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W. M. ヴォーリズの設計した駒井家住宅をめぐる音楽 ──女学校出身者駒井静江(1890~1973)の音楽実践──

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W. M.

ヴォーリズの設計した駒井家住宅をめぐる音楽

─女学校出身者駒井静江(

1890

1973

)の音楽実践─

The Musical Things Related to the Residence of Komai Planned by W. M. Vories:

A Focus on Komai Shizue, a Graduate of a Girl’s High School

齊 藤 紀 子

Sa i t o Noriko The purpose of this paper is twofold. First, it will demonstrate how Japanese women who have graduated from girls’ high schools live with music. Second, it will present the case of musical prac-tice in the living space.

I surveyed materials (the family newspaper “Danran” and many scores collected in Japan and abroad) on Komai Shizue. She graduated from a girl’s school in Matsuyama and attended Kobe College. Music education at those schools was different from both universal music education in Ja-pan (Shoka) and special education to become a musician or music teacher at Tokyo Academy of Music.

After graduation Shizue gained considerable experience in the world of music. She taught Eng-lish and music at several girls’ high schools. She took piano lessons in New York twice a week, en-joyed listening to numerous concerts, and collected many scores covering baroque, classical, roman-tic, and modern music.

After returning from America, Mr. and Mrs. Komai lived in an American home, which was planned by W. M. Vories (1880-1964), who came from America as an English teacher. They fur-nished the living room with a piano and a bench, which made it possible to have four-hand perfor-mances. While she led an active life, for example, she travelled to Tokyo and abroad, served at

Kyo-fukai (Japan Christian Women’s Organization, 1886-), which included musical programs at regular meetings and congresses, she still enjoyed playing the piano.

In Japan, the existence of pianos at home was often considered a status symbol of the middle class. The case of Shizue suggests the self-disciplined musical experiences by alumni of girls’ high schools. In this framework I intend to bring further depth and add to existing research about the lifelong learning of western music in Japan.

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.はじめに

 1924 年,アメリカはニューヨークで,ベートーヴェン Ludwig van Beethoven(1770~1827)の 《交響曲第 9 番 Sinfonie Nr. 9》 op. 125 の初演 100 周年を記念したコンサートを楽しみにし,実際に 聴きに行った日本人女性がいる。遺伝生物学者の夫,駒井卓(1886~1972)に伴って渡米し,約 2 年 ニューヨークに滞在する間,週に 2 回ピアノのレッスンにも通った。ロシアやポーランドにゆかりのあ るピアニストの演奏を好み,ラフマニノフ Sergei Vasilevich Rakhmaninov(1873~1943)が自作の

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プレリュード(おそらく《幻想的小品集 Morceaux de fantaisie》) op. 3 の第 2 番,嬰ハ短調)を演奏 する様子に感動した。香川県に生まれ,愛媛県の私立松山女学校(1886~,現,松山東雲中学校・ 高等学校)や兵庫県の神戸女学院(1875~)に学び,両校と兵庫県の日ノ本女学校(1892~,現, 日ノ本学園)で英語や音楽を教えた駒井静江(1890~1973)である。  本稿では,アメリカ,女子教育,洋風住宅の 3 点に着目し,これらと深い関わりのある日本人女 性,駒井静江の暮らしの中の音楽について,関連する一次史料(家族新聞『団欒』や楽譜史料)をも とに詳らかにする。その目的は,義務教育とも音楽の専修課程とも異なる環境,すなわち女学校(と りわけミッションスクール)の(音楽科ではなく)普通科で音楽を学んだ日本人女性の卒業後の暮ら しとそこにとり入れられた音楽について具体的に明らかにすること,そして,コンサートホールのよ うに音楽の演奏を主たる目的としない場である生活空間,住宅(あるいは家庭)のなかで実践された 音楽について明らかにすることの 2 つにある。  20 世紀前半の日本の女学校における演奏実践に関する研究は,これまでにも数多く積み重ねられ てきている。なかでも,駒井静江の出身校神戸女学院の音楽教育について多くの論考を示してきた津 上智実は,「駒井静江と神戸女学院の音楽教育」のなかで,静江がピアノのレッスンを受講していた ことに言及している(津上 2018, 78-79)。また,齊藤は,大阪の楽器商三木楽器の史料をもとに日 本の(高等)女学校へのピアノの納入状況を示したうえで,三木楽器と同じく大阪市内にあるミッ ション系の女学校プール学院(1879~)に焦点をあて,同校の学校史をもとに学内外でのピアノの 使用例を示した(齊藤 2018b)。それによると,プール学院では,開校当初より希望者にピアノの課 外授業が行われており,音楽科教育に限らず,クリスマス・ページェントや記念式典など様々な行事 の進行がグランドピアノによって支えられてきた。ピアノの演奏が慈善活動や学校再建の募金活動に 役立つ場面もあった。台風の被害を受け,学校を再建する際には,本稿で着目する駒井家住宅と同じ

く,ヴォーリズ William Merrell Vories(1880~1964)1)に設計が依頼されている。音楽会を催さず

とも折にふれて音楽が鳴り響いていたプール学院の音楽学習の成果は,生徒のコンクール入賞をはじ め,朝日会館や中央公会堂,(NHK)大阪中央放送局など関西の洋楽普及に貢献した他の施設におい ても披露される機会があり,地域の洋楽文化とも関わりがあった。  こうした先行研究から,日本のピアノ文化の普及に,女学校も主要な役割を果たしたことは明らか である。そこで本調査では,女学校に焦点をあてるのではなく,音楽の専門学校とは異なる場で高度 な音楽知識や技能を身につけた日本人女性がその後,生活のなかでどのように音楽と向き合っていた のか,その内実を探っていく。音楽家ではないけれども音楽の素養のあった日本人について具体的に 明らかにすることは,文献史料調査としては極めて困難である。しかし,筆者が調査する駒井静江に 関しては,生活の場である駒井家住宅に加え,楽譜や音楽に関する紀行文などの音楽史料が保存され ており,例外的にその生涯と音楽について調査することが可能となった。  建築文化史では,日本の洋風住宅は主としてアメリカンホームの影響を受けて広まったとするのが 定説となっているが,その啓蒙過程はピアノの普及と重なりがみられる。齊藤は,「大正・昭和初期 の住宅におけるピアノの普及過程について」のなかで,ピアノが日本で普及するうえで,音楽実践の 場の 1 つである住環境を整えることもまた,乗り越えるべき課題の 1 つであったことを指摘してい る(齊藤 2014, 26)。住宅事情の側においても,食事や睡眠など多機能に使われる和室と異なり,食 1)アメリカから県立高等学校の英語科教員として来日した人物で,後にメンソレータムの販売で知られる近江兄弟社を興し, 日本に帰化している。

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堂・居間・寝室・応接間と目的別に部屋が分けられる洋風住宅を普及させていくうえで,ピアノは, 暖炉やソファなどと共に,最も必要性の伝わりにくかったであろう居間の機能である‘家族団欒’ に 対する理解を視覚的に助ける調度品の 1 つとして位置づけられていた。そして,日本の洋風住宅の 源泉が,建築物としての住宅(house)の構造や製法を説くものではなく,それ自体,家庭(home) をどのような場として築くのかということを重視するアメリカンホームという概念であったこともま た,(従来,説かれてきた家庭音楽論とはまた異なる意味で)日本のピアノの普及を陰で支えていた。  齊藤によると,現存し,「ピアノ(あるいは洋琴)」という語を日本の住宅建築関連書籍に見いだせ る最も古い文献は,駒杵勤治が 1906 年に出版した『和洋建築学』で,客室(洋室)について「一家 貧富の程度は殆んど此室の善惡によりて推知するを得べきを以て各室中最も重要なる室なりとす」と 解説したうえで,「優等なる」住宅の客室には「ピアノ」を備える(駒杵 1906, 87, 91)ものとした (齊藤 2014, 18)。ピアノを備えることを説いた洋風住宅の手引書は他にも多数ある。洋風住宅の啓 蒙活動を先導したといっても過言ではない住宅改良会2)(1917 年発会)の機関誌『住宅』(1916. 8~ 1943. 12)では,1918 年以降,終刊に至るまでの間,居間の調度品の 1 種としてピアノに言及し実 際にピアノを備えた住宅の居間の内装写真が掲載され,間取図にピアノを表す図が書き込まれるなど (住宅改良会 2001-2003),洋式をとり入れた住宅にピアノを備えることが様々な形式で紹介されてい る(齊藤 2014, 18)。  本稿でとりあげる駒井家住宅を設計したヴォーリズも,後述するように『吾家の設計』(1923)と 『吾家の設備』(1924)のなかでピアノに言及している。  家庭音楽に関する先行研究としては,家庭音楽論が西洋音楽の普及を図ることを目的に唱えられ, その実践者として女性とこどもが想定されていると論じた「鳴り響く家庭空間」(周東 2008),明治 政府が国家制度設計にあたってドイツ帝国を参照した時期や都市中間層の台頭による近代家族・家庭 生活が形成される過程と重なることから,家庭音楽論がドイツの影響を受けて興隆したことを論じた 「近代日本における家庭音楽論」(玉川 2017)などが挙げられる。現存する史料の制約などもあり, これまでの研究は言説をもとに概念について述べるものが多かった。それに対して,本稿では,駒井 家住宅を事例に,住宅の内部で実践されたピアノの演奏について具体的に示すとともに,住宅事情と ピアノとの関連を背景にアメリカンホームの文化史にも通じる家庭音楽の一側面を示していく。

2

.駒井静江の生家靑野家と学生時代

 駒井静江は,香川県丸亀の靑野家に 2 男 8 女の次女として生まれた。父兵太郎(1863~1951)は, 商いをする傍ら聖書講読をはじめ,丸亀教会を設立した牧師である。松山在住の宣教師が米国伝道委 員会 American Board of Commissioners for Foreign Missions に送った報告書(以下,「松山宣教師文 書」とする)では,丸亀で積極的に布教活動に取り組む靑野兵太郎について度々言及されている。静 江が松山女学校を卒業し,神戸女学院に進学した 1907 年には,「(松山女学校の)今年の卒業生三人 と昨年の卒業生一人が神戸女学院へ進学」したという記述があり,松山女学校から神戸女学院に進む 者は静江に限らず他にもいたことがわかる(竹田,本山 1999b, 第二部: 99)。  丸亀は,米国伝道委員会松山ステーションの管轄にあり,松山ステーションは神戸ステーションの 2)住宅改良会の会主橋口信助はシアトルでの滞米経験をもとに当時としては珍しい住宅専門の建築会社あめりか屋を東京で 創業している。

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管轄にあった。静江は,1907 年に愛媛県の松山女学校を卒業した後,1909 年に神戸女学院も卒業し た。ここで,丸亀から松山,そして神戸へと歩んで行く静江の生立ちがつながる。そこで,本稿で は,松山教会にまつわる文書に注目する。  『松山教会九十年略史』によると,松山のキリスト教布教活動は,1876 年に米国伝道委員会の宣教 師が神戸から視察に来たことによって始まった。その 6 年後,1882 年に県内の今治教会の日本人伝 道師二宮邦次郎(1860~1926)が松山を訪れ,さらにその 2 年後に家族を伴って松山に移り住み, 定住伝道師となる。こうして,1885 年に松山教会の設立がかなった。初代牧師に就任した二宮邦次 郎は教会設立の翌年,松山女学校を開いてキリスト教主義の女子教育にも力を注いだ(日本基督教団 松山教会 1975, 4-15)。といっても,その実態は二宮の自宅で神戸女学院の 1 人の卒業生が 1 人の生 徒(湯屋の娘)に英語を教えるというものであり,当初は無給であった(私立松山女學校 1926, 9)。 松山女学校は 6 年後の 1891 年には,勤労青年のための松山夜学校も開校した(日本基督教団松山教 会 1975, 20)。  続いて,松山在住の宣教師が本国アメリカの伝道委員会に送った報告書のうち,静江の生家青野家 に関連する部分を示す。それによると,松山ステーションは神戸の管轄下で 1897 年 11 月に開設さ れている(竹田,本山 1999b, 第二部: 7)。先に示した『松山教会九十年略史』と照らし合わせてみ ると,米国伝道委員会として松山ステーションが開設される前から,日本人牧師を中心に教会の開 設,ミッション系女学校の開校準備が進められていたことがわかる。松山女学校には,神戸女学院に

1885年に音楽教員として着任したガニソン Effie Burton Gunnison(1860~1946)が 1889 年より転

任し,1894 年まで英語と音楽を教えていた。ガニソンは,松山女学校着任の翌年,米国の父親を通 して 1000 円以上の寄附を集め,同校の校舎新築に寄与している(竹田,本山 1999a, 第一部: 95)。 この「松山宣教師文書」には,駒井静江の実父靑野兵太郎についての記述もある。次に引用するのは 松山駐在のボストン米国婦人伝道委員会の宣教師ジャジソン Cornelia Judson(1860~1939)が 1906年に同会に送った松山ステーションの報告書である。 長期間,最も困難な活動領域とされていた丸亀でも,[判読不可(各家庭)]を訪問する私たちを 歓迎してくれる人が多くいたのに驚きました。牧師の靑野氏も信心深く,誠実な[判読不可]の 男性です。商いをする傍ら今治教会の勤勉な教会員であった彼は,小[ママ]人数で努力してい る丸亀のキリスト者集団に力を貸すように説得されました。個人的に何年も続けてきた聖書の勉 強と教会で[判読不可]することで身についた訓練を除けば,彼はあまり教育を受けていません が,神を知っており,祈ることを忘れず,しっかりした常識をもって,生まれつき機知に富んで います。彼は丸亀で三年間活動して新たに一七人の者を教会に加え,現在は聖書を学ぶ者も数名 います(竹田,本山 1999a, 第一部: 41-42)  この記述によると,靑野兵太郎は牧師になる前は商人として教会に通い,聖書講読を通してキリス ト教についての知識・理解を深めていったことがわかる。そして,丸亀と高松で布教活動に従事して いた(竹田,本山 1999b, 第二部: 80-81)。兵太郎の積極的な布教活動については,「松山宣教師文 書」のなかでしばしば言及される。「靑野氏が重ねてきた忠実な努力のおかげ」でジャジソンが独力 ではカバーしきれない広範な地域の布教活動ができていること,靑野兵太郎が地域の警察署に招かれ て新年の挨拶をしたこと(1910 年の報告,竹田,本山 1999b, 第二部: 118)などが記録されている。 米国伝道委員会の松山ステーションにとって,隣県をも含む広範な地域に布教していくうえで地域と

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のつながりももつ兵太郎は香川の統括を任せられる存在であったことがうかがえる。こうした地道な 布教活動により,兵太郎が設立した丸亀教会はその建設にかかる借金を完済し,1920 年に新しいオ ルガンの納入へとこぎつけた。この年の「松山宣教師文書」は次のように報告している。 教会建設の借金も全て返済され,三〇〇円する新しいオルガンも購入された。この教会の礼拝は いつも音楽的に優れ,音楽に秀でている牧師の一〇人の子どもが,一人でもここに残っている限 りは音楽の面で困ることはないであろう。一〇人の子どものうち,既に三人は学校の音楽教師と なり,もうすぐ,四人目も東京の上野音楽学校を卒業する予定である(竹田,本山 1999b, 第二 部: 212)  この報告からは,静江の姉妹が音楽を教える力を備えていたことがわかる。次章で引用する家族新 聞『團欒』に掲載された親族の近況報告にも,8 人の姉妹が女学校を卒業後,教職に就いたことが記 録されている。松山の宣教師にまつわる記録からは,丸亀,松山,神戸の 3 つの地域が米国伝道委 員会を中心につながることが明らかとなった。静江がアメリカから帰国した直後の 1926 年に出版さ れた松山女学校創立四十周年記念の学校史には,静江が父と同校の理事を務めていたことが記されて いる(私立松山女學校 1926, 22-23)。  神戸女学院には音楽部もあったが,普通科・専門部を卒業した静江にも学校行事で演奏を披露する 機会があった。同窓会報『めぐみ』には,卒業式で姉の光江が弾くオルガンに合わせてピアノを弾い たこと(執筆者不詳 1913, 55: 23),慈善音楽会で教員(ヒューステッド)と二重唱をしたこと(執 筆者不詳 1921, 1: 17)が記録されている。また,第 1 章でも示したように,神戸女学院の音楽科教 育について多くの論考を示してきた津上によれば,音楽部の学生ではない静江も同校のピアノのレッ スンを受講していた(津上 2018, 78-79)。  静江は卒業後,神戸女学院(1920~1922),松山女学校(1918~1919),日ノ本女学校(1914~ 1919)で英語や音楽を教え,卓と結婚後,ともに渡米した。日ノ本女学校の学園史に,静江が着任 した 1914 年から「学校の陣容はますます充実した」(日ノ本 75 年史編集委員会,日ノ本学園同窓会 1968, 56)と記されている。  駒井卓は,兵庫県の姫路中学校,東京高等師範学校,東京帝国大学理学部を卒業し,1921 年に京 都帝国大学理学部に着任した。その翌年,静江と結婚し,1923 年から約 2 年間,米国ニューヨーク のコロンビア大学の研究所に在籍した。遺伝学で名を馳せた学者で,「京大のダーウィン」(田隈 1990)の異名をとる。  静江は,卓との結婚(1922 年 3 月)を機に教職を退き,自宅でピアノを楽しむ日々を過ごした。 神戸女学院の同窓会報『めぐみ』には,次のように記されている。   (前略)駒井氏と結婚,長い學校生活と離れて,靜かな京の町はづれに樂しく御生活です。夫君 御出勤後はピアノを彈いたり,畑をいぢつてみたり。なかなかいゝ収穫があつたとか(執筆者不 詳 1922, 2: 74)    図 1 に示す写真は,駒井卓が亡くなる前年に長寿の秘訣について語った読売新聞の記事に添えら れたものである。この中で静江は,飲酒も喫煙も嗜まず,読書を好む卓の楽しみは「疲れると私にピ アノをひかせる」ことであると語っている(執筆者不詳 1971, 22)。『めぐみ』と『読売新聞』をあ

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わせて捉えれば,静江が生涯ピアノを弾き続けてい たと考えられる。

3

.ニューヨークでの音楽経験

 本章では,卒業後,卓のアメリカ赴任に伴って ニューヨークで過ごした間3),静江がどのような音 楽経験を積んでいたのか,家族新聞『團欒』のなか で親族に向けて綴られた「アメリカ便り」をもとに 示す。静江の実家靑野家では,駒井夫妻の滞米時 に,親族で近況を報告し合う家族新聞『團欒』を発 行していた。駒井邸を管理する(公益財団法人)日本ナショナルトラストには,『團欒』の創刊号か ら第 8 号まで(1924 年 5 月・8 月・10 月,1925 年 1 月・3 月・5 月・8 月・10 月号)が保管されて いる。編集・印刷・発行は,義弟の竹内成一(1892~1954)が務めた。竹内は,静江の出身校松山 女学校が勤労青年のために開校した松山夜学校で数学の教員をしていた。発刊の辞を引用する。 『團欒』は私共お互の手紙の代りです。私共には親族がたくさんありますので其一々に手紙を書 くのは一月に一度づゝにしても中々大層なことになります。その手数を省くために皆の手紙を一 纏めにして印刷して配ると云ふのが『團欒』をこしらへる趣意です。尤も之れを印刷して稍大勢 の目に触れると云ふ事になりますと自然平素考へて居ること感じて居ることを云つて見たくなつ たりして普通の手紙には書かぬやうな事まで書く事になり,手紙とは幾らか異つた形になつて現 れることゝ思ひます,然しどこ迄も内輪の物で公の物ではありません。又之を親族以外にお分け 致しますのはこれで私共の消息の一部を知つて戴きたく且御無沙汰の申譯と云ふやうなつもりで あります(1924 年 5 月発行第 1 号,第 1 面)    『團欒』は「お互の手紙の代り」として作られた。現存する全 8 号の発行時期が,駒井夫妻の滞米 機関と重なることから,親族間で国際郵便を出し合う手間を軽減する 1 つの手段として利用され, 1925年 6 月に日本に帰国した後,同年 10 月号を最後に,発刊の必要がなくなったと考えられる。 『團欒』は,1 号あたり 8 面ほどで組まれ,最初に男性が中心となってキリスト教の教義を解釈する 記事があり,そこに,親族一人一人が日ごろ考えていること,感じたことを紹介する記事が続く。そ の文面からは,識字力が高く,社会情勢や文化事情にもかなり通じていたことがうかがえる。駒井夫 妻は第 1 号から「アメリカ便り」を綴った。1924 年 5 月に発行された創刊号では,静江がアメリカ で迎えた最初のクリスマスとお正月について「クリスマス前の大さわぎに引きかへお正月前はそれは それは靜か」で「その時を一年中でも一番厳粛に見守る日本の風習と較べて大變な違ひだと思ひまし た」と綴っている(1924 年 5 月発行第 1 号,第 7 面)。  「アメリカ便り」は駒井卓も静江も綴っているが,音楽体験について頻繁に,かつ具体的に報告し たのは静江である。静江は,「日本ではあまり聞くことの出來ない音樂の事について御話しては好き 3)駒井夫妻の渡米については,神戸女学院の同窓会報『めぐみ』にも「今春學術研究のため渡米されし夫君に同伴さる」と 報じられている(執筆者不詳 1923, 3: 66)。 図1 読売新聞の記事(執筆者不詳 1971, 22)

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な方殊に[妹の]賴[恵]さんの様な人にはお氣の毒だと思ふのですがお手紙を書く毎にこれを云は ないでは居られないのですから許して下さい」(1924 年 5 月発行第 1 号,第 1 面)と断ったうえで, 毎号,音楽に言及した。  まず,静江のアメリカでの音楽の稽古状況にまつわる記述を引用する。   今年も同じ先生についてピヤノを勉強して居りますが一週二回のレツスンにいつもいつも追はれ 通し時には休みたくなります,今日も前の木曜日に先生がお風[邪]で大分よわつて居られたよ うでしたから今日あたりはお休みかも知れないと思ふて電話をかけました處が,どうでせうちや んと先生の御聲が聞えるではありませんか[。]而も今日は,私の前に來る方が休まれるからい つもより早く來よとの御命令,自分には病氣になる時間がないとの御挨拶にはおそれ入りまし た,この様なわけで先生の方が御熱心なのです[。]有難いことです。 一月の始め[ママ]から十回にわたる同先生の音樂敎授法の講演に出ましたが實に有益でした, 自分もあの様に敎られなかつた事をほんとに残念に思ふと同時にあの様な敎へ方をすればもつと もつと日本からも音樂者を早く出す事が出來るとつくづく感じました,いづれ其方法は歸國の後 にお話いたしませう(1924 年 5 月発行第 1 号,第 1 面)    静江は,ニューヨークでピアノのレッスンを週に 2 回受け,ピアノ教師の音楽教授法の講義も受 講していた4)。そして,日本の女学校で音楽を教えていた時にこの講義の内容を知っていて,同じよ うに教えることができたらどんなにか良かったかと綴っている。駒井夫妻はアメリカ滞在中,夏は ウッズホールにある世界的に有名な海洋生物学の研究所 Woods Hole Oceanographic Institution で過 ごしていたが,そこでも静江は読書と海水浴とともにピアノの練習を楽しんだ(1924 年 8 月発行第 2号,第 5 面)。  このようにかなり熱心にピアノの練習をしていた静江は,夫妻でバッハから当時の現代音楽まで 様々な時代の,そして世界各国の作曲家の作品の音楽会に足しげく通った。その感想を次のように 綴っている。   音樂のシーズンも殆ど終りに近づきました大抵のものはこの三月で終つて秋まで御休みです,前 の手紙を書きましてから今日迄に見ましたオペラやオーケストラ其他の音樂に就て一々御話する 事は出來ませんがオーケストラシンフオニーはバハから始め現代の作曲にいたるまで全部全時代 に亘つて作曲家も殆ど各國の人のものをきゝました(東洋人のものは一つもありません残念なが ら)。 時代により國により其音樂の色彩の違ふて居る事はほんとにおもしろいと思ひます,たゞ私は幾 度きゝましても現實をそのまゝ描き出さうとして居る現代物は好きになれません,音樂そのも のゝ尊さを傷けて居る様に思はれるものさへあります,日本人にはロシヤとかポーランドの哀愁 をおびたものがどうもよさそうです[。]少くとも私は好きです,先日チヤイコウスキーのパセ チツクシンフオニーを聞きました時には二人とも泣かされそうでした(1924 年 5 月発行第 1 号,第 7 面) 4)ピアノ教師の氏名や音楽教授法の講義を受講した大学名については調査中である。

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 静江は,多種多様な音楽を聴けるアメリカであっても東洋人の音楽はかからないことを嘆いてい る。そのうえで,日本人にはロシアやポーランドの作曲家の作品が好ましいと語った。そして,この ような音楽の嗜好を反映するかのように,両国に縁のあるピアニストを聴きに行くことが多かった。   ピヤニストは世界一流と云はれて居る人は皆きゝました。ホフマン,パデレウスキー,ラクマニ ノフ,パウエル,ガブリオウヰチ,フリードマン等,もう此の様な一流になりますと誰が一番 いゝのか分りません,それそ[゛]れ特長とする處が違ふだけですから。私の先生は何と云つて もフリードマンが世界一だと云はれます,私も此人を聞いた時にはとても人間業では出來ないと ただただびつくりしました[。]然し何と云つても一番重みのあるのは御承知のパデレウスキー でせう[。]三千人餘の人がぎつしりつめかけて居るカーネギーホテル[(ホール)]の定刻前の 緊張さ,うす暗いステージの上にたゞ一つだけ据附けてあるグランドピアノに向つたポーランド 獨立の恩人パデレウスキーの様子は見るだけでも身がしんとするほどでした(1924 年 5 月発行 第 1 号,第 7 面)    静江は,『團欒』創刊号における演奏会の報告を,「この様に日本で見られないもの聞かれないもの 得られないものは出來るだけたくさん取入れたいと思ひまして一生懸命勉強して居りますから御安神 ([心])下さい」としめくくる。実際に,名高い巨匠たちの演奏を直に聴くことのできる恵まれた環 境のなか,クラシック音楽に限らず,ジャズ・ピアニストの演奏も聴いていた。  1924 年 10 月に発刊された第 3 号では,アメリカの聴衆を冷静に観察した様子を綴る。静江いわ く,アメリカの音楽業界には世界各国の音楽家が集い,日夜,音楽会も多数開かれるが,アメリカ人 が本当に音楽を愛好する国民であるといえるかどうかは疑問を残す。駒井夫妻は船旅で西海岸のサン フランシスコに上陸し,ロサンゼルス,シカゴ,ボストンに寄りながらニューヨークに到着し,これ らの都市すべてで音楽会に出かけたものの,聴衆が演奏中に音楽とは関係のないおしゃべりをしてい ることが不快であったと報告している。  このように,『團欒』に掲載されたアメリカ音楽紀行からは,日本ではまだ聴くことのできない音 楽作品や演奏家にふれられる環境にあった静江が,ただひたすらその音楽文化を享受し,単にアメリ カの音楽文化の方が進んでいると捉えるのではなく,ピアノの先生とは異なるピアニストの好みや, 音楽と真に向き合っているようには感じられないアメリカ人の聴衆の様子について,かなり冷静に観 察し,批評している様子が伝わってくる。また,演奏される音楽そのものだけではなく,音楽会とい う空間に集う人々の在り方をも含めて音楽文化を感じとり,いかによい音楽が奏でられようとも,そ れを聴く姿勢が整っていないことには,音楽の理解にはつながらないと考えていた。  本稿では詳述しないが,「アメリカ便り」には,音楽の演奏を主たる目的としない社交場の音楽に ついても記されている。その文面は,西洋文化に直にふれる機会をただ享受するばかりというより は,1 つ 1 つの事柄をよく観察し,自身の言葉で表現するものである。日本で西洋音楽が普及するに は,音楽に関する深い知識や高い演奏技術を身につけることもさることながら,このように,観察 し,考える力が身についているかということもまた大切であったと再認識する。

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.ヴォーリズの設計した駒井家住宅

 駒井夫妻は,1925 年 6 月に日本に帰国した。そして,静江の神戸女学院での学友一柳満喜子の夫

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となったアメリカ出身のヴォーリズに依頼したの が,京都大学の近くに定めた自宅の設計である。 それは当時,日本で普及し始めたばかりのアメリ カンホームをモデルとする洋風住宅であった。静 江が卒業後に務めた姫路の日ノ本女学校はヴォー リズ建築であった。そして,静江の出身校神戸女 学院も,岡田山の現校舎に移転する際,ヴォーリ ズによってキャンパス全体が設計された。  駒井家住宅5)は,1927 年に京都大学駒井卓教 授の住居として竣工した。図 2 に示すのが竣工当 時の駒井家住宅である。1998 年に京都市の有形 文化財に指定され,2004 年から日本ナショナル トラストによって公開されている。調度品や蔵書 など暮らしの様子もわかるように展示されている 点が大きな特長となっている。駒井邸で音楽を囲 むひとときが築かれていたことを伝える品々とし て,居間に備えられたドイツ製のアップライトピ アノと連弾も可能な横長の椅子,米国製の蓄音器 グラモフォン Gramophone(1895~,現 Victor), 書斎に収蔵された音楽関連書籍やレコード,楽譜 が挙げられる。  図 3 に示すように,駒井家住宅の設計を手がけた ヴォーリズにも音楽の嗜みがあった。このことにつ いては紙幅の都合上,詳しくは述べないが,ヴォー リズの自伝『失敗者の自叙伝』(一柳 1970)6) ら読みとれる他,齊藤が「W. M. ヴォーリズの住 宅設計にとり入れられたピアノの背景」のなかで 一章(第 6 章「ヴォーリズと音楽」)を割いて言 及している(齊藤 2018a, 10-12)。また,文化生活研究会がヴォーリズの講演の記録として編集した『吾家 の設計』(1923)や『吾家の設備』(1924)では,本論文の第 1 章で述べた住宅改良会の機関誌『住宅』 と同様に,ピアノを備えた住宅の内装写真や設計図・間取図が紹介されている(齊藤 2018a, 4-6)。

5

.楽譜にみる駒井静江のピアノの稽古

 駒井家住宅を管理する日本ナショナルトラストには,駒井静江が収集した楽譜が保管されている。 5)駒井家住宅については,ヴォーリズ建築の研究者山形政昭による「駒井家住宅〈駒井卓・静江記念館〉について」(2002) を参照されたい。 6) 1941年に日本に帰化し,妻満喜子の一柳姓をとり一柳米来留(ひとつやなぎめれる)と名乗った。そのため,自伝の著者 姓名が一柳となっている。 図2 竣工当時の駒井家住宅(山形 2018, 226) 図3 秘書の髙木とアンサンブルを楽しむヴォーリズ    (ヴオーリズ 1933, 102-103頁間)

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筆者が整理したところ,印刷譜や筆写譜,曲集やピース,楽典の教本や音楽帳などが含まれており, のべ 100 点余りにのぼることが判明した。その内容もオーケストラのスコアからオルガン・ピアノ 用の楽譜,独唱・重唱の楽譜など多岐にわたる。ただし,ここには表紙が欠落しているなど断片的な 史料も計上している。  表 1 に,ピアノ独奏・連弾の楽譜の表題と出版社(出版地)を示す。出版社名欄の[ ]内には, 購入地・購入店を記している。これらの楽譜史料を概観すると,出版年や出版地,署名が旧姓である かなどといった情報から,ニューヨークで多くの楽譜を購入することができたことがわかる。ロンド ン,ライプツィヒの出版社の楽譜も購入されている。帰国に際してヨーロッパ各国をまわる途上でも 各地の音楽会を鑑賞し,書店に立ち寄り,主要都市の音楽文化を堪能する 1 つの手段として音楽書 籍を収集したためである(1925 年 1 月発行第 4 号,第 7 面 ;1925 年 5 月発行第 6 号,第 5-8 面; 1925年 8 月発行第 7 号,第 4 面)。日本で購入されたものには,丸善や三木楽器などの名が記され ているものがあった。また,表 1 では,指づかい等の書き込みから実際に弾かれたことを確認でき たものに網掛けを施しているが,書き込みのある楽譜であっても全体的に書き込まれている事項の種 類・量が少ない。そのため,筆者は網掛けを施した楽譜でなくとも,静江が稽古をした可能性が十分 に考えられると理解している。   表1 駒井静江の収集したピアノ独奏・連弾の楽譜(本稿筆者作成) 表題 出版社 (出版地)

Beyer: Vorschule im Klavierspiel C. F. Peters (Leipzig)

ブルクミュラー:25 の練習曲 不詳

Cramer: Eighty-Four Studies Book Ⅰ G. Schirmer (New York) Czerny: 50 kleine Etüden Heinrich Germer (Leipzig) Czerny: School of Velocity op. 299 Oliver Ditson (Boston) Czerny: Schule Der Geläufigkeit op. 299 C. F. Peters (Leipzig) Czerny: Thirty New Studies in Mechanism op. 849 Oliver Ditson (Boston) Germer: The Technics of Pianoforte op. 28 Breitkopf & Härtel (New York)

Modern Piano Pieces the Whole World Plays (70 作品) D. Appleton Co. (New York) Recital Piano Pieces the Whole World Plays (近現代 47 作品) D. Appleton Co. (New York) The Most Popular Piano Pieces (35 作品) Hinds, Hayden & Eldredge (New York) The Most Popular Modern Piano Pieces (27 作品) Hinds, Hayden & Eldredge [丸善] Solo Book for the Piano Ⅰ・Ⅲ・Ⅳ (54・34・18 作品) G. Schirmer (New York)

Cole’s Music of the Bells F. Pitman Hart (London) Sonatinen Album Band Ⅰ C. F. Peters (Leipzig)

Sonaten Album C. F. Peters (Leipzig)[共益商社]

鈴振マーチ 第 1 篇 音楽社 (東京)

萩原英一選ピアノ名曲集 第 1 篇 (9 作品) 共益商社書店 (東京) 音楽帳 (筆写譜)

不詳 (断片) 不詳

J. S. Bach: Inventions C. F. Peters (Leipzig) J. S. Bach: Fantasie BWV906 不詳[New York] Mater Series for the Young Vol. 4 (Mozart11 作品) G. Schirmer (New York) Mozart: Sonata C. Fischer (New York) Mozart: Sonata K. 331 Ⅰ楽章 G. Schirmer (New York)

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Beethoven: Adiew to the Piano G. Schirmer (New York) ベートーヴェン:エリーゼのために 全音楽譜出版社 (東京) Bethoven: Sonaten C. F. Peters (Leipzig) Beethoven: Sonata op.10-2 G. Schirmer (New York)

Beethoven: Sonata Op. 49-1 Century Music Publishing Co. (New York) Weber: Klavierstücke (8 作品) C. F. Peters (Leipzig)

Weber: Invitation to the Dance Op. 65 C. Fischer (New York) Weber: Storm McKinley Music Co. (Chicago) Schubert (16 作品)*Op. 90 不詳

Schubert=Liszt: Twenty-Four Songs G. Schirmer (New York) Mendelssohn Album (独奏 30 作品・4 手連弾 6 作品) Augener's (London) Mendelssohn: Songs without Words vol. 1 (49 作品) G. Schirmer (New York) Mendelssohn: Twelve Favorite Songs without Words Augener’s Edition (London) Mendelssohn: Hanting-Song G. Schirmer (New York)

Mendelssohn: Rondo Capricioso op. 14 Century Music Publishing Co. (New York) Mendelssohn: The Joyous Peasant op. 102-5 The B. F. Wood Music Co. (Boston) Chopin: Pianoforte Werke (32 作品) C. F. Peters (Leipzig)

Chopin: Balladen und Impromptus; Etüden C. F. Peters (Leipzig)

Chopin: Nocturnes G. Schirmer (New York)[丸善] Chopin: Klavier=Werke Band Ⅰ (ワルツ) C. F. Peters (Leipzig)

ショパン:小犬のワルツ;ワルツ 作品 64-2 全音楽譜出版社 (東京) Schumann: Scherzino G. Schirmer (New York) Schumann: the Voice of Love (Evening Serenade) (ピアノ独奏版) C. Fischer (New York) シューマン:トロイメライ;ロマンス 全音楽譜出版社 (東京) Thalberg: Home! Sweet Home! Op. 72 C. Fischer (New York)

Heller: 25 Études op. 47 The B. F. Wood Music Co. (Boston) Heller: Twenty-Four Preludes op. 81 G. Schirmer (New York)

Merkel: The Butterfly op. 81-4 C. Fischer (New York) Lange: At Twilight op. 292-3 C. Fischer (New York) Badarzewska: LaPrière d’une Vierge G. Schirmer (New York) Badarzewska:乙女の祈り 鶏鳴社 (東京)

Keach: Sabbath Day Music (40 作品) Oliver Ditson (Boston) Saint-Saens: The Swan (ピアノ独奏版) G. Schirmer (New York) Mussorgsky: Gopak (ピアノ独奏版) Boston Music Co. Grieg: Papillon Op. 43-1 F. A. Rockar (New York) Schütt: Canzonetta op. 28 G. Schirmer (New York) Schuett[Schütt]: Reverie op. 34-5 Oliver Ditson Co. (Boston) Heins: Evening Bells op. 201 C. Fischer (New York) Paderewski: Menuet op. 14-1 G. Schirmer (New York) Fall: 《The Dollar Princess》~〈Waltz〉 Ascherberg Hopwood & Crew Ravel: Pavane The B. F. Wood Music Co. (Boston) Palmgren: The Swan; Cradle Song; May-Night op. 27-5 Boston Music Co. 

Grainger: Irish Tune from County Derry G. Schirmer (New York) アンダーソン:ウォーターローの戦 弘楽社 (東京)

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 この表から,静江が,ピアノの奏法を習得しようとする初学者がとりくむバイエルやブルグミュ ラーなどの教則本に始まり,ツェルニーやクラーマーの練習曲も修め,ヘラーやショパンの練習曲に も進んでいることがわかる。そして,音楽専攻生ではなかったが,J. S. バッハのインヴェンション やシンフォニア,W. A. モーツァルトやベートーヴェンのソナタ,バダジェフスカの《乙女の祈り》 などのサロン向けに書かれた小品,ウェーバーやシューベルト,メンデルスゾーン,ショパンなどロ マン派の著名な作曲家たちの作品,ラヴェルの《亡き王女のためのパヴァーヌ》など近現代の作品… …と,バロック,古典派,ロマン派,近現代と多様な時代の作品がバランスよく網羅されていること がわかる。名曲集や演奏会用作品集も含まれているが,作曲家毎に楽譜を収集している部分もあり, 静江の楽譜棚はかなり充実したものとなっていた。  紙面の都合上,個別の楽譜について述べることはできないが,本稿では,パルムグレン Selim Palmgren(1878~1951)とグレインジャー Percy Aldridge Grainger(1882~1961)に注目する。 パルムグレンは 1878 年にフィンランドに生まれた作曲家,ピアニストで,駒井夫妻の渡米(1923 年)に先立ち,1921 年にニューヨークのイーストマン音楽学校 Eastman School of Music(1921~) 作曲科に着任している。作曲家としてはスカンジナビアの民謡をとり入れ,ピアノのための抒情的な 作品を手がけた(Oramo 2001, 15)。静江は,〈五月の夜 May-Night〉op. 27-4 という小品のピース をボストン音楽出版社の版で購入し,弾いている。  グレインジャーは 1882 年にオーストラリアに生まれた作曲家,ピアニストで,フランクフルトや ロンドン,ノルウェーのトロウドハウゲンなどを経て,第一次世界大戦勃発(1914 年)を受け, ニューヨークに移住した。グリーグの影響を受け,民謡に強い関心をもった。エジソンが発明した蝋 管蓄音器にイギリスの民謡を採集している(Gillies and Pear 2001, 269-273)。静江は,〈イギリス民 謡第 6 番 Irish Tune from County Derry〉(「ロンドンデリー」で知られる旋律の編曲版)のピースを シャーマー版で購入し,弾いている。  パルムグレンとグレインジャーはいずれも静江より一回りほど早く生まれた作曲家,ピアニスト で,ブゾーニ Ferruccio Busoni(1866~1924)に師事したこと,作品に民謡の要素が作品にとり入 れられていることが共通の特徴となっている。駒井夫妻がニューヨークに滞在していた間,同地で活 動していた音楽家であることに,静江が自らある種の‘新しい’ 音楽を積極的に摂取しようとしてい た姿勢が映し出されているといえる。

6

.矯風会への参画と静江の社会観

 本章では,静江が,どのような暮らしを送るなかで音楽実践にとり組んでいたのか,社会活動の事 例として矯風会を示し,婦人雑誌のインタビューをもとに静江の嗜好が決して西洋かぶれ一辺倒では 4

First Duet Book for the Piano (49 作品) G. Schirmer (New York) Second Duet Book for the Piano (33 作品) G. Schirmer (New York) Oesterle’s Graded Four-Hand Collection Book Ⅱ (20 作品) G. Schirmer (New York) Modern Composers Vol. Ⅱ G. Schirmer (New York) Beethoven: Symphonies Vol. Ⅰ・Ⅱ G. Schirmer (New York) Schubert: Kinder Marsch G. Schirmer (New York) 名曲叢書 第壹編 ピアノ聯彈曲 (5 作品) 共益商社 (東京)

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なかったことを示す。  矯風会とは矢島楫子(1834~1925)を中心に万国キリスト教婦人禁酒同盟の日本支部として 1886 年に組織された日本のキリスト教の婦人団体の 1 つで,禁酒・廃娼・平和を目的として掲げ,社会 改良運動を中心に活動していた。1897 年には静江の出身校,神戸女学院にもその支部が設置されて いる(神戸女学院百年史編集委員会 1976, 474)。静江は,アメリカからの帰国後,1926 年に矯風会 の京都支部長に就任する。矯風会京都支部の中心となったのは同志社女学校(1876 年~,現,同志 社女子大学)で,1898 年に組織され,1901 年に正式に発会した(『日本キリスト教婦人矯風会京都 支部百年史』編集委員会 2002, 7, 11)。静江の京都支部長就任は,次のように記録されている。   1926(大正 15)年 , 外国から帰ったばかりの「新しい元気と希望に満ちた若い」駒井静江が支 部長に就任した。駒井は「ボツボツではいけません。大にやりませう」と会員一同に発破を掛 け , 早速賀川豊彦を迎えて講演会を開くなど会員の増加と育成に力を注いだ。その結果 , 新入会 員 18 名を確保していた(『日本キリスト教婦人矯風会京都支部百年史』編集委員会 2002, 15)    矯風会の活動を精力的にこなす静江の姿には,丸亀教会を開設してキリスト教の布教に努めた父と 重なるものがある。静江は,近江八幡の支部長を務める一柳満喜子と協力し,京都部会も組織した。 『日本キリスト教婦人矯風会京都支部百年史』には,駒井支部長時代に 2 度(1929 年;1936 年)も 京都で矯風会の大会が開催されたことをはじめ,静江の企画・実行力が具体的に記録されている(『日 本キリスト教婦人矯風会京都支部百年史』編集委員会 2002, 15-17)。1936 年の第 45 回大会は日本 基督教婦人矯風会創立 50 周年を祝した大会で,1932 年に竣工したばかりの同志社大学栄光館で開催 された。この大会の通訳を担ったのが,矯風会の第 6 代会頭を務めた山田耕筰の姉ガントレット Gauntlett恒7)(1873~1953)である。  静江の活動エリアは関西圏にとどまることなく,前述のガントレット恒が 1937 年に第 2 代会長と して第 4 回汎太平洋婦人会議(於,バンクーバー)を主催した際に随行し,日本代表として会議に 出席した。ガントレットの伝記に,次のような記述がある。   二週間の長い會議は少しの蹉跌も起さずに無事終了したのであつた。この會議に日本代表として 出席され,非常な努力と熱意を持って働かれた人々に,京都大學敎授駒井卓夫人靜江氏,時事新 報社社長夫人松岡久子氏,同令嬢松岡洋子氏(當時スワスモー大學に在學中),在カナダの下高 原夫人,準代表に尾崎品枝氏等があつた。今更ながら諸氏の協力を多とする(ガントレット 1989, 151)    キリスト教信仰を背景に組織された矯風会では,月次例会の 13 のプログラムの内,3 つが音楽関 連の内容で組まれていた。具体的には,第 1 の項目を「音楽」で始め,聖書朗読・祈祷・賛美・事 務・学課などの項目の合間に「音楽」を挟み,「唱歌」と祈祷で閉会する構成となっている(坂本 2002, 125-126)。

7)恒が日本のパイプオルガンの普及に努めたエドワード・ガントレットGeorge Edward Luckman Gauntlett(1868~1956) と国際結婚をしたことは周知の通りであるが,エドワードが関わったオルガンのなかには,麻布の南葵音楽堂や軽井沢の ユニオン教会など,駒井家住宅を設計したヴォーリズが手がけた建築もある。ガントレットとオルガンについては,赤井 励の『オルガンの文化史』(2006)で詳しく述べられている。

(14)

 駒井夫妻は決してアメリカかぶれであったわけではない。「アメリカ便り」ではニューヨークで迎 える最初のお正月に,コロンビア大学の研究所のスタッフや日本人留学生を招き,現地で調達できる もの,日本の親族が送ってくれたものを使って,お節料理をふるまおうと奮闘する様子(『團欒』 1924年 5 月発行第 1 号,第 6-7 面)も綴られている。また,図 1 に示した写真に表れているよう に,静江は,和服を着用することが多かった。駒井夫妻が時に日本の伝統文化も重んじていたこと は,帰国後 5 年ほど経った 1931 年の『婦人之友』に掲載された「今後十年の豫言」という記名式ア ンケートからもわかる。駒井夫妻は 10 の質問に表 2 のように回答している。夫の卓は,回答するも のを選んでいるが和装や日本髪の衰退を問う質問 8・9 への「否」の回答は,身近な女性静江がしば しば和服を身につけていたことを映し出している。静江もまた,洋装が増えることも日本髪が衰退す ることもないであろうと答えた(執筆者不詳 1931, 46, 54)。

7

.まとめ

 本稿では,日本における西洋音楽の普及の場としても機能した女学校(とりわけミッションスクー ル)を卒業した女性が,生活のなかでどのように音楽と向き合っていたのか,駒井静江を事例に,そ の内容を具体的に示してきた。この調査は,駒井家住宅が現存し,楽器や楽譜,「アメリカ便り」を 含む家族新聞『團欒』などの収蔵品が保管されていたからこそかなったものである。しかし,残念な がら現時点では見出せていない史料もある。駒井夫妻の日記である。こうした史料が見つかれば,駒 井家住宅にどのような人物が招かれていたのか,そこでピアノが演奏されたり,蓄音器で音楽を楽し んだりすることがあったのか,より充実した音楽実践の内容が明らかにできるであろう。  第 1 の目的(義務教育とも音楽の専修課程とも異なる環境,女学校の普通科で音楽を学んだ日本 人女性の卒業後の暮らしとそこにとり入れられた音楽について具体的に明らかにすること)について は,松山女学校や神戸女学院を卒業してから結婚するまでの間,出身校 2 校に加えて日ノ本女学校 表2 駒井夫妻の「今後十年の豫言」(筆者不明 1931: 46; 54をもとに本稿筆者作成) 1 第二次世界大戰が起るであらうか(卓)否。(静江)否。 2 好景氣は再び循環して来るであらうか(卓)* 無回答(静江)分りません。 3 日本の人口はますます增加してゆくであらうか(卓)然。(静江)增加するでせう。 4 日本において共産党内閣が出現するであらうか(卓)否。(静江)出現しないでせう。 5 婦人參政権が完全に獲得されるであらうか(卓)否。(静江)される事を希望します。 6 大學令による女子大學の誕生が可能にされるであらうか(卓)女子だけのための大學ができるかどうか は分りません,又それほどそれが必要かどうかも疑問と思いますが,今の帝國大學にもつと女子が多く入 るようになり得ることは可能であり又望ましいことと思ひます。(静江)されないでせう。 7 婦人職業の範圍がどの程度にまで擴大されるであろうか(例へば大學敎授,司法官,辯護士等々) (卓)婦人の大學敎授,司法官,辯護士等は早晩できることと思いますが,此中で辯護士などは最も早く今 後十年間にできることと思ひます。然し大學敎授等は今後十年間にはむづかしいでせう。(静江)大學敎 授,司法官は出ないかもしれませんが,辯護士は出るでせう。 8 洋服を着る夫人が和服を着る婦人よりも多くなるであらうか(卓)否。(静江)多くならないでせう。 9 日本髪が無くなるであらうか(卓)否。(静江)無くならないでせう。 10 あなたはその時どうしていらつしゃいませうか,どうしていらつしゃることをお望みでせうか(卓) * 無回答(静江)健康で,與へられた仕事を,よろこんで果して居る事を望みます。 * 駒井卓は回答にあたり,「御質問の中で私ではとても御答へできないやうなものを除きまして割合に容易であり そうなものだけに就て申上げると」と断っている。

(15)

でも英語や音楽を教え,後進の日本人女性の教育を支えていたことがわかった。また,夫の海外赴任 に伴ってニューヨークに滞在する間,週に 2 回のピアノのレッスンを受け,バッハから近現代まで の様々な時代の様々な国の作曲家の作品が演奏される音楽会を鑑賞し,ニューヨークで活動する同時 代の作曲家の作品も含む楽譜を収集するなど,豊かで自主的な音楽経験の実情が明らかとなった。  第 2 の目的(コンサートホールのように音楽の演奏を主たる目的としない場である生活空間,住 宅内部で実践された音楽について明らかにすること)については,帰国後,ヴォーリズが設計した洋 風住宅の居間にアップライトピアノや蓄音器を備え,矯風会をはじめとする社会活動に積極的に関わ り,東京や海外にも赴く多忙な生活の中で音楽を囲むひとときを夫婦で楽しんでいたことが明らかと なった。駒井家住宅は,日本におけるピアノの普及と洋風住宅の普及の重なりに関して,ピアノ自体 の普及のうえでも,住宅におけるピアノの実践の広まりのうえでも,その具体的事例として位置づけ られる。そして,矯風会もまた,月次例会や大会などの行事では必ず音楽のプログラムが式辞に盛り 込まれていた。矯風会に集う音楽の嗜みのある女性たちは,音楽空間に限らない場で築かれる人脈も また,広い意味での西洋音楽の普及に寄与していた可能性を示唆する。  静江は,音楽の専門家ではないけれども,義務教育としての唱歌教育とも東京音楽学校をはじめと する専門的な音楽教育とも異なる音楽教育を国内外で受け,音楽経験を積み,自宅にピアノを備えて 音楽を囲むひとときを築いていた。これまで,家庭に備えられたピアノは中流階級以上のステータス シンボルとして論じられることが多かった。筆者は静江の事例を,既往研究からはみえてこない音楽 との向き合い方を具体的に示す貴重な存在として捉えている。そして,家庭音楽の論調にみられる, 理想の家族となる(あるいは演出する)ための手段としての西洋音楽ではなく,他の学問と同様に学 んだ西洋音楽を趣味の 1 つとして純粋に楽しむ様子を伝える貴重な存在であると考えている。駒井 夫妻は,洋楽の普及において日本全体を動かすような活動をしたわけではない。けれども,静江とい う一人の女性の活動や静江が親族に向けて綴った自身の音楽体験を通して,そして,駒井家を訪れた 人々を通して,周囲の日本人に西洋音楽についての知見が広まっていった。  当時の日本人女性みなが,望んでも静江のような環境を得られたわけではない。しかし,義務的な 学習でも一方向の受容でもなく西洋音楽を摂取する素地があり,生涯を通じて西洋音楽に親しんだ日 本人,駒井静江についての本調査は,日本としてどのように西洋音楽を導入したのか,その制度を明 らかにする調査とも,地域ごとの公開演奏から再構築する洋楽の普及状況の調査とも性格を異にす る。本稿を,教養教育としての音楽,生涯教育としてのピアノについて学術的に考えていく緒として 位置づけ,20 世紀前半の日本人による自主的な西洋音楽の学びについて目を向けていくことを今後 の課題とする。 一次史料 竹内成一(編) 1924-1925 『團欒』 (非売品) 引用文献 執筆者不詳 1913 「三月十七日」 神戸女学院同窓会『めぐみ』第55号: 23 執筆者不詳 1921 「慈善音樂會」 神戸女学院同窓会『めぐみ』第1号: 17-18 執筆者不詳 1922 「靑野静江姉」 神戸女学院同窓会『めぐみ』第2号: 72 執筆者不詳 1923 「第二十六回生」 神戸女学院同窓会『めぐみ』第3号: 66 執筆者不詳 1931 「今後十年の豫言」『婦人之友』第25巻6号: 31-55

(16)

執筆者不詳 1971 「健康─夫婦バンザイ:長寿のひけつ:駒井卓氏静江さん」『読売新聞』1971年5月16日  朝刊: 22 赤井励 2006 『オルガンの文化史』 東京:青弓社(復刊選書1,初版1995年) ヴオーリズ,ウヰリアム・メレル 1923 『吾家の設計』 東京:文化生活研究会 ─ 1924 『吾家の設備』 東京:文化生活研究会 ─ 1933 『若き音樂家の一生─髙木五郎傳』 滋賀:近江兄弟社圖書出版部 ガントレット恒 1989 『七十七年の思ひ出(伝記・ガントレット恒子)』 東京:大空社(初版1949年) 神戸女学院百年史編集委員会(編) 1976 『神戸女学院百年史 総説』 西宮:神戸女学院 駒杵勤治 1906 『和洋住宅建築学(上)』 東京:須原屋 齊藤紀子 2014 「大正・昭和初期の住宅におけるピアノの普及過程について─雑誌『住宅』の住宅プランにみ るピアノの様相」 文化資源学会『文化資源学』第12号: 17-29 ─ 2018a 「W. M. ヴォーリズの住宅設計にとり入れられたピアノの背景─生活文化としてのピアノ」 文化 資源学会『文化資源学』第16号: 1-16 ─ 2018b 「ミッション系女学校におけるピアノの様々な役割─三木楽器並びにヴォーリズ建築のプール学 院の史料をもとに」 お茶の水女子大学大学院人間文化創成科学研究科『人間文化創成科学論叢』第20巻: 241-249 坂本清音 2002 「日本基督教婦人矯風会 青年婦人部の活動─同志社女学校の事例を中心に」 同志社大学人 文科学研究所『キリスト教社会問題研究』第51号: 113-147 私立松山女學校(編) 1926 『創立四十周年記念吾校の歴史』 松山:松山女学校 住宅改良会(編) 2001-2003 『雑誌「住宅」(復刻版)』 東京:柏書房 周東美材 2008 「鳴り響く家庭空間─ 1910-1920年代日本における家庭音楽の言説」 関東社会学会『年報社 会学論集』第21号: 95-106 竹田照子,本山哲人(編訳) 1999a 『松山関連宣教師文書 第一部 コーネリア・ジャジソン書簡』 東京:岩 波ぶっくサービスセンター ─ 1999b 『松山関連宣教師文書 第二部 松山ステーション報告書』 東京:岩波ぶっくサービスセンター 田隅本生 1990「京大のなかのダーウィン」 京都大学附属図書館『静脩』第27巻2号: 1-4 玉川裕子 2017 「近代日本における家庭音楽論:『一家団欒』という未完の夢」『桐朋学園大学研究紀要』第43集: 57-76 津上智実 2018 「駒井静江と神戸女学院の音楽教育」 神戸女学院大学女性学インスティチュート『女性学評論』 第32号: 73-90 日本基督教団松山教会(編) 1975 『松山教会九十年略史』 松山:日本基督教団松山教会 『日本キリスト教婦人矯風会京都支部百年史』編集委員会(編) 2002 『日本キリスト教婦人矯風会京都支部百年 史』 京都:日本キリスト教婦人矯風会京都支部 一柳米来留 1970 『失敗者の自叙伝』 近江八幡:近江兄弟社 日ノ本75年史編集委員会,日ノ本学園同窓会(編) 1968 『日ノ本75年史』 姫路:日ノ本学園 山形政昭 2002 「駒井家住宅〈駒井卓・静江記念館〉について」 日本ナショナルトラスト『日本ナショナルト ラスト報』第396号: 2-7

Gillies, Malcoln and David Pear. 2001. “Grainger, Percy Aldridge.” In The New Grove Dictionary of Music and Musicians. 2nd ed., edited by Stanley Sadie and John Tyrell. London: Macmillan.

Oramo, Ilkka. 2001. “Palmgren, Selim.” In The New Grove Dictionary of Music and Musicians. 2nd ed., edited

by Stanley Sadie and John Tyrell. London: Macmillan.

謝辞

(17)

ピアノの普及─」)の助成を受けている。公益財団法人日本ナショナルトラストならびに駒井俊雄氏をはじめ, 調査にご協力いただいた関係諸氏にこの場をおかりして謝意を表す。 (2019 年 12 月 7 日受領) さい とう のり 子こ 現 在 お茶の水女子大学基幹研究院研究員

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