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原著論文

観光研究における真正性の再考察

―カトマンズの観光市場、タメルで売られる「ヒマラヤ産の宝石」の事例から

The Review of the Authenticity in the Tourism Research:

A Case Study of "Stones from Himalaya" in Thamel, the Tourist Market of

Kathmandu

渡部 瑞希

明治学院大学 社会学部付属研究所 研究員

Mizuki WATANABE

Researcher, Institute for Sociology and Social Work, Meiji Gakuin University

キーワード:真正性、リアリティ、公然の秘密、ネパール、宝石 Keywords : authenticity, reality, public secret, Nepal, Stones I. はじめに II. 真正性に関する議論の概要 1. 本質主義的真正性からポストコロニアル批判におけ る真正性まで 2. 実存主義的アプローチ 3. 「まがいもの」を介した観光経験の真正さ III. 観光対象物の真正性とは何か 1. 真正性の否定と探求のテキスト 2. ホストとゲストのコンタクト・ゾーンにおける「公然の 秘密」 3. 「公然の秘密」の暴きによって魅惑的なモノとなる IV. 真正性のリアリティ―カトマンズの観光市場における 宝石を事例に 1. フィールドワークと調査対象の概要 2. タメルの宝飾商人の商品知識 3. 「ヒマラヤ産の宝石」への期待 V. 結論 要約: これまでの観光研究では、観光客がまなざしの対象とする真正性(オーセンティシティ)について議論を重ねてきた。それは、 客観的・本質的な真正性を想定し、観光の場における商品や出し物を虚偽だとする本質主義的な議論から、観光対象物の真正 性を構築するのは誰かというポストコロニアルな批判を含んだ構築主義的な議論、観光客個人の観光経験に焦点を当てる実存 主義的議論や、ホストとゲストのコンタクト・ゾーンで生じる観光経験の真正さに着目する議論まで多岐に渡る。 本稿では、これらの議論を再考察し真正性の否定と探求を継続させるテキストであったことを読み解くことで、観光対象物 というモノが、その虚偽性を暴かれたとしても真/偽の判断のつかない「公然の秘密」によって成り立っていること、この真 /偽の決定不可能性ゆえに、真正なるものが、永遠に探求される魅惑的な消費対象となることを明らかにする。本稿ではこれを、 真正性のリアリティとして提示する。また、その具体的事例として、カトマンズの観光市場、タメルで売られている「ヒマラ ヤ産の宝石」を取り上げながら、真正性のリアリティについて説得的に提示する。 Abstract:

Previous studies on tourism have greatly discussed the authenticity of the sites and objects gazed at by tourists. The authen-ticity is studied as follows: cultural-essentialism (which is based on the pseudo of tourism and authenauthen-ticity of the host-society) (Hobsbawm & Ranger, 1983); cultural-constructivism (including post-colonial perspectives that focus on: “Who constructs the

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cultures?”) (Ota, 2001); inter-personal authenticity (which discusses individual tourist’s experience in the tourist area) (Cray, 2004; Noy, 2004); and, finally, the “authentic experience” (which describes the contact-zone between hosts and guests) (Bruner, 2005).

This article reveals that the texts discussing the authenticity are repeatedly negated and explored in previous studies. Fur-thermore, the authenticity/pseudo-dichotomy of tourism objects are described as “public secrets”, that can be defined as that which is generally known, but cannot be articulated“ (Taussig, 1999, p. 5) Because of the impossibility to articulate that the sites and objects are real or fake, true or false, we seek out the authenticity of a tourist area. In the process of seeking out the touristic commodities become the exotic and fascinating ones that tourists consume as “authenticity.” I refer to this as authen-tic reality.

To support this notion, I offer a case study about “Himalayan stones” in Thamel, a tourist area in Kathmandu. The retailers sell “stones mined from the Himalayas” to tourists. However, they do not know if the stones they sell have actually been mined from the Himalayas or not. In addition, the wholesalers who sell the stones to the retailers also do not know the exact origin of the stones either, as the rough rocks from various mines is normally mixed before they are cut, grounded, and polished. Tourists, then, would also not know from where the stones came. Regardless, tourists continue to purchase the “Himalayan stones” and bring them back to their own country as a souvenir from Nepal. In this case, the tourists imagine and expect that the stones they bought must be authentic “Himalayan stones”. I concretely study how the stones tend to be authentic “Himalayan stones” through the interaction between the retailers and tourists.

Tourists normally go to a few shops to check the price and quality of the commodities, which is referred to as the “search for information.” Throughout this process, however, the tourists are masked in mystery whether or not the authentic stones are in the jewelry shop in Thamel. Because the shop owners are not clear about the origin of the “Himalayan stones,” the tourists eventually buy some stones that they determine must be “Himalayan stones.” For it is the “public secret” that authentic layan stones” exist or not, the tourists can imagine and expect they are purchasing the authentic ones. In this case, the “Hima-layan stones” are the objects that continue to attract tourists and constitute authentic reality to this area.

I. はじめに これまでの観光研究では、観光客がまなざしの対象と する真正性(オーセンティシティ)が何であるかについ て議論を重ねてきた。後に詳しく概説するように、近年 では、観光対象物を「まがいもの」と見なす傾向が見て 取れる。観光人類学者である橋本は、従来のように観光 対象物を真正性の視点から議論することを問題視し、「よ く知られたもの」であれば「まがいもの」をもまなざし の対象とすることが観光の大きな特徴であると主張する (橋本, 2011, p. 215)。確かに、観光対象物が「まがい もの」であることは、研究者だけでなく、観光に赴く観 光客や彼らをもてなすホスト、観光事業を展開する旅行 業者の誰もが薄々感づいているであろう。「まがいもの」 への気づきがあるからこそ、「演技された芝居性の巧妙 さ」(Bruner, 2005 安村・鈴木・遠藤・堀野・寺岡・高 岡訳 2007, p. 303)、「見世物としての完成具合」(橋本, 2011, p. 243)が消費の対象となるのである。 ブルーナーや橋本の指摘は、観光商品が「まがいもの」 であっても、観光客の満足を促すことを明らかにした点 で有意義である。しかし、橋本も疑問を投げかけている ように、「まがいもの」であることが知られているにも 関わらず、「観光の現場では相変わらず真正性の議論が 続いている」のである(橋本, 2011, p. 243)。言葉を換 えれば、観光対象物の虚偽性が公になることは、真正性 への関心をますます高める結果になっているのである。 では、真正性への関心が増しているにも関わらず、擬 似や虚偽、演技が観光の場で評価され観光客の満足を 促すのはなぜであろうか。観光客が観光の場や観光経験 で求めている真正性とは何であろうか。本稿では、従来 の観光研究の関心の一つである真正性(オーセンティシ ティ)の議論を概観・再考察した上で、観光の場におけ る真正性を捉え直すことを目的とする。この問題に取り 組むことで、「まがいもの」と断定的に論じられてきた 観光対象物が、どのような性質を帯びた商品であるかを 明らかにできると考える。 II. 真正性に関する議論の概要 1. 本質主義的真正性からポストコロニアル批判における 真正性まで 上記の問題に取り組むために、伝統文化の真正性に関 する文化人類学研究の議論を参照しながら、観光研究に おいて観光対象物(観光商品や観光用の出し物)の真正 性がどのように論じられてきたかを読み解き、その傾向 から真正性を再考察する議論へとつなげていく。 まず、観光の場における真正性について論じた先駆的 論者としてブーアスティンとマキャーネルがあげられる

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(Boorstin, 1961 後藤・星野訳 1964; MacCannell, 1976 安村・須藤・高橋・堀野・遠藤・寺岡訳 2012)。ブーア スティンは、大衆観光客がホスト社会の演出するアトラ クションに喜び、騙されていることを知りながら「疑似 イベント」を楽しむと論じる(Boorstin, 1961 後藤他訳 1964)。一方、マキャーネルは、ブーアスティンとは対 照的に、どの観光客も本物志向をもっているとした上で、 伝統や文化が形骸化した世界に住む近代的人間(すなわ ち観光客)が、真正性を探求しに観光地へ赴くと述べる (MacCannell, 1976 安村他訳 2012)。しかし、観光客が 実際に見せられるのはホスト社会によって作られた「舞 台化された真正性」、すなわち「まがいもの」である。 観光客はホスト社会の生の生活がある「裏舞台」を垣間 見たいと思うが、「裏舞台」だと思っていたそれは見世 物用の「表舞台」というわけである。 ブーアスティンやマキャーネルの議論は、伝統文化に 核心的・本質的なものを想定する本質主義の立場をとっ ている。すなわち、客観的に真正性を判断する基準を想 定するものであり、「本物」の伝統と「偽物」の伝統、「本 当」の過去と「理想化された過去」という二分法に基づ いた議論である。 一方、本質主義の立場を批判する形で、不変の本質的 な真実だと信じられていたものが、実のところ、発明 され構築されたものであるとする「伝統の創造論」が 提 示 さ れ た(Hobsbawm & Ranger, 1983 梶 原・ 前 川 1992)。観光のテキストでいえば、たとえばグリーンウッ ドは、スペインのバスク地方で、毎年恒例であったアラー デの祭りが観光化されることで、その祭りが、人びとの 歴史的アイデンティティを高揚させる目的から、観光産 業や議会、地方自治体の利益のために商品化されたこと を批判する(Greenwood, 1977 三村訳 1991, p. 248)。 つまり、観光の場における伝統文化は、ホスト社会が意 図的に選定した「表舞台」ではなく、利益を搾取する観 光産業によって捏造されたことが明るみにされた。 しかし、ホスト社会を擁護する立場にあるはずのこ の主張は、完全にオリジナルな真正性を否定すること で、ホスト社会が主体的かつ戦略的に提示する観光用の 出し物や観光対象物の真正性をも認めないものとなって いる。つまり、グリーンウッドのように伝統文化の商品 化を批判する語りそれ自体が、バスク地方の人びとから 真正なアラーデの祭りを語る機会を奪ってしまうのであ る。 この限界点に対して、観光人類学の分野では、ホスト 社会に観光用の見世物や伝統文化の真正性を操作・構 築する主体性を認める「文化の客体化論」を採用するこ とで、「文化を語る権利は誰にあるのか」というポスト コロニアルな問題に応えようとした(安藤, 2001; 太田, 1993; 太田 2001; 川森, 2001)1)。たとえば太田は、文 化を構築する担い手として沖縄の観光の目玉である「ウ ミンチュ体験コース」をとりあげている。太田は、観光 客が、漁民の潜水技術や料理の腕、物怖じしない態度、 陽気さ、明るさ、やさしさを評価することで、漁民が自 己の仕事に誇りと自信をもち観光客より高みにたつ過程 を論じている(太田, 2001, pp. 84-87)。また、安藤は、 岩手県盛岡市に以前から踊り継がれる「伝統さんさ」と 夏祭りの時期に踊られる「観光さんさ」を取り上げ、伝 統さんさの保護団体(ホスト)が、「本物の踊り」を学 びにやってくる訪問者(ゲスト)の意見や反応を取り入 れて(客体化させて)、「観光さんさ」を真正なものとし てさまざまに主張し合う様を論じる(安藤, 2001)。 近年、「文化の客体化論」はさまざまに批判検討され ているが、その主要な批判は、観光のまなざしと相俟っ て構築される伝統文化が、観光を通じた西洋的価値の倒 立像として客体化されたものであるために、「文化の客 体化論」も、「伝統の創造論」と同様の見解に留まって しまうことである。確かに、「文化の客体化論」と「伝 統の創造論」には、ホスト社会に文化を語る権利はある か否か、ホストが主体的に構築した伝統文化を真正だと 解釈するか否かに違いがある。しかし、双方の議論から 導き出されるホスト社会の真正な伝統文化とは、西洋的 価値を体現したものであり、西洋のまなざしなくしては 存在し得ないものである(小田, 1996; 岡崎・吉岡・春日・ 大杉・慶田, 2008)。 こうした批判の根底にあるのは、主体/客体、真/偽、 伝統/近代、まなざす者/まなざされる者といった近代 的二元論である。この二元論を乗り越える試みとして、 民衆文化のブリコラージュ的戦略(与えられた文化的表 象の諸々の断片を臨機応変につないでちぐはぐな総体を 作り上げること)(小田, 1996)や、構造の中に包摂さ れながら発揮されるエージェンシーや、「非真正」で低 俗な文化産業の産物とされてきたポピュラーカルチャー が文化的真正性の構築に及ぼす影響(権, 2012)、観光 の場におけるアクター・ネットワーク理論の応用があげ られる(周, 2013)。 しかし、周が指摘するように、これらの議論が観光の 場における真正性の議論に適用されることはほとんど なかった(周, 2013)。その理由として、二元論を乗り 越えるならば、そもそも真正性を論じる必要性などなく

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なってしまうことが考えられる。観光商品にせよ伝統文 化にせよ、客観的対象物の真正性について論じるために は、必然的に、その対立項である擬似や虚偽を想定する ことになる。言葉を変えれば、客観的対象物の真正性は、 近代的二元論を前提としてはじめて議論可能となるので ある。そのため、二元論を無批判に否定するのではなく、 むしろ、どのような二元論的視座に基づいて真正性を議 論していくかを検証する必要がある。 2. 実存主義的アプローチ 一部の観光研究論者は、真正性を議論する方法として 観光客の個別的な経験に着目する実存主義的アプローチ をとるようになった(Wang, 1999)。実存的真正性では、 個人が自身に対して誠実であるような特別な存在状態 や、近代西洋社会の公的役割において喪失した「本当の 自分」への反応を問題にし、観光対象物が本物かどうか はまったく問わない(Wang, 1999, p. 358)。このように、 実存主義的アプローチは、上述したような客観的対象物 の真/偽からは脱しているが、観光客個人が客観的対象 物を通じて感じる観光経験の真/偽を問うという意味で 二元論的視座に基づいている。以下、実存主義的アプロー チを概観していこう。 まず、ワンは、観光の場における個人的な経験を、「身 体感覚」、「自己意識化」、「家族の絆」、「観光のコミュニ タス」の四つに分類した。一つ目の「身体感覚」とは、 リラクゼーション、リハビリテーション、気分転換、レ クリエーション、娯楽、刺激の追及、肉体的感覚などを 指し示す。たとえば、クレイが引用する以下の観光客の 語り口は「身体感覚」を示す好例である。 素晴らしいディナー、素晴らしいワインを堪能していい気 分であった。私はクネオ(イタリアの都市)の中央広場近 くにあるアーケードの歩道を歩いていた。突然、歌声が 聞こえた。振り返るとその声は教会の中から聞こえてく る。中に入ると、手を繋ぎ歌う信者たちが見えた。私は、 彼らが前に出て牧師と意思疎通しながら喜ぶ姿を見て“ぞ くぞく”した。すぐに礼拝は終わり、人びとが握手を交わ しているのを見て、また“ぞくぞく”した。私は手を震わせ た。私にとって、そこは帰属感を得られる素晴らしい場で あった。私は一人で外国に来ていたから特に感銘を受けた のかもしれない……。その“ぞくぞく”は夜通し続くことは なかった。しかし、イタリアの山脈地帯の小さな町に滞在 した際の貴重なみやげ物としてその思い出を持ち帰った。 (Cray, 2004, pp. 68-69) クレイは、上記の語りが、語り手自身が観光客である ことを認識すると同時にその解体をも引き起こしてい ると述べる(Cray, 2004, p. 69)。すなわち、異文化に 触れて“ぞくぞく”することは観光に特徴的な経験である が、その“ぞくぞく”を感じれば感じるほど、語り手は「異 文化に帰属しているという素晴らしい感覚」を持つよう になり、観光客とは別の存在として自己を意識するよう になるのである。一瞬であっても観光の場に溶け込める その感覚が「貴重なみやげ物」となる。クレイが述べる ように、観光経験の真正性が「観光客」から脱した一瞬 の「身体経験」の中にあるのなら、観光客としての観光 経験は虚偽であると捉えうる。 二つ目の「自己意識化」とは、公的領域へのルーティー ン化した生活によって疎外感を抱く観光客が、観光の 経験を経て新しい自己を発見することを指す(Wang, 1999, p. 363)。ただし、近代的疎外を埋め合わせる真 正性は、マキャーネルの議論のように、観光産業やホ スト社会によってお膳立てされた「裏舞台」ではなく (MacCannell, 1976 安村他訳 2012)、観光客たちの旅の 経験語りを通じて構成されるものである。たとえば、イ スラエルのバックパッカーの語りを対象にしたノイは、 軍隊を終えた若者が旅を通じて得た新たな自己発見を語 り継ぎ、そうしたアイデンティティ変化の経験が真正性 の言説と関連して現れることを明らかにしている(Noy, 2004)。真正性が観光経験の語りを経て事後的に獲得さ れるのであれば、虚偽性は必然的に語り以前にあてがわ れる。 三つ目の「家族の絆」は、観光や休暇が家族の「本当 の絆」を生み出す役割を担うものであり、四つ目の「観 光のコミュニタス」では、観光客が非日常的経験やエキ ゾチックなものを求めるだけでなく、同じ目的を探求す る他者と楽しみや喜びを分かち合い語り合うことを観光 の目的としていると指摘する。先に取り上げたイスラエ ル人のバックパッカーの事例において、ノイは、バック パッカーたちが「新たな自分に変わった」という自己 語りを反復することで、イスラエル人バックパッカーに 共通する集合的規範を作り出し、そのラインにそって真 正性やアドベンチャー、リスクを経験するという(Noy, 2004, pp. 87-88)。また、「家族の絆」を確かめること においても、観光を共に楽しむ家族が共通の経験を通 じて新たな絆を再生産することが論じられる(Wang, 1999, p. 364)。このように、真正性を、観光経験を経 た現在の存在状態に割り当てる三つ目と四つ目の観点 は、観光経験以前(過去)に虚偽性があることを示唆し

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ている。 以上、実論主義的アプローチは、(1)観光客としての 経験の虚偽性(Cray, 2004)、(2)観光経験の語り以前 の虚偽性(Noy, 2004)、(3)(4)観光経験以前の存在 状態(Wang, 1999)といった虚偽性を背景に、観光客 個人の観光経験の真正性について議論を重ねてきた。こ うした二元論的視座に基づくとはいえ、このアプローチ は観光客個人の真正性に焦点を当てることで「伝統の創 造論」や「文化の客体化論」で生じるポストコロニアル な問題を回避してきた。しかし、客観的対象物の真正性 をおざなりにするあまり、観光客個人の独我論的視点お よび集合的規範を論じることに偏る傾向に陥っている。 そのために、ホスト社会が自ら真正性、あるいは、ホス トとゲストのあいだで見出せる真正性が何であるかに焦 点が当てることができなくなっている。 3. 「まがいもの」を介した観光経験の真正さ 上述の実存主義的アプローチの問題に対して、橋本は、 観光は「異郷において、よく知られているものを、ほん の少し、一時的な楽しみとして、売買すること」であり (橋本, 1999, p. 12)、観光地で購入したみやげ物や特別 な品物についての「ものがたり」が観光経験の真正さを 構成していると主張する(橋本, 2011, p. 236)。観光経 験の真正性で問題にされているのは、観光用の伝統文化 や出し物がまがいものであるか否かではなく、ホストが 洗練された技術をもっているか、観光用の見世物として どれだけ完成しているかである(橋本, 2011, p. 243)。 橋本は、上述の実存主義的アプローチとは異なり、観光 対象物の真/偽を介して観光経験の真正性を捉える上で 重要な視座を提示している。 ブルーナーも同様に、観光対象物が「まがいもの」で あっても観光経験の真正性が認められる点を民族誌的に 記述している(Bruner, 2005 安村他訳 2007)。ブルー ナーは、ジャワ文化の中心地、ジャカルタにおいて、ラー マーヤナ舞踏劇に参加したツアー客が真正性をどのよう に位置づけているかを述べている。まず、ツアー客は複 数の舞踏劇を見学したが、そのうちの一つの舞踏劇に満 足した様子であった。その様子を見てブルーナーは、そ れが「ジャワ舞踏の戯画、境界域におけるポストモダン の構成、外国向け消費のために改訂された古代ヒンズー 教叙事詩であること」、すなわち真正なものではないこ とをツアー客に暴露した。その上で、「さて、背景の設 定やダンスは、皆さんが思っていたほど本物ではないと 分かってみて、今晩の催しをどう思いますか」と尋ねる。 ツアー客の反応は、本物でなくても「今晩の楽しみをな んら損なうことなく、その晩の催しは依然としてとても すばらしい」であった(Bruner, 2005 安村他訳 2007, p. 301)。こうしたツアー客の反応に対しブルーナーは、 観光客は真正性というよりは演技された芝居性の巧妙さ に関心をもっていると述べる。ブルーナーによれば、そ こでは、本物ではないものに対する「不信の自発的停止 (willing suspension of disbelief)」が起こっているので

ある。 では、「演技された芝居性の巧妙さ」、「見世物として の完成具合」、すなわち「上出来なうそ」である観光対 象物を真正な観光経験として捉えることはいかにして可 能となるのだろうか。偽物を真正なものとして評価でき る根拠は何であろうか。これについてブルーナーやター ナーは、ホスト自身が伝えたい本当の文化を、観光客と の「文化的交換」や「相互交流の経験」、「密な交流」に よって伝えることが重要であると述べる(Tylor, 2001; Bruner, 2005 安村他訳 2007)。ブルーナーの研究対象 としたツアー客が、「まがいもの」のジャワ舞踏劇と知 りながらそれに満足したのは、その舞台に、演者とツアー 客の交流機会が設けられていたから、というわけである。 しかし、ホストとゲストが交流経験をすれば、あるい は、彼らが個々に密にやり取りすれば、観光経験が真正 なものになると捉えるのは短絡的である。たとえば、橋 本が引用するアンダーソンらの論考を考察してみよう。 この論考に登場する年配の旅行者は、店のオーナーと「真 正な土産物」について語り交流する中で、「オーナーが 立ち寄っただけの客が触らないように保存された特別品 質の壺を見せてくれた」と語る。オーナーとの密な交流 経験によって、この壺は、確かに、年配旅行者の真正な 観光経験を語る上で重要な思い出の品となるかもしれな い。しかし、この年配旅行者が店のオーナーを信じたの は「たまたま」であったかもしれない。壺についてよく 知る観光客は、このオーナーが「密な交流」を意図的に 演出して、または親密さを利用して、実際は安価な「ま がいもの」の壺を本物として売るつもりなのではないか と疑うかもしれない。 つまり、「文化的交換」や「相互交流の経験」、「密な 交流」は、必ずしも観光経験の真正性を保証するものと は言い切れない。むしろ、「密な交流」により相手への 信頼が高まった状態から詐欺まがいのことが疑われると なれば、相手との齟齬や亀裂は大きくなると考えるのが 自然であろう。つまり、真正性をホストとゲストの間主 観な経験に還元すると、両者の間で当然起こりうるであ

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ろう、観光対象物をめぐる齟齬や亀裂をおざなりにする ことになる。この問題を鑑みれば、観光対象物の客観的 真正性を別の視点から捉え直し、「演技された芝居の巧 妙さ」、「見世物としての完成具合」に満足するとはいか なることかについて再検討する必要がある。 III. 観光対象物の真正性とは何か 1. 真正性の否定と探求のテキスト 上記の問題に取り組むために、まずは、観光対象物と いう商品が、我々が日常的に購入する商品とどのように 異なるかを述べることで、その特徴を明らかにすること からはじめる。 まず、ブーアスティンによる「擬似イベント」、マキャー ネルによる「裏舞台」を演じた「表舞台」の議論が提示 されて以降、観光対象物は「まがいもの」であることが 明るみに出されてきた(Boorstin, 1961 後藤他訳1964; MacCannell, 1976 安村他訳 2012)。「まがいもの」であ ることそれ自体は、資本主義経済市場で商品化されたモ ノにも当てはまることである。たとえばそれは、加工食 品や(海賊版)CDのような安価な商品から、宝石やブラ ンド品といった高額商品にまで適用される。とりわけ、 高額商品を購入する場合、我々は、本物かどうかについ て極めて高い関心を示す。商品が高額であればあるほど、 騙された時のリスクが大きくなるからである。そのため、 「まがいもの」を特定するさまざまな基準が編み出され るわけであるが、その基準は、明確に規格化された本物 が存在することによって初めて可能となる。つまり、真 正性を規格化する基準があるからこそ「まがいもの」が 特定できるのである。 観光対象物が他の商品と異なるのは、研究者であれ、 ホストであれ、ゲストであれ、観光対象物の真正性を決 定付ける明確な基準を見出せないことである。真正性の 基準がないのであれば「まがいもの」を決定付ける根拠 もないことになる。だからこそ、「まがいもの」がある ことが知られていても「観光の場における真正性とは何 か」について議論が継続しているのである(橋本, 2011, p. 243)。つまり、他の商品群と比較した観光対象物の特 徴とは、真/偽の区分けに高度な関心が払われているに も関わらず、真/偽がどこまでいっても決定不可能であ ることだといえる。そのため観光対象物を「まがいもの」 だと無批判に断定することは必ずしも正しくない。「ま がいもの」と断定することは、必然的に真正な何かがど こかに存在することを示唆するためである。観光対象物 が「まがいもの」であるにも関わらず真正性の議論が続 く要因は、観光対象物が「まがいもの」であることを精 査することなしに断定することにこそある。 これは、IIで取り上げた先行研究の傾向としても読み 取れる。つまり、IIで紹介した先行研究は、観光対象物 の真正性が否定されたために繰り返された、真正性の探 求のテキストだったのである。これについて、IIでまと めた先行研究を再度紹介しながら具体的に見ていこう。 まず、ブーアスティンやマキャーネルの議論は、観光 の場で見られる真正なるものが、実際は「擬似イベント」、 あるいは「裏舞台」を装った「表舞台」であることを暴 いたものであった(Boorstin, 1961 後藤他訳1964; Mac-Cannell, 1976 安村他訳 2012)。この暴きは、観光産業 やゲストのまなざしによって創造・捏造されることを批 判した文化構築主義の議論でも行われた(Greenwood, 1977 三村訳 1991)。つまり、これらは真正性の否定の テキストだと解釈できる。 上述のような真正性の否定に対し、観光の場に別の形 の真正性を探し求めたのが「文化の客体化論」であった (太田, 2001)。繰り返しになるが、観光の文脈における 「文化の客体化論」は、ホスト社会を一貫した意識,自 覚をもつ主体として、あるいは観光のまなざしに抗する 主体として描くものであった。別の見方をすれば、それ は、ホスト自身が主体的に構築するものとして、新たな 真正性を見出したテキストだったのである。 次に、伝統文化を近代西洋文化(あるいは観光産業を 介したゲストのまなざし)の肯定的倒立像として客体化 することにより、逆に西洋的価値に基づいた真正性を再 生産することが明るみに出された。すなわち、「文化の 客体化論」で提示された真正性を再び否定するような テキストが多数提示されたのである。その後、観光の場 における真正性は、観光客の個人的経験の内にあるとい う実存主義的アプローチにおいて再び探求されることと なった(Cray, 2004; Noy, 2004)。一方で、近年の研究 では、実存主義的アプローチを否定的には捉えていない ものの、観光客個人の経験に偏らず、ホストとゲストの コンタクト・ゾーンにおいて見出せる観光経験の真正性 に注目している(Tylor, 2001; Bruner, 2005 安村他訳 2007; 橋本, 2011)。すなわち、実存主義とは異なる新 たな真正性の探求である。 以上、急ぎ足で、IIで概観した先行研究を再考察して きたが、筆者は、これまで行われてきた真正性のあくな き探求それ自体を批判しているわけではない。既存の議 論を否定し新たな知見を探求することは然るべき学術的

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営為である。また、観光対象物が「まがいもの」である ことを完全に否定しているわけでもない。観光対象物の 真正性と虚偽性は、他の商品群に対してと同様、誰しも 意識していることであろう。重要なことは、観光対象物 の真/偽を明確にしようとするも、それが本質的に決定 不可能であるがために、真正性の否定と探求が継続する 運動に意識的になることである。後に詳しく論じるよう に、その運動にこそ、観光対象物の真正性をリアルなも のたらしめるメカニズムが隠されているのである。 2. ホストとゲストのコンタクト・ゾーンにおける「公然 の秘密」 観光対象物は、確かに「まがいもの」として認識され ることが多い。しかし、同時に、その「まがいもの」を 真正なものとして観光の場で消費し評価することもまた 確認される。この現象において、本稿では、「まがいもの」 か否かの境界線が曖昧にされる中で、人びとが本物を想 像しながら行為することで立ち上がる現実的な世界を、 真正性のリアリティと呼ぶことにする。では、真正性の リアリティとは具体的にどのようなプロセスを経て立ち 現れるのだろうか。それは、真正性の否定と探求を継続 させる運動それ自体にある。 まず、先に示した真正性の否定のテキストは、単に観 光用の伝統文化が「まがいもの」であることを明るみ に出していたわけではない。確かに、ボブズボウムとレ ンジャー著書の『創られた伝統』において、伝統文化が 西洋文化や資本主義経済の只中で歴史的に捏造・創造さ れたことは、真正性の否定の最初のテキストであった (Hobsbawm & Ranger, 1983 梶原他訳 1992)。この時 点で、伝統文化の本質的な真正性など、到底見込めそう にないことを誰もが知ったはずであるし、そうであるな ら、もはや真正性の議論を繰り返すことは不要のように も思われる。しかし、真正性を見出そうとする議論は、 西洋文化や資本主義経済下で搾取され続けた被植民者や ホスト社会の主権回復と連動しながら継続している。 つまり、真正性の否定のテキストが明るみに出してき たものは、虚偽であることを誰もが薄々気づいている虚 偽性であった。その限りにおいて、観光対象物が「まが いもの」であることは、詐欺の被害意識をもつほどの衝 撃的な秘密ではない(観光対象物が「まがいもの」であ ることは、皆薄々気づいていることだからである)。し かし、これまでの先行研究では、「まがいもの」である ことが明るみに出されると、すぐさま別の形の真正性が 探求されていることがわかる。この連続において、真正 性の否定と探求のテキストは、「まがいもの」であるこ とを暴露しながらも、それが完全なる「まがいもの」で あると決定付けられないまま、真正性の議論を継続させ ているのである。すなわち、観光対象物は、虚偽性が広 く知れ渡っているものの、その真/偽がどこまでいって も決定不可能な「公然の秘密」によって、謎めかしくも 魅惑的な商品に仕立てられている。 観光対象物について再考察する鍵は「公然の秘密」で ある。この「公然の秘密」について論じた社会学研究 として、ジンメルによる『秘密の社会学』があげられる (Simmel, 1923 居安訳 1979)。ジンメルは「二人の人間 あるいは二つの集団の間のいっさいの関係は、そこに秘 密が存在するかどうか、さらに秘密がどれほど存在する か、この問題によって性格づけられる」(Simmel, 1923 居安訳 1979, p. 41)とし、社会関係の維持に必要なこ とは、なんでもかんでもさらけ出すことではなく、相手 が隠したがっていることをあれこれ詮索しないこと、ま たは隠す意図がなくても、他者が積極的に明らかにしな いすべての領域に踏み込み過ぎない秘密への配慮だと述 べる(Simmel, 1923 居安訳 1979, pp. 23-39)2)。たと えば、筆者の友人は、筆者が最近太ったことを気にして いても(そしてその友人も筆者は最近太ってきたなと 思ったとしても)、あえて「全然太ってないよ」と言う ことで、筆者の気分を害することなく筆者との親密な関 係を保とうとするかもしれない。ジンメルは、こうした 「公然の秘密」がさまざまな人間関係の維持に積極的な 役割を果たしていると言う。 ジンメルの述べる「公然の秘密」の働き(あるいは秘 密への配慮)は、ホスト社会の提示する伝統文化や観光 用の出し物を、真正で素晴らしい文化として評価するゲ ストの様子からも伺える。ホストに対するゲストの肯定 的態度や賞賛の対応は、短くも特別な観光の時間を有意 義に過ごすために必要不可欠である。ホストの示す伝統 文化の真正性が疑わしいものであっても、あるいはホス トの示す友好的態度が経済的利得を得るための戦略的な ものであることを頭の片隅では薄々わかっていても、そ の懐疑を公に口外することは、観光の場の雰囲気それ自 体を壊すことになりかねない。「うそだとわかっていて も公にしない」、これによって真正性のリアリティは可 能となる。 ディズニーランドは「公然の秘密」によって真正性の リアリティが保持される好例である。ディズニーランド の研究では、ディズニーランドを、オリジナルなきコピー の世界であるシミュラークルの記号的世界、つまりハイ

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パーリアルな虚構的世界だと論じる議論や(Baudrillard, 1981 竹原 1984)3)、近代的消費の成功例であるディズ ニー化現象がどのようなものであるかを論じる傾向にあ る(Bryman, 2004 森岡訳 2008; 高木, 2005)4)。これら の議論は、ディズニー流の「夢と魔法の国」がリアルな ものとして消費の対象となるために、虚構の世界がいか に徹底的に企画され儀礼化しているかを明らかにするも のである。しかし、「夢と魔法の国」は、これを企画・ 立案するオリエンタルランドの操作だけでなく、この企 画・立案に加担するゲストの存在が必要不可欠である。 ディズニーランドに入場するゲストは、ディズニーラン ドが虚構の世界であることも、キャストの笑顔が「作り 笑い」であることも百も承知であるが、そのことに一切 触れないことで「夢と魔法の国」を現実的なものにでき るのである。すなわち「夢と魔法の国」を真正なものと して経験するには、虚偽を虚偽だと知りつつそれを隠す こと(知らないふりをすること、または知らないでいる こと)にこそある。 たとえば、筆者が高校生の時、友人たち三人とディズ ニーランドに行くことになり「ディズニーランドに制服 で行ってもいいのか」と話し合ったことがある。しかし この話し合いの中で、友人の一人が「園内で制服を着て いる子を見ると、夢を壊されたようで気分が悪い」といっ た。この一人の発言に、私を含めた女子高生二人は「確 かにそうだ」と賛同し、当日は、三人そろって私服でディ ズニーランドに行った。 ディズニーランドを経営するオリエンタルランドは、 制服を着て入園することを禁止していないし、修学旅行 生が制服で園内を移動しても問題視しない。しかし、当 時の女子高生三人組にとって、制服は現実世界の象徴で あったために、制服を着て園内をうろつくことは、ディ ズニーランドの虚構性を暴いてしまうような行為だった のである。女子高生三人組は、ディズニーランドの虚構 性に気づきながらも、あえて真/偽を明確にしないため に、オリエンタルランドすら気にかけていなかったよう な「公然の秘密」に加担していたのである。 女子高生三人組のように、ディズニーランドにやって くるゲストは誰でも、さまざまな形で「公然の秘密」に 加担している。「魅惑のチキルーム」で鳥が人間の言葉 をしゃべっているのを見て「この出し物はインチキだ!」 などと騒ぎ立てる者は「変質者」として直ちに会場から つまみ出されるであろう。パレードで踊る王子様が、バ イト先のコンビニの常連だと気づいても、それを明るみ に出すことは控えなければならない。このように、虚偽 だと知っていてもそれを明るみに出さず、真/偽の境界 線を曖昧にし続けることが、真正性のリアリティを支え ている。 3. 「公然の秘密」の暴きによって魅惑的なモノとなる 観光の場における真正性のリアリティは、上述のディ ズニーランドの事例のように、皆がよく知る虚偽性を巧 みに隠し、真/偽を曖昧にするような「公然の秘密」へ の加担によって可能となるだけではない。それは、すで によく知られているが明るみに出されないような「公然 の秘密」を、あえて暴いて見せることよっても維持され る。つまり、「公然の秘密」とは、暴かれることで消え 失せてしまうような単なる秘密とは異なり、暴かれるこ とでますます秘密の様相を呈し、見る者を魅惑するよう になるのである。以下、「公然の秘密」の暴きがもたら す効果について、ミッシェル・タウシグの議論から読み 解こう。 タウシグは「公然の秘密」を「広く知れ渡っているが 明確に知り得ないこと」と定義する(Taussig, 1999, p. 5; Taussig, 2003, p. 302)。すなわち、何が偽物であるか は知られているが、真/偽を明確にする方法それ自体が 秘密で覆われているため、偽物を暴いて見せたところで 本当にそれが偽物かどうかはついにわからないというこ とである。このどっちつかずの状態において、人びとは、 当のモノの背後に真正性を想起するようになる。これに ついて、タウシグが事例にあげる男性秘密結社の精霊の 仮面から具体的に見ていこう(なお、精霊の仮面の分析 は観光とは無関係のようであるが、後に明らかになるよ うに、仮面と観光対象物双方とも、否定によって真正性 を獲得するものであるために共通点がある)。 ティエラフエゴ諸島の男性秘密結社の秘密とは、儀式 の時に現れる恐ろしい精霊が本物ではなく、成人男性が 扮した偽物であることである。女・子どもは、その精霊 が偽物であることを知りながら、「偽物だ」と明言する ことはできない。その秘密にアクセスする者は、精霊に よって(男性成員によって)死に至らしめられるためで ある。 しかし、少年たちは、それが偽物であることを秘密結 社への加入儀礼の際に明かされる。大人たちは、その後 も、何度も精霊に化けてはそれがただの仮面であること を子どもたちに暴いて見せながら、「今回は人間が精霊 のふりをしていたのだ。でも本物の精霊はおまえが秘密 を守れるかどうか常に監視している。ここで生じるすべ てのことが幻想だとは限らない」と警告する(Taussig,

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1999, pp. 138-140)。重要なことは、どんなに精霊の虚 偽性が暴かれても、精霊の存在が失われるどころか強化 されていく点にある。そうした逆説的なことが生じるの は、大人たちが、仮面を使いながら秘密結社の秘密を暴 くと同時に隠すためである(Taussig, 1999, p. 140)。こ の暴きと隠蔽の連続において、精霊の仮面は、それを見 る者に「もしこれが本物の精霊であったら……」という 想像力を与えるようになる。つまり、仮面は、一方では、 精霊を模した「ただの仮面」としてその虚構性を認めら れながらも、仮面を見る者を「本物の精霊か否か」とい う決定不可能な状態に誘うものである。 このような真/偽の決定不可能な状態は、秘密結社の 男性が仮面の虚偽性を何度も暴くことによって生じてい る。このすでによく知られた虚偽性の暴き、すなわち「公 然の秘密」の暴きは観光の場においても見られる。たと えば、先述したブルーナーによるジャワ舞踏劇の暴きを 思い出されたい。バリ舞踏劇が真正ではないことを知っ たツアー客の反応は、本物でなくても「今晩の楽しみを なんら損なうことなく、その晩の催しは依然としてとて もすばらしい」であった(Bruner, 2005 安村他訳 2007, p. 301)。これに対しブルーナーは、ツアー客は真正性 というよりは「演技された芝居性の巧妙さ」に関心を もっていると結論付ける。しかし、だからといって、観 光客が舞踏劇の真正性に関心がないと結論付けるのは必 ずしも正しくない。観光客は複数の舞踏劇を見学する中 で、それらのすべてが真正なバリの伝統芸能であること を示されながらも、ブルーナーのような研究者によって その真正性を否定されてきたのだろう。この過程におい て、観光客は、精霊の仮面に対峙する少年のように、舞 踏劇が真正なものかどうか判別不可能な状況に置かれて いる。つまり、「まがいもの」をまなざしの対象にする というよりは、「まがいもの」かどうかわからないから こそ、ツアー客は観光対象物に魅了されるのである。 タウシグによれば、「公然の秘密」は暴かれることに よって秘密の様相をますます強めるものである(Taussig, 2003, p. 302)。すなわち、観光対象物は、「まがいもの」 であることが暴かれることによって、ますます真/偽を 決定できない謎めかしいものとして観光客の前に現れ、 彼らを魅了し続けるのである。無論、男性秘密結社の精 霊の仮面とジャワの舞踏劇とを同一に論じることには限 界がある。秘密結社の「公然の秘密」に女・子ども、男 性成員のすべてが加担するのは、暴いた者に死の制裁が 与えられるからである。一方、ツアー客にジャワ舞踏劇 の虚偽性を「こっそり」と暴いて見せても、ブルーナー は、殺害されるほどのリスクを負うことはないであろう。 しかし、ブルーナーは、ジャワ舞踏劇の演者に対して、 あるいはジャワの伝統を保護するホスト団体に対して、 「観光用のジャワ舞踏劇はまがいものだ」などとは言え ないはずである。それを言えば、ハワイの伝統文化の虚 偽性を暴き続けた文化人類学者のリネキンのように、現 地住人から、フィールド調査すること自体を拒絶されて しまうかもしれない5)。同様に、ブルーナーが公然とジャ ワ舞踏劇の虚偽性を暴き続ければ、観光研究者としてブ ルーナーを受け入れてくれる社会はなくなってしまうか もしれない。そのため、観光研究者にとって真正性は探 し出さなければならないものとなってきたのではないだ ろうか。ブルーナーが、男性成員の如く、観光対象物(仮 面)の虚偽生(仮面が本物の精霊ではないこと)を暴露 すると同時に、観光経験の真正性(精霊の実在)を主張 したのは、そうする必要があったためだと考えられる。 この「公然の秘密」の暴露と隠蔽の連続によって、観 光対象物の真正性(仮面の精霊)は、「どこかに在る」 ものとして、リアリティをもって人びとの行為に影響す るようになる。秘密結社を取り巻く人びとは、精霊のう そくささには気づきつつも、本物の精霊がどこかにいる ものとして行為する(精霊を崇め、儀礼を行い、秘密結 社の秩序を守る)。同様に、観光の場に参加する人びとも、 本質的に真なる観光対象物などないことは百も承知で、 真正なるものがどこかにあるかのように立ち居振舞うの である。以上の議論を鑑みれば、観光対象物の真正性は、 ジンメルの述べるような真/偽を明るみに出さないこと による「公然の秘密」だけでなく、タウシグの議論のよ うに、すでによく知られているが誰も明らかにしないよ うな虚偽性をあえて暴くことによって、リアリティを獲 得していると結論付けられる。 IV. 真正性のリアリティ―カトマンズの観光市場にお ける宝石を事例に 1. フィールドワークと調査対象の概要 本章では、観光対象物の「公然の秘密」について、筆 者が、2006年6月から2011年1月のうち計約2年間、カ トマンズの観光市場、タメルの宝飾商売のフィールドで 収集した事例を用いて提示していく。具体的な観光対象 物として取り上げるのは、タメルの宝飾店で多くの観光 客が買い求める「ヒマラヤ産の宝石」であり、その具体 的な宝石として、本章では水色透明なアクアマリンを取 り上げる。

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筆者は、2006年度の最初の調査で、タメルの宝飾店 (148店舗)を対象に、宝飾商人の社会的背景(出自、 民族、カースト、宗教構成)や店舗経営状況についてア ンケート調査を行った。またそれと並行して、2006年 から2011年の調査期間に、タメルで宝飾店(K店)を営 むインド系ムスリムの店主(兄=シャーズ、弟=ハッシ ム)のもとで小売商人として働きながら、彼らと観光客 のやり取りを参与観察し、また筆者自身が宝石を売った 観光客および、他店で宝石を購入した観光客へのインタ ビューを行った。 調査対象地であるタメルは、1980年ごろから市場形 成が進み、ネパールの自由経済化が促進した1990年以 降、ネパール国内からの移民商人の参入により国際色豊 かな市場に発展した。その一方で、タメルは、ハシシや マリファナを自由に入手できたり容易に売春できたりと いった堕落したイメージのある場として知られている。 さらには、みやげ物に定価がないことから、商品知識に 乏しい観光客が容易に騙されてしまうバザールのような 市場でもある(Geertz, 1978)。そのため、ツアーを企 画する旅行会社は観光客をタメルに宿泊させたり、タメ ルでのショッピングを企画することに消極的である。結 果的にタメルに集う観光客は、安宿を求めるバックパッ カーや長期滞在者、登山家、個人旅行者、旅慣れた旅行 者が大半となっている。 これらの観光客の中には、「ヒマラヤ産の宝石」をネ パールへ来た思い出の品として持ち帰る者が数多くい る。タメルの宝飾店で働く小売商人も、この観光客の需 要に無頓着ではない。タメルの多くの宝飾店内には、ヒ マラヤ山脈で鉱物を採掘できる場所と具体的な宝石の種 類を示した地図が張ってある。どの店舗でも同じ地図が 張ってあるために、この地図は「ヒマラヤ産の宝石」を 観光客に売るために欠かせない道具となっている。 しかし、店頭に並ぶ色とりどりの宝石には、「ヒマラ ヤ産の宝石」を示すタグもなければ値札もつけられてい ない。「ヒマラヤ産の宝石」は、旅行会社やネパール人 の宝飾商人が観光用に企画した商品ではないのである。 そのため宝飾店内の宝石のうち、どれが「本物のヒマラ ヤ産」であるか、観光客自ら探し求めなければなない。 本章では、「ヒマラヤ産の宝石」をめぐる小売商人と 観光客のやり取りによって、「ヒマラヤ産の宝石」の真 正性がリアリティをもって、観光客を魅了するモノに なっていることを提示する。 2.タメルの宝飾商人の商品知識 宝飾品市場に参入する宝飾商人は、観光客相手に宝飾 品・宝石を売る小売商人と、彼らに宝石を売り込む卸売 商人で成り立っている。まず、2006年度に行ったタメ ルの小売店、148店舗を対象とした調査において、小売 店主の出自は、ネパール(54.0%)、インド(25.7%)、 チベット(17.6%)、その他(2.7%)であった。この中で、 宝石を専門的に売るのはインド人であり、彼らの92.1% がイスラム教徒である。インド系ムスリムの出身地は北 インドのジャイプールがほとんどで、その他はアグラ、 デリー出身者が数名いる。その他のネパール商人、チ ベット商人も宝石を扱っているが、彼らの主要な商品は シルバー・ジュエリーであり、取り扱う宝石も安価なも のである。これに対し、本章で取り上げるアクアマリン は、宝石の中でも高額商品であり、目利きも必要である ことから、アクアマリンを取り扱えるのは宝石を専門に 取り扱うインド商人である(以降、宝石の取引に注目す るため、小売商人をインド系ムスリム商人に限定して論 じる)。 タメルの宝飾市場に宝石を卸す主要な卸売商人は、 ジャイプール出身のインド系ムスリムである。彼らの滞 在期間は一週間から二ヶ月程度で、その間に、小売商人 への信用取引の取り立てや売込みを行う。同郷出身者で ある小売商人と卸売商人の間では、ある程度宝石の知識 が共有されているため、詐欺の問題が起こることもほと んどない(渡部, 2016b)。 しかし、宝石の品質を判断する上で重要な情報である はずの宝石の産地について、卸売商人も小売商人も明確 なことはほとんど知り得ていない。それは以下で示す原 石の取引過程が関係している。 まず、宝石の町として知られるジャイプールには、世 界各国の鉱山から採掘された原石が集まる。その原石の 中には、ヒマラヤ山脈で採れたものも含まれているとさ れる。原石はジャイプールで研磨・カット工場を営む業 者に売られるが、その時点で、さまざまな産地の原石が 混ぜられてしまう。筆者がタメルで出会った卸売商人の 中には、家業としてカット・研磨工場を経営している者 もいたが、彼らが宝石の原産地を明確に知り得ているこ とはほとんどなかった。 卸売商人が原産地を知り得ていないのであれば、購入 者である小売商人もそれを知り得ないことになる。後述 するように、この「わからなさ」について小売商人自身 も自覚的である。では、小売商人はいかにして、観光客 に「ヒマラヤ産の宝石」を売ることができるのか。それ

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は、卸売商人の商品説明を信じてみる、というものであ る。つまり、はっきりとしたことはわからないが卸売商 人の言葉を信じてみて、原産地を「わかったことにして いる」のである。小売商人の多くは、卸売商人から仕入 れたアクアマリンを「ヒマラヤ産の宝石」として観光客 に売っているが、本当にヒマラヤで採掘されたものなの かどうかは、卸売商人の説明に依存しているのである(渡 部, 2016a)。 以下の【事例①】は、タメルの宝飾店でセールスマン として働く小売商人の語りであるが、その語りにおいて、 彼は、原産地を明確に知らないアクアマリンを「ヒマラ ヤ産の宝石」として売った経験を筆者に暴露している。 【事例①】 私は自分自身の商売が嫌になることがある。私はたまに、 観光客にうそをついて宝石を売ってしまっているのではな いかと怖くなる。つい先日、店に来たドイツ人の客に、「ヒ マラヤ産のアクアマリン」のパケット(宝石を保護してし まう紙包み)を見せた。彼はその中から一粒のアクアマリ ンを選んで買っていった。でも、そのアクアマリンがヒマ ラヤ産であるかどうかはわからない。原石がカット・研磨 される時点で、原産地などもはやわからないのだから。お そらく、タメルに流通するアクアマリンのほとんどがアフ リカ産だろう。ヒマラヤ山脈でアクアマリンの原石はもう 採りつくされたと聞いたこともある。もちろん、私が彼に 見せたパケットの中には、ヒマラヤ産がまぎれていたかも しれない。運よく彼が、それを選んでいたのなら、私はう そをついていない。 この小売商人は、日ごろから、観光客に対して誠実に 商売をしていることに自信を持っていたが、自身の詐欺 に自覚的であることを筆者にこっそりと打ち明けた。し かし、彼が観光客を騙していると言い切ることはできな い。パケットの中に「ヒマラヤ産のアクアマリン」が紛 れ込んでいるかもしれないからである。「本物のヒマラ ヤ産」の可能性が著しく低くても、その可能性が残され ているからこそ、彼はかろうじて「ヒマラヤ産のアクア マリン」を売り込むことができたのである。 3. 「ヒマラヤ産の宝石」への期待 では、観光客は「ヒマラヤ産の宝石」をどのように購 入しているのだろうか。筆者がK店で参与観察する限り、 多くの観光客がタメルで「ヒマラヤ産の宝石」を買える と信じているし、購入した「ヒマラヤ産の宝石」をネパー ル旅行の記念の品として持ち帰っていた。 しかし、「ヒマラヤ産の宝石」を探し当てるのは容易 ではない。先に述べたように、タメルの店頭で置かれる 宝石に「ヒマラヤ産の宝石」とタグ付けされたものは一 つもないからである。そのため、観光客のほとんどが、 タメルの宝飾店を巡り、売り手である小売商人の商品説 明を聞いたり値引き交渉をしたりしながら、納得のいく 「ヒマラヤ産の宝石」を購入するのである。タメルの店 舗を見て回り、さまざまな観光商品に触れることができ るショッピングは、観光客にとって旅の一つの楽しみで ある。 このように、複数の店舗を巡り品定めをする観光客の 行為は、クリフォード・ギアツがモロッコのバザールで 論じた情報探索(search for information)に相当する (Geertz, 1978, p. 30)。情報探索とは、品質に関する知 識をもたない買い手が悪品・不良品を購入してしまうリ スクを抑えるために行うものである。この情報探索の繰 り返しによって、売り手と買い手は商品の偽物/本物、 品質の良し悪しに関する情報を共有するようになる。 一方、タメルの宝飾市場で情報探索を繰り返すことは、 小売商人と観光客の間で、「ヒマラヤ産の宝石」が何で あるか、そんなものが本当に存在するのかについてます ます不透明にさせる行為となっている。それは、Ⅲで述 べたように、観光対象物である「ヒマラヤ産の宝石」の 存在が、真/偽の確定が不可能な「公然の秘密」によっ て支えられているからである。以下の【事例②】はそれ を示す出来事である。 【事例②】 ある日、K店にイタリア人の中年の観光客(男性二人、女 性二人)がやってきて、ネパールの思い出の品になるよう な宝石が欲しいと言った。そこで、シャーズと筆者は、「ヒ マラヤ産のアクアマリン」を彼らに見せた。 彼らはパケットの中から二粒のアクアマリンを取り出し、 シャーズに値段を聞いた。この二粒に対してシャーズが提示 した値段は、50,000ルピーと80,000ルピーであったが6)、よ り多くの宝石を買うのであればディスカウントすると言っ た。彼らは四人で(イタリア語で)しばらく話し合っていた が、次の日からトレッキングに行くので、その後でまた買い に来るといって店を出た。 数日後、シャーズは、他の店に入っていく彼らを目撃し「彼 らはきっと他の店でアクアマリンを買うに違いない」と筆 者に不安を漏らした。そこで、シャーズは、彼らが他店か ら出てきたら、彼らの後を追って何気なく話しかけ、もう

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一度K店に呼び戻すよう筆者に指示した。 時を見計らって、筆者が彼らに話しかけると、彼らは、ト レッキングを企画した旅行代理店やトレッキング・ガイド から「ヒマラヤで鉱石が採れることは確かだが、数多く取 れるのはクリスタル(水晶)であり、アクアマリンについ ては聞いたことがない」と聞いたと言った。さらに、「ヒ マラヤで採掘できるのはネパール政府から許可された一部 のネパール人に限られているとも聞いた。それなのにイン ド人がヒマラヤ産の宝石を売ることができるのだろうか」 と筆者に疑問を投げかけた。そのため、彼らはK店だけで なく、タメルの宝飾店を巡っていたのだが、別の店舗の小 売商人は、「ヒマラヤ産のアクアマリンは、今は採れないが、 残っているとすれば希少性が高い」と言い、その他の店舗 の小売商人は「あるにはあるが、他の原産地と混ざってし まっている」と言ったという。これらの小売商人たちの歯 切れの悪い回答を受けて、イタリア人観光客は、ありそう だがなさそうな「ヒマラヤ産のアクアマリン」を探し求め て、タメルの宝飾店を巡っていたのである。 そこで筆者は、再度彼らをK店に連れて行った。シャーズ は前回彼らに見せたものと同じアクアマリンをトレーの上 に置いた。すると彼らのうちの一人が笑いながら「これら はヒマラヤ産ではないだろう? そう言える根拠はどこに ある?」とシャーズに聞いた。シャーズは「卸売商人から ヒマラヤ産だと聞いて仕入れています。私は、卸売商人を 信じているので、彼がヒマラヤ産だと言えばそう言うしか ない」といった。そして、アクアマリンの入った別のパケッ トから数個のアクアマリンを取り出し、「このアクアマリ ンは色味が濃いでしょう。だからヒマラヤ産ではない。ヒ マラヤ産は色味が薄いのです」と言った。イタリア人の観 光客は、再度、前回見せられた50,000ルピー80,000ルピー のアクアマリンの色味を確かめた。二つのアクアマリンは、 シャーズが説明した「ヒマラヤ産のアクアマリン」のよう に、色味が薄いものであった。 その後、シャーズとイタリア人観光客の交渉は長い間続い たが、結局、彼らはシャーズから「ヒマラヤ産のアクアマ リン」を購入した7) 上記の事例は、「ヒマラヤ産のアクアマリン」の否定 と探求の連続を示すものである。それは「あるけどない」、 「ないけどある」という終わることのない在/不在、真 /偽の暴きと隠蔽の連続である。無論、こうした交渉を 経て「ヒマラヤ産のアクアマリン」の購入を諦める観光 客もいる。しかし、それは「ヒマラヤ産のアクアマリン」 の不在を意味するわけではなく「どこかにはあるのだろ うが見つけられなかった」というのが正しい。 「ヒマラヤ産のアクアマリン」は、疑惑を向けられ否 定されるも、その真/偽が明らかにできない(あるいは 明るみにすべきでない)「公然の秘密」であるために、 どこかには存在するリアルなものとして、旅行代理店の トレッキング・ガイドも、イタリア人観光客も、小売商 人も(筆者自身も)の間で想像されていた。誰もが、本 物の「ヒマラヤ産のアクアマリン」など入手できそうに ないことを知っていた。しかし、真正性が否定されれば されるほど、真正なる「ヒマラヤ産」は、どこかにはあ るはずだがなかなか見つけられないものとして、ますま す謎めかしく魅惑的なモノに仕立て上げられていくので ある。魅惑的な観光対象物は観光客の需要を集める。そ のため、小売商人は、「ヒマラヤ産の宝石」のうそくさ さに気づきつつも、それを真正なものたらしめようとす るのである。 では、イタリア人観光客は、なぜ、ヒマラヤ産かどう かもわからないアクアマリンを購入するに至ったのか。 シャーズの商品知識が卸売商人の発言に依存した根拠の 薄いものであることは、イタリア人観光客も気づいてい た。しかし、彼らは、最後には「ヒマラヤ産のアクアマ リン」を購入している。この状況を考慮すると、彼らは シャーズの見せるアクアマリンがヒマラヤ産であること に賭けた、といえる。この賭けの勝敗は、ネパールの思 い出の品であるアクアマリンをイタリアに持ち帰った後 も、決定不可能な状態で永遠に先送りされる。その限り において、彼らは、ネパールの思い出の品が「ヒマラヤ 産のアクアマリン」であることを永遠に期待し続けるこ とができる。タウシグの提示した精霊の仮面の事例に立 ち返るなら、仮面を見る者が精霊の存在を想起するよう に、アクアマリンの石は「本物のヒマラヤ産」を期待す るものとなっている。無論、仮面に対しては精霊への恐 怖心が、アクアマリンに対しては真正性への期待が生じ るという違いがあるとはいえ、これらの想像力が、精霊 信仰や「ヒマラヤ産のアクアマリン」の需要を支えてい ると言うことはできる。この想像力こそが、観光対象物 の真正性なものたらしめる、真正性のリアリティである。 V. 結論 本稿では、真正性に関する従来のテキストの傾向を浮 き彫りにしながら、観光対象物の真正性が、観光の場に 参与する人びとによって否定され、疑問視され、探求さ

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れつつも、永遠に期待し続けることができる真正なるも のとしてリアリティをもつことを提示した。 まずは、真正性に関する従来の議論が、真正性の否定 と探求を繰り返すテキストであったことを読み解いたわ けであるが、この傾向にいち早く気づいていたのはコー エンであった。コーエンは、観光の場で前近代的な生活 や近代西欧の影響が浸透する以前からある文化的生産物 を探求しているのは、観光客というよりも、近代的な阻 害の程度が強い学芸員、民族誌家、人類学者といった知 識人の方であると述べている(Cohen, 1988, p. 375)。 つまり、観光を研究対象とする知識人こそが、マキャー ネルの描く観光客の如く、観光対象物やホストの振る舞 いの擬似性・虚偽性を暴き続きたてながら(あるいは真 正性を否定しながら)、「観光の場における真正性とは何 か」を議論の中心に据えてきたのである。 このコーエンの指摘を、真正性の否定と探求だと捉え たことは本稿の一つの特徴であった。真正性を論じる先 行研究では、明るみに出されてしまった「まがいもの」 に蓋をしながら(あるいは論じることを放棄しながら)、 別の形の真正性を探り当てようとしていた。それは、実 存主義的アプローチに基づく観光客個人の独我論的経験 や(Cray, 2004; Noy, 2004)、個別的なホストとゲスト の間主観的なものに真正性を押し留めるような議論で あった(Tylor, 2001; Bruner, 2005 安村他訳 2007)。 本稿の第二の特徴は、「まがいもの」として結論付け られた観光対象物の客観的・本質的な真正性を再検討し、 観光対象物の真/偽が「公然の秘密」によって明確にさ れ得ないものであったことを明らかにした。タウシグに よれば「公然の秘密」は、暴かれることによって正体が 明るみに出されるものではなく、暴かれれば暴かれるほ ど、ますます秘密の様相を呈する働きをする(Taussig, 1999; Taussig, 2003)。観光対象物が観光客を魅惑する のは、それが深淵なる秘密に囲い込まれているためであ る。 この観点は、Ⅳの事例で取り上げた「ヒマラヤ産の宝 石」にも当てはまる。「ヒマラヤ産の宝石」は、タウシ グの分析する精霊の仮面に等しい。これらのモノを取り 巻く人びとは誰でも、宝石や仮面が「まがいもの」であ ることを知りながら、これらのモノの背後に隠されてい る本当の姿を暴きたてようとする。しかし、暴いた先に あるのは本物と偽物の決定不可能な状態である。【事例 ②】で提示したイタリア人観光客は、旅行代理店やトレッ キング・ガイド、タメルの宝飾店を巡って情報探索をし た結果、「ヒマラヤ産のアクアマリン」があるのかない のか、結局よくわからない状態に陥っている。本稿で主 張したことは、真正かどうかの最終判断を永遠に先送り してしまうこの決定不可能性により、観光対象物の客観 的真正性への期待感、探究心が返って増幅していること、 そのことが魅惑的でエキゾチックな観光対象物の消費に つながっていることであった。 本稿のこの主張は、近代的疎外感の強い人間が、近代 的生活や公的な領域によって失われてしまった真正なる 何かを観光の場で探し求めるというマキャーネルの指摘 と矛盾しない(MacCannell, 1976 安村他訳 2012)。確 かに、マキャーネルは、ツーリストが観光地で見せられ るものを見世物用の「表舞台」、すなわち「まがいもの」 だと断定しているかのようにも読み取れる。しかし、マ キャーネルは、「裏舞台」と「表舞台」が何層にも連な る中をツーリストが進んでいく過程において真正性を捉 えようとしていたのである(MacCannell, 1976 安村他 訳 2012, pp. 121-122)。この指摘は、本稿で論じてき た真と偽の間で揺れ動きながら、真正性のリアリティを 生み出す行為者の有様そのものである。 真正性のリアリティとは、観光客が真と偽の間を揺れ 動き、さまざまな人やモノの介在によって惑わされなが らも、最終的に、観光対象物を真正なものだと期待して 旅の思い出の品にすることである。観光客が観光の場で 求めていることは、この「わからなさ」に身を置き、永 遠に真正なるものを期待し続けられるモノなのである。 1) 太田の論じる「文化の客体化」は、他者との差異 を反転させ自己像や伝統文化をつくりあげること を歴史構築主義的に明らかにした植民地研究のア イデアに基づいている(Handler & Linnekin, 1984; Thomas, 1994)。このように、観光現象を植民地主 義や帝国主義と関係で論じる論考も提出されている (江口, 1998)。 2) 秘密とは、通常、第三者による意図的・故意的な隠 匿と偽装を要し、知っている者と知らざる者との境 界が明確なものを指す。しかし、菅野も指摘するよ うに、ジンメルの秘密の概念には、コミュニケーショ ン時の<情報の選択>による、<伝わらないこと>、 <伝えられないこと>、<伝えたくないこと>も含 まれている(菅野, 2003, pp. 138-139)。つまり、 当事者の間でとりわけ秘密だと認識されているわけ ではないすべての事柄を秘密の対象としている。

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