南朝正史西戎伝と『魏書』吐谷渾・高昌伝の訳注
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語
目 次 訳 者 の ま え が き ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ 188 ﹃ 晋 書 ﹄ 巻 九 十 七 、 西 戎 伝 ⋮⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ 191 ﹃ 宋 書 ﹄ 巻 九 十 六 、 鮮 卑 吐 谷 渾 伝 ⋮⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ 204 ﹃ 南 斉 書 ﹄ 巻 五 十 九 、 河 南 伝 ⋮⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ 211 ﹃ 梁 書 ﹄ 巻 五 十 四 、 西 北 諸 戎 伝 ⋮⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ 215 ﹃ 魏 書 ﹄ 巻 一 〇 一 、 吐 谷 渾 伝 、 高 昌 伝 ⋮⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ 231 187訳 者 の ま え が き 今回は魏晋南北朝時代の正史西域伝をとりあげることにした。その主要史料である『魏書』西域伝は内田吟風による 苦 心 の 訳 注 が す で に 完 成 し て い る の で(内 田 吟 風 一 九 八 〇) 、 そ れ 以 外 の 北 朝 系、 南 朝 系 の 西 域 伝 相 当 の 史 料 を 訳 注 す ることにした。前回までに訳注した『新唐書』西域伝、 『隋書』西域伝、 『周書』異域伝には、吐谷渾、高昌伝が「西域 伝」のなかに加えられていた。しかし現行の『魏書』西域伝(巻一〇二)にはなぜか吐谷渾、高昌伝は含まれず、別の 巻一〇一に収められ、その結果、内田吟風の西域伝訳注からはずれてしまった。今回、私たちはこの二伝を訳注して、 内田吟風訳の西域伝を補うことにした。とはいえ、現行『魏書』吐谷渾伝、高昌伝もその西域伝と同じく、宋初にすで に散逸してしまっており、治平四年~熙寧三年(一〇六七~一〇七〇)に、宋代の歴史家たちによって『北史』などか ら抽出して復元されたものである。その復元が当を得たものであったかどうか吟味する必要があり、内田吟風が西域伝 訳注のさいに苦心した点もそこにあった。 『魏 書』 吐 谷 渾 伝 を 翻 訳 し て 気 づ い た こ と は、 そ の 冒 頭 部 分(東 晋 時 代) が 南 朝『宋 書』 吐 谷 渾 伝 の 敷 き 写 し で あ る こ と で あ る。 こ れ は『魏 書』 吐 谷 渾 伝 の 原 本 で は あ り え な い 現 象 で あ る。 『南 史』 巻 七 九 河 南(吐 谷 渾) 伝 を 見 る と、 「事詳北史(北史に詳述) 」とあり、南朝系の吐谷渾史料を大幅に削って『北史』にまわしたと記す。北史と南史の編纂 は並行して進められ、ともに顕慶四年(六五九)に完成しているので、重複を避けるための措置であったと考えられる。 中国が統一された唐代では、さほど南北史料の系統にこだわる必要がなかったのであろう。そのようにしてできあがっ た『北史』から機械的に吐谷渾伝を抽出し『魏書』吐谷渾伝を復元したのが、現行本である。なぜ『晋書』からではな く、 『宋書』であったかという点は、 『宋書』が沈約によって南斉の永明六年(四八八)と比較的早くに完成しているの 188
に 対 し て、 『晋 書』 の 完 成 年 が 貞 観 一 八 年(六 四 四) と 遅 く、 参 照 で き な かった の で あ ろ う。 一 方、 魏 収 に よ る『魏 書』 の 編 纂 は 北 斉 の 天 保 二 年~五 年(五 五 一~五 五 四) で あ り、 ま だ 南 北 両 朝 の 対 立 の 激 し い 中 で、 『魏 書』 吐 谷 渾 伝 の原本に南朝の史料がまぎれ込むことは考えられず、上のような事情を考えると、吐谷渾伝のみならず、西域伝、高昌 伝についても、現行本の利用には注意すべきことがらである。 中国の南北分裂時代にあって、揚子江南岸の建康(江蘇省南京)に首都を置く南朝(宋・斉・梁・陳)にとって、西 域と交流することは北朝とくらべ地理的に不利であることは否めない。事実、南朝の正史西戎伝、異域伝の内容は北魏 の西域伝にくらべ貧弱である。ただ例外的に吐谷渾(南朝は「河南」と呼称)については北朝に劣らず、内容が詳しい。 吐谷渾の出自は鮮卑系の慕容部(東モンゴル族)であったが、吐谷渾の一派が慕容氏本体から分離し、永嘉の乱(三 〇七~三一三年)のさいに、隴山を西に越え、甘粛、青海省の黄河上流域に落ち着いた。吐谷渾は本来遊牧民であった が、土着の羌族を多く征服、吸収し、勢力を拡大したとおもわれる。従来、中国内地と西域を結ぶ幹線道路のひとつは 祁連山脈の北麓に沿う河西回廊であったが、北魏と蠕蠕(柔然)との間で争奪の対象となり、危険が増したため、吐谷 渾の支配する青海湖とツァイダム盆地がバイパスとして利用されるようになった。北魏の朝廷から派遣された宋雲、恵 生は神亀元年(五一八)に洛陽を出発して、四〇日行程の後、黄河との分水嶺である赤嶺をこえて、青海の西方に所在 した吐谷渾城を経て、ツァイダム盆地の砂漠を渡り、鄯善国(ミーラン付近)に出た。その後、西域南道のホータン、 タシュクルガンをへてパミールを越え、まずはアフガニスタン北部の遊牧民族エフタルを訪ね、国王に面会し、魏皇帝 の詔書を手渡した。ついでヒンドゥクシュの南の仏教国ガンダーラの巡礼をはたし、正光二年(五二一)に帰国した。 当時は吐谷渾王の伏連籌の治世(五〇四~五二九)であり、鄯善国には王の次男が派遣され、統治していたという(今 城主、是土谷渾第二息西寧将軍、総部落三千、以禦西胡。 『洛陽伽藍記』巻五、 「宋雲行記」 )。吐谷渾政権がもっとも安 南朝正史西戎伝と『魏書』吐谷渾・高昌伝の訳注 189
定し、繫栄した時期であった。 吐谷渾が重要な役割を担ったのは、北魏よりもむしろ南朝に対してであったとおもわれる。南朝の宋・斉・梁・陳は 吐谷渾を仲介することによってのみ西域との交流が可能であった。南朝正史に吐谷渾が重視されるのもそのためである。 さらに具体的な例証として『梁職貢図』を挙げることができる。梁・武帝(位五〇二~五二七年)の第七子の蕭繹(後 の元帝)は揚子江中流の都市江陵の刺史として赴任している時、梁朝へ朝貢に訪れる外国使者の容貌を自ら写生し、そ の さ い に 見 聞 し た そ の 国 の 地 理・ 風 俗 を 文 章 に し て 書 き 加 え、 武 帝 の 統 治 第 四 〇 年 の 盛 況 を 記 念 し て 武 帝 に 献 上 し た (五四一年ころ) 。西域からの使節だけでなく、首都へ集まる東夷、南蛮の朝貢使についても、蕭繹は別に人を派遣して 資料を収集させたといい、約三〇余国の朝貢使節を描いた巻子本図録ができあがった(長さ四メートル、高さ二七セン チ) 。 た だ、 原 本 は 早 く に 散 逸 し、 北 宋 摸 本(一 〇 七 七 年) が 中 国 国 家 博 物 館(元 南 京 博 物 院 蔵) に 現 存 す る。 ほ か に二種の摸本が台湾故宮博物院に所蔵されるが、摸写の精度は劣り、史料価値は少ない。 か つ て 榎 一 雄 は エ フ タ ル 民 族 の 資 料 と し て こ の『梁 職 貢 図』 を 研 究 し、 『梁 書』 西 戎 伝 の 記 事 の 大 部 分 は そ れ に 基 づ くものであることを明らかにした。また倭人・百済らの使節図が含まれていることから、日本、朝鮮古代史の研究者た ちも大きな関心を寄せた。しかし現状では一二図、一三題記(説明)しか残っておらず、約半分が失われた状態であっ た。 と こ ろ が、 最 近、 思 わ ぬ 発 見 が 中 国 か ら 報 告 さ れ た。 乾 隆 四 年(一 七 三 九) 、 北 宋 模 本 が 一 時 民 間 に 流 布 し て い る 間、 張 庚 と い う 書 画 家 が 知 人 宅 で そ れ を 見 て、 素 晴 ら し さ に 感 激 し、 そ れ を 摸 写 し、 題 記 を 書 き 写 し た(以 下、 「張 庚 摸 本」 と 記 す) 。 そ の 時 の 観 察 記 と 一 八 国 の 題 記 が『愛 日 吟 廬 書 画 続 録』 に 収 録 さ れ て い る こ と に、 趙 燦 鵬 が 最 近 気 づ いたのである。そのうち七国の題記ははじめて知られるものであった。 『梁書』西戎伝に関わるものは、渇槃陀、武興、 高 昌、 于 闐 の 四 国 の 題 記 で あ る。 詳 し く は 趙 燦 鵬 の 論 文( 『文 史』 二 〇 一 一 年、 第 一 輯) を 参 照 さ れ た い。 幸 い な こ と 190
に、私たちも翻訳中にその報告を知り、早速活用することができた。 今回の訳注に当たって私たちが使用したテキストは前回と同様に中華書局出版の標点本である。そのほか『歴代各族 伝記会編』第二編上、下冊、中華書局出版一九五八~九年を随時参照した。 ﹃ 晋 書 ﹄ 巻 九 十 七 、 西 戎 伝 吐 谷 渾 ︵ と よ く こ ん ︶ 吐谷渾は、慕容廆の庶出の長兄であった。父親の渉帰は部落を分け、千七百家を吐谷渾に属させた。渉帰が死に、慕 容廆が王位を継承すると、吐谷渾と慕容廆の二部の馬が闘った。慕容廆は怒り、 「先王は、兄上のために部落を分けて、 別 の 部 落 を 建 て て 下 さった。 だ の に、 な ぜ 遠 く に 離 れ て 暮 ら さ ず、 馬 同 士 を 闘 わ せ る の か」 と 言った。 吐 谷 渾 は、 「馬 は畜生にすぎない。馬にとって、闘うことは普通のことである。なぜ人間を怒るのか。そむき別れることは非常に容易 である。私は、おまえのもとを去って万里の外に行こう」と言い、言葉のとおりに遂行した。慕容廆は後悔し、長史の 1 吐谷渾(とよくこん) 4 大宛(フェルガナ) 2 焉耆(カラシャール) 5 康居(サマルカンド) 3 亀茲(クチャ) 6 大秦(ローマ) 南朝正史西戎伝と『魏書』吐谷渾・高昌伝の訳注 191
史那楼馮や父の代からの古老達を派遣して吐谷渾を追わせ、帰還させようとした。吐谷渾は「先王は、占いのことばを 引 用 し、 『二 人 の 子 は 充 分 に 繁 栄 し、 幸 い は 子 孫 に も 及 ぶ で あ ろ う』 と 言 わ れ た。 私 は 卑 し い 庶 子 で あ り、 道 理 と し て二人が並んで盛大となることはありえない。いま、馬が原因で我々兄弟が別れることになったのは、天の啓示すると こ ろ で あ ろ う。 諸 君 は た め し に 馬 を 駆 り、 東 に 向 か わ せ て く れ。 も し 馬 が 東 に 帰った ら、 私 も 馬 に 従って 戻 ろ う」 と 言った。史那楼馮は、二千騎の従者に馬を率いさせ、東に向かって数百歩行かせたが、馬はすぐに悲鳴をあげると西に 向 かって 走 り 出 し た。 こ の よ う に な る こ と が 十 回 ほ ど あった。 楼 馮 は 跪 く と「こ れ は 人 事 の な せ る わ ざ で は あ り ま せ ん」と言い、馬を東に向かわせることをやめた。鮮卑では、兄のことを阿干といった。慕容廆は吐谷渾のことを追想し て「阿干の歌」をつくり、年末になると思いつめて常にこれを歌った。 吐 谷 渾 は 自 分 の 部 落 の 民 に 言った。 「我々兄 弟 は、 と も に 国 を 継 承 し た。 慕 容 廆 と、 彼 の 曾 孫、 玄 孫 は、 わ ず か に 百 餘 年 だ け 国 を 保 持 で き る だ ろ う。 わ れ わ れ は 玄 孫 以 後 に なって か ら 繁 栄 を 遂 げ る だ ろ う。 」 そ れ か ら 西 に 移 り、 陰 山 に達した。永嘉の乱(三〇七~三一三)に及び、吐谷渾は初めて隴山をわたって西へ至り、その後、子孫が西零より西 にある甘松の境界を領有し、白蘭に至るまで数千里に達した。そして城郭を築いたが、そこには住まず、水と草を追い 求めてテントを住まいとし、肉や酪を食糧とした。官職は、長史、司馬、将軍があり、よく文字を知っていた。男性は 長裙(長いズボン)を着用し、帽子あるいは 人 冪 幕人 冪 離(べきら)を頭にかぶった。婦人は金の花を首飾りとし、辮髪をうし ろ に め ぐ ら し て、 珠 貝 を つ な い だ。 婚 姻 は、 富 裕 な 家 が 嫁 入 り の た め の 持 参 金 を た く さ ん 出 し、 貧 し い も の は( 『周 書』 吐 谷 渾 伝 よ り 補 う) 、 花 嫁 を 盗 ん で いった。 父 親 が 亡 く な る と、 母 親(群 母) を 妻 と し、 兄 が 亡 く な る と 兄 嫁 を 妻 とした。葬制は、葬式が終わると喪の期間も終了した。国には常税がなく、国費に不足があると、そのつど富豪や商人 から徴収し、足りない分を充たせば課税をやめた。殺人と馬泥棒は死罪、それ以外の罪を犯したものからは物を徴収し 192
て罪を贖わせた。その地では大麦がよく取れ、カブラが多く、マメと粟がやや多かった。蜀馬と犛牛を産出した。西北 の種族たちは吐谷渾を「阿柴虜」といい、あるいは「野虜」と号した。吐谷渾は七十二歳で死去し、六十人の息子がい た。長男を吐延といい、彼が後を継いだ(三一七年、 『資治通鑑』巻九〇、建武元年条) 。 吐延は身長が七尺八寸で、その勇姿は魁偉豪傑で、羌族はこの男を憚り恐れて項羽と呼んだ。吐延の性格は才気が高 く 優 れ て い て、 群 を ぬ い て い た。 か つ て 慷 慨 し て 部 下 に 言った。 「大 丈 夫 は、 生 ま れ が 中 国 で な く と も、 前 漢 の 高 祖 や 後漢の光武帝の世にあれば、韓信、彭越、呉漢、鄧 禹 )1 ( と共に中原を駆けめぐり、天下に雌雄を決し、名を歴史に残すも のを。しかし、深い山奥に逼塞して上京に礼教を聞かず、天府に名をしるすことができない。生きている時はトナカイ (も し く は 大 鹿) や 鹿 と と も に 群 れ、 死 ん だ ら 氈 裘(毛 織 の 皮 衣) の 鬼 と な る。 目 先 の 安 逸 を 貪って い る と は い え、 ど うして心に恥じずにいられようか。 」 吐延の性格は残忍で、才智におぼれ、下のものに対して気を配れなかった。このため羌の族長の姜聡に刺された。剣 が ま だ 体 の 中 に あ る 時、 吐 延 は 部 将 の 紇 抜 泥 に 言った。 「小 僧 が 私 を 刺 し た の は、 私 の 手 落 ち だ。 上 は 先 王 に 顔 向 け が できず、下は仲間たち(士女)にはずかしい。すべての羌族を制御できたのは私がいたからだ。私の死後、よく葉延を 助 け、 す み や か に 白 蘭 を 保 有 す る の だ。 」 吐 延 は 言 い 終 え る と 死 ん だ。 吐 延 の 在 位 は 十 三 年、 息 子 は 十 二 人 お り、 長 男 の葉延が後を継いだ(三二九年、 『資治通鑑』巻九四) 。 葉延が十歳の時、父の吐延は羌の族長姜聡に殺された。葉延は毎朝、草を縛って姜聡の像をつくり、泣きながらこれ を 射 た。 姜 聡 の 像 に 矢 が 命 中 す る と 号 泣 し、 矢 が 当 た ら な い と 目 を 怒 ら し て 大 声 で 叫 ん だ。 母 親 が、 「姜 聡 は 諸 将 が す でに殺してなますにしました。おまえはどうしてこんな風に泣くのか?」と言うと、葉延は泣きながら「草の像を射て も父上の復讐にならないことは、よくわかっています。私はこうすることによって、私の父に対する限りない思いを表 南朝正史西戎伝と『魏書』吐谷渾・高昌伝の訳注 193
しているだけなのです」と言った。葉延は非常に親孝行で、母親が病で五日間食事をしなかった時には、葉延も食事を しなかった。 葉延は成長すると、沈着で剛毅な性格になり、天地の造化や帝王の年暦について好んで質問した。司馬の薄洛鄰は、 「臣 ら は 学 ば な かった の で、 三 皇 が ど の よ う な 父 親 の 子 で あ る か、 五 帝 が ど ん な 母 親 か ら 生 ま れ た の か、 じ つ は 詳 し く 知りません」と言った。葉延は「伏羲より以後、めでたいしるしや天象は、明らかに語られ、著しく見えている。しか し、そなたたちは土塀に向かって一歩も前進しない( 『論語』陽貨) 。なんと鄙びたことか。 『荘子』 (秋水)は、夏虫は 冬の氷を知らない(知見が狭いこと)と言っている。なんと虚しいことか」と言った。葉延はまた、 「『礼記』には、公 孫の子は王の父の字を氏となすと言われてい る )2 ( 。私の始祖は昌黎(遼東地名)より出て、この地に建国した。いま吐谷 渾を氏となすことは、祖先を尊ぶ意味である」と言った。葉延は在位二十三年、三十三歳で死去した。息子が四人おり、 長男の辟〔碎〕奚が後を継いだ(三五一年、 『資治通鑑』巻九九) 。 辟奚の性格は仁義にあつく慈悲深かった。前秦の苻堅(三五七~八五)が勢い盛んである事を聞くと、使者を派遣し て 馬 五 十 匹 と 金 銀 五 百 斤 を 献 上 し た。 苻 堅 は 大 い に 喜 び、 辟 奚 を 安 遠 将 軍 に 任 命 し た。 辟 奚 の 三 人 の 弟 は み な 専 横 で あった た め、 長 史 の 鐘 悪 地 は、 弟 達 が 国 の 災 い に な る こ と を 恐 れ て、 司 馬 の 乞 宿 雲 に 言った。 「む か し 鄭 の 荘 公 や 秦 の 昭王が一人の弟を寵愛したために、宗廟がどれほど傾いたことか。ましてや、いま三人の庶子(三つの災い)はみな驕 り高ぶっている。きっと社稷の災いになろう。私とあなたは、かたじけなくも王を補佐する元輔の位にある。もし五体 満足で死んだなら、先王に問われた時、私はいったい何と言って先王に謝罪すればよいのか( 『春秋左氏伝』隠公三年) 。 私がいま三弟を誅殺する。 」これに対し、乞宿雲は、辟奚に申し上げようと請願したが、鐘悪地は、 「わが王は決断力が ない。告げてはならない」と言った。そこで、群臣が王に謁見する機会をとらえて、とうとう三弟を捕らえて誅殺した 194
(三 七 一 年、 『資 治 通 鑑』 巻 一 〇 三) 。 辟 奚 は 自 ら 牀(ベッド) に 身 を 投 げ 出 し て 倒 れ た の で、 鐘 悪 地 ら は 走 り よって、 これを助けて言った。 「臣は昨晩、夢に先王を見ました。王は臣に告げて言われました。 『三弟が謀反を企んでいる。な ん じ は、 す み や か に こ れ を の ぞ け』 と。 そ こ で 臣 は 謹 ん で 先 王 の 命 令 を 奉った の で す。 」 辟 奚 は も と も と 友 愛 の 情 に 篤かったので、恍惚として病気になってしまった。辟奚は、後継ぎの視連に「私の不幸は兄弟を殺したことにある。ど うして冥土の父に顔をあわせられようか。国事の大小については、なんじが執り行え。私は余生をそなたに寄食して生 き る だ け で あ る」 と 言 い、 憂 悶 の た め に と う と う 死 ん で し まった(三 七 六 年) 。 辟 奚 の 在 位 は 二 十 五 年 で、 年 齢 は 四 十二歳であった。六人の息子がおり、視連が後を継いだ。 視連は即位すると、西秦の乞伏乾帰(三八八~四一二)と通好し、白蘭王を拝した。視連は幼い頃から廉直で慎み深 く、志を持っていたが、父親が憂悶して亡くなったため、その後、政治をかえりみず、飲酒も狩猟もしないまま七年間 を 過 ご し た。 鐘 悪 地 は 進 ん で 言った。 「そ も そ も 君 主 と い う も の は 徳 に よって 世 を 治 め、 威 光 に よって 人々を 救 い、 五 味によって民を養い、音楽と色事によって民を楽しませるものです。この四つのものは、聖天子や明王が優先するもの です。しかし、公はみなこれらを無視されました。むかし、昭公は慎ましい倹約家でしたが身を滅ぼし、徐の偃王は仁 義に篤い王でしたが、やはりその身は滅びました。つまり、仁義は身を保つもとでもありますが、同時に身を滅ぼすも とでもあるのです。国を統治する大綱は礼徳であり、世を救うものは刑法なのです。この二者に差異が生ずれば、国家 の大綱は根本から崩れます。明君は代々相次いで徳を輝かし、幸いにも河西の土地(西夏)にわれわれの本拠を置くこ とができました。仁と孝は自然より発するものですが、それでもなお周公や孔子にのっとるべきであり、徐の偃王の仁 に倣って、刑徳を捨て去るようなことがあってはなりません。 」視連は泣いて言った。 「先王は兄弟の痛みをいつまでも 追い、悲憤のあまり崩御された。私は先王の仕事を継承したといっても、屍が残っているだけである。声色(音楽と色 南朝正史西戎伝と『魏書』吐谷渾・高昌伝の訳注 195
事) 、 遊 び と 娯 楽 に、 ど う し て 安 ん じ て お れ よ う か。 国 家 統 治 と 刑 礼 の こ と に つ い て は、 私 の 子 孫 に 託 し た い(綱 維 刑 礼、 付 之 将 来) 。」 視 連 は 臨 終 に あ た り、 息 子 の 視 羆 に、 「私 の 高 祖 の 吐 谷 渾 公 は 常 に、 子 孫 は きっと 繁 栄 し、 長 く 中 国 の西の藩屏となって、幸いは百世代にわたって流れ込むであろうと予言していた。しかし、私はもう及ばないし、おま えもまた見ることはできない。おまえの子孫達の時代に、きっと吐谷渾は栄えるにちがいない」と言い、在位十五年で 亡 く なった。 視 連 に は 二 人 の 息 子 が お り、 長 男 を 視 羆、 次 男 を 烏 紇 堤 と いった(三 九 〇 年、 『資 治 通 鑑』 巻 一 〇 八、 太 元十五年九月条) 。 視 羆 の 性 格 は 英 邁 果 断 で、 雄 略 が あ り、 か つ て 従 容 と し て 博 士 の 金 城 騫 苞 に 言った。 「易 経(繫 辞 伝 上) に は『動 静 には恒常性があり、剛と柔が別れて立つことになった』という言葉がある。先王は仁によって政治をつかさどったが、 威光と刑罰には任せなかった。そのため剛と柔とが分たれず、近隣の敵に軽んじられた。天下正義のためには私は譲歩 し な い(当 仁 不 譲: 出 典『論 語』 衛 霊 公) 。 ど う し て 手 を こ ま ね い て 黙って お れ よ う か。 い ま、 馬 に 秣(ま ぐ さ) を 与 え、 武 器 を 鋭 利 に し て、 中 国 と 天 下 の 覇 を 争った ら、 先 王 た ち は ど う 思 う だ ろ う か。 」 こ れ に 対 し、 騫 苞 は「大 王 の お 言葉は、高い志のある世俗を超越した経略であり、秦隴の英雄豪傑も聞きたいと願っている言葉です」と言った。そこ で、視羆は胸襟を開いて民を説得したので、民はこぞって視羆のもとに結集した。 西秦の乞伏乾帰は使者を派遣して、視羆に使持節、都督龍涸已西諸軍事、沙州牧、白蘭王を授けた。しかし、視羆は こ れ を 受 け ず、 乞 伏 乾 帰 の 使 者 に 告 げ た。 「晋 よ り 以 後、 天 下 の 統 一 は な く な り、 奸 雄 は 競って 覇 権 を 追 い 求 め、 劉 淵 や石虎は残虐に中国を乱し、前秦や前燕は中国に跋扈した。河南王(私)は要害の地を占め、義勇の将兵を糾合して、 不忠者を懲らしめよう。どうして官制を私設し、王を僭称するような群凶と同類になろうか。私は五人の先祖が立てた 優れた勲を受け継ぎ、控弦の兵士(弓を引く兵士)二万を有している。今まさに秦・隴の地から災いを追い払い、沙州 196
や涼州を清め、その後、涇水や渭水で馬に水を飲ませ、天下簒奪の野心を持つ小者を殺戮して、土の塊で東関を封鎖し、 前燕や後趙の進撃路を遮断して、天子を西京(長安)にお迎えし、遠方にある藩屏としての忠節を尽くそう。季孫氏と 孟 孫 氏 や 子 陽(後 漢 の 公 孫 述) の よ う に、 み だ り に 自 ら 尊 大 に な る こ と が ど う し て で き よ う か )3 ( 。(乞 伏 乾 帰 が) 私 の こ とを河南王と申すなら、どうして晋王室のために勲功を立てずに王府に名をしるし、当代に功績を建て、後世に名を残 そ う と し な い の か。 」 乞 伏 乾 帰 は 激 怒 し た が、 吐 谷 渾 の 強 さ を 恐 れ て 初 め の う ち は 友 好 関 係 を 結 ん だ。 し か し、 後 に 軍 隊を派遣して吐谷渾を攻撃したので、視羆は大敗し、退却して白蘭を保った。視羆は、在位十一年にして三十三歳で死 去した。息子の樹洛干は幼かったので、王位は烏紇堤に継承された(四〇〇年、 『資治通鑑』巻一一一) 。 烏紇堤は、またの名を大孩といい、性格は懦弱で、酒色に耽り、国政を顧みなかった。乞伏乾帰が長安に入城すると、 烏紇堤はしばしば国境地帯を略奪した。乞伏乾帰は怒り、騎兵を率いて吐谷渾を討った。烏紇堤は大敗し、一万餘人を 喪失した。烏紇堤は南涼を保ち、胡国〔胡園〕で死去した。烏紇堤の在位は八年で、亡くなった時には三十五歳であっ た。その後、視羆の息子樹洛干が即位した(四〇五年、 『資治通鑑』巻一一四) 。 樹洛干は、九歳で父を亡くし孤児となった。母親の念氏は聡明でやさしく美しかったので、烏紇堤はこれを妻とし、 寵愛して、国政を壟断した。樹洛干は、十歳になると自ら世継ぎを称し、十六歳で王位を継承し、総べるところの数千 家を率いて莫何川に帰還し、自ら大都督、車騎大将軍、大単于、吐谷渾王を称した。部落を教化したので、民は生業を 楽しみ、樹洛干を号して戊寅可汗と称した。沙 触呂 激 弼の種族は樹洛干に帰属しないものはいなかった。そこで樹洛干は宣言 し た。 「私 の 先 祖 は こ の 地 に 避 難 し、 私 で 七 世 代 に 及 ぶ。 多 く の 賢 者 と と も に 立 派 な 仕 事 を 楽 し む こ と を 考 え て き た。 いま、軍馬は勇敢で、控弦(弓を引く兵士)は数万いる。私は梁州や益州に威力をふるい、西戎に覇を唱え、軍隊を三 秦で閲兵し、遠方の天子に朝貢しよう。諸君は、どう考えるか?」吐谷渾の民はみな「これは立派な徳でございます。 南朝正史西戎伝と『魏書』吐谷渾・高昌伝の訳注 197
大王よ、どうかお励み下さい」と言った。 西秦の乞伏乾帰は、これを非常に疎ましく思い、騎兵二万を率いて樹洛干を赤水で攻撃した。樹洛干は大敗し、つい に乞伏乾帰に降伏した。乞伏乾帰は樹洛干に平狄将軍、赤水都護を授け、弟の吐護真を捕虜将軍、層城都尉とした。そ の後、樹洛干はしばしば乞伏熾磐(四一二~二八)に破れ、また白蘭に逃げて同地を保ったが、次第に憤懣がつのり、 発病して死去した。樹洛干は在位九年、二十四歳で亡くなった(四一七年、 『資治通鑑』巻一一八) 。乞伏熾磐は、樹洛 干 の 死 去 を 聞 く と 喜 ん で 言った。 「こ の 夷 狄 は 強 く 勇 ま し かった。 樹 洛 干 は、 詩 経(小 雅、 漸 漸 之 石) に 歌 わ れ て い る と こ ろ の『白 い 蹄 の 豚』 で あった。 」 樹 洛 干 に は 四 人 の 息 子 が い た。 世 継 ぎ の 拾 虔 が 後 を 継 い だ。 そ の 後、 世 継 ぎ は 絶 えなかっ た )4 ( 。 注 ( 1)鄧禹は、後漢光武帝とは若い頃から親交があった。後漢建国の功臣。 ( 2)『資 治 通 鑑』 巻 九 四、 咸 和 四 年、 吐 谷 渾 王 の 葉 延 の 記 事 に 対 す る 胡 三 省 の 注 は、 「以 王 父 之 字 為 氏」 の 出 典 を『礼 記』 で は な く、 『春 秋 左 氏 伝』 の 次 の よ う な 記 事 を あ げ る。 『左 伝』 魯 衆 仲 曰、 「天 子 建 徳、 因 生 以 賜 姓、 胙 之 土 而 命 之 氏。 諸 侯以字。 」杜預註曰「諸侯之子称公子、公子之子称公孫、公孫之子以王父字為氏。 」 ( 3) 季 孫 と 孟 孫 は 春 秋 時 代 の 魯 国 の 三 家 老 の 二 者 で、 国 の 政 治 を 左 右 し た。 か つ て 斉 の 君 主 が 孔 子 を 政 治 顧 問 と し て、 季 孫 と 孟 孫 の 間 の 待 遇 で 迎 え た い と いった こ と は 有 名 な 話( 『論 語』 子 微) 。 子 陽 は 後 漢 の 公 孫 述 の 字。 王 莽 の 時 代 に 成 都 を 占 領 し て 驕 り 高 ぶった。 馬 援 の 使 者 が 公 孫 述 に 面 会 し て、 「か れ は 井 の 中 の 蛙」 に 過 ぎ な い と 報 告 し た と い う( 『後 漢 書』巻二四馬援伝) 。 ( 4)【吐谷渾王の系図(晋代まで) 】 198
吐谷渾
―
吐延―
葉延―
辟奚―
視連―
視羆―
樹洛干―
拾虔 烏紇堤 焉 耆 ︵ カ ラ シ ャ ー ル ︶ 焉 耆 国 は、 洛 陽 の 西 八 千 二 百 里 に あ る。 そ の 地 の 南 は 尉 犂(コ ル ラ) 、 北 は 烏 孫 と 隣 接 し、 国 土 は 四 百 里 四 方 の 広 さ であった。四方には大きな山があり、道は険阻狭隘で、百人がこれを守備すれば、千人の敵兵でもここを通過すること はできなかった。その国の風俗では、男子は髪を切りそろえ、婦人は襦を着用し、大きな袴をはく。婚姻は中国と同じ である。貨物財利に貪欲であり、姦計や詭計を用いる。王は侍衛の兵士を数十人はべらせているが、兵士はみな傲慢で、 尊卑の礼に欠けている。 武帝の太康年間中(二八〇~二八九)に、国王の龍安が息子を朝廷に派遣して入侍させた。龍安の夫人は獪胡の女性 であったが、妊娠十二ヵ月後に、わき腹を切開して子を産んだ。子の名を會といい、龍安はこの子を世継ぎに立てた。 會 は 幼 い と き か ら、 勇 気 が あった。 龍 安 は 病 で 危 篤 状 態 に な る と 會 に 言った。 「わ た し は 昔、 亀 茲(ク チャ) 王 の 白 山 から辱めを受けた。その事は心に忘れない。この恥を雪ぐことができれば、おまえはわたしの息子である」と。會は即 位すると、亀茲王白山を襲撃して滅ぼし、自分は亀茲国に止まった。息子の熙を本国(焉耆)に帰国させ、焉耆の王に した。會は肝っ玉が太くて計略があり、西方の胡人たちをおさえ、葱嶺(パミール)以東の諸国で會に服従しない国は なかった。しかし會には武勇を恃んで軽率なところがあり、かつて野外で宿営した時、亀茲国人の羅雲に殺された。 その後、前涼の張駿が沙州刺史の楊宣に軍勢を率いて派遣し、西域を統治しようとし、楊宣は部将の張植を先鋒とし、 向かうところを風靡した。前涼の軍勢が焉耆に駐屯すると、熙は賁崙城で敵軍を阻止して戦ったが、張植に敗北した。 南朝正史西戎伝と『魏書』吐谷渾・高昌伝の訳注 199張植は進軍して鉄門に駐屯しようとした。鉄門まであと十餘里というとき、熙もまた軍勢を率いて先回りし、遮留谷で 張 植 を 待 ち 伏 せ た。 張 植 が ちょう ど 遮 留 谷 に 到 達 し よ う と し た と き、 あ る も の が 言った。 「漢 の 高 祖 は 柏 人 で 宿 泊 す る ことを恐れてこれを避け、後漢の岑彭は彭亡に陣を築いて死にまし た )1 ( 。いま、谷の名前は遮留(さえぎり留める)とい い、 い か に も 不 吉 で す。 伏 兵 が い る の で は な い で しょう か。 」 張 植 が 単 騎 で 遮 留 谷 を さ ぐ る と、 果 た し て 熙 の 伏 兵 が 出 撃してきた。張植は軍勢を出動させて熙の軍を打ち破り、さらに進撃して尉犂を占領した。熙は配下の四万の兵を率い、 肌ぬぎになって、半身を裸にし(肉袒) 、楊宣に降伏した。 そののち、前秦将軍の呂光が西域を討伐したとき、熙もまた呂光に降伏した(三八三年) 。呂光が王位を僭称すると、 熙もまた呂光のもとに息子を入侍させた。 注 ( 1) 漢 の 高 祖 劉 邦 は、 あ る と き 河 北 省 の 柏 人 で 宿 泊 し よ う と し た が、 柏 人 で は 貫 高 が 劉 邦 暗 殺 を 企 て て い た。 こ の と き 劉 邦 は「柏 人 = 人 に 迫 る」 と い う 言 葉 を 不 吉 に 思 い、 柏 人 で の 宿 泊 を 取 り や め た( 『史 記』 巻 八 九 張 耳 伝) 。 後 漢 の 岑 彭 は 彭 亡 で 陣 地 を 築 い た と き、 「彭 亡 = 彭 を 亡 ぼ す」 と い う 言 葉 を 不 吉 だ と 思った が、 そ の ま ま 彭 亡 に 留 ま り、 刺 客 に 殺 さ れ た( 『後漢書』巻一七岑彭伝) 。 亀 茲 ︵ ク チ ャ ︶ 亀茲は、洛陽の西、八千二百八十里のところにあった。その国の風俗として、人びとは城郭に居住する。城は三重の 城壁を持ち、城壁の中に仏塔や廟が千箇所あった。人々は農業と牧畜をなりわいとし、男女はみな前髪を切り、うしろ 髪を項(うなじ)に垂らしていた。王宮は壮麗で、光り輝くさまは、さながら神殿のようであった。 200
武 帝 の 太 康 年 間 中(二 八 〇~二 八 九) に、 亀 茲 王 は 子 供 を 入 侍 さ せ た。 恵 帝・ 懐 帝 の 末(三 一 〇 年 頃) 、 中 国 が 混 乱 したため、亀茲は前涼王の張重華(三四六~五三)のもとに使者を派遣し、特産物を献上した。前秦の苻堅のとき、将 軍の呂光に七万の軍勢を率いさせて討伐させたが、亀茲王の白純は国境で呂光を阻止し、降伏しなかった。しかし、呂 光は軍を進め、亀茲を平定し た )1 ( 。 注 ( 1) 呂 光 の 西 域 遠 征 に つ い て は、 『晋 書』 巻 一 二二「呂 光 伝」 に 詳 細 な 記 載 が あ る。 ま た『資 治 通 鑑』 巻 一 〇 四~一 〇 六 に も 同 様 な 記 事 が、 年 月 ご と に 分 か れ て 採 録 さ れ て い る。 そ れ に よ る と、 前 秦 王 の 苻 堅 は 華 北 を 統 一 し た 後、 西 域 支 配 を 意 図 し て、 驍 騎 将 軍 の 呂 光 に 総 兵 七 万、 鉄 騎 五 千 を 率 い さ せ、 鄯 善 王 お よ び 車 師 前 部(ト ル ファン) 王 を 道 案 内 に し て 西 域(焉 耆、 亀 茲) 遠 征 に 向 か わ せ た(三 八 三 年 正 月、 長 安 出 発) 。 な お、 『晋 書』 巻 九 五「鳩 摩 羅 什 伝」 に よ れ ば、 苻 堅 は 呂 光 に 対 し て「も し 亀 茲(ク チャ) に お い て 鳩 摩 羅 什 を 手 に 入 れ た な ら ば、 直 ち に 駅 馬 を 馳 せ て 送 り と ど け よ(若 獲 羅 什、 即 馳 駅 送 之) 」 と 命 じ て い る。 西 域 の 名 僧、 鳩 摩 羅 什 の 獲 得 も、 遠 征 の 重 要 な 目 的 の ひ と つ で あった。 呂 光 は 敦 煌 か ら 沙 漠 を 渡 り、 三 八 三 年 十 二 月 に は、 焉 耆(カ ラ シャール) を 攻 撃 し、 降 伏 さ せ て い る。 亀 茲 国 王 の 白(帛) 純 は 激 し く 抵 抗 し、 周 辺 諸 国 に 救 援 を 求 め た。 亀 茲 の 西 に い た 遊 牧 民 族 の 獪 胡 が 騎 馬 兵 二 十 余 万 を、 温 宿、 尉 頭 諸 国 ら は 七 十 余 万 の 兵 を 派 遣 し て 亀 茲 を 救 援 し た。 数 の 上 で 劣 勢 に 立った 呂 光 は 密 集 戦 法(勾 鎖 之 法) を とって、 敵 陣 の 一 角 を 突 破 す る こ と に 成 功 し た。 白 純 は 城 を 棄 て て 出 奔 し、 亀 茲 城 は 陥 落 し た(三 八 四 年 七 月) 。 呂 光 は 城 内 に 入って 目 を 見 張っ た。 そ の 宮 殿 の 壮 麗 さ は、 長 安 に 引 け を 取 ら な かった。 亀 茲 国 の 豊 か さ に 魅 せ ら れ、 呂 光 は そ こ に 居 座 る こ と を 考 え た が、 鳩 摩 羅 什 か ら「こ こ は 留 ま る べ き と こ ろ で は な い」 と 諭 さ れ、 帰 途 に つ い た。 し か し そ の 途 上、 苻 堅 が 後 秦 王 の 姚 萇 に よって 殺 害 さ れ た こ と を 聞 き(三 八 五 年 八 月) 、 姑 蔵(武 威) に と ど ま り、 独 立 し た。 三 九 六 年 に は、 自 ら 天 王 を 名 南朝正史西戎伝と『魏書』吐谷渾・高昌伝の訳注 201
のって、 大 涼(後 涼) を 建 国 し た。 呂 光 は 間 も な く 病 没 し た(三 九 九 年) 。 鳩 摩 羅 什 は 呂 光 父 子 に 拘 束 さ れ た ま ま、 長 年、 姑 蔵 に 留 め ら れ た が、 四 〇 一 年 に なって、 後 秦 王 の 姚 興 が 後 涼 王 呂 隆 を 降 伏 さ せ、 鳩 摩 羅 什 を 長 安 に 迎 え 入 れ た( 『出 三 蔵記集』巻十四、 『高僧伝』巻二、鳩摩羅什伝) 。 大 宛 ︵ フ ェ ル ガ ナ ︶ 大宛は、洛陽の西一万三千三百五十里にあり、南は大月氏(クシャン朝)に至り、北は康居(サマルカンド)と隣接 していた。大小の城が七十あまりある。その土地は稲と麦の栽培に適し、ブドウ酒をつくる。良馬が多く、馬は血の汗 を流して走る。その国の人々はみな、彫りの深い顔立ちで、あご髭が濃い。その国の風俗では、妻を娶る時、最初に金 製の婚約指輪を贈り、その後に結婚する。また、三人の婢(下女)に試し、その男に性的能力がないとわかれば、婚約 は破棄される。姦通して生まれた子供は、その母親が卑しまれる。乗馬する場合、人と馬との相性が合わず、乗り手が 落馬して死んだときは、その馬の持ち主が葬儀の棺を用意する。国人は商売が巧みで、わずかな利益をも争う。中国か ら金銀を入手すると、すぐに器物につくりかえ、貨幣をつくることはなかった。 太 康 六 年(二 八 五) 、 武 帝 は 楊 顥 を 大 宛 に 派 遣 し、 王 の 藍 庾 を 大 宛 王 に 任 命 し た。 藍 庾 が 死 没 す る と、 息 子 の 摩 之 が 即位し、使者を派遣して汗血馬を献上した。 康 居 ︵ サ マ ル カ ン ド ︶ 康 居 は 大 宛 の 西 北 お よ そ 二 千 里 の と こ ろ に あ り、 粟 弋(ソ グ ド) 、 伊 列 と 隣 接 す る。 王 は 蘇 薤 城 に 住 む。 風 俗、 人 の 容貌、衣服は大宛と同じである。その土地は温暖で、桐・柳・葡萄が多く育ち、牛と羊が多く、良馬を産出する。泰始 202
年間中(二六五~二七四) 、王の那鼻が使者を派遣し、天子に封事(密封した書簡)を奉り、あわせて駿馬を献上した。 大 秦 ︵ ロ ー マ ︶ 大秦 は )1 ( 、またの名を犂鞬といい、西海(インド洋・地中海)の西にある。その地は東西南北がそれぞれ数千里であっ た。都城があり、その城の周囲はおよそ百里であった。家屋はみな珊瑚でうだつがつくられ、瑠璃で壁がつくられ、水 精で柱の基礎がつくられていた。王は五つの宮殿を有し、宮殿はそれぞれ互いに十里ずつ離れていた。毎朝、一つの宮 殿で訴訟を聞き、終わるとまた次の宮殿に移る。もし国に災厄や異変があると、すぐに賢人を擁立して、それまでの王 を放逐したが、放逐された旧王もまた、これを決して恨まなかった。役所には帳簿があり、文字は胡書と同じ。また白 蓋の小車、旌旗のたぐい、郵便駅伝制は、まったく中国と同じである。この国の人々は長身で大きく、容貌は中国人に 似るが、胡服を着用する。その国は、金や玉の宝物、明珠、大貝を多く産出し、夜光璧、駭鷄犀、火浣布がある。また、 金 縷(金 糸) で 刺 繍 を 刺 し、 錦 縷(錦 の 糸) で 罽(毛 織 の 敷 物) を 織 る。 金 や 銀 で 貨 幣 を つ く り、 銀 銭 は 金 銭 の 十 分 の一に相当する。安息(パルティア)や天竺(インド)の人と海の中で交易し、百倍の利益をあげる。隣国の使者が到 来すると、すぐに金銭を支給する。大秦に至るには途中、大海を渡らねばならず、海水は塩からく、にがくて飲むこと はできない。客商たちは往来に三年分の食糧を携えねばならないので、往来する者は少ない。 漢代に、西域都護の班超が部下の甘英を大秦国(ローマ)へ派遣したことがあったが、甘英が船に乗ろうとした時、 船 頭 が 告 げ た。 「海 に は 魅 惑 す る も の が お り、 人 は み な ホーム シック に か か る。 漢 の 使 者 よ、 も し あ な た が 父 母 妻 子 に な ん の 未 練 が な い な ら ば、 ど う ぞ お 乗 り く だ さ い」 と。 甘 英 は 海 を 渡 る の を あ き ら め た。 武 帝 の 太 康 年 間 中(二 八 〇 ~二八九) 、大秦王は使者を派遣して、朝貢してきた。 南朝正史西戎伝と『魏書』吐谷渾・高昌伝の訳注 203
注 ( 1) こ の 大 秦 伝 の 内 容 は、 ほ ぼ『後 漢 書』 巻 八 八 西 域 伝、 「大 秦 伝」 に も と づ き、 甘 英 の 旅 行 に つ い て は「安 息 伝」 か ら 採 用している。 ﹃ 宋 書 ﹄ 巻 九 十 六 、 鮮 卑 吐 谷 渾 伝 吐 谷 渾 ︵ と よ く こ ん ︶ 阿柴 虜 )1 ( の吐谷渾は遼東の鮮卑族である。父の弈洛韓には二人の息子があり、長男を吐谷渾、次男を若洛廆といった。 若洛廆は別に慕容氏をなした。吐谷渾は妾腹の長男、若洛廆は嫡男であった。父親は在世中、七百戸を分けて吐谷渾に 与えた。吐谷渾と若洛廆の二部落は、ともに馬を放牧していたが、馬が闘って互いに傷つけあったので、若洛廆は怒り、 吐 谷 渾 に 手 紙 を 送って 言った。 「先 王 は 部 落 を 処 分 し て、 兄 上 に 異 な る 部 落 を 与 え ら れ た。 な ぜ 馬 の 放 牧 を 遠 く で 行 わ ず、 馬 同 士 が 闘 争 し て 互 い に 傷 つ け あ う よ う な 事 態 に 至 ら せ た の か?」 吐 谷 渾 は こ れ に 対 し て 言った。 「馬 は 畜 生 に す ぎない。馬は草を食べ、水を飲み、春の気配を感じて活動し、闘いに及んだのだ。闘いは馬の問題なのに、なぜ、その 怒りが人に及ぶのか? そむき別れることは非常にたやすい。いま、おまえのもとを去って、万里のかなたに移り住も う。 」 吐 谷 渾 は そ こ で 馬 を 率 い て 西 に 向 か い、 一 日 に 一 頓 進 ん だ。 頓 と い う の は 八 十 里 で あ る。 吐 谷 渾 が 数 頓 を へ た 頃に若洛廆は後悔し、ひどく自分を責めて、昔の父老や長史の乙那楼に吐谷渾を追わせ、吐谷渾を帰国させようとした。 204
し か し 吐 谷 渾 は、 「我々は 父 祖 以 来、 徳 を 遼 右 に 立 て て い た。 ま た 占 い の 予 言 に よ れ ば、 先 王 は 二 人 の 子 を 持 ち、 幸 い はともに子孫に伝わるという。私は卑しい庶子であり、道理として二人が並び立って盛大となることはむずかしい。い ま馬によって別れることになったのは、天の啓示するところであろう。諸君はためしに馬を率いて東に向かわせよ。も し 馬 が 東 に 帰った ら、 私 は そ れ に 従って 東 に 戻 ろ う」 と 言った。 乙 那 楼 は 喜 ん で 拝 礼 し、 「可 汗 の 仰 せ に し た が い ま す (処可寒) 」と言った。夷狄の「処可寒」という言葉は、宋の言葉では「爾官家」という意味である。乙那楼は自分が従 えてきた二千騎で吐谷渾の馬の群れを遮り、方向転換させた。しかし三百歩も行かないうちに、馬はいなないて突然走 り出した。その声は山を崩すような大声であった。このようなことを十数回試したが、いずれも馬はすぐに向きを変え て 遠 方 に 行って し まった。 乙 那 楼 は 根 負 け し て、 跪 い て 言った。 「可 寒(可 汗) よ。 こ れ は も う 人 事 の な せ る わ ざ で は ご ざ い ま せ ん。 」 吐 谷 渾 は そ こ で 部 落 の 民 に 言った。 「我々の 兄 弟 や 子 孫 は、 と も に 繁 栄 を 享 受 で き よ う。 若 洛 廆 は きっと子供と曾孫・玄孫に、その繁栄を伝えるだろう。その間、百年あまり。私の場合は玄孫の代になって、栄え始め る だ ろ う。 」 以 上 の よ う な 理 由 で 吐 谷 渾 は 西 に 移 動 し、 陰 山 に 到 達 し た。 吐 谷 渾 は 晋 の 混 乱(永 嘉 の 乱) に 遭 遇 し、 ついに隴山を越えることができた。この後、若洛廆は吐谷渾を追想して「阿干の歌」をつくった。鮮卑のことばでは、 兄のことを「阿干」と呼んだ。若洛廆の子孫が帝王を僭称したとき、この歌を「輦後大曲」とした。 吐谷渾は隴山を越えると、罕幵と西零に出た。西零はいまの西平郡、罕幵はいまの枹罕縣である。枹罕より東の千餘 里は甘松に及び、西は河南に至り、南は昴城、龍涸を境界とした。洮水の西南から白蘭にまで達する数千里以内で、水 と草を追い求め、テントに暮らし、肉や乳製品を食糧として生活した。西北の諸族はこれを阿柴虜と呼んだ。 吐谷渾は七十二歳で死去し、六十人の息子をのこした。長男の吐延が後を継いだ。吐延は身長が七尺八寸あり、膂力 は人よりも優れていて、性格は凶暴だった。昴城の羌の族長姜聡に殺された。吐延は、剣がまだ体内に刺さっている時 南朝正史西戎伝と『魏書』吐谷渾・高昌伝の訳注 205
に息子の葉延を呼び、大将の絶抜渥に語って言った。 「私が絶命したら、棺に遺体を納め、 (葬儀が)終わったら、すぐ に遠方に移動して白蘭を保て。白蘭の地は険阻で、またその住民は惰弱だから統御しやすい。葉延は幼いので、気持ち としては他のものに王位を授けたいのだが、おそらく、この緊急事態ではとても統御することはできないだろう。いま、 葉延をおまえに預ける。おまえは股肱の力を尽くしてこれを補佐しろ。この幼児が王位に就くことができれば、わしに は 何 の 恨 み も な い。 」 そ う 言 う と 吐 延 は 剣 を 引 き ぬ い て 死 ん だ。 吐 延 は 位 を 継 承 し て 十 三 年、 三 十 五 歳 で あった。 吐 延 には息子が十二人いた。 葉延は幼い頃から勇敢で、十歳の時、草を縛って人のかたちをつくり、これを姜聡と名づけて毎朝、これを的にして 射た。矢が命中すると喜び、命中しないと大声で泣いた。母親が「賊への復讐は諸将がすでに行い、姜聡は殺されてな ますにされました。おまえは幼いのに、なぜ毎朝、このように思い煩うのか」と言うと、葉延は嗚咽をこらえきれず母 親にこたえて言った。 「私もこれが無益なことはよく知っております。しかし心の奥底では(罔極之心) 、私はこの痛み に 耐 え る こ と が で き な い の で す。 」 葉 延 は と て も 親 孝 行 で、 母 親 が 病 気 で 三 日 間 食 事 が で き な かった 時 に は、 葉 延 も ま た食事をしなかった。葉延は書伝をよく読み、曽祖父の弈洛韓が曹氏の魏王朝から初めて昌黎公に封じられたと考え、 「私 は 公 孫 の 子 で あ る。 礼 記 に よ れ ば、 公 孫 の 子 は 父 親 の 字 を 氏 と す る こ と が で き る の だ」 と 言って 吐 谷 渾 の 名 を 氏 姓 とするよう命令した。位を継いでから二十三年、三十三歳で亡くなった。四人の息子がいた。 長男の碎〔辟〕奚が即位した。碎奚は性格が廉直で、三人の弟が専横であった。碎奚は制御することができなかった ので、諸将がともに謀って三弟を誅殺した。碎奚は憂い悲しんで、二度と政務をとれなくなった。そこで息子の視連が 立 て ら れ て 世 継 ぎ と な り、 政 治 を 任 さ れ て「莫 賀 郎」 と 呼 ば れ た。 「莫 賀」 は 宋 の 言 葉 で 父 を 意 味 す る。 碎 奚 は 憂 い が 高じて亡くなった。在位は二十五年、年齢は四十二歳であった。六人の息子がいた。息子の視連は父親が憂悶のために 206
亡くなったので、遊びや娯楽をたしなまず、酒宴も行わなかった。在位十五年、四十二歳で亡くなった。視連には息子 が二人おり、長男が視羆、次男が烏紇提〔堤〕といった。視羆は王位を継承すること十一年で、四十二歳で亡くなった。 息子の樹洛干たちはみな幼少であったので、弟の烏紇提が即位した。烏紇提は在位八年、三十五歳で死んだ。視羆の息 子樹洛干が、烏紇提の後を継いで即位し、自ら車騎将軍を称した。義熙初年(四〇五年)のことである。 樹洛干が亡くなると、弟の阿犲〔豺〕は自ら驃騎将軍を称した。譙縦(後蜀)が蜀を乱した時、阿犲は従子の西彊公 の 吐 谷 渾 敇 来 泥 を 派 遣 し て 領 地 を 開 拓 さ せ、 龍 涸、 平 康 に 達 し た。 少 帝 の 景 平 年 間 中(四 二 三) 、 阿 犲 は 宋 に 遣 使 し て 上 表 し、 特 産 物 を 献 上 し た。 そ こ で、 少 帝 は 阿 犲 に 勅 書 を 下 し て 言った。 「吐 谷 渾 の 阿 犲 は 辺 境 に 介 在 し て い る が、 義を慕うことは喜ぶべきことである。阿犲を寵任するのがよかろう。いま吐谷渾の来朝にむくい、 (都)督塞表諸軍事、 安 西 将 軍、 沙 州 刺 史、 澆 河 公 を 授 け る こ と を 許 可 す る。 」 宋 朝 か ら 爵 位 を 拝 受 し な い 間 に、 宋 で は 太 祖 文 帝 が 即 位 し、 その元嘉三年(四二六)に文帝が再び勅書を下し、阿犲を官職に任命した。しかし勅書が届く前に阿犲は亡くなり、弟 の慕 璝 が即位した。 元嘉六年(四二九) 、慕 璝 は宋の文帝に上表して言った。 「大宋は天の機運にあたり、四方の夷狄は宋王朝を心のより どころに致しております。臣の亡兄阿犲は、宋王朝の義を慕い、宋朝に対する愛着の念は非常に強いものでした。昨年 七月五日、謁者の董湛が至り、明詔を宣伝し、栄爵を授けてくれました。しかし臣は家族に不幸があり、兄が亡くなり ました。臣は惰弱ですが、兄の遺業を受け継ぐことになりました。宋王朝の恩寵は、本来わが一族に対して与えられた ものであり、もし任官を返上することになれば、宋王朝の信命が途絶えるのではないかと恐れます。臣は、宋王朝から の寵任を拝受し、陛下の思し召しを奉って従います。どうかよく考査のうえ、もう一度私宛に任命書をお授け下さいま すよう伏してお願い申しあげます。 」 南朝正史西戎伝と『魏書』吐谷渾・高昌伝の訳注 207
元嘉七年(四三〇) 、文帝は詔をして言った。 「吐谷渾の慕 璝 兄弟は義を慕い、その至誠は喜ぶべきものである。慕 璝 に 爵 位 を 授 け て、 そ の 忠 誠 心 と 愛 情 を 教 え 導 く の が よ い。 慕 璝 を、 (都) 督 塞 表 諸 軍 事、 征 西 将 軍、 沙 州 刺 史、 隴 西 公 に任命することを許可する。 」 これより以前の晋末、金城の東の允街縣の胡人乞伏乾帰(西秦王、三八五~四三一)が、部衆を率いて洮河と罕幵を 占拠して自ら隴西公を号した。乾帰が亡くなると、息子の熾磐が即位し、晋に遣使して帰順した。晋は熾磐を使持節、 都督河西諸軍事、平西将軍とした。隴西公の称号は、そのままであった。宋の高祖武帝が即位すると、熾磐の官職を進 めて安西大将軍となした。熾磐が亡くなると、息子の茂蔓が即位した。慕 璝 がしばしば軍隊を派遣して茂蔓を攻撃した の で、 茂 蔓 は 部 落 を 率 い て 東 に 移 動 し て 隴 右 に 走った。 そ こ で 慕 璝 は 洮 河 を 占 拠 し た。 こ の 年、 赫 連 定 が 長 安 で 北 魏 (索 虜) の 太 武 帝(拓 跋 燾) に 攻 撃 さ れ、 秦 の 戸 口 十 餘 万 を 率 い て 西 に 移 動 し て 罕 幵 に 達 し た。 赫 連 定 は 涼 州 に 向 か お うとしたが、慕 璝 がこれを迎撃し、大いに打ち破り、赫連定を生け捕りにした。北魏太武帝が、慕 璝 に使者を派遣して 赫連定の身柄を求めてきたので、慕 璝 は定を太武帝に献上した。 元 嘉 九 年(四 三 二) 、 慕 璝 は 宋 朝 に 司 馬 の 趙 敍 を 派 遣 し て 朝 貢 し、 同 時 に、 二 万 人 の 捕 虜 を 献 上 す る と 言った。 こ れ に対し、太祖文帝は、褒美として慕 璝 の官職に使持節、散騎常侍、都督西秦・河・沙三州諸軍事、征西大将軍、西秦・ 河二州刺史、領護羌校尉を加え、爵位を隴西王に進めた。文帝はまた、弟の慕延を平東将軍、慕 璝 の兄樹洛干の息子拾 寅を平北将軍、阿犲の息子煒代を鎮軍将軍となした。さらに文帝は慕 璝 に詔をくだし、南朝の将兵で、かつて赫連勃勃 に捕まった者たちをみなことごとく宋へ送致させた。慕 璝 は朱昕之ら五十五戸、一五四人を宋に護送した。 慕 璝 が 亡 く な る と、 弟 の 慕 延 が 即 位 し、 宋 に 遣 使 し て 上 表 を 奉った。 元 嘉 十 五 年(四 三 八) 、 慕 延 を 使 持 節、 散 騎 常 侍、 都 督 西 秦・ 河・ 沙 三 州 諸 軍 事、 鎮 西 大 将 軍、 領 護 羌 校 尉、 西 秦・ 河 二 州 刺 史、 隴 西 王 に 任 命 し た。 元 嘉 十 六 年 208
(四三九) 、慕延を改めて河南王に封じた。その年、拾虔の弟の拾寅を平西将軍、慕延の庶出の長男繁暱を撫軍将軍、慕 延 の 嫡 子 瑍 を 左 将 軍、 河 南 王 世 子 と な し た。 元 嘉 十 九 年(四 四 二) 、 阿 犲 に 対 し て 生 前 に 帯 び て い た 称 号、 安 西・ 秦・ 沙三州諸軍事、沙州刺史、領護羌校尉、隴西王を死者への官位として追贈した。北魏の太武帝(索虜の拓跋燾)は軍勢 を派遣して慕延を撃ち、大いに打ち破ったので、慕延は部落を率いて西に移動し、白蘭に走り、于闐国(ホータン)を 攻め破った。慕延は、北魏がまた到来することを恐れ、元嘉二十七年(四五〇) 、宋に遣使して上表し、 「もし吐谷渾が 安定しない場合には、部落を率いて龍涸、越嶲に入りたいと思います」と言った。慕延はまた、文帝に牽車を要求し、 烏丸帽、女国の金酒器、胡王の金の腕輪などを献上した。文帝は慕延に牽車を下賜し、もし北魏が到来して吐谷渾が自 立できない時には、越嶲に入ることを許可した。しかし北魏は到来しなかった。 慕延が亡くなると、拾寅が自ら即位した。元嘉二十九年(四五二) 、文帝は拾寅を使持節、 (都)督西秦・河・沙三州 諸軍事、安西将軍、領護羌校尉、西秦・河二州刺史、河南王に任命した。拾寅は東方において、北魏を打ち破ったので、 文 帝 は 拾 寅 に 開 府 儀 同 三 司 を 加 え た。 世 祖 孝 武 帝 の 大 明 五 年(四 六 一) 、 拾 寅 は 遣 使 し て 善 舞 馬 と 四 角 羊 を 献 上 し た。 皇 太 子、 王 公 以 下 が、 舞 馬 歌 を 献 上 し、 そ の 数 は 二 十 七 首 に 達 し た。 太 宗 明 帝 の 泰 始 三 年(四 六 七) 、 拾 寅 を 征 西 大 将 軍に進めた。泰始五年(四六九) 、拾寅は明帝に上表を奉り、特産品を献上した。そこで明帝は、弟の拾皮を平西将軍、 金城公とした。前廃帝はまた、拾寅を車騎大将軍に進めた。 吐谷渾の国の西方には黄砂があり、その広さは南北百二十里、東西が七十里で、草木が生えない。沙州という名は、 この黄砂に由来する。屈真川には塩地があり、甘谷嶺の北には雀鼠が同居するという穴があった。その穴は山嶺、ある いは平地に存在する。雀の色は白、鼠の色は黄色で、地面に黄紫色の草花が生えている場所に、雀鼠同穴がみられる。 白蘭の地は黄金、銅、鉄を産出する。吐谷渾は水と草を求めて移動するが、たいていは慕賀川流域にその中心がある。 南朝正史西戎伝と『魏書』吐谷渾・高昌伝の訳注 209
史臣がいう。吐谷渾は草地をもとめて移動し、泉池に水をもとめ、塞外の地で勢力を振るう。毛皮を衣とし、肉を食 する。狩猟と牧畜とで生計を立て、錦組繒紈(絹製品)は珍貴、特別な品とみる。ただ、商人、通訳が往来するので、 北 面 し て 天 子 に 拝 す る 礼 儀 は 中 国 に 同 じ で あ る。 昔 か ら、 明 哲 の 王 は 遠 方 の 人 び と を 懐 柔 す る 志 が あ る と い う が、 要 服・荒服という遠隔の地は回避した。そこは礼儀、文化が及ばず、その王への班爵はせいぜい子爵にとどまった。その ことは『春秋』に記される。 晋と宋とは法典を制定し、古典に記された制度に則らず、ついに吐谷渾王に公の爵位(公侯伯子男の最上級)を授け、 官位秩品は台光(三公)に等しくした。かれらは辮髪して朝廷に参賀し、簪冕を尊重せず、言語は通ぜず、どうしてか れらに天子の政治を敷きひろめることができようか。また吐谷渾から朝貢の品物を入れた包や篭が毎年朝廷に届くが、 本心は交易が目的である。かれらが献上する金・罽・毛氈・毦(羽毛)は緊急の品ではない。使節の送迎は煩雑であり、 得るものより、失うもののほうが多い。粛愼(東北の民族)を毎年朝貢させ、越裳(ヴェトナムの古代民族)を毎年饗 応する類である。邪見を書きしるして、古典の記述を低めることはできない。聖人がかれらの地を荒服と見なしたこと は、確かにそれなりの理由があったのである。 注 ( 1) 阿 柴 虜 の 呼 称 に つ い て。 吐 谷 渾 を さ げ す ん で「阿 柴 の 虜」 と 呼 ぶ こ と は、 『宋 書』 本 伝 の ほ か、 『南 斉 書』 河 南 伝 の 「(阿) 貲 虜」 、『晋 書』 吐 谷 渾 の「阿 柴 虜」 「野 虜」 に も 見 え る。 北 朝 系 史 料 の『魏 書』 、『北 史』 吐 谷 渾 伝 に は「西 北 諸 雑 種 謂 之 阿 柴 虜」 と あ る が、 『晋 書』 と 同 文 な の で、 『魏 書』 吐 谷 渾 伝 の 原 本 に 本 来 存 在 し た 文 章 で あ る か ど う か 疑 問 で あ る。 な お、 「阿 柴(ア シャ) 」 の 呼 称 は 吐 蕃(古 代 チ ベット 王 国) が もっぱ ら 吐 谷 渾 を 呼 ぶ 名 称 と し て 使 用 し た。 も う 一 つ の 問 題 と し て、 「阿 柴」 の 名 称 の 由 来 が 吐 谷 渾 王 の「阿 犲(豺) 」 で あ る か ど う か。 阿 豺(在 位 四 一 七~四 二 六 年) は 210
吐 谷 渾 の 勢 力 を 拡 大 し、 宋 朝 か ら 安 西 将 軍、 沙 州 刺 史、 澆 河 公 の 爵 位 称 号 を 受 け て お り、 吐 谷 渾 が そ の 王 名 に よって 広 く 知 ら れ る よ う に なった 可 能 性 は あ る。 し か し 確 証 は な い。 (清・ 丁 謙「宋 書 夷 貊 伝 地 理 考 証」 、 Pelliot 1912 : 520-23, Pelliot 1921 : 321-25, Molé 1970 : 73-75, note 22, 佐藤長一九五八:二四八、二六四参照。 ) ﹃ 南 斉 書 ﹄ 巻 五 十 九 、 河 南 伝 河 南 ︵ 吐 谷 渾 ︹ と よ く こ ん ︺︶ 河南は、匈奴の種族である。後漢の建武年間中(二五~五六)に、匈奴の奴婢が涼州の境界に逃亡し隠れ住んだ。そ の数は雑多種族の数千人であった。匈奴は奴婢を貲と名づけ、また「貲虜」とも呼んだ( 『魏略』西戎 伝 )1 ( )。鮮卑の慕容 廆の妾腹の兄吐谷渾は、氐族の王となった。吐谷渾は、益州の西北、数千里にわたる地に住んだ。その南の境界の龍涸 城は、成都を去ること千餘里であった。大きな駐屯地が四つあり、一つは清水川、一つは赤水、一つは澆河、一つは吐 屈真川にあり、みな王族の子弟がこれを治めていた。王は慕駕川で統治した。家畜が多く、水と草を追い求めて移動し、 城 郭 を 持 た な かった。 後 に 次 第 に 宮 殿 を つ く る よ う に なった が、 そ れ で も 人 民 は、 な お 毛 織 の テ ン ト や 百 子 帳 を 行 屋 (移 動 式 の 家 屋) と し た。 そ の 地 は 常 に 風 が 強 く て 寒 く、 人 は 砂 漠 の 平 原 を 行 く が、 砂 風 が 飛 来 す る と、 足 跡(道) は みなかき消されてしまう。土地が肥沃なところでは、雀と鼠が同じ穴に住み、黄紫の花が生える( 『宋書』吐谷渾伝) 。 しかし痩せた土地ではしばしば毒熱のガス(瘴気)が発生し、人を気絶させ、牛や馬はこのガスを吸うと、疲れて汗を 南朝正史西戎伝と『魏書』吐谷渾・高昌伝の訳注 211
かき、進むことができなくなる。 宋朝の初年、吐谷渾ははじめて爵位と官職を授かった。宋朝末年に、河南王の吐谷渾拾寅は、使持節、散騎常侍、都 督西秦・河・沙三州諸軍事、車騎大将軍、開府儀同三司、領護羌校尉、西秦・河二州刺史となった。 建 元 元 年(四 七 九) 、 太 祖 高 帝 は、 拾 寅 の 本 来 の 官 職 を 驃 騎 大 将 軍 に 昇 進 さ せ た。 宋 朝 の 時、 武 衛 将 軍 の 王 世 武 を 河 南に使者として派遣していたが、この年、拾寅の使者が王世 武 )2 ( に従って来朝した。そこで高帝は、勅書を下して言った。 「皇 帝 は、 使 持 節、 散 騎 常 侍、 都 督 西 秦・ 河・ 沙 三 州 諸 軍 事、 車 騎 大 将 軍、 開 府 儀 同 三 司、 領 護 羌 校 尉、 西 秦・ 河 二 州 刺史、新任の驃騎大将軍、河南王に、謹んで安否を問う。当方は王朝が交代し、天命が朕の身にくだり、かたじけなく も大業に当たることになった。慎みと畏れの二重の念から、この夏の時節にますます感情が高まるのを覚える。 王世武が帰国したので、朕は(そなたが宋の後廃帝に宛てた)元徽五年(四七七)五月二十一日付の上表文を受理し た。それを拝見すると、そちらは今むし暑いとのこと、お見舞い申し上げる。また、そなたの誠は非常に著しく、遠方 の辺境地帯を安寧に保っている。今、詔をくだし、そなたの称号を上位に進め、忠義と真心にむくいよう。王世武を派 遣して王命を奉らせ拝授させる。また、王世武らを柔然(芮芮)に行かせたく、そなたが使者たちを助けて、無事目的 地に到達できるよう取り計らってくれることを願う。朕は、そなたが献上した馬などの特産物をすべて受け取った。今 また別牒(別文書)を付けて、錦、深紅・紫・碧・緑・黄・青などの絹織物をそれぞれ十匹送り届けよう。 」 拾寅の息子の易度侯は天文を好み、斉に天文書(星書)を求めたが、朝議した結果、書を与えなかった。拾寅が亡く な る と、 高 帝 は、 建 元 三 年(四 八 一) 、 河 南 王 の 世 継 ぎ の 吐 谷 渾 易 度 侯 を、 使 持 節、 都 督 西 秦・ 河・ 沙 三 州 諸 軍 事、 鎮 西将軍、領護羌校尉、西秦・河二州刺史、河南王とした。永明三年(四八五) 、武帝は勅書をあたえて言った。 「易度侯 は西蕃の職務を守り、民を安んじなつかせ、誠をつむぎ、忠義と功績をともに挙げた。朕はこれを称賛する。ゆえに、 212
称 号 を 車 騎 大 将 軍 に 進 め る。 」 武 帝 は、 給 事 中 の 丘 冠 先 を 河 南 道 に 派 遣 し、 あ わ せ て 柔 然(芮 芮) の 使 者 を 送 り と ど けた。丘冠先は永明六年(四八八)に帰国し、吐谷渾で、長さ三尺二寸、厚さ一尺一寸の玉を得た。 易 度 侯 が 亡 く な る と、 永 明 八 年(四 九 〇) 、 武 帝 は、 易 度 侯 の 世 継 ぎ の 休 留 茂 を 立 て、 使 持 節、 (都) 督 西 秦・ 河・ 沙三州諸軍事、鎮西将軍、領護羌校尉、西秦・河二州刺史とした。武帝はまた、振武将軍の丘冠先を派遣して休留茂に 官職を拝受させ、同時に、易度侯のために弔問の礼を行わせた。しかし丘冠先が河南に至ると、休留茂は先に拝礼する よう丘冠先に迫った。丘冠先は、厳しい顔つきをして、これを承知しなかった。すると休留茂は、国人の前で恥をかい たと考え、丘冠先を険しい岩の上につなぎ、深い谷に突き落として殺害し た )3 ( 。丘冠先の字は道玄といい、呉興の人で、 晋の吏部郎丘傑の六世の孫であった。武帝が初め、丘冠先を尚書令の王倹に示した時、王倹は武帝にこたえて「この人 は、使者の任務にたえない」と言ったが、武帝は丘冠先に対し、再度、王命を奉じさせて河南に派遣した。丘冠先が亡 く な る と、 世 祖 武 帝 は、 息 子 の 雄 に 勅 書 を 下 し て 言った。 「そ な た の 父 は 王 命 を 受 け て 河 南 に 使 い し た が、 忠 義 を 命 が けで守り、王命をはずかしめなかった。朕は、丘冠先の行いを非常に褒めたたえ、かつ惜しむ。丘冠先の遺体は絶域に 失 わ れ、 取 り 戻 す こ と は 二 度 と で き な い け れ ど も、 そ な た の 将 来 の 官 途 は 保 障 し、 十 分 な 恩 恵 を あ た え よ う。 」 そ し て、武帝は雄に銭十万、布三十匹を賜わった。 注 ( 1) 河 南 つ ま り 吐 谷 渾 が 匈 奴 の 種 族 で あ る と す る こ と は 疑 問 で あ る。 『宋 書』 吐 谷 渾 伝 に い う よ う に、 吐 谷 渾 の 出 自 は 遼 東 の 鮮 卑 族(東 モ ン ゴ ル 系 の 民 族) で あ り、 遼 東 か ら 陰 山 山 脈 を 経 て、 隴 西 へ の 大 移 動 は 永 嘉 の 乱(三 〇 七~三 一 三 年) こ ろ で あった。 そ れ を 率 い た の が 初 代 王 の 吐 谷 渾 で あ る。 『南 斉 書』 の 編 者 は、 当 時 吐 谷 渾 が「阿 柴 虜」 と 周 囲 の 人々か ら 呼 ば れ て い た こ と か ら、 『三 国 志』 に 裴 松 之 が 引 用 す る『魏 略』 西 戎 伝 の 中 に、 「貲 虜、 本 匈 奴 也。 匈 奴 名 奴 婢 為 貲」 南朝正史西戎伝と『魏書』吐谷渾・高昌伝の訳注 213