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談話室-香川大学学術情報リポジトリ

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Academic year: 2021

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89 談 話 室

走の科学

宮 崎 敏 明 このように,長く走るためには,有酸素 的エネルギ、一発生が主要なものとなるので ある。これほ,乳酸の酸化によるグリコ1− ゲソの再成と,乳酸の分解によってできる 炭酸ガスと水との生成である。 かくして長く走るために.は,どうしても 有酸素エネル単一イ℃謝が必要であり,酸素 の摂取が重要な要因となる。つまり心臓, 肺臓の機能の効果が大きく影響するもので ある。しかもこれらの機能ほ訓練と鍛錬に よって相当程度強化することが可能である ことも立証されている。十レ・−・エソグした 人でほ.,運動に.より普通人の10倍もの酸素 を摂取し得るということである。人の安静 時の酸素摂取量ほ.0い3∼/min程度であるか ら鍛錬によってほ,3Z/minくヾらいになる わけである。 しかし,この摂取した酸素が100%効率 化するとはかぎらない。人に.より,機能に よりその何%かは無駄になるものである。 2時間半ちかくの長距離を走るマラソソ選 手の場合などはその効率は60%ぐらいであ るという。そこで修練によって酸素の摂取 盈を増大する効果的方法と共に如何にすれ ば効率が向上するかによって研究すべき課 題があるように考える。 如何に肺から酸素をとおし得るか,それ を身体各部各組織匿いかに速く送り得るか ということである。それは心臓のはたらき にかかっている。心拍出盈の大きさが最も 走るということは人間自然の本能であ り,限りなく愉悦を感じ,又苦痛でもあ る。 こ.の薙について考察してみると二つのこ とが考えらる。つまり速く走ることと長く 克ることである。科学的に.表現すれば,主 として無酸素的エネルギ・一によって走る短 庫灘競走と,主として有酸素的エネルギ−・ による長距離競走である。そして無酸素的 エネルギ・一に しろ葡酸素的エネルギ・一に.し ろ,これによって発生するエネルギ・−の力 (′くワ1−)に.よってその大小優劣がきまる ものである。 無酸素エネルギー発生機構はクレアチソ 燐酸(PC)とグリコ1−ゲソの加水分解に よるものであり,そのエネルギ・−源は身体 の中に.保有されているものである。従って 酸素の供給なしに瞬発的に発生せしむるこ とができるが,そのかわり身体保有に限り があるもので際限なく続行することは不可 能である。これに対して有酸素エネルギ、−・ 発機構は,炭水化物と脂肪の酸化によるも ので発生源を外界の酸素に求める関係から 無限転近い最である。然しこれを口や鼻か ら運び込むのにいくらかの限界がある。 走の場合,始めは主として無酸素・エネル ギ・−・によって走り続け,5,6分・した頃か ら距厳に.して1500mぐらいから有酸素ユ・ネ ルギ・−・を併用したものとなり次第に有酸素 的代謝となっていくものである。

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小 林 立 って循環,脈持,血圧等優れた人間改造に 向って精進すべきであると考える。(体育 の科学1971年2月号猪飼道夫氏論文早く走 ることと長く走ることを参考とする。) 90 重要な役目を荷っている。トレー・ニソグの 効果による体育運動家の−・回の抽出盈が普 通人より遥かに大きいことは立証ずみであ る。合理的科学的†レ−ニングの励行によ

言葉と連帯と

小 林 立 さ話とか棚卸しは本人の知らない所で行わ れ易いのではなかろうか。当人の知らぬ所 で批判が進展している場合,本人の積極的 な自己批判なり釈明の余地を期待すること ほ不可能であるだけでなく,本人の立ち直 りなり成長のために,忠告してやる親切と 勇気が見られない。覆面で批判することは 気楽で責任がないからであろうが,批判の 有効性は半減するのではなかろうか。 日本は先進工業国に.属すると言われてい るが,個人の自由とか人権の尊重といった 考えほまだ定着して間もないせいか,批判 の在り方も,とかく欠席裁判のような形態 をとって,進められる可能性がある。しか しながら,特定の個人を“敵〝として棚卸し することに.よって,確宍に連帯意識ほうみ 出される。団結に.は,やはり“敵〝が必要不 可欠なのかもしれない。 現代の日本は情報化社会と呼ばれるが, 職務上あるいは交際上知った情報を第三者 に対してどこまで話してよいか,その程度 を判断することは難しい。我々は自分・の知 っている事柄をどこまで話すべきかに.つい て,あまり教育された記憶もないし訓練さ れていないのが実情ではないかと思う。所 謂つめ込み主義は何でも貪欲に吸収して吐 き出す能力を選別してゆく行き方であると 人は言葉を話す動物である。人は話すこ とによって意志の疎通を行い,相互の連帯 感を創り出す。あいさつをしたり,声をか け合うことに.よって,緊張を解きほぐした り,情報の伝達手段として,言葉が多面的 な機能を持っていることは多言を要しな い。言葉でない場合でも,玖ばらいとか音 声を発することで,相互の緊張を解消する 工夫をこらして,相手に敵意をもっていな いことの証しとしたりすることは日常不断 に.経験するところである。 むろん,話題の豊かな人,無口な人,堅 い話しかできない人,よもやま話のうまい 人,なと■多様であるが,ともあれ言葉を話 すことは情報の交換,相互の連帯なり友好 関係を保持し促進するための武器となって いる。だが言葉はまた使い方に・よっては憎 悪と敵対のための核兵器に・もなりうる。例 えばその場に居ない人のうわさ話や棚卸し が主たる内容を占める時,富来は人間関係 を破壊する最も有効な武器ともなって来 る。 批判は言うまでもなく,その人の成長の ために必要不可欠な肥料である。従って, 批判はうわさ話や棚卸しに終ることなく, 直接本人に.向って言葉で行われることが必 要である。残念ながら,往々に・して,うわ

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91 なくなる。そのためにも何を話すべきかを 個々人が主体的に判断できるような訓練を 教育過程濫とりあげる必要があるのではな いか。それは国語教育の一濁として重要な 分野なのではないかと思われる。 国際間の外交交渉に.は,機密保持の重要 性はとりわけ大きな意味をもっているに違 いない。口の壁さが相互間の信頼となって 互いに意見を腹蔵なく述べ合うことがで き,それが交渉の妥結を産み出すための基 礎ともなるのではなかろうか。我々日本人 が日本国内で生活している分には,枚秘保 持の訓練もさして重要性をもたないことか もしれないが,国際社会の−・員として生き てゆかねばならないとしたら,やはり教育 内容の一濁として採り上げられるべき事項 ではないかと思われる。 言えようから,情報の留保とか守秘能力の 養成といったことは,あまり期待できな い。そのせいか,自分の知った情報を他者 にうっかり話した結果が,ス′くイ行為にな っていたり,迷惑をかけることになったり することがよくある。従って,もし話し相 手が黙って守秘してくれることをあまり期 待できないとしたら,やはり口数は少ない 力がよいし,口の堅さは身の安全にも通ず ると言.え.るのではあるまいか。 とはいえ日本でも守秘義務を相手に要請 する場合がある。「ここだけの話だが.」と いう前置詞があるし,また文書であればマ ル秘の印鑑が押される。しかしもしそうい う制限がない場合ほ,守秘義務はないのか というと,そうではないと思う。それ故, 守秘能力があまり期待できない場合,何で もかでもマル秘扱いしないと不安でたまら

私のうけた一般教育

瀧 川 一・幸

の一つとして「美学」を選び,それを中心 としていろいろ思う事,考える事を雷いて みたい。 私はこの授業「美学」を何か特別の理由 で受けたのでほない。科目案内の中で,何 となく「美学」の名にひかれて,教室をの ぞいてみたと言う方が正確であろう。ま た,授業も何か特別の関心をもって始めか ら聞いたのではない。だんだんと面白くな って:いったのである。なぜか?それは今考 えてみるに,たぶんに私が京都と言う日本 の文化遺産を豊富に持っている土地で学生 時代を送った幸運のせいである。京都は奈 良と非常に.近くで,電車で1時間もかから 一般教育を受けた教養部時代は私にとっ てすでに約十年も前の事である。この小文 を書くに.当って−,その教養部時代を想い起 そうとしてみたが,記憶が定かでない部分 も多い。もっと時間をかければ,記憶も鮮 明に.なるのだろうがl・川。がともあれ,今 その時代に.受けた一・般教育を想い出してみ ると, . んだこともある為であろうと思う。ここに こ.の語学の授業の事を書いても良いのだけ れども,私が現在語学の教師であり,専門 との関係が強いので,それは他日の事とし て,私はここに多くの−・般教育の授業の中

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瀧 川 一 事 代に関して大まかであるかも知れないが, その全体的な理解ができたと思っている。 と言うのも,私がこのように言うのは,し ばしば議論されることだが,一顧教育が目 標としているものは何かと言う事について 述べたいからである。即ち,−・般教育の目 標の一・つに,「教養.」がある。これほ独語 でBildungと言うが,日本語で言えば「自 己完成」と言う事であろうか。このよう患 味で「教養を養う.」と言う事を考えてみる と,学生側の立瘍で言う時,決して教養を 養う所は教室ばかりではない。友人との対 話からも読書からも,また自らの体験から も,彼等は自己を造ろうとしていると言え るのである。そして,それらは決してバラ バラではなく∴互に関連し合って自らの血 肉としているである。そして授業が本当に・ 彼等の生活の中に活かされる時,本当に−・ 般教育が目標ととしてし、るものに近ずいた と言えると思うのである。 この事を念頭に置いて今一度,私の受け た一・般教育を考えてみると,ここにあげた 「兼学」やそ・の他に「蘭学」や「地学」等 が本当に私に関心を起させ,今の私の教養 の一部となっている。そして,後幾つか受 けた授業は,何かの役に立っているのだろ うけど,記憶が鮮明でない。それはそれで 良い事なのかもしれない。しかし,なぜそ うなのかと聞かれれば,それは私の中に本 当の関心が生まれなかったからだろうと思 う。 昨今,教養部の問題が全国的な問題とな っていると.聞く。これは,種々の問題があ るのだろうとほ思うけれど,その一・つに., 一・般教育が学生の血肉となる彼等わ自己完 成の中に活かされないと言う事があるので はなかろうか?即ち,バラバラな知識とし て受け入れられるのでほなく,総合的な全 92 ない土地である。そして,奈良と京都は, おそらく日本の舌代の遺産の大半を持って いるのである。そして授業は,この奈良時 代からの日本の建築,彫刻を歴史的に並 べ,その様式と様式の変遷を説くものだっ た。ここまで述べれば,読者の皆さまに・も 理解して戴けると思うのだが,この土地の 有利さの為に,教わったものが,少し時間 をかけ,足で歩けば実際に自分の限で見る ことができるのである。実際阻見たことの 石る人は恐らくすく小理解なさるであろう が,例えば法隆寺の釈迦三噂像や飛鳥寺の 大仏等が持っている杏仁形の眼とわずかに. 笑みをたたえ.ている唇等の堺の表情が作り 出す「不思議な煩笑み」ほいくら説明して も理解がとどかない所が残るに違いない。 想像して戴きたい。受験勉強から開放され て,まだ西も束もわからない大学に入った ばかりの一・人の若者。彼が,日曜日,知り 合ったばかりの友人と飛鳥寺のあの修復さ れた大仏の前に.坐っている姿。話は自然と 習ったばかりの北貌式と言われる様式の事 になる。そして何よりもやはり,限の前の あの顔の不思議な優しい頼笑みが彼等の心 を打つ。そして千年以上もの昔が今,彼等 の心にものも言わず,ただその頼笑みを通 してのみじっと語りかける。彼等がそこに・ ロマンを感じてこも不思議ではないだろう。 これほそ・の劇例である。私はこの授業に. よって案内され,良くあちこちの寺や仏さ んを見て回ったものである。そしてそれが 】・つの機縁となって,日本の古代に本当の 関心は持ったのである。奈良時代の個性あ る人々が織りなす政治。大らかに自らの感 情を表現している万葉集。これらに.まで私 の関心はひろがり,天皇の名前や関係等ま で調べたものである。 私は自慢して言うのではなく,日本め古

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体的な知識として受け入れられるべきだと 言う一般教育の目的が見失なわれている所 があるのでほなかろうか?本学でも絶食コ −スやプロゼミ等のコ・−ス。痘〉るいはクサ ビ塾を目標としている後期一般教育等は, 話 室 93 一般教育の目的とする知識の総合性,全体 性を確保する点に.重要な意義があるのだと 私は理解している。そして,その総合性と 全体性こそ,一・般教育の生命であるのだ と。

私のうけた一般教育

瀬 艮 邦 彦

た)正確に.読めるようになることが目的で あった。だから私の場合などほ外国語に基 礎科目的性格を見ていたのかも知れない。 こういうわけで,他の一般教育科目につ いては特に目立った記憶がない。ただおも しろく思った科目ほ笥学と国文学であり, 前者は教科書はそっちのけで(教科審は学 生自身で読めばいいということだった)講 演会のような授業だったカ㍉ 内容がおもし ろかったからか,大多数の学生が受講して いた。その他で記憶していることは,自然 科学系列の科目は文科系用,理科系用の二 種類があり,自由選択ではあったが,学生 は意識的にりたとえば数学であれば,文科 系の学生は数学概論を,理科系の学生は一 般数学l,Ⅱを履修するというよう忙,選 択していたと思う。 以上,思いつくままに番いてきたが,教 養部における一・般教育の印象は外国語で苦 労したというのが主で,自由選択の幅が大 きく(特に.文科系の学生の場合),学科目 もたくさん開講されていたために,カリキ ュ.ラムを租むのにかなり自由がきき,自分 で選択し,時間割を作り上げたという宍感 ほ当時あったようだけれども,今,振り返 って見ると,何を基準に.カリキュ.ラムを構 成したのかはっきりしない。自由はあった 私に.とって「一腰教育とは外国語学習がす べてであったように思われる。第1外国語 は専攻の関係上英語であり,第2外国語は ドイツ語であった。必修単位ほ最低8単位 と4単位であったようだ。もっとも外国語 専攻の学生の場合は第1外国語はその専攻 する言語で単位も12単位だった。しかしな がら,英語英文学専攻の学生の場合,英語 とドイツ語あ2カ国語だけでなく,要望科 目・ではあったが,第3外国語(私の場合は フラソス語であった)を履修することに・な っていた。私達の時に・は,要望とほ即ち必 修を意味していた。さらに加えて英会話が 必修だったので,外国語の学習が一・般教育 の学習を意味することに.なったわけであ る。 授業ほ講読と文法が中心で,取り上げら れた文章も文学作品ばかりであったと記憶 している。受講生も文学専攻の学生ばかり であったせいか,別に不満軒感じてはいな かったようである。文教える先生の方も文 学語学の学生であることを意識されてか, ドイツ語の先生などほ特にむずかしい教科 番を使用されていたようである。私達学生 も今のように授業内容についての問題意識 はなく,とにかく遅れないよう頑張るのが 精一杯で,出席して(この点ほきびしかっ

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直 之 も,自由選択の問題とは別に.,一・つの課題 だというのか,私の今考えていることやあ る。 酒 井 94 が,基準が存在しなかったということだろ う。その意味でも,統合学としての一・般教 育に.おけるメニュ.・−(効果的履修方法又は デーマの設定匹よる学科目群)を示すこと

私のうけた一般教育

酒 井 直 之

かといってその当時;私の大学で山般教 育を担当されていた先生方非難しようとい う気持ちは毛頭ないのですが,しかし,果 して教える教官の側に, 1.例えば,100人の学生を相手に.100分授 業をするなら100×100=1万分もの資重 な時間を貸りうけているのだから,ひと つ素嘱しい授業をしなければというほど の気持はあったかどうか・l‥ 2.一・般教育なのだから広く浅く適当にう わべだけの知識を教え.ておけばよいとい うような安易な気持はなかったか・ 3い 「・般教育の授業の中で自分の専門分野 の真髄,学問することのよろこび,それ がいかに.人間生活に役立つのか等々佃 というところまで話が及んだかどうか、・ 4∧ 大学の1,2年生,それは長い人生の 中でも思想形成,人生観の確立のために 最も重要な時期であるということを常に 念頭において親身になって学生のことを おもい授業の中でも自分の尋問分野を通 し,そういう詰までできたかどうか 5小 常に一・方的な授業形式で,学生に.自分 達で自主的に.研究させたり,物事を考え させたりする機会を設けてくれなかった のではないか・・小・・などなどいろいろと疑 問に・残るのです。 学生時代感じたそ・のような疑問は,実は 私の⊥般教育を受けた18,9歳の頃は, 受験勉強からようやく解放されて,ホッと したと同時に,さあ何かをやらねば‥りと 向学心檻燃えていた時期でしたが,またそ の反面,自分の選んだ体育の分野に疑問を 持ったり,さらに「生きる目的」そのもの にも,迷って そういう尿問とか向学心をまず一般教養 ?科目のなかに託し,おおいに期待をもっ て,受講希望表には自分の興味関心のある 科月を,単位のことなど抜きにして全て畜 きこんで事務の方に提出したものでした。 と与ろが期待して受けた授期もさはどお もしろみもなく,自分の疑問を解決し,向 学心を満たしてくれるような科目が少な く,ひとつやめ,ふたつあきらめしていく うらに,気がついてみると最低必要な単位 の授業を除いては全部をカットしてしまっ ており,いわゆる「単位のために授業をう ける.」という非意欲的な学生に.なってしま っていました‥川‥というより,学内だけで それを満たそうとしたのが誤り■で,大学の 授業は授業で単位収得のためと割切り,申 分の本当にやりたいことは自分で捜さなけ ればと考えるようになり,よく講演会に.も でかけたり,新聞に.載っているいろいろな 研究サ・−・クルにも薪を出してみたこともあ りました。

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とりもなおさず,現在,今度は逆性教える 方の立場で自分が学生に接する時に気をつ けていかねばならない留意的,即ち自分自 身の教育信条のひとつに・もなっています。 話 95 学生時代の自分の気持を常に忘れないよ う’に・,一般教育の任に奉じたいと思ってい ます。

参照

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