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トルコにおいてテロの連鎖が止 ま ら な い。 二 〇 一 五 年 六 月 か ら 二 〇 一 六 年 四 月 ま で に ア ン カ ラ、 イスタンブルを中心に七回もの大 規模テロが発生した(表1参照) 。 犯行声明が出ていないものもある が、実行犯はクルディスタン自由 の 鷹 ( T ey rê ba zê n A za diy a Kurdistan : TAK) ⑴ と、 「イスラ ー ム 国 」( Islamic State : I S ) ⑵ に大別することができる。 TAKが活動を活発にさせた背 景は、二〇一五年七月のトルコ政 府 と ク ル デ ィ ス タ ン 労 働 者 党 ( Pa rti ya K ar ke rê n K ur dis ta n : PKK)の停戦破棄、そして停戦 破棄以降、トルコ南東部でのトル コ軍とPKK、特に青年過激派グ ル ー プ で あ る 愛 国 革 命 青 年 運 動 ( Y ur ts ev er D ev rim ci G en çli k Hareket : Y D G -H ) の 衝 突 に よるクルド人の犠牲者の増加に求 められる。TAKがPKK傘下の 組織かどうかに関して検討の余地 はあるとしても、都市部に潜んで いた潜在的過激派がその活動を活 発化した理由は存在するのである。 一方、ISに関しては、トルコに おけるISとはどのような人々に よって構成されているのか、トル コ の I S は 一 枚 岩 の 組 織 な の か、 その目的とは何か、などいまだに 多くのことがよくわかっていない。 二〇一五年以前、トルコはシリア に向かう外国人戦闘員の交通路と なっていたが、トルコにおけるI Sの活動は可視化されていなかっ た( 参 考 文 献 ① )。 し か し、 二〇一五年以降、ISはトルコで 五回のテロを実行し、二〇一五年 六月からはトルコ語による機関紙 『 コ ン ス タ ン テ ィ ニ エ 』 ( Konstantiniyye ) を発刊している。 本稿は、最近のトルコにおける テロに関して、その活動実態がい まだ不鮮明な、トルコISの活動 に焦点を当て、入手可能な公開情 報を基に、その起源と構成につい て素描する。その手がかりとして、 ①二〇一五年にトルコで起きた一 連のISによるテロの実行犯であ り、アドゥヤマン県出身者を中心 に 結 成 さ れ た「 ド ク マ ジ ュ ラ ル・ グ ル ー プ 」( Dokumacılar Grubu )、 ②アドゥヤマン県と並び、ISの 戦闘員を輩出しているビンギョル 県 に お け る 過 激 派 の ル ー ツ、 ③ 二〇一五年一〇月二八日に内務省 が公開した危険人物リストにおい て最重要人物に指定されたイルハ ミ・ バ ル( İlhami Balı ) に 代 表 さ れるトルコISの幹部、④ISが トルコのなかでも潜伏先、兵站線 として使用しているキリス県とガ ズィアンテプ県の状況、という四 つの視点から考察し、トルコIS の実態を浮かび上がらせたい。●
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⑴ 「 ド ク マ ジ ュ ラ ル・ グ ル ー プ 」 による一連のテロ事件 表1にあるように、二〇一五年 の間にISによるテロがトルコで 三回起きた。最初のテロは、六月 五日にクルド系政党の人民民主主 義 党 ( H alk la rın D em ok ra tik Partisi : H D P ) の デ ィ ヤ ル バ ク ル に お け る 集 会 で 爆 発 が 起 こ り、分析リポート
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表 1 2015 年 6 月以降にトルコで発生した主なテロ 日時 場所 実行犯 犠牲者 2015 年 6 月 5 日 ディヤルバクル IS 4 名死亡 2015 年 7 月 20 日 スルチ IS 32 名死亡 2015 年 10 月 10 日 アンカラ IS 103 名死亡 2016 年 1 月 12 日 イスタンブル IS 10 名死亡 2016 年 2 月 17 日 アンカラ TAK 28 名死亡 2016 年 3 月 13 日 アンカラ TAK 37 名死亡 2016 年 3 月 18 日 イスタンブル IS 5 名死亡 (出所)新聞など参照し、筆者作成。四名が死亡、一〇〇名から四〇〇 名の負傷者が出た。この集会には HDPの共同党首であるセラハッ テ ィ ン・ デ ミ ル タ シ ュ( Selhattin Demirtaş ) を は じ め、 多 く の H DPの議員が参加していた。この 事件の実行犯としてその後、ガズ ィ ア ン テ プ 県 で 拘 束 さ れ た の が、 アドゥヤマン出身の若者、オルハ ン・ギョンデルであった。ギョン デルは、自爆ではなく、集会の近 く で 携 帯 電 話 を 売 っ て い た 男 に、 ビニール袋に入った爆弾を「睡眠 薬が入っているので集会が終わる まで預かってくれ」と預け、犯行 に 及 ん だ( T24 、 二 〇 一 五 年 六 月 八 日 付、 http://t24.com.tr/haber/ d iy ar b ak ir d ak i-s al d ir ila ri -g er ce k le st ir en -k is in in -is id -m il it a n i-o ld u g u -i d d ia -edildi,299106 )。 七月二〇日には、トルコ南東部 のシャンルウルファ県スルチでコ バニ(アイン・アラブ)復興のボ ランティアを狙った自爆テロが起 こり、三二名が死亡、一〇〇名以 上 が 負 傷 し た。 ス ル チ は、 二〇一四年九月から二〇一五年一 月 ま で I S と ク ル ド 民 主 統 一 党 (Partiya Yekîtiya Demokrat : P YD)およびその軍事部門である ク ル ド 人 民 防 衛 隊( Yekîneyên Parastina Gel :YPG)を中心と したクルド人勢力が激しく争った シリアのコバニから国境を挟んで 程近い地域であった。ボランティ アに参加していたのは、主にクル ド人の若者であった。スルチの事 件の実行犯もアドゥヤマン出身の 二〇歳の若者、シェイフ・アブド ゥルラフマン・アラギョズであっ た。 さらに一〇月一〇日にアンカラ の中心部、スーヒエで主にクルド 系団体と左派系団体によって催さ れた平和を求める集会を狙った大 規模な自爆テロが発生、一〇三名 が犠牲となり、トルコ共和国史上 最悪のテロ事件となった。この自 爆テロの実行犯はその後、スルチ での自爆テロの実行犯であったシ ェイフ・アブドゥルラフマンの兄 で二五歳のユヌス・エムレ・アラ ギョズと、シリア人の男性であっ たことが判明した。 二〇一五年に起きた三回のテロ 実行犯はいずれもアドゥヤマン出 身の若者であり、標的とされたの は主にクルド人のグループであっ た。アドゥヤマン出身のトルコ人 から構成されるISのグループは、 当 初「 ア ド ゥ ヤ マ ン・ グ ル ー プ 」 と呼ばれていたが、その後、アド ゥヤマンでISのリクルーターを していたムスタファ・ドクマジュ ( Mustafa Dokumacı )の名前をと って、 「ドクマジュラル ・ グループ」 と 呼 ば れ る よ う に な っ た( ア ル・ モニター、二〇一五年一〇月二三 日 付 、 ht tp :// w w w .al-m on ito r. co m /p uls e/ or ig in als /2 01 5/ 10 / tu rk ey -s yr ia -isi s-a diy am an - suicide-bomber-ar se na l.h tm l# )。 トルコの内務省 が公表した危険 人物リストにお い て、 「 ド ク マ ジュラル・グル ープ」は、リク ルーターである ドクマジュが最 も危険とされる 赤 色 リ ス ト に、 それ以外のメン バーがその次に 危険な青色リス トに名を連ねた (表2参照) 。内 務省は二〇一六 年四月初旬にリ ストをアップデ ートし、青色リストに名を連ねる ISメンバーは二〇名となった。 ⑵ 「 ド ク マ ジ ュ ラ ル・ グ ル ー プ 」 の結成 そ れ で は、 「 ド ク マ ジ ュ ラ ル・ グループ」はどのようにして結成 されたのだろうか。その手がかり はまず、彼らの出身地であるアド ゥヤマンにある。アドゥヤマンは 表 2 内務省の危険人物リスト(青色)に名を連ねた IS 関係者 名前 出身 出生年
ハジ・ユスフ・クズルベイ(Hacı Yusuf KIZILBAY) アドゥヤマン 1993
カスム・デレ(Kasım DERE) アドゥヤマン 1984
マフムット・ガーズィ・デュンダル(Mahmut Gazi DÜNDAR) アドゥヤマン 1993
メフメット・ムスタファ・チェヴィック(Mehmet Mustafa ÇEVİK)⇒当局監視下 アドゥヤマン 1992
オメル・デニズ・デュンダル(Ömer Deniz DÜNDAR) アドゥヤマン 1993
ヤクップ・アクトゥルム(Yakup AKTULUM)⇒当局監視下 アドゥヤマン 1988
メフメット・イシィク(Mehmet İŞİK) アドゥヤマン 1996
メフメット・タシャル(Mehmet TAŞAR) アドゥヤマン 1994
ムハメット・ザナ・アルカン(Muhammet Zana ALKAN) アドゥヤマン 1995
エルセル・オジャック(Ersel OCAK) アドゥヤマン 1994
マフムット・ガジィ・タタル(Mahmut Gazi TATAR)⇒ YPG に拘束 アドゥヤマン 1991
レジェップ・ヤマン(Recep YAMAN) アドゥヤマン 1984
アイシェヌル・インジ(Ayşenur İNCİ) アドゥヤマン 1994
デメト・タシャル(Demet TAŞAR) アドゥヤマン 1994
メルヴェ・デュンダル(Merve DÜNDAR) ドイツ 1996
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アドゥヤマン県の県庁所在地であ る。アドゥヤマンでISのリクル ー ト 活 動 が 始 ま っ た の は、 二〇一三年頃からとみられている。 まず、リクルーターであるドクマ ジュは大学入学の準備をしていた マフムット・ガーズィ・デュンダ ルとオメル・デニズ・デュンダル という二人の兄弟を誘い入れ、彼 ら を シ リ ア に 渡 航 さ せ た( 『 ラ デ ィ カ ル 』 紙、 二 〇 一 五 年 一 〇 月 一 二 日 付、 http://www.radikal. co m .tr /tu rk iy e/ an ka ra -sa ld iris in i-do ku m ac ila r-m i-y ap ti-1 44 97 95 / )。 次に名前が出てくるのがアンカラ の テ ロ の 実 行 犯 で あ っ た ユ ヌ ス・ エムレである。ユヌス・エムレは アドゥヤマンの中心地に近いバフ チェチック地区の出身で、アラビ ア 語 の 教 育 を 受 け る た め に、 二 〇 〇 八 年 か ら ア フ ガ ニ ス タ ン、 シリア、イラク、イラン、サウジ アラビアなどに渡っていた。その 過程でイスラーム、特に過激な言 説に惹かれるようになったと考え られる。そして二〇一四年に帰国 後は「イスラーム・チャイ・オジ ャック」というチャイハネ(トル コ の 喫 茶 店 ) を 始 め る と と も に、 アドゥヤマンのいくつかの地区で 若者にイスラームの教えを説いて いた。弟のシェイフ・アブドゥル ラフマンもチャイハネを手伝って いた。ディヤルバクルの事件の実 行犯であるオルハンも同じバフチ ェチック地区に住み、ユヌス・エ ムレの経営するチャイハネによく 顔 を だ す 友 人 で あ っ た。 ユ ヌ ス・ エムレは、チャイハネの中二階を イスラームの教えを説いたり、議 論したりするサロンとして使用し、 その部屋のひとつを礼拝所として いた。二〇一四年一〇月にギョン デルの父親などが息子の行動がお か し い と し て、 「 イ ス ラ ー ム・ チ ャイ・オジャック」を訪問すると ともに、 警察に通報した。ユヌス ・ エムレは二回に渡り、警察に出頭 させられ、その後、 「イスラーム ・ チ ャ イ・ オ ジ ャ ッ ク 」 は 閉 店 し、 ア ラ ギ ョ ズ 兄 弟 は 二 人 と も 二〇一五年三月から行方不明にな った。 ドクマジュはアドゥヤマン県か ら約四〇〇人の若者をISに引き 入れ、その内六〇人は自爆テロ実 行犯として訓練されたとみられて い る ⑶ 。 も ち ろ ん、 リ ク ル ー ト さ れた若者の親も状況を静観してい たわけではない。シリアへ渡った 若者の親の多くは、トルコ警察に 調査を依頼したり、シリアもしく はシリア国境まで直接出向いて息 子 を 説 得 し た り し て い る( 『 ラ デ ィカル』紙、二〇一五年六月一五 日 付 、 htt p:/ /w w w .ra dik al.c om . tr/turkiye/diyarbakir-saldirisinin-ar ka -p la ni-ale vi-ku rt-za nli -is id e-boyle-katilmis-1379173/ )。 し か し、 多くの場合、親たちは子どもたち と会うことができず、運よく引き 戻すことができたとしても、多く の若者は精神的に不安定な状況に 陥ると報告されている。 また、YPGによって捕虜とな っ て い る と み ら れ る マ フ ム ッ ト・ ガージ・タタールは、ISに加わ る前にアドゥヤマンのチャイハネ で実施されていた「宗教教育キャ ンプ」に参加したと証言している。 このようにアドゥヤマンは、IS に出身者が加わるだけでなく、ト ルコにおけるISの出先の役割も 果たしているようである。 通常、トルコ国内でリクルート された若者は、ガズィアンテプ県 からシリアに入り、 以前はタッル ・ アブヤド、二〇一五年後半からは ラッカに赴く。 「ドクマジュラル ・ グループ」のメンバーは、PYD /YPGとの戦闘に参加しており、 前 記 し た オ ル ハ ン・ ギ ョ ン デ ル、 シェイフ・アブドゥルラフマンと ユヌス・エムレのアラギョズ兄弟 も二〇一四年一〇月にタッル・ア ブヤドに入ったとみられている。 ⑶ 共和人民党代表団によるアドゥ ヤマンでの聞き取り調査 ディヤルバクルとスルチでの事 件を受け、第二政党の共和人民党 ( Cumhuriyet Halk Partisi : C H P ) の 議 員 団 が 二 〇 一 五 年 七 月 三〇日と三一日にアドゥヤマンを 訪問し、そこでISに渡った若者 たちの家族、NGO職員、警察署 職員、さらにはスルチでのテロ実 行犯として服役しているギョンデ ルなどへの聞き取り調査を行った ( C H P 議 員 団 の ア ド ゥ ヤ マ ン に お け る 調 査 に 関 す る レ ポ ー ト、 h tt p s: / / w w w .c h p .o rg .t r/ H a b e r l e r / 1 7 / c h p -m ille tv ek ille rin in -a diy am an da -ya pt ik la ri-in ce le m ey e-i lis kin -rapor-2651.aspx )⑷ 。 そのインタビューから明らかに なったISにリクルートされた若 者の行動は、①若者たちは夜九時 から一〇時あたりに家を抜け出し、 チャイハネに行き、夜遅くもしく は朝方帰宅する、②ひげを伸ばし たり、伝統的なムスリムの衣装を 身に着けたりする、③母親や女兄 弟にスカーフを着用するように論トルコにおいて伸張する「イスラーム国」―その起源と構成― じる、④政府が指名した導師、政 府が運営するモスクで礼拝するこ とを否定する、⑤トルコの他の地 域に旅行に行くという名目で数万 円持って外出する(実際はシリア に 行 く )、 と い う も の で あ っ た。 また、シリアでロシア人やドイツ 人の女性と結婚し、妻、場合によ っては子どもをともなってアドゥ ヤ マ ン に 帰 省 す る。 多 く の 者 は、 一度アドゥヤマンに帰省してから 再度シリアに渡っている。 また、ギョンデルとのインタビ ューにおいて、ギョンデルは家族 から常に勉強しろ、働けといわれ ることに反発していたこと、学習 塾に入ってから礼拝をしたり、国 際的なネットワークを持ち、トル コ国内でも最有力の神秘主義教団 であるナクシュバンディー教団の 会合に参加したり、チェチェン紛 争のビデオをみたりしたことを説 明している。そして、ISと爆破 事件に関しては、彼自身はシリア に行かず、ディヤルバクルには爆 破事件の一週間前に行ったことな どを説明している。ただ、彼自身 が面会の際に述べているように精 神的に病んでおり、証言が正しい かは疑問の余地があるだろう。 ⑷なぜアドゥヤマンなのか 人口約六〇万のアドゥヤマン県 は、非常に保守的な県であり、一 般的にはクルド系政党の支持基盤 であるトルコ南東部に位置するが、 総選挙では二〇〇二年以降、公正 発 展 党( Adalet ve Kalkınma Partisi : A K P ) が 勝 利 し 続 け て いる。二〇一五年に実施された二 度の総選挙においてもAKPへの 高 い 支 持 率 が 目 立 っ た( 表 3 参 照 )。 ア ド ゥ ヤ マ ン 県 か ら I S の メンバーが多く出ている背景とし て、保守的でイスラームの教えに 従順である点、アドゥヤマン県の 経済状況がよくない点などが指摘 さ れ て い る( ア ル・ モ ニ タ ー、 二〇一五年七月二三日付、 http:// w w w .a l-m on ito r.c om /p ul se / or ig in al s/ 20 15 /0 7/ tu rk ey -ad iy am an -is is-co nn ec tio n-s ur uc -bombing.html# )。 ア ド ゥ ヤ マ ン 県はイスラームに熱心な人が多い のに対し、そうした人たちの受け 皿となる地域に根ざした有力なイ ス ラ ー ム 組 織 が な い。 こ の 点 が、 アドゥヤマン県の若者が直接IS に赴くようになる理由のひとつで ある。確かにアドゥヤマン県はト ルコ国内の有力な神秘主義教団の ひ と つ で あ る「 メ ン ズ ィ ル 教 団 」 ( Menzil Cematti )の拠点である。 し か し、 「 メ ン ズ ィ ル 教 団 」 は、 トルコ共和国の原則のひとつであ る政教分離を受け入れ、政治につ いては論じないことを特徴として いる。 あくまで教育の普及や麻薬 ・ アルコール依存から脱却するため のリハビリを活動の中心に据えて いる。そのため、ISに感化され る若者たちが欲するような活動は 行われていない。 また、クルド人が多いトルコの 南東部は、失業率がトルコの平均 よ り も か な り 高 い( 図 1 参 照 )。 トルコ統計協会の数値を参考にす ると、アドゥヤマン県の失業率は、 二 〇 一 一 年 が 一 六 ・ 一 %、 二 〇 一 二 年 が 一 五 ・ 八 %、 二 〇 一 三 年 が 表 3 2015 年におけるトルコ総選挙の結果(550 議席) 政党/投票日 (投票率:83.9%)6 月 7 日総選挙 (アドゥヤマン県)6 月 7 日総選挙 (投票率:85.2%)11 月 1 日総選挙 (アドゥヤマン県)11 月 1 日総選挙 公正発展党 40.9%(258) 59% 49.5%(317) 69% 共和人民党 25.0%(132) 11% 25.3%(134) 11% 民族主義行動党 16.3%(80) 4.5% 11.9%(40) 3% 人民民主主義党 13.1%(80) 11% 10.8%(59) 14% (出所)高等選挙委員会ウェブサイトを参照し、筆者作成。 図1 アドゥヤマン県とビンギョル県の失業率 (出所)トルコ統計局、世界銀行。 18 (%) 16 14 12 10 8 6 4 2 0 2011 2012 2013 トルコ平均 トルコ東部平均 アドゥヤマン トルコ南東部平均 ビンギョル
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九 ・ 一 % と な っ て い る( ト ル コ 統 計 協 会 ウ ェ ブ サ イ ト、 http:// w w w .tu ik .g ov .tr /U st M en u . do?metod=temelist )。 ト ル コ 全 体の失業率の平均は、二〇一一年 が九 ・ 八%、二〇一二年が九 ・ 二%、 二 〇 一 三 年 が 八 ・ 七 % と な っ て お り、二〇一一年と一二年のアドゥ ヤマン県の失業率はトルコの平均 よりも約六%高い(二〇一三年に 極端に失業率が下がっている理由 は 定 か で は な い )。 職 に 就 け な い 若 者 が チ ャ イ ハ ネ な ど に 集 ま り、 そこでISのリクルーターと出会 い、ISに戦闘員として参加する という負の連鎖が生じている。●
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ル
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⑴ビンギョル県のIS分子 アドゥヤマン県以外では、ビン ギョル県からもISに渡る若者が 多く、ISやヌスラ戦線などの過 激派に六〇〇人以上が参加してい る と み ら れ て い る ( ア ル ・ ジ ャ ジ ー ラ ・ ト ル コ 、 htt p:/ /a pp sa lja ze era .co m / in te ra ct iv e/ is id _d os ya / bingol.html )。 ビ ン ギ ョ ル に は、 クルド語の方言のひとつとみなさ れているザザ語を話すザザの人々 が住んでいる。ザザなどのクルド 人のなかのさらにマイノリティの 人々は、自身の民族的なアイデン ティティーが不安的である。その ため、クルドという民族よりもイ スラームという宗教をアイデンテ ィティーの上位に据えているとも いわれている。また、自己のアイ デンティティーを不安定化させて いるクルドという民族性に敵意を 抱く者もいる。そうしたイスラー ムへの傾倒とクルドというアイデ ンティティーへの敵意が、一部の ザザの人々をシリアへと赴かせて いる。クルド人のイスラーム急進 主義に詳しいビンギョル大学のメ フ メ ッ ト・ ク ル ト は、 「 サ ラ フ ィ ー主義に傾倒するクルド人はトル コ共和国が好きではない。しかし、 同時に(PKKのようなクルド人 ア イ デ ン テ ィ テ ィ ー を 強 調 す る ) クルド人も好きではない」という 見解を述べている(アル・モニタ ー、 二 〇 一 五 年 七 月 二 三 日 付、 ht tp :/ /w w w .a l-m on ito r.c om / pu lse /o rig in als /2 01 5/ 07 /tu rk ey -ad iy am an -is is-co nn ec tio n-s ur uc -bombing.html# )。 トルコ統計協会の二〇一四年の データによると、ビンギョル県は トルコ国内で二番目に自殺率が高 く ⑸ 、 近 年 特 に そ の 数 が 増 え て い る。自殺の理由は、将来への希望 が 薄 い こ と と 薬 物 依 存 と さ れ る。 これらの若者にとっては、単なる 自殺よりも天国への扉が開かれる ( と 彼 ら が 信 じ る ) I S へ の 参 加 と自爆テロの方が魅力的に映る。 ビンギョル県でも、ISのリク ル ー ト 活 動 の 中 心 と な っ た の は、 アドゥヤマンの場合と同様にチャ イハネであり、そのリクルート方 法は、①ISに加わりそうな若者 と宗教に関して議論を行う、②イ スタンブルやブルサに小旅行に出 かける(トルコ人のムスリムとし て 「堕落した」 生活態度をみせる) 、 ③月に三〇〇ドルの報酬を手渡す、 と い う 三 段 階 で あ っ た( ミ ド ル・ イースト・アイ、二〇一五年一二 月 一 一 日 付、 http://www.middle ea ste ye .n et /in -d ep th /fe at ur es / riv al-br ot he rs -k ur ds -sn at ch ed -islamic-state-1491602783 )。 そ の 後、ISに感化された若者は、シ リアもしくはイラクに向かい、戦 闘に従事するようになる。ビンギ ョル県の住民の証言では、ISに 感化された若者は、彼等が堕落し たムスリムとみなしている一般の 人 々 と モ ス ク で 一 緒 に 礼 拝 せ ず、 地下にある礼拝室で礼拝していた。 ビンギョル出身の有力なISグル ープのひとつであった通称「髭を 生 や し た 人 々」 ( Sakallılar ) は 二〇一五年一一月二二日にディヤ ルバクル県に潜伏中、警察と銃撃 戦になり、テロリスト五名、警察 官二名が死亡した。 ⑵ トルコ・ヒズブッラーからIS へと代わる受け皿 ビンギョル県は一九八〇年代に 立ち上げられた過激派イスラーム 組織、トルコ・ヒズブッラーの温 床であった (参考文献②) 。トルコ ・ ヒズブッラーは、レバノンのヒズ ブッラーとは関係がない、スンナ 派クルド人の組織である。ただし、 宗派は異なるものの、PKKに対 する利害が一致していたため、イ ランがトルコ・ヒズブッラーを支 援していたとみられている。また、 トルコ政府も同様の理由で、九〇 年代後半にトルコ・ヒズブッラー との関係を深めた。トルコ・ヒズ ブッラーはISやPKKが当初採 ったのと同じ戦略を展開した。そ れは、 「近い敵」 、すなわちPKK など同じクルド系の過激派組織へ の攻撃である。トルコ・ヒズブッ ラーは、発足当初、ライバル関係 にあるクルド系イスラーム組織の メンバー一〇〇名を拉致し、拷問 を加えるなど、残忍な手口を使っ てその殲滅を目指した(アル・モトルコにおいて伸張する「イスラーム国」―その起源と構成― ニター、二〇一二年一二月二三日 付 、 htt p:/ /w w w .al-m on ito r.c om / pu lse /o rig in als /2 01 2/ al-m on ito r/ hiz bu lla h-t ur ke y-i sla m ist .h tm l )。 ト ル コ・ ヒ ズ ブ ッ ラ ー に と っ て、 PKKは「近い敵」であるだけで なく、イデオロギー上のライバル で も あ り、 両 者 の 抗 争 は 激 化 し、 約 七 〇 〇 人 が 死 亡 し た と さ れ る。 その一方でトルコ・ヒズブッラー の会合には少なくとも五万人の参 加者が集まるなど、ビンギョル県、 バトマン県、ビトリス県、ディヤ ルバクル県など限られた一部の地 域で民衆からの支持が厚かった。 トルコ・ヒズブッラーは一連の 幹 部 が 逮 捕 さ れ た こ と に よ り、 二〇〇〇年代にその影響力が低下 し、現在の活動の中心は二〇一二 年に発足したスンナ派クルド人の 政 党 で あ る「 神 の 党 」( Huda Par ) と な っ て い る。 政 治 活 動 に 特 化 し た「 神 の 党 」 は、 ト ル コ・ ヒズブッラーの最終的なあるべき 形ともいわれているが、武装闘争 を展開していた戦闘員たちはいま だに地下に潜伏しているか、IS へ加わっているとする見方が強い。 ま た、 「 神 の 党 」 と H D P と の 衝 突も二〇一四年一〇月のコバニで のISとクルド勢力の戦闘に端を 発するHDPの抗議活動以降、頻 繁に起こっている( 『フォーリン ・ ア フ ェ ア ー ズ 』 誌( ウ ェ ブ 版 )、 二 〇 一 五 年 五 月 四 日 付、 https:// w w w .fo re ig na ffa irs .co m /a rti cle s/ tu rk ey /2 01 5-0 5-0 4/ tu rk ey s-o th er -kurds )。 H D P 共 同 党 首 の デ ミ ルタシュは六月五日の爆破事件後、 トルコ・ヒズブッラーの仕業であ るとトルコ・ヒズブッラーを名指 しで批判している。
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ト
ル
コ
I
S
の
幹
部
と
I
S
の
活
動
地
域
⑴ イルハミ・バルとユヌス・ドゥ ルマズ ト ル コ の I S に お い て、 「 ド ク マジュラル・グループ」の中心は リクルーターであるドクマジュで ある。しかし、彼はあくまでリク ルーターであって実行犯に指示を 出す存在ではない。それでは、 「ド クマジュラル・グループ」やクル ド系ISを操るのは誰なのか。そ の 人 物 は、 「 エ ブ ー ベ キ ル 」 と い うコードネームを持つバルである。 バルは、ISがトルコを攻撃した ほとんどの作戦を指示した人物と さ れ る。 「 ド ク マ ジ ュ ラ ル・ グ ル ープ」による一連の自爆テロ、警 察 と 国 家 情 報 局( Millî İstihbarat Teşkilatı : MİT ) が 未 然 に 防 い だ と い わ れ る 三 三 の 自 爆 テ ロ、 二〇一五年三月に三人のイギリス 人女子がトルコを経由し、ISへ と渡った事件など、すべての背後 に バ ル が い る と 報 じ ら れ て い る (『ハベルテュルク』紙、二〇一五 年 一 〇 月 二 八 日 付、 http://www. h a b e rt u rk .c o m / g u n d e m / ha be r/ 11 45 70 7-b en i-b ul m ak -is te ye n-b ur ay a-g eli r-a dr es im -belli )。 ハ タ イ 県 出 身 で 一 九 八 二 年生まれのバルは「ドクマジュラ ル・グループ」の若者たちと異な り、 過 激 派 と し て の 経 験 が 長 い。 二〇〇二年にアル=カーイダの一 員として逮捕され、その後、三年 間の獄中生活を経験するとともに、 MİT の 監 視 対 象 に な っ た。 二〇一二年にシリアに渡り、まず、 ヌスラ戦線に入った後、ISに渡 った( 『ヒュリエット ・ デイリー ・ ニュース』紙、二〇一五年一二月 一 一 日 付、 http://www.hurriyet d a il y n e w s. c o m / tu rk is h - isil -le ad er -g av e-o rd er s-f or -m ajo r-bla sts -in te llig en ce -re ve als .as px ?P ag eID = 23 8& N ID = 92 38 0& N ew sC atID=341 )。 内 務 省 の 危 険 人 物 リ ストにおいては、IS関係者では ドクマジュと並び、バルは最も危 険な赤色リストのなかに名を連ね た。二〇一五年一二月までガズィ アンテプ県付近で活動していたが、 その後、ISの拠点であるラッカ に呼び戻されたとみられている。 もう一人、二〇一六年三月一八 日にイスタンブルの目抜き通りで あるイスティックラル通りで起き たテロの首謀者とされ、アップデ ートされた危険人物リストで赤色 リストに加わったのがガズィアン テプ県出身のユヌス・ドゥルマズ ( Yunus Durmaz ) で あ る。 ド ゥ ルマズは三月のテロだけではなく、 一〇月のアンカラでのテロ、そし て二〇一六年一月一二日にイスタ ンブルの観光名所のブルーモスク の近くで発生し、ドイツ人を中心 に一〇名の外国人観光客が死亡し た爆破テロの計画を練った人物と み ら れ て い る。 ト ル コ 政 府 は 二〇一五年一一月にガズィアンテ プでIS掃討作戦を実施し、ドゥ ルマズは取り逃がしたものの、彼 の所有していたパソコンを押収し た。 そ の パ ソ コ ン か ら は、 二〇一五年一一月にアンタルヤで 開催されたG 20を狙ったテロ計画、 さらにトルコ人、クルド人、トル コマン人、アレヴィー教徒の対立 を煽り、内戦を起こさせる計画に46
関する文書が発見された。 このように、赤色リストに名を 連ねる幹部は、リーダーで組織の 活動を統括するバル、リクルータ ーであるドクマジュ、そしてテロ 攻撃のプランナーであるドゥルマ ズ、というようにその役割分担が 明確である。 ⑵ ISの兵站線としてのキリス県 とガズィアンテプ県 ISが主にトルコへの出入国で 使用していると考えられているの が、ジャラーブルスとガズィアン テプ県の間の国境と、アル・ライ とキリス県の間の国境の二カ所で ある。トルコ政府が二〇一五年に 拘束したISに関連する外国人戦 闘員は九一三人で、最も多かった のは中国人の三二四人、次いでロ シア人の九九人、三番目はパレス チナ人の八三人となっている (『ヒ ュリエット ・ デイリー ・ ニュース』 紙、 二 〇 一 五 年 一 二 月 五 日 付、 ht tp :// w w w .h ur riy et da ily ne w s. co m /m os t-is il-m em be rs -d eta in ed -on -tu rk is h-b or de r-c om e-f ro m -ch in a.a sp x? pa ge ID = 23 8& nID = 92 386&NewsCatID=352 )。 拘 束 し た戦闘員の出身国は五七カ国にも のぼるとみられている。四七八人 は シ リ ア か ら ト ル コ へ 入 る 際 に、 四三五人はトルコからシリアへ入 る際に拘束された。ほとんどがキ リス県のエルベイリ地区で拘束さ れている。二〇一五年夏にトルコ とシリアの国境間に壁が建設され 始めるまでは、多くの人々が国境 を往来していた。 キリス県とともにISが通路と し、トルコでの作戦の拠点を構え ていると考えられているのがガズ ィアンテプ県である。アンカラの テ ロ の 際 に 運 転 手 を 務 め た ハ リ ル・イブラヒム・ドゥルガン等も ガ ズ ィ ア ン テ プ に 潜 伏 し て お り、 一一月一四日に警察との銃撃戦の 末、ドゥルガンは自爆して死亡し た。また、トルコのテロ活動セン タ ー の 調 査 に よ る と ⑹ 、 自 爆 テ ロ に使われるベストはガズィアンテ プ県で製造されている。二〇一四 年にトルコ警察が三三枚の自爆用 のベストをキリス県とガズィアン テプ県で押収するまで、自爆用ベ ス ト は シ リ ア で 製 造 さ れ て い た。 しかし、押収された後はトルコ国 内での製造に切り替えたとみられ ている。ISは実行したテロ以外 に、製造したベストを、イスタン ブ ル の H D P の 事 務 所 へ の テ ロ、 G 20の襲撃といった未遂に終わっ た計画にも使用を検討していた。●
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り
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本稿では、アドゥヤマン県出身 者を中心に結成された「ドクマジ ュラル・グループ」の活動、ビン ギョル県における過激派のルーツ、 トルコISの幹部とその活動地域 を概観し、トルコにおけるISの 起源と構成について検討してきた。 本稿で明らかになったのは以下の 諸点である。第一に、アドゥヤマ ン県とビンギョル県の若者がIS に 引 き つ け ら れ る の は、 失 業 率、 現状への不満といった構造的な問 題が背景にある点である。これは、 フランスをはじめとしたヨーロッ パのムスリムが外国人戦闘員とし てISへ渡る動機と共通する。第 二に、アドゥヤマン県とビンギョ ル県におけるISの若者への巧み な勧誘方法である。第三に、ビン ギョル県にはトルコ・ヒズブッラ ー の 影 響 が い ま だ に 残 っ て お り、 関連する人物がISに渡っている 点である。第四に、アドゥヤマン 県とビンギョル県からISへ向か う若者たちは確かに実行犯である が、 その背後にいるのはイルハミ ・ バ ル、 ム ス タ フ ァ・ ド ク マ ジ ュ、 ユヌス・ドゥルマズといった「真 のテロリスト」たちである。彼ら の主な敵はこれまでたびたび逮捕 されてきたトルコ政府であり、彼 らにとってはトルコ政府を脅威に 陥れることができれば、その大義 名分はトルコ・ヒズブッラーでも アル=カーイダでもISでも構わ ないのである。 本稿で論じてきたように、トル コISは①アドゥヤマン出身の若 者から成る「ドクマジュラル・グ ル ー プ 」、 ② ビ ン ギ ョ ル 県 出 身 で イ ス ラ ー ム に 傾 倒 す る ク ル ド 人、 ③組織を統括する幹部たち、とい う三つのカテゴリーに区分できる (図2参照) 。 二〇一五年一一月一三日のパリ 同 時 多 発 テ ロ、 二 〇 一 六 年 三 月 二二日のブリュッセル連続テロ事 件にみられるように、ISはこれ ま で の「 近 い 敵 」、 す な わ ち 中 東 地域の政府や非政府組織を狙う戦 略から「遠い敵」である欧米諸国 を狙う戦略に軸足を移しつつある。 この傾向はトルコISが二〇一六 年にイスタンブルで起こした二つ のテロにも当てはまる。これらの テロは明確に観光客を狙ったもの であった。また、トルコ軍とIS 本隊との衝突もキリス県の国境付 近で二〇一六年四月以降、激化し ている。 これはトルコ南東部の 「シ リ ア 化 」、 も し く は 戦 場 が ト ル コトルコにおいて伸張する「イスラーム国」―その起源と構成― 南部にまで拡大したことを意味す る。パリ同時多発テロの犯人たち もガズィアンテプ経由でトルコに 入ったとみられており、トルコI Sが彼らをギリシャ国境付近まで エスコートした可能性もある。公 開資料が限られているため容易で はないが、さらにトルコISがラ ッカのIS本隊、そしてヨーロッ パで活動するテロリストたちとど のような接触があったのかを考察 することでISの世界戦略におい てトルコIS、そしてトルコとい う場所が持つ役割がより明確にな るだろう。 ※二〇一六年五月一八日にガズィ アンテプ県でユマス・ドゥルマズ の潜伏先に警察の家宅捜査が入り、 ドゥルマズは自爆して死亡した。 ( い ま い こ う へ い / ア ジ ア 経 済 研究所 中東研究グループ) 《注》 ⑴ TAKは都市部でのテロ活動を 特徴とし、二〇〇五年に観光地 であるクシャダシュ、二〇〇六 年にマラトゥヤ、二〇一〇年に イスタンブル、そして二〇一五 年一二月にイスタンブルのサビ ハギョクチェン空港でテロを実 行している。TAKに関しては、 た と え ば、 Mahmut Bozarslan, "Who Is TAK and Why Did It A tta ck A nk ar a? " A l-M on ito r, 29 February, 2016. ⑵ 「イスラーム国」にはダーイシ ュ、 I S I L (Islamic State in Iraq and the Levant) などさま ざまな呼称がある。本稿ではひ とまず「イスラーム国」という 呼 称 に 統 一 す る。 「 イ ス ラ ー ム 国」の呼称に関しては、中東調 査会イスラーム過激派モニター 班『 「 イ ス ラ ー ム 国 」 の 生 態 が わかる 45のキーワード』明石書 店、二〇一五年、五〇~五二ペ ージ。トルコ語ではISILの ト ル コ 語 訳 で あ る Irak ve Şam İslam Devleti を 簡 略 化 し た IŞİD ( ウ シ ッ ド )、 も し く は ダ ーイシュが使われている。 ⑶ ただし、アドゥヤマンからIS に渡った若者の人数に関しては、 一〇数名というものから五〇〇 名に至るまで証言があり、正確 な数字はわかっていない。 ⑷ 議員団は、CHP党副党首のヴ ェリ・アーババ、アンカラ選出 のネジャティ・ユルマズとシェ ナル・サルハン、イスタンブル 選出のアリ ・ シェケルとエレン ・ エルデム、ガズィアンテプ県選 出のメフメット・ギョクダーか ら構成された。 ⑸ ト ル コ 統 計 局 の 最 も 新 し い 二 〇 一 四 年 の デ ー タ に よ る と、 自殺率が最も高いのはトゥンジ ェ リ 県、 次 い で ビ ン ギ ョ ル 県、 エディルネ県、シノプ県、クル シ ェ ヒ ル 県 と な っ て い る。 ("İ nt ih ar İs ta tis tik le ri, 20 14 " h tt p :/ /w w w .t u ik .g ov .t r/ P r e H a b e r B u lt e n le r i. do?id=18626) 。 ま た、 二 〇 一 三 年のデータでもビンギョル県は 三 番 目 と な っ て い る ("İntihar İs ta tis tik le ri, 2 01 3" h tt p:/ / w w w .t u i k .g o v .t r / P r e H a b e r B u lt e n le r i. do?id=16049) 。 ⑹ テロ活動センターは、二〇一五 年七月二四日トルコ首相府の傘 下に設置された組織で、アフメ ット・ダーヴトオール首相(当 時)は「トルコ国内のすべての テロを根絶やしに」することを 設置の目的として掲げた。IS、 PKKだけでなく、革命主義者 人 民 解 放 党( Devrimci Halk K ur tu lu ş P ar tis i-C ep he si: DHKP-C ) に 代 表 さ れ る 極 右 組 織も取り締まりの対象としてい る。 《参考文献》 ① 今 井 宏 平「 「 イ ス ラ ー ム 国 」 に 翻弄されるトルコ―『ダーヴト オール・ドクトリン』の誤算と 国 際 社 会 と の 認 識 ギ ャ ッ プ ―」 ( 『 中 東 研 究 』 第 五 二 二 号、 二〇一五年 ) 三二―四三ページ。 ② M eh m et K ur t, T ür kiy e'd e H izb ull ah , İ sta nb ul: İl et işi m , 2015. 図 2 トルコ・IS の構成 (出所)筆者作成。 幹部 ドクマジュラル グループ 親イスラーム 過激派クルド人