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高等学校国語教育の現状への疑問と提案 : 特に国語学的知識教育の面にも触れて

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(1)Title. 高等学校国語教育の現状への疑問と提案 : 特に国語学的知識教育の面に も触れて. Author(s). 谷口, 巌. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 17(2): 68-82. Issue Date. 1966-12. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4557. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 17 巻. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 第 2 号. 昭和41年12月. 高等学校国語教育の現状への疑問と提案 -- 特に国語学 的知識教育の面にも触れて --. 谷. 巌. 口. 北海道教育大学函館分校国語研究室. ing 工Wao TANIGUC日工; So s about the Teach lne Doubts and Proposal l。f T0一day. 凸江ethods ofゑo珍物go in the High Schoo. は. なぜ高等学校を問題にするか か れ て い る.. じ. め. に. 国 語 教 育 に つ い て 論 ず る 者 は 多 い. 毎 月 こ れ に つ い て の 専 門 難. 誌も出ているし, 毎年全国各地で, い ろいろな形で研究会も開. こ の 方 面 の 専 門 の 研 究 者 も だ ん だ ん と 増 加 し て き て い る よ う で あ る,. しかし, 国語教育一般を論ずる者を別に して, それらの論者の多くは, 主として小・中学校で の国語教育を問題としてとりあげており, 高等学校でのそ れを直接 対象と してとりあげる者は, 割合からみてきわめて少ないように思われる, おそ らくこれは, 戦後高等学校 教育の歴史の浅さ からく る, 議論蓄積の度合いの低さを最大の原因 としていよう が, 一方, 論者 や研究者の目が, 「万人の教育」 である義務教育の基礎段階に まず注がれがちで, 義務教育ではない高等学校の 場 合を, 焦眉の問題と考えぬ傾向にもよるのではない かと思われる. ところで生徒数の面から見 ると, 現在すでに高等学校へ の進学者は, 全中学校卒業生の七割に 及び, さ らにこの数は増加することが予想される. 今や高等学 校教育は, 実状において, 義務教 育に準ずる 「万人の教育」 の様相を呈しており, しかも 「国語」 は, その高等学校において 「必 修」 の基本的な 教科である. 他方, 高等学校より大学への進学者 は年を追 って増加 しているとはい え, 割合においてまだそ の三分の一にも及ばない. またその大学におけ る 「国語」 関係の学科目と しては, 一部の専攻学 生を除いては, 一般教育の段階における 「文学」 (場合によ ってはそれに「言語学」) しかなく, しかもそれは通常には 「選択」 という性質のものであってみれば, 高等学校国語教育のもつ意味 の重要さは, おのずから明 らかであろう. すなわちそれは, 将来の日本を担う世代の七割 (やがてそれは八割にもまたそ れ以上にも達 す るであろう) の多数に対する, 秩序的な国 語教育の, 最後 の仕上げとしての意味を持つ機 会なの である, 一方, 生徒の側の理解力も批判力も, 前段階にく らべ て非常な高まりを見せる時期でも ある. 現在の日本語に対する自覚も関心も, したが って将来の日本語に向かう心 がまえも, その 望ましい態度・技能・知識等の養成は, この時期を逸 しては不可能であろう. もとより, 国語教育の問題に関 しては, 小・中学校の基礎段階, すなわち 「出発点より」 着実 - 68 一.

(3) . 谷. 巌. に足場を固めて論ずることを必要とするが, 一方, 学校教育という-系列の中で, 達成されるべ き目標をできるだけ具体的におさえ, その 「終点から」 論ずる態度も無ければならない. 児童や 生徒の内部に目をとめ, その心理的発達の順序に従う考察 が重要 である一方には, 社会的な視野 にたち, その方面からの必要に応じる考察や工夫がまたいるのと, あるいはその場合 は似ていよ うか, ともかくも両者は相補い総 合されて, 望ましい方法の体系を作り出し得るものと信ずる, このような訳で, ここでは, 筆者の比較的知るところの多い高等学校の場合について, その国語 教育の在り方に二, 三の考察を加えた い. どういう方面から主に考えるか. 一口に高等学校の国語教育とはい っても, そこに含まれる内. 容及び問題は多種多様である, 理論的な面からも実践的な面 からもこれを述べ られようし, 科目の面から言っ てもそこには 「現代国語」 「古典甲」 「古典乙」 の三科が現在は立てられてい て, 総論的な面だけでなく, 各論的にも種々述べるべきことは存在 す る, しか し, こ こ で は そ の す べ て を 尽 く す こ と は 思 い も よ らな い.. よ っ て, そ の 論 ず べ き 方 面 を 主. 観的にある程度限定し, その中で有効に考えてゆくことに したい, すなわち, 基本的に次の方針 に従う, (1) 体験を土台として発想する, 筆者は ごく最近まで, わずかなが ら六年間ほ ど, 高等学校 教員として国語教育の現場にあった. 時あたかも前教育課程より現教育課程 (昭和三十八年度以 降) への移行期に あたり, その間に得 られた授業体験と反省とを, 考察の主要な足がかりとして 扱う, (2) 体験の意味を概括的にある程度理論的に考えたいと思う. 理論はもちろん実践に よって 支え られねばならないが, ここではそういった教室技術のあまり細部には立ち入 らず, 必要に応 じて 示 唆 的 に 述 べ る に と ど め る,. (3) 教科書内容の吟味を主としておこなう. 高等学校国語教育の日標や内容を基本的に規定 するものは, 文部省の 「高等学校学習指導要領・国語編」 であり, それを教材として具体 化した ものが 「検定・教科書」 である. 巷間よく いわれる, 教科書 「で」 教える立場, また教科書「を」 教える立場等, かなりの差異はあるものの, いずれの場合にも, 教科書内容が軸とな って, 国語 教育の現場が動いて いることは 疑いを入れない. (4) 科目面では 「現代国語」 を話題の中心に置いて見て行く。 戦後の国語教育の大きな特色 の一つは, 古文・漢文に対する現代文 (現代語) の重視である。 現教育課程では, 「現代国語」 を 「古典E P・乙」 と区別 し, はっきり独立した科目として立てた. 明治以来国語教育は, 歴史的 にもこの方向に進んでいるといえよう. またそれだけに議論の蓄積も少なく, 現場に方法的な迷 い の 多 い の もこ の 方 面 で あ る. そ こ を 考 え た い.. (5) 現在の高等学校の教育現場にあって, 陰に陽に国語教育に作用 している, 現実的な諸要 素に注目する, これはもちろん, 前記の体験的発想とつながるものである. これ らの見方につい ては, どうしても, 主観的な偏りや視野の狭さを免れまい, 筆者の体験の幅から言っ て, 大学進 学者の比較的多い学校の場合を主 とするものと考えられたい, しかしもとより, 一般的な視点を あわせて意識してゆくつもりである, 以上, フぐ体その要領を述べ た, 現段階ではこの問題は一個人が, 早急な断定や軽々 しい結論を 下すべき性質のものではない と思う. 従ってここでは, あくまでも, 世の論者・研究者の再考を うながす一視点の提出という態度で述べてゆくつもりである,.

(4) . 高等学校国語教育の現状への疑問と提案. 1, 一 貫 性 へ の 疑 問 一貫性とは何か. 一貫性とは, 小・中・高各学校間の, 教育目標や内容における一貫性のこと である. 現行の文部省 「学習指導要領」 (以下指導要領と略称する) は, 小. ・中学校のものは昭和 三十三年, 高等学校のものは昭和三十五年, 最後的に改訂案を得, それぞ れ告示されたものであるが, その際その改訂の大きなね らいの一つに, この一貫性の重視という こ と が あ っ た.. 具体的に今, その指導要領記載の文章によ って, 中学校か ら高等学校に至るつながりの面を探 っ てみよう. たとえば指導要領冒頭の, 国語科の 「目標」 を示 した箇所の第一項を比較すると, 中学校の場合その文面は, 生活に必要な国語の能力を高め (言語文化に対する理解を深め), 思考力 (批判力) を伸ば し, 心情を豊かに して, 言語生活の向上を図る, の括弧内の部分を除いたものであり, その括弧内の語句を補 っ たものが, すなわち高等学校の文 面となっている. 指導要領は, 以下各項にわた って記載が続くが, その中学校の場合と高等 学校 の場合との類似・対応関係は, ほぼこの例に典型的に見られる通りである. そこには明 らかに一 貫性または発展的連続性を志向する思想が見 られる. 今一例, その 「内容」 を規定した部分に立 ち 入 っ て, 両 者 の つ な が り を 見 よ う,. た と え ば 「読 む こ と」 に つ い て は,. 次の各項目に掲げる活動を通して, 上記の事項を指導する, ァ, 記録, 報告などを読む, イ, 説明, 論説, 評論などを読む, ウ, 詩歌, 随筆, 物語, 伝記, 小説, 脚本などを読む, とあるのは, 中学校の場合 (ただ し 「評論」 は三年生だけ) であり, 高等学校の 「現代国語」 中 の該当項目では, これより 「物語」 と 「伝記」 を除き, 「脚本」 に代えて 「戯曲」 と記 してある 点のみが, わずかな内容の変更であるに過 ぎない. 当然のこととして, 教科書に盛 られる教材の内容の組み合わせも, これに準ずるものとなって く る. 「記録」 「報告」 「説明」 「論説」 「詩歌」 「随筆」 「小説」 等と類別される, これ らの も の の お の お の は, こ う い う 次 第 で, さ か の ぼ っ て は 中 学 校 一 年 生 (あ る い は そ れ 以 前) よ り,. のち高等学校の 三年生に至るまで, 毎年毎年ほぼ同じような教科書の体裁のままに, 児童・生徒 の 前 に 提 出 さ れ て い る の で あ る,. もちろん, 教育課程における一貫性の思想は基本的には正 しい. 国語教育の内部に話を限 って みても, その内容が十分に系統的・段階的に整備され, 教室技術の面でも, 方法的にそれが確立 さ れ て い る の な らま こ と に 結 構 な こ と で あ る,. だ が, は た し て 現 状 は そ こ ま で 理 想 的 に 行 っ て い. るであろうか. 将来の見通しはどう なのか, この際, 別の面か ら, あらためて考えて置くべき要 件はないのか. そこにこの点での疑いを発する余地がありそうである, ここに簡単な一つの調査の結果がある, 筆者が昭和四十年 高校生は国語をどの位勉強するか の十月に, 当時勤務先の高等学校一年生を, 対象としてお こなった調査である. この調査では生徒五十名に 対し, 各人がその家庭において通常おこなう予 習及び復習の時間の和の値を, 英語・国語 (現代国語及び古典乙) の主要三教科につ い て 問 う た, 回答者四十三名, これより不審なもの二名を除き, 全体を平均すると結果は以下のようであ - 70 -.

(5) . 谷. ロ. 巌. る.. 英語………四十六分 数学………八十八分 国 語--- ‐--二 十 九. 馨 馨 蔓 嚢 : : : : : : : : : ≠繋 曇警 ) 三. 調査対象であ る生徒が同一校内に限 られ, また人数も少ないから, 数値そのものに十分な客観 性は期待し得ないが, 高校生の勉強の実態の一つの傾向を示すものとしては, のこ数値の相互関 係にいろいろの興味がわく, 特に国語の勉強については, 望ましいとは言えない傾向が, かなり 明瞭に表 われている. 何と言っても, 他教科のそれにく らべ, 国語の勉強時間の少なさが, まず注意されなければな るまい, 特に現代国語 の少なさはどうであろうか. しかもこの調査当時, 現代国語の授業 の際に は, ほとんどいつものように, 範囲を予告された書取の小試 験が, おこなわれていたという事情 を考えてみると, 後に残る予習時間はわずかに, 教科書の進度に合わせ, その日予想されるペー ジに対し 「一応目を通して置く」 だけのそれであろう , 調査のあとおこ なった個別面接での, 多くの生徒の発言は, この予想を実際に裏 づけた. 別に 調査の際出 て来た数字としては, 平生の予習.復習を全くおこなわないもの, 英語四, 数学一, 現代国語十二, 古典十, という考えさせ られるものもあった そ して多くの生徒たちは これ ら , . のいい加減な学習 態度を, 中学校以来ほとんど惰性的におこなっ て来ている, ということもは っ きり した.. なぜ生徒たちが, とりわけ現代国語 (古典の場合は以下除外して考える) の学習をこのように 軽視するのか, 生徒 らの言ういろいろな意見を大別すると, 主なものは次のようになる . (1) 新鮮味がない, つまり教科書の内容及び体裁が (それに伴 って 教師の場合場合の指導 , 法が), 毎 年 ほ ぼ 同 じ流 儀 のく り か え しで, 要 す る に オ モ シロ ク ナ イ の で あ る .. (2) 緊張感がない. 語句の意味なり, 作者の考えなりは, 文章が日本語である限り 教室で , 一読すれを , その場でわかるし, 少なくとも見当く らい は つく 即 ち あ らか じ め や らなく て も , , ナ ソ トカ ナ ル の で あ る,. (3) 得体が知れない, 教科書にはいろいろな文章が出てくるし 設問もいろいろ それ らを , , 忠実に やったとしても, はた してそれが確 実な学力の向上とな ているかどうか 他教科にく ら っ , べ関連 度がうすい気 がす る 。 る,. 即 ち, 何 を ど う い う 順 序 で 勉 強 し た らよ い か マ ョ ッ テ シマ ウ の で あ. 主として教材内 容の方面か らの問題をあげたが, 教師の側の問題は今はさしあたり問わぬこと にする. (少なくとも筆者は, 教師の 「名人芸」 以前に, 教材の 「合理化」 がはたされねばな ら ぬ こ と と 考 え て い る.) こ こ で は ま ず, 「新 鮮 味」 云 々 の こ と に つ き い ま 一 考 して お く こ と に し , よ う,. 新鮮味の乏しい原因 は何か. 教科書の内容の種類やその配列法が毎年ほぼ同じであること, こ れはある意味では, 学習者に対する威 圧感も少なく 段階的習熟を. 目指す ねらいをはたしているかもしれない. しかし, 学習者の心理の一面には 常に好奇心とい , うものがあり, 特に高等学校時代にそれが旺盛であり, 深みも加えて来 ているということを 一 , 方では見落としてはな らぬと思う, たとえそれらが年次により, 多少とも段階的に向上的に企画 されていようとも, 毎年同じような形式をくりかえすことは, 微温的で 学習者に対し徐々に退 , - 71 -.

(6) . 高等学校国語教育の現状への疑問と提案 屈感を与えるのである. しかも, そうい った教材形態の各種が, こまぎれ的に, 単に年次毎に連続するだけでなく, と りわけ中学校か ら高等学校に至る間に, 内容的にも ある程度重複して提出されることがあるとし た ら, 学習者の心理面で, この傾向は一層増さないであろうか. 今, 分かりやす い例として, 最近の教科書三十一種 (中学校十六種, 高等学校十五種) につい て, そこに登場する小説教材の作者に着日し, その辺のところを調 べ てみると, まずその度数の 多い作者は上位か ら順に, 夏. 目. 減. 石 … … … …35 (中15・ 高20). 芥 川 龍 之 介 … … … …30 (中16・ 高14) 鴎. 森. クト… … … …29 (中13・ 高16). 島. 崎. 藤. 村 … … … …25 (中 4 ・ 高21). 志. 賀. 直. 哉 … … … …24 (E P14・ 高10). 太. 宰. 治 … … … …13 (中 7 ・ 高 6). 有. 島. 武. 郎 … … … …10 (中 5 ・ 高 5). 井. 伏. 鱒. 二 … … … …10 (中 4 ・ 高 6). の よ う に な る.. 同じ 「作者」 が, 中・高にわた って重出することは, そのこと自体それほどとがむべ きではな い, それがすぐれた作家な ら多く読むことは必ず益をもた らすか らである, しかし, 同一の 「作品」 が教材として重出する (必ずしも同一の箇所とまでは厳密 に 考 え な い) よ う に ま で な る と, や は り こ こ に は 無 駄 が あ る し,. 退 屈 だ と い う こ と に も な る で あ ろ う. た. とえば, 走 れ〆 ロ ス〔治〕… … … … … … … … … (中 7 ・ 高 2). 吾輩は猫である〔激石〕……………… (中4・高2) 屋 根 の 上 の サ ワ ソ〔鱒 二〕… … … … … (中 4 ・ 高 1). 等が, 前記の一群の作家中では特に目立つ例で あり, 他にも 「鼻」 (龍之介) ・ 「安井夫人」(鴎 クト) ・ 「嵐」 (藤村) ・ 「生まれ出 ,ずる悩 な」 (武郎) 等と, 直哉を除くすべ てに, そういう場 合が指摘できるの である, だが, 例としてあげは したが, 小説教材の重複などはまだいいのである. 教科書にある, 「聞 くこと・話すこと」 や 「書くこと」 に関係した解説文や説明事項の重出などになってくると, 明 らか に 生 徒 は 「ま た か」 と い う 表 情 の 反 応 を 呈 す る こ と が しば しば お こ っ てく る の で あ る.. さ らに考えれば, 実は問題は, すでにや った教科書と現在や っている教科書との比較などとい う次元のものではない. 国語的経験や学習は, 不断の日常生活の中において, 教室外にも多量に あるのである. そういう 「教室外」 経験や 「教室ク ト」 学習に取り巻かれて, わずかに一週間に二 三時間程度, 作為的にいとなまれる現代国語の授業なるものは, そこにそれ相応の内容の選択と 工夫を施さぬ限り, 新鮮味をとかく失うのである, 一貫性の思想は正 しいが, それは決して, 単に指導要領の語イサや文章 のつじつま合オγせ, 及び 1・ 高 と 似 か よ っ た 単 な る 並 べ 方 の 次 元 に と ど ま っ て は い け な それに従う教科書の教材の小 F い. あまりにも多くの形態別の教材を常に複線的に並べ, 「反復」 経験させてゆくのは, 学習者 の発達段階に応じているようで, 実は学習心理的には, その学習者の 「未知への期待」 を緩慢に 裏切り続けている面がある, いく ら継続的・発展的学習を基本とするとい っても, そこには時々 一 72 一.

(7) . 谷. ロ. 巌. 局面の新鮮な 「切りかえ」 が必要であろう, 英語・数学に比べれば時間数は少ないとはいえ, 高等学校一年生に古典の自発的な学習 時間が かなり認められるというのは, 暗示的な意味を持つと思う, 古典はむつかしい, 勉強 しなければ いけない. 古典は勉強法が明快だ. 学力がつけやすい, といった理由の他に, 中学校までにはほ とんどなかっ た 「新しい」 経験に対する, 好奇の輝きの目を, 彼らの心の中に読んでやることが 大切かと思われる, そ してこういう 「新鮮さ」 への要求は, 古典だけでなく現代国語の内 容につ いても, 恐 らく学年ごとに高校生の心に宿るものだということは注目していい. 教科書の一貫性 とは逆にむ しろその内容の必要に応じた 「切りかえ」 論が, 学習効果の面か ら考えてこの際 考慮 される価値を持つ と考える, 2. 総 合 性 へ の 疑 問. 総合性とは何か. 総合性とは, 教科としての国語の内容を構成するものを, 別個に分離独立 し て教えることを避け, なるべく総合的に扱ってゆこうとする考 え方である,. これは戦後の国語教育 の特徴の一つで, 現行の指導要領 (昭和三十八年度より実施) の前の段階 では, 現代文・古文の別す らも, 科日としては 「国語甲」 及び 「国語乙」 の中に吸収されて 独 , 立 して は 存 在 しな か っ た の で あ る.. 現在ではその辺は, 「現代国語」 及び 「古典」 と二つに大きく分かれて来てはいる (実は「古 , 典」 はさ らに 「甲・乙1・乙□」 の科目別を有するのであるが, それらは主として難易度 の別と いうにとどまる.) しかし, 国語の内部は, それ以上には内容的・機能的に分化されては いない。 作文も古典文法 も日本文学史も漢文も, それぞれ独立した一科目としては立 っていな い の で あ る。. 指導要領の中には, それに対応する記述が随所に出て来ている. たとえば指導上考慮 すべき点 として現代国語の方面では, 作者な らびに作品の背景などの扱いは, 作品の読解を基本に して, それに参考になるよう に す る. 〔読 む こ と ・(3)・ イ〕. 聞くこと, 話すことお よび読むことの指導で行なうメモ, 要約, 抜粋, 詳述などの機会を も適宜利用するように工夫す る, 〔書くこと o(3)o ァ〕 等とあり, 一方古典指導の方面では, 古典乙1の場合を例にとると, 文語のきまり (かなづかいや文語文法など) や文学史に関す る指導は作品の読解に即して 行なう, 〔古文・(3)・ェ〕 と, かなり具体的にも書かれてあっ て, いずれも文法・文学史等を, 独立して学習させる考え方 を否 定 して い る。. このような指導要領の記述の背景にある, 根本の考え方を推察してみると, それは, 国語とい う同じ教科の中 にありなが ら, たとえば文法・文学史等と, 別個な知識が知識の亥までそれぞれ に孤立する弊害 を, 警戒したものであろう, 同時に生徒の能力の差のことを考えて, 学習内容が 負担過剰とな らぬよう, 配慮した面もあると思われる。 知識を知識として機械的に授けず, なるべく実践を通して学ばせてゆく これはまた基的本な , 正 しさを含んだ思想であろう, しかし同時にそれはまた, 実際上大変 むずかしい問題でもある 。 総合的なやり方の中で, 文法を説き, 文学史を説 き, 作文をも課す る, そういう目まぐるしいや り方の中で, はた して, 必要な方面が何一つ落とされることもなく, 生徒に伝えられて行くであ - 73 -.

(8) . 高等学校国語教育の現状への疑問と提案 ろうか. 体系的な意識は生徒に発 生するであろうか. また, 学習効率の面ではどうであろう. そ こに考察の必要が感ぜられる, 文部省は国語の 教科書を検定する. 現在, 検定を受け発 行中の教科書を 現場の実状はどろか 調べ てみると, 現代国語と古典甲は それぞれ一冊単位で出 ているが, 古 典乙1と乙口については, さ らにその中を二つに分け, 古文及び漢文の分冊形式をとるものが多 い, その際, 分冊形式の方が種類も多いし, しかも改訂時にあた っ て, 乙1の場合には, それが 増加する傾向にさえあるのは 注目 に値する. 数字で示そう. 古文. 漢文. 総合. 〔40年 度 用〕. 23冊. 17冊. 6冊. 〔42年 度 用〕. 32冊. 28冊. 8冊. これについては, 俗に 「国,漢」 と称された, 明治以来伝統の日本の国語教育形態の影響が残 そういう古文漢文分離, っ ているものと,一面見 られもしょう が, 需要には敏 感な出版界のこと, さ らには学年別 分離への要求を, 世代的にも 若返りつつあるは ずの現在の高等学校の教育現場が, やは り 強 く 持 っ て い る こ と の 証 左 と 見 て も よ い で あ ろ う,. 実は高等学校で使用する教科書は, そういった検 定済のものばかりとは限 らないので ある, そ の他にも副 教科書や問題練習帳とでもいった類のものが数多く存在する. た とえばその方面の出 版社か ら, 教材見本として, 各学校へ直 送されてくる出版 物の実態を知るな らば, それらがはた している役割の, 重要な一面の意味にも, 考え及ばずにはい られないであろう. ・ 先に記 した (学習状況調査実施の) 高等学校の場合 を例にとると, 教員室の本棚には, そうし して受験教育的需要 っ た種類の本が数多く 並んでいる. 一番多いのは問題集類だが, これは主と に相応 じた性質のものだか ら一応除外 して考える, すると次に多いのは文法であり文学史であり 作文のそれである. ため してみた ら, この順序に, それぞれ, 二十数種,十数種,数種を教えた, 中には (文法の場合) 四十数回も版を重ねる ベスト・セラーも存在する. つまり, これだけの需要が, これ らの方面について,現在の高等学校には あるということであろ う. 総合的な教科書の中 では満たされぬものが, これ らの副教科書類のはた すべき役割として求 め られている. 総合性のたてまえの下にありなが ら, 文法, 文学史などは, 古文, 漢文と並んで 教科書の面からは併存状態の様相を見せているのである. な ぜ こ の よ う な 傾 向 が 生 じる の か. そ れ は こ の よ う な 形 で の 数 え 方, 学を せ方の方が, より機 能的, 効果的であると,現場が判断している 一面があるからであ ろう. これをしも詰め込み主義, 知識主 義の名のもとに, 無下に批判するのは, 一方的にすぎると 思う. ここに認め られる大事な 要素は, 体系的なものへの要求であろう. 指導要領の国語の目標の第 一項に言う 「言語文化に対 ギな らぬ面があると ′ する理解を深め」 させることも, この体 系的ということと結 びつけて考えね{ 恩 、う。. 雑纂主義を改め る必要はないか. こ こ で ま た, 焦 点 を 現 代 国 語 の 教 科 書 に しぼ ろ う. 本 来, そ. のような分割指導の傾向のあった, 古典の方面とは違い, 現 代国語はその教育の歴史も浅く, 従っ て総合性のもた らしている混乱が, 未整理のまま, 一つの 考えるべき現実の問題となっ ていると 思えるからである. 今日では, 現代国語の指導目標の基本は, 日常生活における言語の十分な 「理解能力・表現能 力」 の養成にあるとされている. そ してさ らにその下で, 「聞くこと」 「話すこと」「読むこと」 「書くこと」 の四つ が,具体的な学習の内容と して分析されている, 当然のことと して教科書は,. - 74 一.

(9) . 谷. 口. 巌. この四分野のすべ てにわたる教材を, さ らに指導要領が具体的に指示 している形態別と いうこと を考慮 しつつ, できるだけ網羅的に選び集めて, 一年生 か ら三年生に至る一連 の教科書の中に盛 り込むことを方針とすることになる, それは, 「記録」 「報告」 「説明」 「論説」 「評論」 「詩歌」 「随筆」 「小説」 「戯曲」 「会 議」 「討議」 「司会」 「主張」 「通信」「感想」 等の諸形態や諸事項を含み, 大家の名文章あり, 編集者の書き下ろしあり, また生徒作品ありで, まことに百花襟乱たる様相を呈 した も の で あ る。 その外観の豊富, 多彩であることは, 今次大戦直後までの旧教科書の遠く及ぶと ころではな し、.. 豊富・多彩はおおいに結構である. だが問題は, いかにその豊富さが系統立てられ, 秩序立て られて, 教科書の中に適確に配置されているかという, その点にある. 数学の教科書では一次関 数を理解し得 て始めて段階は二次関数へと進む, 地理の教科書ではたとえば北米の学習を終って 次には南米へというふうに, 教科書叙述の順序には大体きまっ たものがあろう. はた してそれ ら に対応させ られるような基本的な太い線が, 現代国語の教科書を縦に貫いて流れているであろう . たとえば四十年度検定済現代国語教科書の全種につ いて見るとき, 出度数の比較的多い部類の 「聞く 話す.読む・書く」 等各種の同一教材の, 学年別による散らばり具合は, 次のようになっ て い る.. これか らの敬語 (国語審議会). ①2 ②3 ③ 1. 現代俳句. (山本健吉). ①1 ②2 ⑧ 2. 三四郎. (夏目減石). ①3 ②2 ⑤ 3. 論文の書き方. (清水幾太郎). ①1 ②2 ③ 3. ※ ①②⑧は学年別を示す. さらに中学校の場合にまでまたが って調べ てみると, 「吾輩は猫である」 (轍石) の如きは, 中 学校①2②1③1, 高等学校①0②2③3のような広範にまでわた .って散らばっ ている. これ らは, 散らばりの比較的見易 い例をとりあげたのであるが, 特に窓意的にわざわざとり出 したと いう訳ではない, 他にも同種の例が見 られる。 要するに一般的傾向と して, 選ばれた教材 の一つ一つについて, この種の教材はこの学年に, この種の教材はこの教材の後にとい った, 定 着の必然性が乏しいのである, 出版社が違えばたちまち, 同一の教材が学年間を気ままに浮動す る,. もちろん, 各出版社並びに編集者には, 教材の配列やその系統化について, それぞれに理屈が あることで あろう, 慎重審議もされていることと思う, しかし, 十数種の教科書が出そろったと ころで 眺めてみると, 個別的な意図は ともかく, 全体の 「結果」 と しては, 指導要領で指示する 諸事項につい て, 高等学校三年間のうち 「どこかで」 それに触れておけばいいということになり 終 わ っ て い る の か, ま こ と に 残 念 に 思 わ れ る の で あ る,. おそ らくこうい った教科書の編纂態度には, 戦後特に昭和二十年代に盛んであっ た経験単元主 義の影 響が, 根強く残っ ているのであろう. それが雑 纂的傾向に拍車をかけるのである しかし 。 たとえば全部でわずか十編程度の小説を, どうしてさ らに三学年に分離して, 同 じくそれほどの 必然性もなく三段階に分け られた 「話す・書く」 等の教材と, それぞれに混ぜ合わせなければな らない のか. そう して出来た一冊の教科書のページを繰りなが らも疑問は尽きないのである。 秩序的であるものは真に人の心を誘う. 一冊の教科書の中でいろいろに目先を変えて, 学習を - 75 一.

(10) . 高等学校国語教育の現状への疑問と提案. やり方の中には, 生徒に対するかすかな軽蔑 が含まれてはいないだ 「楽 しく」 すすめようという′ ろうか。 一年の課程が終わ らなくては 二年の授業を, 二年のそれが終わ らなくては 三年の授業を 受けることが出来ない--それほどまでには 行かなくとも, 現在の教科書中よりかなりの部分を 思い切って捨てて, 必要 あらば系統毎に分冊と し, その各系統の中で段階的・上昇的な考えを生 か して ゆく, そ う い う 工 夫 の 方 向 が, 今 後 必 要 に な っ て く る の で は な い か と 思 わ れ る。 3, 教 材 陳 列 主 義 へ の 疑 問 , っ. ヤ っ愈. 思J. 現 代 国 語 の 教 科 書 の 中 で も っ と も 多 く の 分 量 を 占 め, した が っ て, 指 導 の 際 も, も っ と も 多 く の 時 間 と 教 師 の エ ネ ル ギ ー と が. 費やされるのは, 「読むこと」 についての教材であろう. 今, この種の教材の問題をとりあげ, たとえばそれ らの一編が, 教科書中において, どのように 扱われている かを見てみよう. なぜな ら, 教科書における教材の 扱い方は, しばしば, 教室における教師のそれの扱 い方を規定し易 い と, 思 わ れ る か らで あ る。. 陳列主 義とは少々奇異な言い方 だが, 他に適当な言葉を 思いつかないので, しば らくはこのま まに しておく. 要するにこれは, 教科書の内容の構成法のことなので, 記録・評論.随筆・小説 等の教材を, 指導要領の指示を考慮しつつ, 編集者が, 自己の知識と関心の範囲から選び出し, それを 次か ら次へと一冊の中に適当に 「置き並 べ」 ている. そのやり方のことである. 教材を置き並 べるというやり方自体は, とりわけ非難されるべきことではない, しかし見事に 置き並 べてしまえばそれで編集の目的は八分通り完成で, その後, その教材を, 実際の教室の中 でいかに 扱うべきか, 生徒には何を 学を せ何を考えさせ, 結局その教材によ っ てどういう方面の 国語学力 がどのく らい獲得されるべきであるのか一- そうい った点に対する編集者の責任のとり 方 と い う も のは,. 現 在 の と こ ろ き わ め て 瞬 味 な ま ま に 放 置 さ れ て い る の で は な い か と 思 わ れ る.. つまり 教材の外観のはなやかさに比べる時, それについての具体的な作業内容の指示, 分析的か つ組織的な設問といった面は, 疎略に過 ぎると思われるのである. 言 っ てみればそれは, 展覧会場における 絵画の陳列のようなもので あって, 選者の目によ って 選ばれた絵が数多く多彩に並んではいるが, 鑑賞者にと ってその一つ一つの鑑賞の手引きとなる ものは, せいぜ いその 下には られた一片の題名 だけで, それ以上はまっ たく鑑賞者の気分のまま 除的に 「陳列」 主義という所以である. に 「放任」 されているのに似ている。 あえて比- したが っ て陳列主 義は, 本質的にまた, 教材さえそこに並 べておけば何とかなる, という楽天 ・ととなる設問は, どの教科書の場合でもない訳で 主 義でもある. もちろん, 教材の読解のヒ ソー はないが, それらはほとんどの場合, 遠慮深げに 「学習の手引き」 等と称せ られて, 読解の対象 となる文章が全部終わ ったその後に, わずかに数行あるいは十数行程度付されている だ け で あ る,. それゆえに, ごく自然な順序に従えば, 教師か ら特別に克明な指示でも事前に無い限り, 生徒 はまず漫然と 教材の文章をひとわたり 読み, それか らこの 「手引き」 の線に沿っ て考えたり, 時 ・えなかっ たりする訳で, ついその吟味態度は 読後感想的になり, 大雑把になりやすいので には考 ある. 設問の内容の方も,生徒や時には教師自身もおち入りやすいそういっ た傾向を助長するよう な, 大まかなものが多 いと 思われるのである. たまに文中の語句 や部分をと らえた, 分析的ない い質問 があっ ても, その数はいかにも少なく全体については不徹底で, しかもそれが 「読みなが ら」 の作業でなく, 実際には 「読んだあと」 の作業となっ ているため, 望ま しい緊張感がともす. - 76 -.

(11) . 谷. 巌. れば薄れがちとなるのである, 以上が教材陳列主義の意味であり,またその問題点である. 換言すればそれは手引き主義・読後 感想主義・大問題主義であり, さ らには教材と設問との遊離主義でもある, その点を今少し, 実 際の教科書について見てみよう. 小説及び評論の教材を例に, 考えてみることにする。 「手引き」 の実際はどうか. 例 え ば 現 代 国 語 の 教 科 書を 開 い て, 夏 目 徽 石 の 「三 四 郎」 の 取 り. 扱い方を見よう. この作品は小説ではもっ とも出度数が多く, 六 社の教科書にそれが見 られるが, 今, その引用部分がほぼ共通な四社のうち, 一年用ということ でも共通ずるD社・H社・1社の場合を見ることにする. さて, 教材と して採用されたこの作品の共通個所は, 原作の第二章の前半部で, 九州の片田舎 から東京へ着いた三四郎が, 東京と いう現実世界の劇烈な活動ぶりにまず驚き, 理科大学に野々 宮君を訪ねて, その現世を超越したような学問の世界にまた驚き, 自分が今まですごして来た 過 去の世界とそれらを比較 しつつ, 深い孤独感に襲われて, 大学の池 のほとりにひとり坐りこむ- という, 例の美禰子登場の直前までの部分であ る. 各社の教科書ではこ の部分の長さが, 平均 し て約 八 ペ ー ジ と いう 見 当 で あ る.. ところで, この八ページの分量からなる教材に対して, 各社の教科書が指示している作業課題 はどうであろう。 まずD社は 〔研究〕 及び 〔ことばの研究〕 として両方で八題. その内訳は, 本文の具体的な個 所 (一・二行程度) を指示しその細部の表現の意図をたずねているもの三題. 同様に細部につい て語法の吟味 (助詞の説明) を要求するもの二題. これらをかりに部分的設問というならば, 他 の三題はもっ と大きな範囲についての総合的な性質のものである, 次にH社の場合は 〔研究の手引き〕 と称されてこの範囲に該当する設問は四題, うち一題が細 部の表現とその意味を問題にしたもので, 他の三題は総合的. たとえば, 「この小説の表現で, お も しろ い と 思 っ た と こ ろ を あ げ, み ん な で 話 し 合 っ て み よ う」 と い っ た 類 で あ る.. 最後に工社の場合は 〔学習の手引き〕 と称されてわずかに三題, それ らはすべ て総合的性質の も の で あ る,. これ らを通して考えさせ られるのは, まず全体として設問の数があまり にも少ないということ で あ る.. 平 均 して 一 ペ ー ジ に つ き 一 問 の 割 合 に も 達 し な い。 さ らに 問 題 の き め が き わ め て 粗 い と. いうことである, 部分の深い分析・理解あるいは徴 妙な表現の味わいを求めた性質のものは少な い。 総合的 o 包括的な性質の間が多く, それ らは主人公の心理の動きを漠然と問うたり, 全体の 感想を大づかみに求めたりしている. 語注こそ各書に散見するが, 語桑の方面について, その意 味を深めるような問いかけは皆無である, 評論教材について見ても, 〔学習の手引き〕 の設定の基本態度は, ・説とほとんど変わ らぬと 言っ ていい. 例えば出度数の最も多い部類に属する丸山真男の 「日本の思想」 だが, 共通部分を 有する三年用教科書F社・G 社・K社について調べ てみると, 平均 して七ページの教材の分量に つ い て, 次 の よ う な 結 果 が 見 られ る.. F社…………四問 (うち細部に関係するも の一) G社…………六問 (うち細部に関係するもの三) K社…………五問 (うち細部に関係するもの三) 評論は一般に, 周到に吟味して選ばれた単語が, 飛躍を自制 した級密な論理によ っ て結び合わ され, ー編の主張をなすもので, しかもその背後には筆者の人間存在にかかわる深い熱情がこめ - 77 -.

(12) . 高等学校国語教育の現状への疑問と提案. られているの を例とする, その点を逐一読みと っ てこそ始めて 「読解」 と言い得るのだが, その 点についての学習指示が, 以上のようであ っては, 漠然とその数量の面か ら見ても, たよりなさ の実感は免れがた いように 思う. 読解教材における 「手引き」 の設問態度にはその他いろいろと問題に すべきことが多い, たと えば 「段落」 を指摘させたり, 「大意」 や 「要旨」 を言わせたりするというよくある形式も, そ の設問の 「主旨」 は分るものの, それがあまりに しばしばくりかえされたりすると, 定型的・機 械的なものになる, さ らに, わずか二, 三題の貴重な設問の一つが, 「他にも筆者の作品をいろ いろと読んでみよう」 といった調子のものであ ったりすると, 何のためにその教材を選択 し教科 書の貴重な ページをさ いたのか, その必然性つまりは編者の主体性が, 疑われてくるということ に も な る の で あ る.. このように読解教材 が, 「手びき」 の設問の不備 か ら 「読解」 教材と して徹底せず, 暖味なも のに終わ っている一方では, 本来読解教材ではない種類の, たとえば方言や話 し方に つ い て の 「解説」 教材が, その 「手引き」 に関する限り, 「結論」 だの 「要旨」 だの 「語句の吟味」 だの 等, 読解教材と同じ行き方をと っている場合がままあるのは, いよいよもっ て不思議なことと言 わ ね ばな る ま い.. 発問方法を改める必要はないか. それではその 「手びき主義」 の欠陥による, 作業課題の全般. 的な少なさ,,分析的傾向の薄弱さ, 語句指導についての無配 慮等は, 何によっ て捕われているかというと, それは多く の場合教師の教室における 発 問 で あ る. 教材を読み進みつ つ, 教師は臨機に発問 し, 生徒はそれに応じて適当に答えたり, 分りませ んと逃げたりする, 問題となる個所はあ らかじめ教科書に指摘されている訳ではない し, 教師が 変われば発問の数や傾向も懇意的に変わる し, これほど学習者にとっ て予習 しにくいものはない と 言 え る.. 言っ てみれば, 現代国語の授業においては 「教師は猛烈に勉強 し工夫 し, 一方生徒は何もせず 遊んで」 教室にのぞむので ある. もちろん, すく れた教師の指導 する教室では, そんなことはあ り得まいが, 平凡な教師が普通に 教科書をとり扱っ て授業する場合, 現在の教科書の仕組みでは そうなる方がむ しろ自然で ある. 教師の 「名人芸」 によっ てではなく, 教科書の 「合理化」 によ っ て こ そ, ま ず こ の 弊 害 を 少 しで も 改 め る よ うむこ しな け れ ば な る ま い,. 実は 教科書会社のほとんどは, 教科書とは別に 「教授用 資料」 「指導参考書」 等と銘打っ た, 「教師用」 の手引き書 を出しており, その部厚さは しば しば驚くべきものがある, (例えを N社 ) そ してその 「教師用」 書の中には の如きは 教科書350ペ ージに対して指導書702ペ ージである, 各教材について一一の語句の解明もあれを , 部分部分の意味を分析的に追究するための指導例も あ り, さ らに は 評 価用 の テ ス ト問 題 と そ の 答 え ま で の せ られ て い る と い っ た ふ う で,. まこ と に 多. 彩かつ懇 切丁寧なものである. こういっ た努力を陰では 払っ ていな が ら, その材料を精選 し秩序立てて, なぜ演習用課題と し これは まことに不思議な感覚 て教科書の中に, つまりは生徒の前面に押 し出 して来ないのか が総ページ数の増大を規制 しているためか である. 教科書の検定制度 , ある いは単に教師の権威 を生徒に保つための秘 密主義なのか, ともかくもこのままでは, 生徒は勉強における無方針・無 秩序を余儀なくされていると言われても仕方 あるまい. 一問一答形式の発問指導は, まことに教室における国語 教育の基本であろう, しかし, 問う側 と同様, 答える側にも, 事前レニ十分の学習と思考とがあり, そういっ た両者の共通の土俵の上に - 7S -.

(13) . 谷. 口. 巌. 立っ てでないと, しばしば形式に流れ, 思いつきと投げやりの傾向を生むこととなる, これでは 真に言葉を愛 し, 思考を深める教育とは成り難い. むろん, 教室における話題が発展 して, 空想 や論理の連鎖を生む場合の教室の活気--その楽しさと有効性は疑わぬが, 出発点があまりにも あや ふ や で は 困 る の で あ る,. 少なくとも読解教材については, 一ページに平均二, 三間程度は, 教材の読みと並行して辞書 調べや思考の課題があ らかじめ提出されており, それらの積み重ねと して, 各教材の最後に総括 的設問や発展的学習課題があり, それらが学年毎, あるいは三年間全体と して集積されて, 文字 力や語桑語法の知識や,それに伴う理解・表現力や, 思考や問答の態度等の各方面がそれぞれの達 成目標に到達できるよう配慮された, そういった部分と全体とを分かち難く結ぶ, 有機的にして 周到な指導計画が必要と思われる, つまり, 生徒の立場か ら言え ば, 十分な作業課題についてあらかじめ予習 し, それについて学 友や教師と教室で討論しある いは 教え られ, 時によっ ては発展的課題を追究するといった徹底 し た 「演習主義」 の要素を, 授業の中に要求 しなければな らない。 (数学の問題演習にもその場合 は似るものとなろう,) もちろん国語の授業形態はこれだけではないが, 目下のところではこの面 があまりにも不徹底で あり, その弊害の根源を ま教科書の暖味な教材と設問の形態にあると, 考え られ る の で あ る.. 一部 の教科書出版社, たとえばL社は, すでにこの考え方を教科書の中に試みているかのよう にみえる. 「伊豆の踊子」 (康成) の教材と しての引用部十四頁に対しブ 二十六問ほどの一連の 設問を, 本文に並記 して提出 している. また別の行き方と しては, 教科書とは別冊に して, 併用 の 「学習課題集」 を出すものもある‐ たとえばE社は 小説 「黒い御飯」 (永井龍男) 七ページの 教材について, この別冊に四十五の並行課題を示 し, かつごく最近の改訂版ではこの教材に限 ら ず, ほとんどの教材の後に 「関連語句」 の項を設けて, 語義認識の深化と語桑力の増大をはかる 等 の, 新 しい 試 み を おこ な っ て い る. 別 冊 と い う 形 式 は あ ま り 感 心 しな い が, こ の よ う な 傾 向 は. 今後一層推 し進めるべ き, 望ましい方向であると考える. 4. ,. ,出 バ. 実 用 技 能 主 義へ の 疑 問. さ て, 国 語 学習 に お け る 「言 葉 の 訓 練」 の 不 足 と い う こ と を 前 項 で 述 べ た が, こ の よ う な 傾 向 の よ っ て 来 る と こ ろ は, 意 外 に. 深く, また 根 本 的 な 問 題 に か か わ っ て い る の で は な い か と い う 疑 い を,. こ こ で は 述 べ て み た い.. 実用 技能主義とは, 国語教育の目標の第一を 「(日常)生活に必要な」 国語の能力を広く習得す ることに置く立場である. そ してそのための手段としては, 日常生活に 即した, できるだけ豊富 ・多彩な言語生活上の経験を, 児童・生徒に与え, その理解・表現の実践活動を通 して, 言語生 活に役立つ実際的な国語力を養っ ていこうとするものである, 指導要領の小学校・中学校・高等 学校各編は, その国語の部の冒頭 「目標」 の項において, そのことを一貫 して強く表 明 し て い る.. この国語科の目標はどのように して具体化されるかというと, まず第一に現代国語の重視であ る, 小学校はもちろん, 中学校の場合も古文教材はほとんど無い, 高等学校では現行指導要領に よっ て, 「現代国語」 を科目と して独立させその充実をはかっ た. 次にその現代国語の内容を見てゆくと, 言語活動を 「聞く」 「話す」 「読む」 「書く」 の四領 域に分けている. それ らは一方面に片寄ることなく, すべての面で発達 しなければな らない国語. - 79 -.

(14) . 高等学校国語教育の現状への疑問と提案. の能力である. しかもそれ らは単なる知識にとどま らず, 習慣・態度・技能のすべてが養われるものでなけれ ばな らない. 特にその意味では 「聞く・話す」 の活動 が問題となる. 指導要領では, 会議・討議 ・司会・報告 o 主張・説明・論証等の諸活動を実際にさ せるよう指示もしている。 たしかにこの考え方は, 戦後の国語教育に新生面を開いたものである. 「読み・書き」 の能力 偏重されたき らいのある の重要さの意味はもちろん変わることはないが, とかくその方面 だけが・ 過去の国語教育に対し, 「聞き・話 す」 という言語活動の面を, 重要で価値の高いものと して位 置 づけたのは, す ぐれた国語教育上の見識であっ た. 当然, 小・中学校か ら始まって, 高等学校 でもそういう方面についての学習計画が組まれ, 教科書の中にもそれに関係した具体 的・実践的 教 材 が 出 てく る こ と に な っ た こ と は, 了 解 で き る.. しか し高等学校の場合を見る時, ここにも, 学習計画・内容・その他, 疑問の余地がない訳で は な い。 以 下, こ の 点 に つ い て 考 え て み よ う,. 実用教育の核心を何に求めるか. 例えば 「会議・討議」 についての教材をとりあげる. たいて い の 教 科 書 の こ の 種 の 学 習 計 画 に は 「型」 が あ る。 ま ず 第 一. に, 会議・討議 の意義や方法や心得につ いての 「かたい」 説明文, またはその道の達人の体験談 等を入 れた 「やわ らかい」 エッ セイ, そ してその次に, 「では何々の問題について実際に討論 し てみよう」 という, 実践活動への指示である, 問題はどこにあるか。 まず第一に説明文, その説教 的な態度, また注意事項羅列 的な記述の味 けなさが, それが小説や紀行文等の間にはさまっ ているだけに, 読むものの興味をそく. それで もまだこの方は, 能率的な文章という事で評価しよう, どんどん読め ばよ い. また必要に応 じて 記憶すれ ばいい. かえっ ていけないのはエッ セイ的な文章, 往々に して生徒は, 読解教材の延長 と して こ の 種 の も の に も 接 す る.. 教 師 も ま た 「発 問」 に よ っ て そ の よ う な 扱 い方 を し て しま う.. :柄について さて文章の中味はというと, 読解作業に値するほどの深みは なく, またかんじんの事 の記述や説明は, 部分的・一面的である. さて次に, 討論活動の実践の方だが, これが, 教科書の指示する手 順に従え ば, 往 々 に し て 「討論 ごっ こ」 に陥ることを 避け難い, その論題が, 本当に自発的・必然的なものに支え られて いないと, せっ かく説明文の方では 「聞くこと・話 すこと」 について 「誠意ある態度」 が基本だ と説いてあっ ても, それとう らは らな結果を招いて しまう, 火災に備えての待 避訓練か何かな ら い ざ知 らず, 討論というのは人の心を吐露 し合うものであっ てみれ ば 「何々 ごっ こ」 と い っ た よ は耐え得ないのである, 生徒はそこに「偽善」の うな, 形式的な人工的な場には, 生徒の純粋な心む 匂いをかぎ不機嫌に黙り込む. その表情は決 して「こんなことは受験勉強とは関係がないんだ」等 という, 功利的なそれだけではない. 大体, 高校生の年頃というものは自意識の成長がめざましく, 両親にも, 教師にも, 友人にも 既存の社会一般に対しても, 漠然と した反抗心 や鋭い批評眼を持ち始める. 考えるものは黙り込 む. 思春期特有の繊細に して不安定な心情もそこに働く. そういっ た生徒たちに対 し n璽語」 の学習の名目のもとに, 「討議に積極的に参加する望ましい態度」 を要求することが, 本当に 「国 語」 の学習であるものかどうか. それはむ しろ, 心理学や生理学の領域のことではないか, 時に は話題の上で社 会科そのものではないのか, それに, 週に二, 三時間しかない現代国語の授業時間内のみが, そういっ た討論の 「場」 を提 供 し得る唯一の機会ではない. 戦後の高等学校には 「特別教育活動」 という, 教科を難れた教育 - 80 -.

(15) . 谷. ロ. 巌. の場があり, ホ ームルーム活動, 生徒会活動, クラ ブ活動等, 討論一つに限 らず, 格段に「聞き, 話す」 実践活動の場は多し ・のである. それらは しばしば, 必然的な話し合いのテーマに支え られ 貴重な成果をあげている. 「聞く・話す」 という活動の実際経験について言えば, その他にも, 学校外の 「場」 が 生徒 , らにそれを与える量的側面は圧倒的である, 家庭内において, 友人間において, それは しばしば 経験きれる, 真 に実生活に必要な具体的な能力は, 職業生活という 必然的な場がやがてそれを鍛 える. それ らにく らべた ら, 国語の授業時間内における, わずかな模擬的実践は, まことに絵空 ごと の感が深 い, その必要性を全く否定する訳ではないが, 「聞く・話す」 についての模擬的実 践学習の多くは, 心理的, 生理的抵抗 の方面を余り考えなくてもいい中学校までの段階に移すべ きであろう, 実用的な国語の教育はもちろん大切である, だがそれを, 「会議・討議」 の一例に限 らず言語 生活と いうことで考えられるす べての方面について, その習慣・態度・技能・知識 に至るまで , 学校という場で, 国語という授業の中で教育上の責任をとろうとすれば, これは容易なことでは ない. 学校が学校と して, 人為的に組み立てられた社会であるか らには, 国語が国語科と して存 在するからには, たとえ言語生活一般をとりあげるに しても, その中で 「何を」 特に訓練すべ き か, そこをよく考える必要がある. いたずらに言語生活の諸形態の迷路の中に入り込まず その , 実用の世界の中にある国語的に純粋な要素を, なるべくとり出 して行く必要があると 考える , 罫 鮎紫 P. 寄,. 、. 討 論 の 場 合 に 限 らず,「聞き,話 す」こ と の 基 礎 は 言 葉 で あ ろ う。 明 瞭 な 音 声 言 語 で あ ろ う と こ ろ が そ の 発 声 法 の .. 具体的な点に触れて, 今の国語教育はどれほど徹底 しているというのだろうか ラ行 の発音, ガ , チ テの発音, あるいは快い母音の響かせ方, アクセントや抑揚や朗読法, また人に聞かせるべき適 当な声量 の用い方等--そういっ たことの研究は進み, 達人は いるというのに どう してそれが , 知識と して, 訓練と して, 実際の教育の場に根をおろしてはいないのだろう 「日本語だからや . らなくとも いい」 というのでは, あまりにも安易にすぎる考えではないだろうか . 人 は 「町 人 貴 族」 (モ リ エ ー ル) を 読 み,. ジ ュ ル ダ ソ先 生 の 言 葉 の け い こ の 場 面 を 笑 う しか .. し, 日本人の日本語に対する自覚の程度 の現状か ぢ言えば あの場面は単に笑うだけではすまさ , れない, きれいな言葉, 正 しい言葉を話そうとする態度は, きれいなもの 正 しいものとは何か , という, 認識にささえ られていなければな らない. その上にたっ てこそ 反復訓練が意味をもつ , のである, かりに学校の段階で訓練が未熟のままに終わっ ても 基準と しての知識ある限 り, 人 , は終生そこに, 反省・向上の拠点を求め得るのである. 学校と いう場は, 特に高等学校という場 は, そ う い う 認 識 教 育 の 場 と して 適 して い る.. 「読み・書く」という国語教育の次元でも,そのことは言える いたずらにいろいろな形式の女を . 読めば よいと いう のではな い . い た ず らに い ろ い ろ な 文 体 や 内 容 の 文 を 書 け ば よ い と い う の で は. ない, 文章というものは文字言語である言葉を仮に用 いて, その背後に深く思想の世界を秘める の で あ る. 言 っ て み れば 言 葉 は 「手 が か り」 で あ る に 過 ぎ な い が, こ の 「手 が か り」 無く しては. 一切の思想は不可能なのである. 当然, 文字言語においては 個々の言葉は歴史とともに一層深 , め られ日常的であると同時に陰暇の多いものとなっ て来ている . そういっ た 「言葉の秘密」 に対し, われわれはあまりにも日常的な次元で, 気楽に接しすぎて い る の で は な い か と 思 う, 少 な く と も 学 校 と い う 場 に お い て は、 一 連 の 言 葉 の 集 ま り に 対 して た. だ表面的に反応するだけではなく, それらを組み立てている 一つ一つの文字について 単語につ , -S I-.

(16) . 高等学校国語教育の現状への疑問と提案 いて, あるいは語法について, それらを 分析的に考える態度を養いたい. 当然そこにも, まず確 実に必要な限りの文字が読めかつ書ける能力 か ら始まっ て, 和語・漢語の語源や語構成, 文字の 変遷,発展の歴史や, 仮名 づかい論・文法論, あるいは また当面の国語国字問題について等のな るべく豊富かつ正確な 知識が, 要求されてく ると思われる, 言語を, 「表現一理解」 の過程の中においてのみ, 真に 「生きた」 ものと して捉える言語観は 本質的には正 しい, しかし, だか らと言っ て, 辞書の中や 国語学の教科書の中に記載されている 言語の 姿を, 「死んだ」 ものとして否 定し去る立場 があると した ら, それは専 断に過ぎるものと 思 わ れ る. そ う い っ た 「知 識」 は, し ょ っ ち ゅ う 自 覚 さ れ, 記 憶 さ れ て い る も の で は な い が, 言. 語をよりよく 「生かして」 使う習慣や態度の機縁を, 常にわれわれに提供するのである. その意 味で言 語は, 重宝な実用 の具であるとともに, 貴重 な文化遺産でもある. 知識教育は決して実践教育と矛盾するものではない, 人の世には 認識以前に宿る不 合理な愛も あるが, 普通には, 対象について 「認識」 を深めること が, そのものへの 「愛」 を 増す原因とな るのである, 国語 が乱れているといい, 将来の国語はどうある べ きかと, 世の人は問う. 一方で は不必要 な負担は減 らすといい, また実用技能の練習が先だと考え, 肝腎の国語そのものについ ての知識の扱いは, 教育の場では低迷 して来ている といえよう. これではたして, 日本語を愛す る精神 が育ち得るであろうか. 指導要領では高等学校の場合, 「目標」 の第三項に 次のように説く, のはた らきを理 解させ, 国語に関する 知識を高め, 国語に 対する関心や自覚を深め て, 国語を尊重 し, その発展に寄与する態度や習慣を身につ けさせる, このような記述にもかかわ らず, 現行の教科書でもっ とも不徹底, 態度暖 昧なのは, この国 語認 識や国語愛の教育の方面である. これを活 溌化・系統化するた めには, 何といっ ても, 「国語要 説」 または 「日本語の歴史」 といっ た性質の, 教科書形態の高校向 の教材 が編まれる 必 要 が あ こ とを. る. 「古典文法」 及び 「文学史」 と並 ぶこの種の副 教材がほとんどないという, あるいは 「古典 文法」 だけがこの種の教材の肩替わ りを しているような, 不思議な現状は, 早急に改め られる必 要があろう, ×. ×. ×. さて, 以上の考察の上に立っ て, 今後の改革への方向 づけを, さ らに具体 的に私案と して述べ る 必 要 が ある が, そ れ に つ い て は 次 の 機 会 に ゆ ず り た い.. 主な参考文献 文部省:高等学校学習指導要領「国語編」 同 :高等学校国語科指導資料「教材と指導法」 <付 記>. (1966. 9. 30). 0年度使用文部省検定済の各社版によっ げた教科書は, 原則として昭和4 1 . 教材分析の資料としてとりあ た.. 略称は, 「教材と指導法」 の記述にならった. ベ 2 , アルファ ットによる出版社の 調査の実施先は 生徒に対する学習時間 3 , 私立・函館ラサール高等学校である. .. - 82 -.

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参照

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