同時代の二人の作家 : チョーサーとラングランド
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(2) 同時代の二人の作家. くる際、多かれ少なかれ、もとのものとほ差異がでてきているのが普過. である。チョ-サ-の「写字生アダムに対する言葉」という詩に見ら れる通り、原作者が目を通した場合、かなり訂正する必要があったよ ぅである。H・フランク・ヒ-スがチョ-サ-の小品の写本について、 その差異の研究成果を明解に図示したものが、グロ-ブ版のチョ-サ. -全集に附されているが、またスキ-トやロビンソン等のチョ-サ-. 異例であり、「ガウェイン卿と緑の騎士」. のような作品でさえ、著者. ているのほ例外といってよい。これは二〇〇年後のシェイクスピアの. の名前ほわからない。チョ-サ-とかその友人ガワ-のことがわかっ. 作品のことを考えてみてもわかることである。チョーサ-やガワ-に. しても、高級公務員としての公的な生活があったから、記録が残って. いるのである.だから、チョ-サ-でさえもその生まれた年はあきら. れたとみられるものが無数にあり、各写本に大きな差異があることが. 注意などで数行にわたり省略されてしまっているものや、書き加えら. ま彼が、ウエスト、、、ソスタ-寺院領内に家屋を得、そこで死んだから、. 院に残っていることにより死んだ年月日がわかっているのも,たまた. 論有名でほなかったからである。そして墓石がウェストミンスク-守. かにされていない.彼ほ7介の市民階級の出であり、生まれた時は無. むしろあたり前のことであった。そのため後世のものが原作者の原稿. 同寺院に葬られたためであった。. 「農民ビュルスの夢」の著者の外的な証拠がないのほ、彼が公的な. 品の中で著者が言及している個所を参照する以外にほない。むろん文. 人物でなかったためであろう。この作品の著者を考えるには結局'作. いることがわかっている。まして十四世紀のような社会的、政治的に. また当時'文芸作品というものほ、皆事実について述べているもの. 人の実生活がそれほど離れていないことがよくわかるのである。. 記的外的証拠皇統み-らべてみる時、作家が書いていることから、本. 手段でほあるが、たとえばチョ-サ-の「善女列伝」の序詩などにあ らわれる自分の生活に関する記述と、今わかっているチョ-サ-の伝. いる。これほ中世詩、特に夢物語の寓意詩を書く作者の伝統的な常套. ぅに'初期の「公爵夫人の書」以来、しばしば作品の中で顔を出して. 自分の詩の中で'自己のことにふれる個所ほよく出て来る。チョ-サ -も「カンタベリ物語」の中で自己が巡礼者の1人として活躍するよ. られないが'大体のところほ信用してよさそうである。当時の作者が、. 芸作品であるから、その中で著者が全くの事実を述べているとほ考え. 当時の作品で著者の名前がはっきりわかっていることの方がむしろ. ることほ、この意味で納得できる姿勢である。. 著者1人説の立場をとり、定評あるBテキストを中心としながらも, BにほないAテキストやCテキストの部分を適当な箇所に挿入してい. 品に原著者がおり'それが現存するような、三つに大別される形で残 っていることは'決して奇異なことでほないはずである.マ-ガレ ット・ウィリアムズ女史が'1九七7年にこの新訳を世に問うた贋'. すということは充分に推測されるところである。したがって'この作. 危険な作品に、写本人あるいほ作者自身が'手心をくわえて書きなお. ぅに現実を直視し、社会的な問題や教会内の腐敗などを攻撃している. 大きな変動のあった時代であって見れば、「農民ビニルスの夢」のよ. チョ-サ-自身も「善女列伝」の序詞などほ後年自分で書きなおして. ょって書きかえられたかなどということも判定できないことである。. どおりの形に作品を再現することは不可能なことであり、何人の手に. 全集編集者の校本注記を見てもわかるのだが、写本人により故意や不. 二.
(3) とされなければならなかった。歴史物語か、民間伝承である必要があ. り、全-新しい筋の物語を、作家が想像により創作することは、詩人 が道徳的に悪をおかすことであり、睦言を吐くものとして、認められ ない行為であった。したがって創作をする場合必らず、「知人からこ とかあるいは夢. とその典拠をもっともらしく書. の様な話を聞いた」とか、「本にこう書かれていた」 物語のように、「こういう夢を見た」 かねばならなかったのであるoしたがって「農民ビュルスの夢」 家が、人々の前で自分の作品を語る時、その作品の中で自己について. 述べていることほ、一定程度信用してよいことになるであろう。 この作品の中の叙述にょれば、作者の名ほウイリアム・ラングラン. サ-とラングランドほ'そもそも比較できない、全く異次元の作品と なるおそれがあるのである。. たちの気持を代弁して-れることを悦ぶのである。宮廷詩人は王侯や. ったのだ.ボッカチオの. 「デカメロン」や、チョ-サ-の「カンタベ. であり'ヨ-ロッパ大陸においてもやほり全般的に存在し七感情であ. 当時の教会制度に対するイギリスの一般にあった感情を代弁したもの. 訊刺、教会の腐敗を攻撃するこの「農民ビュルスの夢」という作品は、. っ-った。民衆詩人もましてその傾向が強かったであろう。特に社会. いることになっている。そしてこのラングランドの物の見方、社会、. 同時代の二人の作家. おかなければならない。これほ当時のイギリスにおいては'宮廷、貴. 三. してお-必要がある。こういった点をおさえておかなければ、チョ-. ビュルスの夢」の価値を忘却してしまうおそれが出て来を)とに注意 リ物語」などに出ている感情と、変りのないものであることほ知って. とがらにのみ重点をおいて解釈しすぎると、文学作品としての「農民. ングランドを読む時、あまりに歴史的事実、宗教的背景など外的なこ. 作品の解釈がそちらにひっばられてしまう危険がある。同様にまたラ. 的証拠にあまりに拘泥しすぎ、そういった作品外の証拠をもって釆て. 私たちが、チョ-サ-の作品を解釈する時、チョ-サ-の伝記的外. 貴族たちのために詩をつ-り、宗教詩人は一般信徒のために讃美歌を. ように、聴衆ほ、自分のかわりに、詩人が巧みな言葉にょって'自分. がつとめであって'作者が特に強-自分の考えを伝えることを主とほ していなかったのである。歌謡というものが現在も概してそうである. 達、聴衆の考えていること'感じていることを表現して聞かせること. 特に宗教詩や思想寓意詩などでほ、作者ほ詩の形でもって、一般の人. ことはかなりむつかしいことである。当時の口誘される詩の伝統では、. ていない事実とも関連あるのであろうが'作者自身の思想を見分ける-. 思想といったが、これも中世の殆んどの詩が作者の名を明らかにし. ことが参考になってくる。. ゥィクリフとかチョ-サ-が、同じ問題にどう対応しているかを見る. ルスの夢」という作品より考察する以外はないのである。その場合、. ラングランドの思想、社会、教会に対する態度ほ結局、「農民ビニ. 皿. 教会に対する考え方は、この作品を通して知る以外にはないのである0. 力者の後援で、神学校で学んでから、ロンドンに住み、司牧はしてお らず、妻帯して子供もいること、そして祈頑などをして生活をたてて. とが推定されている。彼ほおそらく農民階級の出身であり、父親と有. ソ丘陵地域に-わしいことなどから、同地方の出身者だろうと言うこ. 入しているが、西部方言を中心とした言葉で善かれており、モルバ-. ドという在俗の下級聖職者である。そしてこの作品は、南部方言が混. の作.
(4) 族階級、オクスフォ-ド大学をはじめとして上層階級、ウイクリフを. をせまり愛徳の生活をおくることをうながそうとする積極性が強く感. ない。ラングランドにほやはり、司牧老、伝道者的な力、他人に悔唆. 同時代の二人の作家. 中心とした聖職者、教養階級を含めた、全般的な感情であった。した. それだから、チョ-サ-が個々人の人柄、人格というものに. であったという見方もできるのであろう。. な中世英詩人であるのに対し、チョ-サ-は、近代英詩の最初の人物. ともできるし、またよく言われるように、ラングランドが最後の偉大. に対し、ラングランドの作品が、キリスト教界に属しているというこ. こういった点から見て、チョ-サ-が宮廷に属する詩人であったの. 強い関心をよせているのに対し、ラングランドが問題としているのほ 明らかに人間の魂の救済ということである。. (5). じられるのである。. まず詩形がチョ-サ-は大陸の作詩法である脚韻詩であるに. 学の精華という表現を用いることもできる。 この二人の作家は、現世の偽善性を謝刺しているのであるが、. この同時代の二人の作家を比較して考えて見る時、その作品におい. てほ、根本的な違いが、次の三点にあることを指摘しておきたい。. 第一に、ラングランドは、キリスト教信仰にもっぱら関心があり、. 聖書以外の思想教養というものを無視しているようであるが、チョ-. サ-は聖書ばかりではなく、古今内外の思想文化というものに大へん. 興味をいだいていたことである。この点が二人の作品を読んだ場合非. 随所に聖書の引用があらわれているし、全編を通じて、キリスー教の. 学校で学んだ聖職者である」と述べているが、その言の通り、作品の. スの夢」の中で、ラングランドほ「自分ほ聖書の意味することを、神. るということがもうすでに教養があるあらわれである。「農民ビュル. ラングランドも、チョ-サ-も当時の教養人であった。詩作ができ. 強いのである。. のような. チョ-サ-もラングランドも、キリスト教の正統な信仰を持 「司祭の話」. 説教も書いてほいるが、その態度は'敬度な信仰者という域を出てい. っていることがうかがわれるが、チョ-サ-ほ. (4). 常な差異を感じる点である。. ほ、土くさい土着文学のにおいが. チョ-サ-が洗錬された都会的文学、、宮廷文学のかおりをもってい. (2). 対し、ラングランドのものは、アングロ・サクソン詩の伝統にもとづ -ゲルマン的頭韻詩である。外国文学の影響をうけた作品と、自国文. (1). 「農民ビニルスの夢」とでは、あらゆる意味で大変異なっている。. だが同じ時代に書かれたものでありながら、チョ-サ-の作品と. できないであろう。. イギリスの宮廷や教養人の思想なり感情を抜きにしては考えることは. 様に、チョ-サ-の作品にあらわれている考え方も、十四世紀後半の. う作品にあらわれている当代の思想といった方が妥当であろうし、同. がってラングランドの思想というよりも、「農民ビニルスの夢」とい. 四. (3) 愛というものを両詩人がともに問題にしているのであるが、 チョ-サ-の述べる愛は、ロマンティックな恋愛であり、ラングラン ドの愛は、恋愛などでほ全くなく、神に対する愛なのである。. るのに対し、「農民ビュルスの夢」. Ⅴ. Ⅳ.
(5) 信仰という点から、この社会の救い、個人の救い、真の人間の生き方 ということを追求している。. 彼はまた王をはじめ、宮廷、政治界、法曹界、貴族階級、聖職者階級、 手工業者、農民など全ての階層にわたって広く社会を眺める限をもっ ており、高い立場に立ってこの世のあり方というものを考えている。. そしてこの世の偽善'腐敗を攻撃し'その救いを追求している。こう いった点で、彼の限は広-社会にもひらけており'彼が学問のある教 養人であることを、充分にあらわしているのである。しかし彼の社会 のあるべき姿、個人の魂の救いを追求するさまを見てみると'それは 全てキリスト教信仰という点より、罪の-いあらためと、神への愛と いう方面よりの救済である。そして論拠とするところはただ聖書であ. 、登場する聖職者は皆、彼の親刺の対象となっ 村の貧しい司祭以外に′ ていたり、勤勉な農民を称揚している点、ラングランドと共通する。. この「カンタベリ物語」が善かれるのは、三一八一年の百姓一挟以後. のことである。これはラングランドのCテキストと対比される時期で. ある。この百姓l探を境として英国の社会の、ロラ-ド派に対する考. え方が大へん変ってきている。その前までは、英国の宮廷および、上. 層階級ほ、ロ-マ公教会に対する反感、とりわけ托鉢修道会の腐敗に. ついては反感が強く、反教会思想が全英国にみなぎっており、ウイク. リフを中心とするロラ-ド派に好意をよせていたのである。しかしロ. ラ-ド派のジョン・ボ-ル等を中心とする百姓1挟の平定後には、そ. の考え方は急速に反動化し、ロラ-ド一派を危険視しゥイクリフをオ. チョ-サ-の「カンタベリ物語」以前の作品を見てみると'それほ. 大して差異ほ認められないようである。. このロラ-ドに対する態度についてほ、ラングランドもチョ-サ-I?. つの罪源の説教も極めて穏当なものであるのほ当然のことであろう。. 美がないのほ当然のことであり、ハリ-・ベイリ-の口を通してロラ -ドを危険視する言葉を吐かせるのも当然である。また司祭の語る七. 語」において聖職者の腐敗を批難しながらも、むき出しのロラ-ド賛. 理解できるのである。まして宮廷人のために善かれた「カンタベリ物. おいて、ロラ-ド派を批判する部分が書き加えられている事情は艮-. の夢」cテキス-はこの百姓一摂後の改作と見られるが、第十歌等に. クスフォ-ド大学の教職より追放しているのである。「農民ビュルス る。それは教会を通じてでもなければ、教自署通じてでも司祭を通し. てでもない。聖書にもとづく信仰のみを通してである。彼の考え方の 一つとして、農民の勤勉を強調している点が見られるが、この農民と は,聖職者ともなり、大工の息子として人間となったキ-ストとも重. なりあう、真の人間を意味しているのである。そして農業であれ、手 工業であれ、冥想的な生活であれ、この人の世に奉仕することほ、神. に奉仕することである故に、怠惰にふけることな-、ひたすらに奉仕 する生活こそが、真の人間の生き方であることを、聖書にもとづき懸 命に訴えているのである。この点この作者の思想はウイクリフの思想 と同じものであり、ロラ-ド派に属するものであることは明白であ. る。そしてこの世の文化、現実というものよりも、聖書、キ-スト教. しく異なり、古今の外国文学の翻案や、.夢物語の寓意詩の形をとった. ラングラソドのAテキストやBテキストに善かれている内容とは著る. この点、教養人チョ-サ-ほ、ラングランドと異なっている。彼は. 恋愛に関するものであったりして、ラングランドとは全-違っている. にょる唯1の真理にそのよりどころをおこうとするのである。. たしかに、「カンタベリ物語」において、オクスフォ-ドの学僧や、 同時代の二人の作家. 五.
(6) 同時代の二人の作家. ことがわかる。彼の作品でも、公共の利益ということを追求はしてい. るが、直接[)の世を救済しょうというようなものではない。彼が作品 でねらっているのはむしろ別のものである。彼の諸作品にも、各所に. 聖書に関する言及が見られほするが、これは当時の教養人の当然の常 識としてであって、チョ-サ-ほ聖書と平行して、オウィディウスか ら、ボエティウス、「蓄夜物語」'ダンテにいたるまでの古今の思想早 文芸作品に大へんな興味をあらわしていることがわかる。それが随所 に顔を出しているのである。. 一つの難問題が出て釆た時、それを解く鍵が、ラングランドにあっ ては、ただ7つ聖書であるのに対し、チョ-サ-の場合にほ、今まで の文化財産の蓄積であり、無数に存在していたのであった。. 琴一の差異は、「農民ビュルスの夢」 という作品が寓意詩に属する ものであったのに対し、チョ-サ-の作品は、どんな文学形式をとっ ている場合でも、人世を「鏡」にうつす形の文学であったという点で ある。. 英国における寓意文学の一つの傑作は十五世紀の教訓劇「エブリマ ン」であろう。これほ死に面した時の全ての人間にあたえられる、終 油の秘跡、臨終の際の償罪の秘蹟という抽象的な思想を、具体的な登 場人物の、舞台上の言動を通して表現しているのである。「農民ビュ ルスの夢」という作品もそうで、作者には一つのほっきりしたこの社. 会に対する態度、信仰による世界観、人世観というものがあり、それ. 「ホ-リ-・チャーチ. (聖教会). 姫」. を述べるために文学表現として具体的な人物を、登場させているので ある.しかしその登場人物ほ. 「良 「理性」. (報酬)姫」であって、その性格、人格などとい. ぅものほ全-必要とはされないのである。まして. であったり「ミ-ド. とか. 人格的な場面が出現するとかえって当惑してしまうのである。. Bテキスト第七歌に出て来る、いわゆるビュルスの. においてモ-セが十戒の石板を打ちこわしたように、怒り. 敗北にともなっておこった上層階級の反動化、ロラ-ド派否定の世相. せる行為である.これがCテキス-で削除されているのは、百姓一摂. った免償証という、信仰以外の物的なものにょる救いを'否定してみ. を破り捨てるのは、一つの形式であり、当時'世人の批難のまとであ. いてほいなかったに違いない。そしてこれをしるした羊皮紙の免償証. にとって信ずるにたる言葉であり、作者も聴衆もそれに対し疑いを抱. という免償証に書かれた一節は、農民ビュルスにとって自己の免償. 悪を行ないし老ほ限りなき火に入るべし. 善を行ないし者は限りなき生命に入り. がってアタナシオ信経の第四十三条、. できるのでほないだろうか.作者にとって観念が先行している.した. る。しかしこの場の解釈も、当時の寓意詩の事情を考えてみれば解釈. さらに問題となるのほ、Cテキストにおいて削除されているからであ. を感じ、この場の解釈ほ一つの論争の的となって釆ている。この場が. にまかせて破り棄ててしまう。この場面に来ると読者や研究者ほ当惑. ジプト記」. などもそれである。ビュルスが「真理」より受取った免償証を、「出エ. 「免償証の場」. ほついて行けないような意外な出来事、あるいほ余りにも人間的な'. 世界へと、作品とともに進ませるためのものである。したがって読者. 物語の進行ほ、聴衆あるいほ読者に、観念的な思想の世界、信仰の. 的なものである。. も、ただ観念が登場するのであって、同様に詩の進み具合もまた観念. 心」という登場人物や、七人の罪源たちや「飢餓」という人物にして. 六.
(7) を反映して'それが削除されてしまったのだと考えるのが最も自然の ように思える.. こういった作者の思想が先行して存在し、それに形式、外衣をつけ. のように、いくつかの夢とか. これほラングランドの作品などを研究する時にも注意を要することで はないだろうか。「農民ビュルスの夢」. 幻想の連続であり、いろいろな挿話がほいっているような長い作品の. えられない。だが全体を通して見た場合にほ、ほっきりとした作者の. 場合、その1つlつが理路整然と論理的に進行しているとはとても考. 論争をさせ、思想を深化させるという形をとるのである。現実という. 態度、思想、主張がうかがわれるのである。. るというのが寓意詩の特徴であり、抽象的な名前をもった登場人物に もの、この世の姿ほ、観念思想の外衣にすぎなくなってくる。これほ 古今東西を問わず、現代の左翼文学にも通じる、思想文学にある一つ. の特徴である。. 第三に、ラングランドも、チョ-サ-も結局ほ唯1の真理というも のに結論を持ってゆ-が、「現実」というものに対する見解に根本的. ところがチョ-サ-の作品になるとことなって来る。カンタベリへ 巡礼する人々の描写、その人々の語る物語ほ当然のことながら、夢物. な相違があるように思われる。. ラングランドにとってほ真理の追求、人間のあるべき姿、人の世の. あるべき姿の追求が第1義であるoしたがって「現実」とはそれと相. 容れない否定すべきものとなる。真理の追求ということほ、一切の非. 語る物語の結論と、次の話者の結論とが、故意に相反するものを並べ. って農民の子弟が、聖職者になったり、戦争のために騎士に出世した. とした、愛徳による理想的な秩序ある世界を頭に描いている。したが. 合理性、不合理なものを排撃する思想であり、偽善を認めない態度で ある。しかもラングランドにあっては、聖書にもとづいた、神を中心. るのである。こういったこの世の多彩な諸相を示すことがチョ-サ-. り、金をもうけて貴族の土地を買収してしまったりするのは、神によ. の諸物語も、一人の. の特徴である。それも現実の社会ばかりでなく、古典の中の世界'吹. って定められた身分制度、秩序の破壊であり、制度の崩壊を意味する. ものである。全ての人間ほ神の前、絶対者の前にあっては、おのが地. ほキリス-教の信仰にもとづく当世の思想であろうが、ある一つの思. ゆえに崩壊しょうとしている現実を憂い、秩序ある社会の建てなおし. ょる善行の生活を怠ることな-、ただ励まなければならないのである。. 位と職分を忠実にまもり、おのが罪を悔い改め、免償の生活、愛徳に. 想が存在している。だが、その作品のこまかな細部の一つ一つにいた. を実現することを夢想するのである。 同時代の二人の作家. 七. るまでが論文のように論理的に7賞しているとは、とても言えない。I. チョ-サ-の1つの作品を通読して見ると、しかしそこには、結局. のように並列して陳列するのである。. 洲文学の世界、思想の世界、信仰の世界、民話の世界、全てを博物館. に問いかける形でおわっている。「カンタペソ」. ぅものにょって出て来るものとほ主張せず、結論はいつも聴衆、読者. この世の中の偽善、不正を正す力ほ、既製の秩序とか道徳、信仰とい. て、それをうつし出すという方法をとっているのである。それだからI. のであるが、世の中の現実の姿が描写され、現実に対しいわば鏡をあ. 語の寓意詩という形をとっているものも、全て程度の濃淡は無論ある. Ⅵ.
(8) 同時代の二人の作家. 「現実」の中に慣習、伝統を打破する力を認めているように思えるの. 理と対立するものほむしろ「慣習、伝統」というものであると見て、. 行に励むべきものであると考えた。この点、ジョン・ボ-ル一派の百 である。. なかったようであるが、Bテキストの 「猫と鼠」 の挿話で、猫を国王 として解釈すれば、当時すでに国王を打倒しょうという思想もおこっ. 一派にも、ラングランド同様、国王を打ち倒そうという考えほ存在し. うだったし、トロイルスもそうであった。バスのおかみさんの現在の. 爵夫人の書」. 想に興味をあらわし、直面する難問題を考える時、いつも書をひもど. チョ-サ-ほ作品の中で確かに唯7の真理を認め、古今の文学、思. ていたともとれるのであるが、ともかくラングランドはこの説を否定. 夫である学僧も、どんなに女房にガナリ立てられても、なおさら一生. 懸命読書にふけったのであった。しかし書物にょる思想、その真理の. における詩人もそうであったし、「鳥の会議」の詩人もそ. き、古い書物の中から、新しい解決の道を見出そうとしていた。「公. する立場をとっていたと考えられる。. 追求というものは、現実を打破する力、現実をひきもどす力として作. 用ほしていないようである。それほむしろ現実を困難にしている慣習. 伝統の抑圧、硬直した物の考え方を破壊する力を持つものとして認め ていたように見える。若い暗から「暮夜物語」を読み、宮廷恋愛のお. ろかさを知り、古典のオウィディウスの中に近代的な恋愛観を考える. 彼ほ、伝統的な宮廷恋愛を否定する。「トロイルスとクリセイデ」の中 でクリセイデを批難しょうとはしないで、むしろ宿命にょる悲劇だと. 考えている。「カンタベリ物語」の序歌の中における諸人物の描写の仕. 方にしてもそうである。騎士や農民や司祭のような完壁な理想的な人. 人物だからである。「善女列伝」に筆が乗らず、途中で投げ出してし. 物を措-時、彼の筆ほ生きてこない。これほ現実ではな-、観念上の. めずにほおれなくさせ、社会正義の追求が、自己変革の追求をともな. 訊別の調子も鋭く、攻撃の対象として描写しているのだが、それらほ、. 士や免償説教家などとなると、彼の筆は活き活きとして-る。しかも. いるような、婦人修道院長、バスのおかみさんや修道士、托鉢修道会. まうのも同じである。だがクリセイデだとか、それぞれ大罪を犯して. 「現実」をもってくるラン. -サ-は真理と対立するものが現実であるとは見ていない。彼は、真. グランドと、チョ-サ-の態度はいちじるしくことなっている。チョ. 「真理」 に対するものとして、この世の. わざるを得なくさせるのである.. 要求してやまないものである。これが作者をして第一部の幻想の章か ら第二、第三、第四部の善行、より良き行為、最善の行為の生活を求. るだけ、それほまた、自己への問いかけとなり、自己の内なる変革を. そして現実社会の悪を攻撃するものほ、その攻撃が真剣であればあ. 最も鋭い攻撃であり、それが鋭ければ鋭い程、実現不可能な要求であ り'悲劇的なものであった。. によって定められた社会秩序の維持を説くことほ、体制の内部からの. 的である。聖書を根拠とし'唯一絶対の神、真理の神への信仰を根拠 として、根源的な倫理道徳的な悔い改めと、善行にょる理想社会、神. 政治権力者や、キリスト教界の権力者、腐敗している上層階級、農 民、労働者に対し、声を枯らして攻撃し、その悔俊を迫る詩人は悲劇. つのちがいがあったoもっとも、ジョン・ボ-ルやワット・タイラ-. 姓l挟派の世なおし理論と、ラングランドのロラ-ド的考え方にほ一. 神の前にあっては、政治権力者も、聖職者もひとえに悔い改め、善. 八.
(9) しているのは'その個人の持っている職業、その制度上の不合理性'. る.チョ-サ-ほ7人丁人の個人を愛しているのである。そして攻撃. 人間としての愛情をいだかせずにやまぬ二重性が存在しているのであ. その偽善ぶり悪徳ぶりを読者に充分納得させると同時に、その人物に. せるのである。. 世界の文化に対する好奇心を強めさせ、古今内外の文化に興味を抱か. 色彩が濃いのである。そしてこの現実を肯定する態度ほ、彼に、人間. サ-の作品には人の世の現実のむなしさを認めながらも、現実容認の. おかしさである。免償説教家の面白さは、彼の女性的な挙動や外貌で. おいしい料理が好きであったり、狩猟が好きであったりするだけであ. な毎日の生活をおくっているのである。他の聖職者たちも、たとえば. 家の娘としてであり、しかも度敬な信仰をもった若い婦人と同じよう. ように人をだましているのである。婦人修道院長の描写は、普通の良. くことである。彼は大道商人の口上と同じように説教し、商人と同じ. のは彼の売っているものが、人間の魂の救いに関係があるとされてい る免償証であるという事実である'まがい物を聖遺物として持って歩. て現実逃避という言葉があたっているのであろうか。現に彼以後の近. いエスケイビスト、逃避老と批難するものもあるであろうが、ほたし. 合、現実の複雑多難な当時の世相を回避し、宗教的な深遠を追求しな. を追求したのであった。こういったチョ-サ-を文学者として見た場. 語詩や、宮廷恋愛を愚弄する滑梧詩をとり、自由な思索と自由な作詩. い'脚韻にょる新しい詩作に走り、題材にしても劇的な会話を持つ物. 「ルム・ラム・ルフ」といったような東嶺詩法にとらわれることを嫌. ある。職業人としての彼ほ、有能な商売人である。しかし問題とする. る。そして彼が攻撃しているのは、人間の魂を救済することに彼が義. 世英文学はチョ-サ-の時代になり、英国詩の父とまで呼ばれるにい たったのであった。. 抱いていたが、この現実に対する考え方の相違が'チョ-サ-を近代. ラングランドもチョ-サ-も二人とも現世というものに強い関心を. にょり強く結びつけたのであろう。. 代的であったのに対し、彼はむしろ現代的な作家だったのであろう。. 世攻撃の作風と根源的な思想に強い関心が向けられ、新しい校本、新 しい翻訳や研究書が、次々と刊行されている事実は、チョ-サ-が近. 支えとなったことも事実であるし、現代再び読みなおされその鋭い現. しかし、ラングランドの方も、後の宗教改革の活動家の強い精神的. いった職業の持つおろかさ、おかしさということである。七つの罪源. て彼等個人を'誰一人として攻めることほ出来ない.もし攻めること. が出来るものがあるとしたら、それほ唯一の真理、絶対者である神の みであろう。神の前にあっては、全てのものが'あらゆる制度、行為 というものが、おろかなもの、むなしいものである.そして人間だけ. は悔唆し、償罪にあたいし、ゆるされるのである。したがってチョ同時代の二人の作家. 九. ても、絶対にまもることの出来ない不可能な考え方である。したがっ. というもの自体にしても全ての人間にとって、それほどんな環境にい. もし批難すべきものがあるとすれば、これらの個人ではな-、こう. の人間'現実と相容れないものであるということになってしまう。. 務づけられていること、そういった制度'伝統というものが、生き身. チョ-サ-は詩作においても、伝統に束縛されるような土着的な. Ⅶ.
(10) 同時代の二人の作家. 次の三氏の論文および親しい御助言に感謝いたします。 生地竹郎「農夫ピアズの夢」2巻 篠崎書林一九六八-九年 三好洋子 十四世紀後半のイングランドにおける社会意識「歴史学研究」第 三四五号 青木書店一九六九年 Wi)liams、Margaret‥Piers Plowman.Random House.)971.. 注. th,e. ○.
(11) Tbe. Contemporary. Two. 同時代の二人の作家. Chaucer. -. Lar)gland. and. TURU, For. out. And. out. as. men. bokis,. in good. Co皿yth. al this newe (TIM Parlemeni. sey,. from. corn. newe. of olde. -. HiGaO. feldys,. of olde al this. Comyth. Poets. Sere,. fey, that. science Foulys. tO. ヨer. lere.. men. ll・22「25). of. SUMMARY The. comparison. in problems Chaucer's biography. Today of Piers. Plou)man. Cbancer. some presents and Langland of the 14 literature. the study th century of the English is fairly well known to us but as for the poet. between. fundamental. his. biographical. Therefore the evidence entirely lacks. be made must through the close examination comparison of their works. Both Chaucer Langland men were the the and of culture of the time, Langland's in his are to the Bible, while and references works exclusively Chaucer is not illtereSted in the Bible alone but in the various writers of all ages and countries literature of Allegory genre of the Mirror of The two have poets the faith in the "Only. whose. their. world. their human. age. views of this real the people to repent. the. true. ideal.. shape For bin. and the. works Cbaucer's. he. are. works. to. Plowman be. the. was. classl丘ed. in. the. life.. faith the same One Truth", but. of the the reality. Piers. knows.. basis. a. as. there. Langland's sins,. as world of the world so incompatible. a. of their distinct. concern was main the true life and. lead. to. is. the. realisatian. of. It is worksノ. difference in to to. his. encour-. construct. Christian. was to was in accord not what his conviction it was his ideal be that and vehemenト with 1y attacked the world. As for Chaucer, be regards truth as the contradictory of the worn-out tradition human in be custom the the and of world and reality recognises destructive Tbougb both power tradition. poets are of the unreasonable interested in this world, Chaucer to approve greatly tends the real life of the world to the modern age. and he is to be more closely bound. *英語教室(°ept.. of. English).
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