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ワイマール共和国末期のドイツ社会民主党指導路線の基本的性格 : 1932年選挙闘争を中心に

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(1)Title. ワイマール共和国末期のドイツ社会民主党指導路線の基本的性格 : 1932 年選挙闘争を中心に. Author(s). 山本, 佐門. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. B, 社会科学編, 29(1): 1-15. Issue Date. 1978-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4412. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . ワイマール共和国末期のドイツ社会民主党指導路線の基本的性格 -- --‐1932 年 選 挙 闘 争 を 中 心 に --. 山. 本. 目. 佐. 門. 次. は じめ に. 第1章 1 932年初めまでの 「寛容路線」 の枠組とその問題点 第2章 大統領選挙とSPD 指導部 第3章. プロイセン邦政府防衛の闘い. 第4章. 「パーペンクーデター」 以降のSPD 指導部. 第5章. 社会民主主義路線の性格とその問題点 -一 まとめとして --. は じめ に. ナチスの台頭, ワイマール共和国の崩壊に直面し, 当時一大政治勢力を形成していた ドイツ社会 民主党 (SPD) はこの事態に全く有効に対応しえず、 壊滅していっ たこと, とりわけH・ミュ ラー. SPD 主導内閣の崩壊, ナチスの国会大進出の中 で党指導部によ っ て打ち出さ れた 「寛容路線」. i (To r e r e r ungsku r s) によっ て,消極的対応と展望喪失の傾向が決定的となり、 何らみるべき抵抗を 行わず、 非合法状態に追いやられていったというのが 「常識」 といっ ていいほ どの通説的見解であ る. こうした見解によれば, ドイツ社会民主主義勢力のファ シ ズム攻勢に対する無力化の原因はす でに共和国安定期の中 で生じ,「寛容路線」 定立によっ て決定づけられたということ であり, この期. からナチス独裁確立ま でのほぼ2年半はこう した社民路線破綻を確認するプロセスと位置づけられ る.. 大局的にみればこの「通説」の正しさは動かしがたく,それへの反証は見出しえない. しかし 「寛. 容路線」 定立後もなお社民勢力は状勢分析に基づき反ナチス, 共和国防衛の闘いをつ づけたのも明 白な事実であり, この闘いの実相, 闘争指導の具体的内容を遡及論的立場を避けつつ検討すること. は今なお 「社会民主主義論」「反ファ シズム運動論」 を考えるためにはもちろん 「ワイマール共和国 崩壊論」 を深めるためにも積極的意義を有していると思う. この小論ではこうした視点から, 共和 1 )の対応を中心に分析し SPD 指導部の方向感覚 国末期の党路線を,32年の5大選挙への党指導部( , 2 ) 喪失, 消極的対応が基本的性格とされる 「寛容路線」 の動態をとらえ直 してみた い{ (注1)「SPD 指導部」 という場合, 具体的には党執行部, 党委員会, 党国会議員団をまとめて考えている. 当時 のSPD では組織は比較的安定しており, しかも集権化 が極めて進んでいたので, 「党指導部」 の見解は党員, i d Hunt 支持者に大きな影響力を持ったと考える, なお政党構造からのワイマール期のSPD 研究には, R r cha , ia Ge IDemoc l ive i ty rman Soc racyl918一1933(Ya e Un r s , 1964) があ る,. i Br (注2) こう した視点から共和国 末期のSPD を考え直す場合次の著者の論文がとくに参考になる,( 1 ) ch.

(3) . 山. 本. 佐 門. Ma ias ia l t th demokr i iDeut t t l i eSoz ー a sche pa r t dor f e sch ands rpa r )( 2 e enl933(DUsse ) ,Di ,in:DasEndede ,1960 Hans Momms S i l d k i i h 1 K b t l ksPa i(Fi en z mo te o a e r a ez s n w ce ass en eWegungundvo r s cherTaschenbUCher ) , ,1972 , inr ichPot f iesoz i l demokr i ( 3 thof isl945(Ver )He angenb l l l a f at evonderAnf tGmbH,1974 ag NeueGes ) e scha ,D A l d i ( 4 )Hagenschu W d d? l V N l l h f t G b H ( tG I 9 7 5 ze I 1 a s s u n o e r e r s a n r e a e u e e s e ) ま た p s c a m g こ の に g れら 見 解 , , ’A o h ias i i be IKunze,”Er t t l 批判的な研究として( 5 )Ba r og ede rSPD‐Entwick ch Ma ung“ pl gumentNr ,in:Das Ar 63 ( 1971 54 ) 78 iademokr ‐ ie 1890一1933 6 ) Georg Fulberth und Jurgen Harrer t e deut sche Soz a , S. ,( , Di h h l t ) i uc e r and Ver bewegung ag t ) Geschichte der Deutschen Arbe 7 er ,1974 , さ らに東独のもの と して{ . Bd4 l t (Di )がなお代表的 また 最 近( l )Hagen schu e z Ver ag 8 to Braun 叫erPr i t ze euBensdemokr a s chesendung? ,ot , l (Pr l aen Ve 977 opy )という大著が出た. 和文では( r ag 9 )村瀬興雄 「ドイツ社会民主主義の 「転換J 」(思想481 .1. , 1 96 4 )Q O D上杉重二郎 『ドイツ革命運動史』 上・下 (青木書店, 1 96 9) , QD山口定 「ヴァイマル共和制の崩壊過程」 (『岩波世界の歴史2 7 』1 97 1収録) , が参考になるが, 正面から取り上げた研究論文はまだみあたらない.. 第一章 1932年初めまでの 「寛容路線」 の枠組とその問題点 32年の政争 への党指導部の対応を具体的に検討する前提として, 定立後一年以上経た党路線=寛. 容路線の基本点とそれに伴っ て生じた問題点を確認しておく必要があろう.. 寛容路線の中心は周知の如く, ドイツファ シズム (ナチス) の政権奪取阻止のために, 専ら中央 党など 「穏健右派」 勢力と協調関係を強め, 本来 「反社民的右翼政権」 =ブリューニン グ内閣を消 極的ながら継続して支持してゆくというものであった,. 寛容路線の対極にある原則的反対路線の選択は, 中央党の一層の右傾化, ナチスの影響力, を強 め, ナチス政権への道を極めて容易にするとして, 明確に拒否され, 議会内外での現政府攻撃の試 みは抑制され, 同時に現状打破勢力 ドイツ共産党 (KPD) との共闘も意識的に否定された. しかも この寛容路線の遂行は党指導部が「共和国最強の保量」と自認する プロイセン邦 SPD 主導型政府の 維持という目標とも結合されなお一層根拠あるものになっ た. そしてこの路線定立以後議会では政府不信任案緊急令廃止に反対し, さらに軍事予算反対の立場 さえ放棄し, 議会外 では, スト, 暴力的衝突を回避し, 合法闘争の枠に極力止まるべく努力 し 現 , 1 ) 政府維持の重要な支柱となっ た( . しかしこの路線は党指導部にとっ て, 全く楽観的に, その問題性に無自覚で, 遂行されていっ た わけ ではない. 31年6月の全国大会 (ライ プチ ヒ) で 「フ ァ シ ズムの克服」 というメインテーマの 報告を行っ た党最高幹部の一人R・ブライ トシャイ トの際賭の意を示しつつの寛容路線継続の訴え はその代表例 である.「我我の組織に十分に結集していない労働者達の中に我我の態度への疑問が生 じているのを知らねばなりません. ブルジョ ア諸党が, ファ シ ズムに対する防衛を最重視する我我 の決断によっ て, 経済政策上, 社会政策上, そして他の諸領域で利益をひき出そうとしているのは 明らか です. また現在社会民主党を憎むべき, 闘う必要のある敵とみなしているコミュニストは,. 我我の一時的に, やむなく強いられている綱領上の要求の放棄を攻撃の材料に使っており, 我我の 支 持 者 の 一 部 が コ ミ ュ ニ ス ト に 流 れ こ ん でい る の も 明 白 です. そ れ ゆ え に 我 我 は, 自 ら が, そ し て. 他の人々 が我我に求めている事が, フ ァ シ ズムへの防衛にとっ て高す ぎる代償 ではないか, 今ま で. と同じく個々に検討せねばなりません, このことは, 今日, 明日のうちに緊急令が出されるゆえに, とくに国会議員団にとっ て火急の問題 です.(中略)昨日の討論で党の責任性についての話が出て,. 党の今ま での政策をつくり, 弁護してきたものにはあたかも責任感寛がないかのような発言が出ま. した. これはとんでもない誤り です. 責任というものの中核は当面の扇動をうまくやるには何が必 要かではなく, 労働運動の未来の保障のために何が必要か, まず問うことにあると思います. 党や 議員団内での意見対立はここに集中していると思います, と, くに社会民主主義政策の限界がどこに リ ム.

(4) . ワイマール共和国末期の ドイツ社会民主党指導路線の基本的性格. あるかということは 決定的な問題です. こうした討議は, 民主主義の維持を第一に考える人々は,. 民主主義的土台の保持こそが労働者の要求実現のための本質的前提の一つ であると信じているとい うことが否認されない限り, 大いに歓迎すべき であります. もちろん我我による寛容と回避 の政策 は, それ自体目的ではなく, 強い, 一時的な必要から出たもの であり, 我我が ブルジョ ア化した わ け では な い こ と, そ し て フ ァ シ ス ト の 野 望 を ブリ ュ ー ニ ン グ政 府 が 抑 え よう と し, 抑 え る こ と が で. きている 限りで, これを支持しているだけであることは明白であります. 我我は憲法の民主主義的 2 } 中味を救うためにのみ, 民主主義の形式が傷つけられているのを耐えているのである」( それでは党指導部にかくも重大な譲歩路線を強いた敵勢力 ドイツファ シ ズム=ナチスに対しての. 評価はどのようなもの であったろう.ナチス支配の害悪への党指導部での評価は30年末の寛容路線 定立以来全く一貫している,「ナチスは議会的に統治しようとしない. それらは政府のあらゆる権力 手段を強化しようとし, とりわけ国防軍と警察をその命令下に置き, 重要な行政上のポストをその. 支持者で占めようとするであろう. カムフラージュ されようとされまいとヒッ トラー政府は国会を 全く排除し, さらにそれを越え人民のすべての民主的権利の破壊をめ ざす. フーゲンベ ルク・ヒッ トラーの政府の帰結はナチスデマ ゴーギの暴露でもナチ スの解体にもならないであろう, ナチスは イタリアの例を再現しようとする. それゆえ労働者の全組織の破壊 であり, と同時に軍事的戒厳状 態, すべての言論, 集会, 他の政治的自由の廃止, 国内 での継続した内乱の危険, 他国へは復讐戦 3 ) 争をもたらす」(1 93 0年度 SPD 年次報告){. これと全く類似したナチス批判は, ナチス独裁確立ま で, 公式宣言としてくりかえし発表されて おり, 当時の SPD 指導部のナチスの脅威についての認識は適切 であり, ナチス主敵論も極めて当を えた目標設定であっ たといわざるをえない. しかしこの寛容路線の継続は先に引用したブライ トシャイ トの苦渋に満ちた報告にみられるよう に党内でも多くの疑念を生んでいた, 問題の一つは,寛容路線はナチスの「合法的」な形 での政権獲 得阻止を前提とした立場 でのブリューニング政府支持,中央党との協調の保持のための議会内での消 極的対応という傾向が強く,議会外の政治的圧力 により,政府が右傾化,独裁化してゆくことに,いか. に歯止めをかけるか不明確 であったこと. もちろん党指導部はナチスの非合法な形 での「権力奪取」 の可能性も想定し, 議会外で大衆的な形で防衛闘争しうるいくつかの大衆組織, 武装集団をつくり, 1月の大規模な共和国防衛の大衆組織= 「鉄の戦線」 活動させようとした. とりわけ31年1 , 同年1 S P D リー ダーが決して反ナチ闘争において 「 月の準軍事組織 「防衛隊」 の結成は 無展望 無為」 」「 , 4 ( ) の状態に陥入っ ていなかっ たことを明確に示すものである . しかし議会上の譲歩により ブリュ ー ニン グや ブルジョア諸党のナチス接近をおしと どめようとする寛容政策と院外の大衆的圧力によっ てナチス台頭に対抗しようとする方法との共存は難しく, 党幹部は前者を優先し, 後者の活性化を 抑制する傾向が生じる恐れが強かった. 問題の第二は, 消極的な対応で 「資本家寄り, 右よりの内閣」 を支えることに対し, KPD , 党内 左派の批判が一段と強まっ てきたことであった. H・ミュ ラー内閣の崩壊 で責任政党の立場を離れ. たことは, 左派勢力の原則論的批判を容易にし, 党内でこの批判は相当の共鳴板を見出し, これに 対し党規律によるしめつけを強化し, 遂には左派の一部は除名され, 「ドイツ社会主義労働者党」( 5 } S和)P) を結成し, 党分裂という事態に至った( , 第三の問題は自己の当面の経済的利益擁護を主目標とする SPD系大利益集団( 虹)GB , AFA 等) の幹部と 「反ナチ, 共和国防衛」 という政治的課題を重視する SPD 指導層の間に路線上のずれが生 じていたことである.「ナチス政権阻止」という政治的大義の下で労働者達の当面の生活条件が緊急 6 ) 令に よ っ て 次々 と切 り 下 げ ら れて ゆく こ と は 労 組 幹 部 に は 認め が た い こ と であ っ た{ ,.

(5) . 山 本. 佐. 門. そ して当面のこう した重大問題の深刻化を抑える決定的ファ クターは, 組織力, 集票力, プロイ セン社民主導政府の存続, という社会民主主義勢力の現実の政治的力量に支えられた党指導層の闘 争意欲 であっ たろう.. i i l demokr buchderDeutschen Soz (注1) 路線の位置づけ, 活動の記録については,J efu at rdasJ面rl930 r ah a , S P D 「 1 議員団報告 党執行部報告 931 の「 」 」 が有益 また寛容路線下の の活動記録については , , , Franzosterroth. ikde ia l demokra ieBdl l ter t l(Ver undDi et erSchus rdeut schen So z zNachf agJ et .H.W.Di .GmbH,1975) ,Chron. 参照 luber d i l i ipz ig t t e Ve rhand ungendessPD Par (注2) Protokol e ags (Le , ,1931) , S. 102一103 b h l 9 3 S 2 1一2 2 0 (注3) Jah ruc , , . i banne B) ‐ r) chs i (注4)「鉄の戦線」(E s e r neFront) は SPD ,労 , 国旗団 (Re , ドイツ労働組合総同盟 (ADG f i t t z o rma on)は 働者スポーツ諸団体が結合して作られたが,SPD のイニシアチ ブが強い. 一方「防衛隊」(Schu 1年春には 国旗団の主導で自勢力の集会,財政,施設を暴力的大衆運動から守るために作られた準軍事的組織で3 25万の隊員となった,すでに24年に結成された国旗団を中心に SPD 系の共和国防衛の大衆組織の実態をどう位 置づけるか,ワイマール末期のSPD 評価に大きくかかわってくる,E・マティアスはこの大衆組織に結集した人 K IR h D i h i t t t 民の抵抗意欲を強調,E.Ma a s .c ,op , 国旗団を中心・にしたこれらの組織の活動については, ar o e, as l l d (Dr t Re i tGo e Ver ag os r zRo rSchwa chsbanne ,1966) がく わ しい, さ らに 国旗 団 の 具 体的 活動 は, 当 時の国 l i i l i ikan tung で知ることができる. 1 t t sche Ze 旗 団 の 週刊 紙1 us r e Repub er iDeut l l i be i iesoz i i l t t t r ands (SAPD) ( e rpa e sch a s sche Ar er (注5) 左派, SAPD に つい ては Hanno Drechs ,D l in l D i V l l b t b M S d i E h i h ( r H i 1 9 6 5 t e r a l A t t e z Ver ) よ u e e n お び ax ey ew z g Be on an ag nt ,1976) , s a sc geo z ,. (注6) 労組連合幹部は労働者層の当面の生活防衛という立場からたえず大統領緊急令に抗議し, 自らの要求を提 i r eden oder sHeer 示している, 共和国末期の 「ドイツ労働総同盟」 の指導路線の動向については,Hanne ,Burgf l K1 r ag e rhand Ve ss enkampf(Lucht a ,1971) があ る.. 第2章. 大統領選挙と SPD 指導部. 32年に入り最初に党指導部が直面せねばならなかっ た難関は大統領選挙であっ た. 大統領の政治. 的比重はブリューニン グ内閣下 で, 極めて高まり, 議会制民主主義から大統領独裁への統治形態の 急変ともいうべき事態が生じており, 大統領選は どの政党派にとっ ても重大な関心事 であった. SPD 指導部の立場に ついていえば, す でに確認した如く, ナチ ス政権阻止にむけた ブルジョ ア諸. 政党 (中央党が中心) との連携という路線は明白であり, 大統領選挙でも, この路線の適用は明確 であっ た. しかし選挙直前の時期にあっ ては, ヒンデンブルクとヒ ッ トラーの対決は未確定であり, SPD 指導部にとっ ても, 極右の大統領出現をくいとめ るために 他党派の候補を支持するという線 ,. は出せても, 保守主義者で6年前の対立候補ヒンデン ブルク支持の立場ま で進んでいなかった. し かし当時の党指導部からは 「共和国防衛の要」 として, SPD候補を擁立し, 選挙に主体的, 能動的. にの ぞもうという主張は見出しえない. そして事態がヒンデン ブルク任期延長工作の失敗, ヒンデ ン ブルク・ ブリュ ーニン グと極右派 (ヒ ッ トラー及 びハルツブルク戦線) の分裂, 極右派独自候補 擁立, 超党派の ヒンデン ブルク再選委員会の結成, という形で急速に動く中 で, SPD 指導部の選択 もしぼられ, ヒッ トラーが出馬表明し, ヒンデン ブルクが再任の意を公表するや, 党執行部は速や 1 } かに, しか も 明 確 に ヒ ン デン ブ ル ク 支 持 を 表 明 した( .. ヒンデン ブルク出馬声明の日, SPD 最高幹部○・ウエルズは 「我我にとっ て, この選挙闘争では ただ一つの目標, ドイツ でのフ ァ シズムに敗北をもたらすこと, があるだけだ」 と宣言し, 党中央 機 関 紙 フ ォ ア ベノレソは 「ヒ ン デ ン ブ ル ク が留 ま る か, ハノレソブ ル タ 戦 線 の だ れ かに よ っ て 置 き か え. 2 } 正式 られるかの選択に立っ た時, 我我は当然にもヒンデンブルクの留任を支持すべきだ」と訴え( ,. のヒンデンブルク支持宣言は, 支持者に明解な二者択一を迫るもの であっ た,「ヒッ トラーを撃てー.

(6) . ワイマール共和国末期の ドイツ社会民主党指導路線の基本的性格. 国会を通じ国の統治権を握ろうとした右翼の試みは失敗した. 次の彼等のねらいは大統領だ 3月 .. 13 日 の 選 挙 へ 4 人 が 立候 補 し て い る ヒ ッ トラ ー デ ュ ス ター ベ ルク ヒ ン デ ン ブ ル ク テ ー ル マ . , , , ン だ. こ の 候 補 者 の 中 でた だ 二 人 だけ が, ヒ ッ トラ ー と ヒ ン デ ン ブ ルク だけ が 真 剣 で あ る ドイ , . 3 日 に ヒ ン デン ブ ル ク が留 ま る か,ヒ ッ トラ ー に よ っ て置 き か え ら れ る か の 選 択 に 立 ツ人民は3月1. たされている, 右派は6年前ヒンデン ブルクを自らの側につけ, 大統領が 党派的に, 右翼に好都合 に統治し, 宣誓を傷つけ, 憲法を破ることを期待した. もし最悪の敵がこう した期待を置く候補者. なら我我社会民主主義者は決然と彼と闘う. しかしヒンデン ブルクは自らの以前の支持者を失望さ せた. 非党派的であったし,今もそうしようとしているがゆえに また彼がクーデターのために何も . しようとしなかっ たゆえに, 今や彼は取り除かれようとしている. ヒ ン デ ン ブ ル ク に か わる ヒ ッ ト ラ ー, そ れ は ドイ ツ と 全 ヨ ー ロ ッ パ での カ オ ス と パ ニ ッ ク 経 , ,. 済恐慌と失業苦の一層の激化, 国内での, さらに外国との血み どろの闘いの危機 を意味する , . ヒンデンプルクにかわるヒ ッ トラー, それは ブルジョ アジーの進歩的な部分 労働者階級 への ブ , ルジョアジーの極反動部分の勝利 を, すべての市 民的自由, 言論の自由, 政治的, 組合的, 文化的 組織の否定, 搾取と賃金奴隷制 の強化, を意味する. ヒ ッ トラ ー 反 対 !. 3 ) こ れ が3 月 13 日 の ス ロ ー ガ ン だ. こ れ 以 外 の 道 は な い の だ」(. 選挙戦は極めて単純化した スローガン で激しく闘われた.SPD が「ヒンデンブルクかヒ ットラー , 第三の道はない」 と訴えれば, ナチスは 「ヒッ トラーか ドイツの破滅か」 を, 独自候補E・テー ル マ ン を 立 て た KPD は 「ヒ ン デン ブ ル ク を 選 ぶ も の は, ヒ ッ トラ ー を 選 ぶ も の だ」 と いう ス ロ ー ガン. で対抗した. 党指導部のこの選挙戦での取り組みは, 非常に熱心であり, ヒンデンブルク再選をめ ざし 連日 , 各地で大小の選挙集会が開かれ, 党機関紙はそのためのニュースで埋めつくされて SPD はかつて , の政敵ヒンデンブルクの中心的支持勢力の様相をみせた,. フォ アベルツは右派勢力の代表ヒンデン ブルク, ブリューニン グと社会主義的労働者政党SPDの 協働の必然性を簡潔に訴えている. 「ブリューニング・ヒンデン ブルクは1 918年1月以降の体制に. やむなく適合しており, 左より右にシン パシーを持っている. しかし現在の最大の関心事は彼等と 社会民主主義者との間に緊急の政治的共通性が生じていること である 穏健な右派は無責任な極右 .. に自らの地位を渡したくない. そのためには社 会 民主主 義者の助 け が必要 である. 他方右派急進 派が権力への道を進むのを極力防ぐのが労働者階級の利益 である. ブルジョ ア陣営の分裂 これに ,. 我我の結束した力を対置させる ことは, 力関係を大きく我我の憤 りに好転させるであろう. ブルジョ アジーの極反動部分への我我の激しい敵対は社会民主主義者をそれらの穏和な部分につかせ 一方 , 4 ) コ ミ ュ ニ ス トは 逆 に ブ ルジ ョ ア ジ ー の 反 動 的 部 分 の 救 援 隊に な っ て い る」(. こうした 「極反動」 =ナチス打倒のために, 「穏健右派」 との結びつきの深化と平行し, この選挙 戦では KPD 指導部との抗争が, 直接かつ激しく展開されたという事実も注目すべき である さらに , 例を示しておこう.「プロレタリ アートとブルジョ アジーの対決がこの選挙で行われているというの は正しく・ ない. 現実は ブルジョアジーの反動的な部分と穏和な部分の分裂 であり, KPD は見込みの ない候補を立てることによっ てヒ ッ トラーを, ブルジョ アジーの反動的部分を助け ている 昨年8 . 月 9 日のプロイセン政府に対する人民投票でのコミュニストと右翼の結託ぶりを思い出すだけ で十 分 であ る, コ ミ ュ ニ ス ト は ヒ ッ ト ラ ー と ヒ ン デ ン ブ ル ク を 同 一 視 し 主 敵 を SPD に 向 け て い る の ,. だ」(ベ ルリンの大選挙集会での○・ウェ ルズの演説)「コミュニストは労働者階級が反ヒッ トラー. で結束してたたかうのを巧みな方法では じめから妨害している. 彼等は他の党が候補者を決める前 にモスクワの先兵 (テールマン) を立てた. 彼等はヒッ トラーの勝利を阻止したくないのだ 彼等 . に J.

(7) . 山. 本. 佐. 門. はここ でもまた共産 党の最大の敵は社会民主 主義者 だと している」(SPD 機関紙ハン ブルガーエ 5 } SPD 攻撃を主目標にし, ナチスを助けている KPD 路線の有害な性格がこの選挙 でも露 { ヒョー) . 骨に表現されたというの が, SPD 指導部の強調点であっ た. 936万票) を 選挙は第二次投票 (決選投票) にま で持ち込まれたが, ヒンデン ブルクが53%(約1 得て再選された. この結果に対して, SPD 指導部は 「ヒンデン ブルクヘの輝かしい信任投票」 であ り,ファ シストを打ち負かしたのは SPD と「鉄の戦線」の力が大きかっ たことを強調し, ヒッ トラー 打倒を中心目標にして闘っ た SPDの勝利とも位置づけ, 非常に積極的に評価した. 一方ナチスに対. しては確かに, 大量得票したが, 予想外の伸 び悩み であり, 「合法的に国家権力を手に入れる」 とい う第一目標は実現でき ず, ヒッ トラーとファ シズム運動に手痛い打撃 となっ たととらえ, また選挙 戦で激しく敵対した KPD に対しては, ファ シ ズム以上に打ち負かされ, その支持層のかなり(SPD の分析では50万) はヒッ トラーに流れこむ事態ま で生じ, その 「道徳的損失ははかりしれない」 と 酷評した. そして再選後のヒン デンブルクの動向に対し,「政党, 政党グルー プの代人では決してな い, しかし憲法に忠実な国家の長と して人民の権利を保護し, 尊重するであろう. そして労働人民 には経済恐慌の 敗北感からの立ち直りの 道を開く であろう」 という楽観的 見通 しを打ち出してい 6 ) る( .. SPD 勢力, とりわけその指導層が極めて能動的に闘っ た大統領選挙 でのヒッ トラーの敗退は, 彼 等に共和国防衛の自信と展望を一時的に でも与えたことは事実 であり, この自信は, 競合的対立関. 係にある 斑〉Dの敗北によっ てなお一層強められたの である.こうした勝利の 展望と自信に満ちた当 時の SPD 指導層の認識についてフォ アベ ルツ編集長 F・シュ タムフ ァーの回想が明解に示してい 0日(ヒンデン ブルク再選の日)には SPD の戦術の正しさが輝かしく証明されたかにみ る.「4月1 えた,社会民主主義者は共和国を救うためにひどい犠牲をもたらしたが,この犠牲はむだでは なかっ た. ヒ ッ ト ラ ー は ひ どく 打 ち 倒 さ れ て, ヒ ン デン ブ ル ク は ヒ ッ トラ ー の 敵 と し て, 憲 法 の 擁 護 者 と. して再選された.ヒンデン ブルクのあとには国 防軍が,プロイセン では保安警察をもったブラウン・ セヴェ リン グが統治している. 国民の63.2%がナチ党独裁に反対票を投じ, 国民の意志を有効にせ 7 } しめる国家的権力 手段にも欠けてはいなかっ た」{ ヒンデン ブルク支援の闘いは 「ナチス打倒」 のために, SPD 本来の立場を譲歩した防衛の闘争と. いう認識は党指導部には確かにあった. しかし大統領選挙 勝利の中で,「共和国防衛」 の確たる保障 が得られたという 幻想が指導部内に強まっ ていっ た. 彼等の判断する反ナチ, 共和国防衛の支柱と 2 )ブラウン・セ ヴェ 1 )共和国を支持する冷静 な ドイツ国民( はシュ タムファ ーが適切に指摘 した如く( 3 )グレ ー ナ ー 指 揮 下 の国 防 軍, であ っ た. リ ン グ プロ イ セ ン 政 府(. そして大統領選後す ぐに行われる プロイセン邦議会選挙 ではこの支柱維持の ために,SPD 勝利は 不可欠 であり,ヒン デン ブルク勝利により,その可能性も出てきたというのが党指導部の認識であっ た.. この大統領選挙への SPD 指導部の対応についての分析から従来の通説的見解に対 し二つの検討 点を示しえよう. 一つはヒン デンブルク支援戦術は寛容路線の延長 であっ たとしても, その対応の 性格を 「展望の喪失」 「闘争意欲の欠如」 の方向 でのみとらえるべき であろうか, 「ヒッ トラー大統 領」 阻止に向けた目標設定とそれを支える状況認識, ヒンデン ブルク支持を訴える積極的な選挙闘. 争の中に,SPD指導層の守勢に立ちつつ,局面打開への 意欲と展望確立の姿をも認めうるの である. 第 二 に は 当 時 の SPD, KPD 間の統一戦線の可能性について である. この大統領選挙での両党の 激しい競合的対立,SPD 指導部が「共和国防衛の保塁」と確信する プロイセン政府への KPD の直接 攻撃, という現実を 、まえた「反ファ シ ズム統一戦線」の成否が論じられるべき であり, こうした条 6.

(8) . ワイマール共和国末期の ドイツ社会民主党指導路線の基本的性格. 件下では相互信頼に基づく SPD , KPD 両指導部の共同行動は全く 望みえなかっ たといわ ざるをえ. メ まし・.. (注1)SPD 指導部の大統領選直前の態度については, So i l demok i t z a r r a s che Partei Kor espondenzJ g 1932. Nr l. -3,この経過についてSPD の大統領候補といわれた ○ ブラウ ima ンの回想論も参照,ot t oBraun,Von We r . l t zu Hi er(New Yo rk ,1940) , S. 220一228 , こ こ で ブラ ウ ンは 「独 自候 補を 出す こ と は力 の 浪 費 であ り, 目 前の. プロイセン邦議会選に不利になると考えた」 と述べている また党執行部のヒンデンブルク支持宣言でも 「SPD . は票めあての候補を第一次投票 で立てることをあきらめた. 得票数については目前の邦議会選がいい機会だ 議 , 会選挙ではすべての票は意味がある それに反し大統領選挙では票めあてに候補に投 じられたすべての票はむだ , なのだ」 と主張している. (Vo t rwa r 7・2・1 9 32(朝刊)) s ,2 t rwa (注2)Vo r s 1 5 ・2・ 1 3 2( 夕刊 9 ) および2 1・2・1 93 2(夕刊) , (注3)Vo t 2 7 ・2・ 1 3 ( rwa 9 2 朝刊 ) ヒンデンブルクとヒ r s ットラーのより明解な対比論についてはSPD 有力機 , , ・ ho 関紙 Hamburge rEc 1 9 32の社説 「ヒットラー打倒に全力を !」 , 24・2・ , (注4)Vo t rwa 9 3 2(朝刊) r s ,26・2・1 (注5)Vo t 9 3 2(夕刊) 掲載, 「鉄の戦線」 主催の10万人参加の集会 での演説である および rwa r s , 7・3・1 . Hamburger 鼠oho,11・ 3 ・1932 , (注6) 選 挙 総 括に つ いて は, Pa iko t 1932 r e r r e spondenz t 5 rwa r s .Jg , . Nr3, 4, Vo , 14 ,1 , 17・3・1932 (朝刊) ,. 1 1・4・1 932(夕刊) iedr i t (注7) Fr chSt ampf l i k (Hamburg 1953) S 615 er eer s en14Jahr ederdeut schenRepub ,Di , , . ,. 第3章. プロイセン邦政府防衛の闘い. 大統領選挙に ひきつづき行われた プロイセン邦議会選 へも SPD は極めて能動的に取り組ん だ . SPD にとっ てプロイセン邦政府は, この政治危機にあって国政府の主導権を失っ た後の 国政に直 , 接影響を及ぼしうる決定的な, しかも唯一の国家権力装置 であり, 党指導層はこれを 「共和国での ナチス支配への最強の防壁, 民主主義の最強の保塁」 と位置づけており, この邦政府を防衛するこ とは戦略上非常に重要 であった. 党指導部の国政レベル での寛容政策の定立, とくに中央党との協 調関係の保持も, プロイセン議会での多数派維持という配慮 が強く作用 しており 大統領選挙の戦 , 術も,多分にその直後に控えたプロイ センでの選挙の必勝を意識した対応 であっ た 具体的にいえば , 大統領選 では SPD 外の反ナチの最有力候補へ「共和国防衛」票をまとめ,その票を邦議会選 では「共 和国の保塁」 プロイセン政府の与党SPD に導入すること, また邦議会選 で前面に出て全力 で戦わね ばならぬSPD が 大統領選挙ま では不必要な力の浪費と ダメージを極力回避す ること であり 信条 , 的保守派のヒンデンブルクヘの積極的支援はまさにその実践であっ た.. この意味 で プロイ セン邦議会選への SPD 指導部の取り組み はす でに大統領選挙ととも には じ. まっており, 二つの選挙闘争は一体のものと考えられていた. それゆえヒンデンブルクの勝利はプ 1 ) ヒン デン ブル ク再選 を 報 じるフォ ア ベ ル ロイ セ ン での SPD の 勝利 に 展 望 を 与 え るも の であ っ た( . ツは 「今や プロイセンだ! 三度目の攻撃だ!ヒッ トラーを倒せ ! ブ ラ ウ ン ・ セ ヴェ リ ン グ を 選. べ!」 という見出しをかかげ, この大統領選 でみせた打倒ヒッ トラーの意志は次の邦議会選 でも示 されることを, ヒンデンブルクを支持した人は、 ブラウン・セヴェ リン グを守るよう 積極的に訴 , え た. そ し て ヒ ッ ト ラ ー を 三 た びた た け ! ブラウン・セヴェリン グ政府 を守れ! が SPD の 中 心 ス 2 ) ロ ー ガ ン と な っ て い っ た. {. 選挙戦では当然な がら大統領選挙と異なり,SPD は責任与党として闘いの前面に立たされ 「現存 , 政治秩序の維持, 安定」 の論理を強調した, 彼等の論点は, 破壊 への道をまぬがれ, 自由と秩序を 確保するためには 「プロイセンは今ま であっ たように ブラウン・セ ヴェ リン グの下にと どまらねば 7.

(9) . 山 本. 佐. 門. 3 } ならない」 というもの であり, 大衆に平静さを保ち, 理性的な選択を求めるものであった.( もちろん秩序撹 乱者=現状打破勢力としての SPD の主敵はナチス であり, 彼等を攻撃 しつづけ. た. しかし SPD 指導層 が「現状維持」 の論理に固執すればするほど, 秩序破壊者としてナチスと並 ん で KPD を激しく批判 した. この時 点で,SPD 指導部にとっ てコミュニストは共和国に敵対し, 独 」 と規定され, 党機関紙 では KPD暴 裁を志向する「左からの破壊者(あるいは「左翼ラジカリスト」) 露キャ ン ペーンが相次ぎ,「ナチス」 に対し, KPD を「コチス」 とする呼び方も常態化していっ た. 激しい反ナチ闘争の真只中で, ナチスとコミュ ニストを独裁志向の 「左・右の破壊者」 として同質. の政治的機能を果すという認識が SPD内で強められたという事態は注目されねばならない. 「KPD の指導部はただ一つのことをなしうるだけ である. 社会民主主義者にナチスと全く同じよ. うな政治スローガンをなげつけ, それらへの盲目的ともいえる 曽し み を 煽 る こ と.KPD リ ー ダー は 叫 ぶ, ナチスと同様に. 現体制を倒せ!民主主義のせいだ!主敵は社民だ!. コ ミ ン テ ルン の 使 者 は 毎日 KPD の闘争目標として ブラ ウ ン・セ ヴ ェ リ ン グ政 府 打倒″ を宣言している.それゆえ共産党は ヒッ トラー党の対 決 と いう 自 らの 主 張をみ ずか ら打ち消している. 彼等の選挙民の大部分はヒ ッ ト ラ ー と テ ー ルマ ン の 間 に 差 が な い こ と を 感 じと っ て い る. そ こ で彼 等 は ヒ ッ ト ラ ー 支 持 に 転 換 し は じ め た. 4 月 10 日には共産党票がヒッ トラーに相当流れこみ, コミュニストの革命家がナチスに. 移っている.この事実ほ ど共産党の内部崩壊を示すはっ きり した証拠はない.共産党は今日労働者層 の党 でも社会主義の党 でもない. まさしくナチスと同様, 労働者層を苦 しめ, 労働人民の 奴隷制的 i k t t ) を専ら求める党 である. ナチスにあっ てはこの奴隷制は 第三帝国″ であ r 形態たる独裁ョ (D u a 4 ) り, 共産党にとっ ては 一ソヴエ ッ ト ドイツ″ である」(邦議会選のための SPD ビラ){ しかし現実の選挙戦では与党的立場 で 「現状維持」 「理性的選択」 をよ びかける SPD 指導層に対 し, 経済的, 政治的不安に煽り立てられている プロイセン人民 が積極的に呼応せず, 極めて苦 しい 5 } 邦政府首相○・ ブラ 闘いになり,投票直前にすでに党 指導部自ら敗北を公言する状態 であっ た( . ウンはこの選挙戦を回想し,「勝利の期待を持っ ていない私が集会に来た 多くの大衆を勝利の期待で 満たさねばなら なかっ た, 旗行列や音楽 で煽られた大衆には私の 熟考と理解力に訴える冷静で事実 にそく した主張は冷たいシャワーのように作用せ ざるをえなかっ た」「自分で考えることをやめさせ 支配しており, こうした時代には る試み -- スローガンが人間 を, 頭 ではなく .腕力が公的生活を, 私のように事実にそく した議論は打ちすてられ た. 私の最後の議会演説開始の時もこのよう な状態 6 } であ っ た. 私 は 事 の 成 り 行 き に どん な幻 想も も た な か っ た」 と 述 べ て い る( .. ) 62議席) 結果は予想通り, ナチスが大進出し(9→1 , 非ナチ右翼(- , 逆にワイマール連合(一68 た S P D 4議席へ 0万票近い減票とな 8 3 自体も17議席から9 73 ) が大敗した, っ . , 党有力機関紙は, 右翼多数派に近 づく! 邦議会多数派なし1 プロイセンへの攻撃1, などの. 大見出しで結果を報 じ, ヒ ッ トラー・フー ゲンベ ルク連合は過半数に 達せずそれらの目標を達成で きなかっ た, しかし残念なことにワイマール連合も前進 できず, プロイセンの将 来は全く 混沌とし. ているという, まとめを示した, この選挙のあとの党指導部の主張には, ワイマール連合の後退を 予想通りとしつつも, ナチスもしくは極右連合の多数派化が実現しえなかったことをむしろ強調す 7 ) る 傾 向 が 顕 著 であ る{ .. こう した自勢力の躍進を期待 しえず, 左・右の全非ナチ勢力によっ てとに かくナチス・ヒッ ト ラーの「政権奪取」を阻止することを最大成果とする党指導部の対応は, 今回のみならず大統領選, いや寛容路線全般をつらぬいている性格であっ た. そして確かに当面 プロイセン でのナチス支配は失敗した であろう がナチスを中心とした 「ラジカ ル右翼」 の飛躍, SPD を含めた既成統治政党の 後退という政党の力関係の大変動は明白になっ た. 8.

(10) . ワイマール共和国末期の ドイツ社会民主党指導路線の基本的性格. すなわちプロイセンを含め, この日行われたす べての邦議会選 で, ナチスが大量進出 (バイエルン. 9→43 , ヴ ュ ル テ ン ベ ル ク 1→23 , ハ ン ブ ル ク 43→51 , ア ン ハ ル ト 1→15) し, こ れ ら の 邦 す べ て 20 日の国政府の プ 一党 した力関係の変化は国政に直ちにはねかえり7月 で第 の地位を占めた こう. . ロイセンへの暴力的干渉 (パーペンクーデター) までヒンデン ブルク大統領による反動的施策が矢 8 ) この上からの 「反動化」 に呼応する形で「下から」 ナチスの暴力的大衆運動 次ぎばやに実行され( , 9 ) が激化し, 流血事件が続出, SPD 指導部の目には 「内乱的状態」 とも思える事態となっ た{ . P D S 指導路線を考える場合, プロイセン邦議会選 での大敗とその後2ヶ月足らずの政治的局面の. 変化は, 致命的ともいうべき大きな意味をもつ, すなわち, この事態は,党幹部がヒンデン ブルク再 選の中 で期待して想定した共和国防衛の支柱が全く実体のないものという ことを証明 して しまっ た,「共和国支持の理性的人民」「ブラウン・セヴェ リン グプロイセン政府」「グレーナー指揮下の国 防軍」 -一 党指導層に 「共和国防衛」 への展望と自信を一 時的に でも与えていた条件はあっけなく. 霧散してしまっ た.. そして党指導部の設定した共和,国防衛の現実的支柱の消失とともに, 彼等の路線に注目すべき変. 化が顕在化してきた. 寛容路線から, 原則的反対路線への変化である. 6月1日に発表された, パー ペン新内閣への党執行部宣言はこの反対派の立場を明確に示してい. る.「闘争への準備を!」 という この声明は パーペン内閣を, ドイツの政治的, 経済的反動勢力を糾 合し, ナチスの協力の上に立つ「反動派結集内閣」 であり, ファ シ ズムへの道につながるものとし,. これに対し, 国有化と計画経済を軸とした社会主義政策を掲げ, 真向から対決することを呼びかけ lo } た{ ,. しかしこの路線は, 極めて消極的な闘争でしか実現されなかった.「闘争への準備を!」 訴えなが ら, 「極反動内閣」 の攻撃に対し, 党指導部が対置したのは, 旧来の合法的抵抗 -- 議会 での不信 任動議, 緊急令廃止動議の提出, 議会外での抗議集会, 機関紙キャ ン ペーン, を全く越えず, 2ヶ. 月間の大統領による反動的施策攻勢に対しても, みるべき能動的, 創意的抵抗をなしえていないの であ る,. こうした事態は党指導部での展望の喪失にともなう闘争意欲の後退とも結びついている. その重 要な例は, 選挙後のプロイセン政府のあり方をめ ぐる党指導部の態度である. 選挙で敗北するとす. ぐブラウン内閣は退陣を声明し, その後連立内閣のための多数派工作を行う どころか, ナチスと中 央党の多数派工作を傍観している. しかも暫定内閣という形 で6月初めなお首相の地位にとどまり 1 1 } えたブラウンは 「二度ともどらぬ」 考えで休暇を申し出て, 要職を放棄してしまっている( . 7 月 20 日の国政府の 「共和国防衛の最強保量」 プロイセンへの 「クーデター」 への SPD 指導部 いや SPD 勢力全体の無抵抗に近い対応はこう した4月 24 日以降の 「反動 攻勢」 とそ れに対する. SPD の消極的 で合法主義に固執した抵抗のくりかえしという事態とむす びつけ理解さ れるべき で あ る.. さらにまた政治的対立激化の時期にあっ て能動的な闘争形態を具体的に展開しえぬ原則的反対派 の道は, 現実の政争で何ら決定的要因になりえぬ「外在的反対派」への転落の危険性を有していた. (注1) 社会民主党通信では 「国家社会主義者 (ナチス) は今や プロイセンにふみこもうとしており, プロイセン を通じ, 国の支配権を握ろうとしている. 彼等はプロイセンがその統治装置によってドイツで決定的な権力ファ クタ ー に な っ て いる こ と を知 っ て い る. そ してす べ て の 識者 は○ ・ ブラウ ン, K・ セ ヴ ェ リ ン グの 下 で プロイ セ. ンが民主主義的共和国の最も重要な支柱であり,ファシズムへの最強の防壁となっていることを知っている,いプ ロイセンを制するものは全ドイツを制す″ という言葉が今ほどあてはまっていることはない. プロイセンをめぐ ikor N 3 t る闘 いは 共和 国 の支 配を め ぐる 闘 い なの だ」 と 訴え てい る, Pa r e r espondenzl932 . , r , S, 151.

(11) . 山. 本. 佐. 門. V rwar t s (注2) Vo t s rwa r ,23・ 3 ・1932(朝刊) , 選 挙 スロ ー ガン決 定 に つ い て は, o , 11・ 4 ・1932(夕 刊). 2(号外) 93 (注3)Vo t r s rwa , ここでは 「建設か破壊か」 が大見出しになっており, 「自由と秩序のた , 23・3・1 めに, テロと暴力に抗し, SPD は闘う」 と訴えている, ノ、 (注4) この選挙ビラは, .「ヒットラーの敗北, テールマンのカタストロフェ」という見出しではじまっており, プ たものである ン ルクの党指導部が出し . 2(朝刊) では,「奇蹟を信じない者はだれでも, ワイマール連合が本日多数派の地位 (注) Vorwar t 93 s 24. 4.1 ,. を失うであろうと考えている」 と報じている.. i t (注 6) 0・Br aun .c .S.228一232 ,op , ikor t (注7) Pa r r espondenzJg e .234一246 .Nr4/5 ,1932 ,S , に く わ しい 選 挙 結果 と そ の 分析 がある.. 1日防衛相 グレーナーの (注8)主な事件を列記すれば, 5月 4日共和国防衛民間組織抑圧の二つの緊急令, 5月2 4 パーペ 6月 日国会解散 ン内閣成立 6月1日 3 0 ーニング解任 日プリ 解任, 5月 ュ , 6月 16日 SA,SS の禁 , , ieBdl l,S,265一275 参照. 止の解除, 7月 20日 プロイ セン 介 入, Chronikderdeutschen Soz速demokrat 25 (注9) SA,SS 禁止の解除と SA の制服の自由化の後わずか1ヶ月 で, 暴力的衝突によって99名が死んで,1 ,1 t r 32(夕刊) ) rwa s 1・7・1 9 名の負傷者を出した, これに対してフォアベルツは 「内戦永続化」 と報じ(Vo ,1 ,さ らに 7月 14 日にはブラウンとブライトシャイトがヒンデン プルク大統領に電話し ,内乱状態をもたらした政府の 2(夕刊) に報道. 4・7・1 93 t やり方に激しく抗議した, Vo rwa r s ,1 ペ t 932(朝刊) ) Vo (注10 rwa r s , 5・6 (朝刊) には党幹部の, 9・6 (夕刊) には, より詳細なパー ,2・6・1 ン内閣評価が出ている. 交 渉 の 可能 iko r r espondenz (注1 1 )Parte .Nr4/5 .Jg1932 ,S.242 , こ こ での選 挙 の状 勢 分析 でナ チ ス と中 央党 との 性に関心を示しているが,「この交渉の機先を制するパワーも考えもない」とし, もしこの連合内閣ができるとし ても,「最も反動的なブルジョア連立内閣であり, 激しい不信任の主張を対置する」といいうるだけとしている. l to Br rPr e aun ode uz euβens ブラウンの 「任務放棄」 については ○.Br aun .S .245-246 , ot , H. Sch ,op.cit demokr i t a schesendung? ,732-734 ,S ,. 第4章. 「パーペンクーデター」 以降の SPD 指導部. 7月 20 日 ドイ ツ国政府は憲法48条に依拠し, プロイ センに強制介入し, 首相, 内務相を解任し, 邦政府を国の統制下におき, ベ ルリン, ブラ ンデン ブルクに戒厳令をしいた. クーデター的事態 で あり, これに対し SPD を中心に した防衛勢力の抵抗はほとん どなく, 3ケ自前にはなお SPD 指導 部が「ワイ マール共和国, ドイツ民主主義防衛の最強の保塁」 と公言していた SPD 主導プロイセン. 政府は容易に名実ともに解体してしま った, SPD 勢力, そしてその指導部は どうしたのか. す でに国政府の プロイセンへの強制介入の可能性. は, 国会解散,SA,SS 禁止の解除などパーペン政府の反動攻勢の一環として党幹部には予測されて いたが,「干渉の口実を作らない」 という消極的対応によっ てそれへの防衛準備は進められず, クー ) ま でに干渉してくる兆あり」 という デターの4日前の党執行部の集まり では 「国会選挙 (7・31. セ ヴェリン グの報告に対し,「何が起きようと憲法の法的土台を離れない」という立場が確認されて おり, 7・20「不意打ち説」 ,「準備不足説」 は SPD 指導層の側に立っ ても, 自己弁明以外に根拠は 1 { ) ない .そして干渉当日党執行部は抗議のための直接行動を全く指令せず,「組織規律の遵守」と「選 挙闘争への集中」 を求める声明を発した.「党へ, 社会民主主義者は自由のための闘争へ ! ドイ ツ. 共和国での正しく維持された法的状態の再確 立をめ ざす闘争はさしあたっ て全力 で選挙闘争として 遂行される.ドイツ国民は7月31日に国家の最高意志を表明することにより国家社会主義者と政府 の協働 で起きた現状を終らせうる. 各々の組織は できうる限りの闘争準備を行わねばならない. そ れゆえ厳格に規律を守ることが一層求められる. 資格のない側からの激しいスローガンに対し抵抗 しよう. 今や全力を7月31日の社会主義の勝利のために集中しよう ! 自由のために1」 , そして 翌日この訴えの趣旨を再確認したより詳細な声明が執行部, 党委員会の連名 で出され, 党指導部の 10.

(12) . ワイマール共和国末期の ドイツ社会民主党指導路線の基本的性格. 2 } 見解 は 明 確 に な っ た( .. そして党の下部組織や 「鉄の戦線」 での抵抗意欲も集権化された組織体制と党支持者の規 律遵守. 性によ っ て完全に抑えこまれ, 一方 KPD はこの時点 で社会民主主義勢力を巻き込ん だ議会外闘争 を展開せんと SPD 指導部, 支持層に 「抗議ゼネスト」 を呼びかけたが全くの不発に終り, 「共和国 最強の保量」 が解体させられた時, その首都ベ ルリンは極めて 「秩序ある状態」 になっ ていた. KPD の闘争よ びかけに対しては,SPD 執行部は, 共産党のそれまでの 「社民攻撃」 を理由に全く. 拒否し, 逆に彼等を批判した. 20日の執行部宣言 での 「資格のない側からの 激しいスローガンに対 して抵抗しよう !」とは KPD 指導部の企てへの批判 であり,21日の宣言では「長い間ナチスと肩を. とりあい ブラウン・セヴェリン グを攻撃 (転覆をめ ざしたり, 解任や告訴を求めたり) をやっ てき たコミュニストの指導者は今やなんと ブラウン・セヴェリン グが解任させられたことに対し抗議の ゼネストを呼びかけている, ドイツ労働者階級は闘争手段の選択と闘争の時点を ブラウン・セヴェ 3 } リング攻撃におけるナチスの僚友によっ て指令されるわけにはゆかない」 と公言している( . こ の 時 点でも, 社・共両党の信頼関係はなく, 両者の反ナチ統一闘争の見通しは全く開けていな. いのが実相である. 7月 20 日の「クーデター」に対し, 非合法的抵抗が可能であっ たかどうか, 多々検討されている. 在したとしても, また 「名誉ある敗北のために抵抗すべき」 と しかし非合法的抵抗の条件が仮に存・. しても SPD 指導部には国家権力との暴力的対決に進み出る 「意欲」 も 「展望」 ももちえなかっ たで あろう. SPD 指導部のこうした意識の形成は直接には4月 24 日の邦議会選 での完敗以降の政治敵. の急激な攻勢と自らの 無力な抵抗の連続状態に求めねばならない.. 首相○・ブラウンの任務放棄に象徴されるように 「共和国の保塁」 プロイセン政府は7月 20 日以 前に支えるべき実体をなく しており, 強制介入は 「とどめの-つき」 というのが現実 であろう, そ. の意味で 「7・20 」 は反ファ シ ズム勢力の実相をあばき出したが, この事態によっ て政局は急変し 4 ) た わ け で1まな い( ,. そして目前の国会議員選挙は, こうした SPD 指導部の合法主義に埋没し, 決定的闘争を回避する 抵抗方法の結果, 通常選挙以上の政治的意義が賦与されることになっ た. すなわち4月末の プロイ セン邦議会選以降の 「上から」と 「下から」 の急激なファ シ ズム化への歯止めの中心的闘争として, さらには 「パー ペンクーデター」 への共和国防衛者の唯一の, しかも決定的な抗議行動として. 07→230) しかしその結果は2年前に比して,ナチスの大躍進(1 , 他のブルジョア諸党の後退,KPD 33→12 3)となり,SPD は共和国成立後初めて第一党の地位から の前進 (77→89) と SPD の後退 (1 滑り落ちた. この結果は3ヶ月 前の邦議会選の結果をほぼ再確認したもので, 確かにナチスの一層の前進とは い えぬ も の の, フ ァ シ ズ ム 化 の 進 行, と り わ け 直 前 の 「ク ー デタ ー」 へ の ドイ ツ 国 民 の 批判 の 表 れ. とは到底認めえず, むしろクーデターへの信任投票と考えるべきものであっ た. こう して 「投票用紙による抵抗」 という党指導部の旧来からの立場は再度根底から揺さぶられ, 「合法性の枠」 と人民の 「理性」 に依拠しきった 「反ナチス・共和国防衛」 闘争への期待と展望は 一層 失 わ れ て い っ た.. その後も当然ながら反ファ シ ズム, 民主主義擁護の闘いは SPD 指導部によって続けられるが, そ れは自勢力の勝利への見通しと自信を欠いた形での, 合法的反対路線の継続であっ た. 8月 末の大 幅な国有化, 計画化の導入により経済的危機を突破しようとする プロ グラム(社会主義的再建政策) 5 〉 現実 の 政局に は何 の 変化もひき起しえず また11月の再度の国会議員選挙でのナチ の提示も( , , 2) し, 自勢力の反ナチ闘争の活性化となりえなかっ た. スの 敗北 (一34) も, SPD 自体後退 (-1 11.

(13) . 山. 本. 佐. 門. この時期にあっ て社会民主主義勢力の指導層の分化現象が顕著 であっ たが, そのいずれも反ファ シズム闘争を強化する方向に作用 しえなかっ た. 党幹部を形成する主流派はナチ スへの抵抗, 民主 主義の防衛を最後ま で叫びつつも, 勝利への展望と自信をなく し, 合法的抵抗に固執した待機主義. 的 で, 政治的 パワーを欠いた信念集団化していっ たといいうるし, 一方SPD 勢力の土台を形成して いる 紅)GB や AfA などの労働組合連合体の幹部達は経済恐慌のつづく中 で一層利益集団化 し, 当. 面の自己の経済的利益防衛のために, 政治的価値をたな上げに し, 統治者 (シュ ライヒャ ー, 次い でヒッ トラー)と直接取り引きさえやろうとした. また党左派部分として分裂 し,SAPDを結成した 指導者達もその後 SPD , KPD 両党に何ら実質ある影響を及ぼしえず, 選挙 でも全く振わず, 無力な ・政 党 に な っ て しま っ た.. 33年1月 30 日, SPD 指導部が2年以上にわたり, 最大の阻止目標としつづけた 「ヒッ トラー政. 権の合法的成立」 という事態がきた. それに対し党指導部は寛容路線以来重大事態 でくりかえされ た対応様式 -- 敵の行動を激しく批判する一方, 味方に対しては 「将来の決戦への準備」 を求めつ. つ, 当面慎重な 「憲法の枠」 内での開いと組織的統一の保持をよ びかける -- を再確認したのみ で 6 ) そ し て「7 ・20」と 同 じ よ う に こ の 時 点でも国家秩序を乱す抵抗は全く生じえなか た あ っ た( っ . , . in Lebensweg(Grever Ver ISever ing l )Bd2 ias (注 1) Car h t ag i t .347 , Me ,1950 ,S ,E, Mat .c .S .128一130 ,op ,H. Schu ー i t ze .c .S.733-741 . ,op. t (注2)Vo rwa r s 93 2(朝刊および夕刊) ,21・7・1 (注3)Vo t 1 2 ・7・ 1 9 3 2(夕刊) rwa r s , , 当時のSPD 幹部は一様に, KPD のゼネスト要求はまともに受け入れら れなかったと回想している. 「その夜(「クーデター」の日の)の党集会で, 社会民主党の大臣がやめさせられたと いうニュースが歓呼でうけいれられたという事実はコミュニストの戦術のばかばかしさを明証している. この歓 i 呼した大衆が歓迎すべき大臣の解任に抗議してゼネストに入るとは」(0.Br t 5 )全く同じ主 aun .c ,S ,254-5 ,op i 張, F,St t ampf er .c ,S .631 , ,op. (注4) この点じ こっいて, 自己弁明的色彩が濃厚であるにしても, 当時のプロイセン政府の中心人物が, いずれも 7 月 20日の「抵抗なき後退」と4月の邦議会選での SPD の敗北を結びつけているのは注目に値する 「4月の邦 . 議会選でプロイセン人民の多数は投票用紙 で権力の座から私をひきおろしたのだ,(そして)たとえ誤っているに しても, この人民の意志に逆って権力をとり, その権力を守るために数千の真の共和主義者を見込みのない闘争 の犠牲にするような政治的無原則さ,そんな無責任なことを求める犯罪者的素養は私にはありません」 (0,Br aun , n ″ i S 2 5 7 2 t 「 0 ) 当時( 7月 日頃 ) op c 人民があなたをみすてることをあなたは恐れないのか という抗議電報が . .. きました. しかし人民はすでに4月 24日に私達をみすて,それによって国政府のクーデターの前提を最初に作り ing i t 出 して しま っ た の です」 (C.Sever .c .S.338) ,op. (注5) Vo 93 2 t ・wa r s , に内容が発表されている, この要求は, 一連の緊急令廃止要求とともに国会に ,20・8・1 出さ れた,. (注6)執行部声明については Vo t 9 33(朝刊) rwa r s ,31・1・1 , そしてここでは次の日曜日(5日後)の抗議集会 i ini l l ts ta へ の 参加 を よ びかけ て いる. 同 日 の ブライ ト シ ャ イ ト演 説 Ber e e s es!も当時の党指導層の発想傾向を 極めてよく表している.. 第5章. 社会民主主義路線の性格とその問題点 -一 まとめとして. 今ま で分析してきたワイマール共和国末期の SPD 指導路線からどのよう な基本的性格とそれに ともなう問題点 が見出されるか, 五点にわたりまとめてみたい. (イ)ナチス主敵論 この時期の SPD 指導部の闘争目標はナチス・ヒ ッ トラー政権阻止に集中 されていた. この限り では 「共和国の諸政党のうち SPD のみが台頭するナチに対しての明確 で妥協 なき対立者 であっ た」(E・マティ アス) という評価は正当 である.. そしてこのナチス主敵論は党指導部のファ シズム認識, フ ァ シ ズム 批判 での政治的側面の強調と. 12.

(14) . ワイマール共和国末期のドイツ社会民主党指導路線の基本的性格. 結合している. 代表的な例として31年のライ プチヒ での SPD 全国大会で展開した ブライ トシャイ トの 「ファ シズム論」 が挙げられる, その中で彼は 「ファ シズムは民主主義に対立し, 国家の最高 権, 政治的意志形成の権利を, 対等の権利を持っ た国民全体ではなく, 個人もしくは特権的な少数 派にのみ認めよう とする国家形態, もしくは国家形態をめ ざす運動」 とフ ァ シ ズムを規定してい 1 ) る( .. こうしたファ シ ズム認識に依拠することにより, SPD は 「独裁か民主主義か」 という政治体制の. 選択に争点を集中させ, むきだしの 「独裁統治」 への 一貫した批判者 たりえたといえよう そして . こう した 「独裁制」 への強い批判の視点は多くの社会民主主義者に共通する人間観とも結びついて いた (後述) .. しかし党指導部のナチス主敵論は同時に不完全な側 面をも有し, 彼等の反ナチ闘争を不徹底に し たのも事実である. まず指摘できるのは, 彼等のナチ政権阻止の力点はナチの合法的権力奪取の可. 能性に対してであり, それゆえ党指導部の対応は選挙 での議席増大の努力と議会・政府をめくる 多 数派工作に偏向し, 議会外大衆闘争によっ て政治的力関係を変えてゆく側 面が軽視、 いや決定的な. 時点では抑制された, ということである. さらにまた 「民主主義」 と 「独裁」 の対置の仕方が形式化, 固定化されす ぎ, ナチス‐非ナチス の政治的機能上の共通性, 連続性がぼかされ,非ナチ政党派(統治政党としての SPD を含め)によ っ. て事実上遂行される民主主義の形骸化=ワイ マール憲法の空文化に対し党指導層が無自覚、 無抵抗 になるという事態も生じた.. 「憲法の枠にとどまる」「内乱状態を回避する」「次の選挙に全力を」 (ロ)合法主義への埋没 というのが共和国末期の SPD 指導部の重大事態 への具体的対 応の核心 であっ た. こう した対応様 式を支える 「合法主義」 , 理想政体としての「議会制民主主義」 受容はワイマール時代を経る中 で党 指導層での不動の政治的信念となった. 議会制民主主義の擁護, 議会制民主主義を通じてのみ社会. 主義経済政策が実現さ れるという主張は,大恐慌と共和制動揺の時期にあっ ても強調されつづけた . そしてこの共和制 -- 議会制民主主義体制 への攻撃者を 「左・右 のラジカリスト」「独裁志向者」 として排撃するとともに, 自 らの運動 をこの体制 の 枠 内にとじこめてしまっ たのである. そして 敵対勢力が, 共和国憲法の実体を, 議会制民主主義の支柱を, 激しく侵蝕してゆく中 で, その積極 的防衛者であろうとする勢力が, 侵蝕され, 狭曝化した 「共和制」「合法性の枠」 に固執し その枠 、 内にとどまりつ づけたのである.「共和国の敵」 の攻撃が合法性の枠を無視すればするほど 合法主 , 義に固執し, 消極的抵抗になっ ていったのがSPD 指導部の特色である, (イ) の論点とも関係する. が, 恐慌による経済矛盾が激化し, 議会外大衆運動が激発して いる時点で, 議会中心主義を核とし た合法戦術への没入によっ ては 政治的力 関係の変化を生み出しえない. かく して議会外からのナチ ス攻撃に対し著しく無力 であっ たのが寛容路線以降の党指導路線の欠陥 であっ た. (ハ) 理性的市民像 へのもたれかかり. (ロ) で示した無法な政治的暴力 への無力さという指. 導路線の欠陥は党幹部の多く が想定する政治社会の人間(市民)像と現実のそれとのず れの大きさ, そのずれを克服しうる手段と自信の欠如とも結びついている. 少し具体的にの べよう 次の主張は . いずれも30年頃の○・ブラウンの見解である. 「議会主義は知的に高く, 政治的に成熟した文化的. 国民にとっ て唯一可能な統治形態である, と私は強く確信しております. ある危機状況の中で我我 国民の中から聞こえてきます「強い人」を求める声は自己の弱さのあわれな告白であると思います」 「民主主義は, 政治的意志の形成, 確認のために不可欠な政党が選 挙民をスローガンによっ て捕え. こむのではなく, 説くような, 事実にそく した議論によって確信を与え, 支持者にしようとした時 2 ) ここにみられるように知的 理性的市民たる にのみ,継続して実りあるように作動するでしょう」( . , 13.

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