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[翻訳]『続夷堅志』訳稿(二)

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Academic year: 2021

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全文

(1)

[翻訳]『続夷堅志』訳稿(二)

著者

高津 孝

雑誌名

鹿児島大学法文学部紀要人文学科論集

86

ページ

127-153

発行年

2019-03-13

URL

http://hdl.handle.net/10232/00030450

(2)

一二七 て之を 斃 たふ す。其の腹中を剖くに、環故より身に在り。 范司農拯の說なり。   蕭卞の優れた政治   蕭卞は、貞祐年間︵一二一三 - 一七︶に壽州の知事であった。ある日、 楊津で地域を巡察して回ったところ、急に彼の馬前に一匹の黃犬が尻尾 を振って懐き、逃げたり振り返ったりして、どこかに人を誘導するかの ようであった。蕭卞は、二人の兵卒を派遣して、この犬の跡を追わせた ところ、まっすぐ西河岸の枯れ井戸の中に行き着き、頭を垂れて下を覗 き込んだ。兵卒がそれを見ると、井戸の桁に少し血がついており、中に 死体が有った。直ちに馬を走らせ蕭卞に報告したところ、蕭卞は地主を 呼んで死体を監視保存させた。犬はさらに又兵卒を導き街の中に入って いき、ある旅館を見上げて、鳴きやまず、まるで訴えることがあるかの ようであった。 蕭卞は旅館の主人を呼び出したところ、 彼はこの犬を知っ ており、 ﹁この犬は朱という旅人の飼っていた犬です。 ︵朱さんは︶数日 前に西河で船を借りて、犬を連れて行きました。犬だけが帰ってきたの はどうしてでしょうか﹂と言った。蕭卞は、船頭を捕まえ、一緒に県の 役所に行き、 宿の主人に面通しさせたところ、 その船頭であると認めた。 主人は朱という旅人の所在を断固として聞いたところ、厳しい取り調べ もしていないのに、すぐに自供した。   また、 周立という人物が、 寿州の西の新寺灘で薪を採っていたところ、 トラに食われてしまった。周立の妻は泣いて蕭卞に訴えた。蕭卞は﹁私 は、お前の仲間だ﹂と言って、下僕十数人を率いて、馬を走らせ新寺灘 の林に到着した。一匹の虎の耳を垂れて目をつむり、ゆっくりと進む様 子は、まるで鬼神が背に乗って操っているようであったのを見た。蕭卞

﹃続夷堅志﹄訳稿︵二︶

  

   

続夷堅志巻一

1. 15 蕭卞の 異政   蕭 卞、 貞 祐 1 中 壽 州 2 為 り 。 一 日 、 楊 津 に 巡 邏 し 回 り 、 忽 ち 馬 前 に 一黃犬ありて、尾を掉りて馴擾し、且つ 走 に げ且つ顧みること、人を導か んと欲する者の如し。卞は二卒を遣して之に隨はしむるに、徑ちに西河 岸 の 眢 井 3 中 に 至 り 、 頭 を 垂 れ て 下 視 す 。 卒 は 就 き て 之 を 觀 る に 、 井 垠に微血有り、一屍內に在り。即ち馳せて卞に報じ、地主を呼びて之を 守護せしむ。犬又た導きて城に入り、一客店を望見し、鳴吠して已まざ ること、訴ふる所有るが如し。卞は主人なる者を呼びて至らしむ。主人 此 の 犬 を 識 り、 云 ふ、 ﹁ 是 れ 朱 客 の 畜 ふ る 所 な り。 數 日 前 に 舟 を 西 河 に 僦し、此の犬を引きて去る。今犬獨り來れるは、何ぞ 也 や ﹂と。卞即ち船 戶を拘し、 偕 とも に縣に至り、主人なる者をして之を認めしむ。是れ船戶な るを認め、主は固く朱客の在る所を問ふに、未だ拷訊を加へざるに、 隨 ただ 即 ち に首服す。又た周立有りて、薪を州西の新寺灘に采り、虎の食ふ所と 為 る。 立 の 妻 泣 き て 卞 に 訴 ふ。 卞 曰 く、 ﹁ 吾 れ 爾 なんぢ が 一 行 為 り ﹂ と。 僮 僕 十餘輩を率ゐて、 馳せて新寺灘に至り、 叢薄の間に一虎の帖耳瞑目して、 徐行して 前 すす むこと、鬼神の驅執する者有るが若きを見る。卞は一矢を以 1 金・宣宗完顔珣の年号︵一二一三 - 一七︶ 。 2 金の州名、今の安徽鳳台県。 3 眢 井枯井。

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高    津     孝 一二八 が見えたことで、何信叔は﹁これは宝物である﹂と言った。召使いを引 き連れてそこを掘ると、深さ一丈あまりで、肉塊を一つ得た。大きめの 食器である盆 盎 ぐらいの大きさであった。家人は大変驚いて、直ちに埋 めさせた。何信叔はまもなく病気で死亡した。妻や家族十数人も相次い で 死 亡 し た。 識 者 は、 ﹁ 肉 塊 は、 太 歲 で あ る。 禍 が 興 ろ う と し た の で、 怪しい光が先に現れたのだ﹂と言った。 1. 17玉食 9 の禍   燕 人 劉 伯 魚 は、 貲 10 を 以 て 大 定 の 間 に 雄 た り。 性 資 11 豪 侈 12 に し て 、 珍 膳 に 非 ざ れ ば 筯 を 下 さ ず。 間 ま 數 百 人 を 舎 し、 悉 く 尚 食 13 諸 人 を 召 し て 之 に 居 ら し め、 且 つ 時 に 賙 贍 14 有 り。 肉 食 15 の 品 を 問 知 し 、 或 い は一二之に效ふ。既に老いて病み、財は日に削られ、鬱鬱として以て死 す。 十 數 年 後、 兩 兒 は 市 に 行 丐 16 す 。 玉 食 の 禍 、 耳 目 の 見 る 所 、 其 の 幾人なるかを知らず。聊か此に記すのみ。 二事も亦た司農云へり。 9 玉食美食。 10 ﹁資﹂に通じる。貨物、錢財。 11 性資資質。 12 豪侈横暴で身勝手。 13 尚食 官職の名。帝王の食事を司った。 14 賙贍援助しもてなす。 15 食 高 位 厚 祿 の も の を 指 す。 ま た 一 般 的 に 官 僚 を 指 す。 ﹃ 左 傳 ﹄ 莊 公 十 年﹁肉食者鄙、未能遠謀。 ﹂杜預注﹁肉食、在位者。 ﹂ 16 行丐物乞いをする。 は一矢でトラを倒した。トラの腹の中を割いたところ、玉器の環がもと もと腹中にあった。 范司農拯が述べたことである。 1. 16 土中の血肉   何 信 叔 は、 許 州 4 の 人 に し て、 承 安 5 中 の 進 士 な り。 崇 慶 6 の 初 、 父 の 憂 を 以 て 鄉 里 に 居 る。 庭 中 に 嘗[ 常 ] 夜   光 を 見、 信 叔 曰 く、 ﹁ 此 れ 寶 器 な り ﹂ と。 僮 僕 を 率 ゐ て 之 を 掘 る。 深 さ 丈 餘、 肉 塊 一 を 得、 盆 盎 7 の 如 く 大 な り 。 家 人 大 い に 駭 き 、 亟 すみやか に 命 じ て 之 を 埋 め し む。 信 叔 尋いで疾を以て亡ず。妻及び家屬十餘人相繼いで歿す。識者謂らく﹁肉 塊は、太歲 8 な り 。 禍 將 に 發 せ ん と し 、 故 に 光 怪 先 づ 見 あらは る﹂と。   土中の血肉   何信叔は、 許州の人で、 承安年間 ︵一一九六 - 一二〇〇︶ の進士である。 崇慶元年︵一二一二︶に、 父親の喪に服すため 鄉 里にいた。庭に毎夜光 4 許州州の名、今の河南・許昌県。 5 金・章宗完顔璟の年号︵一一九六 - 一二〇〇︶ 。 6 金・衛紹王完顔永済の年号︵一二一二 - 一三︶ 。 7 盆 盎 盆と 盎 。また、かなり大きな食器を指す。 8 ﹁太歳﹂ ﹁土禁﹂ という言葉は、 ﹃続夷堅志﹄ に、 この他 ﹁鄭叟犯土禁﹂ ﹁土禁二﹂ と 二 回 出 て く る。 ﹃ 続 夷 堅 志 ﹄ で 土 中 か ら 掘 り 出 さ れ る﹁ 太 歳 ﹂ は、 基 本 的に現代語の﹁肉霊芝﹂で、 地中において成長する粘菌、 細菌、 真菌によっ て 構 成 さ れ た 複 合 体 で あ る。 明・ 李 時 珍﹃ 本 草 綱 目 ﹄ 菜 部 芝 に は、 晋・ 葛 洪﹃抱朴子﹄ ﹁芝有石芝、 木芝、 草芝、 肉芝、 菌芝、 凡數百種也。石芝石象、 生 於 海 隅 石 山 島 嶼 之 涯。 肉 芝 狀 如 肉、 附 於 大 石、 頭 尾 具 有、 乃 生 物 也 ﹂ を 引用する。

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﹃続夷堅志﹄訳稿︵二︶ 一二九 怒 ら ず し て 笑 ひ、 因 り て 之 と 合 す。 他 日 の 寒 食 21 に 、 元 老 友 の 為 に 擊 丸 22 を 園 西 の 隙 地 に 招 く 。 僕 に 京 娘 の 墓 の 窩 場 を 指 す 者 有 り て 、 元 老 は 因 り て 京 娘 は 誰 為 る か を 問 ふ。 同 輩 言 ふ、 ﹁ 前 令 楊 公 の 幼 女 に し て、 字 は 京 娘 と 曰 ひ、 方 に 笄 23 に し て 死 し 、 此 に 葬 る ﹂ と 。 元 老 楊 令 の 女 たるを聞きて、心に始めて之を疑ふ。歸りて書舎に坐す。少頃にして女 至 り、 嬌 啼 24 す る こ と 宛 轉 25 と し て 、 將 に 進 ま ん と し て 復 た 止 み 、 元 老 に 謂 ひ て 曰 く、 ﹁ 君 已 に 我 を 知 る、 復 た 何 を か 言 は ん や。 幽 明 26 路 を 異 に し、 亦 た 久 し く 處 り 難 し。 今 いま 試 期 は 邇 く に 在 り、 君 は 必 ず 登 科 せ ん。 中 間 小 やや 齟 齬 有 り、 疾 有 る が 如 き に 至 り て も、 亦 た 當 に 力 疾 27 し て 往 く べ し、 當 に 君 に 遼 陽 28 道 中 に 見 ゆ べ し ﹂ と 。 言 ひ 訖 り て 去 る 。 元 老尋いで病み、父母就舉せしめんと欲せず。月餘にして 小 やや 愈ゆ、元老銳 意 29 に し て 行 か ん こ と を 請 ふ に、 車 を 以 て 之 を 載 す。 途 次 遼 河 30 淀 、 霖雨にして泥淖たりて、車は進むこと能はず。同行者は馬に鞭うちて就 道す。車は獨り行くこと數里にして軸折れたり。元老憂ひ、為す所を知 21 寒食節気の名。清明節の前一日或いは二日。 22 丸 雑 技 の 一 種。 宋 · 孟 元 老﹃ 東 京 夢 華 錄 ﹄ 元 宵﹁ 奇 術 異 能、 歌 舞 百 戲、 鱗鱗相切、樂聲嘈雜十餘里、擊丸蹴 踘 、踏索上竿。 ﹂ 23 笄成年である十五歲の女子を指す。 24 嬌啼艶かしく泣く。 25 宛轉人の心を打つ。 26 幽明生と死。冥界と現世。 27 力疾強いて病をおして。 28 遼陽 以前の県名、 府名、 路名、 行省名。今は市名。今の遼陽市一帯を指す。 29 銳意 懇願切望の意が堅いこと。 30 遼河中国東北地区南部の大河。   美食の災い   燕 人 の 劉 伯 魚 は、 財 産 と い う 点 で、 大 定 年 間︵ 一 一 六 一 - 八 九 ︶ に お いて傑出していた。性格は横暴身勝手で、珍しい食べ物でなければ、箸 を下さなかった。ときどき館には数百人を住まわせ、宮廷料理人たち全 員を招いて滞在させ、かつ、時に手厚くもてなした。貴人の食事の品を 質問して知ると、場合によって一二品試して見た。すでに年老いて病気 になると、 財産は日々乏しくなり、 憂鬱な気持ちの中で死んだ。 十数年後、 二人の子供は市場で物乞いをしていた。美食の災いは、実際に見聞した 者でも数えきれない。 いささかここに記述する。 以上二つの事柄も司農の語っ てくれたことである。 1. 18 京娘の墓   都 轉 運 使 王 宗 元 老 17 の 父 礎 、 平 山 令 に 任 ぜ ら る 。 元 老 年 二 十 許 り 、 初 め て 舉 選 18 に 就 き、 縣 廨 19 の 後 園 に 肄 業 す。 一 日 の 晚 、 花 石 の 間 を 步 み、 一 女 子 と 遇 ふ。 其 の 姓 名 を 問 ふ に、 云 ふ、 ﹁ 我 は 前 任 の 楊 令 の 女 むすめ な り ﹂ と。 元 老 其 の 稚 秀 な る を 悅 び、 微 言 20 も て 之 に 挑 む も 、 女 は 17 王寂︵一一二八∼九四︶金代の文学者。字は元老、 号は拙軒、 薊州玉田︵今 の河北玉田︶の人。 天德三年の進士、太原祁縣令、真定少尹兼河北西路兵 馬 副 都 總 管 を 歴 任 し た。 大 定 二 十 六 年 に、 災 害 救 済 の 件 で 無 実 の 罪 を 着 せ ら れ、 蔡 州 防 禦 使 に 左 遷 さ れ た。 後 に 中 都 路 轉 運 使 で 致 仕 し た。 詩 文 に 巧 みで、著書に﹃拙軒集﹄がある。 18 舉選科挙を指す。 19 廨官舍、官署。 20 微言遠回しな言葉。

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高    津     孝 一三〇 空き地に招いた。下僕に京娘の墓の窪地を指差すものがおり、元老がそ こで京娘は誰なのかを質問した。同輩は﹁前の県令楊公の幼女で、字を 京娘と言い、 十五 歳になったばかりの時に死に、ここに葬むられた﹂と 言った。元老は︵墓の主が︶楊県令の娘であると聞いて、心中始めて娘 のことを疑った。 勉強部屋に戻って座っていると、 しばらくして娘がやっ てきた。娘は艶めかしくもさめざめと泣いて、元老に近付きかけてはや め る こ と を 繰 り 返 し、 元 老 に﹁ あ な た は 私 の こ と を も う ご 存 知 な の で、 何ももうしません。この世とあの世は別々の存在ですし、長くお付き合 いすることもできません。今は試験の日時が迫っております。あなたは 必ず合格されますから、途中少し問題があり、もしも病気になるような ことがあっても、病を押して行くべきです。きっと遼陽道中であなたに お会いするでしょう﹂と言い終わると立ち去った。元老はその後病気に なり、父母は試験に行かせまいと思った。一月余りして病気がややよく なると、元老は決然と試験に行くことを父母に願い、車に乗せてもらっ た。途中、遼河淀で、長雨のためぬかるみ、車が進まなくなった。同行 の者は馬に鞭を入れて出発したが、元老だけが車で数里進んだが車軸が 折れてしまった。元老は憂うるばかりで、なす術がなかった。急に腰に 斧を下げ車軸を背負った農夫がやってきた。訊くと木工職人であるとい う。元老は感嘆して﹁この地域は前後二百里に民家はない。今、木工職 人と出会うなんて、全くの奇遇ではないか﹂といった。車軸を修理し終 わり、出かけようとすると、急に一台の車が現れた。車中の人はなんと 京娘であった。元老は驚きそして喜んで ﹁あなたもここへきたのですか﹂ と言った。京娘は﹁あなたは、遼陽道中でお会いするという言葉を覚え ておられませんか。あなたに問題が起こったと知り、こうしてやってき らず 。 忽 ち 田 夫 有 り て 、斤 斧 31 を 腰 に し て 軸 を 負 ひ て 來 れ り 、之 に 問 ふ に 、 匠 者 32 な り 。 元 老 歎 じ て 曰 く 、﹁ 此 の 地 前 後 二 百 里 は 民 居 無 し 、 今 匠 者 と 值 ふ は 、 陰 相 に 非 ず や ﹂ と 。 軸 を 治 め 訖 り て 將 に 行 か ん と し 、 俄 に 一 車 を 見 る に 、 車 中 の 人 は 即 ち 京 娘 な り 。 元 老 驚 き 喜 び て 曰 く 、﹁ 爾 も 亦 た 此 に 至 れ る か ﹂ と 。 京 娘 曰 く 、﹁ 君 遼 陽 道 中 相 見 る の 語 を 記 せ ず や 。 君 難 有 る を 知 り 、 故 に 來 り て 相 慰 む る の み ﹂ と 。 元 老 問 ふ 、﹁ 我 が 前 途 の 至 る 所 は 、 知 り 得 る べ き や 否 や ﹂ と 。 京 娘 即 ち 車 に 登 じ 、 第 ただ ﹁ 尚 書 珍 重 33 ﹂ と 言 ふ の み 。 元 老 數 日 な ら ず し て 上 京 34 に 達 し 、 擢 第 す 。 明 昌 中 に 運 使 と 為 り 、 車 駕 35 太 室 36 に 享 す る に 、 禮 部 尚 書 を 攝 か ね 、 數 日 に し て 薨 ず 。   京娘の墓   都轉運使王宗、字元老の父である礎は、平山県︵河北︶の県令に任ぜ られた。元老は年二十ばかりで、初めて科挙を受験することになり、平 山県の役所の後園で受験勉強をしていた。ある日の 晚 、樹木や庭石の間 を 歩 い て い る と、 一 人 の 娘 と 出 会 っ た。 名 前 を 聞 く と、 ﹁ 私 は 前 の 県 令 である楊氏の娘です﹂という。元老は彼女が幼く美しいのを好ましく思 い、 婉曲に誘いかけたが、 娘は怒ることなく笑ったので、 一緒になった。 しばらくして寒食の日に、元老は友人のために雑技の擊丸を後園の西の 31 斤斧斧。 32 匠者大工、職人。 33 珍重お大事に。別れる時の常用語。 34 上京金朝の首都、今の黒龍江阿城南白城。 35 車駕皇帝の乗る車。また、皇帝の代称。 36 太室山の名。嵩山。今の河南省登封県北。

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﹃続夷堅志﹄訳稿︵二︶ 一三一   神霄の丹寶   北 宋 の 徽 宗・ 宣 和 年 間︵ 一 一 一 九 - 二 五 ︶ の 方 士 は、 水 銀 を 焼 い て 黃 金を作り出し、それを鋳造して錢を作った。神霄玉清萬壽宮にあるもの は、 その銘文を ﹁神霄丹寶﹂ と刻み、 五福太一神のところにあるものは、 ﹁五 福丹寶﹂と刻み、太乙神のところにあるものも同様であった。北宋の都 開封が陥落︵一一二七年︶したのち、これらの銭は金朝の內府に収めら れ た。 金 の 海 陵 王︵ 在 位 一 一 五 〇 - 六 一 ︶ は そ れ を 寵 愛 す る 臣 下 に 下 賜 した。それを得たものは、帽子の飾り環とし、これを身につければ、暑 気あたりしなかったという。 內藏庫使の五壽孫が話してくれた。 1. 20 稻畫 西 京 42 の 田 叟、 自 ら 瓦 盆 子 43 と 號 し 、 年 七 十 餘 な り 。 作 る 所 の ﹁ 堯 民 圖 ﹂ 44 は、 青 縑 45 を 地 と 為 な し、 槄 樺 皮 に て 之 を 為 つく る。 暗 室 中 に 小 竅 42 西京金朝の路の名、今の山西省大同市。 43 瓦盆子 陶器の太鼓。宋周密 ﹃武林舊事﹄ 舞隊の ﹁大小全棚傀儡﹂ には ﹁瓦 盆鼓﹂の名が見える。 44 晉・ 皇 甫 謐﹃ 高 士 傳 ﹄ 卷 上 · 壤 父﹁ 帝 堯 之 時、 天 下 太 和、 百 姓 無 事。 壤 父 年 五 十 而 擊 壤 於 道 中。 觀 者 曰﹃ 大 哉 帝 之 德 也 ﹄。 壤 父 曰﹃ 吾 日 出 而 作、 日 入 而 息、 鑿 井 為 飲、 耕 田 而 食。 帝 何 德 於 我 哉 ﹄﹂ 。﹃ 御 定 歴 代 題 畫 詩 類 ﹄ 巻 三 十 三・ 故 實 類 に は、 元・ 劉 因、 元・ 王 惲、 元・ 袁 桷︵ ﹁ 泰 定 甲 子︵ 元 年、 一 三 二 四 ︶ 題 ﹂︶ の 画 題 詩﹁ 堯 民 圖 ﹂、 元・ 元 好 問 の 画 題 詩﹁ 題 劉 紫 微 堯 民 野醉圖﹂ 、 元 ・ 吳師道の画題詩﹁堯民醉歸圖﹂を掲載しており、 金元代には、 伝 説 上 の 聖 人 皇 帝 堯 の 時 代 の 庶 民 の 平 和 な 生 活 を 描 い た 絵 画 が 流 行 し た ら しい。 45 縑細絹。 て慰めているのです﹂と答えた。元老は﹁私の将来を、知ることはでき ま す か ﹂ と 質 問 す る と 、 京 娘 は 直 ち に 車 に の っ て 、 た だ ﹁ 尚 書 珍 重 ︵ 旦 那 様 お 体 お 大 事 に ︶﹂ と い う だ け で あ っ た 。 元 老 は 数 日 も 立 た ず 都 に 到 着 し 、 科 挙 に 合 格 し た 。 明 昌 年 間 ︵ 一 一 九 〇 - 九 六 ︶ に 転 運 使 と な っ た 。 皇 帝 陛 下 が 嵩 山 で 祭 祀 を 行 う に 際 し 、 王 宗 は 禮 部 尚 書 を 兼 ね 、 数 日 に し て 亡 く な っ た 。 1. 19 神霄 37 丹寶   宣和方士は水銀を燒いて黃金と為し、 鑄て錢と為す。神霄に在る者は、 其 の 文 は、 ﹁ 神 霄 丹 寶 ﹂ と 曰 ひ、 五 福 38 な る 者 は 、﹁ 五 福 丹 寶 ﹂ と 曰 ひ 、 太 乙 39 な る 者 も 亦 之 く の 如 し。 汴 梁 下 り 、 錢 は 內 府 に 歸 し 、 海 陵 は 以 て 幸 臣 に 賜 ひ、 得 し 者 は 以 て 帽 環 と 為 し、 之 を 服 す れ ば 中 暍 40 せ ず と 云ふ。 內藏 41 庫使五壽孫說けり。 37 霄 神 霄 玉 清 萬 壽 宮。 ﹃ 宋 會 要 輯 稿 ﹄ 禮 五 祠 宮 觀 神 霄 玉 清 萬 壽 宮 ﹁ 神 霄 玉清萬壽宮 徽宗政和七年二月十三日、詔﹁神霄玉清萬壽宮如小州、軍、監 無 道 觀、 以 僧 寺 改 建。 如 有 道 觀 處、 止 更 名、 仍 於 殿 上 設 長 生 大 帝 君、 青 華 帝君像。 ﹂﹂ 38 福 神 の 名。 福 の 神。 ﹃ 夢 溪 筆 談 ﹄ 1︵ 平 凡 社 東 洋 文 庫 ︶ に よ れ ば、 ﹁ 開 封 の 西 太 一 宮 で は 正 殿 に 五 福 太 一 を 祭 り、 廊 下 に 太 一 を 祭 っ て 順 序 を 間 違 え て い た が、 現 在 で は 前 殿 に 五 福 太 一 を 祭 り、 後 殿 に 太 一 を 祭 っ て い る ﹂ という。 39 一 ま た﹁ 太 乙 ﹂ に 作 る。 天 神 の 名。 ﹃ 史 記 ﹄ 封 禪 書﹁ 天 神 貴 者 太 一。 ﹂ 司馬貞索隱引宋均云﹁天一、太一、北極神之別名。 ﹂ 40 暍 中国医学の病名。暑気あたり。 41 內藏內庫。多くは宮廷内の倉庫を指す。

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高    津     孝 一三二 1. 21 枸杞   太 和[ 泰 和 ] の 初、 定 陶 47 の 古 城 崩 摧 し 、 一 枸 杞 根 を 出 す に 、 方 廣 一尺許り、臥狗の狀を作し、足尾皆な 具 そなは り、嘴も亦た細毛有りて、背上 に一枝直出す。縣外の一農家之を得て、里社に傳玩す。尋いで縣官の奪 ふ所と為る。崔君佐此を見る時年十五六なり矣。   枸杞   泰和年間︵一二〇一︱〇八︶の初め、山東の定陶県の古い城壁が崩壊 し、枸杞の根が一本出てきた。大きさは一尺あまりで、犬が伏せた格好 をしており、足や尾は皆な備わっており、口も細かい毛が生え、背中か ら上に一本枝が出ていた。定陶県の郊外の一農家が手に入れ、村中で鑑 賞した。その後、定陶県の官吏に奪われた。崔君佐がこれを見たときは 十五六歳になったばかりであった。 1. 22 詩讖 48   梁 仲 經 49 官 に 咸 平 50 に 赴 く に 、 道 中 詩 有 り て 云 ふ 、﹁ 山 雲 雨 ふ ら 47 定陶県の名。山東省西南部。 48 讖 詩 の 中 に 意 図 す る こ と な く、 将 来 の 出 来 事 が 予 言 さ れ て い る も の を 指 す。 ﹃ 南 史 ﹄ 賊 臣 傳・ 侯 景﹁ 初、 簡 文﹃ 寒 夕 詩 ﹄ 云、 雪 花 無 有 蔕、 冰 鏡 不安臺。又﹃詠月﹄云、 飛輪了無轍、 明鏡不安臺。後人以為詩讖、 謂無蔕者、 是無帝。 ﹂ 49 仲 経 梁 詢 誼、 字 は 仲 経、 絳 州︵ 今 の 山 西 新 絳 県 ︶ の 人、 科 挙 合 格 後、 特 別 科 挙 の 宏 詞 科 に も 合 格 し、 応 奉 翰 林 文 字 と な り、 地 方 官 と し て 上 京 留 守判官を勤めた。気節を重んじ、文章は豪放であった。 50 咸平金朝の府名。今の遼寧開原北老城鎮。 を 作 り て 明 を 取 り、 主 客 と 談 笑 し て 之 を 為 す。 嘗 て 戲 に 袖 中 に 於 い て 蝨數枚を 掐 つか みて、亂りに客の衣上に擲ち、客は以て真の蝨と為して之を 拾ふ。其の伎此くの如し。性は剛狷にして、自ら其の藝を神とし、輕が る し く は 人 に 與 へ ず し て、 己 の 欲 せ ざ る 所 は、 千 金 と 雖 も 就 か ざ る 也。 蓋 し 槄 畫 は 書 傳 に 見 へ ず、 當 に 此 の 人 自 よ り 始 ま る 耳。 事 は 平 陽 都 運 使 張 伯 英   46   の文に見ゆ。   稻画   西京の田叟は、 自ら瓦盆子と名乗っており、 年齢が七十歳あまりであっ た。彼の作った﹁堯民図﹂は、 青い細絹を地として、 槄 樺の皮で絵を描 いたものである。暗い部屋の中で壁に小さな穴を開けて明かりとし、主 人や客と談笑しながら影絵をした。以前、たわむれて袖の中で︵影絵で 作 っ た ︶ シ ラ ミ 数 匹 を つ か ん で、 み だ り に 客 の 服 の 上 に 放 り 投 げ る と、 客は本物と思って拾い上げた。その技術はこのように優れたものであっ た。性格は意志が強く潔癖であった。自らの芸を神秘化して、軽々しく は人に教えなかった。自分からそうしようと思わない限り、大金を積ん でも駄目であった。 槄 画は書物に見えないようなので、 きっとこの人物 か ら 始 ま っ た の で あ ろ う。 こ の こ と は 平 陽 都 運 使 の 張 伯 英 の 文 章 に 書 か れ て い る。 46 張伯英 張彀 ︵? - 一二一七︶ 、字は伯英、 許州臨潁 ︵今の河南省臨潁県︶ の人。 大 定 二 十 八 年︵ 一 一 八 八 ︶ の 進 士。 貞 祐 年 間︵ 一 二 一 三 - 一 七 ︶ に 河 東 南 路転運使、権行六部尚書、安撫使を勤めた。興定元年に没す。

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﹃続夷堅志﹄訳稿︵二︶ 一三三 に横たわり、夢はヤナギの綿毛を追いかけて千里に飛んで行く﹂という ような詩は、本当の幽霊の言葉であり、予言でも何でもない。 1. 23 敏之兄 53 の詩讖   敏 之 兄 は、 貞 祐 元 年 癸 酉 中 秋 日 に、 王 元 卿 54 、 田 德 秀 55 、 田 獻 卿 輩 と燕集せんことを約すも、 其の夜陰晦にして、 罷む。敏之詩有りて云ふ、 ﹁ 佳 辰 物 と し て 相 思 を 慰 む る 無 し、 先 賞 し て 空 し く 吟 ず 昨 夜 の 詩。 倦 く こと莫れ更深くして 仍 な ほ坐待するを、 密雲還た有り暫し開く時﹂と。王、 田 戲 れ て 曰 く、 ﹁ 詩 境 開 廓 な ら ず、 君 が 才 は 盡 き た る 耶 ﹂ と。 敏 之 嘆 じ て曰く、 ﹁我れ年を得ること僅に三十、境界開廓なるを得んや否や﹂と。 明年城陷の禍に遭ひ、年 才 わずか に三十二 56 なり。   敏之兄の詩讖   我が兄元好古は、 貞祐元年︵一二一三︶中秋の日に、 王元卿、 田德秀、 田獻卿らと宴会を開こうと約束したが、その晩は曇って月が見えなかっ たので中止した。元好古の詩に ﹁素晴らしい中秋の名月の季節であるが、 53 之 元 好 問 の 兄 の 元 好 古、 字 は 敏 之。 貞 祐 二 年︵ 一 二 一 四 ︶ 三 月 三 日、 蒙 古 兵 が 山 西 の 忻 州 を 襲 撃 し た 戦 い で 没 し た。 元 好 問﹁ 敏 之 兄 銘 ﹂ に﹁ 歿 于 貞 祐 ︶ 二 年 三 月 北 兵 屠 城 之 禍 ﹂ と い う。 ﹃ 中 州 集 ﹄ 王 万 鐘 伝 に﹁ 忻 州 破、 死者十余万人、時三月三日﹂ 。 54 王元卿名は万鐘、秀容の人、詩名があった。二十七歳で戦役で没した。 55 田德秀 名は紫芝、 滄州の人。年十三で ﹁麗華引﹂ を作り、 語意は精絶であっ た。二十三歳で戦役で没した。 56 好 問﹁ 敏 之 兄 墓 銘 ﹂ は﹁ 年 二 十 九 ﹂ と し、 ﹃ 中 州 集 ﹄ 敏 之 兄 小 伝 は﹁ 年 三十一﹂とする。 ん と 欲 し て 花 先 づ 慘 た り、 客 路 人 無 く 鳥 も 亦 た 悲 し ﹂ と。 劉 御 史 雲 卿 51 詩 に ﹁ 壞 壁 に 秋 燈 挑 ゆら ぎ て 夢 破 さ め、 老 梧 に 寒 雨 滴 り て 愁 生 ず ﹂。 李 治 中 平 甫 52 云 ふ 、﹁ 落 葉 掃 け ど も 盡 き ず 、 寒 花 看 れ ば 即 ち 休 おは る。 ﹂ 未 だ 幾 いくばく ならずして皆な下世すれば、殆んど詩讖也。楊敏行﹃晝眠﹄に﹁身は蟬 蛻の如くして一榻上にあり、夢は楊花を逐ひて千里に飛ぶ﹂と云ふが如 きに至りては、真の鬼語にして、何の讖か之れ有らん。   詩讖   梁詢誼は咸平に官吏として赴くとき、道中で﹁山に雲がかかって雨が 振ろうとする頃、花がまず湿気を帯びてしなだれてしまい、旅路の路上 には道ゆく人もなく鳥の鳴き声も悲しげである﹂という詩を詠んだ。劉 従益御史の詩には ﹁壊れた壁に秋の灯火の光が揺らぐなか夢から覚めた。 年老いたアオギリの老木に寒々とした雨が降り注ぎ私の心には愁が生じ て く る ﹂ と い う。 李 治 中、 字 平 甫 に は﹁ ︵ 秋 も 深 ま り ︶ 落 ち 葉 は 掃 い て も掃いても切りがなく、寒々とした季節の花は、咲いたと思ったらすぐ に 散 っ て し ま う ﹂ と い う 詩 が あ る。 彼 ら は、 こ う し た 詩 を 詠 ん で か ら、 間も無くみな死んでしまったので、これらの詩はほとんど未来を予言し た 詩 讖 で あ る。 楊 敏 行﹃ 昼 眠 ﹄﹁ 私 の 体 は セ ミ の 抜 け 殻 の よ う に ベ ッ ド 51 劉雲卿 劉従益、 字は雲卿、 渾源の人。大安年間︵一二〇九 - 一一︶の進士、 監察御史となり、古の良吏の風があった。著作に﹃蓬門集﹄がある。 52 平 甫︵ 一 一 五 六 - 一 二 二 二 ︶、 名 は 遹 、 号 は 寄 庵、 欒 城 の 人、 明 昌 二 年 ︵ 一 一 九 一 ︶ の 進 士、 東 平 府 の 治 中 で 致 仕 し た。 才 能 に 溢 れ 博 学 で、 山 水 画 を 得 意 と し、 平 生 の 詩 文 は 極 め て 多 か っ た。 元 好 問 は 李 遹 の﹁ 門 下 士 ﹂ と自称していた︵元好問﹁寄庵先生墓碑﹂ ︶。

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高    津     孝 一三四 崎嶇として又た復た戎車を逐ふ。人生行止元より定め無し、一葦江湖 如 ゆ く所に 聽 まか す﹂ 。數日ならずして、淮水に溺して死す。   申伯勝の詩兆   高 平 の 申 万 全、 字 あざな 伯 勝 は、 正 大 年 間︵ 一 二 二 四 - 一 ︶ に、 史 院 編 修 官の地位で金朝の宗室の慶山に従って南征した。道中での詩に﹁西風に 向かって振り返り我が家に別れを告げ、遥か困難な道を辿って再び従軍 する。人生の出処進退は本来決まっているものではない、それはまるで 小舟で広い世界に乗り出し、船のゆくに任せるようなものである﹂とい う。その後、数日も立たぬうちに、淮水で溺死した。 1. 25 天慶に鶴降ず   忻州の西城は、半ば九龍岡の上に在り、宣聖廟、鐵佛寺、天慶觀を置 き、 州 の 鎮 と 為 す。 天 慶 觀 老 君 殿 の 尊 像 は 極 め て 高 大、 唐 七 帝 60 列 侍 し、 父老は云ふ、 ﹁是れ神人の塑する所なり﹂と。晉の天福二年に重脩す。 每歲二月十五日、 道家は貞元節 61 と 號 し 、 是 の 日 に 、 鶴 の 來 會 す る 有 り 、 多くは數十に至り、少きも亦た一二を 絕 へず、壇殿の上に翔舞し、 良 やや 久 山 奴 は 定 國 軍 節 度 使 に 降 格 さ れ、 さ ら に 賄 賂 を 受 け た こ と で 一 級 降 格 さ れ た。 ﹂ 60 七聖 唐代の肅宗、 代宗、 德宗、 順宗、 憲宗、 穆宗、 敬宗七人の君主を指す。 唐 · 杜 牧・ 原 十 六 衛﹁ 七 聖 旰 食、 求 欲 除 之 且 不 能 也。 ﹂ ﹃ 資 治 通 鑒 ﹄ 唐 文 宗 太 和七年は此の文を引用して、 胡三省注に﹁七聖、 謂肅、 代、 德、 順、 憲、 穆、 敬﹂と伝う。 61 宗 が、 重 和 元 年 に 太 上 混 元 上 德 皇 帝︵ 老 子 ︶ の 二 月 十 五 日 の 誕 生 日 を 貞 元節とした。 ﹃宋史﹄巻二十一。 今は恋人たちを慰める月も出ていない。 晴れてくれることを先にめでて、 空しく昨夜作った詩を吟じて見る。夜遅くなってなおも座ったまま月の 出るのを待っているが嫌にならないでくれ、厚い雲もしばし晴れるとき もあるだろうから﹂という。王、田は戯れて﹁詩的境地がいまいちです ね、 あなたの才能は尽きたのでしょうか﹂ と言った。元好古は嘆じて ﹁私 はまだ三十になったばかりです。詩的境地がひらけてくるのはこれから です﹂と言った。翌年、モンゴル軍に都市が攻略されるのに遭遇し没し たが、年はわずかに三十二であった。 1. 24 申伯勝 57 の詩兆   高 平 58 の 申 萬 全 、 字 伯 勝 は 、 正 大 中 に 、 史 院 編 修 官 を 以 て 宗 室 慶 山 59 に 從 ひ て 南 征 す 。 道 中 詩 有 り て 云 ふ 、﹁ 西 風 に 回 首 し 敝 廬 に 謝 し 。 57 申伯勝 名は萬全、高平の人。貞祐二年︵一二一四︶乙科で科挙に合格し、 福 昌 簿 に 任 ぜ ら れ た が、 赴 任 し な か っ た。 正 大 年 間︵ 一 二 二 四 - 三 二 ︶ に、 召されて史院編修官となった。 58 高平今の山西省高平県。 59 ﹃金史﹄ 一一六 ﹁完顔氏王族の慶山奴、 名は承立、 字は獻甫、 統軍使山の子、 平 章 の 白 撒 の 従 兄 弟 で あ る。 風 采 は 立 派 で あ っ た が、 小 心 翼 翼 た る 性 格 で あった。 ︵中略︶正大四年︵一二二七︶ 、 反乱軍の李全が楚州を占領した時、 哀 宗 は 慶 山 奴 を 元 帥 と し、 緫 帥 の 完 顏 訛 可 と 共 に 軍 隊 を 率 い て 盱 眙 の 守 り に つ き、 且 つ 城 を 固 く 守 し て 出 撃 す る な と 命 じ た。 ま も な く、 李 全 は 軍 を 盱 眙 の 境 界 に 進 め、 二 人 の 将 軍 は 迎 撃 し た が 大 敗 し、 金 軍 の 死 者 は 一 万 人 を 超 え、 軍 隊 の 装 備 を 放 棄 す る も の が 大 変 多 か っ た。 当 時 軍 中 は 食 料 を 欠 き、 補 給 も 続 か ず、 民 衆 は 軍 務 に 疲 れ、 愁 訴 の 声 が 盛 ん に 起 こ っ た。 宰 相 た ち は 現 状 を 正 直 に 述 べ る こ と を 進 ん で は せ ず、 樞 密 判 官 の 白 華 が 二 人 の 将 軍 を 斬 首 と し 天 下 に 謝 罪 せ よ と 上 奏 し た が、 哀 宗 は 回 答 し な か っ た。 慶

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﹃続夷堅志﹄訳稿︵二︶ 一三五 1. 26 告成 63 の旱魃   貞 祐 の 初 め、 洛 陽 界 の 夏 の 旱 甚 し く、 登 封 64 の 西 四 十 里 の 告 成 は 、 人   ﹁ 旱 魃 65 虐 を 為 す 有 り ﹂ と 傳 ふ 。 父 老 云 ふ 、﹁ 旱 魃 至 れ ば 、 必 ず 火 光の之に隨ふ有り﹂と。少年輩に命じて合昏の後に高きに憑りて之を望 ま し む。 果 し て 火 光 の 一 農 民 の 家 に 入 る を 見、 隨 ひ て 大 棓 66 を 以 て 之 を擊つ。火 燄 散亂し、 聲の馳するが如き有り。古人說く、 ﹁旱魃長さ三尺、 其の行くこと風の如し﹂と。馳する聲有るに至りては、 則ち載せざる也。   告成の旱魃   貞祐年間 ︵一二一二 - 一七︶ の初め、 洛陽あたりでは夏の旱魃がひどかっ た。 登 封 の 西 四 十 里 の 告 成 で は、 ﹁ 旱 魃 が 災 害︵ 日 照 り ︶ を 起 こ す ﹂ と い う こ と が 伝 承 さ れ て い た。 老 人 は、 ﹁ 旱 魃 が や っ て く る と、 必 ず 光 の 帯がその後に付き従っている﹂と言う。若者たちに命じて黄昏時をすぎ た頃に高い所に登って監視させた。果して光の帯が一軒の農家に入るの を見つけ、大きな棍棒でそれを打ち据えた。炎が散らばり、声が駆け回 るようであった。昔の人は、 ﹁旱魃は長さ三尺で、 風のように過ぎていく﹂ と言う。駆け回る声の存在については、書物に記載がない。 63 成 鎮 の 名。 河 南 登 封 県 東 南。 原 名 は 陽 城。 武 則 天 が 皇 帝 を 名 乗 っ た 時 こ こ で 天 地 を 祭 り、 群 臣 が 集 ま っ て、 飲 酒 し て 詩 を 作 っ て 石 に 刻 ん だ。 そ れで﹁大功告成﹂の意を取って、この地に命名して﹁告成﹂と言った。 64 登封県の名。河南省中部。 65 旱魃 伝説で日照りを起こす怪物。 ﹃詩﹄大雅 • 雲漢﹁旱魃為虐、 如 惔 如焚。 ﹂ 孔穎達疏﹁ ﹃神異經﹄曰、 南方有人、 長二三尺、 袒身、 而目在頂上、 走行如風、 名曰魃、所見之國大旱、赤地千里、一名旱母。 ﹂ 66 . 棍棒。 しくして乃ち去る。州人は旁近の城上に聚觀し、州の剌史は、先づ鶴を 見 る 者 は 賞 有 る を 約 す。 四 遠 の 黃 冠 62 及 び 游 客 の 來 る 者 こと 、 三 日 絕 へ ず。 貞祐の兵亂に、殿は廢し、鶴は遂に至らず。   天慶観に鶴が舞い降りる   忻州の西城は、半分ほどは九龍岡の上にあって、そこには宣聖廟、鉄 佛寺、天慶観が配置され、忻州の守りとなっていた。天慶観老君殿の神 像は極めて背が高く巨大で、 唐代の七人の皇帝像が並んでひかえていた。 老人は ﹁これは仙人の作ったものである﹂ と言う。晉の天福二年 ︵九三七︶ に老君殿を修復した。每年二月十五日を道教では貞元節と呼び、この日 に、鶴が老君殿にやってくる。多いときは数十羽にもなり、少ないとき でも一二羽が絶えることなくやってきては、老君殿の上で飛び舞い、し ばらくしてからやっと立ち去った。忻州の人々は、近くの城壁の上に集 まって見ていた。忻州の知事は最初に鶴を見たものには賞金を出すと約 束した。遠く四方から道士や観光客がやってきて、三日間賑わった。貞 祐 年 間︵ 一 二 一 二 - 一 七 ︶ の 兵 乱 で、 老 君 殿 は 失 わ れ、 鶴 は と う と う 来 なくなった。 62 黃冠道士の冠。また、道士を指す。

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高    津     孝 一三六 宿泊したところ、夜中過ぎ、急に窓の外に足音が聞こえ、すぐに時習斎 に 幽 霊 が 入 っ て き て、 睡 っ て い る 者 を み ん な 手 で 叩 い て 言 っ た。 ﹁ こ の 人 は 及 第 す る が、 こ の 人 は 落 第 す る ﹂ と。 そ の 後、 ﹁ 恐 れ る な、 恐 れ る な ﹂ と 言 っ た。 後 に、 す べ て そ の 発 言 の 通 り に な っ た。 學 正 の 馬 持 正 が 述 べたことである。睡っていた者は趙文卿、段国華、郭及之である。 1. 28 王氏の金馬   太 原 の 王 氏 は、 上 世 醫 を 業 なりはい と し、 陰 德 の 里 中 に 聞 ゆ る 有 り。 君 玉 72 の 父 に 至 り て、 翁 母 73 は 皆 な 神 佛 を 敬 ひ、 一 凈 室 中 に 經 像 74 を 安置し、扃鑰甚だ嚴にして、灑掃に于ては、母も亦親しく之を為す。一 日 の 晚 、 室 中 に 入 り て 焚 誦 75 す る に 、 忽 ち 供 几 の 下 に 一 細 小 物 の 跳 躍 して出で、光の之に隨ふ有りて、須臾にして、聲を作すこと馬の 嘶 いなな ける が 如 し。 母 起 立 し て 祝 し て 曰 く、 ﹁ 古 老 の 傳 に 金 馬 駒 76 有 り 、 今 真 まこと に 之 を見る。果して福を送らんと欲せば、老婦の衣襟中に來れ﹂と。即ち襟 を以て之を迎ふるに、此の物一跳して上る。之を視れば、金馬也。君玉 は 天 眷 二 年 を 以 て 第 す。 器 玉、 汝 玉 は、 皇 統 元 年 相 次 ぎ て 科 第 す。 鄉 72 君 玉 名 は 璹 、 太 原 の 人、 天 眷 二 年︵ 一 一 三 九 ︶ の 進 士、 官 は 尚 書 省 左 右 司 郎 中 に 至 っ た。 ﹃ 中 州 集 ﹂ 王 璹 伝﹁ 嘗 有 金 蚕、 金 馬 之 瑞 ︰︰ 金 馬 在 部 掾清卿房、迄今宝之﹂ ﹂。 73 翁母夫あるいは妻の父母。 74 經像佛像。 75 焚誦焼香して誦経すること。 76 金馬黄金の馬。 1. 27 玉兒   當に是れ其の名なるべし   太 原 67 廟 學 68 、 舊 もと 鬼 婦 人 有 り。 是 れ 宋 旦 提 刑 69 の 妾 に し て 、 正 室 の 妒 むところと為りて、 捶 むち うたれて死し、學の旁に倒埋するに、其の處 に 桑 の 生 ず る 有 り 焉。 此 の 鬼 時 に 齋 舍 に 入 り て、 人 と 戲 語 す る も、 然 る に 祟 を 為 さ ざ る 也。 大 定 70 中 、 數 人 の 時 習 齋 に 夜 宿 す る 有 り 、 三 更 71 の 後 、 忽 ち 窗 外 の 履 聲 を 聞 き 、 須 臾 に し て 、 齋 に 入 り 、 手 を 以 て 睡る者を遍拊して云ふ、此の人は及第し、此の人は及第せずと。既にし て曰く、 ﹁驚くを 休 や めよ、驚くを休めよ。 ﹂後に及び至り、皆な其の言の 如し。 學正の馬持正說けり。睡る者は趙文卿、段國華、郭及之なり。   玉児   これはその幽霊の名前であろう   太原の廟学︵孔子廟内の学校︶には以前、幽霊の婦人がいた。これは 宋旦という提刑使の妾で、本妻から妬まれ、むちうたれて死に、廟学の そばに逆さに埋葬され、そこには桑が生じた。この幽霊はいつも廟学の 宿舎に入りこみ、 人と冗談を言い合ったりしたが、 祟 たたり をすることはなかっ た。大定年間︵一一六一 - 八九︶に、数人のものが、廟学の時習斎に夜、 67 太原府の名、今の山西省太原市。 68 廟學もともと孔廟內に設置された学校を言う。 69 刑 官 名。 提 點 刑 獄 公 事 の 簡 稱。 宋 初 に 各 路 に 設 置 さ れ、 所 属 す る 各 州 の司法、 刑獄と監察を所管し、 農桑も所管した。その役所は司と呼び、 ﹁憲 司﹂と言った。金朝は提刑使を置き、後に按察使と改めた。 70 大定金・世宗・完顔雍の年号︵一一六一 - 八九︶ 。 71 三更夜半十一時から翌日の一時までを指す。

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﹃続夷堅志﹄訳稿︵二︶ 一三七 幸福を与えてくれるのであれば、 私の上着の中にやってこい﹂と言った。 すぐに襟を広げてそれを迎えたところ、それは飛び上がってきた。見る と金馬である。王君玉は天眷二年︵一一三九︶に科挙に合格した。王器 玉、王汝玉は、皇統元年︵一一四一︶に相ついで科挙に合格した。郷里 の人々はこれを栄あることとし、三桂の王氏と呼んだ。太原府の長官は その上、 王氏の住む坊を﹁三桂﹂と名づけた。王君玉の父の四人の子は、 三人が科挙合格し、 一人は蔭補で官吏となった。王君玉のひ孫の仲澤は、 彼も著名な進士で、文学、政治、議論、書法の面で当時の人々から非常 に推奨された。金馬は大きさ三寸で、金は棗の肉色、首はやや高く、尾 はお灸のように盛り上げり、太ももはふっくらしていた。金元交代の戦 争の後、 自ら見たことがある。 濬州の清約、 字卿房はこの金馬のために ﹃金馬辭﹄ を作った。 1. 29 王雲鶴 83   王中立は、 字湯臣、 岢 嵐 84 の 人 。 博 覽 強 記 に し て 、問 ふ も 知 ら ざ る 無 し 。 少 わか き 日 に﹃ 易 ﹄ を 治 め、 場 屋 85 に 聲 有 り 。 家 は 財 に 豪 に し て 、 客 日 び 門 に 滿 ち、 延 待 86 備 ことごと く 豐 腆 87 を 極 む る も 、 其 の 自 ら 奉 ず る は 、 則 ち 日 に 淡 き 湯 餅 88 一 杯 を 食 す る 而 已 。 年 未 だ 四 十 な ら ず し て 、 妻 を 喪 ひ 83 ﹃中州集﹄巻九﹁擬栩先生王中立伝﹂と同文。 84 嵐 金朝の州名、今の山西省西北部。 85 場屋科挙の試験場。 86 延待接待。 87 豐腆食事や祭礼の供物が豪華なこと。 88 湯餅小麦粉で作った塊状あるいは麺状の具をスープで煮込んだ料理。 人 之 を 榮 し、 三 桂 77 の 王 氏 と 號 す。 府 尹 78 は 并 び に ﹁ 三 桂 ﹂ を 以 て 居 る 所 の 坊 を 名 づ く。 翁 の 四 子 は、 三 子 登 科 し、 一 子 蔭 補 79 を 以 て す 。 其 の 孫 の 仲 澤 80 に 至 り て は 、 復 た 名 進 士 為 り て 、 文 章 政 事 、 談 辨 字 畫 、 大 い に 時 輩 の 推 す 所 と 為 る。 金 馬 は 方 廣 さ 三 寸、 金 は 棗 の 瓤 81 の 色 を 作 し、 項 頸 微 やや 高 く、 尾 の 上 揭 す る こ と 艾 炷 82 の 如 く 、 髀 股 は 圓 滑 な り 。 兵亂の後、予曾て之を見る。 濬州の清卿房約は為に﹃金馬辭﹄を賦する也。   王氏の金馬   太原の王氏は、代々、医者を業としており、その陰德は郷里で有名で あった。王君玉の父の代になって、 王君玉の祖父母はともに神仏を敬い、 清浄な一室に仏像を安置し、鍵の管理を厳しくし、掃除の際には、王君 玉の母も自ら手伝った。ある日の 晚 、仏像の置かれた室に入って焼香し 読経をしていると、急に供物をおいた机の下から一匹の小さなものが跳 躍して出てきて、光がそれに従っており、あっという間に、馬のいなな き の よ う な 声 を 出 し た。 母 は 立 ち 上 が っ て 祈 り を 捧 げ て、 ﹁ 古 老 の 伝 え によれば、 金馬駒というものがあるが、 今本当に目にすることができた。 77 桂 籍 を 言 う。 科 第 の 名 簿 で あ る。 科 挙 の 合 格 を 指 す。 唐 · 杜 甫・ 哭 長 孫侍御詩﹁禮 闈 曾擢桂、憲府屢乘 驄 。﹂ 78 府尹官の名。漢代の京兆尹に始まる。一般に京畿地区の行政長官。 79 蔭補祖先の功績によって官職に着くことを指す。 80 澤 王 渥、 字 は 仲 澤、 王 璹 の ひ 孫 で あ る。 興 定 二 年 の 進 士、 官 は 尚 書 省 令史に至った。枢密院経歴官、権右司郎中を歴任した。 81 瓜類の果肉。また、果肉。 82 炷 も ぐ さ で 作 っ た 紡 錘 形 の 顆 粒 を﹁ 艾 炷 ﹂ と い う。 中 醫 は 灸 療 法 に 使 用する。

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高    津     孝 一三八 仙の字に比するも、 只だ恐るらくは神仙字如らざらんことを。 ﹂先生の詩、 ﹁ 醉 袖 舞 ひ て 天 地 の 窄 き を 嫌 ひ、 詩 情 狂 ひ 壓 し 海 山 平 ら か な り。 ﹂﹁ 忽 ち 風 浪 の 耳 邊 に 過 ぐ を 經 て、 覺 へ ず 神 形 の 來 世 中 に あ る を。 ﹂ 99 ﹁ に 因 り て 感 激 し 君 に 從 ひ て 說 よろこ ぶ も、 機 關 を 鑿 破 し て 我 も 亦 た 驚 く。 ﹂ 100 の 如 く 、 此の類甚だ多し。人に世外の事を問ふ者有れば、亦一二之を言ふ。好ん で 擘 窠 大 字 101 を 作 し 、 勢 ひ 飛 動 を 極 め 、 閒 閒 極 め て 之 を 愛 す 。 屏 山 李 之 純 102 嘗 て 先 生 に 見 ゆ る に 、 前 代 の 人 物 を 商 略 す る に 、 先 儒 の 論 議 數 十條を引くこと目前に在りて、人人自ら相詰難するが如く、然る後に己 が 意 を 以 て 之 を 斷 ず、 以 為 へ ら く 辨︵ 傳 ︶[ 博 ] 中 の 第 一 流 也 と。 終 に 臨みて豫め死期を尅し、言の如くして逝き、年四十九なり。 晚 年名を雲 鶴 に 易 へ、 擬 栩 道 人 と 號 す。 人 物 は 世 に 畫 け る 呂 公 103 の 如 き 、 肩 微 に して聳耳なり。   王雲鶴   王中立は、字湯臣、 岢 嵐の人である。博覽強記で、質問をしても知ら ないことはなかった。若い頃は日々﹃易経﹄について研究し、科挙の試 験では名声があった。家には財産があり、賓客に満ち溢れ、彼らへの接 99 ﹃ 中 州 集 ﹄ 巻 九・ 擬 栩 先 生 王 中 立 伝・ 雜 詩 四 首 其 三﹁ 雲 葉 粼 粼 皺 碧 空、 笙 簫遞響入天風。忽驚風浪耳邊急、不覺形神來世中。 ﹂ 100 ﹃ 中 州 集 ﹄ 巻 九・ 擬 栩 先 生 王 中 立 伝・ 雜 詩 四 首 其 二﹁ 獨 跨 蒼 虬 下 太 清、 春 風萬里月華明。因君感激為君說、鑿破天機我也驚。 ﹂ 101 擘窠大字 大字。ここでは、碑文の文字のような罫線中に書く大字を言う。 102 李之純 李純甫 ︵一一七七 - 一二二三︶ 、字は之純、 号は屏山居士、 弘州襄陰 ︵今 の河北陽原︶の人、尚書右司都事に至る。金代の著名な散文作家、詩人。 103 呂公呂洞賓を指す。八仙の一人である。 て娶らず、亦た就舉せず、獨り一室中に處ること僧の如し。是くの如き こ と 三 四 年 に し て 乃 ち 出 づ。 時 人 其 の 談 吐 89 高 闊 に し て、 詩 畫 超 絕 た る こ と、 物 の 之 に 附 つ く 者 有 る が 若 き を 覺 ゆ。 之 を 問 ふ も、 言 は ざ る 也。 大 安 90 の 初、 閒 閒 趙 公 91 に 平 定 92 に 遇 ひ 、 之 に 詩 を 遺 り て 曰 く 、﹁ 閒 閒 に 寄 與 し 浪 仙 93 を 傲 あなど り、 枉 げ て 詩 酒 に 隨 ひ 凡 緣 に 墮 つ。 黃 塵 は 來 時 の 路 を 遮 斷 し、 蓬 山 94 に 到 ら ざ る こ と 五 百 年 ﹂ と 。 因 み に 言 ふ ら く は 、 唐 の 士 大 夫 五 百 人、 皆 仙 人 の 謫 降 95 せ ら れ、 世 味 96 の 著 く 所 と 為 り 、 亦た迷ひて返らざる者有り、公と我との如きは皆な是れ也と。一日、都 下 に 來 り て、 閒 閒 公 の 家 に 館 たち す。 ﹁ 中 秋 詩 ﹂ 97 に ﹁ 山 河 の 影 を 印 透 し 、 天地の心を照開す。人世昏曉有るも、 我が胸には古今無し﹂の句有りて、 閒 閒 大 い に 之 を 奇 と す。 墨 水 98 一 盂 を 索 む る に 因 り て 、 言 の 如 く 之 を 與ふ。明旦、告げずして去る。壁間に﹁古鶴﹂二字の、廣長一丈なる墨 水 を 留 め、 且 つ 何 物 の 書 し た る か を 知 ら ざ る 也。 之 を 少 しばらく し て、 先 生 外 從 り 來 れ ば、 然 る 所 以 を 問 ふ に、 答 へ ず、 其 の 旁 に 題 し て 云 ふ、 ﹁ 天 地 の間の一古儒にして、醒め來るも醉中に書するを記せず。旁人錯ひて神 89 談吐談論。 90 大安金・完顔永済の年号︵一二〇九 - 一一︶ ﹂。 91 閒閒趙公金・宣宗の時の礼部尚書である趙秉文、号は閑閑公。 92 平定県名、山西省東部。 93 浪仙唐代の詩人賈島の字。 94 蓬山蓬萊山。仙人の住まいと言われている。 95 謫降仙人が罪を得て降格され、地上で人生を送ること。 96 世味人情。 97 ﹃中州集﹄巻九・擬栩先生王中立伝・中秋二首其二。 98 墨水墨汁。

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﹃続夷堅志﹄訳稿︵二︶ 一三九 生きる一人の古い儒者に過ぎず、酔いから覚めても酔っていて書いたこ とは記憶していない。他人が間違って神仙の字に比べたとしても、恐ら く は 神 仙 の 字 の 方 が 下 手 だ ろ う。 ﹂ と 書 き そ え た。 先 生 の 詩 は、 例 え ば ﹁ 酔 っ 払 っ て 舞 を 舞 う と 翻 る 袖 は 天 地 の 窄 さ を 嫌 う か の よ う で あ り、 詩 を作れば、 詩情が狂おしく溢れ出て海と山を圧倒して平らにする。 ﹂﹁ ︵空 を見上げれば、 雲の断片が爽やかに流れて行き、 まるで青空にシワがよっ たかのようである。笙や簫の奏でる楽の音が響き渡り、空ゆく風にそれ ぞ れ 入 っ て い く。 ︶ そ う す る う ち に、 急 に 風 や 波 の 音 が 耳 の あ た り を 通 り過ぎていき、 知らぬ間に私の精神と肉体は来世 ︵仙人世界︶ の中に入っ て し ま っ て い た。 ﹂ ﹁︵ 青 い 龍 に 一 人 ま た が っ て 天 空 か ら 地 上 に 降 り て く る と、 春 の 風 が 万 里 に 吹 き 渡 り 月 の 光 は 明 る か っ た。 ︶ 君︵ 青 い 龍 ︶ に よって感動を得、君︵青い龍︶に従うことで喜びを得たが、世界のカラ クリに穴を開けてしまうなんて私も驚いた。 ﹂ のように、 このような︵仙 人世界を題材とする︶ものが大変多い。この世の外のことを質問する人 がいれば、また一二それに回答した。大きな字を好んで書き、飛翔する ような勢いがあったが、趙秉文は特にそれを愛した。李純甫が以前、王 中立に会ったとき、前代の人物を品評するのに、過去の儒者の論議を数 十条その場で引用して、彼ら自身が議論しあっているようであり、その 後、彼自身の意見で判断を下した。李純甫は王中立を学識ある人物の中 でも一流であると思った。臨終に当たっては自らの死期を予言し、その 通りに亡くなった。年は四十九であった。 晚 年に名前を雲鶴に変え、擬 栩道人と号した。その人物は世間で描かれる呂洞賓のようで、肩が狭く 耳が立っていた。 待は極めて豪勢であった。 ︵ところが︶自分では、 一日に淡白な湯餅︵う どんの一種︶を一杯食するだけであった。年はまだ四十にもならなかっ たが、妻を喪ってからは再婚せず、科挙も受けず、一人だけで部屋にこ も っ て い る 様 子 は 僧 侶 の よ う で あ っ た。 こ の よ う な 状 態 が 三、 四 年 続 い たあと、やっと外に出るようになった。当時の人々は、彼の発言は高邁 で闊達、詩歌絵画の才能はずば抜けており、何かに取り憑かれたようで あ る と 感 じ て い た。 ︵ と こ ろ が ︶ そ れ に つ い て 質 問 し て も、 答 え る こ と は な か っ た。 大 安 年 間︵ 一 二 〇 九 - 一 一 ︶ の 初 め、 平 定 で 趙 秉 文、 号 は 閑閑公に会い、 彼に﹁趙秉文どのに詩を贈り、 唐の詩人賈島を軽蔑する。 なぜなら彼は誤って詩や酒に溺れ世俗の因縁に囚われてしまったからで ある。俗世の塵は仙人世界からやって来た道を遮断して、私はもといた 蓬莱山にはもう五百年も帰っていない。 ﹂という詩を贈り、こう述べた。 唐の士大夫五百人は、皆仙人の地上に左遷されたものであり、世間の人 情に取り込まれ、さらにはそれに迷わされて天上世界に戻らなかったも のがいる、趙秉文どのと私は共にこのような謫仙人なのである、と。あ る日、金の都︵中都あるいは開封︶にやってきて、趙秉文の屋敷に滞在 した。 ︵その時に作った︶ ﹃中秋﹄という詩には﹁月光に照らされて山河 の 姿 は く っ き り と 浮 か び 上 が り、 天 地 の 心 ま で 照 ら し 出 す よ う で あ る。 人の世には昼と夜が存在し時間が経過するが、我が胸中には今と昔の区 別は存在しない﹂という句があって、 趙秉文はこの詩句を大変評価した。 墨汁を一鉢所望されたので、言葉通り与えたところ、明朝、挨拶もなく 去っていった。壁に墨で書いた縦横一丈の﹁古鶴﹂二字が残され、誰が 書いたのか不明であった。しばらくして、先生が外から戻ったので、理 由 を 聞 い た と こ ろ、 答 え ず に、 ﹁ 古 鶴 ﹂ 二 字 の 傍 に﹁ 私 は、 こ の 世 界 に

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高    津     孝 一四〇 ︵一二二四 - 三一 ︶に、 政府の仕事で杞県に出かけ、 そこで死期を悟って、 手紙を書いて家人及び同僚に送り、さらに杞県の長官、補佐官には三十 余首もの詩を送った。それらを書き終わって亡くなった。 1. 31 衛文仲   衛 文 仲 112 、 襄 城 113 の 人、 承 安 114 中 の 進 士 、 性 は 淡 泊 を 好 み 、 讀 書 し て 道 を 學 ぶ、 故 に 仕 宦 進 ま ず。 平 居 好 ん で 東 坡﹁ 赤 壁 詞 ﹂ 115 を 歌 ふ 。 終りに臨みて、 沐浴して衣を易へ、 家人を召して告ぐるに後事を以てす。 即 ち 命 じ て 閉 戶 し。 牀 上 に 危 坐 し、 ﹁ 赤 壁 詞 ﹂ を 誦 し、 又 た 末 後 の 二 句 を歌ふ。歌ひ罷めて、怡然として逝く。   衛文仲   衛文仲は、 襄城の人で、 承安年間︵一一九六 - 一二〇〇 ︶の進士である。 性は淡泊で名利を追わず、学問をして道学を学んだ。そのため官吏とし ての出世はできなかった。平素好んで蘇軾の﹁赤壁詞﹂を歌った。臨終 に際して、 沐浴して衣服を変え、 家人を呼んで死後のことをことづけた。 すぐに命じて門を閉ざし外部との接触をたち、ベッドの上にひざまずい て立ち、 ﹁赤壁詞﹂を朗詠し、 さらに最後の二句を歌った。歌い終わって、 穏やかに亡くなった。 112 衛文仲 ﹃中州集﹄ 巻九衛承慶小伝 ﹁︵衛︶ 承慶、 字昌叔、 襄城人、 承慶父文仲、 承安中進士、以孝友淳直稱於 鄉 里、官至文登令、年七十餘卒﹂ 。 113 襄城金朝の県名、今の河南省襄城県一帯。 114 承安金・章宗完顔璟の年号︵一一九六 - 一二〇〇︶ 。 115 東坡﹁赤壁詞﹂ 蘇軾・念奴嬌﹁大江東去﹂ 。 1. 30 董國華   董 文 甫 104 、 字 は 國 華、 潞 の 人、 承 安 105 中 の 進 士 、 資 は 淳 質 に し て 、 世 味 に 泊 うす く、 人 之 を 知 重 す る も、 其 の 何 の 得 る 所 あ る か を 知 ら ざ る 也。 子 安 仁、 亦 た 道 を 學 ぶ。 寶 豐 106 に 閒 居 し 、 父 子 閉 戶 し て 讀 書 す 。 朝 夕 給 せ ざ る も、 晏 如 た る 也。 先 生 は 金 昌 府 判 官、 禮 部 員 外 を 歷 107 。 正 大 108 中 に、 公 事 を 以 て 杞 縣 109 に 至 り 、 自 ら 死 期 を 知 り 、 書 を 作 り て 家 人 及 び 同 官 に 與 へ、 又 た 杞 縣 令、 佐 110 に 詩 を 與 へ 、 多 き こ と 三 十 餘 首 に至る。書き畢りて坐化 111 す。   董國華   董 文 甫 、 字 は 國 華、 潞 州 の 人 で、 承 安 年 間︵ 一 一 九 六 - 二 〇 〇 ︶ の 進士である。性質は篤実素朴で、世間の事情に疎かった。人は彼のこと を重んじても、彼の学問的成就がなんであるかを知らなかった。子の安 仁も、道学を学んだ。宝豊に人を避けて独り住まいし、父子で外事を避 けて学問に励んだ。朝夕満足な食事が得られなくとも、穏やかな暮らし であった。董文甫先生は金昌府判官、禮部員外郎を歴任した。正大年間 104 文 甫、 号 は 無 事 道 人、 潞 州︵ 今 の 山 西 省 長 治 市 ︶ の 人。 心 学 を 学 び、 佛 道二家を取り入れ、静寂な心性を追求した。 105 承安金・章宗完顔璟の年号︵一一九六 - 一二〇〇︶ 。 106 寶豐県名。今の河南中部。 107 ﹃中州集﹄巻九 ・ 董文甫小伝﹁歴金昌府判官、 禮部員外郎、 昌武軍節度副使﹂ 。 108 正大金・哀宗完顔守緒の年号︵一二二四 - 三一︶ 。 109 杞縣県名。河南省中部の東端。 110 佐副職、或いは副職に任ぜられた者。 111 坐化端坐して安らかに死すことを言う。

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﹃続夷堅志﹄訳稿︵二︶ 一四一 す。 數 千 百 人 を 歷 て 乃 ち 一 二 之 を 見 る。 大 參 121 叔 玉 122 、 五 臺 の 人 な り 、 予の為に﹁明月泉は、吾が親しく見る所にして、傳聞に非ざる也﹂と言ふ。   明月泉   明月泉は五臺山の中にあり、人が泉の場所に到達すると、薄い絹で眼 を覆い、下の方に泉の水を見ると、月の水中にあるのが見えることもあ る。そのため泉は﹁明月泉﹂と呼ばれるのである。数百人から数千人が 挑 ん だ が わ ず か 一 人 二 人 だ け が こ れ を 見 る こ と が で き た。 参 治 政 事 の 楊 叔 玉 ど の は、 五 臺 の 人 で あ り、 私 の 為 に﹁ 明 月 泉 は、 私 が 自 ら 見 聞 し た も の で、 伝 聞 ではない﹂と語ってくれた。 1. 34 石守道の心石に化す   徂 徠 石 守 道 123 の 墓 は 奉 符 124 に 在 り、 太 和 125 中 、 墓 崩 れ 、 諸 孫 は 棺 を具して骸骨を葬するに、常人と異なる無し、 獨 た だ其の心のみ兩手を合 するが如く、已に石に化せり矣。 121 大參參政の別稱。 122 楊叔玉 名は慥、 山西五臺の人、 承安五年 ︵一二〇〇︶ の進士。官は戸部侍郎、 権 尚 書 に 至 る。 開 封 の 都 が モ ン ゴ ル 軍 に 包 囲 さ れ た 時、 権 参 治 政 事 で あ っ た。 123 守 道 石 介︵ 一 〇 〇 五 - 四 五 ︶、 字 は 守 道、 北 宋 初 期 の 学 者、 文 学 者、 兗 州奉符 ︵今の山東省泰安県東南︶ の人。徂徠に隠居し、 徂徠先生と呼ばれた。 124 奉符今の泰安市泰山区泰安城。 125 太和金・章宗完顔璟の年号︵一二〇一 - 〇八︶ 。 1. 32 一行 116 墓の石記   劉 太 博 117 機 は、 貞 祐 の 兵 亂 後、 湖 州 118 を 管 す る 刺 史 自 り 濟 州 119 に 遷る。民居官舍皆な焚せ 被 ら る。機は復た州に宅を立つるに、一黃土坡を 掘りて、 偶たま古塚に 值 あ た る。乃ち唐の一行禪師の墓なり。石記有りて云 ふ﹁劉機當に吾が墓を破るべし﹂と。   一行禅師の墓の石記   太 常 博 士 の 劉 機 は、 貞 祐 年 間︵ 一 二 一 三 - 一 七 ︶ の 兵 乱 後、 湖 州 を 管 轄する刺史から濟州に移った。濟州では兵乱のため民家や官舍は全て焼 かれた。劉機は濟州に再び官舎を立てようとして、 黃土の土手を掘って、 たまたま古い墓に当たった。それは唐の一行禅師の墓であった。禅師の 伝記を刻んだ石記には﹁劉機がきっと私の墓を破るだろう﹂とあった。 1. 33 明月泉   明 月 泉 は 五 臺 山 120 中 に 在 り 、 人 泉 所 に 至 れ ば 、 紗 帛 を 以 て 眼 を 障 さへぎ り、 下に泉水を視るに、或いは月の水中に在るを見る、故に泉は以て號と為 116 行 唐 代 の 著 名 な 天 文 学 者。 本 名 は 張 遂︵ 六 七 三 - 七 二 七 ︶、 ﹁ 一 行 ﹂ は 出家後の僧名。 117 太博太學博士或いは太常博士の省略。 118 湖州浙江省呉興。 119 濟州山東省巨野。 120 五臺山今の山西省五台山。

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高    津     孝 一四二   宝鼎を壊す   皇統年間︵一一四一 - 四九 ︶、修內司が琉璃瓦を燒いた。一つの大鼎を 壊 し た と こ ろ、 三 日 溶 解 し な か っ た。 鼎 が 敗 北 し て 溶 だ さ ん と し た 時、 雷 の よ う な 声 が、 三 十 里 の 外 で も 聞 こ え た。 あ る 人 は、 ﹁ 成 功 と 失 敗 に は運命がある。運命と災厄は関連しており、不思議な存在であっても自 己を保つことはできない。これはこの鼎だけのことではない﹂ と言った。 雷淵が語ってくれた。 1. 36 田鼠   正 大 壬 戌 130 、 內 鄉 131 北 山 の 農 民 田 鼠 132 の 稼 を 食 ふ を 告 ぐ 。 鼠 は 大 き さ 兔 の 如 く、 十 百 に し て 群 を 為 し、 過 ぐ る 所 の 禾 稼 を 空 に 為 す。 獵 戶 射 て 數 頭 を 得 る に、 重 さ 十 餘 斤 な る 者 有 り て、 毛 色 は 水 獺 133 に 似 る 。 未だ嘗て此くの如き大鼠を聞かざる也。   田鼠   正 大 三 年︵ 一 二 二 六 ︶、 內 鄉 県 北 山 の 農 民 が、 田 鼠 が 収 穫 物 を 食 べ て しまうと告発してきた。鼠は大きさが兔くらいで、十匹から百匹で群を 130 ﹃続夷堅志評注﹄ によれば、 ﹁正大年間には ﹁丙戌﹂ ﹁壬辰﹂ はあるが ﹁壬戌﹂ はない。 ﹁丙戌﹂ は一二二六年で、 元好問が內 鄉 県令に任ぜられた時である。 ﹁壬辰﹂は一二三二年で、 元好問はすでに 汴 京に引っ越していた。故に﹁壬 戌﹂は﹁丙戌﹂の誤りとすべきである﹂ 。 131 鄉 県名、今の河南省西南部。 132 鼠 鼠 の 一 類。 ユ ー ラ シ ア ハ タ ネ ズ ミ。 主 と し て 草 本 植 物 の 莖、 葉、 種 子等を食べ、農作物に害をなす。 133 水獺カワウソ。哺乳動物、イタチ科。   石守道の心臓は石になった   徂徠先生石介の墓は奉符にある。 太和年間 ︵一二〇一 - 〇八 ︶、 墓が崩れ、 本家の孫たちは棺桶を新調して石介の骸骨を埋葬しようとしたが、常人 と異なる点はなかった。 ただ彼の心臓だけが両手を合わせたような形で、 すでに石になっていた。 1. 35 寶鼎を毀つ   皇 統 126 中、 修 內 司 127 琉 璃 瓦 128 を 燒 く 。 一 大 鼎 を 毀 つ に 、 三 日 鎔 け ず 。 鼎敗れんと欲して、 聲の雷の如き有りて、 三十里外に聞こゆ。人謂へり、 成敗には數有り、數と 阸 とは會す、神物と雖も自ら保つ能はず、 特 た だに 此の鼎のみならず矣、と。 希顏 129說けり。 126 皇統金・熙宗完顔亶の年号︵一一四一 - 四九︶ 。 127 修內司 役所の名。 北宋、 金、 元代に置かれた。 宋では將作監に所属し, 宮殿、 太廟の修繕事務を所管した。 128 璃 瓦 內 層 は 良 質 の 粘 土 を 使 用 し、 表 面 に 琉 璃︵ ガ ラ ス 質 の 釉 薬 ︶ を 焼 き 付 け た 瓦。 緑 色 或 い は 黄 金 色 を 呈 し、 艶 や か で 光 を 反 射 す る、 宮 殿 建 築 な ど に 多 用 さ れ る。 宋・ 李 誡﹃ 營 造 法 式 ﹄ 卷 十 五・ 瑠 璃 瓦 に﹁ 凡 造 瑠 璃 瓦 等之制 藥以黃丹、 洛河石、 銅末、 用水調 勻 ﹂とある。潘穀西﹃ ﹃營造法式﹄ 解 讀 ﹄︵ 二 〇 〇 八 年、 東 南 大 学 出 版 社 ︶ 瓦 作・ 琉 璃 瓦 に よ れ ば、 ﹁ 瓦 の 基 盤 の 上 に 塗 る 釉 薬 は、 黃 丹、 洛 河 石 と 銅 末 の 三 者 を 粉 末 に し て 水 と 混 ぜ た も の で あ る。 黃 丹 は 助 熔 剤 で あ る。 洛 河 石 の 主 要 成 分 は 石 英 で、 焼 成 後 ガ ラ ス質の膜を形成する。銅末は緑の琉璃瓦の著色剤である﹂ 。 129 顏 雷 淵︵ 一 一 八 四 - 一 二 三 一 ︶、 字 は 希 顏、 ま た、 季 黙、 応 州 渾 源︵ 今 の山西渾源県︶の人。進士に合格し、応奉翰林文字、監察御史になった。

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﹃続夷堅志﹄訳稿︵二︶ 一四三 るのみならず、誓ひて此の生を盡して人に食はざるを勸めん﹂と。言未 だ竟はらざるに、魔大いに罵りて去り、遂に復た至らず。婦大呼して救 ひを求むるに、 其の家繩を以て之を挽きて下し、 竟に全活するを得たり。 阿香能く牛肉を食はずして、神佛の前に發願すれば、祟は宜しく近づく 能はざるべし。同列其の言を以て香に告ぐ。香即ち發願し、後十餘日に し て、 靚 妝 袨 服 し て 酒 を 持 じ て 來 り て 謝 し、 云 ふ、 ﹁ 學 士 の 教 ふ る 所 を 得て、今   平人と為れり矣﹂と。     天魔の祟り   泰 和 年 間︵ 一 二 〇 一 - 〇 八 ︶ の 末 年、 雷 景 滂 は 壽 州 防 禦 判 官 に 任 ぜ ら れた。弟の希顏もまた壽州の官に着任した。官妓の香香というものがい て、 天魔に祟られ、 精神がぼんやりしていた。 場合によっては数日眠っ た ま ま で 起 き な か っ た。 希 顏 は 彼 の 同 僚 に こ う 言 っ た、 ﹁ あ る 婦 人 が 天 魔に取り憑かれ、仏塔の頂上に引っ張り上げられたが、夫人の意図はす べて天魔がたちどころに適えてくれた。ある日、幌付きの車が仏塔の下 を通り過ぎるのを見た。 婦人は天魔に、 ﹁車中に身分の高い人の妻がいる。 お前は彼女の釵をとってこい﹂と言った。天魔は立ち去り、ややしばら くして戻ってきたが、 何も得られなかった。 夫人がその理由を聞くと、 ﹁彼 女は福を持つ人で、神が守っております。彼女の姿は見えますが前に進 め ま せ ん ﹂ と 言 っ た。 夫 人 は さ ら に 質 問 し た、 ﹁ 彼 女 は 身 分 の 高 い 人 の 妻ということで、神に護られているのか﹂と。天魔は言った﹁身分の高 い人であることが理由ではなく、ただ彼女は牛肉を食べないという理由 のためだけです﹂と。夫人は直ちに発願して﹁私がもしこの祟りから逃 れられたら、一生牛肉を食べないばかりか、誓って一生を尽くして人に 為し、通り過ぎた場所の穀類の作物を食べつくしてしまう。猟師が弓で 射て数頭を獲たが、重さ十余斤にもなるものがあって、毛色はカワウソ に似ていた。これまでこのような大鼠のことを聞いたことはない。 1. 37 天魔の祟り   泰 和 134 末、 雷 景 滂 壽 州 135 防 禦 判 官 136 に 任 ぜ ら る、 弟 希 顏 137 も 亦 た 官 に 到 る。 官 妓 138 香 香 有 り て、 魔 139 の 祟 る 所 と 為 り 、 神 志 怳 惚 た り 。 或いは睡ること數日にして起きず。 希顏其の同列なる者に謂ひて言ふ ﹁一 婦 人 有 り て 天 魔 140 の 著 く 所 と 為 り、 浮 圖 141 の 顛 に 挈 上 す る に 、 凡 そ 婦 意の欲する所、立ちどころに致さざるは無し。一日、布幔車の塔下を過 ぐ る を 見 る。 婦   魔 に 謂 ひ て 言 ふ、 ﹁ 車 中 に 貴 人 の 妻 あ り。 汝 其 の 釵 を 取り來れ﹂と。魔去り、 良 やや 久しくして乃ち至るも、得る所無し。婦故を 問 ふ に、 曰 く、 ﹁ 彼 は 福 人 に し て、 神 の 之 を 護 る 有 り。 望 む れ ど も 前 すす む を 得 ず ﹂ と。 婦 又 た 問 ふ、 ﹁ 彼 は 貴 人 の 妻 を 以 て、 故 に 神 の 護 れ る 有 る や﹂と。曰く、 ﹁貴人に緣らずして、 但だ其の牛肉を食はざるの故耳﹂と。 婦即ち發願して﹁我若し此の祟りを脫せば、但に我れ終身牛肉を食はざ 134 泰和金・章宗完顔璟の年号︵一二〇一 - 〇八︶ ﹂。 135 寿州今の安徽省鳳台。 136 禦 判 官 金 朝 で は 防 禦 州 に 置 か れ た 官、 正 八 品 で、 戸 籍 の 点 検、 調 査 を 所管した。 137 注一二九参照。 138 官妓官吏に奉仕する妓女。唐宋代では役所の宴会には官妓が侍った。 139 魔天魔、仏道を邪魔する魔物。 140 天魔 仏教語で、天子魔の略称。欲界第六天主。常に修行者の邪魔をした。 141 浮圖仏塔。

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