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昭和20年代~30年代初頭の香川の農業と農村--敗戦の混乱から復興へ---香川大学学術情報リポジトリ

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香 川 大 学 経 済 論 叢 第73巻 第3号 2000年12月 19-51

昭和 20 年代~30 年代初頭の

香川の農業と農村

一一敗戦の混乱から復興へ一一

唯 之

はじめに 太平洋戦争が終末に近づくにつれ,農村から基幹労働力が応召 や徴用で姿を消し,さらに生産資材や肥料,農薬の不足などの悪条件がかさなっ て農地はしだいに荒廃し,収穫は減少の一途をたどった。国民的飢餓が絶頂に 達した昭和

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年の

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日,日本は敗戦をむかえた。この年,日本のコメの 生産量は

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万tを割り,香川県の米作も戦前の平年作の半分にも満たない 5..9万tにまで低落した。香川県の米作は,昭和

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年以降も昭和

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年9..9

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と,戦前の 70~80% の水準に低迷,日本全体のコメの生産水準もほぽ同じ傾向にあった。 昭和

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年代前半は日本にとって食糧の絶対的不足の時代となった。食糧は政府 の統制下にあったが,終戦直後の混乱期に統制はあってもなきがごとく,ここ 香川の地においても,

I

日国鉄高松駅などは毎日のように農村へ食糧の買い出し にでかける人々であふれるという光景が現出した。期せずして農村にヤミ成金 が続出し,この時期,香川の農村で“尺まつり"一一買い出し客の支払う新円 の百円札が

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尺の高さにまでたまったらお祝いするという意味ーーという言葉 が流行った。 全国の巷に食糧を求める国民の声が充満するなか,昭和

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日,幣 原内閣は緊急勅令をもって「食糧緊急臨時措置令」を公布,以後,供出拒否に 対して強権が発動されることとなった。そして供出の対象は,コメだけでなく, 麦やサツマイモ,ジャガイモ,さらには茎葉や海藻の類にまでおよんだ。自家

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20- 香川大学経済論叢 470 消費分だけは手許に残し,余った食糧はすべて強制的に農民の手許から取り上 げられることとなったのである。 政府からの供出完遂の至上命令のもと,香川県当局も懸命に供出の督励につ とめた。昭和23年1月22日の『四国新聞』に r農家の皆様にお願い」と題し て「今,世界の眼は日本農民の供米の熱意如何に注がれています。供米百台パー セント早期完遂は日本経済再建の鍵である許りでなく,敗戦国日本が連合国に 対して示す最大の熱意であり,延ては対日講和会議の開催を近き将来に期待し うることにもなります。何卒一月末日をまたず一日も早く供米百パーセント完 遂するようお願い致します」と,供米完遂を訴えた県の広告文が掲載されてい るが,これなどもその一端を物語る。そしてこの広告文の末尾には,供出完遂 の農家に対して酒やタバコ,砂糖などの報償物資の特配がある旨の注記がある。 戦後の食糧危機の時代に,強権のムチに報償物資のアメを交えながら,ここ香 川の地でも食糧の供出がすすめられたのであった。そして同じ四国新聞の昭和

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日の紙面は「初の強権発動,高松近郊の悪質農家へ」と題し,強権 のムチが実際に使われたことを報じた。当時,香川県にとどまらず,全国至る ところの農村において,供出を拒む農家があれば,占領軍のジープに乗り込ん だ地方事務所の役人が徹底的に家さがしをして見つけたコメを容赦なく運び出 すという異様な風景が展開したのであった。 このように食糧の供出が強制的に行われただけでなく,農家から供出のコメ などを政府が買い上げるとき,価格も低く設定された。というのは,いわゆる 傾斜生産方式の採用とともに「新物価体系」が昭和22年7月に編成され,その もとで石炭,鉄鋼,肥料などの基礎的生産財の価格は高く(戦前基準である昭和 9~ 1l年の 65 倍),工業平均賃金は低く(閉じく戦前基準の

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倍)設定されたが, そのように低く設定された賃金で暮らす都市の労働者の生活の安定を図るため には,米価は低くおさえなければならなかったからである。低米価・強権供出 政策が展開する一方,農民の肩にさらに租税が重くのしかかった。戦災によっ てあらかたの工場施設を失った日本にとって,租税を徴収しうる対象となるの は唯一,農村しかなかったからである。農地改革によって地主支配の封建的重

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471 昭和 20 年代~30 年代初頭の香川の農業と農村 -21ー 圧から解放され,みずからの労働の成果を享受するチャンスを獲得した日本の 農民であったが,昭和20年代前半の時期の農村の現実はこれを享受するという 状況からはほど遠く,食糧の強権供出と過重な税負担に農民は苦しむことにな る。日本の農民,そしてまた香川の農民にとって昭和20年代前半の時期は,ま さに苦難の時期であったといえよう。 それでは,この時期,香川の農民たちは供出に苦しみながらどのような農業 を営んだか,このことにつき,綾歌郡の端岡村(現在は国分寺町の端岡地区)を取 り上げてその具体的な姿を紹介しよう。

昭和

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年代前半の香川の農業と農村

一端岡村の場合一

昭和20年代前半の端岡村ーその農業と農村の姿 高松市と坂出市のほぽ はしおか 中聞に位置する端岡村は村を旧国道が横断し,旧国道に平行して予讃線が走る。 村内には端岡駅と国分駅の停車場がふたつあり,国分駅近くに国分寺がある。 その名からうかがえるように来歴がいにしえの奈良朝時代にまでさかのぼるこ の寺は,菜の花の季節には白装束のお遍路の訪れる四国88か所の札所のひとつ であって,村を横断する旧国道は西にすすめば空海生誕の地である善通寺にも つうじる遍路道であった。現在すすめられている国分寺旧跡の発掘調査からか つての広大な寺域がその姿の一端をあらわしつつあるが,このことからも推測 できるように,この地帯は古くから開発のすすんだ土地であった。端岡村に隣 接する坂出側の加茂村付近には讃岐のもっとも代表的な条里制の遺構も確認さ れている。村の北側は標高300"-'500メートノレの五色台の山々で,まばらに黒松 の茂るだけの山地は樹相に乏しく,ゆるやかな斜面を選んで野菜や果樹が栽培 されるほかは,あまり利用価値がない。ただ,山頂が台地であったために,戦 前,善通寺師団の演習地であった国府台とよばれる山に,昭和23年, 17戸の農 家が入植したが,痩せた台地の収穫物は大根や栗ぐらいで,開拓生活は苦しい。 村の南部は平野部で,その平野部を横断するように本津川が流れる。しかし本

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22 香川大学経済論叢 472 津川も香川の河川の例にもれず水が乏しく,端岡村はため池を築造して濯減用 水を求めざるを得なかった。端岡村に存在する 110個以上のため池は神崎・関 の池水系に属するが,この神崎・関の両池は国分寺の建立と前後して築造され たものであって,香川のため池濯概農業の歴史を,あの満濃池とともに,いま によく物語っている。 〔農地改革後の農業構造〕 『農村実態調査資料第9輯 香川郡綾歌郡端岡村~ (農林中央金庫企画部昭和 25年)によれば(以下,とくにことわらないかぎり,端岡村に関する統計数値は, 同書による),終戦の年の昭和20年当時,端岡村は水田 380haのうちその 44%, 畑75haのうちその 30%が小作地であった。さかのぼる昭和 13年当時の水田の 所有状況は,全土地所有者の55%が 0,,3ha反未満の零細土地所有者であるのに 対し,わずか1 %に過ぎぬ 5ha以上の土地所有者が全体の水田の 18%を占める というありさまであった。そして図1にみるように,大なり小なり地主から土 地を借りて暮らす小作農,自小作農は農家の90%に達し,小作料は村の平均反 収3石に対し1石4斗2升と,収穫高の半分近くにおよんだ。端岡村も戦前は やはり,香川の村むら同様,地主が支配する農村であった。端岡村で農地委員 会が結成されたのは昭和21年 5月のことであるが,そのもとで遂行された農地 図1 端岡村の自小作別農家割合(昭 13) 自作 11,1% 自小作 46,3% 資料)I農 村 実 態 調 査 資 料 第9輯香川県高綾歌郡端岡村』 (農林中央金庫企画部,昭和25)

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473 昭和 20 年代 ~30 年代初頭の香川の農業と農村 -23-改革の結果,水田117.6ha,畑14,.3haが小作に売り渡された。買収されなかっ た小作地は聞が48,.4ha,畑が6..3haであるから,田畑あわせて7割の小作地が 開放されたことになる。こうして端岡村は農地改革によって自作農の住む村へ とその姿を変えたのである。 それでは,農地改革後の端岡村では,どのような規模の農業が営まれていた か。経営規模別の農家数の割合を示した図

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によれば,

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ha以上の農家がほと んど存在しない反面,0..5ha以下,とりわけO日3ha以下の農家の割合が多い。, 0,,3 図2 端岡村の経営記経営規模別農家割合(昭23) ~O 3ha 05~ 1. 0ha 336% 359% ~O 3ha 35..9%

o

3~0.5 加 290% 資料)表と同じ。 ha以下では自給の域を出ないであろうと思われるこれら零細な農家は大半が戦 災によって端岡村に疎開し,あるいは,戦場から復員したのち分家するなどし てあらたに農業をはじめた農家であろう。端岡村の農家の数は昭和

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戸から昭和23年は779戸と急増したが,戦後増加した農家がじつはこのような 新設農家であった。いずれにせよ,戦前よりいっそう零細性がつよまるなかで, 戦後の端岡村の農業は営まれたのであった。経営規模が零細なため,端岡村で は少ない農業収益をおぎなうために農外に収入を求めるものも少なくなかっ た。端岡村に属する端岡下所部落では全農家のうち 3割近くの農家が,そして

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ha未満の農家になれば半分以上の農家が何らかの兼業に従事しており,大

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-24 香川大学経済論議 474 工,左官,馬喰(牛馬の仲買人のこと),灯龍作り,製粉屋,指物士,雑貨屋, 裁縫屋,ラジオ修理人などの自営業を営むほか,復興が進む高松市に就業の場 を求める者も徐々にふえつつあった。 このように経営が零細な端岡村では兼業農家の存在が目立つ。しかしこれは 何も端岡村にかぎったことではなし戦前来,香川県は兼業農家が多かった。 昭和21年の「農家人口調査」によると,香川の農家人口に占める男子賃労働・ 職員勤務の割合は 12..9%であった。この12.9%という数値について,農地改革 後の農村調査のために端岡村を訪れた東京大学教授・近藤康男がその調査報告 書において「これは終戦直後,多くの工場が閉鎖され,職を失って零細「専業」 農家が全国的に急増した時の数字である。そういう時代においても香川では農 家の男子の12%は賃労働に従事していたのである。」と,香川の兼業農家の多さ を指摘した。 〔供出〕 通常,県が村に割り当てた供出量はさらに村から部落へ割り当てられて村自 体が個々の農家の供出割当にまでタッチすることはないのだが,端岡村の場合, このような部落割当方式をとらず,村当局自体が農家ごとの供出高を決めると いう積極的姿勢で供出割当にのぞんだ。そのために,村全体では

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万筆にもの ぼる圃場について一筆ごとにその肥痩をチェックするという煩墳で労多き地力 調査を行った。農地は

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段階で評価され,等級にしたがって供出量が算定され る。労力不足で供出の割当量をこなすのが困難な農家に対しては等級を下げた り,あるいは,耕作面積を減らすなどの措置が講じられた。後者の耕作面積を 減らす場合,減らした分は農地委員会が仲介して別の農家に一時的に貸し出さ れるが,小作地問題の発生しないよう,減らした農家の労働力が回復すれば, その時点、で当該農家に農地を返還するというきめ細かい配慮もはらわれた。供 出という国家的要請に対し,端岡村はいわば村をあげての協力体制でのぞんだ のである。 こうした端岡村の供出に対する協力ぶりは県内でも注目されたようで,昭和 22年12月 9日の朝日新聞も,端岡村の供出のさまを r文句なしで村長一任

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475 昭和 20 年代 ~30 年代初頭の香川の農業と農村 25-一一綾歌郡十端岡村民の団結ぶ、り」というタイトJレで iこの村も干害と虫害で作 付不能三十六町七反歩を出し約一割の減収とみられ,もし一町歩の耕作農家が 二人家族として供出完了すれば保有量としてこ斗ニ升しか残らぬ計算となるた め,昨年のような順調な供出をあやぶ、まれていたが,“あとはオレに任せて割当 は完納せよ"と名村長高笠原氏を信用して,さきに実行組合長,食糧調整委員 の申合わせで年末までに一応完納することに決定,供出の不満はその後に協議 しようということになった」と紹介している。この記事中に「実行組合長」と あるその実行組合は農事改良組合のことで,農事改良組合は戦前から県下の農 村に広く存在した部落農家の共同組織であり,農民たちの生産と生活の共同体 であると同時に,行政の末端組織でもあった。この農事改良組合が戦後の食糧 供出の実行組織として役立つこととなったのである。さらにもうひとつ,記事 中の「食糧調整委員」とは端岡村食糧調整委員会の委員ということであって, 供出割当の決定機関である食糧調整委員会は県食糧調整委員会と市岡村食糧委 員会の二段構えで構成され,前者の県食糧調整委員会が決定した郡市別の供出 高は後者の市町村食糧委員会から農事改良組合を通じて末端の農家へ下ろされ た。端岡村は当時,東大谷や下所,国分寺など

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の部落で構成され,部落ごと に農事改良組合が組織されていたのであるが,これら農事改良組合をとおさず に村当局が農家の供出高を直接に決定したというわけである。 ちなみに,昭和23年から供出方法が事後割当から事前割当に変わった。努力 して増収しでもその分多くとられて農民の生産意欲が阻害される事後割当制に 対して,事前割当制なら生産力の増進につながるであろうというのが変更の理 由であったが,しかしほんとうの理由は事後割当では農民の作付け・収量の過 少申告や主食作付け回避の傾向を閉止できなかったからである。こうした供出 方法の変化に対して,端岡村では農業のやり方を変えている。『農村実態調査資 料 第9輯香川県綾歌郡端岡村』によれば i最近の顕著な傾向として,無理 をしても牛馬をかい,それから得た堆厩肥をより多く施して少ない面積からよ り多くの収穫を得て供出,保有(注一自家消費用の保有分のこと)をすませ,余っ た田は別な作物を作って現金収入を豊富にするという傾向に向かっている」と

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26ー 香川大学経済論叢 476 いうのである。戦後の強制的供出の実施は農民にとって重い負担となっただけ でなく,農業のやり方にまで影響を与えたといわれているが,これはそのささ やかなひとつの事例である。 ところで,戦時中の昭和18年,農業分野における経済統制をいっそう強化す るために産業組合と農会を統合して設立された農業会,この官僚的統制団体で ある農業会に代わる農民の自主的組織として農業協同組合(以下,農協と略) が,香川県でも,昭和23年の前半の時期に次々と設立された(昭和22年12月「農 業協同組合法」制定)。端岡村農協が設立されたのは昭和23年1月のことである が,設立当初のこの時期,その事業は主に供出関連のものであった。たとえば, 販売事業の場合,販売といってもその取り扱う物品はコメを中心とする供出食 糧がほとんどであり,そしてその保管料と販売手数料がもっぱら端岡村農協の 販売事業収入であった。こうした事情は端岡村農協にかぎったことではなし いずれの農協もいわば政府の食糧管理の代行機関として供出食糧の集荷と保管 にあたったのである。高松市の場合,当時,市域に六つの農協が存在していた が,これら六つの農協は供出割当機関である市の六つの地区の食糧調整委員会 の管轄区域と対応するように設けられており,端岡村農協もそのひとつとして の役割を果たしていたのである。購買事業では,農薬や農機具,肥料,飼料な どの農業用物資,食料品や衣料品などの生活物資が主な取扱品であった。とこ ろで,当時,肥料を農協から購入する場合,農家は農協貯金か現金の形での自 己資金を持っていなくても,食糧供出代金が自動的に農協貯金に振り替わる仕 組みになっていたこともあって,この食糧供出代金を見返りとして肥料の予約 注文ができた。このような仕組みを農業手形制度といったのであるが,端岡村 農協の場合,県下でも有数といわれたその堅実な経営方針にもとづくものなの か,この農業手形の制度を利用していない。 〔農業生産について〕 昭和24年ころの端岡村の農家l戸当たり経営規模は0..56ha。当時の日本の 農家平均 0..83haに対し,零細な経営規模である。その零細性をカバーすべく端 岡村では集約的な土地利用が行われた。その典型的な例がコメ・麦・タバコの

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477 昭和 20 年代 ~30 年代初頭の香川の農業と農村 27-3毛作である。このコメ・麦・タバコの3毛作は,麦の畦をあらかじめ広幅に 作っておき,麦がまだ畑にある聞に同じ畦にタバコ苗を植え付け,そしてタバ コが成育中のかたわらで麦を刈り取り,コメづくりはタバコ作が終わった8月 以降に着手,という手順である。このようにコメ・麦・タバコの

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毛作は農作 業が重複して連続するだけでなく,タバコ作では収穫後の煩潰な乾燥作業もこ なさなければならない。さらに麦作は移植栽培であった。移植栽培とは通常の ように畑に直播きするのではなく,苗床で育てた麦苗を1本l本,田植えの要 領で植えつけるという栽培方法であって,植えつけに手聞はかかるが収量は伸 びることから,端岡村ではしだいに普及しつつある。何とも手間のかかるコメ・ 麦・タバコの

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毛作であるが,自家労働力を燃焼させるうえでは端岡村にうっ てつけの農法というべきであろう。それに,専売局が確実に買い上げてくれる タバコの栽培は,収益において米作に劣るとはいえ,農家の貴重な現金収入源 である。端岡村はこのタバコ作を今後の成長作目と期待しているのであるが, ただ,タバコ栽培は連作がきかず, 3~4 年間隔の輪作が必要なことから,タ バコ作りは経営規模が

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以上はないとやっていけない。それに何よりも, 最大の問題はやはり肥料不足であった。もちろん肥料不足は米麦作とて同様で ある。配給肥料で不足する分はヤミで購入することになるが,そのヤミ価格が 異常に高くーーたとえば,硫安の場合,買当たりの配給価格43円に対し,ヤミ 価格234円一一,そのため購入をおさえざるを得ず,また,米糠などもほとん ど入手できない状況にある。 〔家畜〕 端岡村も,香川県の農家同様,

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以上・の農家になると,牛か馬を

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頭飼っ ている。ただ,麦糠や配合飼料などの配給はあるが量はわずかであって,農家 が自力で確保できるエサは稲わらやサツマイモが主である。このような飼料不 足にもかかわらず,昭和24年現在,端岡村には48頭のホルスタインがいて酪 農組合も結成されている。いまのところ,搾った乳は農協経由で高松市の岩瀬 練乳会社が1合当たり 4円93銭の公定価格で購入してくれるので販路に心配 はないが,やはり問題は飼料不足であった。サイロ建設用にセメントの配給が

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-28ー 香川大学経済論叢 478 あったものの,貯蔵すべき飼料がないのでセメントは厩舎の補修に用いたと, 『農村実態調査資料第9輯香川県綾歌郡端岡村』は報告している。なお, 農機具については,役蓄が子牛一一後述するように,香川では成牛になると売 買する習慣があったーーで耕転力が弱いことから,経営規模1ha前後の農家に おいて麦刈り跡の圃場の耕起のために動力耕転機が導入されはじめたことを, 戦後の新しい局面として指摘しておこう。 以上,戦後端岡村の農業生産状況を概観した。あらためて

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年センサスに よって,端岡村の作物栽培状況全般を表1で確認しておこう。この表に関し l点 注記すれば,作付延面積

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haであるから耕地利用率は

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,したがっ て, 1戸当たりの作付面積はL03haとなり,0..56haという経営規模の零細性は 克服されている。しかし,その克服のために,戦後の農業資材と肥料不足のも とでなお,端岡村の農民たちは懸命に労苦を惜しまず農業に専念したのであっ た。 表1 端岡村の作物栽培状況(昭22) 作物名 作付面積(ha) コメ 279.6 麦(裸麦・小麦) 307..8 ジャガイモ 10 4 サツマイモ 29 4 豆 類 35..6 競菜(ダイコンなど) 26 8 果樹 36..5 タノてコ 12.1 その他 10.5 計 748..7 資料) r臨時農業センサスJ(昭22)

昭和

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年代後半の香川の農業と農村

一一食糧増産に遇進する香川の村むら一一 昭和20年代半ばの日本の経済と農業 敗戦によって壊滅状況に陥った日

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479 昭和 20 年代 ~30 年代初頭の香川の農業と農村 29 本経済を早急に復興するために「傾斜生産方式」と呼ばれる緊急的経済政策が 断行されたことについてはさきに述べた。この傾斜生産方式を実施するのに必 要な資金を調達するため,政府は昭和21年に復興金融金庫を設立,この復興金 融金庫が復金債を発行して調達した資金が日本の基礎的産業部門に融資され た。しかし,復金債を引き受けた日銀から大量の日銀券が増発され,その結果, 昭和24年前後の時期,激しいインフレが日本を襲った。 激しいインフレのもとで危機的状況に陥った日本経済は,占領軍司令官マツ カーサーの経済顧問として来日したドッジ公使の手によって改革されることと なった。すなわち,傾斜生産方式のもとで行われた価格差補給金が撤廃され, 借金財政を清算すべく超均衡予算が編成され,また,国際社会の一員として日 本経済を自立させるために

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ドル

=360

円の単一為替レートが設定されたので ある。これがいわゆるドッジ・ラインとよばれるところの,昭和24年から昭和 25年にかけての経済改革であった。ドッジ・ラインの断行によってインフレは 収まったが,金融は逼塞して中小企業の倒産,失業者の激増,輸出の不振といっ た深刻な不況にみまわれた。戦後の混乱期に食糧不足とインフレから活況を呈 した農村にもその余波はおよび,農家経済は逼迫して農家の貯金引き出しが急 増して農協の経営も極度の不振に陥った。昭和25年には「農協の危機」が叫ば れ,県下の農協も約その3分の1が赤字経営であったといわれている。 しかし,昭和25年5月に勃発した朝鮮戦争はドッジ・ラインがもたらした不 況を一挙に吹き飛ばした。戦争遂行に必要な膨大な特需が日本企業を活気づけ, 操業度は上昇して失業者は一掃され,輸出は増加して外貨収支は好調に転じ, 国の財政収支は均衡を回復して安定し,こうして戦後日本経済は再建の途を歩 むことになったのである。一方,日本経済が回復軌道に乗るにつれて,農業に 重かった税制も改革され,また,強権供出のもとで低くおさえられていた米価 も昭和

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年以降急テンポで上昇していく。こうした農業保護政策の展開を背景 に,昭和

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年代なかばには日本はコメの収穫高も戦前の生産水準に回復して食 糧危機を脱する。しかし,その需給状況は総消費量を満たすにはまだ不足で, 不足分は外米輸入に頼らなければならないという状態にあった。昭和

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年は食

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-3D- 香川大学経済論叢 480 糧輸入のための外貨支出額は 4億ドル(総輸入額の半分以上)にも達し,当時 の日本経済にとってきわめて大きな負担となった。経済復興をすすめるために はこの巨額な外貨支出を削減してこれを工業用の原料や資源の輸入に回さなけ ればならない。それには何よりも国内の自給体制を確立することが先決で,そ のためには食糧の増産を図らなければならない。かくして国の積極的な増産政 策の展開のもと,新しい稲作技術も開発されて農業生産は上向いていく。高度 経済成長のもとで兼業化がすすみ農業労働力が脆弱化して農業生産が衰退して いく昭和

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年代以降と比較するとき,日本農業にとってこの昭和

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年代後半 の時期は短い期間ではあったが,戦後自作農体制がその機能を比較的順調に発 揮し,農民の耕作意欲は高く農村が活気づいた時期であった。 そしてこの時期,農業生産の回復とともに農産物商品化が進展して農家の市 場依存が強まっていくなか,市場経済と農家を結ぶ役割を担ったのが農協で あった。農家が食管法のもとでコメやムギを販売する場合,それは農協をとお して行われ,また,農家が肥料,農薬,農業機械など農業資材を購入する場合 も農協のはたす役割は大きかったから,農協は農家にとって必要不可欠の存在 となった。ちなみに,農協の危機的状況を打開するための「農協法」の改正(昭 和

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年),これに続く「農林漁業組合再建整備法」の制定(昭和

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年)によっ て農協の再建整備が軌道に乗った昭和

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年当時,信用・販売・購買・生産指導 などの事業を兼営する総合農協は県下に184組合存在した。当時,市町村の数 は

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だったから,農協の方が市町村より多く,いずこの市町村にも農協の看 板を掲げた建物がみられた。県下9万農家のうち農協に参加しない農家はほと んどなく,農協は戦後最大の農民組織に発展したのであった。 それでは,この昭和

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年代後半の時期,香川の農業はどのように展開したか。 以下,その経緯を明らかにするのであるが,まずはじめに,米麦の生産が戦前 の水準に復して強権的供出も終わった昭和

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年当時の香川の農村と農業のあ りさまを紹介しよう。 昭和

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年代半ばの香川県の農業と農家経済 戦前来,香川の農家は

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反 百姓」とよばれてきたように,その大半が経営規模の小さな零細農家であった。

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481 昭和 20 年代~30 年代初頭の香川の農業と農村 31ー その零細性は戦中・戦後をつうじてさらに強まった。戦時中に応召や徴用で主 たる働き手を失って経営規模の縮小を余儀なくされたところに,戦後は復員や 徴用解除,疎開などで農村人口が激増したためである。端岡村の場合もそうで あったことは,先に述べた。表2によると,戦中から戦後の昭和 20年代前半に かけてのこの時期,農家数が昭和16年の 8万1,975戸から昭和 25年に 9万 3,048戸へとふえるもとで, 2 ha以上層は激減して壊滅状態となり, 1"'2ha層 も4割以上減少,他方, 0..5 ha未満層は1万4,067戸も増加した。かつての上層 農家がこの層に転落し,また,戦後の新設農家がこの層において急増したから である。その結果,経営規模が0..5ha以下の農家が 5割以上を占めるという香 川の農業構造が昭和25年時点において形成されたのであった。この零細経営農 家からなる農業構造は昭和30年代の初めま‘で変わらなかったことが,同じく表 2によって確認できるであろう。日本の高度経済成長がはじまる以前の昭和 20 年代後半のこの時期は農外から農業労働力を大量に吸引する労働市場の拡大も なししたがって,全国の農村同様,香川の農村においても過剰労働力が堆積 したまま農業構造はほとんどうごかなかったということである。農業構造がう ごきだすのは,農外への大量人口流出がはじまる昭和30年代以降のことであっ h

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表2 経営規模別農家数の推移(香川県)

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5未満 LO~2.0 2 O~ ~0..3 103~O.5105~LOILO~L5 11 5~20120~3.01 3..0~ 例外規定 │総農家数 農家 昭16卜 一一一一一一卜一一十一一 一一一卜一一一ト一一ート ー ト 428% 140 4% 1 15.8% 1 06% I 0リ1% 1 0.4% I 100.0% 昭25ト一一一卜一一トー 一十一 一ト一一 卜一一卜一一一ト │ 310% I 218% 138.9% I 7 5% I 06% I 0.1% 1 - I 0.1% 1 100.0% 昭30ト一一一十 一一ート一一一卜一一一十一一一一十---一一一一一一卜

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1

257% 1 21β% 1 4L4% 110..2% 1 10% I 0.3% I 100..0% 資 料 ) 資 料 は 夏 期 調 査J(昭16)

r世界農業センサスJ(昭25)

r臨時農業基本調査J(昭 注)表中のーは,数値が小数点2桁以下。

(14)

32 香川!大学経済論叢 482 それでは次に,当時,香川ではどのような農業が営まれていたか。経営規模 が零細な場合,農家が農家として立ちゆくためには,労働を多投し肥料を多投 し栽培を周密にして集約的農業を展開して行くしか途がないが,ここ温暖な讃 岐の地は県勢概要~ (昭和

2

5

年)が「たとえば水稲を栽培する場合の畦畔に は大豆,小豆,ささげ等の作物色麦作の周囲作には菜種,間作には,胡瓜, 茄子,トマト,南瓜,越瓜等の読菜の栽培,または煙草の栽培を行う外,肥料, 飼料用の青刈大豆の栽培等によって三毛作経営を行う等,耕地を最高度に利用 するようその改善合理化を図っております。他方農業技術の研究錬磨につとめ て栽培方法の改良,周到な肥培管理等を行いまして,他府県にはその例をみな い極めて高度な集約農業経営によって単位当たりの生産数量の増加をはかって います」と述べているように,まさにその集約的農業が典型的に展開した土地 柄であった。 あらためて,当時の香川の農産物の栽培状況を

1

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5

0

年センサスによって確認 するならば,それは図3のようであった。一見して香川の農業が米麦中心の農 図3 香川の主要農産物(昭25) η L n y p h リ V , d 4 内 ペ J d u η,わ U “ 噌 ' A u d ' q 、 υ M ﹁

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ハ H V A H U ハ H V A H V A U A U , , A H v p h J V A 悼 A Q d 5.000 30.000 25.000 20.000 15.000 10.000

水稲 麦類 豆類 競 菜 タ バ コ 果 樹 資料)世界農業センサス(日召25)

(15)

483 昭和 20 年代 ~-30 年代初頭の香川の農業と農村 -33-業であることが明らかであろう。さかのぼれば,香川県は近世以来,ため池濯 概水利施設が整備されていくなかで,畑や採草地の耕地化がすすみ,さらに耕 地の水田化がすすんだ。昭和

2

5

年段階における香川の水田化率は全国平均の 57%に対し 76%という高さである。そして,水田化率がこのように高いうえ, 水田のほとんどが乾田である。水田が湿田でなく乾田だということは,用水の 濯排水操作が可能だということであるから,コメが終われば跡作に麦がつくれ る。図3をみると,水稲作付面積と麦類のそれがほぼ同じであるが,このこと からも香川県ではほとんどの農家で米麦の二毛作経営が行われているという事 実を推測することができるであろう。そしてこの米麦二毛作を基軸として,上 段の「県勢概要」に紹介したような多彩な農作物栽培の世界がここ讃岐の地に おいて展開したのであった。 ところで,経営規模が零細であるがゆえの多労多肥の集約的農業という性格 をもって香川県農業の特徴とする場合,それでは,香川県の農家と同じように 経営規模が小さな他の地域の農家と比較した場合もなお,そのようにいえるで あろうか。つまり,規模の小さな農家が集約的農業を行わざるを得ないのはい わば小農家としての必然的な経済的営為の結果であって,他の地域においても, 規模の大きな農家と小さな農家をくらべれば,後者の経営は集約的であろう。 そこで,規模が同じで地域が異なる農家とくらべても,香川県の農家がいっそ う集約的であるときこそ,それは香川県独自の特徴であるといえるであろう。 たんに規模が小さいから集約的農業なのか,それとも香川独自の事情からそう なったのか,このことを確認するために昭和

2

6

年度「農家経済調査J (農林省) を点検したところ,結果は香川の農家は他のどの地域の農家とくらべても明ら かに集約的であった。そのありさまを図4によってあらためて確認しておこう。 ここで香川と比較される地域は稲作単作地帯で経営規模の大きな北陸地方なら びに商品生産がさかんで香川同様に経営が零細な近畿地方である。また,対象 となった農家は 0 ,, 5~

1

ha層で,その平均規模は北陸地方も近畿地方も香川も ほぼ同じ 0,,75ha前後と規模がほとんど同じである。 図

4

によれば,まず第一に,

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当たりの家族労働日数は香川が他のふたつ

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34- 香川大学経済論叢 484 図4 農家経済の比較 (香川=100) 140 120 香川 100 80 /' / 軍¥北陸

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./ 60 40 20

(日投/下反当労た働り) (農円業/反経当営た費り) (円肥/反料当費たり) (円農/反業当所た得り) (円労/l働人報当た酬り) 家族人員 資料) ,本県農家経済の性格j (1農業香}I[~ 7巻5号,昭30)。原資料は「農家経済調査j (農 林省)。 の地域より多い。冬場は農業のできない水稲単作地帯の北陸より多いのは当然 であるが,同じ米麦二毛作地帯の近畿と比較しても多く,香川の農家の経営は あきらかに労働集約的であるといえるであろう。次に農業経営費も肥料費も香 川が多い。ただ,農業経営費は米麦の耕種部門だけでなく,畜産や養蚕,農産 加工等の部門を含んでいるから,農業経営費が高いとうことからただちに集約 的だとはいえないが,農業の多角化傾向はいえるであろう。肥料費の肥料は耕 地に施用する肥料だから,香川の米麦作における肥料の多投は明らかである。 このように労働力と肥料を多投し,経営を多角化したその結果,

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0

a当たり農 業所得は香川が他の地域より高くなっている。だ、が,家族

1

人当たりの報酬と なると,多肥多労と多角経営にもかかわらず,香川が低い。低いのはもちろん,

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485 昭和 20 年代~,30 年代初頭の香川の農業と農村 35 家族数が多いからである。表では示さなかったが0..5ha未満の農家も家族数が 多く,そして農業経営費・肥料費も香川の農家が高く 1人当たり報酬も低い。 ということであれば,香川県における零細経営については耕地が狭いという事 情に加えて,過剰労働力の存在を指摘しなければならない。もちろん,過剰労 働力の存在は日本の農村に共通のことであるが,香川の場合,それがいちじる しいのである。戦前来,香川の農家に兼業農家が多く,また,昭和

3

0

年代以降 の高度成長期,香川で兼業化の進行が顕著であったのは,香川の零細な農家が 抱えるこの過剰労働力のためであった。 農業生産の動向 〔コメ〕 表3は香川県における戦後15年聞におけるコメの総収穫量の推移を示した ものである。これをみると,敗戦の年はコメの収穫量は実に6万tを割るとい 表 3 コメ生産の推移(香川県) 収穫量 作付面積 単 収 ーー・---ー・・ー・ーーー・ーーーーー "-・帽ー-.--- -( t ) (ha) (kg!10 a) 昭20 57,503 35,004 165 日 召21 114,899 35,440 230 日 召22 103.220 34,464 201 昭23 118,700 34,160 350 昭24 119,100 35,410 339 昭25 118,000 35,460 335 昭26 99,100 35,360 282 昭27 124,100 35,370 353 日 召28 119,700 35,490 340 昭29 105,200 35,950 295 昭30 158,700 36,940 433 日 召31 149,000 37,140 404 昭32 145.000 37.283 391 日 召33 157,200 37,300 424 日 否34 153,600 37,300 414 昭35 143.600 37,300 388 資料)r農林水産省累年統計 香川県 (20~52 年)J

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-36ー 香川大学経済論叢 486 う惨状であったが,昭和25年には早くもほぽ戦前の水準の12万tにまで回復 した。昭和20年代後半は,ウンカの異常発生した昭和26年と台風の被害の出 た昭和29年に収穫は落ち込んでコメの生産は不安定であったが,昭和30年に は大豊作の 16 万 t を記録,以後昭和 30 年代はほぼ 14~15 万 t というコンスタ ントな水準を維持することとなる。昭和30年代におけるこのようなコメの総収 穫量の大幅な増加をもたらしたのは,一部は戦後の開拓・開墾事業による作付 面積の増加によるが,主に単収(10a当たり収量)の上昇であった。表4にみる とおり,コメの単収は昭和24,25年ころにほぽ戦前水準に復帰し,昭和30年 代に入ると, 400kgの水準に達した。国全体でみても,昭和30年にそれまで900 万 tで推移してきた水準を一挙に300万 t以上も上積みする 1,230万 tを記 録,以後10年聞は日本の米需給はおおむね均衡を保って推移していく。しかし ここで忘れてならないことは,昭和30年代以降におけるコメの総収量の増加を ささえた単収の上昇が,昭和20年代後半、に新しく開発,蓄積された稲作技術の 成果によってもたらされたものであったということである

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香川県農業試験場 八十台五年史~ (昭59年)にしたがえば,その稲作技術とは,第ーは新品種の導入 (香川35号・東山38号・ミホニシキなど),第二は化学肥料の多投と施肥技術の改 善,第三はBHCやパラチオン剤などの新しい農薬の普及,第四は栽培管理技 術,とくに保温折衷苗代の技術開発とその普及であった。こうしたひとつひと つの新しい技術が連鎖反応的に次々と導入され,それらが全体となって戦後段 階における香川の稲作技術体系をつくりあげることになるのであるが,このよ うな稲作技術の展開の基礎に,戦後香川のめざましい用水事業の展開ならびに 交換分合事業の進展(*)があったことを忘れてはならない。 本 交換分合とは,各所に散らばって所有している農家の耕地一一これを零細分散錯 圃制といい,日本農業の耕地形態上の基本的特徴の一つであったーーを農家間でお互 いに交換しあうことによってーか所に集めることをいう。その直接的効果は農作業に 要する移動の往復距離の短縮化であり,その意味での省力化であった。農地改革lのと き,交換分合事業の実施が譲われたが実現されなかったことは別の機会に述べた

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香 川大学経済論叢.J(64巻第4号)に掲載の拍稿「香川県の農地改革 J)。しかし,農地改

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487 昭和 20 年代 ~30 年代初頭の香川の農業と農村 -37-革が完了するや,地主制の重圧から開放されて耕地の主人公となった農民たちのエネ ルギーは農地の交換分合に向かった。昭和25年度の香川県の実績は移動面積336ha, 筆数にして4,724筆の園場がうごいた。昭和25年度から昭和32年までを累積すれば, 移動面積5,405ha,移動権利者数4万585人,移動筆数8万8,676筆という実績である (数値は香川の農林業』の「付表16 交換分合事業実施状況」から)。 〔水稲の早期栽培) 昭和26年6月15日の四国新聞の「やがて穂が出る緑田」と題する記事のな かに,青々と生育した稲の防除作業に懸命な高松市木太町のお百姓さんの写真 が載っている。しかし 6月中旬といえば,香川の稲作は通常,田植えはまだ はじまっておらず,あらかたの水田は地肌も黒々している。じつはこの写真は 収穫期が盛夏の8月という水稲の早期栽培が行われている水田であった。 戦前来,日本の米づくりの主流は晩稲であった。しかし,取り入れが秋の

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月になる晩稲は出穂期が台風の襲来する時期とかさなる。西日本ではとりわけ, この時期,毎年のように台風で稲が倒伏して被害が出,農民たちは「二百十日」 が平穏に過ぎるように,祈るような気持ちでこの時期をむかえたのであった。 しかし,もし,収穫を8月中に終えることができるなら,台風は回避できる。 このことを可能としたのが水稲の早期栽培であった。戦後新しく開発されたこ の早期栽培によってコメづくりを早めることができるなら,台風の被害をまぬ かれるだけでなく,農地の利用度もいっそう高まる。というのは,早期栽培に よって稲の収穫時期が従来より 2か月近く早まるなら,ゆとりができた麦蒔き までの聞を利用して疏菜や家畜飼料作物がつくれるからである。この意味にお いて,早期栽培は米麦の二毛作から米麦

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の三毛作への輪作様式の変革をも たらす画期的農法であった。ただ,早期栽培の場合,播種期が早春の3月上旬 ないし中旬だから,早期栽培を導入するためには,この寒冷の時期に苗を育て る工夫が必要となる。その技術がこれまた戦後に開発された保温折衷苗代で あった。とくに東北地方を中心に稲作の生産力レベルを一段階引き上げること となったこの保温折衷苗代は,畑状につくった苗床を油紙かビニールでおおっ て加温しながら,苗がある程度育ったところで覆いを取り除き,その後は普通

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-38ー 香川大学経済論叢 488 の苗代のように水を張ってさらに苗を大きく育てる方法で,この保温折衷苗代 方式一一折衷とは畑苗代と水苗代の折衷,という意味ーーを早期栽培に採用し ようというわけである。 ところで,この水稲の早期栽培技術は戦後聞なく香川県農事試験場において 開発されたものであって,まさにここ香川がその発祥の地であった。先に紹介 したところの四国新聞が早期栽培を報道した昭和

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年当時は,早期栽培を行う 農家は県内でもわずか

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戸,面積にして

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に過ぎず,試作の域を出るも のではなかったが,早期栽培による水田の生産力増強効果に注目した農林省が 昭和

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年にこれを「西南暖地生産力増強対策」としてとりあげたことが契機と なって,香川の早期栽培の水田も昭和

3

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年に

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まで拡大する。しかしそ の後は,香川の早期栽培は水利慣行の厚い壁にはばまれて停滞した。水稲早期 栽培の導入をはばむ讃岐の水利慣行といえば,さしずめ,ため池のユル抜き慣 行が想起されるであろう。ユルとは池水を水路に放出するためのため池の付属 施設のことで,ユノレを抜いて田植えがはじまる。そしてユJレを抜く日は池ごと に慣行的に定まっており,これを変更することはまことに困難なことであった。 変更するとなれば,池掛り全域でコメづくりの作業日程を改めなければならず, 場合によっては栽培品種や栽培方法も改めなければならなかったからである。 昭和

3

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年時点における香川の早期栽培面積

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も,そうした慣行の規制が ないか,あるいは規制のゆるやかな地域のかぎられた一部の水田であったろう と推測される。 〔麦〕 香川はムギがよく育つ土地柄である。かつて農林省四国農業試験場(香川県仲 多度郡善通寺市)の場長を勤めた松本五楼の説明によると,香川の土地は麦の「適 地」でトあって,麦の栽培に好適な条件,つまり,土壌が非酸性で土壌溶液が濃 厚なこと,および気候が小雨多照で乾燥しているというこのふたつの条件をふ たつながらそなえているという。しかも,麦という農作物は手を加えるほど収 量のふえる集約作物であるから,この面からも余剰労力の豊富な香川の農家に とって麦の栽培は適している。昭和

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年と昭和

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年の二度,麦の多収穫全国

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489 昭和 20 年代 ~30 年代初頭の香川の農業と農村 39-ーがここ香川│から出たというのも,そういう香川の風土と農業環境からであっ た。さらに,ほとんどが乾田である香川の水田は水を落とせば麦作が可能とな ることから,戦前来,香川県ではほぽ完全な米麦二毛作体系ができあがってい たのである。ちなみに,温暖でト乾燥した香川の風土で育った麦の茎を漂白し組 状に編んだ麦梓真田は,明治以来,讃岐の農家にとってもっとも重要な・副業の ひとつであった。さらに,讃岐の農家が常食とするうどんも讃岐産の小麦が原 料であった。 昭 和20年代から昭和30年代の前半にかけて,香川の麦生産がどのように推 移したかを示したのが表4である。先に昭和 25年当時の香川県農業が米麦中心 の農業であると指摘したが,こののちも香川県農業はコメの後作に麦をつくる 米麦二毛作体系のもとに展開したことが,この表4に表 3をあわせてみれば明 表4 麦生産の推移(香川県) 収穫量 作付面積 主幹 収 ーーーーー岨~----ー --- ----ーー・..ーーーー ー---凶.明.. ( t ) (凶) (kg(lOa) 昭20 95,012 34.116 目 白21 54,700 33,466 168 昭22 74,145 31.699 昭23 93,803 35.500 272 昭24 96,205 35,760 273 昭25 91.597 34.790 263 昭26 95,228 34.732 282 昭27 106,955 34,410 320 昭28 108.806 33.950 323 昭29 134,761 37.680 367 昭30 121,537 36,660 332 目白31 121.537 36.680 307 日召32 98,760 36.817 275 昭33 85,800 36,660 226 昭34 90.500 36.200 252 昭35 111,600 35.510 324 資料) r農林水産省累年統計 香川県 (20~52 年)J 注)単収は,裸麦の単収。

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-40ー 香川大学経済論叢 490 らかであろう。ただ,昭和30年代後半以降,香川の麦作は衰退しはじめ,昭和

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年には作付面積は

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万haを切り,昭和

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8

年には

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4

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0

haにまで急減した。こ うした麦生産の衰退は香川県にかぎったことではなく,日本の麦生産そのもの の姿でもあった。農林水産省の『作物統計』によると,日本の小麦は昭和

3

6

年 の作付面積64.9万haから昭和50年には 9万haへと激減している。 なぜこのように急激に麦は衰退したのか。その歴史的出発点が戦後のアメリ カの食糧戦略にあったことをここで紹介しておこう。つまり,第二次世界大戦 後,ヨーロッパ諸国の戦後復興がすすむにつれ,戦時中世界最大の食糧供給基 地であったアメリカは大量の余剰農産物を圏内にかかえるようになるのである が,この過剰農産物の処理を図るためにアメリカがとった対策が昭和

2

8

年の 「中目互安全保障法」改正であり,昭和29年の「余剰農産物処理法」であった。 いずれの法律も外貨のない国にはその国の通貨での輸入を許し,かつ,積み立 てた代金はアメリカ政府との協議にもとづいて軍事や開発用の資金にあてるこ とができるという,外貨が不足し食糧を輸入しなければならない国にとっては さし当たりはまことに好都合の法律であった。当時,“経済自立"を国家的課題 としながら,外貨不足のために工業の発展がはばまれるという状況にあった日 本は,このアメリカの政策にとびついた。そしてこののち,昭和 30年代に入る と,キッチンカーに代表されるアメリカの食糧戦略や学校給食の普及,高度経 済成長下での日本人の食生活のパン食・洋風化の進行などのもとで,麦の輸入 が急増して国内生産を圧迫し,日本の麦は衰退していく。基本法農政下の麦は 選択的拡大ならぬ選択的縮小の代表的作物であった。ただ,昭和 50年代に入る と,麦が減反政策の転作作物にとりあげられ,これまで生産費用並みか,多く はそれ以下に設定されてきた麦価も引き上げられて麦生産はやや上向くが,し かし,日本農政の後退基調が明らかとなる昭和

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0

年代以降,ふたたび後退して いく。ちなみに,平成2年現在,讃岐うどんの原料である小麦はその 95%がオー ストラリア産の小麦である。 〔家畜〕 稲作における体系的機械の一貫利用体制が確立している今日,動力耕転機や

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491 昭和 20 年代~30 年代初頭の香川の農業と農村 -41ー トラクターによる耕転はごくありふれた日常的な田園風景であるが,戦前はも ちろん戦後も昭和20年代までは,日本の農村で耕転の作業を担ったのはもっぱ ら牛や馬であった。 昭和25年当時,香川の農村には耕作用に5万3,000頭ほどの牛と 1,900頭ほ どの馬がいた(表5)。戦前来,隣県の徳島から春秋の農繁期に牛を借りる習慣 か り こ う し 一一これを借耕牛と呼んだ一ーがあったため,香}IIの農村ではこのように役畜 の主力は牛である。乳牛も入れると,牛馬を飼う農家はおよそ5万

4

,000戸, 当時の農家数は9万

3

,000戸ほどだから,ほぽ10戸に

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戸の農家が牛か馬を 自司っていたことになる。牛馬を飼っていない零細農家,自給的農家も農繁期に は近隣の農家から牛馬を借りて作業を行った。 表5 香川の牛馬(昭25) 牛 馬 飼育農家数 52,155戸 1,910戸 総頭数 54,848頭 1,945頭 - - - ・ , 価 値 帽 ・ ・ ー ー ・ ー - ー ー ー ・ ・ ・ ・b 帽 ' ・ ・ ・ ー ー (内訳) 乳用牛 1,875頭 役用牛 52,973頭 飼養農家 l戸当たり頭数 L05頭 L02頭 農家100戸当たり飼養農家数 香J!I 56戸 4戸 ー ー ー ー ー ー ・ 骨 骨 匹 ー ・ ー ー ー ー ー ー ー ・ . ー ー ・ - - 帽 ・ ー , ・ 曲 ー 岨 ' ・ 司 全国 34戸 15戸 資料)I香川県讃岐平野におげる農業構造j (前出)の64頁に掲載の表から。 原資料は,農林統計表。 香川県の場合,問題なのは端岡村がそうであったように,飼う牛が成牛では なく子牛だということである。東京大学農業経済学教室が香川の用水問題の調 査にやってきたときに開催された仲多度郡法動寺村での座談会(昭和25年11 月)における「……この地方では子牛が多い。飼料が足りない為に大きくなれ ば売って仕舞ってまた小さい牛を買うのですね。これは労働力の面からいえば, 非常に多くかかる事になる。」との発言ひとつからもうかがえるように,この不 都合な子牛売買の習慣も,もとをただせば,牛馬の飼料が不足しているからだ、つ z

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-42- 香川大学経済論議ー 492 た。香川県には牧草の育つ山野が少なく,また 1農家平均0..5haそこそこの 耕地では飼料作物を栽培する余地に乏しい。日本経済研究所が香川県当局から の依頼で立案作成した『香川県産業進行計画の基本構想~ (昭24年)も,-畜産 振興五ヶ年計画J (昭和 23~27 年)を推進するにあたって農家の飼料不足がそ のもっとも決定的な険路になることを指摘した。この飼料不足という決定的な 事態を解消しえないまま,香川の耕作用の家畜は牛馬とも,昭和20年代後半以 降,その数を徐々に減らしていった(牛:昭和25年5万 2,973頭→昭和33年4万 9,000頭,馬:昭和25年1,945頭→昭和33年700頭)。そして牛馬に代わって新し く登場するのが動力耕転機である(昭25年721台→昭30年1,838台)。 次に酪農はどうか。 飼料作物を栽培し,これをエサにして牛を飼い牛乳を生産する酪農。この酪 農が農村に定着・普及するためには,農家から牛乳を買、って市乳(都会の市民が 飲む牛乳)やバター・チーズなどの乳加工品を大量に製造する乳業メーカーが近 くに存在しなければならない。香川県におけるその第1号が昭和16年設立の岩 瀬練乳高松工場であり,先に紹介した端岡村の酪農もその受け入れ先はこの乳 業メーカーであった。このようにすでに戦前にその第一歩を踏み出した香川の 酪農は,戦時中一時停滞したのち,戦後の昭和22年森永乳業,昭和24年国分 商庖・ネッスル社の香川県進出が契機となって昭和20年代後半以降急速に伸び ていった(表B参照)。こうした酪農進展の背景には,県のレベルでは県営牛乳 検査所の設置,酪農講習所の開設,香川県酪農組合連合会の発足,琴平家畜市 場や瀧富市場の改築等々の措置,国のレベルでは「自立経済畜産三ヶ年計画」 表B 香川の家音(昭 25~33) 乳 牛 ヤギ ヒツジ ウサギ 豚 鶏 昭25 1,875 2.213 2.025 14,465 5,540 257.000 昭27 3.094 2,483 4.291 18,979 5,685 510,000 目白29 5,210 4,320 5,iOO 5,790 5,140 854,000 昭31 6.170 8.180 6.120 6.200 7,840 883.000 昭33 8,300 8,470 6.300 8.540 14,100 1,164,000 資料)r香川の農林業』に収録の「付属統計表」。

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493 昭和 20 年代 ~30 年代初頭の香川の農業と農村 -43-(昭26年), ,-有畜農家創設要綱J(昭27年), ,-畜産振興十年計画(昭28年)J などの制定があったことを指摘しておこう。 ところで, 1950年センサスによると,当時,酪農家が飼う牛の数はおよそ1 頭から 2頭で, 3頭以上の農家となると,かぞえるほどしかなかった。そして 昭和30年代に入っても,香川の酪農家5,700戸のうち, 1頭飼いの農家は79% と圧倒的に多く 3頭以上の農家は2%にすぎなかった(数字は昭和34年「畜産 緊急センサス」から)。つまり,この時期,香川lの酪農は,酪農といっても,米作 のかたわら

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頭の乳牛を飼い,牛乳を搾ってわずかなりとも日銭が稼げ るといった程度の酪農,いわば副業的酪農経営であった。しかしこのように零 細な酪農であっても,酪農の導入は現金収入のほかに,農業経営上,次のよう な大きな利点があった。それが何であったかは,県の農業改良課の専門技師が 昭和25年の夏,大川郡石田村の酪農家(経営規模:水田1ha,畑0..15ha,乳牛3 頭飼育)を訪問したときの次のようなやりとりから明瞭に了解できるであろう。 すなわち,-酪農の利益はどうで、すか」との技師の質問に対し,当該農家は, 「飼料を買って牛に食べさせ,乳を売ったのでは,あまり乳牛の方では期 待できません。乳価も従来のー升四五円が四O円に下がり,六月一日以来 三二円に下がったし,飼料はそう値段が下がらないんですから……」 と答えている。そしてこれに続く「他の一般作物の方で,間接の利益はありませ んか」との質問に対する答えが, 「それはあります。一般の平均は反当米作二石一斗前後ですが,乳牛を 飼っている家は,ニ石五斗位はとれます。まあ,反当ー俵の差はあります かな刷.."",... J というものであった。この答えにあるとおり,牛小屋でつくられる厩肥,その 増投による地力培養ニ生産力増進の効果を県当局も国も重視し,その立場から 酪農の推進を食糧増産対策の一環として位置づけたのであった。 酪農推進にあたって問題はやはり飼料の不足であった。これを解決する方策 として大きく期待された水稲の早期栽培が厚い水利慣行の壁にはばまれて定着 しなかったことについては先に述べた。香川県の場合,さらにもうひとつ,別

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44- 香川大学経済論叢 494 の問題があった。それは,厩肥のもとになる麦藁や稲わらが足らないのである。 ば っ か ん さ な だ かます 戦前来,香川の農家の副業として広く普及した麦梓真田と臥,この前者の原料 として麦藁が,後者の原料として稲わらが大量に使われて厩肥用に回らないか らである。とくに臥は香川の塩田の製塩用袋として昭和

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年には

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万枚も 生産された。先の仲多度郡法動寺村の座談会での「鶏を飼って臥に代わる副業 を見出すべきですね。Jr臥は結局損をしている事はわかっているのだが,たち まちの問題としてやむを得ず、やっているわけです。Jr (臥を 注)二,三千枚(六 万円)作る家は多いのです。やはり経済的にはその方が良いので止めさすわけに はゆかないのです。五反歩位の農家では田の収入に匹敵するんですから。Jr現 在の臥を止めて明日の現金収入を如何にするかu …」等々の発言は, q入の生産 のために堆肥や厩肥の生産がおろそかになっている現状を指摘したものであっ fこ。 このように臥問題は香川の特殊事情であるが,しかし,飼料が足らないとい う現実は,全国に共通のことであった。食糧増産が最重要の国家的課題であっ たこの時期,政府としては何としてもこの問題の解決を図らなければならず, そのための対策が昭和

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年の飼料穀物輸入の自由化・無関税化であった。こう して高度経済成長がはじまる昭和

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年代以降,生活水準の向上にともなう市 乳・乳製品の需要拡大を背景に,香川の,そして日本の酪農は急成長する。し かしそれは海外からの飼料穀物の大量・無関税輸入に依存した「加工型畜産」 としての成長であった。このゆがんだ形の香川一日本の酪農は,そのためにこ ののち,輸入飼料価格が高騰するたびにその経営基盤を大きくゆるがされるこ とになる。 昭和

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年代のこの時期,香川の農村では耕作用の牛馬や乳牛のほ か,鶏,豚,ヤギ,ヒツジ,ウサギなども飼われた。戦前,養鶏王国とまでよ ばれた香川の鶏は戦後の食糧難時代に一時激減したが,昭和

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年代後半以降急 速に増大,昭和

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年には養鶏羽数は

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万羽を上i回った。養豚も讃岐農家の重 要な副業のひとつで,その伸びは急速である。ヤギは山村や離島で栄養源とし て,ウサギ、は毛皮用,ヒツジは採毛用にそれぞれ飼育されていた(以上,表 8 参照)。

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495 昭和 20 年代 ~30 年代初頭の香川の農業と農村 -45-共同田植えの村 香川の戦後

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年の変遷のなかで,昭和

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年代後半の時 期は,数多くの家畜が存在し,また,さまざまな種類の農作物や果樹が栽培さ れて農業が多彩に展開した時代であった。と同時に,村が村として地域的なま とまりを失わず,村の共同作業も村人たちの強い連帯のもと,村をあげてとり 組むことができた時代であった。この場合,村とは系譜的には近世の村につな がるところの,戦前来,広く“部落"と呼ばれてきた地域の地縁的・血縁的小 集団のことである。昭和30年代以降,農民階層の分解がすすんで村の共同体的 機能が失われていく高度経済成長期以降の農村とくらべれば,この時期の農村 は本来の村らしいたたずまいを呈していた農村であったといえよう。ここに, 村をあげて村の共同作業にとり組んだ事例をひとつ紹介すれば,たとえば綾歌 郡久万玉村の旭部落の場合,昭和23年から3年連続して螺虫の被害を受けたた めに,

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戸の全農家が参加して共同田植と共同防除を昭和

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年の夏に実施し た。足手まといになる幼児は全員,万福寺という村の寺にあずけて共同託児, 共同炊事を実施するという徹底ぶりであった。この時期,こうした活気が旭部 落にとどまらず香川のいずれの村むらにおいてもみなぎっていたのである。そ して,こうした活気ある村むらを主人公とする「新農村建設運動」が昭和30年 代初頭,展開される。 開拓と県外移住 これまで,混乱期の昭和

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年代前半と復興期の昭和

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年代後半に分けて考察してきたが,昭和

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年代をつうじて考察しなければなら ないふたつの農村問題がある。ひとつは開拓事業,もうひとつは県外移住であ る。いずれも戦後の食糧難と過剰人口解消のために推進された国家施策であっ た。以下,香川県における開拓事業の実施状況と県外移住のありさまを紹介し よう。 〔開拓〕 昭和

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月,政府は「緊急開拓実施要領」を閣議決定した。これは緊急 開拓事業とよばれ,主に引揚者や復員者の家族を対象に全国で

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万h

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の開墾,

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の開拓を行って

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万戸を入植させようという計画であった。ただ,こ の雄大な計画は,資材の不足,インフレの進行という悪条件に加えて,入植者

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46 香川│大学経済論叢 496 に農業未経験者が多かったため計画どおりにはすすまなかった。 当初,農林省が香川県に指示した開拓目標は4,000haであった。しかし,古 くから農地の開発がさかんであった香川県は I山耕して天にいたる」の言葉ど おり,耕やせる土地はほとんど耕やされており,開墾地といって木田郡の林飛 行場跡などの旧軍用地のほかはほとんどが急傾斜の山間僻地で,土質も悪く, 開墾は困難をきわめた。入植後に離農のケースも少なくなく,昭和

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年の県の 調査では, 2,561戸の入植農家のうち 602戸もの農家が離農している。この困難 な開拓事業に対して,県当局は住宅や共同作業場,分教場の建築などのための 補助金を交付したり開拓地営農指導員を現地に常駐させてたりして入植農家を 援助し,入植農家も開拓組合を組織してこの困難な開拓の事業にあたった。開 拓組合は昭和22年の農業協同組合法制定以後,開拓農業協同組合に変わった が I香川県農地開拓年報」によると,昭和

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年当時,高松開拓農業協同組合 など県下に 53の組合があった。高松開拓農業協同組合は峯山の開拓事業に,土 庄の壇山開拓農業協同組合は豊島の開拓事業に,また

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名という県下最大の 組合員を擁する枠田村他四か村開拓農業協同組合は阿讃山麓の開拓事業にそれ ぞれたずさわり,坂出の城山の開拓には城山山麓開拓農業協同組合など五つの 組合が事業にあたった。 〔県外・海外移住〕 開墾適地にめぐまれない香川県においては県外移住もさかんで,昭和

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年ま でに460戸の農家が北海道や九州,山陰地方に入植していった。以下四国新 聞』を中心に,県外入植の模様を紹介しよう。 昭和21年6月 5日の記事によると,前日の4日に大東開拓国が満州、│から帰 還,480人以上もの開拓団のメンバーの処遇が社会問題となっているが,一団は 宮崎県の霧島山麓に新しい開拓地を求めて入植する予定であるという。戦前, 日本の農村から「鍬の戦士」と称して満州や中国へ開拓国が派遣されたが,零 細農家の多い香川県からもいくつもの開拓国が中国大陸へ渡った。大東開拓国 もそのひとつで,大川郡の相生村など東讃地方の村むらがメンバーの出身地で あった。

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497 昭和 20 年代 ~30 年代初頭の香川の農業と農村 -47-戦前,本村から一部の農家を分離して移住地に新しく村をつくることから, 中国大陸への移住は“分村"とよばれたが,香川県でその先駆けとなったのは 綾歌郡の栗熊分村であった。昭和25年7月22日の四国新聞の記事は,この栗 熊分村があらたに香取開拓国として鳥取県の大山山麓で活躍中の模様につい て rかつて新天地を満州吉林地区に求めて苦闘七カ年,漸く報いられると思っ た矢先,敗戦ですべてを失い裸一貫で引き揚げて来た香川県綾歌郡栗熊村分村 が再度第二の新天地を鳥取県大山山ろく(西伯郡大山村)に求め香取開拓団と して入植してから五か年,あるいは自然の猛威に屈して解散したり,あるいは 人の和乱れて分散の運命に遭遇する開拓国が現れているさ中,同聞は香川県人 の勤勉さと満州の広野で鍛えた開拓精神とが相まって著々功をおさめ""のい」と 幸匠じている。 昭和27年 11月5日の記事によると,北海道の幌延に 5か年計画で“香川村" を建設する県の計画が報じられている。その実施にあたり県恒肋〉らこの計画は 農村の二,三男対策の一環としておこなう旨の説明があったが,戦後緊急開拓 事業としてはじまった開拓事業は,昭和

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年代後半になると,農村の二,三男 対策事業へと性格を変えていった。昭和25年の朝鮮戦争勃発とともに発生した 特需にささえられて日本経済が復興の道をたどりだしたとき,農業は所得の低 い産業分野として国民の眼に映りはじめた。そして,農業を低所得分野におし とどめている最大の理由は農村の過剰人口であり,過剰人口問題はニ,三男対 策問題であった。農村の場合,過剰人口ははっきりと失業という形をとらず, 潜在失業となって沈殿する。昭和27年当時,香川県の過剰人口は約 5万人と推 測されている。 昭和28年,戦中・戦後と途絶えていた海外移住が再開された。翌昭和29年, 香川県からはじめて1所帯がブラジルに移住,以降昭和 32年までに 43所帯が 南米の国々に新世界を求めて太平洋を渡っていった。この海外移住も,やはり 農村の二,三男対策として推進された。 I i i J i l l

参照

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