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中国第一歴史檔案館所蔵檔案の整理業務及び琉球関係史料の紹介と報告: 沖縄地域学リポジトリ

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Academic year: 2021

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Author(s)

王, 少芳; 外間, みどり(訳)

Citation

沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THE

HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(37): 90-98

Issue Date

2014-03-20

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/17466

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中国第一歴史檔案館所蔵檔案の整理業務

及び琉球関係史料の紹介と報告

中国第一歴史檔案館整理処二科科長 王 少芳 翻訳:外間みどり 歴代宝案編集委員の先生方の琉球史研究における貢献は、よく知られているところです。 私は、今回、幸運にも歴代宝案編集委員会に参加することができましたが、内心、気が気 ではありません。身の程知らずにも、専門的に研究をなさっている先生方の前で報告をす るからです。 そこで思い浮かぶのが『清稗類鈔』に収録された逸話です。その逸話とは、左宗棠にま つわる話です。左宗棠がその軍事的功績により翰林院を管理する仕事を得て赴任したとこ ろ、翰林院の役人たちは左宗棠に扁額の揮毫をお願いしました。左宗棠には望外の喜びで したが、進士出身の翰林院の官僚たちとは違い、彼自身は挙人出身であるにすぎないとい うことをわきまえなければなりませんでした。そこで左宗棠は「翰林院の方々はみな、書 に長けた名手ばかりでいらっしゃいますのに、私のような一介の軍人に扁額を書かせると は、まるで先生が初めて書を学ぶ生徒を前にして、その手習い帳に圏点を付けることを楽 しみにしていらっしゃるかのようですね。」と語ったということです。 さて、本日の私の報告、先生方には圏点を付ける楽しみとして、ご指導いただければう れしく思います。 本報告は三部構成となっています。第一部で紹介するのは当館が進めている檔案整理業 務の概況です。第二部では新たに発見された『外藩表簽式』を紹介します。この本は同治 時期、琉球の公文書に対して中国が行った処理の具体的事項を明らかにしています。第三 部では歴代宝案編集の事務局から提出された「琉球国王は奏摺を捧呈する権利を有してい たかどうか」に関する問題で、浅薄ではありますが検討を試みます。

WANG Shaofang, transl. HOKAMA Midori: The Operational Arrangement of Historical Records at the First

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一 当館の檔案整理業務の実施概況 1.業務の紹介 2010 年以前、中国第一歴史檔案館所蔵の三分の二近くの檔案は、わずかに第一段階で ある案巻レベルまでの整理が行われただけで、当館が提供しようとする有益となる利用や 精密な検索サービスは多くの制限を受けていました。檔案整理の速度を加速し、檔案の全 面的公開を推進するため、2011 年、「檔案整理・デジタル化五カ年計画」を開始しました。 この五年計画の中で檔案の整理計画は、五つの業務に細かく分けられています。整理の方 法は一新され、一般公開の入札で募集を行い、落札した企業と契約を締結し、檔案整理を 外部委託するという新しい方法を採用しました。2013 年9月までに内務府、宗人府、兵 部-陸軍部の三つの全宗の文件レベルの整理が完了し、檔案一件ごとに個別の檔案番号と 識別番号がふられ、その数は 330 万余件となります。 2.業務整理状況 現存する清代の内務府檔案の圧倒的多数は中国第一歴史檔案館に保存されています。当 館が所蔵する内務府全宗檔案は、内容が豊富で、(文書の)体系も整い、史料的価値は高 いのですが、一般の利用頻度は高くありません。このため、私たちは、まず内務府檔案の 文件レベルの整理を最初の業務として行い、二年間の計画で整理を完成させ、内務府檔案 の全面公開利用に向けた基礎を完成させました。今年から始めた第三期整理計画では、す でに宗人府と兵部-陸軍部の整理が完了し、現在は計画に基づき、内閣・軍機処・宮中檔 案の全面的整理を進めています。 二 『外藩表簽式』の紹介 2012 年、私は内閣檔案の整理作業の中で『外藩表簽式』の抄本一冊を発見しました。 後日調べたところ、中国国家図書館の善本処にも『外藩表簽式』一冊が所蔵され、かつ 1985 年にはマイクロ撮影が行われ、対外的に閲覧サービスが行われていることがわかり ました。この本には版刻本はなく、ただ抄本が現存するのみです。当館が所蔵する抄本は 朱の罫線が入った線装本で、各頁 12 行、各行 22 字となっています。この本は同治七年 (1868)に作成されたもので、内容は琉球・朝鮮・越南(ベトナム)等の外藩属国が捧呈 した表文・奏本の文書に対して行われた票擬の実例となっています。中琉の国家間の歴史 的交流の詳細について理解を深めるために、ここで紹介いたします。

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1.表題と序文 表紙の左側にタテ書きで『外藩表簽式』と題され、右側に手書きで、「鮑子年(1)前輩手訂、 劉翰臣(2)飭録事重繕、呉伯堂(3)任校対(年長者である鮑子年が手訂、劉翰臣が書記として清書、 呉伯堂が校正にあたる)」とあります。序文は以下のとおりです。  外藩各表、例由礼部送内閣漢本堂翻訳清字、定期送漢票簽擬簽進呈、不帰委署。票 擬(4)向由通本上票簽侍読及部本上覆看、毎年多或二三次、少則一二次、故諳習者日以少。 康承葉峭岩(5)前輩指示、粗知梗概、謹司票擬者八年。爰備載簽式・説帖成帙、繕写為二、 一存直廬、一存科房。俾免遺失、庶后来者有所採択焉。同治七年五月歙鮑康識。  藩属国が上奏する各種の表文は、規定により礼部より内閣漢本堂(房)に送られ、 満州文字に翻訳され、定期的に漢票簽(処)に送られ、皇帝の参考になるように、さ しあたりの意見が起草される(「票擬」)。なお票簽処の臨時官員は起草に参加できな い。発送過程の異なる通本・部本ごとに漢票簽処の侍読が審査を行う。それは毎年多 くとも二・三回、少なければ一・二回であり、そのため票簽に熟練する者は日々少な くなってきている。私(鮑康)は先輩である葉峭岩の指示を受け、ただ概略を知るの みであるが、票擬の仕事に従事して八年になる。そこで票簽と説帖(書き付け)の様 式をまとめた書物を二冊作り、一冊は直廬(自分のもと)に、一冊は科房(役所の執 務室)に保管して散逸を防ぎ、後世の担当者の参考に備えた。(そうすることによっ て)遺失を免れることになれば、後世きっと担当する者の採択に役立ってくれるであ ろう。同治七年五月安徽省 歙きよう県の鮑康記す。 序文から鮑康がこの本を編纂することになった事の起こりを知ることができます。直接 (1) 作者は鮑康(1810 ~ 1881 年 嘉慶五~光緒十四年)、字は子年、号は観古閣主人。安徽省歙県の人。 平生は古銭を趣味とする著名な古銭学者であり、金石学者である。道光十九年(1839)の挙人、咸豊・ 同治の両朝に内閣に奉職、中書の職に就くこと八年、もっぱら票擬を司った。晩年は著述に専念し、 著に『観古閣泉拓』『観古閣詩鈔』『皇朝謚法考』『泉説』『続泉説』等がある。 (2) 版本についていうと、檔案館所蔵本は初写本ではなく、光緒三十年以降の重抄本で、抄写を組織したの は劉啓瑞である。劉啓瑞(1878 年 光緒四年~?)は、字は翰臣、号は韓斎、江蘇省宝応県の人で、 近代の蔵書家である。光緒二十九年(1903)の挙人、翌年に進士、かつて内閣中書および侍読学士を つとめ、民国以降は役人を退いていたが、宣統元年(1909)張之洞から内閣大庫檔案の整理を任命さ れている。 (3) 呉伯堂、その人となりは解らないが、劉啓瑞と同時期に内閣の職にあり、校正作業に参加していたと思 われる。 (4) 票擬について。票擬制度は明代に始まり、内閣が本章(題本)を処理する上で要となる一つの段階で、 あらかじめ文書の処理に対する意見を簽の上に書き入れ、皇帝に進呈するというものである。票擬権 は明代においては内閣宰相の主要な職権であったが、清代、軍機処の設立後、内閣はただ単に文書を 処理する機関となり、票擬権も急激にその力を失い、嘉慶以降、票擬は中書などの下級役人の専任と なっていった。 (5) 葉宗元(生没年不詳)。字は峭岩、本籍は江西省。おそらく咸豊年間に内閣中書、のち地方官に回され 台防同知(台湾海防同知)の任にあたった。

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の原因は咸豊・同治の時期、外藩が捧呈する表文・奏本の回数は極めて少なく、外藩の公 文書の処理手順に熟知した人間は日々減少し、外藩の文書に対する票簽の様式はほとんど 秘伝の術のようになっていました。先輩である葉宗元の指示や教えを受けたのち、鮑康は はじめてこの票簽の方法を把握できるようになりました。この票簽の方式を伝承し、「后 来者有所採択」(後世、担当する者の採択)に提供するため、また当然ながら中国を中心 とする封貢体制を維持し存続するために、鮑康は職務にあたっていた期間に起草した票簽 の様式、説帖(意見書)を編纂、校訂して、一冊としてまとめることにしたのです。残念 なことは、琉球に関する票簽の様式でいうと、鮑康は最後の琉球国世子尚泰の請封及び冊 封使派遣後の謝恩表文・奏本の文書の票簽すべてを書中に収録しましたが、その後、中国 が再び琉球に冊封使を派遣することはなく、この琉球に対する票簽の技法は無用のものに なってしまったことです。根本の原因としては、明らかに 1840 年(道光二十)のアヘン 戦争以降、絶え間ない中国の外擾内乱、社会の動揺不安という状況と密接な関係がありま す。中国を以て中心とする「天下」の体制は、未曾有の危機と挑戦に直面し、あがき苦しみ、 ついにはまさに瓦解する運命に踏み込んでいました。これについては真栄平房昭先生の「ア ヘン戦争前後の東アジア国際関係と琉球」(6)の中ですでに詳しく述べられています。 2.本文(部分選択) 本文はまず表文・奏本の書式の通例を紹介し、次に琉球国が捧呈した表文・奏本文書の 題名、作者(鮑康)が担当して起草した三十五件の票簽および簽に付けて進呈された四件 の説帖を一つ一つ記載しています。票簽が起草された時期は同治四年(1865)正月、同 治五年(1866)正月、同治六年(1867)五月と九月です。本文は次のとおりです。  琉球国各表  琉球国正表均白紙、甚薄、外有表套盛之、両頭通、封套亦白紙、上方貼黄紙加一印、 印甚大、上辺及両旁僅余白紙一二分、写小字三、如謝恩表則写上辺写 “ 恩 ” 字、両辺 写 “ 謝 ”、“ 表 ” 二字。請封表則上写 “ 封 ” 字、両辺写 “ 請 ”、“ 表 ” 二字。副本面亦上 方一印、上辺及両旁亦僅余一二分、写小字三、其式与封套同。  奏本亦白紙,本面上方貼黄紙加一印,上及両旁亦僅余分許,写三小字状与副本面同, 字則写 “ 謝恩奏 ”、“ 請封奏 ”。外有封口、封套上下各一印、下方正中写 “ 琉球国王臣 某謹封 ”。奏本本尾有黒字一行、云自某字至某字計字若干個紙一張。  有表必有奏本、且有奏本多至両件者。……(表奏題名及票簽略)  琉球国の正表は均しく白紙で、甚だ薄く、べつに表文を入れる封筒があり、封筒は (6)『第四回 琉球中国交渉史に関するシンポジウム論文集』(沖縄県教育委員会 1999 年 3 月 1 日)

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上下があいた筒状となっている。封筒もまた白紙で、上方に黄紙が貼られ印が一つ押 されており、その印は甚だ大きい。また(封筒の)上辺(上の端側)と両側のわずか な一二分の余白に小さい文字が三つ書かれている。例えば、謝恩の表文ならば上の方 に「恩」の文字、両側に「謝」と「表」の二字がある。請封の表文ならば、上方に「封」 の文字、両側に「請」と「表」の二字が書かれている。副本にもまた上方に印が一つ 押され、上辺と両側のまたわずか余白一二分の所に小さく三字が書かれている。その 書式は封筒と同じである。  奏本もまた白紙である。本面(本文)の上方に貼り付けられた黄紙に印が一つ押さ れ、上方と両側のわずかばかりの余白に書かれた三つの小さな文字の書き方は副本も 同じで、「謝恩奏」「請封奏」の文字が書かれている。封筒の口は閉じられ、 封筒の上 と下にそれぞれ印を一つ押し、下方の真ん中に「琉球国王臣某謹封」と書かれている。 奏本の本文末尾には黒字で一行、自某字至某字計字若干個紙一張(某字より某字に至 るまで計字若干個紙一枚)と書かれている。  表文があれば必ず奏本が有り、且つ奏本は(表文より多く)二件に至るものもある。 ……(表文、奏本の題名及び票簽は省略) 注目に値するのは、作者(鮑康)は同治四年正月にまとめて票擬した二十一件の票簽及 び一件の説帖を列記し終えた後、特に短い言葉で註釈を加え、中琉の宗藩関係が受けた衝 撃を述べていることです。註釈は次のとおりです。  案、琉球国因道路梗阻多年未進表、此次閣中諸公無曾票過者、康詳稽旧式酌擬如右。  思うに、琉球国は道(北京までの進貢の道)梗阻にして、長い間表文を捧呈するこ とがなかった。このたび内閣の諸公には票擬を行った者がなく、(鮑)康が旧式(こ れまでの票擬の方法)を詳しく調べ考慮の上、右のように起草した。 このほか、細かいことですが、もう一つ注目したいのは、同治六年(1867)九月の簽 に付けて進呈した説帖に「奏本」を「奏摺」と書き誤った文字が見えることです。この説 帖には「査琉球国尚泰進貢謝恩表文三道、奏摺三件」(査するに琉球国尚泰の進貢謝恩の 表文三通、奏摺三件)とありますが、これに対して右欄に書かれているのは「随表方物奏本、 随表奏本和謝加賞使臣恩奏本」(表に附された方物に関する奏本、表に附された奏本と使 臣に加賞せる恩に謝する奏本)とあります。この奏摺の「摺」と奏本の「本」の字の誤りは、 決してこの一例ではなく、当時の役人から見ると、恭賀、謝恩等の時に用いる奏本と奏摺 の中で同じ機能(働き)をもつ慶賀摺や謝恩摺等の文書については、すでに早くから同じ ものだと認識されていただろうと説明ができます。さらに早い時期の奏本の中でよく用い

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られる「恭繕奏摺」( 恭しく奏摺を繕す)の語句ですが、当然、用いられているのは、明 らかに「摺」字の本来の意味、すなわち「摺起来的様子」(折り畳まれた形状)を指すのであっ て、後から新たに出てきた「摺子」という文書を指す専門用語ではありません。 三 外藩の上奏権 歴代宝案編集事務局から、『清代中琉関係檔案選編』541 - 544 頁の琉球国王尚灝の奏 摺三件と『清代琉球国王表奏文書選録』710 頁の尚灝の謝恩奏本の違いについて、「琉球 国王は中国の官僚と同じように奏摺を捧呈できる権利があるかどうか」という疑問が提出 されました。浅学ではありますが、次のようにお答えします。 奏本と奏摺はともに文書を上奏するために用いる専用の文書形式です。奏本という文書 形式からみると、後から出てきた文書形式である奏摺に(その役割を)取って代わられた といえます。理論上、中国皇帝に表文を捧呈して臣と称する外藩の国王はみな、中国の官 僚と同じように、何か事が起こったとき、皇帝に具奏する権利を持っています。奏摺と奏 本は臣下が皇帝に臣下の意を表現し伝えるための形式的公務という臣下儀礼の一点だけか ら見ると、送付方法上の制度の違いはあるものの、文書の書式上、全く同じ傾向にあり、 異なるところはありません。軍機処の設置と発展によって正式文書に格上げされた奏摺が、 奏本とともに中国国内で併用された時間は二十年足らずでしかありません。ただ外藩から いうならば、長く踏襲されてきた通例は、奏本を用いて上奏することでした。康煕・雍正 の時代と比べ、乾隆・嘉慶の両朝を通して、大量に作成されしだいに標準的な文書となっ た奏摺は、その使用範囲を拡大させました。つまり、この時期になると、理論上、外藩は 奏摺を用いて上奏する権利を有しており、実際に外藩の奏摺が出現するのは、早いか遅い かの問題だけでした。 1.外藩国王が奏摺を進呈する権利を有するのは理論上可能 中華の政治文明を代表するものの一つは礼制と礼治であり、礼部主客司という命名から もその一端をみることができます。伝統中国の「天下」の観念では、中国は天下の中心で あり、中華の天下秩序を受け容れた四夷は、藩臣の礼を厳守し、義務を尽くし、中華の屏 藩(守り)となることに甘んじなければなりませんでした。その見返りとして、中華は主 人たる気概を顕示し、内政に干渉しないことを認めるとともに、極めて手厚い礼物を賞賜 し、貿易で有利な待遇を与えました。四五〇余年の長きにわたって維持された中国と琉球 の封貢関係は、確かに「君臣義利」の四字をもって最も好ましい形となったことはいうま でもありません。

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明の洪武・永楽の時代にあって、中国と周辺の藩属国は徐々に安定した封貢関係を確立 したので、明代初期の公文書の規定とその使用範囲は諸朝貢国に及び、国際的な公文書の 慣例となり広がっていきました。そして明清交替の後、清の順治年間には中国と琉球の封 貢関係は再建され、琉球は明朝からの公印等を返却し、清の皇帝は新たに琉球国王の公印 を与えています。琉球と中国の封貢関係に実質的な変化はなく、ただ中国の王朝が交替し、 主人が明の皇帝から清の皇帝に替わって(国を)治めることになったに過ぎなかったので す。したがって国体(国家の体面)にかかわる外藩との交渉に用いる文書の上では、清初 期では明によって作られた規範をすべて受け入れたことになります。 中国と封貢関係を築いた外藩属国の国王は、臣下の礼を以て中国皇帝に仕え、その政治 的地位は大臣クラスに相当します。それ故外藩属国と中国の関係機関が交渉に用いる文書 は対等な関係の平行文書です。したがって理論上、(外藩の国王は)中国の官僚と同じく 上奏権を有するということになります。歴史的にみると、奏摺がまだ正式の公文書になる 前、つまり奏摺が題本や奏本にとってかわる前の三八〇年間において、奏本の使用は内と 外(国内と国外)とに分かれてはいませんでした。中華の皇帝は天下の共主(公の主)で あり、その臣民(臣下や民)は、国内外を問わず、奏本を使用する権利は誰でもみな平等 でした。乾隆十三年(1748)になって、国内において正式に奏本が廃止されると、中国 の役人は均しく奏摺を用いて上奏するようになり、明らかに外藩の王臣が奏本を用いて上 奏することとの違いがあらわれてきました。しかし乾隆帝は決して外藩が奏摺を用いて上 奏することをはっきりと禁止したわけではなく、私が『清実録』や『東華録』等の典章(法 令制度)を調べたところでも、それはありませんでした。封貢制度が認識する君臣の名分(立 場上持つべき役割)と関係からいうと、理論上、内臣の上奏文書が実際に変遷して奏摺と なっていく時、外臣の上奏文書もそれに応じて奏摺に転用されていき、こうして内と外と が一致していくことになります。奏摺と奏本、その根源はともに「奏」という一字にあ り、その違いは微細な形式、文書書式に過ぎません。すなわち上奏権についていうと、外 臣が用いる奏本と奏摺には本質的な違いはないのです。この点では、乾隆帝の主張した「題 奏合一」(題と奏を合して一とする)の理由であった「何必区分名色」(何んぞ必ずや名目 を区分せんか)の言葉をそのまま借用することができます。私が推測するに、乾隆帝が当 時外藩に対して強制的に奏本を廃止させて、代わりに奏摺を使用させなかった主な原因は、 おそらく奏本は踏襲されてすでに久しく、ほぼ通例となっていたこと、また、このことで 外藩を混乱させることを望まなかったからだと思います。外藩は「臣」ではありましたが、 また「客」でもあったからです。外藩には朝賀・請封・謝恩の型どおりの公務以外に、上 奏を必要とする多くの事務処理もありませんでした。天朝が安易に外藩に干渉することな

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く、「君」と「主」の礼を一貫して守ってきた以上、既定の原則に照らして、正常なルー ト上で運用される主と客を往来する核心的な文書こそが表(文)でした。表に対して、奏 本はただ表に附された附属の説明に過ぎません。「華夷相安、四周無事」(華夷相い安んず れば、四周事無し)こそが伝統中国の天下観を示す核心的な表現であるからには、古いし きたりや通例を踏襲することが、最も情理にかなった政策選択となります。これも実際は、 外藩の自由に任せるか、或いは主人(皇帝)は客人(外藩)の都合にしたがうということで、 強調もせず、また反対もしなかったのだと思います。 2.外藩が奏摺を進呈する権利を有することの実例 『選編』の檔案三件を詳しく調べたところ、確かに琉球国王尚灝が進呈した奏摺であり、 しかも「過朱」(硃批を経た)奏摺の原本、すなわち硃批奏摺です。内容からすると、『清 代中琉関係檔案選編』543 頁の謝恩奏摺の原本と『清代琉球国表奏文書選録』710 頁の 謝恩奏本の原本は全く同じで、上奏年月日もともに道光元年(1821)八月十六日ですが、 ただ文書の様式と批語(硃批に書かれた言葉)が異なります。表面的な文書の違いから見 ると、異なるのはわずかに二つです。一つは文書の様式で、奏摺と奏本では規定されてい る文書様式が異なります。この二者の差異は字体(字形)、文書の大きさ、および行の文 字数です。奏摺は平行(平写) が 18 字、対して奏本は 22 字です。奏本の末尾には字数と 紙数の合計「自為字起至悃字止共計二百四十二字紙一張」(為の字より起こして悃の字に 至りて止む、共計二四二字紙一枚)がありますが、奏摺にはありません。二つ目は旨の奉 じ方(奉じた旨)が異なることです。この奏摺が奉じたのは皇帝親筆の硃批「覧」字であり、 対して奏本が奉じたのは皇帝に代わって内閣が書き入れた批紅で「覧王奏謝知道了該部知 道」(王の謝を奏するを覧たり、知道せり。該部知道せよ)」でした。 この(奏本と奏摺)文書の書式上の差異は、現在からみると、多くがただ文書学の意味 から区別される特徴ですが、二つの文書にみえる「恭繕奏摺謹付陪臣向廷謀等…」(奏摺 を恭繕し、謹んで陪臣向廷謀等付し、…)という同じ陳述の語句は、実際には文書の進呈 方法すなわち文書の送付方法の違いを覆い隠しています。琉球の奏本は規定では閩浙総督 あるいは福建巡撫から通政使司へ送られ、さらに通政使司から礼部へ送られ、さらに内閣 へ転送され、内閣が票擬の処理を行います。これに対して奏摺は福建から専門要員が密封 して駅逓で軍機処に送られ、奏事処に転送され皇帝に進呈されます。この一点が、皇帝の 確認を経た批語の違いから得られる証しとなります。簡単に言うと、奏摺と奏本の最大の 違いは書式体裁にあるのでなく、衙門(役所)への伝達および処理過程が異なるところに あります。この奏摺は「径詣宮門陳奏」(径ちに宮門に詣たり陳奏す)とあり、密封して

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直接(皇帝の)御前に到達し、皇帝自ら行書で書いた「覧」の文字があります。一方この 奏本に書かれているのは、内閣の票擬を経て進呈、閲覧され、内閣の役人が代筆した「覧 王奏謝知道了該部知道」の丁寧な楷書の批語です。 現存する事例から分析すると、先の皇帝が崩御し、新しい皇帝が即位するという政治的 に敏感な時期にあって、この奏摺と奏本はともに形式的公務である慶賀、謝恩および進香 に関する上奏ではありますが、軍機処を経由するか、内閣を経由するかの違いがあり、政 治経験が豊富な尚灝王はこの差異による時間効率と権力の重要性を熟知していたのだと思 われます。このため、まず念入りに道光元年(1821)中秋節後のある一日に上奏するこ とを選び、あわせてこの二つの上奏の方法を巧妙に利用しました。一方では時間を節約し、 軍機処系統を通して迅速に奏摺を到達させ、皇帝支持の誠意を示しつつ、私的に上奏し「径 達御前」(径ちに御前に達す)という本意を失いませんでした。そして、もう一方では外 交の慣例に照らし、奏本や賀表等の形式的に行われる公務の文書を作成して内閣処理系統 で到達させ、規定に応じて処理するというもので、内閣の機嫌を損なうことなく、また(琉 球の)「謹守藩封」(謹んで藩封を守る)の面目も失わないというものでした。 今回の私の報告では条件が限られており、現存する史料を遍く調べわけたではなく、こ の(尚灝の奏摺)文書の前後に類似の奏摺があるかどうかについては知ることはできませ んでした。なお一つの外藩が同じ日に三件の奏摺を捧呈することが唯一の事例なのかどう かも確証は得られていません。たとえこれが特別で唯一の事例であっても、事実上、外藩 は理論的に奏摺を上奏する権利を有していたことを証明するものです。なぜなら、この三 件の奏摺は実際に成功裏に運用され、正規のルートを通り、合法的な形で最終目的を達成 したからです。 最後に、中国第一歴史檔案館が編集した『雍正朝漢文朱批奏摺滙編』の中から外藩が奏 摺を捧呈したもう一つの例を証拠として挙げることができます。この本の第 32 冊第 177 条の「安南国陪介範謙益等奏呈慶賀詩三章摺」(安南国(ベトナム)の陪介の範謙益等、 慶賀の詩三章を奏するの摺)と題する奏摺です。中国社会科学院の孫宏年氏の考証による と、この奏摺の具奏日時は雍正三年(1725)二月上旬、上奏者は越南黎朝が雍正帝の登極(即 位)を慶祝するために派遣した進貢使節団成員の範謙益、阮輝潤等、上奏場所は彼らが北 京を出発し帰国する途中の中国国内、上奏の理由は彼らが中国で「日月合璧、五星聯珠」 の祥瑞が現れたことを耳にしたため、「献詩三章」(詩を三章献上し)、慶賀を奏摺の形式 で進呈したというものです。  ※本稿は 2013 年 11 月8日(金)、平成 25 年度沖縄県歴代宝案編集委員会において、中国第一歴史檔案館の 王少芳整理処二科科長が行った報告「関於館蔵檔案的整理工作及相関琉球史料的介紹報告」の翻訳である。

参照

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