掛の記 録です。明治 15 年(1882)に工部省雇であったジョサイア・コンドルは、旧西丸跡に洋館を建築するた め、任期が延長されています。        

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皇居(明治宮殿)造営「建白書」

      

写 文書 7 枚 明治 12 年 4 月 11 日 立川知方著 「平岡営繕局長殿」宛て

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木子清敬皇居御造営事務局辞令 

文書1枚 明治 15 年 6 月 6 日

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工部省記録・営繕・皇居造営(天) 

       明治 7 年∼ 14 年 工部省 写 1冊 重要文化財    木子文庫 119-3-1   木子文庫 167-33  東京都公文書館所蔵 634.C7.16  資料 27 には、以下のような箇所が見られます。 「外国建築師は其の技に熟達の人かと存じ候えば左様にもこれ無く、実地の事に付ては悉く皆私共矩術の力 を借り、自身は徒づらに口頭を以て不急の談を論弁致し候のみ、しかのみならず私共矩術修業仕り候に、中に 七八年の事にて奥義を極め候事は相成りがたく、修身の稽古にて老年に及び初めて自得の域に至り候義にこ れ有り、欧州の建築学は如何なる早手廻しの法に候哉存ぜず候えども、僅かに五六年の修行にて是程の大廈 築造を引き受け候事、何とも以て意に落ちざるの次第、随て右様口頭のみにて実地不鍛錬の教師も出来候義 と存じ奉り候、実に箇様の者をお雇い入れに相成り候は、徒づらに御国の御損耗のみならず、外国の物笑いに も相成るべく、呉々も悲歎に堪えず遺憾千万に存じ奉り候」   この建白書は、宮内庁書陵部が所蔵する明治宮殿造営の公式記録『皇居御造営誌』に収録され、従来『明治工 業史建築篇』や『東京市史稿皇城篇第四』に採録されて流布していますが、そこには上記の文章は一部しか含 まれていません。  立川知方は、もと幕府作事方の出身で、立川流規矩術六世を称し、当時の工部省を代表する技術者の一人で した。皇居御造営事務局では、建築技術者の最上席にあり、木子清敬もその部下として仕事をしていました。 上記のような箇所からは、技術者としての強い自負とともに、西洋風建築への反感とも見られる感情をうか がうことができます。

立川知方と洋風建築

たてかわともかた きこきよよし こうきょ めいじきゅうでん  ぞうえい けんぱくしょ きこきよよしこうきょごぞうえいじむきょくじれい こうぶしょうきろく  えいぜん こうきょぞうえい  てん ひらおかみちよし たてかわりゅうきくじゅつ

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 赤坂の石造謁見所・会食堂を旧西丸跡に移築する当初案 は、地質不良のため中止となり、その後も計画は二転三転し ました。一時は宮殿を軽い木造にする案が優勢になります が、明治 14 年(1881)5 月に宮内省御用掛に就任した榎本武揚 は、西洋風の礼典に適した石造謁見所の建設を主張し、工部 省雇ジョサイア・コンドル等に各所の地盤調査を委嘱しま す。こうした調査を踏まえ、明治 15 年(1882)3 月には、山里に 洋風の謁見所、吹上に木造の奥向き宮殿を建設する案が決定 さ れ ま し た。         明治 15 年(1882)7 月、榎本武揚がジョサイア・コンドル に委嘱していた山里の洋風謁見所(正殿)の設計案が完成し ます。国家の威信を表現するネオ・バロック様式の二階建て 煉瓦建築で、赤坂仮皇居の謁見所の旧材を活用しつつ建てら れる予定でした。図面はその一階部分で、右下のサイン 「JOSIAH CONDER M.R.I.B.A. ARCHITECT」はコンドルの自 筆とされています。しかし、同年 8 月に榎本が清国全権公使 として転出すると、翌年 4 月には急に計画が変更され、洋風 謁見所の建築は中止となりました。         明治 16 年(1883)7 月になり、ついに最終的な造営方針が定 められました。旧西丸跡・山里(旧西丸御殿の奥庭)に木造仮 皇居、吹上に木造の賢所等を建設し、明治 21 年 6 月までに総 落成という計画で、洋風石造の建築物は宮内省庁舎だけとな りました。このスケッチは、新たな造営方針による宮殿の表部 分を描いています。正確な年代は不明ですが、同様のスケッチ の一枚に「明治十六年十二月中(中略)目論見ノ為メ製シタル 画ナリ」とあることから、この頃のものと推測されます。  

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皇居(明治宮殿)吹上地質実験図

写 1鋪 「西丸造家師ションヤ、コンドル 吹上地質実験縮圖」 明治 14 年 12 月 27 日

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皇居(明治宮殿)山里正殿平面図(一階)

      

内題「皇居山里正殿階下平面図」 写 1鋪 縮尺 100 分 1 明治 15 年 11 月

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皇居(明治宮殿)表宮殿鳥瞰図 

写 1鋪

  木子文庫 89-3-8 こうきょ めいじきゅうでん  ふきあげちしつじっけんず こうきょ めいじきゅうでん やまざとせいでんへいめんず  いっかい こうきょ めいじきゅうでん  おもてきゅうでんちょうかんず   木子文庫 111-3-163   木子文庫 81-1-6 えのもとたけあき もくろみ

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 明治 17 年(1884)4 月 17 日、皇居御造営事務局一同の参加のも と地鎮祭が執行され、以後本格的に工事が開始されます。祭場の 四隅に青竹を立てて注連縄を引き回し、中央の幕屋には簀薦(竹 を編んで簀子のようにしたもの)を敷いて机を二脚設置し、供物 を捧げる所としています。儀式は午前 10 時に始まり、奏楽と共 に神饌や幣が捧げられ、地鎮の祝詞が唱えられました。      明治 21 年(1888)10 月 27 日の宮内省告示により、宮殿は正式に竣工を迎え、皇城は宮城へと改称され ました。工事の途中で、屋根の葺材を瓦から銅板とし、謁見所(正殿)や饗宴所(豊明殿)など表宮殿の規模 や天井高を広げ、内装や家具を洋風化するといった変更が行われました。こうした変更は洋風の宮中夜 会を想定したものであり、その開催を強く主張していた伊藤博文の意向が反映したものと見られていま す。        明治 22 年(1889)1 月 11 日、明治天皇と皇后(昭憲皇太后)は新築成った宮殿へと移りました。午前 10時に赤坂仮皇居(現在の迎賓館付近)を出発し、四ツ谷、麹町を通って半蔵門前に至り、そこから現在の 内堀通りを三宅坂、桜田門へと進み、11 時に宮城へ到着しました。この絵は皇居前広場の辺りに差しかか ったところで、背景に正門の二つの橋が見えます。前の馬車に軍服姿の天皇と侍従長、次の馬車に洋装の 皇后と典侍が乗り、近衛士官・騎兵二小隊等が供奉していました。二重橋外では、御用花火師の鍵屋によ り、数十発の花火が打ち上げられました。      

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皇居(明治宮殿)造営地鎮祭式場見取図 

        写 1鋪 明治 17 年 4 月 17 日

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大日本帝国造営御所之図

       

歌川広重 ( 三世 ) 画 加藤兵太郎 錦絵 明治 21 年 10 月 10 日

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新宮城え御移転ノ図

楊洲周延画 小森宗次郎 明治 22 年 1 月 28 日 錦絵    木子文庫 92-1-1 こうきょ めいじきゅうでん  ぞうえいじちんさいしきじょうみとりず しんせん ぬさ 東京誌料 193-C3 だいにっぽんていこくぞうえいごしょのず しんきゅうじょう ご い て ん    ず すごも 東京誌料 195-C1 紅葉山 女官部屋 しょうけん

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 明治宮殿の全体を描いた平面図です。明治宮殿は、公的な儀礼や饗宴の場であった表宮殿と、皇族の 居住空間であった奥宮殿、賢所などの祭祀施設から成り、それぞれ旧西丸跡、山里(旧西丸御殿の後庭)、 吹上に造営されました。        また、この図では残念ながら空白となっていますが、洋風煉瓦造の宮内省庁舎も、現在と同じ位置に 建 設 さ れ ま し た。         

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皇居(明治宮殿)賢所・奥宮殿・表宮殿配置平面図

       

1 鋪 縮尺 600 分の 1 [明治 17 年 4 月頃] 彩色    木子文庫 89-1-14 こうきょ めいじきゅうでん かしこどころ おくきゅうでん  おもてきゅうでんはいちへいめんず 明治宮殿の正面玄関は、堂々たる唐破風を備えた 御車寄です。間口約 23 メートル、奥行約 11 メート ルの受附之間から左右の廊下を進むと東西の脱帽 所があり、東は大臣等の控室、西は皇族の控室とし て使用されました。廊下は東西の化粧之間を経て、 中央の謁見所(正殿)へと続きます。  謁見所(正殿)は、間口約 21 メートル、奥行約 16 メートル、天井高約 7 メートルの大広間で、大日本 帝国憲法の発布式を初めとする重要な式典の舞台 となりました。床は寄木張り、天井からは二基の大 きなシャンデリアが下がり、北側中央にはバロック 式の玉座と深紅の天蓋が置かれていました。   

表宮殿の各建物

女官部屋 山里 奥宮殿 皇居前広場 正門石橋 二重橋      (正門鉄橋) 下段 表宮殿 賢所 吹上 御車寄 殿 御 常 上 聖 ︶ 殿 明 豊 ︵ 之溜 東 所 見 謁 東化粧之間 西化粧之間 西脱帽所 東脱帽所 ※明治宮殿は、完成時に部屋の名称が変更されました。 所 休 御 宮 后 太 皇 ︶ 間 之 藤 ︵ 近衛局敷地 受附之間 東車寄 間 之 溜 西 奥御車寄 中段 内謁見所 (鳳凰之間) 石垣 間 之 席 後 ︶ 間 之 種 千 ︵ 所 問 学 御 ︶ 所 座 御 ︵ 殿 御 常 宮 后 皇 ︶ 所 座 御 宮 后 皇 ︵ からはふ さらに奥に進むと東西の溜之間があり、饗宴所(豊明殿)へと続きます。東溜之間は、参内した大臣等 の控え室となり、枢密院会議場としても使用された部屋です。饗宴所(豊明殿)は、間口約 33 メートル、 奥行約 15 メートルと、明治宮殿でも最も大きな建物で、鏡や燭台、シャンデリア等を備え、数々の饗宴 が催されました。  明治宮殿の各建物の名称は、宮殿の完成後に改められました。左図では、「造営中の名称(完成後の名 称)」の順で表示しています。

(21)

 謁見所(正殿)や饗宴所(豊明殿)といった儀礼のた めの施設は、表宮殿の中でも「下段」と呼ばれる低い位 置にあり、内装の様式は和洋折衷でした。これに対し、 御学問所(表御座所)や内謁見所(鳳凰之間)といった 天皇が政務を執るための場は、「中段」と称される一段 高い区域に設けられていました。皇族の居住空間であ る奥宮殿は最も高い位置にあり、より和風の色合いが 強い内装が採用されました。このように、敷地の高さ とその区域の性格は対応関係にあり、内装もそれに応 じて造り分けられていました。異なる区域の間は、石 垣で区分されていました。               この図面は、表宮殿における各部屋の床の高さを示したものです。個別の部屋の床の高さは、その部屋 の役割と関わりを持っていました。例えば、表御座所(御学問所)や鳳凰之間(内謁見所)など、天皇が政務 を執るための部屋は床も高く、下段の中でも、謁見所は例外的に床が高かったことなどが分かります。表 宮殿は、外観は木造銅板葺の和風建築でしたが、床は寄木張り、壁には織物を張り、ドイツからの輸入家 具を備えつけるなど、内装は独特の和洋折衷様式でした。      

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[皇居(明治宮殿)表宮殿・奥宮殿建物]床・地盤高さ比較図

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皇居(明治宮殿)表宮殿床高さ比較図 

明治 18 年 4 月 8 日 1 鋪 彩色    木子文庫 109-1-21   木子文庫 111-3-7 こうきょ めいじきゅうでん おもてきゅうでん おくきゅうでんたてものゆか  じばんたか ひかくず こうきょ めいじきゅうでん  おもてきゅうでん ゆかたか ひかくず 1 鋪  せいでん ほうめいでん うちえっけんじょ ほ う お う の ま

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 御学問所(表御座所)は、表宮殿の中でも中段に位置し、天皇が日常の政務を執り、皇族や国務大臣と の接見を行うための部屋でした。内謁見所(鳳凰之間)では謁見のほか、歌会始や講書始などの伝統的な 宮中儀式が行われました。明治天皇には、政務・外交への参画や諸儀礼の執行など、近代国家の元首と しての多様な役割が求められ、これらの部屋は天皇の日常的な活動の場として機能していました。          この図のとおり、表宮殿と奥宮殿は、御学問所の2階から聖上常御殿へと続く長い廊下で繋がれてい ました。奥宮殿には、天皇・皇后などの生活空間である常御殿や、女官の詰所等がありました。和洋折衷 の表宮殿に対し、書院造を取り入れた和風建築でしたが、内部には洋風の家具や暖炉、絨毯、シャンデリ

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皇居(明治宮殿)表宮殿起し絵図(御学問所・内謁見所)

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[皇居(明治宮殿)御学問所・聖上常御殿]立面図(南面)

  木子文庫 106-1-1 こうきょ  めいじきゅうでん  おもてきゅうでんおこ  えず こうきょ  めいじきゅうでん   ごがくもんじょ   せいじょうつねごてん   りつめんず   なんめん ごがくもんしょ  うちえっけんじょ   木子文庫 81-2-5  起し絵図とは図面と模型の中間的なもので、四方の壁や建具を起こして組み立て、室内の様子を立体 的に知ることができます。饗宴所(豊明殿)は饗宴のための大広間、後席之間(千種之間)は宴席後の休憩 に使われた部屋です。大日本帝国憲法の発布式を初めとする各種の大典に際しては、夫人同伴の洋風夜 会がこの饗宴所で開かれました。      

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  木子文庫 106-1-2  こうきょ  めいじきゅうでん おもてきゅうでんおこ  えず    きょうえんじょ あとぜきのま  組み立て後 (正面) 写 1 鋪 縮尺 100 分の 1 [明治 17 年 1 月頃] 彩色  写 1 鋪 縮尺 100 分の 1 [明治 17 年 1 月頃]  写 1 鋪  ち ぐ さ の ま うたかいはじめ

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 この図面は、奥宮殿における床仕上げの違いを色分けして示しています。当時は、椅子を使用した新し い生活様式と、皇后・女官の和風の生活様式とが併存していたため、天皇の居所であった聖上常御殿な ど畳下地に絨毯敷きの区域と、皇后宮常御殿など畳敷きの区域がありました。また、聖上常御殿の中でも 最も格の高い「上段之間」や神器が安置されていた「剣璽之間」などは畳敷きであり、部屋の性格と床仕上 げに関わりがあったことが分かります。ただし、明治 19 年(1886)6 月に皇后・女官の洋装が正式に導入 されると、建物の竣工後には皇后宮常御殿でも絨毯が導入されました。      

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皇居(明治宮殿)奥宮殿建物床高さ色分図

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皇居(明治宮殿)奥宮殿建物床色分図

  木子文庫 109-1-57   木子文庫 108-1-37 けんじ 写 1鋪 明治 18 年(1885)4 月 19 日   こうきょ  めいじきゅうでん  おくきゅうでんたてものゆかいろわけず こうきょ   めいじきゅうでん   おくきゅうでんたてものゆかたか   いろわけず 写 1鋪 400 分の 1 明治 17 年 10 月 14 日  せいじょうつねごてん けんじ  江戸城の御殿などに採用された書院造では、近 世社会における格式が床の高低や天井の仕上げな どに視覚的に表されていました。この図面から、奥 宮殿においてもこの考え方が適用されていたこと が分かります。奥宮殿全体で最も床が高い部屋で ある「剣璽之間」には神器が安置されていました。 また、聖上常御殿(赤)、皇后宮常御殿(黄緑)、皇太 后宮御休所・宮御殿(青)という床の高さの順序は、 皇族の序列に対する考え方を反映したものと見ら れています。

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 造営中は後席之間と呼ばれていた千種之間は、饗宴後の休憩のための広間で、明治宮殿の数ある部屋 の中でも最も内装が華やかだったと言われています。天井は格天井で、112 面の格子の中に金地で花丸 文の綴錦が嵌め込まれ、ここにさまざまな草花が描かれていたことから、このように命名されました。下 絵は明治期を代表する美術家の柴田是真と真哉の親子が手がけました。   本図は、東京藝術大学美術館が所蔵する柴田是真の下絵とも完成後の広間の写真とも、草花の絵柄や 全体の配置が異なっています(上表)。        奥宮殿の杉戸には、狩野派や南画派など、当時の各流派の一流の画家たちによる様々な絵が描かれ ていました。杉戸は、廊下等の中仕切りとして設置されていたもので、奥宮殿においては襖よりも杉戸 の装飾に重点が置かれました。この資料には、杉戸絵の作者や画題の一覧のほか、11 枚の画像が含まれ ていますが、実際に完成された杉戸絵との関係は不明です。一部の杉戸絵は、空襲で明治宮殿が焼けて しまった際に運び出され、宮内庁や東京国立博物館に現存しています。      

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皇城千草御間格天井綴錦草花図

写 1冊(30 丁) 10 分の1図

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皇居奧表絵画録 

木子清敬編 写 1 冊 明治 21 年 加賀文庫 2063 こうじょう ちぐさ お ま ごうでんじょう つづれにしき くさばなず 木子文庫 W9 内題「皇城千草御間御天井中央一百拾二枚綴錦織草花之図御下絵拾分一縮図」   こうきょおくおもてかいがろく ごうてんじょう しばたぜしん 番号 資料 44 柴田是真の下絵 第2号 杜若 尾花 第8号 薄花 杜若 第24号 ツハ蕗 蕗 第94号 蕗 ツハ蕗 第61号 挟竹桃 海棠 第62号 花菖蒲 茶梅 第63号 海棠 挟竹桃 第64号 山茶 花菖蒲 ふすま

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 明治 22 年(1889)の紀元節 2 月 11 日、明治宮殿の正殿において、大日本帝国憲法の発布式が執り行われ ました。陸軍正装の明治天皇は正面玉座に着し、内閣総理大臣黒田清隆へと憲法が与えられました。明治 天皇の右側には、皇后(昭憲皇太后)をはじめ女性の皇族らが並び、いずれも洋装にて参列している点 は注目されます。また、左側には各国公使らも参列しています。式典後は豊明殿(饗宴所)で夫人同伴の洋 風夜会が催されました。 その後、正殿で伝統舞楽の披露と立食の賜宴があり、午前 0 時過ぎまで続けられ 明治 10 年代に入ると、女性の公式儀礼への参加を促すために、伊藤博文によって女性制服の改革が推 進されました。憲法発布式では、皇后は中礼服(ローブ・デコルテ)を着用しています。絵画の作成に当っ      ては、写真などがなかった当時、式典での服装の色の確認も必要な作業でした。問合せを受けた有栖川家 からは、それに答えて生地が提出されています。色の記録を残すことも必要な作業でした。    このようにして、儀礼の空間・様式・服装の近代化が順次進められていったのです。          

46 

憲法発布式之図 

楊洲周延画 佐々木豊吉 明治 22 年 2 月 23 日 錦絵   46 憲法発布式之図  くろだきよたか しょうけん ありすがわ

47・48

憲法発布式録 

明治 22 年 けんぽうはっぷしきのず けんぽうはっぷしきろく  東京誌料 606-C9 宮内庁書陵部宮内公文書館所蔵 568 / 12848 ました。

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宮城(明治宮殿)造営過程年表

※「第1~3回」各計画案の名称は、明治14年11月24日の榎本武揚らの上申による。 明治6年 1873 皇城(旧江戸城)焼失。赤坂離宮を仮皇居と定める。 明治9年 1876 赤坂仮皇居に謁見所・会食堂を建設する計画が出る。(9月5日着工) 太政官、工部省に明治10年より5カ年の計画による皇后造営を命じる。(翌年、延期となる) 明治12年 明治13年 1879 建設中の謁見所・会食堂に地震による亀裂が生じ、処置をめぐって議論が生じる。 工部省の平岡通義(みちよし)らにより「第一回」計画案が浮上する。(10月1日決定) ○赤坂仮皇居の謁見所・会食堂を旧西丸跡に移築して表謁見所とする。 ○表謁見所の後方に宮内省庁舎、山里(旧西丸御殿の後庭)に常御殿、紅葉山に   女官部屋等を建築する。 皇居造営の分担を決定する。 ○工部省(平岡通義を責任者とする営繕局):表謁見所、洋風建築、建築資材の購入 ○宮内省(櫻井純造を責任者とする内匠課):賢所、奥宮殿、和風建築、庭 1880 ジョサイア・コンドルの地質試験により、旧西丸跡に地質不良の箇所が見つかる。 宮内省、旧西丸跡への皇居造営をしばらく見合わせ、 赤坂仮皇居への木造謁見所・会食堂の新築を提案。 宮内省が「第二回」となる計画案を提出する。(11月29日決定) ○旧西丸跡に石造謁見所を建てることは中止し、代わりに和風木造の宮殿を造営する。 明治14年 1881 榎本武揚(えのもとたけあき)、山里に洋風石造謁見所が建設できるか、コンドルに 地質試験を命じる。(6月20日建築可と報告) 榎本・平岡・櫻井が連名で上申を行い、「第三回」となる計画案を提案し、 これまでの沿革と各案の得失を述べる(※)。 ○山里に洋風石造謁見所を建設する。 ○吹上に奥向・女官部屋・宮内省を建設する。 ○山里ではなく吹上に洋風石造謁見所を建設する「別案」を却下。 明治15年 1882 榎本がコンドルに委嘱していた吹上の地質試験の結果が提出される。(資料30) 宮内省・工部省が「第三回」となる計画案を正式に上申する。(3月17日決定) ○赤坂仮皇居の謁見所・会食堂を山里に移築し、表謁見所(山里正殿)とする。 ○吹上に奥向(吹上宮殿)を造営する。 皇居(御)造営事務局を設置。総裁に太政大臣三條実美(さんじょうさねとみ)、 副総裁に榎本武揚を任命。 榎本武揚、清国駐箚(ちゅうさつ)全権公使となり転出する。 代わりに宍戸璣(ししどたまき)が皇居御造営事務局副総裁となる。 皇居造営事務局の建築掛を課に昇格し、和式・洋式の分担を設けて二課長制とする。 明治16年 1883 宍戸璣、皇居造営の予算案を太政官に上申。 明治23年の国会開設の大典に間に合うよう、明治22年を工期とする。 太政官、洋風石造謁見所(山里正殿)の造営を中止する。 最後となる計画案を決定する。 ○旧西丸跡及び山里に木造仮皇居と煉瓦造の宮内省庁舎、 吹上に賢所・神嘉殿を建設する。 ○旧本丸跡にいずれ恒久的な皇居を造営する。 同時に、皇居御造営事務局建築課における和式・洋式の分担を廃止する。 造営の目途として、明治21年6月までに落成することなどを定める。 造営工事を四区に分割し、それぞれの分担を定める。 明治17年 1884 天覧による計画決定を経て、皇居御造営地鎮祭を執行し、造営工事を開始。 和暦 西暦 月日 出来事

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※「第1~3回」各計画案の名称は、明治14年11月24日の榎本武揚らの上申による。 明治19年 1886 12月31日 宮殿室内装飾および家具取調べのため、片山東熊(かたやまとうくま)らをドイツに派遣する。 明治20年 1887 12月24日 皇居御造営事務局を廃止し、宮内省に皇居御造営残業掛を設置する。 木子清敬も同残業掛専務となる。 明治21年 1888 5月10日 宮内省庁舎が竣工。 6月22日 皇居御造営残業掛、宮内大臣に当初計画の建物はすべて落成した旨を報告する。 6月28日 皇太后宮と皇后宮が造営現場へ行啓する。皇族や官員、その家族に拝観を許可し、 酒饌を賜う。 9月13日 ドイツから購入した装飾品・家具等を試しに陳列する。 9月15日 皇居御造営残業掛、宮内大臣に10月下旬には移転が可能になる旨を上申する。 10月10日 皇居御造営残業掛から宮内省内匠寮に完成した宮殿の引き渡しを行う。 10月27日 宮内省、告示して皇城を宮城と称す。(明治宮殿は現在の通称) 12月27日 宮城諸殿の正式名称を定める。 12月29日 宮内省、図書寮・諸陵寮を除き、宮城に移転する。 明治22年 1889 1月11日 明治天皇と昭憲(しょうけん)皇后が赤坂仮皇居から宮城に移る。 2月11日 紀元節。宮城正殿において、大日本帝国憲法の発布式を執り行う。 和暦 西暦和暦 西暦 月日月日 出来事出来事 謝辞  本展示の開催および本図録の作成にあたり、宮内庁図書寮文庫および宮内庁宮内 公文書館には史料の閲覧に際しご協力を賜りました。記して感謝の意を表します。

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編集・発行

東京都立中央図書館

東京都公文書館

東京都港区南麻布 5 丁目 7-13 東京都世田谷区玉川1丁目 20-1

正徳四甲午六月改紅葉山惣指図 (重要文化財)

参照

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