木 更 津工業 高等 専 門 学 校 紀 要 第 30 号 (1997) 53
海
防艦
「
志 賀 」 小 史
(
海洋
公 民 館
「
こじま
」
へ の変
遷
)
平
安
隆
雄
*AShort
History
on
An
Escort
Vessel
,
SHIGA
Takao
HIRAYASU
Summary
:Toward
the
end of thePacific
War,
Japanese Navy built 189
escort vessels.
These
escorts engaged inguarding
the merchant marines which sailed from oversea territories against US submarine attacks.
Almost allescorts were
Iost
during
the war,
but out of aliJapanese
imperial
vessels only SHIGA sti]1 survives atChiba
City.
SHIGA ,
changed her duty and her name toKOJIMA ,
had
taken the role as a comrnunity center untill
993.
Now itis
said that she is going tobe
scrapPed.
Key
Words
;shiga,
Kojima,
Escort,
us Marine,
Pacific
war
は じ め に
わずか半世 紀 前の こ と でも出 来
事
と しての 歴史的事 実 は 人々の記 憶か ら薄れ去 り, 事 物としての 歴 史 的事
実 も 確 実に風 化し てい く。 「歴 史 と は過 去 と現在の 不 断の対 話である」と はE ・H ・
カー
の名言であ る が, 夥 しい 事 象が 瞬時のうちに過 去の事とな る現代の 世 界 に あっ て は,
現 在存 在す る 歴史的事 物を通じて過 去を浮か び 上が ら せ る事,
即 ち,
その事
物 が具 体的にどの ように形 成 さ れた か を 後 世 に 記 録 してお く事や,
その中で現れ る問 題 点 を検証する とい っ た 作 業 を す る事が 歴史家に とっ て必 要だろう。今
,
太 平洋戦争 末 期に建 造 され た旧日本 帝 国 海 軍の艦 艇が姿を消そうとし てい る (1)。 千 葉 市 稲 毛海 岸に保 存 されてい る海 防 艦 「志 賀」 (改 名され て 「こじ ま」)
が そ れ である。
戦 後 半 世 紀 以 上 が経過 した現 在,
帝国海軍 時 代に建造さ れ た艦 艇で その姿 を 留め てい るの は数 少ない が (2),
そのうちの1
隻が 「こ じ ま 」 なの であ る。「志賀」が 「こ じ ま」へ と変わ っ てい く姿 を 通 して
,
太平 洋 戦 争 末 期 と 戦後の混 乱し た一
片を 垣 間見て みた い o 1人 文学 系・
歴 史1
海 防 艦の建 造 海 防 艦 建 艦の構想はロ ン ドン軍 縮 会議にその起源を求 め る こ と が出 来る。第
1
次 大戦後二 つ の大 き な 軍 縮 会 議 が開か れ た。19
22
年の ワ シン トン軍 縮 会 議 と1930
年の ロ ン ドン軍 縮 会 議で ある。 ワ シン トン軍 縮 会 議で締 結さ れ た条約は 主力 艦に関 する協 定で,
その 内 容 は 条 約締 結 国は10
年 間にわ た り 主力 艦の 建 造を停止 し,
各国 が 保 有できる主 力 艦 と空 母の合計 トン数を定め る とい う もの で あっ た。 こ の結 果英・
米・
日の 主力艦 保 有比 率は5 ・5 ・
3
と な り,
日 本の 主力 艦 保 有 トン数は31 .
5
万 トン となっ た。
主力 艦 と は1
万 トン以 上,
備 砲8
インチ以 上の 空母を除 く軍 艦を さ す。
1
万 トン以 下の 補 助艦 制限に関し て は協 定が 成立で き なかっ た とい うこ とか ら各国で 工万 トン以 下 クラ ス の巡 洋 艦,
駆 逐 艦の 建 艦競 争が 始 まっ た。
主力 艦の欠を補お うとする考えである。 補 助 艦 と は,
巡洋艦 (軽巡,
重 巡)・
駆 逐 艦・
潜 水艦 等の こと をい う。軍備制 限の 最 初の提 案者であっ たア メ リ カ は軍 備 縮 小 をモ ッ ト
ー
として い た国 際 連 盟 を 利 用し,
クー
リッジ大 統 領が国際 連盟軍 縮 準 備委員 会で 第2
次 軍縮 会議を 開か せ る ことを呼びかけた。 こ れが 工927
年の ジュ ネー
ブ 軍 縮 会 議であ る。 しか し こ の会議は英・
米の 海 軍 構 想の 違い か ら協定 が 成 立 せ ず1930
年の ロ ン ドン会議に持54 平 安 隆 雄 ち越 しとなっ た。 ロ ン ドン会議では最 終的に補 助 艦の各 種につ い て の保 有 量 が定め ら れ
,
補助 艦全 体の総 ト ン数 の比率が決定 さ れた。 ロ ン ドン海 軍 軍 縮条約の 成立であ る。この条 約は
5
称6
条か ら な る。 この1930
年成 立の 条 約で の駆逐艦に関す る 定義と制限は次のような もの で ある。 (3) 「駆逐 艦の最 大 排 水量は1500
トン,
備 砲は5 ,
1 イ ンチ を越え るこ とは出来ない 。 た だ し合 計トン数(
一
国 の駆 逐 艦 合計 トン数 )の16
パー
セ ン トを を越 え ない 分 だけ最 大1850
トン とする事が出 来る。
」 そしてこ の条 約で は次の タイ プの 艦艇は除 外 され た。 a600
トン未満のものb 600
トン以 上2000
トン未 満で次の4
点を持っ て い ない もの。12346 .1
インチ を 越 える備砲4
門を越 え る3
インチ以上 の備 砲 魚雷20
ノ ッ トを 超え る速 力こ こ で駆逐艦を 補 うもの として条 約 制 限 外の駆逐 艦に 準 ずる艦艇 を建 造 するとい う思 想が現れ る。 ロ ン ドン条 約 締 結の 結果イ ギ リス な どでは
1000
〜
1400
トン, 速 力16 〜20
ノ ッ トク ラス の 条 約の 枠 か ら は ず れた艦 艇を建 造し始め た。 こ の 対 潜 対空 兼掃 海 用として の艦 艇をスルー
プ (sloop)
と称した。 ス ルー
プは船 団 護衛を 主任 務とした。
第2
次 大戦 がは じまる と 兵 装と速力低下 を犠 牲にし少し小 型 化 し た船 団護 衛 艦を 大量 建 造し始め た。 これ をコ ルベ ッ ト (corvette >と呼 ぶ。
コルベ ッ トは 大 西 洋の ドイツ潜 水艦か らの船 団護 衛 に専従し た が ドイツ潜水 艦か らの攻 撃が熾 烈にな る と新 たな建 艦 思 想に基づい て1500
トン, 18 〜 20
ノッ トの護衛 艦を 作 りは じめ た。 こ の タイ プの艦をフリ ゲー
ト (frigate
)と称 した。 こ うした種 類の艦は 魚 雷 を主 兵 装と し高速で 攻 撃する とい っ た駆逐 艦 (destroyer
)とは 区 別さ れ る。
こ う し たス ルー
プ,
コ ルベ ッ ト,
フリ ゲー
トなど の よ う な 船 団 護衛 艦を総 称し た艦をエ ス コー
ト (escort )と 呼んで い るの である。
太平洋 戦 争 時 建造 さ れ た 海 防 艦はこのエ ス コ
ー
トに相 当する。 「志 賀」もこの 部類である。しか し日本海軍で海 防 艦と名付 け ら れた艦は明治か ら 存 在する。 明 治期 建造の海 防 艦は本稿の主 題を な す 「志 賀」の ような昭和 期の海 防艦 と名 称が同 じ であっ て も艦 の形 態は まっ た く異 な るタイ プのもの であっ た。
明 治 期の 海 防 艦 で初 期に造ら れ た もの で は 「松島 」 「厳 島 」「橋立」の
3
艦。 これ らは3
艦 と も皆排水量42
78
トン,
速 力16
ノ ッ ト,
32
センチ砲1
門で 日清戦 争当 時の 主 力 艦であっ た。 日本三景の名が付い てい るの で 三景 艦 と し て有 名である。
これ ら3
艦は日清戦争にお け る黄 海 海 戦で清 国の 戦 艦 「定遠」, 「鎮遠」ら と交戦 し 世 界海 戦 史上名を残 すこ とに なる。 こ の3
艦は 日露 戦 争 の 日本 海 海 戦に も参
加 してい る。1898
年(
明治31
年 ) 「軍艦 及 水雷 艇 類 別等 級 標 準 」が制 定さ れる と海 防 艦は, 戦 艦・
巡 洋 艦に次 ぐ軍艦 の一
種と して定 め ら れた。 (4) 日本の沿 岸 警備の任務 を 目的 と す る。
こ の時 海 防艦に等 級を定め,
7000
ト ン 以 上の 艦を1 等海 防 艦,7000
〜3500
トンのもの を2
等海 防 艦,3500
トン未 満の もの を3
等 海 防艦と 分 類 し た。 平易に表 現 する と,
やや 高速で攻 撃 力も大き いが,
艦側に戦艦・
巡洋艦の ように 防禦 装 甲を備えてい ない大 型 艦とい っ た とこ ろで あろ う。
日露戦争以降 老 朽 化して い る が ま だ余 力がある旧 式の 戦艦
,
巡洋 艦 等を海 防艦 として編入 し,
沿 岸や港 湾 など の 局 地警備,
後方 支援などを行わせ た。 横須賀に現在記 念艦 とし て保 存さ れて い る戦 艦 「三笠 」も一
等 海 防 艦 と なっ てい る。 日露 戦 争当時海 防艦とし て存 在して い た艦 で太 平 洋戦争終 戦後 まで無 傷で生 き残っ てい たの は19
21
年 (大 正10
年 )に装 甲巡 洋艦か ら1
等海 防 艦 にな っ た 「八 雲」だけである。 もっ と もこ の 「八雲 」は19
42
年 海防 艦の籍をはずさ れ て1
等巡 洋 艦に戻っ た。 終 戦後 「八 雲 」は復 員 輸 送 任 務に就い た 後 解体され た。昭和に入っ て か ら
,
ロ ン ドン海 軍 軍 縮条 約下でイ ギリ ス 同 様 条 約 制 限外の小型沿 岸警備 艦を海 防 艦の名の 下 に 建i造 しようとした。 これ は次の ような事.
情 にもと つ く。 「「オ ホー
ツ ク』海ノ漁 業 保護ヤ支那沿 岸ノ警 備ニ ハ 旧 式 駆 逐艦ガ充テ ラレテ イタ ガ次 第二 老朽ニ ナ ッテ来テ代 艦 建 造ヲ要シ タ。 当 時 倫 敦 条 約デ駆逐 艦ノ合計 噸数ガ制 定 セ ラ レ新造 駆 逐 艦ヲ之二 充テ ル訳二 行カヌ トイフ ノデ新 シイ警 備 専 門ノ艦ヲ制 限外ノ艦 艇 ト シ テ造ル トイフ議ガ 起ッ タ。 昭 和6
年ノコ トデ アル。 此ノ時 新二 海 防 艦 ト イ フ類別ガ新 シイ意 味デ登 場シ テ来タ。
」〔5)つ ま りこれ は
従 来オホ
ー
ツ ク 海,
千島列 島方 面の警 備や漁業 保 護の た め 「第一
駆 逐 隊」 1 隊 (4
隻)が 充て ら れてい たが,
それらの駆逐 艦 が 老 朽化 してき た。 しか し そこ に新 造の駆 逐 艦 を 充て る の は,
ロ ン ドン条 約で駆 逐艦の保 有 量の制 限があるの で もっ たい ない,
そこ で駆 逐艦に準ずる タ イ プ の艦で条 約 制 限 外の 艦をつ くり海防 艦としそれ を充て ようとい っ た事情で あ る。しか し これ は 当 時の 世 界 恐慌の波を受けた緊縮 予 算の 都 合で実 現不 可 能であっ た。
やがて
1935
年12
月に第2
次ロ ン ドン会 議が開か れると,
永 野修 身 全 権が,
軍縮の 基 本 理念と し て会 議 参 加国が参 加国の艦 艇の保 有量の 最 大 限 を共 通に せ ねばな ら ない と主張し,
等差 比 率 に 固執 するイ ギ リス・
アメ リ カ と全面的にぶ つ かっ た。
それ に よっ て 日本はロ ン ドン海 防 艦 「志 賀 」 小 史 55 会 議 を脱 退し た。
1936
年 末 を もっ てロ ン ドン海軍 軍 縮条約 が 無効になっ た。 1933 年に国 際 連 盟を脱退してい た 日本 は 既に ワ シ ン トン条約 廃 棄を通 告してい た ため , こ こに おい て二 つ の海 軍 軍 縮 条 約の掣 肘か ら解き放さ れ る こと と なっ た。
この 後 自主的 な 軍 備に取 りか かる の が可能に な っ た時 代 が 来 た。 い わ ゆ る 無条約 時代の到 来である。無 条約 時代 最 初の艦 艇 新 造計画 は
1937
年 (昭和1
2
年 )の第3
次艦 艇 補充計画(
略称計 画 )である。 こ れ は
1937
年か ら41 年に至 る5
ヵ年で艦 艇70
隻を 建 造 する とい っ た 計 画 で あっ た。
こ の計 画に従っ て昭和 時代 最 初の 海 防艦が造ら れる こ とになっ た。
1937
年三菱 重工業神 戸 造 船 所 重工業 東 京本 社に艦 船 計画 課が作ら れ, こ こ で海 防艦の 基本 計 画 が 出来上 がっ た。 民間で軍艦の構想 が 練 られ たの はこれ が は じめて である。’
t
ゆ
そ して
39
年か ら40
年に かけて 海 防 艦 「占
守
」「国 後 」 「八丈 」「石垣」の4
隻がこ こ に誕 生 す る。 こ の4
隻 は以 来終戦 まで に造ら れ た189
隻 (う ち未 完19
隻)
の海 防 艦の 嚆矢 と な る。 これ らの4
隻は 「占守 」型 と呼 ばれ る。
海 防 艦は初 期におい て はい ずれも 国内の 島の 名 前 を付けてい た。
これ を名 前 艦とい い,
後に は単に番号 を付けた海 防 艦 が 登 場 す る がこ れ を番 号 艦と称した。 「占守 」は千島 列 島の 最 北 端にある島 (現 在は 地図で シ ュ ム シュ と表記 されて い る)
で カム チャツ カ半 島の す ぐ 南に位置 してい る。 「石 垣」と は沖 縄が ある南 西 諸 島 南 端の島,
石 垣島。 「国 後 」,
「八丈 」は そ れ ぞ れ国 後 島,
八丈 島を意味 する。計 画の中で, この
4
隻の 海 防 艦 をつ く る目的が 上述 のような北 洋 警 備・
沿 岸 警備 を主 とす る とい うこ とであ っ たの で艦 名も恐らくこうし た事 を考 慮して4
隻の名 前 と も北 洋警備・
漁 業の要地 の 島の名前を付 けたの で は な い かと考え ら れる。 だ とするなら占守とい う名 前 は象徴 的で も あ る。
ただ 注意せね ば な ら ない の は
,
艦 名と その艦の任 務地 との 問に は結びつ きは無い。
例 え ば 「占守 」は 三井玉野 造 船所 (岡 由 県)で竣 工 した後,
舞 鶴 鎮 守 府に編入 され,
1945
年4
月までマ ニ ラ・
昭 南・
仏 印・
台 湾 等の南 方 方面で輸 送船 団護 衛にあたっ て い た し,
ま た,
逆に 「石 垣」は名 前とは 正反対の北洋 警備に最 初か ら最 後まで従 事して い た。
この 「占守」 型
4
隻は北 洋警備に使 用する以外にも戦 時には護 衛にも充て る事が 可 能 な よ うに対潜の能力も有 してい た。
太平 洋戦争 前の 「占 守 」 型の特 徴は福 井 静 夫 に よれば次の 通りである。 (イ)防 寒 施 設 を完 備し た。 補 助 罐
2
基を搭 載し,
強 力に蒸 気 暖房 を 行 うこ と。
(ロ ) 造水 装 置を有 する。 (ハ ) (二 ) (ホ) (へ ) 寒 地で は露 天 部 が 凍 結 してい る か ら, 艦 橋 よ り 後甲板ま で 構 造 物 を利用 して艦 内交 通が出 来る こと。 凌 波性を良 くする た め に乾 舷 を大 とし,
復元性 を良 好にする た め艦の 長 さ を 短 く し,
吃水を比 較 的大きくし た。 艦 首よ り中央 部まで水 線附近の外 板を 厚 く して 流 氷に備 え た。 な お・
般に船 体構 造を丈 夫とし,
二 重底は艦の全体にわ たっ て設 け, 之 を 下 甲 板 まで達 せ しめ た 状 況 に よっ ては 熱帯 海面で使 用 する ことがあり 得るの で,
通 風 を 十 分に したこ と。以 ヒで厳 寒 地で の警備 を重視してい たこ とが読みとれ る。
「占守 」 型就 役 後は成 績 が 良好であっ た とい う事か ら これ の量 産を目 指 した
。
こ の 対 潜 護 衛 を 目 的 とする量 産 型が 「択 捉 」型 海 防 艦 で あ る。
こ の量 産 は日米 開 戦 前1
941
年9
月に発 表され た戦 時 艦 艇 建 造計画に基づ く。 日米 開 戦 後,
この 計 画は更に増 強さ れ,
すべ ての艦 艇 を 通 じて建 造所 要 期間 を短縮せ よ とい っ た課 題 が課せ ら れ た。
42 年に簡 易 化 し て起工 され たのが 「御 蔵 」 型で,
この 艦 か ら耐寒設備や対 氷 構造を廃 止し,
補助 罐 (艦内 の暖房 用 としても使わ れてい た ) も搭 載しなくなっ た.
更にそれを 簡 易化した44
年起工 の艦が 「鵜來
」 型であ る。どの程度船 体 構 造 や 艤 装で簡易 化が な され た かは造 船 学に知 悉して い な け れば窺い知るこ とは出来ない が, 目 安と し て造 船工数が どの くらい減じ られ た か とい うこ と で判断する こ と は出 来 よ う
。
「占守」型 は工数9
万,
「択 捉 」 型は7
万,
「御蔵 」 型は5
万7
千,
「鵜来」型 は4
万2
千,
「鵜来 」 型で 45 年 建 造の もの は3
万 とい うほど にも なっ た。 「鵜 来 」 型か ら は外 見で容易 に その 簡易 化 を 見 るこ と ができ る。T.
期を短 くする た めT.
作が 面 倒 な 曲 線 部 分,
:二重 曲 線 部 分 を極 力 廃止 し た。 例 えば船 首・
船 尾・
舷側 はこ と ご と く平 面に し てい る。 船尾はい わゆ る トランザ ム・
ス ター
ンで垂直に切っ たような 形 をし てい る。
煙 突 も円 形 を止め て六 角 形 型に し,
しか も後 傾さ せずまっ す ぐに 立て た。
ブ リッ ジな ど も丸みを帯びた部分は皆 無で ある。佐 世保 海軍工廠で造ら れ た 「志 賀 」はこ の 「鵜来」型 に属 し
,
現 在の 「こ じ ま」にもこうし た特 徴 を 周 囲 (特 に艦 首部 分〉か ら 見る こ とで読み と れ る。 写 真参照。
(もっ と も煙 突は戦 後 変 え ら れ現 在は楕 円形になっ てい る。)諸 艤装品 も日 常 生 活の 不 便 も度外 視する方針を と っ た
。
た と え ば細か なこ とで あるが ± 官 室に黒 板 を置く の をや め て壁 を黒 く塗 りそ れの代 用 品 と し た り,
外 套掛 け は鉄 釘 を 斜め に打ち付 けるとい っ た こ とが行わ れ た。56 平 安 隆 雄
44
年に は 「鵜 来 」型に簡易 化に簡 易 化を か さ ね た 海 防艦が 設 計 され,
それ ぞれ丙 型 海 防艦,
丁 型 海 防 艦 と呼 ぶ よ うになっ た。 こ の丙 型, 丁 型か ら は も う艦 名に島の 名前が付 けら れてい ない 。 丙型と丁 型の基 本 的 な違い は 丙 型が デ ィー
ゼル機関で推 進 軸が2
軸,
丁 型 がター
ビン 機関で1
軸。 丙 型は終 戦まで53
隻 建 造 され,
丁 型は6
2
隻造られ た。 丙型は 「第1
号 」か ら 「第227
号 」ま で全部奇 数の 番号が付 けられ,
その番 号 を艦の名 称とし た。 丁 型は 「第2
号 」か ら 「第204
号 」まで偶 数の番 号と な る。工期 短 縮の更な る徹 底化 は 特 にこ の番 号 艦でな さ れ た
。
番 号 艦は 起 工 か ら 竣 工 まで4
ヶ月が 目標。 「第19
8
号 」艦な ど は三菱 重工 業 長崎 造 船 所で45
年1
月17
日 に起工 し,2
月26
日に進水,3
月31
日 に竣J
二して い る。75
日間 とい うレコー
ドである 。 尚,
丙型の艤 装で は 「諸 室 倉 庫 共 大 部屋 主義ヲ採 ッタ。 第二士官 室ヲ廃シテ第一
士官 室ト合 同ト シ タノ モ此 ノ型 ガ初メ テ デ アリ 之ガ実現ニ ハ 軍務 局デ可成 リノ抵 抗ガア ッタ。」と福 井 静 夫が書い てい るのが 面 白い 。 こ の期に 及んで も士官の 特 権に固執し よ う とす る 海 軍省のエ リー
ト優先の体質を あらわし てい る。
海 防 艦の建造は横 須 賀
・
呉・
佐世 保・
舞 鶴各 海軍工廠 以外に 民間 造船 所でも な さ れ た。
各海 防 艦の 竣工場 所は本文 末 尾資 料の とお り。 (7)終 戦時 未 完 成も含め て計 189 隻である。 海 防艦 第
1
号の 「占守 」が第2
号の 「国 後 」より竣工 が遅い 。 こ れ は 「占守 」が 起 工38
年11
月 に起工 したが,
い わ ばパ イロ ッ ト シ ップであ るの で それだけ時 間を か け たこ とに よ る の であろう。 「国後 」は39
年3
月に起工 してい る。
1944
年には102
隻の,45
年には61
隻の海 防 艦が 誕 生した。
ほぼ3
〜4
日に1
隻のペー
スで造 られた こ とになる。 これ を次の 表で駆 逐艦の建 造 数と比較して み ると,
い かに簡易化され た海 防艦が日本の海h
護衛 戦 を支えてい たとい う事が理 解でき る。 年度1942
1943
1944
駆逐艦11
11
24
海 防 艦0
16
102
1945
1761
魚 雷 を 兵 装 した重 装 備・
高 速で攻 撃型の 駆 逐 艦か ら,
対潜を主 とし己を守るた め だ けの対 空 兵 装 を従とした護 衛 を基 本 とする海 防 艦へ の大量建艦政策の転 換は,
ま さ しく戦 争の最 終局 面の 様相を 呈 してい る。
ll
海防 艦 「志 賀」
の航 跡さて
,
「志賀 」は終 戦4
ヶ月前に造 ら れた。 「志 賀 」は1944
年 11 月25
日 に起 工 さ れ,45
年2
月29
日 に進水, 3
月17
日試運転, 3
月20
日竣工 と なっ た。 上記の よ う に189
隻の海 防艦の う ち 殆どが 民 間の造 船 所で建 造 され て18
隻だ け が 横 須 賀 や佐世保の海 軍工廠 で造ら れて い る が 「志賀」は その うちの一
つ である。「志 賀 」の 終戦 までの お も な動向を見て み よう。 海 防 艦 行 動 調書 (8>
,
及び 「死闘の海」(9)によ る。「志 賀 」は佐 世 保 鎮 守 府籍に入 り
,3
月20
日呉防 備 戦 隊 対潜訓練 隊に編 入 され た。
こ の訓練 基地 は大分県の 佐 伯 湾にある。3
月27
日に佐 世 保 を出, 30
日 に関 門 海 峡を通 過し,31
日午前8
時に佐 伯入港。5
日も か か っ てい る が これ は 機 関の数回にわ たる故 障や米軍の磁気 機 雷の た め関門海峡が な か な か通 過 出 来 な か っ た た めQO
)であ る。 佐伯 では4
月1
日,
司 令 官西岡茂 泰 少 将の 訓 示が午前 中 に あ り,
午 後から訓練の準備にか かっ た。「志 賀 」に は 14 歳の 少 年 兵
4
人 が 乗っ て お り,
訓練 は熾 烈を極め た。 な お,
海 防艦 乗 り組の士官に は艦 長に も海兵 出 身 者 がお らず,
殆どが高等 商 船, 水産講習所 出 身者であっ た り,
一
般 大 学をでた 予 備 上官であっ た。「志 賀 」の艦長は東 洋汽 船の 欧 州航 路の船 長 経 験 者
,
航 海 長 は日本 郵船のニ ュー
ヨー
ク航 路の 航 海士,
機関 長 は大 阪商 船,
航 海士 はLE
井 船 舶の 出身であっ た。佐 伯での 訓 練が
1
週 間に も 満たない4
月5
日,
訓練中 の 「志 賀 」に対し て豊 後水 道 南 方対 潜 掃 討の出撃 命令 が 出 され た。こ の命令は
, 4
月1
日 に 沖縄上陸をした米 軍へ の 海 上 特攻 作戦幕 菊水1
号作戦で 出撃 する第2
艦隊の 前 路 掃 討 を行え とい う もの で ある。 第2
艦 隊には 戦 艦 大 和 が 属す る。 つ ま り大 和 を敵 潜 から守 り無 事に豊後 水道を通 過さ せ よ とい っ た もの であっ た。翌
6
日午 前作 戦 打ち合わ せ を行い,
13
時に海 防艦 「192
号」と共に出撃。 各艦2000
米の 間隔,
巡航ノ
ト 速 度6
節 で掃 討 隊 形を作っ た。そ して, 早速 その 日 の夕刻米潜水艦を捕 捉した。 こ こ から対 潜攻 撃が始まる
。
普通
,
戦 闘 詳報は主 計 長が作 成 し報 告する が,
「志 賀 」 のすべ ての戦 闘 詳 報 と隊 員 名簿は,
終 戦 と同 時に, 戦 犯 と な るの を恐れ (敵 潜 水 艦を沈め た 為 )佐世保につ く前 に全 部 焼き すて てお り,
防 衛 庁 戦史 室に も存 在し ない 。 た だ,
「海 防 艦 戦 記 」に,
この 時の戦 闘が 詳 細に書か れ てい る。 そ れによ ると この 戦闘は以下の ように展 開 し た。「夜 間 に 入 り
18
時 頃 味 方の零式 水 偵数機が協 力,
や がて水 偵の 中の一
機か ら 磁 気 探 にて敵 潜を捕 捉し相次い で爆 撃を開始した。
こ の時 志賀 水 測 部の三式探 信 儀 も2
000
米の距 離に敵 潜を捕 捉 し,
その距 離 と方向を艦橋 に報告 した。
志 賀は先 ず飛 行 機の示し た 位 置 に爆雷 を投海 防 艦 「志 賀 」小史
57
射した が効 果 無 く,
次いで水測の捕捉し た方 向に艦を廻 し,
全速に て接 近, 敵 潜の 400 米手前で爆 雷 投 射を 開 始,
一
度に3
個, 計 約20
個を投 下 して敵 潜の 直上 を通 過。 こ の 時猛 烈 なる音 響と水中 音 が 付 近 を 振動さ せ た。 反転して反復 攻 撃を かけた。 忽 ち夥しい油 が 海 中 よ り湧 出 し,
瞬 時 に して油帯の幅300
米,
長さ2000
米 以 上 に及び臭 気は付 近の海上 を覆い , 海水が その為
に 変 色 し た。 その油 は 翌 日に至る まで湧 出を続けてい た とい う。 志 賀は戦 果 を確認 し,
証拠品 と して油を持ち帰っ た。 そ して後日, この 戦 闘に よ る 功績で鎮 守 府 司 令 長官か ら志 賀は感 状を受けた。」撃沈 場 所は土 土呂港沖 と考え ら れ る。
土 土呂 港は宮 崎 県 延岡の南 方約
10
キロ にあ るの で,
この戦 闘は 日向灘の沖 合の一
角で行 わ れ た と思 わ れる。「竣工後日も浅く, まだ 錬 成 途 中にあっ た志 賀
192
号の飛 行機との連 帯に よ る この攻撃は 迅 速,
的確であっ た と呉 鎮守 府 長 官は7
日豊 後水 道防備部 隊 指揮 官あて に 打 電 してい る。」(11) こ の撃 沈の こ と は海 防艦 行 動 調 書に欄外に手書 きで 「被 害 ナ シ 敵△ ×1
撃 沈 昭和20
年4
月12
日 戦 斗詳報ヨ リ」と記 載さ れてい る。艦 が 出 来 上 がっ てか ら
1
ヶ月 も経た ない うち , ま た, 乗 員の初 顔 合 わ せ か ら間も ない うちに,
そ して戦闘訓練 も数日行っ た だ けで 「志賀 」は敵 潜 撃 沈1
隻とい う成果 を挙 げ, 防戦 司令部でも そ れ が確 認さ れ た とい うこ と に な る。 こ の戦 果 につ い ての検証 は後述。「志 賀 」は こ の後
4
月11
日 に舞鶴に入港し た。 訓 練 を行い な が ら4
月18
日石 川 県 能 登 半 島にある七 尾に入 港,5
月14
日 に舞 鶴に 戻っ た。5
月26
日再び舞 鶴を 出港,27
日15
時 対 馬に着 き,
19
時に鎮海に入 港 し た。 鎮 海と は朝 鮮 半 島釜 山の 東 方約 40 キロ にある港 町。
鎮海に行っ た の は
5
月13
日に 「志 賀」が第 1 海上護 衛艦隊第21
海 防隊 (鮮 南哨 戒部 隊)に配 属 さ れ た か ら であ る。 護 衛 艦 隊 は1942
年4
月10
日に編 成され,
第1
護衛 艦隊は九 州の北 部 か ら台湾・
フ ィ リ ピン・
ボル ネオ・
シンガ ポー
ル まで の護 衛を担 当し,
第2
護衛 艦 隊 は千 葉館 山か ら小笠原・
マ リアナ・
サ イパ ン・
トラッ ク あ ヒ ち 諸 島とい っ た地域を担 当していた。 第21
海 防 隊 は 的山 大島 (平 戸と壱岐の問にある島 ) を拠 点とし た 海 防 艦6
隻か らなる鮮 南 哨 戒 部 隊で もある。
こ の第
21
海 防 隊に編 入 され る際,
舞 鶴で入 渠,
次の 改 造を行っ た。 即 ち,
艦橋の下 に あ る 八 糎 迫撃砲 を取り 除 き,
二五粍三連 装 機 銃にか え,
予備 探照灯 を取 り除 き,
両舷に同 じ く二 五粍三連 装機銃 を補 充, 更に後部 爆 雷 砲 台の左舷に 二五粍 単装機銃1
基計10
基を増 強して,
今 後の対 空戦斗に 備えた。 新 造計 画時に は25
粍3
連装 が2
基であっ たの で2
倍 以上の 対空兵 装 を した。 こ れ が後に又 役に立つ こ と なる。第
21
海 防 隊の任 務は,
対 馬 海 峡か ら日本 海に米 潜水 艦が潜入するの を 阻 止 し,
こ れ を撃 沈 する こと に あっ た。
毎夜18
時出港,
2
艦一
組 と な り,
間 隔2000
米,
速 力6
節で哨 戒をつ づけ,
翌朝寄港し た。
こ うした哨 戒の繰 り返 しの 中で,
6
月3
日20
時20
分再.
t
び敵 潜 水 艦を探 知し攻 撃してい る。 場 所 は対 馬南端 つ 豆 酘の先である。 以前と同様,
油が多 量に湧 出 して撃 沈 確実 か と思 わ れ たが,
結 局6
月7
日 「撃 沈 点 敵 潜水 艦 確 認に行く又投 射の 結 果 気 泡 あるもド ラ ム缶2
回 浮 流, 結 局 沈船な り。」との こ とで あっ た。 こ の攻 撃に は 「第2
7
号 」 海防 艦も参加 し, 1
隻撃 沈と記 録 してい る。2
隻 の海 防 艦が共同 して海底に沈ん でい る船 を爆 雷 攻 撃し た の である。こ の後
,
終戦 に 至 る ま で麗 水 (鎮海西 南,
対 馬 海峡の 朝 鮮 半 島 側 ), 対馬,
壱岐,
的 山 大島のパ トロー
ル を 行 っ た。 厳 しい 作戦の 中で も時に は実 爆 雷を投 射し て魚 を 捕っ たりした こともあ るようで, そ うい っ たこと もメ モ さ れてい る。 は ん せ’
t’
,
,
7
月31
日壱 岐の郷ノ浦 近 くの 半城湾に入 泊 中, P5
1
の 来襲を受け, 10
時15
分か ら12
時 15 分 まで対 空 戦闘を行っ た。 その うち2
機が煙 をはい て前方の 山に 墜 落 した。 これ もやは り海 防艦 行 動 調 書に 「被 害ナシ戦果 飛×
2
撃墜1015
〜 1215
対 空 は ん せい
うtt
戦 斗 壱岐 半 城 浦入泊 中 敵m ×100
以上来 襲 昭 和20
年7
月31
日 戦斗詳 報ヨ リ」とある。 こ の戦 果 に対 して前 回の敵潜撃 沈と同様 「志 賀」は第7
艦 隊 司 令 長 官より感状 を受け た。
あみ
’
れ ん8
月15
日を 「志 賀」は対馬の浅 茅 湾で迎 え た。 こ こ で重 要 書 類 を消 却し た り,
爆 雷の海 中投 棄を行っ た り し て的 山 大 島を経 由して佐世保に戻 り, 8
月20
日第1
陣 が退 艦し た。 こ こ か ら 「志賀」の 戦後が始ま るこ と と な る。58 平 安 隆 雄 皿
海防 艦の戦 果
「志 賀」の
4
月6
日の 米潜1
隻 撃 沈の検証。果た し て 「志 賀」は豊 後水 道で遊弋してい た米潜 水 艦 を撃沈したの で あろうか。 撃 沈し た とす る な ら撃 沈さ れ た潜 水艦の 名は何か。 撃 沈されてい るならア メ リ カ海 軍 で記 録に残っ てい る の で は ない か
。
1955
年ア メ リカ海 軍 省戦 史 部 が 「第2
次 大 戦米
国 海 軍作 戦 年 誌 」 (原 題
UNITED
STATESNaval
Chronology
WorldWar
m
を出版し た。 これ は 第2
次 大 戦が始まっ た
1939
年9
月1
日か ら45
年9
月2
日 まで の米 国艦 艇 の 喪 失と損 傷につ い てすべ ての 艦種 (LST
よ り小 型の もの は除 く)を網 羅す る もの で ある。 参 考 資料として ア メ リ カ官 庁でも使用 出 来 るように編 纂 さ れ た もの だ。 太平洋 戦 争における米 海軍艦 艇の喪失・
損傷 だ けでな く,
全 世 界の海域で のもの が 記 録 され てい るの で戦 史 研究の基礎 資 料と さ れてい る文献である。海 防 艦 「占守」が作 戦行 動を取り始め た
1942
年4
月1
日か ら終 戦まで の問,
米潜 水 艦 が沈没 した,
あるい は損傷を受 けた とい うの は次に あげる通 り。理由の欄で? は沈没 理由不明の意 味である。 年 4242424243434343 333 つ 」
33
444444 月日4.106
.198
.148
.163
.
223.
224.
104.22
5.
126.127
.209
.199
.
3010.
07
43 10.
15 43 10.
24
43
11.09
43 11.
17 43 11.
19 潜水艦名 カ ノー
パ ス s− 27s
−
39
グ ルニ オ ン グ ラン パ ス 場 所 フィ リ ピン ア リュー
シャ ン ニ ユー
ギニ ア 太 平 洋方 面 太 平 洋 方 面 アム バー
ジャ ク・
太 平洋 方 面 トライ トン 太 平 洋 方 面 グレナデ ィ ア マ ラッ カ海 峡 ピッカー
レルR
−
12
ランナー
シス コー
グ レ イ リン グS
− 44
ポン パ ノ ドラー
ドー
ワー
フー
キャベ リン ス カル ピン43
11.19
ノー
チ ラ ス 43 12.
23 コル ヴィナ 443.06
ス コー
ピオ ン 理 由 自沈 礁 礁 ? ? ? ? 座 座 日本 機による空襲 太 平洋 方 面 ? フ ロ リダ沖 ? 太 平 洋方面 ? ポー
トダー
ウィ ン ? 太 平 洋 方 面 ? 千 島列 島 日本 水上艦 艇 太平 洋 方面 大西洋 水域 太 平 洋 方面 セ レベ ス 海.
方面 中部 太 平 洋 水域 9・
9・
ワ・
?・
駆 逐 艦砲撃 ギル バー
ト諸島友 軍艦の 砲撃で損 傷 太 平洋方 面 ? 太平 洋 方面 ? 44
3.26
タ リビー
44 3.
30 タニー
44
4.
17 トラ ウ ト 44 6.
07 ガ ジョ ン44
7.
04S − 28
44 7.
13 ヘー
リン グ 44 7.
26 ゴ レッ ト 44 7.
26
ロノtロ 448.13
フ ラ イ ヤー
44
8.24
ハー
ダー
44
10.
03 シー
ウル フ44
10.
24 ダー
ター
44 10.
24 タ ング 44 11.08
グラウ ラー
44 11.
27 エ ス カラー
44 11.27
シ ャー
ク44
12.21
アル バ コー
ア 44 12.21
ス キ ャ ンプ 452.15
ソー
ドブ イ シュ45
2.
16 バー
ベ ル45
3.
17 ス ポッ ト45
3.
20 デ ビル フィシュ 45 3.
23 シー
ホー
ス45
4.
16 キー
ト 45 5.
01 トリガー
45 5.
16 ス ヌッ ク 45 5.
24
ラ ガー
ト 457.30
ボー
ン ブ イ シュ45
8.06
ブ ルヘ ッ ド カロ リン諸 島 自艦発 射 魚雷 パ ラオ諸 島 友軍機 攻 撃 太 平洋方 面 ? 太 平 洋 方面 ? ハ ワ イ沖訓 練演習 中 太 平 洋 方 面 ? 太 平 洋 方面 ? ブ イ リ ピン沖 ? 北 ボル ネ オ 爆 発 事故 ル ソ ン西 海 岸 沖 爆 雷 攻 撃 モ ロ タイ島 沖 友軍の錯 誤 パ ラワン水 道 座礁 友 軍によ り処 分 台湾 北 方 自艦 発 射 魚 雷 ブ イ リ ピン ? 太 平 洋方面 ? 太平 洋方 面 ? 太 平 洋 方面 ? 太 平 洋方 面 ? 太平洋 方 面 ? 太 平洋 方面 ? 台湾 沖
艦砲 射 撃 火 山 列島沖 特 攻 機 南 西 諸島 水 平爆 撃 機 太 平 洋 方 面 ? 太 平洋 方 面 ? 太 平 洋 方面 7 太 平 洋 方面 ? 太平洋 方 面 ? ジヤ ワ海 ?
こ の内, 沈 没 原因不明の艦 は 全 部で
33
隻。 内2
隻は フ ロ リダ, 大西洋で沈ん で い るの で , 太 平洋方 面で の沈 没艦は31
隻にな る。これによる と
1945
年4
月6
日前 後の米 潜水艦の喪 失・
損傷は1
隻も ない。
1945
年に入っ てか ら終戦 ま で 米 潜水 艦の喪失 はソー
ドフ ィシ ュ 以 下全 部で11
隻で る。これ らの 内
,
ス ポ ッ ト,
デ ビル フ ィッ シュ , シー
ホー
ス は 沈 没の 理由が はっ き り してい るの で 「志 賀 」による もの で は ない 。 「米 国海 軍 作 戦年 誌 」におい て,
喪失 不 明と表現 され てい る艦艇は潜 水 艦以外無い。
潜 水 艦は人 知れず沈ん でし ま うの が多い の で,
そ れ が 実 際い つ , ど海 防 艦 「志 賀」小史 59 こで沈んだ か は報 告が ない と不 明とな る。 喪失 月日 が書 か れてい る の は消息不 明で喪 失と 認定さ れ た日なの であ る
。
故に
4
月6
日 に沈め られた潜 水艦が 消息不 明 潜水 艦と な る 可能性はある。 消 息不 明 艦 で考 えら れ そうな もの を 追 求 して見よう。(註
10)
に記し た 「第2
次 大 戦に おける米国 潜 水 艦 作戦 」
“
United
States
Submarine
Operatipons
in
world war
H ”
で はラ ス コー
が 主 な潜 水 艦が沈没 した状 況 を 説 明 してい る箇所 が あ る。
(13)それ に よ る と上 記の消息不 明 艦 は 以 下の ご とし。
1
ソー
ドフ ィ ッ シュ は1945
年1
月2
日屋 久 島付 近のパ トロ
ー
ルを行っ てい た。
1
月9
日南 西 諸島に向かい
,
沖 縄の 写 真撮 影偵察 を行っ た後サ イ パ ンに戻る よう命 令さ れ た。 しか しサ イパ ン には 戻 ら な かっ た。後に潜 水 艦キ
ー
トが1
月12
日午 前,
沖 縄 近 辺 でソー
ドフ ィッ シュ ら しい 潜 水 艦と接 触。 キー
ト はその潜水 艦と交信で き な かっ たが その 潜水艦の爆発 音 を 聞い た と報 告してい る の で
,
ラ ス コー
は こ の 日がソー
ドフ ィ ッ シュ 沈 没の 日 では ない かと し てい る。2
バー
ベ ル は太 平 洋 方 面で 喪 失と なっ てい る がパラ ワン島
,
バ ラバ ク海 峡(
ボル ネ オ とフィ リ ピ ン の 間) 方面へ の出動なの で関 係 ない。
3
キー
トは3
月1
日南西 諸 島の通 常の哨 戒 と気 象報告
,
救 難 援 助とい う下命を受け,
グアム を 出港。3
月9
日か ら10
日に か けて3
隻の 輸 送 艦へ の 魚 雷攻 撃を行っ て撃沈 し,
更に 14 日 に敷 設 艦への攻撃 を した
。
3
月19
日 に, 海域を離れ ミッ ド ウェ イ経由で パー
ル ハー
バー
に戻る よう命 令を受 けた。 (3
発 し か 魚 雷 が残っ てい なかっ た た め 〉翌
20
日北緯29
度38
分・
東 経130
度02
分か ら キー
ト は気 象報 告を したが これ が最後の送 信と なっ た。 この 地 点 は 屋 久島と奄美 大 島との間にあ たる の で命 令に背い て
4
月6
日に豊後 水 道ま で行 くな ど とい うの はあ り得ない。
4ト リガ
ー
は 上の ソー
ドフ ィ ッシュ やキー
トと同 様沖 縄 周 辺の パ トロー
ル をする こ とに なっ ていた。 その 範囲は南 西 諸島の西で北緯
29
度か ら3
1
度のあい だ とい う範囲で あっ た。
3
月26
日 に気 象 報 告を行っ たの が ト リガー
の 最 後の通信であるが,
ト リ ガー
の守備範囲であ る この海域で3
月27
日 工作 船 「お だて」を沈め ら れてい る。28
日,
日本 軍の対 潜 攻 撃がこ の海 域で行 われ たの を 潜水 艦ス レッ ドフ ィンが 現 認 した。
ラス コ一
は, ト リ ガー
が 「お だて」 を 沈 めて,
その報 復 と して 日本 軍が トリ ガー
を潜 攻 撃の 的に し たの で はない か と してい る。5
ス ヌー
ク は4
月8
日 に潜 水 艦タイグロ ン と交 信 してい る。
その場 所は北 緯18
度40
分 東 経11
1
度39
分 で あ るの で問 題外と なる。 (ラ ス コー
は ルソ ン海 峡で沈没 し たの では ない か と推測 して い る。) ラ ガー
ト,
ボー
ン フ ィシュ に関する記 述は ラス コー
は 行っ てい ない の で詳 細は不 明。た だラ ガ
ー
トは45
年2
月に米軍の硫 黄島上 陸作戦を 支 援す る た め,
東 経140
度,
北 緯30
度か ら 豊 後 水 道 に向けて 日 本の哨 戒 船 を攻 撃する た め陽 動 作 戦に出 動 し てい る(14)の で,
こ の ラ ガー
トが 「志 賀 」によっ て沈 め ら れ た とも考 えら れ ない こ と は 無い 。だが し か し ラ スコ
ー
による と,
次の記述 が ある. 「米 軍の沖縄上陸作 戦の前に ヒ ッ トパ レー
ド海域 と名付けら れ た本州 と 九州の沖に は6
隻か ら7
隻の潜 水 艦が配 置さ れてい た。 こ れ らの内,2
隻は豊 後 水 道 を監視し, 1
隻 は紀伊水道 を 監視 するため張 り付い てい た。
これ らの潜 水艦はその 地点か ら離れ ない ように厳命さ れてい た。 も し, 日本の 生 き残 り艦 隊が米軍の 沖 縄 上 陸 作 戦 を 阻 止 す る た め 出撃し ようと するな ら,
太 平 洋に出 る 出口はこ の2
ヵ所の 内1
つ であろう と さ れ た からだr/
こ の仮 定は間 違い な か っ た。
4
月6
日から7
日 に かけて戦 艦 大 和,
軽 巡矢 萩, 数 隻の駆 逐艦がス ブルー
アン スの機動 部 隊 に 犠 牲 攻撃 をかけ る た め 豊後 水道 を通 過した。 こ れ らの艦 隊 は豊 後 出口に配 備 さ れてい た 潜水 艦ス レッ ドフ ィ ンとハ ッ クル バ ッ ク に観 測 さ れ た。」〔15} ス レッ ドフ ィン とハ ッ クルバ ッ クは大 和を追 尾し情 報 を打 電し た とい うことで大 和 攻 撃へ 功 績 を残し有 名にな っ た。
こ こ に出てくる6
隻か ら7
隻の潜 水 艦 と は,
この 2隻 以 外に次の潜 水艦である。 シル バー
サイズ,
トルー
ナ,
クレー
ベ ル,
ラ イ オン フ ィッ シュ 。 ラ ガー
トはこ の 時 点で この 海 域 に出動してい ない (16)と考 えら れ る。
以上の こ とか ら して 「志賀 」が撃沈 し た とい う敵 潜 水 艦の 存在は極めて怪しい 。 つ まり恐ら く 「志 賀」は 何 も の かを 誤 認 して 「米 潜水艦」と して攻 撃し た か
,
仮 に 攻 撃して も米 潜 水 艦は油 を 流 す とい う欺瞞で逃 げたの で は ない か と 想像さ れ る。7
月31
目の壱岐にお け る撃墜飛 行機の検 証。壱 岐の住 民の話で は確かに昭 和
20
年7
月31
日 に大 きな 空 襲 が あっ た。 壱岐郡 郷ノ浦 町に当時 住んで い た 人 の 話で はこ の 日の戦闘で戦 闘 機1
機が黒煙を 吐い て南の 方に飛び去っ た と記 憶 してい るとい う。 (17)戦 争 末期に60 平 安 隆 雄 撃墜 された米軍 機 な ど は な かっ た の では ない か とい う複 数の証 言が ある
。
ただこ の島で は
B21
機が こ こ に墜 落 し,
搭 乗 員が 死 亡,
その 遺 体を葬り墓を作っ てい る。
戦後 米 軍が訪れ,
島民 が 丁寧に葬っ たことに対して謝意を表し た とい う史 実はある。B21
が落ち た と き は 島 中の話題になり多く の人がこれ を見に来た とい う ほど であるか ら,
P51
も 撃 墜されて いた ら語り継が れたとが考え ら れ る が,
そう でないので実 際は 「志 賀 」が 落と してはい ない と推 測 さ れ る。
か く してこの海 防艦は恐 らく実 際は幸運にも人 を殺 傷 する こと な く終戦 を 迎えた の では ないか。
今と なっ ては華々 しい 「戦果 」よ り 人 を 傷つ けるこ と なく使 命を終 えた 「志 賀 」; 「こ じ ま」の方が平 和な時 代にふ さ わ しい 。 実はこ うし た 「志 賀 」のよ う な 誤 認は 「志 賀 」の例ば かりで はない。 海 防 艦とい う艦種
一
つ を と っ てみて も驚 くほ ど多
い 。「海防 艦 戦記 」とい う 本 がある。 これ は当時の海 防 艦 の 乗組 員が 全海 防艦の行動 を記 録した もの であ る。 編 集者は海 防艦 顕彰 会 (水 交 社 内 )で
,
こ の 本の刊 行の 言葉に よ る と 「去 る大東亜戦争に於い て, …
何等 名 利を求め るこ と な く
,
唯ひたすら,
祖 国の 海 上輸 送路を 守 り, 使 命に死んだ, 我が海 防 艦の勇 士…
の勲は
,
その活 躍が 主に戦争 末 期であった…
の で
,
海 軍 部 内 に於い てす ら ほと ん ど顧みられず,
ま して一
般国民には 全 く知ら さ れてい」ない故,
そ して 「海 防艦に関 する記 録は,
戦争 末 期の混 乱や,
関 係資 料の焼 失 等のた め,
一
般の 人々 に は ほとんど 知 ら れ ず,
海 防艦が主力と なっ て 戦った 海 上輸 送 戦の実状 もつ まびら かで」ない 故,
こ の 「戦 記の 刊 行を決 定し,各
海防 艦 毎に戦 記 委員, 当会 (海 防艦 顕彰 会 )に戦 記役人二百 名を定め,
二年の 歳 月 を費や し」(18)1982
年に発 行に至っ た とい う内 容の 書物である。 (…
は略の意 味 )
1047
頁に及び,
各 艦の公 式 記 録,
戦 記手 記,
戦 死・
戦傷者,
乗 組員の 名 簿を 登 載 して お り,
い わゆる 「戦 記もの」と は性 質が異なる。
この 「海 防艦 戦 記 」にも敵 潜 撃 沈 あるい は撃 沈 確実 と い っ た報告が多くあ る。 それを列 挙してみ ると以下の と お りである
。
本の 中で敵 潜撃 沈とはっ き り表現 してい る ものは 「沈」 とし, 撃 沈確 実とい っ た表 現には 「確 」と入 れ た
。
撃 沈 場 所が はっ き り記 入 さ れてい ない のが多い が, その 海 防 艦の前 後の動 きから推 測した。騨
纛
髓
簸
鞳
翻
繍
黻籬
剏鸛
觀麟
踟欝
雛
欝
鰭
轄
概灘
鍛
欝
瀞雛
齟蠶
齟 海 日 お鷺
崎 回 。8
。6p 。9 。2
。・ %p
。・ 珍墓
製 餌郵
。…
m
η ・。mHn
墓
憶
穏
峯
・9
羅
易
鷺
朝豊
盆
蓋
佳
侵
隻
蜜
ま
生444444iiii
α 臥6
臥 6 α 乳 ス 乳 乳 乳 乳 乳a
& aa & 民 免罫
暖
餐
餐
餐
君
訟
簫
鴛
盤
鱗盤
盤
盤
蠶
訟
腸
蠶
謡
盤
盤
唱竈
蠶
量
場 所
確 実 性 千 島 列 島
確 昭 南→ パ ダン
沈 マ ニ ラ 沈 台湾
確 千島列島 確 千 島列島
沈 マ ニ ラ 確 横須 賀 ト ラッ ク 確 マ リア ナ諸 島
沈 マ リ ア ナ沖 確 シン ガポ
ー
ル 沈 東 支 那 海確 南 支 那 海
沈 昭南→ 佐世 保
確 横 須 賀
→
パ ラ オ 確 横須 賀 サ イパ ン確 東支 那海
確
共 同 東 京湾 入 口
沈 サ イゴン沖 確 共 同 昭南 近 く? 沈 対 馬
確 パ ラ オ諸 島 確 バ シ
ー
海峡沈 パ ラオ 確 バ シ
ー
海 峡 沈 マ ニ ラ 確 グアム 確 サ イパ ン 確 千 島 列島沈 パ ラオ 確 マ ニ ラ
ー
門司 確 グア ム 確 マ ニ ラ 確 パ ラ オ 沈 台北 東沈
共 同 バ シ
ー
海 峡 沈 共 同 父 島西沈 父 島 西 北 沈 ダバ オ 沈 高 雄
沈 マ ニ ラ沖 沈 台湾 沖 沈 共 同 台 湾 海 峡
沈 佐世保近 く
沈 マ ニ ラ 沈 ハ
ー
ダー
マ ニ ラ 沈 父島 東北 確海 防 艦 「志 賀」小史 61