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こぺる No.017(1994)

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日(毎月1回25日発行)ISSN 0919 4制3

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1994

こべる刊行会

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部落のいまを考える⑫ 部落解放運動新時代の可能性(上) 大賀正行+藤田敬一 第14回 『こぺるj合評会から d生

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「差別は人間存在の根源にかかわるj とされながら、 状況は、いよいよ不透明の度を増しつつあるようにみ えます。なによりも紋切り型の物言いになれて、わが 身の内外に冴えない雰囲気が漂い、しなやかな発想が できなくなっていることに気つ功、ぬわたし。そんな自 分を振り返り、差別・被差別関係を新たな視点でとら えかえす場として、交流会はもたれてきました。 今年も「自分以外の何者をも代表しない」ことを前提 に自由で閥達な議論ができたらと思っています。みな さんの参加を心からお待ちしております。 講 演/江原由美子(東京都立大学) 「差異と差別」 日 程 / 8月27日出 14時 間 会 14時30分 講 演 16時 分 散 会 21時 懇 親 会 8月28日(日) 9時 分 散 会 11時 全 体 会 12時 解 散

人間と差別をめぐって

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固 部 落 問 題 全 国 交 流 会

日 時/ 8月27日出午後 2時∼28日(日)正午 場 所/本願寺門徒会舘(西本願寺の北側) 京都市下京区花屋町通り堀川西入る柿本町 ft075-36ト4436 交 通/京都駅より市バス 9 ・28・75系統 西本願寺前下車 費 用/8,000円(夕食・宿泊・朝食・参加費込み) 4,000円(夕食・参加費込み) 申込み/602京都市上京区寺町通今出川上ル四丁目鶴山町14 阿叫社 TEL(075) 256-1364 FAX (075) 211-4870 葉書か封書に住所・氏名(フリガナ付)・電話・宿泊の 有無を書いて、申し込んで下さい。 締 切 り /8月10日

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五条通

会館 堀 ! 通II 西 本 願 寺 七条通 ー帽ーーーーーーーー

-~

・各地で発行されたピラ・パン フなどを多数ご持参ください。 また第1日目の夜には恒例の 懇親会を予定しています。各 地の名産・特産の持ち込み大 歓迎ですので、よろしく。

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/ 部 落 の い ま を 考 え る ⑫

部落解放運動新時代の可能性

︵ 上

解放運動を始めたころ 藤田 大 賀 正 行 ︵ 部 落 解 放 研 究 所 ︶ 十 藤 田 敬 今日はこれまでの部落解放運動を振り返り、今後 の方向について大いに語りあいたい。まず、あなたが部 落解放運動にかかわった頃の話から。 大賀一九五三年二月に大阪市同和事業促進協議会︵以 下、同促と略称︶ができた。そして松田喜一さんらが各 部落に市同促の組織を広め始めたんです。その波が日之 出にも押し寄せてきた。北井浩一君の親父とか中田善政 さんとかのグループが四

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代で、当時、日之出同和会 ︵ 全 日 本 同 和 会 と は 違 う ︶ 、 今 の 同 促 の 地 区 協 議 会 み た い なのを作った。そして青年も婦人も起こさないかんと。 ︵ 岐 阜 大 学 ︶ 息子の北井君に子ども会を作ったらどうやということに なって、北井君がその話を私に持ちかけてきた。私も部 落解放とは関係なしに仲良し子ども会をやりたいなと思 ってたから、やろかとなった。これが一九五四年夏にで きた日之出子ども会。当時、部落解放とか水平社宣言と か 、 全 然 関 係 な か っ た 。 大阪は、﹁寝た子を起こすな﹂というのがきっかった からね。都市部落は特にきっかった。そういう状況の下 で、松田さんは下手に部落解放運動というても入らへん から、風呂を作り、道路を舗装するとか、地域改善から 手をつけた。すると、部落のボスは部落解放運動はいや やけど、同促ならいいやろと参加してきたわけ。 しかし、本格的に運動せなあかんと思いだしたのは、 乙ぺる 1

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五七年七月に開かれた小一豆島での第一回全国青年集会ゃ った。あれが大きい。そこで全国の運動を見て、ハ l ッ と思うた。大阪がいかに遅れているかということを自覚 したわけや。パスに乗るやろ。そしたら和歌山の女の子 が労働歌や解放歌を歌いよる。私ら、何も歌われへんか った。その時の面白い写真が残ってる。船の上で、一升 びんの酒飲んで、裸になって。そんな兄ちゃんがおると 思うたら、その横に角帽かぶった私がおるわけや。イン テリ学生もおれば労働者もおる、ヤクザっぽい兄ちゃん もおるのが、当時の全青の姿。まさに部落の姿ゃった。 全青から帰ってきて、なんとか大阪も部落解放運動せ なあかんということになり、一一月に青年の有志が集ま ることになった。西岡智、上田卓三、北井浩一、大賀正 行、岡田繁治。そこに立命館で北井の先輩にあたる藤谷 義兼がオルグに入る。西岡を長にして岡田を副部長、私 が書記になって核を作った。 七月の全青でパ l ッとなって、九月に差別事件があっ て 、 一 一 月 に 有 志 が 集 ま っ て く る 。 そ の 前 後 に 、 一

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月 の 終わりゃったかに大阪府連の第六回大会がある。この府 連大会は百人寄ってたかな。そのくらいですよ、当時の 解放運動は。それを見て、なんと少ない、京都らに負け たらあかん、全国一の解放運動の拠点にしてみせようぜ と。若いから元気ゃった。そういう大志を抱いたわけや。 ところが、なんぼ本部へ出て行ってワアワアいうでも あかん。自分の部落を覚醒せなんだら、矢田から一人、 日 之 出 か ら 一 人 と 、 一

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人 二

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人寄るけど、集会が終わ ればおしまい。解放運動は地域でやる運動ゃから、わが 村 に 解 放 同 盟 の 支 部 作 ら な い か ん と 申 し 合 わ せ を 、 ゃ っ た 。 一九五七年九月、そんなところへちょうど差別事件が 天から降ってきたように起こった︵笑︶。うちの地区は もとは大阪市東淀川区日之出町ゃった。それが現在の西 淡路に変わる。日之出から西淡路一丁目に変わる時に、 隣の町の一部が部落の中に入るわけや。それは困る。同 じ町名では部落と間違われる。境界線を引き直せという ことで差別事件になった。それを大々的に宣伝した。青 年部でピラ書いて、﹁差別は生きてたあ﹂いうて。その ピラまだ残っているけど。そしたら寝た子を起こすなと いう連中が、起こすなぁといえんようになってきた。そ んな雰囲気の中で、同促ではあかん、解放同盟の支部作 らないかん、支部作ろうということになった。それに矢

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固に先越されたということもあって、あせってきた ︵笑︶。若い者だけでも支部を作って決起しよう、作った らおっさんらも戻ってくるやろうと。五九年七月に日之 大賀さん 出支部を作った。それがいわゆる﹁日之出の七人衆﹂。 私が二応リーダーやったから支部長になった。 僕が京都田中の朝田善之助さんの家を尋ねたのが 一九五八年の夏、七月の中旬ゃった。青年がたくさん集 まってたなあ。五

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年代後半は、大阪も京都も、部落の 青年が目覚めて、運動の前面にグ17と出てくる時代。 藤 田 藤 田 あの頃、部落解放運動をどう見てたの? 大賀大阪は行政闘争という形でやっていく方針じゃな くて、部落の有力者が集まって府とか市に陳情していく 形ゃな。実態を指摘して、これが人聞が住むとこか、何 とかせんかという形で。国の方も同和事業を復活させて きたから、その受け皿みたいなものとして同促協ができ た。いうてみたら一種の融和的な運動だった。当時一年 一地区一事業とかいうて、今年は日之出の地区に共同便 所を三っか四つ作る。それで終わり。来年はまた集会所 を作る。しかも毎年当たるわけゃない。だから市同促の 理事会は、ぶん取りあいの会議になるわけ。パイが少な 3 こベる

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いから。わが国へ水を引く、これが部落のボスの腕の見 せどころやった。岡田さんがよくいうていたけど、 匹の鯉が一つの楚をっついとるという状態ゃった。 大衆的行政闘争へ 大賀一年一地区一事業いうふうに、上から天下ってき とものを分配する形では、いつになったら部落解放にな るんやと。そこで、大衆を動員して、下からの力で闘い 取っていかなくてはという京都のオルグに飛びついた。 そればそうやったやろうなあ。たとえば、金属ク 藤 田 ズ条例反対闘争にしたって、住宅寄こせの闘争にしたっ て、生業資金獲得闘争にしたって、五。年代の終わりの 部落解放運動というのは、文字通り大衆闘争という言葉 が 当 て は ま る ね 。 そう。そういう時代を我々が作っていかなあかん となったわけや。最初は京都にあった。朝団善之助さん が田中を中心として指導して、その運動を始めた。ちょ うど北井が立命館に行ったので、彼が大阪と京都のパイ プ役になる。﹁大賀、いっぺん京都を見にいかんか﹂と 大 賀 北井に誘われて、田中へ行った。 藤 田 いつ頃のこと? 大賀大阪市立大学の二回生、三回生の頃、五七、八年。 ﹁京参りや﹂いうて。西岡さんも一緒に行くわと。大阪 も京都文化圏に入る。そうすると、同促協の常任理事で もあった松田喜一さんがやっていることがだんだん融和 に見えてくる。朝田さんの方が戦闘的に見えて、若者の 実感に合う。朝田方式を大阪もやらなあかんとなるわけ や。大阪の松田方式は同促協。この同促方式と朝田さん の行政闘争方式の二つが大阪でドッキングされてくる。 私ら、朝田さんの方が正しい、松田さんはおかしいと、 松田批判、同促協批判になっていった。それは今から考 えると見方が間違っていたと思うけどね。松田さんとい う人は水平社時代からの幹部であり、当時、部落解放同 盟常任中央委員ゃから、大衆運動を否定していたわけで はない。ただ大阪の事情から、まず同促協に力を入れて い た ん で す 。 そこへたまたま都市計画ということで浪速筋に五

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メートルの広い道を敷くことになり、立ち退き問題が起 こった。もともと地主はおって、土地は不法占拠ゃった。

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市は地主と交渉し、地主さんは売りますとなるわな。上 に乗ってるのは不法占拠だから追い出せとなる。当然、 反対運動が起こってきた。はじめは反対、反対いうてた けど、反対できるもんやない。そこで松田さんは、この 立ち退き反対闘争を住宅要求運動じ切り換えた。これが 浪速西、成住宅要求期成同盟。大阪における今日の住宅闘 争は、ここから始まった。 それより前、一九五五年には、金属クズ条例反対があ ったけど、意識的、組織的にやった運動は、これが最初。 ついで五八年に、西岡さんらが矢田で生業資金獲得闘争 を始める。こういうふうに支部を作ることと、要求闘争 を始めることがセットになった。 藤 田 大賀 あの当時の要求というのは切実だった。 そう、切実。火がパッと燃えた。 それに、矢田でもそうだけど、住宅寄こせ闘争は 家主との対立を、生業資金獲得闘争は村のボスでもある 高利貸との対立を引き起こす。村の中の問題を抱えなが ら の 行 政 闘 争 だ っ た 。 お 大賀ちょうど、時期が合うたわけやね。青年部として 活動する時期と。朝田さんは一九五一年にオ i ル ・ ロ マ 藤 田 ンス闘争をやるでしょ。これだという自信を得て、行政 闘争の型を作る。朝団さんは自分の方式がいかに正しい か証明したいから、自分の理論に基づく運動を全国的に 作ろうとして大阪に目をかける。大阪は北井が出てきた、 大賀、西岡が出てきたということで、朝田さんがちょっ かいかけてくるわけや︵笑︶。それがパツとなったのが 五九年の教育闘争。義務教育無償とか、教科書無償配付 とか。その教育闘争の中心に私らの日之出が立つ o i 五 九 年七月、日之出支部を作った。そして八月、教育闘争が 始まる。長欠不就学をなくせ、すべての子が中学三年、 まともに卒業するようにせんかいと。私らの同級生、半 分は中学出てたけど、半分はろくに卒業してない。 当時、西淡路小学校でこんなことがあった。﹁宿題を 忘れた子﹂とか﹁給食代忘れた子﹂だとか書いたプラ カードを首にぶらさげられて。一般の子もつり下げられ たけど、一般の子は翌日には、金持ってくる。ところが 部落の子はいつも忘れるわけや。本人は集金袋を親に渡 しているんやけど、親は金ないから﹁忘れたといえ﹂と。 自分に罪の意識がないのにプラカードかけられたら、そ こペる ら反抗しますわな。﹁お母ちゃん、お金くれへん。うち 5

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貧乏や﹂とは子 どもも恰好悪い しミエあるから ょういわん。子 どもなりの精神 的葛藤がある。 時に、そのエネルギーを借りるというところがあった。 藤田矢田で勉強させてもらった時、感じたことなんだ が、五

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年代末から六

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年代にかけての頃は、部落のボ ス支配はきっかったね。村の中は真つ二つに割れてた。 あの時、部落解放同盟矢田支部が組織していたのは約半 分くらい。六

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年七月に矢田部落総合実態調査が行われ、 関西の学生部落問題研究会が十いそつだったかな、集ま うで参加した。調査票を持って行って追い出されたりし たもん。税務署員のような聞き方をする学生もいたから 無理もなかったけど。そうそう、あの時、桃谷の同促会 館から矢固まで上田卓一一一君に車でよう送ってもらった。 大賀解放運動は部落の中の民主化闘争でもあったね。 それに解放運動にはまだ信用もなかったし。矢田には昔、 水平社があったんやけど、悪者みたいな水平社ゃったよ うやな。日之出の場合、年寄りは水平社はええ運動ゃっ たというてくれて、解放運動が受け入れられたけど、矢 ・回の場合は、水平社が今の解放同盟か、あんなんあかん という雰囲気。矢田の方がボス支配はきっかった。 五八年に矢田で生業資金獲得闘争が起こった。五九年 には教育闘争が起こつでくる。子ども会やってたから、 それで﹁教師は 子どもの実態つかんどらんやないか﹂と。そういうかた ちで闘争始めていって、 ι 学校交渉をやる。 し か し 、 ι自分らは闘争の経験がないから京都からオル グじてもらった。大阪の運動に京都が介入してきたわけ や︵笑︶。普通やったら怒らないかんけど、松田さんに はそういうところはなかった。朝凹さんが逆に応援して くれてると歓迎した。 藤田そこが松田さんの度量の大きいところやね。 大賀逆に、朝田さんやったら文句いうよ、大阪から京 都に出できたら。朝田さんは自分はするけど、人がやっ たら怒るところがある。よく=尽都のことに介入する に な ’ 使 」 ,う? で つ お て い た て か ( ら

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田 大 さ 阪 ん に は 介 そ 入 れ し

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認 私 す ら る を と 手 問 先

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うちが中心になったんやけど。その時に日之出と矢田と 西成の三つがそろう。そこへ住吉とか加島とかが結集し て、市内ブロックの骸で闘争した。部落の子どもに義務 教育を保障しろ、学校で差別とか体罰をやめろという形 で始まっていく。それで市内で行政闘争方式が確立する わけ。それを今度、府下に広めていく。そのきっかけが 六

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年 九 月 の 八 尾 市 西 郡 の 闘 争 。 藤 田 あ あ 、 僕 も 一 晩 、 だ け 出 か け た こ と が あ る 。 上田君は、この闘いの中からオルグとして成長し 大 賀 ていく。府連から常駐を一人ほしいといってきて、上田 君がそこへ派遣された。それが上田君を鍛えた。六一年 に高槻富田、六二年蛇草、六三年松原、というぐあいに、 毎年一っか二つの支部づくりが郡部の方で始まった。今 の大阪府連の三分の一くらいのところに支部ができて、 解放同盟の力が出てきたところで内閣同和対策審議会 答申がきたから、まさに﹁鬼に金棒﹂というわけゃな。 我 々 の 運 動 に 大 義 名 分 が で き た 。 同対審答申が出て 藤 田 運動の歴史から見ると、五

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年代から六。年代に やはり大きな画期は六五年の同対審答申だった 入 っ て 、 な

大 賀 それまでは、行政に行って﹁差別はあるか、ない か﹂と聞いたら、行政は﹁ない﹂と答えたもんです。い ろ い ろ 事 実 を 突 き つ け ら れ て 最 後 に は 認 め る 。 一 こ れ が 第 一 の 関 門 。 次 に ﹁ 差 別 が あ る の は 誰 の 責 任 か ﹂ と や る 。 そしたら﹁社会が悪い﹂とか﹁部落の人の責任や﹂とか ﹁行政の責任だ﹂とかいって、長い交渉のあとでやっと ﹁行政の責任﹂だと認める。これが第二の関門。三つめ に﹁差別の実態をどうするんや﹂いうたら、﹁配慮して 重点的にやります﹂という。﹁そんなんあかん。明確に 部落解放をやる目的で事業やらんか﹂とやる。こうして ﹁同和対策やります﹂といわせるまでがまたひと苦労。 ここまでに三つの関門がある。これをクリア l し な い か ん。その中で相手と論争やって、理屈を学習して鍛えて い か な い か ん わ け 。 そ れ を 朝 田 さ ん が 訓 練 し た 。 こ,−..:_る 7

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行政交渉をやる前に練習するんやもんね。そっち に 行 政 、 こ っ ち に 追 及 , す る 同 盟 側 と 分 か れ る 。 朝 団 さ ん が横にいて﹁全然なっとらん﹂というのゃから、そら強 く な る の は あ た り ま え 。 藤 田 それに説得力がなければだめなわけでしょ。市営住宅 入居の抽選に部落の人は参加できない。それは所得証明 がないからと。行政が所得証明を求めるのは当然といえ ば当然かもしれんけど、﹁ク一ズ買いしてる私らに所得証 明出せるんか﹂という話になってはじめて、機会の均等 から排除されていること、つまり行政のいう公正さなる ものが事実上部落民を排除していることが明らかにされ るわけだ。しかも生活の実態に裏打ちされていたから、 説 得 力 が あ っ た 。 大賀﹁差別とは何や﹂と行政に聞くと、﹁指四本出すこ とや﹂とか﹁エッタいうこと﹂とか答える。こちらは ﹁そんなんだけが差別ゃない﹂といって追及する。実態 的差別を認めさせるために、村を見にこいと。部落視察 実現したらこっちのもんやな。実態みたらびっくりする。 わあと思う。﹁これが人間住むところやと思うのか。お 前 ら 、 こ こ へ 住 め ﹂ と か い う て ね ︵ 笑 ︶ 。 ﹁ こ の 水 飲 め ﹂ ﹁ 臭 い ! ﹂ ﹁ こ ん な 水 飲 ん で る ん じ ゃ ﹂ ﹁ こ れ は な ん と か せなあかん﹂となる。部落の実態を突きつけたら、だい た い ど ん な 闘 争 で も 勝 っ た 。 藤田迫力があった。 大賀水平社の時の運動が迫力があったというのは、私 はどこどこで差別受けた、結婚の時差別された、学校で 差別された、と体験談をいうた。米国富さんもいうてた け ど J 水平社には理屈はいらん。寄ったら自分の体験を 語り合う。そしたら、﹁お前もか、私もや﹂と。大阪だ けと違う。鹿児島でも群馬でも京都でもどこでも同じゃ ないかと、一普遍的な部落民の共通感情というものが形成 できた。差別糾弾闘争の中で部落民意識がアイデンティ ティとして確認できたと思う。水平杜がなかったらそん なに連帯できるもんやない。運動が逆に意識を作ってい く。そうこうして表向きには差別事件が減ってくる。水 平社はエネルギーを失って衰退していくわな。だから戦 後は差別糾弾で運動を起こそうとしでもなかなか起きな か っ た 。 そこに朝団理論が出てくる。﹁差別は観念ゃない。実 態の反映である。心理的差別に対して実態的差別がある

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ぞ﹄と。ぞれまで差別と貧困は別の問題として見ておっ て、差別は指四本出したり、エツタゃいうたりすること で、実態は貧困の問題であると二元的に理解されていた。 し か

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、貧困であるという現象形態は部蕗も一般地域も 同 じ や け ど 、 ー 差 別 が か ら ん で い る と こ ろ が 意 味 が 違 う と 。 特殊性を前に出すことによって、はじめのうちは役所は ﹁家に困っているのは一般の人も同じゃ﹂というわけや けど、﹃我々は差別の中からこういう状態になった﹂と 差 別 の 歴 史 を 話 す 。 しかし、行政はもう一つ理解したことがある。朝田理 論を採用したら、そこだけで済む。部落、だけに限定でき るということがわかった。私も五九年の教育闘争で気づ いた。はじめ﹄は義務教育無償、部落の子どもの教科書を 無償にせいと要 求した。そんな ことしたら、部 藤田 落の子だけにじ 妬

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る た む 。 ら 一 逆 そ 般 差 こ の 別 で 子 と こ カf な ちトりは﹁それやったら、すべての子にしたらええやない か﹂。むこうは﹁その通りやけど、ぞれは理想論であっ て、市の財政がパンクする。市財政がよくなるにつれて 徐々に無償配付を広げていきます﹂というのが行政の理 屈ゃった。この時、朝国理論がやってきた。部落は単に 貧乏ゃない。我々は差別の結果、こうなっている。これ が差別の原因になっている。そしたら教育委員会が﹁わ かりました﹂と。部落問題の特殊性はわかった。と同時 に、部落の子どもだけで済むということもわかったわけ や 藤回答申が出て、まもなく三

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年になる。そのうちの 二五年聞は、特措法の時代?七

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年代、八

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年代、そし て 九

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年代の真ん中まで来た。大賀君は、一九八八年く らいから第三期だという。八八年が区切りになるのかど うかは別にしても、新しい部落解放運動の展開が求めら れている時代がきているんだというのが、あなたの ﹃ 第 三期の部落解放運動ーその理論と創造﹄︵解放出版社、 人権ブックレット釦︶や部落解放同盟中央本部の提言 ﹁新たな解放理論の創造にむけて﹄︵解放出版社︶の問題 意識だと思う。そこでね、答申が出てからの三。年の部 こぺる g.

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落 解 放 運 動 を ど の よ う に 位 置 づ け る か 。 大賀同対審答申が出る以前と以後とではガラッと変わ っている。答申が出たために、三つの関門が全部クリ アーされてしまった。運動が前進した。そのかわり、逆 に理屈はいらなくなった J ﹁ 答 申 読 ん だ か ﹂ 。 こ れ で え え わけ。今までは対市交渉しても、役所は﹁差別はない﹂ いうてがんばる。しかし、今度は﹁ああ、そうか﹂とい って同対審答申を渡して﹁一週間後に再交渉﹂とやるわ けや。そして、一週間後﹁課長どうや﹂いうたら、﹁差 別はありました﹂という。﹁一週間前、ないいうてたの と違うのか﹂。次に﹁これは誰の責務や﹂というたら、 ﹁国の責務﹂とか﹁国民的課題﹂だとかいうわけ。以前 やったら一年も二年もかかってもなお崩れなかった壁が 同対審答申という水戸黄門の印篭でパンとやると、﹁へ え l ﹂ と い っ て ひ れ 伏 す 。 答申を読ませて感想を局長にいわせる。そしたら﹁こ れは部落民の血の叫びである﹂﹁第二の解放令である﹂ と か 答 弁 す る 。 行 政 交 渉 で 我 々 が い い っ て き た 理 屈 を 、 答 申が代わっていうてくれる。そういう意味で朝田理論の 行 政 闘 争 方 式 は 、 答 申 に よ っ て 目 的 が 達 成 さ れ た , と い う てもええくらい。朝田理論は実践の理論ゃったが、答申 が出てからは、苦労知らずの連中が増えてきた。 しかも四年後の六九年に同和対策事業特別措置法がで き た た め に 、 一 そ れ ま で 三 つ の 壁 を ク リ ア ー し て も な お 残 っ た 財 政 の 壁 が 崩 れ た 。 一 ﹁ 差 別 は あ り ま す 。 行 政 の 責 任 で す 。 同 和 予 算 を 組 み ま す 。 し か し 、 , わ が 市 は 赤 字 財 政 で財政負担が大きいのでできません。ない袖は振れませ ん﹂と逃げていたところも、特別措置法ができて、国が 予算の三分のこをみてくれるということで、財政の壁も 破れた。それで七

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年 代 に な っ て か ら 、 あ っ ち の 部 落 、 こっちの部落でワ l ッと面白いほど要求が通るようにな っていった。取り過ぎと批判されるような時代に入って いく。基礎的な勉強をしなくてち﹁答申があるゃないか。 大阪でやっているのになぜうちでできんのか﹂という調 子で事業は実現していった。これは一面、運動の発展、 成果やけれど、反面、運動にモノ取り主義や利権などが は び こ る も と に も な っ て い く 。

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あらためて部落解放理論を問う 大賀君は大阪を中心にして部落解放運動にかかわ り、活動を始めてから、まもなく四

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年になろうとして 藤 田 いる。上田君と一緒に解放令五万日の日延ばまでには部 落の解放を実現したいと誓いあったということだが、僕 も朝田善之助さんに教わり、学生時代には京都の田中や 錦林、大阪の矢田などに出かけて勉強してきたし、その 後も、僕なりに部落解放運動にかかわってきた。この三 i 六年間を振り返ってみると、いくつかのことがいえるよ 、 つ に 回 品 、 っ 。 一つは、以前に比べたら部落問題に対する関心が高ま ったこと。それを部落問題の社会化と表現する人がいる けど、僕なんかがはじめて部落問題の現実に出会った頃 というのは、世間の人の関心は微々たるものだった。大 きな声を張り上げても、音を吸い込む壁に固まれた部屋 でものいうてる感じ。五

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年代末頃の社会的な関心はそ の程度でしょ。朝田さんは﹁我々の運動は社会運動の孤 児みたいなもんや﹂というておられたけど、実感がこも っ て い た 。 一一つ目は、部落問題解決のための取り組みが進んだこ と。同和対策事業も啓発・教育もね。行政はもちろん、 学校、労働組合、政党、企業、宗教界、マスコミなど多 くの分野で取り組まれるようになった。 三つ目は世間の

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々の意識が変わったこと。いまだに 自分には関係ないと思っている人が圧倒的に多いことは 間違いないにしても、意識調査では偏見が克服されつつ あるように見える。僕らの学生時代なら民族差別を前提 にした人種起源論が、地域によっては半数だったから。 それがかなりなくなってきている。 四つ目は、部落の生活実態が変わった。この三十数年 間で。各地の部落をまわり、話を聞かせてもらったり、 実状を見せてもらってきたけれど、住宅・環境や仕事、 教育や生活文化も大きく変わった。これは否定できない。 五つ目は、制度、しくみに少しだが変化が起こってき /ていること。履歴書の本籍地記入の問題や身元調べの規 制の問題、さらには面接試験の時に本人以外の家族の職 業を聞かないようにすることとか。ささやかであっても こぺる

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々の意識の変化が制度、しくみを変えつつある。 11

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日之出の子どものように、お金を学校に持っていけな くて首にカ l ドをぶら下げて立たされた?黒板に﹁お金 を忘れた人﹂と名前を書かれたりした。ほんとにお金を 忘れたんやなくて、お金がなかった。しかし、今日では もうそんなこともなくなっている。こうした状況を生み 出してきた力は、基本的には部落解放運動やと思うよ。 それがあったからこそ答申が出され、特別措置法が具体 化された。もちろん日本経済の高度成長がそれを支えた ことも確かだ。それらが一体となって七

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年代に入ると 一 気 に 飛 躍 的 な 状 況 の 変 化 を 生 ん だ 。 ところで、これまでの部落解放理論、朝団さんが定式 化したので朝田理論といわれるものだが、それによると、 部落差別は心理的差別、偏見だけが問題じゃない。偏見 は実態の反映なんだと。つまり一種の反映論です。これ が答申にも盛り込まれ、現在でも差別には心理的差別と 実態的差別があり、実態的差別、ハード面の差別はほぼ なくなり、あとは心理的差別、ソフト面の問題、啓発・ 教育の課題が残っているだけだという言い方があるわけ でしょ。しかし、実態面と心理面とに分けるこのような 理論で部落問題の現状がとらえられるのだろうか。 というのは、差別事象があとを絶たないわけ。落書き、 嫌がらせの電話、越境通学、土地価格の格差、結婚問題 などなど:・。それでね、一つ開きたいのは、これまでの 部 落 解 放 理 論 を ど の よ う に 見 る か と い う こ と 。 大賀朝田理論は、当時の都市部落の実態をうまく説明白 していた。それに基づいて運動も行政もやってきた。そ一 れなりの成果は上がったわけ。上がったことによって、一 朝団理論の生命は終わるわけや。朝田さんのいうたこと− は、朝田さんの予想以上に実現した。ところが、次に出一 てきたのが、ねたみ意識。逆差別の問題に出くわす。一− 連の差別落書事件。成果が上がったところほど出てきた。一 差別は観念ではなく実態や。実態をなくせば差別はなく一 なると。そこで実態をなくした。ところがまた差別が出− てきた。象徴的なのが浪速青少年会館の﹁人の税金でば一 かでかい建物やピルに住みやがって、これが身分の一番− 低いエツタのやることか﹂という落書き。部落民は貧乏一 しているだけで差別されるんじゃなくて、金持つでも差一 別される。これは何なのかという新たな問題が出てきた。一 藤田これまでの部落解放理論では、差別意識について、一 実態が意識を規定するという反映論、支配者が人民を分一

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裂させるために差別政策をとり、人民に差別意識を注入 するという政策注入論、そして﹁杜会意識としての差別 観念は一般的普遍的に存在し、人は空気を吸うように受 け入れる﹂という空気論などで説明してきた。確かに朝 団さんの社会意識論 H 空気論は重要な点を指摘していた と は 思 う 。 しかし、五一年のオ l ル・ロマンス闘争以降四

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年以 上におよぶ行政闘争路線は明らかに反映論に力点をおい ていたわけでしょ。それが現在行きづまっている。八六 年の地域改善対策協議会の部会報告や意見具申は、こう した部落解放理論を逆手に取っている。そのあたりにつ いて部落解放同盟の認識は弱かったんと違うか。 大賀朝田さんは差別についての認識の四段階を指摘し ている。一つは、差別とは世の中の時代遅れの連中が封 建的観念に惑わされて抱く感情だから、この遅れたやつ に 鉄 槌 を 加 え 、 一 糾 弾 し て 反 省 さ せ る 個 人 糾 弾 の 時 代 。 二 つ 目 は 、 A 、

B

、 C という個々の差別者は、実は差 別意識の代表者として出てきているので、差別意識は個 人的な偶然的なものではなくて、社会的普遍的なものと いうとらえ方。社会意識としての差別観念という考えが ここから出てくる。そこで糾弾を啓発的にやる。

A

を糾 弾するけど、同時に、その場に居合わせた多くの人々を それを通して反省させる教育の場に糾弾会が変わってき た。抗議の場所だけゃなしに、それが意識変革の場に変 わってきた。個人的なものから社会的なものとしてとら え る 考 え 方 。 三つ目の段階は、差別は単なる観念じゃなくて、実態 の反映としてとらえる。そこから行政闘争、要求闘争を やっていく。そして朝田さんはのちにこの実態論を深め て差別の本質論とした。主要な生産関係から疎外された ところに差別の本質がある。社会的存在意義というのは 注入論、分裂支配論です。しかし、主要な生産関係から 疎外されているなら、部落民が大企業に就職したら差別 はなくなるのかという質問は当時からあった。 朝団さんが一番力を入れたのは、主要な生産関係から の疎外。問題は反映論をいうた時、それが反映の深い意 味は社会総体から出てくるという反映論とは違うという こと。大衆にわかりやすくするためもあったけど、単純 な 反 映 論 だ っ た 。 こベる 藤 田 五

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年代から六

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年代にかけて、部落の実態を見 13

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ればね、はっきりしてたから。部落の実態の反映として の偏見。その偏見をなくすための実態の改善という考え 方。実態を変之れば偏見がなくなると素朴に信じられた。 そ う い う 時 代 ゃ っ た と 思 う 。 それはそれで運動に影響を与えた。私は前々から あれは解放理論ではなくて運動論であるといってきた。 わかりやすい上に効果てきめんやったから。有効 大 賀 藤 田 な 理 論 だ っ た 。 大賀白運動論的に有効であったというプラグマティック な問題と理論的に体系化するということとの聞には差が あ る 。 解放運動の危機とは 3 部落差別を実態と心理・意識とに分けて、実態は 行政闘争で、心理・意識は啓発・教育で解決していくと いう、ある意味では二元論ともいえる考え方で、部落解 放運動はこの間やってきた。その理論は五

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年代から六

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年代、さらには七

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年代以降の特措法時代に、大きな 役割を果したと思うけど、現在の状況は、﹁部落差別と 藤 田 は何か、実態はどうなっているのか、どうすれば部落解 放は達成されるのか﹂といった部落解放運動の根本問題 を問うている。君の﹃第三期の部落解放運動ーその理論 と創造﹄には、運動の現状に対する危機感が漂っている。 そこで、その危機感の根底にあるものをぜひ具体的に語 っ て ほ し い 。 大賀行政が部落解放運動を支えてきたという一面があ る。答申は部落問題の早急な解決は国の責務であるとい った。国の責務は行政の責務と拡大解釈されて、部落問 題を解決する責任は行政にあるというところから、こち らはなんでも行政の責任に押し込んで、行政からモノや 金や人を取ってきた。だから解放運動は今日、部落解放 研究集会にしろ全国同和教育研究大会にしろ、二万人く らいの人が集まる。今や同和とか部落とかの名がつく集 会は大入り満員。なぜ大入り満員なのか。一つは行政か ら金が出ているから。特別措置法という手厚い保護、あ る意味でつっかい棒に支えられている。 もう一つは企業。人権問題も国際化の時代でやらない かん、人権意識を持たないん︸国際化の時代に企業防衛が できないと。最初は部落地名総鑑の糾弾で目を覚まされ、

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ノ ; アメリカで差別事件を起こして、人権レベルを高めなけ ればいかんとなっ元。それが重なって、我々の運動と企 業が連帯している。そんな関係で同盟員の動員より企業 や行政・教師の動員が多いというように変わってきた。 うもの研究所の解放大学でも、部落のもんはかいもくき ていない。ほとんどが行政と企業。 藤田君の話を聞いてて思い出したんやが、全国部落解 放運動連合会︵全解連︶系の部落問題研究者集会でも、 午前から午後に入ったら六、七割くらいが帰ってしまう らしい。部落問題関係の集会はどことも形骸化している と い 、 つ こ と な ん だ ろ う 。 運動は広がったことは広がった。少々極端にいう けど、肝心の部落の方は、その上にあぐらをかいている。 人権の本やらいろいろ出ている。ところが組織の人聞は ほとんど読んでいない。読んでいるのは企業や行政の人 たち。雑誌﹃部落解放﹂でも外の人聞が読んで、どんど ん人権意識が高まっているのに、支部長クラスの者が ﹁ちんば﹂とか﹁めくら﹂とかいうてる。女性差別の話 を平気でしゃべっている。知らん人は解放同盟は人権に 詳しい人の集まりと思ってる。実態を知った途端に失望 大 賀 するわな、何やと。こんな人聞が部落解放とか人権を叫 んでるのかと。だいぶパレてるとは思うけど︵笑︶。特 措法以後の運動は解放運動かいなと思う。自分もその幹 部 の 一 人 や け ど 。 だけどこんな運動あかんわいと飛び出してしもうたら いかん。そうであればこそ、運動の中でがんばらないか ん。特措法が切れた時に行政が手を引きよる。引いた時 に、バブル解放運動になる。日本経済のバブルもはじけ たけれど、そうならないようにはどうするか。今一番こ れ を 考 え て い る 。 同感だな。世間の人が部落問題に関心を寄せてく れなかった時代を知っているだけに、部落解放運動への 追い風が止まったら:・と、つい思ってしまう。風が止ま な ぜ って凪になるのではない。逆風が吹くんです。そのこと に気づいている活動家は少ないなあ。今、すでに後ずさ り・横向き現象が起こっている。体は後ろ向きなのに顔 だけこちらに向けている人すらいるよ。集会や会議で冴 藤 田 えない顔をじている人がいる。顔を見たらわかる。もう はじけかけている。あなたの問題提起には、そんな状況 を 見 据 え た 危 機 感 が あ る 。 こぺる 15

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大賀危機感を持つでも危機を恐れたらいかん。危機感 を持つことで対応を考えんならん。ゐそれを私が提言して い る 。 藤 田 重要なことは三つある。一つは、部落解放運動は 同和対策事業を拡充することによって部落解放の目的を 達成するという行政闘争論でやってきたわけだけど、ほ んとに同和対策事業が解放につながるのかという大きな 問題がある。現在、事業と解放のつながりが見えなくな っている。説得力のある説明もない。 ノ 私はこれまでは条件整備だったと考えている。こ れからいよいよ本当の解放運動やと。水平社時代は外堀 を埋めて、解放同盟時代は内堀を埋めた。これからは天 守閣に上っていく時代にならんといかん。これから解放 運動をどう作るかということを考えようと。一期、二期 の時代に作った成果を総括して、第三期の運動への足場 として、条件として活用していく。しかし、多くの人は 二期の延長根上でやってて、それが解放運動だと錯覚し ている。朝田さんは、部落解放運動は知らぬうちに、モ ノ取り運動になフていく、生活改善同盟とか地域改善同 盟みたいな組織になっていってるというていた。その傾 大 賀 向に対して、朝田さんは危機意識を持っていた。 藤田老いの一徹と思えるほどだった。ただね、事業は 手段で解放が目的、事業は解放の条件だといっても、モ ノ、金それ自体だけでは解放の条件にならない。条件に ﹁させる﹂ものがあってはじめて、事業は条件に﹁なる﹂ んだから。では、解放の条件に﹁させる﹂ものは何か。 これはむずかしい問題だが、そんな視点で事業を根本的 に総括する必要があるんやないか。 一一つ目は、啓発・教育によって心理的差別は解消する かという問題。同盟は差別事件が起こると、﹁啓発をや っているか。啓発が市民に届いていないではないか﹂と 批判するけど、そもそも現在の啓発・教育が心理的差別 の解消につながっているのかどうか再検討する必要があ る。研究集会などで議論されているようだが、もっと現 状に切り込む議論をしてほしい。 三つ目に、共同闘争が同盟のいう共生・連帯の思想を ほんとに作ってきたのかどうかという問題。共闘が空洞 化 し て い な い か ど う か 。 この三点について君の考えを聞かせてくれるか。 ︵ 以 下 、 次 号 へ つ づ く ︶

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第 M 門回マ﹂ぺる﹄合評会から 唐津隆之さんの﹁仏教と平等・差 別﹂︵六月号︶を取り上げた今回も 参加者が多くさ二人︶、梅谷繁樹 さんのコメントを初めとして活発な 議論がなされ、いい会になりました。 ﹁慶淳氏の論文、話とも、とても面 白く、年来の公案が解けかけた思い です﹂との感想が寄せられています。 まず仏教と近代的人間観としての 平等思想との関連が話題になりまし た。贋津さんは、仏教には西洋近代 市民革命に由来する平等観を自明な ものとして受けとめる思想的原理は ないと断定する。仏教は﹁生まれな がらの平等﹂を認めていない。人間 は純粋無垢の白紙状態でこの世に生 を う け る わ け で は な く 、 ﹁ な に も の ﹂ かによって存在そのものが規制され ているのであって、その﹁なにも の ﹂ か 自 体 、 一 言 早 莱 に よ る 仮 の 想 定 に す ぎ な い と い う の で す 。 日本仏教の歴史に平等観は見られ ないのかどうか、もっと厳密に検討 すべきではないかという意見も出さ れましたが、仏教と自然法的平等観 をウヤムヤのうちにつなげる発想を 絶 つ べ き だ と の 唐 津 さ ん の 主 張 は 、 社会正義としての平等観の再検討を 求める積極的な提言だと、わたしは 理 解 し ま し た 。 次に、仏教は現代の差別問題にな にを提起しているかということが議 論になりました。﹁祝福された単一 性﹂が破られ、自己と他者が絶対的 根拠もない社会的制度において、価 値的に区別されていることが差別で あり、自己の言語活動︵私の業︶に よって﹁祝福された単一性﹂が破ら れ、自己と他者に分裂し、他者が被 差別の状況に陥っているのだから、 ﹁一であること﹂を生きる者にとっ て﹁他者の痛みは私の痛みになって い る は ず だ ﹂ と 、 贋 津 さ ん は い う 。 あ る い は そ う か も し れ な い 。 た だ 、 自己と他者というこ項対立的な人間 観に深くからめとられているわたし の よ う な 者 は 、 ﹁ 祝 福 さ れ た 単 一 性 ﹂ ﹁一であること﹂をあらかじめ想定 する考え方に、どこかなじめないも のを感じてしまいます。﹁他者の痛 みが私の痛みにならないところがあ る﹂という現実からしか出発できな いのです。﹁一であること﹂を実現 する回路はなにかとの質問に同感し た の も そ の た め で し ょ う 。 いずれにしても唐津文によって差 別問題を媒介に、あらためて仏教が 現代に生きる思想として呈示された ことはたしかなようで、今後の議論 が 待 た れ ま す 。 ︵ 藤 田 敬 一 ︶ ※八月の合評会は休みます。 編集・発行者 こぺる刊行会(編集責任藤田敬一) 発行所京都市上京区寺町通今出川上ル四丁目鶴山町14 阿I吟社 Tel. 075 256 1364 Fax 075 211 4870 定価300円(税込)・年間4000円郵便振替 010107 6141 第17号 1994年8月25日発行

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年代末、知 恵や才覚を 働かせ て暮ら しを 支えてきた生業 の 多く は 、 その姿を消 し ていった | | い ま 、 そ の 意味を 問 う 。 − 四 六 判 ニ ニ 四 ぺ l H ン 定価二、二八 O 円

中世の民衆と芸能

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京都部落史研究所編 華 麗な俳風や絵巻 物 は 、 当時の人々の 生 業や 息づかいを今に伝える 。 躍動する被差別民 の 姿 を素直に見つめ、中世社会での文化史的意 味 を 問う 。 定価二、

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京都部落史研究所編 近世政治起源説を超 え て 、 部落史における中 世から近世に 生きた 人々の生活の有り様を 素 直 に見つめ 、 その文化史的意味を聞い 、 身分 制を考える 。 定価二、 二 ハ 三 円 、、司J

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一七号 一 九九四年八月 二 十五日発行 ︵ 毎 月 一 回 二 十 五 日 発 行 ︶ 一 九 九 三年五月 二 十 七 日 第 三 種 郵便物 認 可 定価 三 百 円 ︵ 本体 二 九 二 円 ︶ F拭 075-211-4870 発 売 阿 昨 社/ 京都市上京区寺町通今出川上ル四了目鶴山町14Tel 075-256-1364

参照

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